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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク洲鼻通りを江ノ電江の島駅方面に歩き、龍口寺前まで辿り着く。 門に向かって歩いていくと左側には処刑場の跡「龍ノ口刑場跡」。日蓮上人だけでなく、蒙古襲来(元寇)の際、モンゴル帝国皇帝フビライの命を受け、元からはるばるやって来た5人の使者を斬首刑にしたのもこの辺りだとのこと。湘南モノレールの湘南江の島駅前の江の島道を北へ、しばらく行くと、龍ノ口刑場で処刑された罪人の霊を弔うために建てられた寺院 常立寺 があるのです。龍口寺は日蓮聖人の弟子が「龍ノ口法難の霊跡」として建立したのが始まり。仁王門前で妻と待ち合わせて合流。仁王門の扁額には「龍乃口」の文字が。しばらくまつと、14時過ぎに国道467号線の藤沢方面から、先導する神戸町(ごうどまち)のお囃子が漸く到着し前を通る。 紫の和傘とお囃子の楽器を乗せた車を曳く氏子の老人。 大太鼓も後を続く。 その後ろには八坂神社の神輿を先導する白装束の神官。猿田彦も頑張って。 そして漸く八坂神社の神輿が見えて来た。 海から上がり、お色直しで赤い飾り綱、黄金の飾りも付け直して再登場。 龍口寺前の交差点を通過直後にピピーと言う笛の音と共に、神輿と担ぎ手が道路脇に見事な素早さで。 そこをゆっくりと江ノ電が通過。 神輿の通過する道路は、車両通行止めになっていますが、江ノ電だけは停めないようです。そしてその先に小動神社(こゆるぎじんじゃ)の神輿が待っていた。ここから2つの神輿による合同渡御になるのです。 毎年参加している氏子&群衆は慣れたもので、一瞬のうちに電車の通過する線路が開かれるのです。そして電車が通過すると再びあっという間に神輿の周りは埋め尽くされ元に戻るのです。もともとの腰越の地元は、五町からなっており、それぞれの町ごとに以下の人形を戴いた山車で祭りを盛り上げてくれていたのです。濱上町:源義経と辨慶神戸町:八幡太郎義家と鎌倉権五郎影政土橋町:源頼朝と御所五郎丸下町:神功皇后と武内宿禰、応神天皇中原町:須佐男命 古くは、人形を載せた万灯山車や2段の高欄を持つ山車が上記の如く5台あったが、その後焼失したり、江ノ電の架線を避けるために低くしたりなどし、当時の山車は姿を消し、現在は、3ヵ町が持つのみとなっていると。人形は、明治期に作られたものもあるとする説もあると。 こちらは土橋町の「源頼朝と御所五郎丸」の山車も待機中。 中原町祭典寺務所とその前には小さな神輿が出番を待っていた。 江ノ電が来ないときは線路上は歩行者天国状態。 土橋町の「源頼朝と御所五郎丸」の旧丸座幕(富士の巻狩り図)。丸座幕とは、昔、山車の大唐破風屋根の上の丸座に張った幕のこと。中原町の山車。須佐之男命は日本神話に登場する海原の神。 腰越、神戸川に架かる神戸橋より江の島が見えた。 ゆるキャラも登場。 神戸町の「八幡太郎義家と鎌倉権五郎影政」の山車。江ノ電の線路を離れ海岸に向かう道の両側には様々な出店が。道路脇には商店街店主や個人からの「寄付」が貼り付けてありました。 神戸町のお囃子の出陣式。 道路のゴミを片付けてくれている義経一行も私のカメラにポーズを。 先頭を歩き先導する猿田彦の手には、旗が付いた鉾を持ち、一本歯の高歯の下駄を履いて頑張っていた。 そして漸く目の前に合流した八坂神社と小動神社の神輿が目の前に。 天王祭は江の島八坂神社の神輿が年に一度、対岸の小動神社の神輿と行き会う祭り。江ノ島の八坂神社の神様が女神様で小動神社の神様が男神様、年一度の逢瀬を楽しまれるのだとも言われています。 小動神社で神事が行われた後、再び2つの神輿による合同渡御が龍口寺まで行われます。そして、龍口寺前で別れてそれぞれの神社に戻って行きとのことですが、今年の見学もここまでに。そして134号線に出て江の島を眺めながら、小田急線江の島駅に妻と向かう。突然右手に仏の姿が刻まれた石碑が建っていた。 右から「夢告の井戸」それとも左から「戸井の告夢」? 調べてみるとこんな説明が。『謎多き井戸なので詳しいことはわかりませんが、平安時代にかの弘法大師様が江の島岩屋洞窟で修業された際に関連があるようです。 平安から数百年を経た江戸期。東海道も整備され、治安も安定したので庶民は気軽に旅にでられるようになりました。江戸から江の島までは約2日間。 鎌倉~江の島~大山は大人気のコースだったようです。江戸期の記録によれば、 「片瀬浜の夢告げの井戸は弘法大師のお告げにより湧きいでし清水。その水面に月光を浮かべ、目を洗えば眼病にご利益がある」とのこと 』と。 【http://kamakura-tabi.com/2015/12/09/424/】より転載。よって右から「夢告の井戸」。そして小田急線で家路に。電光掲示板には、江ノ電は小動神社天王祭に伴う混雑のため16時10分〜17時00分頃まで一時運休。藤沢〜江ノ島間、稲村ヶ崎〜鎌倉間で折り返し運転との予告表示が。
2016.07.31
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク神輿のお色直しの始まりを見届けて、海の見える場所に大急ぎで移動。江の島大橋の袂にある北緑地(オリンピック記念噴水池)の近くの、神輿が浜に降りるスロープの横の好位置をGET。係の方がスロープの安全手摺りに紅白の飾りを足場パイプに取り付けて準備中。そして暫くすると、御座船に乗った神主、巫女の姿が前方海上に姿を現した。 そして後ろの方から元気な掛け声が聞こえてきた。そして緑地の中を通り、岸壁に設置した私の横のスロープを海へ下りて行った。気が付くと海中渡御を見ようと岸壁は既に人の山。褌姿の老若男男が掛け声もかけながら浜に降りて行った。 なるほど神輿の飾り綱、飾りは外され、神輿下部は白い帯がしっかり巻かれていた。 そしていよいよ海に入っていく神輿。 担ぎ手の男達が「ヨイヨヨイヨ」のかけ声で海に入っていく。これは「海上渡御(かいじょうとぎょ)」と言い、この祭りの一番の見所。 腰の位置まで行き、神輿を何回か上下して祭りを盛り上げる。 神官、巫女の乗った御座船が近づき神官が御幣を持ちお祓いを。御座船から飛び込む若者の姿も。これも何かの儀式でしょうか?伝承によると・・・「昔、腰越の小動神社に祀られていた祭神二体のうち、男神が海に流されてしまいます。男神の御神体は、江の島で漁をしていた漁師の拾われて八坂神社に祀られました。そのような所以から、八坂神社の御神体を女神に会せるため神輿が海を渡るのだ」と。 鮮やかな吹き流しをたてた御座船からは、「天王ばやし」などが聞こえてきます。同じ頃、対岸の腰越海岸でも、小動神社の神輿が海上渡御を行っていたのです。そして担ぎ手の肩近くまで入り「海上渡御」のピークに。 約15分くらいで海上渡御を終えて浜に戻って来ました。 そして再び私の横のスロープから地上へ。 神輿はヨットハーバーのある方面へ練り歩いて行きました。 神輿を担ぐには氏子だけでは足りず、神事に参加せずに神輿だけ担ぐ飛び入りの部外者が多数いる模様。そして道路を江の島の参道方面に右折すると、神輿の前方に水煙が。 歩行者天国の道路で、消火栓から引いた消防用のホースから勢いよく水が吹き出ていた。海水に浸かった神輿を真水で潮抜きするためであると。 消防団員も大活躍中。 そして木が入って午前の部の海上渡御は終了し一時解散。午後には弁天橋を渡り、同じく海中での禊(みそぎ)を行った小動神社の神輿と龍口寺前で合流。両基は腰越商店街を通って、御祭神の古里ともいえる小動神社まで渡御(=神輿が進むこと)。御祭儀を奉仕した後、神輿は再び担がれて江の島に戻っていく。ここまでが一連の流れとなると。 私は江の島ヨットハーバーのヨットハウスを訪ねる。1964年の東京オリンピック・セーリング競技は、東京を離れてここ江の島で開催された。この東京五輪が開催された江の島ヨットハーバー内の建物、ヨットハウスが改修のため取り壊され2014年6月に新たなヨットハウスがOPEN。 そして東京2020オリンピック競技大会のセーリング競技会場を江の島(湘南港)とする変更案が承認されたのです。 館内には産みの苦しみであった東京2020大会エンブレムが貼られていた。歴史的に世界中で愛され、日本では江戸時代に「市松模様(いちまつもよう)」として広まったチェッカーデザインを、日本の伝統色である藍色で、粋な日本らしさを描いた作品。更にヨットハーバーの奥に進むと江の島天王祭のポスターが。 ヨットハーバーからの江の島の姿。 駐車場を横断し、湘南大堤防上を散策。海も比較的穏やかで、遠くには多くの白きヨットが。 大堤防は遊歩道になっており、途中「自然浴さんぽ路」という足つぼを刺激しながら歩く道がありまさしく風と太陽を受けながらの「自然浴さんぽ路」。大堤防の先には白き湘南港灯台が。 湘南港灯台は江ノ島のヨットハーバーの脇に建っている。防波堤はウッドデッキになっていて公園のように整備されていた。堤防には多くの釣り人が釣り糸を垂れ、デッキには散歩している方々も多く。ヨットをイメージしたデザイン灯台。以前は灯篭手摺の下に電光掲示板があったが今回訪問してみると外されてスッキリと。 灯台は塗装間もないのか白が綺麗で海とのコントラストが映えていた。 塔高:8.1m、灯高:13m。雲の流れの景色も最高。遠く三浦半島と白き雲の流れ。 ここでも多くの釣り人が糸を垂れていた。 ヨットハーバーに戻る白きヨットとその先に片瀬東浜海水浴場、そして江の島大橋。 江の島頂上の江の島シーキャンドル(展望灯台)。 そして再び来た道を戻り龍口寺に向かう。先ほど訪れた湘南港灯台を振り返り見る。江の島弁天橋からの水上オートバイ(ジェットスキー)を楽しむ人達。
2016.07.30
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク先日、江の島の江島神社の境内社(けいだいしゃ)である八坂神社の例祭を見に行ってきました。八坂神社の例祭は、別名「江の島の天王祭」と呼ばれ、湘南を代表する夏祭りとして神奈川の祭50選にも選ばれるなど、人気の夏祭りなのです。小田急線でいつもの竜宮城の如き江の島駅へ。 本来7月14日であった祭日は、近年7月14日に近い毎年7月の第2日曜日・祝日(海の日)に神幸祭行われるようになり、多くの観光客がこの祭りを楽しみに江の島へ訪れるようになったのです。 江ノ島弁天橋を渡る。参道手前にはいつもは見ない「奉納 八坂神社」の幟が立っていました。参道を進むと、朱の江の島神社鳥居が。そしてここにも八坂神社の幟が。江の島神社鳥居の下にはお囃子用の小型の山車などが準備中。 階段を上り瑞心門を抜けて正面にある弁財天像。 階段を上がり終わると、辺津宮境内では御神輿の発輿祭(はつよさい)()が既に始まっていました。 発輿祭は御輿、山車や神式葬儀の棺などが出発する時に行う神事。辺津宮の前に神輿を置き、その周りを何回か回っていました。お囃子陣もその後から。御神輿。 宮司以下神職も姿を現し祭儀の奉仕の準備中。 いよいよ御神輿がお発ち。囃子を先頭に、江島天王囃子とよばれる里神楽にも似た非常に珍しい優美なお囃子をお供に。竹竿の先端に赤い提灯を付けて先導します。 宮太鼓、猿田彦大神、五色榊、五色の旗、賽銭箱…と長い列が続きました。天狗の如き「猿田彦大神」。猿田彦とは、古事記・日本書記の神話に登場する神で、天孫「ににぎのみこと」降臨の際、高千穂までの道案内を務めた神様。よって神輿を先導している?江の島内には史跡「猿田彦大神の石碑」もあるのです。一本足の下駄を器用に履き回していて感心しましたが、よく見ると長刀のようなものを常に手に持ってバランスをとっていました。 スピーカー、マイクを両手に『ドッコイソ-ラ ドッコイ ドッコイ』と威勢の良い掛け声をかける女性。 屈強の男衆に担がれて御神輿は石段を下りていきます。多くの参拝者、観光客のあふれる参道を練り、島の入り口を目指しました。参道脇の土産物屋や食堂の店の方々もしばし仕事を止めて店頭に。 青銅の鳥居の手前まで来ました。 鳥居越しに八坂神社の幟が再び見えて来ました。 巫女さんも笑顔で。 青銅の鳥居を抜けると、御神輿は海に入る支度をします。 宮司による祝辞奏上。 そして海中渡御の準備開始。神輿の飾り紐を変え、担ぐ長い棒を追加していました。 そして周りには、白褌と白足袋のみを身に付けた担ぎ手の男達が今や遅しと。自分の晴れ姿を自撮りするオジサンの姿も。
2016.07.29
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長女のパートナーのご両親が、美味しいスイートデザートを送って下さいました。 横浜ロイヤルパークホテル スイートデザートセット。横浜ロイヤルパークホテルは、みなとみらい、ランドマークタワー内に位置する高層ホテル。横浜みなとみらい21のシンボルとして誕生したランドマークタワーの最上層部を占める五つ星最高級ホテル。52階~67階に位置する全ての客室が展望台の如きホテル。中身は、マンゴープリン、杏仁豆腐、レアチーズケーキ。 丁度、孫の保育園への車でのお迎えの機会がありましたので、佐倉のジジババからのプレゼントだと持って行ってやりました。 マンゴープリンを早速楽しませて頂きました。マンゴーの濃厚な味、そして丁度良い甘さ。そして翌日には杏仁豆腐を楽しませて頂きました。 そして、妻が孫の大好きなアンパンマンの高層住宅?をスイートデザートの空き箱、そしてパッケージで造りました。 各階の出窓からアンパンマンキャラクターの姿が。最上階は左からアンパンマンの宿敵「バイキンマン」、真ん中は「コキンちゃん」そして右は「カレーパンマン」。 「バイキンマン」は孫から教えてもらいましたが、ジジもネットでアンパンマンの仲間の名前を勉強したのです。 いやいや、間違っていると妻から指摘されました。一番左は「かまめしどん」、真ん中は「ドキンちゃんとコキンちゃん」、「バイキンマン」は上から2段目左とのこと。「カレーパンマン」のみ合っていました。勉強不足でした。孫から「ジージ 違うよ」と言われたこと間違いなし。パンづくりの名人 「ジャムおじさん」は1階ど真ん中。屋上からは、アンパンマンとジャムおじさんが覗いています。 まだ孫には届いていませんが、妻が写真を送ったようです。今度、お盆に来たときは喜んでもらえること間違いなしです。 今年も8月6日の「佐倉市民花火大会」にお招き頂きました。夫婦で楽しみにしております。翌日は歴博の「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」を訪ねたいと思っています。
2016.07.28
