全29件 (29件中 1-29件目)
1
今日は2016年2月29日(月)であり今年は「うるう年」でオリンピックの開催される年。しかし1900年のパリ大会が開催された年は、うるう年ではなく平年でしたが。平年よりも月や日の数が多い、もしくは1日の秒数が通常より多い事を閏(うるう)と言い、それぞれを閏月・閏日・閏秒と呼ぶのです。そしてうるう年(閏年)は、閏月・閏日が存在する年のことを指します。うるう年を実施する理由を一言で言い表すと、「地球が実際太陽の周りを回る周期と、人が作ったカレンダーとのズレを修正する」という事になるのです。うるう年を語るうえで外せないのが、太陽年とグレゴリオ暦の2つ。太陽年とは地球が実際に太陽の周りを回る、いわゆる公転の周期のこと。一方グレゴリオ暦とは、その太陽年をベースとして作られた太陽暦の1つ。地球が正確に365日かけて太陽の周囲を公転しているかというと、そういうわけでもない。 実際には365.2422日ほどかかっており、これを書き直すと365日と約5時間49分12秒。1年で6時間弱のズレがあるのです。このズレを4年間積み重ねると、ぽっかりとおよそ24時間分(4年間×6時間)=1日分のズレが生じてしまうのです。4年間でできた1日分のズレを埋める日、それが2月29日ということなのです。しかしこの調整は完璧なものではないのです。本当のズレは6時間ではなく5時間49分なので、うるう年を設定したことで、実は1年につき約11分の増やしすぎになっているのです。すなわち、正確には公転周期が365.2422日であるものの、我々の生活上1年は365.000日ですから、このままでは一周せずに(毎年0.2422日だけ早く)1年が終わってしまいます。この差をもって365日*4回分経過すると0.9688日(約1日)分手前で4年を迎えてしまいます。そのため意図的に1日追加させて、地球が元の位置に戻った状態で3月1日を迎えさせます。これがうるう年が必要な理由なのです。但し、実際には0.9688日に対して2/29の1.0日分の調整を行うと、今度は4年ごとに1-0.9688=0.0312日分元の位置より先へ進んでしまいます。このようにして24回うるう年迎えたら、次の25回目(つまり100年に1回)は2/29を設けないことにしています。そうすると100年分の誤差0.7497日分進んでいた分が0.7497-1=-0.2503日に戻ります。 そして、この繰り返しが400年続くと地球は-0.2503×4=-1.0011日手前で1年を迎えますから、この時はうるう年を設定します。こうすると400年経過しても誤差はわずか-1.0011+1=-0.0011日で済むのです。そのためさらなる微調整が必要になり、16世紀に例外として「西暦の年号が100でわりきれる&400ではわりきれない年」は、うるう年にはならないというルールを作ったのです。すなわち、400年が経つと、11分×400=4400分≒73時間、つまり約3日分の時間が増える。そこで、うるう年を3回減らすことで、約3日分の時間を減らすことにしたのですたとえば、西暦2100年、2200年、2300年などは、例外に当てはまるため、うるう年にはならないのです。西暦2400年は100で割り切れますが、同時に400でも割り切れるので、例外には当てはまらず、うるう年となります。更に考えると、現行の計算のままでは「4882年に1日分」のズレが生じることになるため、遙か未来には「2月30日」という日が誕生する可能性も?!あるのでは。それがいつかはわかりませんが、そのときは過去に起きた「2000年問題」のように、コンピュータ上の誤差によって社会が混乱しない対策も重要なのです。 (西暦2000年は、まさに100でも400でも割り切れる、特別なうるう年だったのです。)なかなか複雑なシステムであることが解っていただけたのでは。順序が逆?ですがEXCEL関数で西暦2012年~2111年までのうるう年の判定をしてみました。やはり西暦2100年はうるう年にはならないことが確認できたのです。そして私の生きている間は、必ず4年ごとに「うるう年」が来ることも確認出来たのです。出来れば「元気」で後4回のオリンピックを迎える事が出来ればと・・・・?!。 そして今日2月29日生まれの方の誕生日は閏年に限り到来し、平年に誕生日は存在しないのです。このため、誕生日を基準に何かを行う場合は、平年ではその前後の日を誕生日とみなす必要があります。日本の法律では、誕生日を基準とした行政手続に限り「みなし誕生日」を2月28日としているのです。また、年齢計算については、先日2月26日の我がブログ(誕生日に関するクイズの答え )で説明しました様に、もともと期間の満了は起算日応当日の前日であるところ、起算日を例外的に1日早く初日(出生日)とする関係で、1年間の満了(加齢)も1日早く誕生日の前日となるのです。このため、2月29日生まれの方は、平年・閏年を問わず、毎年2月28日24時に加齢されるのが日本の法律なのです。
2016.02.29
コメント(0)
今年も、長女のパートナーのお母様が出身地の沖縄の名産品の「タンカン」を送ってくださいました。タンカンはポンカンとネーブルオレンジの自然交配種とされるタンゴールの一種とのこと。中国の広東省が原産地とされ、亜熱帯性に適した柑橘類。日本には1900年前後に南西諸島に台湾から移植されたのを機に栽培が始まったとされ、それ以来、南国のみかんとして親しまれるように。 タンカンの果実は150g前後で球形に近い形。表皮の色は熟すと明るいいオレンジ色になりますが、黒いシミや傷が付き易く、見た目が悪い果実が非常に多いという欠点があるようです。外見が冴えなくても、中の果肉の味は甘く、水分豊富で美味。 切ってみると瑞々しいオレンジ色の果肉が全面に。何等分かに串切りにして、皮の部分を持ってかぶりつくように食べました。 房は薄いので果肉と一緒に食べても口に残らず気にならないで食べられるのです。 プリプリの果肉に濃縮でジューシーなタンカン、抜群の甘さがある上に、しっかりとした酸味が、濃く、深い奥行きのある味わいなのです。また、果汁の豊富さも特筆すべきで、さながらジュースをのんでいるかのような。遊びに来た長女夫婦や孫とともに爺ちゃん、婆ちゃんで大いに楽しんでいます。Fさん、毎年のお心遣い、本当にありがとうございました。
2016.02.28
コメント(0)
近所の農家の方から温室栽培のキュウリをいただきました。露地での栽培(露地栽培)よりも生長・収穫・出荷を早くする成栽培(そくせいさいばい)法で育てているのです。促成栽培を行う為に、ビニールハウスを利用して保温あるいは加温しています。出荷時期を早めることで、商品価値を高めることにつながるので。夏野菜であるこのキュウリをハウス栽培により、早春に収穫しているのです。3ヶ月のサイクルでキュウリとトマトを交互に栽培しているようです。キュウリのおしりに付いている花は新鮮の証。イボイボもはっきりと解ります。キュウリのイボはトゲが生えていた名残なのです。それではイボ(トゲ)は何のためにあるのでしょうか? 野生のキュウリはトゲの強いものが多く果実も苦いのが一般的。はっきりとはわかりませんが、トゲや苦味はキュウリの果実が小さなうちに動物などに食べられなくするためだと考えられています。果実が充分熟し、内部の種子が充実するころになると、苦味が消え、イボ(トゲ)も目立たなく、食べ易くなります。それで動物たちに種子を遠くに運んでもらえるようになるのです。調理・加工にはイボが邪魔?なため、最近はイボなしキュウリもつくられていますが。 この日はシンプルにキュウリもみで楽しみました。そしてこの日は、我が農園のキャベツを使って回鍋肉を。そしてブロッコリーもマヨネーズで。蕪の漬け物も。我が農園の収穫物でベジタリアンライフを楽しんでいます。
2016.02.27
コメント(0)
昨日のクイズの正解です。1)誕生日は1月1日2)今日は1月1日、愛ちゃんの14歳の誕生日。よって愛ちゃんはおとといまでは13歳でした。来年の1月1日は15歳になります。そして、これからが盲点なのです。来年の12月31日というのは愛ちゃんは16歳の誕生日の前日ですが日本の法律上は既に16歳になっているという扱いになるのです。何故日本の法律が上記のようになっているのかが謎ですが、学齢、結婚年齢等に関しては、誕生日の前日に歳をとるという規定になっているのです。 年齢の数え方は「年齢計算に関する法律」で民法143条を適用するということになっていて、簡単に言ってしまうと法律的には誕生日の前日午後12時に1歳年齢が加算されるということ。この民法143条は以下のような法文でとてもわかりずらい。一.週、月又は年によって期間を定めたときは、その期間は、暦に従って計算する。二.週、月又は年の初めから期間を起算しないときは、その期間は、最後の週、月又は年に おいてはその起算日に応当する日の前日に満了する。ただし、月又は年によって期間を 定めた場合において、最後の月に応当する日がないときは、その月の末日に満了する。これによると、例えば1月1日生まれの場合は12月31日の午後12時をもって1歳年が加算される。12月31日の午後12時は1月1日の午前0時とどう違うのか、という問題もあるが12月31日の午後12時で1歳年をとるということに決められているのです。この関係上でややこしいのが「4月1日生まれは早生まれ」になるということ。学校教育法では、保護者は「子女の満6才に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから満12才に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校(中略)に就学させる義務を負う」とされています。この「子女の満6才に達した日の翌日以後における最初の学年の初め」といもってまわった言い方がまた分かりにくいのですが、文部科学省の見解は、これは実質的には4月1日を指すのだそうで、4月1日生まれは3月31日に満6歳になっているとみなされ、学年が1つ前倒しになってしまうのです。よって、4月1日生まれの児童生徒の学年は、翌日の4月2日以降生まれの児童生徒の学年より一つ上、ということになり、一学年は4月2日生まれから翌年の4月1日生まれの児童生徒までで構成されることになるのです。確かに私が小学生の時に、私の誕生年S25年ではなくS26年4月1日生まれの子供が同じクラスにいたのです。そして誕生日の前日に年齢が1歳加算されることで多くの人が影響を受けるであろうと思われるのが選挙。今年から満18歳で選挙権を得られる(平成28年6月19日施行)わけだが、例えば投票日が11月13日の場合、11月14日の誕生日で18歳となる人は選挙権があるということになる。よって、他の有権者と同じように不在者投票もできる??。ただし、期日前投票はできない??。 今日も、この歳でいろいろと勉強になったのです。
