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いつもよろこんでいなさい 絶えずいのりなさい すべてのことについてかんしゃしなさいこれこそが神さまの望んでいることです。いつもよろこぶためには絶えずいのることが大切です。また、絶えずいのることにより、すべてのことに感謝することができるようになるのです。つまり、この聖書の言っていることを実行するには神さまとのこまめなコミュニケーションが大切なのです。 おわり。 つる書
2007.01.28
前奏招詞 詩編107:1~3頌栄 使徒信条主の祈り交読 詩編19聖書 マタイ28:1~10祈り 賛美 フリー説教 「おはよう」 主が十字架にかかられたとき、男の弟子たちは自責の念にかられて 主を見に行くことができませんでした。 「復活なんてありえない」と不信のなかに思っていたかもしれません。 自分を見て主を見ることができない。 聖書を開いたり礼拝に行く気力も無い、といったことがあなたにもないでしょうか? 一方、女性たちは主の墓を見に行きました。 女性たちは行っても無駄だと思いつつも墓に行った。 これは大事です。 無理を承知でやってみる。やる気がないとき、祈りに心を向けてみる。 すると主の天使が近寄って石を転がし、その上に座った。 祈るなら、主の天使が近寄って、問題そのものを転がしてしまう。 番兵たち・・・主を知らない人たちは石のように動けなくなってしまった。 しかし、主を信じる人には「恐れることはない」と言葉がかけられます。 教会に来ることは大事です。最近ご無沙汰だったから牧師に叱られるかなあ、 などと心配することはありません。神さまに会いに来られるのですから。 また、教会から出かけることも大切です。教会から出かける。つまり、 教会からご家庭や職場など、生活場面につかわされるのです。 神さまを礼拝する心で人びとに祝福を伝える働きをするのです。 教会に来ること。教会から出かける。どちらも大切です。 女性たちは天使の言葉を聞いて、急いで墓から立ち去りました。 主が葬られたところは礼拝の対象ではありません。 「生ける主」こそ、わたちたちが追い求め、仕える・・・礼拝すべき方なのです。 自分の限界を推し量ったり、占ったり分析するというのは墓に留まる行為です。 主にお目にかかれるところを求めて行きましょう。 その行く手に主が「おはよう」と立っていてくださるのです。 この言葉は原語で「シャローム」平安があるように、という意味です。 暗い夜は過ぎ去ったのです。賛美 315主の御手に頼る日は感謝の祈り献金 頌栄祝祷アーメン三唱・後奏報告 1月30日(火)午後7:30~9:00 淡路島の教会合同の賛美集会「アワ~ズごすぺる」のためにお祈りください。
2007.01.28
今日はカテキズム54から「教会」について分かち合いました。(エフェソ4:3~6)ここでいう「聖なる」というのは、原語のギリシャ語ではハギオスと言います。「ハギオス」は分かたれたもの、というニュアンスがあります。きよいものとして分別されている、という意味です。教会に集まる人がきよい、というのは本来、道徳的、倫理的に優れた聖人という意味ではなくキリストによって罪を赦され、世から分かたれ、神のものとされたということです。(結果的に「聖人」となった人も含まれますが)教会は「赦された罪びと」の集団です。・・・ということは当然、人間くさい問題も生じてきます。続いて「公同の」とはカソリックとも言います。信仰教理の「カテキズム」もこの言葉から派生したものです。公の信仰告白に基づく集まりのことです。マタイ16:16以下にある「あなたは神の子、キリストです」というペトロの信仰告白に基づくイエスさまが「この岩の上にわたしの教会を立てる」と言った記述から、教会は十字架にかかって死によみがえられたキリストを救い主とあおぐ集団といえます。「赦された人びと」の集団はキリストを抜きにすれば烏合の集まりですが、キリストによってひとつです。