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『鎌倉散策 目次』👈リンク北鎌倉駅から大船駅に近づいていくと車窓左手前方に大船観音の白き姿が ズームで。そして大船駅で東海道線に乗り換える予定を急遽変更し、大船観音に向かうことを決断。大船駅西口に出て、柏尾川(かしおがわ)を渡る。柏尾川は、神奈川県南部を流れる二級河川。境川の支流。戸部川とも呼ばれる。全長は戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11km。大船観音入口の表示。 この坂が大船観音の入り口。左に「大船観音参道」 と刻まれた石碑が。数分上ると大船観音山門が現れる。 正式名称は『大船観音寺』 であると。大船観音は1929年(昭和4年)、地元有志の発起により、護国観音として築造が開始され、1934年(昭和9年)には輪郭が出来上がっていたが、戦局の悪化により、築造は中断。その後、20年以上放置される。第二次世界大戦後、財団法人大船観音協会が設立され、1960年(昭和35年)4月に完成。なお、大船観音協会には、曹洞宗管長の高階瓏仙(たかしな ろうせん)や、東京急行電鉄の初代社長・五島慶太の名前を始め、各界の著名人の名が見える。財団法人大船観音協会は、1981年(昭和56年)11月30日に解散し、宗教法人大船観音寺と改称され、現在に至る、との説明が。「大船観世音」と刻まれた石碑の横には戦没慰霊碑が建てられていた。鎌倉空襲というアメリカ軍による無差別爆撃が鎌倉でもあったのだと。 碑の横から石段を上って行った。観音様が目を細め、じっと私を見つめているように感じながら・・・・・。階段の両脇には「南無観世音菩薩」 と書かれた赤地に白き文字で書かれた旗が並んでいた。純白の大船観音の大きさは、高さ25m、幅19m、重さ1915tとのこと。鎌倉大仏は、台座を入れても高さ13.35mなので、鎌倉大仏よりも10m以上大きいサイズ。子供の頃、「大船観音の下半身は山中に埋まっている」という噂もあったと記憶しているのですが・・・・・・。青空に純白のお顔は映えていました。ふっくらした顔立ちと優しい微笑みを浮かべながら私を見下ろしている姿。 少し横に廻って見上げて、露出変更してズームで1枚。 観音様の後ろ側へ回ってみると、胎内に入ることが出来るようになっていたのですが気が付きませんでした。胎内には平安期の十一面観音が安置されているほかに、観音像が建築されているときの写真なども展示されいるとのこと。そして山中に胴体は埋まっていないことも確認出来たのでしたが、次回にはと。通路沿いのアジサイも観音様の白さと競うような姿。 別の階段を降りていくと前方にお堂が姿を現した。 聖観世音菩薩が祀られている慈光堂。 慈光堂を後に、坂を下る途中には子寶地蔵尊が。 こちらは延命地蔵尊。 原爆の火の塔。8月15日、終戦の日の広島での残り火。被爆45周年にあたり、大船観音寺の境内に平和の塔から分火されたものが、この原爆の火。火は灯篭型の塔内に灯されており、灯篭には「被爆四十五周年 原爆の火 神奈川県知事長洲一二」と刻まれた石板が嵌め込まれていた。原爆犠牲者慰霊碑。昭和45年4月18日、神奈川県原爆被災者の会が、大船観音寺の境内に「原爆犠牲者慰霊碑」を建立。平和祈念塔には「核兵器もない、戦争もない 平和な世界を」と刻まれていた。 慰霊碑に爆心地の西蓮寺から地蔵尊の土台石、長崎の浦上天主堂からも石が寄贈され、それぞれの被爆石は千羽鶴が刻まれた筏にのせられ、その台座には被爆者が平和の丘に向かう姿が描かれているのだと。 そしてその後ろにも多くの千羽鶴が奉納されていた。神奈川県原爆被災者の会の熱きメッセージが日本語と英語で刻まれていた。 戦没者慰霊碑。 大船観音寺【白衣観音】の御朱印を戴きました。そして帰路に山門より大船駅方面の景色です。 50年以上前に訪れた記憶だけがあるのですが、具体的に何歳頃、遠足?誰と?が全く想い出せないのです。記憶が正に「完遠様」なのです。
2016.07.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンク浄智寺を後にし北鎌倉駅方面に向かう。踏切の向こうに円覚寺(えんがくじ)の入口が見えた。 円覚寺は、鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。調べてみると、新たに寺院を建立することを「開山(かいさん)」といい、その初代住職のことも同じく「開山」と呼ぶ。その際に経済的、政治的援助をした人物、つまりいわゆるパトロンのことを「開基(かいき)」と呼ぶとのこと。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式である。(ウィキペディアより) 円覚寺境内MAP。 緑の屋根の階段を上る。 総門。人のいない時を見つけてシャッターを押す。 瑞鹿山の額が掲げられている。 開山無学祖元の創建開堂にあたっての法話に、山中から白鹿が出てきてこれに連なったことから、この名が付けられたという。円覚寺案内。総門から境内に入ると石段の上に3間1戸二重門の三門が。天明3年(1783)当山中興の大用国師誠拙和尚が再建。天明5年(1785年)、大用国師誠拙周樗が再建したものと言われる。 山門は「三門」とも呼ばれ、三解脱門の略。涅槃に至るまでに通過しなければならない三つの関門、空・無相・無願を表すと。 伏見上皇の宸筆「圓覚興聖禅寺」の額がかけられ、楼上には聖観音菩薩像と十六羅漢像が安置されているが、拝観はできない。三門の見事な木組みと彫刻を見上げながら、しばし楽しんだ後は首の運動もしばし。そして仏殿へ。昭和39年(1964年)再建で、コンクリート造りだが、元亀4年(1573年)の仏殿指図(さしず、設計図)に基づいて建てられていると。仏殿の扁額「大光明宝殿」は、後光厳天皇の勅筆と伝えられる(1378年(明和4年))。 しばし、仏殿内部の椅子に座り、ご本尊を見つめながら心と体を鎮める。ご本尊の両側には梵天、帝釈天像が安置されていた。宝冠釈迦如来坐像。宝冠と胸飾りをまとうおごそかな姿は圧巻。 天井画の「白龍図」は前田青邨の監修で日本画家守屋多々志が描いたもの。 佛心と書かれた大きな屏風。 力強い作品を生み出し続け、「天使の書家」とも呼ばれるダウン症の書家、金澤翔子さん(30)の書展「心」が16日、鎌倉市山ノ内の円覚寺で始まった。同寺は金澤家の菩提寺(ぼだいじ)で、この日は52歳で亡くなった父・裕さんの十七回忌。翔子さんは席上揮毫(きごう)で、心を込めて「佛心(ぶっしん)」と書き上げた。参拝者ら約200人が見つめる中、1メートル数十センチ四方の紙2枚に書を書き上げ、「元気とハッピーと感動を、心を込めて書きました」と笑顔で話したと 神奈川新聞が報道。 居士林。在家修行者のための専門道場。「居士」とは一般在家の禅の修行者を指すと。妙香池(みょうこうち)。妙香池は、方丈の後ろ側、正続院(舎利殿)の入口下の放生池。夢窓疎石の作庭と。1978年(昭和53年)に江戸時代の絵図に基づいた大改修が行われ、岩盤を景観の中心として復元。露出した岩は「虎頭岩」と呼ばれ、波浪の浸食に模して造られているとのこと。舎利殿(国宝)。円覚寺の舎利殿は、当初のものは弘安八年 (1285) の頃 または 延慶二年 (1309) に建立されたと。 再三火災がありましたが、なかでも永禄六年 (1563) には円覚寺が全焼。復興に当たって、舎利殿として 鎌倉尼五山の一つであった大平寺の仏殿を、天正 (元年は1573) のころに移築したとのこと。選仏場(せんぶつじょう)。元禄12年(1699年)建立の茅葺き屋根の建物。坐禅道場。内部には薬師如来立像(南北朝時代)を安置する。仏殿が再建されるまでは、この堂が仏殿を兼ねていたと。 松嶺院(しょうれいいん)。第150世叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。本尊は釈迦如来。もとの不閑軒。観光的には牡丹の名所として知られ、開高健(作家)、田中絹代(女優)、佐田啓二(俳優)など著名人の墓があることでも知られる。有島武郎はこの寺にしばしば逗留し、『或る女』などを書いた。寺内は通常は非公開だが例年春と秋に期日を限って公開されると。 桂昌庵(けいしょうあん)。桂昌庵は、第四十九世承先道欽(しょうせんどうきん)の塔所。本尊は矢柄地蔵。木造十王像が祀られていることから「十王堂」または「閻魔堂」とも呼ばれ、十王蔵像は、鎌倉十橋の一つ十王堂橋付近にあった十王堂に安置されていたものと。寺務所で御朱印を戴く。 鎌倉二十四地蔵尊【南無地蔵尊】 萬年山 正續院。総門越しの額縁に入った緑の光景。 そして階段を下り北鎌倉駅に向かう。
2016.07.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク亀ヶ谷切り通しの峠を越え、浄智寺(じょうちじ)に到着。浄智寺は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。臨済宗円覚寺派に属する。鎌倉五山第4位。山号を金宝山(きんぽうざん)。鎌倉五山とは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺。鎌倉五山とは、鎌倉時代に中国の五山制度にならって鎌倉の禅寺に設けられた五大官寺のこと。北条氏は、南宋にならい五山制度を導入、鎌倉の 主な禅刹を五山と呼ぶようになり、鎌倉幕府滅亡後の室町初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められ、それに次ぐ十刹と緒山が選ばれこの制度が定着したと。太鼓橋。そして奥に見えているのが、鎌倉十井のひとつに数えられる甘露の井。先へ進むとすぐに浄智寺の総門が見えて来た。 総門に掲げられた右から「寶所在近」という文字。そのまま読めば「寶のある所は近くに在る」ということだが、「寶所」とは悟りの世界の彼岸のこと。すなわち「彼岸はそう遠いところにあるものではない。立派な僧侶になるための努力をせよ」という修行僧へのメッセージなのだと。五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うため、夫人とその子・師時が創建(宗政は師時の父)。開山に招かれたのは、南洲宏海(なんしゅうこうかい)であったが、任が重いとして、師の大休正念(だいきゅう しょうねん)を迎えて入仏供養を行い、既に世を去っていた師の兀菴普寧(ごったんふねい)を開山としたことから、三人の名が連ねられている。兀菴(ごったん)はよく揉め事を起こし、「ゴタゴタ」の語源となった和尚とのこと。 浄智寺の山門は、中国式鐘楼門といわれる珍しい様式の門。花頭窓がある二階には梵鐘が吊るされている。本尊の三世仏を安置する曇華殿(どんげでん)と呼ばれる仏殿。 安置されている本尊は、「三世仏坐像」という三人の仏様。阿弥陀・釈迦・弥勒の三如来は、それぞれ過去・現在・未来の三世を表しているのだと。 仏殿の横に建っている平和塔。 コウヤマキ、鎌倉市指定天然記念物。樹齢不明と。 浄智寺の奥にある「やぐら」と呼ばれる洞穴墓所。 「やぐら」がここにも。横井戸の入口は苔むしていた。 三体の狸の置き物がぽつりと置かれていた。 布袋様に会うためにトンネルをくぐる。やぐらの中の観音様。 墓地の前を更に進む。境内奥の、洞穴の中に立っている布袋さまは、「鎌倉・江の島七福神めぐり」の布袋和尚(ほていおしょう)。「布袋尊(ほていさん)のお腹(おなか)をなでて上げて下さい。元気がもらえます。」と書いてあった。すなわち、お腹をさするとご利益があるとされ、皆が触っていくので、お腹のあたりが、黒光り。 円楽師匠も負けそうな黒さ。布袋様が指差しているのは『幸せは、あなたのすぐそば、すぐそこにいるよ』という意味であるのだと。布袋様の後ろの石仏。弁天様?弥勒様?観音様いやマリア様のような・・・・・・。私も忘れないでと静かに訴えていました。浄智寺書院入口。書院の部屋越しの庭園の見事な光景。 鎌倉・江の島七福神【布袋尊】の御朱印を戴きました。 そして帰路の総門を寺の内側から。
2016.07.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク寿福寺を後にし海蔵寺に向かうと左手に英勝寺(えいしょうじ)の惣門 が現れた。 英勝寺は、山号は東光山。鎌倉にある唯一の尼寺(浄土宗)。開基は英勝院尼。英勝院尼は、太田道灌の子孫で、徳川家康に仕え「戦には必ず勝利をもたらした」ので「お勝の方」と呼ばれ、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった女性とのこと。「英勝寺(えいしょうじ)初期の江戸城を築城した太田道灌の子孫で、徳川家康に仕えたお梶の方(英勝院)が道灌の屋敷跡に建てた尼寺です。お梶の方が一緒に行くと戦いに勝利したことから、改名してお勝という名になったそうです。お勝の方は、水戸徳川家の初代頼房の養母であったことから代々水戸家の姫が住職を務めています。江戸時代は水戸御殿と呼ばれたほど格式が高く、総門には三葉葵の紋を掲げ、さながら武家屋敷のような境内でした。仏殿、祠堂、唐門、鐘楼は江戸時代初期の建築で、これだけよくそろい、当時のままで残っている寺は少なく貴重です。 ● 宗 派:浄土宗 ● 山号寺号:東光山英勝寺 ● 建 立:寛永13年(1636) ● 開 基:英勝院尼」英勝寺の道路沿いにある、江戸城を築いたことでも知られている太田道灌屋敷跡の石碑。 『此の地は武略文藻兼備へ忝くも 武蔵野は萱原の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかな テフ叡感にさえ預りたる道灌太田持資が江戸築城前の邸址なり 寛永十一年今の英勝寺と為る其の創立者水戸藩祖頼房准母英勝院は道灌の嫡流太田康資の女なるより晩年将軍家光より特に此の地を授りて之に住するに至れるなり 孤鞍雨を衝いて茅茨を叩く少女為に遣る花一枝 の詩趣ある逸話は道灌が壮年猶此に在りし日に於て演ぜられし所のものなり (鎌倉市青年團)』【http://www.ktmchi.com/2006/0315_ES_01.html】よりこれは英勝寺の近くにある阿仏尼(あぶつに)の墓。阿仏尼は、鎌倉時代中期の女流歌人で十六夜日記(いざよいにっき)の作者。 内容に所領紛争の解決のための訴訟を扱い、また女性の京都から鎌倉への道中の紀行を書くなど、他の女流日記とは大きく趣きを異としている。鎌倉時代の所領紛争の実相を当事者の側から伝える資料としても貴重とのこと。稲荷大明神。 「お稲荷様世にお稲荷様と申し上げている稲荷神社は、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)をお祭りしたもので、今から約1300年の昔 和銅4年の2月の初午の日に、京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。この神は稲がなるイナリの別名が示すように、五穀の生育やすべての産業を育成する広大な御神徳のある神ですからあらゆる人々の信仰をうけ全国各地の神社や邸内に祭られています。鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で、鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が小島にいたとき病の床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。