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米子の仕事の帰りに水木しげるロードに立ち寄る。 何せ米子鬼太郎空港から羽田空港への復路便は15:35発の次は20:40まで5時間以上飛んでいないのである。利用客が少ないのであろうか?水木しげるロードは、鳥取県境港市にある商店街の名称。漫画家・水木しげるが描く妖怪の世界観をテーマとした観光名所。境港駅から本町アーケードまでの全長約800メートルの間に、水木の代表作『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターを中心として日本各地の妖怪たちをモチーフとした銅像が設置されているのである。駐車場に車を停め平成20年にリニューアルされた「水木しげる記念館」へ。2階建ての水木しげる記念館には妖怪がたくさん。残念ながら内部は撮影禁止。記念館前の庭の『のんのんばあとオレ』の像。「のんのんばあ」とは、少年時代の水木しげるの家にお手伝いに来ていた老婆のこと。水木の少年時代の楽しく、また切ない思い出は、のんのんばあが語って聞かせてくれたお化けや妖怪の世界のことと語っているのだ。『鬼太郎と目玉おやじ』大正川の橋の欄干に鬼太郎と目玉おやじが親子で仲良く座っていた。『ねずみ男』鬼太郎ファミリーには欠かせないねずみ男。ずるくて、怠け者、目先の金儲けのためなら得意の話術で仲間も裏切ってしまう男。道路沿いのパン屋の商品。鬼太郎のキャラクターがパンになって登場。食べるのがもったいない作品。『一つ目小僧』この妖怪も有名な妖怪。後ろ姿は10歳位の子供でいたずら好き。いたずらをたしなめると、一つ目の顔を急に振り向け、人間を驚かす例の小僧。『鬼太郎まぐろラーメン本舗』ネット販売でも手に入るとのこと。ラーメンのどんぶりがユニークとのこと。食べ進めるとサイドにぬりかべなどが現れ「ようこそ山陰へ」。スープを飲み干すとどんぶりの底に「しもうた。見つかってしもうたわい」と一つ目小僧が登場すると以前挑戦したことのある同僚の話。この日はTRYしなかった。『サラリーマン山田』我が周りにもいそうな、メガネに出っ歯の人間のおじさん。平凡で小心者、控えめな性格の彼だがなぜかいつもひどい目に遭わされる男。『ゲゲゲの妖怪楽園』入り口。見て、遊んで、食べて、妖怪ムードが存分に体感できる妖怪アミューズメントパーク。入口には鬼太郎や馴染みのある妖怪と大きなぬりかべが出迎えてくれたのだ。『がしゃどくろ』戦死者や野垂れ死にした者など、埋葬されなかった死者達の骸骨や怨念が集まって巨大な骸骨の姿になったとのこと。水木しげるが『妖怪事典』や『日本妖怪大全』で取り上げ、広く知られるようになったと。1時間ほどの水木しげるロード散策。境港駅近くまでは行けなかったが約半分制覇?この日は団体客のオバチャンの大笑いする姿が多く見えたのであった。 今回の出張も終わり羽田空港からバスで自宅へ。帰りにNHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』の舞台ともなった境港の水木しげるロードを訪ねることが出来、「終わりよければすべてよしです」。
2011.04.30
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週末に山陰の米子に仕事で前夜泊にて行ってきました。 羽田空港から『米子鬼太郎空港』へ。知名度をアップして利用者を増やすために、郷土出身の漫画家水木しげるのキャラクター・ゲゲゲの鬼太郎の名前を冠した「米子鬼太郎空港」という愛称で呼ぶことになったのは昨年春。飛行機に跨った鬼太郎が迎えてくれました。翌朝はいつもの早朝散歩。ホテルはJR米子駅の横。まずは米子駅に。早朝のためか人は殆どいない。時計は5:40。駅を背に大通りを海に向かって歩く。駅前の歩道には、いろいろな種類の星座が埋め込まれていました。歩いて楽しい美しい町並みの実現の為に道路に星座の名前を付けて整備したとのこと。米子の米は八十八。星座の数も88。88の「通り」にそれぞれ星座の名前を付けたとのこと。オリオン座であることが近くの表示板にて解りました。私は星座については全く知識なし。寺町通りに向かいました。米子・加茂川の外れ、寺町に寺院が各所にひっそり佇んでいたのでした。ここ米子の通称"寺町通り"と呼ばれる通りは、9つのお寺が通り沿いに並んでいました。これは米子城築城の際、伯耆の各地から移されてきたもの。室町時代中期に足利直義が諸国に建てた内のひとつ「安国寺」など歴史の古い寺が建ち並んでいるのでした。寺町通りの寺の前には石屋、花屋、桐箱屋が軒を連ねていた。付近の町並みはこれも昭和の昔を思わせる古い町並みが佇んでいたのです。少し残念なのは、各寺に自寺の紹介や歴史的由来、あるいは誰を祭ってあるかなどの記載してある立て札、紹介などが殆ど無いこと。予習なく突然訪れるにはやや辛いのでした。後藤家住宅。昭和49年重要文化財指定されたとのこと。後藤家は江戸時代の初期石見国(いまの島根県)から移住、鳥取藩の海運の中心地米子で代々回船問屋を営んでいたとのこと。清洞寺跡米子市の湊山公園の日本庭園の中にある清洞寺跡は、昔、亀島と呼ばれる小島。江戸時代に埋め立て、今は大きな松と岩が池と共に残っているだけ。江戸時代初め、米子の城主は次々と替わり、それに伴い寺号も下記のように変わって行ったと。曹渓院 → 海禅院 → 禅源寺 → 清洞寺石の上で休んでいた野鳥たちが私の訪問で池の水面にに避難。港山公園(みなとやま)に向かう。湊山公園は中海に面した風光明媚なスポット。湊山公園の海岸沿いへ。中海方向へ目をやると下の写真"夕日"という題名の彫刻が。夕日を見つめる三人の子供と犬の姿。私もここから夕日を見てみたいと思ったのでした。SLのD51も展示されていました。公園内には多くの桜の木々が。半月前には大勢の花見客でにぎわったのでしょう。 小高い山を15分ほど息を切らせながら登って行くと、米子城跡に到着。米子城は、3つの城からなる城。湊山に築かれた本の丸、丸山に築かれた内膳丸そして飯山の出丸。これらの3つの山の谷間に二の丸・三の丸が築かれ、一つの城となっているとの説明板が。1591年毛利一族の吉川広家が築城を始め、17万5千石、伯耆の領主中村一忠が1601年完成させたと。加藤、池田、荒尾と11代続きましたが、明治の初期、米子市内の風呂屋に薪として売られてしまったと・・・・信じられない話。城跡から見る景色は米子市街や中海、遠くに大山を望む事が出来絶景そのものでした。約2時間弱の早朝散歩。8時前にはホテルに戻り朝食を取り仕事場に向かったのでした。
2011.04.29
