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♪韓国のアジュマ本格レシピ~前菜・おつまみとしては4人分、お好み焼きとしては1人分わけぎ 4束もち米の粉(白玉粉でも) 大匙3小麦粉 2分の1カップたまご 2個あさりの剥き身 100グラムかにかまぼこ 少々糸とうがらし 少量(塩、サラダ油、こしょう、ごま油)1.わけぎは白い部分を包丁の柄でたたいてやわらかくし、フライパンの長さに切る2.たまご1個、水2分の1カップ、もちこめの粉をあわせてよく混ぜ、塩小さじ2分の1を加える3.もう一つのたまごは別に割りほぐしておく4.あさりはわたを取り、みじんに切ってこしょう、ごま油であえる。かにかまぼこは細く裂く。5.1に薄く小麦粉をまぶし、2の衣をからめて、サラダ油を熱したフライパンにぴっちり並べる。 上に4を広げてのせ、糸とうがらしを散らし、たまご液をかける。 裏返して両面焼く。6.食べやすい長さに切り分けて、好みで酢醤油をつける。♪とんかの子供と作る簡単レシピニラ(わけぎより安い。もちろんわけぎでもおいしい) 1束あさりの缶詰 1個もち米の粉(白玉粉、小麦粉でも) カップ2分の1かにかまぼこごま油1.ニラは4センチくらいに切る2.あさり缶の中身をボウルとザルを重ねたところにあけ、ザルのあさりをザク切りする。3.ボウルの汁に粉を入れてまぜる。種がかたすぎるようなら水を少しずつ足す。4.あさり、裂いたかにかまぼこ、ニラを入れてざっとまぜる。5.熱したフライパンにごま油大匙1をまわし、4をあけて広げ焼く。6.好みで酢醤油をつけていただく。♪もっと簡単な作り方市販の「チジミの素」を使って焼く。チジミの素は大型スーパーのニラ置き場近くでよく見かける。ニラと素をまぜるだけで種が作れる。
2007.06.22
お父さんへのプレゼントに韓国風お好み焼き・チジミを作るよ、お友達を誘っておいで、と言ったらいつもは2~3人の教会学校に9人のお友だちが集まった。てんやわんやではしゃぐ子供たちに注意を与えつつわけぎ・にらを包丁で切り(おそろしかった!)あさり缶とカニかまぼこと粉にまぜて焼いた。うろうろしていたかめに油がとんで額にビンディーのような小さいやけどを負ったがその他の子は無事怪我せずできた。めいめいラッピングしながらつまみ食い、「うめえ~!」と止まらない指にフト、お父さんの口にはどのくらい入るんだろう、と不安を感じたが夕方、お父さん、喜んでくれたと電話も入り、胸をなでおろす。そんなわけで、今週とんかは礼拝についに出られなかった(T-T)説教要旨を読みたい方は、あるふぁしおんのブログにお飛びください。
2007.06.17
今、教会は外壁の補修・塗りなおしのためにぐるりと足場が組まれ、いつも信徒のみなさんが自転車を止めるスペースにも機材が置かれています。自転車、止めきれるかなあ、と心配だったのですが、みなさん上手にパズルのように駐車してくださり、ぴったりおさまりました。うーん、神の身体なる教会も、このように大小様々な個性がうまく組み合わさりたいものだと感心しました。説教「イエスは神の右におられる」使徒2:25~42わたしたちキリスト教会が聖書の最も大切な、信じなければならないことをまとめた公同の文章があります。礼拝で毎週唱える「使徒信条」です。みなさんは暗唱しておられますか。我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、イエス・キリストを信ず、主は聖霊によりて宿り おとめマリアより生まれ ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり三日目に死人のうちよしよみがえり、天に昇り全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。イエス様は今、天の父なる神の右に座しておられるのです。誰かの右に座す、ということは古今東西その人に次ぐ権威をもっていること、しばしば、その人の代行として統治することを表しています。日本でも天皇をはさんで右大臣・左大臣が座することが古の慣わしでした。右大臣より左大臣の方が権威があるのですが、これは座しているところを臣下が見て左、ということで、天皇に対しては右に座しているのです。人間の多くは右利きですから、右側は特別に補佐するという意味が与えられたのでしょう。エルサレムの神殿は東に向かうように造られていますが、その右手にあたる南側にはむかし王宮が建てられていました。王は神に代行して政治を行うもの、ということをあらわしていたのです。この王宮を建設したダビデはイエス様について詩編でこう歌っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。 主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない』詩編16:8~→使徒2:25引用全能の神の右に座する方は、同時に神が右におられた(神に助けられた)方です。神様のサポートを受けられるとは、何と幸いなことでしょう。それはイエス様のみならず、たえず主を見上げる人に与えられる祝福です。その祝福をいただいたモデルケースといえる人が使徒言行録には出てきます。6,7章に出てくるステファノです。石を握り、殺意をみなぎらせている群集の只中で、彼は平安です。その様子を聖書は「ステファノは聖霊に満たされ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て」と表現しています。座しておられたイエス様が立っている!ある聖書学者は「主は彼を助けるため、彼をご自分のところに迎え入れるために立たれた」と述べています。主を見上げ、主の助けをいただいて、この1週間も遣わされてまいりましょう。