その老人の言うとおりに薬を飲みますと病はなおり、これが縁で幕府を開くことが出来たということです。この白ひげ老人が穏里稲荷の化身であったということです。お稲荷様は大切にお祭りしましょう。 英勝寺」岩船地蔵堂。源頼朝の娘大姫の守り本尊といわれる岩船地蔵が祀られていますが、こちらも海蔵寺が管理しているとのこと。「岩船地蔵堂(いわふねじぞうどう)亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女之守本尊也』との記述があり、続けて元禄3年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。『北条九代記』にも、許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通りください。 平成13年11月 吉日 海藏寺」緩やかな坂道を上り、海蔵寺入口に漸く到着。 右手にはあった底脱の井(そこぬけのい)。名前の由来は室町期に扇谷上杉家の尼が水を汲んだ時に桶の底が抜けて悟りが開け、『賤の女がいだく桶の底抜けてひた身にかかる有明の月』と言う唄を読んだからとも鎌倉時代中期に安達泰盛の娘がやはり水を汲んだ時に桶の底が抜けて、『千代能がいただく桶の底抜けて水もたまらねば月もやどらじ』と詠んだ事にちなむとも。心の底が抜けて、わだかまりがとけ、悟りが開けたという解脱の歌と。中央に金子一峰の句碑 「十六の井その名所やをほろ月」「底脱の井(そこぬけのい)この井戸は、鎌倉十井の一つです。中世の武将の安達泰盛の娘・千代能が、ここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」とうたったことから、この名がついたといわれています。井戸の底ではなく、心の底が抜けてわだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です。 平成11年12月」海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺。この寺は、建長五年(1253)に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが元弘三年(1333)5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼。室町時代の応永元年(1394)になって、関東菅領・足利氏満の命により執事の山内上杉憲定が再興。薬師如来を本尊とする大寺で盛時には谷戸一帯に塔頭が立ち並ぶ程であったが、今はことごとく廃絶。本尊は薬師如来(胎内に啼薬師を納めている)。 「海蔵寺(かいぞうじ)鎌倉時代、七堂伽藍を持つ規模の大きな寺があったと伝えられていますが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、上杉氏定が心昭空外を招いて再建され、扇ガ谷上杉氏の保護を受けて栄えました。この寺には多くの言い伝えがあります。空外は「那須の殺生石」の話が有名です。仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師」「児護薬師」といわれ、胎内に仏面を収めており、啼薬師伝説があります。門前には、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」と歌われたと伝えられる「底脱の井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、水の寺といわれています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:扇谷山海蔵寺 ● 建 立:応永元年(1394) ● 開 山:心昭空外(源翁禅師)」「文学案内板海蔵寺は、臨済宗建長寺派に属し、開山は心昭空外。足利氏満の命により、上杉氏定が建立したと伝えられています。寺の入り口右手には、鎌倉十井の一つ「底脱の井」があり、本堂左手道筋の崖下には、鎌倉期様式のやぐら(洞穴)に清水をたたえた「十六の井」があります。ここでは境内の文学ゆかりの事柄についてご案内いたします。〇 金子一峰句碑(十六の井戸前) 十六の井その名所やをほろ月 一峰 (昭和6年4月建立)〇 「十六の井」を詠んだ歌に、歌碑はないが、四賀光子の次の歌もある。 錠あけて外の光のさし入れば 古井の水の匂ひたちくる 四賀光子 (歌集「朝月」より)〇 清水基吉句碑吉(山門横) 侘び住めバ八方の蟲四方の露 基吉 (昭和58年8月、日矢俳句会建立)〇 底脱の井(又は無着如大)歌碑(底脱の井戸横) 千代能がいただく桶の底ぬけて 水たまらねば月もやどらず (明治27年5月建立)詳細は鎌倉文学館にお尋ねください 鎌倉市教育委員会、鎌倉文学館」山門に向かう階段を上がると、この寺で人気の萩が左右からぎっしりと。既にピンクの花が開花を始めていた。 山門の扁額「扇谷山」。正面に龍護殿とよばれる比較的小さな本堂があり、開山の心昭空外坐像が祀られています。「本堂」。「本堂内陣」「屏風」。左手には、薬師堂と呼ばれる仏殿が。 薬師堂の中央には、本尊の薬師如来坐像と両脇に、向かって右手に日光菩薩、左手に月光菩薩像が。そしてその両側に十二神将像も。海蔵寺境内の裏山沿いに、鎌倉時代の「やぐら」が。やぐらには五輪塔や武士の墓が並んでいた。 半夏生の花の集落。 やぐらの中に小さな鳥居も。 「本堂」裏の庭園は非公開。庭園は現住職の企画であると。庫裏から脇門を見る。 庫裏に御朱印を戴きに行く。庫裏玄関には、『ふたらくの ちかひもひろき うめがやつ いろかおもなし のりのすがたそ』と書かれた御詠歌?が掲げられていた。鎌倉二十四地蔵15番【岩船地蔵尊】 の御朱印。そして鎌倉十三仏7番【薬師如来】の御朱印も戴きました。寿福寺と異なり、気持ちよく二種類の御朱印を下さったのです。鐘楼。 脇門より境内を後にする。 海蔵寺には、もうひとつの鎌倉十井「十六ノ井」があり、それを見に脇道を進む。岩穴をくぐりました。十六ノ井は、岩のがけの中に掘られた部屋の中に。直径70cm、深さ50cmほどの穴が16個並び、きれいな水が湧いていました。中央の像は観音菩薩、その下の小さな像は弘法大師とのこと。海蔵寺を後にし、来た道を戻り亀ヶ谷切り通し方面に歩を進めると、大乗山薬王寺入り口の角に石碑が。 参道入り口の門前法界塔。「南無妙法蓮華経法界」?と刻まれていた。薬王寺は日蓮宗の寺。本尊は久遠本師釈迦牟尼仏 「薬王寺(やくおうじ)もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川・蒲生家と縁が深く寺紋に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした。明治初期の廃仏毀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。本堂正面の日蓮坐像は、第十一代将軍家斉公の命により幕府が造立、説法形の口を開けた珍しい像です。 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:大乗山薬王寺 ● 建 立:永仁元年(1293) ● 開 山:日像上人」「本堂」を正面から。「駿河大納言徳川忠長公供養塔」「駿河大納言徳川忠長公供養塔駿河大納言徳川忠長公(三代将軍 家光公弟)は、粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28才で自刃せられ所領も没収された。悲歎やるかたない奥方 松孝院殿(織田信長 次男信雄の息女)は、時の当山三世恵眼院日珖上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み追善供養の為に当供養塔を建立した。 昭和49年4月 鎌倉市文化財指定」手前の「祈珠之塚』は身につけていた念珠を供養し大自然にお返しするため建立された念珠の供養塔であると。さしのべさん (本名 毒消し薬王菩薩)かのうすい(叶水)祈珠之塚「本堂」「扁額」は「大乗山」。「内陣」。「一蓮観音廟」は動物たちの供養碑「動物たちの供養碑「一蓮観音廟」われわれ人間の 食として命を ありがとう 進歩のために命を ありがとう 身体を支えてくれて ありがとう 家族として癒しを ありがとうこの碑は人間の為に尽くしてくれたすべての動物たちに感謝し慰霊をするための碑です。来世は霊山浄土で同じ蓮華の上に生まれ合わせられますよう家族たちはここに眠れます日蓮大聖人第737遠忌 御報恩会式之砌 平成30年11月3日 第53世 大埜 慈誠 」観世音菩薩を祀る「釈迦堂」「鐘楼」が眼下に。鎌倉独特の「やぐら」には小さな石塔やぐらの中に座る「永代供養墓」「法界萬霊」「源氏山」方面に向かう「亀ヶ谷坂」を歩く。「鎌倉七口」と言われる場所の一つで、いわゆる『切り通し』。しかし思ったほど急な坂道ではなかった。「田中智学獅子王文庫趾」と刻まれた石碑。明治期から昭和初期にかけての宗教家だとか。神社の石碑で良く見かける「八紘一宇」と言う言葉を作り出した人物と。 亀ヶ谷切り通しの途中右手にある高級住宅入り口。 しかし切り通しではなくミニトンネル。この奥にはマンション扇ガ谷鎌倉コートハウスがあって、関係者以外進入禁止の立て看が。亀ヶ谷切り通しは鎌倉七切通しのひとつ。建長寺、円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と亀ヶ谷(現在の扇ガ谷)を結ぶ重要な道として13世紀中頃には整備されていたと。切り通しの最高地点の峠が見えて来た。 切通し道の頂部付近では切通し壁の岩が露出していて、これぞ鎌倉切通といった趣が。そして下り坂の左側岩壁を背にして立つ六地蔵像。そして亀ヶ谷切り通しを制覇し、長寿寺の横に出たのであった。長寿寺は足利尊氏の四男で、初代鎌倉公方の足利基氏の創建の寺。山門の扉が閉じられており、普段は非公開の寺。 拝観は春(4月~6月)と秋(10月~11月)の週末限定で公開を行っている模様。時間は10~15時、写真撮影を目的とする拝観は禁止と。
2016.07.24
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今年も、長男のパートナーのご両親が地元岡山の白桃を送って下さいました。。 箱には『岡山の桃 peach』 の文字が。上面には気泡緩衝材『プチプチ』 ?が敷かれ、白桃が大切に守られていました。そして白桃が行儀良く整列。そして白いフルーツキャップ?を一つ一つ 着せられて。優しい乳白色にほのかな桃色のルックスが気品さえ感じさせる白桃。 岡山県は、もちろん「桃太郎」の故郷として全国に広く知られており、桃の花は「県の花」にもなっているようです。ほのかな桃色をズームで。 糖度が高くなっているサイン?恐らく、まだ青くてピンポン玉くらいの小さな実の頃から、一つ一つ手作業で袋をかけて育ったのでしょう。太陽の光を直接浴びない桃は赤く色づかず、白の肌を保ち、お尻の部分だけ淡いピンクに。そして早速、妻と仲良く半分ずつ。 柔らかな肉質と程良い甘さ、そして多汁とその香りは絶品。 今、「古事記」にはまっていますが、イザナギ命は黄泉の国で追われた時、道端に桃の樹があり、その樹の下に隠れて桃の実を採って投げつけ、逃げ延びたと。 また桃は中国では仙木とも呼ばれ、邪気を払う呪力があると考えられていたと。元旦に飲む桃湯は邪気を退け、桃膠(桃の木のヤニ)から作られる仙薬は、万病に効くと。奈良県の纒向(まきむく)遺跡で3世紀前半と推測される土坑から、2千個以上の桃の種が出土したと。祭祀に使われたものとされ、この頃には日本にも、桃に対する信仰が伝来していたと考えられると、先日のテレビで。 桃太郎の話は、鬼退治で有名ですが、この鬼とは、「厄」のことであると言う説があるそうです。桃には、霊力があると昔から考えられていたようで、邪気「厄」を祓うために、桃を使った話が生まれたと言われているとのこと。そう考えると、桃太郎の話は厄除けの話?『桃太郎』は桃から生まれた男児!!の話、ひょっとして・・・・・・・・・・?? Sさん、季節の旬の果物をありがとうございました。桃の主な成分は『果糖』、そして桃の中心にある種は『桃仁』と呼ばれているのです。「長寿の力がある」そして「仙人の実」と呼ばれてきたこの桃を楽しませて戴きながら、この夏を乗り切りたいと思っています。
2016.07.23
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『鎌倉散策 目次』👈リンク長谷寺からは再び江ノ電に乗り鎌倉駅に戻るそして鎌倉駅西口から歩いて「寿福寺~英勝寺~海蔵寺」と徒歩で巡る。まずは寿福寺。「亀谷山 寿福 金剛禅寺」の銘のある石碑の後ろに赤塗りの惣門が。寿福寺惣門前に立っている源氏山の碑。「源氏山は初め武庫(むこ)山と云ひ 亀ヶ谷(かめがやつ)の中央にある形勝の地なるを以て 又亀谷山とも称せり 源頼義 義家父子 奥州征伐の時 此山に旗を立てたるより 或は旗立山と名付く 山の麓寿福寺境内附近は 爾来(以後)源氏世々の邸宅たりし地なりと云ふ 源氏山の名称は之に起因せるか 旗竿(さお)を建てしと云ふ故址(こし:旧跡)は今尚ほあり」内容は「源氏山はその前は武庫(むこ)山と言っており、また亀ヶ谷(かめがやつ)の中央にあって、形が勝れているため亀谷(かめがやつ)山とも言っておりました。源頼義(ともよし:988-1075)、源義家(よしいえ:1039-1106)の親子が東北地方に征伐(せいばつ)に行く時、 この山に旗を立てたことにより、旗立山ともいいました。 山の麓(ふもと)の寿福(じゅふく)寺付近は、昔から代々源氏の邸宅であったと伝えられています。源氏山の名前はそこからきたのかも知れません。 旗竿(はたさお)を建てたと伝えられる跡が今なお残っております。」と。寿福寺惣門脇の「実朝をしのぶ碑」(書は故平山郁夫1992) 。寺の裏には源実朝の墓地と伝えられている五輪塔があるのです。「源実朝(1192 ~ 1219)建久3年、源頼朝の次男として誕生12歳で鎌倉幕府第三代将軍となる。蹴鞠、管弦、和歌に秀でた文化人で金槐和歌集は有名である。寿福寺との関係は深く、開山栄西禅師が実朝に献上した喫茶養生記をはじめとする由縁の品々も、この寺に伝えられている」寿福寺は臨済宗建長寺派の寺。この寺は鎌倉五山の第三位。この地は、昔、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願した云われる源氏山を背にした源氏家父祖伝来の地である。また源頼朝の父・義朝の居館があった所。頼朝が落馬が原因で建久10年(1199)に亡くなると妻・北条政子が夫の菩提を弔うため,正治二年(1200)に明庵栄西を招いて義朝ゆかりの土地に創建した。墓地には源実朝、北条政子の墓と伝えられる五輪塔がある。