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小山評定(おやまひょうじょう)で東軍・西軍の陣容が決し、いよいよ決戦・関が原の佳境を迎える。筆者の地元、現・栃木県小山市役所付近で執り行われたこの歴史的会議に先だって、徳川家康は政治家・武将としての老獪な力量の全てを投入して天下取りへの布陣を固め、東西はほぼ互角の形勢となった。西田敏行が圧倒的に素晴らしい。役者として脂の乗り切った芝居を見せ、画面からはみ出しそうな顔のクローズアップと緩急自在な科白廻しで、永い忍従の幾星霜への感無量の思いと、威圧感溢れる大人物のオーラを遺憾なく醸し出している。ただ、だいぶ前に書いたが、今に残る肖像画やその言動・事跡などを総合すると、もう一段ミステリアスで知的な三國連太郎(の若い頃)がベストのキャスティングであったろうという僕の持論は変わらない。ついでに僕の頭の中の配役思考実験では、信長はユニクロ・ファーストリテイリングの柳井正CEOその人で決まりだ。キッツイ目をした体制破壊・価格破壊の英雄は、時を超えて瓜二つである。・・・それはさておき、これまでの山内一豊の半生を顧みて、妻・千代の掌で踊らされる無能な無骨者という巷説の評価は全く当たらないという歴史ファンの根強い見方がますます正しく思えてきた。生き馬の目を抜く戦国時代、親の仇だった織田信長に迷わず仕え、秀吉のもとで何でもありの情報操作と謀略戦を実地で学び、すでに晩年は民心を失っていた秀吉の没後は、すかさず速やかな天下の形勢観望をして掌を返し、即座に徳川家康に寝返った。しかも、一豊が小山評定の場で、いち早く家康全面支持と掛川城・掛川6万石の所領明け渡しを表明して家康を感激させ、関が原戦後に土佐24万石に封ぜられるきっかけとなった言動が、長年の盟友・堀尾茂助吉晴のアイデアをパクったものであることは事実であり、徳川8代将軍・吉宗の侍講(儒者)室鳩巣はこのことを以って、一豊を「ずるい人であった」と著書「駿台雑話」で非難している。とはいえ、敵も味方も知恵を絞って命がけで功名を挙げようとしている時に、不用意にピカピカのコンセプトを漏らす方にも油断がある。人生、要領も必要だね。ただ、「仏の茂助」の異名を取るほどに温厚篤実な人物で、人望があった堀尾吉晴が、このことを知って泰然と笑って許したのもまた事実であろう。猪右衛門(伊右衛門)も茂助も、生きるか死ぬかの戦国の世を、徒手空拳から身を起こして大名として立派に生き抜くことが出来たんだから、ま、多少のことはいいやね。(もっとも堀尾家は、3代将軍・家光時代に堀尾忠晴が出雲・松江藩から改易処分になっているが、これはまた別の話である。)なお、1石というのは、当時の成人男子1人が1年間食いつなげる米の量であったという。24万石というのが、いかにとてつもない果報であったか分かろうというものだ。命を賭けるだけの代償はあった。ところで、掛川城を明け渡したとはいえ、山内家一行が“野宿”の憂き目に遭ったというのは本当かね?(ドラマとしては、降りしきる雨の中での、一豊の火を噴くような叱咤激励の言葉に、見ている方まで鼓舞される見事なシーンだったけど)ちとバカ正直にも程があると思ったのは僕だけではあるまい。まあ、NHKの時代考証といえば正確さで定評があるから、裏付ける文書(もんじょ)でもあるのかも知れないが、にわかには信じられないね。めいめい、城下に自宅があるわけなんだけどね、それまで明け渡したのかえ?ちなみに彼らの住まいは、そこはいやしくも支配階級、足軽などの下級武士でさえ、庶民から見れば“広大な”といっていいほどの広壮な敷地を有していた。読者の皆さんが城下町に住んでいるなら調べてみれば分かる。例えば筆者の住む宇都宮は古くより二荒山神社の門前町であったが、29日オンエアの大河ドラマで家康の腰を揉んで、「豊臣恩顧の武将たちを試してみてはいかがでしょう」みたいな悪だくみを進言した本多正純(のち、幕閣内の派閥争いで2代将軍・秀忠時代に失脚)をはじめ、徳川譜代大名が治めてきたので、典型的な城下町の構造を今に留めている。現・西1丁目~3丁目・一条付近(旧・一条町~四条町)は江戸時代の中級武士の居住地区の碁盤目の町並みをほぼそのまま残しているが、この一区画が丸々武家の一世帯である。広いなんてもんじゃない。正確に測ったわけではないが、見た目400坪ぐらいあるんじゃなかろうか。建坪はせいぜい40~50坪ぐらいだったので、広大な庭があった。また、現在の宇都宮市立中央小学校の敷地は、江戸期の地図に照らし合わせると、丸々家老級の一上級武士の邸宅である。また現・大寛(旧・代官町)は、徒歩(かち)足軽などの下級武士の居住区だが、これも同様である。江戸時代も後半になると、彼らはインフレーション経済の中で貧困に喘ぎ、敷地の大半は自給自足の野菜畑や果樹園に様変わりしたわけだが、猫のひたいの安普請に押し込められていた町人から見れば、夢のように豪壮な邸宅だったといえる。なお、「代官」とは、将軍・藩主の代わりを務める役人の意味。ついでに言えば「奉行」も、上意を「奉(たてまつ)り行(おこな)う」役との意である。――いくさの前に、こういう邸宅で、明日の命も知れぬ妻子・家族との別れを惜しみ、辞世の和歌など詠み、水盃など交わすのが当時の武家の作法だったと思うが、ドラマツルギー的省略かな。