2007.06.10
「金銀では買えない栄光の富」使徒言行録3:1~10♪貧乏・お金持ち、金持ち・貧乏・・・という歌があります。人間には4種類がある、というのです。「金持ちお金持ち」経済的に豊かで、かつ天の富(信仰世界)も豊かにもっている人「金持ち貧乏」経済的には豊かだけれど、魂の貧しい人「貧乏お金持ち」経済的に貧しいけれど、天の富は豊かな人「貧乏貧乏」お金もなければ、魂の喜びもない人けれども皆さん。一番貧乏な人というのはお金で買えるものしか持ってない人です。お金で一時的な裕福さも味わえることでしょう。「お金で買えないものはない!」と言った人もいます。けれど、人をほんとうにしあわせにするもの、その人の人生を輝かせるもの、それはむしろお金では買えない富です。聖書に物乞いの人が出てきます。生まれつき足が不自由で、障害をもった方の生きる道が今日ほど開けていませんでしたから、座してそこを通る人に施しを求めていたのです。通り過ぎる人の中に使徒ペトロとヨハネがいました。二人はお金では買えない富を持っていました。「わたしがもっているものをあげよう」あなたはそのような富を持っているでしょうか?あなたはお金では買えない富をどれだけ持っているでしょうか?あなたが持っているものは何でしょうか?この足の不自由な人に、あなたが持っているお金を多少あげることができたとしても、この物乞いはずっと物乞いのままです。人生に何の変化も起こりません。ペトロとヨハネがあげたもの、それは、この人を物乞いから解放するものだった。モノ外という不幸な状態から脱して神を賛美する者とされるという、人生を変えることのできる力ある人。ナザレの人イエス・キリストをプレゼントしたのです。不幸から幸福へ歩み出させる力を持つ方。悲しみから喜びの人生へと歩き出す力を与えてくださる方。失望から希望を与え、平安と慰めを日々与えてくれる方をあげたのです。主はわたしたちに「平安」を与えてくださいました。それは世が与えるようなものではありません。主イエスが与える「主の平安」です。主イエスが心の内に持っておられるのと同じ平安です。この平安はお金では買えません。何にも代えがたい栄光の富です。たとえば、今夜、睡眠中、心臓が停止したとしても目覚めたときは天国!という栄光の富です。永遠のいのちです。突然人生の清算を迫られても、悔いのない「わが人生満ちたれり」と言える状態です。あなたはこの平安をもっていますか?生きていれば、誰でも澱のように積もりゆく悲しみを抱えているものです。不安、迷い、悔い、恨み、怒り、無力感、などなど。日頃意識していないものが、何かの拍子に湧きあがってきたことはありませんか?わたしたちに一人ひとりに特別な計画をもって創造された神に、聴くことなく、従おうともせずきたなら、それは当然の結果なのです。神に満たしてもらうべき「欠乏感」を人間によって満たしてもらおう、とするなら、わたしたちは座して待つ物乞いのままなのです。けれども、ここに神の御言葉がかけられました。「ナザレ人イエスの名によって歩きなさい」神でありながら、わたしたち人間の世界に一地方人として共に暮らしてくださった方。罪のない唯一の方でありながら、すべての人の罪の身代わりとして十字架の刑を受けられた方。いのちの神から離れた人すべてが通らなければならない死を通って復活された方。このイエスさまと一つにされるなら、わたしたちはいのちの神と共にある平安をいただけるのです。わたしたちの心を曇らすあのこと、このことを神さまに申し述べましょう。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたし(キリスト)をも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている(ヨハネ14:1~4)」イエス様、いのちの主から離れたわたしたちのために払ってくださった尊い犠牲をありがとうございます。それはわたしの自己本位な心、犯した罪のためです。その流された血潮によって、わたしたちは新たにされ、神に従うものと造りかえられます。聖書の言葉を通し、礼拝を通し、いよいよ神の御心をわたしたちに教えてください。たとえ、人間の弱さゆえ成し遂げられないこと、乗り越えられない困難があったとしても、神はご自身を愛する者のために万事を益に変えてくださいます。(ローマ8:26)イエス様の御名によって歩むことを得させてください。
2007.06.03
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