全911件 (911件中 901-911件目)
ビナードさんを初めて知った。まだ若い。1967年生まれ。来日して以降日本語で詩作をしている、という。しかもイケメンだ。岡山は今度、憲法記念日にこの人を呼ぶ。 「泥沼はどこだ」小森陽一 アーサー・ビナード かもがわ出版 「仮に」思い描いたことを「確実」とみなした上で、もう考えないようにするのが、世の中の「想定」のパターンだ。それはつまり、思考停止への第一歩ではないのか。一方、「想像」はそんな風に区切ることは出来ない。何処まで広がっていけるか、イマジネーションの持ち主もわからずに広げていき、そして文学作品に仕上げれば、その「想像」の作業は時代を超えて、続く可能性もある。(略)せっかく生きているのだから、「想定内」の一生で終わりたくない。(「泥沼はどこだ」前書き、アーサー・ビナード)(2p) 副題は「言葉を疑い、言葉でたたかう」。去年の5月13日の対談は当然原発問題についてであるが、その事の意味が最も分かるモノになっている。 小森 原発問題がなぜ核兵器廃絶のように受け止められなかったかというと、(略)不安になるのがおかしいのであって、事実に即さない考えは病気のようなものだ。そう描き出して、思考停止させ、その不安の客観的な証拠をあげる人を「変わり者」のように排除してきました。 アーサー そのために巧みに作られた言葉が「核アレルギー」です。核を従順に受け入れない者は、理性や知識に基づいて考えているのではなく、体質か おかしいんだ、そばアレルギーだの大豆アレルギーだの花粉症と同じような体質的な問題なのだ、日本人には「核アレルギー」があるのだと云うわけです。実に巧みに相手を落とし入れて論点をずらすこの言葉は、かなり効きました。(23p) この様に「言葉 を疑い」、 アーサー しかも小森さんがいつも言うには、一回「なぜ」と問うだけではダメです。一回だけだと、御用専門家たちや官僚たちは、それぐらいのペテン答弁ぐらいは用意しているのです。「なぜ」と聞いて、お決まりの嘘っぱちが出てきたときに「でも、おかしい、なぜなんだ」ともう一度聞くと、向こうは必死になってまた誤魔化そうとしますから、さらにもう一回「なぜ」と問いただす必要があります。食いついて、少なくとも三回問い詰めれば、騙されないで済むかもしれません。(47p) 「言葉でたたかう」いろんなヒントが詰まっている。 ビナードさんが文章を書いている絵本がある。日本絵本大賞を受賞している。 【送料無料】 ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸 / ベン シャーン / アーサー ビナード 【絵本】絵は、ベン・シャーンという有名(らしい) 大画家が描いていて、ちょうど今県立美術館で大回顧展をしているのである。お金と暇と、のめり込むのが怖くて、まだ観に行っていない。けれども、このベン・シャーンという人のことを知ったのは、 河添誠さん(首都圏青年ユニオン)が、わざわざ休日にこれを見る為に岡山に来ていたことをFacebookでしったから。彼は、「アメリカの労働者を描いた絵やボスターが良かった」と言って帰って行った。ひどく気になる。ビナードさんの講演聴いて、サイン入りの絵本をゲットして、その後、行くかどうか判断しようかと思う。
2012年05月01日
コメント(4)
いわゆるデモのハウツー本の役割もあります。でも、労組や各種民主団体の幹部でデモを主催するような人も、必読の本です。或いは、3.11以降、具体的にどの様な市民の意識変化が起きたのか、模索している様な人も必読です。薄い本です。あっという間に読めます。 「デモいこ!声をあげれば世界が変わる 街を歩けば社会が見える」河出書房新社 TwitNoNukes編著 700円 「何故デモに人が集まらないのか」それを解消する様なヒントが満載です。例えば、難しい言葉で悩んでいる人「私たちは専門家集団であると同時に組織者である。国民を目覚めさせることが我々の任務である。しかし、いかにして国民の自覚を促すかが難しい」こんな人にも読んで欲しい。 第一章は総論といってよく、長いが、抜粋しながら紹介したい。 いきなり見ず知らずの人がやってきて、庭にわけのわからない物質を撒き散らし、食べ物や飲料水にも、その物質をかけてまわったとします。黙って見ている人もいるかもしれませんが、たいていの人は「やめてくれ」と言うでしょう 。それでもやめてくれなければ、警察に電話する人もいましょう。逃げ出す人も、いましょう。 