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電信柱わきの大きな鉢植えあじさいは淡路にしかないという品種だそうで6月に白い花をつけます。教会で長年柱となってご活躍くださった姉妹の召天記念の品です。ところが昨年はバッタが大量発生し、どんな薬も効かない。水遣りのたびに動くバッタをはさみでつかまえてつぶす、という生々しい対処法も追いつかず。あじさいは葉を食べ尽くされて鉢にただ棒が突っ立ってます、という状態になってしまいました。こりゃだめだ、と思いつつ、大切な思い出の品、水を根気よくかけ、土質を良くするためミミズを捕まえては埋めて一冬、年会から戻ったら一斉に明るい柔らかな葉っぱが生えているではありませんか!お会いしたことはないけれど、姉妹がご存命だったら、この葉っぱのようににぎやかにイエスさまの恵みのつきない話ができたことでしょう。「食い荒らすいなごの食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う(ヨエル2:25)」との聖書の言葉どおり今年はいっぱい花をつけてくれるかもしれません!明日は棕櫚の日曜日、そして来週はいよいよイースターです!今年の教会で配るたまごはちょっと変わっていて夢がありますよ。お楽しみに。(^-^)/~
2007.03.31
イースター用品と本の買出しに神戸に行って来た。珍しくパパ抜きで、つるかめとバスに揺られた。元町から徒歩1分、駅前通り沿いのビルにあるキリスト教書店。はじめて行って来たけれど、つつましやかな看板、何だか地下教会のようだと思った。仕事帰りの友人をつかまえて、中華街で食事をし、散策して帰ってきた。早く本読みたいなあ。明日からは子供を寝かしつけるのがえらく早くなるかもしれない。老後(?)は教文館の近くに住みたいと思うわたしでした。教文館・・・キリスト教書をたくさん扱っている東京の巨大な本屋さん。 古本屋もいいけれど、アレルギーでむずむずかゆくなる。。。 パソコンが発達しても落ち着いて読むためのツールはやはり本が一番ですね♪
2007.03.29
春になると北海道時代、教会の空き地に咲いていたわすれな草を思い出す。本州では楚々として、花屋の鉢植えに咲いていたりするのだが、勇払原野のわすれな草はそんな風情は無い。「忘れたらゆるさないわよ!!」と言わんばかりにうっそうと茂り、アスファルトも持ち上げる勢い。わたしは幼い頃から実に多くの人に出会い、別れてきた。海外の日本人学校は生徒の出入りが激しい。そして、不運にも内気なわたしがやっとなかよしを作ると、その子が引っ越していく。手紙のやりとりをしようと固く指きりするのだがやりとりがだんだん間遠くなっていく。ある日、引っ越した子からの返事を待ちながら考えた。手紙が来なくなったのはきっといいことなのだ。あの子は新しい学校で友だちもたくさんでき、あえない人を思い出すひまもないくらい、たのしい時を送っているのだろう。べそをかきながら、やはり喜ばなきゃいけないことだと思った。忘れないよ、連絡するよ、という言葉は長く時間をかけたさようならなのだ。別れるさびしさを見ないための魔法なのだ。いつか地上にわたしのことを知っている人がひとりもいなくなるときがくる。転落防止の鉄格子のはまった高層アパートから空を見上げると強い海風が吹いてきた。風を受けながらふいに不思議な思いが湧きあがってきた。そのときも、わたしを覚えている何かがある。それはきっと、わたしのことを忘れない。小学校3年生のときだった。(早熟と思うだろうか、わたしたちが思うよりはやく子供は本質を理解する。表現する言葉をもたないけれど)教会にいると、想像を絶する過酷で孤独な歩みをしてきた方と出会うことがある。どうか彼らのうちにも神の風が吹いてくださるように。「わたしを忘れないで・・・思い出してください」神に覚えられていること、それが恵みだ。祈りを原野の花のように咲かせよう。
2007.03.28
