全162件 (162件中 151-162件目)
今日も残暑が厳しかった。職場の私の部屋にはエアコンがないので、午後はぐったりした。先日、ふるさとの風景が描かれている本を見つけた。なつかしくて嬉しくてじっーと見た。私のふるさとは愛媛県でも南予と呼ばれる南の地方にあり、宇和町という田舎である。この宇和町の周辺つまり南予地方の様々な行事や風景がやさしい絵になって表現されている。画・うた・文は大植純子さんという愛媛県在住の管理栄養士の女性である。 宇和島の牛鬼 宇和町のわらぐろ宇和島の和霊神社の大祭で登場する牛鬼は悪魔祓いの行事で、最後の「走りこみ」が有名である。この牛鬼は私の村祭りにも毎年出てきた。真っ赤でとても大きく怖かった記憶がある。わらぐろは稲を脱穀したあとのわらを積み上げて円形にしたもので、晩秋の宇和平野にはこのわらぐろが何十個も点在し、写真愛好家が遠路から撮影に来たという。 宇和町の開明学校 吉田町の鹿踊り開明学校は明治15年建築、西日本最古の現存する小学校舎で、重要文化財である。とてもモダンで当時の人々の教育にかける意識の高さを感じる。北アルプスの帰りに松本市の開智小学校を見学に行って、はからずも自分のふるさとにあるこの学校が姉妹校になっているということを逆方向から知った。教育掛図所有数日本一という。鹿の子踊りは伊達秀宗の宇和島入りとともに仙台から移入されたという。これも秋にはいつも村々に巡ってきた。哀愁を帯びた歌や笛とともに鹿の姿で踊られる素朴な踊りが強く心に残っている。幼少期に親しんだふるさとの風景や楽しみにしていた行事を本で見て、とても癒された。自分の心の原風景や自分を育てたものがここにあった。ああ、でも誰も住んでいない私の実家はどうなっているだろう。
2008年09月05日
コメント(10)
槇 有恒の「山行」を読んだ。山岳文学の古典とも言われる有名な本なのに、私は読んだことがなかった。この中に ギドレイというイタリアの登山家が、老齢になったウインパーがマッタホルンを再び訪れた時の様子を彼の著書の中に記述しているということ、槇 有恒がツエルマットの山岳博物館の遭難の展示を見て感想を記述した部分もあるということをブログ「こだわりの山」のjudge47さんに教えて頂いた。そこでまたまた図書館で検索を依頼し、他の図書館の蔵書を取り寄せてもらったのである。ウインパーとギドレイの出会いは「山行」の「登高記」という章の「マッターホルン」という文に、格調高く表現されていた。年を重ね変化していく人間とゆるぎないマッターホルンとの対比がくっきりと描写されていて、人生と自然について考えざるを得なかった。そう、私は登れないままに年老いていくが、マッターホルンは鋭い三角錘の形を微塵も変化させずそびえているのである。 槇 有恒特に最後の4行の文章には深い感銘を受けた。ここに紹介する。ウインパー、そしてギドレイ。時は経ってゆく。ウインパーも今は無き人の数に入った。しかしマッターホルンは変わりなく孤高を守っている。先人の思いと山の心とに溢れて血に燃えるこの若い己もいつかは消えるであろう。だが山は変わらない。人の世の変転に較べて遼遠な姿である。人はこの運命に甘んじて、生を想うて健闘登高すべきではなかろうか。 更にこの本には、有名なアイガー東山稜の初登攀やマナスル登頂記も含まれており、それも様々な面で興味深く、面白かった。 アイガー東山稜登攀後の4人(左から2人目が槇 有恒)
2008年09月02日
コメント(7)
