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2月9日付けsky.comニュースその他の伝えたところによると、ヒース・レジャーのパースでのお別れセレモニーが行われたもよう。NY、ロスに続いて3回目。参列者は各界のセレブリティを含めて100人超。ヒースのお父さんの話では、セレモニーに続く本葬は10人程度の近親者のみで執り行い、時間と場所は非公開とのこと。セレモニーの写真はTMZ.comにある。参列者が最後にヒースの人生を祝福する意味で海へ飛び込み、それを微笑みながら見守るミシェルとヒースの家族の姿がとらえられている。不思議なことに、ヒースとミシェルの娘マチルダとパース入りが伝えられたジェイクの姿がなかった。現地ファンは、名づけ親であるジェイクがセレモニーの間、ミシェルにかわってマチルダの面倒を見ていたのではないかと噂している(ネット上でネ)。
2008.02.10
ヒース・レジャーの死についてのNY市当局の監察医(検死官)のステートメントはすでに英語・日本語併記で拙ブログでご紹介したのだが、このたった数行のステートメントさえ、日本のメディアはまともに当たっていないようだ。まず、注意しておかなければいけないのは、この専門医の所見には、いっさい「過剰摂取」「大量服用」という言葉はないということ。あるのは、combined effects(複合作用)、abuse(誤用・乱用)という表現。そもそもここまで発表が遅くなったのは、最初の検査で、致死量に達するような毒性が体内から検出されなかったためだ。日本のメディアがほとんど決めつけていた「睡眠薬(のみを)大量服用したため」ではないということは、アメリカのメディアではすでに早い段階で間接的に伝えられていた。また、アメリカのテレビ局は、この監察医の最終報告を受けて、アメリカでは違法ドラックより、実は複数の処方薬の誤った服用で亡くなる人が多いということも言っていた。一番の問題は、複数の処方薬の「飲み合わせ」だ。おそらく飲んでいた薬が過剰であったことは、もちろん想像にかたくないが、NY市当局の発表には、そうした表現はいっさいない。だから、eiga.com速報の「俳優ヒース・レジャーの死因を、ニューヨーク市検死官は2月6日、薬を大量に服用した“偶発的な薬物過剰摂取”と発表した」「検死官によると、これらの薬物成分がレジャーの血液内から大量に発見されたという」なんてのは誤報なのだ。「偶発的な」事故とは言っているが「薬物過剰摂取」とは言っていないし、「薬物成分が発見された」ことは伝えているが、「大量」とは言っていない。おまけに肝心の「複合作用」という言葉は見事に省かれている。「全て市販されているもの」というのも違う。ヒースの部屋で発見されたものは市販薬ではなくて、処方薬だった。わずか数段の速報ニュースに、これだけ間違いがあり、肝心なことが書かれていないのを見ると、ほとんどボーゼンとなってしまう。他の日本の媒体も同じようなもので、英語原稿を日本語に訳したもの以外は、あたかもドクターが「過剰摂取が原因」と発表したかのように書いている。「ほんのちょっとの事実に、大量の憶測を加えた」記事ばかりだ。ヒースの体内から検出されたというヒドロコドンについては、去年の秋ぐらいにアメリカでは相当問題になっており、テレビでもしょっちゅうやっていた。FDAが咳止めなどに使われていた未承認ヒドロコドン含有製剤の製造販売を禁止したのだ。ヒースが亡くなったときの、読売や朝日の記事も、単に「睡眠薬がそばにあった」「警察が過剰摂取の疑いで調査している」(朝日)「睡眠薬を大量に飲んだとみられるが、自殺だったかどうかは明らかになっていない」「ベッド脇に睡眠薬があった」(読売)と言っているだけだった。これではほとんどの読者は、「自殺?」と思ってしまう。アメリカのメディアは当初から一貫してずっと慎重で、睡眠薬を含めた複数の処方薬があったことを伝え、特に「睡眠薬」だけにしぼった報道はしなかった。ところが日本では、他の処方薬のことは見事に省略して短絡的に睡眠薬大量服用に結論づけるような記事を垂れ流したのだ。ゲンダイネットの2008年2月5日付け記事にいたっては、「fuc(ピー「自主規制音」)ing」としかいいようがない。「遺体の傍らには巻かれた20ドル紙幣があり、警察はこれを使って麻薬を吸い込んだかどうか、目下、鑑定中だという」。この記事はほんの一部だけ真実がある。「20ドル紙幣があった」ということだ。よくドラックを鼻から吸引するときに丸めた紙幣を使う。それをにおわせているわけだが、この記事の元ネタは1月23日のABCnewsの記事だ。だが、読めばわかるとおり、「丸まった20ドル紙幣があり、警察が押収して検査したところ、麻薬成分は発見されなかった」と書いてある。つまり、もうとっくに解決してることを、2月になって「目下、鑑定中だという」なんてデタラメを書いているということだ。どうやったら、こんな「fuc(ピー「自主規制音」)ing」な記事が書けるのか、記者の顔が見たい。自分が書いていることが正しいかどうか、検証する能力、いや良心はないのだろうか。どうやら日本のメディアは、処方薬の乱用・誤用による「複合作用」の危険性については、まったく関心がないか、無知のようだ。どこを見ても「過剰摂取」という結論ありきの論調ばかり。日本とアメリカの処方薬の環境は違うとはいえ、どうしてドクターが明確に書いたことをやすやすと無視し、書いてもいないことを「発表した」などと書くのか。まったく理解できない。こうした「ちょっとした事実に大量の憶測を交えた記事」があまりに多いのを見ると、暗澹となってしまう。記者は、自分たちが記事の対象にしている有名人は、自分と同じ人間ではなく、石か氷でできているとでも思っているのだろうか。自分に家族や大切な人がいるように、彼らにだってデタラメを書かれて傷つく人がいるなんてことは、想像もしないのだろうか。世の中には、常に「正しいことを伝えようとする」人たちもいる。だが、真実や事実を書くのは、その調査や裏どりに非常に手間がかかり、かつ、デタラメほどおもしろくはない。ちょっとした事実をふくらめてデタラメを垂れ流したほうが、簡単だし、大衆はおもしろがる。デタラメをデタラメだと証明するのはまた大変な労力を必要とする。だから、デタラメばかりが増殖して垂れ流され、真実や事実はどこかに隠れてわからなくなってしまう。ネット時代になって、その傾向に拍車がかかったように思う。こうなると、やはり情報の受け手のリテラシー能力がますます必要になってくる。その情報が正しいか正しくないかをすぐに判別するのは大変だとしても、常に、「これ、本当なの?」と批判的に見る態度は必要だろう。そして、正しいかどうかを自分で判断するために、調べてみようとする姿勢も重要になるだろう。幸いインターネットというのは、正しく探せば、正しい情報を見つけられるツールでもあるのだ。おまけ:News.com.auによると、ミシェルに続いて、ヒースの元カノのスーパーモデル、ジェマ・ワードが葬儀参列のためパースに到着したもよう。しかし、ホント、元カノだの現カノ(未満?)だの、やってくる女性の多いこと、多いこと。
2008.02.09
<ジェイク・ファンの皆様は明日おいでください。ジェイク・ネタは明日からです>昨日、レオナルドが30代後半のときに拾った少年がモデルとされる横顔の素描を紹介したが、この少年は本名はジャコモという。彼はレオナルドからルイジ・プルチの叙事詩にちなんだ「サライ(悪魔の意味)」というあだ名をつけられ、10歳でレオナルドと同居を始めてからずっと25年以上にわたって、レオナルドがフランスで亡くなるまで生活を共にした。なぜレオナルドが彼をサライと呼んだかといえば、それはこの少年が、その美貌と裏腹に、非常に品行が悪かったからだ。レオナルドの手記には、このサライに対する悪口が綿々と綴られている。彼に何を買ってやったとか、彼が何を盗んだとか、彼が何を食べたとか、いちいちその値段までつけて詳細に記録し、「泥棒、うそつき、頑固」などと罵倒している。それならば、さっさと別れればいいことなのに、レオナルドとサライはなぜか離れない。サライの「悪さ」がいつごろまで続いたのかわからないし、それが生来のものだったのか、それとも自分を縛ろうとする高名な画家への少年らしい反発心からだったのかはっきりしないが、ともかくレオナルドは手記では悪態をつきながらもサライに服や靴、指輪や首飾りなどを買い与え、彼の家族の援助までしたうえに、最期にはサライに家を含めた遺産も残している(いいな~、お付き合いするならこういうヒトだよね)。そして、そのサライとの生活を暗示するようなレオナルドの素描がイギリスにある。ソクラテスが死の直前、弟子を集めて行った論議を弟子のプラトンがまとめた『パイドン』から想を得て描いた「快楽と苦痛の寓意(アレゴリー)」だ。『パイドン』においてソクラテスは、「快楽と苦痛とは1つの頭についた2つの肉体」だと述べている。それをレオナルドは1つの肉体に2つの顔をもつシャム双生児のような寓意像にうつしかえて表現した。さらに、この双生児の顔はまったく違っており、2つの顔のうち1つは少年のように若く、もう1つはそれよりずっと年上で、老年期にさしかかっているように見える。少年はサライの素描に似ているという人もいるが、どうもMizumizuにはサライのようでもあり、自分の少年時代を描いたといわれる「キリスト洗礼」図の天使のようでもあるように見える。少年は片手に「葦竹」をもち、もう片手にはコイン(お金)をもっていて、それが地面に落ちている。年上の男は花のついた植物(とげのある薔薇だというが、よくわからない。果物かもしれない)とまきびし(敵から逃げるときにばらまいて、相手の足を止める道具)をもっている。まきびしもやはり、一部が地面に落ちている。そして、この素描には、鏡文字といって、鏡にうつさなければ読めない、さかさまに書かれた文字による注がある。この鏡文字はもちろんレオナルドが書いたものだ。レオナルドという人は元来左利きで、私的な手記などを綴るときなどは、あたかも人に読まれることを避けるかのように、決まってこの鏡文字で書いた。もちろん、普通に書くこともできた(ホント、すごいというか、変な人だ)。年上の男がもっているのは、求愛のプレゼントに使えそうな植物(あるいは快楽そのものを象徴する果実)と、相手から逃げるときに使うまきびしという道具であり(しかも、一部を地面に落とすことで、もう使い始めている)、明らかにそれは、背中合わせの少年に対するアンビバレントな感情を暗示しているようだ。少年の手からコインが落ちているのは、与えられた金の浪費を象徴しているように思われる。そして葦竹については、素描に添えられた注釈に説明がある。この注釈は一般に、「寓意に対する道徳的解釈」だとされている。それはざっと以下のとおりだ。「これは苦痛とともにいる快楽。双子なのは決して離れることができないから。背中合わせになっているのは、2人がまったく対照的であるため。彼らの下半身は1つになっている。なぜなら、快楽の根源は苦痛のない仕事であり、苦痛の根源は虚栄と気まぐれな快楽だから。だから1人は右手に葦竹を持つ。葦竹は役立たずで何の強みもない。だが、刺されると毒にやられる。トスカーナでは葦竹はベッドの脚の材料になる。(中略)ここでは、さまざまな空しい快楽が行われる。不可能なことを想像する心と、しばしば命取りになるあの喜びの両方が」。これが寓意に対する道徳的解釈だろうか? とてもそうは読めない。むしろこれは素描を描いたレオナルドのモノローグのように読める。快楽の象徴であるベッドの材料となる葦竹は、「役に立たないが、刺されると毒にやられる」もの。そしてそれをもつ少年は、年上の男とは「対照的でありながら、離れられない存在」。ベッドでは「不可能なことを考え、しばしば命取りになるようなあの喜び」にふける。「不可能なことを想像する」とは誇大妄想を言い換えたものだろう。そして、レオナルドは自他共にみとめる誇大妄想狂的性格だった。彼は実現不可能な壮大な都市計画を立てたり、実際に使うことのない武器を考案したり、当時の技術ではできるはずのなかった巨大なブロンズ像制作に挑んだりしていた。昨日紹介した「5つのグロテスク」で、グロテスクな顔に囲まれている中央の誇大妄想の男は、晩年のレオナルドの顔にそっくりで、自身をモデルに描いたものだとされている。だから、ここにはレオナルドのサライに対する感情と彼との生活が暗示されているようにしか思えないのだ。下半身が1つになっている画はサライとの関係を示している。単にソクラテスの言葉を寓意像で表わすなら、そのオリジナルの言葉にしたがって、頭が1つで肉体を2つに描けばいいことだ。実はレオナルドはもっと若いころ、具体的にいうと24歳のときに、17歳の少年に対する買春の罪で告発されている。当時のフィレンツェでは、男色に対する罰は大変に重いものだった。罰金、鞭打ち、火刑、去勢、片足の切断。ただし、こうした罰は見せしめのためには行われるものの、有力者は事実上お目こぼしにあずかっていた。このときはレオナルドの罪は不問にふされる。この告発はデッチアゲで、だからレオナルドは罰を受けなかったのだと主張する人もいる。無罪放免にされたことが、告発が陰謀であったという証拠だというのだ。だが、このサライとの出会いとその後の生活を考えると、告発がまったくの事実無根だったとも考えにくい。レオナルドは庶子とはいえ、その父のフィレンツェにおける政治的な地位は高かった。24歳の画家としてのレオナルドの名声はそれほどのものではなかったから、もし政治的な力で罰をまぬがれていたとしたら、それは父親が裏で動いたからかもしれない。だから、「しばしば命取りになるあの喜び」が何かということはハッキリしている。若き日のレオナルドに対する告発が事実無根だという人や、サライとの関係を友情だとかレオナルドの慈愛だとかいう人たちは、万能の天才、ルネサンスの巨匠、人類史上でも指折りの大天才が、男娼を買ったり、教養のないロクデナシの美少年に貢いだりしていては困るのだ。自分たちが抱いている偉大なるレオナルド像のイメージが壊れるからだ。だが、人の仕事の才能や能力とセクシャリティは、本来何も関係がない。ルーブルで人が群がっているガラスケースに入った「モナリザ」や、ミラノで長々と行列ができる、剥落が激しく、いくら修復しようとしても、もうとっくに失われてしまった名画「最後の晩餐」と違って、この寓意画はほとんど人に知られていなし、注目されることもない。だが、人に読まれることを拒否するような鏡文字が添えられた、このひっそりとした地味な素描を見ると、レオナルドの内面のダークサイドから、非常にプライベートな生の声が響いてくるようで、なんとなく胸を打たれたりするのだ。
2008.02.01
昨日は、ブロークバックが「ジェイク・ジレンホール(ギレンホール)をどう撮っているのか」について書いた。今日はジェイクという俳優の演技について書こうと思っていたのだが、その前に、「顔の演出」についての駄文を少し発展させてみたい。今も映画で多用されている、首のモーションを使った「肩越しの視線」の劇的な効果を作品に取り入れたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチだということを書いた。レオナルドは「万能の天才」と称されるが、当時、権力者のための式典や出し物の舞台演出にも手腕を発揮していた。また、彼は絵画作品を作るとき、構図とともに、「人物の顔」「手」「衣装のヒダ」などのパーツにわけて、ディテールをデッサンしている。これは「レダ」のための習作。完成したレダは女性の全体像なのだが、顔をクローズアップして、その表情を決めていくプロセスがわかる。デッサンの左下をみると、ラフな女性の顔の輪郭があり、そこでは鼻で唇が隠れるほど女性は深くうつむいている。ところが、右上の少し詳しく描かれたデッサンでは、うつむき加減は抑制され、そのかわり、顔の向きに多少角度が加わっている。最初の構想からレダの顔の表情が少し変わっていったことがわかる。また、実際のレダ像には描く必要のない、後ろから見た頭部の習作もある。実際に作品では後ろ髪の描写はないのだが、完成作品では見えないパーツもしっかり描くことで、完成度を高めようとしている。レオナルドの「髪」に対する執着は一種異様だ。レダでも複雑に編みこんだ髪型をきわめて入念に描いている。今風にいえば、明らかに「髪の毛フェチ」だろう。特に好んだのが「金髪の巻き毛」で、実際、レオナルドは30代後半のときに、「輝くような金髪の巻き毛をもつ美少年」をどこからか拾って(苦笑)きて、そばにおき、生涯面倒を見ている。これがその少年をモデルにしたといわれる素描。髪の毛と瞳が明るい色であることが想像できる描写だ。プロフィール(横顔)の輪郭線、特に額から鼻、唇へかけてのラインを見ると、古代ギリシア彫刻風の顔立ちの少年だったことが推察できる。激しい戦闘の場面もある。「アンギアリの戦い」図のための頭部の習作が何点か残されている。いずれも戦う戦士の表情だ。この若い戦士の闘志をむき出しに咆哮する表情などは、古めの戦争映画のワンシーンに出てきそうだ。こちらはどうだろう。この2つは、同じ人物の顔の習作だが、表情の違いから、何が読み取れるだろうか? 帽子のないほうは、口を大きく開き、まがまがしい怒りを表現しているように見える。一方帽子をかぶった、より詳しく描かれた顔のほうは、明暗のコントラストが強く、目の表情が見えにくくなり、口も上作品より縦方向に長くあけている。上のほうが生き生きしているようにも見えるが、逆に下は顔全体が硬く陰鬱になったために、戦士の悲壮感がより強く出ているかもしれない。ここでも、レオナルドは「顔の演出を途中で変えている」のだ。「サイコパス」を扱った作品もある。これは「5つのグロテスク像」といい、中央の古代ローマ皇帝風の装いをしている学者らしい老人は誇大妄想で、それを取り巻く人物たちは、右の太った老婆は痴呆、もしくは何かにことさら固執する粘着質な性質、正面をじっと見詰める男は冷酷で陰鬱な性質、大口をあけた男は自分を制御できない躁の性質、左端で侮蔑の表情を浮かべた男は病的に攻撃的な性質を示しているといわれている。こうしたサイコパスなキャラクターも現代映画において再現され、いろいろな名優が演じているのを私たちは見ている気がする。「羊たちの沈黙」でアンソニーが演じたのが、右上の性格、「バットマン」でヒース・レジャーが演じるのは左の性格ではないだろうか。こうしたレオナルドの習作を見ていくと、現代映画の演出方法やそのプロセスにあまりに似ている気がして驚く。実際にデッサンするのではなく俳優を使って、映画監督や舞台の演出家は、レオナルドと同じような思考プロセスを経て、作品に出てくるキャラクターのイメージを作り、顔の表情をつけていく。というよりも、人の顔を使って何かを表現しようとすれば、当然、レオナルド的思考プロセスを経ざるをえないのだろう。また、昨日も書いたレオナルド作の肖像画に見られる肩越しの視線は、その前後のモーションをつけるだけで映画のワンシーンに応用できそうだ。この「ある婦人の肖像画」では、暗い画面から、こちらを挑みかかるように見つめる女性の眼があまりに印象的だ(写真よりも実際のほうが、眼は異様なまでに輝いて見える)。彼女なども、まずは体の向きと同じ方向を見ていたのが、何かの拍子に首を動かし、肩越しにこちらに視線を向け、何かをあるいは誰かを睨んだ・・・ そんな一瞬の情景だ。かたくなで挑戦的な表情は、こちらと彼女の心理的な距離感を浮き彫りにする。レオナルドはこうした人間の感情を人物の顔の表情に端的に表現する。つまり、レオナルド・ワールドに出てくる役者は皆名優なのだ。その生き生きとした表現の原点ともいえるのが、この作品。レオナルドがまだ20歳をちょっと超えたぐらいのときに、修業していたヴェロッキオ工房が描いた「キリスト洗礼」図だ。この作品では、左下の2人の天使(左下に頭に「お皿」をのせたような少年がいるが、彼らが「天使」)のうち、向かって右側の正面を向いた天使は親方のヴォロッキオの筆によるものであり、背中を見せて何かささやいているような長い巻き毛の天使、それに背景の自然風景は、弟子レオナルドの筆によるものだと言われている。そして、自分よりも弟子のほうがうまいと知った親方のヴェロッキオがこの作品以降筆を折ったというエピソードも残っている。豊かな巻き毛、やわらかそうな頬、少女のような優美な表情… おそらく、この天使は、レオナルド作品のなかでももっとも美しいが、そのモデルは、少年時代のレオナルド自身だともいわれている。実際に同時代のヴァザーリの伝記によれば、ビンチ村から(ダ・ビンチとはイタリア語で「ビンチ出身の」という意味だ)出てきた若きレオナルドが、まずフィレンツェで衆目を集めたのは、その絵画の才能からではなく、その美貌ゆえだったと書いている。ところで、この2人の天使だが、何をしているのかよくわからない。正面を向いたやや表現の硬い天使を、左側の天使が抱き寄せているようにも見える。何かしら性的な雰囲気を漂わせているような印象を与えないでもない。この天使が何をしているのかは作品のテーマにとって重要ではなく、したがって、研究者も解答を出していないが、1つ言えることは、この作品以降、「何をしているのかよくわからない、そこはかとなく性的な天使のような脇役」がしばしば他の画家の作品にも登場するようになるということだ。ミケランジェロの「ドーニ家の聖家族」にも、背景に5人の裸体の少年が描かれている。彼らが何をしているのか、何を象徴しているのか、ミケランジェロ自身何も語っていないし、誰も答えを出していないのだが、天使の象徴であろうということを言う研究者はいる。左側の少年2人が抱き合って仲がよさそうであるのに対し、右側の3人は1人が他の2人に嫉妬して邪魔をしているようにも見える。だから左は「調和」を右は「不調和」の象徴だという説もある。だが、何にしろ、この裸の少年たちが非常に性的な印象を与えることは間違いない。ちなみに、右の中景に描かれた少年が洗礼者ヨハネであることは明確になっている。「ルネサンス期の絵なんて、古すぎてつまらない」と思うかもしれない。だが、この時代には、現代の映像表現の原点が間違いなくある。肩越しの視線のもつドラマチックな効果も、たとえばポートレート写真などに、しばしば応用されている。これは「ゴットファーザー」「太陽がいっぱい」で知られるイタリアの作曲家ニーノ・ロータの写真。このように肩越しのロータを撮ることで、彼の細く高い鼻が強調されている。いっておくが、ロータはいわゆる芸能人ではない。映画音楽の作曲家として知られるが、彼はアカデミックなクラシック教育を受けた作曲家で、オペラや交響曲も作っている。晩年はバーリで大学教授の職にも就いている。そ~ゆ~オカタイ職業の人のポートレートがこれ…。ほんと、イタリア人はとことん「美」にこだわる。
