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2023年9月10日、岡崎城へ行きました。「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」で、NHK大河ドラマ「どうする家康」の俳優衣装など、色々な資料を見ることが出来ました。観光お土産店で、まるや八丁味噌、カクキュー八丁味噌などのパンフレットを頂きました。今回は味噌についてパンフレットで勉強です。岡崎城から岡崎駅までは、徒歩を止めて、バスで戻る事にしました。バス停まで、国道1号線を東に歩き、岡崎市康生通南の陸橋を渡って南に進みました。この1号線をもう少し東に行くと、徳川家康の正室であった瀬名(築山御殿)が移り住んだという、築山の地があるそうです。「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」↓「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」前で記念撮影。↓「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」。↓ 観光みやげ店。ーーーーーーーー株式会社まるや八丁味噌のパンフレット。ーーーーーーーーーーー↓ カクキュー八丁味噌(合資会社八丁味噌)。ーーーーーーーーーーー↓ 岡崎城・大手門。↓ 岡崎城そばの国道1号線を、東に戻る。↓ 岡崎市康生通南の陸橋。ここを右に曲がり、岡崎駅方面のバス停に向かう。*この1号線をもう少し東に行くと、徳川家康の正室であった瀬名(築山御殿)が移り住んだという、築山の地がある。↓ まちと繋がるミニガイド「ぽけっとこりん」↓ 岡崎城、交差点の陸橋、築山の位置。
2023.09.19
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2023年9月10日、岡崎城に行きました。「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」で、「どうする家康」の俳優陣についてパネルがあったので、紹介します。(撮影可)
2023.09.18
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2023年9月10日、岡崎城に行きました。NHK大河ドラマ「どうする家康」について紹介されている「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」を見学しました。撮影可能なエリアの写真を一部載せます。↓ どうする家康 岡崎 大河ドラマ館。
2023.09.17
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2023年9月10日、岡崎城に行きました。岡崎城の天守閣近くに、龍城神社があります。徳川家康が生誕した日に、天守に近い井戸(龍の井)から金鱗の龍が舞い上がったと伝えられている神社です。徳川家康と本多忠勝の二人が、祭神として祀られています。11時から、「グレート家康公(葵)武将隊」のメンバーが、花時計のある広場で演武をされていました。↓ 龍城神社。↓ 花時計。↓ 「グレート家康公(葵)武将隊」のメンバーが、演武を行った。↓ からくり時計。
2023.09.16
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2023年9月10日、岡崎城に行きました。天守閣からの景色を紹介します。↓ 岡崎城。↓ 天守閣石垣と穴蔵。岡崎城の天守は、天正18年(1590)に城主となった田中吉政の時代に創建されたと考えられる。天守閣石垣は花崗岩の自然石を用いて築かれている。北・東面には巨大な鏡石が入る。場内で最も古い石垣である。天守台の石垣の内部は、地階として石垣に囲まれた穴蔵となっている。↓ 東側。↓ 南側。↓ 西側。↓ 北側。
2023.09.15
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2023年9月10日朝、徳川家康公の生誕地である岡崎城に行きました。大手門から岡崎公園に入ると、公園案内無料ガイド受付所がありました。30分程度の短い時間でも可能ですかと尋ねると、短時間でも大丈夫と言われ、男性の方にガイドしていただきました。下記点をご説明頂きました。1)徳川四天王の本多平八郎忠勝公銅像。(戦場では57戦無傷であったが、家では小刀で指を切ってしまった話)2)徳川家康公のしかみ像。(徳川家康が武田信玄と戦って大敗し、命からがら浜松城に戻った時、自分の姿を描かせた、徳川美術館所蔵の「徳川家康三方ヶ原戦後画像」を基にした石像)3)空堀。(最近の豪雨で伊賀川から溢れた水が空堀に入り込んだ。まだ水が残っている)4)東照公産湯の井戸。(徳川家康:幼名竹千代が取り上げられ、最初に浸かった産湯を汲んだ井戸)5)坂谷邸跡。(竹千代が生まれた坂谷邸)6)東照公えな塚。(竹千代の胎盤(えな)が埋められたとされる塚)7)長寿のクスノキ。8)石垣の矢穴。(石を割るためにノミを入れる穴)9)刻銘石。(石垣工事で、石に刻銘を彫った)10)岡崎城の石垣。(穴太衆:あのうしゅうの仕事)11)岡崎城、徳川家の歴史。12)岡崎城の総構えの広さ。ガイドの方の話で一番記憶に残ったのが、岡崎城の総構えの広さの話です。広島大学の先生の記事を見せていただき、岡崎城の総構えの広さは、江戸城、大阪城、小田原城に次いで4番目との事でした。しかし、ガイドの方の意見としては、4番目が姫路城で、岡崎城は5番目ではとの話でした。いずれにせよ、岡崎城がそのように広い城だったことに、とても驚きました。ガイドの方には、とても分かりやすく説明をしていただきました。本当にありがとうございました。↓ 2023年9月10日、岡崎城大手門。↓ 公園案内無用ガイド受付所があった。↓ ガイドの方に、30分のガイドをお願いした。↓ 徳川四天王の本多平八郎忠勝公銅像。戦場では57戦無傷であったが、家では小刀で指を切ってしまった話を聞いた。↓ 徳川家康公のしかみ像。徳川家康が武田信玄と戦って大敗し、命からがら浜松城に戻った時、自分の姿を描かせた、徳川美術館所蔵の「徳川家康三方ヶ原戦後画像」を基にした石像。ガイドの方から、徳川家康が、浜松に逃げ帰った時に、馬上で脱糞した有名な話も聞いたし、この時の徳川家康の衣装を見ると、本当に戦場から帰ってすぐに描かれたのかどうか、季節的にどうかなど、色々な意見があるようで、それを聞くのも楽しかった。↓ 空堀。↓ 最近の豪雨で、岡崎城側の伊賀川が増水し、敷地内も水浸しになった。空堀も水が入ってしまい、まだ水が残っているとの事。↓ 東照公産湯の井戸徳川家康:幼名竹千代が取り上げられ、最初に浸かった産湯を汲んだ井戸。↓ 坂谷邸跡(竹千代が生まれた屋敷跡)。↓ 徳川家康の父、松平弘忠。↓ 東照公えな塚。徳川家康:幼名竹千代の胎盤(えな)が埋められたとされる塚。↓ 長寿のクスノキ。↓ 龍城堀が見える。↓ 石垣の矢穴。石を割るためにヤを入れる穴。ノミで叩いて岩を割る。↓ 刻銘石石垣工事で、担当が分かるように、石に刻銘を彫った。岡崎城では2種類あるとの事。①②↓ 岡崎城天守閣。↓ 岡崎城と記念撮影。↓ 岡崎城と家康公遺言碑。↓ 家康公遺言碑。わが命旦夕(たんせき)に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば、天下のこと心安し。されども、将軍の政道その理にかなわず、億兆の民艱難(かんなん)することもあらんには、だれでも其の任に変わるべし。天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四悔安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかも、うらみに思ふことなし。元和2年(1616年)4月17日 家康公 75歳甍於駿府城 大樹寺57世 宏天 謹書↓ 東照公遺訓碑。人の一生は重荷を負(おい)て遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもえば不足なし こころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基(もとい)、いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りて まくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせめるな、及ばざるは過ぎたるよりもまされり。慶長九年卯月家康。↓ 岡崎城の石垣。穴太衆(あのうしゅう)が組んだ。
2023.09.14
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2023年9月10日、JR岡崎駅から歩いて岡崎城に行きました。岡崎駅でゆるキャラ「オカザえもん」の自動販売機に気をとられ、その横のコインロッカーに気が付かず、重い荷物を両肩に掛けたまま、歩き始めました。オカザえもんのインパクト、恐るべし!。事前に調べておらず、駅から城まで近いと想像していたのですが、8時45分に出発して、9時35分に城に着いたので、約50分かかったことになります。4kmちょっとはあると思います。岡崎駅から岡崎城までの途中で撮った風景写真の一部を紹介します。ほとんどの方は、このような写真は興味が無いと思いますが、私は大好きです。後で写真を見ると、その時の街の雰囲気や、自分がその時に考えていたことなどを、ありありと想い出すことが出来ます。↓ 岡崎城、豊橋市、安城市、名古屋市の位置、↓ JR岡崎駅から岡崎城まで歩いたルート。4キロ以上あった。荷物が両肩に食い込んで重かった。↓ JR岡崎駅 / 愛環鉄道(愛知環状鉄道)。↓ JR岡崎駅前ロータリー。↓ 岡崎城に向かって歩き始める。↓ 岡崎駅前郵便局。↓ マンホール(やはぎばし)。↓ 電車通りの敷石。大正元年より昭和37年までチンチン電車のレール保護に使われていたもの。↓ マンホール(岡崎城と花火)。 ↓ 中日新聞羽根専売所。↓ 岡崎協立病院。↓ 岡崎市シビックセンター。↓ マンホール。(岡崎城 5万石)。↓ 西光院。↓ 岡崎協立病院。↓ 重い荷物を両肩に掛けて歩いた。肩に食い込んで痛かった。↓ 岡崎市戸崎町陸橋。↓ イオンモール。↓ GATEAU TATSUMIUA。↓ スーパー銭湯 葵湯。↓ イオンシネマ。↓ 岡崎市明大寺陸橋。↓ 生理学研究所。↓ 右方向に名鉄・東岡崎駅がある。↓ 名鉄名古屋本線。 電車が走っている。↓ 名鉄名古屋本線の鉄橋。↓ 岡崎市明大寺本町陸橋。↓ 暑いので、自動販売機で購入。↓ 乙川 (菅生川:すごうがわ)に掛かる殿橋。↓ 乙川(菅生川:すごうがわ)の奥に、岡崎城が見えてきた。↓ 岡崎城。↓ 殿橋。↓ 乙川の殿橋を渡る。↓ 殿橋の東側。↓ 厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)。↓ 家康公生誕の地。 祝第6回全国まちゼミサミット。↓ 岡崎市康生通南陸橋。国道1号線が通る。↓ 国道1号線を進む。↓ 東隅櫓。↓ 浄瑠璃姫の供養塔。京都鞍馬寺で修業した牛若丸(源義経)と浄瑠璃姫は、矢作川で出会って恋に落ちた。数日後、牛若丸は奥州平泉に行くために浄瑠璃姫と別れたが、浄瑠璃姫は分かれの悲しみのあまり、川に身を投げて死んでしまった。↓ 徳川家康公生誕の地 岡崎。↓ 岡崎城・大手門。(岡崎公園)↓ 岡崎城中東海道二十七曲がり。東海道を岡崎城下に引き入れ、27曲がりのくねくね道とした。防衛などの目的。↓ 2023 いけばな龍生派屋外展 in 岡崎。
2023.09.13
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2013年9月10日8時半、JR岡崎駅に到着しました。岡崎駅では、「ようこそ、徳川家康公生誕の地 岡崎へ」という紹介案内がありました。また、ゆるキャラグランプリで大変有名になった、岡崎の「オカザえもん」が、自動販売機やソウルフード案内ポスターに描かれていました。この日、10キロ以上のカバンを二つ持ってきており、駅のコインロッカーに入れようと思っていました。ところが、オカザえもんの自動販売機を一生懸命見ているうちに、その横にあったコインロッカーをうっかり見落としてしまい、結局荷物を肩に担いだまま、岡崎城まで歩くことになりました。(今回ブログを書くので写真を見直したところ、写真にコインロッカーが写っていたことに気が付いた次第です)↓ 2023年9月10日 8:30 JR岡崎駅。↓ JR岡崎駅の改札口を出たところ。↓「ようこそ、徳川家康公生誕の地 岡崎へ」 家康公ゆかりの史跡。↓ どうする家康 岡崎。↓ JR岡崎駅前ロータリー。↓ オカザえもん。 ゆるキャラグラプリで全国的に有名になった。岡崎の漢字からデザインされている。(顔の部分は「岡」という漢字でできている)*このオカザえもんのデザインを一生懸命見ていたところ、その横のコインロッカーをうっかり見落としてしまった。ロッカーが無いと思って、重い荷物を持って、岡崎城に向かった。↓ 氏名:オカザえもん。(岡崎衛門之介)生年月日:1972年7月1日生まれ(岡崎市政記念日) 身長:180cm性別:男性格:やさしくて短気血液型:О型(OKAZAKIだから)趣味:ジャズ音楽鑑賞、現代美術鑑賞特技:自己流ダンス好きな食べ物:岡崎まぜめん、八丁味噌を使った料理。作者:斉と公平太備考:奥さんに逃げられ、オカザえもんJr.という4歳の子供もいる。↓ 岡崎市観光案内所。↓ どうする家康 岡崎 大河ドラマ館のポスター。↓ 岡崎に来たなら絶対に食べたい! 岡崎を代表するソウルフード。五平餅、フルーツサンド、いかまんじゅう、くずもちバー、団子、かき氷、↓ からあげ、味噌カツ、岡崎まぜのん、岡崎おうはん、味噌田楽、おでん、もろこしうどん、味噌煮込みうどん、おかざきカレーパン。↓ 岡崎駅前ロータリー。↓ 8時45分。