わたしたち夫婦の恩師・黒木安信師は「教会生活の手引き」という書物で「礼拝をささげることによって教会は教会とされる」と述べておられますが、同じキリストを礼拝することによってわたしたちはひとつとされるのです。先に述べた「人間くさい問題」のほとんどは「いっしょに真心こめて礼拝しない」ことから生じるといっても過言ではありません。共に神の前に自分を低くするとき、わたしたちは心が通い合い、「主我と共にいます」という喜びを体験できるのです。つけたし:とんかの所見教会には様々な背景を持った、個性的な人びとが集まっています。その一人一人の違いの大きさに直面するとき、その全てを受け止めて愛しておられる神様の偉大さを感じることができます。どうして教会につながらないといけないのか。ひとり静かに信仰してもいいのではないか。そのような問いに出会うたび、思うのです。あなたがキリストを知るようになるためには「教会」という組織の働きを抜きにすることはできません。あなたがそこにつながり続けるとき、自分自身が守られ、また、どなたかの祝福を生み出せるのです。「教会」の名前をかたって行われた悪事もあります。「教会」が罪を犯したこともあります。その一員になることに躊躇する人もいるでしょう。にもかかわらず、わたしたちは「赦された罪びと」「愛されているこども」として集まり続けたいと思います。「教会」は今日も神さまがご自分のご計画と愛をこの世に発信するための苗床です。その影響の多くは隠されているとしても。
2007.01.24
淡路島南端の福良キリスト教会で淡路島13教会の合同祈祷会がもたれました。福良キリスト教会は「ちいろば」で有名な、榎本先生の求道した教会であり、その奥様にとっては簿教会です。奥様が保母さんとして勤めておられた保育園が今もあり、つる・かめ姉妹にとっても魅力的なすてきな遊具を備えています。河辺貞吉師開拓、二代目牧師は笹尾鉄三郎師とゴージャスな顔ぶれがこの教会を愛して仕えてこられました。現在は島田和人牧師召天後、奥様が、牧師と保育園園長を兼任しておられます。年に一度もたれる一致のための祈祷会では「一致のための連祷」という祈祷文を唱和しています。みなさんもご一緒に唱和ください。(^-^)b司会者 聖名を呼び求める全ての者の父なる神様。 わたしどもは、様々な教会や教派に属していることを無批判に受け入れ、それによって 教界の分裂を固定化することに加担しています。それが御旨にそわないことを、 深く悟らせてください。会衆 主よ、あわれみたまえ。司会者 福音の指し示すまことの愛に根ざした交わりが、実現するよう、 主につながる全ての共同体が祈り、励むことができますように。会衆 主よ、あわれみたまえ。司会者 教会において指導的役割を果たすべき者を導いてください。 教会・教派間の様々な違いを克服し、主にある一致へ向かうよう、 彼らをして努力せしめてください。会衆 主よ、あわれみたまえ。司会者 自らのみを高しとする教派的独善や驕りから、 私どもを解き放ってください。主キリスト御自身の謙遜に倣い、 主の望まれる一致をひたすら祈り求める者としてくださいますように。会衆 主よ、あわれみたまえ、アーメン。
2007.01.21
前奏招詞 詩篇29:1~2頌栄 使徒信条主の祈り交読 詩篇大18篇聖書 マタイ4:1~11祈り賛美 Jesus Loves You説教 「主イエスの言葉で生きる」 人はパンのみにて生くるにあらず、神の口から出るひとつひとつの言葉による。 有名な主イエスの言葉は、イエスさまが40日の断食をして心身疲れきって いたときのものです。 肉体を維持するために食べ物は欠かせないものですが、 人間としての命を保つために聖書の言葉も欠かせないものです。 聖書の言葉は肉体が滅んだ後の命を保障するからです。 ところで、この言葉はイエスさまが申命記8章から引用した言葉です。 福音書に加えて、申命記も読んでみましょう。 (テレビで納豆の健康への効用が言われた翌日、スーパーの納豆が品切れ騒ぎに。 肉体の健康のためなら、右往左往するわたしたちですが、自分の魂の健康の ためにはどのくらいエネルギーを使っているでしょう。 小3の娘との小さな祈りの時間だけでもとてもハッピーな1日になった今日。 もっと祈りと御言葉に時間を使わなくては、と思ったとんかでした)賛美 204 わが友にます感謝の祈り献金 頌栄祝祷アーメン三唱・後奏報告
