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2010.11.6(蔚山・釜山)検丹里遺跡は谷あいにある盆地みたいな平野です。近くに小さな川が流れていていました。このあたりは沼地一歩手前の原っぱなので、そういうことが稲を作るのに適していたのかもしれません。バスで来なくて本当によかった。たぶん住民もあまり場所を知らないだろうから、看板さえないのだから、たどり着けなかったかもしれない。タクシーで行って返ってメーターは一万wと少しになっていました。普通ならば、2万w札を渡して感謝の印に「釣りは要らないよ」となるところかもしれませんが、貧乏旅の私は決してそんなことはしない。二万w札を準備していると、タクシーの運ちゃんが「一万wでいい」と言うではありませんか。タクシーではさんざん嫌な思いをしてきた私には忘れられない一瞬になりました。さきほど、「遺跡まで何分かかるか分からんよ」と言っていた同僚のタクシーの運ちゃんも車を降りたところにいて「やっぱり何もなかっただろう」とか言ってきていた(見たい)なので、「とっても面白かったです!ありがとうございました!」と礼を言うと、私を送ってくれた運ちゃんはにこっと笑ってくれました。昼食はせっかく来たのでウンチョンですることにしました。店は牛肉料理ばっかりです。産地なのでしょう。ちょうど昼飯時間でしたが、人が多いところを探して入りました。一人なので、焼肉は無理だといわれました。「味噌チゲか?キムチチゲか?」と聞くので、高いほうのキムチチゲ(キムチ鍋)にしました。なんと副食が9品も付いてきました。この地方は副食が多い地域なのかもしれません。しその葉の味噌漬けみたいなおかずをのぞけば、全部とっても美味しいおかずでした。しかもチゲの中にしっかり牛肉のモモ肉らしきものも入っており、肉は期待していなかっただけにとっても嬉しかった。これで6000wならば安い。昨日の咸安の田舎味の昼食が60点だとすれば、今回は100点です。バスで釜山に戻り、一号線でトンネ駅まで戻り、福泉(ポクチョン)古墳群に行ってみる。二度目だが、以前は時間がなくて駆け足で回った。前回はタクシーを使ったが、今回は行きも帰りもバスを使ったのでたぶんタクシーより6000wくらいは節約できたと思う。(その分駅の事務員にバスの乗り方を聞いて、100m先にあるバス乗り場まで付いて来て貰ったり、帰りはバス待ちが20分もあったりはしたのだけれども)今回の旅は新しいカメラに買い換えた。前のカメラのバッテリーがすぐに切れるようになったためだ。前々回初めて買ったデジカメは3万円以上した。前回のデジカメは2万円近くした。今回のデジカメは12000円ほどである。ああ、それなのにそれなのに、性能はだんだんと良くなっているという不思議。……ということを言いたいのではなくて、前回のデジカメは1Gのカードを5000円も出して買ったのだが、今回は2GのSDカードがおまけで付いてきているのである。2005年の22日間の韓国旅行の時には旅の後半はカードの容量がなくなってきて、それまでの写真を幾つか消去しながら、撮りたい写真を極力抑えて1000枚以上を撮った。今回は2000枚以上の写真が撮り放題だということになる。それでもうまったくストレスなく、博物館の展示品は条件が許す限りは思いっきり撮っている。特にここの博物館の展示品には、すべて英語日本語中国語の解説が付いているのである。考古学博物館ではそれは少ない。……(ということでいよいよ本題)それで幾つかを選んで解説文と展示品とを交互に紹介します。私の2000枚の写真のうち六割くらいは展示品の写真だけど、それをそのままブログに載せても皆さんにはちんぷんかんぷんだと思うので(これでも)極力載せるのを抑えていたのです(^^;)。でももちろんここに載せたのは撮った写真のほんの一部です。この博物館の図録は見せてもらったのだけど、写真しかなくて解説がなかったので買わなかった。図書館では発掘報告書がずらりと並んでいたのだけど、これは時間がなくて読めなかった。いや、もともと読めないのだけど、時間があれば眺めるだけでいろいろと発見はあったはずなのではある(検丹里遺跡の報告書にあった地図はここで見つけました)。企画展示では「靴」の歴史をしていた。こちらは日本語解説はなかった。これは3-4世紀の木の靴(下駄?)だそうです。日本でもおなじみの藤木古墳から出てきた靴とそっくりの百済の王様の靴(公州)とかあって、楽しいものであった。
2011年01月18日
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11月6日(土)晴れ沙上駅に荷物を置いて、釜山の北のバスターミナル・ノポドンへ。そこで今日の目的のひとつである検丹里(コムタンリ)遺跡の行き方を聞きました。釜山大学の研究者から大体の位置は聞いていたのだが、彼女たちは車で移動するので旅人の行き方までは分からなかったのである。観光案内所に行って聞きます。例によって観光案内所のアガシは聞いたことも無い地名だという。インターネットでも検索できない。どうやらウンチョンというミョン(面=町)にあるということぐらいしか分からない。私は遺跡の場所は分からないだろうとしても、検丹里という村への行き方ぐらいは直ぐ分かるだろうと期待していたのだが、甘かった。しばらくして役場に電話してくれたらしく「1127番か1137番のバスに乗って蔚山(ウルサン)のウンチョンミョンサムソユッキョ(ウンチョン面事務所陸橋)まで行って、そこから反対方向のコヨンコンタンかチュネ大学方面のバスに乗ってチュネ大学の次の停留所で降りたら10分くらい歩けば検丹里遺跡に行けるそうです」という情報を貰った。すぐに場所がわからなくて不満そうな顔をしてすみませんでした。後で考えると、出来うる限りの一番的確な情報をもらったと思う。普州でも感じたが、中核都市の観光案内所には必ず日本語が出来るアガシがいるし、彼女たちはとても優秀だと思う。(と、言う感想はその後少し修正されるのであるが、それはまた別の話)さて、陸橋でバスを降りて反対方向から来るバス乗り場に行ってみたが、そこの待ち客は「この停留所ではそんなバスは来ない」という。さては違う市内バスの系統があるのだと思い、しばらくウロウロしたが、写真にあるとおり、完全に田舎町の道で両側とも路上駐車し放題、停留所なんてどこにもない。仕方ないので、タクシーに聞いてみる。「検丹里遺跡は知っている」と最初言うので何分かかるのかと聞くと、「そんなことは分からない」と言う。(ぼったくるつもりか……)不安に思ったのでこのタクシーはやめて通りがかりのタクシーに聞いてみる。GPSや電話で聞いてくれたが、「分からない」という。もう一度、最初のタクシーの運ちゃんが車を洗っていた地元のタクシー待合所らしき所に行って、あの運ちゃんが居なくなるのをじっと待って他のタクシーの人に聞いてみる。「知っているよ。5,000wくらいかかる。」とあっさり言う。決めた!!でもそのあと、いろいろと言い出した。やっぱり行っても何もないということを言っているのだと思う。掘ってどこかに持っていったという。「知っています、知っています。大学へもって行きました」この何も無いところを見に行く、という感覚は、日本でも理解されないのだから当然なのだ。10分ぐらい走って「さあ、ここだ」と示されたのは、本当に何も無い、掲示板も無い原っぱだった。私は騙されたのであろうか。そうではなかった。そうではないことは私の第六感が教えてくれていたが、後で確かめることが出来た。その後、この日の午後、福泉古墳博物館の図書室で発掘報告書を見て知ったのであるが、運転手が連れて行ってくれたのはこの写真の6番の場所だったようだ。彼は正しかったが、本当は9箇所にわたって発掘されていたのである。(今度行くときは行きだけタクシーで行って、この地図を元に遺跡探索して地元の人にバスの時間を聞いて帰るという方法がある)検丹里遺跡は日本では非常に良く知られた遺跡で、弥生時代の早期に対応する。日本に稲作技術が渡ったころの標準的な遺跡なのである。つい最近まではプヨの松菊里遺跡とこの検丹里遺跡ぐらいしか弥生時代に対応する遺跡としては知られていなかった。この遺跡の原風景を確かめるということの意義はこの辺りにある。原っぱにはこんな花が咲いていた。日本では見たことのない花です。
2011年01月17日
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2010.11.5(咸安・釜山)その後ぶらぶらと歩きながら地下鉄の駅まで戻り、西面(ソミョン)のロッテデパートまで行って、この旅最初の映画を見ることにしました。ここの映画館は病院のように番号で呼んで注文をとるようになっています。並ばなくてもいいけど、不効率のような気がします。今年の一月とは打って変わって同時に6本もの韓国映画が同時上映されています。一月の時には一本しかありませんでした。なにか法律が変わったのでしょうか。女優のコンヒョンジンとイケメン俳優キムヨンピルの「ソワハムケヨヘガヌンポブ」という映画にしました。しっとりとした感じの作品はこれしかなかったので。その前に一階下のロッテリアでワッフルコンビセットを頼んで時間待ちです。他の上映作品は上記5作品(一作品だけは次回に説明)でした。果たして日本にくるのはこのうち何作品あるでしょうか。たぶん2作品がいいところなのではないかと思います。映画の買い付けをしている人に聞くと、「韓国映画は非常に高い」のだそうです。この映画の題名をあえて訳すると「牛と一緒に旅する掟」とでもなるのだろうが、映画を見て、ポブを掟と訳するのは良くないと思いました。辞書にはほかには仏教用語で《物心善悪のあらゆる事象》=仏法僧の法を表すのだとあった。この映画では、しきりに仏教のテーマが出てくるので、おそらく後者を意味しているのだろう。ロードムービーである。田舎道がふんだんに出てきて、場所は良く分からないけど露天温泉まで出てきて私的には楽しめました。田舎の農家の長男が仕事に嫌気がさして家の大事な牛を売りに出す。市場では思った値が付かないので他の市場を目指す。そこで昔の恋人や住職やいろんな人と出会い、なにやら「何か」を掴むという話である。ラブシーンもあるが、最近の韓国映画にありがちな激しいものは無い。それどころかものすごく微妙な恋愛関係を描いている(ようだ)。最終的に主人公が意外な行動を取るのであるが、仏教的にあれでOKなの?と言いたくなる。どうも恋愛映画というよりは哲学映画に入る作品である。地味な作品なのか、金曜の7時20分の上映なのに、たった6人しか見ていなかった。日本ならまだしも、韓国の映画館でこんなに少ない観客数は初めての経験です。映画が跳ねて西面の繁華街に出て食べれるところを物色しました。安い食堂でサムギョプサルを頼みました。ともかく韓国に来た以上は一度は焼肉を食べたかったのです。ところが、韓国ではヤクニクの値段は一人前の値段しか書いていないが、ほとんどは2-3人前からしか頼むことが出来ない。そこで、ここの一番安い豚肉が2,000Wということに目をつけて頼んだわけです。思ったとおり、「三人前からだよ」とのお達し。いいですよ。それでも6,000wです。肉を焼きだしてから写真を撮ったので、本当は写真の肉の倍の量です。軟骨が混じっている最低ランクの豚肉ですが、野菜や味噌と一緒に食べるこの焼肉がとっても美味しい。味を確かめた上で、焼酎も頼みました。向こうの席では、良く韓国ドラマで出てくる「女性が焼酎を何本も開けてくだを巻いている」という場面に。店中に響き渡る大きな声でなにやら男性に悩みを打ち明けているようです。女性がトイレに立ったとき、男性は私のほうを振り向いて「うるさくてごめん」と言った(ようです)。私は、ぶるぶるっと首を振りました。サンドイッチ1,500w チンジュ→ハマン3,600w タクシー3,600w 博物館500w 昼食6,000w 国花プルパン600w ハマン→釜山4,600w 宿泊35,000w 映画8,000w ロッテリア3,000w 夕食9,000w 地下鉄カードチャージ5,000w合計80,400w歩数27,607歩
2011年01月16日
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2010.11.5(咸安・釜山)咸安バスセンターの前で「昔懐かしい国花プルパン」というのを作っていた。作り方がたこ焼きと似ているが、それよりも餡の入った小さな今川焼きでしかも油菓子であるとという感じである。七個600wというので初めて買ってみた。美味しかった。バスで釜山に戻りました。沙上駅前の同じビチモーテルに泊まることにしました。三時にチェックインして急いで四日分の下着を洗います。明日の朝までに乾かさないといけないので、早くチェックインしたときがチャンスなのです。地下鉄に乗りました。地下鉄の中の広告にこういうのがありました。医者や看護婦や患者が笑顔で写っていて、「政府と民間は助け合います」と書いています。官民一体で医療を行なおうという宣伝のようです。李明博大統領の方針なのでしょう。海雲台方面に行き、観光地図に説明も無くぽつんと載っていた「釜山映画スタジオ」というところを目指そうという試みです。詳しい地図ではないので、駅の地図が頼りだったのですが、見当たらない。とりあえずは外に出て、うろうろしていたら、市立美術館の周りではこんなオブジェがありました。こんなのもありました。韓国の彫刻は、肖像以外はいちようにこのような極めて抽象的なものになっています。街の片隅に「ソウルオリンピック記念南北平和統一祈願詩塔」というものがありました。現在は隣は何か工事中です。広い場所なので、オリンピック会場だったのでしょう。ソウルオリンピックに対して、南北統一への願いがあったことが分かります。詩は漢文でしたが、ところどころ読めない漢字があるので写すことが出来ません。「祖国の平和と統一を江山南北城で祈る、世界万民このオリンピック大会に雲のごとく集まり、歓声を挙げる」という意味でしょうか。あまり上手い詩とは思えません。漢字で書いているだけで有難がるようなところが韓国にはあるように思えます。迷いに迷った末にたどり着いたら、週一度(金曜日午後2時)、予約したものだけが見学できるというシステムになっていました。だから観光案内の看板に載っていないんですね。映画スタジオはこんな感じです。転んでもただでは起きない私、しっかりと「観光」をします。スタジオの壁にはおそらくこの映画会社の歴代ヒット作品がずらりと並んでいるようです。なぜか、日本の「着信アリ」と「HERO」が「チング」「グルエム」や「シークレットサンシャイン」と並んで飾られているのには、びっくりするやら、苦笑するやら。たぶんこの会社の配給作品なんでしょうが、こんな作品が韓国でヒットしたことに一抹の寂しさを覚えるのは私だけではないでしょう。ここの駐車場にあった車を次々と写したのです。もしかしたら、スターが来るかもしれないという期待もあったのですが、映画関係者の車に興味があったということもあります。いい車もありましたが、普通の車もありました。特筆することも無いので、このロケハン用の車だけ紹介します。
2011年01月15日
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2010.11.5(咸安・釜山)咸安博物館の隣には、八号墳に登っている中学生がいました。先生に怒られないのかな。この博物館では武具がそのまま出たということで、馬に乗った武士の復元が目立っていました。鉄をあれだけ着せて馬も重かっただろうと思います。対象の武具でしょうか。墓は高句麗式の竪穴式木槨墓から石槨墓に移ります。ここの円墳はこのように墓を作ります。日本の前方後円墳で竪穴式の場合、ほとんどは墳丘の上の辺りに葬られているということでは、そういう意味でも朝鮮の王と日本の王は系統が違うのだということが分ります。ここの古墳の出土品で有名なのは、四号墳から出土した車輪型土器(5世紀)です。土器としては確かに精巧な造りです。また、ほかに例を見ない造りでもあります。でも驚くほどではありません。青銅器時代の支石墓もここの博物館の庭に移築されていました。ここの地方の支石墓はわりと背が高い。今度は歩いてバスセンターまで帰りました。昼食はカルビタンにしました。田舎っぽい味でした。この店で、キリスト教会の人がミニ集会(?)を開いていました。男の人が牧師で、まずみんなで賛美歌を歌います。そしてそのあと牧師が(おそらく)聖書を読み上げるのです。そして賛美歌を歌って終わりです。終わった頃に次々と常連が昼食に来るように時間設定に気配りをしているようでした。集会が終われば、この店の名物料理らしきものが次々と並べられます。韓国はキリスト教人口が多いので、このようなことは日常的にあるのでしょうが、初めて見ました。びっくりしたのは、会員たちがみんなお年を召した女性ばっかりだったということ。日本でも、新興宗教でこのような集まりは多いと思うが、みんな会員は若い。この年齢構成に私は韓国の信仰の歴史を感じたのでした。実は時間を間違えて釜山行きのバスに乗り損ねました。次のバスまで一時間ほど時間があったので、近くの伊末亭で日記を書いたのでした。