2016.02.26
コメント(0)
ネットでこんなクイズを見つけました。愛ちゃんが友達に話します。「おととい 私はまだ13歳だったの。でもね、来年にはもう結婚できる年になるのよ!」友達が「ということは、16歳になるの」愛ちゃんが答えます。「そうよ。あったりまえじゃないの!!」愛ちゃんは嘘をついていません。問題1)愛ちゃんの誕生日はいつですか?2)今日は何月何日ですか?解った方は書き込み願います。正解は明日のブログにて発表します。
2016.02.25
コメント(0)
昨日に続いて今日は何の日です。昨日2月23日は静岡県、山梨県が制定した『富士山の日』なのです。静岡県は富士山について学び、考え、想いを寄せ、富士山憲章の理念に基づき、後世に引き継ぐことを期する日として、2月23日を「富士山の日」とする条例を制定。山梨県では富士山の豊かな自然及び美しい景観並びに富士山に関する歴史及び文化を後世に引き継ぐことを期する日として、2月23日を「富士山の日」としています。そういうことで、最近数ヶ月にわたって私が撮影した富士山の写真を再びまとめて紹介します。まずは昨年2015年12月16日に九州に向かった折の機上から。そして2016年1月1日の初日の出を見に行った江ノ島大橋より。 2016年1月14日 二宮・吾妻山の菜の花畑より同じく2016年1月14日 二宮・吾妻山の山茱萸 (さんしゅゆ)の木の背景に。2016年2月7日、魚釣り時の相模湾より。2016年2月19日 小田急線・小田原近くより。2016年2月19日 松田・西平畑公園 さくら祭り会場より。 2016年2月19日 松田・西平畑公園 さくら祭り 子どもの館前より。 富士山が世界『文化』遺産に登録されたのは平成25年6月22日。しかし富士『山』なのに、自然遺産ではなくて文化遺産なのです。さて、それは何故なのか?その理由・経緯については登山家の野口健氏の著書『世界遺産にされて富士山は泣いている』に詳しい解説が載っています。https://books.google.co.jp/books?id=3gowCAAAQBAJ&pg=PT43&lpg=PT43&dq=%E5%86%86%E9%8C%90%E5%BD%A2%E3%81%AE%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%B3%B0%E3%81%AE%E5%B1%B1&source=bl&ots=8Yvq0vacGW&sig=DiGR69dp2t9DLz_Lpx0glR0fAcw&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjM4p727I7LAhVBOKYKHW2MCicQ6AEILjAE#v=onepage&q=%E5%86%86%E9%8C%90%E5%BD%A2%E3%81%AE%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%B3%B0%E3%81%AE%E5%B1%B1&f=false上記の説明を纏めてみると1)既に登録されている世界遺産と比較してみると、円錐形の独立峰の山 (コニーデ式火山)は世界にいくつか存在しており形状は決して珍しくない。2)多様な火山タイプを含んでいない。富士山は「成層火山」であるが火山としても 既に「ハワイ火山国立公園」等、もっと激しい活火山活動の山が登録されている。 3)「自然遺産」は自然の雄大さがそのままの状態で保たれていることが重要。 しかし現在の富士山は、我々人間によって利用されすぎてしまい、本来の自然が 残っているとはいえない状況にある。4)富士山は長年、ごみの不法投棄や産業廃棄物の場所として活用されてきてしまったり、 登山道のトイレ整備が確立されていなかったりと管理体制の確立が急務。 (そう言えば陸上自衛隊の、『富士総合火力演習』も富士山に向かって大砲等を発射)このような理由から、富士山は自然遺産ではなく、文化遺産なのだと。そして自然遺産→文化遺産登録への方針転換の経緯についても詳しく書かれているのです。 富士山はその美しい形と季節や自然の中で見せる様々な姿も、他に類をみないほど素晴らしい山。だからこそ、古くから我々日本人にとって信仰や芸術の対象に。富士山を訪れる、いや眺める際は、古くからいろいろな形で日本人と接してきた富士山と、それに対する日本の人たちの思いを想像しながら楽しみたいと思っているのです。
2016.02.24
コメント(0)
テレビのニュースで昨日2月22日は『猫の日』。そして昨日2月22日の朝、気づいてみると我が部屋の横で野良猫が日向ぼっこ。『猫の日』は、猫の鳴き声の「にゃん」「にゃん」「にゃん」と日本語の「2」「2」「2」の語呂合わせにちなんだもので、全国の愛猫家からの公募によって決定したとのこと。「猫と一緒に暮らせる幸せに感謝し、猫とともにこの喜びをかみしめる記念日を」と、1987年に日本の猫の日実行委員会が制定したと。この猫はかなり太っているので、どこかの飼い猫なのでしょうか?時々我が部屋の前に来て、一泣きして存在を示してから日向ぼっこをしているのです。猫の日は世界各国で制定されており、ロシアは3月1日、アメリカ合衆国は10月29日とのこと。International Cat Day (World Cat Day) は8月8日と。
2016.02.23
コメント(0)
再びピンクと黄色の競演。 展望台には可愛い女の子の天使の木彫刻が。 左側にも対になって。 JR松田駅とを結ぶ送迎用シャトルバスが到着。何カ所かに撮影用展望台が作られていた。 菜の花が陽光を浴び黄金に輝いて。 上る時は時間が早かった為か、気が付かなかったが、帰路には多くのセイヨウミツバチは羽音をたて訪花中。 菜の花の甘い蜜を集めて何処に帰るのであろうか。近くに養蜂家がいるのであろうか?気になったのであった。東名高速道路・大井松田IC近くの緩やかなカーブが眼下に。この日は交通量はそれほど多くなかった。 3原色の共演が何処までも続いていた。 河津桜に訪花するセイヨウミツバチを発見。ややピンボケであったが。セイヨウミツバチは桜蜜も大好き。オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)の小さな花が斜面に。しかし可愛い花であるが可愛そうな花の名前である。 撮影用の絶景ポイントには、どこも人の群れが。 カメラの向きを変えて。 この野鳥はヒヨドリ?撮影の絶景ポイントには長蛇の列がここにも。先には撮影台がありそこに脚立が。そしてそこに上り絶景を撮影中のオジサン。並ぼうとも思ったがグッと我慢。 こんな掲示板が脚立の側に。帰路の下り坂から黄色の絨毯とピンクの天井、そして青空をこれでもかと楽しむ。 一面濃いピンクそしてその奥の青が私を包んでくれた。 珍しい白の河津桜?が1本だけ頑張っていた。最後にもう一枚富士山の絶景をこの日の見納めに。馬頭観音像が帰路の道路脇に。 下まで下りるとJR松田駅近くには公園へのシャトルバスを待つ長蛇の列が。行きはバス、帰りは徒歩の方々か? 行列が駅舎の前を通過して更に伸びていた。 早起き、早出発は三文の徳。JRの国府津行きは50分後のため小田急線で帰ることを決断。新松田駅まで徒歩にて向かう。新松田駅に向かう道路脇の側溝の雨水マンホールは 町の花「コスモス」が描かれていた。『町の花』は河津桜ではなくコスモスなのであった。汚水マンホールも 町の花「コスモス」が一面に。そして帰路は小田原経由ではなく、小田急線新松田駅から海老名→大和経由で帰宅したのであった。それにしても『なぜ日本人はこんなにも桜を愛でるのか』その答えはやはり『桜はあっという間に散るから』では。桜が満開なのは、ほんの1日。もう明日には散っているかもしれない。散ったら来年までもう見られない。だから見納めとばかりに、花見をする。花に限らず、人の生き方もどこか美しくはかないものに日本人は惹かれるのです。 どんなことがあっても倒れず、美しさを失って醜態をさらしながら堂々と存在しているものよりも、一瞬の美しさのために生きて散って行くもののほうが日本人には愛されるのです。これぞ『花鳥風月』、『一期一会』、『盛者必衰』、『諸行無常』。そして私のこの日の花見は文字そのままの『走馬看花』の如し。
2016.02.22
コメント(0)