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我が家の近くの県道、そして繋がる国道の街路樹のハナミズキ(花水木)が一斉に開花しました。桜の開花は東北地方まで移っていきましたが、我が地域は桜が終わり、庭や街路でハナミズキが咲き出しているのです。青空にピンクの色が映えています。以前にも書いた記憶がありますが、WIKIPEDIAによると、ハナミズキの原産地は北アメリカで、別名アメリカヤマボウシとのこと。1912年に当時の東京市長であった尾崎行雄氏がアメリカのワシントンD.C.へ桜(ソメイヨシノ)を贈った際、1915年にその返礼としてハナミズキが日本に贈られたのが始まりとのことである。開花がやはり桜が先である理由が解ったのであった(笑)ところで、花水木も花弁らしい花弁はないのです。花水木の4枚の花弁らしく見えるものは、実はいくつもの花を包んでいる総包なのです。中心に集まっている小さいものが本当の花。おしべとめしべを持つ小さい花が集まっており、その周りの大きい包が美しくなっているのです。 そして白いハナミズキ。花言葉は『私の想いを受けてください』とのこと。ハナミズキといえば、『♪君と好きな人が百年続きますように~♪』(一青窈)の歌を想い出すのです。
2011.04.28
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妻が何処からか?(すいません、忘れました)生シラスを買ってきました。生しらすの解禁は確か3月中旬?。シラスはイワシの稚児。そしてカルシウム豊富な食べ物。春から夏にかけてのこの時季しか食べられない貴重な逸品。痛みやすいため生で食べられるのは水揚げ港の近くの恵まれた地域のみ。その意味でもこれも貴重の旬の味なのです。食感は「トウッルッ」、少しヌルヌル、コリコリした昆布のような感じ、そしてミルキー。海苔を刻んで、おろし生姜に生醤油かけてご飯の上に載せて楽しみました。更にビール片手に。病みつき間違いなしの味なのでした。盛りつけし器の上で 透き通る 旬のシラスは 磯の香りを・・・・・・詠み人知らず奥様、次はいつ?
2011.04.27
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我が趣味の養蜂場へ行く畦道の傍らに今年もタンポポが多く咲いています。そしてその一株には真っ白な丸い綿毛が、そして株元には黄色い花が。タンポポは花が咲き終わると、やがて綿毛を拡げるのです。種ができると、花の時期よりも背を高くのばして、綿毛を拡げるのです。これは、少しでも風を受け易くするため。ふわふわと風にのって、綿毛はどこまでも遠くに飛んで行きたいのです。じっと見てみると美しいのです。神秘的な姿。土曜日は台風のような雨と風。この中で、丸く開いた綿毛は雨や風に叩かれても、丸坊主にはなっていないのです。晴天の日に息を吹きかけると、簡単に飛ぶのに 少々の風や雨では種は落ちない不思議さ。弱い風や雨などで自分の今生えているところに種を落としては、自分の『種』を拡げてゆく事はできない事を知っているのです。できるだけ遠く離れたところへ飛びたい、飛ばしたい。生命の不思議さ、神秘さ、自然の摂理に感嘆せざるをえないのです。子供の頃、このタンポポの綿毛を口で吹いて飛ばし楽しんだ事を想い出したのです。 小さなタンポポの綿毛が新たなる土地を求めて、次の命の芽生えのために飛び立って行くように、我々も大きな災害に負けずに、元気よく爽やかな気持ちで再出発して行きたいと感じた瞬間なのでした。
2011.04.26
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今週の日曜日に、同僚が養蜂の内検の手伝いに来てくれましたので、終了後に我が実家の竹藪の筍掘りに向かいました。今年の筍は、冬の寒さが影響したためか、成長が1週間以上おくれ、丁度収獲には良い時期となっていたのです。根本が約10cmに成長した筍です。我が同僚は流石に若いせいか体力は十分。筍掘りは切らずに掘るには、根気と体力が必要なのです。鉄ノミを使い周囲を均一に掘り下げ、地下茎を見つけこれを切り堀上げるのです。見事に切らずに兄弟筍?をGETしました。太めのものを10本ほど、そして細めの可愛いいものを10本ほど約1時間の筍掘りでした。収穫物は同僚、そして我が姉やご近所にも配ったのでした。そして我が家の夕食。妻が早速調理してくれました。若竹煮です。我が家の近辺には竹藪が少なくなってしまいました。我が実家の竹藪は貴重な存在。その竹藪でこの時期にしか出来ない筍掘り、そして旬の味を大いに楽しんだのでした。張り切ってくれた我が同僚は筋肉痛に悩まされていること間違いナシなのです。
2011.04.25
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東京電力さんから我が家の4月の太陽光発電(京セラ、5.76kw)の『電気ご使用量のお知らせ』が届きました。期間:3月16日~4月17日(33日間)電気使用量 昼 :44kwh 朝晩 :240kwh 夜 :452kwh--------- 合計 :736KWH 金額 :10,653円そして『余剰購入電力量のお知らせ』です。購入電力量 :582kwh購入予定金額 :27,936円晴天が続いたため、そして節電意識が高まった為か、また期間が33日間であったこともあり過去最高の金額(売電量最高記録は2008年8月の600kwh)となりました。太陽光発電開始以来の余剰電力の売電金額実績です。併せて『太陽光発電促進付加金のご負担についてのお知らせ』が付いていました。平成23年4月分の電気料金から太陽光発電促進付加金の負担が始まると。負担額は毎月の電気使用量1KWH当たり3銭とのこと。また平成23年度から太陽光発電を導入された方の買い取り価格は42円/KWH。嬉しい事に我が太陽光発電の買い取り価格は変更無く48円/KWHとのこと。嬉しい勘違いでした。我々早期導入者には48円/KWHを10年間保証してくれているのです。そして『太陽光発電促進付加金の具体的な算定方式』について説明されていました。この付加金の単価は前年の買い取りに要した費用総額などを基に算定し、年度ごとに異なるとのこと。しかしながら下記の如き意見もあることを十分承知しています。『この制度は太陽光発電促進の為、太陽光発電装置を設置できない電力利用者に、負担金を課すこと。1戸建て住宅に住み、太陽光発電装置をを設置することにより電気代が節約できる経済的に余裕のある人?の為に、アパートや集合住宅等に住み装置を設置できない経済的に余裕のない人?の電気代を上げるのはどう思いますか?』そして我が太陽光発電も、2008年5月27日の導入以来約3年の、2011年4月22日に発電積算量が20,000KWHを超えたのです。
2011.04.24
