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愛知県・豊川市内の我が社の事業所に仕事で出張しました。新幹線豊橋駅で下車。JR飯田線に乗り換えるため通路を歩いていると仮店舗がありここで懐かしい駄菓子の数々を販売していたのです。電車の待ち時間があったため、懐かしく眺めながら販売のオジサンの許可をもらいデジカメ撮影をさせてもらいました。子供の頃、母や祖母から10円をもらい近くの店屋に良く駄菓子を買いに行ったものでした。まずはこんぺい糖ご存知、表面に凹凸状の突起(角状)をもつ小球形の菓子銅鍋を熱し、こんぺい糖の核となるザラメをいれ、これに少量ずつ熱い蜜をかけ、回転させながら、目的の大きさ、凹凸状の突起が出来上がるまで根気のいる作業で出来上がった匠の技の菓子なのである。ゼリービーンズ細めのソラマメ型をした砂糖菓子の一種。愛らしい形ときれいな色が特徴。様々な色と風味があるのだ。果物やハッカ味の他にも、様々な風味の物があったことを想い出したのであった。変わり玉。変わり玉は上記こんぺい糖と同様に,転動造粒法で作られ,嘗めていると違った色が楽しめる昔ながらの駄菓子。異なる色の蜜を何層にもかけながら,大きくしていくのです。子供の頃、口の中で転がし、途中何色になっているか指先を口の中に入れ取り出し見ていると、汚い!と母に叱られたのです。直径15mm程度の大きさ。色は赤,オレンジ,黄色,緑,白・・・・と。サクマ式ドロップスイチゴ、レモン、オレンジ、パイン、リンゴ、ハッカ、ブドウ、チョコ、懐かしく昔のままの容器が積み重ねられていました。文字も右から。酢コンブ一般的によく食べる酢昆布のイメージは都コンブの白い粉つきですが、こちらは如何に。海外旅行客や海外遠征のスポーツ選手などが、日本の味が恋しくなった時に食べる為に持っていく事が多いといわれているのです。浅草ラムネ錠剤の形をした、固体の菓子。昔と同じく色とりどりのフィルムに包まれています。飲み物のラムネの瓶を模した容器に収まっているものも昔はありました。中央に空いた穴から息を出し入れすることで音が出る「笛ラムネ」という製品も。長く楽しめるよう、通常のラムネよりも溶けにくく作られていたのでは。かりんとう棒状に成形してつくった生地を植物油で揚げ、黒砂糖や白砂糖でつくった蜜でからめて乾燥させた駄菓子。粉末ジュース水に溶かすとビールそっくり!?あんこ玉丸めたあんこの玉にきな粉がまぶしてあるシンプルな駄菓子。数ある駄菓子の中でも1,2を争う程好きだった記憶が。買ったらいきなり食べないで、まずは半分に割った記憶が。味見用にとわざわざ箱をあけてくれ、二つご馳走してくれました。懐かしい味だったのです。ふ菓子軽くふぁっとサクッと焼き上がりコーティングした黒糖みつが旨かった事を想い出したのです。束の間の時間でしたが、いろいろな駄菓子が並べられ、昭和の匂いを感じることができた時間でした。
2011.09.30
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我が養蜂場のある農園の赤蕎麦の花が咲き始めました。このピンク色の蕎麦の花は、ネパールで自生しているのを品種改良した「高嶺(たかね)ルビー」という品種。インターネットの通販で購入し8月27日に種蒔きしたもの。台風15号でかなりやられてしまいましたが、何とか残ったものが開花を始めました。種蒔き後1ヶ月で開花。成長の早さにビックリしています。この赤蕎麦は蕎麦打ちをしたいために撒いたものではないのです。観賞用、そして蕎麦の花からとれたそば蜂蜜は、他の蜂蜜と比べると非常に色が濃く、濃い褐色をしているのが特徴。そば蜂蜜には蕎麦に多く含まれることで知られるルチンが含まれている大変貴重な蜂蜜なのです。これから更に花の数を増やしてくれるはずです。そして花や蜜の少ないこの時期に我がミツバチが訪花し越冬用にたくさんの蜜を集めて欲しいのです。
2011.09.29
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先日、月曜日の朝起床し我が部屋の雨戸を開けてみると見事な朝焼け。早速デジカメを持って家の門を出て眺めの良い場所まで歩いていった。次第に明るくなり朝焼けの色が濃くなってきた。よく言われるのが、「夕焼けは晴れの前兆、朝焼けは雨の前兆」と。移動性高気圧が西から順に東へ移動するのが春とこの秋。朝焼けは東の方角が晴れていることを意味するので、その高気圧は東に去ってしまって代わりに次は低気圧が来て天気が崩れるという事なのであろうか?遠く旧ドリームランドの、そして今は横浜薬科大学(ハマヤク)のシンボルである、丘の上にそびえ立つ図書館棟が黒く浮かび上がっていた。旧ドリームランド時代は最上階の21階は回転展望ラウンジになっており、富士山・江ノ島・ランドマークタワーなどの景色を一望することができたが、今でも回転しているのであろうか?そして、やはり午後には雨となり「朝焼けは雨の前兆」となったのであった。
2011.09.28
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク鵠沼皇大神宮人形山車のパレードを楽しんだ後は、引き続き北口大パレード2011を楽しんだ。まずは藤沢鳶職連合会の木遣り唄付きのハシゴ乗りの披露。本来は、仕事するための準備運動として鳶職がハシゴに乗ったとのこと。鳶職は高所の作業をするため身軽でなければ務まらず、また、度胸がなければ出来ないので、ハシゴ乗りで身のこなし方と度胸をつけ、一人前の鳶職として活躍できるよう訓練したと。3人の見事な技が成功。鳶口で支える仲間も真剣。続いて『江の島ばやし保存会』。指定無形民俗文化財とのこと。藤沢市消防音楽隊。隊員は、消防本部や消防署・出張所で働く消防職員。藤沢暴力追放推進協議会。派手なハーレー軍団。大韓民国保寧市。2002年に姉妹都市提携。大韓民国西海岸の中核拠点都市で、世界で唯一の貝殻で出来た白浜と、青い海と水平線に点在する大小さまざまな島々が一望できる大川(テチョン)海水浴場は西海岸第一の海水浴場とのこと。米海軍第七艦隊パレードバンド。アメリカ合衆国第七艦隊は50隻以上の艦船、400機の航空機と、海兵軍・海兵隊員合わせて6万人の規模を誇り、太平洋とインド洋の5千2百万平方マイルを責任範囲とする最大の艦隊とのこと。やはりプロの見事な演奏。海の女王・王子。湘南海の女王・海の王子コンテストは、毎年7月の海の日前後の週末に藤沢市で行われるコンテスト。ここで選ばれたのである。神奈川県立湘南台高校吹奏楽部。H22年全国マーチングバンド全国大会金賞受賞。湘南ドルフィンズマーチングバンド。小学生だけのマーチングバンド。鎌倉女子大学中・高等部マーチングバンド部。マーチングバンド・バトントワーリング全国大会 金賞の常連校。大道小学校トランペット鼓隊茅ヶ崎湘南マリンバトン。バトントワリングに美しさとかっこよさが見事。鵠沼高等学校マーチングバンド部。2004年に鵠沼女子高等学校から鵠沼高等学校と校名を変更し男女共学に変わった学校。マーチングバンドの中にも数人の男性生徒が。鵠沼バトンガールズ一連のパレード終了後、駅前の高架広場に戻る。あいかわらず多くの人でごった返していた。東北いわきからの出店のウニ蒸しを購入。貝殻にこんもりとウニが山積み。ほっき貝という貝をお皿にみたて獲れたてのうにを贅沢にも4コから5コ分も乗っていました。本音は家に持ち帰り「うに焼き」を楽しみたかったのですが・・・・・。南口に廻り御輿を上から見学。ロータリー周辺はここも人、人、人、・・・・・。珍しい四角の御輿も見ることが出来た。藤沢市民まつりの各種パレードを楽しんだ後、日曜日にも拘わらず追浜にある我が社の研究所へ打合せに向かったのであった。