2023.09.12
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2023年9月10日朝、新幹線で東京から豊橋まで移動し、東海道本線の特別快速・米原行きに乗り換えて岡崎駅まで行きました。豊橋駅から岡崎駅までの風景を紹介します。↓ 豊橋駅の広告。「どうする家康/どこ行く家康」↓ 東海道本線・豊橋駅。↓ 8:09 豊橋駅発 特別快速米原行き。↓ JR東海 313系Y109編成。(豊橋~米原)↓ 車内の様子。↓ 奥に、豊橋鉄道・新豊橋駅が見える。↓ 豊橋鉄道・新豊橋駅。↓ 豊橋鉄道(豊鉄)。 ↓ 豊橋鉄道 新豊橋駅。 豊橋鉄道渥美線は、三河田原駅まで。↓ 名古屋鉄道(名鉄)車両。↓ 名古屋鉄道1000系。↓ 名古屋鉄道1000系。(1806)岐阜行き。↓ 豊川。↓ 豊川放水路。(手前は東海道本線。奥は名鉄名古屋本線)↓ 車内の吊り広告。↓ 遠くに、蒲郡市のラグーナテンボス大観覧車が見えてきた。↓ ラグーナテンボス大観覧車。↓ ラグーナテンボスの施設と三河湾。↓ ラグーナテンボスの施設。↓ 子安弘法大師像。(蒲郡市三谷町南山・金剛寺にある)↓ 画面右は竹島。左は竹島町の森。↓ 三河湾ヒルズホテル。↓ 蒲郡駅近くにある竹本油脂株式会社(ごま油で有名)。↓ 竹本油脂株式会社。↓ 蒲郡駅。↓ 蒲郡駅。↓ 蒲郡駅プラットフォーム。↓ 蒲郡浜町緑地のクレーン群。↓ ボートレース蒲郡 競艇場。↓ 岡崎駅に到着。8時半。↓ 岡崎駅で下車した。↓ 岡崎駅。↓ 岡崎駅改札口
2023.09.11
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2023年1月から、NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ています。それが終わると、TBS日曜劇場「VIVANT」を見る流れでした。「どうする家康」を見ながら、徳川家康の生誕地である岡崎城に行こうと思い、2023年9月10日早朝、新幹線ひかりに乗車し、東京駅から豊橋駅まで移動しました。車窓風景を紹介します。新幹線の車窓は、何度乗って見ても飽きません。↓ 2023年9月10日 東京駅。↓ ひかり631 6時21分発。↓ 東京駅。↓ N700 SUPRAME シュープリーム。↓ N700 A↓ 東京駅を出発。↓ 高輪ゲートウェイ駅付近の開発。↓ 車内販売が近く終了になる予定。↓ 丹沢と富士山。↓ 丹沢。↓ 富士山。↓ 酒匂川。↓ FUJIFILM 富士フィルム小田原工場。↓ 富士川と富士山。↓ 掛川城。↓ 掛川市役所。↓ 大井川。↓ JR東海 浜松工場。↓ 浜名湖。↓ 浜名湖ボートレース。↓ 豊橋駅近く。↓ 豊橋駅。↓ 名鉄車両。↓ 豊橋駅出口。↓ 壺屋。↓ 豊橋駅 東海道腺乗り換え口。
2023.09.10
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2023年4月から、NHK連続テレビ小説「らんまん」で、日本の植物学者・牧野富太郎博士の生涯がドラマとして紹介されています。あいみょんが主題歌「愛の花」を歌っています。2016年9月25日、私は東京都練馬区の「牧野記念庭園」に行ったので、写真を紹介します。昭和33年(1958年)1月18日に、牧野博士は逝去されましたが、東京都は博士の住居跡を「牧野記念庭園」として保存するという意志を、博士の没後わずか3カ月足らずという短期間で表明したそうです。牧野記念庭園に行くと、石碑に牧野博士の有名な「花在ればこそ 吾れも在り」という言葉がありました。記念館では、牧野博士の業績が分かる資料が展示されていました。大泉学園駅から歩いて牧野記念庭園まで行きました。大泉学園駅には、銀河鉄道999のメーテル像もあります。ーーーーーーーーー【東京都練馬区立 牧野記念庭園】 (2016年9月25日の写真)↓ 牧野富太郎博士の胸像。↓ 牧野記念庭園入口。↓ 庭園内。↓ 曼珠沙華。↓ 「花在ればこそ 吾れも在り 牧野富太郎」。↓ 練馬区立牧野記念庭園の紹介。↓ 富太郎命名植物明治22(1889)年、日本で初めての命名植物となった「ヤマトグサ」をはじめ、新種、新品種を含め富太郎による命名植物は1500種類を数えます。富太郎による命名植物は野生植物だけでなく、野菜や花卉なども含まれ、私たちの身近にある植物全てが富太郎の研究対象となっていました。富太郎が「日本の植物分類学の父」と言えるのは、その数だけでなく対象の幅広いことにもよります。↓ 全国踏査地図。富太郎は、沖縄を除く日本の全ての都道府県で植物採集を行いました。採集した植物は、夜を徹してその日のうちに自分で押し葉にしています。長い採集の旅に出た富太郎の自宅には、最終先から大量の押し葉が送られ、届いた押し葉を乾燥させるのが家族の役目でした。富太郎は植物採集に日本のみならず、当時日本の領土であった台湾と満州にも出向いています。こうして生涯で採集された植物標本は約40万枚にもなります。↓ 牧野富太郎博士のパネルと記念撮影。↓ 牧野富太郎博士。↓ 記念館の中。↓ 牧野日本植物図鑑。↓ 大泉学園駅。↓ 大泉学園駅と牧野記念庭園の位置。↓ 銀河鉄道999のメーテル。↓ メーテル。↓ 松本零士氏のサイン(2009年3月8日)有り。↓ メーテル像。↓ 鉄腕アトム像。
2023.09.09
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東京神保町にある、三省堂書店 神保町本店(東京都千代田区神田神保町1-1)ですが、2022年5月8日に営業を終了し、ビルの建て替え工事が始まりました。2022年6月1日からは、ヴィクトリアゴルフ御茶ノ水店があったビル(東京都神田小川町2-5)で、仮店舗として営業されています。2023年8月8日、明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー食堂から景色を眺めていると、三省堂書店神保町本店ビルが解体されて、更地になっているのが見えました。新しいビルが建てられる予定です。休みの日は、用が無ければ神保町、秋葉原を巡って、本を探しています。個人的には東京で一番楽しいエリアです。ーーーーーーーーーーーーー三省堂神保町本店の動きを紹介します。1)2022年3月5日。三省堂書店 神保町本店。ーーーーーーーーーーーーーーー2)2022年5月30日。三省堂書店 神保町本店。「いったん、しおりを挟みます」/建て替えのため一時閉店致します。ーーーーーーーーーー3)2022年7月9日。閉店後の三省堂書店 神保町本店。道路に面した部分は、フェンスが設置されている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー4)2023年8月8日。明治大学駿河台キャンパス、リバティタワー食堂に行く。↓ 明治大学駿河台キャンパス、リバティタワー。↓ 明治大学駿河台キャンパス、リバティタワー食堂から神保町を見る。↓ 三省堂書店 神保町本店が解体され、更地になっている。↓ 工事現場。↓ 建築計画のお知らせ。地上13階、地下0階。完了予定:令和8年1月31日。↓ 三省堂書店 神保町本店(小川町仮店舗)のご案内。ーーーーーーーーーーーーーーーー5)2022年7月9日。三省堂神保町本店の仮店舗。(東京都神田小川町2-5)たてか
2023.09.08
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2023年8月8日、明治大学駿河台キャンパス・リバティタワーの食堂で、ランチを食べました。TV番組で一般の人も利用可能と紹介されていたので、機会があれば行きたいと思っていました。食堂の窓から、都内の景色が一望できます。(スマホで撮影)窓の下の方には、神保町の本屋街があります。その一角にあった三省堂本店ビルですが、建て替え中でビルが取り壊され、更地の状態になっているのが見えました。↓ 食堂からの景色。↓ 中央の更地部分が、三省堂本店の建て替え中の場所。↓ 皇居が見える。↓ (中央)明治大学駿河台キャンパス・リバティタワービル。
2023.09.07
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TV番組で、明治大学駿河台キャンパス・リバティタワービルの学食は、学生だけでなく一般の人も利用可能と紹介されたので、食べに行きました。2023年8月8日の写真です。(スマホ撮影)↓ 明治大学駿河台キャンパス・リバティタワービル。↓ 明治大学。↓ エレベーター。↓ 食堂のメニュー案内。↓ リバティーランチ ロコモコプレート。↓ 食券販売機。↓ 眺めが良い席。↓ 食堂の風景。
2023.09.06
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1983年に創刊された雑誌「Ⅿomoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜きがたくさんあり、河合奈保子さんの北海道での出来事について記載があるページを紹介していきたいと思います。その(4)です。(4)1985年8月の河合奈保子さん。(北海道部分は太字)8月10日、松本文化会館コンサート。2回公演で日帰り。12日は秋田で握手会。同じく日帰り。という具合に、相変わらずのスケジュールをこなし、その合間、11日は、10月3日に発売になる『ラヴェンダー・リップス』のレコーディングもしちゃった。ラヴェンダーといえば、北海道は富良野が有名! その北海道へツアー。15日は久しぶりのお休みをとった。16日は函館でコンサート。コンサートの開演までにはかなり時間があったので、早速、函館見物に。函館山から市内を一望し、立待岬や中華会館を見てまわった。それにしても、こうやって時間があれば見学に出て行くって、ホント奈保子ちゃんらしい。どこに行っても、ホテルと会場の行き来だけで、どの町も同じ・・・って人が多いんだけど・・・ネ。17日は札幌で握手会。旭川まで移動して一泊。18日は士別でコンサート。そしてコンサートのお世話をしてくれた人から、なんとゆでたとうもろこしを100本!差し入れがあった。「取りたてのとうもろこしで、私、大好物だから、2~3本も食べちゃった。おいしかったァ」毛ガニもいっしょにドサッといただいたそうで、そちらの方もみんなで”おいしい、おいしい”とかじりついたとか。19日は、取材を兼ねて、奈保子ちゃんが前から行きたがっていた富良野へ。本当は一面に咲きほこるラヴェンダーを見たかったのだけど、ラヴェンダーの季節は7月末まで。「遅咲きの花が少し咲いていただけで、ちょっと残念でしたね。でも、ラヴェンダーの香りの匂い袋や、絵はがきを買ってきたんですよ」ラヴェンダー畑の真ん中で、『ラヴェンダー・リップス』歌う奈保子ちゃん。いつかきっと見てみたい。東京に戻って21日、『夜のヒットスタジオデラックス』で、髙橋伸明さんと『君は綺麗なままで』をデュエット。テレビではこれが最後ってことだけど、是非もう一度歌って、ていう意見がたくさん寄せられているようだ。果たしてどうなるかは、未定だ。聴けなかった人へ。もう知っていると思うけど、とんがりコーンのCMで流れてるのが『君は綺麗なままで』。NAO & NOBUのNAOは奈保子ちゃんのこと。NOBUは髙橋さんのこと。もちろんシングルも発売になっている。23日はつくば・EXPO’85でコンサート。コンサートの前に、電力館の見学もした。この日のステージが、夏のツアーの最後ということになった。「毎年ツアーをやってきて、最初のころは必死でしたけど、このごろやっと、自分でも楽しみながらできるようになりました。観客のみなさんも一緒に楽しんでくれるっていうのが、とてもうれしいですね」27日、28日にテレビ、ラジオの仕事をして、29日、いよいよロスに向けて成田を出発。帰国は9月20日。ロスからニューヨーク、8000キロを車で横断するというから、おみやげ話が楽しみだね。↓ 河合奈保子さん。↓「Ⅿomoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜き。
2023.09.05