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近鉄吉野駅から飛鳥駅で下車。飛鳥駅でレンタサイクルを利用。コンビニで昼食用のおにぎりと飲み物を購入しスタート。まずは高松塚壁画館へ。自転車で館の近くまで行けるのが嬉しい。館内には、高松塚古墳の壁画の検出当時の現状模写、一部復元模写、再現模造模写、墳丘の築造状態、棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬されていた太刀飾金具、木棺金具、海獣葡萄鏡などのレプリカを展示し、高松塚古墳の全貌をわかりやすく再現。続いて高松塚古墳へ。二段式の円墳、1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった古墳。築造年代は平成17年の発掘調査により、藤原京期(694年~710年)の間だと確定されていると。被葬者は天武天皇の皇子(忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子ら)説、石上麻呂説、朝鮮半島系王族説・・・といろいろな説があるとのこと。道に迷いなかなか見つからなかったが続いて亀石へ。小道の傍らに亀がはいつくばっているような彫刻をした大きな石。これが飛鳥の謎の石造物の一つ、亀石。顔は亀と言うよりヒキ蛙の様な感じであったが。聖徳太子誕生の地と書かれた石碑の横を通過。田んぼが拡がり長閑な畦道を自転車を走らせ橘寺へ。聖徳太子誕生の地といわれ、太子建立7寺のひとつであり、本堂に聖徳太子坐像(重文)が安置されているこの寺は、明日香の田園風景に溶け込んだ古寺であった。暫く自転車を漕ぎ石舞台古墳へ。古墳時代後期の古墳。元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出したのである。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されているのである。入場はせず近くの高台の広場で昼食。この場所からは菜の花畑越しに石舞台古墳の見事な姿が見えるのであった。更に自転車を進め岡寺へ。途中駐輪場に自転車を置き急坂を息を切らせて登る。岡寺と言うよりは山寺の感。寺伝によるとおよそ1300年前、天智天皇の勅願によって建立されたと。飛鳥板蓋宮跡。皇極天皇は夫である舒明天皇の死により即位し、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じたのだ。これにより完成したのが板蓋宮。645年に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった場所。皇極天皇の眼前で大臣の次期後継者である蘇我入鹿が中大兄皇子により刺殺された宮なのである。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。高校時代に学んだ日本史で、『蒸し米(645)炊いて、大化の改新』と年代を覚えたことを思い出したのであった。酒船石遺跡にある小判形石造物と亀形石造物へ。平成12年に酒船石の北の斜面で発見されたもの。ボランティアのおじさんから説明を聞く。天皇祭祀に関わる場所であったのではとのこと。小高い丘の上には「岡の酒船石」と呼ばれるこの石造物が。酒船石の使用目的については、これを製薬用に使用されたのであろうという説、別の説では、生贄台ではなかったかという説、また天文観測に使用されていたかもしれないと等々いろいろあるようだ。それにしても石の上面には線や窪みが奇妙な形で穿たれているのだ。飛鳥寺へ。蘇我氏の氏寺で蘇我馬子が建てた日本最古の寺とされている寺。ここの本尊「釈迦如来像(通称:飛鳥大仏)」が有名。この飛鳥大仏は、西暦605年に日本最古の金銅丈六釈迦如来像として発願され、609年に開眼とのこと。東大寺の奈良の大仏の開眼が752年、よって1世紀半近くも前に建立された大仏なのである。飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)へ。この神社の見所は何と言っても、陰陽物を象った奇妙な石の数々・・・通称「ちんこ石」とも呼ばれている、奇妙なオブジェとのことであるが、残念ながら予習不足でお目にかかれなかったのであった。最後に飛鳥資料館へ。飛鳥時代(6・7世紀)や飛鳥地方の歴史を展示・解説した、小規模ながら総合的な博物館。展示品には、高松塚古墳出土の品、飛鳥寺・川原寺等の出土品、石神遺跡出土の噴水施設である須弥山石と石神像、水落遺跡でみつかった水時計遺構の模型、藤原京全景の復原模型などがあった。屋外には、須弥山石や石像の噴水装置、導水施設である酒船石、猿石などの模造品が並んでいた。庭の模造品の周囲の桜が美しかったのであった。そして飛鳥の全体像を掴める施設であった。全ての予定を終了して、近鉄橿原神宮前までレンタサイクルで行きここで返却。近鉄急行で京都駅へ。新幹線の中でこの旅の反省会をビールで行いながら秋の吉野の紅葉も見てみたいと語り合いながら帰宅したのであった。 ------------完--------------
2011.04.23
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この日も5時に起床し、旅友3人で、前日の夕方の雨でゆっくり鑑賞 出来なかった如意輪寺周辺を早朝散歩。前夜の雨の雫が美しい桜の花びら。如意輪寺に向かう細道に6体のお地蔵様が迎えてくれた。赤い布の 前かけが美しい。「赤」は人間の煩悩をあらわし、その赤い色の前かけをお地蔵さんに託すことによって人々は自分の煩悩から逃れようとしたのだ。前掛けの赤い色が風雨などによってどんどん薄れていくと、人々はそのことによってお地蔵様が自分の煩悩を引き受けてくれていることを感じたのだと以前NHK教育テレビで高僧が話していたことを思い出す。「如意輪寺」の裏山にある後醍醐天皇陵 塔尾陵(とうのおのみささぎ)。鎌倉時代末期の天皇として知られ、南朝の悲劇の天皇。足利尊氏が京都を占領して、光明天皇を即位させると、後醍醐帝は、「三種の神器」を持って比叡山から奈良・吉野へのがれて「京都回復」を目指したが、楠正成、新田義貞、北畠顕家らの戦死で事いたらず、亡くなったと。「玉骨はたとえ南山(吉野)の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕(京都)の天を望まんと思う 」といったといわれ、陵も通常の南ではなく、京都のある北を正面にしているとの説明板が。朝雲に浮かび上がる桜の木々の神秘的な姿。如意輪寺と多宝塔が桜の木々の間から遠く見える。そして中千本地蔵堂、上千本一帯の桜。如意輪寺を後にして更に散歩を進めると、山の斜面でワラビとゼンマイを採るおじさんの姿が。こちらはゼンマイ?ミツバツツジの紅紫色の花が美しい。花が終わってから葉が出てくる。枝先に三枚の葉がつくことからこの名がついたのだ。2時間ほどの早朝散歩を終え旅館に戻り朝食を取る。そして9時に旅館を出て吉野駅に向かう。この日は休日でもあり朝から多くの観光客が山道を登ってきていた。我々も桜を楽しみながら吉野駅ロープウェイ駅の近くに到着。そして近鉄電車でこの日の目的地の飛鳥に向かったのであった。