ランナウトに行く電車の中で遠藤由加さんの「ロッククライミングタクティクス50」を読んだ。この間、パンプ2で会ったあの遠藤由佳さんの本である。実は以前にもこの本を手にしたことがある。最初名前を見て女性だと思ったが、写真を見てからずっと「遠藤由加は男性だ」と思い込んでいた。名前も「ゆか」じゃなく男性のような読み方があるんだろうと思っていた。実際2回目に見ても男性に見える。そう思ったのは体全体が筋肉質で脂肪がそぎ落とされていて、手にも足にも体全体にも曲線的な部分がない、顔も小さくボーイッシュで表情も中性的というより男性的だからである。 でも女性のようにも見えるパンプ2でまじかに見た本人は写真以上にもっと鍛えた体だったが、声がやわらかいアルトだった。疑いもなく女性だった。大きなかん違いをしていた。この本は質問形式即ちQ&A方式で書かれているので、質問ごとに前後をあまり気にせず読むことができる。興味のある部分や自分に必要のある部分から読み始めるが、内容が関連しているので結局は全部を読むことになる。 質問がクライミングの技術面は勿論のこと、生活しながらどうクライミングを続けていくかとか、フリーとアルパインの両立とか、栄養・体重管理など広範囲に展開されている。写真や図が豊富に挿入されているのもわかりやすい。初心者用には書かれてない。そのため私がこれを読んですぐ実践に移すということはない部分もあったものの、表現が簡潔・明瞭、無駄がなく必要な事はすべて含まれていて、実戦的で役にたった。
2008年08月25日
コメント(10)
クライミングをするため西国分寺のランナウトに行くには片道約2時間、何と往復4時間もかかる。睡眠と読書の時間にあてている。昨日は竹内 薫・茂木健一郎 共著「脳のからくり」を読んだ。前半三分の一は脳の構造とか神経の解説で眠かった。しかし後半になってがぜん面白くなって夢中になった。あやうくお茶ノ水駅で電車を乗り換えそこねるところだった。 脳の比較何に興味をひかれたかというと、脳と意識の関係である。人間には意識がある。では地球やコンピューターや虫や魚には意識があるか?最先端の脳科学研究者は「ある」というのである。オカルト信奉者ではなく、脳科学のエキスパートが言うのである。DNAが二重らせんであることを発見した著名な科学者クリックは「人間の魂とか意識も、結局は脳内現象にすぎず、科学的には単なるニューロンのかたまり」だという驚異の仮説を唱えて一大衝撃を与えたが、今やそれが当たり前に受け入れられていると言う。脳は物質(ニューロンのかたまり)からできていてその神経ネットワークから意識が生まれるという。ネットワーク上のエネルギーの相互作用から意識が発生するらしい。この理論で進めるとネットワークが働いているところではごく希薄であっても意識があるというのである。意識とか霊とか第六感とかこれまで非科学的と考えられてきた領域が脳科学の研究分野に組み込まれ、科学として研究されている。驚くべき事ではないか。神、霊魂、テレパシー、輪廻転生、科学的に説明がつかないものはいかがわしいとずっと否定されてきた。私は科学的なことは全くわからないが、非科学的なものにとても興味がある。科学的に証明されないものでも私個人は自分の体験から「有り得る」と信じたりしてきた。ただ証明されないのが悔しい。また、脳の中がセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなど脳内物質の生産・リサイクル工場というのも以前から大変興味ある分野だったので面白かった。思うに何もしないと冬期うつ病になる私の脳はもともとセロトニン生産量が少ないに違いない。セロトニン不足にならないよう、ウオーキングやジョギングをしたり、山に登ったりして精神的健康を維持しているのだから。私の登山は単なる趣味を超えて自己治療ともいえる。面白い話題満載の本だった。
2008年08月21日
コメント(8)
山本正嘉 「登山の運動生理学百科」 原 真 「ヒマラヤサバイバル」 私に高度馴化の重要性とその方法について教えてくれたのはこの2冊の本である特に「登山の運動生理学百科」は私にとってバイブルともいうべき書で、すべての章を何度も何度も繰り返し読み続けて、学んだ。現在クライミングは先生についているが、長年月に渡る縦走登山は単独行だったので教えてくれる人がいない。独学と経験だけで登り続けていたのだが、この本に出会った。いかに何も知らないで山に行っていたことか。あまりに無知だった。体についても運動についても栄養についても科学的知識はゼロで、要するに意欲と根性で登っていたのである。