やめさせることも、 逃げ出すことも 人として或いは生物として当たり前の行動です。「いやいや、これはただちに健康に影響がないから」「国が設定した基準値を下回っているから」と言われて納得出来るものではありません。 しかし、ときとして、物質をまいた人には声は届かず、或いは声が聞こえてもその行為をやめようとせず、警察に電話しても助けてくれないことがあります。 その時は、道路に出て叫んでいい。 これを複数の人たちでやってもかまいません。役所の前で、マスコミの前で、また、同じ様に被害にあっているかもしれない人たちに向かって叫んでいいのです。車道を使っていいのは、車と神輿とマラソン選手だけではありません。デモをやることは、誰に対しても法で保証されている権利です。(略) デモによって 、納得していない人たちがいることを見せていく。同意してくれる人たちを増やしていく。マスコミにも取り上げさせて、世論を作っていく。 或いはデモに参加することで、同じことを考えている人たちがいることを確認する。意見を交換することで、理解を深める。自分の知らなかった情報を得る。声を出していいのだと知る。其処で知り合うことで、別の行動を始める。 運動不足の解消だのダイエットだのといった目的 のためにデモに参加している人たちもいていいのです。どんな目的であっても、デモをやるのは自由です。 「そんなことをしても世の中は変わらない」という人たちがいます。違います。「そんなことをしても世の中は変わらない」という人たちが多いから世の中は変わらないのです。 選挙で投票していれば世の中はよくなると 思っているからこうなった。政治家に任せておけばいい。役人に任せておけばいい。マスコミに任せておけばいい。そんな考えがこの社会を作ってきました。 選挙に行くことも大事です。しかし、それだけでは足りない場合もあるのです。たとえば原発事故。いま現在、政治家になっている人の多くは原発の是非を争点にして選ばれたわけではありません。選挙民は原発事故がもたらすものを充分に知った上で投票したのでもありません。 彼らに選挙民の意思を伝えるには、手紙を出す、メールを出す、直接話しかけるという手段もありますが、デモで伝えることも出来ます。選挙という方法の欠陥を補う手段がデモでもあるわけです。 デモがそういった効果を常にもたらすわけではなく、それによって政治家もマスコミも動かないかもしれない。それを見た人たちが意見を変えることもないかもしれない。 それでもデモをやっていいのです。これは表現だからです。効果があるのかないのかわからないことをやってはいけないんだったら、テレビだって、新聞だって、出版だって、映画だって、音楽だって、ブログだってあらゆる表現に意味がないことになってしまいます。 人は止むに止まれず表現します。効果なんてものは結果出て来るものでしかなく、それはデモでも同じです。必要なのは「デモをやりたい」という意思だけです。 まさに今はデモのやりどきです。手続きを済ませれば、路上は音楽を演奏することも、歌を歌うことも、文章を読み上げることも、絵を発表することも出来る場になります。公共の福祉に反しない限り、原発に限らず、どんなテーマでデモをしたっていい。(略) いざデモに参加してみれば、ここにはもう一つの世界が広がっていることが実感出来るはずです。 (略) デモに出れば、自分と同じようなことを考え、同じようなこと で悩んでいる人たちがたくさんいることが分かります。それを大きな声で叫ぶことで自分を取り戻す。人によっては、それを契機に職場や家庭でも話し始める。相変わらずそうは出来なくても、思いや考えをインターネットで書く勇気を得る。 (略) デモをやらなければならないのは、本来不幸なことです。それぞれの人が、この不幸な時代に苦悩を抱えながらデモに出ている。しかし、デモに出ることで、その苦悩を生みだしている元凶を解消する道筋を見いだすこと、大きな声で思っていることを表現すること、知らない世界を知ること、思いを共有する人たちと行動し、語り合えること、自分を肯定出来ることはたのしい。 デモをもっとたのしみましょう。 違います。「そんなことをしても世の中は変わらない」という人たちが多いから世の中は変わらないのです。ーというのは卓見であると思う。「普通の人びと」が声を上げる。その論理を此処までまとめた文章を私は読んだことがない。平成の世の「檄文」ともいえる。
2012年04月10日
コメント(2)