2011.09.27
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク9/24、25の両日、我が市の市民祭りが行われました。25日は午前中に鵠沼皇大神宮人形山車のパレードが行われるとのことで妻と長男と共に見物に行ってきました。この皇大神宮は東海道線の北側の鵠沼地区にある歴史深い神社。神宮境内には樹齢600年の巨木など樹木が多く、かって烏が多く棲んでいたことから「烏森神社」ともいわれているのである。この烏森神社が我が母校(高校)の裏にあるため、高校時代のクラブ活動のランニングの為に幾度となくこの神社の鳥居を往復したことを懐かしく想い出したのであった。幼き頃、亡き父の妹がこの神社の近くに嫁いでいたため、例祭の折、祖母に連れて行かれこの山車のパレードを見た記憶があるが、この神社の例祭は毎年休日に関係なく8月17日に開催されるため、なかなか休日と重ならないためこの山車のパレードを見学できる機会が長年なかったのである。駅に着いてみると多くの市民が既に駅前高架広場に集まっていた。北口駅裏の通りに行って見ると既に9台の山車が一列に整列中。この人形山車は、明治中頃に皇大神宮の9氏子町内会がそれぞれ製作したものとのことで、参進行列の順番は決まっており、宮之前町の那須与一、上村町の源頼朝、清水町の神武天皇、宿庭町の源義経、苅田町の徳川家康、大東町の楠正成、仲東町の浦島太郎、原町の日本武尊、最後に堀川町の仁徳天皇という順で山車が並でいた。三層式・総高約8メートル、最上部にそれぞれの人形が飾られ、下層はまわり舞台で、時々激しく回転させることができる独特の造り。屋台の中では若い男女がその町内特有の囃子の演奏・競演を行っていたのであった。先頭には人形山車の旗を持つ長老の姿が。まずは宮之前の一番山車の『那須与一』屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げた有名な源氏方の武士。若々しい勇壮な顔立ち。久しぶり(50年近く?)の面会。次は上村の『源頼朝』。もちろん鎌倉幕府を開いた人物。鎧を付け烏帽子を被り、左手をかざしていました。清水町の『神武天皇』日本神話に登場する人物で日本の初代天皇。神武天皇の実在性には疑問の声も聞こえてきますが・・・・。宿庭町の『源義経』平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸と呼ばれた人物。 苅田町の『徳川家康』。1603年,征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた人物。現在、NHK総合大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で北大路欣也が演じている人物。大東町の『楠正成』鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した人物。仲東町の『浦島太郎』虐められている亀を助けるが、亀に「礼がしたい」と言われ、竜宮城へ。乙姫に迎えられ、踊りや食事の歓待を受ける。三日たって、さすがに帰りたくなる。みやげに玉手箱を渡され、「絶対開けるな」と言われる。故郷に帰ると、見たことのない風景。それもそのはず、出発してから三百年たっていた。悲嘆に暮れ、玉手箱を開けると煙を浴びて老人に、という子供の時に教わった話。右手で吊り竿を担ぎ、左手に玉手箱。原町の『日本武尊(ヤマトタケルノミコト)』日本武尊は、日本神話の中でももっとも武力に優れた英雄のひとり。 最後に堀川町の『仁徳天皇』日本の第16代天皇。人家の竈から炊煙が立ち上っていないことに気づいて税金を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えさせなかった、と言う記紀の逸話のある人物。そして数年後?の御歌。「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」 9台の人形山車が勢揃いする神奈川県最大の山車祭として知られているのである。1982(昭和57)年、「かながわのまつり50選」に指定されたとのこと。 この山車に登場する人物の鵠沼皇大神宮との関係は如何に。頼朝・義経・那須与一は源氏の勇で鎌倉が近いので理解できた。そして楠木正成は鎌倉幕府の終焉に関与したから?日本武尊は腰越にある小動(こゆるぎ)神社に祀られているから?浦島太郎は江の島の弁財天との関係?後は仁徳天皇、神武天皇と徳川家康は? 巡行を開始すると、背の高い山車は動くと上部がゆらゆらと揺れるため、歴史上の人物達が列を成して歩いているようで面白かったのであった。
2011.09.26
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台風15号の襲来は久しぶりに台風の怖さを実感しました。我が家の横の畑に植え付けたばかりの苗は殆ど台風による潮風にやられてしまいました。台風が我が家の西(富士山近く)を通過したため、強い南風が我が家を襲いました。南風は相模湾の潮風となってしまったのです。先週末早朝に水道水のシャワー水を葉にかけ、葉に着いている塩分を洗い流しましたが残っていた苗に植え替えなければならないものも多くあったのです。そして養蜂場の畑は幸い定植前でしたので先週末に植え付けを行いました。事前に穴付きマルチで被った畝を4畝準備しておきました。白菜の植え付けです。今年の苗も殆ど種蒔きして育てたもの。かたく結球した無病の白菜を作るのに一番大切なことは、適期に種まきし、健全な苗を作り、有機質を十分与えた肥よくな畑に植えつけ、害虫防除を怠らないことなのです。葉がやや虫に食われていますが、元気な苗です。そしてブロッコリー。この花は春先の貴重な蜜源にもなります。カリフラワー。こちらも苗は元気。真っ白なカリフラワーをつけて欲しいものです。その他に、不思議な形のロマネスクとキャベツ、芽キャベツ、山葵菜(購入品)の植え付けも行いました。そして大根、水菜、春菊、玉葱の種蒔きも併せて行いました。通販で購入した巨大にんにく「エレファントガーリック」も植え付けました。1球の大きさはソフトボール大。鱗片の数は4~5個。このニンニクは12月頭から年内に花芽(いわゆる「ニンニクの芽」)が出ます。花芽の摘み取りも必要なことですが、摘んだ芽は野菜や肉と一緒に炒めると、とても旨いのです。来年春先のミツバチ用にレンゲ、クリムソンクローバ、菜の花の種蒔きも行いました。マルチの無い場所が花の種を播いた場所。植え付けたそして種蒔きした苗が元気に生長し、冬の食卓で楽しめ、春先には蜜源の花が開花し我が蜜蜂が訪花する姿を楽しめることを期待している趣味の農園夫なのです。この3連休は農作業、ミツバチの内検と忙しい朝が続いたのです。