その意味では根性というのはたいしたものである。高所登山の章では「富士山に何度も登ることが効果的」と書かれていたので登った。そのとおりだった。実に効果的であるということをわが身が実証した。それ以来富士山の高度馴化さらには体力増進の効果を信頼している。「ヒマラヤサバイバル」は古い本であるが、実に明快な理論が展開され小気味良い読後感である。ここにも高度馴化や人間の高度に対する可能性について様々に記されている。まだ低酸素室が一般化されていない時代の論であるが、アルパインスタイルが主流の現在を正確に予測している。根性だけでは山に登れなくなってきた時に良書に出会う幸運に恵まれた。おかげで科学的知識に支えられた安全な登山をめざすようになった。
2008年07月17日
コメント(4)
頭を空っぽにして歩いてばかりいたが、久しぶりに本を読んだ。エミール・ジャベル著 近藤 等訳の「一登山家の思い出」である。ジャベルは19世紀半ばに南フランスに生まれ、祖国フランスと自由と美の国スイスそして心の故郷アルプス、特にダン・デュ・ミディを生涯かけて愛し続けた登山家である。夏はアルプスの谷や高山に赴き、雨の夜や粉雪ふる冬には過ぎし日の山旅を回想して、これを文章にまとめた。36歳の若さで没したが、死後友人が編纂して出版したのがこの「一登山家の思い出」である。この中にはマッターホルンの登攀記も「セルヴァン登攀」という章に書かれている。ウインパーの初登頂以後第15登であったという。全編通して文章が並外れて文学的である。とても美しい表現で具体的でありながら抽象的、陰影や比ゆに満ちている。山が哲学的深さを持っているように思えてくる。登山や山岳文学といわれるジャンルでこんな美しく奥の深い文章はそう読んだ事がない。(そうたくさん読んでいるわけでもないが)一行一行想像しながら読んだ。前世紀のアルプス登山の話である。登山用具なども現在のように開発されてない時代であり、登攀は大変困難で当時の登山の様子がわかった。ジャベルのデッサンによるソルベイ小屋も今とは比較にならない粗末で小さな小屋だった。 この本を読んで、岩壁登攀という肉体的行為だけが突出するのではなく、アルプスの美しく豊かな自然の中で人が岩とともにあるという印象を強く受けた。
2008年07月10日
コメント(10)
今日は一日中雨が降っている。雨の日は嫌いではない。とても落ち着く。身体活動を止めてしまうので、自分を振り返り内省的になる。音楽や本や絵が心に入ってくる。今日は小泉純一郎の「音楽遍歴」を読んだ。 ご存知のように前閣総理大臣である。在職中から変人と言われながらもその音楽や芸術に関する造詣の深さは良く知られていた。この本には12歳でバイオリンを始めたことから始まって現在までの彼の音楽遍歴が自由闊達に書かれている。なかなか面白かった。話題はバイオリンからオペラ、歌舞伎、ミュージカル、プレスリー、モリコーネ、演歌、エックスジャパンとクラシックだけにこだわることなく多分野に渡っている。政治家であるということを感じさせない自由な論が展開されている。しかし、指揮者と首相の違いや愛の前での権力の無力さを語り、自分をミュージカル「ラ・マンチャの男」のドンキホーテに例えてテーマ曲「見果てぬ夢」を口ずさみながら郵政改革を貫徹していく部分では政治家小泉純一郎が忽然と姿を現し、とても興味深かった。あの批判渦巻いた郵政改革を貫いた支えには音楽があったのだ。まさに希代の政治家による音楽談義である。でも、一方でこれくらいなら私もしてきたことだという気持もある。だれか「エンジェル フェイスの音楽遍歴」を活字にしてくれる人はいないか?私のほうがもっと切実で生々しく苦しみとロマンに満ちていて面白いと思うけどなあ。
2008年06月29日
コメント(10)