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1983年に創刊された雑誌「Momoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜きがたくさんあり、河合奈保子さんの北海道での出来事について記載があるページを紹介していきたいと思います。*記事の前半に、河合奈保子さんが10曲全部を作曲してできたLPについて記載がありますが、これは1986年10月に発売されたアルバム「Scarlet :スカーレット』です。* 河合奈保子さんの作曲活動が評価され、1986年に河合奈保子さんは「日本作曲家協会」の会員になりました。最年少で、アイドル歌手出身としては初めてです。その(3)です。(3)1986年6月~8月の河合奈保子さん。(北海道部分は太字)(1986年)6月22日チューリップ、23日阿川泰子と久しぶりにコンサートに行ってきた奈保子ちゃん。ガラッと違ったタイプのステージを連続して見ただけに、色々と勉強になったようだ。「阿川泰子さんのコンサートって初めて見たんだけど、とってもオシャレなステージなの。大人の上品さを感じさせる、独特な世界を持っている人ね」これからの奈保子ちゃんのテーマとなる”大人の歌手”というステージに、すっかり感心させられていた。その大人の歌手への第一歩ともいうべきステップが、10月に発売される予定のLP作り。全曲彼女自身の作曲によるもので構成されているが、そのレコーディングが25日から30日まで、神奈川県の観音崎にあるマリン・スタジオに合宿して行われた。午後の2時頃から夜中の12時までびっちりとスタジオにかん詰めになって吹き込みに没頭したが、他の仕事は一切入れないでレコーディングに専念しただけに、今は成し遂げた充実感に表情は満ちあふれている。今回のLPは売野雅勇さんのプロデュースによるもので、様々なキャラクターづけされた10人の女性が1曲1曲の主人公というコンセプトがある。「一人一人の女性が、性格から血液型、家族構成、仕事と決め細かく説明されていて、そしてこの曲は朝の歌、これは夜の歌という具合に、1曲ずつに物語があるのね。だからイメージがすぐに湧くからとっても歌いやすかった」朝起きて目の前の静かな海を見に行ったり、潮騒を聞きながらまどろんだり、申し分のない環境でLP作りに全力投球。10月に発売される日を楽しみに待とう。7月4日から大阪、名古屋、高山、苅谷と地方へ行ってきた。高山では雨に降られたが、古い町並みが続く市内を車で通りながらチョッピリ観光気分も。「雨にけむる高山もいいものよ」なんて言ってたけど、負け惜しみかな。11日から2泊3日で今度は北海道へ。1度は実現させたいといっていた幼なじみのОちゃんと、二人だけの旅行を楽しみに行ってきた。取材もあったが、プライベートを優先にということで大いにフリーな気分を味わう。「Оとは本当になんでも話し合える親友だから、話してもつきない事がいっぱい。夜なんかほとんど寝ないで話し込んじゃった」親友との変わらぬ友情をあたためた。14日からよみうりランド・イーストのコンサート・リハーサルがスタートした。今年で4回目になるイーストのステージ。毎年1年の総決算ともいうべき意気込みで、本人もスタッフもこのコンサートに賭けているだけに演出が年々大がかりになっていく。と同時に24日は奈保子ちゃんの誕生日でもある。23歳の心境は?「無理に背のびしないで、自然に変わっていけばいいんじゃないかなあ」と話しているが、まわりのスタッフ、テレビ、ラジオ、記者諸氏は”彼女はデビューしてから全然変わらない”というのが共通の言葉。うん、たしかにそうだ。スタッフへの接し方はデビュー以来いつも謙虚で礼儀正しい。奈保子スマイルが人気あるのがうなずける。8月5日には横須賀文化会館でコンサート。今年の夏のステージはこの2か所で終わり。あとはヨーロッパへLP用のプロモーションビデオを撮りに行ってしまう。ノルウェーをはじめ北ヨーロッパをロケするというので、奈保子ちゃんは大いに楽しみにしている。↓河合奈保子さん。↓「Momoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜き。
2023.09.04
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1983年に創刊された雑誌「Momoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜きがあり、河合奈保子さんの北海道での出来事について記載があるページを紹介していきたいと思います。その(2)です。2)1984年8月~9月の河合奈保子さん。(北海道部分は太字)8月5日、名古屋城の野外コンサート。どこも暑かったけど、名古屋もとにかく暑かった。どんなに暑かったかっていうと、こうもりが飛び出すくらい!ホントにあの黒いこうもりが飛んできたんだ。奈保子ちゃんは夢中でわからなかったけど、後で聞いてギョッ!。8日の朝、大阪から帰って、10日まで正真正銘の夏休み。だから、久し振りに片づけしたり、家での~んびり過ごした。10日は「インディージョーンズ」を見に行った。奈保子ちゃんにとって大ヒットで、2時間もアッという間。さすがスピルバーグでした。8月11日からは九州ツアー。11日は大分、12日は福岡、13日は佐世保と、連日ステージをこなしてきた。九州では、福岡で食べたキャベツがおいしかったとか。別にキャベツを食べに行ったんじゃないんだよ。焼き鳥屋さんで出てくる、ちぎったキャベツ。おかわり自由で、特製のタレをつけて食べるんだけど、これがサイコーだったのだ。九州のあとは北海道。8月16日の稚内と、17日の名寄。ここで間違いがおこった。名寄といえば北のはずれ。街の中を走る車もホテルも、クーラーなんか必要ないからついていない、ほどの土地柄。ところが、異常な暑さはここにもやってきていた。ほとんど東京と同じ暑さ。忠告を守って、冬物をどっさり持っていった奈保子ちゃん。得意の笑顔もどこへやら。ステージのあい間に、北のはずれの丘に登り、宗谷岬を眺め、あの『南極物語』のタロ、ジロに対面してきたのが、せめてものなぐさめになったかナ?18日は仙台の青葉城でのコンサート。特設の野外ステージで、初めての試み。そのせいか、思わぬハプニング。青葉城といえば森の中のお城。森の中から蚊や虫の大軍が飛んできたから大あわて。途中で大量の殺虫剤をまきながらなんとか・・・。ところで、サマー・コンサートの疲れが出たのか、9月6日に急性気管支炎のため入院。でも4日間の入院で元気回復後、秋の音楽祭へ向けてスパート。↓河合奈保子さん。↓「Momoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜き。
2023.09.03
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1983年に創刊された雑誌「Momoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜きがたくさんあり、河合奈保子さんの北海道での出来事について記載があるページを紹介していきたいと思います。その(1)です。1)1984年6月~1984年8月の河合奈保子さん。(北海道部分は太字)(1984年)6月28日の厚生年金ホールで、全国40カ所のコンサートツアーの幕を閉じた。反応が心配された北海道、23日の北見、24日の釧路も、総立ちの大盛況で、ほんとヨカッタ!おつかれさま。で、40カ所もまわってしまう力がどこから出てくるのか?それは、あの素直な性格と旺盛な食欲からなのだと思う。北見では、地元の業者の人が、カニをビックリするくらいたくさん持ってきてくれた。ちょっと時期はずれだったのが残念だけど、それでもじゅうぶんおいしい。それを、植木ばさみを使ってバキバキ割って食べた。奈保子ちゃんはじめスタッフ一同、いやになるほど食べたとか。(ゴックン)それだけでは終わらない。次の釧路でも、じゃがいものおだんごのけんちん汁(これが安くてたっぷりでおいしくて、サイコーだって)、ほっけ、アスパラ、とうもろこし、やきとり・・・etc。その上、いくらやカニのお土産もどっさりいただいて。これらが奈保子ちゃんの活力となって夏のコンサート”サマースペシャル’84”も大成功まちがいナシ!6月27日には水泳大会に参加。(大磯)ロングビーチマラソンでは(松本)伊代ちゃんと組んで、(石川)秀美ちゃん、(堀)ちえみちゃんチームにちゃっかり引っぱってもらって4位。特別賞でバックのセットを獲得してしまった。7月3日。MBSのヤンタンの初日。毎週火曜日の10時から1時までの生番組をレギュラーでやってるんだ。7月12日から21日まで、合歓(ねむ)の郷で、(石川)秀美ちゃんと合同のコンサート合宿。”サマースペシャル84”は、7月24日のよみうりランドオープンシアター・イーストを皮切りに、8月2日の宇都宮まで14か所。屋外が、イーストをはじめ、29日の大阪城、8月5日の名古屋城、同18日の青葉城の4か所。8月28日には、ロスでのLP『DAYDEAM COAST :デイドリームコースト』が、9月1日には、作詞・売野雅勇のニューシングル『唇のプライバシー』が出る。↓ 河合奈保子さん。「Momoko」の「IDOL放送局」切り抜き。
2023.09.02
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「奈保子しんぶん Vol.31 昭和60年(1985年)9月発行/芸映プロダクション・芸映友の会・河合奈保子FC編集部」に、河合奈保子さんが北海道・富良野を訪れた印象や、自分で撮影した富良野の風景写真が掲載されていました。少し紹介します。Q)最近嬉しかったことを教えてください。A)やっぱり雑誌の取材で、念願の北海道・富良野へ行けたことがいちばん嬉しかったー!でも8月に行ったので、時期がはずれて花が咲いてなかったことが残念でしたけれど。7月の半ばから下旬がいちばんいいんですってね。7月最後の日曜日に行なわれるラベンダー祭りが終わると、いっせいに刈り取っちゃうんです。だから行ったときはラベンダーは見れなかったけれど、あぶら菜や黄色い花が咲いててきれいでした。なだらかな丘がずーっと続く風景もすばらしかった。あれはなかなか見れないもんじゃないかなって思いました。夜は星がきれいで、車に乗っていながらも、なんと流れ星を2つも見れたんです! 小さい星までもくっきりとたくさん浮かんでいて、「うわーっ、さすが北海道だなー!」って感動してたら、地方の方が、これでも今日は、見れないほうです、ておっしゃって・・・。そのとき、いかに東京って星が見えない所かとういうことを実感しました。夢に見ていた富良野・・・。思ったとおりの場所でした・・・。次に行くときは、お友達とワイワイしながら行きたいです。↓「奈保子しんぶん Vol.31 昭和60年(1985年)9月発行/芸映プロダクション・芸映友の会・河合奈保子FC編集部」↓富良野で写真を撮る奈保子さん。↓ 奈保子さんが撮影した富良野の風景。↓「奈保子しんぶん Vol.31 昭和60年(1985年)9月発行/芸映プロダクション・芸映友の会・河合奈保子FC編集部」↓ 富良野の記事がある。↓ 河合奈保子さん。
2023.09.01
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1984年6月21日、「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」で、河合奈保子さんのドッキリが紹介されました。北海道・札幌市でのドッキリでしたが、番組でVTRが紹介された後、奈保子さんは17枚目の新曲「コントロール」を歌いました。「コントロール」は作詞:売野雅勇さん、作曲:八神純子さんで、1984年6月1日にリリースされました。メロディラインが八神純子テイストで、奈保子さんの歌声と振付、そして黒い衣装がピッタリです。私は八神純子さんと河合奈保子さんの大ファンで、先日も八神純子さんのコンサートに行きました。サイン会で純子さんに「純子さんと奈保子さんのファンで、純子さんが奈保子さんに提供した歌を聴いています」というと、純子さんがすぐに「コントロール」と笑顔で言われました。シングル曲「コントロール」のB面は、八神純子さんの「夏の日の恋」で、奈保子さんが歌っています。シングルと同時にアルバム「Summer Delocacy (サマーデリカシー」が発売され、A面5曲は全て純子さんの提供曲で、「太陽の下のストレンジャー」「街角」「夏の日の恋」「My Boy」「幻の夏」と続きます。純子さんと奈保子さんが融合したようなゴキゲンな曲です。↓ 「コントロール」を番組で歌う奈保子さん。↓ ドッキリの再現シーン。 奈保子さんが涙を流し続けた。
2023.08.31
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1984年6月21日、「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」があり、河合奈保子さんのドッキリが紹介されました。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(5)です。河合奈保子さんが北海道・札幌の宮の森ガーデンでジンギスカン料理を食べていると、ファンの集いに参加した怪しい男性が、奈保子さんにプレゼントした子羊をさばくので食べようと言い出しました。先ほどまで「メリー」と呼んで触っていた羊が肉にされるという事で、「いいです!」と何度も奈保子さんが止めさせようとしました。奥の調理部屋では、子羊につけていたリボンを肉の皿に付け替えて、奈保子さんの前に持っていきました。謎の男が、肉がぴくぴくしているとか言い、奈保子さんは涙が止まりませんでした。結局、松岡レポーターが「ドッキリ」を宣言し、「大成功」となりました。↓ 可愛いと触っていた羊が急遽さばかれることになり、驚く奈保子さん。↓ 店の奥で、羊のリボンを肉の皿に付け替える。↓ 「丁度良い肉だな。まだ骨がついているな」と生々しく言う謎の男。↓ 謎の男性が「肉がまだ動いている」と言った。↓ ショックで何もいう事ができない奈保子さん。↓ 涙ぐむ奈保子さん。↓ とめどなく涙がこぼれる奈保子さん。↓ その後、松岡レポーター登場。↓ ドッキリに気が付く奈保子さん。↓ ドッキリ大成功。