話がそれたが、この“戦前の政治戦”で大きな勝利を収めた一豊は、すでに「我が事成れり」という気分だったのだろう。関が原ではほとんど大した働きもせず、兵力を温存してやり過ごした。機敏である。恐ろしいほど目端の利く男である。“女大名”千代の言いなりになっている朴念仁などという評価は、講釈師見てきたような嘘を言い、の類いである。・・・というか、確証はないが、たぶん一豊が自分で言いふらした情報操作である。徳川家康という人は、その不幸な生い立ちや、あまりにも長い忍従の日々の中で、極めて猜疑心が強く、疑り深い、石橋を叩いてなお渡らない、煮ても焼いても食えないタヌキ親父だったことは周知の通りである。こういう性格の権力者の特徴は、自分の前に立ちはだかる“有能”と思える者は、潜在的な敵と見なして全て潰すということである。長男・信康を信長の命で殺したあと、秀吉の人質になっていた次男・結城秀康を生涯信じず、いびり殺した。加賀120万石の前田家の3代目・利常には、三男で2代将軍・秀忠の娘・玉を娶わせた。もちろん政略結婚である上に、侍女を含めて公然たる間諜・隠密・スパイである。利常は玉が夭折するまで、“バカ殿”を演じつづけたといわれる。加賀藩には、その後も陰に陽に圧力と謀略の魔の手が繰り出され続けた。こういう例は、御三家に対しても同様であり、由比小雪の乱やいわゆる「柳生武芸帖」伝説など、枚挙に暇がない。水戸黄門こと徳川光圀が諸国を漫遊したなどとはもちろん作り話であるが、その話の元になったような文化人こと隠密が各地に放たれて、陰険に各藩の内情を探ったことは事実だ。奥州雄藩、とりわけ仙台伊達家に対する“松尾芭蕉忍者説”も、伊賀出身の武士であることも併せて、決して荒唐無稽とは言い切れない。こういう徳川幕藩体制の管理的体質が、権現様こと家康のパーソナリティをその淵源に持つことは明らかだ。もっとも、徳川政権によるこの高度な管理社会が、早くも近世において近代を準備し、戊辰戦争の最小限度の犠牲でスムーズな明治維新革命を実現させ、アジアで最初の近代化に成功するパラダイムを用意したことはきわめて高く評価される。例えば、一種独特な響きのある兜町の株式用語などは、ほとんど江戸時代に出来ていた。誇るに足ることである。一豊も、一種の“バカ殿”を演じ、自分から言いふらしたのだろうと思われる。これが独裁的な体制において中間管理職的な立場のものが生き延びる賢明な道であることは、旧共産圏諸国を見るまでもなく、現代ですらよくあることである。さて、こうした一豊の情報操作は、おそらくかつての上司、秀吉に学んだものだと思われる。母なか(大政所)の太陽の夢の妊娠伝説、日吉神社と日吉丸伝説、その他、後世「太閤記」伝説となるような多くの逸話の中核部分は、自らの威厳(ディグニティ)を高めるために秀吉が生前に作らせ、言いふらし、吹聴させたものであるという。それは一定の効果があった。直接の部下として長く秀吉に仕え、その振る舞いをつぶさに見てきた一豊が、何も学ばなかったはずはないと思われる。・・・ちょっと忙しいので、まとまりに欠ける文章で、すんまそん。
2006.10.30
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Days In The Lifeきょう僕は新聞で読んだよ京都長岡京の運送業の父親と内縁の妻が3歳の子供を餓死させたがりがりに痩せこけた子供を見て男は女に「このままじゃ死んじゃうからやめてくれ」といったが継母の女は「そうやね」といったきりだった死ぬとは思っていなかったんだそうだ僕は君のスイッチをひねってあげたいきょう僕は新聞で読んだよ福岡筑前の13歳の少年が首を吊って自殺した素直で頭のいい子だったが教師からも同級生からもいじめ抜かれてたった一人の友達に気持ちを打ち明けて逝ってしまった自分の家にも居場所はなかったらしい僕は君のスイッチをひねってあげたい朝8時に飛び起きてテレビを点ける コニちゃんと子供たちが垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども――長塚節(母が吊った青いかやを爽やかだなあといって寝た、たるんでたけどね)なんて歌っているビーンスタークの「つよいこ」をぬるま湯に解かして260cc(キュービカルセンチメートル)のあたたかいミルクを作るまだねむねむの子供たちを揺り動かして起こすのは僕の役目だやっとの思いで哺乳瓶を銜えさせて お目覚めのミルクをおいしそうに飲む娘たちの顔を見ながら僕は夢見心地きょう僕は新聞で読んだよ大阪岸和田で15歳の少年が殴る蹴るの暴行を受けた上餓死寸前で発見された父親はこわ面のヤクザみたいなDQN(ドキュン)だったが本当は現実に直面できない弱虫の駄目男だったんだろう真っ暗な部屋の鮮やかなブルーシートの上に放置された少年の体は生きながら半ば腐爛し始めていたという僕は君のスイッチをひねってあげたいジョン・レノン、ポール・マッカートニー「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」(ザ・ビートルズ)より。「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド(ペパー軍曹の孤独心倶楽部楽団)」所収。© Nohara Sakamoto 2006 All rights reserved.