今日は「ちいろば先生」で有名な榎本保郎先生ゆかりの教会で賛美集会があった。淡路キリスト教連合会という教会の集まりがある。淡路全島の教会が合同でクリスマスを祝い、一致祈祷会を年に一度行う。でも、年に一度では七夕のようだし、もっといっしょに何かを、という願いの中で得意の楽器をもつ3人を中心としてつき1回の賛美集会を開いている。会場は持ち回りで今日で3回目。春休みなので、つるかめも合流した。この賛美集会のテーマソングは「君は愛されるために生まれた」愛されるだけじゃ足りなくなって勝手にあるふぁしおん牧師が2番をつけてしまった。いわば2番は替え歌だから、ほんとは作曲者・作詞者に許可をとらなければならないのだろうけどどこにどう連絡したら良いのかわからないまま歌ってます。すみません。1・君は愛されるため生まれた 君の生涯は愛で満ちている 君は愛されるため生まれた 君の生涯は愛で満ちている 永遠の神の愛はわれらの 出会いの中で実を結ぶ 君の存在がわたしには どれほど大きなよろこびでしょう 君は愛されるため生まれた 今もその愛 うけている 君は愛されるため生まれた 今もその愛 うけている2.君は愛するために生まれた 君の生涯は愛で満たされる 君は愛するために生まれた 君の生涯は愛で満たされる 十字架のイエスの愛がわれらの出会いの中に深く刻まれる キリストにある平安が 今こそ世界に満ちていく 君は愛するために生まれた いまその愛をわかちあおう 君は愛するために生まれた いまその愛をわかちあおう 十字架のイエスの愛がわれらの出会いの中に深く刻まれる 愛し愛されることが われらのしあわせ 平和のうた 君は愛されるため生まれた 今もその愛うけている 君は愛されるため生まれた 今もその愛うけている
2007.03.27
先週上京した折、なつかしい方々に会い、このブログが集会報告だけになってる、と言われました。もっと、生活に関する様子も知りたいとのことで、確かに教会関係以外の方にはつまらないだろうと思います。すみません。それだけ忙しくなった、というより、日ごと大きくなる娘たちのパワーに負けて、夜はつい一緒に眠ってしまうわけです。言葉も心も成長するとはじまるのがきょうだいげんかというものです。つるとかめは6歳も年が離れていて、かめがわたしのお腹の中にいたとき、つるは毎日なでながら祈ってくれたものでした。「いっしょにあそべるおもしろい子にしてください。あの~できればいもうとがほしいんですが、もうおとうとにきまっていたら、へんぴんはできないんでしょうか?」弟だったら返品されるところであったけれど、主は知りたもう!妹だった!出産に立ち会ったつるは血にまみれたまんまるいかめを見るなり「かわいい!」と感動して叫んだ・・・騒がしいけんか声の彼方に、ハハの脳裏に思い出がよぎる。ついに、ふたりがもつれるようにわたしの前に来る。「ママ!ひどいのよ!」つるが理路整然とかめの非をとなえれば言葉じゃ姉にかなわないかめはいかにも哀れそうに泣きながら、どんなに自分が傷ついたかを訴える。う~ん、こうやって、人間は他者との交渉術を身につけていくのか。ヘンな感心をしてしまう。つるはまっすぐな性格で理屈っぽいとこわたしそっくり。かめは人の感情を操作するのが巧みだ。たぶん、この二人の基本形はあまり変わらないんだろうなあ。つるは教師むき。かめは牧者むき。いえ、感心している場合でない。つる、かめ、二人の間のことはママ頼みにしないで、自分たちで解決してごらん。二人はしばらくごちゃごちゃ互いに言っていたが、争いは激しくなり、しまいには手足が出始めた。「暴力はやめなさいっ!」二人を引き分けながら悲しい気持ち。「兄弟が共に座っている。なんという喜び(詩編133)」なのだけれど。子供たちのむつまじい様子は親に豊作の満ち足りた思いを与えるのけれど・・・。ちょっと助け船を出してみよう。それぞれの言い分を聞く。つるが出しっぱなしにしておいた大事なイラストを、かめが勝手に塗り絵にしていたらしい。一応かめはつるにあやまったけれど、そのいいかげんな調子につるはいっそう腹がたったらしい。「かめ、その絵、お姉ちゃんのすご~く大事なものだったみたい。お姉ちゃん、元通りにできないからとおっても悲しい、って。」「つる、かめはその絵が食卓にのっていたから、もういらないものだと思って色ぬったんだよ。お姉ちゃんの絵が好きだけど、自分はまねっこできないから、お姉ちゃんになった気分になりたかっただって。