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りょうえいゆう とくとみそほう 両英雄 徳富蘇峰 作どうどう きんぱい かんとう あっ 堂堂たる 錦旆 関東を圧すひゃくまん しせい だんしょう うち百万 の 死生 談笑 の 中ぐんしょう し てんか はかり群小 は知らず 天下の計 ごとせんしゅう あい たい りょう えいゆう千秋 相 対す 両 英雄 詩文説明世は維新回天の時、堂々と錦の旗(菊の御紋)を掲げ進軍する行列の大軍は関東を威圧している。江戸百万の人々の生死は西郷隆盛、勝海舟の話合いにかかっている。何も知らない一般群衆はこの二人の天下の計を知る由もない。無事江戸を守った二人の英雄の計らいは永遠に伝えられることであろう 左写真は薩摩藩主、斉彬が鋳造した大砲(鶴丸城跡にあります。) 中央は西郷隆盛と勝海舟の談合図。 右は錦の旗を掲げた官軍徳富蘇峰明治・大正・昭和時代の評論家・史家・漢詩家.熊本出身。弟徳富蘆花は小説家。熊本洋学校に学び、キリスト教を知り、京都の同志社に入校、学生運動に巻き込まれ退学する。板垣退助・中江兆民と交わり「将来の日本」を著す。後、山県有朋・桂太郎等と親交、「近世日本国民史」ほか著書三百余冊有り、昭和34年94歳病没。徳富蘇峰・蘆花兄弟文豪が住んでいた旧邸。(徳富記念園)上写真と同じ場所。(大江義塾跡) 熊本城に近い処でした。市指定文化財になっています。 左は徳富蘇峰肖像画(色は加えました)西郷南洲名は隆盛、吉之助、南洲は号。鹿児島城下加治屋町に生まれた。大久保一蔵 (後の利通)等と学問思想を練磨、島津斉彬に認められ、国政活動を行う。一橋慶喜の擁立に奔走、幕政の改革を計ろうとするも井伊直弼が大老となり安政の大獄が起こり、身辺の危険を感じ親友勤皇僧月照を伴って帰国しようとしたが、斉彬死去後の藩主久光とも折り合い悪く、月照の隠匿の不可能を知り相抱いて鹿児島湾(錦江湾)に身を投じた。南洲は蘇生したが、月照は死亡した。南洲も死亡したと幕府を偽り大島に身を隠した。尊王倒幕の機運が熟し大久保らの計らいもあって還され、藩主久光に随行し東上するも、先に上京したので久光の激怒をかい徳之島に流され、後、沖永良部島に移された。許され上京、軍賦役に命ぜられ活躍する。長州征伐には参謀となって長州藩を謝罪させ撤兵した。幕府の親仏に対抗するため、薩英提携の約を結び、坂本竜馬を介して木戸孝允等と会見、薩長連合の役も結ぶ幕府の大2次長州征伐に反対、拒否した。将軍家茂が薨じ、後を受けた慶喜が征長軍を撤退させた。孝明天皇崩じて明治天皇となり王政復古が発せられ、明治元年、鳥羽伏見の戦いで幕府は敗北、隆盛は東征大総督参謀として幕臣勝安芳と会談江戸城を無血開城させる。東京に上って参議となり廃藩置県を断行、征韓論を主張するも反対され職を辞して郷里に帰った。後私学校を創設、子弟を教育国家有事に備えた。武士の反乱が相次ぎ、政府は南洲の動向を探索させた。南洲暗殺のうわささえ起こり、私学生達は憤激し南洲を擁して兵を挙げた(西南戦争)。これに敗北し自刃した。51歳で没す。勝海舟勝小吉の長男として江戸本所に生まれる。15歳頃から島田虎之助に剣を学ぶ。オランダ式の軍事演習を見てオランダ語を学んだ。幕府は海軍伝習所を作り勝は伝習生として参加し、オランダ人から砲術・航海術・測量術を学び、海軍将校としての技術や近代国家の考え方を身につけていった。その後咸臨丸での太平洋横断の成功により次第に昇進、幕府海軍最高責任者、軍艦奉行として安房守と名乗った。積極的で近代的考え方が幕府に危険性があると思われ一時免職となり屋敷に閉じ込められたが、のち、陸軍裁となる。世は尊皇攘夷から討幕へと移り。官軍と一戦交える状態となって勝は「国が二つに分かれ争えば日本は滅びる、内乱となれば江戸が火の海となる」江戸を戦火から守ろうと征討軍参謀の西郷隆盛と会見江戸城無血開城となった。のち明治政府に仕えるも77歳で生涯を閉じた。 