2011年01月14日
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11月5日(金)晴れモーテルは快適だった。ムビモーテルという名前かと思ったら、movie motel とロゴを打ってあった。この国では外来語を輸入するとき、伸びる音は表現しない(できない)。ハングルの特徴なのであろか。部屋にチョン・ドヨンが主演した「ユアマイサンシャイン」のポスターを貼ってあったぐらいしかモーテルの由来の意味は分からなかった。朝7時のバスに間に合うように、6時40分に出る。コンビニでサンドイッチを買い、飲み物はモーテルに備えてあった栄養ドリンクを二本貰ってきてバスセンターに入る。モーテルには大抵、冷蔵庫の中にサービスのジュースかドリンクが入っている。二人で泊まるのが通常だから大抵二本入っている。出費が高めに推移しているので、これから朝は基本的にこれらのジュースとコンビニのパンかおにぎりで済ませて決して店には入らないようにしようと決める。咸安(ハマン)行きの時間を見ると、18:45と書いてある。あれおかしいぞ、と思ったが、窓口に言うとちゃんと7:00出発のがあった。1日に2本しかない貴重なバスである。霧の中を一時間のバスの旅。やはり内陸部は冷えるのかもしれない。日中は14度くらいにはなるのであるが。咸安のバスセンターに着いたが、観光地図は道路が書き込まれていないので行きたい古墳群がどのくらい離れているか見当が付かない。恐る恐るタクシーに「末山里(マルサンニ)古墳群までいくらくらいかかりますか」と聞いてみる。3000wとの答だったのですぐに乗った。実際は3600wだったが、もう私は約束が違う、と怒ったりしない。交渉ごとでは「ふっかける」のがこの国の常識なのだ。タクシーで10分も行かないところで古墳群はあった。ここは伽耶時代の後期に栄えた安羅国一族の墓である。山の上にびっしりと円墳が作られている。韓国らしく四号墳の隣に3.1独立運動の記念碑があった。大きい墳墓には全部登ってみた。遺跡は展示品や写真を見てもわからない事は多い。その場に行く、出来たら登るということが大切だ(と、私は信じている)。見た順番は違うが、一号墳から見えてきたことを言う。一号墳の墳墓はこの古墳群がある小高い山の北の突端に位置する。山の頂上部ではないが、この突端からは当時の中心町が一望に見えていたに違いない。墓の上に上ると人が立てるのは多くて二人くらいだ。この上に登ったものがいたとしてもせいぜい神官と王ぐらいな者だったろう。この墓は人を崇めるものとしては当時としては最大のものが作られたに違いない。道沿いに小菊が沢山咲いていた。日本のそれと似ているけれども、花がとっても小さく、茎が伸びないで藪状に咲く。日本には無い品種のように思えた。二号墳からみえた風景である。二号墳は山の墳丘、北の一番頂上に作られた。一号墳の隣が空いていたにも拘らず、ここに作ったということは、親子の仲が悪かったか、国を大きくしたのは自分だ、というような自負があったのかもしれない。三号墳は二号墳のすぐ隣にある。少し下側にあって二号墳を立てた感じになっている。夫婦か弟か、それとも父を慕う子供か。そして四号墳はこの古墳群最大の大きさを誇る(直径39.3m 高さ9.7m)。おそらく安羅国が一番栄えた頃だったのだろう。ここは二号墳よりも一段低い丘陵にあるのであるが、ここに上ったとき、一番高い墳墓のように思えた。反対に言うと、二号墳より高く感じさせるまで墓を大きくしたのかもしれない。この王墓の山では二番目にいい立地なのだろう、二号墳では主に北から西にかけての景色がよく見えたのに対して、ここからは、現在の咸安の中心地が一望に見える。写真は十号墳から見える風景。四号墳から5-9号墳までは下側の尾根に作られる。そうせざるを得なかったのかもしれない。それだけ四号墳の力は絶対だったのだ。四号墳から五世代たってやっと墳墓は山の稜線に戻る。十、十一号墳は南側の稜線に陣取る。もしかしたらその間に領地が南のほうまで広がったのかもしれない。しかし、そのあとは墓はそれほどの規模にはならずにしかも下側に作られていく。やがて安羅国は六世紀末に新羅に滅ぼされるのである。というようなことを、何の根拠も無く、私の想像だけで考えて見ました。西の麓には咸安博物館がありました。昔ながらの博物館であります。中学生の団体が来ていました。
2011年01月13日
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2010.11.4(普州)ちょっと時間はおしたけど、高麗古墳群というところも予定とおり行って見ました。バスの運転手にここで下ろしてと言ったときに彼が何かを言った気がするのですが、その後何も言わないのでそのまま乗っていると、終点についてしまいました。仕方ないので、そこからユーターンして昨日の案内所で教えてくれたところで降りました。「龍華寺石仏」と「高麗古墳群」の二つの看板がいちおうありました。そこからさらに迷うことになるのです。昨日の観光案内所のアガシの話では、「龍華寺石仏」はそこからすぐだが、高麗古墳群はだいぶ離れているということでした。「龍華寺石仏」はすぐに見つかりました。これも古い石仏が祀られているのです。けれども私の関心領域と違うのでサラッと見て、帰ろうとした。。けれどもふと目に止まったこの手洗い用の石のデザインは飛鳥の石遺物を思い出す。手塚治虫の写楽くんはあの遺物で複雑な薬を作ろうとしたけれども、本当はそんな深い意味は無くて単なる模様だったのかもしれない。寺では薪を割って自炊しているのだろうか、門の横にこんなかまどもあった。それと、このような趣のある焼却炉もありました。寺にはたいていこの二つがセットとしてあります。寺のお坊さんが竈で飯を炊き、庭を掃いてゴミは原則外に出さないで、自前で処理する生活というのが思い浮かびます。さて、私の関心はあくまで古墳群。小学生に聞いたり、地元の住人らしき人に聞いてみたりしても「知らない」という。古墳は形があるから知っている人は多いけど、普通の人はやはりそういうものには興味は無いのです。スーパーの若い主婦は「住所が書いていないから分からないわ」と五分くらい考えた末に言ってくれました。30分くらい歩き回って、最後に試しに聞いたくたびれたような叔父さんは「知っている」と言って書いてくれた地図が私の思っていたのとまるきり反対方向。「何か勘違いしているな……」と思い、まあいいや、と思い行ってみると、一キロぐらい歩いた先になんと看板が!!あのさえない叔父さん、思えばちゃら書きだったけど、非常に的確な地図を描いてくれていたのです。人は見かけによらないものです。この高麗古墳群、てっきり5-6世紀のものかと思ったら、11-13世紀のものでした。日本は古墳は7世紀で打ち切りなので、つい勘違いしていました。古墳というべきではなく、「墓所」というべき遺跡です。現代の韓国の墓と形も大きさもほとんど変わりません。山からの景色もよくなく、まるで人里から隠れるように作られています。墓を作る目的は、もう既に威信を見せるというものではなく、完全に追慕の対象として作られていたのでしょう。帰り道に気がついたのですが、韓国ではこのような畑が一般的にあります。松を栽培しているのです。この隣には少し小さい松がびっしり植えられています。少しはなれたところには、たぶん植え替えるのでしょう、大人になった「松畑」があるのです。畑になるほど、韓国では松の需要はダントツだということなのでしょう。夕食は、トイレに行きたくなったのでその場のお店に決めてしまいました。ソルロンタンです。食事の値がどこにも書いていなくて、あとで6,000Wもしました。味はよかったです。宿は次の日の朝のことを考え、市街バスターミナルの前のモーテルにしました。40,000Wと少し高かったけど、探すのも面倒だし、ここに決めました。やっぱりそれなりの設備がありました。きれいなお風呂と大画面テレビ、しかもインターネットまで付いています。十分ビジネスクラスです。楽天ブログにアクセスして、日本語モードに出来なかったけど、ローマ字でコメントしました。朝食3,000 バス1,000×5回 昼食4,000 夕食6,000 夜食3,700 宿泊40,000合計 61,700歩数 21,754歩
2011年01月12日
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地図ではバスから降りてしばらく歩くことになっていたけど、実際はすぐ目の前に慶尚大学はあった。]六階建ての立派な図書館が大学の敷地の真ん中にある。インフォメーションのお兄さんに博物館図録は売ってないかと聞いてみる。(この時まで、私は既に釜山、ソウル、蔚山、東亜と四つの大学博物館に行ったことがあったにも拘らず、総ての博物館に考古学博物館が整備されていることを知らなかったのである。だから純粋に図録だけを手に入れるつもりでここに来たのだ。)六階の博物館事務所に行けというので、迷いながら行ってみると小さな事務所があって誰もいない。博物館の入り口らしきものには鍵が掛かっている。一階に降りていって「誰もいない」と言うと、「ランチにいったんでしょう。(今12時45分なので)20分待ってみて」と言うので、1時10分に行ってみる。やっぱり人がいない。どうしたものかと、途方に暮れたが、もう一回インフォメーションにいってみると、昼食休憩で今度はお姉さんに変わっていた。もう一回聞くと、事務所に連絡してくれて「もう一回行け」という。それで行こうとすると、そちらじゃないという。なんとエレベーターは二種類あったのだ。六階直通のエレベーターで行くと、きちんと博物館が開館していた。管理人はいるが、もちろん入場無料。大坪里遺跡やその他慶尚南道の遺跡、古墳がきちんと展示されていた。特に侠川の玉田古墳群の遺物が充実していた。日本の古墳時代の遺跡ではあるが、みごとな鉄の文化なのだ。少し行きたくなった。(結局行かなかった)これは、大坪里遺跡の前景模型である。無料のわりと充実したパンフもあったのであるが、(ふつうならばそれで満足するところだが)何しろ美人のアガシとの「約束」がある。「博物館図録がほしい」と言うと、管理人は事務室へ連れて行ってくれた。そこでは大学の関係者(?)三人が図面を見ながらミーティング中だった。日本から来た、というと「どうぞ中へ入ってください」という。釜山でも感じたが、韓国の考古学者は日本に大きな関心があるのである。私の想像ではあるが、韓国の考古学の歴史は浅い。戦前までは日本の考古学者だけが韓国の遺跡を発掘していたのが実情だ。(そこから派生する問題もあるが)だから、韓国の考古学者は今急速に日本から学んでいる途中なのではないだろうか。私はたどたどしく「博物館の本がほしいんです」というと、思いもかけず日本語で「それは難しいです。あれは売り物ではないのです」という答え。諦めかけると、「まあ、ここにお座りください」というので、彼らの好奇心に付き合うことにした。メンバーは初老の教授らしき男の人と若い眼鏡の男性ともっと若い女性の三人。眼鏡の人はほとんど日本語は出来ないが、教授は普通会話ならば出来る。女性は日本語ぺらぺらのようだった。私が、全くの趣味で遺跡を回っているけれども、勒島遺跡などに行ったということも言うと、驚いていました。私が岡山から来たというと、教授は「岡山には偉い先生がいました。近藤義郎教授」と言い出した。ああ、この人は日本の考古学、特に私の興味を持っている弥生から古墳時代にかけての考古学を知っている、と直感した私は「ええ、昨年お亡くなりました。けれども、しばらくは死んだことを伏せていて……」と少しは考古学を齧っていることを匂わせておいて、またと無いいい機会なので、今回の旅で気がついたことや、今回の旅の「テーマ」をぶつける事にしました。「韓国で鉄を作り出して(BC1C)、日本で初めて製鉄が始まる(6C初め)まで約500-600年かかっています。もちろん、製鉄は技術的にいろんな秘密(精練の概念、高温、触媒)があることは承知しています。それでも鉄を制するものは国を制す、製鉄はどんなことをしてでも実現しなくてはならない一番のことだった。どうして、そんなに長い年月が掛かったのか」「技術だけが問題ではない。鉄鉱石が必要です」教授が答えます。「日本にもあります」だからこそ、吉備で製鉄が始まったのです。「けれども、土を掘らないといけないでしょ。韓国には地表に鉄鉱石がのぞいている場所があった。それが金海と梁山の間にある勿禁(ムルグム)というところで、露頭鉱山と呼ばれています。これがあるから金海が鉄の生産地になった。」「それでも500年伝わらなかったのは不思議だ」などと私は口ごたえをしたのではあるが、この事実は衝撃だった。後で考えれば考えるほど、「鉄鋼石を探すのに時間がかかった」この事実は決定的だったかもしれない、と考えるようになった。大きな「啓示」だった。ついでに私は他の質問もしてみた。「昨日、勒島に行ったのですが、どうしてあんな小さな島に遺跡があるのでしょうか」「あそこは海上交通の要所なのです。大きい島(巨済島)には水が出ないのです。それにあそこは潮が韓国で二番目に速いところです。スピードを上げて浜に乗り上げるにはちょうどいい所だったのかもしれません」うーむ、良く分からないけど、さすが発掘した当人しか答えられない答だと感心した。ついでに、土器が沢山残っていて勿体無いということも言ってみた。「我々が掘ったのは、舗装道路の部分だけで畑などはそのままにしているのです。それに、絵や文字が土器に残っていたら大変だ、というけれども、韓国では絵や文字土器は一切出土しません。」それは大変失礼しました。「杜撰だ」と書いてしまってごめんなさい。絵・文字土器が出土しないというのはその事実だけでも日本と大きく違うところであり、大変な発見である。(その後、文字土器を博物館で見つけるのではあるが、要検討事項になった)プレゼントとしてここでもカップヌードルを二個置いて帰ったのであるが、教授は苦笑い、女性は(どうやら日本に留学していたらしく)「大好きです」ということだった。(これで日本から持ってきたプレゼントは無くなりました)あ、博物館図録はここでも無料でくれました。大学では、所謂販売活動は禁じられているから売ることは出来ないのであるが、アマチュアだということは伝わっているのだが、「好意」で貰ってしまいました。こんなところで趣味で来る日本人は流石に居ないからでしょう。大学前の食堂で鶏野菜鉄板焼き飯(タルヤチェポックンパ)を食べながら、ここで初めて今さっきの会話を思い出して冷や汗をかいたのでした。あの教授は、もしかして相当偉い先生だったのかもしれない。ミーティング中だったのに、一時間以上も邪魔をして、しかも発掘の文句を言ったり、本のお礼も十分しなかったような気がするし、随分とずけずけものを言って相当失礼なことをいったような気がするのである。
2011年01月11日