2008.01.31
新年を迎えても、相変わらず華やかな東京のイルミネーション。コニー・ブロク(わからない人は突っ込まないでください♪)に掲載のイルミネーションを逆方向から撮ったもの。繊細な光のカーテン。こちらも年始で静かな商店街。実はここ、「DEATH NOTE後編」の最後、父と娘が雪の夜、家路についているシーンの撮影で使われた。映画ではうまい具合に道わきに雪がつもり、すずらんのカタチをした街灯が水色の灯りをともしていた。歩いていく親子の後姿をカメラが、街灯のあたりまで上昇しながら映し出していて、「ホントにここ?」というぐらい、美しく撮れていた。我が家のバイク。ときにはクルマではなくバイクでお出かけすることも。Mizumizuはもっぱら後ろ。「ハイティ~ン、ブギ~」などと口ずさんでみるが、さすがに古すぎて、それ以上歌詞が出てこない(苦笑)。それによく考えれば、原作のマンガも映画も見たことないのだった。映画「ハイティーンブギ」には、加藤武さんの名前も見える。風林火山の諸角虎定役でもイイ味を出していたが、それよりも石坂「金田一」で、「よ~し! わかった!」を連発する 等々力警部役の印象が強いかもしれない。実はこの方もかなり近所にお住まい。いつだったか自転車で自宅横を通ったとき、玄関の外で発声練習をしてる人がいた。たぶんご本人なんだろうけど、ジロジロ見るのも悪いのでそのまま通りすぎた。これからも息の長い活躍をしてほしい役者さんの1人。
2008.01.03
年末・年始の東京は、道は概ねすいている。だから都心へもスイスイ行ける。都心はといえば、ひと気のない場所も多いが、混みそうなスポットはやはり混んでいる。六本木もにぎやかだった。名高い六本木ヒルズのお膝元、けやき坂のイルミネーション。さすがに華やか。タクシー渋滞している。夜もあいてるカフェは若者でいっぱい。ここは、Mizumizuがもっともコンテンポラリーだと思う東京の風景。イルミネーションで飾られたけやきの向こうに、つやつやしたアクリルのウォールが並び、そこに内側から明るい光で照らされたデジタル数字が浮かび上がる。最初は時計か日付なのかと思ったのだが、せわしなくランダムに数字が変わるだけ。これが誰も知らない何かの暗号だったら、映画のワンシーンなのだが(笑)。
2008.01.02
トウキョウのイルミネーションがここまであちこちで豪華絢爛になる前は、「やっぱりイルミネーションはサッポロでしょう」と思っていた。サッポロといえば、雪まつりが有名だが、雪まつりの前に大通りを彩るホワイトイルミネーションも遜色ないほど魅力的だった。なにしろ、トウキョウにはない「雪」という最高の演出装置があるのだ。それも湿気を含んだ重い雪ではなく、サラサラの粉雪。もっとも好きだったのは、派手な大通りのイルミではなく、ちょっと横に入った「ふつうの道」の並木に飾られたネックレスのようなシンプルなイルミネーション。あまり観光客は歩かないが、吹雪の夜に、ここをクルマで夜通ると最高。雪が舞い、ネックレスのようなイルミネーションが風で揺れる。感激的美景だった。そして、BGMにふさわしいのはなぜか、3大テノールの歌うアリア。大声量で歌い上げるオペラ特有の過剰なまでにドラマチックな盛り上がりが、降りしきる雪にみょ~にマッチする(苦笑)。もちろん、大通りのオブジェを並べたイルミネーションも見事。この写真では、イルミネーションを寄り添って見ている2つの影が非常に気に入ってる。平和な幸福感に満ちている気がするのだ。観光客というのは普通は写真に撮る対象としては、もっとも味気ない存在なのだが、こういうシチュエーションでは別。誰だったんだろう、親子かな。光の柱は圧倒的な存在感できらめいていた。
2007.12.26
いや~、今日の都心の賑わいは凄かった。クリスマスイルミネーションなるものを見るか、とクルマで出かけたものの、名高い(?)お台場では渋滞に跳ね返され、そこから銀座に戻るのにも苦労した。東京のイルミネーションは今やりっぱな観光資源だと思う。あっちでもこっちでもきらびやかなイルミネーションが競うように光を放つ。こんな都市は世界中探しても他にはないのではないだろうか?地下鉄までとまってしまうロンドンのクリスマスは論外としても、パリのノエルもローマのナターレも、こんなに華やかなものではない。キリスト教徒にとってクリスマスは基本的に静かに家族と過ごすものだからだ。今年のイチオシは、なんといっても丸の内仲通りの「シャンパンカラーのイルミネーション」だと思う。えてして赤だの青だの緑だの、色をバラバラに使いすぎて品がなくなる日本のライティングだが、ここ仲通りに関しては、今年は「プチ・ジャンゼリゼ」といった趣きだ。温かみのあるシャンパンカラー一色で並木を飾っている。石畳の道を銀座方面から皇居に向かって歩くと、道の終わりにはカフェ・コヴァとペニンシュラ。エンポリオ・アルマーニをはじめとする流行最先端をいくショップが道に軒を連ねている。ジャンゼリゼのように広すぎて歩いて疲れるということもない。ヒューマンサイズで、道の反対側の店にもひょいと行けるのがいい。しかしなぁ… この通りの変貌ぶりには本当に驚かされる。ついチョット前までは、ここは古いドラッグストアだの雑貨屋だのがひっそりと営業してる、地味でイケてないエリアの代表みたいなところだったのだ。休日になると人なんてほとんど通らなかった。それがこの賑わい。今日は何があったのか知らないが、道に若い女性の大行列が出来ていた。あまりにたくさんの人が歩いていて、ビックリ仰天。思わず田舎者になって、「今日、お祭り?」と言いたくなった。表参道も「お祭り」だった。まったくどこからこんなにたくさんの人が沸いて出るんだろうね?写真は表参道ヒルズのファサード。絶えず変化する光の映像が、クールな都会の浮遊感とスピード感にぴったりマッチしている。ヒルズの中も、吹き抜けの空間がチカチカするホワイトブルーの電飾で飾られていた。だが、Mizumizuがもっとも表参道らしいと思う空間はほかにある。それがココ。冬でもヒーターつきのパラソルで、みな半ば無理やりオープンテラスのカフェを楽しんでいる。奥まったところにあるドアを飾る無数の小さな電球で彩られたアーチも美しい。ラルフローレンは、アメリカ風ヨーロッパ建築。ホント、日本じゃないみたい。昼は濃いブルーのオーニングがおしゃれな建物だ。しかし、こんなに電気使っていいものでしょうか? 発光ダイオードで省エネになってるとはいえ、こんなにあっちでもこっちでも派手なイルミネーションやったら、元の木阿弥では??ま、あれだな、そのへんのことはまた来年考えようっと。今はとりあえず、日本人のイルミネーションに対する情熱を堪能させてもらうことにして。しかし、これだけの驚嘆すべきイルミネーション、もっともっと宣伝してアジアから観光客を集めたらどうだろう? 洗練された親切なサービス、おいしい食事、何でも揃うショッピングゾーン、こうしたトウキョウの強みに、イルミが加われば鬼に金棒。ついでに大晦日は遅くまで店を開けて買い物客を呼び込むとか? インターネット時代の強みを生かして、アジアの若者向けに日本の「福袋」の紹介をドンドンして、いかにお買い得でエキサイティングなものかを伝えて興味を喚起し、ついでに元旦から店開けて売っちゃうってのも手だろう。そうすれば、年末年始を「トウキョウで過ごしたい」という外国人は増えるハズだ。やっぱり日本人はエコノミックアニマルといわれようが、ワーカホリックとそしられようが、働かなくてはイケナイのだ。かつて「好きなことが見つかるまでは」なんて甘いこといってフリーターになっちゃったワカモノは、ほとんどが年食って、今は「ただのワーキングプア」になっている。フリーターが流行り始めたときは、むしろそれを「新しい生き方」なんてもてはやす風潮もないではなかった。当時、ワーキングプアなんて言葉はなかったが、そもそもフリーター、イコール「限りなくワーキングプアに近い存在」だったのだ。行き先はほとんど見えていたはずなのに、それを厳しく教えなかったオトナも悪い。だが、景気がよくなってチャンスが増えれば、ふと気がつくと「ワーキングプア駅」で降ろされてしまっていた労働者も、それが終着駅ではなくなるかもしれない。やはり世の中は不景気よりも、景気がいいほうがずっといい夢が見られる。
2007.12.25
札幌郊外に前田森林公園という大きな公園がある。冬の間、ここでは「歩くスキー」の道具を無料で貸し出してくれる。札幌中心部の中島公園にも同様の公共サービスがあるのだが、郊外の前田森林公園のほうが、雪も綺麗だし、コースも長く、規模も大きい。本当に自然の林の中にいるような気分を味わうことができる。ナナカマドの実は、もうだいぶしおれている。こうなると落ちる寸前ということだ。日が差してくると、積もった純白の雪の上に、林の影が徐々に濃くなって浮かびあがる。ハッとする情景だ。林の写真をちょっと加工して距離感のない版画風にしてみた。歩くスキーは、Mizumizuのような超初心者でもそこそこ楽しめる。だが、ベテラン市民の速いこと速いこと。中には腕におぼえのある障害者スキーの人もいて、これまたすごく速い! 腕2本しか使っていないというのに、脚と腕4本使って歩いてる(滑っている?)こっちが1周する間に2回ぐらい軽く追い越された。もちろん、速い人が来ると、お邪魔にならないようによけるようにしていた。
2007.12.16
美瑛の美観を作ったのが土地の農家の人々なら、その美を「発見」したのは写真家の前田真三だといっても過言ではあるまい。この1人の天才写真家によって、美瑛の風景は全国にひろまった。前田以降、同じような風景写真を撮る写真家が続出したが、追随する者は誰も、前田の影響から逃れることはできない。今、美瑛はアマチュアの写真家にも人気の町だ。基本的にこの田舎町にあるのは、丘と木と畑と山なのだが、春夏秋は言うに及ばず、冬の寒い時期でも、丘の中腹にポツンと立っている木が見えたり、林越しに大雪山が見えたりするところ、つまりには前田真三風の写真が撮れるであろう場所には、必ず重そうな三脚が並んでいる(太陽光線が望むカンジになるのを待っているのだ)。前田作品を展示している拓真館で、写真を見ていた一眼レフを肩からさげた初老の男性が、「すごい!」と1人でつぶやいてるのを見たことがある。そう、前田真三は本当に凄い。誰だって、その写真を見れば「すごい」と思わずにはいられない。緊張感のある構図、風景写真でありながら現実を超えた(としか思えない)美しい色彩、そして何より強烈な光(それは太陽光だけではなく、時には自動車のヘッドランプだったり、夜家屋にともる灯りだったり、あるいは月の光だったりすることもある)の効果。そうしたものをすべて含む前田作品は、だがそれだけでは説明できないような凄みを放っている。それはもしかしたら、写真家の主眼が「風景」を超えたもっと大きな自然の力、つまりは日々刻々と変化する「気象」そのものに向けられていたからではないかと思うことがある。風景写真家はたいてい、雨の日は待機する。だが、実際に前田真三を知る人たちによると、彼は雨の日でもカメラをもって出かけていったという。単に美しい風景を撮るだけなら、当然晴れた日のほうがいい。それも太陽があまり高い位置にないときのほうがよい写真が撮れる。だが、前田はそうしたセオリーは踏襲しなかった。その行動は、西洋絵画史における先駆的な風景画家とされるターナーの行動と不思議と一致する。ターナーの時代、風景画は名所をただ美しく再現するための手段にすぎなかった。だから風景画家は晴れた日にしかスケッチに行かない。だが、ターナーだけは、雨の日でもスケッチブックを手に出かけていたという。そのターナーが、のちに「気象をとらえた」と評される、光と大気をドラマチックに表現する画風を完成させ、それまで一段低くみられていた風景画そのものの地位を引き上げたのは周知のとおりだ。前田作品も、よく見ればさまざまな気象が写真の中に捉えられているのがわかる。暗い雲が空から重くのしかかり、全体にどんよりとした風景の中で、一瞬差してきた強い太陽の光線に照らされた風景を撮ったものもかなりある。つまり、ここで前田が撮りたかったのは雨があがって日が差してくる、気象変化の一瞬なのだ。そうした意味では、めまぐるしく天気の変わる美瑛は前田にとってうってつけの場所だったのだろう。一番象徴的なのは、「大雪幻想」という作品だ。これは前景に雪の平原、中景に林、背景に大雪山を配した写真だが、前景の雪の平原は全体的に暗くなっている。夕暮れどきらしく、後ろの山は薔薇色に染まり、かつ陰影がはっきりしている。そして不思議なことに、雪原ほぼ一面に、ダイヤモンドのようなきらめきが散らばっている。これについて、ある評論家が「手前の雪原のきらめきは後から加工したものに違いなく俗悪」と書いた。確かに加工したものとしか思えないような幻想的な風景だ。だが、その言葉を前田は「自然も写真も知らぬ者のざれごと」と、明解かつ辛らつに否定してみせた。前田によれば、雪が降った直後に急速に晴れ上がり、気温が下がり、かつ強い斜光が雪原に当たると、雪片がダイヤモンドのようにきらめくことがあるのだという。「大雪幻想」の雪の平原にちらばるきらめきは加工して作ったものではないのだ。確かに、雪原がダイヤモンドを散りばめたように輝くのを、Mizumizuも北海道で見たことがある。だが、どういう気象条件でそうなるのかは知らなかった。こうしたダイナミックに変化する気象が生み出す一瞬の奇跡を捉えるという意味で、前田真三はまさしくターナーと同じ方向性を持っていた。ターナーも「自然を強調しすぎる」と酷評される一方で、有名な「吹雪――港の沖合いの蒸気船」という作品を描くために、マストに自身を数時間縛りつけ、嵐を観察した、などという伝説も残っている。前田真三は1年の半分以上は美瑛に住んでいた。だから、たとえば冬、狂ったような嵐が来たら、その次には奇跡のような晴天が来るのはわかるだろう(実際にMizumizuも体験したことがある)。真夜中の美瑛で、吹雪の音を聞きながら、この風がやんだら、どこにどんな霧氷の華が咲くだろう、雪の質感はどんなふうになるだろう。もしかしたら、まだ誰も一度も見たことのない「美」を明日は自分が「発見」するのかもしれない… 前田はそんな期待感や高揚感を持つことで写真を撮り続けてきたのではないか。そうした情熱と野心がなければ、美瑛はただ住むには淋しすぎるし、寒すぎる。「情熱と野心」と書いたが、前田作品の持つある種の凄みを見ると、もしかしたらそれは「執念」「情念」と言ったほうが正しいかもしれない。そうした「念」にとらわれてしまうと、世俗的な快適さだとか便利さだとかいったものは、何の意味ももたなくなるのかもしれない。風景を撮るとき、ある程度のレベルに達したたいていの人は、ここはと思った場所を決めて、後はイメージ通りの光が当たるのを長々と待っている。だが、前田真三は「自分は待つことはあまりない」と言っている。歩き回りながら見つけた風景をただ撮るだけなのだと。確かにそれは彼自身が自分を語る言葉としては真実なのだろう。だが、「その一瞬」に出会うためには、自然を、風景を、そして気象を知ったうえで、予測あるいは想像をする必要があるし、それを会得するまでにはずいぶん時間を使って経験を積まなければならないだろう。たとえば、「夕焼けの塔」では、とんがり屋根の塔が印象的な白い建物の向こうで、黄色と赤に鮮烈に染まった夕焼けの空が写しだされているが、前田自身「長年丘を撮っていても、本当にすばらしいといえる夕焼けに出会ったのはほんの数回」だと言っている。その数回のうちの1回がこの写真だということだ。期待していても「肩透かしをくらうことも多い」のだという。「夕焼けの塔」を撮ったときは、たまたま近くで撮影しており、空の状態を見て、その場所に急行したのだという。それはつまり、「どういう条件になったら、どこで撮るのがいい」ということがあらかじめ頭にあるということだ。そのパターンをできるだけ多く自分の中にストックするためには、なるほど「歩き回る」必要があるのだと思う。だから、前田作品が見せてくれる奇跡的に美しい一瞬は、やはり偶然の産物ではなくて、待ちに待った必然の一瞬であり、テクニックであり、観察眼であり、情念であるのだと思う。そして、それこそが写真家・前田真三の他の追随を許さない風景写真家としての才能なのだ。そうした情念に自然が答えてくれたのではないか、とすら思うことがある。たとえば、晴れた冬の日、白樺がすっくと立っている写真がある、その背景には、実に絶妙の位置に、しかも何気なく、雲が浮かんでいる。雲相手に、「ちょっとそこに浮かんでてよ、もうちょっと右に寄って…」などと頼めるわけはない。にもかかわらず、まるで雲と語り合ってその位置にいてもらっているようにさえ見えるのが前田作品なのだ。きれいなだけの白樺の写真ならいくらでもある。だが、こういう「脇役」とのバランスまで絶妙に捉えることのできる独創的な写真家というのは、やはりそうそう出るわけではない。写真はいろいろ見ているつもりのMizumizuだが、少なくともまだ、他の風景写真家からここまでの深い情念を感じたことはない。こうした前田作品の放つ強いエネルギーは、拓真館に来るアマチュア写真家にも伝わるのだ。その証拠に、拓真館を出たとたん、あたかも自身が前田真三になったかのように、意気揚々と三脚を立てはじめる写真愛好家たちをよく目にする。美瑛に来て拓真館に寄らない人はほとんどいない。1人の天才の情念は、たとえその本人がこの世を去っても作品の中に永遠に残り、見るものに影響を与え続ける。春の今日も、夏も今日も、秋の今日も、冬の今日も、美瑛に行けば必ずいる、丘のあちこちで1人で真剣に本格的なカメラを構えている人は、だから、前田の情念が呼び寄せたと言ってもいい。彼らの姿を見るとき、いつもMizumizuは思うのだ。「この丘に、前田真三は今も生きている」と。DVDビジュアル・プレミアム#前田真三の映像世界#拓真館から美瑛・上富良野の風景へ#Sinzo#Maeda’s#Landscape#Movie&Photo#Works前田真三 遥かなる丘(DVD) ◆20%OFF!