本尊は宝冠釈迦如来。裏山の墓地には明治時代の外部大臣・陸奥宗光や俳人高浜虚子、作家・大佛次郎などの有名人の墓が。 「寿福寺(じゅふくじ)源頼朝が没した翌年、妻の北条政子が明菴栄西を開山に招いて建立した鎌倉五山第三位の寺です。鎌倉幕府三代将軍の源実朝も、再三参詣しました。栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、『喫茶養生記』を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。裏山の「やぐら」(中世の横穴墳墓)には、源実朝、母・政子の墓といわれる五輪塔があります。墓地には俳人・高浜虚子や作家・大佛次郎などが眠っています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:亀谷山壽福金剛禅寺 ● 建 立:正治2年(1200) ● 開 山:明菴栄西」寿福寺 境内図。 【http://www.kcn-net.org/kokenchiku/jufukuji/jufukuji.html】より寿福寺惣門から中門を望む。惣門から中門まで60~70メートルの石畳は両側の杉林に挟まれ、閑静な禅寺の雰囲気。「国指定史跡「寿福寺境内 (じゅふくじけいだい) 」 昭和41年3月22日 指定亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は、正治2年(1200)に頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺であります。この地は、もと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといわれています。墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔が二基あります。現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また仏殿前に四株の柏槙があり、往時のおもかげを残しています。 平成8年3月30日」突き当たったところにある中門の奥にある仏殿。中門より内は一般人非公開の模様。右手に折れ、庫裏に向かう。庫裏にて鎌倉二十四地蔵尊・延命地蔵の御朱印を戴く。併せて鎌倉五山の御朱印もお願いしたが、一回に一御朱印のみとのこと。鐘楼。かつての寿福寺の梵鐘は、中国から伝来した「いぼなし鐘」と呼ばれたものだったと。しかし、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めが起こると、後北条氏(小田原北条氏)によって取り上げられ、鉄砲の弾に使われてしまったと伝えられていると。「いぼなし鐘」は、栄西が宋より持ち帰ったものとも伝えられているのだと。中門の前を左手に曲がり、すぐ右に曲がって仏殿のある敷地に沿って奥にすすむと墓地が。ここには、"やぐら"といわれる岩を掘った空間に北条政子や源実朝の供養塔があり、大仏次郎、高浜虚子などの著名人の墓も。北条政子慰霊塔。 三代将軍 源実朝の墓俳人・高浜虚子の墓そして帰路には大仏次郎の墓地も。
2016.07.22
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『鎌倉散策 目次』👈リンク長谷寺はあじさい(紫陽花)の花でも人気の寺。あじさい小路MAPを片手に散策開始。 あじさい小路の表示板が。あじさい眺望散策路では40種類約2500株のあじさいが鑑賞できると。大野万木の歌碑。「観音の慈顔尊し 春の雨」。大野伴睦(俳号:大野万木)は戦後活躍した政治家。 先手観音菩薩。 あじさい小路からの由比ヶ浜海岸。 花の峠は越えていたが、まだまだ様々な色のアジサイが。白のアジサイ、これから色を変えるのであろうか?アガパンサスの青い花も。 小さな石仏が草陰に。 こちらは青いアジサイに囲まれて。 ここにも多くの石仏が。観音堂のある境内まで下り、階段に向かうと右手の藤棚の下にミスト・シャワーが。 私もしばし涼を取ったのです。階段の降口の横には私に似たお腹の石像が待っていてくれました。布袋様 (長谷寺は江ノ島七福神では大黒様)。 「和み地蔵」、思わずほほえんでしまいます。 出世大黒天堂。大黒様を撫でるとお金が溜まるのだと。皆に撫でられて顔も膝も手も光っていました。 書院の庭の美しい枯山水庭園。書院は写経道場として平成25年9月に竣工。毎日写経・写仏が出来るのだと。 不動明王座像。弁天石像。 弁天窟入口。下の境内の放生池を過ぎた辺りに、弘法大師参籠の地と伝わる弁天窟があり、その名にちなみ窟内壁面には弁財天とその眷属である十六童子が彫られているほか、弁財天と同じ神様であるとされる民間信仰の宇賀神(人頭蛇身)もお祀りされていた。弁天窟十六童子 一覧。 善財童子。 弁財天。 腰をかがめて洞窟の先へ進んだのです。 小さな弁天様の人形に願いを込めて奉納できます。ひとつひとつにそれぞれの願いが・・・。 境内には左に妙智池、右に放生池とふたつの池が並んでいた。紫陽花に負けじと花菖蒲が池を彩っていた。そして最近竣工した『観音ミュージアム』 は上の観音堂の横にあることを聴き再び階段を上り直して到着。2015年10月18日(日)正午 オープン。シアターに映し出された木造 十一面観音菩薩立像。 ズーム画面。 十一面観音菩薩立像のある部屋に観音菩薩の化身とされる三十三の姿、観音三十三応現身立像が立ち並ぶ展示が照明の効果もあってこの世ならぬ世界が広がる空間となっていた。そして帰り道の最後に鎌倉・江の島七福神の【大黒天】の御朱印を戴いたのです。
2016.07.21
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『鎌倉散策 目次』👈リンク御霊神社の後は近くにある長谷寺へ向かう。鎌倉・御霊小路(ごりょうこうじ)を歩く。御霊小路は、御霊神社の脇から収玄寺の脇を通り、長谷寺参道の入口に繋がる長谷通り(県道32号藤沢鎌倉線)に出る小路のこと。長谷寺参道に入ると鎌倉オルゴール堂が右手に。 長谷寺山門が正面に。 長谷寺は観音山の裾野と中腹に分かれた2つの境内を持ち、下境内は回遊式の庭園を持つ浄土宗の寺院。境内にはさまざまな花木が植えられ、一年を通して絶えず多くの花が。また、境内からは海を望むこともでき、山と海と両方の美しさを楽しめるのです。山門の前に十一面観音とお地蔵さんが。 山門の大きな赤提灯は長谷寺のシンボルで、記念撮影には最適の場所。飲み屋の赤提灯より流石にかなり大きい。長谷寺境内MAP。境内に入り階段を上って観音堂に向かう。 観音堂への石段途中の良縁地蔵。いたるところに和み地蔵が。眺めているだけで心和む時間。地蔵堂手前の右手には奪衣婆(だつえば)と懸衣爺(けんねおう)が座っている「卍池」が。 なるほど池の形が卍の形。千体地蔵。水子や先亡諸霊のために奉納されたもの。3月と9月の18日には彼岸会が行われると。 不幸にしてこの世に生まれることのできなかった子供たちのために、無数のお地蔵様が供えられていた。更に階段を上がると鐘楼が。 梵鐘は文永元年(1264)鋳造の銘を持つ、鎌倉でも3番目に古いと。昭和28年に国の重要文化財に指定され、現在は宝物館において収蔵展示中。かきがら稲荷。ここ長谷寺の十一面観音像は、721年(養老5年)、徳道の願いによって彫られた二体の観音像のうちの一つ。一体は奈良の長谷寺に安置されたが、もう一体は有縁の地で人々を救うようにと、行基によって海に投げ入れられたのだと。それから15年後、体に付着した「かきがら」の導きで、三浦半島の長井の浦に流れ着いた観音像。間もなく鎌倉に移されたのだと伝えられていると。鐘楼横のこの「かきがら稲荷」は、「観音さまのお導きがあるように」と祀られたもの。阿弥陀堂。鎌倉幕府初代将軍である源頼朝が、自身の42歳の厄除けのために建立したものと。 阿弥陀如来像を外から望遠で。 観音堂。その創建は本尊である長谷観音流着の縁起に由来し、天平8年(736)まで遡ると。当山が鎌倉でも有数の古寺に数えられる所以。その後、関東大震災による長谷寺の罹災は甚だしく、旧来の建物は止む無く建替えとなり、災害から本尊をお守りするため、鉄筋による再建が進められた。そして、昭和61年、罹災から実に60年以上の歳月を費やし現在の堂宇は完成したと。本尊である十一面観音像は、錫杖を右手に携え、岩座に立つ独特の像容。 【http://www.hasedera.jp/about/】より転載。久米正雄胸像と右手に聖観世音菩薩尊像。 久米正雄は、1934年(昭和9年)から始まった「鎌倉カーニバル」の開催に尽力し、1936年(昭和11年)には、「鎌倉ペンクラブ」を結成して初代会長を務めた。関東大震災時には長谷にいて、長谷寺に避難。大地震の模様を『鎌倉震災記』に記した人物。長谷寺展望台から由比ヶ浜方面を望む。遠く相模湾の先に逗子マリーナが。 石造釈迦如来坐像のまわりの四天王。周囲に色鮮やかなあじさいの花が。 四天王はそれぞれ守る位置が決まっていると。持国天:東 増長天:南広目天:西 多聞天:北。持国天は右手に剣 。広目天。右手に筆、左手に巻物を持つ。 増長天。足下に邪鬼を踏みつけ、左手に戟(げき)を持ち、右手を腰に当てた姿。石造釈迦如来坐像は青いあじさいの花を抱いていた。仏足石。釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの。大黒堂前に立つ石造聖観世音菩薩尊像。そしてこの下には高浜虚子の句が。経蔵。経蔵は一切経を収める建物。経蔵内にある「輪蔵」と呼ばれる回転式の書架を一回転させると、全ての経を読んだのと同じ功徳があるといわれている。ネパールに行った時、多くのネパール仏教寺院で廻したマニ車の巨大番の如し。現在は「輪蔵」保護のため、回転させることができるのは観音様の縁日である18日に限られているのだと。 経蔵脇の竹林が夏の風に揺れて、ここだけ涼しげ。
2016.07.20
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『鎌倉散策 目次』👈リンクおんめさま(大巧寺)で安産祈願の御札を戴いた後は、江ノ電鎌倉駅まで戻る。そして長谷駅に向かいました。長谷駅から徒歩5分ほどで目的地の『御霊神社(ごりょうじんじゃ)』手前に到着。そしてこの角を右折。鎌倉市にはこの名前をもつ神社が2か所あるが、ここは鎌倉市坂ノ下にある、通称(鎌倉)権五郎神社((かまくら)ごんごろうじんじゃ)として知られている神社。江ノ電の小さな踏切と御霊神社の大鳥居が同時に見えて来た。平安時代後期創立の古社。鎌倉・湘南地帯を開拓、鎌倉権之守として「鎌倉武士団」を率いた領主・鎌倉権五郎景政公を祀る神社。踏切を渡ると直ぐに大鳥居が。現在の大鳥居は、2011年(平成23年)に建て替えられたもの。鳥居のすぐ前を江ノ電が走る珍しい神社。江ノ電の踏切が一の鳥居?そして江ノ電の窓から大鳥居が手の届くほどの近さ。右手には社務所。 境内には、この神社の祭神に関係のある神や、この土地に祀られていた神を祀る摂社や、それ以外の神を祀る多くの末社が鎮座していた。こちらは稲荷神社。伏見稲荷大社より勧請。食物、とりわけ稲の生産と豊穣を司る宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を祀る。 須佐之男命(すさのおのみこと) と神大市比売(かむおおいちひめ)の子であり、日本にて最大の神社の数を誇る稲荷神社の代表的な神。お稲荷さんとして親しまれており、その呼び名を知らない人は少ない神様。秋葉神社(あきばじんじゃ)。火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祀る。火之迦具土神はその名の通り火の神。明治初期にここ坂ノ下集落が大火に見舞われ、大半が焼失した際に、静岡県浜松市の秋葉山本宮より火災鎮護を願って勧請したのだと。御霊神社 大鳥居と書かれた木札が立っていた。建て替えられる前の大鳥居は、1850年(嘉永3年)に建立され、1923年(大正12年)の関東大震災では、2本の石柱に「ひび」が入ったが倒壊は免れた。しかし、安全性を鑑み、新しい鳥居に建て替えられたのだと。かつての鳥居は、境内に大切に置かれていた。御霊神社の宝物庫には、鎌倉・江の島七福神の一つ福禄寿が安置されていた。福禄寿は、例大祭で行われる面掛行列(めんかけぎょうれつ)の福録の面にちなむもの。面掛行列は鎌倉権五郎景政の命日にあたる9月18日の御霊神社例大祭。神奈川県の無形民俗文化財に指定されているのだと。面掛行列の十人衆の面が全て置かれているとのこと。七福神と書かれた白い旗が宝物庫の手前両側に。 鎌倉市指定天然記念物 タブノキ(椨)。海岸近くに多く照葉樹林の代表的樹種のひとつで、各地の神社の「鎮守の森」によく大木として育っていると。樹高20m、推定樹齢350年に達し、冠状に広がった樹枝が見事。神奈川県選定「かながわの名木100選」にも。本殿への階段を上る。丁度、ニュージーランドからの撮影の一団が本堂前に。しばし、撮影終了を待つ。 かつて、鎌倉近辺には平氏の五家(鎌倉、梶原、村岡、長尾、大庭)があり、この五家の祖を祀る神社として五霊神社(御霊神社)が建てられたと。この五家の祭神としていたが、いつしか、武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになったとのこと。権五郎景政は、敵の矢を目に受けながらも奮戦したことから、目に御利益があると。近年は「紫陽花(あじさい)」が綺麗に咲き乱れる神社としてテレビなどでもよく取り上げられて人気の神社。軒下の垂木、彫刻、床下の木組み等が見事。弓立の松。鎌倉権五郎景政が領地を見廻る際に弓を立てかけたと伝わる松とのこと。 神輿舎。 御霊神社拝殿に向かって左側に。夫婦銀杏。樹齢400年ともいわれる古木。雌雄そろって聳え立ち、毎年多くの実を結ぶことから、夫婦円満・家内安全・子宝安産のシンボル。袂石、手玉石。 鎌倉権五郎景政が手玉にとって袂に入れたという石。袂石(右)約60kgと手玉石(左約105kg)。祖霊社(それいしゃ、みたまや)。日清・日露および第二次世界大戦で戦没した氏子の霊を祀る。 第六天社(だいろくてんしゃ)。 神による天地開闢の後、第六代の神、面足尊(おもだるのみこと)と訶志古泥神(かしこねのかみ)を祀ると。御嶽社(おんたけさん)。長野県にある御嶽神社の三神を祀ります。天地開闢、最初の天下造化を行った国常立尊(くにのとこたちのみこと)、日本の統治に力を尽くした大穴牟遅神(おおなむろのかみ)/大国主命(おおくにぬしのみこと)、国土経営の神、少名毘古那神(すくなひこなのかみ)の三神。 庚申塚(こうしんづか)。 石上神社(いそのかみじんぐう)。 海岸線近くが埋め立てられる前、海岸線はもっと御霊神社の近くにあった。そこにあった巨石によって舟の座礁が続いたため、その石を引き上げてその一部を祀ってあるのだと。金比羅杜(こんぴらさま)。海上安全の守護神、金比羅様を祀ります。 江ノ電とあじさいのBEST MIX。 鎌倉・江の島七福神 『福禄寿』 の御朱印を戴きました。
