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大阪の桃谷教会で「ジョン・ウェスレ―に学ぶ会」の聖会があった。高速バスの時間をやりくりしてやっと1コマだけ参加した。つるの学校の帰宅時間もあるので、当初牧師がひとりで参加する予定だったが、急に教会に残らないといけない用事ができたので、わたしが子連れで参加することになった。往復5時間、幼児連れでの外出。たった2時間のために。でも、それ以上の価値はあったと思う。(金曜の今になっても身体の疲れは抜けないが、、、大阪駅を寝てしまった16キロの子供かついで疾走したもので)やっぱり聖会はいいな~。とんかはきちんと大きな聖会に出れたのは3年ぶり。日曜の礼拝もきっちり出れないのだから、魂カラカラ。神さまに生涯ささげた人でも礼拝生活が貧弱になればただの人。それにしても、島から出るのはきついなあ。信徒さんに島外の集会出ろって言ってもねえ。高齢の方、身体の弱い方には物理的に無理。でも、聖会はいいよねえ。信仰への励ましの力が断然違う。いつか、島で聖会が開けるといいな。全島の教会も誘って平日に。できたらいいな、と思う方。いっしょに祈ってください。え?かんじんの聖会の内容?とてもさらりとは書けないです。体調戻ってこなれてきたら、追ってアップします。
2007.05.29
キリスト教会では年に一度(教会によっては数回)総会がもたれます。年間活動報告や年間予定、会計、役員の選出、その他重大な決断を要することなどが話し合われる全信徒参加の会議です。実際は諸事情で委任状を提出して欠席なさる方もおられるので全参加とはならないのですが。日頃の教会運営については役員会が話し合い、決めます。教会によって組織や役は少しずつ違いますが、うちでは牧師1人(法的には代表役員)と5人の信徒で役員会を構成しています。今年は役員改選がありました。役員は祈って投票で決めます。今まで長いこと役員をしていらした中心的な方が今回は辞退されて、相談役になっていただくことになりました。惜しむ声がありましたが、教会の働きをより多くの方に担って理解いただくための教会への愛の配慮でした。その方はずっと世代交代を祈ってこられたのです。ある教会では役員をしたことがあるOB、OGがたくさんいます。やったことのある方は事情がよくわかりますから、役員会のために全力で祈り、その他の信徒さんが一致できるようによく配慮されます。そういう方が多い教会は堅固な教会です。投票の結果、昨年役員をしてくださった4人に加えて新しくひとりの兄弟が役員会に加わってくださることになりました。実は、今日、突然のお仕事が入って、その方は教会にいらっしゃれなかったのですが、快く引き受けてくださいました。大変なこともありますが、うちの役員には特典があるのです。ひとつは月1回、特別な聖書の学びができて、経験豊富な方々のいろんな話を聴けること。もう一つは役員会という親密なグループから祈りのサポートを受けられること。ちなみに、牧師夫人のわたしは役員会には加わっていなくて、アコーディオンカーテンごしにもれる熱心な声と、ときおりあがる笑い声を聞いて「いやあ~役員会、楽しそうだなあ」とほほえましく思っています。先輩役員の祈りと期待に応えて、神さまの御声を聴きながら、なかよく楽しく教会を引っ張って行って下さい。みなさんも祈りのサポートをよろしくお願いします。m(_ _)m
2007.05.27
今日はペンテコステ、五旬節・聖霊降臨節ともいいます。十字架上で死んで復活されたキリストが弟子たちに現れ、天に昇られたあと、残された弟子たちは毎日集まって祈っていました。その祈る集団の上にキリストの霊・聖霊が下ったのです。天地を創られた神様は「聖霊」となって信徒と共にいつもいてくださるのです。この日からキリスト教会の宣教ははじまりました。いわば、「教会の誕生日」です。あるふぁしおん牧師にとって今日は「いつも共にいてくださる神さま」を見上げる喜びの日、そして、神学生時代来の敬愛する先輩の魂の25年目の誕生日(受洗日)であり、あるふぁしおん牧師の名前をつけられた男の子が洗礼を受ける日であります。聖霊降臨を記念する日、魂が神さまのものとされるくらいめでたいことはないではありませんか。ハレルヤ!