2006.10.29
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神輿渡御(みこしとぎょ) 禰宜(宮司)様 若武者 武者 大工町会所
2006.10.28
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地元・宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社の秋の例大祭・菊水祭が、きのうから明日まで古式ゆかしく執り行われております。私も旧町内の神祇(じんぎ・檀家)三番町・大工町の住人として毎回参加しておりますので、お目にかけます。宇都宮の名の起こりである二荒山神社の菊水祭は、宮中で言えば新嘗祭に当たり、秋の収穫を祝い一年の勤労をいたわる最も重要な祭りです。秋の例大祭・秋山祭への武家政権による付け祭として栄え、さらに近世には町人階級の彫刻屋台(山車)などが加わって壮麗な祭りになりましたが、この屋台渡御の部分は、1976(昭和51年)に始められた夏祭り「宮まつり」への参加に移行しました。戦前は、祭りの間3日間ぐらいは、官公庁・銀行・商家も休業したそうです。今では信じられない話ですが。宇都宮は、古代には大和朝廷の日本統一の最前線の橋頭堡として築かれ、実在が確実視される最初の天皇・崇神天皇の第一皇子がこの一帯の“蝦夷”を平らげたと伝えられ、「江曽島」の地名にそのなごりがあります。その陵墓・古墳(前方後円墳?)が二荒山神社の淵源とも見られます。近世に入り、宇都宮藩18万石(のち分割されて15万5千石)は、江戸時代には日光道中の最後の宿場として、奥州街道への分岐点として栄え、徳川家譜代大名が治めてきました。・・・こうした古い歴史を持つ郷土ですが、ご多聞にもれず、今ではどこにでもあるビル街ばかりの殺風景な街並みになってしまいました。つまらないことですね。筆者の属する大工町町会・会所設営 大工町馬印・天逆鉾(あまのさかほこ) 大工町・逆鉾巡行 宮島町・天狗随行 大工町・警護 行列権禰宜(ごんねぎ・副宮司)様
2006.10.28
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い ち ご ミ ル ク を く れ た き み 四十年近く前うちは僕をタラオとする磯野家みたいだったからコカコーラは三世代の家族そろって何かの儀式よろしくこわごわ飲んだお爺ちゃんとお婆ちゃんは薬臭いと苦虫を噛み潰したような顔でこのマッカーサーが持ち込んできた異国の飲み物を唾棄するように貶して二度と飲もうとしなかった僕も正直言って三ツ矢サイダーの方がおいしいと思ったかっぱえびせんが新発売になったときを覚えているこれはすぐ虜になった初代のイメージキャラクターは噺家の柳家小せんだった小せんえびせん かっぱえびせん 一度食べたらやめられないちなみにカルビー製菓の名は かっぱえびせんにカルシウムとビタミンBが豊富だということから名づけられた 真偽のほどは知らないそれらはともかく東鳩からいちごミルクが新発売になったときさっそく教室に持ち込んで 僕にも一個くれたのはきみじゃなかったっけ?ずいぶん長い付き合いになるねえもう三十年以上も たまに会ったり 思い出したり 忘れ去ったりしている一度 とんでもなく親(ちか)しくなる機会さえあった僕はそのとき心の準備が出来てなかった申し訳なく思っているで そのいちごミルクは 空前絶後にうまかったあれ以上うまいお菓子に あれ以来出会ったことがないもっとも 男というものは成長するにつれて自然と甘いものが苦手になるものだ 不可思議な現象だねたぶん生物学的には メスと子供に必要な糖質を与えるためだよ科学は万能ではないが大抵のことは説明できる なめてはいけないオスは種の遺伝子を保存するために自分という個体を犠牲にするようにプログラミングされている ああ愛しき大河ドラマそれにつけてもおやつはカール君の研究社英和中辞典はすべてのページにアイロンが掛けてあって手に持つとふわふわゆらゆらさらさらぱらぱらと捲れて机に置いてもふかふかに脹れていたねとはいえ 研究社の各種英和辞典は 文学的な単語が足りないはっきりいうとエッチな単語が しっかりと排除されているのが不満だ教育的配慮か何か知らないが 情報操作されているような被害妄想さえ感じる英和辞典の中からエッチな単語を探し出すのは 思春期の男の子の(女の子も?)大きな楽しみの一つだ実を言うと僕は密かな英和辞典評論家なのだやっぱりそういう点では S社のP英和中辞典が一番だ なにしろこれはアメリカのR大英和辞典の縮刷版という性格も併せ持っているからね今 猫も杓子も大修館のジーニアスかい さもなくば学研のアンカーふん つまらん(ここ 大滝秀治さんの声色で)あのド秀才の学年のマドンナを何のためらいもなく猫みたいなあだ名で聞こえよがしに呼んでいたのも多くの場合きみだったのではなかったかきみの茶目っ気と人懐っこさと人徳は二十世紀の七不思議だ学者になり人妻になったきみを こないだ街で見かけた冴えない顔して歩いていたこっちも二日酔いで不精髭を剃り忘れていたので 声を掛けなくてよかった松任谷由実の卒業写真の歌詞だと声を掛けられたんだっけ?この点はネットで調べればすぐ分かることだけどどっちみち なかなか歌の文句のようにはいかないよね
2006.10.25
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嵐 の 夜 と 龍 の 夢テレビを見てないから現代人じゃないと思うラジオは聴いてるけれど野球もサッカーも興味がないから変人だと思う相撲は好きだけどその代わりに夢を見ているこんなにも穏やかな秋の夜長にふさわしくないムソルグスキーのような嵐の一夜にメガロポリスと龍の夢を見た繰り返し繰り返し僕の夢に現れてくる北の大地の漆黒の中に高光る平安の京が僕といふ鳥の俯瞰する視界の中に碁盤目みたいに整然と煌いているすると突然鳴り渡る伊福部昭のアイヌの旋律の重厚な響きそうだ 「モスラ対ゴジラ」の音楽だわが密かに心酔していた最も信頼できる具眼の映画評論家の金坂健二が日本映画のトップ1に挙げていた隠れた名作だフランス文学者の中村真一郎 福永武彦SF作家としてデビュー直前の星新一らがああでもないこうでもないと寄ってたかって作り上げたメルヒェンモスラの卵の鎮座するインファント島の白日夢から古関裕而のあの歌謡ショーみたいなテーマ曲を駆逐して成ったその音楽は四十年後の僕の魂に今も鳴り続けている文楽は見に行くものでなく聴きに行くものだというポール・マッカートニーは映画は見るものでなく聴くものだと言ったそうだ 僕にとっても映画館の暗闇は伊福部昭のコンサート会場だ戦争と平和 北海道と東京 