2023.08.30
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1984年6月21日。「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」があり、河合奈保子さんのドッキリが紹介されました。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(4)です。河合奈保子さんは北海道・札幌・東急百貨店の「ファンの集い」を行った後、宮の森ガーデンで食事をしました。食事でジンギスカン料理を食べている時、怪しい男性が日本コロムビアの方の紹介という事で、奈保子さんのテーブルに座りました。その男性は「ファンの集い」で大きな箱を奈保子さんにプレゼントしたと話したので、奈保子さんはその事を思い出しました。男性は、箱の中には自分の牧場で育てた子羊を入れていたと言い、スタッフの方と一緒に、箱の中に入っていた子羊を持ってきました。奈保子さんは子羊の名前(メリー)と呼びながら、持って帰ろうか迷っていましたが、やはり東京の自宅には犬がいるので、羊は持って帰れないと奈保子さんが言うと、男性が子羊をおろして、肉にして食べようと提案しました。ビックリした奈保子さんは、「いいです!いいです!」と言って何度も断ろうとしました。↓ 北海道・札幌 宮の森ガーデンで、ジンギスカン料理を食べる河合奈保子さん。先ほどの男が登場。↓ 男性は、日本コロムビアの方の紹介で来たと挨拶した。↓ 挨拶をしながらもジャガイモをむさぼる奈保子さん。↓ ジャガイモを食べる奈保子さん。↓ 「肉をもっと食べてくださいよ。ここは僕のサインで全部できますから」と気前の良いことを言う謎の男性。↓ どんどん食べる奈保子さん。↓「さっき私が会場に行っていたの、わかりましたか? 大きなプレゼントを持っていった」と謎の男性が言った。↓「ああっ、どうも」と言って、やっと男性が会場の客だと分かった奈保子さん。奈保子さんが「あの大きな箱の中身は?」と聞いた。↓ 男性は「奈保子ちゃんが動物が好きだという事で、うちの牧場にいた羊を箱に入れた」と言った。↓ 「ええっ! 中身は羊なんですか?」と驚く奈保子さん。↓ 「羊は好きか」と聞かれ、「好きです」と答える奈保子さん。↓ プレゼントの羊を持ってくるため、スタッフの方と謎の男性が席を空けた。男性の素性を不審がる奈保子さん。↓「奈保子ちゃんに持って帰ってもらおうと思った」と言って羊を持って来た怪しい男性。↓ 可愛い子羊。↓ 羊にお手をさせる奈保子さん。↓「メリー」と名を呼ぶ、動物好きの奈保子さん。↓ 「奈保子ちゃんのレコードも、びっちり集めているんですよね」と自分を売り込む謎の男。↓ 男性が「新曲の『コントロール』。それからその前の『ロックンルージュ』とかね」と言ったが、「『ロックンルージュ』は聖子ちゃん」と奈保子さんが訂正した。↓ 「家に犬がいるんですよ。(羊は)どうしようかな」と悩む奈保子さん。↓「(うちに)来る? メリー」と羊に声をかけた奈保子さん。↓男性が「羊を食っちゃうかい?」と言った。↓ 男性が店の人を読んで「羊をおろしてよ」と言った。↓「いいです! いいです!」と言って、必死に止めようとする奈保子さん。↓「大丈夫ですよ!」と必死の奈保子さん。
2023.08.29
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1984年6月21日、「スターどっきり㊙(まるひ)報告」があり、河合奈保子さんのドッキリが紹介されました。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(3)です。河合奈保子さんは北海道・札幌の東急百貨店屋上での「ファンの集い」終了後、宮の森ガーデンで食事をしました。お腹が空いていた奈保子さんは、ジンギスカン料理を夢中で食べます。奈保子さんはいつも自然体で、そこが魅力なのだろうと思います。↓ 宮の森ガーデンでジンギスカン料理を食べる奈保子さん。
2023.08.28
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1984年6月21日、「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」があり、河合奈保子さんのドッキリが紹介されました。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(2)です。奈保子さんは北海道・札幌の東急百貨店屋上でファンの集いがあり、新曲「コントロール」を歌います。「コントロール」は八神純子さんが奈保子さんのために作って提供した歌です。歌った後に握手会がありましたが、仕掛け人の男性が、大きなプレゼントの箱を渡しました。(この箱の中に、実は生きた羊が入っているという設定です)↓ 1984年6月21日放送「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」。河合奈保子 北海道名物 ヒツジの生き造り哀れな仔羊に大号泣!↓ 北海道札幌市。 松岡まことレポーター。↓ 時計台。↓ ポプラ並木。↓ デビュー5周年記念「河合奈保子ファンの集い 本日午後2時から 東急百貨店屋上」↓ 東急百貨店屋上の河合奈保子さん。新曲「コントロール」のポスター。↓ 地元テレビ局の取材で熱唱する河合奈保子さん。↓ なにやらあやしげな男。(ドッキリ仕掛け人)↓ 怪しい男が河合奈保子さんに花をプレゼントする。↓ 巨大なプレゼント攻勢をかける男。↓ 巨大なプレゼント箱を渡す男。↓ 次のファンと握手する河合奈保子さん。↓ ファンからプレゼントを渡され喜ぶ奈保子さん。↓ ファンにお礼を言う奈保子さん。↓ さていよいよワナが!!
2023.08.27
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1984年6月21日の「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」で、河合奈保子さんが出演されました。番組側が仕掛けを準備して、スターをドッキリさせるという番組で、奈保子さんが北海道・札幌に行ったときに撮影された映像が放送されました。当時のキャップは露木茂さん、レポーターは松岡まことさんでした。この時のドッキリですが、プレゼントでもらった羊を食べるという提案があり、奈保子さんが泣いてしまいます。(流れは次の通り)・北海道でのサイン会で、奈保子さんが男性から変なプレゼントを受け取る。・サイン会が終了後、奈保子さんが食事をしていると、例の男性が現れた。その人がプレゼントした箱の中には、生きた羊が入っていた。・奈保子さんはこの羊を東京に持って帰られない。すると男性がその場で、羊を肉にして、ジンギスカンで食べようと提案した。それを聞いて、奈保子さんの目から涙がポロポロ。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(1)です。↓ 1984年6月21日「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」に出演した河合奈保子さん。↓ 河合奈保子さんと、レポーターの松岡まことさん。「こんにちは」と挨拶する奈保子さん。↓ 松岡レポーターから、「奈保子ちゃんは本当に動物が好きなのね!」と言われる。↓「好きです」と答える奈保子さん。↓ 松岡レポーター:「最初奈保子ちゃんは(プレゼントされた)羊を(東京に)連れて帰ろうとしたんですよね」↓「こんなに羊が大きくなることも知らないでね」」↓「アハハッ。持ち帰られる物ならば(持ち帰りたかった)」と奈保子さん。↓ 松岡レポーターから「食べてた肉は美味しかったですか?」と聞かれた。↓「食べてた方ですか?」↓「もう、すごいお腹が空いていたんですよ、その時」↓「もう恥ずかしいくらい、いっぱい食べてて」↓ 松岡レポーターが「奈保子ちゃんの食欲も見ものなんです」と言った。↓ 恥ずかしがる奈保子さん。↓ 松岡レポーター:「カメラに向かって一言お願いします。どうぞ」↓ 河合奈保子さん:「VTRスタート!」
2023.08.26
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河合奈保子さんが冬の北海道で取材を受けました。(月刊平凡 1982年3月号切り抜き)河合奈保子 雪の精雪のホワイト・ボードに”ラブレター”の文字永遠に残したい5つのカタカナ列車にかき消されてもナオコがかいた文字は永遠に残されるだろう今日一日は雪の精。グレーのコート。金ラメのブーツに身を包んだ奈保子。すっぽりと雪化粧された真冬の北海道の原野、零下10度のもとで撮影を開始した。春、初夏、秋と一番陽気がいい時しか北海道を訪れたことがないという奈保子も、真冬の厳しくつき刺すような北海道の自然の驚異にただただ驚くばかり。透き通るような奈保子の肌も、ときおり猛威をふるう吹雪にうたれ、顔の筋肉が硬直していくさまが、自然の偉大さに怖ささえ感じる。30分という短い時間の中で、ファンタジックな写真に挑戦した奈保子、写真のあがりをみた時、”奈保子じゃないみたい!! でも、パネルにしたら素敵でしょうね” ちょっぴり背伸びをした雪の精。奈保子はいかがかな。でも、奈保子は”ナハハ”が一番とおっしゃるファンの皆さん、来月はオーストラリアで楽しい写真を紹介します。楽しみにしてくださいネ。 (協力:マッシュネロ・ハウス、撮影:小堀篤信氏)↓ 雪の精のように美しい河合奈保子さん。
2023.08.25
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河合奈保子さんが北海道・富良野で取材を受けた雑誌切り抜きがあったので、紹介します。1985年夏の奈保子さんです。富良野でゆっくりされています。河合奈保子さん:北海道富良野より愛をこめて・・・ (記事の一部)もう1年以上奈保子が「富良野に行きたいよー。いっしょに行こうよー」と言い続けてた。チャンスができた。1日だけ富良野で、取材の時間が出たのだった。1985年10月3日に出る新曲はなんと「ラヴェンダー・リップス」という。不思議な偶然の一致。11月23日、24日は、東京・芝郵便貯金ホールで恒例となった秋のリサイタルをやる。そして、先日行ってきたばかりのロサンゼルス録音LPと、アメリカ横断して撮影されたビデオが年末までに発売される予定だ。無邪気の天才も、立派に成長しているのです。↓ 北海道・富良野の河合奈保子さん。
2023.08.24
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今年はお盆に山口県の田舎に帰ろうと、新幹線のチケットを予約していましたが、台風の影響で帰省を諦め、チケットの払い戻しをしてもらいました。休みは毎日ウォーキングをして、夜に家に帰ってきた後、シャワーを浴びて妻と晩御飯を食べる生活でした。2023年8月12日もウォーキングをして帰り、夕食をとっていると、テレビで「ダウンタウン vs Z世代」という番組がありました。柏原芳恵さんが紹介されていたので、河合奈保子さんも紹介があるかなと思っていましたが、全然でてきません。諦めてご飯を食べていると、いきなり河合奈保子さんが「けんかをやめて」を歌う姿が紹介されました。手元にカメラが無かったので、スマホで備忘として撮影しました。奈保子さんの映像は何度見ても良いです。品のある奈保子さんでした。↓ けんかをやめてを歌う河合奈保子さん。
2023.08.23
