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首里城の守礼門を出て徒歩10分程で玉陵(たまうどぅん)に到着 玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。管理事務所でチケットを購入したところ、受付の地下に資料館があるので、まずそこを見てから、見学に行くと良いと勧められる。この資料館には玉陵に関する昔の写真など多くのものが展示されていたのである。 お墓の 内部のミニチュア模型、納骨の壺、以前の写真など十分見ごたえがあったのだ。1920年に亡くなり、1934年に洗骨された尚典候の葬儀の様子などは写真も多く残されていて、非常に興味深いものであった。管理事務所から徒歩で5分ほどの所に玉陵があった。2つのアーチ門を通ると現れる玉陵。そこだけ静かで荘厳な時間が流れていた。観光客は我々以外に2名のみ。玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨したとのこと。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められたのだ。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められていた。琉球王家は、いまどうしているかというとどうやら東京に住んでいるとのことである。琉球王国崩壊の際に、天皇から公爵の地位を与えられたとのことである。 玉陵を後にし、車で15分ほどの所にある『識名園(しきなえん)』をこの旅の最後に訪ねた。この識名園は琉球王最大の別邸、国王一家の保養や中国皇帝の使者である冊封使(さっぽうし)の接待の場に利用されていたと。 1799年に造営され、その形式は池の廻りを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした「廻遊式庭園」。池の周辺に御殿、築山、花園などを配置。池には大小のアーチ橋が架かり、池の小島には中国風の六角堂が建てられるなど中国の影響も見られるが、全体的には琉球独自のデザインとなっているのだ。2000年12月に世界遺産「琉球王国のグスクおよび関連遺産郡」として登録。 御殿。育徳泉から先の森を抜けると、池のほとりの芝生の広場に出た。右手に池、左手に御殿(うどぅん)が。御殿は赤瓦屋根の民家風であったが、当時は上流階級のみが許された格調高い造りだったとのこと。縁側の前には靴脱ぎの石が置かれていた。ここで靴を脱ぎ室内に入ると廊下は板張り、部屋は畳敷きで昔の民家とよく似た造り。ただ部屋数は15室?と多く、さすがに王家の別荘という感じ。 石橋。御殿から池のほうを見ると池のなかほどに小島があり、その両側に小さな石橋がかかっていた。向かって左の石橋がやや大きく、どちらも中国風のアーチ型。石橋に近づくと、手前の小さいほうの石橋はでこぼこしていて、自然の石灰岩をそのまま利用。中央の階段は切石を使っているので、これは意図的なデザイン。もう一つの石橋は、全て切石でできていて直線的なイメージ。 六角堂石橋を渡って池のほとりを左に行くと六角形の東屋が建っていた。写真は御殿から見た六角堂。池の中の小島に建てられているので、御殿から見ると水に浮かんでいるように見えるのであった。こちらにも小さな石橋が架かっていた。さきほどの石橋に比べると、かなり小ぶりのアーチ橋。六角堂の屋根は御殿と違い黒い瓦で葺かれていたのであった。六角堂の中にある説明板には『六角堂については、明治時代までは四角の入母屋づくりの建物であったことが、写真資料からわかっていると。そして一体いつから「六角」になったのか、よくわかっていないと。』勧耕台(かんこうだい)表示板より沖縄本島南部地域を見渡すことの出来る展望所で、海が全く見えない大陸的な景色が臨めるのだ。中国からきた冊封使をここへ案内し、琉球が決して小さな国土ではないことを訴えたと。 今回の観光を全て終え那覇空港近くのレンタカー店へ向かう。送迎車で空港まで送ってもらったのであった。予定の飛行機で羽田空港へ。この日の沖縄は25℃以上の気温で歩いていると自然と汗が出てくるほどであったが、羽田空港に到着すると雨で非常に寒いのであった。気温差20℃? 初めての沖縄、そしてやや慌ただしい旅であったが、沖縄の歴史と悲惨な現実を今更のように知る旅であったのだ。琉球国の歴史の中で、いまだに多くの沖縄戦の痕跡を残しながらも、延々と続く鉄条網のフエンスに囲まれた米軍基地が。過去の壮絶で悲惨な沖縄戦を見つめなおす中で、日本~世界の未来を考えていくことも必要であることを痛感。青い海と空、そしてリゾート、憧れの沖縄のもう一つの別の一面を避けて通れない現実を知る旅でもあったのだ。 -----完-----
2011.03.31
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観光最後のこの日は早朝にホテル出発。TEST期間中とのことで無料の沖縄高速道路を使い首里城に向かいました。首里城は、琉球王国の幾多の興亡を伝える歴史の証人。琉球の島々を治め、中国、日本、朝鮮、東南アジアの国々と外交、貿易を展開した首里王府の司令塔として、王とその家族等が住み、華麗な王朝文化に彩られた空間だったのです。守礼門。「守礼」とは「礼節を守る」という意味。門に掲げられている額には「守禮之邦」と書かれてあった。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味とのこと。園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)。琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所とのこと。よってこの門は人が通るものではなく、神への礼拝の門という位置づけらしいです。よってここはくぐることは出来ずに見てお参りするだけ。歓会門。首里城の城郭内へ入る第一の正門で、「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味。瑞泉門。「瑞泉(ずいせん)」とは「立派な、めでたい泉」という意味。門の手前右側にある湧水が「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれ、それにちなんでこのように名付けられたと。奉神門。「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門。正殿。正殿は琉球王国最大の木造建造物で国殿または百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれ、文字通り全国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物。「正殿」の正面、唐破風の妻壁中央には火焔宝珠、両脇には金龍と瑞雲の彫刻、中央上部には龍頭が飾られていた。首里城の中心・正殿の2階には、「御差床(うさすか)」と呼ばれる王の玉座といわれている大きな部屋があり、その玉座の背後には3つの書が掲げられてた。そのうちの一つ「中山世土」。琉球は中山が代々治める土地である、という意味。康煕帝の筆とのこと。首里城北殿内部でカラフルで粋な傘を見つけました。 御涼傘(うりゃんさん)と命名してある傘は、琉球王が外出する際に使用した傘で、権威と荘厳さを演出したと説明されていました。首里城石垣。当時のそのままの石垣と復元石垣が区別されていました。首里城は戦争のための城ではなく、政(まつりごと)のための城として設計されたと伝えられているのであった。正殿を始め各門、石垣などを見ても敵に対する攻撃の仕掛けは全く認められない不思議な城なのであった。そして朱塗りの上に赤瓦、それを彩る漆喰の白と色彩豊かであり、豪華な彫刻など目を見張るばかりの建築美が迫ってくるのであった。きらびやかな色彩の蔭に隠れた歴史のロマンを感じる時間であった。
2011.03.30