もっときれいにしようと思ったんだって。」まるで通訳だ。合点した二人が今度は謝り方についてもめはじめた。小さくたって面子というものはあるからね。でも、気が短いわたしはついに忍耐が切れてしまった。「いいかげんにしなさい!このけんかで嫌な思いをしてソンしたのは誰!」激しくどなってしまった。呆然としている二人ににらめっこで決着をするように命令した。つるはかめのふくらんだ鼻の穴を見て負けた。嗚呼、きょうだいげんか。つるよ、かめよ、覚えておきなさい。ケンカの決着で大切なことはどちらが正しいか、ということではなく和解と笑いにあることを。
2007.03.26
前奏招詞 詩編22:1~6頌栄使徒信条主の祈り交読 イザヤ書53:8~11聖書 ルカ23:32~49祈り賛美 120十字架より叫び聞こゆ説教 「主イエスと一緒にいるところが楽園」 イエスさまは鞭打たれ、自分がつけられる十字架を背負わされて刑場に引き立てられました。 けれども、もう重い十字架を負えるだけの力が残っていませんでした。 兵士は通りすがりのシモンに十字架を担がせました。 シモンはアフリカにあるキレネ出身です。 シモンは右左わからぬ都会で突然見知らぬ人の十字架を担がされたのです。 わたしたちは唐突に思いもよらぬやっかいごとに巻き込まれたり、いわゆる「貧乏くじ」を 引かされたことがないでしょうか。 「ミッション」という映画ではこのシーンで、嫌々十字架を担がされたシモンが イエスさまと目が合い、その背中の傷を見ているうちに心変わりしていく 様子を描いています。 兵士がイエスさまに乱暴な扱いをしようとすると 「この人にさわるな!」と怒りをこめて、イエスさまをかばうようによりそい、 十字架を担っていたのです。 わたしたちは思いがけない苦しみや重荷を担う羽目になったとき イエスさまの、わたしたちのために打たれた傷を見ることができます。 そこに踏みとどまらせていただきましょう。 さて、刑場・されこうべに来ると、イエスさまは2人の犯罪人にはさまれるように 十字架に掛けられました。 ひとごとのように見ている民衆、あざける議員たち。 「メシアであるなら自分を救うがよい」 ・・・自分たちの罪のために刑罰を受けている方に「自業自得である」と言っているのです。 年会である先生が教えてくださった、教会学校の子供が言った罪の定義を思い出しました。 「罪って神さまをばかにすること」 そんな言葉を耳にしてたしなめる人がいました。 イエスさまの片側に十字架につけられた犯罪人です。 「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。 しかもこの方は何も悪いことをしていない。」 「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」 その犯罪人にイエスさまは言われました。 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」 楽園、という言葉はエデンの園をさす言葉と同じです。 そこは、ひとがへだてなく愛の神さまと交われるところです。 イエスさまは、この言葉をこの犯罪人に対してだけでなく、 イエスさまを見上げるすべての人に言われるのです。 イエスさまはわたしたちを天にまねいてくださるのです。 「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、 キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 彼らの行き着くところは滅びです。 彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 しかし、わたしたちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、 御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」フィリピ3:18~20 賛美 112カルバリの十字架感謝の祈り献金頌栄 祝祷・アーメン三唱・後奏