2007.01.21
今日はいつもと違う一日のはじまりでした。朝いちばんにつると聖書を開いて「ジュニみこ(中高生のための御言葉ガイド)」をして、祈ったのです。この小冊子に「あなたの使命は?」という質問がありました。わたしが「使命というのは神さまに与えられたやるべきお仕事のことよ」と解説すると、つるはそこに「お友だちを教会にさそうこと、勉強すること」と書き、さらに「やさしくしたくない人にもやさしくする」と書き加えました。この教会に転任して2年になろうとしています。つるはここに来て、子供たちが大声で賛美を歌わず、話を聞こうとしないのに驚いていました。教会に来ているのに、お祈りをバカにするような子がいたので、「もう来んでええ」と言ったこともあったのです。でも、自分にとっては嫌な子でも、神さまが呼んでおられるのかもしれない、と思ったようです。教会に来る子、みんなに親切になれますように、と祈ったのでした。神さまはさっそくつるの祈りに応えてくださり、突然、つるのクラスのわんぱく坊主二人組を送ってくれました。まあ、元気で騒がしいこと。聞かないこと。それでも、お母さんが配慮くださったのか、ちゃんと献金用の小遣いを持ってきてくれましたよ。礼拝後はわいわいクッキーを焼きました。つるは、うるさくて嫌だなあ、と思いながら、お祈りしたことを思い出してがまんしたそうです。お祈りはいいことばかりでなく、チャレンジの応えがかえってくることもあるんだね。そして、いつも来ているお兄ちゃんが「接待」してくれたので助かった、と言っています。二人組は満足げに帰って行きました。教会に来ていることの意味などわからなくても、とにかくまずは楽しくあたたかいものを感じてくれたらいいですね。つるは、もっとお友だちを積極的にさそうために、教会学校のちらしをかいています。教会学校がお友だちでいっぱいになるようにお祈りください。
2007.01.21
前奏招詞 雅歌4:16頌栄 使徒信条主の祈り交読 詩篇16聖書 マタイ14:13~33祈り 賛美 「きみは愛されるために生まれた」説教 「来なさい」 俗に世間の荒波というけれど、まさにわたしたちの住んでいる世界にあって わたしたちは種々の問題に翻弄される小舟のように感じられることがあるでしょう。 そこにも主イエスはおられるのですが、心はおそれでいっぱいです。 ペトロは波にもまれながら、波の上に主が立っておられるのを見ました。 主は全ての上におられ、支配される方だからです。 ペトロはそんな主のもとに行きたいと申し出たのです。 主は「来なさい」と言われました。何と力強い言葉でしょう。 ペトロは主の言葉に従って、波を歩いて主の方に向かいました。 ところが、視線を主から周りに移してしまったのです。 そのとき、ペトロはとうてい人間が歩ける状況でないことに目をとめてしまいました。 そして、ペトロは沈んだのです。 でも、彼は主に助けを求めることができました。 そこで主はペトロを引き上げました。 主は人生を漕ぎ悩んでいる全ての人に「来なさい」と言われます。 主を見上げるなら、わたしたちは道なき道を行くことができるのです。 しかし、しばしばわたしたちにはそこを歩み通す信仰がありません。 けれども、主は祈りに応えて、わたしたちの手を引き上げてくださるのです。 怖れず「来なさい」と言われる主の声に従いましょう。賛美 177われに来よと感謝の祈り 病身の女性が力強く祈ってくださいました!献金 頌栄祝等 アーメン三唱・後奏報告
2007.01.15