2007.12.14
ネルロ・サンティの指揮に衝撃を受けたのはチューリッヒ。すでにそのときサンティは70歳を超えていたが、日本ではそれほど知られていなかったこともあり、生サンティを見るのは初めてだった。今でこそ定期的にN響と演奏会を行って、その実力が徐々に日本でも浸透しつつあるが、ほんの少し前までは、まさしく「知る人ぞ知る」指揮者だった。最初に聴きに行ったときは、「マリア・カラスと同じ舞台に立ったこともある」という日本での短い紹介記事を読んだことがあるだけだったから、過去の栄光で今もときどき舞台に立つ、半分引退しかけた指揮者かな、などと失礼なことを考えていたものだ。しかし、聴いてみて驚いた。演目は聴きなれた「トスカ」だったのだが、無骨なまでの力強さと繊細な詩情が息もつかせず展開する音作りは、これまでのトスカのイメージを一変させられるぐらいの衝撃があった。これまでにない発見もあった。たとえば、有名な「星は光りぬ」のアリアが始まる少し前に、弦がアリアと同じフレーズを奏でる部分がある。そこでは、弦がまさしく「泣いていた」のだ。人の声、つまりアリアで泣く前に、弦が泣く。弦と声を競わせるような作り……。アリアへ入る前の演奏がこれほどリリカルで予言的であったのは、後にも先にもあのサンティのトスカ1回しかない。オペラの演奏会に行くのは、こうした奇蹟のような一期一会の音に出会うためだ。めったにないのだが、そうした瞬間に出会えたときは無上の幸せを感じる。そしてオペラ通いにハマり、多額のオペラチケット代を払い続けることとなる(笑)。まるで麻薬患者だ。Mizumizuもリッカルド・ムーティ+ウィーンフィル見たさにザルツブルクまで行ってしまった。相当重症かも。そのサンティだが、耳ざとい東京のクラおた(クラシックおたく)に知られるより前に、N響の奏者を心酔させたようだ。某N響バイオリストのHPにはサンティにイタリアオペラの楽曲を指導されたときの驚きと感激、そしてマエストロの知識と力量に対する賞賛が惜しみなく綴られていた。チューリッヒで衝撃を受けたあとだったから、「わが意を得たり」という気分でそのHPを読んでいた。もうかれこれ5年も前の話だが。今ではサンティは毎年のようにN響を指揮している。今年はコンサート形式のプッチーニのオペラを上演し、たいそうな評判を取ったらしい。だが、Mizumizuは仕事があまりに多忙で行くことができなかった(ククク、くやしい!)。11月末になってやっと時間ができた。そこで今年のサンティ+N響共演の最後を飾るコンサートにようやく出向くことができた。NHK音楽祭「華麗なるオペラ・バレエ音楽の世界」の最終夜N響+サンティ指揮、合唱:新国立劇場合唱団曲目ドビュッシー/ 交響詩「海」 マスカーニ/ 歌劇「イリス」 第1幕から“太陽の賛歌” プッチーニ/ 歌劇「蝶々夫人」 第2幕から“ハミング・コーラス”“間奏曲”歌劇「トゥーランドット」 第1幕から“斧をとげ”“月への祈り” ヴェルディ/ 歌劇「オテロ」 第1幕から“喜びの炎よ”歌劇「オテロ」 第3幕からバレエ音楽 ボロディン/ 歌劇「イーゴリ公」 第2幕から“ダッタン人の踊り” ヴェルディ/ 歌劇「アイーダ」 第2幕から“エジプトとイジスの神に栄光あれ” 結論から言うと、破格に素晴らしいコンサートだった。驚異的だと言ってもいい。これが一番安い席でなんと2000円。さすがにそれは売り切れで、Mizumizuは3000円の当日券をゲットした。在京のオケと合唱団を使い、指揮者のみ海外から招聘、おまけに収容力のあるNHKホールとなるとここまで安いのか! 普段は音響で文句ばかり言っているNHKホールだが、この驚異的な演奏をこんなに安く聴かせてくれるなら不平は言えない。この曲目を見て、「通な選曲だな」と思った。一応オペラ・バレエにおける「異国趣味」の曲を集めたということだが、そうしたテーマ以上に、感心したことがある。ふだんオペラを観るときは、どうしてもアリアに力点が行ってしまう。有名歌手が出るとなるとなおさらだ。だが考えてみればオペラはアリアだけではなく合唱も重要な要素だ。一流のオペラハウス、たとえばスカラ座の公演などを聴くと合唱の素晴らしさに感動する。また間奏曲もオケを集中して聴くことのできる大切なパートなのだ。今回サンティが取り上げた幅広いレパートリーは、そうした「全曲ではつい聞き流してしまうような」部分の美しさや奥深さを聴き手に教えてくれた。もう、1曲目のドビュッシーからブラボーが飛んでいた。ドビュッシーってこんなにダイナミックだったけ? これまで聴いたことのないような動的なドビュッシーだった。最後には「ここまで鳴らしますか」というぐらいのフォルテッシモが炸裂。圧倒された。しかもドビュッシーも暗譜で振っていた。サンティが膨大な数のオペラを暗譜で振る離れ業の持ち主だということは知っているが、ドビュッシーまで頭に入れているとは……サンティという人は、聴き手のウラをかくような予想外の解釈をしてみせる一方で、「そうそう、こんな音をこの曲で聴いてみたかった」と後付で納得させてしまうような不思議な音楽を作る。サンティの棒で曲を聴くなら、慣れ親しんだ曲にするといい。そうすれば、この円熟した指揮者の懐の深さがより理解できる。そういう意味で、ボロディンの「ダッタン人の踊り」は驚異的だった。誰でも知ってる、よくあちこちでかかる名曲だが、サンティの解釈はこれまで聴いたことのないものだった。まず、始まってすぐ「あれ? えらくテンポが速いな?」と思った。エキゾチックで妖艶、という従来のイメージを覆す軽やかなスタート。ゆったりと魅せる大人の女性の踊りのイメージが、跳ねるように踊る若いイメージに変わった。軽やかなのに薄っぺらくも雑にもならないのが、サンティの棒とN響のテクニックだ。そして、多彩な楽器の共演は、あまりにメリハリがきき、非常にドラマチックかつ色彩豊かでビックリ。なんというか、砂漠の乾いた風や、アラビックな衣装(ダッタン人とは正確にはモンゴル人のことだが、ボロディン、そして当時のロシアではトルコ人と混同されていたのだ)に身を包んで踊るチャーミングな踊り子の姿が浮かぶような絵画的な音楽だった。これが80歳に近いお年の指揮者の作る音なんだろうか? ホント、信じられない。最後の「アイーダ」の「エジプトとイジスの神に栄光あれ」も、この部分だけで、これだけ深い味わいがあるんだ! と改めて教えられた気分になった。演奏に関して言えば、管の個人的な力量の差があまりにくっきりわかってしまう部分があって、それが残念といえば残念だが、そうしたちょっとしたキズを忘れさせてくれるぐらい、おおらかでいながら、完成度の高い、そして新鮮な音だった。やっぱり多少金額は張っても、もっと音響のいい劇場で聴きたいなあ。あれ? やっぱりNHKホールに対する不満を言ってるでせふか、ワタクシ……あ~! こうなったらもうサンティ指揮のヴェルディ全幕オペラをN響にピットに入ってもらってやるしかないでしょう! コンサート形式ではない、本当のオペラ。サンティに本領は基本的にそこにあると思っている。早くしてもらわないと、さすがに80歳に近いお年を考えると、ムニャムニャ。気のせいか、年々指揮台に向かう足元のおぼつかなさが増しているような(でもいったん振り始めたら変わるんだけど)。それにしても東京の聴衆もたいしたものだ。これだけ通な、ある意味地味な合唱曲中心のコンサートで、あの広いNHKホールが8割がた埋まるのだから。ミシュランで世界一の星の数を獲得した東京だが、音楽においても、上演作品の質と量、そしての聴衆のレベルも、もしかしたら世界一かもしれない。外から見たNHKホール。中から撮るのははばかられるので、外から撮ったサンティ(右)の写真。左はゲルギエフ。開演前の舞台。遠いな~。席はC席3000円と超安。
2007.11.27
22日に発売になる「ミシュランガイド東京版2008」。今夜は六本木でカウントダウンイベントまで行われるという(アホくさ)。ミシュランはいうまでもなく、「世界でもっとも権威があるレストラン格付け本」とされている(誰が言ったか知らないが)。確かにミシュランで星がつけばお客はくるから、信頼度は抜群だろう。かく言うMizumizuもフランスでドライブしたときは、訪ねる地方都市をミシュランの星つきレストランがあるかないかで決めたことがないわけではない。さて、その権威あるレストランガイドで、ミシュランは東京に世界最多の計191個の星を与えた。パリですら64個だから、その数は傑出している。最高評価の三つ星レストランが8店。予想外に多かった。ちなみにパリは10店、ニューヨークでは3店しかない(ま、NYはねぇ…)。これについて欧米では批判も出ているようで、英フィナンシャル・タイムズは「ミシュランが掲載したすべてのレストランに星を与えたのは、1900年に初版が発刊されて以来初めて。日本人を侮辱しない、というミシュランの商業的な意図からだとする意見もある」と書いている。あのさ~、味覚が破壊されているとしか思えないロンドンのレストランと一緒にしないでくれる? と日本人から反論するまでもなく、ミシュランがこうした的外れな批判は、「東京に素晴らしいレストランがどれほど多いかを知らないからだ」だと反論をしてくれた。ミシュランの編集長ジャン・リュック・ナレ氏は、「一定レベル以上の料理を出すレストランが東京には約16万軒ある。パリは約2万軒、ニューヨークは約2万3000軒しかない」と言っている。ミシュランにはケッコウ懐疑的なMizumizuだが(特にフランス以外だと「はずれ」ることも多いので…)、この意見には諸手を挙げて賛成。わかってるじゃん、ナレ君!(とナレナレしく呼んでみたりして)。パリには確かに傑出して美味しいレストランやビストロ、総菜屋がある。特に肉料理の幅広さと美味しさは日本人には決してマネはできないレベルにあるし、野菜やフルーツを他の食材と独創的に組み合わせるひらめきと発想は、どうしたって日本ではお目にかかれない。だが、反面おそろしくまずい店も堂々と営業している。いつだったかフランスの高速道路の店でサンドイッチを買って、あまりのマズさにびっくり。どうしても食べられなくて(非常に抵抗があったが)捨ててしまった。その店ではハンバーガー屋にフランス人が列を作っていた。あんなサンドイッチを売っているようじゃ、ハンバーガー屋に並ぶのもワカル。また、パリのノートルダムの近くでたまたま入ったブラッスリーも、驚くほどマズくて高かった。テーブル蹴り倒して出たかったくらい。その街の食のレベルが高いか低いかを論じるとき、何を基準にするかにもよるが、個人的には「どこでもそこそこのものが食べられる」というのは重要な要素だと思っている。その意味ではフランスのレベルはとても低い。美味しい店ととんでもなくまずい店の差がひどすぎるのだ。少なくともイタリアではそんなことはない。香港も平均してだいたい美味しいものが食べられる街だろう。そして、平均的なレベルが傑出して高いのが、どこあろう東京なのだ。ナポリと同じピッツァ、ディジョンと同じエスカルゴ。本場そのものといっていい料理が、現地からこんなに離れた極東の島で食べられるというのは凄いことだ。独創的な西洋料理を出す店の数ではフランスの後塵を拝しているかもしれないが、逆にどこでも一定レベルの味がそれほど高い値段でなく供されているのはフランスにはない長所だろう。東京がこれほどの美食の街になったのは、まず「食べる側のレベルが伝統的に高い」ということがあるのは間違いない。日本の子供は他国の子供に比べれば、幼少期からいろいろなものを親から与えられて味覚の幅を広げている(このごろはそうでもない家庭もあるようだが)。それに、日本人には新しいもの、すぐれたものをどんどん取り入れたいという積極性と好奇心、それに向学心があり、しかも職人の地位が比較的高い。すぐれた料理を作るシェフは力量の高い職人として尊敬されている。フランス料理店で三つ星をとった「カンテサンス」の岸田シェフは若干33歳だが、10代から料理人の道に入って修業している。彼が最初に入った店は三重県の伊勢志摩観光ホテルだという。つまりあの名高い高橋シェフの仕切るレストラン「ラ・メール」だ。伊勢志摩観光ホテル――このダサい名前のホテルのレストラン「ラ・メール」は、しかし、グルメの間では非常に有名。ここのアワビのステーキと伊勢海老のクリームソースは「絶品」と評されてきた。Mizumizuも食べに行ったことがある。泊まって食べたのではなく、食べるために泊まりに行ったのだ。岸田シェフがあの若さで三つ星シェフになったことと、そのキャリアのスタートが名高い美食レストランであったことは偶然ではないだろう。日本にはすぐれた職人を育てる優れた場があるのだ。ことに今、料理の世界では。そのことを図らずもミシュランは証明してくれた。しかし、だから、困るのだ。ヨーロッパへ行く楽しみと目的が減ってしまった。別にパリやローマに行かなくても東京でそれなりのものが食べられる。よく「旅の最後の楽しみは食になる」と言われる。最初のうち旅というのは名所・旧跡を巡ることに力点が置かれる。ところが、だんだん旅慣れてくると、その土地でしか食べられないモノを食べることこそ、もっとも優先されるべき目的になるという意味だ。その目的も、東京にいながらにして、かなり達せられる状況にある。南イタリアのカラーブリアの郷土料理を食べさせる店も、フランスのランド地方なんて、どこだかよくわからない地方の郷土料理をおいしく食べさせる店もあるのだ。本当に東京は凄い。
2007.11.21
あるクラヲタ(クラッシックおたく)のブログに、杉並公会堂の大ホールでコンサートを聞いたときのことに触れ、「杉並『にも』こんないいホールがあったんだ」と書かれているのを見て苦笑いしてしまった。杉並公会堂がリニューアルオープンして1年、目ざとい東京のクラヲタにもまだまだ知られていないのだが、実はここの大ホールは、相当のクラオタのMizumizuから見ても、めったにお目にかかったことがないくらい素晴らしいコンサートホールだ。透明&半透明のガラス張りの明るいホワイエといい、明るい色調のウッドを床材や壁材としてふんだんに使っているホール内部といい、いかにもコンテンポラリーな日本を象徴するようなモダンな意匠。そして、やはりなんといっても一番は音響の素晴らしさ。長方形のホールなのだが、舞台から発せられる音がムラなくホール全体に広がって聞こえる。音質は初台の新国立劇場のような人工的な感じにはならず、あくまでもナチュラル。また、特筆すべきはその残響効果。残響がすう~っと壁に吸い込まれて消えていくようで、その美しさはたとえようもない。収容人数が違うので一概に比べるのは無理があるかもしれないが、音響だったらサントリーホールを超えている、と個人的には思う。荻窪音楽祭2日目は、この杉並の誇る公会堂での無料コンサートに出かけた。杉並公会堂はなんと、世界の3大ピアノメーカーといわれるスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインのピアノを3つとも備えている(すごすぎる……)。午後は小ホールで、そのうちのベーゼンドルファーを使ってのベートーベンやシュトラウスを楽しんだ。無料ということもあるだろうけれど、小ホールはいっぱい。しかも、ここでもシニアダンディが多かった。ほんっと荻窪のシニアは元気だ(そりゃまあ、元気な人が来てるんだろうけど)。そして夜は大ホールでのメサイヤ(ヘンデル)。教会の聖歌隊による合唱とはいえ、歌手やソリストはほとんどの方がプロだし、しかも、この素晴らしいホール。ホントに無料で聴いていいのかしら。コンサートついでの教会の宣伝活動には目をつぶろう。なにせタダだしね。 よく「ヨーロッパではオペラやコンサートに頻繁に行っている」という話をすると、「やっぱり本場は違いますか?」と聴かれる。そういうときは、「う~ん」とちょっと答えに困る。音楽の消費という意味では、東京はオペラ歌手でもオケでも指揮者でも世界のトップクラスが頻繁に訪れるから、おそらく世界でもほとんど類を見ない、高レベルの演奏を聴くことのできる都市だ。ハコはどうかといえば、ヨーロッパの歴史のあるオペラハウスは、実は音響に関してはかなりデッドだ。古いのだからそれは仕方がない。日本ほど進んだ音響技術を駆使したホールというのはそんなにはないのだ。では日本の演奏者のレベルはどうかというと、これまたそんなに悪くない。もちろん、たとえばオケの技量をウィーンのような一部の超一流とくらべてしまえば、競争にはならないが、ヨーロッパの地方都市にあるオケのレベル自体は必ずしも全部高いワケではない。日本の奏者のレベルもそこそこなのだ。では、何が悪いのかというと、日本では素晴らしいハコに素晴らしい奏者や企画が入らない、ということだ。たとえば、NHKホールはオペラハウスとして考えたら(まあ、そもそも考えられないのだが)、世界最悪だ。そこにスカラやらミュンヘンやらがやってくる。本当なら国立のオペラハウスである新国立劇場という素晴らしいハコがあるのだから、そこに呼んでもよさそうなものなのだが、海外の一流オペラを上演するためにはNHKホールぐらいデカいところでないとモトが取れない(と「呼び屋」サイドが主張する)らしい。加えて、実績のある呼び屋さんと新国立劇場の運営サイドで日本人同士の政治的ないがみ合いもあったやに聞く。こうしたことにものすごい齟齬を感じる。新国立劇場でウィーンフィルを聞くことはできない。せいぜいよくても上野の東京文化会館だ。東京文化会館も相当古いよね。NHKホールほど酷くはないけれど。杉並公会堂という素晴らしいホールが目と鼻の先にあるにもかかわらず、大好きな指揮者のネッロ・サンティの公演を聴くためには、世界最悪のNHKホールに行かなければいけない。杉並公会堂はハコとしては素晴らしいのだが、企画がぱっとしないから、都内のクラヲタにもあまり知られていない。すぐそばの武蔵野市民会館が企画力でクラヲタの賞賛を集めているのと対照的だ。2月にはオペラシティで歌ったあとのジョゼフ・カレジャを武蔵野に連れてきて歌わせるらしい。ただ、武蔵野の場合はクラシックファンからは感謝されても、一般のクラシックに興味のない市民が詳細を知ったら激怒するような額の税金がつっこまれている可能性はある。いいクラシック企画というのは、カネ食い虫なのだ。だが、杉並公会堂に工夫のある企画が少ないというのは、どちらにしろ残念なこと。たとえば、サントリーホールでは「ホールオペラ」という独自のコンサート形式のオペラを上演して人気を博している。こうした歌手の歌合戦をやるのには杉並公会堂大ホールはうってつけなのだが…… 杉並では、なんだっていつも同じようなピアニストが演奏するのかな? ホームページをみても、あまり見たいと思うコンサートがないよね? 日フィルのフランチャイズというのはいいけど、オケだけでないプラスアルファの企画をもっと考えてみては? というワケで、せっかくのホールなのに、Mizumizuはあまり足が向かないでいるのだ。
2007.11.18
わが町、荻窪では今日から『荻窪音楽祭』が始まった。これはクラシック音楽を中心にして街の活性化を図ろうという趣旨で春と秋に開催される市民参加型の音楽祭で、開催期間は3日。会場も特設テント(つまりストリート)、公会堂、教会、保健所や病院と多岐にわたっている。5万人規模の街の音楽祭としては、規模・質ともに相当なレベルだと思う(別に利害関係があって自画自賛してるわけではない)。そういえば、杉並はクラシック好きが多い。ネットに行けなくなったクラシックコンサートのチケットを売買するサイトがあるが、売ってもらおうとコンタクトを取ったら杉並区民だったなんてこともケッコウある。初台の新国立劇場のボックスオフィスに並んだら隣も杉並から来た老夫婦だったなんてことも。Mizumizu邸の奥のお宅は、週末になるとショパンの『英雄ポロネーズ』を練習している。最初は相当つっかえていたが、だんだんうまくなり、今では週末テラスでお茶をするときのいいバックミージックになってくれている。ワンブロック先のお宅からは『エリーゼのために』を軽々と弾きこなす音が聞こえてくる。今日は平日なので時間が取れないかな、と思っていたのだが案外暇だった。そこで午後2時から北口駅前の特設テントでやるというハーモニカ演奏に出かけた。パンフには「リベルタンゴ」「タイスの瞑想曲」などと書いてある。ん? タンゴはなんとなくわかるけど、マスネをハーモニカでやるの?行ってみたら、奏者の年齢が高くてビックリ! 今日は寒いから足元が冷えて大変だったかも。最初はハーモニカの2人がタンゴを吹いていたが、あとからギターとチャランゴ(南米のウクレレみないな楽器)をもったダンディなシニアが加わった。中心になって仕切っているハモニカダンディは白いシャツに黒いスボンですっくと立っている。弦楽器ダンディはおそろいの毛織のパッチワーク風ベストを着て、フェルトハットをまぶかにかぶり、ギターの足台にちょいと足をのせて演奏する姿がいかにも粋。いつの間にか人も何重にもテントを取り囲む。演目もパンフにないワルツなどもあって、とっても通な選曲。演奏の途中に入った話によると、もともとはハモニカグループと弦楽器グループで分かれていたのが一緒に練習するようになり、だんだん相手グループの好きな曲もやりたくなってレパートリーが広がったとのこと。すっかり楽しんで聞いていたら午後3時半をまわってしまった。日本キリスト教団荻窪教会で別の演奏会もあるのだ。こちらがまた、ヘンデルありモリコーネありと、Mizumizu好みの選曲。タイスまで聴けなかったのはちょっと残念だったが、慌てて自転車を飛ばして細い駅の北の教会通りを走る。「教会」と書いてあったので、教会通りの先にある「教会」だと思い込んでいたのだ。ところが、教会に着いてみるとえらく閑散としている。中に入って聞いてみたら、「ここは天沼教会。日本キリスト教団荻窪教会というのは南口のほう」だという。えっ? そんなに教会があったの? 荻窪って…… 住んでいるのに全然知らなかった。そういえば、善福寺川をかつてヨルダン川にみたせて、そこで洗礼をほどこしたとかなんとか、今の汚くて臭い善福寺川を見たら信じられないような話を聞いたことがある。がっくりして地図をみたら、たしかに駅の反対側だった。もう時間もだいぶ遅いし、こりゃだめだ、とその時点で諦める。「こちらでは18日にオルガンのコンサートがありますので、ぜひ」そうそう。ここのオルガンコンサートは確か『アド街』でも紹介されたと思う。「はい。楽しみにしています」明るく答えて、スゴスゴ帰宅した。今日は午後7時から城西病院ロビーでもショパンとドビュッシーのピアノコンサートがある。そっちに行きたいな、と思いつつ午後は仕事。ところが夕方になって、お世話になっているお客さんから、みょ~にハイテンションで明るい声の電話が入る。「どうも~。先日は無理をいろいろ聞いていただいて、ありがとうございました。おかげでなんとか終わりました」「いえ、こちらこそ。おつかれさまでした」「で、ですねぇ。また急ぎの仕事で申し訳ないんですがぁ」キターーー。金曜日夕方のお約束。「ボクらもう帰るから、週末やっといて。月曜までにヨロシク」のパターンだ。「実は、なる早でやっていただいたい案件ができちゃって」「なる早、ということは、土曜日は…?」「あ! ボク働いてます!」がーん。月曜どころか土曜日納期ね。ハイハイ。ありがたくやらせていただきますヨ~。お客様は神様でございます。そんなこんなで、バタバタしていたら、すでに8時をまわってしまった。もしかして、席に空きがあったら途中からでも入れるかな? と城西病院へ。なにせ同じ町内だから徒歩でもすぐ。だが、残念ながら入り口に「整理券の配布は終了しました」とあり、入ることはできなかった。というワケで、初日はストリートだけで終わってしまった。明日は午後から公会堂でいくつかコンサートがある。しかも無料!あらら、なんと午後7時からヘンデルのメサイアが公会堂大ホールであるではないか。北区十条でおもしろそうな企画のピアノのサロンコンサートがあるので、行こうと思っていたのだがモロに重なってしまった。しかし、やっぱりナポリでオペラを聞き損ねた、大好きなヘンデルだしな~。Sekiクン、ごめん。また企画してね。