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世界遺産である今帰仁(なきじん)城趾を訪ねた。今帰仁城跡は、「北山城跡」とも呼ばれ、南には断崖を隔てた山々があり、東西に港をひかえた要塞堅固な城。中国との貿易により経済力も豊かでその支配地域は沖縄本島北部全域から、遠く奄美大島にまで及んでいたとのこと。現在もその時代を偲ぶ雄大な石垣がよく残っており、とくに外郭の石垣は大きく屏風形の曲線を描き、沖縄における屈指の名城なのである。平郎門。平郎門(へいろうもん)は今帰仁城の正門。 左右に狭間(はざま)があり、門の天井は大きな一枚岩を乗せた堅牢な作りとなっていた。平郎門から大庭(うーみやー)まで続く参道は戦前に地元民によって桜の植栽とともに直線道に整備され たとのことであり、桜は既に終わっていたが桜のシーズンに訪れたいと思ったのであった。外郭の石垣は大きく屏風形の曲線を描いていた。遠くには東シナ海が見えた。城郭を外敵から守る城壁は、ねずみ色の石灰岩の野面積みで堅牢に築かれていた。この石垣の石は首里城や他の城趾とは異なる種類の石であるとのこと。広場のベンチで石垣と東シナ海を見つめながら足の疲れをとる人。無料で案内してくれる地元ガイドの話に聞き入る。今帰仁村歴史文化センターを最後に訪ねた。今帰仁城跡をはじめ今帰仁村の歴史と文化を紹介していた。今帰仁城跡から出土した陶磁器などの資料も展示して興味深い時間であった。車で東シナ海に浮かぶ古宇利島に向かう。古宇利島に渡り車を降り海辺に向かう。エメラルドグリーンの海の真ん中に古宇利大橋が堂々と。今帰仁村の古宇利島と名護市の屋我地島を結ぶ長さが1960m。無料で通行できる橋の中で長さ日本一の橋なのである。古宇利島内はのどかでサトウキビ畑が広がり、昔ながらの沖縄の家が建ち並び、映画やCMのロケ地としても有名との案内板が。この日の観光予定地を全て廻りホテルに向かう。途中嵐山展望台からの眺め。ここへの道路の両側は全てパイナップル畑であった。収穫時期に訪れたい風景であった。沖縄の瀬戸内海といわれる穏やかな羽地内海が一望できた。そして先程訪ねたエメラルドグリーンの海に浮かぶ屋我地(やがち)島と、その奥の古宇利島が見えたのであった。
2011.03.29
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ブセナ海中公園を後にして、国道58号線から国道449号線の海岸線を通り本部半島にある海洋博公園を目指す。名護市内を通過し、海岸の美しい瀬底島にある瀬底ビーチに立ち寄る。瀬底島に渡るための瀬底大橋。橋の両側の海のエメラルドグリーンの色が見事であった。1985年(昭和60年)2月に開通。全長762mは当時沖縄県内では最長の橋だったとのこと。カーナビに導かれ瀬底ビーチへ。途中建設途中の鉄筋コンクリートの建物が。しかし工事中とは思えない状況。帰宅してインターネットで調べてみると、やはりリゾートホテル開発をしていた会社が2008年に破綻。引き継ぐ業者もおらず、そのまま建設中の状態で放置されているとのこと。砂浜への入口は小さいがビーチに出ると、白砂が南へ向けてかなり延びている大型のビーチ。砂はきめ細かくパウダーのようにさらさら。遠浅になった海岸線では海の青色と混ざり艶やかなエメラルドグリーンを生成していた。遠く1.5kmの珊瑚礁に浮かぶ三日月型の小さな島・水納島(みんなじま)が見えた。上空から観察するとクロワッサンに見えることから、「クロワッサンアイランド」と呼ばれているとのこと。波打ち際には珊瑚礁のこぶし大の欠片が多数打ち上げられていた。そのうち模様の綺麗な物を拾い想い出の土産に持ち帰ったのであった。沖縄海洋博公園に到着。沖縄国際海洋博覧会は、沖縄県の本土復帰記念事業として沖縄県国頭郡本部町で183日間の会期(1975年7月20日 - 1976年1月18日)をもって行われた国際博覧会。日本復帰3年目。略称は「沖縄海洋博」「海洋博」など。「海-その望ましい未来」をテーマとし、日本を含む36ヶ国と三つの国際機関が参加したのだ。我が社もアクアポリス内に展示したことを想い出した。入社2年目の夏であった。社員が抽選で何名か見学に行くことが出来たが私は残念ながらハズレ。 海洋博開催によって、沖縄県の列島改造というべき開発が劇的に進んだのであった。前日利用した沖縄自動車道の一部開業や各国道の拡幅などが開催期間に向けて急ピッチで進められたのであった。沖縄のインフラ整備がこの時に大いに進展したのであった。 海洋博公園の中庭には、ジンベエザメやマンタ、ヤンバルクイナなどをかたどった花の造形物がこの日も出迎えてくれたのであった。【ジンベエザメ】サメ種として現存最大であり、そしてもちろん現存最大の魚。【マンタ】世界中の熱帯・亜熱帯海域、とくにサンゴ礁周辺に生息。大きいものでは体の横幅8m 、体重3t に達する と。【ヤンバルクイナ】の親子。ヤンバルクイナの名は沖縄本島北部をヤンバル(山原)と呼ぶことに由来。日本固有種、国の天然記念物そして絶滅危惧種。海洋文化館を訪ねた。入り口にはニュージーランド・アオリ族の集落の入り口にあった守護神のレプリカが展示されていた。海洋文化館は「黒潮に生きる」をテーマに、「海との出会い」→「あこがれの海」→「太平洋の人々の話題」→「海を渡る知恵」→「島のくらし」→「日本人と海」まで、メラネシア、ポリネシア、ミクロネシア、東南アジア、日本の順に、数々の展示物が海と人間のさまざまなかかわりあいを物語っていたのであった。沖縄ばかりでなく、ミクロネシア文化圏のルーツを探る上でも貴重な施設となっており、アジア・太平洋地域を中心とする海洋文化の成り立ちとその歴史、海を通じて運ばれた文化の伝来と発展、それら民族相互の交流の姿などを多いに学ぶことが出来たのであった。残念ながら館内は撮影禁止であったため、HPからの転載写真。沖縄郷土村の17~19世紀を再現された村落を左手に見ながら噴水広場まで戻ったのであった。広場の一角の噴水の周囲からは白い煙が上がり子供達を楽しませていたのであった。そして具志堅という地名の場所を通過し、次の目的地・今帰仁城址へ向かったのであった。
2011.03.28
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この日の最初の訪問地はホテルから車で10分ほどのブセナ海中公園。 ブセナ海中公園は沖縄県名護市の部瀬名岬にある海中公園。この近くにはには、2000年7月に日本初の地方開催サミットとなった「九州・沖縄サミット」の会場「万国津梁館」がある場所。歩いて行けない程遠いという訳ではないが券売所からは一時間に3便、無料のシャトルバスが往復運転していた。展望塔桟橋入り口。ここに沖縄本島西海岸でも透明度が高い部瀬名岬の沖合170mにある沖縄唯一の海中展望塔があるのだ。入口でチケットを見せ、50段の螺旋階段を下りると、そこは水深4~5mの世界。360度の海中パノラマの窓より、海底に広がる美しいサンゴ礁の海と色鮮やかな熱帯魚が泳ぐ様子を見ることができたのだ。幸いこの日は天候に恵まれたが、雨でもOKの全天候型。しかも服を着たまま海中世界を覘け、まるで龍宮城のような光景。出足が早かったことにより、観光客の数も少なく時間を忘れて見とれてしまったのであった。間近で泳ぐ魚たちとの出会いは、まさに感動ソノモノ。イソギンチャクを取り付けてあって?カクレクマノミを間近にみることもできた。また、海中展望塔の入口では100円で魚のエサを販売していた。橋の上からエサを投げると魚がたくさん集まってき来たのだ。帰りは徒歩で海岸の景色と海のエメラルドの青さを楽しんだ。砂も真っ白で海も何処までも透き通っていたのだ。白いヨット、白い砂浜、白い波、白い海中展望塔そしてエメラルドの海。そして途中クジラの形をしたかわいいグラス底ボートが海に浮かび、海面下に広がる神秘の世界がこの船からも楽しめるとのこと。小高い丘の上には、これも白い我が宿泊ホテルも見えた。美しい珊瑚、深い海底、そして魚だけでなく美しい海中世界を楽しんだ後、次の訪問地である沖縄海洋博記念公園へと車を走らせたのであった。
2011.03.27
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おきなわワールド見学後、沖縄自動車道を使い、恩納村の海岸沿いにある今回の旅の宿泊場所「沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ」に向かいました。約1時間強でホテルに到着。東シナ海を見渡す小高い丘の上に建つ8万坪のリゾートホテル とガイドブックに。駐車場は満車状態であったが、なんとか停めることができたのだ。部屋はオーシャンタワーの4F。ガーデンプールからのオーシャンタワーの夜景。部屋はダブルではなく?ツイン。部屋からのスポーツ施設を望む。オキナワマリオットリゾート&スパが見えた。ホテル内売店には今度はツインの豚が歓迎してくれた。売店には「シーサー」の置物が展示されていた。シーサーは、沖縄県などでみられる伝説の獣の像。建物の門や屋根、村落の高台などに据え付けられ、家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持つ と。名前は「獅子(しし)」を沖縄方言で発音したものであるとのこと。「今宵二人でうれシーサー」「夫婦円満たのシーサー」大露天風呂 「森の湯」を楽しんだ後夕食。この日は各レストランが混んでいたので比較的空いていた沖縄料理 「やあしばる」にてバイキングコースを楽しんだ。夕食後ホテル玄関前のテント内で催された琉球舞踊のショーを二人で見学。沖縄が誇る芸術の一つであるこの琉球舞踊は、中国から訪れる冊封使をもてなす歓待の儀として築き上げられたもの。流麗な動きの中に清廉な美しさをまとった祝儀舞踊。花笠をかぶった踊り手が、四つ竹をカチカチと打ち鳴らし、艶やかかつ風雅な王朝の美を表現していたのであった。芭蕉衣を身に着けた漁村に暮す男女が、櫂とざるを持ち、海の恵みに感謝し生き生きと踊る雑踊も披露された。このあと観客との手踊りの講習会も開催され楽しい一時であった。帰りにホテル内の土産物売り場を散策した後、部屋に戻った。この日の疲れか直ぐに『爆睡』。そして翌日も早朝起床。部屋の窓からの風景。天気は上々。