2011.04.22
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吉野山の山深き山中の西行庵のそばの「奥千本苔清水」と呼ばれている湧水をペットボトルに汲み入れ吉野山を下る。途中この水で水分補給。水道水とは違う天然の水が体のすみずみまで染み渡り、元気復活。途中から如意輪寺に繋がるハイキングコースを下る。『さくら咲競(さくら)プロジェクト』の看板が道端に。環境保護活動の一環として2009年から行なっているもので、桜の名所、吉野山の上千本地区に位置する約600坪の土地(「伊藤忠アーバンコミュニティの杜」)に桜の苗木の植樹を体験する活動のようだ。1本1万円?それにしても、『咲競』を『さくら』と、いろいろな造語を考えるものであると感心しきり。如意輪時に到着。浄土宗の寺。本堂の背後には足利尊氏により京を追われ、吉野の地で死去した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)があった。如意輪時境内からの中千本旅館街を望む。この寺は楠木正行(正成の長男)が、四條畷の戦(足利尊氏軍との戦)に際し、最後の戦いとの覚悟の上、本堂の如意輪堂に詣で、正面の扉に鏃(矢の先)で 辞世「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」(今度の戦いは生きてかえれぬ身であるが故に亡き人の仲間入りをする名前を残して出発)と刻んで出陣をした歴史があるとのこと。、多宝塔。中千本のシンボルタワー。本尊の阿弥陀如来を安置しているとのこと。軒の垂木、組物が見事であった。雨がポツポツと降り出したため、急ぎ足で今宵の宿に向かう。途中、桜の木々の中に茶屋の赤い囲いが風情を盛り上げていた。この日の宿は中千本の老舗旅館『戎館』旅友のSさんが仕事の関係でお付き合いしている方がこの旅館のご主人。戎館女将の奥様からも歓迎の挨拶をいただきました。部屋に案内され、今日の歩いた距離や桜の見事さを語り合いながら一休み。部屋の窓からは桜の木々の上に雲海がたなびく貴重な瞬間。風呂にゆったりつかった後は夕食。ご主人からは地元の酒の差し入れも頂きました。そして川魚、吉野本葛で作った付け合わせ、柿の葉寿司・・・を楽しみながらこの日の吉野の桜の見事さを語り合い、酒量も増えて行くのであった。途中、この旅館でバイトをしているプロ歌手の生歌のサービスも。『福本健司』さん。高音の美しい若手歌手。頑張って欲しい。
2011.04.21
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中千本から上千本、花矢倉展望台を目指して更に歩を進める。御幸の芝近くに立っていた吉野町観光課の案内板によると...『後醍醐天皇が吉野の行宮 (あんぐう)におられた五月雨の降り続くある日の事、大勢の供を連れてこの辺りへ御幸されると、空模様がますます怪しくなってきました。かたわらの観音堂に入ってしばらく休むうち、次の歌を詠まれました。ここはなほ 丹生の社に ほど近し 祈らば晴れよ 五月雨の空すると急に空が晴わたり、うららかな日和になりました。 それからこれを雨飾観音堂と呼ぶようになりましたが、 明治の神仏分離によって廃されてしまいました。』 と。上の千本花矢倉展望台からの絶景。吉野山はもとより、遠くに金剛、葛城、二山、高取、竜門などの連山を一望できる吉野随一の展望所。花矢倉から眼下に広がる風景は絶景。尾根づたいの道の向こうに蔵王堂が大きく見え、絵になる風景桜のピンク色が微妙に異なる美しい風景。高城山休憩場で昼食。展望台から北には眺望が開け、高取山などの連なりの向こうに、金剛山、葛城山、二上山が、奈良盆地の西を縁取っていたのであった。見事な風景を楽しみながら、柿の葉ずしを味わったのであった。義経隠れ塔 金峯神社脇の小径を下った場所に建つ檜皮葺きの簡素な塔。義経と弁慶が追っ手から逃れるために隠れた事で有名。文治元年(1185)11月、源義経が隠れ、追っ手から逃れるため屋根を蹴破って外へ出た為「義経の隠れ塔、蹴抜けの塔」とも云われているとのこと。ここは大峯修行場の1つで、「隠れ塔」に入って扉を閉じると、中は真っ暗闇。そこで、これから大峯山へ登る山岳修行者は、神官の先導に従って吉野なる 深山の奧のかくれ塔 本来空の すみかなりけりと唱えながら塔内を巡るとのこと。西行庵桜をこよなく愛した歌人、西行法師は吉野山に閑居したことがあるといわれ、草庵が復元されていたのだ。西行は平清盛と同年齢で、同じ鳥羽院に仕える北面の武士。妻も娘もいた23歳のときに、突然出家をし、高野山や四国を渡り歩いたとのこと。ここ西行庵は桜に魅せられた西行が奥千本に一人庵を結び、3年を過ごした場所。ずっと昔にここまで辿り着き、ひとり奥千本の桜を眺めていた西行法師の気持は如何。奥千本の桜は未だ開花していなかった。苔清水西行庵の近くには西行を養った苔清水が。 西行を慕ってこの地を訪れた芭蕉の句ゆかりの地でもあるのです。春雨の こしたにつたふ清水哉苔清水で水をくむ旅友のSさん。
2011.04.20
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吉野駅に降り立つ。もちろん桜で名高い吉野山の玄関口である。早朝の為、未だ観光客は少ない。駅前の土産物売り場には『柿の葉ずし』が。他にも同様の店がいろいろあるがそれぞれに案内表示が違うのであった。『柿の葉寿司』、『柿の葉すし』、『柿の葉寿し』といろいろ。登録商標をそれぞれ逃げているのであろう。柿の葉寿司は奈良の郷土料理で、鯖や鮭の押し寿司を柿の葉で包んだもの。もともと海のない吉野地方には海産物は貴重な食材で、和歌山の熊野灘で獲れた鯖は塩でしめて吉野に運ばれていたと。そして、この鯖を薄く切り、一口大のご飯にのせて柿の葉に包んだことが始まりとのこと。駅前から吉野大峯ケーブル自動車が運営する吉野ロープウェイに接続しており、吉野山(下千本)まで登ることが出来るがもちろん利用せず、七曲がりを歩いて登る。七曲がりから見た向かいの山の桜。吉野山の桜は麓から頂上に向かって下千本・中千本・上千本・奥千本の順に咲いているのである。吉野山標高455mに約10万本の桜が植樹されているのだ。暫く歩くと赤い橋が周囲の桜に映えていた。両側には土産物の店が並び少し賑やかになってきた辺りが黒門。やや緩い坂を上がっていくと今度は階段が目に付き銅門に着いた。老舗の薬屋さんで陀羅尼助の店では置物のカエルが迎えてくれた。 吉野山の尾根上にひときわ高くそびえる寺が。修験道の開祖、役行者[えんのぎょうじゃ]によって奈良時代に開かれた金峯山寺の本堂(国宝)。高さ約34m。木造古建築では東大寺大仏殿に次ぐ大きさであると。門の左右には一対の仁王象が。左手に吽仁王、右手に阿仁王が下界を睨みつけていた。蔵王堂から少し離れたところにある三重塔の南朝妙法殿。途中今宵の宿に立ち寄り、荷物を預ける。昼食用に柿の葉ずしを買い込み更に登って行った。ミラーに映った桜の風景も美しい。吉水神社入り口からの絶景。桜は大体100年~150年で枯れるとのこと。絶景ポイントの一つここ吉水神社から見ると、枯れて新しく植樹された桜と古い桜が微妙に色合いを変えて、さまざまな色合いを見せてくれたのだ。ここまで登ると尾根一帯が全山薄紅色に霞んでいたのだ。