2007.11.17
ガレリアを抜けるとすぐにサンカルロ劇場だが、ガレリアを出るときに階段のところで一匹の仔犬が近寄ってきた。仔犬… いや、小型犬で実際には子供ではないのかもしれないが、とにかくそれほど年をとっていないのは確かだ。犬好きのMizumizuは足を止める。首輪はしていないが、尻尾を振って足元をクンクンする人なつっこさからすると、野良犬ではなく捨てられた犬だろう。少し皮膚病にかかっているらしい。あいにくあげられるような食べ物はもっていない。「どうしたの? 捨てられたの?」話しかけると、さらに一生懸命に尻尾を振った。階段をおりるMizumizuの足元にくっついてくる。そのままガレリアから離れ、道をわたって広場のほうへ歩いた。犬はそこまではついてこない。しばらく歩いて振り返った。と――小さな瞳がじっとこちらを見ている。Mizumizuが振り返ったのを認めると、また尻尾を降り始めた。――呼んでおくれよ。そしたらすぐに、ついていくよ仔犬の眼はそう言っているように思えた。イタリアでも捨て犬は問題になっている。長いバカンスに行く前、あるいはバカンス先で、ペットの犬を捨てていくらしい。特に南イタリアでは野良犬をよく見かける。あまり人間がいじめないのか、人通りの多い道でも堂々と寝ている。だが、そういう犬が、また誰かに拾って飼ってもらえるかというと、それはまた別問題らしい。サンカルロ劇場の脇の広場には別の野犬も寝ていた。こちらは大型犬だ。だが、やはり皮膚病にかかっている。実は、サンカルロ劇場の入り口を探していたのだ。どうやら広場のほうにはないとわかり、またガレリアのほうに引き返した。すると、さっきの仔犬は、交通整理をする婦人警官の足元にぴったりよりそって、婦人警官の見つめる先を一心不乱に見つめ、さかんに尻尾を振っている。――この人がボクのご主人さまだよ。ほら、ぼくらはこうして一緒に働いているんだ婦人警官が仕事を終えてその場を去るとき、彼はまたあの訴えかけるような瞳でその姿を追うのだろうか。決してしつこくはしない。しつこくして邪険に追い払われるのはイヤだ。でもいつかきっと、もしかしたら明日、ご主人さまが現れるかもしれない……日本で「崖っぷち犬」が話題になったとき、北は北海道から南は沖縄まで、飼い主希望者が殺到したという。ところが、彼らは一様に、「テレビで有名になったあの犬」だけを欲しがり、施設の職員の呼びかけにもかかわらず、抽選にはずれると他の犬を引き取ろうとはしなかったという。中には選にもれて泣き出す子供もいたそうだ。まったくなんと軽薄でさもしい行動だろう。有名になったお犬様を手にいれ、「これが、あの『崖っぷち犬』」などと自慢したいのだ。そんなみみっちい虚栄心のために労を惜しまず出かけていく。かわいそうな犬は彼らの町にもいくらでもいるというのに。みながそのニュースを忘れた3年後、5年後にはどうするのだろう? もともと野良犬だった犬は人になつきにくい。それでも、もらいに行きたいと考えたときと同じようにかわいがれるのだろうか?子供が「どうしてもあの犬が欲しい」と泣いたら、あの犬は特別ではなく、どの犬にも同じ命があるということを教えるべきなのだ。そして、生き物を飼うにはそれなりの責任がともなうことも。Mizumizuは大の犬好きだが、飼わないでいるのは、今の生活状況と環境では、最後まで責任をもって面倒が見られるかどうかわからないからだ。犬はかわいい。そばにいてくれたら生活も楽しくなりそうだ。あのナポリの「ガレリアの犬」を捨てた飼い主も、おそらく最初はそう思って彼を手に入れたはずだ。きっとかわいがったのだろう、最初のうちは…「ガレリアの犬」は人間のエゴの犠牲者だ。それでも彼は、人間を信じて待っていた。「ガレリアの犬」はナポリだけではない。日本にもたくさんいる。「ガレリアの犬」の飼い主は、彼をかわいがった日々を忘れてしまったかもしれない。だが彼は憶えている。人間に愛され、幸せだった自分を。だから、行きずりの人に愛想を振りまくのだ。ガレリアの周囲には他にも大型の野良犬がいた。小さな彼は、大きな彼らにいじめられることもあるかもしれない。広場のほうに来なかったのも犬同士の縄張りのようなものがあったからかもしれない。そして、守ってくれる者のいない空の下で、不安な気持ちで眠る夜、「ガレリアの犬」が夢見るのは、ご主人さまに寄り添って暮らせた満ち足りた日々かもしれないのだ。
2007.10.28
タレントの井ノ原快彦(V6)と瀬戸朝香夫妻が世田谷等々力の路上で倒れた男性を見つけ、119番通報して、救急隊員に搬送されるまで見守っていたという記事を読んだ。 それでちょっと思い出したのが、1週間ほど前のこと。 深夜12時近く、連れと近所を散歩をしていた。自宅からそう離れていない住宅街の四つ角を通りかかったところ、衝撃的な光景が…! 男女2人を乗せたバンが右折の途中…… という感じで路上に停まり、その先の道路の真ん中に、なんと男性が倒れている! 靴も上着も散乱しているではないか。その男性のそばには通行人とおぼしき女性が立ちすくんでいた。「どっ、どうしたんですか? 事故?」 声を上げると、車中の女性が助手席から、こちらに向かって手を横に振ってみせた。「轢いてませ~ん」 ノンビリした声だった。路上の男性のところに近づいてみる。モロに車道の真ん中だ。寝ているのか気を失っているのか、はたまた死んでいるのか、一見したところではわからない。「どうしました?」 かがみ込んで声をかけるも、反応はなし。 おそるおそる口もとに手をやった。息してなかったら、どうしよう? と――「寝てんジャン!」 そう、男性はすやすやと平和な寝息をたてていたのだった。な~んだ。 落ち着いて見渡すと、靴は「やっと家に着いた」ときのように前後に脱いである。そして、上着も「その次に部屋で脱いだ」感じで放り出してある。どうやらこの男性、自身の脳内イマジネーションの中では「家に着いた」らしい。 再度声をかけてみたが、どうもそれでは目を覚ます気配がない。バンも道を通れなくて困っている。運転席の男性のほうがケータイを取り出し、110番通報を始めた。 しょうがないから道の脇に運ぼうか、と通りすがり同士で持ち上げようとしたところ、その男性、やっとただならぬ気配に気づいたらしく、やおら身を起こした。「あれ~?」 けっこう元気そうな声だ。「大丈夫ですか?」 と、Mizumizu。「どうしたんだ? オレ?」「道に寝てますよ」「え?」 周囲を見渡し、「ここ、どこですか?」 と、ハンで押したような反応。「かみおぎ~」 通行人がみなで声をそろえる。「あれぇ、オレ、何でこんなところに寝てんだ?」 出たっ! 酔っ払いのお手本のようなお言葉。期待に応えてくれるなぁ。「靴脱いでますけど?」 最初にいた女性が道端を指差した。最初の緊迫した雰囲気はすっかりとけ、なごやかなムードにつつまれた。 酔った男性は、ヨタヨタと立ち上がり、ノロノロと靴を履く。よく見れば靴も上着もよいものを身につけている。ちゃんとしたカタギのサラリーマンなんだろう。 バンの車中で警察に通報していた男女は、「あ、起きたみたいです。どうも」かなんか言ってケータイを切り、エンジンをかけた。 男性はというと、まだ事態が飲み込めていない様子で、「あのぉ、みなさんは……?」 と、まるで飲み会の仲間と半ば間違えているようにこちらを覗き込む。――もう一軒行くンすかぁ なんて会話をしてる雰囲気だ。「通りがかりですけど」「どちらにお帰りですか?」 口々に尋ねる。 すると、男性は首を振りながら、一瞬黙り込んだ。そして、低い声で、「善福寺……」 と、一言。 どうやら飲み会は終っていることを、ようよう自覚したようだ。 善福寺は上荻から歩くと15分ぐらいはかかる。普段は荻窪駅から頻繁にバスが出ているが、もう深夜でバス便がなく、歩いて帰ろうとしたところ、上荻で「すでに家に着いた」つもりになって靴を脱ぎ、「自宅に上がりこんだつもり」で寝てしまったということだろう。寝てるうちに記憶は楽しかった(?)飲み会までさかのぼっていて、そこで起こされた、ということのようだ。「タクシー呼びましょうか?」 聞いてみたが、「いや」 フラフラしながら青梅街道方向へ歩き出した。「大丈夫ですか?」「善福寺はまだかなりありますよ」 通行人のほうは心配して話しかけるが、男性は恥ずかしそうに首を振りながら、「いや、大丈夫っす。すいません」 と、歩いて行ってしまった。 あれだけ酔っていて、あと10分も20分も歩けるのかな? 少々心配になったが、本人はどんどん歩いているし、青梅街道に出れば、タクシーも拾えるだろうし、だいたいりっぱな大人だし、ということでそのまま見送った。 住宅街とはいえ、あのままずっと車道の真ん中に寝ていたら危なかったかもしれない。だが、路上で泥酔して寝込んでいるにもかかわらず、金品を奪われることもなく、通行人によってたかって起こしてもらえるなんて、まだまだ日本は平和だ。 あの善福寺の男性は翌日ちゃんと会社に行けたのだろうか? 今日の記事を読んで、彼もあの夜のことを思い出しているかもしれないと思った。
2007.10.12
10.8、3連休の最終日は珍しく完全オフだった。9月にも3連休はあった「らしい」が、仕事が多すぎて全然休めなかった。この半年、休日がまったき休日であったためしがない。家から一歩も出ない日も多い。出ないというより出てるヒマがないのだ。今日はまったく仕事がない。ゆっくり寝てお昼近くに起き、クルマでランチを取りに出た。ランチのあと都心までクルマを走らせる。途中で「そういえば、ペニンシュラが9月にオープンしてたはず」だと思いつく。アフタヌーンティーでもしようかと、日比谷へ。ザ・ペニンシュラは地下鉄日比谷駅直結、皇居にも銀座にも近いというロケーションが売り。帝国ホテルの目と鼻の先にあるといったほうがわかりやすいかもしれない。ザ・ペニンシュラの駐車場に近づくと… ゲゲッ、3人もバレットが立っている。田舎のデパートみたいな帝国ホテルの駐車場の入り口とはエライ違いだ。バレット・パーキング=バレット代が高い、と踏んだMizumizuはペニンシュラに駐車するのはやめて、すぐそばの普通の駐車場に停めることにした(我ながら貧乏臭い・笑)。ペニンシュラはホテルの各ドアのところにドアマンが立っている。う~ん、なんだかとってもコロニアルな雰囲気。ドアを開けてもらって中へ。ロビーは香港のペニンシュラと同じく、カフェになっており、しばらくしたらちゃんとペニンシュラのトレードマーク、生演奏も始まった。ロビーのカフェは若い女性でいっぱい。宿泊客が通る埃っぽいようなところだが、ここは「庶民でもペニンシュラの雰囲気が味わえる貴重な場所」なのだ。とはいえ、あまりの混み具合にアフタヌーンティーの気分はすっかり失せた。席を詰め込みすぎていて、「優雅なアフタヌーンティー」をする場所のイメージからは程遠い。しかも、こんなにロビーいっぱいに外部の客を入れているのに、同じ階のトイレが一箇所しかなく、かつ個室は3つだけとはお粗末だと思う。実際、トイレの前は音楽会の休憩時間の劇場のトイレみたいに行列になっていた。内装は… なんというか、「中国人がハリウッドで日本をイメージしたセットをカネかけて組んだ」みたいな感じ。木をふんだんに使ったロビーの内装や、そここに見える「和風」の要素は、いかにもガイジンのイメージするような日本で、なんとなく居心地が悪い。大理石のタイルも惜しみなく使われていてゴージャスなのだが、上品さに欠け、華僑好みの成金趣味という印象になってしまっているといったら、ちょっと意地悪すぎるだろうか。橋本夕紀夫設計というが、どうもガイジンに媚びているのか、日本的な深みのある洗練に欠ける。ちなみに部屋は51平米の部屋で6万円から。帝国ホテルの同クラスの部屋より1万ほど高い設定のよう(帝国ホテルはもっと狭い部屋もある)。ペニンシュラのターゲットは日本人ではない気がする。地方から出てきた日本人が泊まるとは思えない。部屋の広さにこだわる日本人というのはそんなに多くないし、いくらなんでも最低価格が高過ぎるし、ハリウッド映画のセットみたいなエセ和風の建物が日本人の好みに合うとは思えない。とすると外国の金持ち相手かな。海外の富裕層がどのくらい日本に来るのかわからないが、コロニアルで、とりあえずは「モダン・ジャパニーズ」なしつらえの高級ホテルだから、ガイジンには受けるかもしれない。ロールスロイスでのお出迎えなどもあるようだし、海外のお金持ちがジャンジャン来てくれればいいのだが。バレットに駐車料金を聞いたところ、案の定、バレット代が1500円、そのほかに10分ごとに200円かかるという。6000円の食事をすれば1時間無料になるとか。フムフム、さすがに駐車するにも敷居が高いなあ(苦笑)。ちなみにMizumizuの停めた駐車場は10分100円。読みどおり、こちらのが安かった(と、安心するところが、我ながらケチくさい)。地下のベーカリーに行ってみたら、ここもなにやらカフェの前で行列している。テイクアウトなら並ばなくてすむということなので、スイーツを買ってみた。スイーツを買うだけで、こんな(写真右)大仰な紙袋に入れてくれる。まずは、香港といえばコレでしょう。マンゴープリン。値段も600円台と、トウキョウレベルでは、それほど飛び抜けては高くない。Mizumizuがこの南国のムードいっぱいのデザートに出会ったのも90年代の香港だった。当時は日本にはほとんどなかったマンゴープリンだが、今ではとってもポピュラーなスイーツになった。ザ・ペニンシュラのマンゴープリンはさすがにフレッシュで、おいしい。マンゴーの果肉自体はそれほど高級なものではないが、果肉の酸味がプリンの甘みとよく調和する。クコの実がのっているのが、いかにも中華風。香港を思い出して懐かしくなった。普通のマンゴープリンとちがって、白いクリームが中に隠れている。これがまたマンゴーの野性味を上品なデザートに変えるのに一役買っているようだ。マンゴーの果肉のぷるんとした食感とプリンのひたすら滑らかな食感もよいコントラストになっている。まあ、ペニンシュラだしね。このぐらいのものは作ってくれなくては困る。マンゴー好きとしては、もうちょっとマンゴーのクセを残してくれてもよかったかな、という気はするけれど、あのクセを嫌う人もいるし、そういった人にも受け入れられる上品で滑らかな口当たりの仕上がりになっている。トウキョウにあまたあるマンゴープリンの中でも、そうとう高いランクにあることは間違いなし。
2007.10.09
ちょくちょくお邪魔している蓮池薫さんのブログ。「地震で(自宅から)避難命令が出た」をいう記事が気になって覗いていたのだが、地震についての話はそれで一応完結したらしく、翻訳した本の作者との交流に話が戻っていった。ということは自宅は一応大丈夫だったのだろうと思っている。さて、薫さんの9月27日の記事がまた、あまりにおもしろく示唆に富んでいるので、同じような仕事の現場にいる者として雑感を書きたくなった。薫さんが挙げている米原万里の著書『不実な美女か貞淑な醜女か』。通訳・翻訳の現場を知る人間にとって、これほどの至言はない。ご存知ない方のために簡単に説明すると、外国語を通訳すとき、オリジナルの言語にひたすら「忠実に」訳された言葉はわかりにくく、美しく聞えない。逆に美しく自然に聞える通訳は実はオリジナルからはある意味で「離れている」場合が多い、ということだ。もっと簡単にいえば、米原は直訳を「貞淑な醜女」、意訳を「不実な美女」に譬えたのだ。これは翻訳の世界でも、まったくもって正しい。たとえば英語に、あまりに一途に忠実に訳されると、日本語は和文としての流れを失って硬直してしまう。また意味も非常にわかりにくくなる。言語にはその言語を組み立てるロジックがある。人は無意識のうちに自分の母語のロジックにしたがってモノを見、思考し、そして文章を書いている。その言語を母語としない限り、単語を覚え、文法を習得し、意思疎通ができるようになっても、言語間に横たわるロジックの壁まではなかなか乗り越えられない。「日本語英語」などといわれる文章は、日本語のロジックのまま英語の単語や語順にそって文を書いているからだ。また、バイリンガルといわれる人たちは、ほとんどの場合、どちらかの言語の(あるいはどちらの言語も)語彙が圧倒的に少ない場合が多い。単におしゃべりをしているときはわからないかもしれない。だが、文章を書かせたらそれは如実に明らかになる。書き言葉は話し言葉よりずっと明快に、その人がある言語に対してもっている語彙やロジックの力が露呈するのだ。蓮池さんはブログの中で、「自分の『意見』が通訳の途中に入ってしまう」と書いているが、これもおもしろく読んだ。というのは、よく通訳者の業界で、「女性よりも男性のほうが、自分の意見を入れてしまう傾向がある」というのが言われるからだ。もちろんこれは通訳の技術を磨くことで、克服していくことができる。だが、(あくまで一般的な)傾向として男性は、相手が言っていることを、そのまま「通訳」しなければいけないにもかかわらず、自分の意見や「こうであるはずだ」という一種の思い込みを無意識のうちに混ぜてしまうことが多いというのは本当らしい。それに対して、女性は相手の言わんとすることをまずは必死に理解しようと注力する傾向が高いらしい。翻訳者と通訳者の能力についても、案外世間では誤解されている。だいたいみな、通訳がうまければ翻訳もうまいと考えている。もちろんそういう人もいるが、実はそれは稀有な存在だ。それは英語の通訳業界、翻訳業界を見るとわかる。業界内では「よい通訳者は悪い翻訳者。よい翻訳者は悪い通訳者」と言われることもしばしばで、実際通訳をメインにやる人間と翻訳をメインにする人間はくっきりとわかれている。両方やっている人は実は、どちらの仕事も少ないからだったりする。有能な通訳者は常に通訳の仕事がくるので翻訳をやっている時間はない。有能な翻訳者は常に翻訳を頼まれるから、通訳をやっている時間はない―それが現実だ。英語以外の言語で通訳も翻訳も両方やる人が多いのは、要するに人材が少なく、したがって競争も少なく、通訳者や翻訳者のレベルが英語ほど高くないせいだ。通訳者と翻訳者の能力の違いは、簡単にいえば、しゃべるのが上手な人と書くのが上手な人の違いだ。文章が上手な人が話すのが上手だとは限らない。逆もそうだ。通訳者と翻訳者の向き不向きは、政治家と作家ぐらいの差がある。両方の職種とも「人に何を伝えるか」、すなわちその人のもつ「言葉」の力が非常に大切だろう。双方の素質を兼ね備えた人ももちろんいる。だが、そうした人のほうが少数派であることは納得いただけると思う。だが、米原のいう「不実な美女か貞淑な醜女か」は、通訳にも翻訳にも共通している。「貞淑な醜女」にしかなれないのはヘタな通訳者(翻訳者)だ。それは間違いない。それでは、「不実な美女」になることが、常によい通訳者(翻訳者)になることとイコールなのだろうか? 実はこれには、大きな落とし穴があるとMizumizuは思う。名訳は時として原文には一見、不実に見えるかもしれない。だが、まったく不実であっては、それはいわば「自分勝手な厚化粧で美女だと思い込んでいる」にすぎなくなる。しかも、この思い込みは、翻訳や通訳の技術が未熟な人だけではなく、ときに経験をつみ自信をもったところでひどくなる場合が多いのだ。それはある意味で、「ついつい自分の意見を入れてしまう」ということでもある。たとえ母語であっても、聞き間違えや勘違いはよくある。それはたいがい注意深く再度聞き直せばわかることだ。聞き間違えや勘違いは、純粋に聴力の問題であることもあるが、自分の知識や思い込みで「聞いた」「わかった」と錯覚することから起こるほうが多い。通訳者であれ、翻訳者であれ、ベテランになればなるほど、「自分はこのぐらいはすぐにわかる」と思い込んで相手のいうことをよく聞かなかったり、他人の文章をよく読まなかったりするようになる。なかには「この人(通訳する相手や翻訳する文を書いた人間)は言い方(書き方)がヘタだから、自分がわかりやすく直しておいた」などという人もいる――実のところ、こういうことを言うのはたいていが男性だ。ところが、それは単なる誤訳にしかすぎないことのほうが多い。相手が未熟なのではなく、自分が相手のいうこと(書くこと)を正確に理解できていない、あるいは理解しようと努力していないだけなのだ。「不実な美女」とはときとして、「自分勝手な厚化粧で美女と思い込んでいる」にすぎないというのはそういうことだ。通訳よりも翻訳のほうが、「不実」であってはいけない。通訳はある程度その場その場の勝負だし、人の話すことを伝えるのが仕事だ。人は話すときに、それほど論理的には文章を組み立てない。だから、その場で感じ取った話し手のニュアンスが伝わることが大事になる。だが、「書き言葉」を訳す場合は、じっくりと文章を読み込んで、どの程度のお化粧をすべきか、すべきでないか考えなければいけない。よく未熟な翻訳者が「どの程度意訳していいか判断できなくて…」などと言うことがある。そういう人には「とにかく直訳して」と言うことにしている。翻訳のスキルが未熟なまま「意訳」する癖をつけると、それこそ「不実な醜女」になってしまう。最悪だ。だが、正規のプロセスで構築された「意訳」は実のところそれほど原文に不実にならずに、日本語としても美しく仕上げることができる。適当に読んだところで「こういうことだろう」と書いてしまう意訳は意訳ではなく、ただの誤訳にすぎないのだ。そしてそういう誤訳は、どこか文章の筋がとおっていない。じっくり読み込んでいるときに頭の中で行われているのは、まずはその原語でのロジックで文意を理解する。それから2つの言語間に横たわる壁を乗り越えて、もう1つの言語領域のロジックの中で文章を再構築するという作業だ。これが翻訳における正規のプロセスなのだ。「言っていることはわかるけど、どう訳していいかわかならい」という場合は、言語間の壁に思考がはばまれている状態だといっていい。マニュアルのような決まった言い回しの文書の翻訳ならともかく、書き手独自の意見を起承転結で展開していくような論理性をもった文章の翻訳では、瞬時にある言語から別の言語へ置き換えることは、ほとんど不可能だ「不実な美女か貞淑な醜女か」は名言だし、まさに「言いえて妙」だ。だが、自分は不実だが美女だと思い込む通訳者や翻訳者は、厚化粧で辻褄を合わせたつもりになっている白雪姫の継母にすぎない。
2007.10.01