2011.03.26
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琉球王朝の歴史や文化を体験できるテーマパーク『おきなわワールド』を訪ねました。 入り口。黄色いハイビスカスが迎えてくれました。エイサー広場では人気のパフォーマンス「エイサー」が行われていた。躍動感あふれる獅子舞・大きな太鼓を打ち回転しながらジャンプする荒技。観客と一体となった楽しい舞台でした。琉球古船。琉球王国が16世紀から17世紀にかけて中国への進貢や東南アジア各国、朝鮮などへの貿易に使用した交易船。「ショウベンノキ」の 表示板が。面白い?名前の木です。枝を切るとくさい樹液が出てくることからこの名前がついたようです。玉泉洞30万年の年月が創りあげた珊瑚礁から生まれ自然の造形美。全長5kmのうち890mを公開しているとのこと。愛媛大学学術探検部が調査を行った結果、初めてその全容が明らかにされたとのこと。青の泉ライトアップが美しく青が見事。槍(やり)天井地下に長い年月をかけてできた造形に時間の長さを感じ、人の一生の時間の短さを同時に思う時間であった。洞内を歩き疲れたので、サトウキビ生ジュースで喉を潤す。我々の目の前で、機械で搾る。添加物は一切使用していないのである。子供の頃、おやつ代わりにサトウキビを?んだ記憶が懐かしく甦ってきたのである。琉球ガラス工房。「琉球ガラス」は、太平洋戦争後の資源難のため、アメリカ軍基地で捨てられたコーラやビールの空き瓶を溶かして再生したことから始まる品であるとのこと。各種の色合いが沖縄の自然を映し出しているかのよう。鮮やかな色遣いが特徴の琉球ガラスであった。初日の観光を終わり、沖縄高速道路を利用しこの日の宿に向かったのであった。
2011.03.25
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摩文仁の丘は沖縄本島の南にあるところで、第二次世界大戦の日本において唯一地上戦が行われた場所。駐車場の近くには風力発電装置が回っていた。公園の裏から見た太平洋。水平線の位置がビックリするほど高いのであった。沖縄県平和祈念資料館 。工事中のため閉館中。第二次世界大戦で貴い命を失ったすべての人々に哀悼の意を表すとともに、悲惨な戦争の教訓を後世に伝え、世界の恒久平和の実現に寄与するために平和祈念公園内に設置された資料館なのである。「平和の火」平和の礎 (いしじ)沖縄県の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和の確立に寄与することを願い、国籍及び軍人、民間人を問わず、沖縄戦などで亡くなった24万人以上のすべての人々の氏名を刻んだ記念碑。戦没者の名前はその母国語で刻銘されているのだ。 名前を刻銘した記念碑116基は、「さざなみの池」からの波を受けて扇形に広がっていた。外国人の刻銘は1万4千人米兵を含めて英国、韓国、北朝鮮、台湾など合計1万4600人ほどであると。 摩文仁の丘から見る断崖絶壁の海岸線平和の丘彫像黒御影石製のアーチは、平和のくさびで、彫像の中心には琉球石灰岩の要石を沖縄に見立てて配置し、下層部はガマ(自然壕)をイメージ。奥に進むと天井から「平和の光」が差し込む造りになっているとガイドブックに。平和を祈る合掌を形とった高さ45mの角錐形の堂宇で、人類の恒久平和を祈る沖縄平和記念像 (高さ12mの座像)を安置してあるとのこと。平和の礎の二十数万の刻銘者を前にして、戦争のおぞましさを痛感するのであった。平和の礎は沖縄戦終結50周年を記念して建立されたそうであるが、刻まれた名前の数だけ、苦難に満ちた沖縄戦があったことを実感できたのであった。
2011.03.24
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沖縄県平和創造の森公園の中にある「魂魄(こんぱく)の塔」を訪ねた。この場所には何故か観光客が少なく、小さな無人の?売店が一店あるのみ。戦後、放置されていた多数の遺骨が住民の手で収集され、大きな遺骨の山が築かれた と。やがて納骨堂が設置され、「魂魄の塔」と名付けられたのだ。実に3万5千体の遺骨を納め、その霊を慰めている塔。「魂魄(こんぱく)」とは、魂(たましい)のこと と。「島根の塔」。碑文には美しく花開くためには そのかくれた根のたえまない営みがあるように 私達の 平和で心静かな日々にはこの地に散ったあなた達 の深い悲しみと苦しみがそのいしずえになっていることを思い、ここに深い祈りを捧げます と刻まれていた。 「讃岐の奉公塔」。碑文にはむかしむかし 讃岐の国の殿様に仕える可燐な乙女がおってな その娘はお姫様の身代わりに病気になり 悲しくも命を失った 人々はその死をいたみ誠実にして至純 献身的なその心をあわれんで「奉公さん」と名づけ 人形を作り 功績をたたえたそうな と。「大分の塔」そして「広島の塔」中央3本の黒御影石の柱は、英霊の御柱を意味しているのであろう。右側には、子供達が太陽に向かって永遠の平和を祈り、英霊の魂が金色の鳥となり,空高く昇天する情景を表現しているのであった。元立法院(アメリカ軍の施政権下にあった沖縄の立法機関)議員の翁長助静(元真和志市市長=故人)は、塔の命名とともに「和魂(にぎたま)となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風」との碑文。「無名戦士の墓とのことであるが、全員が愛するそして大切な家族を持つ名前のある人々」 と妻がポツリと一言。 そして「ひめゆりの塔」へ。駐車場の中にある売店から、こんな姿の歓迎の豚。ミミガー、海ブドウといった沖縄ならではのグルメをはじめ、豚の顔や、豚足まで売っているのであった。「ひめゆりの塔」、そして「ひめゆり平和記念資料館」の案内表示沖縄戦で従軍看護婦として、ケガを負った兵士たちの世話を献身的に続け、戦火の犠牲になっていった女学生たちを偲び、平和を訴え続けている場所なのである。塔の横を通ると奥には、平和祈念資料館が。沖縄がどのような過程で戦争に巻き込まれて行ったか、またひめゆり学徒隊がどのように活動したか、そして、どのように犠牲になっていったかが克明に語られていたのであった。犠牲になった先生や女学生たち全員の顔写真がパネルになって飾られていた。中でももっとも心に突き刺さったのは、生き残った84歳の女性の語り部としての説明。その老婆の静かに語る内容は、壮絶で、聞くとともに、胸が苦しくなっていくのであった。聞き入る若い女性達の多くがハンカチで涙を拭う姿が。我々はこういう時代があったことを、決して忘れてはならないのである。今、観光の地として名高い沖縄、しかし66年前にあった現実なのである。『合掌』。
2011.03.23
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久しぶりに妻との沖縄旅行。昨年定年を迎えるまで、仕事で日本国内を飛び回ってきましたが 何故か沖縄県のみ訪れたことが無く、そしてプライベートでも行ったことのない唯一の都道府県であったのです。8時15分発のJALを予約。その為朝の5時30分に自宅へ迎えのタクシーを予約。6時の羽田空港行きのバスに載る。途中の早朝の横浜ベイブリッジ。オンタイムで羽田空港に到着。JAL903便に乗り那覇空港まで2時間半の空の旅。3連休でもあり満席状態。那覇空港も観光客でごった返していた。空港ロビー内の歓迎の『めんそーれ』。沖縄方言のあいさつ。「いらっしゃいませ」の意味。我が旅の日本全国都道府県完全制覇の瞬間であった。那覇空港でレンタカーを借り、最初の観光地 『喜屋武岬』に向かう。道路には『わ』ナンバーのレンタカーだらけ。沖縄は鉄道がなく、あるのは空港行きのモノレールのみの為か移動手段はレンタカーがBESTと言うことなのであろうか。『♪♪わ、わ、わ、わが三つ・・・♪♪』確かセッケンのCMであったが、三つどころではなく『わ』の大行列なのであった。カーナビのお陰でなんとか30分ほどで喜屋武岬に到着。カーナビ無しではこの農道は無理であること間違い無し。 喜屋武岬は、沖縄県糸満市喜屋武に属し、東シナ海に面する岬である。沖縄戦跡国定公園に含まれるのである。沖縄戦最大の激戦地であった本島南部。この岬から飛び下りて命を絶つものも少なくなかったと。東シナ海と太平洋を分ける断崖絶壁の景勝地「喜屋武岬」。