日本とアイヌとを一身に体現した骨太な男の七人の侍では百姓を演じていた大部屋役者たちと日劇ダンシングチームによる東宝原住民(かつては土人と呼ばれた)と酋長円谷英二による東宝自衛隊が露払いを務めて十分なアトモスフィアが醸し出されてのち核戦争の悪夢を身にまとったゴジラがかつてムー大陸が沈んだという南太平洋の共同幻想の中から徐ろに立ち現れるいけない鳥爺のわしは龍の話をしていたのだつたその龍は唐突に炎のように僕の眼前に姿を現わし僕の視界と身体に絡みついただがこれはカラミティではなくリアリティなのだった とは単なる駄洒落だ龍の巨大な躯体は燦然と輝きながら中空にのたうち回りその尾のひと振りが都市に鎧袖一触するときビルディングは咆哮し電線はスパークして蒼ざめた仄めきを放ち別世界からの警告がくっきりと闇夜に示されるそして都市の夜景の上に飛翔し躍動し天空へと昇り去った稀に見る瑞夢というべきだろうフロイト、ユング、アドラー、シェルドンもびっくりの僕の意識の深いところから涌き出てきた根源的な力の顕われ惜しむらくは またはあろうことか それとも あにはからんやさもありなん 何でもいいが 龍の顔はキングギドラそのままだったギドラって何だ 銀河のドラゴンか ギラギラしたドラゴンか何にせよドラゴンに変わりはないから僕は身を任せて揺れているそしてあの神話のヤマタノオロチが二重写しになつて銀河の光が漣となって零れ落ちてくるようにとめどなく僕の体の中へ流れ込み流れ込み流れ込んでくるのだった おしまい
2006.10.24
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そういえば、昨日の深夜にタバコを吸おうとベランダに出たら、天頂近くの空に居待月ぐらいであろうか、満月と下弦の間ぐらいの月が出ていて、その東の方から冴え冴えとしたオリオン座が上ってきており、天空でランデヴーしていた。――あの三ツ星は、右から、Aちゃん(長女)、Bちゃん(次女)、Cちゃん(三女)の星なんだよ、とかなんとか、現在2歳7ヶ月の娘たちに言ったりする日を楽しみにしている。すでに、「オホシサマ」が大好きな三人娘なので、喜ぶだろうな~。「なに変なこと言ってんのよ。」とか、妻にツッコまれるのも、目に浮かぶようである。オリオンの三つ星あれがなむちらの星なるべしと言ふ日もあらむ拙作歌集「うたのおけいこ 1 オリオンの三ツ星」より(左サイドバー・フリーページ収録)これを図案化したのが元就でおなじみの毛利家の三ツ星の家紋で、あの「三本の矢」で知られる「三子教訓状」の背景になったものです。ちなみに、オリオンの三ツ星(オライオンズ・ベルト Orion's Belt)の下に、“小三ツ星”がありますが、これが見えればあなたの視力は1.0ぐらいあります。この小三ツ星の一番上が、オリオン座大星雲で、大望遠鏡で見ると、壮麗な眺めです。肉眼でも、恒星と違って、ボヤ~ッとしているのが分かりますね。もうそんな季節になったんですね~。秋もいよいよ深まっていきます。夏が好きな○○さんには悪いんですが(誰に言ってるんだ?)、一年で一番いい季節だと思います。・・・とかなんとか考えながら、FC2に登録作業を終えた。http://sakamotos.blog79.fc2.com/FC2の操作性や、テンプレートなど画面のキレイさが気に入った。動作は軽くて、快調です。
2006.10.10
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村上春樹 アフターダーク量からいうと長めの中編小説といったところなのであろうが、大長編「ねじまき鳥クロニクル」を読破した後では、短編ぐらいに感じられ、軽々と読めてしまった。妙なものですね。都市の繁華街の一夜の、深夜から朝までの物語である。いつものように、いくつかの物語が同時進行的に展開され、交互に示されてゆく。それらは一見バラバラのようでありながら、深いところでシンクロニシティの中にある。村上春樹十八番(おはこ)の技法である。それぞれの時空のドラマが、くっきりとした像を結びつつ、互いを際立たせ合っているさまは、ニコラーエワの弾くJ.S.バッハ「平均率クラビーア曲集」の対位法のように鮮やかに効果を上げている。i) 少女と青年のボーイ・ミーツ・ガール的な青春ラブストーリー。ii) 少女と女子プロレスラー上がりのラブホテルの女マネジャーとの出会いと対話。iii) 少女の姉でモデルなどをしている美女をめぐる、静物画(スティル・ライフ)的で不気味な“記述”。以上の3要素のパラレルワールド(平行世界)が交互に現れてくる。深夜の「デニーズ」で、高橋テツヤは、高校の同級生で現役モデルの美女・浅井エリの内気な妹で外語大生のマリと出会う。テツヤは法学部の学生だが、ジャズのトロンボーンに夢中。今夜も近くのビルの地下室で、バンド仲間と徹夜で練習だ。マリはここで一晩明かすつもりだった。この第一挿話は、恋愛小説(と恋愛?)の名手として知られた初期の村上を思い出させる軽やかな筆致で、ぐいぐい盛り上げてゆく。二人とも心の奥底に哀しみを抱えており、彼女は一夜の“プチ家出”みたいな気分。また、テツヤの場合はもう少し深刻でトラウマティック(心的外傷的)である。思わず二人の行方に幸あれと祈りつつ読んでしまう。ほのぼのとしてハートウォーミングな展開だ。このエピソードだけでも、優に一つの爽やかな短編青春恋愛小説になっているが、以下の挿話が組み合わされることで、より重層的な味わいが生まれてくる。・・・そのテツヤを通して、少女は近くのラブホテルの女子プロレスラー上がりの巨漢の女マネージャー・カオルと出会う。きっかけとなったのは、そのラブホで起こった中国人娼婦への凄まじい暴力事件。マリは、その語学力を買われて、俄か仕立ての通訳を頼まれる。その美しい不幸な娼婦は、マリと同じ19歳だった。彼女らを取り仕切る中国人マフィアは犯人への制裁を誓う。このあたりのハードボイルドな味わいもさすが。そんなに年輩でもないし、むろん知的でもないが、すでに人生の酸いも甘いも噛み分けたカオルの、上品とはいえないが心優しき言葉がすばらしい。その子分のような従業員のコムギとコオロギがいわばお笑い系コメディリリーフだが、ときどきいいことを言ったりする。村上作品では、本当に登場人物の誰もが生きていて、呼吸している。犯人の男は、家族のいる、一見満ち足りたIT企業のサラリーマンである。残業を終え、セブンイレブンでタカナシ牛乳を買って家に帰る。中国人マフィアの制裁の手が迫っていることなど知る由もなく・・・。そして、マリがいつも比較され、「おまえは器量が悪いから、せめてお勉強ができなくてはだめよ」と言われて育ち、うらやんでいる美女の姉・エリは、昏々と眠っている。“眠れる美女”のように眠っている。そこに、唐突に「視点」なるものが登場し、彼女の寝姿と部屋をなめ回すように観察し始める。