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受付の美人のアガシに「大坪里の遺跡を見たいのですが……」と聞くと、やはり「今は無い」という。場所に行ってみたいと主張するが、外の野外展示場にを指し示すばかりでどうも行く手立てはないようである。帰りのバスの時間を聞くと、まだ一時間以上あるので「時間があるのでどうしようか……」と、呟いていたら、しきりに野外展示場に行けという。私は日本によくある建物だけの展示だと思い、それだと既に二階の展示で概要は分かったので行きたくなかったのだが、躊躇していると、そばにいたアジェンマ(おばさん)が業を煮やしたのか「こっち、こっち」と連れて行ってくれた。すると、なかなかいい展示だった。建物だけでなく、中にちゃんと生活用具まで再現してくれていて、非常に分かりやすい。このように魚を干している展示は日本では見たことがない。ここの建物の中には、長方形の住居がある。それも日本にはないのであるが、なんと入り口が二つあるのもあるのである。寝床は蚊帳を吊っているのであるが、根拠は何なのか。聞いてみたいが、そこまでの会話力はない。野外展示場には同時に普州市街化のなかで壊されたカホドン遺跡の墓がそのまま保存されていた。支石墓や竪穴式古墳とも違う。非常に特異な形をした墓だ。面白い。結局大坪里の遺跡のほとんどはこの博物館の敷地になったようだ。ただ、これだけ大きい村だから目の前にあるビニールハウスの下にはまだ遺跡が眠っている可能性は十二分にあると思う。受付の美人のアガシに話す。「とても素晴らしい展示でした。ところで、解説本は無いですか」子供用の解説本があった。「ほかに無いですか」すると、慶尚大学博物館の図録を見せてくれた。とてもいい本だったので、買えますか?と尋ねたところ、「これは私の本です。けれどもあなたにあげます」びっくり。彼女は無理な注文をするへんな日本人につい言ってしまったのかもしれない。「アンデ! アンデ!!とんでもないです!慶尚大学は何処ですか」地図を見ると、市街地のはずれにある。「そこに博物館はあるのですか?」「図書館にあります」「じゃあ其処に行って買います」「バスはちょうど普州に向う11番バスがそのまま大学まで行きます」それはちょうどいい。美人のアガシの言うことだから、急遽今日の予定に入れることにした。「じゃあ、子供用のこの解説本をください」「これはプレゼントします」「いや、とんでもない!!」「いえ、この青銅器博物館はまだ準備中なので入場料は取らないし、先生方にはこういう資料も渡しているのです」……あえて先生ではないとは言わなかった。(美人の前でいいかっこをしたかったわけです^^;)「本当ですか。ありがとうございます!」結局この博物館では一円もお金を使わずに、本まで貰うことになってしまった。(実はこの日のラッキーはそれだけでは終わらなかったのではある)彼女に教えてもらったとおり、11時30分のバスを、イチゴの看板のあたりでぼやっと待っていると、「○×△ !」なにか声が掛かった。「そこで待つんだよ」さきほどのアジェンマがバス乗り場はこっちだと指し示しいる。「そこで?」「そこ、そこ!」そういいながら自転車で村の方向に帰っていった。昼食休憩か。「ありがとう」追いかけるように大声でお礼を言う。韓国のバスは乗り場から離れていてもOKだとはいえ、万が一乗れなかったら大変なことになる。バス乗り場の看板があるのに気がついていなかった。私はこういう時に韓国の人の「情」を感じる。私は慶尚大学に向かうバスに乗った。
2011年01月10日
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11月4日(木)晴れ朝、日本には見かけない植物がが街路樹にあったので写して見る。朝食は軽く済ませたかったが、つい食堂に入ってしまった。シラク(実学?)汁飯を食べる。どうやらTVでも紹介された名物朝食らしく、なっぱ汁に大豆が入っていて全然辛くない汁でした。店に解説文があって辞書を見ながら少し訳したところ、料理の解説ではなくてほとんど自分の料理の自慢話のようでした。日本だとせめて「シラク」の由来ぐらいは書いているだろうに。でも美味しかった。普州には無信号の横断歩道が多い。これも国民性だろうか。大坪里博物館が今日の午前の目的地です。バス停留所には地方都市には珍しく電光で「~バスは~分後」というふうに掲示される。けっこう分単位で変化している。バスから信号が出て、掲示されるのだろう。(その後中核都市のバス停留所には大抵この類の掲示板があることに気がついた。ほかでも述べるが、韓国はデジタル機器は非常に普及が速い)ただし、一方では時刻表は一切置いていない。日本のように停留所ごとに時刻表があって、できるだけそれに間に合うようにバスが走るという習慣がないのである。バスは10-30分は待つものである。そう思い至れば、あまりストレスは感じなくなる。このとき、待っていたバスは最初26分後にくるということだったが、実際来たのはそれより3分早かった。バスはやがて湖らしきところを走るようになる。バスで30分ほど走る。大坪里(テピョニ)遺跡の入り口では「大坪里イチゴの特産地」という模型が迎えてくれた。ここは有名な景勝地らしく、おそらくダムの開発とかで発掘されたのだろう。韓国にもシメジオンっぽい花が咲いていました。なぜか入場料を取られないで中に入れた。この青銅器文化大坪里博物館は、このように徹底的に子供教育のために作られている博物館である。しかし、子供にも分かるように作るということはそれだけ「難しいことを噛み砕いてわかりやすく展示している」ということで、展示内容は本当に素晴らしかった。大阪の弥生文化博物館よりもわかりやすさという点で優れていると思う。今まで韓国の先史時代の再現模型はことごとく原始人の格好をしていた。しかし、ここは大坪里人の生活を映像と大規模なミニチュアを作って再現しているのだが、ほとんど弥生社会の生活と変わらない様に変わっている。韓国の先史時代の認識がこの数年で劇的に変わったということを示している。しかし、良く見ると、豚の飼育、甑の使用、祭祀の仕方、支石墓の採用等々で日本の弥生社会にないものも見えている。こんな仮面もあった。祭祀の道具だろうか。階下では、なんと一時間ごとに10分ほどの3Dアニメをしていた。テピョニ少年が中国の貿易船に攫われて、青銅器の破片を手に入れるが、やがて大坪里に帰って里の王様になるという筋である。(写真は主人公のテピョニ少年とチンジュ少女。外の野外展示場にいました)観客は私一人しかいないので受付の美人のアガシに無理を言って映してもらったのである。「面白かったです」3Dめがねを返しながら感想を言って見た。にこりとする。アガシはすらりとして、目鼻立ちの整った美人です。いい気になって少し質問をした。「上の展示物の中に青銅器がなかったのですが……」青銅器文化博物館と言いながら無いのだ。アニメのように破片くらいは無かったのだろうか。少し説明してくれたが、どうやら青銅器は見つからなかったらしい。しかし、出土した遺物はまごう事なき青銅器時代のものである。私もそのことに疑問の余地はない。3D映像を見て気がついたのであるが、王の系統はどうも血筋を大切にしているところはある。しかし、王になるためには人からの尊敬も必要みたいだ。
2011年01月09日
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2010.11.3(泗川・普州)勒島。おそらく100件200人もいない村なのではないか。改めて、こんな小さな村に、2000年前前後、驚くほどの人々が住み、それだけでなく、日本や中国とも交易をしていることに、大きな疑問を抱いた(この疑問は次の日にある程度は解消することになる)。そして食堂のアジョッシと案内をしてくれたハルモニにお礼を言い、バスの乗り場と時間を教えてもらって、サムチョンボ(三千浦)行きのバスに乗ったのが二時前。サムチョンボから普州(チンジュ)行きのバスに乗って、普州バスセンターに着く。普州城まで歩いていくと南側の入り口に観光案内所がある。日本語のできるアガシ(お嬢さん)の処で、明日の遺跡の場所を聞くためである。普州は2010年1月に来たばかりなのでよく分かるのだ。アガシは私のことをかすかに覚えていた。さすがに玉峰古墳の行きかたを聞いた旅人はいないので覚えていたのだろう。「実はあのあと、古墳のすぐ下の寺で行きかたを聞いても、とても説明できないといって断られたんですよ。苦労してやっと見つけました」「そうでしたか大変でしたねえ」「でも行った甲斐がありました。あそこに登ると、町が360度一望に見えるんです。あの古墳は間違いなく、この地域の一等地に作られているんです。つまり正真正銘ここ一帯の王の墓だということが良く分かりました」というようなことを話した。観光案内の人に普州の隠れた遺跡の名所を伝えることが出来てよかった。ちなみにこのアガシもなかなか可愛い方です。宿にたどり着いたのが、四時を回っていた。これからは観光は無理なのでゆっくりすることにした。宿はヨガン(旅館)にした。モーテルより一万w安いので決めたのであるが、シャワーが想像以上に狭くて汚い。おまけにお湯はほとんど出ない。床暖房が入っていない。本当は荷物を預けることが出来るので、ここに連泊しようと思ったのだが、止めた。明日モーテルを探そう。一日の経費が高めに推移している。日本の近畿旅行よりは安いが、韓国内はせめて20日10万円で収めようという目標はこのままでは叶えられそうにない。夕食は案内所のアガシが教えてくれた普州冷麺を探して歩きに歩いた。観光案内の地図を見せながら「この地図に場所を書いて」と何人かに頼んだ。そうしないと、言葉で聞いても理解できないことが多いのである。けれども決して地図にポイントを示してくれない。言葉で伝えようとする。つまり観光案内の地図は小さすぎるのである。最後のほうでやっとそのことに気がついた。今度からはノートに略図を書いて、そこに示してもらうことにしよう。最終的には親切なお兄さんが200メートルくらい一緒に歩いてくれて教えてくれた。写真は夕暮れの普州の風景。どの町にも当たり前のように角々に教会があります。この写真は少し立派な協会です。普州冷麺は他の韓国冷麺と違い、全然辛くないスープで、肉が混じるアゲやキューリ等豊富な具財が入っています。日本人には食べやすいと思う。見栄を張って(大)を頼んでしまった。お腹一杯なのに、部屋に帰って昨日買った焼酎と今日買ったアーモンドで晩酌をしてしまった。焼酎はつい最近まで韓国の大ブランドだった鎮露と違い「チョウンデイ(善き日)」という焼酎で智里山の湧き水で作ったとかいている。とってもすっきりしていて飲み易い。ここほんの数年でいろんな焼酎をコンビニで買うことが出来るようになった。朝食1,000 釜山~サチョン7,700 サチョン~サムチョンボ1,900 タクシー4,800 海鮮丼10,000 バス1,000 サムチョンボ~普州3,600 旅館25,000 冷麺7,500 お菓子1,000計63,500w15,751歩
2011年01月08日
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2010.11.3(泗川・普州)泗川(サチョン)から10分ほど車を走らせて勒島(ヌクト)に来たはいいけど、遺跡の場所は探検するしかないな、と腹を決める。とりあえず近くの食堂で昼食をすることにした。そしたら偶然にも今さっき話をしたアジョッシの店だった。この小さな島では釣り客のために食堂と民宿だけは何軒かあるのである。当然というか、ここにはフェ(刺身)の食堂しかない。一食5000Wが当たり前の韓国の食堂ではあるが、刺身料理だけはなぜか高いので、私はほとんど足を向けないのである。一番安い海鮮丼(10000w)をたのんだ。出てきました。刺身にコチジャンを掛けた丼と、ご飯と五皿の副菜とスープです。せっかくなので魚の名前が知りたい。閑だった食堂に急遽おばさんがやってきて、昼食を作ってくれたのだけど、日本人が珍しいのか、ひそひそ話をしている。アジェンマ(おばさん)に聞く。「これはなんですか」「○△×」良く分からない「ここに書いてください」とメモ帳を見せる。頼んだアジェンマは尻込みをしてもう一人のアジェンマに書かせる。文字が達筆で全然読めません。単語じゃなくて文章を書いてくれた。読める単語だけでも辞書を引いたけど出ていない。なんだったんだろ。結局何の魚が乗っている海鮮丼なのか分からずじまいだった。副菜のなかで貝の煮つけとイカの塩辛は美味しかった。魚はさすがに新鮮です。食事のあと、荷物を食堂に預け、「遺跡を見て回りたい」と申し出てみた。アジェンマはアジョッシに聞けという。アジョッシは「ともかくこいつは遺跡の場所に行きたいのだ」と納得してくれて、近くで井戸端会議をしていたハルモニ(おばあさん)に案内を頼んでくれた。手前の小柄なほうのおばあさんでした。私の肩ぐらいの背が低くてやせっぽっちのハルモニでした。なんと彼女は少し日本語が出来る。「わたし、7歳から14歳まで日本にいました」なぜいたのか聞いたが、親についていったというぐらいでそれ以上は聞くことは出来なかった。二人並んで橋の手前の畑のほうに歩いていきました。最初、ここで人が死んでいた、並んで死んでいた、というので、自殺があったのか、あるいは戦中のことかと思っていたら、道の処で寝転ぶ真似をする。どうやら遺跡の発掘の様子を一生懸命説明してくれていたらしい。つまりそれだけ沢山の墓がこの勒島遺跡の橋のたもとで発掘されたということなのだろう。このあたりは土がアルカリ性なのか骨の出土状況はいいようだ。きっと良好な形で遺骨が出てきたのだ。釜山大学博物館には勒島出土の人骨の展示があった(純粋に学術展示なので怖がらないでね)。墓があったのは畑の横の舗装道路なのであるが、彼女はそこで並んでいた、と畑も指差す。そこで畑の中に入ってみた。びっくりした。「これは遺跡の土器ですか」「そうです」土器って言う意味分かるのだろうか。「これは貴重です」ハルモニには私の感動が伝わってはいない。畑に遺跡の土器があるのは当然だろ、という感じだ。せめて私が興奮していることぐらいは分かっただろうか。2000年前に朝鮮半島の人たちが土を選び、成型し焼いて生活していた証がここにある。ひとつの破片からは土の形質、作り方、生活の質までも専門家ならば類推することができる(私にはできません)。ハルモニには礼を言って帰ってもらって、しばらく畑の上の土器を探した。ボロボロ畑に落ちている。発掘後にこんなに土器が残っているなんて、日本では決して考えられない。土までもふるいにかけて、小さな玉もないか全部調べて帰るのだ。そして洗浄して土器から時間をかけてて丁寧に一つ一つ再生する。土器の数自体が、データになるし、万が一破片の中に絵画や文字があれば大発見になる。拾った土器は見た目は弥生土器そっくりだ。線刻もはっきり残っている。幾つか拾って帰ることにした。(本当は良くないことです^^;)しかし、韓国の発掘の杜撰なこと!!!そのあと島の上のほうに回った。残りの遺跡の場所は特定できなかったが、漁村の家を見て回ることができた。少し上に登るとすぐ島の反対側が見渡せます。典型的な漁村です。屋根に干物を干している。驚くほど若者がいない。言い換えれば、若い嫁がいない。おばあちゃんが至るところで網の繕いをしている。家のつくりは、玄関からよりも窓から出入りすることのほうが多い気がする。道沿いの壁に絵を描いているのを初めて見た。(帰国して実はこれは現代韓国を覆っている一大美術運動なのだということを知るのであるが、それはこの旅の最後のほうでもう一度書く)綺麗な小鳥も描いています。そのあと、潰れたモーテルの上に上がり、村を一望して写真を撮ったのでした。
2011年01月07日
