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ふようろう しんぜん おく おう しょうれい 芙蓉楼にて辛漸を送る 王 昌齢 復元された芙蓉楼 詩文説明寒々とした雨が揚子江に降り注ぐ中を、夜になってから呉の地にやってきた。明け方に友人を見送ると、夜来の雨もやんで、朝もやの晴れゆく中にポツンと楚の山が見える。洛陽の友人がもし、王昌齢はどうしているかと尋ねたら、彼の心は一片の澄みきった氷が玉壺の中にあるようだと云ってくれ。 (王昌齢が江寧県(南京)の丞(県の次官・副知事)に左遷せられていた時、洛陽に帰る友人辛漸を見送り、洛陽に着いて、もし私を知ってる友人に出会って王昌齢はどうしているかと尋ねられたら彼の心は一片の澄みきった氷が玉壺の中にあるようだ(貧しいけれど心だけは、廉潔(清廉潔白)・)といってくれないか)。 くさってなんかしていないぞの意を含む。 芙蓉楼にて酒を酌み交わす。 白い壺(詩に関係した壺ではありません)。 左は王昌齢が辛漸を見送ってる様子。 (中央の壺は「白磁有蓋大壺 明・洪武{1368~1398}中国南京博物院所蔵」。「蘇る消えた中国皇帝の秘宝」の葉書の一枚)。 左写真は詩文説明のため、(楚山に仕立てた写真に小舟と人物を配した合成写真です)。王昌齢(唐代の詩人。字は少伯)陝西省出身。江寧(江蘇省)の丞になったので王江寧とも呼ばれる。開元15年(727)進士に及第。氾水(河南省)の尉となり、校書郎(図書校閲官)となって朝廷に帰ったが、品行に官界では評判が悪く竜標(貴州省)の尉に左遷された。安禄山の乱に兵火を避けて郷里に帰ったが、刺史の閭丘暁に嫌われ刺殺された。七言絶句に優れ「詩家の夫子王江寧」と称された。江寧(江蘇省)の丞になったので王江寧とも呼ばれる。開元15年(727)進士に及第。氾水(河南省)の尉となり、校書郎(図書校閲官)となって朝廷に帰ったが、品行に官界では評判が悪く竜標(貴州省)の尉に左遷された。安禄山の乱に兵火を避けて郷里に帰ったが、刺史の閭丘暁に嫌われ刺殺された。七言絶句に優れ「詩家の夫子王江寧」と称された。
2010年01月31日
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さけ たい はくきょい 酒に対す 白居易 かぎゅう かくじょう なにごと あらそ せっか こうちゅう こ み よ 蝸牛 角上 何事をか争 う。 石火 光中 此の身を寄す。 とみ したが ひん したが しば かんらく くち ひら わら こ ちじん 富に随い 貧に随い且らく歓楽せよ。口を開いて笑わざるは是れ痴人。 題意、酒を飲んで曰くという意味(酒を飲みながら、「人生須く達観すべし、小さい事に一々こだわり、くよくよするな」と気炎をあげげ、荘子の故事を想い浮かべ詩の冒頭に用いている。 詩文説明かたつむりの角のような狭い処で、何を争おうとしているのか。人生はピカッと光る火打ち石の火のような一瞬の束の間に生まれ合わせているようなものだ。富める者は富めるなりに、貧しいものは貧しいなりに、つまらない争いなどやめて、それぞれ人生楽しもうじゃないか。むっつりせず、争わず、大口を開けて笑いなさい。笑えないものは馬鹿ものとしか言いようがない。 (人はつまらない争いをするものである。争いなどやめて人生を楽しみなさいと白楽天)・ 白居易 大暦7年(772)~会昌6年(846) 中唐時代代表的詩人。名は居易、字は楽天(一般的には楽天が号と認識していますが、)。酔吟先生、香山居士は号。陝西省び南(びはシ篇に眉)の人とも太原の人とも伝わる。祖父は河南きょう県の知事。父は襄州(現在湖北省襄陽)の長官補佐官。貧しい家庭に生まれた居易は年若くして進士となり地方事務官→翰林学士→左拾遺→忠州・杭州・蘇州の地方官を歴任→東宮傅育次長→刑部尚書(法務大臣)を以て75歳没。長恨歌・琵琶行の大作あり、白楽天の文集は平安時代に最も日本でも読まれ、親しまれた(菅原道真・清少納言時代)。 荘子名は周、子は尊称。宋国の蒙(河南省商邱県)の人。大きな観点から物事を考え、その比喩・逸話は面白いです。「胡蝶の夢」も夢の中で蝶になって飛び回り遊び、自分が荘周である事を忘れ、ふと目が覚めても、荘周が蝶になったのか、蝶が荘周になったのか分らなくなる。