2011.04.19
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週末の休日を利用して吉野の桜を見に海外旅行の友3人で行ってきました。前夜泊にて橿原神宮近くにあるホテルに宿泊。このホテルは旅友のSさんが、事前にインターネットで予約してくれたホテル。ホテルに着くとチョット怪しい?ホテル。帰宅してインターネットで調べて見ると予約上の注意事項1)お子様の利用はできません。2)お客様からのアンケートをご覧になってご予約ください。3)2007年まではファッションホテルとして営業しておりましたが、経営譲渡により2007年10月よりビジネスとしてご利用いただけるようリニューアルして営業しておりす。4)設備としては一部当時のままとなっております・・・・・・・・・ と。そして翌朝、チェックアウト後ホテルをでると近くの道路脇に表示板が。徒歩にて橿原神宮へ向かう。今井まちなみ交流センター「花甍(はないらか)」。奈良県指定文化財で、「旧高市郡教育博物館」。明治36年(1903)に建てられた奈良県初の社会教育施設とのこと。後に今井町役場として使われていたようだ。修理の際に建設当初の姿に復元したと。木造、入母屋造、左右対称に翼廊(よくろう)がついた美しい明治建築。 初代天皇と言われている神武天皇陵。イマイチパワースポット感がないのは、神武天皇が実在の人物ではない、とする見解が今日の学会の主流である為であろうか。しかしながら畝傍山の北東にあり、森林に囲まれており早朝の静寂に包まれていたことは事実。鳥居の前に立っても、御陵全体は見渡すことができない。パンフレットによると、周囲は約100m、高さ5.5mの八稜円形となっており、幅約16mの周濠がめぐらせてあると。鳥居の向こうには、玉砂利がきれいに掃き清められていた。 橿原神宮に到着。橿原神宮は、御祭神・神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てられ即位の礼を行われた宮址に、明治23年に創建されたのである。第一代の天皇であり我が国建国の始祖となられた神武天皇と、(ひめたたらいすずひめ)皇后が祀られているのだ。 外拝殿。その威容を誇るかのような 堂々のたたずまい。ジャンボ絵馬が飾られていた。 外拝殿から繋がる廻廊部分。灯籠の連続が美しい。橿原神宮の建物は、朱色などの塗料が塗られていないため木肌が見え、とても落ち着いた和を感じられる雰囲気。 神宮の庭の玉砂利に模様を付ける神官の姿も。早朝の重労働である。 深田池に浮かぶカルガモ。奈良時代に造られたとされる溜め池。日本書紀に推古天皇の代に掖上池(わきがみのいけ)、畝傍池(うねびのいけ)、和珥池(わにのいけ)を造った・・・とあるとのこと。 この畝傍池が深田池のこととも云われいると。 見学を終了し、橿原神宮前駅に到着。8時発の吉野行きに乗る。 車窓から桜の景色を眺めながら進む。単線のため行き違いの停車時間が長かったが約1時間で目的地の近鉄吉野駅に到着。もちろん桜で名高い吉野山の玄関口。
2011.04.18
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久しぶりに蜂友のEさんが早朝から内検を手伝いに我が農園に来てくれました。昨年秋から仕事が多忙で、海外出張も多々あり、家族サービスもしなければならないため我が農園への来園は今年になって初めてとなりました。まずはA群の内検。こちらはやや攻撃的な1群。1週間でかなりの増群に成っていることが確認できました。女王蜂も確認できました。産卵も活発です。B群も同様に群勢を強めています。A群は継ぎ箱を設置し2段積、B群にも巣枠を増やし9枚枠としました。巣箱の廻りには菜の花が未だ満開状態。ブロッコリーも花を開いています。ブロッコリーの蜜が好きなのか、多くのミツバチ達が花に訪れていました。レンゲの花も可憐なピンクの花をつけだしていました。一番外側の花片に我がミツバチ達は留まり、その花片を下にそり返し、その隙間の間に頭を突っ込み蜜を吸っているのです。一つの花片が終わると隣の花片に移動し順番に蜜を求めて動き回っているのです。ミツバチ達は他のどんな花よりレンゲが好きとのこと。人間には最上級にランクされるほど美味しいレンゲ蜜ですが、ミツバチの世界でもきっと同じなのでしょう。クリムソンクローバーも赤さをましています。我が養蜂場所も今は菜園から花園に変わっているのです。そして我がミツバチ達が集めて来る現在の蜜は、さくら、菜の花、レンゲの百花蜜となっているのです。そしてこれからしばらく、養蜂場の上空には、数千いや数万の蜜蜂が飛び交うのです。ミツバチ達の羽音が一つになって、力強い、ブオーンという音が響いて来ます。春の紺碧の空に飛び立って行く蜂の群れを心弾む思いで眺めるのもこの季節なのです。そして明日は、県の家畜保健衛生所が「みつばちの腐そ病検査」に我が養蜂場を訪ねてくるのです。家畜伝染病予防法第5条1項の規定による現地検査なのです。
2011.04.17
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我が農園で昨年から栽培中のスナップエンドウも気温の上昇と共に日に日に成長しています。しかしスナップエンドウには、ハモグリバエの幼虫が葉肉内にもぐりこみ、トンネル状の穴を開けて食害していくのです。食害した跡は葉の表面に細い曲線を描いたような白っぽい筋が残ります。葉っぱに白い絵の具で絵を描いたように見えるので『絵描き虫』とも呼ばれています。葉を透かしてみると中に白色の幼虫や褐色の蛹がいます。農薬を使用しないで、駆除するのは、こまめに潰すしかないのです爪の先で押さえれば、プチっと、簡単につぶれますがやや気持ちが悪いのです。先日インターネットで、このハモグリバエ捕獲用の黄色い粘着テープを購入しました。黄色はハモグリバエが好む色なのでここに留まり、粘着力により捕獲される仕掛けなのです。早速スナップエンドの誘引網に取り付けました。翌朝には何匹かのハモグリバエが捕獲されていました。我がミツバチでしょうか?ミツバチも一匹捕まってしまっていたのです。 既に赤花エンドウが濃いピンクの花を付けている株もありました。この粘着シートでハモグリバエの被害を最小限に抑え、甘いスナップエンドウでビールを飲むのが楽しみな『カンレキ』農園主なのです。