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11月3日(水)晴れ夜眠れなくて朝ぐずぐずしていたら、バスの連絡が悪くて50分も待って9時出発になった。今回交通の乗り継ぎ連絡のミスが多い。いつもギリギリになって出発するからだ。沙上にある西部バスターミナルは、釜山から地方都市に行くのに良く使います。こういうところです。以前来たときより直行便が少なくなっている気がする。今回の旅では以前に買った韓国版国内地図を持ってきたので、高速を走りながら今どの辺りを走っているのか、初めて分かるようになった。釜山と金海そして加耶地方の市街地の位置関係が初めて分かった。コンビニで買ったキンパブを食べて朝食です。普州を過ぎて泗川(サチョン)のICで降りるとなぜかすぐに目的のバスターミナルに着く。運転手に確認してもここだという。海岸沿いのサチョンに行きたかったのだが、内陸部のサチョンに来てしまったようだ。本当はサチョンの別称のサムチョンボの切符を買わなくてはならなかったことをその後知る。昨日の釜山大学の方は別称ではなく、「サチョンのバスターミナル」と言ったので、間違ったのではあるが、何しろこのサチョン市には地図の上だけでもサチョンという町の名が三つもあるのである。まあ、間違って当然といえば当然。一瞬途方に暮れたが、地図を見せながら若いお母さんに見せると「バスがある」と言う。釜山でチケット買ったときには1時間おきのバスだったので、ここでチケットを買ってすぐにバスが来るのか不安だったが、バス乗り場に行くと果たしてすぐにバスが来た。しかし乗った後でも本当にサチョン(サムチョンボ)に行くか不安でずっと地図を見ながら確認していたのだが、良く分からないままサムチョンボに着いてしまった。(正解でした)ここのコインロッカーに荷物を預けて勒島(ヌクト)まで行こうと思っていたが、バスセンターなのにコインロッカー(ポカナム)がない(その後よっぽど大きいバスターミナル以外にはコインロッカーはないということが分かる)。駅員に聞くと、向こうに行けという。そしたらサービスセンターみたいな部屋があってポカン料2000wと書いている。ところが全くの無人、やる気なし。仕方ないのでパチパチに張ったリュックサックを背負って勒島に行くことにした。バスは一本しか線がなくていつ来るのか分からないので、タクシーにした。2-3キロ先のはずなのに、4800wも取られる。総じて田舎のタクシーは高い気がする。勒島に着いた。主な住宅地はここだけであり、小さくて美しい島である。向いの大きい島(海南郡)への連絡橋を作るときに遺跡が発見されたのであろうか。島で唯一の小物売り場で案内地図はないかと聞く。「ない」と言う。実は勒島遺跡を探しているのだ、と言うと、アジョッシ(おじさん)が話に乗ってきた。「勒島遺跡はもう壊されてなくなった」「(開発のために遺跡が無くなるのはよくあることなので納得しながら、でも昨日の図録にあった勒島の地図を書き写したノートを見せながら)橋はこことここの遺跡を壊したのだろうけど、まだここの遺跡は残ってはいないだろうか。そこを見てみたいです」「遺跡は無い」「でも行ってみたい」遺跡の場所に立ってみたいという気持ちはなかなか伝わらない。(この気持ちは相手が日本人でもなかなか伝わらない)周りでは猫がうろうろしていた。この猫は尻尾がまん丸である。「面白いですね」とアジョッシに言うと彼はにっこりとした。
2011年01月06日
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2010.11.2(釜山)釜山大学博物館は二回目の訪問であるが、今回はじっくり見ることにした。それだけ価値のある博物館であった。青銅器時代の勒島遺跡からは弥生式土器が出土していた。(九州産)しかし一方ではこんな蓋が出土している。こんな形の土器は日本には入っていない。(輸入品という形では出土している。つまり日本の土器製品として採用されなかった)なぜか。青銅器時代の生活遺物(検丹里コムタンリ遺跡)を見ると、日本の弥生式時とほとんど変わらない。唯一、甑(こしき)を除いては。なぜか。一方、墓制に関しては細形銅剣や支石墓はついに日本にはなじまなかったが、甕棺墓(かめかんぼ)は広く行われた。これは一般の墓だったからか。つまり、日本にはこの頃ついには王族はやってきていなかったのだ。面白いのは、矢じりやナイフを作るのに欠かせない黒曜石。韓国ではソウルの北にある白頭山では産出するが、韓国南部では日本の九州産が使われたらしい。図録を買うときに、「遺跡の場所を教えてください」と少し質問をしたら、別の塔の大学の研究室らしきところに連れて行かれた。さすがに釜山大学、日本語が出来る若い女性の研究者がいて、丁寧に教えてくれました。これによって、勒島遺跡、検丹里遺跡、ハデ遺跡、慶州ソンファンニ遺跡、金海の遺跡の大体の場所が分かりました。明日はまず、勒島遺跡に行くことに決めました。少し質問。「勒島ってこんなに小さな島だったんですね。こんなところにどうしてあんなに多くの遺物が出たのでしようか」「分かりません。弥生式土器ばかりでなく、楽浪郡(ナンナングン)の土器もあるので、日本・中国とつながりを持っていたんですけど……」「今日、釜山に着いたんですけど、これから10日くらい掛けてこれらの遺跡を回ろうと思っていたんです」「それは凄いですね。どこかの先生ですか」「いや、全くの趣味です」「えっ、それは凄いです」「今日はありがとうございました。これはソンムル(プレゼント)です」といって、日清のカップヌードルを渡した。いつも韓国旅行にはちょっとした親切へのプレゼント用にカップヌードルをカバンの中に入れている。これがなくなる頃には韓国の荷物が増えていくというしくみである。ただ、余裕を持たせるために今回は下着は5日分も入れたためにリュックの中にヌードルは三つしか入れることはできなかった。これでは全然足りなかったのは言うまでもない。「いや、いいです。先生が10日の間に食べてください」「いや、プレゼントですから。それに私は先生じゃありません。それにこの日清カップヌードルは世界で初めて発明されたヌードルだったんですよ。知っていました?日本を知るためにも食べてください」と言って無理やり渡しました。釜山大学には(民主闘争発生の地なのに)政治的スローガンのタテカンならぬ立て布は全くなく、せいぜいこの様なものしかなかった。この布には「休~試験終わった!漢文踏査GOGO(調査のことか?)」と書いている。ゼミかなんかで地域漢文調査なるものがあるのだろうか。しかし、この漢字の使い方ちょっとおかしいように思う。特に「休~」はないだろ。泊まりは沙上(サジャン)バスターミナル前にあるビチモーテル(ビーチモーテル?)にした。 夕食は鶏のチャーハン。目の前で作ってくれます。一人分を頼んだので、可哀想でした。(普通は数人分で頼むからこそ安いのです)地下鉄カード作成8,000(これ以降総て金の単位はwです) タクシー3,700 記念館200 朝食3,000 タクシー3,400 東亜博物館解説機械1,000 昼食4,000 釜山大学博物館図録10,000 宿泊代35,000 夕食4,000 焼酎1,450合計73,750 歩数15,750歩
2011年01月05日
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2010.11.2 (釜山)適当なバスがないものだから仕方なく、タクシーで東亜大学博物館に寄ってみました。考古学室は小さかったものの、旧石器から三国時代までの釜山周辺の流れをコンパクトにまとめていました。行って見たいと思っている勒島(ヌクト)遺跡の遺物も纏まって展示されていて、三韓時代と位置づけられていて、おやっ?私の認識と違うぞ、とは思いました。(結局こちらのほうが正しいようです)器台変遷図も示されていて、興味深いものでした。6世紀の甕棺墓(陶器の棺おけの入った墓)が日本では見たことのないものに変化しており、興味深いものでした。一世紀頃の甕棺墓とそっくりな甕棺は吉野ヶ里その他の弥生後期遺跡に多く見られるのですが、古墳時代に入るとぴたりと無くなります。写真は梁山新基里古墳群出土。変な想像しないでね。釜山智土洞遺跡では大量の鉄が出土しているようですが、地図にはなかったのでもう既に壊されているのでしょう。もうずっと前からですが、ありとあらゆる地下鉄には防毒マスクが常備されています。地下鉄サリン事件が世界で初めてあった日本でこのようなことはなくて、韓国ではしている。韓国の北朝鮮への危機意識はこのひとつ見てもタダならないものがあり、日本のように政治的思惑で動いているものではありません。非常に現実的です。だからこそ、韓国が動かないときに日本がいたずらに騒ぐのが危険この上なくて馬鹿らしいと私には思えるのです。(韓国の危機意識に付いてはこの後何度も言及します)釜山大駅に行き、近くの店で、まずは腹ごしらえということでテジクッパッ(豚汁飯)です。大学前の食堂は概して安い食堂が多い。此処も通常より1000w安い4000wでした。味は普通です。副菜は青唐辛子の生を味噌でつけて食べるようになっています。この後何回もこのタイプの副菜が出てきます。私はやがて一つの仮説を立てるに及びましたが、そのことはまたずっとのちに。今日のメインの目的地。釜山大学です。釜山大学には、構内にこのような小川が流れています。人口密度が高いはずなのに、公共施設は贅沢な土地の使い方をしているのが韓国です。
2011年01月04日
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11月2日(火)うす曇8時30分、国際ターミナル着。三万円だけ両替する。レートは1340w/100円だった。地下鉄中央駅で駅の地図を見ると、民主抗争記念館が近くだったので、タクシーで行ってみることにした。(行き当たりばったりの旅なんです)記念館どころか、山一つ買い取って非常に大きな公園になっている。今回の旅の目的は伽耶の古代遺跡なのであるが、博物館フェチの私はこういう博物館も喜んでいくのです。けれども今回の旅では結局、現代博物館に行ったのは、この日とあと一日しかなかったのです。入り口のところに1960.4.19の記念塔があった。李承晩(イ・スンマン)政権打倒のきっかけを作ったのが、どうやら釜山の闘いだったらしい。その側に「マンガで見る4.19民主革命」というのが掲げてあったので簡単に解説します。左上から右に順番に、自由堂で3.15不正選挙があった→3.15不正選挙に怒る国民→デモに参加したキムチュヨルが死体で発見された→学生と市民が(共同して)独裁に抗議→ついに全国民が立ち上がった→李承晩大統領下野す→独裁を崩壊させた国民。というものです。思えば、これと同時期、日本では安保闘争が繰り広げられていた。日本では岸政権を崩壊させた。しかし、ついに日本ではこのような「安保闘争」記念塔、記念館は今までひとつたりとも作られていない。自民党ならびにそれを保障した「独裁」が現代も続けられているからだ、といったら言いすぎだろうか。そこから高台に上ると立派な記念館がある。4.19のみではなく、1987.6月抗争とその勝利までを扱っているから、所謂、韓国民主化闘争全般を扱っているようだ。「民主市民」という新聞が1985年から出ていた。「市民」という言葉を大手を振って使い出したのが、このころだったのだろう。記念館の食堂でマンドゥクッを頼んだ。ほかに食べている人が誰もいないので心配だったが、とても美味しかった。マンドウゥは辛くない韓国大衆食の代表みたいなものです。実は渡韓直前の健康診断で『要胃カメラ』という結果が出たのですが、渡韓前にカメラを取る予約が取れなくて胃薬のみ持ってこの旅に臨んだのです。だから(できるだけ)暴飲暴食は慎みたいと思っている私です。(結局はこの旅の間、おなかの違和感は返って調子がよくなったので『暴』とまでは行かないが、相当食べて飲んだのは確かです。帰って胃カメラを呑むと結局十二指腸潰瘍でした。ピロリ菌退治をしながら今治療中です(^_^;)階上からは釜山の町が見渡せました。龍頭山展望台よりもさらに広大な釜山の町が見渡せます。無料ですし。どうしてここが観光スポットになっていないのだろ。すぐ近くに「日本から独立した」という意味の「光復」を冠した光復記念館というのがあったので、寄ってみると、幼稚園児童が群がっていました。思うに、民族教育をしないのは日本とあと数国だけでしようね。あっ、博物館教育とか、野外教育そのものも、あまりにも少ない。(やがて慶州でそういうことを小学校教師とお話しすることになります)こんな大きな公園を短時間で作ってしまう韓国民の民族意識は凄いものがあります。
2011年01月03日
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ついに11月1日~22日の韓国旅行のレポートを始めます。たぶん11月7日ぐらいでいったん連載は終わると思います。けれども、それでも20回以上続く予定です。11月1日(月)雨のち晴れ一日目はほぼ下関への移動のみ。家を出るとき珍しく朝の虹がかかっていた。8時に家を出て、雨は途中で大雨になる。そして電車で西にむかうと、見る見る晴れていった。下関駅に着いたのが16時前。バスの連絡等で遅れて、思ったよりも時間が掛かった。けれども、約一日掛かるのは覚悟すみ。一番安い旅行日程を考えるとこうなってしまった。弁当持参で汽車の旅です。どれだけ安く旅を終えることが出来るかが、今回の旅のテーマのひとつでもあります。もうひとつのテーマは、「伽耶時代の遺跡を見る」です。下関駅ではこんな看板が迎えてくれました。たぶん期間限定。龍馬夫婦の両となりには伊藤九三というマイナーな男と、この地域だから分かる三味線を抱えた高杉晋作がいます。下関国際ターミナルでの乗船手続きまでに一時間弱あったので、プチ観光をしました。駅前のミニ公園では「風の預言者」という銅像がありました。高杉晋作と騎兵隊を称えた像です。後で考えると、非常に日本的な銅像です。韓国のブロンズ像は、歴史的人物を写実的に実際より大きく作ったものか、非常に抽象的なものしかありません。日本のこの像は、高杉晋作をイメージしたのではなく、顔は少女マンガのように綺麗に作り、物語の一場面を切り取った様に作られていて、非常に「情緒的」「ロマン的」なのです。近くの商店街の通りに、沖縄だけあると信じていた石敢當の石があった。沖縄では道の突き当たりに、よくしらないけど「おまじない」としてあるのですが、本土にもあるんだ。とびっくり。それとも此処だけだろうか。駅のすぐそばにある大歳神社は高杉晋作が騎兵隊出陣のときに戦勝祈願をした所であるが、その遺跡として陰で高杉を支えた豪商白石正一郎が奉納した鳥居が残っていました。文久二年の文字が彫られています。また文久3年8月の政変の際に三条実美ら七公卿の都落ちの有様を画碑として記念したのも残っていました。大歳神社でこの旅の「無事帰還」を祈りました。高いところから国際ターミナルならびに下関港を眺める。フェリーは「はまゆう」ではなく、韓国の船でした。帰りのときが「はまゆう」で日本産の船だったのですが、思えば韓国の船のほうがコンビニもあったし、食堂も美味しくて良かったです。夕食はホールでテレビを見ながら軽く済ませるつもりでコンビニで買ったのですが、結局食堂に行ってまた食べてしまいました。ホールでは「モレシゲ(砂時計)」 の総集編をしていた。みんな熱心にテレビを見ていました。バス340円 電車5,780円 文庫本200円 昼のビール、つまみ330円 ソフトクリーム200円 船代(二等客船、油代、港使用料含む)10,400円 夕食8,450W 合計 17,250円+8450w歩数 7,602歩
2011年01月02日
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4日目 1月7日(木)最終日、早朝のテレビでマイナス13度とあった。早々に支度して色々と行く気が失せる。いつものように8時過ぎに出発。時計とメモ代わりの携帯が、コンビニで買った簡易充電機で充電をしていたらいつの間にか真っ暗になっていた。やっぱり安易な安物は買わないほうがいいと思った。チョンノ3街の一号線コンコースに独島(竹島)の精巧なミニチュアが飾られてあった。カモメまで飛んでいる。情熱だけは、韓国国民は日本国民よりも絶対勝っている。龍山(ヨンサン)駅に行く。ここに日本統治時代の古い建物が残っていると聞いたためである。雪に隠れてよく分からない。さすがにここは雪かきをまったくしていない。日中もマイナスなので3日前の雪がまだ道路上に残っている。屋根はなんとなく日本式という感じがする程度。この玄関前は日本風ではある。龍山駅の二階のレストランで遅い朝食を食べる。軽めの物がいいと思い、コンククス(冷たい豆乳うどん)を頼んだ。そしたら来たのは、暖かい肉入りスープ。「まるでソルロンタンだなあ。こういうコンククスもあるのかな。」と思ってしばらく食べていて、ふと会計を見るとソルロンタンのとろこに印があるではないか。給仕のアジェンマを呼ぶ。「私はコンククスと言いましたよ」「コンククスは今は無いです」「今それが分かった。けれども、あなたはコンククスは無いとはいわなかった。」「じゃあ、コンククスの値段で食べてもらってもいいです。」というようなやり取りがあって、アジェンマは自分の金で2000wを持ってきた。私は受け取った。「そんな問題じゃあ、無いんだ」と言いたかったけど、うまく説明できない。せめて彼女が悪いのだということだけでも、認めてほしかった為だ。いくら私でも、発音が悪くてコンククスを聞き違えるということはありえない。彼女はコンククスがないということを説明するのが面倒くさくて、これをもってきたならばあきらめるだろうと思ってソルロンタンを持ってきたのに違いない。彼女にも言い分はあろう。「食べる前にどうして不満を言わなかったのだ」等々。店のオーナーには何か説明をしていたみたいだが、彼女は悪い、という素振りをまったく見せなかった。精算のときにも店の人は何の謝りもなかった。食堂でこのようなことは初めてだが、このようなケンチャナヨ的対応もやっぱり韓国なのではある。ごめんこうむりたい。新龍山駅で茶の量り売りをしていた。そば(?)茶を試飲させてもらった。つい勢いで買ってしまったが、量をサービスしてくれて1万ウォンで1.5リットルもある。しかし、後で飲むと、くず茶も中に混じっていて、お茶は消毒しないで飲むということもあり、怖くなってやめてしまった。1.3リットルくらい残っているのだけど、どうしようかしら。空港に早く着いたので、Eマートで買い物をした。韓国で一番のスーパーである。しかし、値段は0.085倍すればいいと思うが、それでも高いと思う。ねぎだけは安かったが、キャベツも高い。卵は日本と同じか。基本調味料のコチジャンがこんなに高いとは思わなかった。韓国料理には惜しみなく使われているのになあ。物価は日本とほぼ同じと思ったほうがいいのでは。韓国の売り方はおまけをつける、というもの。しかし、洗剤にまったく関係ないものをくっつけることで本当にお客を呼べるものだろうか。最後の日はこのように買い物三昧で終わった。今回は雪に祟られた旅になった。行きたいところに行く気がうせてしまった。(それでもドングリさんからは不岳山に行くのは無謀だといわれてしまったが)目新しい食事と映画博物館、スノ+モノが今回の収穫だった。写真は空港で食べたビビンバ。最後の食事、機内食である。楽しい旅行ではあった。朝食(5000) ソバ(コーン?)茶(10000) リムジン(バス代)(13000) タクシー(30000) Eマート土産(30890) コーヒー(4500) 昼食(12000)