松田山ハープガーデンを訪ねる。181種16,500本のハーブが植栽された、西平畑公園の中にあるハーブ園。ドライフラワー・アロマテラピーなどの様々なクラフト体験が出来る工房やハーブ料理が楽しめるレストランがあり、ショップでは関連ハーブグッズが販売されていた。 松田山ハープ館は著名な建築家高松伸氏により設計され、南北に広がるハーブガーデンが見渡せる。外観は円筒形を基調に曲面を多用したユニークな形。3階建ての半円筒形の建物で、1階がみやげ物、2階が工芸室、3階が展望レストラン。下からみると、まるで山の斜面に建設された水道用の配水タンクの如し。周囲には土産物のテント店が並んでいた。 最奥部のテント小屋はお好み焼きやうどんが食べられる食堂。 子供の館の前にある芝生公園にあった「箒を持つ少年像」意味は「いつも心に箒を持ち、訪れた人々に綺麗にする気持ちを持って欲しいと願つて」と。昭和17年に松田小学校を卒業された皆さんが平成17年に寄贈されたと。 縄文時代の屋外炉。平成1年から2年にかけての東名高速道路拡巾工事の時に、松田山の根石台地で発掘されたもの。およそ4000年くらい前の縄文時代の住居跡群にあった「炉」をここに移築したと。「子ども館」前には「チェリーナの丘(彫刻の丘)」と呼ばれる場所が。此処には彫刻家ドラゴン・マリン・チェリーナのブロンズ像が5体展示されていた。チェリーナ氏(1949年生れ)は、 激動する東欧のクロアチア共和国(旧ユーゴスラビア)を代表する彫刻家で、 世界各国で制作活動を続け、1974年のブエノスアイレス国際彫刻コンクールでグランプリを受賞したほか、 数々の国際彫刻コンクールで優勝。 また、ピカソ・キング牧師・キッシンジャーなど巨頭の彫像制作で知られており、 日本では、大阪で開催されたEXPO'90'などに出品、ユーゴスラビア・ガーデンのプロヂュースを担当した彫刻家とのこと。踊る少女の像『バレリーナ』。 『母と娘』 『母と子』 『プルコスニツァ』、意味は??『望郷』 まだ蕾の河津桜も。 こちらはほぼ満開。 さらに坂を上りミカン農園に向かう。 ミカン農園売店の中には自慢の写真が展示されていた。ミカン農園の絶景ポイント。 青空の中にJAL機が。 松田町自然館を訪ねる。 松田で見られる花と生き物を紹介。 丸まった杉の木の鉋屑?で作った暖簾のようなオブジェ。 ふるさと鉄道(ミニSL)の線路は桜のトンネルの下に。 桜の下に赤い鉄橋も。青空に映える河津桜。杉の樹の間から富士山が顔を覗かせた。ミニSLは次の運転に向けて出発地点で待機中。再び富士山の絶景が迎えてくれた。濃いピンクの花びらが陽光を浴びて輝いていた。子ども館は雛のつるし飾りの会場になっていた。 靴をビニール袋に入れて見学。地元の方々手作りの色とりどりの雛のつるし飾り約5500個が飾られ、その中でも西湘地域最大級、約5m(530個)の雛のつるし飾りは圧巻。 そしてその後ろには段飾りが。今年の干支の申の姿も。 展示用のつるし飾りを手掛けているのは、松田町内の主婦たちにつるし飾りやパッチワークを教えている「てずくな桃の会」。 「てずくな」とは、長野県等の一部地方の方言で「手仕事」のこと。広場まで戻ってみると、観光客の姿も次第に増えてきたのであった。
2016.02.21
コメント(0)
昨日、まつだ 桜まつりへ電車で行ってきました。前日の夜のテレビニュースで満開で見頃であることを知ったのです。JRで小田原駅へ。小田原駅構内に吊された巨大な『小田原提灯』。小田原提灯とは折り畳みのできる提灯のこと。江戸の頃に人気を博したのだ。小田急線に乗り換える。 ホームには まつだ さくら祭り のポスターと生け花の展示が。 開成町のお雛様も。 まつだ 桜まつり ポスターも。小田原駅から新松田駅まで車窓の景色を楽しむ。酒匂川の上流の狩川の鉄橋から白き富士山が姿を現す。 富士山の右側にはこんもりと矢倉岳が。おにぎりを立てたような特徴的な山容をしており、足柄平野から足柄山地の山々を眺めた際にひときわ目立つため、一目でそれと分かる標高870mの山。富士山の前に矢倉岳が重なり存在感を。 新松田駅に到着すると構内に河津桜の生け垣が。 小田急線 新松田駅。徒歩にて、まつだ 桜まつりの行われている西中畑公園に向かう。時間は朝の9時過ぎとやや早いためか観光客の数は未だ少なし。目の前に歴史を感じる板塀が。地元の老舗酒屋『中澤酒造』。季節限定の純米吟醸酒 松みどりが評判とのこと。予約すれば酒蔵見学も可能と。JR線の踏切を渡る。坂道を上っていくと正面の小高い山の中にピンクに染まった光景が現れる。 東名高速道路の下のトンネルを潜り暫く進むと『まつだ桜まつり』の歩行者入り口に到着。 階段を上り始めると見事な白き富士山の勇姿が。 今や満開の河津桜が迎えてくれた。松田山の斜面で、約360本の早咲き桜の河津桜が濃いピンク色の花を咲かせていたのです。河津桜と富士山。 絶景かな!!絶景かな!!。桜を傘にした真白き富士の嶺。坂を上っていくと桜の下に菜の花畑が拡がってきた。 頂上の丸い建物はハーブガーデン・『ハーブ館』。 ここは異次元の春爛漫。 河津桜に戯れるメジロを発見。羽を休めて動かなかったので慌ててシャッターを押す。見晴らしのよい斜面には大きなすべり台 「太陽のすべり台」が。早咲き桜と菜の花に囲まれた中、相模湾を遠く見ながらすべり台を楽しむことが出来るのです。途中に休憩所兼展望台も。そしてその下は滑り台のスタート地点。眼下には松田町並みと酒匂川と橋が。雲一つない真っ青な空、濃いピンクの河津桜、菜の花の黄色い絨毯。 頂上に着くと見事な富士山が河津桜とともに。 西平畑公園の案内板。公園のモニュメントと青空。 遠く大島の姿も。この河津桜の満開の時期に、この日の如く真っ白な富士山そして大島の姿までもが楽しめるのは非常にラッキーと係のオジサンが。 光る海・相模湾。 頂上から見える伊豆、箱根、足柄、富士の山々と相模湾の島々の案内板。 小田原城の天守閣は確認できず。今工事中? 関東の富士見百景の一つと。遠く、真鶴半島の先には初島、そして左側には利島までもが確認できたのであった。 富士山をズームで。美しい以外の言葉無し。
2016.02.20
コメント(1)
素数探しのプロジェクトGIMP(Great Internet Mersenne Prime Search)というパソコンのソフトウェア。この計算に使われた式(メルセンヌ数)を最初に発見したのは、フランスの数学者のメルセンヌという人物。ソートイ教授は言う。「計算方法は、まず2の累乗をどんどん求めていく。この場合、43,112,609乗。ここから『1を引く』と突然、素数に変わった。これが2008年に発見された、初めて1,000万ケタを超えた素数だった」と。 そしてつい2013に、1,700万ケタを超える大きな素数が発見されたと。三角数であれフィボナッチ数であれ、すでに公式が知られたものであれば、それを利用して10億ケタの数を探すことは力尽くできる。しかし、素数に関しては完全なミステリー。私たちは素数について、まだあまりにも無知なんだと。 『物事があまりに複雑になりすぎた時は、そもそも正しい質問だったのか問い直すべきだ。』これは素数の専門家、エンリコ・ボンビエリの言葉。彼の言う通り、一時期、素数の問題はあまりにも複雑になりすぎていたと。この「新たな問い」は15歳の少年によって投げかけられたのだと。その天才の名は「ガウス」。15歳の誕生日にプレゼントされた「対数の本」が、素数の世界に新たな幕を開くことになったと。 素数の並びの手がかりとして『素数階段』というものを考えていた。 数字の列を書き、素数に出会ったとき階段を一段上がるというものをイメージしたの。グラフを、ソートイ教授はこう説明する。「ここでガウスは、これまで『一つ一つの段差がどこにあるのか』とこだわり過ぎていたと。それよりも、この階段が『どのように増えていくのか?』、一步下がって大まかな傾向がないかを見てみることにした。そうすることで、ガウスの前に『秘密のパターン』が浮かびはじめたんだ」と。素数がどんどん大きくなるにつれて、パターンが見えてきたと。1~10の間に、素数は4個、割って2.5(N=10の時、N未満の素数の個数が4、N/素数の個数=2.5)という感じで調べていったと。1~1,000までに168個の素数があるということは、およそ「6個に1個」の割合で素数が現れると。1万までなら、およそ「8個に1個」。10万までは、およそ「10個に一個」が素数。10倍ずつの階段を上るにつれ、素数の現れる確率は下がっていっているのだと。より正確に記すなら1,000まで「6.0個に一個」、10,000まで「8.1個に一個」、100,000まで「10.4個に一個」1,000,000まで「12.7個に一個」見えてきたパターンは、確率が低下する割合。8.1から10.4への差は「2.3」10.4から12.7への差も「2.3」すなわちN/素数の個数がおよそ2.3ずつ増えていくことを突き止めた。ガウスは対数を使い、「ガウスの素数階段」を大まかに表す式を作った。この式で表すグラフで、どの範囲にどれくらいの素数があるか大まかに解るようになった。これを見つけたのはガウス15歳の時だ。つまり、階段の「段差の高さ」は奇妙にも整って来たのだと。 素数階段の近似式は下記の式で表されると。ドイツの数学者ベルンハルト・リーマンが1859年に自身の論文「与えられた数より小さい素数の個数について」においてリーマンの素数公式(Riemann's prime number formula)発表したと。 バイオリンという楽器の音の描くカーブは「ギザギザの波」。それは、その音がたくさんの音(正弦波)が重なり合ってできているから。バイオリンの出す正弦波は、バイオリンの弦の長さでそれが決まる。これが基本振動となり、さらにそこに「倍音」と呼ばれるいくつもの音の波が重なり合う。 