奇想天外というか意表をつく逸話が多い。壮子は道を極め、宇宙から物を眺める寓話が多いので地球に点にも見えない蝸牛をくっ付けました。 ※荘子の「蝸牛角上の争い武力抗争に明け暮れる戦国時代に生まれた荘周は老子の教えに基づきそれを発展させた。「道」という大きい立場から見ると世の中のことはすべて小さい。争いごとにしても然りである。どんな大国であっても勝った負けたと争っている。なんと愚かなことではないか。蝸牛の角の上での争いに等しいと戒めている。蝸牛の左の角に触氏、右の角に蛮氏の国があって互いに領土を争い死者数万,逃げる敵を逐うこと15日にして、はじめて鉾を納めたと、これを聞いた王は馬鹿馬鹿しいといった。この宇宙に四方上下に際限は有りません、それなら心をその無窮の世界に置くと地上の国々などあるがごとく無きが如く、とるに足らんものといえましょう。宇宙の無窮に比すれば王が他国を伐とうが伐つまいがどれほどに違いがありますか。という故事。 白楽天画像 白楽天記念館銅像 白楽天墓
2010年01月23日
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ひゃくにん し なかえとうじゅ 百忍 の詩 中江藤樹 ひと しの しちじょう みな ちょうわ ふたた しの ごふく みな なら いた 一たび忍べば七情 皆 中和す。 再 び忍べば五福 皆 並び臻る。 しの ひゃくにん いた まんこう はる き き うちゅう すべ しんきょう 忍んで百忍 に到れば満腔の春。 熙熙たる宇宙 総て心境。 詩文説明人間の感情は七種からなっており、この感情が直接表に現れると、思わぬことが起こるものである。まず、一度これを忍べばそれらの感情はかなり穏やかに和らぐものである。さらに修行を積み、再び忍ぶ事が出来るようになると、人生の五つの幸福がすべて自分の周囲に集まるようになる。このように修行を積み重ね、百度も忍ぶ事が出来るようになると、心はいつも春のような暖かさに包まれ、広々とした宇宙に起こるすべての事が楽しく受け入れられるようになる。これこそ真の境地といえよう。 忍耐を重ねていくと遂には清々しい春花の咲き乱れる如く常に心身豊かになり宇宙の哲理を悟り真の境地に達する事が出来る。※七情とは人間が本能として持っている7つの感情の事で「礼紀・礼雲篇」では、喜、怒、哀、懼、愛、悪、欲、の感情のいいます。仏教では「喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲」となってるようです。1、喜 は心の歓楽で、すべての行動が自分の意志によってなされ、それが 成功した時の喜び1、怒 は心の煩悩。自分の意に反した状態、うまくいかない悩み。1、哀 は心の痛切。ただ悲しいだけでなく,痛切な悲しみ。1、懼 は心の煌恐。どうしたら良いかわからないほどの恐れ。1、愛 は心の貧恋。独立したいという心の狭い愛情。1、悪 は心の憎嫌。みにくい心。1、欲 は心の思慕。物欲だけでなく欲しいと思う心そのものが、すでに欲であ ると戒めている。七情を押さえ込むと、そこには博愛の精神が生まれてくると説く一方で、この七情を自我の赴くままに放置すれば、どれか一つの感情が心の中ではびこり、やがてはその感情の虜になって、自分自身を滅ぼすことにもなりかねない。憤りが強すぎれば「憤死」することもあり、悲しみが深過ぎれば、自殺も考えるようになる。このようにならないためには、七つの感情がいつもほどよくコントロールされていなければならない。まず七情を抑制する心を持つて乗り越える事。この七情を乗り越えたときに、初めて自分の心の中に調和が生じ、それが家庭の平和になり、社会の調和になり、国の平和、世界の平和へと広がっていく。自分で「調和」を出来なければ、心身の健康は望めないし、良い家庭も持てない、この七情の基本が出来ている人は、心身ともに幸せに充ち溢れる。 五福(人生五つの幸福)1、 命の長いこと。 2、財力の豊かなこと。 3、無病息災。 4、徳を好むこと 5、天命を持って終わること。 ○満腔=いっぱいに満ちる。 ○熙熙=広々としていること作者 中江藤樹(1608~1648)江戸初期の学者。