2011.09.25
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昨日は「秋分の日」。そして秋のお彼岸の中日。 秋の彼岸 は 毎年9月の秋分の日をはさんで前後3日合計7日間を言うのです。初日を「彼岸の入り」終日を「彼岸のあけ」といい秋分の日を「中日」と言うのです。 午後から妻と我が実家の墓参りに、花と線香、ヤカンに水をいれたものを持って向かいました。とは言っても、墓地は我が家から徒歩2分程度。実家の裏の畑の中にあるのです。 我が実家の墓地、先祖代々の祖先が葬られているのです。○○家累代を祀る墓碑。石碑は全部で30個ほどでしょうか。入り口右にある石の老婆像。このお墓を見守ってくれているのです。明治以降亡くなった先祖の墓碑。戒名・没年月日・俗名が刻んであります。そしてこの墓碑の裏には、亡き父が市内にある檀家寺に通い過去帳を基に、我が○○家のルーツを調べ上げた成果が刻まれているのです。父の努力により江戸時代初期の寛永年間の先祖までたどり着けたのでした。これが我が○○家の初代と考えられているのです。寛永20年(1643)と刻まれています。この年は、徳川家光の乳母 春日局が亡くなった年なのです。先祖を敬う心、感謝する心、自分は先祖様に生かされているのだと言うことを忘れてはならないと思っています。「今日も一日生かしてくれてありがとうございます」と感謝しながらそろそろ床に就こうと想っているのです。
2011.09.24
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今朝台風後初めて養蜂場に行ってみると、四群の巣箱の内、一番高い三段積みの巣箱が台風の強風にて45度に倒されていました。そしてそこに多くの黄色スズメバチが来襲していたのでした。早速面布、網防具、ゴム手袋を装着して、虫取り網で捕獲開始。そのうちキイロスズメバチ一匹をほぼ生きたまま捕まえ、ネズミ取り用の粘着シートに貼り付けました。逃げようとのたうち廻っていましたが、益々粘着シートの餌食に。しばらくすると他のキイロスズメバチがその横に停まり、これも粘着シートの餌食に。粘着シートに捕獲されたキイロスズメバチは「助けてホルモン」を発散させ仲間の救助を求めるようです。1時間ほどした粘着シート。優に30匹は捕まったでしょうか。その中にオオスズメバチも1匹。そして別の場所に置いた粘着シート。こちらも網で捕獲したものと、お助けホルモンに誘引されて捕まったものが大量に。こちらにもオオスズメバチが1匹。のたうち廻ったのでしょうか?仰向け状態。いよいよオオスズメバチも来襲を始めました。それぞれの巣箱に15mm目幅の網を被せていますが、キイロスズメバチ、オオスズメバチはその手前でホバーリングし我がミツバチを捕獲して飛んでいくのです。
2011.09.23
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我が家の横の農園の青パパイヤが2メートル程に成長し、幾つかの実を付けています。 春先にホームセンターで2本の苗を購入し植え付けたものです。たくさんのクリーム色の花も付けています。花の付け根には小さな実も付けています。このパパイヤは沖縄等で売られている甘いパパイヤにはなりそうにありません。やはり生育温度の問題なのでしょうか。それとも初めから種類が異なるのでしょうか。他の方のブログによると大きく成長した青パパイヤの実は生ではとても食べられないほどの苦さがあるとのこと。炒めてもやはり苦さは残るようです。寒さに遭うと苦みが増すのではと書かれているブログもありました。沖縄では、黄色い完熟のフルーツパパイヤだけでなく、未熟の青パパイヤを「野菜」として日常的に食べていることのこと。豚肉やニンジンと炒め煮するパパイヤイリチャーの他、汁物、サラダ、漬物などいろいろな家庭料理に使われているとのことですので若い実を採ってどれかにTRYしてみたいと考えているのです。
2011.09.22
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青森空港への帰路、同僚の運転する車で道の駅に立ち寄りました。目的は土産に『嶽きみ』を購入し自宅に送ろうと考えたからです。青森県弘前市の岩木山麓・嶽高原で栽培されているとうもろこしを「嶽きみ」(だけきみ・嶽キミ・嶽のきみ)というとのこと。「きみ」 とは「きび」が訛ったもので津軽弁でとうもろこしのことを指すのです。「嶽きみ」は他のとうもろこしに比べ糖度が高く、生でも食べられる甘さを持った最高のとうもろこしブランドであるとの同僚の話なのです。10本ほど購入し、これをリンゴの二段箱に入れてもらいクール宅急便で送りました。下段には3種類の採り立てリンゴが行儀良く鎮座していました。サンつがる、黄王、さん富士?。嶽きみに早速TRYしました。私は茹で派。非常に甘くジューシー。「嶽きみ」は商標ですが、このとうもろこしの種類は何なのでしょうか?味来? ゴールドラッシュ? ゆめのコーン?妻は焼き派。子供の頃の海岸育ちの影響なのでしょうか?時間につれて香ばしい香りが台所中に漂ってきました。我が農園のトウモロコシは既に終わっていますが、今年は網を掛ける時期が一週間遅れてしまったため、野鳥にやられてしまったのでした。茹でとうもろこしは、我が家のものは見全体が外れ口に入るのですが、これと異なり、実の袋が残るほど袋が柔らかいのです。思いがけず、夏の終わりの時期に実に美味しいトウモロコシを楽しむことができたのでした。
2011.09.21