純粋に建築を建築家の「作品」として見るのが好きな人間として言うのだが、そのマンションは賃貸物件とは思えないぐらい力を入れた造りだった。まず感心したのは居住者のプライバシーへの配慮だった。マンションは神田川沿いの河岸段丘の斜面に建つ4階建て、北側の駐車場はちょうど2階の位置にくる。Mizumizuの居室は最上階にあるのだが、階段で2階分登るだけですむ。しかも、全部で30室はあるマンションなのだが階段が複数設けられ、いわゆる共同廊下はない。Mizumizuが使っていた階段は実質4世帯用。駐車場から長く歩くこともなく、すぐに自宅の玄関にアクセスできた。部屋は南北バルコニー、玄関はセンターイン方式になっている。南側の窓からは世田谷の烏山の緑が見え、天気のよい朝は富士山も望むことができた。北の窓からは広い駐車場と、第一種低層地帯の住宅地。南北の窓の視界が完全にひらけており、共同廊下もないから、窓の向こうを同じマンションの住民が歩いていくというようなこともない。建物はコンクリートの打ちっぱなしで、横2世帯分ずつ、少しズレて並んでいるようなデザインになっている。これはどういうことかというと、南のバルコニーに出たときに、バルコニーのシキイ戸でつながれているのが2世帯だけしかいないということだ。Mizumizu邸の場合は、左手の隣人のバルコニーとは直接つながっていたが、右の隣人の居室は少し飛び出た形になっているから右手に見えるのは壁だけだった。バルコニーに出たときに感じる隣人の気配を最低限に抑えているのだ。私鉄の駅からは、歩いてほんの5分ほどだが、駅前のバス通りからマンションへ向かう狭い公道に折れると、その道はかなり雰囲気がいい。武蔵野の面影を残す巨木もあり、よく手入れされた植栽が目を楽しませてくれる閑静な住宅街を歩くことになる。夏はジャスミンの香りがただよってくる。特に決めたわけでもないだろうが、家の生垣にハゴロモジャスミンを植えている家が多かったのだ。そうしたかなり感じのよい道の中で、唯一の例外があった。それがマンションを「旗竿」にしている例の狭い空き地だ。そこはまったくというほど手入れがされておらず、草ボーボー。ときどきお犬さまが飼い主をいっしょに何かしている。犬はこうした場所で何かいたすのが大好きだ。マンションの駐車場のフェンスとの境には安っぽいベニヤのような壁板を打ち付けている。公道に面した部分はオープンだが、マンションに入るために通る2.5メートルの私道との境には、Mizumizuのクルマに40万のキズを負わせた、ガッシリとした「嫌がらせの柵」。その空き地を唯一利用するのが、古紙の集団回収の集積所として、ということだったのだ。テレビで放映されるぐらいだから、ここの住民の古紙回収活動が大掛かりであることは想像できると思う。実際、天井ぐらいの高さにまでうず高く積み上げられた古紙の山は、マンション4FのMizumizuの北の居室の窓からも見えた。そこに集められた古紙がどのくらいの間、放置されていたのかは憶えていない。だが、翌日か翌々日には回収されていたのだとは思う。そんなに長いあいだそこにあったわけではない。だが、Mizumizuはふだん、「汚い空き地だな。ワザと手入れしないわけ?」と思いながらそこをとおっていた。回収の日に大量の古紙をもってきて黙々と積み上げている住民たちの「活動」が始まると、その姿には何かしら排他的なものを感じた。そうしたとき脇を過ぎながら、「ちょっと邪魔じゃないの? いくら自分の土地に置くだけだからって、他人の家の前で大人数が集まって長いことガサガサするなら、率先して挨拶ぐらいしないわけ?」などと思わないでもなかった。向こうからすれば、賃貸マンションに住むMizumizuのほうが一種のヨソモノだったのかもしれない。そして、彼らが去った後一時的に置かれている(Mizumizuから見れば放置されている)古紙の山を見るのは最高にウツな瞬間だった。「汚いなあ、他人の家の鼻先に置きっぱなしにして平気なわけ?」イヤだ、キタナイ、と思っているからますます気になる。住民の手による古紙回収というエコな活動が行われる日は、それに対して何の説明もされていない近隣の部外者にとっては、マンションから出てくるたび、入るたび、北側の窓から外を見るたびに大量の古紙という「ゴミの山」を見せつけられる日だったのだ。テレビで、「せっかく集めた古紙を勝手に持ち去られ、罵声まで浴びせられた」と語る住民の1人を見たときのMizumizuの感想を仮に声にして出すなら、「へぇぇぇ。そーなんだ。一所懸命集めたのにねぇ。お目当てのお上からのおカネがもらえなくなっちゃったんだぁ。本当にそれは残念だったでしょうねぇ。で、やすやす逃げられちゃったうえに、怒鳴られたってワケね。ふ~~~ん」それがダイレクトな本音なのか、あえて誇張した表現なのかは、賢明なる読者におまかせするとしても、被害者の不幸に、Mizumizuが、一種の爽快感―とまではいかなくても、快感―とまでは具体的でなくても、少なくとも「何かしら不快でない感情」を憶えたのは、否定しない。例の「柵主」が、なぜ普段は使いもしない自分の狭い土地の「一部だけ」にアレをたてたのかは知らない。自分の土地のごくごくごくごく一部でも他人のクルマの車輪が入り込むのがイヤだったのか、閑静な場所にある自分の家の前をクルマが通るのをできるだけ防ぎたかったのか、それともマンションの大家が駐車場で儲けるのが不愉快だったのか。あるいは4Fのマンションが建つこと自体が目障りだったのか。だが、その柵が、自分のまったく知らないところで、自分とは縁もゆかりもない人間であるMizumizuに、これだけマイナスの感情を抱かせることになるとは、恐らく想像もしていなかっただろう。Mizumizuだって、ふだんはとっくに忘れている「ある狭い空き地があるために味わった、いくつかの不愉快なこと」が、ある夕方のテレビに映ったたったひとこまの景色によってよみがえるとは想像もしていなかった。こうした感情が恐らく、「精神の闇」への入り口なのだろうと思う。もちろんMizumizuはその闇の中へさらに入り込むこともないし、長い時間捉われてしまうこともない。だが、時に自分の感情の中に闇への入り口がひらくことはある。おそらくそれは誰にでもあるだろう。自分以外の人間にとっては何でもないできごとに、人はしばしばとんでもない屈辱を覚え、傷つけられたと感じる。そうしたときに開く精神の闇に、落ち込んだまま抜け出せなったときにはどうしたらよいのか―これは重くて難しい問題だ。
2007.09.29
27日の夕方のニュースで、住民が集団回収した古紙を勝手に持ち去る悪質な業者の実態とそれに対する自治体の取り組みを紹介していた。古紙持ち去りについては以前から問題が指摘されていた。かつて古紙がタダ同然だったころの回収は自治体に押し付けられ、だれも見向きもしなかった。ところが古紙の値段が上がり、価値が出てくると、自治体の契約業者の回収が来る前に勝手に頂いてフトコロを肥やす不逞の輩が現れた。番組で紹介されていたのは「杉並区のある町内会」だった。そこでは住民が協力しあって古紙を集めている。そうやって集団回収した古紙を直接契約業者へ引き渡すことで報奨金が支払われるシステムがあり、住民はそれを利用して、報奨金を旅行などの親睦にあててきたという。10世帯以上を1つの団体として登録することが条件で、当然古紙はかなりたくさん集まる。その「たくさん集まる」ところを狙われることから、杉並区では、10世帯以上という規定を2世帯にまで緩和する方針だという。せっかく皆で協力して集めた古紙をトラックで勝手に持ち去られてはたまったものではない。そうした住民の気持ちに区が応え、自分勝手な業者に対抗姿勢を打ち出したかたちだ。杉並区というのは、こうした動きがなかり素早い。別に住民の身びいきで言っているわけではなく、一市民として肌で感じるものがあるのだ。たとえば、杉並を襲った水害のあと、大量に出た粗大ゴミを区はわりあい早く、分別にこだわらずに回収してくれた。その後水害対策は強化され、大雨がふると消防車や警察車両が見回っている。また、空き巣が多いということでも知られていたが、ミニパトが頻繁に巡回するなど取り組みを強化している。道で巡回ミニパトに遭うとなんとなくほっとする。さて、古紙回収の話に戻すが、テレビでは、被害を受けた住民が「古紙持ち去り」現場で、そのときの様子を証言していた。トラックで来た盗人は、せっかく住民が集めた古紙を勝手に失敬し、しかも注意をした住民に罵声を浴びせて去っていったという。…と語る住民の立っている場所をみて心底驚いた。なんと、Mizumizuが荻窪に引っ越す前に住んでいた賃貸マンションの前じゃないか! 古紙が持ち去られたという集積所(実際は空き地なのだが)もバッチリ見覚えがある。毎日、マンションに入る前に通っていたからだ。同時に、長らくの謎が解けた気がした。というのは、この住民による集団回収、かなり目立っていたからだ。どのくらいの頻度でその活動が行われていたか、細かく観察していたわけではなく、賃貸マンションの住民だったMizumizuはこの活動に関わったこともなく、声をかけられたこともない。だが、ほぼ決まったメンツで行われるこの古紙回収活動は、本当に真剣、かつ町内会レベルとしては相当に大掛かりなもので、毎回マンション前の空き地には、近所の「石屋さん」の軽トラで運ばれた大量の古紙が束ねられ、うず高く積まれていた。本当に大量の古紙だった。あれを一時に持ち去られたら、それはアタマにくるだろう。また逆に、盗むほうとしたら絶好のターゲットだっただろう。その賃貸マンションに住んでいた当時は、集団回収することで「報奨金」が支払われるということは知らなかったから、住民(明らかに住民だった)が、どうしてここまで熱心かつ一致団結して大量の古紙を集めているのか不思議だった。そして、正直に言わせてもらえば、自分の住んでいるマンションの前の空き地に一定の近隣住民が集まり、狭い公道を何度も軽トラが紙の束を積んで行き来するのがうるさくもあり、多少不気味でもあった。こうしたネガティブな印象をもったのには、実はそれ以前の裏の事情もある。その空き地、マンション住民にとっては実に迷惑な土地だったのだ。その土地は家一軒建てるにも狭いようないびつな形のまま公道に面している。だが、それがあるために公道からマンションへ入る道がちょうど旗竿の竿のように細くなっているのだ。しかも、その土地、マンションへ至る小道との境にそって、鉄パイプで柵が作ってある。この柵のために、私道はますます使いにくくなっている。公道からみると、その土地の向こうにちょうどマンションの駐車場がある。ゆうに15台は置ける広い駐車場。ところが、そこに至るまでの道が狭く(はかってみたら2.5メートルだった)、しかも柵が境界線を主張し、かつ小道の反対側には一段高くなった花壇(もちろんこの花壇もマンションの土地ではない)があるため、実際の幅よりずっと感覚的には狭い。だから、せっかく広い駐車場があるのに、Mizumizuが入居したときは、クルマは小さな車種が数台借りているだけの状況だった。不動産屋がいうには、マンションが建つ前はこの鉄パイプ製の柵はなかったという。だから、マンションの大家も不動産屋も、道は狭いには狭いが、クルマがとおれないほどではなく、駐車場はもっと埋まると思っていたらしい。「地主同士で何かあるらしいよ」という不動産屋の言葉を聞くまでもなく、鉄パイプと、パイプとパイプをつなぐゴツいビスを見れば、この柵が嫌がらせのために作られたことは明らかだ。柵は公道と「旗竿の竿」の入り口のところでは、ことさら土地の輪郭にそって境界ギリギリにたてられ、ほとんど鋭角に交差している。だが、公道に面したそのほかの大部分は柵はない。だから軽トラがバックから突っ込んで大量の紙の束をそこに置くこともできるわけだ。クルマが必需品のライフスタイルをもつMizumizuには結構困った問題だった。メジャーではかった「旗竿の竿」は幅2.5メートル。これなら何とか大丈夫だろうと入居したのだが、現実は違った。毎日その柵と柵から飛び出たたくさんのビスに当てやしないかとヒヤヒヤしながらクルマを出さなければならない。実はMizumizu入居後、その駐車場はかなりクルマが増えた。あとから入居した人に聞いたところでは、不動産屋が調子よく、私道の狭さを心配する見込み入居客に対して、「大丈夫ですよ! ホラ、ベンツも停まっているでしょ!」とMizumizu車を指して太鼓判(?)を押したらしい。だが、みんな通ってみて大変さに気づくのだ。実際、明らかにその柵でこすったらしいクルマも少なくとも2台は見た。私道に入る前に1人降りてドライバー役を誘導している姿も見かけた。そして、Mizumizuにも「不運」はある日突然起こった。「旗竿の竿」を抜けて公道にクルマの鼻先が出たところで、右前方に見かけないクルマが停まっているのに気づく。そちらに注意を取られている間に、ゴツッと後方でイヤな音。「あ、柵に当たった」と思った。そこでバックすればまだよかったのだろう。だが、ちょっとアテただけだと思って、クルマを前方に動かした。するとまたイヤなコスり音。道をとおりかかったおばさんが一瞬立ちすくんでこちらを見たではないか。クルマを降りて確認すると、後方にけっこうなキズがある。「あーあ」と思い、ディーラーに直行。ただ、着くまでは「まあ、3~4万かなぁ。もしかしたら7~8万いっちゃうかも」という程度の心づもりだった。ディーラーに到着してメカに話して、コーヒーなど飲みながら見積を待っていた。すると、担当の営業マンが青い顔をして走りよってくる。「いったい、どこにぶつけたんですか?」と、営業マン。「は? 家の前の柵にあてたんですけど…」と答えると、「ビスか何かありませんでしたか? ずいぶんえぐれてしまっているんですけど」あてた――どころかボティパネルをえぐってしまうキズだったというのだ。そして後日送られてきた修理の見積代金は、なんと「40万」だった!!!!長らく使っていなかった保険を初めて使った。それもこれも、みんなあの土地の地主の意地悪な柵のせいだ。Mizumizuは深く恨んだ。もちろん、それが単なる逆恨みであることは否定しようがない。柵があることは初めからわかっていた。完全なる自損事故で、自分たちの不注意が原因。一瞬別のほうに気を取られたのがいけなかったのだ。だが、自分の責任ではなく「柵のせいだ」としか思えないからこそ、まさに「逆恨み」なのだ。あの柵が嫌がらせ以外何の役にたつのだろう。マンション自体はなかなかよい建築で、東京都の優良賃貸住宅にも指定されている。そのマンションの広い駐車場がガラガラなのをみて、「柵主」は暗い快感に酔ったのだろうか? もちろん、自分の土地に何をたてようと所有者の自由だ。柵を作ってクルマを入れにくくしたということは、あの「旗竿の竿」の横に住んでいるのが所有者なのだろうか? 自分の家の前をマンションの住民のクルマがとおるのが嫌だったのだろうか? <明日に続く>
2007.09.28
ちょっと前から荻窪・西荻窪周辺では秋祭りの準備が進められていた。そして、16日日曜日。西荻にランチに出かけたところ、お神輿に遭遇。このほかにも「女みこし」なんてめずらしめの神輿も練り歩くらしい。そして、西荻の名物といえば、やはり「ピンクの象」。ふだんは駅前の細いアーケードの天井にこんなふうに吊り下げられているピンクの象。今日はおろされて…山車になっていた。「西荻名物(グーグルアースにも記載されて世界の名物)」と書かれた紙がペタリと顔に貼ってある。よっ、よくわからない…(苦笑)。ちなみにこのピンクの象、由来も不明だ(たぶん大した理由もなく吊り下げられたのだろうと踏んでいる)。ディコンストラクティッドな街・西荻に、なんと似つかわしきエピソードであろうか!子供たちはピンクの象にさわって楽しそうだ。なんとも平和な目をしている(って、単に黒丸をくっつけただけか・笑)平和でゆる~い西荻の午後のひとときだった。
2007.09.17
当初は行く予定のなかったサイトウ・キネン・フェスティバル。だが、数日前に「浮いたチケットがあるんだけど…」という知人からのメールが入り、急遽行くことにした。9月9日(最終日)のオーケストラプログラムB。ラヴェル/亡き王女のためのパヴァーヌアンリ・デュティユー/瞬間の神秘 アンリ・デュティユー/Le Temps L'Horloge(世界初演) ソプラノ:ルネ・フレミング (ボストン交響楽団、フランス国立管弦楽団との共同委嘱作品)ベルリオーズ/幻想交響曲 作品14 演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ指揮:小澤征爾小澤指揮の公演は横浜での「ドン・ジョバンニ」(若い音楽家たちによるオケ)、上野での「ドン・ジョバンニ」(ウィーンフィル)を聴いているが、どちらもペケで、小澤のモーツァルトは結局好みに合わないとわかっただけだった。だが、今回は、ラヴェル、現代音楽、それにベルリオーズという演目に興味を惹かれた。結果は大変に満足のいくもので、行ってよかった、と思った。サイトウ・キネン・オーケストラが「世界一流のオケ」というのはどうだろうか。ちょっと身びいきがすぎるかもしれない。だが、全体的に「波」を感じさせる流麗な音楽を堪能させてくれたのは間違いない。ラヴェルの小品は短いながらも、色彩のイメージ豊かな音が楽しめた。デュティユー作品は、本人も登場し、さかんな拍手を浴びたが、実におもしろい作品だった。不協和音とピッツィカートの炸裂が、聴衆をなにかしら不安な感覚にいざなう。音に「波」のような強弱をつけた小澤の指揮が不可思議な世界観を提示してみせる。この違和感は旋律に身をゆだねて楽しむクラシック音楽にはないものだ。ただ、ルネ・フレミングの歌唱はこちらの期待が大きすぎたのが、「フレミングならでは」とまではいかなかった。指揮台と非常に近い位置に立ち、小澤と対話するような表現を試みたが、あまり噛みあっているとは思えない。言葉がうまく声量にのって届かない。もちろん、声を張り上げるイタリアのベルカントオペラとはまったく違うのだが、どうも中途半端で、オケとの息も合っていない。あきらかに練習不足だ。これなら、フレミングのようなビックネームをつれてこなくても、むしろ若手の歌手にびっちり練習させてチャンスを与えたほうがよかったのではないか。まあ、歌手の名前はお化粧のようなものだから、客寄せの意味もあるのかもしれないが。フレミングのドレスは美しかった。光沢のある黄緑の明るいロングドレスが、彼女の金髪と白い肌をひきたてる。裾のところがバルーンになっており、靴が、特に片側だけよく見えるようにカッティングが施されている。靴にはきらきら輝くディアマンテ風の装飾があしらわれている。ドレスの裾は後ろにいくほど長くなるが、バルーンになっているので、引きずる感じがなく、軽やか。ハイウエスト気味の絞りで、後ろでギャザーが寄っている。誰のデザインだろうか? とても洗練されていた。音楽に話を戻すと、やはり圧巻は最後のベルリオーズの「幻想交響曲」。小澤という人は、あのヤマンバのようなザンバラの髪で、背もそれほど高くない。指揮をする姿も決して、ふつうの意味でカッコいいということはなく、むしろ奇妙な動きをする、というのが第一印象だ。ところが、その奇妙な振りが、だんだんと神がかって見えてくる。暗譜で振ったベルリオーズも、まさに、それ。クライマックスの「魔女」の章では、小澤自身が「幻想の世界」にイってしまったかのようで、そのパフォーマンスに視線は釘付けになってしまった。オケの音に関しては、多少言いたいことがないわけではない。「波」を思わせるドラマティックな表現は確かに相当聴かせる力があるが、たとえば、「断頭台への行進」では、「恐怖」が足りない。もう少し聴いていてぞっとくるような深みがほしい。直接的にオケに足りないと思うのは、「ピアニッシモ」の表現力だ。ピアニッシモは生命の胎動の最初の一音だ。そんな「かそけきかそけきピアニッシモ」をピタリと表現できるオケこそ一流だと思うのだが、残念ながら、サイトウ・キネン・オケからはそうした音は聴かれなかった。ピアニッシモの脆弱さはフォルテッシモの迫力にも影響する。超新星爆発を目の当たりにするような、聴いている者を圧倒するフォルテッシモも残念ながらなかった。そうした、聴衆の想像力に訴えかけ、絵画的なイメージをこちらに喚起させる力が少し弱かったのは残念だ。だが、小澤の指揮は十分に堪能し、満足した。モーツァルトでは連続でコケてくれたが、やはり小澤は「世界の小澤」と呼ばれるにふさわしい世界をもっている。鳴り止まぬ喝采のなか会場を後にしたが、外に出てもまだ拍手が続いていて、一瞬雷雨かと青い空を見上げてしまった。
2007.09.10