2007.03.25
「わたしは向上したいんです」とある先生が言われた。繰返して言われた。「でも、わたしの教会のひとはそれをほんとうにのぞんでいるんだろうか」先生のもどかしさや、教会員さんへの愛を感じながらわたしはどうだろう、と思った。神学校を出て12年。いろんなところを通らされて、視点が変えられてきたと思う。でも、わたしは向上してるんだろうか。神さまがより使いやすい器になることがわたしにとっての向上であり神さまってこういうお方なんだ!ということがより証されていくことが教会の向上であると思う。でも、わたしはこの12年種々の雑用・・・主に生活に関わること・・・をこなすのに精一杯でいつも泣きべそをかきながら、力不足を感じながら来ただけだ。神学生の頃、教授にレポートの出来をほめられ、「女性は男性より言語力が強いような気がするね。 でも、卒業するとなかなかそういった女性の活躍は見られないね。」と言われたことを思い出す。時間がないからと言って自己研鑽を怠るのは言い訳だ。学生のように机に向かう時間はないけれど、違ったやり方で勉強することはできたはずだ。目的無くだらだらと過ごしてきただけなんじゃないだろうか。もちろん、わたしはまずは主婦なので、家庭第一なわけで、教会が居心地よくなるための仕事をこなさなければならないけど聖書の言葉を伝えなさいと呼ばれてきたのだからいつでも、相手の状況に応じて的確に語れるように自己訓練することを怠ってはならないはずだ。会う人、会う人「いや~いいんだよ、そのままで。神さまに愛されているんだから、まったりね」と頭をなでてくださるんだけれどわたしはわたしの最善をつくしきれていないことを知っている。居心地のいい場所を壊さないように、ということに神経がいく怠け心を知っている。「わたしらしくわたしの道」を見出し歩くのは難しい。(>_
2007.03.24
わたしたちの教会のグループでは毎年1回牧師・教会代表が集まって礼拝し、いろんなことを取り決める会議があります。教師にとっては教会のお仕事のひとつですが、楽しみでもあり苦しみでもあります。定期試験・終業式・始業式・同窓会がごったになったようなもの、と言えばいいでしょうか。教師としての1年間の歩みを点検し、他の教師と喜びも悲しみも知識も分かちあいます。夫あるふぁしおんは地方の1教会の主任牧師です。たいそう誠実まじめなので(妻がそう言うんだから確かでしょ)、家族サービスで出かけるほかは休日もきっちり教会につめて仕事をする方です。世のお父さんたちのように仕事帰りに一杯、とか休日ひとりぶらりとゴルフ、なんてこともしません。それだけに先輩やかつての学友に会えるのはほっとできるときかもしれません。それなのに、わたしは帰路めいっぱいネジを巻いてしまう悪妻です(笑)だって新学期だもん。ファイト!
2007.03.21
前奏招詞 イザヤ54:10頌栄使徒信条主の祈り交読 50聖書 ルカ22:39~46祈り賛美 99馬ふねの中に説教 「血の滴るような祈り」 十字架にかかられる前、イエスさまは弟子たちと最後の食事をし、 ゲッセマネの園で祈られました。 『ゲッセマネ』は油をしぼる、という意味があります。 そこで、イエスさまは油ではなく、ご自分の心、いのちをしぼって祈られたのです。 聖書は「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血のしたたるように地面に落ちた」と イエスさまの祈りの様子を伝えています。 そのイエスさまを天使が力づけた、とあります。 イエスさまは死ぬばかりに悲しいお気持ちでしたから、十字架にかかるまで死なないように 天使が支えた、というのです。(マタイ26:38) 十字架につくことはイエスさまにとって避けたいことでした。 この祈りによって、イエスさまはご自分の思い、願いを天の父の御心に服従させたのでした。 人類に祝福をもたらした、イエスさまの祈りはわたしたちに大事なことを教えてくれます。 まず第一にいつも祈る、という祈りの習慣の大切さです。 39節の『いつもの場所で』という言葉に、イエスさまと弟子たちが場所を決めて 繰り返し祈っていたことが分かります。 