「リーディング3.0」実はスマホiPhone4を買って以降、かなりの時間をこのオモチャに使っている。この前行った韓国への旅にしても、このオモチャの使い方で色々と喜怒哀楽があったのである(洗濯機に落として一度たくさんのデータを飛ばしてしまったり)。確かにiPhoneは携帯とは違う。ほとんどミニコンピューターである。しかもポケットに入る。例えば、ツイッターやブログ、Facebookの閲覧や書き込みは非常に易しくなったので、70%はこちらで閲覧しているほどである。「アプリ」という85円とか170円とか、無料とかで手に入れるこのできるiPhone専用ソフトがあって、豊富で、あっという間に40近くのソフトをダウンロードしてしまったこの半年であった。仕事は速くならない。けれども、情報量は非常に上ったと思う。そんなこんなで、もっと使いやすさを求めて本も読んでいるのであるが、この本によって実は「ever note」という存在を知った。「ever noteはめんどくさがり屋の人でも楽に情報を活かせるツールだ」と著者が書いているように、私にある程度ぴったりだと思った。詳しい説明はめんどくさいので割愛(^^;)。検索すればいくらでも詳しい情報は出てくると思う。で、此処まで持上げておいて落とすところが私らしい書評なのであるが、この本はever noteの使い方ではなくて、所謂「情報整理のハウツー本」である。そういう本に、「知のあり方」を要求するのは無理があると承知で書くのであるが、この記述はいただけない。3.本のスクリーニングこそ力を入れよ 「読書はよい習慣だから、なんでもたくさん読めばいい」という論はレバリッジ・リーディングには当てはまりません。 書籍代はもちろん、なにより貴重な自分の時間を投資するのですから、それにふさわしい「投資アイテム」かどうかを見極める必要があります。本を選ぶとは、株や不動産を吟味するのと同じくらい真剣になすべきことです。 第一に、自分の目的に合う本を選ぶことが大切です。「人生の目標」「現状の課題」に合致するテーマでなければ、どんなよい本でもためになりません。(略) 第二に、あまり分厚くてりっぱな本だと挫折してしまう危険があります。最初はすらすらと読めるようなとっつきやすい本を選びましょう。理論が中心になる「教養型」より、実際の自分の仕事にすぐ応用できるノウハウがかかれた「経験型」の本がお勧めです。ビジネスでプロジェクトを立ち上げる時に情報収集をするだけならば、確かにこのとおりでしょう。だけれども、この本は所謂「情報」一般を扱った本です。彼が進めるever noteの「タグ」の中には、自分の「タグ」も紹介していて、「新刊アイディア」「投資」とかと併行して「ワイン」とか「旅行」とかも入っているのです。しかし、彼は所謂「読書」とは実用とか考えていない。彼の言う「教養」とは、「理論」という理解です。こういう人は「カラマーゾフの兄妹」などを読むのは「時間の無駄」ということになるでしょう。こういう人は、ソツなく仕事をこなし、与えられた役割はきちんとこなし、将来展望も数年後は立てられるのかもしれません。けれども、あるべき未来を空想することはできないのではないか。戦争になれば、真っ先に隣組の組長になり、戦争が終れば「我々はだまされていた」というような輩のような気がします(←ちょっと言いすぎ)。
2012年04月07日
コメント(2)
春の嵐一過の今日は偶然にも二十四節気では「清明」に成ったばかりだった。「天地万物が清らかな明るさに輝いているさま」を表す言葉。少し風は強かったが、春らしい暖かさだった。72候は「玄鳥至(つばめきたる)」。昔は燕の訪れを待って春耕を始めたらしい。私も今日は小さな畑の草刈をした。要らない草も、要る草花も、2-3日見ないだけですくすくと伸びている。これからこの小さな畑との格闘が始まる。「100円ノート超メモ術」中公竹義 東洋経済新聞社この35年間、メモ術のためにいくつも試行錯誤を重ねている。最近はIfoneを買ったのを機に「クラウド」ってやつ ? 「エバーノート」を使い出した。その半年ぐらい前に買ったのがこの本。こちらは究極のアナログである。しかし、デジタルに匹敵する機能がある。持ち運びが簡単。時系列、ランダムに記録・検索ができる。自由な言葉でインデックスが作れる。しかし、結局100円ノートを二冊目を使っているだけだ。私にとっては、作った文章をブログや読書ノートやツイッターやフェイスブックに使う「二次使用」大きな使い方になる。しかし、これはそれができない。しかし、ほって置いたこの本を眺めるうちに、目的を限定して使うには使えるかもしれない、という気がしてきた。こうやって梅棹忠夫の「京大ノート」から始まる私の35年にわたるメモ術は、ずっと試行錯誤のままに、このまま続くのであります。