L・パバロッティが亡くなったというニュースが飛び込んできた。2006年7月にすい臓がんの手術を受けたという話だったから、術後1年あまりでの死ということになる。言わずとしれた「3大テノール」のひとりであり、Mizumizuも東京で行われた3大テノールの野外コンサートに行っている。ハチャメチャに値段の高いチケットだったが、満席で、一種のお祭りのような雰囲気があり、それなりに楽しいコンサートだった。3大テノールというのは、たぶんに商業的なにおいのする設定だ。なぜ、パバロッティ、ドミンゴ、カレーラスなのか、実のところよくわからない。確かに3人とも傑出したテノールで、ドミンゴのドラマティックでセクシーな深みのある声、カレーラスの繊細で悲劇的な表現力は比類がないが、単にテノールとしての資質、もって生まれた高い声の魅力でいうなら、やはりパバロッティに並ぶものはない。パバロッティの誰にもマネのできない、まさに「神から祝福された」ごときに明るい高音は、もはや生で聴くことはないが、絶頂期の「ハイC」は、これぞテノールの醍醐味というにふさわしい輝きを放っている。東京での3大テノールのコンサートでは、パバロッティは明らかにピークを過ぎていたが、それでも声の艶と伸びは素晴しかった。あのときは、声量に弱点のあるカレーラスが少し気の毒な感じもした。晩年のパバロッティは、スカラ座でブーイングをあびたり、口パクのコンサート(!)をやって顰蹙を買ったり、引退するしないでモメたり、トラブル続きの感もあったが、持ち前の性格の明るさは変わらなかったし、何があっても憎めないようなところがあった。亡くなったのは故郷のモデナのようだ。世界を股にかけた「100年に1人」の歌手も、最後はふるさとに戻ったということか。出身地を"mia terra(私の大地)”と呼び、なみなみならぬ愛着をもっているイタリア人らしい選択だと思う。パバロッティにまつわる日本人にとっての最後の大きなエピソードは、トリノオリンピックの開会式で彼が「トゥーランドット」のアリア「誰も寝てはならぬ」を歌い、同オリンピックの最後を飾る華の女子フィギュアスケート競技で、日本の荒川静香選手がこの曲で金メダルを取ったことだろう。荒川選手は、パバロッティが「誰も寝てはならぬ」を歌ったときのことについて、「運命的なものを感じた」と言っている。そのとおり、「誰も寝てはならぬ」はパバロッティの十八番だったが、荒川選手にとってもまさに運命の一曲と言っていい。実は荒川選手は、オリンピックの直前までは、同じ演技に違う曲を使っていた。それを急遽、「トゥーランドット」に変えたのは、コーチのモロゾフの賭けだった。荒川選手は過去に一度世界選手権で優勝しているが、そのときに使ったのが「トゥーランドット」だった(当然演技構成はオリンピックのものと異なる)。氷のように冷たい姫が愛に目覚めるというストーリーは、クールというより表現力に乏しく、長い間「表情が足りない」と常に酷評されてきた荒川選手を文字通り「変身」させた曲となった。その世界選手権の直前、本当に直前に荒川選手をコーチしたのが、ドラマティックな表現力を選手に教えることでは定評のあるロシアの名コーチ、タワソワ(モロゾフは当時タワソワ・チームの一員として振り付けを担当していた)だったのだ。「トゥーランドット」でミスのない、迫力あふれる演技をした荒川選手は、世界選手権で優勝。その数ヶ月前に行われた全日本選手権は別の選手が獲ったことを考えると、日本チャンピオンにもなれなかった選手が、タラソワについたとたんに世界チャンピオンになったということになる。この荒川選手の快挙は周囲を大いに驚かせたが、同時に、そのときの「トゥーランドット」以上に荒川選手の魅力を引き出せる作品が作れるのだろかという危惧も生じた。実際、ルールの変更もあって荒川選手はその後低迷。オリンピック前に引退するという話もあった。オリンピックシーズンでも荒川選手の成績は冴えなかった。そこで考えられたのが、振り付けはほぼそのままに、音楽だけ荒川選手の魅力をもっとも引き出すことのできる「トゥーランドット」(この振り付けもモロゾフ)を使うという妙案だった。これがいかに難しいかは、フィギュアを知っている人ならわかるだろう。別の音楽に合わせて構成したプログラムを、今度は演技に合わせて音楽を編集していくのだ。こんな離れ技ができるのは、職人モロゾフ以外にはちょっと考えられない。2006年2月15日付けの読売新聞には「ニコライ・モロゾフコーチのアイデアで、従来のプログラムで演技する荒川の映像をコンピューターに取り込み、演技構成と体の動きに合わせて音楽を編集するというユニークな手法を用いた」とある。オリンピックシーズンでの作品がよくないというとき、コーチはたいてい過去に評判のよかったのものに戻す(たとえば、ソルトレークでのカナダのペア、サレ・ペルティエ組の「ある愛の歌」がその例だ)か、あるいはまったく新しいプログラムに変更するという賭けにでる。事実、安藤選手は曲・振り付けともに直前に新しいものに変えたが、結果は惨敗となった。プルシェンコもかつて、ライバルのヤグディンに対抗するために、オリンピック直前にプログラムを新しくしたが、結局滑り込み不足は隠すことができず、ヤグディンには及ばなかった。モロゾフはこうしたリスクを避けつつ、曲だけを変更して、しかも演技(特にジャンプのタイミング)にピタリとリズムを合わせるという仕事をやってのけたのだ。結果はご存知のとおり。荒川選手の個性と、フィギュアスケーターとしての彼女の成長にぴったりイメージのあう「トゥーランドット」は日本に唯一の金メダルをもたらした。「トゥーランドット」はフィギュアの世界では荒川選手のための曲となった。そのもっとも有名なアリア「誰も寝てはならぬ」は、長くパバロッティのための曲と言われてきた。"Vincero'! Vincero'!(私は勝つ!)"と最後に、ドラマチックに歌い上げるパバロッティの高音の美声は文字通り、誰も寄せ付けない黄金の輝きに満ちていた。そしてそれがトリノで歌われ、その曲を使った演技がトリノの氷上で披露され、金メダルに輝いたということは、まさに二度とない「運命の奇跡」だったのかもしれない。パバロッティが次のオリンピックを見ることもなく世を去った今、そんなことを考えた。
2007.09.06
アフガニスタンでタリバンに拘束されていた韓国人19人が解放された。抱き合って喜び合う韓国人の映像とは対照的に、国際社会からの視線は冷ややかだ。ロイターは韓国政府が人質解放と引き換えに23億円の身代金を支払ったと伝えた。アルジャジーラは46億円だと報道している。額については藪の中だが、すでに2人の人質を殺害しているタリバンが「現地でのキリスト教の布教停止」と「韓国軍の早期撤退」だけを条件に19人もの人質を手放すとは考えにくい。アフガン政府みずから「身代金しか解決方法はないかもしれないと韓国政府にアドバイスした」と言っていることからも、金銭の授受があったことは間違いないだろう。韓国政府の姿勢をもっとも厳しく批判しているのは、すでに70人もの戦死者をアフガンで出しているカナダ政府とタリバンによる拉致被害者をかかえるドイツ政府だ。確かに外国人を拉致することで大金が手に入るなら、タリバンは何度でも同じことを繰り返すだろう。何億、何十億という金がタリバンに渡れば、それは武器購入に充てられる。たとえば一回の自爆テロ、つまり一発の爆弾で何人が死ぬだろう? それを考えると、韓国政府は自国民19人の命と引き換えに、その数十倍、数百倍の命が失われる危険性をアフガニスタンにばら撒いてきてしまったことになる。韓国政府が金銭で解決をはかったのは、当然ながら韓国民の意思の反映だ。韓国では不思議と、アフガンで禁止されているキリスト教の布教(奉仕活動といっているが、実際には信者獲得活動だ)を勝手に行ったこの集団に対するバッシングはそれほど起きなかった。彼らが空港で、韓国政府の渡航自粛勧告の看板の前でおどけて写真を撮っている姿が報道されても、大きな批判にはつながらなかった。イラクで人質になった日本人3人に対する日本国民の感情とはかなり違う。日本では「ひとさまに迷惑をかけないこと」というのが社会における非常に大切なルールとして徹底している。イラクで例の3人が拉致されたとき、最初のうち世論は慎重だった。それが一挙に3人とその家族に対するバッシングに変わったのは、もっとも若い被害者の今井紀明君の母親が、テレビで自衛隊撤退を訴えたときからだ。自活さえできてないような息子を、政府が行くなといっている危険地帯に、「ジャーナリストにするため」に渡航させ、拘束されたら今度は、国と国との約束事で行われてた自衛隊派遣を批判し、「すぐに自衛隊を撤退させて!」と取り乱して叫んだ。息子可愛さに度を失い、「ひとさまに迷惑をかけてはならない」という日本人の大切なルールを忘れてしまった「左翼一家」に対するバッシングは、すざまじいものだった。被害者が帰ってきたときには、「ぬるぽ(考え方が甘いんだよ! というようなニュアンス)」「自業自得」というプラカードまで掲げられ、人質がもっとも批判していたハズのアメリカのパウエル長官が、「私利私欲のために行ったわけではない。彼らの勇気を称えるべき」などと擁護するというパラドックスまで起こった。だが、多くの日本人が激怒したのは、むしろ彼らに「私利私欲」のカゲを見たからだ。高遠という女性の助けたいのが、なぜ「イラクの少年」なのだろう? 日本にも困っている人はたくさんいる。カメラマンは現地のスクープ写真で名を上げたいから行ったのではないのか?「ジャーナリストになりたい」少年のいう「劣化ウラン弾のもたらす悲劇」などというのは、ほとんど思いつきのテーマにしか聞えない。大きなテーマを論じれば自分まで大きな存在になったと勘違いする若者は多いが、その典型だろう。実際、イラクから救出されたあと、今井君は劣化ウラン弾からもイラクからも目をそむけている(今は別府で地域住民と大学生との交流を深めようと「がんばっている」そうだ)。それが関係しているのかどうかは不明だが、今井君と高遠さんの関係は事件後悪化したらしい。今井君が今年4月の自身のブログで、「ここ2年以上、菜穂子と話す機会はあまりにも少なかった。電話も1、2回あったが、喧嘩だけで終わり」だったと述べている。そうした人質になった3人の「善意」に対する疑念に加え、彼らを支援する「(どこからどう見ても左翼な)組織」は、拉致事件が起こったとき、「ボクらの仲間を救うために、自衛隊撤退を訴えて」というチェーンメールをネットを通じて大量に撒いている。Mizumizuも受け取った。彼らの「活動」に関する自画自賛の詳しい履歴も添えられていた。こうした一種の政治活動を行ったことで、その「善意」が純粋なものだとは、ほとんど信じられなくなったのだ。政府をもっとも批判していた人間たちが、その政府によって救出されるというのは皮肉にも思えるが、実際のところそれは当然の帰結だ。こうした大変な事態に巻き込まれたときもっとも頼りになるのはやはり日本という「国」であるということを、3人の人質事件は如実に示した。また、家族がテレビに出て大騒ぎしたことでバッシングが広がったという事実は、その後の人質事件の家族の対応にも影を落とした。のちに「自分探しの旅でイラクに入った」日本人青年の香田君が拉致され、実際に首を切断されるという悲惨な目に遭ったときも、家族はほとんど公けの場に出ることができず、その殺害映像が興味本位のビジュアルバンドによって、大衆の前で上映されるという信じられない愚行に対しても、抗議することすらできなかった。何か言えばまた報道で取り上げられる。そこから被害者へのバッシングが起これば、家族のキズがさらに深まることになるからだ。韓国でも、一部にこの「身勝手な善意と一方的な使命感」に駆られて出かけていった集団に対して、日本と同じような批判はあったものの、表立った動きにはならなかった。それどころか、政府の外交部の努力とは別に、政治家がアメリカに押しかけ、アフガニスタン政府とタリバン兵の解放交渉をしてくれるように求めて拒否されたりしている。つまり、これはそうした行動を取るほうが世論の受けがよいという韓国の事情を示している。日本だったら、「勝手に異教の国で布教して拉致されたクセにあつかましい」と批判されるところだろう。殉教する覚悟もなく、なぜあんな国に行くのか。そのお気軽さはまったく理解できない。世界には、自分の命が大事だと思うなら行ってはいけない場所がある。今のイラクやアフガンは、自分の命よりも大事だと思う仕事や責務がある人だけが行く場所だ。日本は表立って韓国政府の今回の交渉を批判はしていないが、アフガンの復興支援に派遣されている日本人がいることを考えると苦々しい思いはもっているだろう。今回の韓国による自国民大事の解放交渉は、アフガンにいる外国人の危険をさらに増幅させる結果になった。日本人もまた巻き込まれそうだ。そのときに被害者になるのは、「平々凡々な自分から脱却したい」だけの軽率な民間人ではない。医者だったり技術者だったり、アフガンの人々がもっとも必要としている人材だろう(今のあの国にいる日本人はそういった人々だ)。それを思うと重いものに胸がふさがれる。追記(上記記事から約1ヶ月後、10/15日付け朝鮮日報より抜粋)(10月)14日付英紙デーリー・テレグラフ(日曜版)は、韓国政府がアフガニスタンで起きた韓国人拉致事件の人質釈放と引き換えに身代金1000万ドル(約11億7540万円)を支払い、イスラム原理主義勢力タリバンがこの資金で武器を購入し、1カ月余りにわたり駐留米英軍に大規模攻勢をかけていると報じた。<中略> 同紙の取材に応じたタリバン兵士(30)は、韓国政府はタリバンが人質12人を釈放した日に700万ドル(約8億2280万円)、残る人質を解放した8月31日(実際には30日)の直後に300万ドル(約3億5260万円)支払ったと証言した上で、「資金はわれわれに最低1年間以上にわたり使用する武器と弾薬を与えた神の恵みだ」と話したという。<中略> タリバンはまた、韓国政府の身代金が、米英やアフガニスタン国内で自爆テロを起こす「殉教者」3000人を訓練するためにも使われていると説明した。しかし、在英韓国大使館はタリバン側との同紙インタビューについて、「(身代金支払い説は)タリバンがつくりだしたうそだ」と否定したという。崔賢黙(チェ・ヒョンムク)記者
2007.09.02
8/30付け朝鮮日報に「四輪駆動レクサスと後輪駆動ベンツで比較試乗!?」という記事が載った。韓国トヨタが主催したレクサスLS600hL(四輪駆動)の試乗会で、走行安定システム「VDIM」の性能比較の相手としてベンツ S500L(後輪駆動)を選んだことへの疑問を呈する記事だった。「やっぱり言われたな」と思った。実は2ヶ月半前、Mizumizuは日本のレクサス販売店の計らいで、似たような試乗会に東京の晴海で参加していたのだ。それがこのときの写真。「レクサスフルラインナップ試乗会 ~Lexus Dynamic Experience Tour 2007~」。イベント自体は非常によかった。目玉である「LS600h」と競合モデルのメルセデスS600LやBMW745iとの比較試乗ができる。VDIM性能の体感、100km/h直線加速走行でのフルブレーキによる制御性能体験、ジグザク走行での車両安定性体感などといった企画も、レクサスの長所とライバル車の弱みをついた(?)よい企画だったと思う。待ち時間の「おもてなし」もソツがなく(出されたお菓子は最低だったけど。ついてにいうとMizumizuの行くレクサス販売店のコーヒーも最低。トヨタって美味しいモノを知らないんじゃないの?)、そんなに退屈せずに時間を過ごすことができた。引率もよかった。多くの人々を集め、楽しんでもらおうとするトヨタの努力には頭が下がる。だが、朝鮮日報での指摘のとおり、VDIM(メルセデスでは同種のシステムをESPと呼んでいる)性能の比較体験には非常に引っかかるものを感じた。路面に特殊ビニール素材を敷き、その上に洗剤を混ぜた水をまくことで、アイスバーンと似た状況を作り出し、その上で車をジグザグ走行させたあとブレーキをかけて、車の停まり方を体験する。韓国トヨタが行った方法と同じだ。しかも、4WDのレクサスとFRのメルセデスを対比させるというのも同じ。駆動方法の違いについて、ブリーフィングではっきりした説明はなかった。途中で、集まったお客の中から「えっ? ベンツはFR?」という声があがってはじめて、インストラクターは「そうです」と認めたうえ、「FRのレクサスも用意していますが・・・」と特設テントの横に置いてあるクルマを指差した(つまり、クレームが出ることも予想してちゃんとFR同士で比較できるよう用意していたのだ)。希望すればFRのレクサスも試せるということなのだったが、わざわざ希望する人はいなかった。ついでに言うと、乗って走り出したときの乗り心地がえらく違った。レクサスは路面のゴツゴツをモロに拾い、乗り心地が悪い(つまりサスがかたい)、メルセデスはまるで雲の上にでもいるような柔らかな乗り心地。すぐにジグザク走行からブレーキがけに入るから、ほとんど気がつかないような短い時間だったが、「もしかして、スポーツモード/コンフォートモードの設定をレクサスとメルセデスで変えてる?」と一瞬思った(が、確認する時間はなし)。朝鮮日報は、「ではなぜ、トヨタはこのような形で試乗会を進めたのでしょうか。単純な間違いだったのか、あるいは故意だったのかは分かりません」としている。もちろん、単純な間違いなどではないことは確かだ。こっそりFRのレクサスを用意していたことからもわかるし、そもそも4WDとFRでこんな比較をしようとするのはおかしい。4WDとFRの性能の違いもわからないような「クルマに関心のない人々」を対象にするのならともかく、トヨタのフラグシップモデルを買ってもらおうという企画なのだ。ある意味、このアンフェアさは、潜在顧客を見くびっている。朝鮮日報はさらに、「比較対象にもならない車種と比べることで、レクサスの性能が優れていると強調したことや、またこの事実を全く知らせないまま比較試乗が進められたことについては、問題があるのではないか」と言っている。そのとおり。4WDのレクサスに対して比較するならメルセデスの4MATIC(四輪駆動をメルセデスではこう呼んでいる)をもってこなければフェアではない。トヨタは朝鮮日報の取材に対し、「今回の試乗は基本的に加速を伴わないコース設定だったため、後輪駆動車と四輪駆動車のトラクションの差がVDIMを評価する上で、さほど大きな問題にはならないと見ている」と答えたという。「大きな問題にならない」といいながら、自社モデルはちゃっかり4WD、ライバル車はFRというのが突っ込まれる理由になるということがわからないのだろうか。そう言うのなら、レクサスのFRとメルセデスの4MATICで試乗させたらいい。それでレクサスのほうが遥かに優れていたなら、誰もがレクサスの走行安定システムの優秀さを納得できる。実際ダイムラーはダイムラーで、4MATICには力を入れている。この春、台場の特設会場に人口降雪機で雪道を作り出し、4MATIC車でのスノードライビングを体験させるイベントを開催したのも4MATIC宣伝の一環だろう。ビニールに水と洗剤というトヨタのビンボー臭さに比べると、春の東京に雪まで降らせちゃうベンツはさすがに思い切りがいい。ダイムラーのこのイベントには行ったワケではないが、「カーグラ」「4x4」「Xa Car」などといった自動車専門誌はメルセデスの4MATICの素晴しさを伝えていた。トヨタが、自社フラグシップモデルの中でも最高の走行安定性を誇る4WDモデルの性能を知って欲しいと思った気持ちはわかる。確かにふらつきの少ない、すばらしい制動だった。だが、それを強調するためにわざわざ競合他社のFRモデルをもってくるのはセコすぎやしないか。レクサスLS600h自体は文句のつけようがないぐらい素晴しいクルマだった。だからこそ、こうしたちょっとした「アンフェアなこと」でせっかくのクルマの性能に疑問符を残すような原因を作ったのはまったく惜しい。「きっと誰かに言われるだろうな」と思っていたら朝鮮日報に大きく伝えられてしまった。こうしたつまらない小細工はいっさいやめるべきだ。改善に改善を重ねて世界のトヨタと呼ばれるようになった企業には似つかわしくない。「自動車のパイオニア」を自認するドイツの長い歴史をもった一流ブランドに伍して、プレミアムメーカーになるつもりならなおさらだ。こういうことをしてる限り「しょせんトヨタでしょ」というお客の視線は払拭できない。
2007.08.31
2007年8月24日の朝日新聞に、「米大統領、戦前日本とアルカイダ同列視 歴史観に批判」という記事が載った。ブッシュ大統領が退役軍人の会合で、旧日本軍のパールハーバー攻撃を9.11テロになぞらえ、戦後の日本の民主化の成功を、自分たちの(戦争)勝利がもたらしたものと自画自賛する演説を行い、国内メディアからも批判されているという記事だった。朝日新聞掲載のブッシュ演説の要旨を引用しよう(ただし、朝日新聞が掲載した以下の翻訳が正しいかどうか、ウラ取りはしていないので、誤訳がある可能性ももちろん否定できない)。「ある晴れた朝、何千人もの米国人が奇襲で殺され、世界規模の戦争へと駆り立てられた。その敵は自由を嫌い、米国や西欧諸国への怒りを心に抱き、大量殺人を生み出す自爆攻撃に走った。 アルカイダや9・11テロではない。パールハーバーを攻撃した1940年代の大日本帝国の軍隊の話だ。最終的に米国は勝者となった。極東の戦争とテロとの戦いには多くの差異があるが、核心にはイデオロギーをめぐる争いがある。」「国家宗教の神道が狂信的すぎ、天皇に根ざしていることから、民主化は成功しないという批判があった。だが、日本は宗教、文化的伝統を保ちつつ、世界最高の自由社会の一つとなった。日本は米国の敵から、最も強力な同盟国に変わった。 我々は中東でも同じことができる。イラクで我々と戦う暴力的なイスラム過激派は、ナチスや大日本帝国や旧ソ連と同じように彼らの大義を確信している。彼らは同じ運命をたどることになる。 」先日スコセッシが「沈黙」をイラク戦争とからめて撮るらしいという話をしたが、その中でいみじくも紹介した、9.11のテロをパールハーバー以来だと漏らしたあるアメリカ人のせりふ。今回のブッシュ大統領の「粗雑な歴史観を露呈する(朝日新聞)」演説は、こうした感情がやはりアメリカ人の中にあるのだということをいみじくも証明した形になった。戦後の日本の驚異的な復興も、自由で民主的な社会の構築も、アメリカ人にとっては「アメリカが戦争に勝利し、戦後の日本統治を成功裏に進め、日本人に民主主義を上手に教えた」証であり、いわば自分たちの手柄なのだ。彼らにとって戦前の日本政府は「悪」であり、自分たちの「善」がそれを駆逐した。この論理の中では、「戦争終結を早めた」原爆投下も正しい選択ということになるのも当然だ。実際には、日本には大正デモクラシーがあり、何も先の敗戦によって初めて民主主義がもたらされたわけではない。また「狂信的な神道」というのは、あきらかにイスラム原理主義の狂信性とオーバーラップさせるための作為的なすり替えだ。日本人が狂信的(とアメリカ人には見える)自爆攻撃をためらいなく行ったのは、日本人の天皇、あるいは神道に対する狂信的な宗教心からではない。簡単にいえば、「自分だけが(自決を)拒んだら、身内が世間に顔向けできなくなる」という考えのためだ。自殺を美化する伝統、命よりも名誉を重んじる風習、周囲の空気に逆らえない日本人の気質が、こうした理解しがたい行為を生んだのであり、アメリカは戦中・戦後の捕虜に対する尋問で、とっくにその行動原理を解き明かしている。自分たちは善、その自分たちと対立する相手はすなわち悪と考えるアメリカ人の押し付けがましい独善的な態度は、常に日本人を苛立たせてきた。日本の戦後の発展は、世界史上にも類を見ないもので、確かにアメリカはそれに大きな役割を果たした。だが、それまでの日本という国のもつ歴史的な素地を抜きにして、数十年間のうちに起こったアジアの奇跡は語れない。日本の成長力の原動は、なにより一般の日本国民の基礎教育レベルの高さにあるが、それは一朝一夕に築き上げられたものではない。善が悪を倒したから、などという短絡的な話で説明できるものでもない。また、ブッシュ大統領はナチスも槍玉も挙げているが、ドイツは世界のどこよりも早く、もっとも民主的な憲法「ワイマール憲法」を制定させた国だ。アメリカを含めた民主主義国家が真剣に考えるべきは、他国の規範となるような憲法を作ったドイツにおいて、なぜナチスが台頭し、他国への侵略や特定の民族の殲滅作戦にまで至ったのかということだ。それを解明することが同じ轍を踏まない道であり、ヒットラーとナチスのみに罪を押し付けて済まされる問題ではない。そもそも、イラク戦争は、「独裁者の排除」「大量破壊兵器の発見と除去」それに「石油利権の支配」に目的があった。アメリカ人はフセインを倒せば、圧制に苦しむ民衆が自分たちを歓迎してくれると思い込んでいたフシがる。大量破壊兵器の発見とその除去はテロとの闘いにおける最重要課題だったが、結局それはないことが明らかになった。そしてイラク戦争はアメリカの予想を超えてドロ沼化し、イランや北朝鮮はフセインの運命をみてアメリカに追随することをやめ、核兵器開発を決意した。石油については言うに及ばない。石油価格は高騰を続け、アメリカや日本の民衆を苦しめている。アメリカにとっては、そしてその立場をいち早く支持した日本にとっても、なんといっても大量破壊兵器が見つからなかったことがイタかった。これで大義名分は立たなくなったからだ。誰も頼んでもない「イラクの民主化」を建前にしなければいけなくなった時点で、アメリカの敗北はより濃厚になった。今回のこじつけの極致ともいえるトンデモ演説は、むしろアメリカの決定的敗北を印象付けるものだ。手前勝手で偏狭な歴史観を示したことは、これまで忠実なアメリカの僕であった日本をも、あきれ果てさせるに十分だ。スコセッシがイラクとからめて遠藤の「沈黙」を描くことに、数日前Mizumizuは少し疑問を呈したが、ブッシュ大統領の苦しいこじ付けを聞いた今、スコセッシのアイディアは卓見かもしれないと思うようになった。「沈黙」に、今のイラク人の民衆の気持ちを代弁するようなせりふがあるからだ。「パードレ、お前らのためにな、お前らがこの日本国に身勝手な夢を押しつけよるためにな、その夢のためにどれだけ百姓らが迷惑したか考えたか。見い。血がまた流れよる。何も知らぬあの者たちの血がまた流れよる」