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青森・五所川原から青森空港に向かう途中、トイレタイムに立ち寄った公園の横の池の畔に久しぶりに見る植物がたくさん。蒲(ガマ)の穂。「因幡の白兎」 の伝説で有名な植物で、古事記には 「ワニ(サメ?)をだました白兎が皮をむかれて難儀しているのを通りかかった大国主命が哀れに思い、河口に行って真水で洗い、蒲の穂の花粉の上に寝転べば元の肌に戻ると教えた」 とある植物。子供の頃、『大黒様』と言う歌があったことを思いだし、調べてみると下記の如き歌詞。1.大きな袋を肩にかけ 大黒様が来かかると ここに因幡の白兎 皮をむかれて赤はだか2.大黒様はあわれがり きれいな水に身を洗い 蒲の穂綿にくるまれと よくよく教えてやりました3.大黒様の言うとおり きれいな水に身を洗い 蒲の穂綿にくるまれば 兎は元の白兎4.大黒様はだれだろう 大国主のみこととて 国をひらきて世の人を たすけなされた神様よこの後、白兎が、助けてもらったお礼に・・・・???。忘れました。太めのフランクフルトソーセージ、それともトッピングなしのチョコバナナ。『ガマ』で検索してみると色々なことが解ったのだ。1)「蒲団(ふとん)」の「蒲」の字は、 昔、ガマの綿毛を寝具に入れたことから。 2) 「蒲鉾(かまぼこ)」は、最初のころは 竹輪のような形をしており、ガマの花穂に 似ていたことから。 3) 「蒲焼(かばやき)」は、うなぎを筒状に 切って焼いていた形がガマの花穂に似ていたことから。ガマの穂は、蒸して食用にできるそうなのですが、どの様な味?秋が深まると綿をほぐしたようにほころびて,風に吹かれて綿毛のついた種が飛び出すのです。「ガマの穂にくるまりなさい」と大黒様に教えられたのは,この綿のようになったころのガマの穂なのであろう。 既にその準備が進んでいたのだ。子供の頃、近くの境川の近くで群生していた蒲の穂を見た記憶があるが、久しぶりにこのユニークな蒲の穂を見て帰宅し、いろいろと学んだのであった。
2011.09.20
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昨日朝、携帯ラジオを聞きながら農作業をしていると、正しく『私に関する歌』 が聞こえて来たのだ。森山良子が歌う『Ale Ale Ale』 作詞:村上ゆき 作曲:村上ゆきああ あの時のあの Ano Ano Anoあの人の名前がでてこないほらあの時会った あの人なのもうわかってるのに思い出せないほらあのとき食べた Ale Ale Aleあの店の名前も出てこないあなたと行った いえあなたじゃなかったじゃあ だれ それは だあれああ 私の好きな Ano Ano Anoあのハリウッドスターの名前が出てこないジョニー トニー ダニー ハリーリリリリ リチャードこんなに夢中に 恋焦がれているのにああ 今日も 忘れた あれを忘れたとりに戻れば ドアのカギがないあれ 確かここに いえ、違うこっちだわ探す間に 忘れたものを 忘れたわあれよあれよと言う間にあっという間に時は流れあれよ あれよ あれよ あれよどれよ どれよ どれよ どれよあのね えーと ほらあの そうそうそう それなのよああ 学び舎の友 懐かしい友還暦 時を超えて また出会うどお? 元気? 互いに変わり果て誰が先生か生徒かわからないああ 初恋の彼 青春の憧れあの日のままの 笑顔が浮かぶあれはあなただった いえ あなたじゃなかったじゃあ だれ あなたはだあれ?あれよあれよと言う間に あっという間に時は流れあれよ あれよ あれよ あれよどれよ どれよ どれよ どれよあのね えーと ほらあの そうそうっ それなのよないないないない わからない ついてゆけないリモコン パソコン 合コンアイコン マザコン レンコン ダイコン・・・ でも大丈夫よ 何も恐れはしないくじけない あきらめない 負けられない春が来た ガタが来た どこに来た足に来た 腰に来た 目にも来た でも変わらないわ あの頃と同じよ 恋心 真心 乙女心あれよあれよあれよと言う間に あっという間に時は流れあれよ あれよ あれよ あれよ どれよ どれよ どれよどれよ あのね えーと ほらあの そうそう あ それなのよあれよ あれよ あれよ あれよ どれよ どれよめがね どこよ あのね あのほら えーと えーと えー 今日 何曜日?あれよ あれよ あれよ あれよどれよ どれよ どれよ どれよそれよ それよ ほら あ あのねほら それなのよAle!この歌を記入しながら、今、昔学んだ『エビングハウスの忘却曲線』を想い出しています。ドイツ人の心理学者ヘルマン・エビングハウスが「人間の記憶は指数関数的に減少する」ということを曲線で表したものです。 【http://hibicoreblog.blogspot.com/2011/06/blog-post_13.html】より言い訳ではありませんが、人は、どんなに悲しいことや辛いことを体験しても、その記憶は時間とともに薄れていくのです。それでなければ、人間は正常に生きていくことが出来ないのです。いつまでも忘れることが出来ずに全て記憶していれば、頭がパンクするか狂ってしまうのです。なので「忘れる」ということは必要なことなのですが・・・・・・・・・。しかしながら、忘れてはいけないことまで忘れてしまう私。これが私の現実なのです。エビングハウスの実験によると、記憶は20分後におよそ42%を忘れ、1時間後でおよそ56%、1日後では約74%を忘れ、その後少しゆるやかになり7日後には、77%を忘れてしまうとのこと。つまり、「絶対に忘れないぞ」と心に誓っても、その後何もしなければたった7日後には23%しかこころに残っていないということになるのですが。しかし今の私のそれぞれの数字は、幾つなのでしょうか。曲線が更に急に降下していることを実感せざるを得ないのです。昨日もホームセンターまで買い物。家を出る時は確実に解っていたのですが、いやこれを買いに言ったと言っても過言ではないのですが・・・・。今日後ほど買いに行くハメに。今日 買いに行くことを忘れないことを願っているアラカン過ぎのオジサンなのです。そして『認知症』に関するブログが目に飛び込んできたのです・・・・・・。 【http://dementia.seesaa.net/article/9908421.html】より
2011.09.19
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東京電力さんから我が家の9月の太陽光発電(京セラ、5.76kw)の 『電気ご使用量のお知らせ』が届きました。期間:8月17日~9月15日(30日間)電気使用量 昼 : 16KWH 朝晩 :127KWH 夜 :223KWH--------- 合計 :366KWH 金額 :6,424円先月8月は329KWH、5611円でしたが、お盆休みに私が自宅にいたこともあり+37KWH⇒+813円強の増額となりました。そして『余剰購入電力量のお知らせ』です。購入電力量 :469KWH購入予定金額 :22,512円の結果となりました。8月中~9月中は暑い晴天が続き順調に発電量を増やしています。売電金額も今月も2万円越えを達成しました。 太陽光発電開始以来の余剰電力の売電金額実績です。
2011.09.18