2016.07.19
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我が趣味の菜園のスイカも収穫できるようになりました。まずは、マダーボールという品種。糖度の特に高いラグビーボール型小玉スイカです。 自宅に持ち帰り、切ってみるとちょうど食べ頃。 冷蔵庫で冷やし、早速楽しみました。皮目が比較的薄く、果肉は濃紅桃色、繊維は少なく適度にしまり、糖度も高く、今年も美味しかったのです。そしてこの種の小玉スイカは妻のお気に入りの品種。何故ならば、冷蔵庫のスペースを独り占めしないから。そして 黒皮品種のスイカ、所謂デンスケスイカの仲間です。 果皮は暗緑色で縞模様がないのです。割ってみると、空洞(割れ)が発生していました。この品種の果肉は、必ずと言っても良い程、空洞(割れ)が発生しているのです。なかなか収穫の最適期が未だに把握できない素人農夫なのです。こちらも早速楽しみました。空洞があるわりに、シャキシャキとしていて甘さも十分なのでした。 来週の7月27日は「スイカの日」。ぎっしり果肉が詰まった旬のスイカはまさに日本の夏の風物詩。実は、スイカはその栄養価の高さから熱中症対策にもぴったりなのです。暑い夏、縁側で、種を口から吹き出しながらがスイカを楽しみのが昔の風景でしたが・・・・・、今は品種改良で種の数も少なくなっているのです。
2016.07.18
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今年も我が家の庭の大輪のユリが次々に開花しています。白地にくっきり浮かぶ濃いピンクが美しい。淡い黄色の花。ピンクの花が密集して咲いていました。ユリにも色々種類があります。 沢山あるユリの品種の中の一つの品種、カサブランカ。カサブランカは、『オリエンタル』と言うユリの種類に属します。オリエンタルは香りがあり、比較的大輪という特徴が。純白で大輪、香りが強いのです。そして淡いピンクと黄色のカサブランカが仲良く。 こちらは濃いピンクで存在感があります。 中心が淡い黄色、そして周囲は白。 それぞれの花に顔を近づけると、あの香りが。しかし我がミツバチ達はユリには殆ど訪花しないようです。この香り、花粉はお気に召さないようです。これから鹿の子ユリも開花を始めるのです。 そして透かしユリ、鉄砲ユリも続々と、。
2016.07.17
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趣味の養蜂の、今年初めてのハチミツ絞りを先日行いました。今年は例年に比べて半月ほど遅れた初回のハチミツ絞り。養蜂場のある菜園から、8枚ほどのハチミツたっぷりの貯蜜枠を自宅に持ち帰りました。 ほぼ巣枠両面の全面にミツバチ達が白い蜜蓋で被った貯蜜枠のみを採蜜用に持ち帰るのです。ミツバチ達は、ハチミツの元になる花蜜をいろいろな草花木から集めてきて、体内で酵素などを加えてハチミツに加工合成、巣に蓄えます。この時は、もちろん蓋(フタ)は無い状態。この時点のハチミツはというと、水分がかなり多く水っぽいので糖度も低いのです。これから、ハチミツの熟成が始まるというか、ミツバチ達が羽を羽ばたかせて風を巣に送り、水分を飛ばしハチミツの濃縮を始めるのです。それに従い、徐々に糖度も上がり、最終的にはミツバチ達の永久保存食というか、本当の意味でのハチミツが完成し、蜜蓋によって封印されるのです。自宅で妻が、器具を熱湯消毒し、準備をして待っていてくれました。そして熱湯で加温した包丁で蜜蓋を慎重に剥ぎ取っていくのです。 別の貯蜜枠も全面に白き蜜蓋が。蜜蓋のないものはダメだというわけでは決してありません。養蜂の教科書本では、貯蜜枠の3割程の蜜蓋があれば採蜜には十分との表記も。しかし、濃縮が進まず糖度が低いハチミツは長期保存がきかず、途中で醗酵してしまう恐れがあるとのことです。私はハチミツの販売が主目的の養蜂ではないので、巣枠全体が蜜蓋に覆われミツバチがハチミツの完成の印が出来るまで待っているのです。 妻も匠の技で蜜蓋を綺麗に剥ぎ取っていきます。 単純にいうとフタだけ切り取ればいいのですが、蜜蓋をしている巣の表面は、意外とデコボコしていて、包丁で蜜蓋を切り難いのです。更に蜜蓋が硬かったり、柔らかかったり、ハチミツが濃いのでベトベトで、中々上手く切れないのです。この作業は私には難しく全面的に妻の匠の技に依存せざるを得ません。そしてこれも熱湯消毒済みのプラスチック製遠心分離器にいれてハチミツ絞りです。蜜蓋で完全に被われていない貯蜜枠には重いものと軽いものがあるので、重さごとに分類しておく必要があるのです。これはなるべく同じ重さのものを分離器に入れてバランスをとるための準備なのですが、我が家の場合は全ての貯蜜枠がほぼ100%濃縮済みですの、このバランス調整作業は不要なのです。手動式の分離器ですので、巣脾を壊してしまわないように、最初はゆっくり回し、徐々にスピードを上げるように回転を速くしていきます。回転させると、容器内壁面にハチミツが飛び出し、壁面が琥珀色の輝きハチミツの香りが湧き上がってきました。 遠心分離容器に徐々にハチミツが貯まってきました。 全ての貯蜜枠の遠心分離を終え、次は濾過作業です。これも消毒済みの目幅の異なる金網ザルを3段にして濾過を行いました。 濃いハチミツが出口からゆっくりと濾過ザルに出てきます。 そして徐々にこちらの貯留容器に貯まって来ました。 今回は15L程度採れたでしょうか。この状態で一昼夜以上放置し、更に底に沈んだ、または表面に浮いた蜜蝋の細片を除去します。 そしてネットで購入したガラス容器をこれも十分熱湯消毒してパッケージング部長の妻が1本1本瓶詰め、蓋のキャップシールでの密封操作、ラベリング、袋入れを手慣れた技で進めてくれました。 そして漸く完成。今年も多くの友人から『Jinさんちのおいし~い蜂蜜』の予約が入っているのです。
2016.07.16
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先日、三重県津市内に仕事の応援に行った折、三重県旧美杉村下ノ川にある仲山神社(なかやまじんじゃ)に立ち寄って来ました。旧美杉村下ノ川は三重県津市の中心街から1時間、約40kmも南西へ走った布引山系、八手俣川沿いの谷間に集落が点在する懐かしい景観の残る里山地域。その一角に鎮座するのがこの仲山神社。仲山神社の祭神は、あの知る人ぞ知る「金精さま(金山彦命(かなやまひこのかみ))」、あの男根崇拝で良く知られているのです。 三重県三大奇祭の一つ数えられる下ノ川仲山神社のごんぼ祭りは男女根崇拝に拠る素朴な子孫繁栄・五穀豊穣を願う祭りなのです。 まずは手水場でお清め。 津市指定有形文化財になっている仲山神社。 神社本殿に上る手前の狛犬も歴史を感じさせてくれました。 『牛蒡祭(ゴンボまつり)』の説明板氏子地域の各家では、多量の牛蒡を蒸して、味噌・胡麻・唐辛子・山椒などを練り合わせた調味料をたっぷりこすりつけ、ホウ葉で包んだものを用意。この料理は男性が担当するのだと。そして、祭りの当日は、盛大な宴会が行われ、皆でこの牛蒡を食べるのだと。宴が終ると、当番に当たっている人々が、男女両性を形造った、注連縄の造り物を担いで次の当番家を訪れ、当渡し(当番の引き継ぎ)を行うと。そして、残った牛蒡は神社に奉納するのだと。男女の性器を信仰する風習は、「穀物豊作」の願いと結びついていることが多いとのこと。別名「へのこ祭」。現在では、2月11日が本祭日と。本殿前の急な石段を上る。 苔むした狛犬・阿像。 狛犬・吽像 。そして両側には石灯籠と鳥居が見えて来た。 集落の規模に比して立派な神社であり、また、伊賀や大和の影響を受けているのか、三重に多い神明造ではなく、流造に華美な彩色を施したものとなっていた。 左三つ巴の紋の入った垂れ幕が。 左三つ巴の紋は古代の祭具である勾玉(まがたま)の形と共通する巴の形が日本人に好まれ、平安時代末から鎌倉時代前半につくられた八幡社でも、装飾に多く用いれられて、八幡宮の神紋とされているとのこと。拝殿正面は色鮮やかな色彩。 境内には多くの杉の巨木が。 この日は仲山神社の『野上祭』 の日のようであった。社務所に地元の氏子の方々が集まりだしていました。渡邉操翁徳碑と刻まれた石碑。 大正時代の美杉村の村長の功績をたたえるための石碑のようだ。是非一度、杉の木で作られた男根そして稲藁で造られた「女陰」の神輿をこの眼で見てみたいと思っているのですが・・・・・・。
2016.07.15
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長男のパートナーが妊娠しましたので、先日安産祈願のお守りを戴きに鎌倉まで行ってきました。場所は鎌倉駅東口からすぐ若宮大路に面した、徒歩三分の距離にある寺・大巧寺(だいぎょうじ)。おんめさまの名で親しまれています。 本尊は産女霊神(うぶすめれいじん)といって安産にご利益があると有名寺の入口には『安産 子育 産女霊神 長慶山 大巧寺』 と刻まれた石碑が。山門。もともとは大行寺という真言宗の寺でしたが、源頼朝がこの寺で軍議を行ったところ大勝をおさめたため、その後「大巧寺」(だいぎょうじ) という名前に改名されたとのこと。 大巧寺は、古くから「おんめさま」という名前でも親しまれているが、もともと境内に祭られている「産女霊神」を指す「お産女様」(おうめさま)が訛り、「おんめさま」と呼ばれるようになったのだと。 本堂への参道の両側には、アガパンサスの青い花が。 まずは手水舎でお清め。 本堂は改修工事中。 寺務所受付で安産祈願のお願いを。 妻から、おんめさまでの安産祈願に予約は必要なしと。直接、寺に行き、本堂横の受付で氏名、年齢、住所、予定日などを説明すると台帳に記入してくれ、出産予定月末日まで住職さんが毎朝安産祈願してくださるのです。そして安産御守セットを戴きました。 そして、妻が本人の手元に送ったのです。メールでそのお守りの中身の写真が送られてきました。左から産婦の髪を結ぶ「麻紐」、腹帯に入れる「腹帯守」、予定月の1日と出産時に頂く「妙符」そしてお祀りして保管する「御札」のようです。おんめさまの「妙符」については、中の米を包んでいる紙が白い兜なら男の子、赤い金魚なら女の子、という言われがあるとのことですが、中の紙の色は?そしてお礼参り時に御供米(ごくまい)を袋に入れ、それに御灯明料(みあかしりょう)を添えて納めるようです。そして説明書も入っていたようです。帰路に参道を再び。アガパンサスの青い花と右手前には白いラッパ状の大きな花を咲かせている浜木綿(ハマユウ)が見送ってくれたのです。初産の出産予定日は年末の最終週なのですが・・・・・。赤ちゃんの健やかな成長と、これから夏本番、暑さに負けずお腹の赤ちゃんとの夏を楽しんで欲しいと願っているジジババなのです。
2016.07.14
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先日、出張帰りに、雨が止んでいたので平塚駅で急遽下車し七夕祭りに立ち寄ってきました。平塚駅構内の七夕飾り。第66回湘南ひらつか七夕まつりは平成28年7月8日(金)~10日(日)までの3日間の開催。この時期、梅雨と重なり雨の中での開催が多いのです。 まずは紅谷町商店街「紅谷パールロード」の七夕飾りを楽しむ。入口には『ようこそ!湘南しらつか 七夕まつりへ』の垂れ幕が。そしてその両側には神奈川県厚木市、伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、平塚市、藤沢市、中郡大磯町、二宮町および高座郡寒川町をホームタウンとしている湘南ベルマーレの垂れ幕も。桃太郎、その上に真っ赤な鬼の飾り。 桃太郎の飾りが回転。 多くの商店や寺務所が工夫を重ねた飾りを。 湘南ゆるり 浮世絵の飾り。 真田一族の飾り。 北陸新幹線、北海道新幹線。 紅谷町まちかど広場の七夕飾り。 そしてメイン会場の湘南スターモールへ出る。雨が再びちらついてきた。くろがねや 花さき山 。右手に門倉組の飾り。 ハワイで150年以上続く伝統のフラを今に伝える ハウラ フラ カレファ トゥアヒネ。 ブラジル オリンピック。 反対側。 道の両脇には出店が並んでいた。 制服屋さん「ときわや」の飾り。 懐かしき数々のお面が売られていた。 昼の部 特選の片野屋の七夕飾り。 駐車場には多くのテントが張られこの下で観光客が食事を楽しんでいた。 これも片野屋の作品。 進和学園の作品。 平塚信用金庫 ラグビー 五郎丸 の姿が。 ベルマーレ 平塚。 真田丸。 色鮮やかな飾りが道路一面に。 おばけ屋敷には呼び込みの大きな声が。 そして平塚駅に戻る。 毎年150万人の人出があると言うがこの日は雨のためか、そして時間も早かったためか、それほどの混雑はなかったのであった。戦後の復興まつりとして始まった七夕まつりは今年で第66回を迎えた。規模は段々小さくなっていると感じているが、いつまでも残していきたい祭りなのである。
2016.07.13