2011.04.16
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群馬の帰りに浅草駅で下車。久しぶりに吾妻橋へ。久しぶりのアサヒビール(株)のビルのモニュメントと吾妻橋夕日に金色が光り輝いていました。いつ見ても不思議な理解に苦しむ形アサヒビールビルとスカイツリー。既に高さは634m。建設も急ピッチ。 今年冬に竣工。2012年春に開業予定。 浅草水上バス乗り場から川沿いの桜並木へ足を進めた。花見が自粛されているようですが、ここも1グループのみがブルーシートを敷いて静かに!楽しんでいました。巨大なコンクリート製パラボナアンテナ?東京芸大・台東・墨田観光アートプロジェクト のオブジェ、 「グリーンプラネット」とのこと。スカイツリーを見上げているかの如し。帰り道では観光用人力車の訓練中。
2011.04.15
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仕事で群馬県桐生市、太田市に行ってきました。余震の中新幹線ダイヤも乱れる中、なんとか熊谷駅に辿り着き、同僚の車で仕事場へ。昼食は桐生市役所の近くの中華料理屋へ。創業以来"ジャンボ餃子"で有前な店とのこと。「中国料理 龍苑」麻婆打麺(マーボーラーメン)ともちろんジャンボ餃子を注文。麺は細麺。しかししっかりしたコシがある逸品。特性ジャンボ餃子(700円)のおおきいこと。皮はもちもち、具もジューシー。出来ればビールと一緒に・・・・と思ったのであった。昔ながらの店であり決して綺麗な店ではなかったが、店の内部にはご主人の趣味か、飛行機のエンジンとプロペラが展示されていた。店の片隅にはセルフの「無料キャベツ」が置いてあった。桐生市役所横の桜並木も真に満開状態。ステンレスの輝くモニュメントの表面は鏡の如く桜の花を映していた。シルクホール(桐生市市民文化会館)。スカイホールを載せた繭形の大屋根が大きな特徴。太田市役所で仕事を済ませ太田駅まで車で送ってもらった。太田駅北口・新田義貞公像。新田義貞のふるさとである太田市は、「スバル」の富士重工業の企業城下町なのである。東武伊勢崎線の特急で浅草駅まで戻ったのであった。
2011.04.14
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現在の我が部屋は、新築時は応接間として利用していたこともあり、室内照明としてかなり大きなシャンデリアが天井からぶら下がり、最近の余震の度に長い時間ゆらゆらと揺れて落下の危険性があるのでこの機会に撤去しました。取り外すのに苦労しました。それもそのはず30年以上ぶら下がっていたのですから。重さは約15kg程あったでしょうか。 近くの電気店に行き省エネタイプのLED電球を3個購入してきました。電球40W相当・570ルーメン・昼光色相当品です。LED電球とは、発光ダイオード (Light Emitting Diode:LED)を使用した照明器具のこと。最近では中村修二氏の青色LED訴訟が話題になったことがある代物。電球や蛍光灯に比べて余分な熱を消費しない為省エネタイプであり、CO2排出量が少なく、また寿命が長く取り替えなど維持管理コストが安いのが特徴なのです。早速交換しぶら下げてみました。消費電力は6.9W/個とのこと。LED電球の説明書も電気店からもらってきました。そして点灯。夜間は以前に比べやや部屋が暗いのですがこれも我慢・我慢・・・なのです。
2011.04.13
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日曜日に単独内検を行いました。産卵も順調です。大きなそして元気に動き回っている女王蜂。そしてもう1群。こちらの女王蜂も大きく、色もやや赤みが強いのです。作業終了後、油断して面布を外したところ、おでこを刺されました。
2011.04.12
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我が家の庭の片隅の半日陰の場所で『スノードロップ』が可憐な花をつけています。春先のこの時期に花を咲かせ、春を告げる花として知られているのです。マツユキソウ(待つ雪草)と呼ばれることもあり、花は日が当たると開花し、夕方には閉じるのです。名の如く『スノードロップ』雪の一雫を花に変えたような、そんなイメージがある小球根なのです。花は2cmほどの白で、3枚ずつの長い外花被と短い内花被を持つ六弁花。いくつかの種では内花被に緑色の斑点がある。白い花びらの先端の緑のグラデーションと下から覗くとうす黄色のめしべの調和が非常に見事なのです。つつましい下向きの小花をつけています。3枚の長い外側の花びらと、緑色の模様がある3枚の内側の短い花びらが、筒状に重なり合っていました。
2011.04.11
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我が勤務地の大崎の目黒川沿いの桜並木が満開になりました。先週末の木曜日の夕方には3分咲きでしたが翌日の朝には一気に開花が進みました。今年は桜も気温の上昇を今か今かと待ち焦がれていたようです。種類は『ソメイヨシノ』。葉より先に花が咲き開花が非常に華やかな桜。今年は東日本大震災の被災者に思いを馳せ、花見も自粛しているとのこと。『こういう時だからこそ、盛り上がりたかった。「東北」の酒飲んで支援』という声と、自粛は当然という意見の半々があるようですが。隅田川やお台場の花見用の屋形船も営業自粛とのこと。そして「自粛」に相当する英語の表現はないとのこと。一方「日本には、酒を飲んで故人を弔う文化もある」と話し「いま無謀な騒ぎをする人がいるとは思えないし、自粛するかどうかは各人が考えること」と自粛ムードにくぎを刺す人も。私の考えは後者。今回の日本という国家の未曾有の大災害の中、日本の大切な文化『花見』を自ら守るべきであるとの考え。我々日本人は何故桜にこだわるのでしょうか。桜は一輪一輪の小さな花は目立たぬが、一本の木に花が何十万と咲き誇り、さらにこれが並木や林のように連なると、表現しがたい感動的な美しさを生み出すのです。その様子が、集団性を重んじて「個」を主張せず、「和を以って尊しとなす」という日本人の価値観を表していると考えるのです。また、ほんの1週間しか花開くことなく、吹雪のように舞い散る桜の儚さに感動を覚えるのです。華やかに咲き乱れ、あっという間に散っていく様を武士道にたとえる人もいます。この花が日本人の心の中で大きな地位を占めているのは間違いないのです。花見は、日本文化の奥底をしっかりと表現していると考えているのです。 桜のトンネルの下を爽快に自転車を走らせ、職場に向かう人。桜は日本固有の花ではなく、アジアやヨーロッパにもあるのですが、日本のような花見文化は他のどこの国にも無いのでは。他にも多くの花があるにも関わらず、「花見」は桜が満開の季節だけの行事であり、国花としてこよなく愛するのもこの桜なのです。今日も午後から、投票の帰りに近くにある大学の『花見』に妻と行きたいと思っています。もちろんこの場所では「酒」は厳禁なのですが。