この部分のスタティック(静的)に延々と続く記述は、谷川俊太郎の詩の代表作の一つ「定義」における、例えば円錐形の物体についての、精密を極めつつどこか虚しい記述を連想させる。一種の覗き見(ピーピング・トム)趣味的な、エロティックといえばいえなくもない設定だが、次第にそれが、美しさを見つめられるだけの彼女の絶対的な孤独と空虚を示し始めていることに、読者は気づかずにはいられない。そして彼女は眠ったまま、テレビ画面を通過して“そちら”の世界へと行くが、そこは、ここにもまして閉塞的で無機的な広いビルの一室であり、よく見ると、ラブホテルで暴力事件を起こした犯人の男が勤務しているIT企業のオフィスである。そこにじっと座って、彼女を見つめている男は誰なのか?・・・もしかすると、神なのか?なお、和田誠によるハードカバー版の表紙の装丁は、どうもピンとこないというか、内容にそぐわないような気がする。表紙のクールな感じと、心温まるような内容が、シンクロナイズというかコレスポンデンスしていないと思う。なんか勘違いしてるように思われてならない。〔書物としての総合評価(装丁を除く):81点〕ハードカバー(単行本)版、p.244
2006.10.07
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実を言うと、ここ数日の村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」に続き、おとといの夜も「アフターダーク」(2004・平成16年作品)を読了した上、昨晩も4~5時間ぐらいかけて「スプートニクの恋人」(1999・平成11年)を読破してしまった。斜め読みは一切せず、きっちり一字一句読んだ。何となくそうしたかった。合間合間には同じく村上の短編にまで目を通した。「スプートニクの恋人」は、これまた物凄く面白かった。完成度は、年を追うごとにますます高まっているように見える。すごい作家だなあと、改めて思う。感想文は、おおよそまとまり次第、追ってアップロードします。・・・しかし、さすがに睡眠不足もあいまって、疲れたというか、知らず知らずストレスが溜まったのかも知れない。朝からなんとなく虫の居所が悪い。“知恵熱”でもあるのかも知れない。生来読書が好きとはいえ、物には限度というものがある。わずかにそれをはみ出したかも知れない。なんとなくシリーズ化しはじめている村上春樹氏の主要作品の“書評”(というほど大したものでもありませんが)が一段落したら、ビジネスブログの本分に戻ろうかな~と思ってます。このところ、内容があまりにも趣味に走り過ぎてると反省しています。ただ、時々歌詠みだけはやっていきたいと思ってます。
2006.10.06
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ハードカバー(単行本)版・第2部 p.308-309村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(1994)全3部を読了し、その余勢を駆って、最新作「アフターダーク」(2004)も一気に読んでしまった。さらに、たぶんブッ続けて近作の「海辺のカフカ」と「スプートニクの恋人」あたりも、山羊か鹿よろしくムシャムシャ食ってしまうであろう。物心ついて以来、読書は基本的に好きなので、我ながらその気になればやる時はやるのである。・・・というほどご大層なことでもないが。「アフターダーク」にも感動した。が、これは後ほど書くことにして、まずは「ねじまき鳥クロニクル」の感想文から行くべきであろう。ただ、これほどの人気作家の、しかも代表的な傑作とされる作品であるし、しかも干支も一巡した12年も前の小説であるから、すでに膨大な論考がなされ、ネット上にも溢れている。僕は僕なりの率直な感想を述べる。まず、一言でいうと、どこかに人一倍センシティヴで繊細なものを留めている30歳ぐらいの男が、朧気ながら感じているこの世界に対する認識・感覚・夢想を、あられもない形で赤裸々に、半ばホラ話っぽくユーモアを絶やさないまま、おおむねクッキリした明晰な文体で、しかも細密画のように緻密に、遠慮会釈なく特筆大書しつつ描ききった快作である。その文章の上手さは、主人公が窮地に陥れば胸苦しくなり、突然何かが起きればドキッとし、瞑想的な場面ではこちらも恍惚とするほど、つまり主人公と一体となってしまうくらいの筆力だ。結論から言うと、面白く、楽しく、ワクワクドキドキだが、いくらか物足りなく、いくぶんつらかった。冗漫ではないが、やはりちょっと長すぎる。平明な文体ではあるが、必ずしも分かりやすいとはいえない文章の、薄くない文庫本にして3冊は、やはり多少しんどいものがあった。とはいえ、圧倒的な筆力で展開される緊密なドラマに中だるみはなく、徹頭徹尾、緊張感と面白さが続いた。やや中だるみになりそうだなと思うや否や、アズ・スーン・アズ、哀切で切羽詰った、なかなか情感のあるエロティックな(ポルノグラフィックな、といってもいい)愁嘆場が用意されてて、眠気が吹き飛ぶように構成されている(笑)。村上氏は間違いなく相当な助兵衛である。ただ、全体としてはけっこう硬派な冒険@日常生活の物語でもあり、なかなか男っぽい。つまるところ、男の子(というにはだいぶ主人公のとうが立っているが)いかに生くべきかを追究しているといっていい。最後は生きるか死ぬかの闘いになる。なお、かなり衝撃的な暴力・殺人シーンやエロチックな(エッチな)場面も少なくない。現代をシリアスに表現する上で、「性」と「暴力」、「死」などを避けて通れないことは、すでに芸術愛好家の間では共通理解になっているといえるだろうが、子供に読ませるにはかなりの躊躇がある。やはりR16指定であろうか、いや、精神的なものも含めてR18ぐらいか。未成年者が熟読したあかつきには、かなり気が変になること請け合いだ。このブログの読者に多い、良妻賢母の皆様にも縁なき書物である。誤解を恐れずにいえば、女人禁制・メンズクラブに近い領域かも知れない。もちろん、女性が読んでもいいけどね。そして事実、女性のファンも多いらしいけどね。・・・とはいえ、現代文学はこの程度の“毒劇物性”がなくては評価されない。エロス(性)とタナトス(死)というコンセプトを物語/生という関数で積分して得られた、たわわに実った豊穣な葡萄棚。だが、第1部を読み了えた時点で10月3日のブログに書いたことの大筋に変更はないが、やや感想が変化した点も少なくない。同時に、かなり共感できない部分も目に付いてきた。例えば、主人公の「ねじまき鳥」とも呼ばれる「僕」こと岡田亨とその妻クミコ(旧姓・綿谷)に立ちはだかる“強大な敵”である、義兄・綿谷昇の人物造形。確かに、抜群のIQを伴った冷酷で非情な人間性であるが、この描写がかなり弱いのではないかと思った。今の言葉でいえば、いわゆる「勝ち組」である。むしろ単純な立身出世主義のエゴイストに見える(・・・に過ぎない、とも言える)。