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にっしゅつ いとうひろふみ 日 出 伊藤博文 ひ い ふそう とうかい くま ちょうふう たちま がくうん はろ きた 日は出ず扶桑 東海 の隈。 長 風 忽 ち岳雲を 拂うて来る。 りょうしょう いちまんさんぜんじゃく はちだ ふよう とうめん ひら 凌霄 一萬 三千尺。 八朶 芙蓉 当面に開く。 1、日出漢詩文と富士山の日の出。 2、伊藤博文宅と像。(この日は雨日でした)(この詩は富士山を平和日本の象徴であるとし、朝日の昇る壮麗な姿の美しさを全世界に知らしめようとしたもので、乃木希典も富岳の題名で富士山を映じています)詩文説明 朝日が東海の隈(日本隅々)を照らし出し、雅に日本の夜明けである。遠くから吹いて来る風が忽ち山岳の雲を払い除け見るからに 1 萬三千尺もある霊峰富士の壮麗な姿が現れた。それは八弁の蓮華の姿のように美しく眼前にぱっと開いて浮かび出たようである。 ○扶桑 (中国の古い伝説で東海の日の出る所にあるという神木。転じて日本の称)。○八朶(朶は枝、実の垂れ下がったような形。ここでは八方に広がっている意)。○芙蓉(富士山) 伊藤博文宅隣接の伊藤博文資料館 大正15年皇太子行啓の日(昭和天皇即位前の事でしょう)。 伊東博文旧宅。者 伊藤博文(1841~1909)明治時代の政治家。幼名は利助、後に俊輔と改める。号は春畝、別号滄浪閣主人。博文は諱である。天保12年(1841)周防熊毛郡束荷村に生まれる。本姓は林氏、父の重蔵が長州藩の伊藤家を継いだので伊藤姓を名乗る。16歳の時相州浦賀の警備に就き、来原良蔵の紹介で吉田松陰に師事する。23歳の時ロンドンに密航留学、翌年帰朝し攘夷の無謀を説いた。この年の暮れ高杉晋作を扶けて馬関に挙兵、維新回転の勢いを誘発した。維新後、大久保利通に代り内務卿を兼ね大隈重信を斥け政府の実権を握る。総理大臣4回。政友会総裁、韓国統監を歴任。明治42年10月26日満州ハルピン駅頭にて韓国人安重根に狙撃され没した。 1、長州ファイブの人達。 2、その説明板。 3、数年前までの千円札(伊藤博文)ー長州ファイブー(文面) (思ったより文字が小さく読めそうにないので下記に記します)「長州ファイブ」とは?文久3年(1863)英国に密航留学した長州出身の五人の若者たちー伊藤博文(春輔)・井上馨(聞多)・]山尾庸三・井上勝(野村弥吉)・遠藤謹助ー。近年は留学先の英国でも彼らの功績が評価され、「長州ファイブ」の呼び名で顕彰されている。江戸時代初頭に日本人の海外渡航が禁じられて以来、国禁を破って密航したのはこの五人が最初である。幕末期、日本は欧米列強の植民地化の危機にあった。長州藩重臣の周布政之助は、欧米列強と互角に渡り合うためには西洋文明・先進技術を身に付けた「人の器械」が必要だと考え、行く末を若い五人に託した。このことはただ長州藩の為でなく、結果的には日本の近代化に大きく貢献することになったのである。伊藤博文 初代内閣総理大臣。 井上馨 初代外務大臣。山尾庸三 工部卿(工業の父)。 井上勝 鉄道庁長官(鉄道の父)。遠藤謹助 造幣局長。
2013年01月18日
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