忙しく雑事に流されがちなわたしたちは時間や場所を決めて祈ることが大切です。 (神さまのために時間、場所、ものを特別にとっておくことを聖別といいます) 二番目に御心にかなった祈りをするためには、隠れた祈りが必要である、ということです。 イエス様との別れの予感におののく弟子、自分に頼ってすがろうとする弟子は 十字架を避けたい心でいっぱいです。それはイエスさまご自身の心でもありました。 誰もリスクは負いたくないし、愛する、親しい人との間に波風はたてなくないのです。 イエスさまは誘惑に陥らないように弟子たちに祈るよう命じ、ご自分はそこから 離れて祈られました。 人から、人の思惑から離れて祈られたのです。 「いやです」と即答したくなる思いから少し離れたところから御心を求められた。 御心を求め、従うためにひとりで祈っているでしょうか。 三番目に、祈れないわたしたちの現実です。 弟子たちは悲しみのはてに眠ってしまった。 わたしたちもしばしばそうでしょう。 見たくない現実をまっすぐ見据えて祈るのはたやすいことではありません。 しかし、イエスさまは弟子たちをお責めになりませんでした。 ただ、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と重ねて言われました。 わたしたちができない祈りを成し遂げられたイエスさまは、わたしたちが目覚めて 祈れるように助けてくださるのです。 ヘブライ4:5~16、5:7~10を読んで、わたしではなくキリストの御思いが なされるように祈りましょう。 わたしたちが罪赦されて、神のものとなるために主がされたことを心にとめつつ 賛美の歌をうたいましょう。 十字架より叫び聞こゆ「彼らを赦し給え」と 神の御子苦しみ受け 世の罪を負いたもう ゲッセマネの暗き夜の その祈り君知るや ゴルゴタの丘の上の苦しみは誰がためぞ 十字架より叫び聞こゆ「すべての事終わりぬ」と 神の御子血を流して 世の罪をきよめ給う 木の上に釘打たれし その痛み君知るや ゴルゴタの丘の上の苦しみは誰がためぞ (新聖歌120) 感謝の祈り献金頌栄祝祷報告 今週の祈祷会は定期総会年会のためお休みです。 年会は一年の方針など大切な事柄を決める集会です。 御心がなされるようお祈りください。 寒い日が続き、体調を崩している兄姉が多くおられます。 祈り深く体調・時間の管理に主のお助け豊かにありますようお祈り申し上げます。 弱さを覚えておられる方のためにもお祈りください。
2007.03.18
前奏招詞 詩編133頌栄使徒信条主の祈り交読 詩編32聖書 ルカによる福音書22:7~15祈り賛美 101イエスよ十字架に説教 「準備しておきなさい」 十字架の苦難を前にして、イエスさまは弟子たちと過ぎ越しの食事を共にしたいと 切に望まれました。 「過ぎ越しの食事」というのは、日本のおせちのように、 食事の献立一つ一つに意味をこめ、ひとつ味わうごとに、 そのいわれを思い起こす食事です。 この食事を毎年することによって、イスラエルの人々は古来 先祖が奴隷の苦しみから神さまに救われたことを思い起こすのです。 神様は僕モーセを遣わして、イスラエルの民を解放するように エジプト王に命じましたが、エジプト王は利害関係にかられて言を左右にしました。 様々な奇跡と圧力がエジプトに加えられましたが、 最後にエジプト全土の初子が死に絶える災いが夜起こされました。 イスラエルの全家は神様からの指示に従い、門にイスラエルの民の住処のしるしとして 子羊の血をぬり、死をまぬかれました。 そして、ついにイスラエルはエジプトを脱出したのです。 この夜を過ぎ越しといい、これを記念する祭りを過ぎ越しの祭りといいます。 過ぎ越しの食事を通して、イエスさまはイスラエルの民を守った子羊の血が イエスさまの犠牲であること、 弟子たちに裂き与えたパンが、イエスさまご自身であることを示されたのです。 さて、この大切な食事をするには妨害しようとする力がありました。 当時の宗教指導者はイエスさまを恐るべき存在として抹殺しようとしていたのです。 「わたしは十字架にかからなければならい。 でも、そのことの意味を悟らせるためにも、弟子たちとの最後の食事が不可欠だ。」 