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今日は教会暦で「灰の水曜日」です。灰の水曜日というのは、キリストが十字架にかかられたことを記念する受難日の1ヶ月前の日のことです。この日は、わたしたち人間が塵に過ぎないこと・・・神さまから頂いたいのちを取り除けられたらただの塵であることを思い出す日です。そして、神さまから離れた生活、心を悔い改める日です。わたしたちの教会では行いませんが、欧米の教会ではこの日に礼拝をささげ、額に灰をぬってもらいます。聖書の古代世界では神さまの前に自分の罪を悲しむことを表すために、荒布をまとい、灰を頭にかぶってひれふす習慣がありました。そして、衣を引き裂いて、大声で泣くのです。聖書で言う「罪」とは、神さまとの関係が崩れていること、また、そこから生じる歪んだ思いや行為を意味します。信仰のあるなしに関わらず、自分のあり方に不安を感じ、いたたまれない気持ちになったことは誰でもあるのではないかと思います。神さまに愛されていることがほんとうにわかっていないと自分に自信がもてません。その自信のなさを、他の人がわたしを大事にしてくれないから、とかもっとがんばらなくては、とか自分に愛がないのを他のひとのせいにしたり・・・殺伐とした心になってしまうのです。ほんとうにこわいのは、傷んでいる人びとや自分のために労苦してくれている人の存在に目をつぶって、「わたしはじゅうぶん満足した生活をしている」と思ってしまうことです。(ラオディギアにある教会への手紙参照/ヨハネの黙示録3:14~)今日一日は、自分の罪深さから目をそらさず、静かに黙想してみたい。そこから、わたしのために十字架にかかってくださったキリストの姿が見えるでしょう。神さまの愛の泉はそこから湧いてきて、かわいたわたしの心を潤してくださるでしょう。今日から受難節です。
2007.02.21
前奏招詞頌栄使徒信条主の祈り交読 詩編23篇聖書 ヨハネ11:17~44祈り賛美 ガリラヤの風かおる丘で説教 「その石を取りのけなさい」 イエスさまが愛しておられたきょうだい、マルタ、マリヤ、ラザロ。 そのきょうだいに悲しいことが起こりました。 ラザロが死んでしまったのです。 床についたラザロのために来て祈って欲しい。 姉妹はそう願って使者を出したのですが、イエスさまは腰をあげてくださらない。 でも、そこにはより大きな祝福に導くための愛の配慮があったのです。 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、 わたしは今でも承知しています。」 「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」 福音書の中でも、最も美しい、純真な信仰告白がマルタの口から出たのでした。 ラザロの死を悲しむために集まった人々は死者をも生かす、 神様のご臨在に触れることができました。 わたしたちの祈りの応えが遅れているように見えても、どんな困難、痛みがあっても 落胆してはいけません。 神さまは必ず、より大きな栄光と祝福のため、そのことを用いてくださいます。 ですから、神さまが御心を行われるために妨げとなっているもの ・・・罪や不信仰を取りのぞくようにつとめましょう。 感謝の祈り献金頌栄祝祷アーメン三唱・後奏報告
2007.02.18
前奏招詞 イザヤ40:28~31頌栄 使徒信条主の祈り交読 詩編23編聖書 ヨハネ21:1~14祈り賛美 238尊き泉あり説教 「さあ、来て朝の食事をしなさい」 『今までイエスさまに従ってきたのは何だったのか。 これからどうしたら良いのか。。。以前していた漁でもしよう。』 それが、今朝の聖書箇所に出てくるペトロの気持ちだったのではないでしょうか。 ペトロは慣れた仕事に戻った。 でも、何も取れなかった。 教会生活で「こんなことしても無駄だ」と思ったことはないでしょうか。 「何かあるか」と問われても「ありません」としか答えられなかったペトロ。 からっぽな彼のために、復活のイエスさまは岸で魚を焼いて朝食を整えてくださいました。 来て、食べなさい。 わたしたちはこの、イエスさまの招きに応じて、今朝も、また朝ごとに霊の糧を いただくことができるのです。 それは、一日に備えての主の励ましです。 主は魚が取れる方法・・・その日を生きる秘訣を教えてくださいます。 わたしたちは153匹という大漁の喜びを携えて主の下へ行くことができます。 150匹でもなく160匹でもない。 153匹。 魚の数にもこだわるように、神さまはわたしたち一人一人を、 その抱えている課題一つ一つを大切にしてくださる方です。 失望しないで、神さまが置かれた場所に留まり、網を繕うもの、 神と人、人と人をつなぐものとならせていただきましょう。 みなみななみさんが訳された第一コリント13:4~7をお読みします。 愛は すぐにあきらめない。 相手はどんな気持ちだろうって 考えられる。 なんだよあいつばっかり、って 思わない。 愛は 私すごいでしょ、って 見せびらかしたりしない。 自分のほうが上だな、とか 思わない。 失礼なこと、しない。 そんなの損だ、とか思わない。 ムカついたりしない。 他人のイヤなことリストを 心にメモしない。 いんちきで得してるのを ラッキーだなんて思わない。 本当のことがわかったら よかったーって思う。 期待して その場所でふんばる。 本当の愛は 何があっても なくならない。 「愛ことば」みなみななみ いのちのことば社フォレストブックス賛美 102主はいのちを感謝の祈り献金頌栄祝祷アーメン三唱・後奏報告
2007.02.11
自分らしく生きようただし人と共存していることも忘れないように 自分のしたいことをしようただし責任をもてるようなことを人間としてのほこりを持とう動物や機械ではないのだから自分を愛そう身体も心も感情も魂も自分を愛そう成長しようまちがいをしてもいいまちがいから学んで変わっていこうよく考え、理性を持とうそして想像しよう観察しよう勉強しよう自分のことは自分で決めよう人に頼らず、混乱せずきっちりしようまわりの人を大切にしよう思いやり気遣おう心を割って話そう自分を変えていこう自分の行動・信念を改善していこう関心をもとう世界にまわりの人にくよくよ悩むのはもうやめよう父なる神によってここまで導かれて明日からも支えられて生きるのだから人と違ってもいいではないかみんな違うのだから(作者不詳)
2007.02.04
前奏招詞 詩編107:1~3頌栄使徒信条主の祈り交読 詩編22編(抜粋)聖書 ルカ5:1~6祈り賛美 フリー説教 「お言葉ですから」 徹夜で漁をして何も取れなかったペトロと仲間たち。 疲れて後片付けをしているペトロにイエスさまは自分を乗せて 舟を少し岸から離すように頼み、そこから群集を教えられました。 そして、教え終えるとペトロに「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」と言われました。 日中の漁は漁師のプロには非常識なことでした。 でも、イエスさまの教えに心動かすものを感じたのでしょう。 ペトロは「お言葉ですから」と従ったのでした。 すると、舟が沈みそうになるくらいのおびただしい魚が網にかかったのです。 自分の経験・体験で不可能と思えるところにも 主の声に従うとき、祝福が開けるのです。 疲れたとき、ぜひ聖書を開いて主の教えに耳を傾けてください。 (先週、話にちょこっと出てきた「良い生活のためのリスト」、きちんと聞きたいとの 声が多かったので分かち合いました。)聖餐式賛美 40ガリラヤの風かおる丘で感謝の祈り献金頌栄祝祷アーメン三唱・後奏報告
2007.02.04
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