今日の礼拝は9時半からの教会学校ではじまります。教会学校といっても我が家の娘たち+1~3人というささやかなものですがそのための準備は続く礼拝より時には手間がかかります。そして、子供が相手ですので、準備したすべてをチャラにして臨機応変内容を変える、ということもよくあります。今日の暗唱聖句はガラテヤの信徒への手紙3:13からです。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、 わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」みんなで声をそろえて読んだら、つるが手をあげて言いました。「呪いって漢字、どうして口と兄でできてるの」しようもない脱線ですが、仕方なく有名な放蕩息子のたとえ話をしました。優等生の兄が、身を持ち崩してぼろぼろになって帰ってきた弟を非難する話です。そして、「呪い」という言葉には基準に満たないものを排除する、という聖書的意味があることを説明しました。「贖い」という言葉は買い取る、という意味があります。そのままでは使い物にならないと処分されるようなものを代価を払って買い取ってくださったキリスト。その代価が神ご自身の命であったこと。礼拝をささげたあとで、子供たちはパンとピザを焼きました。イエスさまが「パン種(イースト)」を天国や罪にたとえておられたこと、小さくても信仰も罪も大きな結果につながることなどを話しながら種をこねました。ピザソースがたっぷりできたので昼食はスパゲティをゆでることにしました。子供と過ごすうちに10時半からの礼拝がはじまりました。こちらはまた後ほど追って報告いたします。説教「来なさい」マタイによる福音書14:13~33
2007.01.14
うちの教会は水曜日に午前と夜の2回祈祷会があります。この頃はずっとシリーズで信仰問答(カテキズム)というのを勉強しています。キリスト教会が信じているのはなにか、という学びです。大体同じ内容を2回するのですが、集まるメンバーが違うので雰囲気ががらりと変わります。プロテスタント教会の集会は牧師の説教の比重がとても大きいのですが、礼拝や祈祷会を作っているのは集まる信徒の信仰なのだなあ、と実感します。昼は信仰歴の長い女性がほとんどで、昼食前ということもあってきちんとした感じです。お祈りも教会員さんや新しく教会に来たお客さんの名前などをあげて細々と丁寧に祈られます。夜はいろんな顔ぶれなので自由な感じです。夜はときどき牧師夫婦以外ひとり、ということもあるのですが、そんなときはゆっくり個人的なお祈り課題を分かち合って互いを知るのに豊かなひとときとなります。また、1日の終わりという開放感があるからか、独特の明るさがあります。お祈りは教会の課題に加えて、参加メンバーの互いの祝福のための祈りが盛んです。わたしは2回とも出席するのですが、午前の祈祷会で力を受け、夜の祈祷会で力が豊かにされるのを感じます。ぜいたくなことです。さて、今日の聖書の言葉はヨハネ16:33「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。 わたしはすでに世に勝っている。」教会のかしらである死んでよみがえられたキリストの栄光は信じる人に約束の聖霊と世に対する勝利を与えます。戦争が終っても、それを知らずに山中にこもっていた兵士がいました。クリスチャンはそのように閉じこっていてはいけません。キリストの霊と共に出て行きましょう。
2007.01.10
今日は昨夜来の悪天候で、礼拝開始時間ごろは突風が吹いていました。自転車で来られる信徒さんも多いので、道中守られますように、と祈りつつ「今日の礼拝は出席人数少なくてガラガラだろうな~」と思っていました。甘かった。みなさん、励んで来られました。車を乗り合わせてこられた方あり、自転車を手で押して来られた方あり、タクシー飛ばして来られた方あり。みなさん笑顔でいそいそと着席されてました。わたしも襟を正される思いでした。今日は聖餐式がある、大人と子供の合同礼拝の日です。聖餐式というのは、パンとブドウ液を頂いて、イエス・キリストの死と復活を記念する儀式です。ちなみに、400年ほど前、日本でキリシタンの教えが盛んになったとき千利休はこの聖餐式を参考にして茶道をはじめたのでした。茶室の入り口が狭いのは「狭き門から入れ」との福音書の教えから。