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五所川原への出張時に昼食に千畳敷のある深浦海岸まで車を走らせました。 海岸すぐ横の『食堂・民宿 田中』に入りました。店の前にはイカが天日干しされていました。何を注文しようかと迷っていると、以前この店に来た同僚が「生うに丼」を勧めてくれました。同僚と「生うに丼」を注文。中央にこんもりと盛り付けられている生うに。ぷっくらとしたメタボなウニが結構な量で乗っかっていました。磯の香りが超濃厚、超激ウマ。そして店の母さんが、磯の香りが食欲をそそる『じゃっぱ汁』を持ってきてくれました。「じゃっぱ」とは、共通語で言う「雑把」の意味であり、通常は魚を三枚におろしてのこった頭や内臓、身の付いた骨を総称して指し示す津軽弁であるとは同僚の話。共通語では内臓以外の部分も含めた広義の「粗(あら)」に対応すると。海草は松藻 (まつも) 。青森でよく食べる海藻の一種で、冬が旬の時期とのこと。肝っ玉母さんのような店主の田中さんは、約45年間もの間、この地で民宿を経営されているとのこと。たくさんの有名人も訪れるという、知る人ぞ知る店なのであった食堂の壁にはこの店を訪れた多くの芸能人との写真が貼られていた。 土産物として売られている暖簾?「長寿の心得」。日本海の潮騒を聞きながら情味あふれる店、食堂・民宿田中で美味しい昼食を楽しんだ「只今留守」の還暦過ぎのオジサンなのであった。
2011.09.17
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五所川原に出張のおり、我が事業所のお客様の所長が自然農法の稲作を実践されていると聞きその水田の見学に昼食時に向かいました。この日は、遠く岩木山が雲に隠れていました。自然農法とは、不耕起(耕さない)、不除草(除草しない)、不施肥(肥料を与えない)、無農薬(農薬を使用しない)などを特徴とする農法なのです。「奇跡のリンゴ」を作った木村秋則さんから直接指導を受けて、無農薬・無化学肥料で自然栽培の【奇跡のお米】を栽培中とのこと。この水田の畦道を歩くと、多くのイナゴが飛び出してきました。子供の頃、我が実家も水田で稲を栽培していましたが、久しぶりのイナゴの大群に出会ったのでした。これだけのイナゴがいれば多くの稲穂を食べてしまうのではないかと心配したのでした。稲の葉の上で体を休めている?イナゴ。そして水田の畦道沿いには紫の小さな花が所々に咲いていました。実はこの花の見学もこの水田を訪ねた理由の一つなのです。この花は「コナギ」。ミズアオイ科に分類される一年性。このミズアオイ科の植物は、環境庁の植物版レッドデータブックで絶滅危惧2類に位置づけられ、100年後の絶滅確率は、ほぼ100%と見られている1年生の水草なのです。これも無農薬栽培であるからこそ、見られる貴重な植物とのこと。葉は緑色で表面はつやがあってやや色が濃い。その上に咲いた青紫の小さな花。周囲の小川には、多くのメダカやドジョウが元気よく泳いでいる姿を確認できたのでした。この自然農法は、自然本来である自然なる命の営みに添い、応じ、従い、任せて、この命の営みには決して手を出さないのです。つまり命の営みを損ねるようなことは全くしない農法なのです。"自然"という言葉は、"自ずから然らしむる"(おのずからしからしむる)ということを示しているのです。我が趣味の農園も自然農法で・・・。廻りは農家の方の大切な畑。やはり不除草では無理がありそうなのです。
2011.09.16
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先日青森・五所川原に出張しました。羽田空港から青諸空港へ。そして路線バスにて五所川原駅へ。五所川原常駐の同僚から車で青森空港に迎えに来てくれるとのことでしたが、これを断りバスにて向かう事にしたのです。空港ロビー前の発着所には既にバスが停まっていました。乗客定員25人程の小型バス。バスの発車時間は、飛行機の到着時間に合わせていることが時刻表から解るのでした。乗車入り口横の行き先表示板。かなり年季が入ってサビの発生が。定刻から15分遅れで出発したが、乗客は私一人の貸し切り状態。飛行機は満席でしたが、何処に消えたのでしょうか?最後部座席に座り記念の?写真を。途中いくつかの停留所がありましたが、乗客はゼロ。雨の後の夕焼けの中に五所川原の白い克雪ドームが見えてきました。夕日が屋根や側壁に当たり光始めていました。50分ほどで目的地のホテル前で下車。運転手になんだか申し訳ない気持ちで「お疲れ様」と声をかけ下車したのでした。
2011.09.15
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我がブログへのアクセス回数が200,000回に到達しました。慌てて撮ったためにややピンボケ。2008/4/10開設以来1251日目での到達。平均アクセス回数160回/日日記の記入率85.8% と表示されています。毎日の出来事を、備忘録代わりに「徒然なるままに、日暮パソコンにむかいて、心に浮かぶよしなしごとを、そこはかとなく書きつづれば」の結果です。20万回達成時のアクセス者の紹介も送られて来ました。継続は力なりと考え、今後も肩の力を抜いて、「そこはかとなく」書き続けて行きたいと考えていますので、よろしくお願いいたします。
2011.09.14
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週末に蜂友のEさんとミツバチの内検を行いました。8時過ぎ~行いましたが、まだまだ暑く長袖、面布を被っての作業はサウナ状態。女王蜂は暑さに負けずに産卵を継続していることが巣蓋の多さで確認できました。A群の女王蜂。産卵のためお尻を巣の中に入れる瞬間。B群の女王蜂。群勢はやや衰えていますが、働き蜂たちは頑張っています。C群の女王蜂。今年は最下段の巣箱の底を外せるようにしたため、巣底のスムシの駆除がやりやすくなりました。その為巣礎の被害は今の所殆ど無し。D群の女王蜂。D群も産卵が継続されています。しかし既にキイロスズメバチが時々2~3匹で巣箱の前でホバーリングし、働き蜂を襲っています。この日も虫網で5匹以上を捕獲し足で踏みつぶしました。未だオオスズメバチの襲来は確認できませんが、間違いなくやってくるでしょう。この対策を更に考えなくてはならない時期なのです。
2011.09.13