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1986年8月9日から8月21日まで、自転車で北海度を旅行しました。広島、東京、上野、青森、函館、大沼、長万部、洞爺湖、オロフレ峠、登別、岩見沢、網走、能取湖、サロマ湖、小清水原生花園、斜里、宇登呂、カムイワッカの滝、知床峠、屈斜路湖、摩周湖、美幌峠、美幌、北見、上川、層雲峡、旭川、富良野、札幌、千歳、広島。当時はスマホなど便利なものが無く、持参した地図帳で自分の位置を確認し、旅先で出会った人たちと情報交換をするのが重要でした。サイクリスト達から、このルートは景色が良いとか、このルートはきついし危ないので避けた方が良いとか、生の情報を聞くと、参考になりました。旅で知り合った方々とは、住所・氏名情報を交換し、後日、手紙を書いて焼き増しした写真を付けて送ったりしました。先方から地場の名産品を頂くことがあり、私からは広島のもみじ饅頭を送っていました。北海道で知り合った人から、自転車旅行で広島に来たので、今日宿泊させてほしいと急に電話があったことがありました。夕方だったのですが、母親に話すと、料理と蒲団の用意をすると言ってくれたので、2人のサイクリストを迎えに行き、家で食事会をし、寝てもらいました。その後、東北で知り合った方も、うちの家に泊まられたことがあります。当時はフィルムカメラで撮影していましたが、フィルムがちゃんとセットされておらず、写真が撮られていなかったこともありました。北海道旅行で撮影されていなかった時期があり、本当に残念でした。今ならデジカメやアイフォンで簡単に写真が確認できるので、良い時代になりました。自転車がパンクしても緊急対応できるよう、旅行前に練習しました。修理用具も持参して旅をしました。旅行中は、広島の両親が心配するので、時々電話して、現在地や見た事をを手短に伝えました。電話料金が高く、電話ボックスがあれば、1分程度話しただけで電話を切りました。テレフォンカードを買って使用しました。今ならラインで簡単です。昔はコンビニなど便利な店は無かったので、大きな町で飲み物を買って自転車旅行をしていました。何十キロ走っても、店が全然ないという事は普通でした。函館駅の電話ボックスで電話をした後、長万部に向かいました。ところが途中の大沼で、函館駅の電話ボックスの棚に、ノートを置き忘れたのに気が付きました。ノートには、広島から函館までの記録と、観光地のスタンプを押していました。大沼駅の電話ボックスから函館駅に電話して、ノートについて相談しました。函館駅の駅員さんは、探してみると言われました。北海道旅行から帰り、数日後、私の家に郵便物が届き、中にはノートが入っていたのでビックリしました。函館駅の方に、お礼の手紙ともみじ饅頭を送りました。今回ブログをまとめるにあたり、函館までの記録と記念スタンプを紹介できたのは、そのノートがあったおかげです。函館駅の方に感謝します。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 北海道のお土産。ステッカー (PRODUCED BY MATSUHIRO CO.,LTD.)このデザインの旗も購入し、自転車に付けて北海道を走った。↓ カードケース(PRODUCED BY SAPPORO MATSUHIRO CO.,LTD.)↓ 愛国から幸福へ (釧路鉄道管理局)当時、愛国駅、幸福駅に行くと、幸せになれると言われていた。↓ 国鉄の「青春18きっぷ」 旅行中に参考にした本。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。北海道旅行の観光地情報は、この本と、地元のパンフレットを読んで知った。↓ コンパニオン 道路地図帖 北海道編 /ワラヂヤ。この青い地図帖を持って、北海道を旅した。見やすくて、とても重宝した。北海道編は青色、東北編は黄色で、表紙が目立った。↓ 北海道グーンとワイドカタログ/アウトドア研究会/大和出版ーーーーーーーーーーーーー↓ 私が学生時代に作っていた冊子。(6冊目:北海道旅行特集)WINDOW SHOPPING VOL.6 1986年8月9日~8月21日忙しくなり、残念ながらこの6号冊子だけが、未完となってしまった。↓ 表紙は、私と自転車の絵を描こうとしていた。下描きだけ。↓ 1986年8月9日、上野駅の改札で切符を切ってもらう姿のメモ。分解型自転車が入った袋を左肩に掛け、背中、右肩にも荷物を一杯掛けている。ーーーーーーーーーーーーー↓ 1986年8月9日~10日、上野駅から青森駅まで、深夜急行「八甲田号」に乗車した。満席で、仕方がないので通路や席の足元の空間に、新聞紙や雑誌を敷いて座った。周りの人と仲良くなり、飲み食いしながら色々な話をした。列車内は冷房が効きすぎ、お腹を壊して何度もトイレに行く人がいた。皆が身体を寄せて通路を空けた。(下書き)上野21時14分発、青森9時10分着 東北本線 深夜特急「八甲田」にて。↓ お腹を壊して、何度もトイレに行く人。ーーーーーーーーーー1986年8月12日、サイクリストの人と知り合い、洞爺湖で一緒に花火大会を見た。洞爺湖火山科学館で自転車を置いて、2人が寝る用意をしていたが、バイクで旅行中の3人が一緒に寝たいと言ってきた。夜に私達が話をしていると、バイクの人たちが「うるさいから眠れない」と言いだし、喧嘩になりそうになった。結局私達が外に出て、知り合った人が設置したテントの中で寝る事になった。(下書き)ーーーーーーーーーーーーーー1986年9月13日、登別でクマ牧場に行き、ユーカラの里を見学した。そこで大阪から遊びに来ていた3人の女性達と会い、色々な話をした。印象に残っていたので、マンガに描こうと思った。(下書き)ーーーーーーーーーーーーーー1986年8月13日、登別の地獄谷で知り合った2人と一緒に、登別・第一滝本館に行った。1500円で温泉に入った。中にはウォータースライダーもあり、皆で遊んだ。夜は登別駅で、サイクリストなど皆で集まって、パーティーをした。旅の話を色々聞くことができて、とても楽しかった。(下書き)ーーーーーーーーーーーーーーー1986年8月15日、網走駅で分解型自転車を組み立てていると、色々な人から声を掛けられた。北海度を電車とバスで旅しているという女性と話をした。とても笑顔の可愛らしい人だった。「またお会い出来たらいいですね」と言って別れた。北海道は広いので、もう会う事は無いと思った。自転車で能取湖、サロマ湖まで行き、再び網走駅に戻った後、斜里駅まで走った。途中の小清水原生花園に行ったとき、「こんにちは」と声を掛けられ、見ると網走で朝に会った女性だった。私の麦わら帽子を見て気が付いたとの事。原生花園とオホーツクの夕日を見ながら、色々な話をした。ここで別れたのが、本当の別れになったが、私の中ではとても印象深いエピソードだったので、描こうとした。(下書き)ーーーーーーーーーーーーー1986年8月17日、斜里駅から自転車で野上峠を越えて、川湯温泉に着いた。その後、自転車で「屈斜路湖」まで走った。上りはきつかったが、キラキラ輝く湖面が見えてきたときは感動した。この日夕方には、屈斜路湖から美幌峠まで自転車で進んだが、股ずれ、尻ずれで激痛が酷く、再び屈斜路湖に戻った。知り合った人と和琴温泉で温泉に入り、患部をマッサージした。二人ずつに分かれてコテージに入ることにした。私はすぐ寝たが、夜中に起きると、隣にいた人の姿が無かった。びっくりして隣のコテージに行くと、その人がいた。私のイビキがあまりにもうるさく、寝られないので移ったとの事であった。(下書き)ーーーーーーーーーーーーー下書きさえも描いていないページが沢山あった。下は、昭和新山やオロフレ峠の事を描こうとして、途中で止まっている。↓ 下は雑紙に速記したもの。網走駅にて。↓ 網走駅にて。↓ 年賀状の一部。摩周湖。 プリントゴッコで印刷。ーーーーーーーーーーーーーーー「ひろしまフラワーフェスティバル」(1986年5月3日~5日)ノート。このノートに広島から函館まで、メモや記念スタンプを押していた。函館駅の電話ボックスの棚に、ノートを置き忘れてしまった。大沼駅で気が付き、函館駅に電話して相談すると、探してみるとの返事を頂いた。旅から戻った後、ノートの入った袋が広島の実家に届いた。函館駅の方から送られたもので、本当に感謝した。これが無いと、最初の頃の事が想い出せなかった。↓ 広島平和大通りのパレード会場。↓ ノートに私の住所と氏名を書いていた。ーーーーーーーーーーーーー↓ ノートを函館駅で忘れたのに気が付いた後、広島銀行のメモ帳に、旅のメモを書いて記念スタンプを押した。広島銀行のメモ帳↓ 今は無き、広島市民球場が写っている。↓ 記念スタンプを押していった。
2023.08.22
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)13日目は札幌駅から千歳駅まで、青春18きっぷで移動し、全日空の飛行機で広島に帰りました。ーーーーーーーーーーーー【13日目 : 1986年8月21日(水)】最終日・前夜は札幌駅前で野宿した。朝起きて、Yさんと記念撮影をして別れた。袋に入れた分解自転車を札幌駅の貨物取扱所に持っていき、広島駅まで送付依頼をした。・5枚目の「青春18きっぷ」を使い、札幌駅から千歳駅まで移動した。千年では、千歳川に設置されたインディアン水車を見た。インディアンの捕獲方法を参考にして、千歳川を上ってくる鮭を捕まえる装置。・千歳空港で、全日空272便(札幌15:05→広島17:10)に搭乗した。機窓から日本アルプスが見えたが、どの山か分からなかった。・家に帰ると母親から、汚くて臭いので、服を全部脱いで、すぐに風呂に入れとの指示が出た。屈斜路湖のコテージに1泊した以外は、全て野宿だったので、久しぶりの蒲団が懐かしかった。・次の日から、アルバイトを再会した。ーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 北海道南部より↓ 1986年8月21日朝、札幌駅前でYさんと記念撮影。右側の青い袋は、分解型自転車の入った袋。↓ 北海度21世紀博覧会のポスター。私は1986年8月14日に、岩見沢の会場で見た。↓ 国鉄の青春18きっぷ。1986年8月13日に登別駅で、1万円で購入した。5枚綴り。↓ 青春18きっぷ。5枚つづりで、最後の5枚目を1986年8月21日に使用した。札幌駅→千歳駅。↓ 千歳川。↓ インディア水車。千歳川に設置して、上ってくる鮭を捕獲する水車。インディアンのやりかたをヒントに、明治29年から使用された。↓ 千歳駅。↓ 全日空時刻表。↓ 広島行きの便。↓ 札幌→広島 全日空272便(札幌15:05→広島17:10)に搭乗。↓ 搭乗券。↓ 空港で買い物をした。 全日空商事の袋。↓ 全日空スカイホリデーのパンフレット。旅重ねて15年 全日空スカイホリデー でっかいどお北海道 期間:昭和61年1986年)4月~11月。
2023.08.21
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)12日目は鉄道で、富良野駅から札幌駅に移動しました。札幌市内を観光し、夜はサッポロビール園でビールとジンギスカンを頂きました。夜は札幌駅前で野宿しました。ーーーーーーーーーーーーーーーーー【12日目 : 1986年8月20日(火)】・富良野駅近くで野宿をした後、輪行で札幌駅まで移動した。・札幌駅で、サイクリストのYさんと知り合った。一緒に道庁赤レンガ庁舎や時計台を見学した。夜にサッポロビール園で落ち合うことにし、いったん別れた。私は北海道大学構内や、札幌の街を散歩した。・夜にサッポロビール園でYさんと再び会い、一緒にビールとジンギスカンを腹いっぱい頂いた。・札幌駅構内は深夜になるとシャッターが閉まったので、札幌駅近くでYさんと一緒に寝袋で野宿した。二人で旅の楽しい話をして、とても楽しかった。ーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 北海道南部より富良野、札幌の位置。↓ 1986年8月20日。北海道庁旧本庁舎(赤レンガ庁舎)にて。サイクリストのYさんと知り合い、記念撮影。ーーーーーーーーーーーーー↓ 時計台 (旧札幌農学校演舞場:札幌歴史館)ーーーーーーーーーーーーー↓ 北海道大学構内にあるクラーク像。ーーーーーーーーーー↓ 夜にYさんと落ち合い、サッポロビール園で腹いっぱいビールを飲み、ジンギスカンを食べた。ーーーーーーーーーーーーー夜の札幌市内。 テレビ塔と噴水。自転車で札幌市内をゆっくり走った。↓ 観光案内所でいただいた、札幌タウンマップ。↓ さっぽろ東急のブックストーキューチラシ。
2023.08.20
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)11日目ですが、上川駅から層雲峡まで自転車で走りました。流星の滝、銀河の滝などを見た後、再び上川駅に戻り、自転車を分解して輪行しました。鉄道で旭川駅に移動し、駅前を散策した後、鉄道で富良野駅に行きました。ふらのワインハウス、北海道のへそ中心標、TVドラマ「北の国から」の舞台となった麓郷を散策し、富良野駅で野宿しました。ーーーーーーーーーーーーーーーーー【11日目 : 1986年8月19日(月)】・前夜、上川駅近くで野宿をした。8月19日朝、分解型自転車を組み立てて、状態をチェックした。前日、自転車のペダルとクランクが外れなくなってしまい、美幌駅近くの自転車屋に見ていただいた。店の方からは、再び自転車が壊れる可能性があるので、家に帰るまで乗らない方が良いと言われたが、上川駅から層雲峡の観光地まで片道20キロはあるので、だましだまし、自転車で走ることにした。・層雲峡温泉で旅行中の人と知り合い、流星の滝、銀河の滝を一緒に見た。自転車で再び上川駅に戻った。ここで自転車を分解し、輪行をした。・鉄道で上川駅から旭川駅に移動した。朝から何も食べていなかったので、駅弁を購入して食べた。旭川駅近くを散歩した。・旭川駅から鉄道で富良野駅に進んだ。富良野駅で自転車を組み立てた。「清水山グリーンランド」が富良野駅から3キロ先にあり、そこにある「ふらのワインハウス」に寄った。ガイドブックに「牛肉と名物のワインが味わえる」と書いてあったので、ぜひ食べてみたかった。とても美味しかった。・富良野小学校の校庭にある「北海道のへそ中心標」を見た。北海道のど真ん中に当たる場所。・テレビドラマ「北の国から」のロケ地である麓郷を少し見て、富良野駅近くで野宿した。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 (北海道北部)上川駅、層雲峡、旭川駅の位置。↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 (北海道東部)層雲峡、旭川駅、富良野駅の位置。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社 昭和61年(1986年)5月 第4刷発行 p79↓ 北川駅の記念スタンプ。↓ 自転車で上川駅から層雲峡まで走った。↓ 層雲峡温泉で記念撮影。↓ 流星の滝で、知り合った人と記念撮影。↓ 銀河の滝にて。私の自転車も一緒に。↓ 柱状節理の大絶壁が続く。↓ 自転車で層雲峡を走る。↓ 大雪山の山々が、手前の山稜の上に、頭の部分だけ少し見えた。ーーーーーーーーーーーーーー↓ マップルガイド17 北海道/昭文社 昭和61年(1986年)5月 第4刷発行 p73上川駅から旭川駅まで、輪行した。↓ 旭川駅前。↓ 旭川の標識。↓ 旭川駅で、朝食の駅弁を食べた。旭川駅立売株式会社の箸袋。ーーーーーーーーーーーーーー↓ マップルガイド17 北海道/昭文社 昭和61年(1986年)5月 第4刷発行 p80旭川駅から富良野駅まで、輪行した。↓ 「ふらのワインハウス」のホームページより。ガイドブックを見て、どうしても「ふらのワインハウス」で昼食をとりたかった。↓ 1986年8月19日に、私が「ふらのワインハウス」で食事をした時のレシート。↓ ふらのワインハウスで、肉とワインのランチを頂いた。ーーーーーーーーーーーー↓ 富良野小学校の校庭に建つ、北海道中心標。ここは、北海道のど真中で、へそにあたる。「へそ踊り」が有名。ーーーーーーーーーーーーーー富良野は、テレビドラマ「北の国から」の舞台。↓ 女優のいしだあゆみさんの写真。↓ 富良野 北時計 (「北の国から」のインフォメーションセンター兼喫茶店)↓ 倉本聰原作「北の国から」ロケ記念北の国から 第2集/発行 麓郷郵趣会/麓郷郵便局