2007.08.25
クライアントからメールが入った。「例の短いヤツ、納品まだなんですが、いつできますか?」「え?」パソの前で思わず声が出る。とっくに終らせたつもりの細かな仕事だった。あわててチェックすると、ソレの納品寸前に別の大きな仕事が入り、気持ちがそっちにいっているうちにコロッと忘れてしまっていたことに気づく。すぐにお謝りメールを書き、納品を完了させた。いくら忙しいとはいえ、納品を完璧に忘れてしまってほったらかしにしていたのは初めてだ。我ながら、ボーゼン。今年は何だか忙しい。次から次へと注文が来る。机の上は資料や原稿が山積みで、汚いことはなはだし。そもそもこの仕事を選んだのは、暇を作っては旅行に出たいがためだった。仕事をするのも、旅行資金を得るためだったかもしれない。類は友を呼ぶで、周りも旅行好きが多い。10年前バーリで知り合ったイタリア人の友達は、「100カ国訪ねるのが私の目的」だと言っていた。最初それを聞いたときは信じられず、 "100 citta'?(街ってこと?)"と聞き返してしまった。"No! Paesi!(違うって、国よ!)"と言い返された。彼女はすでに100カ国訪問の目標を達成し、今はヨーロッパやアメリカを始終旅して歩いている。今年になって彼女から送られたきた絵葉書は、メキシコからだったり、アムスからだったり、サンディエゴからだったり、リスボンからだったりしている。シチリアのシラクーサのギリシア劇場で出会った日本人の女性は、「海外旅行が趣味(それはワカル。シラクーサまで個人で来るのはタダモノではない)」「車椅子の母を連れて海外旅行をしたこともある」と言っていた。ヒトサマから絵葉書をもらうのが大好きな私は、初対面の相手に、「是非旅先から絵葉書書いて」と頼んでみた。その彼女からはいまだに海外からの絵葉書が届く。最近来た絵葉書はケープタウンのもの。「アフリカがマイブームになりそうです」と書いてあった。一方のMizumizuはといえば、2004年に自分の会社を立ち上げてからは、本当に旅行に行けなくなった。会社を作ったことで人生のプライオリティが変わったのだ。自分にそんな社会性や責任感があったとは、実のところ驚いたりしている。思えばいろいろなところに行った。基本的に個人旅行で、バーリからプルマン(長距離バス)を乗り継いでシチリアをまわったこともあるし、ドイツのフランクフルトから入って、西へ移動、チェコに入り、オーストリアに抜けたこともある。ドイツからオーストリアに南下し、インスブルックから夜行でナポリへ南下し、ソレント半島をまわったこともある。アメリカでサンダーバード(アメ車らしいアメ車)を借りてドライブしたこともあるし、クリオ(日本名ルーテシア)でフランスをまわったこともある。これがそのときの思い出。日本だったら、たとえば「青森方面」「大阪方面」と標識があれば、その道がどの方向に行くものかだいたいわかる。だが、フランスだとMetzだのNantesだのとあっても、それが西なのか東なのか瞬時にはわからない。そこでミシュランの地図を買い、走る前にルートを「予習」して紙にメモした(地図の上にのっているのがそのときのメモ書き。目的地までに通過する街の名前と道路の番号が書いてある)。これでわりとスムーズにまわることができた。ただし、フランスのロータリーは曲者。田舎町のロータリーにハマって方向を失うことが多々あった。田舎町のロータリーの標識に書いてあるローカルな地名は、土地の人には自明なのだろうが、こちらには全然方向がわらかないからだ。そういえば、東京都心でバイクで信号待ちしていたとき、ガイジンに「福生、こっち?」と聞かれた。、「立川」の標識の真下だったが、立川と福生の方向が同じかどうか彼らにはピンとこないのだ。気持ちはワカル。こうした旅への情熱はどこへ行ってしまったのだろう? 最後に海外旅行してからすでに1年以上経つ。しかも去年の旅は、オペラを見るだけ(といっていい)短いものだった。イタリア人の友達は、いまだに「いつヨーロッパに戻る?」「ミュンヘンからリスボンまでたった170ユーロで往復できる安い航空機があるよ」などと旅に誘うメールを書いてくる。「たぶん、旅行に対する情熱を失ったみたい」と書いても、「そんなことは信じない」と言う。「あんなに綿密な計画を自分でたてて旅行していたじゃない」。確かにバスや電車の乗り継ぎまでしっかり事前に調べて、待ち時間があまりない組み合わせを選んだり、リゾート地では滞在型のホテルを選んでホテルライフを楽しみ、街中の名所・旧跡を訪ねるところではリーズナブルなホテルを選んだりと、自分なりにかなり工夫して計画をたてていた。オペラや音楽会もネットでチケットを取って、スケジュールに入れたりしていた。もう、今となってはすべて面倒だ。電車やバスで移動するのは、考えただけで疲れてくる。最近のMizumizuは丸一日家から出ないなんてことも珍しくないし、外出はほとんどクルマだ。だが、ここにきて、旅のことが少し脳裏をよぎるようになってきた。たぶん、あまりに仕事に忙殺されすぎて、何かしらの「夢」が欲しいのだろう。イタリア人の彼女は自分の旅を"fuga(逃避)"だと言う。新しい旅を彼女は、"l'altra fuga(もう1つ別の逃避)"と表現する。Mizumizuにとっては何だろう? 恐らくは、気晴らしだ。さすがにここまで缶詰になるだと、本当に気持ちが萎えてしまう前に脱出しなきゃと思えてくる。仕事だけの人生なんて、Mizumizuにはありえない。仕事はやはり依然として、楽しみのための手段なのだ。では、どこへ行こう? 今日思いついたのは、冬の間1~2カ月、ニュージランドで仕事する。というものだ。ニュージーランドなら季節が逆だし、時差もそれほどない。完全オフの旅行は今の状態では難しいが、転地をかねて自然豊かな南半球に行き、週末にドライブするなどしたら、かなりの気晴らしになるだろう。問題はインターネット環境だ。海外で仕事をしたことがないので、うまくセッティングできるかどうかわからない。「ペーパーレス」なんてのはブログだけで、わが仕事の辞書にはないのでプリンターも必要になる。それにいつも使う辞書類と参考資料。これは重いけれど、まあ何とかなりそうだ。実現できるだろうか? それは「情熱」次第だろう。「忙しくて」なんてのは、情熱のもてないことをしたくないがための言い訳にすぎない。忙しくて会えない相手、忙しくて行けない集まり。すべてプライオリティの低い、情熱のもてない対象だということだ。思いつきの「ニュージーランドで仕事計画」――さて、どうなるか。それは11月以降のブログで報告するとしよう。
2007.08.24
「白い恋人」で有名な北海道・札幌の菓子メーカー、石屋製菓への信頼が大きく揺らぐ不祥事が明らかになった。賞味期限の改竄に加え、バウムクーヘンから黄色ブドウ球菌、アイスクリームからは大腸菌群が見つかったという。北海道で生活したことのある者として感想を述べさせてもらえば、「それほど意外なことではない」ということになる。そもそもMizumizuは石屋製菓のお菓子など食べない。お土産に持っていったことも一度もない。贔屓にしていたのは石屋製菓ではなく六花亭で、カフェがわりに行くのも六花亭喫茶室なら、お土産に買っていくのも「マルセイバターサンド」「十勝春秋」「六花のつゆ(特にブルーのコアントロー味が美味しい)」「霜だたみ」あるいはモカチョコレートや生チョコレートから選ぶようにしていた。どうして石屋製菓のお菓子を買わなかったのかと言えば、答えはカンタン。美味しくないからだ。「白い恋人」は恐らく道外ではもっとも有名な北海道土産だが、あれは洒脱なネーミングの妙と雪の結晶のパッケージデザインの美しさがほとんどすべてで、味自体は別にどうということもない。今回の不祥事が明るみに出て、石水社長は「包装技術の進歩で約半年は味も変わらない」などと言っているが、バカも休み休み言って欲しい。半年も味が変わらないなんて、缶詰じゃあるまいし、そんなお菓子はロクなものじゃないだろう。逆に、マルセイバターサンドは六花亭自身が、「賞味期限が短いのでご注意ください」と買う人に注意をうながしている。実際に数日おくと確実に味が落ちるのがわかる。お菓子というのはデリケートなものなのだ。六花亭は上にあげたお土産用の菓子のほかに生の和菓子や洋菓子も作っていて、こちらのほうが地元民にはお馴染みだ。生の和菓子や洋菓子はほとんどが翌日か翌々日が賞味期限だから、お土産にはもっていけない。Mizumizu自身は季節ごとにかわる生の和菓子がわりと好きで、特に秋に出る栗きんとんは、大ファンだった。一度鬼皮が混ざっていたことがあり、クレームしたら、社員が代替品を届けてくれたこともあった。また六花亭の喫茶室は、ほとんど週イチのペースで通っていた。円山店の喫茶室に最初に行ったときは、あまりにゆったりした造りに驚いたものだ。東京のキチキチにテーブルが並んだカフェに慣れた者にとっては、高い天井、広い空間に、ゆったりとテーブルや椅子をならべている豊かさに、「これぞ北海道」と感動した。だが、それは北海道ウンヌンというより、六花亭という会社のもっているセンスだということに気づくのに、それほど時間はかからなかった。六花亭の喫茶室は札幌にも数軒あり、帯広や函館にもある。すべてが同じということはないのだが、たとえば、大きな生花がいけてあったり、ドアが重厚で背の高い木製だったりと、かなりインテリアにお金を使っている。彫刻作品をおいてダウンライトで照らしたりといった工夫のある店もある。満開の桜や緑の森を大きな窓から楽しめる店もある。それぞれに店の立地や建築設計にかなりこだわっていることは間違いない。また、その喫茶室でしか食べられないスイーツもあって、帯広店は観光シーズンになると喫茶室に行列ができるほどだ。札幌でも円山店の喫茶室でMizumizuがよく注文したのは、「抹茶パフェ」と「帯広の森」。帯広の森も観光シーズンになると、午後2時にはもう売り切れでない、なんてこともあった。ガーゼの布目のついたフロマージュブランをフランボワーズソースが取り囲んでいる美しいお菓子で、東京では某有名店で人気の「アンジュ」とほぼ同じだ(ただし、アンジュはフロマージュの「中」にカシスソースが入っている)が、アンジュよりずっと口当たりが軽く、ナチュラルな味が特徴的だ。口の含むとあまりにたよりなく、はかなく溶けていく(アンジュはもっと重層的な味で、都会風の洗練がある)。そして安い。また円山店では誕生日の日にたまたま行くと、ケーキのサービスが受けられ、このケーキの生クリームはやたらと美味しい(なぜかショップで売っている生ケーキのクリームよりずっと上質)ので、誕生日に札幌に行った方は是非とも円山店のこの得がたいサービスを受けてみてほしい。札幌・新川の喫茶室はコーヒーがセルフサービスのタダで、しかもかなり美味しい。無料のコーヒーなのに、頻繁に入れ替えていて、煮詰まったコーヒーを飲まされるということがほとんどない。ここでは円山店にはないワッフルを頼むのが楽しみだった。六花亭は東京のような街にはない、北海道の豊かさというものを実感させてくれる店で、しかも地元密着型というスタンスを大事にしている。六花亭のお菓子を東京にもってきて、名だたるスイーツの名店と純粋に味だけを比べたら、六花亭に軍配があがるかと聞かれたら、答えに困る。六花亭の魅力はフレッシュで上質な素材の味わいにあり、特にお酒使いが光っているとか、味の組み合わせがバツグンにインパクトがあるとかいうことではない。むしろ、良心的な価格と何度食べても飽きない味、「地元民のためのおやつ」を提供するという企業の徹底した姿勢の中から、たまたま全国区のヒット商品が出たといったほうが正確だろう。六花亭は北海道民による北海道民のための店であり、観光客はそのお裾分けにあずかっているに過ぎないのだ。「マルセイバターサンド」は年間40万個、75億円売上げる六花亭最大の売れ筋商品で、「白い恋人」と並ぶ北海道土産とも言われていた。だが、Mizumizuとしては、六花亭と石屋製菓を並べて語ることなんてできないと考えていた。六花亭の企業としての姿勢が好きだった。グローバル、グローバルと意味も考えずに叫び、なんでもかんでもシェアを拡大したがる企業が多い中、徹底してローカルなまま、東京に店も出さない六花亭の価値は逆に高い。帯広に行ったとき、ホテルの温泉で息子が六花亭で働いているという人と話したことがあるが、月1回頑張った人を表彰する制度があるという。また、休みをきっちり取ることができるので、満足して働いていると言っていた。就職先としての人気も高いようだ。店の建築やインテリアにもこだわり、生花や無料のコーヒー(はむろん、立地によっては有料のところもある)で来る人をもてなし、ちょっとしたサロンコンサートを主宰したり、美術館事業を展開したりと社会文化活動にも力を入れている。そのかわり、宣伝はあまりしない。やたらと「しろいこいびと~」とテレビコマーシャルを流す石屋製菓とは対照的だ。Mizumizuは札幌の西区にいて、石屋製菓のファクトリーにも近かったが、そのハリボテのヨーロッパのお城風の醜悪で巨大な建物を見ただけで、見学する気にもならなかった。対して六花亭は株主になりたいと思ったくらいだったが、どうやら株式非公開のプライベートオーナーシップのようだ。だから、夏北海道へ行く皆さんは、「白い恋人」が買えなくなったからといって落胆するには及ばない。マトモな会社がマトモに作った美味しいお菓子を買えばいいだけの話だ。ちなみに、ずいぶん前の記事だが、今回の事件を予感(?)させるものがあったので、URLを記載しておこう。http://w3.bs-i.co.jp/globalnavi/bigname/060603.html六花亭の小田豊社長の「マルセイバターサンドと白い恋人はスタンスが違う」とコメントは、「マルセイバターサンドを白い恋人と比べて欲しくない」と読み替えれば、今回の不祥事の背後にある企業の姿勢の違いがよりハッキリ見えてくるだろう。
2007.08.16
某ホテルで、某国の大使館主宰のパーティに出席した。仕事がらみではなく、某国大使の個人的なご好意によって参加させていただいたものだ。パーティはまず主催者の挨拶と日本の外務省役員の挨拶で始まった。それからビュッフェスタイルの食事となり、歓談しながらの立食となった。パーティには失言で大臣の座を追われた政治家(彼の後任の女性大臣は同じ日、アメリカで「異例の厚遇」を受けていた)や、反安倍派の次期総理候補として「ちょっとだけ」名前の挙がっている政治家も来ていた。彼らはほとんど食事はせず、そこそこに引き上げていた。Mizumizuは最初から最後までいたが、パーティ終盤、思いもよらないことに遭遇した。1人でデザートを取っていると、とても背の低い、70歳は超えているだろうと思われる元気な紳士… というよりは、オッサンに話しかけられた。ふつうこうした場では、あたりさわりのない話をするだけなのだが、オッサンは変に社交的だ。話が長々と続く。ちょっと変だな、と思うこともあった。「このパーティ、何時からやってるの?」などと聞くのだ。招待状に書いてあるだろうに、もしかしたら誰かに連れられてきたのかな、と思い、「今日はどういうご関係で?」と聞いたら、あさっての方向をさし、「ん~。ちょっと仕事の付き合いでね」などと答え、すかさずこちらに「やはり貿易関係の方で?」などと質問を返してくる。彼にはとても背の高い45歳ぐらいの白髪まじりの男の連れがいて、その連れは、いかにも「仕事してます」みたいなネームプレートを胸にかけている。そして、よく食べる。口いっぱいに食べ物を詰め込んで、なにやらよくわからないことを言っている。それでも、背の低いオッサンが次から次へとしゃべりまくるので、それなりに盛り上がっていた。そこへ、大使館職員の女性が、「ちょっと…」と私を連れ出しに来た。入り口のあたりまで、連れて行かれて、「実は…」と打ち明けられたのは、「あの人たち、無銭飲食の常習犯なんだそうです」とのこと。一瞬意味がわからず、「は?」と聞きかえしてしまった。つまり、招待状もないのに入ってきて、勝手に食べているというワケらしい。ホテル側でも警戒していたようだが、気がついたときにはもう会場の中へ入っていた。入り口の大使館側のレセプションでは、なにやら変な紙切れを出し、そのスキにさっと中へ入ってしまったようなのだ。正直に、驚いた。パーティ会場はホテル内でもわかりにくい場所にある。ホテル内に開催時間が書いてあるわけでもない。スシや天ぷら、パスタやローストビーフなどもあるが、しょせんは立食のビュッフェだ。特別に美味しいわけでもない(もちろん大使館主宰だから、安いビュッフェでないことは確かだ)し、大の男がお腹いっぱいになるようなものでもないだろう。そんなモノをこっそり食べるために、ともに不惑をとっくに超えたような男(主犯?格の男にいたってはもう老人だ)が、グルになって、どこかで情報をゲットし、それなりの服を着て、知らんフリしてパーティ会場に入ってくるとは。なんとも情けなく、みっともない話だ。だが、本人(特に老人のほう)は、明らかに楽しそうだ。私が去ると、別のテーブルに移動して、高らかに笑い、大きな声で話している。無銭飲食だけが目的なのだろうか? おそらくは、違う。こうしたパーティに招待されたVIP(?)な自分、という幻想に酔っているのだ。それが証拠に、背の高い中年男のようにはガツガツと食べていない。むしろ、話相手を探しているようにも見える。そして、最後に彼らは、大使に挨拶する人になんとなくくっついて、ついでに大使と堂々と握手までして(!)、入り口でジト~ッと見つめる大使館職員に、「どうもっ! お世話になりました!」と大声で挨拶して出て行った。お付きのカメラマンが写真を撮ったようなので、今後はホテル側のチェックももっと厳しくなるだろう。変に背の高い男と背の低い老人だから、そもそもかなり目立つ。だが、都内のホテルはたくさんあり、こうしたパーティはよくあるのだろうから、彼らは食事の場(?)には困らないのだろう。ついでに有名人とちょっと会話したり握手ぐらいはして帰ることもあるのかもしれない。普通の考えたら、まったく下らないことにエネルギーを使っているとしか言いようがない。人生も終盤になって、自分以上の自分を夢見ている。そんな老人にくっついておこぼれをほおばっている。人間の寂しくも哀れな欲望をこの2人のデコボコ無銭飲食コンビに見るような気がして、なんともいえない気分になった。
2007.08.11
29日、日曜日の午後。12時半ぐらいに食事をしに外で出た。家を出たときには、「ちょっと雨が降りそうかな」ぐらいだったのだが、歩いているうちにどしゃ降りになった。ほとんど熱帯地方のスコールだ。写真は西荻の北銀座通り(通称「カレー屋通り」)。道路が浅い川になりかけている。樋も叫ぶように水を吐き出している。2005年の杉並の水害を思い出す。今日の雨は早くやんでくれるといいが…幸い、2―3時間で雨はほぼ上がった。だが、善福寺川はかなり水量が増していた。川面に垂れた木の葉が陰鬱な雰囲気だ。杉並区からの河川水位情報メールを後から見たら、宮下橋では一時溢水水位まであと0.13メートルのところまできたらしい。ということは、この水位はもう下がり始めたところかもしれない。東西線が何事もないように通り過ぎて行った。消防車や警察車両が川の状態を見に来ていた。橋の近くで消防車が停まり、隊員が降りてくる。川の水位を覗き込む隊員。2005年の水害当時には行政の対応がいろいろ言われたが、あれからこうした事態に備えての公の対応は非常に迅速になったと思う。日曜日の午後、きちんと責務を果たそうとしている消防署員の姿には感動を覚えた。それにしても、今日はほんの2-3時間の集中豪雨で終ってくれたから助かったものの、もう数時間続いていたらどうなっていたかと背筋が寒くなる。水害以降、水没した土地を手放す人が続出して、このあたりには新しいマンションや新築の建売が多くなった。売りに出ている土地もある。だが、そういした場所はかなりの確率で水害被害を受けたことのある場所だ。杉並区は水害ハザートマップを出しているから、このあたりに引っ越す場合は、過去の水害の有無を自分で調べるのは大切かもしれない。2005年9月の水害当時に、あと一歩のところで完成していなかった善福寺川用の地下調整池もすでに稼動しているはずなので、あのときよりは安全になっているとは思う。それでもやはり、この都市型集中豪雨の多さを考えると怖くなる。
2007.07.30
立川の昭和記念公園へ花火を見に行く。7時20分から始まるとのこと。少し早めに公園の入り口に着いたが、もうだいぶ人が歩いている。入り口からかなり歩いて、ようやく観覧場所である「みんなの原っぱ」に到着。すると、いるわいるわ…みんなもうしっかりシートを並べて陣取っている。有料の観覧場所もあったようだが、とっくに売り切れ。きれいな月が出た。適当な場所に座り、関係者の挨拶など聞きながら花火を待つ。今年で50回目を迎えるとのことで、「隅田川より20年も歴史が長い」と立川市長がスピーチで強調していた。さらに今年は30万人の人出が見込まれるとか(周辺を含めると60万人以上)。立川の人口はたしか18万ちょっと。30万人も来てるのかな? どうもピンとこない。しかし、どちらにしろ、隅田川は2万2000発の花火に98万人の人出。規模では勝負にならないカモ。暗くなって時間ぴったりに花火スタート。次々と打ちあがる。蒼い花火は幻想的だ。オウ! これぞ打ち上げ花火中の打ち上げ花火!火花がまるで流れ星のように落ちてくるものもあれば…火薬が炸裂したあと、スピードと方向を変えて、まるで生き物のように天を這うものもある。色とりどりの尾をひくものも。ハート型や星型、それにドラえもんの顔のような形にひろがるものもあった。華やかな5000発の花火。堪能できた。「大勢で一緒に見る」というのが、やはり夏の花火の醍醐味。歓声が上がると、自分の気持ちも盛り上がる。花火を自に見に行くのは久しぶり。ここ立川の昭和記念公園は、花火との距離はやや遠いものの、さえぎるものがなく、非常によく見える。人出はすごかったが、さしたる混乱もなく帰ることができた。関係者の努力に感謝。すぐ近くで、若い女の子が、「あ~、日本人でよかった!」と声を上げていた。思わず頷いた夜だった。
2007.07.29