2011.04.10
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我が家の庭の様々な種類の水仙が今は盛りと開花しています。最近では毎年1種類のスイセンを追加で植え付けているのです。ラッパズイセン、大杯スイセン、小杯スイセン、口紅ズイセン、房咲きスイセン、八重咲き系スイセンなど多彩で華やかなスイセンが我が庭で楽しめるのです。
2011.04.09
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我が家の近くの農家のビニールハウスの前にある椿の花が目を楽しませてくれています。ツバキの語源は、光沢のあるさまを表す古語「つば」に由来し、「つばの木」で「ツバキ」になったとする説。「艶葉木(つやはき)」、や「光沢木(つやき)」の意味とする説。朝鮮語の「ツンバク」から来たとする説があるとのこと。漢字『椿』は、日本原産のユキツバキが早春に花を咲かせる春の訪れを知らせることから、日本で作られた国字と考えられているとのこと。正しく春の木。1本の木ですが、赤い花、白い花、赤と白の斑模様と賑やかです。白い花。斑模様になりかかった花。そして完全に斑模様に変身した花。命の終わる前の花。ツバキの花は花弁が個々に散るのではなく、多くは花弁が基部でつながっていて萼を残して丸ごと落ちるのである。それが首が落ちる様子を連想させるために入院している人間などのお見舞いに持っていくことはタブーとされているのである。この様は古来より落椿とも表現され、俳句においては春の季語であるとのこと。馬の世界においても落馬を連想させるとして、競馬の競走馬や馬術競技馬の名前としては避けられることが面白いのである。 ヨーロッパに伝来すると、冬でも常緑で日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、ヨーロッパの美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られいろいろな種類の椿の花が目を楽しませてくれているのである。通勤途上の道沿いには斑模様でもまた違う種類の花もあるのだ。子供の頃、ツバキの実に穴を開けて作る『ツバキ笛』を作ったことがあるが、その方法はどの様な方法であったのだろうか。椿油を絞った経験は残念ながら無いのである。
2011.04.08
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我が農園の下を流れる小川からセリ(芹)を今年も摘んできました。真白で長く伸びた根が見事でした。根はキンピラにも出来るようですが・・。もちろん春の七草のひとつで、ミツバ、フキ、ウド、ワサビとともに日本の野草から野菜になったものの一つ。 鉄分が多く含まれているので増血作用が期待できるとのこと。 家に持ち帰り、良く洗い枯れ葉などを取り除き整理しました。セリの名前の由来は、その生態から1箇所から競(せ)り合って生えている、ということから、セリと名がついたとされているのです。 既に純白の小花を多数つけている株も近くにありました。この日は野セリの佃煮で春の香りを楽しんだのです。鍋にサラダ油を熱しセリを炒めるのです。調味料は日本酒と醤油のみ。深みのある緑色で茎もしゃきしゃきした歯触り感が良く、セリ独特の香りも程好くあり旬の美味しさが、ご飯の供に最高の逸品でした。
2011.04.07
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娘が友人から頂いたとのことで『松山あげ』を我が家に持ってきてくれました。初めて見る大きな油揚げでした。袋には伊予名産との表示。『百余年の伝統を誇るふるさとの味』と。縦約20センチ、幅約15センチ。香ばしく中までしっかりサクサクの状態に揚がっているのです。パリパリの霜柱のように儚げで、乾燥した油揚げの感じでしかも表面は空気層のおかげでフワフワ。ちょっとした衝撃で割れたり欠けたりしてしまいそうにデリケートな逸品。この日は煮物で楽しみました。我が家で育った人参と椎茸を豚肉と一緒に煮込んでくれました。松山あげが旨みを吸うスポンジの役目をして味が染み通っていて絶品。そして何より生麩や餅のようなモチモチ感。おそらく初めての食感体験??次回は味噌汁の具として試してみたいのです。
2011.04.06
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沖縄旅行の帰りに空港の土産物売り場で『紅濱の唐芙蓉』を買って帰りました。「唐芙蓉(とうふよう)」は、琉球王朝ゆかりの旧家に伝わり、祝い事やもてなしに珍重された門外不出の秘伝の逸品。その製法は口伝のみで伝えられて来たと。20年ほど前に製法のメカニズムが見事解明され王朝秘伝の味が現代に甦ったのだ。娘が以前買ってきてくれたとうふように比べ独特のにおいが少なく非常に食べやすい一品であった。箸で少しずつ摘み、口にいれると口の中一杯に熟成された旨味が拡がったのです。冷や奴にこの唐芙蓉のタレを漬けて食べてみました。これも最高。このタレもいろいろな料理に使えそうでが、やや量が少なくなってしまったのだが。今度同僚が沖縄に出張する機会があれば、我が儘にも土産に買って来てもらおうと箱を残しておいてあるのだ。実は通販でも買えるようですが・・・・。ビールにも最高の一品いや逸品。
2011.04.05
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養蜂を再スタートしました。我が2群の西洋ミツバチは今回の異常な冬の寒さに耐えられませんでした。そして我が師匠のミツバチも同様とのこと。寒さに強い『日本ミツバチ』は野外で普通に棲息しており、越冬には特に防寒対策に注意する問題はないようです。我が家の横の農園の菜の花には、腹部全体が黒っぽい多くの日本ミツバチが何処からか飛来しているのです。一方、我が『西洋ミツバチ』は寒さに弱く、越冬での防寒が不十分な場合は群を全滅させることにもなり、越冬は大きな難関なのです。今年は新たに2群からのスタートとなりました。昨日の単独内検では2群とも元気に活動していることが確認出来たのです。女王蜂も元気に歩き回っており、産卵も活発であることが確認出来ました。我が養蜂場所で栽培中の菜の花も今は満開状態、ミツバチを歓迎しているのです。この花に多くの我がミツバチがブンブンと羽音をたてながら戯れています。今年の主注意点は1, スムシ対策2, 分蜂対策3, オオスズメバチ対策4, 越冬対策今週中には桜の開花も始まりますので、蜜と花粉を集めて群勢を高めて欲しいのです。