2012年04月04日
コメント(0)
「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」坂口恭平 太田出版 この著者の意図は、ホームレス生活のノウハウを紹介する事ではない(そういう意味も結果的にはなってはいるが)。彼らの生活の知恵(それも驚くべき内容の)をし?ことで、現在の経済活動のもう一つの可能性(お金など無くても生きていける可能性)を探ることにあるのである。 とても、刺激に満ちた内容だった。 ダンボールだけで十分暖かい寝床の作り方、電気契約をし無くても電気器具が使える方法、クリアボックスを使った簡便お風呂、完全リサイクル・エコ生活をしている多摩川のロビンソンクルーソー、等々。 これらは、東京の特殊事情も沢山ある。だから岡山の地方都市では、また違う工夫が必要だろう。しかし、ここに書かれていることがらを応用すれば「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」はできそうな気がする。 日本は上ばかりを向いてやって来た。でも、そればかりが歴史上の姿では無かったと私は思う。
2012年03月31日
コメント(0)
「語るには若すぎますが 2 」「週刊朝日」編集部編 古館謙二 河出書房老年に入った人々のインタビュー集。特に最後の五人がすごい。時恰も2003年3月。アメリカのイラク爆撃の直後である。加藤周一、鶴見俊輔、小田実、色川大吉、澤地久枝と続く。奇しくも色川以外は九条の会メンバーである。一年後の彼らの決意を先駆けする内容にもなっている。特に加藤は最後に突然この様に述べている。「この冬は寒かった。でも、二月の、ときたま晴れた寒い日の風と日差しを来年もまた味わいたい。空に浮かぶ雲を見ることも貴重に思える。死が迫っているという自覚は、価値観を転換させる。」加藤はこの頃から既に「心に期すモノ有り」だったのだ、と私は解する。
2012年03月29日
コメント(0)
「私が愛した東京電力」蓮池透 かもがわ出版「東電人生32年間を踏まえ、福島第一原発事故とは何だったのか、今後の東電はどうあるべきか、さらに原発・エネルギー政策をどうするのかについて、自分なりの考え方をのべていきたいと思います。」原発事故のまとまった解説書を初めて読んだ。国民総解説者になっているかの様な現在ではあるが、私なんかは肝心な処で理解で来ていない事があったことをこういう本を読んで気がつく。そうか、やっぱりプルトニウムは「格納容器の底をを貫通し、地下まで達し、地下水まで汚染を広げ、海に流れ出す可能性もあります。いまは、原子炉格納容器内でとどまっているだろうといわれていますが、それは誰にもわかりません」なのだ。下請け作業員の放射線量は信用出来ないと思っていたけど、やっぱり「低い処に置いて作業する」ということは、あったのだ。東電の現役社員からの告発本はまだ出ていない。よって、元東電(しかも技術畑の部長)社員からのこの本は貴重である。東電のトラブル隠しの体質は、蓮池さんは何度も指摘する。02年の時、小泉訪朝に合わせてプレス発表したとか、何故もっと安全に対するコストをかけなかったのかと、問われれば「改造をしてしまうと、じゃあそれまでは危険だったのか、と言われるのが怖いし、そうなるとさらにコストをかけなあといけなくなる」という理論らしいです。バカにしている。反対に言うと、これが原発事故の「原因」だろう。果たしてこれから「改善」出来るのか。ストレステストの経緯などを見ていると「出来ない」と思った方が良い。「原発の電気は安い」というのもある意味では神話で、私がいた頃からどんどん発電コストが上がってきて、液化天然ガスによる火力発電と拮抗してきたので、最近は地球温暖化の影響を受けて「原発は二酸化炭素を出しません」という方にキャンペーンがシフトしてきました。さらに重要なのは、蓮池さんは決して原発事故があったから東電を辞めたわけでも、会社から圧力があって辞めたわけでもないということです。「このまま行けば、原発は自滅する」核燃料サイクルの仕事に携わって、それが出来ないことに気がついたので、辞めたわけです。多くの論者が言っていることですが、現場の人が言うと説得力は相当あります。結局、15-20年かけて原発を「フェイドアウト」するしか無い。
2012年03月24日
コメント(2)