そして『リーマン予想』の説明が。 この辺から説明に付いていくのがしんどくなって来たのであった。リーマンによる素数階段へのアプローチ。 君たちがCDプレーヤーで音楽を聞くとき、その『音量』も大切だとソートイ教授。そこでリーマンは、波の振動数と音量を別のグラフにまとめた。すると驚くことに、振動数はそれぞれ違うものの、波の音量はどれもまったく同じだった。すべての音が魔法のように一直線上に並んでいたんだと。てんでバラバラでも不思議でなかった、それぞれの音量。ところが、それらは完璧に同じだったのだ。それは偶然の一致には思えなかった。この直線はのちに、「リーマンの臨界線」と呼ばれるようになると。 この辺は私の能力の限界以上で理解が出来なかったが教授の話は上記の如く。リーマン予想についてミレニアム懸賞問題(一億円問題)の一つ。2015年現在,未解決。ミレニアム懸賞問題とは,100万ドルの懸賞金がかけられている数学の重要な7つの難問。『ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて臨界線上にあるはずだ』と。 これでは?? 何のことかよく全くよく分からない。素数の配列には何かの規則性があるはずだと考えていた数学者オイラーは、次のような式を考えた。そして、この素数だけの式の値がある数に収束することを証明した。 あらゆる整数は一意的な素数の積として表わすことができるので、次のように変換できる。 素数という、一見ランダムに出現するかに見える数を無限にかけていくと、完全な図形である円を表わす円周率が出現するのである。素数という単純な数が、ま だ我々には理解できない宇宙やこの時空を構成している基本的な法則と何らかの関係があるのではないかと想像され、ドキドキするではないか。整数や素数の級数を眺めていても円周率が出てくるような気配はまったく感じられない。しかし、突然πがでてくる。これには発見したオイラー自身も感動したと。一 見ランダムに出現している素数に、何らかの規則性がありそうだということ。それが円周率と関係しているらしい。素数のまだ明かされていないその不規則さを、人類はすでに利用しているのだと。インターネット上で安全性を確保する「暗号」がそれである。たとえば、9999911という数字。この数は、ある2つの素数の掛け算の上に成り立っている。そして、暗号を解くカギは、いわばその2つの素数。「君がクレジットカードを使ってオンラインで買い物をしたいとする。当然、カード番号の暗号化が必要だ。するとお店はこうした番号を送ってくる。実際はもっと大きな数だが、この数とカード番号を使った暗号がつくられ、お店とやり取りをする」とソートイ教授は言う。もし、その暗号の数字を簡単に素数に分解できる公式があるとすれば、暗号化された数字はあっさりと見破られてしまう。ところが素数にそうした式はまだ発見されていない。ゆえに、素数が用いられた暗号を解くには、途方もない時間と労力が必要とされることになる。これがインターネット上の暗号が安全だと考えられる理由であると。ソートイ教授はさらに「とにかく、インターネット上の暗号は、まだ素数を求める式が解明されていないことが前提になっている」と。実際には下の写真のごとき巨大な数字が暗号化に用いられているのだと。 後半は殆ど理解できなかったがソートイ教授は数学者に対する最大の挑戦は「素数」であると。「化学物質を分子や原子に分けることはできても、数字を素数に分解する簡単な方法はまだ存在しない」とソートイ教授は言う。それでもいずれ、リーマン予想でさえ証明される日が来るのだろうと。「その成果そのものよりも、そこに至る進歩そのものが私たちの大きな財産になるだろう」とソートイ教授は確信する。「私にとって、数学がまさに『生きた学問』であるのは、こうした問題のおかげだ。リーマン予想や素数を追い求める挑戦こそ、私にとって数学の醍醐味だと感じている」と。 久しぶりに暫く使っていなかった頭をフル回転し録画放送を楽しんだ??のであった。次はフェルマーの最終定理を復習しようかとも。フェルマーの最終定理とは自然数nに対して、 an+bn=cnを満たす自然数a,b,c は存在しない。 つまりn = 2 の場合、つまり、a 2+b2=c2 の場合は、 32+42=52 (a=3,b=4,c=5)という解や多くの解が見つかるが、 n ≧ 3 (n が3以上)の場合、 つまり、 a3+b3=c3 やa4+b4=c4 や a5+b5=c5 の場合は、 その式を満たす自然数 a、b、cは絶対に存在しないと。
2016.02.19
コメント(0)
先日、録画しておいたNHK・Eテレ「オックスフォード白熱教室」の「第1回 素数の音楽を聴け」を見た。 数学の世界の最も基本的な単位であり、“数の原子”ともいわれる「素数」。基本単位でありながら、素数はなぜてんでんばらばらに並んでいるのか?その並びには、意味はあるのか?数々の数学者が挑んでは敗れたこの謎に迫るのが、数学史上最大の難問「リーマン予想」。デュ・ソートイ教授が素数の世界を音楽にたとえて、その不思議の国へ誘ってくれたのでその主な内容を紹介したい。やや難しい内容も含むが。以下の画像は全て放送画面である。数学者とは?「その質問に私はいつも、数学者とは『物事のパターンを探す人だ』と答えていると。数学はパターンや法則を見つける科学。つまり数学とは『秘められた法則を探す科学』だと。そしてまずは導入として「次にくる数字は?」と問う。最初はこの問題、皆さんも考えて欲しい。正解は36三角数(さんかくすう)と呼ばれる多角数の一種で、正三角形の形に点を並べたときにそこに並ぶ点の総数に合致する自然数。n番目の三角数を Tn とすると、定義より(n(n+1))/2で表せると。次は有名なフィボナッチ数列。これは小説『ダ・ヴィンチ・コード』でも広く知られるようになった数列。正解は1.1.2.3.5.8.1.21.34で34。「フィボナッチ数列」とは,「前の2つの数を加えると次の数になる」という数列。次の数列は2種類の正解32と31があると。一つは、2の累乗で32そしてもう一つは円の領域の数であると。円周上にn個の点を取るとき、それらを結ぶ弦によって円はいくつの領域に分割されるか?(ただし、どの弦も平行でなく、また3本以上の弦が1点で交わることのないとする)よってこちらの正解は31。次にくる数字は?正解は23。これが素数の数列。 そして2.9.11.13.16、□□に入る数字は何か?。答えは26であると。もし当たった人がいたら、今週末の宝クジも必ず買うべきだ。そう、これは宝クジの当選番号だとジョークも。すべてのことに規則があるわけじゃない。じつはこうしたランダムな数列の研究も進められているが、残念ながら私はまだこの数列を見破る式は持ちあわせていない。もしあったら、ここにはいないだろう。南の島で暮らしているはずだと。 そしていよいよ素数の講義が始まった。素数(そすう、英: prime number)とは、正の約数が 1 と自分自身のみである自然数で、1 でない数のこと。即ち1より大きい整数のうち,1と自分自身以外の整数では割り切れないような整数。50までの素数は小さい順に次のようになる。2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43, 47全ての自然数は素数の乗算で表されると。たとえば105=5×3×7と。素数が心臓の鼓動だったらこのような不規則な脈拍にと。1回休んだり2~6回の休みが不規則にの重病状態。ところで、素数は計算で見つけることは可能なのか。これは大議論を生む命題として、数学界にいまだ残る「難問」。一見無秩序に表れる素数に、なんらかの規則性があるのではないかと数学者は考えていると。素数の規則性につながるとされているのが、数学界にいまだ横たわる難問「リーマン予想」。数学は美しい、という大前提のもと、数学が哲学に変わるかのような存在、それが素数。素数を最初に発見したのは誰か?「正解は、この小さな虫だ。どんな数学者よりもずっと昔に、彼らは素数を見つけていた」ソートイ教授が指差すのは「17年ゼミ」という素数ゼミという昆虫だと。周期ゼミ(素数ゼミ)は世界で最も長生きする昆虫の1つだが、寿命が奇妙なほど正確である理由は誰も知らない。周期ゼミはきっかり13年または17年だけ生きるのだと。もちろん13も17も素数。周期ゼミは多くの昆虫学者の好奇心を掻き立ててきた。「なぜ17年なのか? どうして周期が揃うのか?」の問題に対しては、小鳥などの捕食者に対する防衛戦略として進化したという説が有力であると。 事実周期ゼミには有力な天敵がいないのだと。長い年月を経て突如大量に発生するこのセミに対応できた天敵がいなかったと。もし天敵が6年周期で、セミが9年だったら、その最小公倍数である18年ごとにセミは危機にさらされる。ではセミの周期がより短い7年だったら? その最小公倍数は42となり、セミの周期が短くなったにも関わらず、セミが天敵と出会う確率は半分以下に激減するのだと。人間として、初めて素数を発見したのは、古代ギリシャ人だと。素数が無数に存在することの証明は、古くは紀元前3世紀頃のユークリッドの『原論』に記され、その後も多くの証明が与えられていると。素数の一覧表があれば便利だが、実は素数は無限にある。それを証明したのは古代ギリシャのユークリッドだ。彼はまず「素数が有限」の場合を仮定した。1)例えば、素数が、2から43までしか無いとする。2)全ての素数を掛け合わせ1を足す。3)この数は2~43のどの素数でも割り切れない。つまりこの数自身が素数か、またはリストに無い素数で割り切れるかどちらかだ。つまり、素数が2~43までしかない、という仮定が間違っていた。4)ではこの数を素数リストに追加すれば良い? 新しいリストの素数全てを掛け合わせた数に1を足した別の数で同じ問題が起きる。つまり、リストをいくら増やしても、ユークリッドはそれに1を足して同じ問題が起きることを示した。つまり最初の仮定が間違っていた。素数は無限に有る、と。 素数を見つけるのは簡単ではない。「素数を掛け合わせて1を足せば素数になるだろう」と思うかもしれない。確かに「2×3×5+1」=「31」でこれは素数だ。ところが「2×3×5×7×11×13+1」は「30031」で、これは素数ではない。何故ならば59×509=30031。2から13までの間の素数のどれでも割り切れないが、しかし素数ではないのだ。もし素数を求める方法を見つければ君の名は歴史に残るはずだ と。