2011.04.04
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東京電力さんから我が家の3月の太陽光発電(京セラ、5.76kw)の『電気ご使用量のお知らせ』が届きました。今月は震災による福島原子力発電所の深刻なトラブルもあり、道路交通事情も悪化したことなどから、検針を中止した地域もあったようですが、我が家は検診が3月16日に行われたようで、いつものように我が家のPOSTに検針直後に入れるのではなく、郵送によりようやく届いたのです。期間:2月17日~3月15日(27日間)電気使用量 昼 :57kwh 朝晩 :269kwh 夜 :431kwh--------- 合計 :757KWH 金額 :11,297円そして『余剰購入電力量のお知らせ』です。購入電力量 :326kwh購入予定金額 :15,648円晴天が続いたため、2月とほぼ同じ売電量となりました。太陽光発電開始以来の余剰電力の売電金額実績です。前月(2月)分の領収書はいつもは電気ご使用量のお知らせの右側に付いているのですが今回はこれも郵送で別に送られて来たのです。東京電力(株)さんのHPによると、『検診が出来ていないお客さまの平成23年3月分の電気料金については、前月の平成23年2月分のご使用量と同一としてご請求させていただき、差額は次回の検針値によりご精算させていただきます。』とのこと。 高い評価を受けていた日本の原子力発電技術であるが、今回の原発事故がきっかけで、世界で原子力政策の見直しが進み、 日本政府もエネルギー政策の転換を迫られる可能性も十分あるのであろう。ただ一方では、『旧式の設計にも関わらず1000年に1回の巨大地震そのものでは原子炉も格納容器も破壊されなかったわけであり、これを改善したら極めて希望が持てるといえる 。津波対策と冷却系の改善、バックアップ体制の見直しにより 、人類が経験した最大規模の地震にすら耐えられるのだ』との意見があるのも事実なのである。交通事故があるから、車やめるか? 墜落事故がるから、飛行機やめるか? すぐには無理なことは自明であるが、数年かけて、いや十分年月をかけて、そして必要なコストをかけて、 安全にしていく選択肢しか日本にとっては無いのではないか??とも考えている住宅用太陽光発電の発電所長なのですが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
2011.04.03
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先日、我が農園の近くの休耕地にヨモギが芽を出していたので摘んで帰りました。早速妻が、草餅を作ってくれました。ヨモギを茹で、これを細かく刻みこれを擂り潰すのです。上新粉にお湯を混ぜ、耳たぶくらいの硬さになるまでこねるのです。これを蒸した後、少しずつヨモギを混ぜていくのです。そして食べやすい大きさに丸めて出来上がり・・・・ではないでしょうか。柔らかく香りが良いこの時期の早春の若芽が蓬餅には最適なのです。この日はオーソドックスにきな粉で楽しみました。こんなぜいたくなものを食べて良いのかな、という感じの味なのでした。日本人は遥か先史の時代から、自然のリズムに合わせた生活の中で、春の若菜摘みをしていたのです。この素朴な生活は、やがて中国大陸の文化の影響を強く受けつつ、平安朝のあの絢爛たる貴族文化を生み出していったのでしょうが、万葉集には、そこへの過渡期における生活が詠われているのです。5世紀後半の雄略天皇の御歌『こもよみこ持ち ふくしもよみふぐし持ちこの丘に菜摘ます児 家聞かな名のらさね空み満つ大和の国は 押しなべて我こそおれ敷きなべて我こそませ我こそはのらじ 家をも名をも』この歌の意味は『籠も見事な籠を持ち 竹べらも綺麗なへらを持ってこの丘で若菜を摘んでいる娘さんあなたはどこの家の子なのですか? 名前は?この広い空の下 大和の国はすべて私が支配しているんですよ私の素性と名前を言いましょう 驚いてはいけませんよ』 と。 今回の私の若菜摘みは残念ながら、若い娘さんの姿は全くなく花粉症防止用のマスクをかけての一人寂しい怪しい若菜摘みであったのです。 いや、自宅に戻れば、『家聞かな名のらさね』 の結果の『昔の』若い娘さんが草餅を作ってくれたのですが・・・・・・・・・・・・・。
2011.04.02
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3月19日~21日の3連休は沖縄の地を生まれて初めて踏んだのであったが、22日の朝に出勤すると部下から沖縄の案件で納期遅れが発生したため、謝罪に沖縄に行って欲しいとの言。入社後37年目にして初めて沖縄に念願かなって行ったのであるが、なんと皮肉?であろうか。沖縄から帰って1週間もたたない3月25日に日帰りで再び那覇空港へと飛んだのであった。往路の飛行機は先日の飛行機と全く同じ。羽田空港へのバスに乗り同様に向かう。ベイブリッジ通過。大黒ふ頭から見た 横浜火力発電所。横浜港の"みなとみらい"をすぐ近くに望む場所に位置し、高さ200mの排気塔(ツインタワー)をシンボルにもつ火力発電所。福島第一原子力発電所に大きな被害が出ている今日、これらの火力発電所に依存しなければならない日々が続くのである。 扇島火力発電所。こちらは東京瓦斯と昭和シェル石油の共同出資により設立された火力発電所。東京瓦斯扇島工場に隣接した東亜石油貯油地跡地にて、ガスタービンと蒸気タービンを組み合わせたガスタービンコンバインドサイクルによる火力発電を行っているのだ。菅直人首相は31日、記者会見を開き、原子力発電所新増設を盛り込んだ政府のエネルギー基本計画の見直しを検討する意向を表明したのだ。東京電力福島第一原発の事故にめどがついた段階で、同社の存廃を含む国内電力会社のあり方を議論する姿勢も示したのだ。 そして羽田空港から那覇空港に向かう。途中種子島の上空を通過してしばらくしてのことであった。飛行機の窓から下を見ると飛行機が同じ方向に飛んでいるのがこの目で確認できたのであった。もちろんニアミスではないが。我が飛行機の飛行高度は12192m。よって見えた飛行機の高度は10000m以下と考えられた。九州の飛行場から沖縄に向かう飛行機であろうか。それとも国際便?デジカメをズームにして撮影。ANAであることが明確に。ズームでなく肉眼でこの姿が見える事態は完全なニアミス。ニアミスとは半径150m、高度差60m以内の異常接近と定義されているのである。飛行機の中から飛行している他の飛行機を目撃できたのは久しぶりの体験であったのだ。
2011.04.01
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