しかし、沖縄戦で追い詰められた住民や日本兵が身を投げた悲しい歴史が残る場所でもあり、岬の先端には平和の塔が建立されていました。ひときわ目を引く、大きな青いモニュメントが。曲線基調でデザインされている、美しい慰霊碑。円、球は平和への願いの象徴。説明の碑には『 第六二師団管下部隊は喜屋武複廓陣地において摩文仁の第三二軍司令部向け進攻を続ける米軍に対し最後の迎撃を続けしが善戦空しく昭和二十年六月二十日玉砕せり昭和二十七年十月地元民は将兵並びに戦斗に協力散華せる住民の遺骨併せて一万柱を奉納し平和の塔と名づけしがこのたび南方同胞援護会の助成を得て新たに塔の遺烈を伝う昭和四十四年三月財団法人 沖縄遺族連合会』 と。平和之塔の裏の一対の地蔵。この地で命を落とされた方の親族が安置したものであろうか。喜屋武岬から眺む荒崎。平和之塔から、南部最大の荒磯「荒崎」を望む。折しも干潮の時間?荒磯が大きく拡がっていた。一帯が園地として指定されているが、売店等は一切無い。トイレと休憩所が有るのみ。展望台を兼ねた休憩所でのんびりネパールで購入したという太鼓を練習している若者が一人。名前はタブラ? 皮はヤギ革とのこと。 平和之塔のすぐ奥には、喜屋武岬灯台があり、沖を行き交う船の安全を守っていた。その白さが青空に映え、美しい景色に更に華を添えるていたのだ。そして道沿いにはブーゲンビリアの真っ赤な花が、あちこちにごく自然に。
2011.03.22
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沖縄に妻と旅行に行ってきました。この時期、行くべきか悩みましたが、思い切って決断しました。そして昨日は、世界遺産の今帰仁城(ナキジングスク)趾を訪ねました。今帰仁城跡とは、沖縄本島の北部、本部半島にある歴史的なグスクなのです。今帰仁城跡の石垣の特色はその特殊な積み方、つまり野面積になのです。自然石をそのまま積み上げる方法。加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないのが解るのです。石材の特質や、あまり手を加えていない自然石をそのまま使った荒っぽさのなかに、屏風型に美しい曲線を描いて造りあげたところにあるのです。そして沖縄旅行を終えこのジョーク 親しい方には解って頂きたいのですが・・・・・・・・。
2011.03.21
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我が家の水耕栽培のアマリリスも日ごとに成長を重ね、真っ赤な花を開かせました。3月13日3月14日3月18日3月22日 3月26日3月27日3月29日
2011.03.20
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3月17日(木)は我が地域の計画停電が10時過ぎから12時30分近くまで実施されました。この日は天気に恵まれ、我が家の太陽光発電は一生懸命発電を行っていたので、『自立運転』に切り替えました。『自立運転』とは、今回の如き停電などにより電力会社から電力が供給されなくなっても、太陽電池が発電している間はパワーコンディショナの停電用コンセントから電力を使用する運転のことなのです。スイッチの操作を行い『自立運転』モードに切り替えました。これにより自立運転が開始された事を示す3個の赤色ランプが点灯。発電した電力は、パワーコンディショナ本体にある「自立運転専用コンセント」より供給し、テレビの視聴やインターネットの閲覧、携帯電話など情報通信機器の充電などに利用できるのです。(AC100V、出力合計最大1,500W)。延長ケーブルにより、我が部屋まで廊下に這わせてきました。 そしてテレビの電源ケーブルに接続しました。我が家はJ-COMのケーブルテレビのため停電中は放送が送られて来ませんが。J-COMに切り替える前はアンテナでデジタル放送を受信し視聴しており、そのアンテナ信号もそのまま残してありましたので、そちらからの信号によりBS放送を視聴できたのです。『自立運転』の使用可能最大容量は1.5KWですが、この日は発電量は大きく、余剰量はどの様になるのか、屋外にある売電メーターを確認しました。 見てみると売電メーターが全く回転していませんでした。よって余剰電力は停電時には売電出来ないことを再確認したのでした。考えてみれば当然のこと。停電時に各家の太陽光光発電装置から売電電流が幹線に流れこんでしまえば、停電の意味はなく、極めて危険な状態が発生する可能性があるのです。停電終了後、再度運転モードを通常運転の状態に戻しました。これにより黄色の売電部分が復活したのです。近い将来、効率の良い安価な蓄電池が開発されるのを期待しているのです。蓄電池を持っていれば、太陽光発電で日中発電した電力を夜中に使うことも可能ですし、停電が起こったときに更に有効に太陽光発電電力を使用することが出来るのです。しかしながら、蓄電池の寿命(5年未満?)は太陽電池(数十年?)よりも短いので、蓄電池の初期投資だけでなく、定期的に取り替えるコスト(+廃棄処分費用)をも見込む必要があるのです。よってコストという観点からは現在の状況は全く実用的ではないのですが・・・・・。
2011.03.19
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【昨日の続き】尚、ここに掲載した写真は私の責任において新聞やテレビ画像等を写真撮影したものであり出典元の上坂先生のものではありませんことを申し添えます。出典元:税理士法人 上坂会計 代表社員/公認会計士 上坂朋宏 http://www.uesaka.ne.jp/■インド「天井や壁が完全に崩れ落ちるような災害の中でも、すべての規律が保たれていた。」インド紙ビジネスラインは13日付で、日本への出張中に被災したインド人技術者が日本人の冷静な対応を称賛する声を紹介した。インドの部品メーカーの技術者らは、栃木県内にあるホンダの研究開発施設を訪問中に被災。「素晴らしい緊急時の態勢が出来ていた。すべてが精密時計のような動きだった。」揺れが収まると社員らは集合場所に素早く揃い、あらかじめ決められた各自の役割をきびきびとこなしたという。施設から市内に出ても大きな混乱は無かったと言い、「冷静さが保たれており、通信状況も含めて全てが秩序だって行われていた。」と評価した。■アメリカ・ニューヨーク・タイムス米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は11日、東日本大震災について「日本への同情、そして称賛」と題するコラムを掲載した。執筆者は阪神大震災時に同紙東京支局長だった著名記者ニコラス・クリストフ氏で、日本人の強い精神を称え、今後の復興への期待を示した。コラムは、「今日私たちの気持ちは皆、日本の人々と共にある」と訴えた。阪神大震災の取材の際、商店の襲撃や救援物資の奪い合いが見られず、市民が「勇気と団結、共通の目的の下に」苦境に耐えていた事に感嘆したと説明し、「仕方がない」「我慢」という日本語を紹介した。「日本の人々には真に高貴な忍耐力と克己心がある」と称え「これからの日々、日本に注目すべきだ。間違いなく学ぶべきものがある」とした。■ベトナム「怒鳴り合いも喧嘩もない」「本当に強い国だけがこうした対応ができる」。ベトナムのメディアは、東日本大震災での日本人の冷静な対応ぶりを、在日ベトナム人らが驚き称賛する声を伝えた。「防災訓練を受けていても怖いはずなのに、誰もパニックに陥る人はいない。自分の仕事に集中し、連絡を取り合っていた」。日本で働くある女性は、インターネット新聞に「我々が学ぶべき多くの事が分かった」と語った。ある留学生は、長い列を作ってバスや公衆電話を我慢強く待つ光景などを挙げ、「皆が冷静に秩序だって行動していた」と称賛。別の留学生は、教師が子どもたちを誘導する姿など、行政当局者から民間人までの素早い対応ぶりに驚いたという。さらに「こうした強さゆえに、日本人は世界で最も厳しい条件の国土で生き抜き、米国に並ぶ経済レベルを達成できたのだ。」と称える声も伝えられた。このような誇り高き日本人を、今まで亡くなった日本人の皆が築き上げてくれたと感じます。今回、多くの方が亡くなりましたが、ただ同情するのではなく、その意味をしっかり捉え、そして生きている私達が、私達の子孫に伝えていかなければと強く感じました。どうか、たくさんの方が救われますように。そして、上坂先生から 【以下の画像は、もっと感動すると思います。是非、みてください。】 と。 http://www.youtube.com/watch?v=IxUsgXCaVtc 動画を見て更なる深い感動を覚えたのです。この未曾有の大震災に外国の多くの方々が、この様に我が日本を思ってくれているのかと感謝と感動の連続なのです。未曾有な困難な中でも暴動や略奪が起こる事もなく、秩序正しく、周囲を思い自己犠牲の下に避難生活をされているのです。 世界中が日本人の文化に驚嘆しています。 日本には工業資源はなくてもすばらしい民族と文化と知恵という資源が存在するのです。 日本もこの困難を乗り越え、もっともっと【美しい国】になると 確信しているのです。 日本人に生まれてよかったと、そして日本人であることに大いに誇りを持ち、この難局を一丸となって切り開いて行きたいのです。頑張ろう、がんばろう、ガンバロウ・・・・・・日本そして東北。