実は、もう二年半ほどある労働組合の機関紙に「映画ってエエが」(岡山弁で「映画っていいよね」という意味)という映画評の連載をしている。2月号ではある映画本の紹介にかこつけて、ひとつの映画館の宣伝をした。この映画館から頼まれたわけではない。止むに止まれぬ気持ちからである。実際年に数回たった1-3人で映画鑑賞をすることがあるのである。 今回は映画ではなく、本の紹介です。「ミニシアター巡礼」(代島治彦著 大月書店)。閉店したミニシアターBOX東中野館長だった著者が全国の小さくても頑張っている映画館をめぐる本です。 ミニシアターを立ち上げた人にはいろんなタイプがあるのだとわかりました。監督が支配人の映像作家発信型の沖縄桜坂劇場、自分が見たい映画を観たい一心で夫の赴任先で映画館を立ち上げた元映画供給会社の女性が運営する金沢シネモンド、自主上映活動の延長京都RCS、おばあちゃんが残した映画館を守ろうとする三重の進富座、等々。 そのなかに岡山のシネマ・クレールも一章設けられている(写真参照)。題して「映画を愛するサラリーマンがつくった、究極のミニシアター」とある。岡山は自主上映サークル発展型というよりか、一会社員が作った映画館なのです。 館主の浜田さんはほぼ独力で自分が見たい映画館を作った。48歳で大手会社の退職金をすべてつぎ込んだという。「どうせつくるなら、最高の環境を」その拘りには著者も舌を巻く。シートや音響施設が良いだけではない。前の席との高低差があり、座席の横列が湾曲しスタジアムのようにスクリーンを囲んでいるという。そういえば……。きちんとした設計士に新築で作らせた結果である。全国的にも珍しい。 「クレールの年間公開本数は約200本だという。T0H0シネマズ岡南よりも多い。シネマ・クレールがなくなると、岡山で年間200本の映画が未公開になる。町からひとつのミニシアターが消えることが、どれだけおおきな文化的損失になることにどれだけの人が気がついているだろうか」と著者は書く。私も全くの同感。去年の岡山の上映本数を調べてみた。クレール163本。クレール含めてシネコンや映画館の上映本数は合計251本である。クレールがもしなくなれば、岡山で四割の映画が見れなくなるのである。08年には石関館は閉館したが、丸の内館だけは死守してもらいたい。そのためには、先ず映画館で映画を見ようではないか。
2012年03月15日
コメント(2)
「半島へ、ふたたび」蓮池薫 新潮文庫いっとき話題になった拉致被害者の蓮池薫さんが日本帰国後に初めて韓国に渡ったときのルポである。後半は蓮池薫翻訳業に転進する時のあれこれを書いている。今年の正月、やっと文庫化されたので買って読んでみる。たった8日間のソウル旅行で一冊の本を書いているわけだが(私のこの前の韓国旅行と同じ日数)、内容は全く違う。正直たいへんおもしろかった。ソウルを旅しながら、長かった北での拉致生活を思い出す旅になっているということもある。それと、おそらく私とはまったく別の性格をしていて、きちんと調べなくては気の済まない人らしく、初めての韓国旅行の一日目(半日しかない)が一番記述が多い。その一つ一つに私は眼からうろこの部分があったり、私よりもホントよく見ているなあ、という部分があったりした。日本よりも携帯普及率が進んでいる韓国で、公衆電話が目に付くのは何故か。なぜ大型書店では立ち読みを奨励しているような椅子を並べたスペースがあるのか。アメリカ大使館の厳重警戒の理由。戦争記念館の発するメッセージ。朝鮮戦争に対する北と南との見解の相違。ダルトンネのなりたち。北での稲の密植の話。西大門刑務所に張られたメッセージについて。今度ソウルに行ったときに、確かめてみたいスポットがたくさんできた。有難いと思う。
2012年03月13日
コメント(2)
明日は全国各地で3.11関連行事があると思いますが、私は岡山の「3.11祈念のつどい」に参加します。一日中あるのですが、とりあえず10時に下石井公園へ。「3.11を生きのびる」かもがわ出版 2011.9,発行2011年4月から8月にかけての各著名人の発言集である。江川招子、安斎育郎、暉峻淑子、岡田知弘、渡辺治、辻井喬、梅原猛、小森陽一という選出は、編集者の小森さんの選んだ人なのか、それともかもがわ出版の選択眼なのか。その両方か。ナイス選出です。とりあえず、印象に残った処のみメモ。【小森陽一】→いまこそ「憲法を原発事故に活かそう」全体からの批判の声が高まる中、文部省は「一ミリシーベルト」の基準を改めざるを得なくなった。