2016.02.18
コメント(0)
久しぶりの太陽光発電の報告です。東京電力さんから我が家のH28年2月の太陽光発電(京セラ、5.76kw)の 『電気ご使用量のお知らせ』が先日届きました。 期間:1月18日~2月16日(30日間) 電気使用量 昼 : 117KWH 朝晩 : 548KWH 夜 : 562KWH--------- 合計 : 1,227KWH 金額 : 25,212円 先月1月は1,309KWH、 27,609円でしたので、-82KWH⇒-2,397円の減額になりました。 そして『余剰購入電力量のお知らせ』。すなわち東京電力(株)さんに買ってもらった電気料金です。 購入電力量 :288KW金額 :13,824円の結果。今月は11,388円の大幅赤字となりました。 「東京電力からのお知らせ・4月からの電力自由化についてお伝えします」です。 お客様から、よくいただくご質問と回答です。電気料金プランの説明です。 「再生可能エネルギー 発電促進課金のご案内」。「再生可能エネルギー発電促進賦課金」(電気料金の一部)とは、「再生可能エネルギーの固定価格買取制度」によって電力の買取りに要した費用を、電気の使用量に応じて負担する制度。平成27年5月分から平成28年4月分料金までは1.58円/kWhです。
2016.02.17
コメント(1)
澤田政廣記念美術館を後にし、庭園の奥に更に進む。 どこまでも青い空にどこまでも濃いピンクの紅梅。 韓国庭園入り口。 平成12年9月23日、森善朗内閣総理大臣と大韓民国の金大中(キム・デジュン)大統領の日韓首脳会談が熱海で行われた。翌日、両首が梅園内を散策されたのです。それを記念して、平成14年8月29日大韓民国の伝統的様式と手法を取り入れたこの庭園が完成。 庭園内の紅梅も今が盛り。 韓国古建築専門家の安聲浩(アン・スンホー)氏監修のもと韓国建築関係者の手によって建築された「堂」。多くの観光客が腰をおろしていた。 世俗より隠遁した学者の生活空間のイメージだと。詩歌を吟じ、哲学を愛する学者はかなりのイケメン。庭園には韓国料理の売店が。とっぽっきを購入して堂に腰を下ろし楽しむ。とっぽっきとは朝鮮半島の餅である「トック」を使用した朝鮮料理のひとつ。いわゆる餅の煮込み。妻にはチョット辛過ぎとのことでほとんど一人で完食。。韓国庭園の周囲を囲んでいる壁。瓦張り土塀と呼ばれ瓦で細工された塀で、下部は玉石張りに。塀の屋根瓦は韓国から取り寄せたものと。 高台からの梅園の姿は絶景。 中山晋平記念館。大正初期から大衆音楽の普及に大きな足跡を残した著名な作曲家「中山晋平」の居宅を西山町より梅園内に移築し、一般公開。中山晋平は昭和19年、第二次世界大戦がはげしくなり東京都中野区より熱海市に移住し、昭和27年に亡くなるまで居住していたとのこと。古木の梅の幹からの小さな枝に咲く白梅。 紅梅と白梅の競演。 こちらも。 そしてこれでもかと。 売店でお茶をご馳走になる。 枝垂れ紅梅も今が盛り。 土産物屋の雛のつるし飾り(ひなのつるしかざり)。江戸時代後期から伝わるここ静岡県・伊豆稲取地方の風習。 オオムとインコのお土産もカラフル。 出口にある梅まつりの巨大ポスター。 入口手前の熱海梅園の石碑。石碑には 「梅園」と彫られていたのであった。
2016.02.16
コメント(1)
先週の祭日を利用して、妻と熱海梅園に行ってきました。東海道線で熱海駅まで、そしてバスにて熱海梅園に向かいました。バスは熱海海岸通りを通過。熱海城が山の上に。熱海城は海抜100m・錦ヶ浦山頂にある観光施設。この熱海城という城郭は歴史的に実在したものではないのです。寛一・お宮の像。高等中学校の学生の間貫一(はざま かんいち)の許婚であるお宮(鴫沢宮、しぎさわ みや)は結婚を間近にして、富豪の富山唯継のところへ嫁ぐ。それに激怒した貫一は、熱海で宮を問い詰めるが、宮は本心を明かさない。貫一は宮を蹴り飛ばし、復讐のために、高利貸しになるという尾崎紅葉が書いた明治時代の代表的な小説は有名。そしてバスは坂を上り、来宮駅前を通過し熱海梅園に到着。 チケット売り場は混雑していた。熱海市内宿泊者100円で入場可能。我々は300円で熱海梅園に入場。 入り口正面の紅・白梅はこれから。 その奥の紅梅はすでに満開。 第72回熱海梅園梅まつりは 2016年1月9日(土)~3月6日(日)で開催中。見学者の数もかなり増えてきました。 こちらの白梅は満開。 枝垂れ桜は3部咲き。 紅梅は青空に栄えて。 メジロを発見、旨く撮れました。この日は「熱海芸妓連演芸会」が行われるとのこと。 樹齢百年を越える梅の古木を含め、59品種:472本の梅が咲き誇り 早咲き→中咲き→遅咲きと、順番に開花していくので、 お祭り期間中充分梅を楽しめるのです。 ここにも中国語飛び交っていました。 連続した木橋を渡る。 初川の流れも清く。 木瓜の花も負けじと。 小松勇次像。熱海梅園を、国から払い下げを受けた際の市長とのこと。梅見の滝。 もちろん人工滝ですが、かなりの大きさ。白、ピンク、紅のBEST MIX。 澤田政廣記念美術館。 こちらの枝垂れ桜は満開直前。 澤田政廣記念美術館への梅園橋からの眺め。 澤田政廣記念美術館に入館。文化勲章受章者、熱海市名誉市民である澤田政廣の彫刻作品をはじめ、絵画・墨彩・油絵・リトグラフ・陶画・ステンドグラスなどを展示していた。澤田政廣は高村光雲の孫弟子に当たると。生命力や情緒を感じる女人像。ステンドグラス「飛天」。エントランスホールの赤御影石の床が、 5mの高さで水平状態で飾られているこのステンドグラスを美しく映し出しているので、頭上と足元の両方で楽しむことができるのであった。 【http://atamii.jp/today/post-13538/】より転載。
2016.02.15
コメント(2)
先日、卒業した会社に用事が出来、久しぶりにJR山手線・大崎駅で下車。ここから五反田にある事務所まで徒歩にて向かう。多少約束の時間に余裕があったので大崎駅近くの入居神社に立ち寄る。「ニュー大崎」を抜けると、居木神社の鳥居が。居木神社は、品川区大崎、旧居木橋村と呼ばれていた地にある神社。居木神社の創建年代は不詳ですが、以前には居木橋の南方にあり、雉子の宮と称していたと。江戸時代初期に観音寺と共にこの地へ遷座、村内にあった貴船明神社、春日明神社、子権現社、稲荷明神社を合祀、五社明神社と称した。明治時代に入り、居木神社と改称、村社に列格したとのこと。 狛犬が左右に。向かって右側が口を開いた「阿像」で獅子。 左側が口を閉じた「吽像」。 手水舎の水盤には「洗心」または「心洗」の文字が。心の塵を洗いおとして心の煩累を洗い去り浄めて参拝せよと?。私利私欲の願い事はここ手水舎で捨てよと。しかし私の頭の隅にはふと大吟醸酒「洗心」が・・・・・・。まだまだ未熟者です。 拝殿。祭神は日本武尊、天児屋根命、大国主命、高龗神、倉稲魂命。 社務所。 御朱印を頂く。この神社は500円。御神輿 奉安寶物殿。中には欅の古木一刀彫の見事な御神輿が保管されていると。子供の成長を確認できる「成長のあかし」。 しかし、私にとっては成長→加齢・「加齢のあかし」とも読めるのであった。人間の身長は、成長期を終えて伸びるのがほぼ止まった後、中年期以降になると加齢に従って少しずつ縮んでゆく傾向があるのですから。 その下には可愛いい動物?の石像が。 開花を始めた枝垂れ梅とその後ろに拝殿。 石の鳥居とその後ろに赤い鳥居が続く。 稲荷神社。 厳島大神。 南西側の鳥居をくぐり境内を。 北側鳥居と入口。 この鳥居の前を通り坂を下り、山手通りに出て事務所に向かったのであった。そして再びさきほどの「洗心」の文字を想い出しながら。洗心とは、身の周りで起きたことを他人の責任にしないで、自分の中に原因を見つける作業。身の周りで起きたことに対して、他人に責任転換するのではなく、その出来事から「今、自分が何を学ぶのか?」を考えなければと反省しながら。
2016.02.14
コメント(2)