2011.03.18
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その道では有名な公認会計士である上坂朋宏先生のメールマガジンが同僚から転送されてきました。今週号では、3/11に発生した東日本大震災の日本人としての対応(冷静さや秩序等)について各国の評価が記されておりその内容に多いに感動しましたのでここに先生の許可を戴きましたので掲載させて戴きますので是非ご一読下さい。尚、ここに掲載した写真は私の責任において新聞やテレビ画像等を写真撮影したものであり出典元の上坂先生のものではありませんことを申し添えます。出典元:税理士法人 上坂会計 代表社員/公認会計士 上坂朋宏 http://www.uesaka.ne.jp/このたびの大震災に際し、月並みですが、可能な限り多くの方々のご無事をお祈り申し上げます。第二次世界大戦後の焼け野原と似ているのだろうと、映像を見ていると思います。とても心が痛みます。でも日本はそこから立ち直った。原因は全く異なっても、焼け野原から再生するはず。私は、そう信じようと心に決めました。「津波」こんなにすさまじいものとは思いませんでした。わずか数分で、今まで築いたものをすべて破壊します。人間の尊厳も含めて...。地震・津波は終息へと向かっている感触ですが、それは復興への長い戦いの始まりです。人々と財産を飲み込んだ津波からの復興は、かなり困難ではないかと思います。町は腐臭に溢れ、育てた農地は泥に飲まれ、何よりそこに暮らす人々を失いました。苦境に立ち向かう「人間の力」そのものを奪っていった津波。ここからの復興は並大抵の事ではありません。でも、日本ならきっとできるはず。ピンチの時にこそ表れる人間性。被災者同士が助け合い、混乱の中でも秩序を保っていた姿は本当に日本人の素晴らしさを表します。生活必需品を売る商店が、その資材を自分の為にシャッターで守るのではなく、共に苦しむ人の為に譲り渡す。人々は長い列を作り、静かに待つ。営利を求めるはずの企業が、次々に自らの有形・無形の資産を無料で開放する。これが日本人の姿です。誇りに思いませんか?生活必需品を高値で売りつけたり、流された町でレジスターを掘り出したり、孤立した女性を襲ったり、火事場ドロボウ的な悪人が湧き出ておかしくない状況。それを法やお仕着せではなく、自身の中から生まれる思いやりによって、秩序ある世界に保っている。同じ日本人として誇りに思います。海外メディアも押し並べて、上記と同じようなコメントを発表しています。ロシアの独立系紙ノーバヤ・ガゼータ(電子版)は13日までに、東日本大震災の甚大な被害にも関わらず日本人が社会的秩序を失わず、互いに助け合う姿を「日本には最も困難な試練に立ち向かう事を可能にする『人間の連帯』が今も存在している」と称賛するゴロブニン・タス通信東京支局長の記事を掲載した。■ロシアの独立系紙ノーバヤ・ガゼータゴロブニン支局長は、震災を「第二次大戦直後の困難にも匹敵する」大災害だとしつつ、「重要なのは、ほかの国ならこうした状況下で簡単に起こり得る混乱や暴力、略奪などの報道が未だに一件も無い事だ。」と指摘。震災当日の11日、公共交通機関が止まってサラリーマンが帰宅の足を奪われた東京でも「人々は互いに助け合っていた。レストランや商店はペットボトル入りの飲料水を無料で提供し、トイレを開放した。」と驚きをもって伝えた。■ロシアロシアにおける日本のイメージは「秩序ある先進国」として一貫している。主要メディアでは「日本は地震に対して最も備えのある国」とする専門家の見方や、「たいへんな揺れだったがパニックはなかった」といった東京在住のロシア人のコメントが紹介された。■中国地震多発国で東日本大震災への関心が高い中国では12日、非常事態にも関わらず日本人は「冷静で礼儀正しい」と絶賛する声がインターネットの書き込みなどに相次いでいる。短文投稿サイト「ツイッター」の中国版「微博」では、ビルの中で足止めされた通勤客が階段で、通行の妨げにならないよう両脇に座り、中央に通路を確保している写真が11日夜、投稿された。「(こうしたマナーの良さは)教育の結果。(日中の順位が逆転した)国内総生産(GDP)の規模だけで得られるものではない」との説明が付いた。この「つぶやき」は7万回以上も転載。「中国は50年後でも実現できない」「とても感動的」「我々も学ぶべきだ」との反響の声が溢れた。大震災を1面で報じた12日付の中国紙、環球時報も「日本人の冷静さに世界が感心」との見出しで報じた。 【続く】
2011.03.17
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2011年3月11日に発生した東北関東大震災の影響で発電所の多くが被害を受けたことにより、供給量が大きく不足。3月14日に東京電力で初めて『計画停電』が実施されたのだ。『計画停電』とは、電力需要が供給量が上回ると予想される際などに、送電の停止を予告した上での停電なのである。当初は東京都、神奈川県など1都8県を市や区などで5つのグループに分け、14日については午前6時20分から午後10時までの間、3時間ずつ実施することになっていたが、実際には午後5時~午後6時30分に第5グループのごく一部でしか実施されなかった。これによりJR等の鉄道機関は始発から運行を中止、ところが通勤客は停電の中止から駅に向かい大混乱に陥ったのであった。 【朝日新聞より】そして翌日の3月15日には、我が地域(第1グループ)の計画停電が初めて行われたのだ。 【朝日新聞より】我が家の太陽光発電のモニター。下向きのオレンジ色が電気消費量。16時頃から19時30分頃まで停電していたことが解るのだ。この日の我が家の電気のバランスリスト。12時以降は買電は無く、全て使用電力は太陽光発電で賄っていることが解るのだ。そして16時以降は停電であることも消費量=0からも解るのである。そして今日も2回の停電。10時過ぎ~と17時30~。そしてこれからの計画停電の予定表。 真っ暗な中で、ラジオの声だけの3時間。当たり前の日常が崩れるとはこういう事なのであろう。日本国のメルトダウンだけは、日本人の知恵と技術で何としてでも避けなければならないのである。
2011.03.16
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3月も中旬を迎え、いろいろな野菜類の種蒔きの季節となりました。土曜日は東北関東大地震に遭い、小学校の体育館の避難所で一夜を過ごした後に疲れ果てて帰宅しましたが、日曜日朝はその疲れも取れ、晴天、気温にも恵まれ、農作業を行ったのです。まずはスイカの種蒔き。通販で購入しておいたいつものスイカ『マダーボール』の種蒔き。糖度の特に高いラグビーボール型小玉スイカです。冷蔵庫での保管性が良いので毎年栽培しています。そしてタヒチスイカの種蒔きも行いました。黒皮の大玉スイカの超人気品種。鮮やかな紅赤色、糖度は約12度、肉質はしまり、日もち・食味がとくにすぐれているのです。ナスの種蒔きも行いました。日本を代表する長卵型品種。果実はツヤのある濃黒紫色。米ナスも蒔きました。形も丸く大きい、焼きナス、肉づめなんかにおいしいナスです。トウモロコシも2種類。毎年栽培している味来とゴールドラッシュ。カボチャ。現在国内消費が一番多い品種。パセリの種蒔きも行いました。そしてアイスプラント。アイスプラントの名前はこの植物の表皮の細胞の性質で葉の表面が凍っているかの様に見えるため。キラキラした水晶のような粒とほんのり塩味が特徴の新野菜。プチプチとはじける食感からプッチーナとも名付けられているのです。種蒔き終了後、ビニールトンネルを設置し保温してその中で発芽させるのです。スナップエンドウも無事越冬し大きく成長し始めました。さやが柔らかく、さやと豆の両方を食べることが出来る品種。さやは肉厚で甘みが強いのです。 さっと塩茹ですると鮮やかな緑と甘みが楽しめます。また、天ぷらにするとサクサクとした食感を楽しめるのです。 つるが伸び始めましたので支柱を立てて、つるを伸びやすくしました。これでこの日の農作業は完了。今後は定期的に種床の水まきを行いながら発芽を待つのです。 今回の写真はサイズ設定をいつの間にか変えてしまっていましたので、縮小する際縦横比が微妙に変わってしまった為、やや形がおかしい縮小写真になってしまいました。
2011.03.15