著名な経済学者から転進し、新潟の叔父さんの地盤を受け継いで“保守党”の代議士になり、若手ホープとして将来を嘱望されている。この人物造形は、当初思ったよりもだいぶステレオタイプ(月並)で、類型的である。ただ、彼の妹でありクミコの姉である女性が小学校高学年だった時の謎の死(あとで自殺だったと明かされる)に、彼が何らかの形で関与したらしいことが、執拗に示唆される。彼はその時、妹に何をしたのか?おおかたは想像が付くし、かなり露骨に仄めかされる醜悪なエピソードもある。これは確かに深刻であり、クミコに大きな心の傷(トラウマ)をつけたことは重々理解できる。こうした近親憎悪的な憎しみは十分判るし、同情も出来るが、何十年も経ってなぜこれほどまでに(殺意を持たれるほどに)憎悪されなければならないのかについては、僕の感受性が鈍磨しているのかも知れないが、どうも今一つ腑に落ちないというか、著者の圧倒的な筆力を以ってしてもピンとこない、ちょっと弱い点である。著者の意図・イメージとしては、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の父子みたいな残忍、狡猾な悪魔的イメージを意図したものであろうが、その意図はやや失敗している。これはたぶん、著者自身が基本的に善人であるからだろう。悪への傾きや想像力が足りないのは、一般的にいえばむしろ美点であるが、作家としては弱点になる。因果な商売なのかも知れない。著者自身が、その弱点に気づいてか、ノモンハン事件前夜の満州・蒙古国境(現中国東北部・モンゴル国境)付近からソ連(現・ロシア)シベリアの捕虜収容所での狡猾・残忍なロシア人情報将校のストーリーで、いわば補足している。また、綿谷衆議院議員の私設(裏)秘書のウシと呼ばれる男の、粘着性の人物造詣も、ユーモア味があり面白い。そして、暗闇の井戸の底の強烈なイメージを媒介として、それらバラバラなエピソードが時空を超えてリンクしていくさまは、さすがである。それにしても、主人公の妻クミコの造形はすばらしい。いかにも現代欧米文学の影響下にあるようなモダーンなライフスタイルと感性、愛し合っている(というより、クミコの側から見ると、もっと遥かに切実に彼の存在を必要としていることが、次第に明らかになってくる)夫婦の、ちょっと翻訳調のような会話。少しづつ浮かび上がってくる彼女の運命と、その中で真摯に愛を追い求める彼女のけなげさと素直さが、たまらなく愛おしい。第2部で、突然クミコは行方をくらませるのだが、主人公が目の色を変えて彼女を探し回るのが、ごく当然のこととして感じられるのは、以上の伏線が張ってあるからだ。後に、このクミコをめぐって、夫である主人公と兄である綿谷との間に、一種の三角関係的な葛藤が生じ、それが物語の幹になってゆく。クミコは、いわば古城の塔に幽閉された囚われのお姫様であり、主人公はそれを救いに行く白馬の王子様である。とても古典的な冒険物語の枠組みを持っている。ただ、その救出のための方法と費用の捻出の仕方が、およそ考えられないぐらい変わっている。新宿で出会った、年配だがおそろしく洗練されたセンスを持つ婦人・赤坂ナツメグと、その子でメルセデスベンツを乗り回す聾唖だが絶世の美青年・赤坂シナモンの助けを借りて、一種の会員制秘密高級ヒーリング(癒し)サロンというか超小型新興宗教みたいなことを始めるのだが、主人公の「僕」には、なんと人を癒す超能力が具わっており、“射精”しながら奥様たちを治癒していく。よく考えると(考えなくても)相当にアニメチックであり、マンガチックではある。主人公も、やっぱり“まとも”じゃなかった(笑)。いくつかの重要な場面で、しばしば鮮やかな場面転換は、ウォープ(ワープ)というか瞬間移動みたいな形で行われるが、これも改めて考えてみると、「ドラえもん」の“どこでもドア”とそう大きな違いはない(笑)。このナツメグとシナモンのたたずまいの描写が出色だ。村上が非常に優れた“婦人科”であることはいくつかの作品で明らかだが、特にこういうすらりと優美な、高貴な香りのする婦人のイメージ造形が本当に得意だと思う。読んでるだけでうっとりしちゃう。若い女性ばかりがいい女じゃないのよん。さらに、陰に陽に彼を助け、「夢(のようなもの)」の中で何度も肌を合わせる加納マルタ・クレタ姉妹は、頑固なまでに'60年代ファッションにこだわる超能力者の占い師。モデルは若いころの細木数子、・・・そんなワケないか(笑)。最後の最後まで主人公と心の友達でありつづける、謎の井戸の横の家の16歳の奔放な娘・笠原メイなどなど、出てくる女性すべてが少しずつ変でありつつ非常に魅力的なのだ。なんだかんだ言いながら、徹頭徹尾モテまくりの主人公なのである。うらやましい。村上がアメリカ文学の強い影響下にあるというのは、嘘とまでは言わないが、神話ではないか。むしろ、おフランス文学のアンニュイでデカダン(頽廃的)な匂いのするエロチシズムや、ロシア文学のドストエフスキーとかチェーホフとか、度忘れしたけど「はつ恋」とかとの近縁の方を、よほど感じる。村上氏がこれを発表したのは1994年、この時点で45歳。この小説の主人公は30歳~31歳。その時点で、僕も30代であり、村上氏と主人公の中間ぐらいに当たる。なお、クライマックス直前の触りぐらいのところで、パソコン通信がきわめて効果的に、ミステリアスさを倍加するように使われている。1994年ごろのパソコン通信の実情が分かって面白い。おそらく今から見ると超ナローバンドだったのだろう、アクセスするのに5分もかかったらしい(笑)。このころのことは、個人的なことをともかくとしても、ありありと思い浮かべることができる。’89~’90年の旧共産圏の崩壊で社会主義・共産主義が全世界的に愛想を尽かされたのを受けて、遅れ馳せながらやっと前年の’93年には日本政界においてもやっと新進党・日本新党など政界再編の大政変があり自民党が下野し、すでに長いキャリアがあった小室哲哉が安室奈美恵を擁してJ-POPで大ブレイクしていた。宮崎駿監督も全盛期を迎え、アニメーションやオタク文化がジャンルとして確立しようとしていた。翌’95年には阪神大震災、オウム真理教事件が起き、日本人と日本社会にきわめて深刻なインパクトをもたらすことになるが、その直前の、嵐の前の静けさ的な爛熟した文化が花開いていた。その時代の空気も、見事に封じ込められている。当時村上氏はサブカルチャーと親和的だと評されたが、まさに全体的にアニメーションやオカルトやカルト宗教に合い通じるような世界が構築されている(未成年者お断りではあるが)。しばしば、精神分析学的な、簡単に言うと夢のような文体とイメージで物語が展開され、一種オカルト的なものが特段の危機感もなく、ノリノリで謳歌されている面もある。このことが、作者をしてオウム事件で甚大・深刻な衝撃を受けさせ、オウム信者の聞き取りに基づくドキュメンタリーの大著「アンダーグラウンド」などに向かわせたゆえんであろう。本屋でチラリと立ち読みしても、到底読む気になれない精密膨大な本である。その後の村上は、やや変わったといわれる。しかも、より深化した方向へ、である。〔書物としての総合評価:(現在の目で見るとやや古めかしく感じるところもあるので、少し減点して)89点〕