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山中城跡散策の跡は最近竣工した三島にある巨大吊り橋に向かう。愛称は三島スカイウォーク(MISHIMA SKYWALK)。正式名称は箱根西麓・三島大吊橋とのこと。 全長/400m、高さ/70.6m、歩道幅/1.6m、主塔の全高/44m、 歩行者専用として日本最長の吊り橋。三島のランドマーク、観光名所としてフジコーが総工費約40億円をかけて建設。2012年に着工、2015年に完成。大分県九重町にある九重"夢"大吊橋の長さ390mを抜いて、日本で最も長い歩行者専用の吊り橋。 しかし吊り橋の下には川が流れているわけではなく、谷の小さな流れ程度のあくまでも観光用の巨大吊り橋。無料駐車場に車を停め、南ゲート方向に向かう。吊り橋を渡るにはここで1000円のチケットを買うのであるが、我々は金額が高いと言うことで諦める。 お土産スペースの「スカイガーデン」。エスカレーターを登った先に。ガラス張りの温室のような施設。 天井一面に咲き誇る花がシャンデリアの如く。地場野菜販売、果物屋、フレッシュジュースコーナー、土産物も色々と。 ちなみに、ここスカイガーデンも高台であるが吊り橋の全景はここからは見えなかった。よく考えられ、計画されて?いたのです。 展示コーナー館に入ると青空の下、富士山とスカイウォークを撮した巨大パネルが。 壁には三島地区に関係した各種ポスターが貼られていた。 三島スカイウォークのジオラマを展示。 別の角度から。写真下の北エリアからも吊橋へ入場することができるようであるが車では行かれずに徒歩にてのみの模様。これも良く?考えられているのです。そして北エリアには、展望デッキから見える吊り橋全景や駿河湾や美しい街並みが楽しめるとのこと。やはり1000円払わないと吊り橋全景や駿河湾を楽しむことが出来ないように上手く?設計されているのであった。三島スカイウォークの実寸模型。模型の壁面は富士山をメインとした眺望が再現されており、雨の日の記念撮影にも利用できると。我々もこの場で青空と富士山を背景に吊り橋を渡っているが如くに記念撮影。 スカイウォークの見学を終え車に戻り帰路へ。国道1号線を箱根方面へ向った「富士見平」近くに、『菊池千本槍の碑』と刻まれた石碑を車窓から。NET情報によると『建武2年(西紀1335年)12月21日ここ箱根古道 山中一帯で行われた水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命を承けた宮方軍の先鋒菊池肥後守武重公の率いる軍勢は、足利勢と壮絶な戦いを展開。菊池一族一千余の武士たちは、竹の先に短刀を結ぶ新しい武器を用い、足利勢を山の峰に追い上げ大勝利を収めた。しかし、足利路の友軍は、竹下合戦に敗れて宮方総崩となり、菊池勢は殿軍を務め死闘を繰り返し、将士700名を失った。此の箱根竹下合戦は、南北朝対立の悲しい時代の幕開けであった。武重公は九州へ帰国の後、刀工延嘉に命じ、短刀の形をした穂先を造らせ、合戦に臨んで槍に仕立て、多くの戦果を挙げた。のちにこれが菊池氏誠忠の歴史に輝きを放っている。菊池同族の末商ゆかりある者ここに碑を建て史実を顕彰すると共に・・』と。雲の切れ間から富士山の頂上が束の間見えた。 横浜新道を利用し、小田原まで戻ると車窓左手に城の如き建物が。小田原城ではないかと思うこの八棟(やつむね)造りの建物が、「ういろう」の老舗本店。再びネット情報によると『店内に入ると、名物菓子「ういろう」をはじめ、様々な菓子が販売されています。また、店内には喫茶スペース、奥の一画は薬局になっており、薬が販売されています。』と。歌舞伎俳優の二代目市川團十郎(だんじゅうろう)が持病で声が出なくなり、役者人生をあきらめかけていました。ところが、「ういろう」の薬のことをきき、名薬「透頂香」を服用してみると病がすっかり治り、そのお礼にと演じたのが歌舞伎十八番の「外郎売」なのだと。』小田原市内で車窓から大手門跡(国指定史跡)が見えた。江戸時代初期の小田原城の大手口は箱根口であったが、稲葉氏の時代に江戸に向く現在の場所に移された。 大手門跡の石垣の上には、大正時代に移設された時の鐘があり(現在の鐘は昭和28年製)、午前6時と午後6時に鐘を打ち、市民に時を知らせていると。 そして昼食は、明治26年創業小田原老舗の日本料理屋 『だるま料理店』へ。しかし店頭には長蛇の列で、即諦める。車を進め、酒匂川を渡り、川沿いにある『鮨政』へ。 いろいろ迷いましたが海鮮丼を楽しんだのです。 この後、二宮のOさんを御自宅まで送り、茅ヶ崎のSさん宅から自車で1泊2日の箱根の旅を終え帰宅したのでした。
2016.07.12
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西の丸畝堀。 西の丸と西櫓(角馬出)の間は、障子のように区画した畝掘が見られた。すなわち格子状になった「障子堀」。 掘立柱建物跡。 南西の区画で発見されたもので、何の用途の建物であったかは不明とのこと。同じく障子堀。障子の桟のような形状。 西櫓付近の障子堀。山中城の空堀にはこれでもかというくらいあちこちに畝が復元されていたが、この西櫓付近の障子堀は別格。 西櫓堀と石碑。 三島市眺望地点。 ここにも何気なく畝堀が復元されていたが、この規模の畝堀は他所では見られない規模。アルミ梯子はかたづけておいて戴きたく。西の丸堀。山中城の最大の特徴である障子堀は、物見台の高い位置から見るのもいいが、このように横から見てもなかなかの圧巻。西の丸の北条流の「障子堀」。元西櫓と二の丸虎口にかかる架橋が右に。 元西櫓から西の丸方面の眺め。 下の山中城跡入口まで戻り、続いて国道1号線(東海道)を挟んで反対側へ。御馬場曲輪。すり鉢曲輪、御馬場跡方面への案内板が前方に。 出丸御馬場跡。この山中城の出丸は通称:岱崎出丸(たいざきでまる)と呼ばれ、標高547~557m、面積20400m2におよぶ広大な曲輪であり、天正17(1588)年、秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ増築された曲輪。のりかえあんない 出丸御馬場跡の石碑 岱崎出丸。間宮康俊らが守り、壮絶な戦死を遂げたと。岱崎出丸と遠くに三島・沼津方面、駿河湾が眼下に。すり鉢曲輪見張り台。 岱崎出丸の一の堀。出丸全域を鉢巻のように廻るのではなく、先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を箱根旧街道の空堀まで続くもの。この様に畝を設けることで攻撃側の左右の移動を妨げたのです。すり鉢曲輪。山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪。そのためか、曲輪の構築方法も本丸側の曲輪とは全く異なり、中央部を凹ませて低くし中心から緩やかな傾斜で土塁までたちあがり、中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。上方から見た様子が、すり鉢に良く似ているところから通称「すり鉢曲輪」とよんでいる。この曲輪への虎口は南に作られているが、さらに東側に接続し、幅八mの長方形の曲輪がつくられており、防備のための『武者たまり』と推定されている。構築途中の曲輪跡。出丸を増築すべく完成することなく豊臣軍との戦いに挑むことになった場所。 出丸御馬場堀。御馬場曲輪と岱崎出丸の間の空堀、高さは8~9mほど。堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀・西ノ丸堀と同様畝堀であったと考えられると。400年前の遺構がそのまま復元されている石を使わない土だけの山城は全国的にも非常に珍しいもの。堀や土塁が良く残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みにとり入れた山城の作り方など、目を見張るものが。 見学を終え、車に戻ると、長崎から徒歩にて東京に向かうグループに遭遇。そして車で日本一周し最後の日を迎えるオジサンにも。これぞ一期一会。
2016.07.11
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湿性花園の見学の後は、箱根の国道1号線を利用し芦ノ湖から三島方面に向う下り坂の途中にある、山中城址(やまなかじょうあと)へ向かう。山中城は、静岡県三島市山中新田にある中世の日本の城(山城跡)で、国の史跡に指定されているのである。 山中城跡公園案内所・売店のすぐ裏には箱根旧街道石畳がここにも。 箱根旧街道は、小田原宿から箱根山を越えて「三島宿」にいたる標高845mの「箱根八里(はこねはちり)」の区間32kmのこと。ここはその下り四里の途中。延宝8年(1680)に初めて石だたみが敷かれ、文久2年(1862)に大改修された。山中城址入口から散策開始。北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。箱根十城のひとつ。永禄年間(1558年 - 1570年)に北条氏康により築城。北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、城は東海道を取り込む形で造られていた。1590年(天正18年)、小田原征伐で豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将である北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら4千は奮戦し、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出すものの、猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城したのであった。山中城跡は現在国道1号線で南北に真っ二つに分断されている。しかし昔の箱根旧街道も1号線に沿って通っていることを考えると、元々街道そのものを城に取り込み、この峠道を通ろうとすればいやおうなく山中城の中を突っ切らなくてはならないように築城したものであること間違いなし。まずは本城である北側の城跡へ進む。三の丸堀にそって細い坂を上る。三の丸堀は、三の丸を防御する堀で、三の丸の西側を出丸まで南北に走り、長さ約180m、最大幅約8m。自然の谷を利用して、中央に畝を設けた二重堀になっており、畝を境に東側の堀は田尻の池からの水を流す水路となっていた。二重堀のうちの西側堀の南端から撮ったもので、現在通路になっている畝の右側が東側の堀となっていると。 「田尻の池」には睡蓮が咲いていた。山中城にはと「田尻の池」と「箱井戸」というふたつの池があり、箱井戸は飲料水用、田尻の池は洗い場・馬用として使われていたと。 ヒツジグサ(未草)であろうか。スイレン科スイレン属の花は世界に何十種類もあるが、日本にはヒツジグサ(未草)と呼ばれる比較的小さな白い花を付ける一種のみが古来から生育していると。普段良く見る大柄のスイレンは明治時代以降に輸入された園芸種で、日本古来のヒツジグサを含め広くスイレンと呼んでいるのだと。ピンクの花も。 本丸と二の丸の間の空堀。本丸と北ノ丸を結ぶ架橋(かけはし)が木製で復元。山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。木製の橋は土橋と較べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり曲輪の防衛には有利であったと。天守櫓跡。標高586m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置。天守は独自の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。基壇は一辺7.5mのほぼ方形となり、盛土によって50~70cmの高さに構築され、その四周には、幅の狭い帯曲輪のような通路が一段低く設けられているとのこと。 本丸堀。北ノ丸跡。標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置。北ノ丸堀。山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪につくられる土塁が高く堅固なものとなる。400年の歳月はこの堀底を2m以上埋めているので、築城時は現況より更に要害を誇っていたに違いない。この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のない空堀となっている。本丸跡から障子堀跡に向かう。 溜池(ためいけ)跡。ここは溜池(貯水地)の跡。山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを盛土によって仕切り、人工土手を作って深い堀としたものであると。 元西櫓下の堀。さらに、西の丸に向けて歩いて行った。そしてしばらく進むと西の丸跡に出た。 山中城は、城の外構が石垣に代わる前に築城された、土塁で守られた城。 西の丸からの展望。天気が良ければ写真右側に富士山の勇姿が・・・・。 西ノ丸は山中城の西方防衛の拠点で、西端に盛土をして見張り台とし、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁で囲んで築かれていた。曲輪は東に向かって傾斜しており、東側にある溜池に雨水等を集める仕組みに。 西の丸畝堀。 西の丸周囲は、畝堀や障子堀が取り囲んでいた。この西の丸畝堀は5本の畝によって区画されています。畝の高さは堀底から約2mあり、さらに西の丸との高低差は9mほどあります。現在は、芝生が張られていますが、当時は滑りやすいローム層が露出しており、もし人が堀に落ちれば脱出不可能であったと。山中城で特に素晴らしいのは、ここ西の丸の周りにある障子堀が再現されていること。 更に西櫓に向かって進む。
2016.07.10
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エゾノレンリソウ(蝦夷連理草)。連理とは、別々の根から生えた2本の木の枝がくっついて、どれがどれだかわからなくなること。夫婦や男女の仲の親密なことにたとえられる。小葉が2個ずつ対生している様子からこの名が付けられたと。ミソハギ(禊萩)。盆花としてよく使われ、ボンバナ、ショウリョウバナ(精霊花)などの名もある。ミソハギの和名の由来はハギに似て禊(みそぎ)に使ったことから禊萩、または溝に生えることから溝萩によるといわれる。 ハマナス(浜茄子)。バラ科バラ属の落葉低木。濃いピンクの花を咲かせていた。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になると。皇太子徳仁親王妃雅子様のお印であるとのこと。トキソウ(朱鷺草)の群落。もう少し早ければ一面にと。和名は花の色がトキの翼の色であるトキ色に似ていることに由来。ヒメシャジン(姫沙参)。釣鐘状の青紫色の花を下向きに。クサレダマ(草連玉)。サクラソウ科オカトラノオ属の多年草。和名はマメ科のレダマに似て、草本であることに由来する。別名、イオウソウ(硫黄草)。しかし音の響きは可愛そうな名前。オオマユヨイグサ(大待宵草)。 花は夕方に開き朝にはしぼむ黄色い一日花。黄色いキノコを発見。 タマゴタケ?湿原の奥の山には足早に雲が流れていた。 そしてその前の湿原には花菖蒲が。 キツリフネ(黄釣船)。花を帆掛け舟に見立て、細い花柄で吊り下げる様子から「釣り舟」で、花色が黄色なので「黄釣舟」。ミズバショウ(水芭蕉)は既に花の姿はなし。しかい花後の葉がこの様に大きくなっていることにビックリ。 ハンカイソウ(樊噲草)。ハンカイソウは本州の静岡県以西の本州、四国、九州に分布する大型の多年草。 和名は難しい漢字。「とってよいのは写真だけ」 の指示に基づき、花の写真とその説明板をSETで撮り、その説明板の写真を見ながらブログに載せているのです。決して花の名前を知っているわけではありませんので。チゴユリ(稚児百合)。上部で弓なりに曲がる茎の先端に直径1cmほどの白くかわいらしい花を咲かせていました。湿性花園の散策を終え展示室に入ると、ブルーポピー(ヒマラヤの青いケシ)が一輪。しかし既に花を閉じていた。 展示室では、仙石原湿原の生い立ちや動植物などを、パネルや写真、大型水槽でわかりやすく説明。神代杉の根。仙石原湿原の杉が巨大地震で埋没し、腐らずに残ったもの。そして湿性花園を後にし、元箱根に向けて車を走らせると右手に霧の中に人で賑わっている建物が。そして巨大な「黒タマゴ」 を発見。平成28年4月28日より、土産物店「くろたまご館4」を開店し、黒たまごの販売を再開。「黒たまご」は従来どおり、大涌谷の玉子池にて製造し、「くろたまご館4」に輸送して販売していると。 店に立ち寄り、5個入りの黒たまごを購入し皆で1個ずつ食べる。1個食べると寿命が7年延びるという真っ黒な温泉タマゴ。そして私だけ長生きしても・・・と思い妻にも一袋を土産に購入。しかし我が家でも殆ど私が食べてしまったのであったが・・・・・。さてさてその結果は如何に・・・・・・・・。