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我が家の庭の『酔芙蓉』が今年も花を開かせています。観賞用に作られた‘酔芙蓉'朝は白い花を咲かせ、夕刻には、その花びらを赤く変え、翌朝にはしぼんでしまう花。このさまを,酒飲みの顔がだんだん赤くなってくることにたとえて,「酔う芙蓉」ということからつけられた名前。何だか、忘れられない好きな名の花なのです。朝の純白の花。高橋 治の小説「風の盆恋歌」の「序の章」の最後に、「思わぬものが眼に入った」として登場してくる花が「酔芙蓉」この小説『風の盆恋歌』で富山県のひなびた町・八尾(やつお)の伝統行事「おわら風の盆」が全国に有名になったのだ。不倫には違いないがが、それだけでは片づけられない哀切な恋愛小説。小説はベストセラーになり、テレビドラマ・演劇化され、さらに平成元年に石川さゆりの同タイトルの歌が発表されると、「おわら風の盆」は一躍ブームとなったのである。昼過ぎに酔いが回り赤くなってきた。風の盆恋歌 作詞:なかにし礼、作曲:三木たかし、唄:石川さゆり1 蚊帳(かや)の中から花を見る 咲いてはかない酔芙容(すいふよう) 若い日の美しい 私を抱いて欲しかった しのび逢う恋 風の盆2 私あなたの腕の中 跳ねてはじけて鮎になる この命欲しいなら いつでも死んでみせますわ 夜に泣いてる三味(しゃみ)の音3 生きて添えない二人なら 旅に出ましょう 幻の 遅すぎた恋だから 命をかけてくつがえす おわら恋歌 道連れに酔いのピークに達した花。そして今朝には。酔いに疲れ萎んでしまった花。高橋 治の小説「風の盆恋歌」には次の如き記述があるのです。「翌日、都築はなん度となく家の外に出て酔芙蓉の花を見た。午前中の白さは凛としたものを感じさせるほど澄み返っている。ほんのりと紅がさしたのが一時頃だった。二時、三時、紅が増した。白さが厳しいものだっただけに、色づいて来る様は、酒に酔うというよりも、女が自分の内側から突き上げて来るものに抗い切れず、崩れて行くありようを連想させた。」と。 毎年秋の終わりには、地面近くで全ての枝を切り落としますが、春になるとその残った枝から芽が出て、毎年3m程度に成長する樹木なのです。昨日は、この酔芙蓉の花の色の移ろいを見つめながら、一日をゆったりと過ごし、これも粋なもんだなあと感じたのでした。「酔芙蓉」そして「粋芙蓉」?。
2011.09.12
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我が家の横の農園の草取りをしていた折、秋ミョウガがたくさん顔を出しているのを見つけました。この「花みょうが」は、晩夏から初秋にかけ発生し、秋を告げる風味として最高なのです。独特の香りが好まれ、また特有の紅色が目を楽しませてくれるのです。このため蕎麦、素麺などの薬味として利用されるのです。 10個ほど収獲出来ました。このミョウガは「物忘れ」の食物などと言われたりもしますが、それは釈迦の弟子が、ミョウガが美味しく、食欲が進み過ぎ、満腹のため眠気がさして、物忘れしたことによると言われているのです。ミョウガには大変な迷惑な話なのです。 ミョウガは「めが(芽香)」の音が変化したとする説が有力とのこと。「茗荷」は当て字であると。 妻が綺麗に洗ってお皿に入れて、台所に保管中でした。今日はこのミョウガをどの様にして食べさせてくれるのでしょうか。天ぷらや酢の物、味噌汁の具など、いろいろな方法で秋の香りを楽しむことが出来るのです。しかし、やはり天ぷらが最高、そして天つゆより醤油や塩がお薦めなのですが・・・・。そしてこの日の夕飯。もちろん妻がミョウガとシソの葉の天ぷらを作ってくれました。ミョウガとシソの香り豊かな天ぷらです。そしてミョウガの漬け物。そしてミョウガのお吸い物。歯ざわりと香りが最高。あったかご飯に合う大人の味。全て秋の季節を先取りできる一品なのでした。今の所、何を食べたかしっかり覚えていますので・・・・ミョウガの迷惑な話は無縁な還暦オジサンなのです。
2011.09.11
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昨日 午前中に自宅の横で農作業中に空を見上げると、一筋の真っ白な飛行機雲が青空を横断していた。インターネットで調べて見ると飛行機雲のでき方は2種類あるとのこと。まず、空気の温度がマイナス30℃以下でなければできないようだ。(1)飛行機のエンジンから出る排気ガスが原因のもの。排気ガスの中には、水蒸気や チリがあるとのこと。水蒸気は上空1万メートルのマイナス50℃の空気で瞬時に冷や されて雲となる。冬の寒い日に息を吐くと、息が白くなる。それとおなじこととのこと。 またチリは、水や氷の粒の核となり、さらに雲を作りるのだ。 (2)飛行機の高速移動が原因のもの。 飛行機は上空の空気を引き裂いて飛行しますが、その時にその場所の気圧が 下がるのだ。 気圧が下がると、気温も下がるので、そこでまた空気が冷えて、雲ができるとのこと。 (1)と(2)が重なるとさらに幅の広い飛行機雲ができると。それにしても、青空の真っ白な白い線を見ていると、暑さを一時忘れる清々しい瞬間なのであった
2011.09.10
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さらに歩を進めると、赤い鳥居の前へ。宮崎八幡宮。宮崎県庁のすぐ東側100m程の辺り、市街地のど真ん中に鎮座している神社。御祭神は応仁天皇(八幡大神)・仲哀天皇・神功皇后・伊弉諾尊・伊弉冉尊・橘大神と。本殿横には多くの願いが書かれた絵馬が奉納されていた。並木通りに戻ると裁判所の前へ。宮崎地方裁判所。そして宮崎駅前へ。『神話のふるさと宮崎へようこそ』と。駅舎も改築により綺麗に変身していた。駅の構内には『椎葉平家まつり』のポスターが貼られていた。椎葉村に伝わる悲恋の物語である、源氏の那須大八郎と平家の鶴富姫の物語を再現した祭り。ハイライトは「大和絵巻武者行列」とのこと。毎年11月、紅葉の美しい時期に行われるのだ。約1時間強の早朝散歩を終えホテルに戻る。新県知事になり8ヶ月以上になるが、まだまだ東国原前知事の看板がいたるところに置かれあり、未だにその影響力が残っているように感じられたのであった。
2011.09.09
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この日も早朝から宮崎市内散歩に出かけました。晴天でしたが風もあり清々しい朝。日の出間近の宮崎の街。交差点の時計台は6:20を示していました。町の中心の道路にはフェニックスが植えられ宮崎らしさを醸し出していました。県庁前交差点から楠木並木通りを見る。宮崎市のメインストリート橘通(たちばなとおり)から東へ約100メートルも続く楠木並木。この立派な緑のトンネルをつくるのは樹齢百数十年の楠木の大木28本。この楠木並木通りは一年中緑が絶えないことから、県内市町村の物産市、イベント、映画、ドラマ、CMのロケなどもよく行われているとのこと。並木道路脇には立派な日本庭園が迎えてくれた。日本庭園内には鯉が泳ぐ池もあり、表の楠並木通りとともに市民の憩いの場所となっていました。日本庭園の近くの浄土真宗本願寺派の寺 安楽寺。県庁5号館(宮崎県文書センター)この建物は、以前は銀行(旧宮崎農工銀行、旧第一勧業銀行宮崎支店)の社屋として使用されていたが、現在は宮崎県文書センターとして使用されていると。そして宮崎県庁。1932(昭和7)年に竣工された県庁舎は、鉄筋コンクリート地上3階(一部4階)、地下1階のゴシック風建築。県庁本館としては九州最古、全国の都道府県でも、大阪府、神奈川、愛媛県に次いで4番目に古いとのこと。中央の玄関から、左右対称に翼を広げたような姿は全体に均整がとれているのだ。また、柱で縦の線を強調した壁面も威厳があって美しい野であった。建物前の庭には太陽光発電と風力発電のハイブリッド発電装置が。そして横には説明板が。県庁内部には早朝の為入れなかったが、中には前知事の東国原氏の看板が今でも置いてあったのだ。