イエスさまは水がめを運んでいる男についていき、その主人とコンタクトを取るようにと ペトロ、ヨハネを遣わします。 暗号のように秘密めいたやりとりに、大切な食事の会場の確保をすることが 命がけであったことがわかります。 会場を提供した家の主人は身の危険をかけて広間を整えました。 こんなことをしたら、わたしはどうなりますか、とは聞きませんでした。 ただ、準備したものを見せてくれたのです。 わたしたちを礼拝させまい、とする力が働く中で、 「切にあなたと食事を共にしたい」というイエスさまの思いにお応えするには どうしたらよいでしょうか。 賛美 378罪の世人らに感謝の祈り献金頌栄祝祷・アーメン三唱・後奏報告
2007.03.12
招詞 詩編27:4使徒信条主の祈り交読 聖書 エフェソの信徒への手紙 4:1~6 賛美 新聖歌253(イエスの御腕に)メッセージ 「エクレシア(呼び出された者の集まり)」聖餐式賛美 257(キリストは生きておられる)感謝の祈り 皆さんは「教会」とは一体 何だと思いますか? ある方は「それは、十字架が屋根に立っている建物のことを言うんでしょう」ある人は「神様は偉大な方。人間が建てた建物になどお入りにならないはずだ。」という話を聞いたことがあるので、教会とは単に建物のことを言ってるんじゃないはずだ。」と考えるかもしれません。「神様、イエス様についての話を聞いたり、賛美歌を歌い、祈りを捧げる場所です。使徒信条に書かれている聖なる公同の教会のことを言うのでは?」いずれの意見も、間違ってはいません。けれども実は、「教会」という言葉にはもう一つ、ギリシャ語で「エクレシア・呼び出された者の集まり」の意味があります。また、聖なる公同の教会の「聖なる」には、他から分離されているという意味があります。今朝、教会学校に来てくれた少年たちにメッセージの中でこんな質問をしました。「朝、起きて一番に考えたことは、どんなこと?」「ゲームのことぉ!」「テレビのこと!」もう一人のB君は言いました。「A君ちに遊びに行こう」と思った。そして、A君ちに行ったB君は、A君との話し合いの中で、どうやら「何して遊ぶ? そうやなぁ、この前行った教会に行ってみようやぁ」そんなわけで、彼らはやって来た。彼らはもちろん、意識してなかっただろうけれど、これは、「イエスさまが呼んでくださったんだよ!」そう思った僕は そう言って、B君の肩を うれしい気持ちでポーンっと たたいてました。A君たちは ゲームやテレビのことは もう忘れて「(イエス様から呼ばれてゲームやテレビのことを考えることからも分離されて)「教会」にやってきたというわけです。エフェソ4章4節には、「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」とあります。子供の頃、自分の誕生会への招待状を書いて覚えがある方はけっこういるでしょう。私たちは毎週「イエス・キリストの誕生会に招かれている」と言ってもよいでしょう。クリスマスが終っても、毎週 キリストは あなたに「キリストの誕生会」(日曜礼拝)への招待状を送ってくださっているのです。キリストに招かれた(呼ばれて)その場所でキリストの十字架と復活の恵みが語られており、キリストによる平和のきずなで結ばれた者たちの「集まり」の その中で洗礼の恵みと聖餐に あずかる人が起こされていったなら。それがあるならば、そこは いつでも、どこでも(公同の) たとえ、建物はなくとも、そこが「教会」なのです。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが解くことは、天上でも解かれる。・・・二人または三人が わたし(キリスト)の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイ18:18~20メッセージに応答してある姉妹が、こう祈りました。「主よ。まず、わたしたち自身の心のうちに聖なる天のエクレシア(教会)を建てあげてください」
2007.03.04
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