何年か前に「ダビンチ コード」という本を読み、面白くて眠れなかったが その中にフィボナッチ数列というのが出ていた記憶がある。 今日そのフィボナッチ数列に関する本を読んだ。 中村 滋さんの「フィボナッチ数の小宇宙」という本である。 数学専攻の人でなければわからない記号ばかりの数式が莫大なページを占めていたが、 その部分は見るだけにして、日本語の部分を読んだ。 とてもおもしろかった。 目が啓けた。 フィボナッチ数というのは1,1,2,3,5,8,13,21,34,55、89 という数で始まり、前の2個の数の和が果てしなく連続する数列である。 この数列が数学の世界に導入されて既に800年という。 特に興味を引かれたのはフィボナッチ数が自然界の花の中に表出してくることである。 梅や桜の花びらは5枚、コスモスは8枚、つわぶきは13枚、マーガレットは21枚。 フィボナッチ数は人が考えだしたものであり、花びらは自然の創造物である。 その二者の間にどうしてそんなことが整合して起こるのか。 謎だ。 どこかに魔法使いでもいるのだろうか。 中でも突出して不思議なのがあのひまわりである。 サンフラワーと呼ばれ向日葵とも書かれるこのエネルギーに満ちた花は、種類や咲く 時期によって異なるが13枚,21枚,34枚,55枚とフィボナッチ数ばかりなの だと言う。 向日葵の花びらにフィボナッチ数が表れることが発見されたのは今からおよそ1世紀半 前だそうであるが、最近科学的な説明が与えられ、実験で確かめられたという。 この本にはその詳しい説明が図入りで載せられていた。 もちろんその専門的説明すべてが理解できたわけではないが、すごく刺激的だった。 数学と花びらの数に関係性があるというだけでも驚きなのに、それが科学的に解明 されるなんてこの世界は何と不思議に満ちた世界だろう。 こういうことを知ると何か畏敬の念に打たれてしまう。
2008年03月18日
コメント(2)
今日時間があったので、改めて先日ランナウトでお会いした内田陽一さんの著書「五十歳か らの挑戦」~アルブス4000峰36座登頂~を出してみた。 この本は2005年に発行されており、写真を見るとかなりお若い。 お顔も体も先日お会いしたよりふくよかである。 アルブスの名峰の写真がふんだんに挿入されている。 さらに驚いたことには高所馴化の項には先生の著書「海外登山」からの引用も入っている。 この本を買ったころはまだヨーロッパに行ったことがなかったので、知識だけの理解で あったが、その後ヨーロッパアルプスに2回行き、モンブランにも登った今は 36座の場所や登山の状況が具体的によく理解できる。 モンブランやマッターホルンをはじめ、見たことがある名峰が登場してきて改めて 楽しむことができた。 それにしても地図や写真入りでガイドとのかかわりもとても詳しく記述されて おり、参考になる。 内田さんは50歳から36座に登ったが、私がこれから36座登るのは難しい。 私のこれからの目標はマッターホルン、アイガー、グランドジョラスである。 三山を登り終えるのに1年に一度ヨーロッパに行くとして何年かかるだろうか。
2008年03月14日
コメント(0)
市立図書館に行った。 図書館は大好きである。知識と情報の宝庫である。 「山と渓谷」「岳人」「音楽の友」「クロワッサン」「婦人公論」「ナショナルジオグラフ ィー」「ニュートン」など月刊雑誌類はほとんど図書館で読む。 「山と渓谷」には赤岳鉱泉で会った佐藤裕介さんや平山ユウジさんが載っていた。 フランス語の本を2冊、ヨーガ関係の本を3冊、トレーニングの本を1冊借りる。 街の本屋さんも大好きだ。 図書館にはない最新の出版物や話題作が並んでいる。見るだけで楽しめる。 しかし、今日もすばらしい天気である。 今頃みんなは城ヶ崎海岸のオゾンを存分に吸って、楽しく登っていることだろう。 こんな日に図書館なんかにいる私は愚かだ。 寺山修司も言ったではないか。「青年よ、本を捨てて野に出よう」と。 でもいいのだ。これで。私には山に行かない日も必要なのだ。 山に行かない日が山をもっと価値あるものにするにちがいない。
2008年03月09日
コメント(0)