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東京電力によると、福島第一原発2号機の原子炉圧力容器内の水位が午後9時34分現在、マイナス200センチまで回復した。一時、空だきになっていたが、燃料棒の下半分が水につかっている計算になる。午後9時20分、格納容器から蒸気を抜く弁を開いたため、圧力が下がり、水が入ったとみられる と。しかし先程のニュースでは再び23時頃水位が低下し始め、再び燃料棒が露わになったと。経済産業省原子力安全・保安院によると、2号機は空だきの状態になり放射性物質の放出や炉心溶融(メルトダウン)の可能性が否定できない、としている のである。 そして最悪メルトダウンしたら1000km圏内が被害にとニュースコメンテータの話。10年は農作ができないとか。発癌や遺伝子異常、エイズに似た症状に・・・・・・・ と。 薬局から、うがい薬『イソジン』を購入してきた。インターネットで調べて見ると『チェルノブイリ原子力発電所の事故では、核分裂生成物の131I(ヨウ素)が多量に放出されたが、これが甲状腺に蓄積したため、住民に甲状腺ガンが多発した。放射能汚染が起きた場合、放射性でないヨウ素の大量摂取により、あらかじめ甲状腺をヨウ素で飽和させる防護策が必要である。そのため、日本は国民保護法に基づく国民の保護に関する基本指針により、核攻撃等の武力攻撃が発生した場合に武力攻撃事態等対策本部長又は都道府県知事が、安定ヨウ素を服用する時期を指示することになっている。』とあったのだ。イソジンの成分は1ml中、 ポピドンヨード70mg(有効ヨウ素7mg)、添加物 としてエタノール、 ?-メントール・・・・・・・とあるのだ。 100mgのヨウ素を内服すると良いと。上記の如く1mlに有効ヨウ素7mgなら、14mlを水に薄めて飲めば、ヨウ素98mgで、これでよいと。上記情報はインターネットブログ情報であり、薬品メーカー情報では全くないことを明記しておきたい。そして効用、副作用等いろいろな反対意見等があるようだが、その評価・判断はあくまでも個人の責任であることを申し添えて置くのである。とりあえず私の意見は『備えあれば・・・・・・・なし』であり、これを購入したのである。 そして停電対策も含めて非常用水の入れ替えを実施。 別居しているが、この日我が家に戻った息子はミネラルウォーターを購入。コンビニで小サイズではあるが最後に残っているものを全て購入したと。そしてトイレットペーパやティッシュも購入。妻は近々の食料の確保、私は農園の野菜を雨降る前に早めの収穫。近所のスーパーではパン類、インスタント・カップめん類、弁当などの惣菜類が売り切れ・品切れ状態、そして移動用ガソリンも。皆さんが何処までのリスクを想定しての買いだめなのかはそれぞれであろうし、解らないのであるが・・・・・・。今後、更に非常食を貯えなければならないような事態の発生があるのであろうか??買いだめや薬品購入が杞憂であったと振り返れることを祈るのみである。
2011.03.15
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東北関東大地震の揺れは相当なものでした。我が地域の震度は4との報道でしたが被災した時乗っていた電車の窓からの民家の屋根は鬼瓦や冠瓦が外れ落下していましたので我が家の屋根とその上に乗っている太陽光発電パネル(京セラ 5.76kw)の被害が心配でした。帰宅後、屋根の状態を下から見つめてみましたが幸い屋根とパネルに変化は目視では感じられませんでした。(東北地方の被災者には甚だ申し訳ない悩みです。)パネルの外見は変わりませんが、発電能力の低下がないか、ここ3日ほどの発電データで確認を行いました。巨大地震のあった3月11日(金)の発電データです。地震の起こった3時前に急激な低下が見られたため心配していたのです。それとも巨大地震発生前後で暗雲の発生等、急激な気候的な変化が我が地域にあったのでしょうか。地震直後、線路上を歩きながら東京方面の遠き空に真っ黒な雲が発生していた事もこの目で見たのですが。翌日3月12日(土)のデータです。昨日3月13日(日)のデータです。地震後も安定して30KWH前後の発電量を発揮していますので、性能上の問題も無かったのではと考えています。お近くの方の発電能力と発電実績量と比較すれば更なる確認が出来るでしょう。お気づきの方は書き込み頂きたく。 報道では『計画停電』が大問題になっています。現在の東京電力さんの対応では全く『計画停電』ではなく『行き当たりばったり停電』ではと感じているのは私だけでしょうか。そして明日はどうなるのでしょうか。結局、今日は我が地域(第一グループ)の停電はなさそうですが、主要電車が始発から運休となったため身動きがとれず今日は自宅待機の一日となってしまったのです。明日の第1グループ:午前6時20分~午前10時の時間帯のうち3時間程度、 午後4時50分~午後8時半の時間帯のうち3時間程度の計画を早急に結論を出して欲しいと我が儘にも思っているのです。
2011.03.14
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土曜日は避難場所の体育館から何とか動き始めた電車を乗り継ぎ、5時間強をかけて自宅に辿り着く。そして我が部屋。室内温室の上に飾っておいた、そして亡き父が仕上げた流木の根が転がり落ちていた。以前から妻からイエローカードを出されていたが、今回の超巨大地震には耐えられなかったのである。幸い室内温室に接触せず落下した模様で、温室のガラスの破損はなし。妻は私への再警告の意味で現場を保存しておいたとの厳しい言。 そして床に置いてあった2段式屑籠も転倒。流木が落下した時に接触し倒れたのであろうか?温室用ジョーロに挿してあった箱根駅伝の旗や団扇も落下。我が家も大いに揺れまくったことが帰宅して再認識。それにしても3月11日午後2時46分頃、三陸沖を震源とする今回の超巨大地震は最終的にマグニチュード9.0に修正されたのだ。専門家によると3地震が連動発生した結果、世界史上4位のマグニチュード9.0を観測したとの見解を示していた。破壊断層は長さ400キロ、幅200キロの広範囲で、滑り量は最大約20メートルに達したという。これにより東北地方を中心として広い範囲で巨大津波による未曾有な被害が発生したのだ。先程のテレビニュースによると、警察・自治体などによると、死者・行方不明者は計3300人以上となっていると。また、岩手県などによると、安否不明者は1万人を優に超えていると。安否不明者が1秒でも早く、一人でも多く無事に生還されることを願うのみである。
2011.03.13
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昨日は仕事で成田まで出張。仕事を終え京成電鉄で会社に戻る途中、勝田台を出てしばらくして電車が急停車とともにロディオ状態。横揺れも激しく、車両が高架から転倒落下するのではとの恐怖感あり。大地震であることを実感。早速携帯ラジオと携帯電話のワンセグ画面で情報入手。M8.8の国内最大地震であったことを知る。揺れが落ち着いてから、電車の外を見てみると高架下の立派な家屋の鬼瓦・冠瓦が全て外れて落下していることに気がつく。しかし留守らしき住人の方の姿は見えなかった。しばらくすると反対の窓から白い煙が上がり始めた。火災発生。なかなか消防自動車のサイレンが聞こえて来なかった・・・・・。1時間以上電車の中に閉じ込められていたが、高架上の危険から逃れるため、電車を降り線路を歩いて最寄りの駅へ向かえとの車掌の放送案内。先頭車両から順番に降りるとのこと。繰り返し繰り返し揺れが続いたが、皆冷静。私の隣に座っていた中国人夫婦はやや興奮気味。漸く我々の車両の乗客が降りる番になり列を作り先頭車両へ進む。我先にの・・方は無くさすがこの辺は日本人。漸く先頭車両に辿り着く。先頭車両のドアが開いており、ここにハシゴをかけ線路に降りるのであった。線路上には数人の駅員が補助してくれた。線路上を歩き駅に向かう。線路上を歩くのは何十年ぶりであろうか。漸く駅のホーム上に到着。駅は大和田駅。駅の改札を出て広場へ。しかし喫茶店等何にもない駅。タクシーも無く、通りかかるタクシーは全て客が乗っていた。こうなったら電車が動くまで覚悟を決めて時間つぶし。幸い同僚と二人であったので赤提灯をさがすがこれもなし。有っても地震のせいか灯りが付いていない。漸く駅裏に小さな店を発見。ここで時間を潰すことに決定。携帯で自宅にTELするも繋がらない。そのうち携帯電話は電池切れ。ワンセグでずっとニュースを見ていたことを後悔。近くのコンビニに補助バッテリーを探しに行くも既に売り切れ。皆考えることは同じ。店の固定電話を借りて勝田台のホテル等に電話するも繋がらないので断念。その内私と同年齢の方が店に来られ、近くの小学校が避難場所になったと。同僚と相談し、ここで一夜を過ごすことを決断。アルコールと腹ごしらえをし、コンビニで少しの食料を買い込み避難場所に向かう。