武士たちは刀を置いて入室しなければなりませんでした。互いに疑心暗鬼だった戦国時代になんと大胆な提案だったことでしょう!茶室の中は身分の上下の無い、自由な空間なのです。茶道はキリシタン大名から盛んになり、後に宗派を超えて人と人が対等に互いをもてなしあい、尊重する場となったのでした。聖餐式に与るとき、わたしたちは誰が優秀だとか、何ができるか、ということを全て捨ててただ、神さまに愛されている子供たちとして神様の前に出るのです!長女・つるも小学校三年生ながら信仰告白をして洗礼を受けているのでパンをいただきます。おちびのかめはまだ洗礼を受けていないので「イエスさまのパンとジュース」をいただける日を楽しみにしています。さて、長い前置きはさておき、今日の礼拝の式次第です。前奏 (オルガンが流れるのにあわせて黙祷)招詞 (聖書朗読)マタイ6:10頌栄 (短い賛美)使徒信条(教会で信じられていることをまとめた文の唱和)主の祈り(キリストが教えられた祈りの唱和)交読 (司会者と交互に聖書を読む)詩篇8聖書 (司会者の朗読)マタイ6:10、ヨハネ1:14~18 「御国が来ますように。御心が行われますように、 天におけるように地の上にも」祈り賛美 1.いざみな来たりて説教 「御心のままに」あるふぁしおん師 これは御心がなされますように(be done) あるように(let it be) 生じますように という意味です。 マリアがイエス・キリストを受胎するという天使の告知に 「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と言った言葉と同じです。 (賢明なる読者の方はこの言葉からビートルズが曲を作ったのに気がつかれたでしょう) そして、神さまはマリアに宿られたのです。これを「受肉」と言います。 (ヨハネ1:14~18参照) この祈りはイエスさまが十字架にかかられる前のゲッセマネの祈りとも同じです。 「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」ルカ22:42 ヘブライ5:7~10にはキリストがこの祈りをささげるために苦しみ、 わたしたちのための救い、神との間をとりなす大祭司となられたことが描かれています。 このキリストがわたしたちのうちで祈っていてくださるので、 わたしたちは永遠に神さまと共にいられるのです。聖餐式賛美 257.キリストは生きておられる感謝の祈り 体調をくずして郷里に戻ってこられた信徒さんが 今日来れなかった方々のためにも丁寧に祈ってくださいました ああ、はあとふる!献金 神さまへの随意のささげもの頌栄祝祷 (牧師による会衆への祝福の祈り)アーメン3唱・後奏報告牧師からの宿題:今年は四つの福音書のイエスさまの言葉を熟読しましょうそれではみなさん、また来週!
2007.01.07
寒さはこれから本格化するのに正月は新春。人間の住む環境は悪化の一途をたどるのに西暦はA.D(主の恵みの年) 新しい命が芽生えるためには死と再生のときを過ぎなくてはならないことを人々は自然の営みを通して知らされてきたのでしょう。まだ聖書の神を知らなかった高校生の頃わたしは級友数人と鎌倉の鶴岡八幡宮に初詣に行ったことがあります。除夜の鐘を聴きながら人の波にもまれて賽銭箱に向かって小銭を投げ入れ(入ったかどうかはわかりません)材木座海岸に行きました。海の暗さ骨の髄まで凍る寒さ焚き木の燃える火を見ながら夜明けを待つときの長さ若さゆえ過ごせた一夜の思い出ですが曇り空ながら朝日の昇るのを見ながら待ったかいがあったと思ったことです。長い荒廃のときを生きるイスラエルの人々に預言者は宣言しました。しかし、主の名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように踊り出て跳び回る。 マラキ3:20どうか、わたしたち一人ひとりの心に義の太陽が輝く一年となりますように。
2007.01.02
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