【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク先日、以前録画しておいた『元寇』に関する歴史番組を見ていたところ、私の住む市内に元(モンゴル帝国)の使いとして日本にやってきた5人を龍ノ口で処刑し片瀬の常立寺に埋葬し五輪塔が建てられ供養されているとの放送があったのでその常立寺を訪ねてみました。自宅から海に向かい30分弱にて常立寺に到着。入口横の駐車場に車を停める。 参道入り口には『伝元使塚』の説明板が。 山門に向かって進む。 山門手前の右側には三体の地蔵様が。 山門を入ると右手の六地蔵が迎えてくれた。 常立寺本堂と手前にお線香を焚く香炉が。 本堂には本尊・一塔両尊が安置されているとのこと。本堂の彫刻も見事。 境内に入ってすぐの左側に元使塚(げんしつか)が立っていた。ここ常立寺は今は、日蓮宗の寺であるが、元は真言宗の寺であったとのこと。近くの瀧ノ口の刑場で処刑された刑死者を弔う為に出来た寺であったと。文永11年(1274)10月蒙古の王・クビライは3万3千隻の船で対馬・隠岐を襲い、19日には博多湾に上陸をした。日本軍はたちまち敗走したが、台風により蒙古軍の船が難破し1万余りの兵が水死し、蒙古軍は引き上げていったのだ(文永の役)。資料によると翌年の建治元年(1275年)、再び元(モンゴル帝国)の使者・杜世忠ら5名が日本を服属させるため渡来し、北条時宗の命によって鎌倉に連行され、この寺の近くで処刑されたのだ。その6年後、弘安4年(1281)5月に蒙古は兵力14万、軍船4400隻で再来したが、再び台風に襲われ、蒙古軍10万人が水死。こうして北条時宗は日本の国難を切り抜けることが出来たのであった(弘安の役)これが「元寇」、蒙古襲来とも。大正14年(1925年),この元使650年記念に「誰姿森元使塚」が建立されたとのこと。石碑には斬首を前にして「杜世忠」の辞世の句が。『出門妻子贈寒衣 問我西行幾日帰 来時儻佩黄金印 莫見蘇秦不下機』 と刻まれている。門を出ずるに妻子は寒衣を贈り 我に問う、西行幾日にして帰ると来る時もし黄金の印を帯びたれば 蘇奏を見て機を下らざるなかれと「家を出る時、妻子は寒さを凌ぐ衣服を自分に贈ってくれ、西行(日本)からいつ帰ってくるのか、もし、首尾よく帰って来たならば、蘇秦の例のように機織の手を休めないということことはないでしょうと」日本との交渉に首尾よく成功すれば、故郷に残した妻子が暖かく迎えてくれるはずだったのに、遠い異国の地で処刑されてしまう無念を詠んだのだと。黄金の印を帯びるとは、日本との交渉に成功して出世することを言う。http://www.hbirds.net/postgallery/%E5%B8%B8%E7%AB%8B%E5%AF%BA/4866より常立寺元使五人塚の見事な香炉が五輪塔の手前に。上部に「誰姿森(たがすのもり)」の文字が。『大正14年(1925年)と言えば、大正12年の震災から2年、ここ湘南地方でも各地に被害を蒙った。そうした復興途上でこうした寄進がなされたのはどう言う訳か、この寺の檀家で97歳の古老の話によると現住職の先先代が単独で日中友好を願って横1メートル高さ2メ-トルの碑を建てた。又元寇記念館も開設し、元寇関係の遺品が陳列されていたと言う。(現在は消滅)かってこの常立寺周辺は誰姿森と呼ばれ、蕃神堂が存在していたと[新編相模風土記]に記されているが現在はない。73年前に片瀬の一隅にすでに、日中の友好を念願していた僧侶がいたことに改めて注目したい。』 と下記に。http://homepage1.nifty.com/shizshiz/ajisai/news/seichan/index15.htmlより転載。モンゴルで英雄を意味する「青い布」が五輪塔に捲かれていた。平成17年(2005年)4月7日、引退した元横綱の朝青龍や白鵬らモンゴル出身の幕内・十両力士らが参拝し、青い布を巻いて700年前の元使の霊を弔ったのだと。それ以来、毎年、この地への巡業の際にモンゴル出身力士による元使塚参拝が行われるようになり、モンゴル式にハタクという青い布が新たに捲かれていると。なるほど朝青龍の四股名に青の文字が入っていたのが理解できたのであった。 灯籠も歴史を感じさせてくれた。 この寺の名物の紅白の枝垂れ梅も開花を始めていた。 境内の仏像。 鐘楼。 十三重塔。 ハクセキレイ?が境内にノンビリと日向ぼっこ。 本堂横の社務所にて御朱印をいただきました。「南無妙法蓮華経」の文字が中央に、そしてその右に「誰姿森元使廟」の文字が。境内から六地蔵と山門を再び。 常立寺の白壁と鐘楼、十三重塔。
2016.02.13
コメント(0)
幼馴染が自分が保有している小型漁船での海釣りに誘ってくれました。朝8時にご自宅を訪ね、彼の車で、彼の弟、従弟の4人で係留している相模川の接岸施設に向かいました。 小型漁船とは言えかなりの大きさの漁船。船には女性の名前が、母親の趣味の俳号とのこと。 この接岸施設は船の出し入れはセルフとのこと。弟さんがアタットメントのついたブルトーザーにで船の牽引の準備を。船を載せた台車と繋ぎ牽引の準備完了。 相模川に向けて船を押していきました。 河川敷から富士山が白く美しく。 そして船は相模川に浮かんだのです。 そして4人で相模湾に向かって漕ぎ出す。 前方に国道1号線と東海道線が。 折しも東海道線が通過。 神奈川県茅ヶ崎市と平塚市間の相模川に架かる国道134号の橋・湘南大橋(しょうなんおおはし)が前方に。 相模湾に出ると1mほどの波が。富士山の下には雲が出てきた。 30分ほど釣り場所を決定するために相模湾を周遊。船主はGPSとソナーで場所を探していた。 波の状況は刻々と変化し、船酔いも始まり一時は撒餌状態寸前の危なくなった時期も。友人の手取り足取りの指導で何とか海釣りの形に。海底まで釣り糸を垂らし、底から数mの位置に餌針が来るようにと。海底の位置が変化するので定期的に海底の位置と釣り針の位置を確認せよと。コマセも付け餌もオキアミ。そしてアマダイは友人の弟さんが。 頭の部分をアップで。私のバケツの中。何とか小物ですが、数匹釣れました。大型の金魚のようですが・・・・・。サクラダイ?という魚だと。カナガシラという名の魚も数匹釣れました。友人の弟さんは中型のアマダイのほかにカナガシラや小型カレイや黒い魚も釣っていました。 海鳥も新人の私の腕が心配で様子を見に来ていました。箱根の山に雪雲が出てきたのでこの日の釣りは終了し帰港へ。私のお土産用に大きなアマダイも頂きました。 その夜、煮つけで白身の高級魚を楽しませていただきました。そして翌日もカナガシラを。 月2回程度は海に出ているとのことで、次回も誘ってくれるとのこと。次回は何が釣れるのでしょうか?
2016.02.12
コメント(1)
この日の朝に我がブログにアクセスしました。 アクセス数の表示が699762と70万回に近づいていました。 そしてこの日は妻と熱海梅園へ。帰宅して再アクセスしてみると既に70万回を突破し、700105の表示が。 ブログ開設は2008/04/10、開設以来2864日。平均アクセス回数は244アクセス/日との表示。日記記入率は93.7%。 最近のアクセス記録によると平均700~750アクセス/日前後。 これからも『つれづれなるまゝに、日ぐらしパソコンに向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。』の精神で、日々の出来事、想いを備忘録代わりに書き続けて行きたいと考えています。
2016.02.11
コメント(0)
今年も我が家の横の農園に植えてある紅梅が満開を迎えています。 濃いピンクが青空に映えていました。 昨年かなり枝を落としましたが、見事に開花してくれました。 毎年、梅は白梅よりも紅梅のほうが咲くのが早いような気がしますが。運良く紅梅に訪れたメジロを。寒い寒いと言っていたら立春も過ぎ、季節は確実に巡ってきているのです。平安の昔しから花見と言えば梅を見ていたそうです。豊臣秀吉の醍醐の花見以来、花見は桜になったようですが、早春に咲く梅に癒されているアクティブ シニアなのです。
2016.02.10
コメント(0)
昨年末に長女に第二子の男子が誕生しました。この日は我が孫のお宮参りに行ってきました。夜には雪との天気予報で心配していましたが、なんとか雨に留まってくれました。横浜・桜木町近くにある伊勢山皇大神宮に地下鉄そして急な坂道を徒歩で向かいました。 記念館は立派な会館になっています。記念館内の巨大な絵画。 蘭の花も美しく。 娘のパートナーのご両親は佐倉から前夜泊で横浜まで、そして長女家族とも定刻に伊勢山皇大神宮で合流。おねいちゃんも弟と一緒に張り切っていました。 待っている間に神宮内を散策。手水舎。 「神光楼」という塔。 「四海を照らす」の文字が見えました。伊勢山皇大神宮。入口には珍しい注連石と注連縄が。本殿。御祭神はもちろん天照大神(あまてらすおおかみ)。 境内神宮の杵築の宮/子之大神(きずきのみや/ねのおおかみ)階段下には赤い芸術作品が。 プロかアマチュアかを問わず誰でも出品でき、入賞などの審査も行わない展覧会「横浜開港アンデパンダン展」が開催中。「アンデパンダン」はフランス語で自主独立を意味する言葉。誰もが自由に作品を発表し、表現できる場を提供しようと横浜開港150周年の2009年に始まり今年で4回目となると係の方から説明をいただく。記念会入口左や庭園内にも数々の作品が展示されていました。記念に御朱印も頂いて来ました。申し込み時間になり社務所で手続き開始。 この日の主役の長男は、佐倉のおばあちゃんに抱かれ巫女さんから祝着の衣装を。祝着にはポピュラーな鷹の柄が。お宮参りとは赤ちゃんの誕生を祝う行事の一つ。生後1ヵ月頃に神社に参拝し赤ちゃんの誕生を祝い健康と長寿を祈ります。正式には男の子は生後31日目、女の子は生後32日目ですが、赤ちゃんやお母さんの体調を見ながら、お天気の良い日や日柄の良い日を選ぶのです。お宮参りの儀式は撮影禁止でしたが無事終了。その後に家族で記念撮影を。写真撮影を待つおねいちゃん。今日は弟が主役であることを自覚していたのです。そしてお宮参り完了後は近くの店で食事会。 鯛が尾頭付きで。 刺身は金箔付で豪華。鯛の眼も我々を祝ってくれていました。ふぐの土瓶蒸しが登場。別の刺身も。 柔らかな肉も。 おねいちゃんはお腹も一杯になり、お父さんのスマホで遊んでいました。天麩羅そして仕上げのご飯。 デザートも。 寒い一日でしたが、暖かい賑やかなお宮参りとなりました。日本には赤ちゃんの誕生と健やかな成長を願って、生誕約1か月目に、両親と父方の祖母が付き添って神社にお宮参りをする風習があるのです。この子の無事に生まれた感謝と健やかな成長を家族全員で願ったのです。 【フリーイラストより転載】