2010年03月15日
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そのあと観光案内所で聞いて、「怒りのソウル」に載っていた研究空間「スユ+ノモ」に行って見ました。これが今回の旅で一番の収穫になりました。地下鉄淑大入口駅からタクシーに乗ってユニバーサルクリスチャンスクールに行きます。その四階のドアを開けるとやっぱり外国のような空間。奥の教室からはセミナーが終わったばかりなのか、若者がぞろぞろ出てきました。幸いよそ者をいぶかしがる雰囲気はないようです。ぼんやり掲示物を見ていると声をかけてくれる青年がいました。(あとで本を見て気がついたが「酋長」のコビョンゴォン氏だった)「この(「怒りのソウル」の)本を見て見学にきました」コ氏はすぐにわかってくれて日本語を学んでいるという可愛い女性に案内を頼んでくれた。彼女はきれいな日本語で部屋を案内してくれました。「ここは勉強部屋です」「セミナーを受けています」「この部屋は工作部屋。机を作っています」上の写真は工作部屋です。専門書が並んでいる図書室も見せてくれた。日本の本も入り口直ぐに一角を成している。雑誌「世界」「前夜」もあり「風の谷のナウシカ」全巻もあった。「贈り物文化」なのでたぶん寄贈なのだろう。私の蔵書を今度持っていったら置いてくれるだろうか。食堂ではメンバーが当番で食事を作っていた。このような当番表で作って1800ウオン(約150円)を箱に入れると誰でも食べ 食べることができるらしい。もちろんセルフサービスセルフかたずけである。私も食べさせてもらった。ベジタリアンむけに肉魚は使わないらしい。本当の若者の食事という気がして美味しかった。食事をしている時、次々に人が来人が来て30人は食べていました。若者が次々と来ていたので、このコミュニティは見事に成功しているのでしょう。すごいことです。さて案内してくれた女性が写真を撮ることを快く許してくれたので紹介します。Yさんです。いやあ、可愛いですね。彼女に言うのを忘れていましたが、しきりに上手く話せないことを気にかけていたけど全くケンチャナヨ。上手でした。Yさん、あのとき「たぶん1月末までにブログに載せる」と言ったけど、こんなに遅くなってごめんなさい。「再出発日記」とかKUMA0504とかrakutenとかでここまでたどり着けたでしょうか。前会ったキムさんは会話は出来ても、漢字を読むのは難しいといっていたので、このブログを理解するのは難しいでしょうか。もし関係者でもいいから、ここを覗いた人がいたら、英語でもいいからコメントください。ちなみに、後ろの本棚は全部韓国のマンガ。しかもほとんど「バナナフィッシュ」など日本マンガの翻訳です。 (最初Yさんの名前を書いていたけど、やはりそこまでは書かないほうがいいと思い、訂正しました)帰る時には、すっかり日も暮れて、遠くにソウルタワーが見えていました。「スユ+ノモ」は金のない貧乏学生もそれなりに勉強できるし、一つのコミューンみたいな空間になっています。詳しく私なんかよりよっぺど立派なレポートをしている【現地報告@ソウル】「研究空間スユ+ノモ」の挑戦を参照してみてください。地下鉄で明洞駅に降りて見ました。本当に人がたくさんいます。映画館2つともやっぱり昨日と同じです。チョンノに戻って昨年キム氏と飲んだ店「タレティピョン」(電話722-9032)でトントン酒と海鮮チヂミを頂きました。トントン酒はやっぱり市販とは違う、快い酸味とやがて来る甘味と旨味。この店快く1人で飲むことを許してくれたし、酒はうまいし、最高です。15000(タクシー)10000(地下鉄チャージ)20000(VCD)4200(朝食)18000(昼食)1800(夕食)3000(間食)19000(居酒屋)7000(コーヒー)2000(コーヒー)3000(景福宮)3000(餅博物館)7000(コーヒー)11000(土産)
2010年02月21日
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ソウルに大雪が降ったのは、2日前の1月4日ですが、何しろこの6日の昼間、ピーカンの青空でも零下7度から上がらないというソウルの温度、雪はあんまり溶けていません。景福宮にはにわかカメラマンが大勢押し寄せていたのでした。もう何度も来た景福宮ですが、雪の景色は初めてです。手前の石は官位の着く位置を示すために並んでいるそうです。後ろのそびえる北岳山が恨めしい。私も少しにわかカメラマンになりました。今回ここに来た最大の目的は明成皇后(閔妃)の殺された宮廷が一昨年再建されたのですが、ちょうど見ることが出来なかったのでそれを見ることでした。宮の一番奥、雪で真っ白に覆われた池の傍にその乾清宮はあります。「明成皇后受難の地」とかの立て札があるかと思えば、全く何の説明もありませんでした。しかし今年作成されたと思える宮全体を説明した無料配布のパンフ(日本版)にはこのように記述があります。「日清戦争に勝利した日本は、本格的に朝鮮に対する内政干渉を始める。ここに親露政策を立てて、日本に正面から対立した明成皇后は乾清宮で残酷な死に至る。1895年8月20日、日本公使館の職員、日本軍などが乾清宮に乱入し、王妃を刺し殺し、その死体は裏山で燃やすという蛮行を犯した。これが明成皇后殺害事件、いわゆる乙未事変だ」とある。ウィキでは日本軍が関与した証拠は無いと書いている。(これだからウィキは信頼できない)NHK「坂の上の雲」では明確に日本の関与した犯行だとしていた。しかしここに至った経緯はこのドラマではみごとに抜け落ちている。このドラマでは、秋吉兄弟に代表される「健全な日本男子」が坂の上を目指して駆け上って行った、それだけを描いた作品としか今のうちは思えない。それだとしたら、乙未事変に対してこのような共通認識を持っている韓国の人達に「われわれと一緒に北東アジア共同体を作ろう」と言ってもたぶん彼らは「信用できない」と言うことだと思う。さて、宮を出ると、北山地区を散策しました。一番の目的は雪のソウル伝統家屋地区を上から撮ってみたいと言うことのみ。写真はビキニの雪だるまです。ソウル市民は雪は珍しいから好きなんです。細い階段を上がってみました。雪の青瓦台(大統領府)です。中庭がある伝統家屋を上から撮ってみました。そのあと、歩いて餅博物館に行って見ました。喫茶店の二階三階にある民間博物館です。伝統的な食事をいくつか展示しています。季節や通過儀礼に専用の餅があるらしい。喫茶店では、いくつか代表的なお茶セットがありました。どんな味かというと、日本の和菓子だと思ってもいいが、ケーキのようにして食べる部分もある。(続く)
2010年02月20日
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三日目 1月6日(水)寒いですね。今私は、500円で買ったプラスチックの湯たんぽが重宝しています。湯を沸かすだけのガス代は電気より安い。しかも、湯たんぽは次の日まで暖かいのです。さて、今年正月明けに韓国に言った記録を再開します。1月6日3日目。この日は激動の一日でした。気分的には極寒の中、遭難しそうになったり、おいしいものを食べたり、貴重な写真が取れたり、素晴らしい出会いがあったり。とりあえず、この日だけ、三回に分けて紹介します。まず景福宮駅前のダンキンドーナツで朝飯。北岳山の城郭はむかし北の諜報員が青瓦台を攻撃したこともあり、長いこと立ち入り禁止だったが、最近パスポート提示で登れるようになった。ということを聞いた。それで午前中はそこに行こうとしたが、‥‥‥結果果たせずに終わってしまったのです。韓国ではタクシーのいい思い出はほとんどない。特に今日は四回乗って三回嫌な思いをした。一回目は基本的にはタクシーだけが悪いのではなく、私の言葉の能力が無かったせいでもあるのだが。「北岳山に登りたいです」と言った言葉は明確に通じ、「駅から登り口まで行って欲しい」と頼んだわけです。下ろされた場所から登って行く。ところが、行けども行けども登り口はないわけです。途中で出会った兵士に聞いてももっと先に行け、という。結局タクシーも兵士も一般的な北岳山の展望台登山をイメージして登れといったわけです。城郭は軍の管理下にあります。そこに観光客が上りたいとは思っていなかったのでしょう。天気の日に歩くのならいい。しかし、べちゃべちゃの雪道を歩くのは相当の苦痛です。行けども先が見えない不安もあります。展望台まで一キロという看板が見えたときたまたまタクシーが来たので乗りました。このタクシーも同じように勘違いし、八角亭という展望台まで連れて行くわけです。「すみません、30分待っていてくれませんか』と交渉しても、わけの分からない客の相手をしたくないと思ったのか、そのまま山の頂上で帰ってしまいました。ここが城郭の入り口なのだろうか。いやそうではない、とということはすぐに分かります。雪のせいか観光地として八角亭展望台の中にあるはずの売店も閉まっています。当然電話もどこにもありません。ここからの眺めは確かに素晴らしいものがありました。北岳山から北側、ソウル市の北の地を見るには素晴らしい眺めですし、ソウル市内も遠くに見えます。そういう意味では、ちょっとした景勝地です。しかし、私はあくまでも城郭に登りたかったのです。そしてそこからだったらおそらく雪に埋もれたソウル市内も一望に見えたことでしよう。(だからこそ軍事上、入城禁止になっていたのだろうし、写真も許可制になっていたということでした)上の写真は八角亭から見た城壁です。いまや、私は山の上に一人取り残された遭難者の気分でした。城郭入り口がもしあるのならば、そこで電話を借りようかと思ったのですが、それも無理。近くに工事現場があったので(軍管理)、そこに行って『電話したいのですが』と言ってもそんなイレギュラーなことは出来ないという顔で若い兵士からは断られてしまいました。上の写真は、軍事施設ですので、当然このような景色もそこかしこで見えるわけです。私は仕方なく、同じ道を下っていきました。幸いにも上りよりは下りが楽なのは理の当然で、一時間ほど歩いたら、なんとか降りることが出来たのです。幻の城郭登り口も見つけることは出来ましたが、もう行く気力はなくなっていました。途中、同じ道を下るのはつまらないと思いわき道にそれようとしましたが、犬の吼える声に驚いてでてきた村民か「(通り抜ける)道はないよ」というので引き戻る一幕も。たくさんの人がここを降りていこうとするのかもしれません。でも山間の村の様子を写真に撮れたので満足。カフェエスプレッソという韓国では珍しい本格的な喫茶店が登り口近くにありました。そこでともかくコーヒーを飲んで体を温めました。韓国のコーヒーはたいていちょっとした御菓子が付いてきます。小さなクッキーがそれです。そうとは思わずに2000Wで棒クッキーも買ってしまいました。韓国で飲んだコーヒーの中では一番本格的でした。エスプレッソ方式なので右銅製のカップのコーヒーの上澄みをコーヒーカップに注がないといけなかったのですが、気がつかずに少し豆が入ってしまった。 その後反対側の丘に登ってすこし景色を楽しんだ後に、バスに乗って景福宮駅まで戻ったのでした。本格的な宮廷料理が単品で食べれるということで、古宮博物館の中のレストランに行きました。普通の専門店では二人以上でないとまず宮廷料理は食べれないので、ここは貴重です。頼んだのは二点。クンチュンボマンドゥ(宮廷褓饅頭)蓮の葉で餃子を包む。外国の使臣のため1964年に作れる。チャングムにも出たらしい。かすかに葉のにおいが移って日本人好みの味でした。タノパクチム(蒸しかん南瓜)。もとはトウガンを使った。精神安定、咳、痰に効く。いずれも噂には聞いていましたが、宮廷料理はまったく唐辛子を使わないのです。そして中国料理の大胆さと日本料理の繊細さを併せ持った、おそらく韓国で初めて食べる質の料理でした。美味しかったです。あと4-5品食べていない料理があるので次回の楽しみにしたい。(続く)
2010年02月19日
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二日目 1月5日(火)韓屋の宿なのですが、ベッドまでオンドルになっていて、しかも最高の温度に成っていたので何だか低温火傷したみたいです。二泊目は無いということも伝えずに鍵のみ返して外に出ました。朝、先ず景福宮に行く。雪の宮の写真を撮りたかったのだが、あいにく休み。外から撮って青瓦台の近くまで行ってみる。目の前までは行けなかった。去年開設された古宮博物館に行く。朝鮮王朝の宝物を展示した博物館である。王様の印は大てい亀がついている。龍は中国なので使えなかったろうが、なぜ亀なのだろう。教育ママの皇后が「勉強せいよ」と本棚の絵を描いた屏風もありました。やがてこの絵画は民衆(貴族)にも広まる。最古唯一の宮廷御用達車もありました。(純宗皇帝の皇后用)ワールドカップ競技場駅に着く。赤い軍団一色の駅の内装である。そこから映画博物館を目指しました。去年の映画プロデューサーの李鳳宇(リ・ボンウ)氏が作ったNHKドキュメントの「韓流シネマ 抵抗の軌跡」のなかで紹介されていた博物館である。ところが一台目拾ったタクシーは『知らない』と乗車拒否され、二代目はそれらしきところを行ったり来たり。タクシーが『多分ここだ』というところにおろされ、ビルの受付に聞いたがやはり『知らないわ』。やっと 博物館を見つけました。しかし、結果テレビで見た通りわりと充実しています。これからいかれる方は、観光案内所で行き方だけでなく、住所とビルの名前もメモしておいてもらったほうがいいと思う。現存する最古のサイレントムービー「青春の十字路」の説明や最古のトーキー映画「春香伝」、60年代でルネサンスを迎え、(経費節約で作った怪獣映画「ヨンカリ」67)90年代のニューウェーブ、現在の観客一千万時代まで日本語無料ガイド機があって一時間ほどで説明してくれます。最新の映画情報も取り入れています。(「ムグエル」の怪獣全体模型もありました。)1940年代の35ミリフィルムの撮影機。軽くサンドイッチで昼食を済ませて街中に戻ります。 突然思い付いて鐘路3街(チョンノサンガ)で降りて、郵便局に行って年賀状の返しをしました。4人に送って1400ウオン。日本より相当安い。いつも思うのだが、小包だけでなく私のような普通郵便もここで出すので、人でごった返しています。私は18人待ちでした。韓国は商品流通にしてもそうですが、もっと流通を効率化したら、発展すると思うのですが。久しぶりにブタゴル公園に入りました。さすがに今日は人気がありません。雪の公園、この景色も貴重です。