2011.09.08
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宮崎へ出張の折、飛行機が紀伊半島上空を通過。眼下には熊野川が確認できました。台風12号により、紀伊半島を中心に大雨の被害が明らかになり、報道によると、和歌山県で12人、奈良県で3人が死亡するなど、6県で死者20人、行方不明者57人になったとのこと。熊野川も川幅全体に茶色の濁水が流れていることが解るのでした。紀伊半島では降り始めからの雨量が1800ミリに達した地域があるなど、各地で記録的な豪雨となったのです。海も遠くまで濁水が拡がっていることが確認できました。和歌山県那智勝浦町にある世界遺産の熊野那智大社は、土砂が流入する被害があり、復旧のめどが立っていないとのこと。同じく世界遺産の熊野古道でも、複数の場所で、土砂崩れや倒木で通行できない被害が出ていると。潮岬、熊野灘、大島周辺には濁水はなく、いつもの青い海が確認できたのでした。今朝のニュースによると、土砂崩れダムが決壊する恐れがあるため、多くの住民に避難指示が出ているとのこと。
2011.09.07
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久しぶりに宮崎に前夜泊にて出張しました。ホテルにチェックイン後、同僚と日野町にある店へ。途中の夕日の光景。日野町にある宮崎地鶏炭火焼きの『嵐坊』。小さいながらキャンプ中のプロ野球選手が顔を見せる隠れた名店。2Fに案内される。前回初めて訪れて気に入った店。メニューが壁に。先ずは生ビールともも焼きの1000円SETを注文。小口切りにした地鶏を、塩こしょうで下味をつけ、強火の炭火で炭の色が付くまで黒々とこんがり焼き上げた一品。炭火による燻製のような独特の香りが特徴。元々、古くから宮崎県及び鹿児島県で飼育されていた「地頭鶏」が天然記念物に指定されたため、新たに食用として外来種の鶏との交配で産み出された地鶏が「みやざき地頭鶏「(じとっこ)」となり、宮崎を代表する地鶏となったっとのこと。 次にジューシーで旨みたっぷりの「骨付き付きもも焼き」を注文。韓国の焼肉の如く、自分でハサミを使いチョキチョキと切るのであった。このレアなもも焼が旨いのであった。せせりの素焼きにも挑戦。せせりは首の周りの肉とのこと。やわらかくこれも絶品。大根おろしがたっぷりかかっていて、あっさり、やわうま。最後に山芋鉄板焼きで仕上げ。卵と合ったふわふわの食感が溜まらないのであった。
2011.09.06
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長年の大切なお客様、そして今では個人的な大親友である佐賀・伊万里にお住まいのNさんが今年もサザエと大きなハマグリを送って下さいました。御自身で海の岩場に出かけ収穫されたものなのでしょう。発砲スチロール入りにクール宅急便で送って下さいました。もちろんサザエもハマグリもしっかり生きています。早速夕飯に妻と磯の香りを楽しませて頂きました。サザエは壺焼き、ハマグリは焼きハマグリでいただきました。妻は幼き頃、海沿いの地で暮らしていたため、磯の産物が大好物なのです。今ではザエ、ハマグリとも純国産は希少品になってしまいました。サザエは砂袋まで、そして焼きあがったハマグリの旨い汁をすする時の気持ちは至福の瞬間なのでした。 Nさん ありがとうございました。いつものお気遣い、感謝、感謝です。
2011.09.05
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三重県津市に出張してきました。昼食は津では有名なうなぎや『新玉亭』へ。津市役所の近くにあるそして津では知らない人を探す方が難しいほど有名らしい。津市を訪れて初めて知ったのだが、何でも津は一人当たりのうなぎ消費量が日本一なのだそうだ。新玉亭は明治23年創業の老舗だそうだが、老舗というイメージから木造で数寄屋作りの建物を想像していたのであったが、 4階建ての若草色の鉄筋コンクリート造りの近代的な店。しかしさすがに入り口は和風の格子戸風。1Fは既に満席のため、2Fへ案内される。同僚の話によると2Fは座敷をテーブル席に改装したようだとのこと。うなぎ『上丼』を思い切って注文。吸い物、漬け物付きで1,995円。今年7月から値上がりしたと。同席の同僚が、卓上に山椒がないので頼んだところ、年配の女性店員が、味がしっかり付いているので山椒は不要と。あくまでも味に自信とこだわりのある店。 以前はメニューに『大盛り』がありこれが話題になり多くの客が訪れたとは地元の同僚の話。どの様なものかとブログで調べて見るとあっと驚く様な写真が。こんがりとした濃い目の甘だれのふっくら鰻。芳ばしくて旨いのであった。白米にはたっぷりとたれがしみこんでいた。吸物は肝吸。しかし、やはりテーブルに山椒が欲しかったのであったが、年配の女店員の口調に負けてしまったのであった・・・・・。
2011.09.04
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松阪市庁舎の入り口にある銀杏の木に、撓わに実る銀杏の実を見上げながら松阪城址に向かう。松阪城は1588年に蒲生氏郷によって築城されたのだ。建造物はなく豪荘な石垣が残るのみであるが、本居宣長記念館や、歴史民俗資料館、武家長屋の御城番屋敷があるのだ。桜と藤の名所でもあり、松阪公園として親しまれている。平成23年2月には、国史跡に指定されたとのこと。松阪城址入り口。見事な石垣と老木の松のみが目に飛び込む。松阪城の由来はこの説明書きで学習。松阪市立歴史民俗資料館明治45年に建てられた木造2階建て。松阪商人の名を天下に知らしめた"伊勢白粉"と"松阪木綿"の諸資料が見ものとのこと。建物は国登録有形文化財。さるすべりのピンクの花が美しい。『氏郷まつり』のポスターが入り口に貼られていた。こちらも門が閉まり中には入れなかった。天守閣跡の近くから城下を見渡すと、松阪牛料理店の大きなビルが点々と目についた。空には真っ黒な台風の雲がハイスピードで動いていた。天守閣跡には何も。早朝と言う事もあって観光客はゼロ。松阪城独り占め。天守閣からの眺め。遠く山々が台風の雲で見えては隠れ・・・・。見事な石垣。本居宣長の宮本居宣長記念館のすぐ前が本居宣長の宮となっている。拝殿は長さ六間幅二間ほどの平屋の建物で、つつましい社。楠がご神木として祀られていた。この木には松阪城からの抜け道がある??