靖国神社参拝そのものについては、アメリカはこれまでほとんど問題にしてこなかった。だが、今回のフクヤマの主張から予見できることは、アメリカは必要とあれば、これまで何も言わなかったことについても、問題点の「萌芽」を見つけだし、すばやく批判や攻撃をしかけてくる可能性があるということだ。遊就館の主張は日本の中でもかなり特異なものだ。だが、それについてフクヤマは「日本の20世紀の歴史に関して、遊就館の主張に代わる見解を提示している博物館はどこにもない」ことを論拠に、「歴代政府は、靖国神社は民間の宗教法人であるとの理由から、遊就館で主張されている歴史見解に対して政府には何ら責任がないと主張してきたが、そうした態度は説得力に欠ける」としている。そのうえで、フクヤマは、遊就館展示に見られるような日本のナショナリストの主張が、「日本にとって重要な同盟国であるアメリカにも複雑な思いをさせている」と述べるのだ。それは慰安婦決議案を採択した際に下院外交委員会ラントス委員長が表明した、「当惑」と共通する感情だ。慰安婦問題が人権問題だなどという主張は、もちろんただのベールに過ぎない。少なくとも日本人の保守派にはそう映る。人権問題ならば、より深刻で現在進行中の人権問題が世界にはいくらでもある。中国系の団体から突出した献金を受けているマイク・ホンダは当初、「過去のあやまちを認めるのに遅すぎることはない」と教師的な論調で日本を諭し、「これは日米同盟を強化するもの」などと独善的な見解を述べていた。もちろん、そんな詭弁を今の日本側が「はいそうですか」と受け入れるはずがない。加藤駐米大使はきっぱりと、「日米同盟に長期にわたって負の影響を及ぼす」と警告した。そこで最近のホンダは、「日米同盟に影響はないと思う」とトーンを下げている。加藤大使だけではない。この慰安婦非難決議案については民主党の重鎮、ダニエル・イノウエも「日米同盟に悪影響を及ぼす」という立場から反対を表明している。過去の国家の犯罪行為に対して、他国の議会が裁判官の役目を果たそうとするなど無意味なことだし、少なくとも政治的に白黒をつけることではないはずだ。現在は良好な関係である日本人の感情を傷つけてまで行う意味があるのかと問われればなおさらだろう。ワシントン・ポストに意見広告を出したすぎやまこういちは、慰安婦非難決議案は「日本人全体に対する名誉毀損」だと憤る。すぎやまの言葉は、アメリカ人の独善的な態度に対する、日本人の感情的な反発を表わしている。アメリカ人が日本人の戦争犯罪を人権問題として追及すればするほど、「慰安婦が20世紀最大の人身売買というなら原爆はどうなる。原爆投下こそ人類史上最悪の殺戮ではないか」――必ずそういった反応が出てくるだろう。それは、かつての「鬼畜米英」の記憶を呼び起こす。「日米同盟への悪影響」とは、こうした日本人のアメリカ人への感情の悪化に他ならない。感情が悪化すれば信頼が揺らぐ。信頼が揺らげば不信感が増す。そうなったとき、アメリカ人の感情の中にも「ジャップ、カミカゼ」の忌まわしい記憶がよみがえるだろう。にもかかわらず、下院はこの決議案を採択しようとしている。しかも、安倍政権が選挙で負けるタイミングを狙っている。そうなると、それはもう特定アジア国のロビー活動にアメリカ人がのせられたなどという単純なものではない。もちろん日本の保守派の「女性への性暴力に対する意識の低さ」がアメリカ人の意識(特に下院議長ナンシー・ペロシを筆頭とする「人権派」)とのギャップになっているという側面は否定できない。だが、性暴力に対する認識の甘さは何も、東アジアの中で日本だけに突出したものではない。またアメリカの「人権」がしばしば「利権」の前で沈黙することを私たちは知っている。さらに、この慰安婦問題の蒸し返しは、6カ国協議でアメリカが急速に北朝鮮に軟化し始めたタイミングともぴったり歩をそろえている。拉致問題と慰安婦問題を関連づけて日本を牽制する論調はすでにアメリカのメディアに見られる。そうした意味では、拉致問題で強硬な姿勢を取る安倍政権への中韓米からの牽制とも取れるだろう。中国は今回の決議案の下院外交委員会通過を待っていたかのように「慰安婦報告書」を発表した。終戦から62年もたって初めて報告書を作成するというのはそもそも奇妙なことだが、さらに、その報告書には、「山西省にあった慰安所が、終戦後2年たった1947年まで運営されていた」という、朝鮮日報ですら「奇妙な話」とする逸話が盛り込まれている。中国で発見された証拠文書によると、敗戦後、日本に戻れなかった旧日本軍の一部が国民党に編入された。この部隊は独立を保ち、山西省太原市に旧日本軍の敗残兵のための慰安所を設置したというのだ。また中国は、南京大虐殺記念館を改築し、世界遺産登録を目論んでいるらしい。マイク・ホンダは慰安婦の次は、日本のアメリカ軍捕虜に対する虐待についても追及を始めるという。こうした過去からの思いもかけない攻撃に対して、日本は毅然とした態度をとることができるだろうか。慰安婦問題について、アメリカは、政府と議会とは立場が違うとしながら、事実上非難決議案の採択を黙認した。そうはいいながらも、今のところ、たとえ下院の本会議で採択されても、それ以上事を大きくしたくはなさそうだ。アメリカが日本の歴史問題についてどういった態度をとるかは、今度の日米同盟の方向性にかかっているだろう。米国の最新鋭ステルス戦闘機「F22」についても、結局アメリカは日本側からの再三の働きかけにもかかわらず、この戦闘機を売らないことに決めたようだ。25日にアメリカ米下院歳出委員会はF22禁輸の法律の改正を見送った。ここにも蜜月といわれた小泉・ブッシュ時代の終焉、すなわち、日米の間に生まれた微妙な距離感を見ることができる。日米同盟の強化を現在のアメリカがどれくらい必要としているのか、それはこれからアメリカ人が決めていくことだ。だが、日本人も見きわめなければいけないことがある。そもそも、日本にとってアメリカは信頼するに足る相手なのだろうかということだ。このままゲタの雪のようについていっていいのだろうか。そうした疑念は常に日本人の中にくすぶっている。そして一方的なストーリーと、押し付けがましい教唆を並べた「慰安婦非難決議案」の採択は、眠れる疑念を密やかに呼び覚ます。だが、そうしたことに関心を払う日本人は少数派のようだ。参議院選挙では、年金と事務所費問題ばかりがいわれている。与党内での権力争いも露骨になっている。民主党と手を組んで、政界の再編をもう一度目論む勢力もいるらしい。野党第一党の民主党にあまりに雑多なイデオローグが入り込んでしまっている現状を考えると、あるいはそれはそれで悪くはないのかもしれない。だが、どちらにしろ選挙で負ければ、安倍総理の求心力は低下せざるをえない。そこに「慰安婦非難決議案」という小さな爆弾が炸裂する。もちろん安倍総理を権力の座から引きずり下ろしたい人々は、これを政権の外交上の失点として大いに利用するだろう。その先に待ち受ける政局の不安定化が一時的なものになるのか、長期におよぶのか。今は誰にもわからない。それが日本になにをもたらすのか、そこまで考えて選挙に行く人が果たしてどれくらいいるのだろうか。しかも、それを仕掛けているのは1993年に野党から上程された宮沢内閣不信任案に賛成し、自民党単独政権にとどめを刺した小沢一郎その人だということに、一種のデジャビューを感じないか。
2007.07.27
参議院選挙の投票日を目前に控えて、マスコミの与党バッシングは凄まじい。すでに与党の敗北は確定し、関心はもはや、「どれくらい負けるか」に移っているといっていい。与党内からも反安倍政権の急先鋒から「これから政治は混乱しますから」という「予言」が出てきた。日本の政治は1990年代のような不安定なダッチロールを繰り返す時代に戻るのだろうか。参議院選の与党敗北にタイミングを合わせるかのように、アメリカの下院で採決を待っている決議案がある。「慰安婦非難決議案」だ。マイク・ホンダ下院議員がいわゆる「反日」勢力と手を組んで上程したこの決議案は、米下院外交委員会で6月26日に採択された。過去何度も廃案となってきた決議案が今回採択された理由については、表面的には、「現在の日本政府が、慰安婦強制連行を否定し、日本の過去の問題に正しく向き合わず、その罪を矮小化しようとしている」ことへの同盟国アメリカの「当惑」の表明だとされている。これに対する日本側(保守派)の反発も激しい。反発する人々の主張は、「決議案は重大な事実誤認がある」というもので、「20万人もの女性を軍が強制的に連行するなどということはありえない。その証拠もない」「性奴隷などというのは誇張であり、慰安婦は一定の契約のもとに雇用され、売春という商行為を行っていたにすぎない。収入も高かった」と一方的な断罪の問題的を指摘している。だが、こうした日本側からの反論はむしろ意図的に無視され、曲解される傾向にある。特に韓国メディアは辛らつで、慰安婦問題の事実誤認を指摘する人々をすべて「極右」の「歴史歪曲論者」による「嘘」だと断じている。「私は強制的に軍人に連れ去られ、強姦された」「私の周囲では誰もお金などもらっていない」といった元慰安婦の証言が、日本叩きにさらに拍車をかける。どうして65年も前のことが蒸し返され、非難されるのか。しかも当事者ではないアメリカ議会によって。日本人のいらだちは主にそこにある。慰安婦の「狭義の強制性」を繰り返し否定するのは、日本人の「名誉」に関する強いこだわりのせいだ。慰安婦がいたことは誰も否定しない。女性を買っていたのは日本軍、それも認めよう。だが、募集すればいくらでも集まった「(日本軍にとっては)ただの売春婦」を、自分たちが組織的かつ強制的に連行したなどと言われることは、名誉にかかわる問題なのだ。だが、こうした「汚名をすすぎたい」という動機で発せられる日本人の過去に対する発言は、ほとんどの場合、戦前のナショナリズムへの回帰、あるいはその萌芽とみなされる。日本によって痛手を受けた国の人間ならある意味当然のことかもしれない。そして、「痛手を受けた」という意味では、アメリカも中国・韓国と同様なのだ。もちろん、日本の過去を糾弾する人々も、本気で日本が戦前のような軍国主義に戻ることなどありえないということは知っているだろう。だが、自国のプレゼンスを高めるため、あるいは少なくとも低下させないためには、常に日本の脅威を大げさに主張し続けることが戦略として必要な国もあるということは、十分に理解できる。日本に謝罪させることが本当の目的ではない。謝罪ならば日本は何度となくしている。だが、たとえ何度日本が謝罪しても、そうした国にとって十分とはならない。歴史問題は彼らにとって、日本のプレゼンス、すなわち軍事力を永遠に脆弱なものにしておくための切り札だからだ。冷戦終結後、アメリカはほぼ一貫して、同盟国としての日本の軍事力強化を望み、憲法9条の改正を暗に促してきた。だが、ここにきて、アメリカにも「戦後レジームからの脱却」を目指す安倍政権に対する疑惑の萌芽が見られるように思う。すなわち、日本は表面的にはアメリカとの同盟強化を謳いながら、それを隠れ蓑にアメリカからの「自立」を目指しているのではないかという疑念だ。アメリカは自分たちの言うことを忠実に聞いてくれる傭兵は望んでも、自分たちの言うことを聞かない日本は望まないだろう。日本の軍事力強化がそれを担保することになってしまうのなら、なおさらだ。その疑惑の萌芽は、たとえば、週間東洋経済に載ったフランシス・フクヤマの論文にも見ることができる。フクヤマは「ナショナリズムという日本のやっかいな問題」(2007年4月)の中で、靖国神社の遊就館で主張される「日本は欧州の植民地主義勢力の犠牲者であり、列強から他のアジア諸国を守ろうとしたにすぎない」という歴史見解を批判している。そのうえで「ドイツと異なり、日本は太平洋戦争に対する自らの責任をまだ認めていない」「日本は、遊就館の歴史説明に代わる説明を広めるという努力も行ってこなかった」と結論づける。これはほぼ中国・韓国の主張を代弁したものといってもいい。(明日に続く)
2007.07.26
蓮池薫さんのブログは以前からちょくちょく覗いていた。最初は蓮池さんの日常が語られているのかと思って行ってみたのだが、新潮社の提供で、主に彼の翻訳した本に絡んでの仕事の話題だった。そこへ今回の新潟県中越沖地震(7月16日)が起こった。柏崎が震度6強。柏崎といえば、蓮池さんが住んでいる町だ。ブログに何か書いているかなと何度かアクセスしてみたが、更新された気配はなかった。「被害はなかったのかな。それとも地震で大変でそれどころじゃないのかな」と思っていた。だが、今日になって、蓮池さんの長いレポートが23日にブログに掲載されたのをようやく見つけた。内容は想像を超えるものだ。両親の家にいた蓮池さんが地震に遭遇する場面、家族のもとに戻るまでの道のり、家にたどり着いて見た地震の惨状。すべてが迫真の筆致で描写され、その間に地域の人々のやさしさやマスコミ報道に対する懸念などが綴られる。今回の地震は規模のわりには死者が少なかったせいもあって、「阪神大震災並み」というのは大げさなんじゃないかと思っていたが、やはり被害は尋常ではなかったのだ。阪神大震災のときに「まるで温泉地に来ているようです」と空から物見遊山のようなコメントを吐いて顰蹙を買ったジャーナリストがいるが、やはり災害をその人がどう受け止め、どう感じ、どう人に伝えようとしているかは、その人の言葉や態度の端々に出るものなのだ。蓮池さんのブログはその意味では、今回の地震の恐ろしさをもっともストレートに伝えるレポートになった。しかも自宅から避難命令が出たところでブログが終っている。近所の方々も含めて、大丈夫だろうか。本当に心配になる。それにしても蓮池さんの文章のうまさには驚く。新潮社の提供だから、あるいはプロの校正者の校閲が入っているかもしれない。だが、それにしても、文を書くということに関して才能と経験があることは間違いない。蓮池さんが北朝鮮に拉致されていた24年間。何をしていたのかは知らない。あえて問うつもりもない。だが、人はどんな状況でも自分のもった才能を失わないでいられるのだということを彼の見事な日本語の文章は教えてくれる。そういえば、兄の蓮池透さんが、帰ってきた弟の言葉として話していたエピソードは、思い出すたびに胸がつまる。「アニキは自分の好きなときに、好きなところに行けるのを当たり前だと思っているかもしれない。でもオレは、今そうやって自由に出かけられるだけで嬉しいんだ」。私たちは長い間、あなたたちの悲劇を「まさか」と信じずにきた。「拉致などない」と断言していた学者、弁護士、政治家も多かった。北朝鮮が生存者と死亡者を恣意的に選別したうえで、拉致を認めた2002年9月。日本中が怒りに震えた。あれから5年、日本人はあのときの怒りと悲しみを忘れているようにみえる。北朝鮮の代弁をしてきた人たちは、この信じられない国家犯罪が明るみに出たとき、一様に「知らなかった。北にだまされてきた」と言ったが、その後この問題を解決させようと真剣に努力した人は、誰一人いなかったように見受けられる。それどころか、相変わらずこの真の「ならず者国家」の立場にたって、彼らの肩をもちつづけているのがほとんどだ。もし平和憲法を守ってさえいれば、他国が日本の国土を狙わず、資源を狙わず、「不審船」で密入国もせず、一般市民に袋をかぶせて突然連れ去るような主権の侵害もないというならば、日本人の誰も憲法改正など考えないだろう。それどころか世界中が戦争放棄の平和憲法をもつのではないか。選挙を控えて、「憲法9条を守ろう」を、錦の御旗よろしく振りかざす、「庶民」にやさしげな人々に問いたい。それは本当は、一体誰のためなのですかと。
2007.07.25
7/23日付け朝鮮日報 日本語サイトに「終わりなき中国産ニセ食品問題」と題する記事が載った。段ボール肉まんがねつ造だという発表がねつ造ではないかという疑問の声があがっていることを端緒にして、中国のニセ食品禍の酷さをレポートしている。ネット上では4回に分かれて掲載されており、非常に力のこもった特集だ(執筆は池海範 チ・ヘボム 記者)。ちょうど、段ボール肉まん報道がねつ造だという発表がなされたとき、朝鮮日報は、「ねつ造の動機は有名になりたくて」という中国当局の発表をそのまま受けた形で報道し、「誤報、でっち上げ相次ぐ中国」として、「妻を捜しに行った農民が巨大なヘビを発見し、腹を割いてみると妻の遺体が見つかった」「5つ子を妊娠した女性の腹囲が妊娠5カ月で175センチまで膨らんだ」などという、中国ではびこる「でっち上げ・ねつ造報道」を紹介していた。今回は、「(報道がねつ造であるという)警察の発表がどれほど信ぴょう性があるものかは現時点では検証する方法がない」としながら、実際に中国で起こっているニセ食品禍を追っている。その例は凄まじい。13人の赤ん坊を死に至らしめたニセの粉ミルク、発がん性のある染料、工業用光沢剤やワックスで加工しツヤを出した米、異物の混ざった粉… 日本で聞いたことのある話もあるが、朝鮮日報ではいずれもその手口や使う材料、業者がニセ物をつくるその目的と人体に及ぼす負の影響などを詳細に記載している。朝鮮日報の記事は時に誤報もある。裏づけをどれだけとったのか怪しい記事もあるし、手前勝手な感情論もある。対日本の歴史問題に関しては特にそうだ。だが、こと中国の現状に関して言えば、日本のメディアよりずっと詳しく、具体的な報道をする。あるいはそれは、北朝鮮という一種の「緩衝地帯」をはさんでいるとはいえ、この巨大な国と地続きで対峙している韓国人の危機感の表れかもしれない。段ボール肉まんのねつ造発表がなされたとき、日本のメディアはほぼ中国当局の発表をそのまま流し、「背景に視聴率競争か」などといった結論で片付けるのがほとんどで、「ねつ造がねつ造ではないか」といった疑惑にはほんのちょっと触れたか触れないかで終らせていた。中国に関しては、日本のメディアは明らかにこの国に「配慮」しすぎている。たとえば洞庭湖で大量発生したねずみの被害について日本ではどれほど報道しただろうか? 朝鮮日報は20億匹のねずみを通して、中国の商業主義のもたらした環境破壊がいかに深刻であるかをあぶり出し、今回の大量発生はつまるところ人災であると結論づけている。(執筆は同じく池海範 チ・ヘボム 記者)中国という国はでっち上げやねつ造がはびこる一方で、表に出ない悲劇、いや惨劇があふれているのだ。にもかかわらず、日本のメディアは、実情を深く正確に伝えない。あるいは伝えることができない。そこには中国当局の姿勢とともに、日本の「どこか」からの思惑もからんでいるのだろう。中国も決して、自国に特別な非があるとは認めない。「製品や食の安全は一国だけの問題ではない。世界各国が向き合うべきだ」(国家品質監督検査検疫総局、李局長)などと平気でのたまうお国柄なのだ。巨大な国土と人口をもつ隣国の負の実情を、私たちはまだまだ十分に知らされていない。少なくともそれだけは、肝に命じておいたほうがいいだろう。
2007.07.24
1週間前、北京の露天で段ボール入り肉まんが売られていたとの報道がなされ、日本中に衝撃を与えた。北京テレビの「透明度」という番組で、記者の潜入取材というふれこみで、段ボールをたらいの水(薄めた苛性ソーダだという話だった)に浸し、刻んでいる様子が、まるで安手の「隠し撮り(もちろんヤラセ)AVビデオ」のようなカメラワークでわざとらしく映し出されていた。ところが1週間たって、今度はその番組がねつ造だったと発表された。テレビ局の臨時職員が小道具を持参し、出稼ぎ労働者にヤラセを依頼したのだという。なるほど、それは納得できる話だ。あの「取材」はあまりにも不自然すぎる。段ボール入り肉まんを作ったという業者が、わざわざカメラに見えるように段ボールを刻んでる姿や、ペラペラとよどみなく手口を語る口調は、ヤラセのにおいがプンプンした。それでは一体なぜ、北京テレビがわざわざそんなねつ造をしたのだろう? CMを受け入れている同テレビ局が番組の人気の有無を気にしなければいけない立場にあったとはいえ、報道が政府の統制下におかれてるかの国で、単に視聴率「のみ」を狙ってゼロからすべてをでっち上げたとも考えにくい。それに、映像はわざとらしかったが、苛性ソーダに浸す、豚肉のエキスを混ぜる、肉とダンボールは4:6の比率で混ぜるなど、「専門的」とまではいわないが、テレビ局の職員が考えたにしてはずいぶんと具体的で説得力のある手口が語られていた。してみると、この番組は「そういった悪質な行為をしていた業者がいた」からこそ作られたと考えるのが自然ではないだろうか。そうした業者に対する警告として、ヤラセを交えて番組を制作し、放映した。ところが、番組が中国国外で大々的に報道され、繰り返し映像が使われるハメに陥ってしまった。そこで、北京オピンピックをひかえ、これ以上の中国に対するイメージダウンを食い止めたい政府当局がヤラセであることを公表するようテレビ局に促した。それが一番ありそうなシナリオだ。どちらにしろ、今回のドタバタで、中国の報道というものがますます信用できなくなった。国内的には悪質な業者への警告として、国外的には中国は決して隠蔽体質ではなく、自国の負の面も「透明」に報道するのだということを見せようとして、ヤラセの証言者を仕立てた番組を流した。ところが、結果が思惑とは違った方向に広がってしまったことで、あわてて火消しに走った。そう取られても仕方ないだろう。中国の報道が透明であるならば、各地で頻発する住民と警察の衝突についても、もっと映像が流れていいはずだ。ところがそういった話は日本の新聞で小さな記事になるだけで、映像はいっさい流れない。どこからどこまでがねつ造でどこからどこまでが透明な真実か。これではまったくわからない。国際社会は、この「不透明な巨国」をいつまで許容するのだろうか。日本に関して言えば、そろそろ限界点に達しつつある気がする。
2007.07.19
ピエール・マルコリーニから晴海通りに出ると、右手にディオール、左手に11月オープン予定のアルマーニ銀座タワーがある。アルマーニタワーの外観はもうほとんど出来ているように見える(写真のゴールド地にブラックのロゴ入りの看板を掲げた工事中のビル)。ミラノ3Gとして世界にその名声を轟かせたイタリア人デザイナーも、とうとう生きているのはジョルジオ・アルマーニだけになってしまった。もちろん、デザイナーの名前がそのままブランド名になっている有名メゾンはあまたあるが、現在その頂点に君臨するのがジョルジオ・アルマーニであるということに、異論をはさむ者はいないだろう。ジョルジオ・アルマーニの場合は、デザイナーとしての才能以上に、企業経営者としての敏腕ぶりに驚かされる。70歳を超えて銀座、それも地下鉄直結の晴海通りにこのタワーをもつのだ。クロージング以外にも、アルマーニ銀座タワーにはレストランやスパ(! 温泉じゃないよね!? 注)も併設されるという。<注:2007年6月渋谷の松涛にある天然温泉施設シエスパがガス爆発を起こし、複数の死傷者を出す。7月10日、経営側は同施設の解体決定を発表>11月のオープンには、2004年のシャネルビルのような騒ぎになることは間違いない。ナカタ(氏)も来るのかな? ブラックのパイソンレザーのジャケットを羽織って?アルマーニ銀座タワーの斜め向かいには、カリスマ性ではジョルジオ・アルマーニに勝るとも劣らないデザイナー、グッチオ・グッチが創設し、血みどろの内ゲバを経て、今はグッチ家の手を離れた有名ブランドがある。銀座という華やかな舞台で、2人のイタリア人天才デザイナーの名を冠したショップが顔をつきあわせるというのは、何か因縁のようなものすら感じる。グッチ家の悲劇的な物語の記憶を道路の向こうに見ながら、「アルマーニ帝国」はこれからどんな運命をたどるのだろうか。モードの最先端をいくアルマーニ銀座タワーの正面にあるのは天賞堂。ココの2階から上は、外の世界とは別世界。まるでアキバがワープしてきたみたいだ。リュックをしょった若者やブリーフケースを肩からさげたおじさんが、腰をかがめて無言で鉄道模型に見入っている。いいよな~。このオタクっぽい雰囲気。天賞堂、ひもとけば実は創業127年。アルマーニなんか、およびじゃないぞ。たとえアルマーニ帝国が今後、後継者をめぐってドロドロしても、きっとここはこの静かさのまま、ずっと銀座のこの場所にあるんじゃないだろうか。あってほしい。銀座とはもともと、こういう日本の老舗が作り上げてきた街なのだから。
2007.07.11
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