(いつもはおじいちゃん用に弁当が配られるので、囲碁に興じる人や踊る人でごった返しています)此処は3.1独立運動発祥の地です。雪の中でそのレリーフを見ました。全部で八枚ほどありますが、韓国のジャンヌダルく16歳の女高生柳寛順が日本の官権に捕まるところです。この公園のすぐそばで宿を決めました。昨日で懲りたので普通のモーテルにしました。そのあとウンヒョンオンに行く。明日行く予定の景福宮に住んでいた明成皇后(閔妃)の一番のライバル大院君の私邸である。景福宮より思ったより近い。歩いて30分近くか。1882年、大院君が失脚していたときに兵士の反乱が起き、明成皇后が一時期生死不明になる事件が起きますが、兵士が大院君のこの私邸に押しかけ、協力を求める歴史の場所でもあります。明成皇后と大院君は何度も失脚と復活を繰り返しながら、日本の韓国併合の前史を生きて行くのです。ちょうど角田房子の『閔妃暗殺』を三分の二ほど読んでいたのです。朝鮮王朝と同じような王宮の権力争いをしながら、お互いに大国の中で外国情勢を見誤っていたところがあるように感じました。もちろん、外国の王族を殺害した(1895年)当時の明治政府は言語道断ですし、これがそのまま1904年の日露戦争、1910年の日韓併合の契機になることを考えると、日本の役割の責任は重大です。安国駅近くの素心というところで野菜定食を食べる。副食15品のメインなしの定食というイメージ。少し高いが、場所代金なのだろう。一つ一つの小皿はおいしゅうございました。団成社(タンソサ)というソウル最古の映画館に行く。といってもしっかりシネコン施設にはなっていたが、写真は玄関前のオブジェ。せっかくなので、永豊文庫で韓国全土の地図を買う。けれどもソウル有数の本屋なのに地図が極端に少ない。せめて韓国の南に特化した詳細な地図がほしかったし、出来ることならば、遺跡の位置を大体網羅した地図がほしかったのだが、いわゆる日本ではどんな本屋でも50種類はあるはずのドライブ地図が8種類ぐらいしかなかった。軍事上の秘密はまだあるのか?まだ独裁政治時代の名残があるのか?簡単な地図を買う。コミックはすごい数があるが、日本の「ワンピース」などが一番山積みされていたり、日本マンガの影響は絶大である。「1Q84」が小説の売り上げ一位だった。焼き肉屋でプルコギを頼みました。肉なのに、一人食事を断らないなあ、と思っていたら焼肉系じゃなくてやっぱりお汁系。美味しかったが、ちょっと残念。一人旅だと食べることの出来る食事が限られてしまう。1,000W(古宮博物館)5,000(菊花茶)1,000(肉まん)74,000(タクシー)18,000W(映画館博物館土産)6000(サンドイッチ)1,400(切手)12,000(野菜定食)21500(本)10,000(プルコキ焼ちゅう)80000(宿2日分)26033歩
2010年01月10日
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韓国の旅から帰ってきました。今回の旅は、去年のそれと比べると大きな出会いは少なかったし、行動範囲はソウル市内に限られていたし、遺跡もほとんど行くことができなかったりして、あまり報告することは無いかもしれませんが、それでも素晴らしい出会いと面白い発見、初めての美味しい食事がありました。簡単にレポートしてみたいと思います。前回までの旅の記録は左の韓国カテゴリーを参照してください。例によってときどき連載が飛ぶと思いますが、そのときも左の「韓国旅行(09~)」カテゴリーを参照してください。1日目 1月4日(月)旅が始まりました。久しぶりの飛行機旅行です。途中鳥取大山が綺麗に見えました。古代半島からやっ来た人びとはこのやまを目指して来たのは間違いないでしょう。機内食はからからに乾いた寿司です。韓国の寿司は基本的に信用しない方がいいでしょう。機内にペドゥナそっくりのアテンダントがいたのですが、声かけらず終い。ここまではルンルン旅行気分でした。韓国につきました。真っ白です。ここまでとは思いませんでした。滑らない靴が必要かも。空港でバスを一時間も待たされました。バス内のニュースを見ると正真正銘41年ぶりの大雪だそうです。参りました。本来ソウルは大陸性気候で(雨は降るけど)雪は降らないということで安心していたのです。大きく予定を変更して、室内観光を考えた方がよさそうです。とりあえず宿は高からず、安からず、安国ゲストハウスにしようと探してみるとやっぱり迷って近くの画廊で尋ねました。するとご主人は迷うことなく直ぐ宿に電話してくれる。こうした親切に出逢いたくて何度も韓国に来ているのかも。ゲストハウスはツインしか空いてなくて七万ウオン。本格的な韓屋のテレビのない宿でした。宿の主人は、スターバックスの女主人に電話してそこで待ち合わせて女主人が宿まで案内してくれました。そういうことに慣れているのかもしれません。私がツインの部屋にとまるのが当然のように言います。こういうとき「部屋が高いのでやっぱりここの宿泊はやめます」というのが「大人気ない」と思って言い出せません。でもおそらくこういうのは韓国の人の感覚なのではないのだろう、と後で思い至るのでした。4時に遅い昼食。ナクチトッパブ。タコのイタ飯です。キムチはやっぱり本場の味です。韓国のキムチじゃないとなぜかこの味に出会えません。韓国の「水」というのはやはりあるのかもしれません。南大門市場で防寒具を買うことにしました。今回は「貧乏旅行」がテーマではないので、買い物に制限は設けません。むしろ、韓国の「物価」がテーマになるかもしれません。眼鏡屋で初めての眼鏡を買って見る。プラスチックの軽いフレームで、私はレンズの質はよく知らないが、最低ではないのを入れてもらう。約1時間で出来上がり。十万ウオン(8500円)。慣れ用の眼鏡です。眼鏡が出来る間に「雪に滑らなくてぬれない」靴をゲット(結局この靴は半日はいて足が痛くなったために荷物になることもあり捨てました)。店を出たところで皮の衣料品店につかまる。このカンガルーの皮の手袋、最初250000ウオンだったのを150000に、65000、最終的に50000(4300円)まで値切ったのだが、なんかまだ騙されている気がするのです。(皮であることは確か)ロッテホテルの映画館に行ってみる。韓国映画は一つのみなので「チョンウチ」にする。時空を超えたファンタジー?さすがにさっぱり。つまらない映画デイした。イムスジョンに会えたことだけが救いです。実は次の日にソウル最古の映画館タンソンサに行ってみるなんと、5スクリーンのうち1スクリーンしか韓国映画をしていなくて、その1つが昨日の「チョンウチ」という上映数の貧しさ。あとは全てハリウッド映画。今回ほかの映画館もほぼ同じ。昨年釜山は韓国映画は2つだった。韓国映画の衰退が心配だ。10,000万都市ソウルは10時を過ぎるほ人通りはバタリと少なくなります。宿の周りの古い通りはなぜかコンビニがまったくない。個人経営の売店が開いています。コンビニ反対運動があったのかもしれません。マッコリと定番の茹で卵と豆を買って宿でこの日記を書くのでした。 34,000円(往復飛行機代諸経費込み)9,000W(バス代)70000W(宿代)7000w(昼食)10,000W(キョトンカードチャージ)100,000W(メガネ)24,000W(靴代)50,000W(手袋)8,000W(映画)7,000W(映画つまみジュース)3,600W(マッコリとつまみ)
2010年01月09日
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5日目 1月6日(火) 朝、テレビでキム・ギドクの「弓」をしていた。昨日見た「露花店」にしても王と護衛騎士長は、文武両道に秀で武術、絵、音楽共に一流であることが強調されていた。この「弓」でも老人は人を射る弓(縦の動き)と弦を引く弓(横の動き)をひとつの弓の中に体現していた。自分は世捨て人ではあるが精神は高貴なのだということの主張でもあるし、その表現なのだろう。そして縦と横が渾然一体となったあとに女の子は眠り、老人は海に沈む、と同時に主人公の女の子を女にする。まるで神話の世界である。思うにキム・ギドクの中でもベスト3にはいる傑作だろう。 チャガルチ市場の横の乾物市場は開発が遅れたために日本家屋が残っていると「地球の歩き方」に書いてあった。行ってみる。わずかに残っている屋根瓦はすべてビニールに覆われていた。当然半世紀以上も日本の屋根かわらが台風の直撃に合うこの地方で残っているはずもないのである。 朝食は近くの店でヤジンタン(羊脂湯)を食べる。羊の肉の味はソルロンタンと同じ。 そのあと、前回は月曜日のため休館日で見ることができなかった釜山近代歴史博物館に行く。資料展示によると、1876年開港以来、「日本政府は朝鮮侵略の橋頭堡として(釜山に)基盤施設を備えた近代都市を築いてきた」と書いていた。この歴史館の前身東洋拓殖株式会社は「日帝が朝鮮経済を支配する目的に1908年設立した国策会社である」とのこと。写真は「釜山日本人村と韓国人居住地」この二つは明確に分かれていた。 港の見取り図(明治14年製作)を見ると、釜山タワーの周りは日本人の苗字だらけである。私の泊まったアロマホテルのところには小林さんが住んでいたらしい。写真は「満州国と朝鮮と台湾が一枚の地図に入っている」ので紹介。この三国は当時の日本人の頭の中では、既に自国(植民地)なのである。 一方びっくりしたのは、アメリカのことをしっかり「同盟関係」と位置づけ、「1980年以後、韓米関係を再定義しようと求める声が各層から続いておきている」と書かれていることである。日本を「日帝」と書いているのとは大違いいである。キムさんやH氏が、アメリカべったりのイ・ミョンバクを嫌っているが分かるような気がする。今日はお土産デーだ。(自分で勝手に決めた)結局25万Wを使った。特にDVDを10タイトル以上買う。日本の基準に合わないのが多かったので「ブラザーフッド」やら「パイラン」などは買えなかったが、「韓国博物館全集」を買った。昼食はいつもの蜆定食の隣の路地を少し上がったところ、「朱家」の鮮魚定食を食べる。でもあじは蜆定食のほうがおいしかった。 ビートルの波は1M。快適だった。当たり外れのあるビートル。次はどうすべきか。日本に帰って先ず食べたのは、やはり日本の博多ラーメン。今回の旅、行きの換金率は10万円→140万W、帰りは130万w→10万円だった。日本での交通費は約4.5万円、韓国内ではいろいろと買い物をして86万W(約6万円くらい)使ったと思う。そのうち純粋旅行費用は40万Wくらい。今まで最高に安い韓国旅行だった。ちょっとした移動はすべてタクシーを使ったのも特徴である。 架け橋で出会ったH氏は「大統領はわざとウオン安を演出しています。韓国の輸出関連企業を守るためです。」と言っていた。可能性はあるだろう。韓国経済の持ち直しが日本よりも早くささやかれている。結局犠牲になるのはその下で働かされている労働者なのであった。 今回の旅は初めて韓国の人と突っ込んだ話ができた。これは私の会話能力が高くなったせいではない。ずうずうしくなること、それを体現したからである。7,500(朝食ヤジンタン)25,000(お土産カバン)65,000(お土産ベルト三本)97,000(お土産DVD)35,000(コンビニでお土産を買う)15,000(お土産帽子)5,000(昼食)2,200(タクシー)1,820(港使用料、燃油サーチャージ)40,000(港でお土産)220円(博多のバス代)880円(夕食博多ラーメン)12000円(新幹線代)340円(バス代)
2009年06月08日
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そのあとは予定とおり(?)労働組合の見学に行く。新吉(シンギョル)駅からタクシーで全国民主労働組合連合会(みたいなもの)の本部ビルへ。それらしき街宣車もあります。2Fの事務所に行くと、人がいない。男の人から4Fに行け、と言われて素直にいく。そこはどうやら全国教職員組合の事務所のようだった。ままよ、とハンギョレのように言うと、日本のどこかで会ったかのようなタイプの女性がやってきて対応してくれた。「なぜ来たのか」「何を聞きたいのか」これを何度も聞いてくる。「辞書を見ながらゆっくり話してくれていいから」と親切に言ってもくれる。実を言うと、本当に労働組合に行って事務所を見るということ、パンフをもらう、それしか考えていなかったので、そういう突っ込んだ質問を聞けといわれても言葉が出なかったのである。つくづく会話力のなさを恨んだ私でした。今から考えると相当失礼な話なのであるし、「組織率は?」とか「ワーキングプアはいるのか」とか聞きようがあったかと思うのであるが、そのときは「まずいことになった、早く切り上げなくちゃ」というほうが先にたって「ただパンフがほしいだけなんです」としかいえなかった私でした。これを理解してもらうだけでも、30分くらいかかったのである。対応の女性は不可解極まりないという顔をしていた。わざわざ日本からやってきて、何の目的もなくやってくることがあるだろうか、と思っていたようだ。私はこの女性に既視感があったのだが、途中で思い出した。高校の女先生なのでした。親切で真面目でしかも細かいのである。ごめんなさい。迷惑な旅行者で!チェソンハムニダ!!いろいろと労組の歴史やら説明をしているパンフをくれた。なんと英文である。労組を説明するパンフとして日本語は需要はないが、米軍とか英語教師とか、その他欧米人教師とか、英語は需要があるのだろう。帰り際に「これを食べなさい」とアルミのうち袋の紙袋から熱々の手つくりケーキを取り出した。どうやら事務所の人たちのおやつか昼食用においてあるのだろう、たくさんあった。ふたつ、手渡してくれたが、そんなにもとても食べれない。ひとつだけもらう。暖かいうちに食べようと思い、帰りの電車の中で食べたのだが、これがもちもち感と豆が良く合って美味 !本当にご迷惑かけました。ありがとうございました。ソウル駅に戻る。昼にじっくり見たのは久しぶり。今はこの旧駅庁舎は使われてはいない。たしか東京駅を設計したひとの弟子が設計したとかで、貴重な歴史遺産なので何とかして保存してほしいものである。ソウル駅構内に一年半前に来たときと同じように、労組(?)の抗議テントが張られていた。どうしてこんなことが可能なのか。撤去されないのか。全く不思議だ。新駅でFTXの釜山行きを買う。14:10に窓口に行くと、14:40発、17:37着の切符が買えた。FTXの三時間の半分以上はビールを飲みながら寝ていた。まったく揺れないので、疲れを取るにはいいかもしれない。釜山駅から南浦までタクシーで行く。一年半前工事中だった釜山南浦の光復路はすっかり出来上がっていて、冬の光の飾り付けで綺麗になっていた。釜山の宿は迷ったけど、探すのもめんどくさいのでいつものアロマホテル。今回はインターネットがついていないので、ミストシャワーがついている。夕食は映画館のすぐ隣でテジクッパ(豚汁)を食べる。もちろん釜山に来た以上は映画を見に行かなくちゃ。時代劇が派手でいいやと思って「サンファチョブ(露花店)」を観る。二枚目俳優で人気を二分するチョ・インソン、ジョ・チンモそれと「朱蒙」で薄倖の后の役をしたソン・ジヒョが出演。歴史物語と思いきや、三角関係の話でした。しかも、男色が絡むしかも濃厚ベッドシーンありの映画でした。日本ではいまだかって一般映画であそこまでの男色ベッドシーンはないので、もしかしたらそれを「売り」にしたら日本公開はあるかもしれません。もちろんそれだけの映画ではなく、真面目な映画ですが、傑作ではありません。(と、思います。台詞は分からなかったので感動的なシーンを見逃している可能性はあります)そのあと、クリスビークリームドーナツ店でコーヒーを飲みました。こんなドーナツを売っていました。日本でもこういう遊び心がほしいものです。6,500(朝食) 198,000(電子辞書) 8,000(タクシー) 4,000(白飯) 6,700(間食)47,900(ソウル-釜山) 10,000(みやげ) 2,000(タクシー) 6,500(映画)5,500(テジクッパ) 4,300(コーヒー) 40,000(アロマホテル)
2009年05月10日