左は勝海舟図 咸臨丸図左写真は天璋院篤姫が幼少時代を過ごしたゆかりの地、今和泉。現在は小学校になっています。 中央は石橋記念館前の西田橋。大河ドラマ篤姫のロケが行われた場所。 右は西田橋を渡った処の門。篤姫ロケで西田橋を渡って門をくぐって鹿児島に別れを告げた処といわれます。篤姫西郷隆盛関係の写真を撮りに鹿児島へ行きましたが、今年は大河ドラマの篤姫名所が大当たりで、さっそく現地、今和泉にも飛びました。左写真が篤姫が育ったという今和泉薩摩屋敷跡で現在小学校になっています。後の2枚の写真は、ロケが行われた場所で鹿児島との最後の別れとなった石橋記念公園の西田橋入り口と出口の風景です。
2008年10月31日
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ぼうゆう げっしょう じゅうしちかいきしん さく 亡友月照 十七 回忌辰の作 西郷南州 作あいやく ふち とう こうせん あにはか はじょう さいせい えん相約して淵に投ず 後先 なし。 豈図 らんや 波上 再生の縁。こうべ めぐ じゅうゆうよねん ゆめ むな ゆうめい へだ ぼぜん こく頭 を回らせば十有余年の 夢。 空しく幽明を隔てて墓前に哭す。詩文説明(月照と共に頼みとして逃れ来た我が薩摩藩にも身を置く処もなく、運命もこれまでと)。南洲と月照は約束して後先でなく一緒に薩摩の海(錦江湾)に身を投じた。ところがどうしたことか、自分一人が波の上に再び生き返ろうとは、前世からの因縁でもあろうか。信じられない出来事であった。今日は十七回忌、思い返せばあれから早17年。昨日の事のようである。むなしく幽明(あの世とこの世)を隔て、もう逢うことも出来ない悲しさに墓前に額ずき、声を出して泣き崩れた。 左写真・桜島からフェリーで鹿児島方面へ向かう途中の錦江湾で西郷隆盛が身を投げた処。 中央・鹿児島展望台より桜島と錦江湾と市街地を望む。 右・鹿児島市の城山麓の西郷像左、西郷月照を抱え満月が照らす錦江湾に飛び込み、月照は死亡し西郷は平野國臣と月照の下僕重助の二昼夜の解放により生き返り、奄美大島に身を隠した。中央、観光バスの車窓から西郷南洲の甦生した家を写したのですが人の頭と窓枠移りました。ので 右・邪魔なので取り除いて作った写真です。西郷南洲名は隆盛、吉之助、南洲は号。鹿児島城下加治屋町に生まれた。大久保一蔵 (後の利通)等と学問思想を練磨、島津斉彬に認められ、国政活動を行う。一橋慶喜の擁立に奔走、幕政の改革を計ろうとするも井伊直弼が大老となり安政の大獄が起こり、身辺の危険を感じ親友勤皇僧月照を伴って帰国しようとしたが、幕府の追っては藩にも届くであろうと、月照の隠匿の不可能を知り相抱いて鹿児島湾(錦江湾)に身を投じた。南洲は蘇生したが、月照は死亡した。南洲も死亡したと幕府を偽り大島に身を隠した。尊王倒幕の機運が熟し大久保らの計らいもあって還され、藩主久光に随行し東上するも、先に上京したので久光の激怒をかい徳之島に流され、後、沖永良部島に移された。許され上京、軍賦役に命ぜられ活躍する。長州征伐には参謀となって長州藩を謝罪させ撤兵した。幕府の親仏に対抗するため、薩英提携の約を結び、坂本竜馬を介して木戸孝允等と会見、薩長連合の役も結ぶ幕府の大2次長州征伐に反対、拒否した。将軍家茂が薨じ、後を受けた慶喜が征長軍を撤退させた。孝明天皇崩じて明治天皇となり王政復古が発せられ、明治元年、鳥羽伏見の戦いで幕府は敗北、隆盛は東征大総督参謀として幕臣勝安芳と会談江戸城を無血開城させる。東京に上って参議となり廃藩置県を断行、征韓論を主張するも反対され職を辞して郷里に帰った。後私学校を創設、子弟を教育国家有事に備えた。武士の反乱が相次ぎ、政府は南洲の動向を探索させた。南洲暗殺のうわささえ起こり、私学生達は憤激し南洲を擁して兵を挙げた(西南戦争)。これに敗北し自刃した。51歳で没す。※月照=清水寺成就院の勤皇僧。今話題の天璋院篤姫のゆかりの地今和泉です。前は錦江湾です。天璋院が住んでたところは、現在、今和泉小学校になっていました。 此処で記念写真。