今日は3月8日 朝から春らしい陽が注ぎとてもさわやかな日だった。 昨年は土・日は全部山やクライミングに出かけていて、土日を家で過ごしたことがなかっ た。当然平日に仕事と生活のすべてを片付け、更に山行の準備をしなければならないため 全体的に気ぜわしく余裕がなかった。 今年は月に1回は土日に山に行かない日を設けて、精神的・肉体的に余裕のある状態にしよ うと考えた。 また、今までは山ばかり行って文化的・芸術的行事面にタッチすることがほとんどできなか った。心のバランスを保つには文武両道が私にとっては必要なのである。 そして今日がその月1回の土日の休みである。 しかし、こんなうららかな春の日に家にいると落ち着かない。 しなければならないことを手早く半日で仕上げてしまうと手持ち無沙汰になった。 心に穴があく。やはり山にいないと空しい。 そこでまたしても本棚をのぞき、今日は鈴木昇己編の「海外登山」~氷河をたどって高峰の 頂へ~ を出した。先生直筆の2007・12.5の日付とサイン入りである。 ヒマラヤやヨーロッパの山々の美しい写真と説明に図や絵がたくさん挿入されていて、とて も理解しやすいつくりになっている。 モンブランやグランドジョラス、モンテ・ローザ、モンブラン・ド・タキュールなどこれま でに目にしたヨーロッパの峰々をなつかしい目で見つめる。 来年は行きたいチョー・オユーも載っている。 こたつに入ってメンデルスゾーンの「無言歌」を聴きながら、好きな山の本を見る。 これから行きたい山に思いをはせる。 これはこれでなかなか優雅なひと時であった。
2008年03月08日
コメント(0)
今日は夕方からの予定が何も無かった。 本棚をのぞいていたら「垂直の記憶」~岩と雪の七章~があったので、久しぶりに引っ張り 出して拾い読みした。 この本はサブタイトルにあるように七つの章で構成されており、それぞれ彼が生命を賭して 登攀した困難な壁の記録になっている。 私は特に第七章の「生還」~ギャチュン・カン北壁~という部分をけっこう繰り返して読ん できた。 ここに記録されている過酷な状況でよく生きて帰れたなとそれも驚嘆するが、それ以上にこ の壮絶な生還の様子をよくもこのように詳細に記憶し、さらに文字で表現できたなというの が素直な感想である。 極限状態の中で手足は凍り、視力を失いつつなおも死力を尽くして行動する。 読んでいるだけでも緊張してしまう。 しかし、手足合計10本の指を失いながらも、今もまだ山に登っているのだ。 「すごい」としか言いようがない。 しかしこの人にとって「山に登る」ということは空気を吸って生きる」ということと同じよ うなものだろうから、たとえ指が無くなったとしても、登らないと生の喜びを感じることが できないのだろう。 私が音楽を聴かないではいられないのと必要性は同じようなものだ。 (安全面では天国と地獄の差があるが) 昨年の冬、都岳連主催で彼を招いて確かグリーンランドだったかどこかの登攀報告会があっ た。 会場は行列ができていてとても驚いた記憶がある。そこでの山野井さんはほぼ想像していた と同じというか本のポートレイトと同じ雰囲気だった。 もの静かなどこにでもいる青年という感じで、少なくとも外見的にはたくさんの驚異的な記 録をうち立てた超人アルピニストという本質を見せてはいなかった。 しかし、話し始めると山に対する尽きることの無い挑戦・焼けつくような情熱・単独アルパ インスタイルへのこだわりなどが色濃く出てきた。 話の終わりのほうでで「才能のないだれだれさんはなになにが登れないけど、才能のある僕 は何々に登れる」といようなものの言い方があって、少々驚いたりもした。 だがそのような表現はこの本にもある。 才能のないだれだれさんというのはその場にいた都岳連の役員の男性で当日の司会者であ り、けっこう山に詳しい人である。 私は同性として実際の生活のパートナーであり、クライマーでもあり、ギャチュン・カンに も一緒に登攀した妻の 妙子さんに是非お会いしてみたい。
2008年03月07日
コメント(0)
全162件 (162件中 151-162件目)