2006.10.05
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このところ、わが枕辺には村上春樹の主要な小説が堆(うずたか)く積み上げられている。そのほとんどは、けっこう早い時点で購入し、そのうち折りがあれば読もうと思って本棚に入れておいたものだが、ご想像にたがわず、日本の中年男は非常に忙しい。それも、よく言われる“心を亡くすと書いて忙という字”の喩えにふさわしい、日々の雑用に追われるような種類の忙しさである。思春期から若いころにかけては貪るように本を読んだ僕だが、いつしか、実用書・専門書の類いはともかくとしても、小説などはここ15年ぐらい全く遠ざかっていた。大げさに言えば、ちょっとした田舎の図書館丸ごと並みとでもいおうか、膨大といっていい若い頃の読書歴は、現在の僕に、親しい友人には賞賛される程度のささやかな文才を齎してくれたが、それだけといえばそれだけである。人生は、おおむね虚しい徒労の、シジュフォスの神話(アルベール・カミュ)である。時に微光でもほのめくならば、以ってよしとすべきであろう。しかし、今、読んでみる気になった。文芸評論家などの玄人筋のきわめて高い評判を夙(つと)に耳にしていたこともあるし、短編などをちらりと斜め読みしてみて、軽妙洒脱な(時に軽薄な?)文体と感性の中に、ただならぬものがあることを認めた。さて、兵力の逐次投入と読書の逐次感想文は具の骨頂かも知れないが、とりあえず「ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編」を読了した。今、第2部冒頭にかかったところである。時間がたっぷりあった若い頃なら、大西巨人「神聖喜劇」を2日間ぶっ通しで一気に読んだように、一息で読み通したに違いないが、くたびれた中年男の僕にはもうそんな気力も時間も残されていない。睡眠時間(と寿命?)を削るようにしてシコシコ文字を追った。ここまで読んでみて思うのは、月並みだが、巷間伝えられる通りの、圧倒的な筆力だ。物凄い。驚くべき想像力と説得力。そして何より面白い。知的でありながら、ファンタシー・SF系小説の荒唐無稽さと、故・丹波哲郎さんのトークを聴いているような豪放磊落さが同居しており、意外に男っぽい。読み始めたが最後、途中で読むのをやめるなんて不可能だ(睡眠や、不慮の事態は除く)。――二流の大学を出て、司法試験に受かるほどの頭はなく、法律事務所の下働きをしていた心優しき30歳の「僕」は、大した理由もなくそこを罷(や)め、現在は失業中の身。・・・という、絶妙の設定。現代のリアリティの中に、時間を持て余した知的な自由人を設定することにまず成功している。世田谷区の小田急線沿線の高級住宅地の一戸建てに住んでいるという、人もうらやむ境遇だが、これはもちろん自分の才覚で手に入れた住宅ではなく、銀座にいくつかの飲食店を持っているという資産家の叔父さんの好意によって借りているものだ。自宅の裏には、路地と呼ばれる細長い謎めいた空間があり、そのどん詰まりには枯れた井戸がある。いなくなった猫を探して「僕」はこの空間に分け入ってゆく。・・・この自宅周辺の描写が、ワクワクドキドキ、すばらしい。妻の父は東大出の通産官僚、兄は著名な経済学者・評論家で、主著「性的経済と排泄的経済」は、“誰もちゃんと読んだことがないが、ノーベル賞級の名著である”・・・というのも、著者自身のポジションを何ほどかパロディ化して笑かしてくれる。その義父は、単純で古臭い家父長意識とエリ-ト意識のかたまりの俗物だが、早々に主人公と大喧嘩をして物語から姿を消す。・・・という、上手い処理(笑)。圧倒的に面白いのは、義兄の人物造形で、厳しい両親のもと、優等生・エリート街道まっしぐらで来て、あらゆる自然な感情・愛情を失い、ただ議論で相手を屈服させることにだけ異常に長けているという、“超秀才オタク”であり、「僕」は彼を憎みはじめている。間違いなく、この後の禍々(まがまが)しい悲劇的な展開の予感がプンプン臭うし、第3部の帯のあらすじを見ると、やはりそうなるらしい(笑)。そして妻「クミコ」は、雑誌編集者としてバリバリ働くキャリアウーマンであるが、こういう冷たい家庭に育ったアダルトチルドレンであり、心の深いところに手ひどい傷を負っている。これまた、今後何かが起きそうな臭いは濃厚に漂っている。ただ、「僕」と妻は、まずまず“まとも”な常識人に設定されており、多少理屈っぽい会話ではあるが、日常生活のディテイルの描写は緻密で魅力的であり、ホッとさせてくれる。妻の生理前の、いわゆるPMS(月経前症候群)のイライラで、些細なことからからまれたりする場面など、僕などもいちいち思い当たり、ニヤニヤクスクス苦笑しながら楽しめる。――さて、物語のイントロダクション(導入部)は、そんな暇な身分の「僕」が、朝の10時半にスパゲティをアルデンテに茹で上げる直前に、聞き覚えのない声の“謎の女”から電話が掛かってくる。「僕」は女に思い当たるフシがないが、女は主人公のことを詳しく知っており、「僕」を誘惑し始める。・・・読めた。これは夏目漱石の「それから」ではないか。あるいは世界探偵小説の傑作、ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」か何か分からないが、まあそんなあたりだろう。掴みはOKだ。もちろん村上は意識してやっている。パロディであり、パスティーシュ(意図的模倣)であり、本歌取りである。村上氏はよほど人間、とりわけ女が好きなのだろう。平たく言えば助兵衛なのだろう。妻を除けば(それもあやしいが)一人としてまともではないが、非常に魅力的だったり異能を持った女たちが代わる代わる登場して、「僕」と関わりを持ち始め、時に「僕」を誘惑する。これ、中学生の男の子が読んだら、けっこう鼻血ブーの世界だと思う。保護者の適切な指導が必要です(笑)。・・・そして、ついに巨姿を現わしはじめる、“あの戦争”の発端となったノモンハンの悲劇。現代の日常生活のささやかな冒険についての、アンニュイで洗練された与太話・法螺話めいた物語を笑って読んでいるうちに、現代史を鷲づかみしようとする著者の意志に、読者も鷲づかみされているという寸法だ。しかもユーモアの通奏低音が消えることは決してない。もう、仕事が終わったら早く帰って、風呂に入って、飯を済ませて、幼い娘たちの相手をして、布団にもぐりこんで、早くこの続きを読みたい!!!