2023.08.19
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)10日目ですが、屈斜路湖・和琴温泉から美幌峠を越え、美幌駅に行きました。自転車を点検すると、ペダルとクランクに問題あり、美幌の自転車屋で応急処置をしていただきました。この日は自転車移動を止め、鉄道で輪行することにし、美幌駅、北見市、そして層雲峡が近い上川駅で下車し、野宿しました。ーーーーーーーーーーー【10日目 : 1986年8月18日(月)】・前日の8月17日に、屈斜路湖から美幌峠に自転車で上がり、美幌駅まで行こうとした。しかし股ずれ、尻ずれがひどく、患部が腫れあがって激痛だったので、屈斜路湖に引き返し、和琴温泉の露天風呂で患部をマッサージした。・8月18日朝、再び屈斜路湖から美幌峠へ上り、美幌駅まで走った。美幌駅では2人組のサイクリストに会い、旅の情報交換をした。・美幌駅で自転車の点検を行っていたところ、異常が見つかった。分解型自転車だが、ペダル部分の先が雄ネジで、クランクの穴が雌ネジになっており、ペダルネジをクランク穴に入れて、時計回りに回すと固定され、反時計回りに回すと外れる仕組みになっている。通常ならばペダルを回すだけで簡単に外れるのだが、力を入れても全く外れなくなった。自分で頑張ったが駄目だったので、道行く人たちに、自転車屋の場所を聞いた。・美幌の自転車屋で、ペダルとクランクを見てもらった。店の方は「これは簡単には直せない。自転車が壊れる可能性があるが、それでも良ければ、無理やりなんとかしてみる」と言われた。買ったばっかりの自転車なのだが、分解して袋に入れて輪行するとき、ペダルが外れていないと問題だと考え、お願いすることにした。結局、30分以上かかって、やっとペダルがクランクから外れた。自転車屋の方は、「もう自転車は乗らずに、地元に帰ってから、自転車をメンテナンスに出すべき」とアドバイスを頂いた。・自転車に問題無ければ、本来なら美幌から北見、遠軽など自転車で走る予定だったが、止めた。美幌駅で自転車を分解して袋に入れ、鉄道で移動することにした。・北見駅で下車し、市内を散歩した。ハッカの生産地だということを知った。・夜に鉄道で、層雲峡の玄関口である上川駅に移動した。列車内では、車掌さんに青春18切符を見せて挨拶すると、北海道の旅の情報など色々と教えていただいた。車掌さんも学生時代に旅をしていたとの事であった。・上川駅に着き、駅近くで野宿をした。ーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 北海道北部屈斜路湖、美幌峠、上川の位置。↓ 屈斜路湖、美幌峠、美幌駅、北見駅、上川駅の位置。↓ 屈斜路湖、美幌峠、美幌駅、北見駅の位置。↓ 上川駅付近。近くに層雲峡がある。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 1986年8月17日午後に撮影した、美幌峠の写真。本当ならば、このまま美幌駅まで自転車で進む予定だったが、股ずれ、尻ずれがひどく、患部が赤くただれて激痛だったので、屈斜路湖の和琴温泉に戻り、風呂で患部をマッサージした。1986年8月18日朝、和琴温泉から再び自転車で美幌峠に上り、美幌駅へ進んだ。↓ 美幌峠の道路。 右は屈斜路湖。↓ 屈斜路湖。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 1986年8月18日。美幌峠から美幌駅に行く途中で撮影。↓ 美幌駅で出会ったサイクリストと記念撮影。*美幌駅で自転車を点検していると、ペダルとクランクが外れなくなったのに気が付いた。自分では直せなかったので、美幌にある自転車屋で見てもらった。「無理やり外そうとすると、壊れるかもしれないが、それでも良いか」と聞かれ、「お願いします」と答えた。30分以上かかり、やっとペダルが外れた。店の方から、「もう自転車には乗らず、地元に帰ってから、自転車のメンテナンスをした方が良い」と言われた。この日は、自転車を諦め、鉄道で移動することにした。↓ 「びほろ 阿寒国立公園の表玄関/北海度アート社/1986年3月」↓ 美幌から始まる東北海度の旅。ガイドマップ。↓ 美幌駅で押した記念スタンプ。ーーーーーーーーーーーー↓ 北見駅前。鉄道で美幌駅から北見駅に移動した。北見市内を散策した。↓ 北見駅の記念スタンプ。ーーーーーーーーーーーーーーーーー夜に石北本線で、北見駅から上川駅に移動した。車掌さんに青春18きっぷを提示した。車掌さんからは、北海道の旅の情報など色々と教えていただいた。上川駅で下車し、駅近くで野宿した。
2023.08.18
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)9日目ですが、斜里駅から野上峠を越えて屈斜路湖の川湯温泉に行き、「川湯相撲記念館」、硫黄山の噴煙を見ました。釧網線を越えて摩周湖に上り、展望台で記念撮影をしました。弟子屈から阿寒湖まで走っていたのですが、途中で弾き返し、屈斜路湖を通って美幌峠に行きました。しかし、美幌駅まで行くのは止めて引き返し、屈斜路湖の和琴温泉で入浴し、コテージに泊まりました。ーーーーーーーーーーーーーーーー【9日目 :1986年8月17日(日)】・知床で知り合った自転車旅行中のKさんと一緒に、斜里駅近くで野宿した。朝5時半に起き、kさんと別れて屈斜路湖に向かった。斜里岳を見ながら、どこまでもまっすぐな道を進む。野上峠を越えると、屈斜路湖畔の川湯温泉に着いた。・屈斜路湖というと、未確認生物「クッシー」が有名で、大きなクッシー像があった。川湯は「巨人、大鵬、卵焼き」で有名な、第48代横綱・大鵬(たいほう)の故郷ということで、「川湯相撲記念館」が建てられていた。大鵬の歴史を詳しく知った。・川湯温泉から少し自転車を走ると、硫黄山があり、白い蒸気が吹き出されていた。一面硫黄の臭いが立ち込めていた。・硫黄山から釧網本線を越えて、自転車で摩周湖まで上って行った。結構きつかったが、真っ青な水面の摩周湖が視界に入ってきたときは、とても感動した。第3展望台で早速記念撮影をした。その後、第1展望台に移動して撮影した後、坂を下って弟子屈(てしかが)駅に着いた。・弟子屈駅からマリモで有名な阿寒湖に行こうとした。ずっと阿寒横断道路241号線を自転車で進んで行くと、途中で阿寒湖側からやってくるチャリンコ族がいた。「今から阿寒湖に行き、日帰りで戻りたい」と言うと、「片道40キロで、往復なら距離もあるし、坂が長いので、止めた方が良い」とアドバイスをもらった。色々考えて、阿寒湖行きを止めて、屈斜路湖に戻った。・屈斜路湖から美幌峠を越えて、美幌駅まで移動しようと考えた。自転車をこいで美幌峠まで上がったが、股ずれや尻ずれがひどく、屈斜路湖に戻って、温泉で擦れた部分をマッサージした方が良いと考えた。・屈斜路湖の和琴温泉に行った。そこで野鳥の会の人たちと知り合い、一緒に温泉に入った。股や尻が赤く腫れており、温泉の中でずっと患部をもんでいた。・和琴温泉にコテージがあるので、二人ずつに分かれて泊まる事にした。私は北海道旅行をし始めて、野宿ばかりだったので、初めて部屋で寝る事になった。野鳥の会の人と相部屋だったが、その人は、本を読むと言って起きていた。私はすぐに寝てしまった。トイレに行きたくなって目が覚めた。横を見ると、野鳥の会の人の姿が無く、びっくりした。驚いて隣のコテージのメンバーに相談しに行くと、そこに私の横に寝る予定の人がいた。なぜ隣のコテージに移ったのか理由を聞くと、私のイビキがあまりにもひどく、寝られなかったのでコテージを移ったとの事だった。トホホ。ーーーーーーーーーーーー↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p102~103斜里町、屈斜路湖、摩周湖の位置。↓ 斜里駅、屈斜路湖、美幌峠、美幌駅、摩周湖、阿寒湖の位置。↓ 1986年8月17日朝、斜里駅近くにて、kさんと記念撮影。kさんは自転車旅行者で、前日に知床で知り合い、いっしょに野宿した。kさんとはここで別れ、屈斜路湖に向かった。↓ 斜里駅近く。↓ 斜里岳を見ながら自転車で走った。、↓ 野上峠を上る。↓ 野上峠で記念写真。 弟子屈町に入る。↓ 川湯へ進む。↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p121.屈斜路湖、川湯、硫黄山、摩周湖、阿寒湖の位置。↓ 川湯で、屈斜路湖の未確認生物「クッシー」の像を見た。↓ 川湯神社と、第48代横砂「大鵬(たいほう)」の像。↓ 「川湯相撲記念館」のチケット。川湯が故郷の第48代横綱「大鵬」が紹介されており、見学した。人気があったものとして、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が有名。↓「川湯相撲記念館」のパンフレット。第48代横綱 大鵬幸喜を称して、不世出の横綱と人は言う。力士の誰もがそうであるように、角界の頂点をめざして、しこを踏んだ入門時代。白星街道をひた走り、次々と記録を塗り替えた一人の天才力士の努力と栄光のドラマが、この記念館に収められている。↓ 川湯相撲記念館の記念スタンプ。↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p122.屈斜路湖、川湯温泉、硫黄山、摩周湖、弟子屈の位置。屈斜路湖の和琴温泉では、「ミンミンゼミは道南以北はここだけに生息する」と書いてある。↓ 釧網本線 川湯駅の記念スタンプ。硫黄山の噴煙が描かれている。↓ 川湯の硫黄山に進む。↓ 阿寒国立公園 川湯 硫黄山で記念撮影。↓ 白い噴煙が立ち昇り、硫黄の臭いが鼻をついた。↓ 黄色の硫黄が岩についている。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 釧網本線を越えて、自転車で摩周湖へ上っている途中の景色。奥に硫黄山が見える。↓ 摩周湖(第3展望台)で記念撮影。↓ 年賀状の一部。 摩周湖の絵をプリントゴッコで印刷した。↓ 年賀状の一部。河合奈保子さんと菊池桃子さん。プリントゴッコで印刷。↓ 第3展望台から見た「摩周湖」。↓ 摩周湖で記念撮影。↓ 摩周湖の湖面に、白い雲が映っている。ーーーーーーーーーー↓ 第1展望台に移動して撮影した「摩周湖」。摩周湖を下って、弟子屈駅に行った。ーーーーーーーーーーーーーー弟子屈駅から阿寒湖に向かい、阿寒横断道路241号線を自転車で走った。途中で阿寒湖方向から自転車で走ってくる旅行者がいたので、色々話を聞いた。私が「今から阿寒湖まで往復したい」というと、その人は、「阿寒湖まで40キロあるし、坂が長いので、今から日帰り往復は無理。止めた方が良い」と言った。結局、阿寒湖に向かうのを止めて、屈斜路湖に戻った。↓ 阿寒 パンフレット/企画制作・(株)日本交通事業社↓ 阿寒湖で有名な「マリモ」の伝説。↓ 阿寒湖のマリモ。↓ 阿寒湖のスタンプ。↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p123阿寒湖の図。.ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー屈斜路湖から美幌峠を越えて、美幌駅に行こうと思った。自転車で屈斜路湖の外輪山である美幌峠へ進んだ。↓ 屈斜路湖。↓ 美幌峠で記念撮影。 背景は屈斜路湖。↓ 屈斜路湖。↓ 美幌峠のルート。↓ 屈斜路湖(左半分)。↓ 屈斜路湖(右半分)。↓ 美幌峠で、バスの団体旅行者が屈斜路湖を背景に、記念撮影を録っていた。美幌峠まで自転車をこいだが、股ずれ、尻ずれがひどくて痛かった。このまま美幌駅に行くよりも、屈斜路湖の和琴温泉で、温泉につかってマッサージをした方が良いと思い、再び屈斜路湖に戻ることにした。↓ 戻る途中の屈斜路湖。↓ 屈斜路湖畔と夕陽。ーーーーーーーーーーーーー↓ 私が学生時代に作っていた冊子「WINDOW SHOPPING VOL.6 1986 8/9~8/21」北海道自転車旅行を、記事と写真、マンガでまとめようとして、下書きまで用意したが、未完で終わった。マンガの下書きの紹介。摩周湖と、和琴温泉、コテージでの出来事について描いた。↓ 自転車で摩周湖まで上って行った。キラキラ輝く湖面が見え、やっと摩周湖に着いた。↓ 自転車をこいできたので、股ずれ、尻ずれが酷く傷んだ。、夜、野鳥の会のグループと知り合いになり、屈斜路湖の和琴温泉で一緒に露天風呂に入った。↓ 股や尻が痛かったので、温泉の湯の中で患部をマッサージした。野鳥の会の人たちと食事をした。コテージを借りて、2人に分かれて寝る事になった。私は疲れていたので、コテージでは、すぐに寝てしまった。トイレに行きたくなって起きた時、隣にいるはずの人がおらず、行方不明なのでびっくりした。↓ 恐ろしくなり、隣のコテージに行き、人が消えてしまったと言うと、中からその人が出てきたので、驚いた。私のイビキがあまりにもひどかったので、寝ることができず、隣のコテージで寝たとの話であった。トホホ。