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久し振りに今年1月2日より韓国を旅をした旅行記を再開します。前回3日目の続きです。4日目 1月5日(月)朝7時から映画「チング」をしていて、つい最後まで見てしまう。韓国のケーブルテレビはいつも早朝に韓国映画の名作をしていて、いつもついつい見てしまって出発時間が遅れるのである。「チング」は釜山を舞台に、70年代の体罰当たり前の高校生活、80年代の民主化、90年初めの経済発展などを遠景に配し、友への思い、裏切り、を同時に映す。この相克が韓国なのである。 新大元旅館をチェックアウトしてスターバックスでサンドイッチを食べる。その場で温めてくれるところが韓国なのである。教保文庫で念願の電子辞書を買う。198000w。(14000円)日本の水準価格(韓国語版は高いのである)37000円と比べると、非常に安く買えた。ウオン安の韓国、ブランド品には見向きもしないがこういうのは買うのである。帰ってきて実際使ってみると、日韓辞典の語彙数があまりにも少ない。その代わり異様にほかの辞書機能がある機種でした。韓国には大型電気店はないし、ここで買うしかなかったとはいえ、種類がなかったとはいえ、やはり失敗しました。孔徳(コンドク)駅からタクシーでハンギョレ新聞社に行く。ほかの新聞社が都会の一等地にあるのに比べて、ここはいかにも下町で労働者の町なのだ。勇気を持って事務所に寄る。「日本から来ました。見学をしたいです。この「たたかう新聞 ハンギョレの12年」を見てきました。」と伝える。受付の事務所の人たちは突然の闖入者にいやな顔もせずに招き入れてくれてお茶をご馳走してくれた。そして「パンフレットがほしい」と言うと、写真にあるようなたくさんの資料をくれたのである。会長の誕生記念冊子のようなどうでもいいようなものもあるが、20周年記念冊子、特製メモ帳、そしてなんと1987年の創刊号の(たぶん)復刻版をくれたのである。ムロン無料イムニダ。帰り際、「ファイティン!(がんばって!)」と言うと、「ファイティン!」と返してくれた。実はもらった資料をまだ読むことができていない。ハンギョレ創刊号はなかなか見ることができない貴重なものだろうと思う。このシリーズが終わった暁には、そのいくつかを大写真で載せたい。このブログ読者で何人かいるだろう韓国語が分かる人に対するせめてものプレゼントである。昼食は予定を変えてこの新聞社のすぐ近くの食堂で食べることにした。きっと新聞社の人も食べにくると思う。本当に下町の食堂なのだ。ちょうど12時過ぎで、作業服の労働者でいっぱいである。彼らの食べているものがほしいと思い「白飯(定食)!」というと出してくれた。
2009年05月09日
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そのあと新村(シンチョン)に行く。日韓交流喫茶店KAKEHASHIを訪ねる。行くとちょうど常連のメンバーが「春香伝」の説明文をテキストに日韓で教え合いをしているところだった。よく分らないまま参加させてもらった。隣の日本人の若い女性は韓国に語学留学に来ている方、前の二人は韓国の専門学生、銀行員、アルバイターで思ったよりは学生は少なかった。みんな思った以上に日本語が達者で何とかついていけた。誘われてそのあとの二次会にもついていく。日韓交流喫茶店「架け橋」二階にある。 posted by (C)くまブタの焼き肉屋で食べて飲んで(焼酎二本は開けたと思う)、冷麺まで食べて一人一万ウオン(700円)ですんでしまった。学生街の焼き肉屋とはいえ、安いところは本当に安い。ブタの焼肉。新しい鎮露の焼酎「J」が甘くて飲みやすくて絶品でした posted by (C)くまそのサークルの幹事をしているH氏になぜか気に入られて、いろいろと話すことが出来たのは今日の一番の収穫だった。H氏は34歳。日本語はぺらぺら。以前はロッテデパートで掃除のパートをしていて、1日5時間はたらいて月50万Wにしかならなかったそうだ。生活できないし、正規は非正規を見下す。それが堪らなくイヤで辞めたらしい。介護職をしながら勉強し、今は上の介護試験を受けるために失業中らしい。「韓国も大変です」と彼は言う。「私の妹はソウル大学(韓国の大学では日本の東大級)を出たのに、いまだに正社員になれなくて三回も職を変わっています」日本の院生のワーキングプアと状況は似ている。聞くと、どうやら韓国には派遣社員という制度はないらしい。契約社員というのはある。直雇用である。けれどもリストラはし放題のようだ。日本の労基法とどう違うのか、聞いてみたがさすがに詳しいところまでは分らない。こんな感じで二次会でした posted by (C)くま「サービス残業は違法ですか」私は聞く。「違法です。でもみんなやっています。」「日本と同じですね。有給休暇はありますか?」「あります。半年勤めたら3日くらいつきます。」「日本は一年で10日です」「それは多いですね」「でもみんなそんなことは知らない。有給が無いものと思っている。」突然H氏は「日本の首相が小沢一郎になれば、日本の政治は変わりますか?」と聞いてきた。「変わりません」私は即座に答える。「私もそう思います。小沢も麻生も財閥のことしか考えないということでは一緒です。」よく分っているじゃないか!韓国には四つの財閥があって、それが諸悪の根源だと彼は言う。現代(ヒョンデ)、三星(サムスン)、ロッテ、LG(?不正確)。たとえば、韓国の流通がどうしてもっと効率よくならないのか私はずっと不思議だった。日本のようなスーパー(Eマート等)は最近こそ出てきたが、まだまだ少ないし、本屋、電気、服の専門店は郊外に大型を作って安く供給できそうなのに、なぜか店は大都市に集中している。よって電気製品などは非常に品揃えが悪くしかも高いのである。今回の旅で電子辞書を買うためにいろいろと物色したが、全く少なかった。結局本屋で買った。キムさんやH氏に聞くと、インターネットで買うという。何故こうなるのか。H氏の説明はこうである。「それはロッテがじゃまをしているのです。百貨店を守りたいのです」そういうことが可能なのか。しかし、それでやっと納得がいった。財閥の弊害はひどい。そこを改革すれば韓国の経済はもっとよくなるのに、と素人考えで私は思う。冷麺。見た目はあれですが、しっかりコシのある麺でした posted by (C)くまH氏は言う。「日本は人気が無くなったら首相が変わりますね。それは羨ましい。韓国では一度大統領が決まったら5年我慢しなくてはならない。李明博になって韓国はガラリと変わってしまった。米国寄り、日本寄りになった。オバマになってどうなるのか、それが気がかりです」つまり韓国のリベラルはこのように政府を批判するのである。非常に勉強になった。当然彼ら兄妹はBSE反対ロウソクデモには何回も参加したらしい。私は一応日本の状況を説明する。「日本では確かに人気が無くなったら首相が交代しますが、それで政治の中味が変わるわけではない。そういう意味では直接大統領を選べるあなたたちが羨ましい。」「そうですね。わたしたちの国では財閥である麻生が大統領になることは絶対にありえません。どうして日本の政治家は、政治家の息子というだけでそのまま政治家になれるのですか?」(地盤、看板とかふと頭をよぎったが、本質的なことは説明できる自信が無かったので)「私も理解できません」と言って茶を濁したのでした。いい夜だった。6,500(ソルロンタン)500(屋台)4,100(タクシー)3,000(セット場)1,000(ワッフル)9,000(どじょう汁)4,000(コーヒー)10,000(焼き肉屋)29,000(宿代)
2009年02月01日
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三日目(日) 09.1.4朝、いやな夢を見る。久し振りに見るいやな奴が私に意地悪を始めたのである。けれども途中で夢だと気がつき、興味が出たのか、何度か目が覚めたのだけど結末を見ようとしてまた寝坊をする。8時半。旅の起床時間としては致命的。ソウルでゆっくりすることに決める。新大元旅館の部屋。オンドルである。 posted by (C)くま 朝食は11時。鐘門駅近くの里門ソルロタン。歴史的な建物らしい。(特)を頼んだら少し肉が多いだけだった。ここは付け合せのキムチは各机に常備してある入れものから要るだけ取る方式に変わっていた。残飯ゴミ問題や使いまわし問題が韓国にあってそれへの対策として最近増えてきたらしい。いいことだ。里門ソルロタン posted by (C)くまソルロタン(特)肉は牛の肝。 posted by (C)くまこれが各机にひとつついている。取り放題。 posted by (C)くまそのあと1号線を下って富川ファンタジックスタジオ(野人時代セット場)で映画「ブラザーフッド」「下流人生」やドラマ「ファッション70」「野人時代」のロケセットを見る。富川ファンタジックスタジオ。右隅が入り口。 posted by (C)くま「ブラザーフッド」で使われた電車 posted by (C)くま懐かしい風景が続く posted by (C)くま小さなロケ地の中に40年代から70年代にかけてのソウルの建物が効率よく凝縮されていて、私はとても面白かった。このちんちん電車などは「ブラザーフッド」の冒頭で効果的に使われていました。ムーランルージュの看板 posted by (C)くま富川はいわゆる新興住宅地。家族連れが多い。 posted by (C)くま松舎駅(ソンネ駅)で屋台のおでんを食べた。目の前の野菜てんぷらを食べようとすると、新たに揚げ直してくれる。そういえば帰りに小腹がすいて駅のプラットホームでワッフルを買うとやはり温め直してくれた。これは嬉しいサービスである。おでん屋台。野菜てんぷら。 posted by (C)くまワッフル。甘い餡が入っている。 posted by (C)くま市庁に帰ると、5月にBSE反対ロウソクデモで埋まった広場はスケートリンクに様変わりしていた。ソウル市庁前の特設スケートリンク posted by (C)くま旧庁舎は今は工事中。工事の外壁はよく見るとひとつひとつの写真で構成していた。ソウル市民の心意気がうかがえる。市庁改修工事の外壁 posted by (C)くま外壁に近づくと‥‥‥ posted by (C)くまソウルに来た以上は有名店で食べようと思い、どじょう専門店「湧金屋(ヨングンオク)」を探す。探し回ってやっと見つけて出てきたのがこの料理。湧金屋入り口 posted by (C)くまどじょう汁です。以前光州で食べたのと違い、ここは丸ごとのどじょうが10匹以上はいっている。韓国の扶安から毎日仕入れているらしい。香味コショウを少しだけ入れてください、と注意を受けていたのだが、ビンを傾けたとたんにドカッと入ってしまう。まるごとどじょうには正直閉口していたので「間違ってたくさん入った」と言い訳をして帰ろうとすると、1/3ほど食べていたのにもかかわらず交換してくれた。さすが1934年創業の老舗ではある。あり難いやら、悲しいやら。でも我慢して食べると最後の方では美味しくなった。精はついたのだろうか。よく分らない。どじょう汁 posted by (C)くま次回は韓国の青年と日韓の労働問題、政治問題を縦横に語ります。お楽しみに。
2009年01月31日
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橋を渡りきったところによくある通行止めグッズ posted by (C)くま地下鉄が景福宮駅(チョンボックンギョク)に着くのが思ったより時間がかかり、着いたのが16:35。あと25分で新大元旅館を見つけてチェックインをして、鐘閣(チョンガク)の待ち合わせ場所まで行かなくてはならない。案の定なかなか見つからない。15分をきったところで、向こうからおまわりさんがやってくる。このあたりは大統領府がすぐそこなので、おまわりさんが多いのだ。聞いてもみると、大元旅館の資料を示せという。彼はそれをみてすぐに旅館に電話をしてくれた。『そこをぐるっと回ればいいよ』とのこと。ありました。5分でチェックインを済ませてタクシーで行くと、間に合いました。鐘閣の建物 posted by (C)くま鐘閣まえでキム氏に無事会えました。(彼との出会いはこちらを参照)『お久し振りです』手を握り合う。この二年間まったくメールのやり取りもしなかったのが嘘のよう。テレビでも紹介された有名な居酒屋らしい posted by (C)くま『友たちに聞いて、お勧めの店を聞いてきました。そこに行きますか』相変わらず、日本語は達者である。『カジャ、カジャ!(行く行く!)』行ったところは鐘路(チョンノ)の路地を少し入った居酒屋。これで12000W。代金はキムさんが持ってくれた posted by (C)くまそこでここの名物、豆腐の具入り饅頭みたいなものを頼む。大きい。がんもどきみたいな内容だったけど、しっかり味はついていた。魚卵チゲ。たらの卵みたいなものが入っていました。 posted by (C)くま後日本では食べたことないということで、魚卵鍋を頼んだ。トンカン(?)酒。琥珀色をしていて、綺麗。 posted by (C)くまお酒はトクトク酒といって人参酒(でも実際は人参ではないそうだ)を頼んだ。銘酒だそうです。最初はめざしが入っていたのかと思った。色はブランデーみたいですが、飲むと少し甘い。いくらでも飲めそうですが、20度あるという。キムさんの年齢をこのとき初めて知ったのですが、34歳。この二年は病気療養中だったので、今年から就職活動だそうです。『日本ではリストラで大変なことになっています。韓国はどうですか?』と聞くと、どうもそんな危機感はないようです。非正規労働者が50%を超えていて、いつも就職難の韓国にあっては、もう既に恐慌状態と同じなのかもしれません。ロウソクデモについて聞きました。キムさんも参加したようです。『何故参加したのですか?』と聞くと、熱い答えが返ってきました。『インターネットで色々と調べました。東亜、中央、朝鮮の三紙は前の大統領の時にはBSEは危険だといっていたのに、李明博大統領になってころっと意見を変えました。信用できません。新聞で言えば、左のハンギョレよりもヤンギョンが中道で信用できます。』『ドラマのモレシゲ(「砂時計」)でもそんなことを普通のおばちゃんが言っていたけど、つまりは現代でも、大新聞は信用できないというのは、キムさんたちの常識でもあるんだね』キムさんは否定はしませんでした。私は聞きます。「でも日本では一部の人を除いて、BSEがあんな大きな国民的な反対運動になることはなかった。いったい何処に違いがあるのだろうか?』『ひとつは日本と比べて、輸入部位の中味が違います。韓国の方がいろんなところの部位を輸入する。狂牛病はすぐには発病しない。だから今安全だといわれても全く信用できません。BSEを支持しているのは、40代以上の人たちです。彼らは発病するときには既に死んでいる人が多い。けれども、ぼくたち30台以下には切実な問題なのです』なるほど、中学生から始まって、今回のデモには本当に若者が多かった。そういう輿論ができていたのだ。キムさんはどの組織にも属していません。(おそらく)でもこれだけの意識の高さがある。『一人ひとりが自ら情報を集めて、自ら判断して、行動している。日本であれだけの規模の運動を作るのはできない。凄いです。羨ましいです』私は羨ましいを連発しました。一番旨いというスニネピンデトク posted by (C)くまそのあとカンジャン市場に行きました。お目当ての(食べ始めたら止まらないと言う)『マヤク寿司』は週末ということでお休み。もうひとつのお目当て、ピンデトク(具入り平餅)を食べた。これもここの名物ということだそうだ。確かに熱々の出来立ては美味しかった posted by (C)くまその後長く歩いて、清渓川 (チョンゲチョン)をそぞろ歩く。この川は長らく暗渠化しその上を道路が走っていた。今の大統領がソウル市長だったときに川の復元が実現し、市民の憩いの川になったそうだ。キムさんと色々と世間話をする「日本では正月になると何か特別なことをしますか?」今回私はキムさんへのプレゼントとして、日本の丸餅と豆餅をもって来ていた。デジタルカメラの写真を見せながら、雑煮をはじめとした日本の正月料理の幾つかを既に見せていた。『あのような正月の特別料理も一つですね』『鐘閣では年が変わるときに鐘を突きますが、日本でもつきますか?』『突きますよ。私の家の近くのお寺では、毎年108の鐘を突いています』『韓国では33です」『何故その数字なのですか?』『3.1独立運動を始めたときの指導者の数が33名だったからだという説がありますが、さだかではありません』いかにも韓国ではありそうな数字の決め方ではある。音楽に合わせて光の模様が替わります posted by (C)くまそんな話をしていると、突然、清渓川 冬の特別企画光と音の競演を見ることが出来た。クリスマスまえから旧正月にかけて、毎日しているらしい。派手なパフォーマンスではある。けれども綺麗だった。キムさんとは、名残惜しく其処で別れたのでした。2,400(タクシー)、21,000(普通州→ソウル)、1,700(朝食)、4,000(昼食)、2,000(タクシー)、1,000(入場料)、3,000(みやげ)、20,000(キョトンカード)、4,000(タクシー)、4,000(ピンでトック)、29,000(宿代)