と言われていると、早朝散歩の市民が私に教えてくれたのであった。御城番屋敷(ごじょうばんやしき)槙垣と石畳をはさんで静かに息づく歴史空間。ここは江戸末期に旧紀州藩士が松阪城警護のため移り住んだ武家屋敷とのこと。高さ2m弱の手入れの行き届いた槙の垣根に囲まれ、簡素な中に武士らしい雰囲気を感じさせる庭で、後庭も槙の垣根で囲われているが、菜園などもあり、生活感を感じさせる庭になっていた。早朝の緑多き清々しい異空間。近くには1902年応用化学専攻の5年制工業学校として開校された、1908年竣工の旧三重県立工業学校製図室。硫化水銀(赤)で塗られているため通称、赤壁校舎とよばれているとのこと。こちらも長い歴史を感じさせる建物。帰り道に来迎寺に立ち寄る。来迎寺は天台真の寺。天正16年(1588)蒲生氏郷による松阪築城に伴い、城下の白粉町に寺地を拝領して現在に至っていると。 表門は、文政4年(1821)に竣工した一間鐘楼門で、大棟には見事な瓦の鯱が。一階が通路、二階に鐘が掛けられていると。扉はケヤキの一枚板。立派な門に圧倒されたのであった。ホテルの近くの民家の軒先には、この時期でも立派な注連飾りが飾られたままであった。そういえば何処の民家にも注連飾りが飾られたまま。神様との約束事を守って疫病や災難が一年中やって来ない様、1年を通して玄関にかけておくのであろう。我が家では、松の内がすぎれば取り外して、どんど焼きで燃やているが、地方地方でいろいろな風習があることを実感したのであった。早朝、台風の雨を心配しながらの早足散歩であったが、歴史深い松阪の街を楽しむことが出来たのであった。
2011.09.03
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三重県に出張の折り、前夜泊にて松坂駅前のビジネスホテルに宿泊。 翌朝はいつもの早朝散歩。台風12号の影響で風が強かったが、雨が降っていなかったのでいつもの散歩を決断。念のためフロントで300円の傘を購入しホテルをスタート。先ずは松阪駅。JR東海の紀勢本線・名松線と、近鉄の山田線が乗り入れており、両事業者が構内を分割して管理する共同使用駅。駅前のロータリーには大きな駅鈴と噴水が。ただし未だ噴水はお休み中。節電のためか?駅鈴とは、古代、地方へ派遣される役人の、身分の証となった鈴であると。現在JR松阪駅前にあるこの鈴は寛政年間に石見国の藩主、松平康定公より参宮のおり松阪に泊まり、宣長の源氏物語の講釈を聴講したさい、贈られた鈴がモデルとなっているとのこと。またこの地にゆかりの国学者本居宣長は鈴を愛して住居を鈴屋と号したとのこと。松阪出身の歴史上の人物の中で、一番有名な人は本居宣長。松阪駅前通りから入った"よいほモール"というメインストリートには本居宣長のからくり人形が。この宣長人形、座って本を読んでいた。定刻時間になると動き始める等の仕掛けになっているのであろうが説明書き等なく不明。その上の時計はまだ5時50分。しばらく進むと、三井家の祖と呼ばれる三井高利の生家跡が保存されていて,高利の産湯に使ったという井戸や発祥の地の記念碑が建っていた。三井家は伊勢商人を代表する豪商で,明治以降に日本最大の財閥となったのだ。ここは三井家の祖と呼ばれる三井高利の生家跡が保存されていた。白壁が美しいが、門は早朝のためか閉まっていた、いや現在は一般公開していないようであった。松阪商人の館。江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館として公開しているもの。展示品の中には「千両箱」ならぬ「万両箱」もあり、その広い屋敷はまさに「江戸店持ち伊勢商人」の風格を感じさせるとのことであるがこちらは午前9時からの開館。牛銀本店明治35年創業の松阪肉処。特に松阪牛の『すき焼き』で有名な老舗。今度はゆっくりと昼間に訪れ高級すき焼きを楽しみたいと思いながら、早足で『肉離れ』にならぬスピードで、朝の時間であることを『にくにく』しく感じながら通り過ぎたのであった。本居宣長旧宅跡本居宣長が12歳から72歳まで暮らした住居跡。現在旧宅はそのまま松阪城内にある本居宣長記念館に移築されているとのこと。この地で『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』など78種206冊に及ぶ著述を成し、また全国500余名の門人を指導したと石碑に画かれていたのだ。松阪市魚町通り落ち着いた風情の街並みでああった。松阪木綿商 長谷川家宅江戸時代に栄えた松坂木綿商「丹波屋」を営んでいた長谷川家の邸宅。敷地が大変広く、重厚な造りの蔵や、千本格子などの古い意匠がそのまま残る家屋、そして見越しの松が高板塀から顔をのぞかせていた。建物は江戸時代築とのことで、当時の風情がそのまま残っていたのだ。松阪もめん手織りセンター昔の越後屋(三井家)跡にあるこのセンターは、島渡りと呼ばれる粋な縞模様と藍染が特徴の松阪木綿を広く普及させようという目的で作られたとのこと。センターでは、松阪木綿の反物や商品を販売。また、6台の体験用機織り機があり、希望する方は、「一日織姫」として機織り体験もできるのだと。
2011.09.02
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我が家の8月の太陽光発電(京セラ、5.76kw)の 実績報告です。 発電量 : 678KWH消費量 : 526KWH売電量 : 512KWH自給率 128% と言う良好な稼働実績となりました。8月も昨年に続き発電量700KWH越を期待しましたが昨年を下回る678KWHに留まりました。 発電開始以来の月別発電量実績です。緑が本年2011年の実績です。今年は1月から月別の過去最高を更新中でしたが今年の5月~8月は昨年を下回る結果となりました。売電金額の実績です。8月も何とか20,000円越の結果となっています。今日の東京電力さんの『でんき予報』です。今夏の電力不足に対応するため政府が発動している電力使用制限令が前倒しで解除されることになったのだ。 東京電力と東北電力の管内にある契約電力500キロワット以上の大口の需要が対象で、7月1日から平日の午前9時~午後8時の間、最大使用電力を昨夏のピークに比べ15%削減するというのが制限令の内容。違反した場合には、100万円以下の罰金も。当初の終了予定は東電管内が9月22日だったが、東日本大震災の被災地と、7月の新潟・福島豪雨の被災地では9月2日を最後に制限を解除。それ以外の地域では、そろって9日を最後に解除するとのこと。暑さが和らいで電力需要が抑えられており、早期の解除で被災地の復興を支える狙いとのこと。さて我が社グループも9月22日まで8時始業のサマータイムを実施中であるがこちらも早めの解除となるのであろうか?
2011.09.01
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