2023.08.17
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)8日目ですが、斜里駅をスタートし、自転車でウトロ港に行きました。そこで知床観光汽船の船で、カムイワッカの滝まで知床半島を観光しました。ウトロ港に戻ると、自転車で知床横断道路を上り、738mの知床峠に着きました。羅臼岳をバックに記念撮影し、その日は再び斜里駅まで戻りました。ーーーーーーーーーーーーーーーー【8日目 : 1986年8月16日(土)】・斜里駅近くで野宿した後、朝5時に起きて準備し、5時30分には知床半島のウトロへ出発した。途中で「オシンコシンの滝」、「三重の滝」を見て、ウトロ港に着いた。・ウトロ港で知床観光汽船の観光船に乗船して、知床半島を観光することにした。コースは2種類あり、ウトロから知床半島途中のカムイワッカの滝まで往復するコース(1時間30分)と、ウトロから知床半島先端の知床岬まで行くコース(3時間45分)だった。ぜひ知床岬を見たかったのだが、自転車で知床峠を上るのに時間がかかるので、カムイワッカまでのコースにした。・観光船はウトロ港を出港した。沢山のカモメが船の周りを飛んでいた。雄大な知床の姿を眺めていると、カムイワッカの滝が見えてきた。船は反転し、無事ウトロ港に戻った。・ウトロ港で、焼いた貝殻付きホタテを売っていた。1つ300円だった。美味しかったので、3つ食べた。キタキツネもいた。・ウトロ港から知床横断道路を上がっていき、知床峠(738m)に着いた。羅臼岳をバックに写真を撮った。標識には「斜里52㎞、ウトロ16㎞」とあった。森繁久彌さんが作詞作曲され、加藤登紀子さんが歌われた有名な「知床旅情」を、何度も繰り返して口ずさんだ。「知床の岬に はまなすの咲く頃 想い出しておくれ 俺たちのことを飲んでさわいで おかにのぼれば 遥か国後に白夜は明ける旅の情けか 酔うほどにさまよい 浜にでてみれば 月は照る波の上君を今宵こそ 抱きしめんと 岩陰に寄れば ピリカが笑う別れの日はきた 知床の村にも 君はでてゆく 峠を越えて忘れちゃいやだよ きまぐれ烏さん、わたしを泣かすな 白いかもめよ」・知床峠から知床横断道路を下って羅臼に行こうと思ったが、結構疲れていたので、斜里町まで戻ることを考えて羅臼は諦めた。知床峠を下り、プユニ岬を見て、斜里町まで自転車で戻った。途中でKさんと知り合い、急に雨が降り出した時は、二人で雨宿りをした。・夜は斜里駅近くで、Kさんと一緒に野宿をした。ーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 ①北海道北部より。斜里駅、ウトロ、知床峠、カムイワッカの滝の位置。↓ 斜里駅、ウトロ、知床峠、カムイワッカの滝の位置。↓ 国立公園 知床半島の記念スタンプ。↓ マップルガイド 17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)P110↓ 1986年8月16日朝、斜里駅を出発し、知床半島を自転車で走った。↓ オシンコシンの滝。↓ オシンコシンの滝で記念撮影。↓ 私の自転車。↓ 三重の滝。ーーーーーーーーーー↓ 知床半島汽船。↓ 知床観光汽船の乗船券。昭和61年(1986年)8月16日。ウトロ⇔硫黄山(カムイワッカ) 1,850円↓ 知床半島 船旅のご案内 知床観光汽船。↓ 2つのコース。カムイワッカで戻るコースと、知床岬で戻るコース。↓ 2コースの乗船時間。↓ オホーツクの旅情 秘境 知床航路/企画・発行 道東観光開発株式会社↓ 知床観光船のメープル号。↓ 知床観光船のライラック号。↓ 「知床旅情」 作詞作曲:森繁久彌。↓ ウトロ、カムイワッカの滝、知床峠の位置。↓ 斜里町、オシンコシンの滝、三重の滝、ウトロ、プユニ岬、知床峠、羅臼岳の位置。↓ 知床半島。 観光船でウトロ港からカムイワッカの滝へ向かう。↓ カモメの群れ。↓ 知床半島。↓ カムイワッカの滝。↓ カムイワッカの滝付近で、船は反転してウトロへ戻る。ーーーーーーーーーーーウトロ港に戻る。↓「知床旅情」の石碑。↓ 焼きホタテ。1つ300円。 3つ食べた。↓ キタキツネ。ーーーーーーーーーーーーー↓ 知床峠。ウトロ港から知床横断道路を上がっていき、知床峠(738m)に着いた。羅臼岳をバックに写真を撮った。標識には「斜里52㎞、ウトロ16㎞」とあった。このまま羅臼に行こうと思ったが、疲れていたので、ここで斜里に戻ることにした。↓ 羅臼岳は山頂付近が雲にかかっていた。↓ プユニ岬。 この日は再び斜里駅に自転車で戻った。ーーーーーーーーーーーーー↓ 北方領土 これだけは知っておきたい/総理府北方対策本部、特殊法人北方領土問題対策協会。
2023.08.16
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)7日目は、網走駅から自転車で、オホーツク流水館、博物館・網走監獄、オホーツク水族館、能取岬、能取湖、サロマ湖を見た後、網走に戻って、小清水原生花園、斜里駅まで行きました。*カメラのフィルムがちゃんと設定されておらず、残念ながら8月13日夜の登別駅から8月15日夜の斜里駅までの写真が撮れていませんでした。そのため写真紹介はありません。ーーーーーーーーーーーーー【7日目 : 1986年8月15日(金)】・朝、網走駅前で自転車を組み立てる。沢山の旅行者から声を掛けられた。その中で旅行中の女性と話した。とても明るくて可愛らしい人だった。「またどこかで会えたらいいですね」と言って別れたが、この日の夕方、斜里駅に行く途中、小清水原生花園に寄ると、その女性と再び会い、お互いにビックリした。その女性は、私が麦わら帽子を被っていたので気が付いたとのことだった。・網走市内を走って行くと、網走刑務所があった。向きを変えて坂を上っていくと、天都山の頂上に着いた。オホーツク流氷館では迫力ある流氷の映像がスクリーンに映し出された。建物の屋上からは知床半島が見えた。・天都山を下る途中に博物館・網走監獄があった。中では放射状の舎房などを見学した。・網走市内から少し自転車で走ると、二ッ岩近くにオホーツク水族館があった。オオカミウオや大海馬を初めて見た。・二ッ岩を過ぎて、能取(のとろ)岬灯台に着いた。アブが多かった。サンゴ草が赤く綺麗になるということで見に行ったが、まだサンゴ草は赤くなっていなかった。・能取湖(のとろこ)を巡る途中の食堂で、ホタテ定食を食べた。この頃はまだ湧網線(ゆうもうせん)があり、列車を見ることが出来た。(1988年に湧網線は廃線となった)能取湖の先にあるサロマ湖を少し見た後、急いで網走駅に戻った。・夕方、網走駅で準備を整えて、釧網本線と平行に自転車で斜里駅に向かった。途中で、「藻琴湖(もことこ)」、「濤沸湖(とうふつこ)」、オホーツクに一番近い駅として有名な「北浜駅」を見て、「原生花園駅」では「小清水原生花園」を散歩した。この原生花園駅付近で、朝に挨拶をした女性と再会して、お互いびっくりした。・夜に斜里駅に着いた、カメラで36枚撮影したと思い、フィルムを巻くのだが、巻いている感触がないのでカメラの裏ぶたを開けると、フィルムがうまくセットされていなかった事に気が付き、ショックで血の気が引いた。8月13日夜の登別駅から8月15日の斜里駅までの写真が撮影されていなかった。沢山の人たちと記念撮影をしたのにと思うと辛く、斜里駅のそばで寝袋に入って寝るしかなかった。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院北海道北部↓ 1986年8月15日、網走駅を起点として自転車で走ったエリア。↓ 具体的なポイント。網走、能取岬、能取湖、サロマ湖、原生花園、斜里。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p108網走市内。↓ 私が学生時代、自分で作っていた冊子「WINDOW SHOPPING Vol.6 (1986年8月9日~8月21日)北海道特集の原稿表紙。この冊子には、自転車旅行の記録を文書とマンガで残す予定だったが、マンガは下書きの途中で止まり、完成しなかった。↓ 北海道を自転車旅行したときの自分の姿を描いた。↓ 「網走駅」の下書き部分。手前の像だが、ニポポ人形の形をした電話ボックスを描いた。私が網走駅に行った1986年8月15日には、駅前に2つの像の電話ボックスがあった。今はどうなっているだろう?↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p108「網走駅前の電話ボックス。ニポポ人形には願い事がかなうという伝えがある」↓ マンガを描くために、雑紙に色々と速記で描きとめた。網走駅付近にて。↓ 網走駅で知り合った女性を描きとめた。↓ 「あばしり旅のノート」 (網走駅で入手した)発行:1986年6月 網走市・網走観光振興公社 企画・作成。↓ 右側に、網走駅、天都山展望台(オホーツク流氷館)、博物館・網走監獄がある。ーーーーーーーーーー↓ オホーツク流氷館(名勝 天都山)入場券。(昭和61年:1986年8月15日印あり)↓ オホーツク流氷館の記念スタンプ。ーーーーーーーーーーー↓ 博物館・網走監獄 大人入場券。 財団法人 網走監獄保存財団。↓ 博物館・網走監獄 パンフレット。↑ 【網走監獄の創設】北海道釧路集治監、網走囚徒外役所、このいかつく長い名が、明治23年に沿敷設された網走刑務所の最初の名称です。ここに外役所が設置されたのは、当時、南進の気配をみせていたソビエト・ロシアに対する国防上と、北海道内陸部開発のための札幌と網走を結ぶ中央縦貫道路の旭川、網走間の開削が直接の動機で、これが完了したのちは、自耕自食による永久的農業漢族の設置にありました。財団法人 網走監獄保存財団 網走市(網走番外地)↓ 明治の流刑地、網走に残された監獄のレ基礎を綴る博物館・網走監獄は網走の景勝地、天都山の中腹、緑の中にあって、ここから広々と広がる網走湖や刑務所農場を一望することができます。網走駅から5キロ、刑務所から2キロ、国道39号線、「博物館・網走監獄入口」バス停留所から歩いて約7分のところにあります。↓ 放射状 舎房。↓ 博物館・網走監獄の記念スタンプ。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ オホーツク水族館 記念入場券。オホーツク海の猛魚 オオカミウオ。↓ 入場券の裏面。↓ オホーツク水族館のパンフレット。↓ オオカミウオ。↓ 主な展示資料。↓ オホーツク水族館のご案内。ーーーーーーーーーーー↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p107能取湖(のとろこ)とサロマ湖の位置。1986年には、まだ国鉄・湧網線が存在しており、車両が走るのを見た。1988年3月に廃線。↓ 網走、オホーツク水族館、ニッ岩、能取岬・灯台、能取湖の位置。↓ 能取岬灯台。↑ 自転車で能取岬灯台をまわるとき、小林美樹さんの「人魚の夏」を大声で歌った。「自転車を走らせて 灯台をまわり ギラギラの砂浜を 私は駆けてゆく」ーーーーーーーーーーー↓ 「藻琴湖(もことこ)」、、オホーツクに一番近い駅として有名な「北浜駅」、「濤沸湖(とうふつこ)」「原生花園駅」、「小清水駅」の位置。↓ 自分のマンガの下書き。原生花園駅付近で、朝に網走駅で話をした女性と再会し、お互いにビックリした。↓ 網走国定公園 小清水原生花園の記念スタンプ。↓ 斜里駅の記念スタンプ。ここで、フィルムのセット不備が発覚し、写真が撮影できていなかったことが分かり、ショックで寝込んだ。↓ 弘前ねぶたの斜里駅。
2023.08.15