諱は原、字は惟命、通称与右衛門、もく軒(もくは口篇に黒)又は顧軒と号した。藤樹の名は、その家に藤の大樹があり、その下で学を講じたので門人たちが藤樹先生と呼ぶようになったという。しかし、32歳の時に「藤樹規」と題する学規作り掲げるという記録からも自らも藤樹と称していた。藤樹は慶長13年(1608)3月7日近江国(滋賀県)高島郡小川村に生まれた。7歳の時高島城主加藤光泰の家臣、祖父徳左衛門吉長の養子となり、光泰の子貞泰の移封に従い、米子、伊予(愛媛)大洲と転じた。その間、学問・武術に励んだ。18歳の時父徳右衛門吉次を失い、母を大洲に迎えようとしてが、母は婦人の身で他国へ移ることを希望しなかった。27歳の時、母への孝養を理由に致仕を願い出るが許されず、脱藩して故郷小川村に帰った。故郷では、母の世話をする傍ら学問に励み、門人に学を講じて、近江聖人と称されるに至った。慶安元年(1648)8月25日、41歳で病没した。 百忍の詩掛け軸と中江藤樹銅像と画像 藤樹書院 (滋賀県高島市安曇川町) 墓所(玉林寺) 中江藤樹記念館藤樹は少年の頃水仕事などであかぎれに悩む母の為に四国の伊予から近江まで膏薬を買い求めに歩き続けたが母は藤樹が一人前になる前に帰ってきたことを叱り家に入れず、追い返したという。これが藤樹の名を近江聖人とまで高らしめた。親孝行の伝記がある。藤樹ははじめ朱子学を収め、陽明学に移った。どちらも孔子の教えであるが、朱子学は君臣・親子などの上下の身分を正し秩序を重んじたのに対し陽明学はとくに個人の行いを重んじてます。日本で陽明学を打ち立てた始祖であり熊沢湛山などが入門している。
2010年01月16日
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しゅくが し こうのてんらい 祝賀の詩 河野天籟 しかい なみ たい ずいえん みなぎ ごふう じゅうう そうでん うるお 四海 波 平らかにして瑞煙 漲 り。 五風十雨 桑田を潤 す。 ふく とうかい ごと はる かぎり な じゅ なんざん に とこし かけ 福は東海の如く 杳かに際 無く。 寿は南山 に似て長えに騫けず。 つる やど ろうしょう せんざい いろ かめ ひそ こうかん ばんじん ふち 鶴は宿る老松 千載の色。 亀は潜む江漢 万尋の淵。 ふよう ゆき だいえい みず しんしゅう ほうはく きゅうてん かがや 芙蓉の雪 大瀛の 水。 神州 に磅はく して九天 に輝く。 (南山の寿・ 鶴亀=長寿を祝する語)(桑田=国土の意)(はく=石篇に薄と書く) ※波穏やかで平和・瑞煙・恵みの風雨・福・寿・鶴・亀・松・芙蓉(霊峰富士)・九天(世の中の隅々まで輝く)と目出度い言葉を沢山使い慶祝を表わしています。 詩文説明世の中は静かに治まってめでたい雰囲気に満ち溢れている。五日に一度の風と十日に一度の雨という気候が、ほどよく桑田を潤おし豊年に導いてくれています。この幸せはどこまでも果てしなく、ちょうど東海の広さが限りなく続いているように、鶴もその美しい姿を青々とした松の傍らに巣籠りし、亀も広々とした大河万丈の淵に喜々として遊び潜み住んでいる(鶴と亀は共に長寿の意を示しています)。霊峰富士山の雪は消えることなく、その気高い容姿を、日本の誇りとして聳え輝き、大海の水もまた尽きることなく、こうした気高い姿や広々とした気分がわが日本中に溢れ漂って果てしない大空にまで輝きわたっている。何と目出度いことでしょう。 作者 河野天籟(明治元年1868 ~1948昭和23年 )教育者。名は道雄。天籟は号。明治元年玉名郡長洲町の生まれ、熊本師範卒。同県内の教師を務めたあと、県内の阿蘇郡中道小学校・球磨郡多良木小学校などの校長を歴任。昭和23年病没。五日に一度和やかな風が吹き・十日に一度恵みの雨が降ることが天候の中で最も善いことだと云われています。右は吟行で河口湖へ寄った時の写真と、日本地図を合成し鶴と亀を加え詩文の説明としました。富士山は中央の高い山の後ろに見えてましたが写真を縮小すると全く見えませんので左に芙蓉之雪写真を掲載しました。
2010年01月04日
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