2008年10月24日
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ぐうかん さいごうなんしゅう 偶 感 西郷南州 作いくたび しんさん へ こころざし はじ かた じょうふ ぎょくさい せんぜん は幾か 辛酸を経て志 始めて堅し。丈夫 玉砕 するも甎全を恥ず。わがいえ いほう ひと し いな じそん ため びでん か我家 の遺法 人 知るや否や。 児孫の為に美田を買わず。( 詩文説明 (題名 偶成となっているのも有ります)「西郷南州を訪ねて」幾度も苦しい経験をして始めて志が堅固となり不撓不屈の精神も養われる。男子たるものは、玉となって砕けて死のうとも、瓦となって生き永らえることを恥とするものである。我が家の遺訓は人は知っているかどうか。それは、子孫の為に財産を残さないということである。西郷隆盛は児孫の為に美田を買わずの言葉通り、全く私利私欲を離れた人間であった。維新後、政府高官たちは一様に驚く程の高給をむさぼり、広大な邸宅に住み肥馬軽車で出仕するといった大名暮らしを始めたがひとり西郷は陸軍大将・近衛都督・主席参議という政府の最高位にあった時でさえ一僕を相手に小さな家に住んで、木綿の着物に小倉の袴という質素な姿で歩いて出仕したというまた西郷は、無欲、質素、弱者に優しく天を敬い人を愛することをもっとうにしていた。「敬天愛人」質素な服装の上野の西郷 磯庭園正門(島津家別邸仙巖園)磯庭園磯庭園正門説明=明治4年(1871)に廃藩置県が行われ、翌年、薩摩藩最後の藩主29代島津忠義夫人たちが鶴丸城から磯に移住しました。明治21年島津忠義本人も鹿児島に移り、その後、明治28年(1895)に鹿児島の大工、大重伊三次に命じて建てさせたのがこの正門です。現存する本門は昭和58年~59年に解体修理を行ったものです。(正面掲示板より)※大人物であり高潔な人柄で在るという事は西郷を知る人は一様 に口をそろえている。坂本竜馬=「西郷は馬鹿だ、馬鹿ならば大馬鹿だ」「大きくたたけば 大きく鳴り、小さくたたけば小さく鳴る」と底の知れない ほどの大人物とたたえている。勝海舟=「西郷の従容として大事の前に横たわるを知らない有様に は俺もほとほと感心した」と肝の太さに驚嘆。長岡護美=「実にもって人物感服つかまつり候」とこれまた肝の据 わった人間であると絶賛している。 鹿児島の銅像の近くに「敬天愛人」の掲示板を見付けました。 右、島津家水天淵記念左写真=城山展望台より桜島と鹿児島市街地を望む 右写真=桜島をバックに福岡藩士の平野國臣の和歌「我が胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙はうすし桜島山」記念撮影西郷隆盛 禁門の変・長州征伐・長州再征・大政奉還・王政復古・戊辰戦争・江戸開城など明治維新の大功労者であったが西南戦争を起こし、明治政府に反旗を翻したとして国賊となった。1889年の大日本帝国憲法発布と同時に名誉回復された。鹿児島城山にて自刃。
2008年10月14日
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うこうてい だい とぼく 烏江亭に題す 杜牧 作しょうはい へいか こと き は つつ はじ しの こ だんじ勝敗 は兵家も事 期せず。羞じを包み 恥を忍ぶは是れ男児。こうとう してい さいしゅん おお けんど ちょうらい いま し江東の子弟 才俊 多し。 巻土 重来 未だ知るべからず。詩文説明いくさの勝負は兵法家でさえも、予測できない。恥辱に堪えて、再起を計ってこそ真の男児である。項羽の本拠地の江東の若者達にはすぐれた人物が多いというから、江東の地に力を蓄えて、地面を巻き上げるような勢いで再び攻めて来たとしたら、その結果はどうなっていったかわからない。