2016.07.09
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仙石原の2日目は、小雨の中、仙石原にある箱根湿性花園に立ち寄る。 箱根湿生花園は、湿原をはじめとして川や湖沼などの水湿地に生育している植物を中心にした植物園。園内には、低地から高山まで日本の各地に点在している湿地帯の植物200種のほか、草原や林、高山植物1100種が集められ、その他珍しい外国の山草を含め約1700種の植物が四季折々に花を咲かせていると。園路は、低地から高山へ、初期の湿原から発達した湿原へと順に見てまわれるようになっていた。箱根湿性花園案内板。 園内MAP。へメロカリス。日本や中国原産のユウスゲやカンゾウ類(ノカンゾウ、ヤブカンゾウなど)を元として、品種改良で生まれたものをヘメロカリスと呼ぶとのこと。ヒツジグサ(未草)。未の刻(午後2時)頃に花を咲かせることから、ヒツジグサと名付けられたといわれるが、実際は朝から夕方まで花を咲かせるとのこと。 スイレン(睡蓮)科スイレン(睡蓮)属の水生多年草。この「睡蓮」ですが、決して「水蓮」ではありません。この「睡蓮」にもちゃんと名前の由来があって、花は開いて閉じてを3回繰り返すのだと。これを人間のサイクルに例えて 日中(開く=目覚める)夜(閉じる=眠る)というところから、「睡眠する蓮」→「睡蓮」なのだと。なるほどと納得しきり。 ポンテデリア(アメリカ水葵)。ホテイアオイと同じ仲間ですが浮草ではなく、水辺で育つ抽水植物。抽水植物とは比較的浅い水中に生え、根は水底の土壌中にあり、葉や茎が水面から出ている植物のこと。長さ10cmほどの花序に2cmぐらいの青い小花が下から上に向かって咲いていた。葉が筒状になった食虫植物・サラセニア。虫の捕まえ方は落とし穴式。 入口周辺に蜜腺があり昆虫を誘い寄せて、奥へと追い込むことで捕まえる。内壁には下向きのとげがあり、昆虫が這い上がって逃げ出せない仕掛けに。様々な種類の名札の立つ花菖蒲園は終わりかけていた。 紫の菖蒲の花が雨に濡れていた。 ノムラカエデ。ノムラカエデ(野村楓)は、春から初夏に紅葉する珍しいモミジ。柄が濃いピンクのキノコを発見。 マツモトセンノウ(松本仙翁)。ナデシコ科の花。イヌヌマトラノオ(犬沼虎尾)。サクラソウ科オカトラノオ属の多年草。本州の東北地方から中部地方にかけて分布し、湿地に生える。湿地帯に生える沼虎の尾(ヌマトラノオ)と高原や山に生える岡虎の尾(オカトラノオ)との自然雑種とのこと。花の先端が垂れ下がっていた。ドクウツギ(毒空木)。花後のこの葡萄の房状に成らせる赤い実には猛毒が。 実ばかりでなく全木に毒があり毒性の強さから、 ドクゼリ(毒芹)やトリカブト(鳥兜)とあわせて日本三大毒草。別名:ネズコロシ、イチロベゴロシ(一郎兵衛殺し)、オニゴロシ(鬼殺し)、ヒトコロビの木と恐ろしい名前の数々。 池の景色、しかし花は既に終わっていた。 ムシャリンドウ(武者竜胆)。シソ科の多年草。 ヒメシャジン(姫沙参)。本州の中部地方以北の亜高山帯~高山帯の砂礫地や岩の間に生える多年草。クガイソウ(九蓋草)イヌヌマトラノオはサクラソウ科、クガイソウはゴマノハグサ科で、まったく別種とのこと。 ニッコウキスゲも終わりかけていた。 ゼンテイカはキスゲ亜科の多年草。一般には、「ニッコウキスゲ」の名前で呼ばれることも多いとのこと。 クサフジ(草藤)。ソラマメ属に属する多年草。北海道、本州、九州に分布。和名の由来は、葉と花がフジに似ていることから。シモツケソウ(下野草)。 名前が示すように、下野(しもつけ)の国、現在の栃木県に多く生えていたからとのこと。オニシモツケ(鬼下野)も雨に濡れて。 コシジシモツケソウ(越路下野草)。シモツケソウと名が付くが、草ではなくシモツケと同じ木の仲間。キンレイカ(金鈴花)。オミナエシの仲間とのこと。ムラサキモメンヅル(紫木綿蔓)。日本では北海道や中部山岳の高山の砂礫地に生える高山植物で富士山に特に多い花であると。ノリウツギ(糊空木)。アジサイ科アジサイ属の落葉低木。樹液を和紙を漉く際の糊に利用したため、この名がついたと。静かな池には木橋が架かっていた。トクダマ。ギボウシの仲間の中で一番華やかな花と。コウホネ (河骨)。水中から花茎を伸ばして5センチほどの黄色い花を1輪咲かせていた。5枚の花びらのように見えるものは萼。萼はやがて緑色になる。萼の内側に爪のようなものがたくさんあるが、これが花びら。
2016.07.08
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本丸跡(本城曲輪跡)の物見台からの相模湾の風景。 物見台からは現在の小田原城を何とか確認することができた。 その小田原城をズームで。 「太閤殿下の眺め」を皆で満喫。小田原合戦攻防図。 小田原城は高土塁で城下町もろとも囲んだ堅固な惣構が健在とはいえ、まさに四面楚歌。そして西方の山上にはこの総石垣の巨大城郭が。小田原城包囲の戦いは天正十八年(1590)四月三日から始まり、結局、七月五日、氏直は開城して降伏した。戦国大名・後北條氏の滅亡ということになったのである。秀吉は、氏政・氏照兄弟、それに老臣大道寺政繁、松田憲秀に切腹を命じ、氏直は高野山に追放されたと。 石垣山一夜城の構造 案内板。 案内板には、「石垣山一夜城は、最高地点の天守台の標高が261.5mあります。(略)城の縄張りは南北方向に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸と天守台を設け、南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪等が配置されています。このほか本丸の東には南曲輪等の小規模な曲輪群があります。(以下略)平成2年3月 小田原市」と記されていた。石垣山一夜城の城郭図。小田原城は北曲輪の方角。秀吉は本丸か天守台で指揮を執っていたのであろう。本丸跡に小さな社。 本丸跡奥の天守台跡。 ここに何かしらの遺構があることを期待して昇りつめてみたものの・・・・・・。しかし4百年以上も前に、ここに豊臣秀吉が陣を構えていたと思うと・・・・・。二の丸広場に下ると天守跡を支える石垣が左手に。 右手には本丸への登口。二の丸の先に箱根方面の展望台が。 細い坂を下り、井戸曲輪跡へ向かう。 井戸曲輪は石垣山一夜城二の丸(厩曲輪)北東側にあり、もともと沢の様になっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むように造られている場所。 野面積み(のづらづみ)の石垣は、西国から穴太衆(あのうしゅう)という石工集団がやってきて手掛けた物。この井戸は二の丸から約25mも下がった、非常に深い所に。 この井戸は「淀君化粧井戸」とか「さざゑの井戸」とも呼ばれていると。一夜城の見学を終え、駐車場に戻る。駐車場の奥にも刻印の入った石が展示されていた。石垣山の西側は石丁場(石切場)になっており、この場所の発掘調査で見つかったものをこの場所に移設し展示しているとのこと。動物を模した木製のオブジェが風景とマッチしていて、のどかな雰囲気。馬の親子。 アガパンサスとカンナ・ルシファーであろうか花が赤と黄色の縁が。 ベンチ、テーブルも風情十分。穴が開いていると思い座ったベンチには水溜まりが。あっと思ったときには遅かったのであったが、幸い乾きが早く。店名を記したファームゲート。その後ろには、畑と森が広がっていた。畑では、ブルーベリーや柑橘類を育てていた。ブルーベリーも赤みを増していた。 ファームの花壇を散歩していたら見つけた、愛し合っている姿のカエルの石の置物。 帰宅後に知ったのであるが、このファームは亡き女優・川島なお美さんのご主人鎧塚俊彦オーナーシェフ経営の一夜城ヨロイヅカファームであるのだと。 兎も。石垣山一夜城駐車場横には「ヨロイヅカファーム」が。店の前のオープンテラスは、観光客で賑わっていた。ハチミツも販売されていた。百花蜜は600円/100g 。フランス語ではちみつはミエル「miel」。季節ごとにフレーバーが変わっていくソフトクリームを楽しむ。この日はブルーベリーの味が濃く美味。国道1号線まで戻り箱根の山を登る。前方に箱根湯本駅が。 左の歩道は先日箱根石畳制覇の為に三枚橋まで向かった道。函嶺洞門が正面に。 現在は通過できずに、新たに出来たバイパス道を利用。完成から80年以上経ち老朽化し大型バスのすれ違いも危険とのことで閉鎖されてしまったのである。正月の箱根駅伝の名所であったが。 富士屋ホテル前を通過。 一度はこのホテルに宿泊し、箱根駅伝を応援したいのではあるが・・・・。そしてこの日は入社同期9人と先輩2人の総勢11名で酒宴を。近況報告、体調、孫の話等々で深夜まで大いに盛り上がったのであった。
2016.07.07
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先日、入社同期、そして先輩・旅友のSさん、Oさんと箱根の仙石原にある卒業した会社の健康保険組合が運営する保養所に行ってきました。我が家から車で茅ヶ崎のSさん宅へ、そしてSさんの愛車で二宮のOさん宅へ。そして西湘バイパスで小田原方面へ。昼食は国府津駅近くの1号線沿いの老舗「のんき亭」で昼食。私は「天プラ定食」 を注文。大きなどんぶりに入った豚汁はかなりの具沢山。じゃがいも、にんじん、豚肉はもちろん、かなり煮込まれており、白味噌との相性もよく美味であった。そして更に西湘バイパスを小田原方面に。 箱根口ICから一夜城歴史公園に向かう。一夜城はここ数年行ってみたいと思っていた城跡。 しかし何故か日本百名城には入っていない城なのである。早川を渡る。 そしてひたすら急カーブの坂道を 上って行くと石垣山一夜城歴史公園の駐車場に到着。クラブツーリズムのツアーバスが駐まっていた。国指定史蹟 石垣山一夜城東登口より城址散策に向かう。 標高257m、小田原城本丸から僅か3kmの位置にある石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになったのです。石垣山一夜城歴史公園案内図。 この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われているのだ。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされたと。 秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたと。 城道(東口)石段を登ったところの大手口。度重なる大地震で石垣がずれ落ちたままで通路を塞いでいた。説明板の手前を右に行き二の丸へと向かう。 更に進むと左側に石垣が現れた。この城は関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されているのであった。 二の丸に向かって更に石垣に沿った坂道を登る。 石垣山の石垣が「危険」と。石垣の石に自分の体を預けているが如き老木。石垣の縁の点でそれぞれの石が支えられ、震災後の熊本城の飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)の如し。平坦な場所に出て更に進むと、二の丸の北側には「櫓台跡」の石碑が建っていた。 現在は天守台同様に小さな土壇となっているが、関東大震災までは立派な石垣が残っていたと。そして「二の丸跡」。約90mx70m一番広い面積を持つ場所は広大な芝生公園となっていた。以前はここに巨大な御殿などが建っていたのだろう。「これより本丸登口」と表示された場所から高台に更に向かう。多くの石垣が崩れていたが、それでもなんとなく雰囲気が感じられるのであった。当時は両側が立派な石垣に囲まれた立派な入口であったのであろう。そして本丸跡に到着。
2016.07.06
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この日も、我が家の庭のキンシバイの花にはブンブンと我が西洋ミツバチ嬢が早朝から訪花していました。 我がデジカメ・SONY DSC-HX90Vにて撮影。 ズームにて撮影しました。 花の雌しべ、雄しべの中に顔を突っ込んで花粉を集めています。 両脚には黄色の花粉球をつけて。しかし我がデジカメではピントの合った写真はこれが限界なのです。 そして先日、日経PC21・8月号を購入したところ付録に3種類のスマホ用レンズが 付いていました。3種類は左から魚眼レンズ、広角レンズ、そしてマクロレンズ。今までデジカメのマクロ(接写)レンズが欲しいと思っていたのです。クリップにマクロレンズを取り付けた写真です。このマクロレンズは1.5~2.3cmの近距離で小さな被写体に焦点を合わせることが出来るのだと。 我がIPHONESにマクロレンズを付けたクリップを挟んでみました。 横から見た写真です。 IPHONESのレンズ側からの写真です。 そして早速試運転。パソコン前でキーボードのALTキーを撮影してみました。そして外に出てIPHONESに付けたこのマクロレンズでミツバチを撮影してみました。何枚か撮影しましたが、ミツバチが忙しく動くため中々ピントの合った写真は撮れませんでしたが、何枚かは運良く?焦点が合った写真が撮れたのです。 見事な大きさの花粉玉を付けたミツバチ嬢です。 そして両脚に大きな花粉球を付けながら更に花粉を集めているいじらしい姿のミツバチ嬢です。何故か、キンシバイへの訪花は早朝のみで昼間はほとんどミツバチ嬢の姿は見ることが出来ないのです。早朝に採取する花粉が好物なのでしょうか?しかし昼に採取する花粉と何が違うのでしょうか。 ところでミツバチはどの様に写真のような綺麗な形の花粉玉が作れるのか以前から関心がありましたが、偶然ネットで詳しく説明されているページを見つけましたの転載させていただきます。出典はhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11131934556です。『《 花粉玉作成までの流れ 》1.花(雄蕊)に体を擦り付けて、全身の体毛に花粉を付着させます。 2.適宜、蜜胃からハチミツを少量吐き戻し、前肢を湿らせます。 → 花粉はそのままでは固まり難いので、吐き戻したハチミツを少量加えてこね上げ、 まとまり易くしています。 土に水を加えると、泥団子が作り易くなりますがこれと同じ理屈です。 採餌蜂は、往復のハチミツを蜜胃に貯めてから飛び立ちますが、 花粉を採取するハチは、往復の燃料にプラスして、この花粉を固めるのに使う分の ハチミツも余分に持っていくのです。 3.前肢、中肢、後肢、それぞれにある「花粉ブラシ」を巧みに使い、体に付いた 花粉をかき集めます。 → 花粉ブラシというのは、特殊なブラシ状(櫛状)の毛で、これを使うことで効率良く体に 付いた花粉をかき集めることが出来ます。 主に前肢では頭部、中肢では胸部、後肢では腹部に、付着した花粉を集めています。 4.集めた花粉を前肢 → 中肢 と送り、最終的に後肢にまとめて行きます。 5.まとめた花粉は後肢の「花粉圧縮器」と呼ばれる場所で圧縮し締め固めます。 → この圧縮機で締め固めることで、持ち運びにも耐え得る強固なものになるのです。 6.締め固められた後、後肢にある「花粉バスケット」と呼ばれる場所へ滑り込んで行き 花粉玉となります。 → 花粉バスケットの床はツルツルで滑り易く、シングルヘアーと呼ばれるひょろ長い毛が 1本あります。花粉圧縮器を経てバスケット内に滑り込んだ花粉は、バスケット内では 軽い回転が掛かる構造になっていて、この毛を中心に花粉がまとめられてゆきます。 シングルヘアーは、ちょうど串団子の串の役割を果たしていて、花粉団子を 串刺しにしているイメージです。また、この毛を中心に内側にカールした長毛があり、 これが周りから花粉玉を支え込んでいるので、落ちることはありません。 ここまでの作業を繰り返すことで徐々に花粉の量が増え、団子状の玉になってゆきます。 また、花粉玉が大きくなってくると、中肢を巧みに使いこれをさらにペタペタ締め固め、 整形も行っています。 おにぎりを握る際に手でコメを整形していきますが、ちょうどこれを中肢で行っているイメージです。 この際にも、ハチミツを吐き戻し、花粉玉に付け加えながら強度を確保していきます。 以上のような流れで花粉玉が作られてゆきますが、 一連のこの作業は通常、花から花へ移動する際のホバリング中に行われています。 (花に足を引っかけながらであったり、葉っぱなどに止まって行うこともあったりします)』と。 詳しい、しかし良く理解できる説明、ありがとうございます。またまた、ミツバチ嬢の賢さに感心した素人養蜂家なのです。