避難場所の小学校の体育館は既に50名程の老若男女がブルーシート上に。ブルーシートと毛布を係りの方から受け取る。ただしマットは既に全てを配布し終わってしまったと。さすがにブルーシート上で寝るのは体が冷えすぎること間違いなし。体育館の器具置き場の中を覗いてみると、跳び箱の横に落下時用の安全マットが3枚ほど積んであるものを発見。厚みは配布してあるものの3倍以上の厚さ。係りの方に話をすると使用の許可が。二人で2枚を運びそれぞれのBEDに。ブルーシートの上にマット、毛布を敷き、更に上掛け用の毛布を2枚追加で借りねぐらの準備完了。アルコールも入っていたのでバタンキュー状態。しかし深夜の地震で何度と目を覚まされたが、寒いことはなく朝を迎えた。朝の体育館の避難者の方々。朝の炊き出しようにインスタントラーメンが支給された。これを朝食として頂く。ふと気がつくと大きなスーツケースを持った方の多いことに気がつく。海外旅行し成田空港からの帰りの方が多いのであった。卒業旅行であろうか学生風の若い方が多かったのであった。そして中国語の声も数カ所から聞こえてきたのであった。この体育館は大和田南小学校。京成線が依然不通とのことで、徒歩で30分ほどの東葉高速鉄道東葉高速線の八千代中央駅に向かう。歩き出して5分ほどで道に自信が無く、道路沿いの自動車から降りてきた青年に道を聞く。丁寧に教えてくれた後、我々の事情を話すと、車に乗れと。そして駅まで送ってくれると。嬉しかったのであった。人の親切さが身に染みたのであった。青年は昨夜は古い家に住む奥様の母を自宅に呼び一夜を安全な場所で過ごさせ、義母の家に送ってきたとのこと。何処までも優しい青年であったのだ。八千代中央駅から西船橋駅へ。なんと550円と高価。しかしこんな不満はバチが当たりそうであったのだ。総武線は未だ運転しておらず、地下鉄東西線で大手町で下車。東京駅まで歩き東海道線で。途中大森手前で止まってしまった。ブレーキ作動が悪く、運転手が降り点検すると。1時間弱超満員の中停車。いろいろな車両から病人が出たとの女性車掌の放送。そして何とか川崎駅へ滑り込む。東京駅から1時間半。川崎駅で病人の救出と車両点検で10分ほど停車。そして2時間かかり藤沢駅に到着。その後小田急線で我が駅まで。依然として津波の可能性があるため江ノ島線は運休継続と。二度と経験したくない経験と人の親切に触れることが出来た一日であった。それにしても、家に帰りテレビでニュースを見ると巨大地震による大津波。行方不明者の無事生還を祈るのみ。そして我が同僚の東北支社支店長に電話すると、部下のEさんの実家は相馬であり津波で流出。Eさんの祖母と両親と連絡が取れていないとのこと。何とか無事であって欲しいと祈るのみである。
2011.03.12
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仕事で成田市役所まで行ってきました。小田急線の始発で出発。小田急、東海道線、京浜東北線を利用し日暮里へ。日暮里でスカイライナーを利用。途中600mを超えたスカイツリーが遠くに見えた。8:30前には成田駅に到着。駅構内には成田山の大きな提灯がぶら下がっていた。東口への地下道を利用し市役所へ向かう。市役所裏側。壁に木々の陰が映り込み美しい姿。入り口に立つ母子像同じく裸像。そして白梅と紅梅が咲き誇っていました。市役所での打合せ・書類検査の後現場へ。現場は成田空港のB滑走路進入灯の近く。5分おきに海外からの飛行機が着陸していく。DELTA航空機。そして大韓航空機。そして仕事が終了し、京成成田駅から会社へ向かったのであったが・・・・・。
2011.03.11
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日本年金機構さんから封書が届きました。 中には『国民年金・厚生年金保険 年金決定通知書・支給額変更通知書』が入っていました。『あなたの受けている年金の種類または年金額が、下記の「*」印の付された理由により変更されましたので通知します。* 今後あなたにお支払いする年金額は、右の太ワク内の金額になります。とそして 合計年金額は 0円 と。書類によると 平成23年2月に『お勤め先の事業主からの理由により。厚生年金保険または共済組合の加入者で無くなったため、年金の支払いの支給を開始しました』との表記。すなわち私は昭和25年生まれであり、昨年60歳を迎え12月末日に定年を迎えたことにより、【特別支給の老齢厚生年金】の【報酬比例部分】の支払いがスタートしたのである。そして厚生年金保険支払い月数は348+87=435ヶ月=36年4ヶ月【報酬比例部分】とは厚生年金の加入期間の報酬の平均と加入期間に応じて算出される年金の額。つまり、給料が高ければ高いほど、報酬比例部分の年金額は多くなるのだ。そして同様に、加入期間が長ければ長いほど、報酬比例部分の年金額は多くなるのだ。そして同じく平成23年2月に『お勤め先の事業主からの理由により。厚生年金保険または共済組合の加入されたため、年金の一部または全額を支給停止しました』との表記。すなわち定年後継続雇用を選択し、60歳以降も継続勤務し、厚生年金に加入しているので、会社からもらえる給与の額に応じて年金額が調整(支給停止)されるのだ。これは、一般的に「在職カット」と呼ばれる制度。 この様な仕組みは、高齢化社会の到来とともに、すぐに年金世代の仲間入りをするのではなく、一人でも多くの高齢者が現役で頑張って欲しいという意図なのであろう。また、わが日本国民の年齢構成から来る「給付と負担のバランス」を考えても避けては決して通れない措置であると言えるのであろう。
2011.03.10
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1昨年秋に購入した椎茸の菌入りほだ木から、初めて椎茸が顔を出しているのを発見しました。昨年は、全く収獲出来ないため、振動を与えたり農園の雨水を貯める風呂桶に漬けたりしましたが、残念ながら顔を出してくれませんでした。置き場の問題や昨年の猛暑、乾燥でダメになってしまったと思っていましたが、終に2本だけですが椎茸の姿を見ることが出来たのです。どなたのブログであったか、落雷が発生するとその周囲で椎茸が異常発生することが、生産者の間では経験的に知られていると。この異常発生の理由は十分に解明されていないが、原木に人工的に交流の高電圧パルスを与えた栽培実験では、2~3倍の収量が得られた事が報告されているとの記載があったので、椎茸の栽培には神秘的な所があるようです。更に多くの椎茸が顔を出してくれて、この生椎茸を炙り焼きにして、醤油をたらしてビールのつまみにすることを楽しみにしているのです。
2011.03.09
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我が家に2匹のネコが訪ねてきます。いろいろとご批判もあると思いますが、餌を与えています。そのうちの一匹。門の横の塀に登って招き猫状態。毎朝、私が起床し我が部屋の電気を付けると何処からかやってきて、餌をもらう為に待っています。他の1匹は警戒心が強く、餌を容器に入れてやっても、サッシを閉めるまで餌を食べ始めませんが、このネコは食べている状態で撫でても気にせず食事を続けるのです。食べ終わりリラックス状態。しばらくすると何処かに去っていきます。次の食事のもらえる場所に向かうのでしょうか。
2011.03.08
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佐賀県伊万里市にお住まいの大切なお客様そして35年来のお付き合いをさせていただいているNさんが昨年12月に引き続き、自ら収獲された天然岩牡蠣を送って下さいました。午前中に妻から我が携帯に感激のメール『ヤッター キター ・・・』がありました。もちろん残業無しで自宅に直行帰宅。前回送って頂いたものより、形も大きく立派。3ヶ月の間の岩牡蠣の成長を理解できたのでした。そしてハマグリも一緒に送って頂いたのです。妻が砂抜きをしてから仕事に向かっていたのです。我が地元のハマグリよりは小振りですが、粒ぞろいの大きさ。妻が仕事から帰宅し、夕飯。もちろん新鮮な岩牡蠣を楽しませて頂きました。肉厚でつるっとした舌触り、クリーミーな味わいがたまらないのです。至福の瞬間とはこのこと。そしてハマグリの酒蒸し。はまぐりの濃厚な旨味がぎゅぅ~~~~~~と!!Nさん、実は一昨日 妻との会話が・・・・・。伊万里まで聞こえたのでしょうか?(笑)All what you want comes from what you wish for.今回も寒い中、冷たい中での収獲、ありがとうございました。ブログにもアップしましたが、日曜日に潮干狩りに行きアサリの収獲。よって今週は海の幸を毎日味わえる1週間になること間違いナシです。嫁いだ娘夫婦と近くに一人暮らしする息子に妻が連絡したところ、早速明日にでも帰宅して海の幸を楽しみたいとの返事があったのです。