前置きが長くなりましたが、今日のメッセージは、誕生間もない頃の教会の様子について。「家の教会」使徒2:43~47初代教会の聖餐式は神殿だけではなく、家々「家の教会」でももたれていました。一つの家からその次の家へと行われていったのです。「主は救われる人々を~」とあるように、人を救うのは人間ではなく、主ご自身であることを覚えましょう。聖霊を受け、精励に満たされ、導かれていた彼らは、毎日でも毎時間でも主を礼拝したいという思いいっぱいでした。ある長老がこう話しておられたのを思い出します。「わたしの願いはねえ、北海道のどんな小さな町にも必ず教会(伝道所・家の教会)がたってゆくことなんですよ」二人、または三人が祈るところに主もおられます。どんな少人数でも礼拝がささげられるところ、そこが教会なのです。各家々が「家の教会」となっていけるような歩みを目指していきましょう。「その家の教会によろしく」ローマ6:5新改訳
2007.05.27
ギデオン協会で奉仕しておられる方は、教会をまわってギデオンの働きを報告し、支援をとりつけたり、学校で実際に学生さんたちに聖書配布したりなさいます。わたしたちの教会には例年二人の老紳士が見えます。80を超えた方々が、遠方から車を飛ばしてこられるのです。(しかし、姿勢のよさ、はつらつとした笑顔の明るさ、そこらへんの若者が束になってかかってもかないません)なかなか後継者が与えられないのです、祈ってくださいと言われていました。ところが、今年はいつもの紳士のひとりに加えて、あるふぁしおん牧師と同年代(40前後)と思われる方が来てくださいました。「若い奉仕者が与えられて、運転も任せられて安心です」と笑顔の老紳士。学校の先生のような、きちんとしたすてきな方でした。ところで、ベテランの老紳士、家を出るときはいつも奥様が肩に手をおいて祈ってくださるのでそうです。それを報告してくださるうれしそうなお顔を見ながら、そんなご夫妻にならいたいなあ、と思いました。祈って送りだす。祈って送られる。祝福して送る。祝福して送られる。いいなあ。この老紳士が学校で聖書配布しておられたときのご様子の目撃情報を聞いたことがあります。ひとりでも多くの学生に配ろうと、校門に仁王様のように立ちはだかってせっせと配っておられたそうです。聖書配布はミッションスクールなどでは学校側から配ってくれますが、そうでないところは、チラシ配布のように校門で配っているのです。素直に受け取る子もいるし、避けて受け取らない子もいるでしょう。ひとりにでも多く、という情熱を感じるエピソードでした。
2007.05.25
今日は年に一度のギデオン奨励礼拝です。ギデオン協会というのは、ホテルや学校などに小型聖書を贈る働きをしている団体です。皆さんの中にも学校で小豆色や灰色の新約聖書をもらった方がおられるでしょう。英語と対訳になっているものです。また、ホテルのベットのとなりにある棚の引き出しに聖書が入っているのを見つけられた方もあるでしょう。あれは全て、ギデオン協会からの無料プレゼントなのです!現在では世界181ヶ国に13億冊の聖書が配られました。昨年は日本で3500万冊が配られたそうです。多くは本棚でほこりをかぶっているのかもしれませんが、後ろのページに「こういう状況に読むとよい聖書箇所」が載っていて、人生のいろんな状況に心揺らぐとき、開いてご覧になる方も多いようです。ご自宅に眠っているものがあったら、開いてみて下さい。さて、この大量の聖書を無償でプレゼントするには実際費用がかかります。それで、うちの教会ではギデオン奨励礼拝でささげられた献金全額を支援に贈らせていただいています。ギデオンの働きをすすめて働いておられる方のことは追って別項目でご紹介します。※今日の礼拝説教要約~マルコによる福音書14:24~42十字架にかかられる前にイエスさまは父なる神さまに汗を血のようにしたたらせながら祈られました。この祈りをゲッセマネの祈りと呼びます。イエスさまが味わわれた苦しみには到底及ばずとも深い悲しみ、絶望感、孤独というのは、多かれ少なかれ誰もが味わう体験です。人生のゲッセマネで、自分の限界を感じたところで「主よ、すべては あなたの御手の中にあります。主よ、御心のままになさってください」と魂の奥底から祈り得たなら、新しい人生は そこからはじまってゆきます。