このときの主権者である福島の市民たちが、国家に対して突きつけたのは、先に述べた前文と憲法13条の思想である。先ず「すべての国民は、個人として尊重される」とある。まさに福島の子どもたちと親はたちは、「個人として尊重される」前提を福島第一原発の事故から、さらにそのあとの国と文科省の無責任な対応によって奪われたのである。東電からの広告を受け入れ、接待や出張費肩代わりなどをとおして「読売新聞」のライバルとされていた「朝日新聞」が70年代に原発政策にたいする社説を、容認姿勢に転換したことは事実である。2010年一年間で゜朝日新聞」への広告は13本、朝日の規定の広告料に従って計算すると、その会計は2億3000万円あまりになる」(「週刊現代」2011.8.20・27号)→この朝日のマヌーバーめ!!→そして「トモダチ作戦」の正体。もしアメリカ軍が本気で救助活動を行う気であれば、わざわざレーガンが到着するのを待たずに、横須賀を母校としているジョージ・ワシントンをはじめとする艦船や部隊を派遣かできたはずである。しかしアメリカ政府は、まず80キロ圏外への退避を自国民に呼びかけ、ジョージ・ワシントンをは被災地とは別方向の、いつでも太平洋からインド洋に出撃できる位置に退避させていた。ロナルド・レーガンが到着して展開された「トモダチ作戦」が、救出や救助は見せかけだけの「原発テロ」や「大型核兵器戦」を想定した軍事調練であったことは、多くの論者が指摘している。【江川紹子】のルポ→浪江町長の怨み後から当時のデータを見た馬場町長は憤慨している。「我々が退避していたのは、一番放射能が濃いところだった。町民に余計な放射能を浴びさせてしまった。なぜ、退避が必要な時に教えてくれなかったのか。これが分かっていれば、津島地区に滞在することなく、二本松市に直行していた」【安斎育郎】→フクシマ後の福島をどうするか原発から三キロメートル以内の扇情地域は、菜の花やひまわりなど、放射能を吸い上げ、美しい、あるいは元気な花の群生地とする。城砦の外側もなお色々な汚染レベルでまだら模様で放射能汚染が起きているが、ここは「マイナス価値」とばかり見ないで、「低レベル放射線影響調査生物実験場」として活用する。年間数ミリから百ミリシーベルトの放射線被曝の長期的被曝を調査する試験場として国際社会に有料で開放する。あわせてこの汚染地域には多くの自生生物が住んでいるので、それらの生物が今後長期的にどのように影響を受けるかを調査することも、放射線影響額的にも貴重な情報をもたらすに相違ない。実際そのようなレベルの放射線を放射し続ける実験施設を新たに作るには巨億の費用を要するので、起こってしまった放射能汚染はそれとして、その価値を活用するのは大きな意味があろう。【暉峻淑子】さんは事故後すぐに原発全廃製作を決定したのは、ドイツ首相か賢明だったというわけではなく、国民が賢明だったのだと述べていました。
2012年03月10日
コメント(2)
「岡山大学を歩く」 編集委員会 ちょっと前に、岡山大学の生協で買った。◇巻頭カラー/岡山大学津島キャンパス再訪 山陽放送アナウンサー・小林章子◇巻末カラー/岡山大学祭2009 (1)津島祭 (2)収穫祭 (3)鹿田祭◇岡山大学のメインキャンパスである津島キャンパス、鹿田キャンパスをはじめ、倉敷キャンパス、三朝キャンパスなど、キャンパス内に点在する建物や施設、また周辺散策ガイドを紹介。◇編集委員おすすめの岡大生で賑わうグルメな店10を紹介。◇そのほか、(1)千葉喬三学長インタビュー、(2)岡山大学理事の推薦本、(3)岡山大学独自のキャンパス言葉、(4)サークル活動の紹介、(5)学部紹介 etc.「へぇー、最近は大学にりっぱなガイドブックがあるんだ」ちゃんと学生が編集委員会を作って読み物としての体裁は保っているところがエライ、などと元大学新聞会のモンとしては、そんなところを見てしまう。そういえば30年くらい昔、「山大発掘」という文化部の記事で、60年安保を扱ったあとは、大学内の埋蔵文化財調査研究センターを訪ねたりしたなあ(遠い目)。さすがに千円の割には情報量がぎっしり詰まっている。学生たちに原稿料は要らないからである。新入生などこれをもって学内探検をすれば、あっという間に一ヶ月や二ヶ月は経ってしまうだろう。昔も作ればよかった(後悔)。今日母校の中学前の本屋に行くと、続編のガイドブックができていた。県内のあらゆる学校前の本屋に置いているのかもしれない。
2012年03月08日
コメント(0)
全911件 (911件中 901-911件目)