2011.03.07
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姉夫婦に誘われて潮干狩りに行ってきました。場所は東京湾に浮かぶ島、『野島』。かつては砂州によって陸続きの陸繋島であったが、水路などの建設で分断され、島となったのだ。横浜市内で唯一残った自然海岸の砂浜(野島海岸)が潮干狩りの目的地。横浜市金沢区 に浮かぶこの島はワカメ ノリ アサリなど一年中豊富な海産物に恵まれ バーベキュー キャンプや野島山の山菜採り 遺跡巡り、釣りなどたくさんの自然と触れあえる豊かな環境のなかにある島なのだ。今日の干潮時間が12時前とのことで自宅を8時に出発。渋滞もなく約1時間で野島公園駐車場に到着。既に多くの車が駐車場に止まっていた。皆、潮干狩りが目的のようだ。長靴に履き替え、カッパズボンを履きビニール手袋の上に軍手を履き準備を整え海岸に向かう。防寒着とネパールで購入したヤクの毛で作った帽子も風避けように着用。道具は長短の熊手と網そしてバケツ。未だ干潮には時間があるが既に多くの人が海の中に入りアサリを探していた。潮が引いていく中、じわじわと沖に向けて熊手で砂浜を引っ掻き奮闘。途中、暑くなり防寒着と帽子を脱ぎ捨てて更に砂浜と格闘。沖に船でこぎ着け潮干狩りをしている方も。こちらは胴長靴で本格的。対岸には八景島シーパラダイスのジェットコースターも。海に突き出したループと海の上を爽快に駆け抜けるコースターとのことであるが未体験。前方には海苔の養殖網の支柱も行儀良く並んでいた。この場所の近くには見慣れた造船所の大型ゴライアスクレーンも見えた。日曜日のため動く姿は見えなかったが。三菱重工業横浜製作所金沢工場内の風力発電のプロペラが回っていた。日本最大の風力発電装置 2,400kW?12時を過ぎ潮が満ちてきたので終了。約3時間のバトルであったがバケツ2/3程度の豊漁。まだ時期が早いせいかかなり小型のアサリであったが、中にはシオフキガイやカガミガイもGET。収穫したアサリを海水で洗い、最後に義兄が砂出し用の海水をポリタンに。駐車場の近くにある旧伊藤博文公金沢別邸。明治期別邸建築の様相を極めてよく伝えているようだ。自宅に戻り、海水に浸して現在砂抜き中である。小粒なのでアサリのバター焼きは無理かもしれないが味噌汁の出汁には十分過ぎる収穫量なのであった。折しもこの日は24節季の『啓蟄』。大地が暖まり冬眠をしていた虫が穴から出てくる頃。虫ではないが、アサリ達も海水が温まり海底の砂地から顔を出そうとしているのであろうか?立春 ⇒ 雨水 ⇒ 啓蟄 ⇒ 春分と春は着実に近づいているのであるが今日も昼過ぎから雪の可能性があるとの天気予報。我が大学入学試験の時も雪の日が続いた事を思い出しているのである。
2011.03.06
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今年も通販で変わり者のジャガイモの種芋を各1kg購入し、養蜂場のある趣味の農園への植え付けを行いました。まずは『ノーザンルビー』。皮も中身も見事なピンク色のじゃがいも「ノーザンルビー」。アントシアニンを含むことと、調理後も色が落ちないのが特徴。既に赤い芽が顔尾を出していました。去年収獲した時の切断面。見事な赤色は美味しさ・見た目のカラフルさ・栄養価の高さの証なのです。そしてもう1種類。『シャドークイン』こちらは皮も中身も鮮やかな紫色のじゃがいも「シャドークイーン」。今までの紫じゃがいもよりも3倍のアントシアニンを含むことと、調理後も鮮やかな色が落ちないところが特徴。こちらも既に濃い紫の可愛い芽が顔を出していました。昨年も見事な紫色の姿を見せてくれました。いもの形は長楕円。目の深さは浅く、皮色は紫で、肉色も鮮やかな紫。このシャドークイン、なんと言ってもその色にビックリなのです。ポリフェノールアントシアニン、この成分が色をだしているとのことです。さらにこのポリフェノールアントシアニンは、ブルーベリーが有名で抗酸化作用があり、目にやさしいと。堆肥と化成肥料、鶏糞を混合して種芋の間に施肥。たくさん作っても食べきれないので、切断せずにまるごと植え付けました。芽が出た後霜に合うと新芽が黒変し、遅霜の被害を受けてしまいます。今年も元気に育ち、そのカラフル花と、6月には、いろいろなジャガイモの色と味を楽しみたいと思っている趣味の農園主です。
2011.03.05
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週末に1泊で関西支社まで出張しました。品川からのぞみを利用。途中名古屋を出た当たりから徐行が始まりました。関ヶ原付近のこの日の降雪が原因とのこと。途中長良川を渡る。長良川の奥には三重県と滋賀県の境にある標高1,000級の山々が頂を白く染めていた。鈴鹿国定公園の山々のようである。進行方向右側の窓から伊吹山の白き姿が見えた。こちらは滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰。標高1,377mの山。滋賀県最高峰の山であり、日本百名山の一つ。米原付近の田園は雪は止んでいたが白く染まっていた。新大阪から地下鉄御堂筋線で淀屋橋へ。地下鉄を降り地上に出ると御堂筋の淀屋橋。下を流れる川は土佐堀川。川の向こうには日本銀行大阪支店。土佐堀川にそって中之島緑道を歩き支社に向かう。淀屋橋北詰から肥後橋北詰まで土佐堀川沿いに作られた、「中之島ばら回廊」の別名を持つ約400mの緑豊かな遊歩道。通りに点在する10点の個性的な彫刻作品を見ながら深呼吸すれば、ここが大阪のど真ん中ということを忘れてしまいそうなのであった。植栽されているバラも僅かに新芽を出していた。土佐堀川の近くのホテルに一泊。そして新大阪発6時の始発で会社に戻る。この日も途中京都駅近くから米原までは窓の外は雪景色。3月になってもなかなか春の到来が足踏みしているのだ。
2011.03.04
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今日 3月3日は大安、そしてひな祭りと『耳の日』である。「耳の日」が制定されたのは、昭和29年(1954年)3月3日とのこと。 http://www.jibika.or.jp/miminohi/mimi.htmlよりウィキペディアによると、3の字が耳の形に似ていることと、「み(3)み(3)」の語呂合わせから。一般の人々が耳に関心を持ち、耳の病気のことだけではなく、健康な耳を持っていることへの感謝、耳を大切にするために良い音楽を聴かせて耳を楽しませてあげるために、あるいは、耳の不自由な人々に対する社会的な関心を盛り上げるために制定された。また、3月3日は三重苦のヘレン・ケラーにアン・サリヴァンが指導を始めた日であり、電話の発明者グラハム・ベルの誕生日でもある。と。 孔子の言葉に『六十而耳順』がある。六十にして耳従うとよむ。六十歳になるとさまざまな言を聞いても反発を感じないだけの心の余裕が生まれるということ。『論語・為政』の仲で孔子がその生涯を振り返って言った言葉のようだ。私も60才を迎えたが、まだまだ心の余裕がない日々なのである。
2011.03.03
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我が部屋のアマリリスが日に日に大きくなってきています。1月中にホームセンターで購入した水耕栽培セット。既に背の高さは50cm程。プラスチックの鉢にはオランダの風車が描かれています。オランダからの輸入品のようです。しかし原産は南アメリカとのこと。ユリに似た六弁の大きい花を2-4個つけるのです。花の色は白・赤・などありますが購入したのは大輪の赤。既に根本から葉が顔を出してきています。そして蕾も日に日に膨らみが大きくなり、赤みが出てきました。あと1週間程度で開花するのでしょうか?花が終わったあとに地面に植え替えを行うと翌年も花をつけてくれるのです。
2011.03.02
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我が家の2月の太陽光発電(京セラ、5.76kw)の 実績報告です。 発電量 439kw消費量 1139kw自給率 43% と言う稼働実績となりました。2月発電実績としては過去3年間で最高の値となりました。 発電開始以来の月別発電量実績です。緑が昨年来の実績です。10月を除き、6月以降、2008年、2009年、2010年実績を上回っています。2月26日の発電量は31KWHと30KWH越となりました。そして昨年2010年の通算発電量は7081KWHと好成績の1年でした。
2011.03.01
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