2016.07.05
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今年も我が家の庭のグラジオラスが鮮やかな花を見せてくれています。夏のこの時期に色とりどりの華やかな花を咲かせてくれるグラジオラスは、多年性の球根植物なので毎年楽しむことができるのです。数年、少しずつ球根を購入し増やしてきました。まっすぐ伸びた茎に、整列して花を咲かせる様子は、華やかさの中に強さを感じさせるのです。また、花色が豊富なことも魅力なのです。グラジオラスは、ヨーロッパ各地で古くから栽培されており、1900年代にアメリカやカナダで本格的に品種改良が進めらたと。日本に自生種はなく、明治時代に園芸種として輸入され、栽培が開始したと。学名は、ラテン語で剣を意味する「gladius(グラディウス)」から来ており、葉が剣に似ていることに由来。また、英名の「Sword lily」も同様の理由から。この花は濃いブルーと言うよりは紫。 イギリスのEU離脱が「BREGRET」と我が部屋のテレビのニュースで言われていますが私はリーマン・ショック(Lehman shock)と同様に「BREU SHOCK(ブロイ・ショック)」と名付けます。もりろん『Britain + EU + SHOCK』 省略形です。 チョット脱線しましたが。グラジオラスは原種が300以上存在し、品種改良によって生み出された園芸品種は現在5,000を超えると。もう少し、木から離れた場所に球根を植え付けるべきでした。黄緑色の花は新鮮に感じるのです。グラジオラスは花が咲くと頭が重くなるのでどうしても倒れてしまいます。今日はポールを立て紐で結び倒れるのを防いだのです。秋になって葉が枯れてきたら掘り上げて日陰で乾燥させ、段ボール箱などに入れて室内に保存し春先に植え付けるのが良いのは解っているのですが。我が庭では掘りあげずに越冬して数年ぐらいは花を咲かせています。株が混み合ってきたり、よい花が咲かなくなってきたら掘りあげればよいと考えているのです。
2016.07.04
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク片瀬市民センター前の弁財天道標。西行がこの松の木の近くで出会った童に「どこへ行く」と問いかけたところ、「夏枯れて冬ほき草を刈りにいく」という歌を詠んだという。弁財天道標。 裏面に西行もどり松と刻まれていた。 片瀬3丁目の個人のお宅の敷地内にある寛文庚申供養塔。下部には3猿が。日光の3猿は右から 見ざる 言わざる 聞かざる であったと思うがこの石碑の3猿は見ざる 聞かざる 言わざる であった。日蓮宗龍口山常立寺(じょうりゅうじ)。元は真言宗回向山(えこうざん)利生寺(りしょうじ)と称していた。日蓮宗となったのは室町時代から戦国の世となっていく永正年間(1504~1521)。こちらも龍口寺輪番八箇寺の一つ。 常立寺(日蓮宗)は、龍ノ口処刑場で処刑された者を弔うために建てられた寺。北条時宗によって処刑された杜世忠ら元の国使もここに葬られたと伝えられている。山門。 山門を潜ると右手に六地蔵が。 左手に大きな石碑が建つ、元寇使者塚。 石碑のもとには、供養塔と伝わる五輪塔。文永の役(1274。世にいう元寇の第一弾)ののち、元(げん)の皇帝フビライは、なおも服従・朝貢を勧告する使者を日本に派遣。鎌倉幕府第八代執権北条時宗は元には屈せぬという断固たる姿勢を示し、鎌倉に護送されてきた使者の杜世忠ら五人を龍ノ口刑場で斬首に処した。杜世忠は己の定めを儚んで辞世の漢詩を残し、龍ノ口の露と消えていった。そして歴史は二度目の元寇(弘安の役。1281)へとつながっていく。基の五輪塔は何れも青い幟で包まれていた。「青い襟巻?」見慣れない光景。 本堂は修復工事中。真言宗時代の回向山という山号は、龍ノ口(たつのくち)の刑場で処刑された者の供養がこの地でなされたことによる。五重石塔。鐘楼。 前方に湘南モノレールが姿を現した。 湘南モノレールの湘南江の島駅の入ったビルの角っこに道標発見。この道標には「従是右江嶋道」と刻まれていた。 「左龍口寺」「願主江戸糀町」と建てた講中の名も。 湘南モノレール 湘南江の島駅入口。 国道467線を渡り江ノ電踏切へ。江ノ電片瀬江ノ島駅が左手に。 洲鼻通りを江の島に向かって歩く。洲鼻通りなぎさ整備事務所前に移設された弁財天道標。「ゑのし満道」 と刻まれた道標。「ここは すばな通り」 と刻まれた石碑。周囲の柵は最近設置された?江の島道も終わる洲鼻通りから江の島が姿を現した。 「ここは 湘南」の石碑。 天女と五頭龍伝説の説明板がこの龍を象った塔の下に。3時間強の江の島道散策を終え小田急線片瀬江ノ島駅から帰宅の途へ。 この日に歩いた江の島道を一遍上人、西行法師、そして源頼朝や義経、鎌倉攻めの新田義貞も、そして江戸時代には江の島詣での江戸の老若男女が賑やかに歩いていたのであった。
2016.07.03
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク直ぐ先左側にあったのが真言宗密蔵寺。 真言宗大覚寺派の寺で宝盛山薬師院密蔵寺と。相模国準四国八十八箇所のうち十七番札所。 鎌倉時代末期に有弁僧正によって開山され、何度かの火災に会ったが、江戸時代に良忍上人によって再建されたとのこと。本尊は創建時から薬師如来だが、本堂に祀られている愛染明王の方が知られているのだと。蜜蔵寺寺号標石青銅製の「親子の愛情像」。 実はこの寺のみふじ幼稚園に妻は幼き頃通っていたのだ。「相模国弐拾一ヶ所 十七番」と刻まれた石碑。 南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)と刻まれた石碑の横の庚申塔。 これも庚申塔。 庚申塔と刻まれた古そうな石碑。石碑の下には三猿が。 本堂。この中には、本尊「愛染明王」が祀られているのだ。 本堂横には、弘法大師「南無大師遍照金剛」の立像が。脚の下の台には、四国八十八箇所の砂が納められているのだと。 桂の木「愛染かつら」。「愛染かつら」は、川口松太郎の昭和12年の小説を映画化したもので、金持ちの医師と看護婦の叶わぬ恋物語。二人が桂の木の前で、願い事を書いて木に結ぶと叶うと聞いて、願いをかけた。この映画に小暮美千代が出演しており、かつて小暮美千代は、江ノ島カーニバルのお芝居に出演していて、その時密蔵寺に泊まっていたとのこと。そこから、密蔵寺本尊の愛染明王を奉るご本尊の前に桂の木を植え、命名したのだと。 「記念植樹 愛染かつら 小暮美千代 昭和三十二年四月二十二日」と札に。 境内左手には六地蔵が並んでいた。六地蔵の後ろの銀杏の木も立派。六地蔵の隣には、小さな弘法大師の石像が26体鎮座。四国八十八ヶ所巡りの大師像を大正時代に実現しようとして関東大震災で頓挫した名残りとのこと。如意宝珠。 富士見大師。 門前の江ノ島弁才天道標。 密蔵寺の先三叉路の側面に「左ゑのし満遍」と彫られた庚申供養塔。左手に並立した江の島弁財天道標。 本蓮寺(ほんれんじ)参道が左手に。 本蓮寺門前の西行もどり松。本蓮寺は片瀬にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。 本蓮寺寺号標石。参道沿いには美しい白壁と曲線美の石灯籠が並んでいた。 冠木門(かぶきもん)の総門の傍らには鎌倉殿(源頼朝)が馬を繋ぎ止めたという伝承にちなんだ「駒繋の松」の案内立札が立つ。戦前までは樹齢数百年の老木があったと。寺伝では創建は推古朝のころ義玄和尚によって開山され、三輪寺と号したと。 手前の石橋は1800年(寛政12年)に架けられたと。本蓮寺山門。 本蓮寺脇門から入った右手には庭園が。 手水舎。 1931年(昭和6年)再建された本堂。推古天皇3年(595年)義玄が創建し、その後真言密教の寺院となったと伝わる。元暦元年(1184年)に、源頼朝が源立寿寺として再建したのち、文永8年(1271年)、日蓮が龍ノ口法難の後、休息をとったという伝承が残る。嘉元年間(1303年-1306年)頃、日秀が日蓮宗に改宗し現在に至るとのこと。 明治19年まで住職がいなかった龍口寺の輪番寺の一つ。境内の石畳の周りには竹製の行灯もあるので夜間が見どころ?同じく1931年(昭和6年)再建された鐘楼。 本堂裏稲荷山中腹には、1989年(平成元年)建立した多宝塔が。 本堂横の五輪塔。 本堂に向かって右手前には、宗尊親王(むねたかしんのう。1242~1274)の歌碑が。「帰り来て 又見ん事も 固瀬河 濁れる水の すまぬ世なれば」。宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子)は鎌倉幕府第六代将軍(1252~1266在位)。源氏将軍三代が途絶えたのち、四代五代の藤原摂家将軍に続いて、執権北条氏が待望した親王将軍として、京より鎌倉に迎えられたと。この歌は、京に送還されることになった親王がここ本蓮寺(当時は源立寿寺)において行われた別離の歌会で詠んだ、とされるとのこと。片瀬市民センターを過ぎて角を右折し、しばらく行くと角地に設けられた小さな公園。そこが一遍上人地蔵堂跡。 ここ片瀬界隈においては日蓮上人の「龍ノ口(たつのくち)法難」があまりにも有名であるが、この一遍上人の故事も忘れてはならない歴史なのであった。鎌倉仏教の開祖六人衆(浄土の法然・禅の栄西・浄土の親鸞・禅の道元・法華の日蓮・浄土の一遍)のトリを飾る、時宗(じしゅう)開祖・踊念仏の一遍上人(1239~1289)。
2016.07.02
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク巌不動尊を後にし、江の島道を更に南に進むと、妻の母校片瀬小学校が左手に。その先の敷地の一角に庚申塔が左右に2体と、その間に恐らく双体道祖神と思われる石碑が1体、そしてその後ろに説明札が竹垣に囲まれた中に安置されていた。右から「元禄六年(1693年) 庚申供養塔。」六腑合掌青面金剛+三猿 舟形光背碑。真中は「年銘欠・道祖神塔」。 左は「文化二年(1805年) 庚申供養塔」。合掌青面金剛+三猿 笠塔婆石塔。そして近くには「江の島弁財天道標」が。 この道標は江の島弁財天を深く信仰した江戸時代の鍼医杉山検校が八王子から随所に立て、藤沢から江の島道には一丁目(約109m)毎に立てたうちの現存する一基。向かって左側面には「一世安楽」(道標は「一」の字の上にもう一本横棒が彫られ「二」になってしまっていた)。正面「ゑのし満道」。泉蔵寺(せんぞうじ)の入口にある石碑には「戦勝開運 弘法大師」と彫られていた。戦勝とは何の戦い? 泉蔵寺の門前、道に面した所には、6体の庚申塔と1体の馬頭観音が祀られていた。泉蔵寺山門。山門の柱に高野山片瀬山真言宗大聖院泉蔵寺と大書した木札が掛かっていた。北条泰時が開祖と伝えられている寺。本堂。本尊は不動明王。屋根には後北条氏の家紋が。弘法大師像。 水子子育地蔵尊。 本堂裏の山の斜面は、片瀬小学校のグランドを臨むように墓地が大きく拡がっていた。 江の島の海と富士山が眺められる墓地ではあるが、グランドの子ども達は、この緑なきこの斜面の光景をどの様に感じているのであろうか。諏訪神社まで歩を進める。諏訪神社社号標の石柱と石の大鳥居。 諏訪神社 大鳥居扁額。昭和15年建立 一の鳥居 御影石製社号額。 石灯籠、二の鳥居前から。 二の鳥居前から拝殿が見えた。 巨大なひのえ申の絵馬。 手水舎。 片瀬諏訪神社下社拝殿。由緒書きによると、創建は養老七年(723)信濃国諏訪大社を勧請したのがはじまり。かつて、このあたりには大きな湖があり、それが諏訪湖を取り巻く諏訪の地に良く似ていることからこの地が選ばれたのだと。 諏訪神社は全国に10000社近くあるとされるが、上社・下社を備えているのは信濃国諏訪の信濃国一之宮の諏訪大社とこの片瀬の諏訪神社のみであると。社務所。 そして諏訪神社へ案内に従って進むが判りにくかったのであったが。 諏訪神社上社は、江の島道沿いに建っていた。急な長い階段を上る。 石段を上り詰めた場所にある片瀬諏訪神社上社の社殿。上社の御祭神は,諏訪大社上社の祭神の建御名方富命(たけみなかたのみこと)。この日は柵があって、境内には入れなかった。 社殿手前左側の狛犬の後ろには石碑が。表面には震災記念碑と刻まれていた。 背面には・大正12年(1923年)9月1日11時58分 未曾有の大震(関東大震災)があった。・天皇より1千万円をいただいた。・神社も拝殿や御神輿などが倒壊したので直ちに修理した。・大正13年1月5日には大きな余震があり、破損個所を再び修理した。・氏子の被害も大きく、家屋の全壊、半壊、全焼、流出多く、負傷者52名 そして33名の死者を出した。 流出の文字には大津波の襲来もあったのでであろう。・慰霊祭を行った。・災害を後世に伝えるために記念碑を建立した。・死亡者の氏名など。ここ片瀬の街の惨状が刻まれていた。諏訪神社上社からの江の島方面の展望。マンションが邪魔をして江の島シーキャンドル (江の島展望灯台)は完全に隠れていた。 カメラの望遠で江の島の瑞心門、朱塗りの大鳥居が見えた。
2016.07.01
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