2016.02.09
コメント(0)
辺津宮(へつみや)から江ノ島弁天橋 江ノ島大橋そして江島神社への参道が見えた。 辺津宮には境内社がいくつかあります。まず一つ目は八坂神社。辺津宮の左手の参道を少し行ったところに鎮座。 秋葉稲荷神社。御祭神は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;秋葉神)と豊受気毘売命(とようけびめのみこと;稲荷神)。こちらは、秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷など、江の島各地にちらばっていた小祀を合祀したもの。宋国伝来の古碑。「宋国伝来の古碑」表示説明文によると『江島縁起によれば、元久元年(1204年)に渡った源実朝の使節良真が、慶仁禅師より、江の島に因んで授けられたと伝えられ、碑面の四辺を細線で刻画し、上方に左右から双龍形を陽刻し、大日本国江島霊迹建寺之記と篆書されていますが、碑名は磨滅して読むことができません。 このため、元禄14年(1701年)に杉山検校の門弟、島岡検校が雨よけを寄進しました。』と、 むすびの樹。絵馬に願いをこめて辺津宮の境内に有る『むすびの樹』。二つの幹が一つの根で結ばれている大銀杏の『御神木』です。この銀杏のように一つに結ばれますようにと願いをこめて、沢山の良縁を願う人やカップルが、『むすび絵馬』を奉納しています。『ピンクの絵馬』が鮮やか。 江の島ヨットハーバーが眼下に。 「江の島歌舞伎」手形 。平成11年に江の島歌舞伎が行われたと。尾上菊五郎、尾上菊之助の手形。中津宮が前方に。 中津宮()は、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)()をお祀りしている。 中津宮は、853年(仁寿3年)、慈覚(円仁)による創建と伝えられている。1689年(元禄2年)に改築。更に進むと江の島灯台が前方に。2003年4月に江の島観光灯台として展望台が開業。 灯台下の広場には様々な花が開花中。 奥津宮まで足を延ばす。江島神社の奥津宮は、本宮御旅所と称され、夏期の避暑地だった。祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)。壮麗を極めたという社殿は、1841年(天保12年)火災により焼失。現在の社殿は翌年に再建されたもの。源頼朝寄進の「石鳥居」や、拝殿天井の「八方睨みの亀」が知られている。戻ってくると江の島灯台の手前の広場で大道芸人が奮闘中。 中津宮隣にあるこの水琴窟入口まで戻る。 手水鉢からひしゃくで水を汲んで下の岩の隙間に水を落とすと、澄んだ美しい音色が響くもの。 私も音色を楽しみました。日本人の感性に感激。 更に下ると児玉神社の碑が。日露戦争で活躍した明治時代の軍人・児玉源太郎を祀った神社。 瑞心門まで戻る。 そして今回の藤沢七福神めぐりは完了したのであった。 全ての七福神のスタンプを指定用紙にいただいたのであった。
2016.02.08
コメント(0)
江の島の中にある江島神社(えのしまじんじゃ)に車で向かう。途中、片瀬東浜海岸では、寒中神輿錬成大会が行われていた。 湘南:江の島に春を呼ぶ寒中神輿。藤沢鎌倉神輿連合会の主催。参加しているのは、片瀬諏訪睦・藤沢伊勢睦会・腰越小動会・藤沢鳳龍会。正午前に神事を済ませた四基の神輿が新成人を乗せて海に入っているようでした。橋を渡り駐車場で混雑の為、しばしの入場待ち。駐車場に車を停め徒歩にて江島神社に向かう。江の島の入口にある青銅のこの鳥居は、本来は三の鳥居ですが、一の鳥居・二の鳥居は既になく、現存するのはこの三の鳥居のみ。 参道途中の旧岩本院の石碑。江戸時代までは岩本院と言われ、弁天社の本宮をあずかった一山の総別当とも言われる由緒ある院。弁天信仰が盛んだった江戸時代には、勅使、将軍、大名などの宿泊所として栄えた。ちなみに歌舞伎の白浪五人男に登場する弁天小僧は、岩本院の稚児がモデルであると。江島神社の鳥居と山門。 日本三大弁財天を奉る江島神社は、「辺津宮」「中津宮」「奥津宮」の三社からなる神社。朱の鳥居前には巨大なしゃもじかと思いきや、弁財天様の琵琶を形どった看板に 「日本三大弁財天 江島神社」の文字が。エスカー乗り場。ここ江の島の頂上に行くには数百段の階段を上り下りしなければなりません。そこで、昭和34年に国内初の屋外エスカレーターとして、高低差46メートルを4連で結ぶ全長106メートル の「江の島エスカー」が登場。 この赤い橋を渡って江ノ島神社の先の弁天様の所に行くようです。江島神社の御神門。 竜宮城を模して造られたもので「瑞心門」と呼ばれている。 瑞心門と書かれた扁額。 弁財天と童子の像。 更に階段を上り、瑞心門を振り返る。 手水舎。 茅の輪くぐり。古典(捨遺集)に「水無月の夏越の祓ひする人は、千年の齢延ぶといふなり」と記されているように、古来よりこの輪をくぐると悪事災難から逃れられ、延命長寿になると言い伝えられている。辺津宮に到着。参拝の長蛇の列が。田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をお祀りしています。 「辺津宮」の扁額。社務所。江島神社と弁財天の2種の御朱印を頂きました。 藤沢七福神のスタンプも。 辺津宮の拝殿の左手に奉安殿があり、神奈川県の重要文化財に指定されている。 八臂弁財天と、日本三大弁財天のひとつの妙音弁財天が安置されています。 中津宮内にある「弁財天黄金浄水」。弁財天の神使”白龍王”は高さ3mあり、水源には純金の小判が秘められているとのこと。昔から黄金の水は「健康によい」「運が開ける」「声がよくなる」「美しくなる」と。こちらの弁財天様の琵琶を形どった看板には江島神社の絵図が。
2016.02.07
コメント(0)
本堂内部。 祈願受付所。 毘沙門天の御朱印を頂きました。スタンプも。龍口寺御霊窟。龍ノ口法難のとき日蓮が処刑まで入れられていた土牢。中には日蓮の銅像が安置されています。 その横の洞にも観音像が。経八稲荷大明神。 本堂左側の階段を上ると七面堂が。法華経信者を守護するという七面大明神が安置されている。他に日朝上人像、鬼子母神像も安置されていると。 釈迦如来像を祀る仏舎利塔の平場。昔はまっ白な仏舎利塔であったが大分黒くなっていた。 その中に 以前は洋上に浮かぶ江の島を望むことが出来たのですが、この日は立ち並ぶマンション群の先に島の上部だけが頭を覗かせてくれるだけ。 江の島灯台をズームで。 龍口寺の歴代上人の墓? 神奈川県唯一の本式木造(総欅造り)五重塔。明治43年(1910年)の建立。銅板葺、一辺 4.5m。再び本堂の見事な彫刻。 大書院。 そして仁王門まで戻ると目の前に江ノ島電鉄が通過。
2016.02.06
コメント(1)
片瀬海岸近くにある龍口寺に到着。日蓮宗の寺院で山号は「寂光山」。日蓮宗の本山(霊蹟寺院)で「池上法縁五本山」の一つ。入口には仁王門がどっしりと。 仁王門の左手の小高い場所には龍口刑場跡が。鎌倉の古寺をひかえ、湘南海岸や江ノ島などの観光名所が随所にあるこの龍ノ口は、鎌倉時代、罪人を斬首する刑場だった。日蓮聖人は、『立正安国論』を鎌倉幕府に奏上したことが、貞永式目の「悪口の咎(とが)」にあたるとして、市中引き回しの上、この地で斬首されそうになった。その刑場跡に立てられたのが、この龍口寺。仁王門の仁王尊像は彫刻家 村岡久作氏の作。 阿形像。吽形像。 山門。 山門には見事な彫刻が施されていた。日蓮宗橘紋の描かれた幕も飾られていた。山門を潜ると階段の上に本堂が。 右手の手水舎。 妙見堂。享保5年(1720)建立。欅造り銅版葺。龍ノ口法難、光の松の材木で造られた妙見大菩薩を奉安すると。本堂への階段を更に上る。 本堂は天保3年(1832)建立。欅造り銅版葺。間口12間・奥行き15間。神奈川県の代表的な木造大建築物で、正面には中老僧日法聖人作の日蓮聖人像が安置され、脇陣に六老僧・鬼子母神・清正公像等が祀られている。敷皮石を安置することから「敷皮堂」とも称し、堂内正面にその扁額が掛かる。 境内では湘南・龍口寺骨董市が開催されていた。 陶芸品や木像等々の骨董品店が並んでいた。 日蓮聖人像。 鐘楼堂。昭和44年、龍ノ口法難750年を記念し、中山法華経寺から移築。700貫(2.6t)の梵鐘は新たに鋳造され、「延寿の鐘」として、毎朝妙音を響かせている。 鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にもよく登場する刑場であった当地は名高い龍ノ口法難の舞台となりました。1271年(文永8年)9月13日午前2時頃、『立正安国論』の諫言により幕府に捕らえられた日蓮は、ここ、龍ノ口刑場の敷皮石(首の座)にすえられ、処刑をまつばかりとなります。すわ処刑という瞬間、江ノ島の方角より光るものが飛び来たり、死刑執行の役人たちは目がくらみ死刑執行ができなくなったと伝わります。この奇跡からこの地は日蓮宗の霊跡、霊場として篤く信奉されるようになったのです。 龍口寺の浄行菩薩。日蓮は浄行菩薩の化身ともいわれています。 浄行菩薩に近づいて。 本堂正面にある「線香台」。本堂より振り返り山門を望む。
2016.02.05
コメント(0)