2009年01月16日
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2日目(土) 09.1.3寝坊をした。起きたのが7時前。6時前には起きてソウル行きのバスに乗ろうと思っていたのだが、急いでタクシーを拾って高速ターミナルまで行ったが、7:40発のバスになってしまった。これでソウルに着くのは12時前になる。ソウル行きバスの切符。ほぼ韓国を縦断するのに約1,500円。 posted by (C)くまバスの窓から写しているので見難いが、バスの車窓、至る所、山や畑の斜面、日当たりのいいところに丸い塚の韓国特有のお墓がある。ふと気がついたのであるが、こういう墓があるところは青銅器時代の遺跡があるところと大きく重なっている。もう相当数の遺跡が壊されていると見たほうがいいのだろう。斜面にポコポコあるのがお墓です posted by (C)くまソウルの江南バスセンターについて先ずは地下鉄に乗る。前々回の旅から持っているキョトンカード(日本でのスイカカードみたいなもの)のチャージをする。二万ウオン。これでソウル市内は先ずは地下鉄、バスとも乗り放題になるはず。トンカス定食 posted by (C)くま地下鉄を幾つか乗り換え、先ずは岩寺駅に着く。ここで昼食。急いでいたので適当に入って適当にトンカツ定食にする。やっぱりご飯が少ないのが特徴。トンカツは肉は少し薄めだけど、これが4000ウオン(約280円)なので安い。トマトソースがたっぷりかかっていて、美味しかったです。珍しい木のお箸。冷麺がメニューにあるからか posted by (C)くま韓国の食堂は基本的にすべて金めの箸なのだが、ここには木製の箸も置いてあった。日本人にはこっちの方があっている。(もちろん割り箸は何処にも置いていない)70年代の家。洋風で庭付き。 posted by (C)くまネットで情報を得ていたのだが、映画『マルチェク青春通り』のロケ地に行く。この映画の大部分は群山、金堤、全州など地方で撮影されたが、クォン・サンウやハン・ガインの住んでいるソウルの住宅地を撮る場所はなかなか決まらなかった。ユ・ハ監督のこだわりがあり、「ただ古いだけではなく、当時のソウルが持っていた都会的な雰囲気がなければならない」と言い張ってロケハン・チームの提案に次々とNGを出したらしい。そして、やっと監督のOKが出たのがソウル市カンドン区アムサ洞の古い住宅街。ここはその頃のソウルが感じられるという。ベランダがある posted by (C)くま‥‥‥ということで行って見ました。チョンマル住宅地。川の土手の下、昔の高級住宅地である。すべて二階建ての煉瓦造りの家々。凄いのは、ひとつの家ごとにすべてデザインが違うということである。バルコニーや、庭付きという大まかに共通点もある。車は広い道に止める。みんな車通勤だったんだろうな。70年代、いわゆるエリート層が住んでいたところ。このときは人影は全くなかった。縄文土器そっくりの土器を作る posted by (C)くま岩寺(アムサ)先史遺跡はそこから歩いて10分ぐらいのところにある。ソウル最大の先史住居跡が見つかったらしい。模様はいたってシンプル。しかしこれは大きい。 posted by (C)くまわりと充実した展示物だった。つくづく櫛目文土器は日本の縄文土器にそっくりだ。しかし日本の火焔土器のような複雑な模様をつけたのはひとつもない。あれは純粋に日本列島のみの『流行』だったのである。古代住居の復元 posted by (C)くま寒い地域だからか、住居はわら(?)ですっかりかぶさるように作られている。非常に高度な文明だと思うのだが、汚い原始人の格好をさせている。 posted by (C)くま子供たちが集団学習で来ていた。中の住人は原始人の格好をしているが、稲作も始めている弥生人の技術を持っているのではある。百済の町は城郭都市であったことが分る posted by (C)くまあと、ひとつ向こうの駅で降りて、百済時代の城の外壁を復元しているのを見た後、そのまま漢江(ハンガン)を歩いて渡った。広い海のような漢江(ハンガン) posted by (C)くま海のようだった。日本にも大きい川は多いが、ここまで水の量が多い川を私は知らない。なみなみと流れている。歩いて渡るのに15分くらいかかった。
2009年01月15日
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寺の事務所から出てきた安倍なつみ似の彼女は、観光地図を見せながら『ここに行きたいのですが』と言うと、すぐ理解してくれて『チッャカンマンキダリセヨ(ちょっと待ってね)』と奥に入った。 電話で寺の責任者らしき人に色々聞いている。観光地図もあるし、地元だし、すぐに分ると思いきや、出てきた答えは『見ることはできない。地図も道が複雑なので書けない。どうやって行っていいか教えられない』というものだった。私が困ったようにしていると『ごめんなさい』と本当に悪そうな顔をする。私は『大丈夫、大丈夫。私は行ってみます』と探すことにした。裏の山にあるのは確かなのだから、どこかに道はあるはずだ。P1020069 posted by (C)くま住宅密集地を登っていく。坂道を登っていくと、2-3回とも民家に突き当たる。おばあちゃんが不審者を見つけたように出てきた。『古墳知っていますか』そう聞くと驚く。そうなのだ、たとえ目の前にあっても、普通日本でも、地元の人は古墳の位置なんて知らない。私は半分諦めかけていたけど、小山をぐるっと回ったころ、オバサンに聞いてみた。『古墳知っていますか』『ああ、チョギヨ。(あそこだよ)ちょっとそこまで行けばあるよ』ああ、なんて簡単に答えることか。オバサンは「日本人がこんな辺鄙なところまで来て古墳を探すなんて物好きだねえ」というような顔をしていた。そこはまったくの畑道であった。確かにあのお寺の彼女の説明では難しかっただろう。玉峰古墳頂上の蓋石 posted by (C)くまけれども、道なき道をあがっていくと素晴らしかった。古墳の回りは柵で囲っている。地域放送用の塔が立つ。 posted by (C)くま古墳は柵の中に小さな盛り上がりに石の蓋(石棺?)が置いてあるだけのものであった。古墳より市場方面を望む。見晴らしは抜群。 posted by (C)くまけれども、なんとこの丘から普州の町が360度見渡すことが出来るのである。伽耶の時代、ここを墓を選んだのはおそらく最盛期の唯一の王だったに違いない。玉峰古墳の大型器台 posted by (C)くま国立博物館では、この古墳出土の伽耶時代特有の特殊器台が展示されてあった。ウンヨル寺。6時を回っていたので門は既に閉められ‥‥‥。 posted by (C)くま夕闇に包まれていいものを見させてもらった。元に戻ってお寺の彼女にお礼をしに行った。(というのは口実でまた可愛い彼女に会いに行きたかったから)ところが、お寺の門は既に閉めらていた。残念だ。非常に残念だ。 そのあと、父の形見の腕時計のベルトが壊れていたので、中央市場で修理か交換を頼もうと時計屋を幾つか回る。みんな無理だという。けれどもここへ行けと教えてくれた。メモには『ナイキ』とかいている。てっきりナイキという名の時計屋かと思い、大通りを探すが見つからない。ブランドのナイキの店はあった。行ったり来たりしたあと、ふとその横の細道を見ると、小さい時計屋があった。時計屋のおじさんは気楽に請け負ってくれて、すぐにベルトを治してくれた。『サービスだよ』といってくれる。なるほど、こういうのが市場のいいところだ。どの店が何が得意かを知っていて、教えあうことが出来る。量販店にはできないことである。今度はこの店を教えてくれた時計屋にはお礼をしに行った。お店のオバサンはなんでもない、というように少し顔を動かしたただけであった。ハイツモーテル。冷蔵庫にはヤクルト二つ。 posted by (C)くまハイツモーテルというところに泊まる。3万ウォン。バスタブもあるし、まあOKだろう。少し女の子趣味の部屋だった。ユッケビビンバ。野菜が美味しい。 posted by (C)くま夕食は普州で最古の食堂チョナンシッタン(80余年の歴史、三代目)で、名物のユッケビビンバを食べる。チョナンシッタンの木枠の窓。バネでドアを閉める仕掛けを作っているのに注意。 posted by (C)くま店の造りは懐かしい木の机に、大型ストーブ、木枠の窓の向こうでは作っているところが見える。このまま映画のセットに使える。味はあまり辛くなく、素朴な味わい。四角い茶色いのが血のにごり。 posted by (C)くまだけど副菜に牛の血のにごりを入れたスープがついて来た。血の一滴も無駄にしない牧畜民族らしい料理だ。美味しかった。340円(バス代)450円(夕食)6900円(倉敷-博多)220円(バス代)25500円(往復船代、燃油チャージ、港使用料)以後、ウオン。変換率10万円→140万ウオン。1,100(地下鉄)7,000(釜山~普州)6,000(昼食)1,000(城跡入場料)3,600(タクシー)30,000(宿代)6,000(夕食)6,000(雑誌)2,500(夜食)
2009年01月09日
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承前あるいは1日目 09.1月1日より2日この日の特徴を一言で表すと「天気晴朗なれど波高し」でも結果よければすべてよし。激動の一日からこの旅は始まりました。一月一日の深夜、倉敷駅より10時45分初の高速バスに乗る。久し振りの寒い夜。車掌が『山口から雪のために通行止めになっています。予定通り到着しないかもしれません』ゲッ、まさかこの程度の雪で高速が通行止めになるのか?明日の朝のビートルに間に合わなかった場合のことをあれこれと考えていると、良く眠れなかった。朝3:30、壇ノ浦サービスエリアに着いたときに雪は全然積もっていない。何のことはない。予定通り到着。博多の国際ターミナルでビートルの搭乗手続き。『今日の波の高さは?』『2.5mです』『ゲッ』ずっと前にビートルに乗ったとき3mの波で二回戻した事がある。案内カウンターで『酔いとめ薬を売っているところはありませんか』『薬屋はありませんが、受付でもらえますよ』朝食のために用意していたパンは食べずに備える。地獄の船、ビートル posted by (C)くま結果は惨いものだった。三回戻した。やはり眠っていなかったのがよくなかった。地獄の三時間を耐える。釜山についてそのままソウルに行くことも考えた。けれども少し体力が戻ったので、とりあえず最初の予定地普州(チンジュ)へ。釜山西部バスターミナルを13:37分に出発。普州で観光して光州にとまる予定であったが、なんと韓国のバスで初めて酔ってしまう。とても光州まで行く気力はない。予定を変えて普州に宿泊、明日はまっすぐソウルに行くことにする。そう思ったら気が楽になった。バスが終わりに近づいたときに通路を隔てた隣の若い女性に『ここは普州ですよね。市外バスターミナルに行くのですか』(普州には市外と高速二つのバスターミナルがある)と聞いてみた。とっつきにくいような顔をしていた女性は、私が日本人だと分ると色々と聞いてきた。彼女は全く日本語はできないけれども、『わたしは二回日本に行きました。東京、奈良、京都‥‥‥』等のたわいない話をしばらく愉しむ。話をすると一遍に酔いが覚めた。これだったらもっと早く話かけるべきだった。普州のチャンオタン(うなぎ湯)ご飯を入れていただきます posted by (C)くま15:10に市外バスターミナルに着くと、すぐに普州城跡まで歩いていって、近くの食堂で遅い昼食。胃が荒れているので、うなぎのお粥にした。秀吉軍の武将を抱えて海に飛び込んだ勇ましい女性が英雄 posted by (C)くま秀吉軍との戦い posted by (C)くま城跡はたいしたことなかった。朝鮮出兵のときの古戦場らしいがすべての施設は復元である。一回目は秀吉軍との戦いで勝ったらしい。中の国立普州博物館にはそのときの図が残っている。約3000年前の土器。土の色がやわらかい posted by (C)くまそのほか、2000年、3000年前のあるいは4Cごろの遺物も展示されていた。韓国の何処にでもいる国民的な?鳥 カチ。 posted by (C)くま観光案内所に聞いて、伽耶時代の玉峰古墳(オクブンコブンクン)を見に行く。地図ではウンヨルサというお寺のすぐ裏なのだが、道行く人に訪ねてもわからない。お寺の事務所に聞きに行く。可愛い女性が出てきた(^^) 続く
2009年01月08日
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先ほど韓国から帰ってきました。今年は幾つか予定していたコースを急遽取りやめて、主にソウルでいろんな人に合ってきました。二年前の旅行のときにアンドン(安東)で一緒になったキムさんや、日韓交流喫茶店のH氏、あるいは旅先で出会った可愛い女の子「たち」、あるいはハンギョレ新聞社や労働組合で働いている方たち‥‥‥。今までと大きく違った旅になりました。また例のごとく、おいおいと報告していきます。日本に帰ると、政治はさすがにほとんど変わっていませんが、派遣村の運動は政府をも動かしたみたいで、祝着です。
2009年01月06日
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1月2日からの韓国に行くための準備を昨日の日曜日少ししていた。もう9回か10回目だというのに、会話はまだ初級程度という体たらくではある。韓国ではたった4泊しかできない。けれども、またもや西回りで釜山から光州、扶余、太田、ソウルと回りたいなあなど考えている。どうやら半日ほどタクシーで行くしかないという松菊里遺跡とか太田やソウルの青銅器時代の貝塚やらを考えている。日本の場合を想像してほしいのだがそういうところは絶対地元の人もあんまり知っていない、だから言葉ができない、地図さえない、で果たしていけるのかどうかは行ってみないとわからない。ケンチャナヨ、の精神で行くしかない。あるいはハンギョレの本社を見てきたいと思っている。これは場所は特定できた。孔徳駅のすぐ近くだそうだ。HPの中を行ったり来たりしながら、やっと地図を見つけた。黒田福美の「ソウルの達人」を買って、いくつか食べたいおいしい店をチェックしたり、交流のためのサロンや喫茶店(「まるみそ」「架け橋」)をチェックしたりした。ところが事前にメールを出しておこうと、そこに書いているアドレスにアクセスすると、両方ともそのアドレスは売りに出されています、となっている。つぶれたのだろうか。2003年の出版なので、古い情報ではあるのだが、なんともさびしい。一応行ってみようとは思う。事前にいろいろと調べると、やはりソウルの情報が一番多い。二泊ぐらいしたほうがいいのだろうか。でも無理だ。そうなると、一日目は晋州を見学、光州に泊まって次の日に和順の世界遺産支石墓を見て、その足で扶余に行って二泊目。朝に松菊里を見てソウルに直行、一日半ゆっくりとみて、四泊目は遅くに釜山に行く、というのが考えられるが(太田の貝塚、扶余の貝塚はあきらめるか)、やはり晋州か和順をあきらめたほうがいいのだろうか、迷う。前のように22日あるいは8日かけてゆっくりと回っていたころが懐かしい。なんか、此の記事を見てそれならこんな所を一方がいいよとか、それはやめておきなさいとか、の情報があればお知らせください。そんなこんなで、来年年始めは「連歌」の取り組みはありません。ご了承ください。
2008年12月29日
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