烏江で項羽に再挙を勧める亭長 烏江古戦場跡 烏江での小舟捲土重来 (一度失敗しても、力をつけ、再度巻き返す)項羽敵は垓下で四面楚歌で囲まれ斬り込んで行って烏江の渡し場まできた。烏江の亭長が舟の支度をして待っていてくれて、江東には優れた人たちが多いから、一度江東の地に戻って、再度兵を立て直し再挙したらどうかと勧めたが項羽は西征の時8000人の若者と共に江を渡ったが、今生きて帰る者は数少ない。此の若者達の父兄に私はどんな顔して合うことが出来ようかと断って愛馬から降りてこれを殺すのは忍びないと亭長に、はなむけとして贈り、迫って来る敵に立ち向かって行ったが如何ともする事が出来ず、力尽き、ついに自から首を刎ねて果てた。僅か30歳であった。こういう行き先があったので、作者杜牧は短気を起こさずここで江を渡って再起を計り力をつけて再戦していたら勝敗はどうなっていたかはわからなかったのに、と杜牧は言っている。京劇(覇王別姫)で有名 西楚覇王祠の遠望 覇王祠の前に建つ項羽像 杜牧名は牧、牧之、号は樊川。(晩唐の詩人)京兆万年県(陝西省臨潼県の東北)の人。早くより文章をよくし、828年進士。賢良方正に挙げられ中書舎人(皇帝の秘書官)となる。とし歳50、にて没す
2008年10月10日
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垓下の歌 項羽 作ちから やま ぬ き よ おお とき り すい ゆ力 は 山を抜き、気は世を蓋 う。 時に利あらず、騅 逝かず。すい ゆ いかん ぐ ぐ なんじ いかん騅 の逝かざる、奈何すべき。 虞や虞や汝 を 奈何せん。 劉邦 鴻門の会 項羽と虞美人 私の力は山をも引き抜き、意気は世を覆い尽す程であった。ところが、どうしたことか、時の流れは私には味方してくれなくなった。また愛馬の騅も進まなくなってしまった。愛馬が進まなくなっては、どうしようもない。虞よ虞よ愛しいお前をどうしたらよいだろうか。 四面楚歌秦の子嬰は劉邦に降って秦は滅び、覇権をめぐって5年間、激しい戦いが展開したが、次第に劉邦が有利になり、劉邦軍は項羽軍を垓下に追いつめた。劉邦軍の作戦により、項羽軍の四方八方から項羽の郷里の楚の歌を兵士達に歌わせた。周囲から湧き起こる歌に項羽は自分の兵達がこんなに多く敵に降ったのか、周りは敵ばかりになってしまったと漢軍の謀略とも知らず、己の最後の時が来たのを知り、観念、兵士達も望郷の念にかられ戦意喪失する。項羽は、敗北を悟り、決別の宴を張り、この詩 「力は山を抜き」 を吟じながら、表情もすさまじく、涙は頬をぬらし、剣を抜いて舞った。自分の死は、覚悟を決めたが、さて、最愛の虞妃をおいてどうしたものかと思案。その心中を察し、泣き崩れ落ちていた虞妃もそれに応え次の即座の詩 「漢兵已に地を略し」 を吟じ、且つ舞った。後、項羽の足手まといにならぬようにと潔く自害して果てた。一年後、虞妃の亡くなった場所に一輪のひなげしの花が咲いた。人は虞美人草という。項羽はもはや思い残すことなしと斬り抜け一度は烏江まで逃げ延びたが、大勢を死なせ、自分が逃げ延びるのは恥ずかしく屈辱だと、再び輩下28人を率いて敵の中に斬り込んで行き、ついに如何ともする事も出来ず自刃、壮絶な死を遂げた。(中国京劇の覇王別姫で有名) 虞美人舞い姿 項羽 河南省戦いの古戦場 覇王祠内の項羽像虞妃 作漢兵、已に地を略し、四方、楚歌の声。大王、意気尽く、賤妾、何ぞ生を聊んぜん〈聊わんや〉虞姫は舞い終わると潔く自刃して果てた。 項羽楚の人。姓は項、名は籍、羽は字。代々楚の将軍の家柄であった。24歳の時叔父の項梁と共に兵を起こし秦を倒し、「西楚の覇王」と称した。31歳の時劉邦との決戦に敗れ、壮烈な最期をとげた
2008年10月01日
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