2007.05.20
「マグ二フィカ―ト」ルカ1:39~56イエス・キリストを受胎したマリアが神さまをほめたたえて言った言葉を「マグニフィカート」と言います。一般に「マリアの賛歌」といわれるものです。「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。 ・・・・ 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。・・・」マリアは自分のことを「主のはしため=奴隷女」と称して、自分を小さな者としました。自分を低くすると神さまの偉大さがわかるのです。わたしたちはともすると神さまの目よりも人の目を気にし、主御自身よりも自分の栄光を求めるものです。そんなわたしたちが作った社会は劣等感と優越感のせめぎあう息苦しいものとなってしまいました。押しのけられ、居場所を失うのではないかという大きな不安が満ちているのです。そのような時代のなかで、わたしたちは主の母・マリアと共に主に賛歌をうたうことができます。マリアが胎内に救い主を宿していたように、わたしたちも主の御自身であられる聖霊さまを宿しているからです。(注:イエスを救い主と告白し信じる者の内に神様は宿ってくださいます。黙示録3:20参照)※今回の礼拝メッセージ、筆者は来客の応対でほとんど聴けませんでした。 実際と違う内容になっているかもしれませんがご了承ください。
2007.05.13
聖書は神からの手紙(ラブレター)であると、ある人は言いました。しかし、それはベタベタとした愛の押し売りではありません。わたしたちが一体どうすれば罪から救われるかを性格に、完全に、しかもよくわかるように教えてくれる手紙なのです。罪とはいのちの源である神から離れていることをあらわしています。恨み妬み、盗みといった一般に罪と称されるものは、ここから出ています。罪はわたしたちのしあわせを破壊する力です。聖書は、「生きよ」と祝福される神様からのしあわせへの招待状です。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りをただし、義に導く訓練をする上に有益です」第二テモテ3:16「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ」ヨハネ5:39
2007.05.07
「ガリラヤに行くように」マタイ28:1~10イエスさまは十字架にかかるとき弟子たちが自分を見捨ててゆくことをご存知でした。弟子たちは自らの弱さと罪深さに打ちのめされ、弟子としてのホコリも神の国の希望も何もかも失って故郷・ガリラヤに帰っていくであろうことも知っておられたのです。イエスさまは失望している弟子たちに復活の姿で現れて「いつもと変わらない挨拶」をされました。「おやよう(シャローム)」それはかつてと同じような日常のはじまりでした。でも、かつてとは全然違うものでした。声をかけてくださったのは死んでよみがえられた主であったからです。失望を通り越した現実の希望。イエスさまはガリラヤに行くように弟子たちに命じられました。そこは彼らがはじめて主に声をかけられたところです。そこは彼らがはじめて主に信頼して従ったところです。「はじめの所にかえりなさい。初心に戻りなさい」と言われるのです。あなたが失敗し、傷つき倒れたところで、大きな悲しみにあったその場所で主は出会ってくださる。そして、こういわれるのではないでしょうか「もう一度わたしについて来なさい。あなたを人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:18~)日常の挨拶にも復活のイエスさまの力がやどるならわたしたちの「ただの日常生活」は聖なる礼拝の場となります。マザーテレサはこう言っています「あなたと出あった人をそのまま帰らせてはなりません。出あった人々があなたに会う前よりも幸いとなるように笑顔・言葉・態度に心をこめなさい」さあ、行って祝福を祈りながら挨拶をしましょう。シャローム!(キリストの平和がありますように)
2007.05.02
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