2006.10.03
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中年のおっさんさんのブログで教わったスクロールバーのHTMLタグを、ためしてガッテンしてみます。いつもお世話になってます。・・・なるほど、こりゃ面白いですね~。先ほど、安倍晋三新首相の所信表明演説に対する各党の代表質問があったが、これを見て、当分自民党政権は磐石だと思った。気迫が違う。自民の大番頭・中川秀直幹事長の貫禄と迫力を見た?しかも、自筆オフィシャルブログサイトを一目見れば分かる通り、頭脳明晰。本気で敵に回したら、消されて闇に葬られるんだろうなと思う。政策調整(政調)や国会(野党)対策(国体)畑など、地味な党務をこなしながら、着実に酸いも甘いも噛み分けた実力と存在感を示してきていた。ただ、この人はご存知の通り官房長官時代、“側室問題”で一度痛い目に遭っているが、ガードを固める時間はたっぷりあったから、(たぶん)大丈夫なんだろう。・・・そもそも、側室がいることがケシカランとは僕も重々思いまするが、これを政治問題化すること自体がおかしいのだ。ねじまき鳥、もとい、揚げ足取りもいいところである。安倍氏も、さすがブルドッグ岸信介元首相の孫、外交防衛政策は一点の曇りもない明鏡止水のタカ派。強硬派の方が、いざというとき大きな妥協ができるという歴史的逆説の例は、枚挙にいとまがない。内政面はブレインの衆知を集めて、小泉氏より軋轢も少なくうまくやりそうな予感もする。そんなこんなで、ことほどさように、自民党というのはかくも奥が深い。小泉さんの後釜がいないとか嘆いていたのは、自分で言いふらした情報操作の謀略であったか。――ついに日本保守の嫡子が登場ということで、左方面は警戒を強め戦々恐々としつつ、虎視眈々と隙を窺ってはいるが、どうやら蟷螂の斧といったところである。社会のあらゆる部門に露呈し始めた格差の是正など、民主党に期待されているものは決して少なくないと思うが、政権奪取は、またまた山のあなたの空遠くに遠のいた感がある。党首の健康不安説もたけなわだし。前回総選挙で自民が勝ちすぎた分、次の参院選あたりでは、揺り戻しで多少のぬか喜びはあるかも知れないが、せいぜいそのへんがピークかな。民主党、どうすんの?・・・どうにもならないか。このHTMLタグは、<p style="BORDER-LEFT-COLOR: lightblue; BORDER-BOTTOM-COLOR: lightblue; OVERFLOW: auto; WIDTH: 532px; BORDER-TOP-STYLE: none; BORDER-TOP-COLOR: lightblue; BORDER-RIGHT-STYLE: none; SCROLLBAR-BASE-COLOR: lightblue; BORDER-LEFT-STYLE: none; HEIGHT: 208px; BACKGROUND-COLOR: lightblue; BORDER-RIGHT-COLOR: lightblue; BORDER-BOTTOM-STYLE: none">記事</p>のようになってます。
2006.10.02
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今年(まもなく10月中に発表)の受賞はともかくとしても、“ノーベル文学賞当確作家”といわれる村上春樹の主要作品を、物置から塵を払って出してきて、夜な夜なウンウンうなって精読中。数日前の記事で「村上文学を読め」という趣旨を偉そうに申し上げた手前、僕自身がちゃんと読んだ上で、それなりの“読書感想文”ぐらい書かなければ無責任というもの。・・・嗚呼、何という責任感あふれる、美しい無償の行為であろうか。仕事のことを除けば、当分ほかのことに振り向ける精神的余裕はありません。ブログ書き込みも、しばらくご容赦下さいませ。さて、いきなりあの長大な、これまでの村上氏の代表作とされる現代日本文学の最高峰「ねじまき鳥クロニクル第1部、第2部、第3部」にチャレンジしております。頭が疲れるごとに、合間合間に気晴らしに氏の短編小説を読んだりしてますので、ますますワケが分からなくなるとともに、長引いております吉野家の“美味い、早い、安い”の三拍子になぞらえれば、“上手い、深い、面白い”。・・・ただし、“ムヅカシイ”を加えた四拍子ざんす。 ううむ、でぃふぃかると とぅー あんだーすたんど。しかし、思ったよりもはるかに、ワクワクゾクゾク面白いのは本当です。しかしすごいな~、現代のアンニュイな日々のディテイルの抜群に上手い描写から、あの一連の「昭和戦争」の発端となったソ満国境(現・中露国境)の「ノモンハン」の死屍累々の光景へ、時代を引き受けた作家の想像力の翼の飛翔と逍遥。すばらしい。もうしばらくしたら、僕もこの“旅”から帰還し、土産話の一つもしたためることにします。・・・が、それがいつになるのか、見当もつかない。
2006.10.01
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