養命寺から車で5分強で皇大神宮に到着。正式名称は「皇大神宮」であるが「烏森神社」や「神明宮」とも呼ばれている神社。 高校時代は、この付近をクラブの練習で走った場所。一の鳥居前を左折し参道沿いを駐車場に向かう。車を降り二ノ鳥居を潜り本殿に向かう。 「相模国土甘郷(とかみごう)総社皇大神宮 由緒」第53代淳和天皇の御代天長9年(832年)、御社殿造立の記録があり、勧請の時期は更にどれほどさかのぼるべきか詳らかではないが、創建の極めて古いことは明らかである。天喜3年(1055年)、元亨2年(1322年)、天正13年(1585年)、昭和60年(1985年)と造営を重ねられている。御祭神は天照皇大神、相殿に天手力男命、天太玉命、天児屋根命、天宇受売命、石凝刀売命を奉斎している。 境内配置図。毎年8月17日に行われる皇大神宮例祭で披露される山車の蔵。 祭りのすべての行事が半日で終わるため、「 いっとき祭 」、また、「 鵠沼のバカ祭 」といわれている。山車は、昔は各町内に保管され、町を巡行したというが、今は神社の境内に9台分の蔵が造られ、境内で組み立てたあと、神社から200mほど離れたところへ引き出し、約1時間かけて神社へ巡行する。境内に整列した山車は、神社の神事にあわせ、囃子を演奏し競演する。神事が終わると、山車も即分解され、境内のこの蔵へ格納されるのだと 社務所で頂いた案内書から転写。町内毎に異なる山車が9台。山車の頂上には有名な武士・天皇が。宮前の那須与一、上村の源頼朝、清水の神武天皇、宿庭の源義経、苅田の徳川家康、大東の楠木正成、中東の浦島太郎、原の日本武尊、堀川の仁徳天皇の順番で山車が境内に集まるのです。山車は、一本の柱(一本柱)を台輪に立て、それに高欄・人形などを固定してある。高欄は3段で3層であるが、4層(4段の高欄)に見える。2・3段の高欄と人形が一本柱に固定され、その高さが約8mもあるため、山車が動くたびにゆさゆさと揺れ、極端にいえば各高欄と人形が別の方向に揺れているように見えることもある。また、高さの割にホイールベースとトレッドが短く地面の凸凹が拡大されて揺れが大きく、山車が引かれるときのこの揺れも見所である。子供の頃、祖母に連れられてこの神社の近所に住む叔母の家に行きこのお祭りを楽しんだことを想い出したのであった。現在でも珍しい山車、囃子の演奏・競演が楽しい祭りなのであるが、開催日は今でも毎年8月17日と固定されているため久しく見ることが出来ないのであるが是非今年は!!。三ノ鳥居の前の階段を登り本殿へ。手水舎。 狛犬。 1104年(長治元年)には、鎌倉権五郎景政がその所領大庭荘を開拓し、伊勢神宮に寄進したことから「大庭御厨」と呼ばれるようになり、大庭御厨の総鎮守として尊崇を集めたと。源平合戦の屋島の合戦で、平氏の掲げた扇の的を見事射抜いたという那須与一が弓と矢を奉納したとも伝えられているのだ。 境内には樹齢600年の巨木など樹木が多く、かって烏が多く棲んでいたことから「烏森神社」ともいわれているのです。境内社の石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)が本殿の左側に。この皇大神宮の社伝によると、現皇大神宮の建立以前に石楯尾神社があったとされると。伊勢ノ宮。 稲荷神社。 豊受稲荷神社。 山王社。 恵比須の宮。藤沢七福神の恵比寿様が。豊受ノ宮。 境内にはお参りの方々の姿も増えてきた。 社務所。 各種の絵馬や御札。 御朱印を頂きました。恵比寿様のスタンプもGET。
2016.02.04
コメント(0)
この日の藤沢七福神巡りは旧東海道沿いにある曹洞宗の寺・養命寺へ。旧東海道の引地川に架かる「引地橋」を渡る。渡った「引地橋西交差点」から100m程で右斜め上にある寺・引地山養命寺。1570年(元亀元年)に本寺の宗賢院第三世の暁堂元龍によって創建されたと。本尊は、1197年(建久8年)の銘をもつ薬師如来坐像。源頼朝に仕えた大庭景義の子・景兼の守護仏であったと伝えられ、国の重要文化財に指定されている。本堂には十二神将、天井には224面の天井絵を見ることができまた。扁額は「引地山」ではなく「紫王堂」か。藤沢七福神の布袋尊。 永代供養墓と永大供養塔。「江戸六ノ講中」と刻まれた石桶。「講中」とは本来は仏教の講話を聞くために集る人々の集会を意味した「講」を作って神仏にもうでたり、祭りに参加したりする信仰者の集まり。私が子供の頃は、祖母や父母が使う言葉であったが・・・・。藤沢七福神めぐりのポスター。御朱印を頂きました。そしてスタンプも。
2016.02.03
コメント(0)
藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしている白旗神社に到着。入口にあるのは日本初のグラスファイバー製の鳥居。高さ8メートル、幅6メートルの明神鳥居で、昭和59年12月に建立。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたと。 御祭神の寒川比古命は、太古の時代に、関東地方を開拓された神様。農業、漁業、土木、商工業、建築など、さまざまな開発をされ、関東文化の基礎を築かれた。そのため、土地や人々、仕事全般の守護神として、また唯一の八方除の守護神とし て、人々に親しまれてきた。地相・家相・方位・日柄・厄年等に由来するすべての悪事や災難をとり除き、開運をもたらすと。 そして源義経公。白旗神社と刻まれた石碑。平成8年8月に建立。 大御神灯。 慶応元年(1865)6月に建立。高さ17尺(5.1メートル)、台座の底辺は7尺(2.1メートル)。手水舎。新年にはこの手前で茅の輪くぐりも行われていたが、既に片づけられていた。階段を上がったところにある源義経公鎮霊碑。平成11年、義経没後810年を経て、義経公の首実検のあった6月13日に白旗神社の御首と宮城県栗駒町判官森御葬礼所の御骸、両地の魂土(たまつち)を合祀し、義経公の兜を象ったこの鎮霊碑を建立したと。 社殿。この社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。 昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置。 源氏ですから家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」があちこちに。拝殿には「忠友殿」の扁額が架かっていた。弁慶の力石。元(霊)玉、神石とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないという言い伝えが。昔、茶店で一服した農家や町内の若者たちが亀の甲羅に似たこの巨石を持ち上げて力比べをしたと。神輿殿。昭和54年5月、白旗神社神輿保存会が結成され、これを契機に昭和55年11月に造営。中央に儀式殿があり、向かって右に義経、左に弁慶の二基の神輿を収蔵。 御神札授与所・社務所。 御朱印をいただく。 七福神 毘沙門天のスタンプも。 巨大な絵馬。今年の干支の申が持つ的板を見事に貫く義経の姿が描かれていた。境内の築山には春日灯篭・雪見灯篭が。そしてその手前には湯立神楽の説明板が。たくさんのおみくじが結ばれていました。 御嶽山石碑。昭和9年9月に建立。医薬の神様として昔から信じられてきた木曽の御嶽大神を祀り、病気の苦しさを和らげるよう祈願したと。
2016.02.02
コメント(2)
遊行寺を後にし、徒歩で10分ほどで常光寺(じょうこうじ)に到着。常光寺は、浄土宗の寺院。山号は、八王山。正式名は「八王山 摂取院 常光寺、鎌倉光明寺の末寺であったとのこと。入り口でお地蔵さんが出迎えてくれた。境内にも数々の新作石像があった。本堂前の境内には真新しい大きな角塔婆が。本堂。元亀3年(1572年)に光明寺二十七世の明蓮社光誉(西隠)が創立。本尊は阿弥陀如来三尊立像。境内の子育て観音像。六地蔵様:帽子も前掛けもきれいであった。六道において衆生の苦しみを救うという六種の地蔵菩薩。すなわち,地獄道を救う檀陀(だんだ),餓鬼道を救う宝珠,畜生道を救う宝印,修羅道を救う持地,人道を救う除蓋障,天道を救う日光の各地蔵の総称。像の高さが微妙に違うのであったが。庚申供養塔。中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔。説明板には詳しく書かれていた。寺務所。寺務所の前で七福神・福禄寿のスタンプをGET。カタツムリと亀の可愛い石像。かながわの名木100選の碑。かながわの名木100選のカヤは、墓の真ん中に。両端に可愛い豚がいる石のベンチ。常光寺を後にし、市民病院前を通過。ここのバス停には江戸時代の藤沢宿の説明板が。このバス停東側には藤沢御殿があったと。藤沢御殿は、相模国藤沢にあった徳川将軍家の御殿(別荘)。藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596年)、東海道を利用する際の休憩・宿泊施設として徳川家康が築いたと。浮世絵で見る藤沢宿。藤沢宿は1601年に誕生したと。同じく広重の東海道五拾三次 藤澤(狂歌入東海道)安藤広重の「東海道五十三次」の藤沢宿。遊行寺橋と図の手前に大きな鳥居が描かれている、これは江ノ島弁天の一の鳥居。東海道名所之内 ふちさハ 遊行寺 作者=橋本貞秀。十四代将軍家茂の上洛にちなむ東海道シリーズで「上洛東海道」と言われているものの一つ。鳥瞰的な構図で遊行寺坂上から大鋸橋(現遊行寺橋)まで続く行列の長さが強調されている絵。手前の鳥居は江の島一ノ鳥居。遊行寺の山門は現在と異なり仁王門となっている。 これも広重の東海道五拾三次[行書東海道] 藤澤。画面右に江の島一ノ鳥居、左に大鋸橋(現遊行寺橋)を描いています。橋の上には御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)を担いでいる大山詣の帰りの一行が描かれています。
2016.02.01
コメント(0)
全29件 (29件中 1-29件目)
1