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)6日目は自転車ではなく、鉄道で登別から網走まで移動しました。*カメラのフィルムがちゃんと設定されておらず、残念ながら、8月13日夕方から8月15日までの写真が撮れていませんでした。ーーーーーーーーーーーー【6日目 : 1986年8月14日(木)】・今回の北海道旅行だが、広島スタートとは言え、道南を少し走っただけで、5日経ってしまった。最終日は飛行機を予約しているので、実質7日しか残っていなかったが、どこに行くかは決めていなかった。8月13日の夜に、登別駅でチャリンコ仲間が沢山集まった。私は皆さんに、登別の次の旅行先を決めていないのだが、アドバイスが欲しいと言うと、小樽が良いとか、釧路に行ったらとか、稚内を目指すべきとか、知床でしょうとか色々な意見が出た。いずれにせよ、自転車ではなく、鉄道で一挙に距離を稼がないといけないと考えた。・8月13日夜、登別駅で「青春18きっぷ」を1万円で購入した。時刻表を見ながら、メモ帳に14日の鉄道予定を書いてみた。室蘭本線 登別8:40 → 千歳9:59石勝線 千歳10:15 → 帯広13:04 帯広14:06 → 釧路 16:06念のため追加情報として、次の予定もメモした。室蘭本線 登別7:03 → 岩見沢9:35・8月14日朝、青春18きっぷで登別駅から乗車した。列車は苫小牧に進んだ。帯広経由で釧路に行こうと思っていたが、岩見沢から網走に行くルートも捨てがたく、迷っていた。結局、室蘭本線の終点である岩見沢に行く事に決めた。・岩見沢駅では雨が降っていた。駅で「北海道21世紀博」を開催していることを知り、早速直通バスに150円で乗車した。バスは広い野原を進み、会場に着いた。1000円で入場券を購入し、「北海道21世紀館」に入った。北海道の自然や歴史の展示やCG紹介を見た。バスで駅に戻り、岩見沢の三条郵便局で4万円を引き出した。駅横の食堂で昼食を食べた。・岩見沢から、46分遅れの「特急おおとり」に乗車して、網走に向かう。途中でカニ飯を食べた。22時を過ぎて、やっと網走駅に到着した。網走駅前は、バイク族、自転車族など多くの人たちが集まっており、びっくりした。網走駅の近くで、寝袋で野宿した。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行。登別、岩見沢、網走の位置。↓ 登別、岩見沢、網走の位置。↓ 昭和61年(1986年)8月13日夜、登別駅で購入した「国鉄 青春18きっぷ」10,000円。↓ 青春18きっぷパンフレット。 1986年国鉄北海道総局。↓ 1986年8月13日、広島銀行のメモ帳に書いた14日のルート案。最初は帯広・釧路に行く予定だった。その下には岩見沢の記載がある。↓ 結局、岩見沢に行った。岩見沢駅の記念スタンプ。↓ 岩見沢で開催されていた「北海道21世紀博覧会」のチケット。↓ チケットの裏側。(会場案内図)↓ 北海道21世紀館(テーマ館)パンフレット。↓ 三井遊トピア館のパンフレット。その後、特急おおとりに乗車して、岩見沢から網走に移動した。到着は22時を越えていた。
2023.08.14
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今から37年前に、北海道を自転車で旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)5日目は洞爺湖からオロフレ峠を通って登別まで行きました。当時はカメラに36枚フィルムをセットして写真を撮っていました。登別で新しいフィルムをセットしたのはずだったのですが、フィルムの端がカメラのスリット穴にちゃんと入っていなかったようで、13日の登別の夜から15日までの写真が撮影されていませんでした。カメラの裏ぶたを開けて、フィルムがそのままになっているのを見たとき、ものすごいショックで、斜里町で寝込みました。登別駅で多くの自転車旅行者と記念撮影をしたのに、それが残っておらず、残念です。ーーーーーーーーーーーーーー【5日目 : 1986年8月13日(水)】・洞爺湖の火山科学館近くで、知り合いになった人のテントの中で寝ていたが、6時に起きて出発した。・今回の旅で、絶対に見たかった昭和新山へ行く。そして有珠山ロープウェイで有珠山山頂に行き、火口を見た。・自転車でオロフレ峠を上った。結構きつかった。峠を下ると、登別の地獄谷に着いた。登別温泉ロープウェイでクマ牧場に行く。多くのクマがいて驚いた。餌を購入してクマに与えてみた。クマの体臭を初めて匂った。結構臭かった。・自転車旅行者と仲間になり、一緒に第一滝本館の温泉に入った。中にはスライダーがあり、何度も滑って遊んだ。・カメラのフィルムを新しく交換したが、セッティングが悪く、ここからフィルム1本分(36枚)の写真が撮れていなかった。15日に斜里町で気が付き、ショックで寝込んだ。・夜は登別駅で、10人以上のチャリンコ族が集まって、飲み会を開いた。旅の情報を交換できて、楽しいひと時だった。登別駅近くで野宿をした。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院洞爺湖、有珠山、昭和新山、オロフレ峠、登別温泉、登別駅の位置。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)赤い矢印がオロフレ峠のルート。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)p65.↓ 1986年8月13日、朝6時。洞爺湖の火山科学館の前で記念撮影。自転車旅行で知り合った人のテントで寝かせていただいた。ここで別れた。↓ 自転車で昭和新山に進む。↓ 昭和新山で記念撮影。↓ 昭和新山。↓ 昭和新山と美化センター。↓ 昭和新山美化センターのスタンプ。↓ 有珠山ロープウェイの記念スタンプ。8時頃にロープウェイで有珠山に上った。↓ 有珠山の火口を見る。↓ 有珠山火口。↓ 1977年8月7日、有珠山は大噴火した。↓ 1918年~1920年の2年間に隆起して出来上がった昭和新山。↓ 昭和新山。↓ 有珠山ロープウェイから見る昭和新山。↓ 昭和新山。↓ 「ニュー羊蹄」で食事をした。↓ 「ニュー羊蹄」の割りばし袋。↓「自然の記録シリーズ 昭和新山物語/著者:三松正夫/誠文堂新光社/1977年6月30日 第3版発行」 私が小学6年生の時に購入して、読書感想文を書いた思い出の本。三松正夫さんが戦時中、隆起していく昭和新山を詳しく記録に残され、「ミマツダイヤグラム」という重要な観測資料をまとめられた。昭和新山の土地を購入して、山の保存にも尽力された。この本を読んでいたので、どうしても昭和新山をじっくり見たかった。* この三松正夫さんですが、洞爺湖温泉を発見された方です。(p24~25)大正6年(1917年)6月、トコタン(今の洞爺湖温泉)に行くと、湖の水面にチリやアワが流れているのに気が付きました。大きな石を転がすと、ボコボコと湧き出してきました。2年経っても三松さんが発見した温泉は、ますます湯の量が増え、大正10年(1921年)頃から賑わいを見せ、現在のような洞爺湖温泉に大発展したそうです。↓「自然の記録シリーズ 昭和新山物語/著者:三松正夫/誠文堂新光社/1977年6月30日 第3版発行」 p3 「現在の昭和新山」p4p5p6p78~79 この本は、本当に何度も繰り返して読んだ。↓ p233 観測資料として賞賛された、有名な「ミマツダイヤグラム」。この図を見ると、昭和新山の成長が一目で分かる。p269↓ 洞爺湖と有珠山(右)、昭和新山(左)。↓ オロフレ牧場。 オロフレ峠へと進む。↓ オロフレ峠のルート。 自転車で上っていくのがきつかった。画面右上の稜線部分に、クッタラ湖がうっすら見える。↓ オロフレ峠で記念写真。↓ オロフレ峠の記念スタンプ。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)p67 登別の紹介。↓ 登別の時刻谷、登別温泉ロープウェイ、温泉に入った第一滝本館の位置。↓ 登別の地獄谷。 自転車旅行の2人と知り合い、記念撮影をした。↓ 登別地獄谷。三途の川。↓ 登別の記念スタンプ。↓ 登別温泉ケーブルに乗った。温泉街からクマ牧場まで。↓ あひるの競走。↓ 久場牧場のパンフレット。↓ ヒグマ180余頭放牧中。↓ 登別クマ牧場の入場チケット。↓ クマ牧場で写真を撮った。餌を買って、金属の筒に餌を入れ、鉄砲のように餌をクマに送った。↓ ユーカラの里にて記念撮影。↓ 旅行中の3人組の女性と知り合い、旅の話を色々した。↓ 第一滝本館で、温泉に入った。* カメラに新しい36枚フィルムを入れて、登別駅で自転車旅行者達と沢山記念撮影をしたのだが、フィルムがちゃんとセットされておらず、撮影されていなかった。そのため、13日夜~15日までの写真が無く、大変残念。
2023.08.13
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今から37年前ですが、1986年8月に北海道を自転車で旅行しました。(1988年8月9日~8月21日)4日目は長万部から洞爺湖に移動しました。ーーーーーーーーーーーーーー【4日目 : 1986年8月12日(火)】・長万部駅近くで野宿をした。朝起きると雨だった。長万部駅近くの店でラーメンを食べた後、昨夜仲良くなった自転車仲間達と別れ、洞爺湖を目指した。途中の礼文崋山トンネルは、走るのが大変だった。・洞爺駅の店で絆創膏を購入し、洞爺湖まで自転車で走った。洞爺湖畔から遊覧船「羊蹄」に乗って、洞爺湖の中央にある弁天島や大島に行き、大島博物館を見た。・虻田町立火山科学館に行った。1977年8月7日、有珠山の大噴火が起こり、災害が起こった記録を見ることができた。・洞爺湖畔の光風園で風呂に入った。町は観光客が多かった。店でワンタンを食べた。自転車で旅行している人と知り合い、洞爺湖の花火大会を見た。湖上のボートから花火が打ちあがり、空と湖面に花火の光が見えて美しかった。当時、1986年3月に発売された松任谷由実さんの「ダ・ディ・ダ(DA・DI・DA)をテープに落とし、ウォークマンで聴いていた。「メトロポリスの片隅で」、「月夜のロケット花火」、「シンデレラ・エクスプレス」がお気に入りだったが、洞爺湖の花火を見ていると、自然に「月夜のロケット花火」を口ずさんでいた。「高く上がれ 今年最後のロケット弾白く照らせ 今夜最後のバケーション夜空に消える」・洞爺湖温泉の火山科学館の入り口で、自転車で旅行している人と野宿をすることにした。寝袋に入り、お互いに自転車旅の思い出を話していたところ、バイク旅行をしているという3人組がやってきた。一緒に寝ても良いかと言われたので、スペースを開けた。私と知り合いが話の続きをしていると、バイク旅行の人が、「うるさいので黙って欲しい。我々はバイク旅行で疲れている」と言ってきた。私は「バイクより自転車で走る方がもっと疲れる」と嫌味を言ったが、知り合いが「自分は簡易テントを持っているので、そちらで寝よう」と言ってくれた。結局、私たちが外に出て、テントで寝る事になった。ーーーーーーーーーーーーーー帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院。長万部→洞爺湖↓ 長万部→洞爺湖↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p32~33。道央より。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p63。洞爺湖。↓ 1986年8月12日、長万部を出発して洞爺湖へ向かう。↑ 室蘭本線。↓ 洞爺駅に到着。↓ 洞爺湖畔で記念撮影。↓ 洞爺湖温泉街。↓ 洞爺湖と、中央にある大島、弁天島。↓ 洞爺湖汽船株式会社の遊覧船「羊蹄」チケット。↓ 洞爺湖汽船株式会社の冊子を購入した。「洞爺の旅 支笏洞爺国立公園・洞爺湖の自然」↓ 「羊蹄」乗船記念/洞爺湖汽船株式会社。↓ 「羊蹄」遊覧船に乗って、洞爺湖の島に行く。↓ 魚たちが集まる。↓ 洞爺湖の大島。↓ 熊の剥製。大島にある森林博物館。ーーーーーーーーーー↓ 洞爺湖温泉街にある「虻田町立火山科学館」に行った。↓ 1977年8月7日、有珠山が大噴火した。↓ 虻田町立火山科学館。↓ 火山科学館のチケット。↓ 火山科学館で撮影した写真。(有珠山大噴火 昭和52年:1977年8月7日の有珠山大噴火の写真)↓ 火山科学館入管記念スタンプ。↓ 岡田有希子さんのポスターを見かけた。↓ 洞爺湖畔にて。私と自転車。↓ 有珠山が噴火して泥流が流れた場合、それを流す水路ができていた。↓ 昭和新山と自転車。↓ 洞爺湖と観光船。↓ 洞爺湖の花火大会。私は花火を見ながら、ユーミンの「月夜のロケット花火」を歌っていた。↓ 1986年3月に発売された松任谷由実さんの「ダ・ディ・ダ(DA・DI・DA)」をテープに落とし、ウォークマンで聴いていた。「メトロポリスの片隅で」、「月夜のロケット花火」、「シンデレラ・エクスプレス」がお気に入りだったが、洞爺湖の花火を見ていると、自然に「月夜のロケット花火」を口ずさんでいた。「高く上がれ 今年最後のロケット弾白く照らせ 今夜最後のバケーション夜空に消える」ーーーーーーーーーーーーー↓ 火山科学館で、自転車で知り合った人と寝袋で寝る事にした。自転車旅行の話で盛り上がった。↓ バイク乗りの人たちが来たので、場所を詰めた。話をしていると、バイクの人達が「うるさくて寝られない」と言ってきた。結局、我々が外に出て、知り合いの簡易テントで寝る事になった。これは、朝になって記念撮影した写真、
2023.08.12
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今から37年前ですが、北海道を自転車で旅行しました。(1986年8月9日から8月21日まで)3日目は函館から大沼経由で長万部(おしゃまんべ)に移動しました。ーーーーーーーーーーーーー【3日目 : 1986年8月11日(月)】・函館の公園で野宿をして、朝5時頃に目が覚めた。新聞を買って読んで出発した。外人墓地などを回り、国道5号線を北上して大沼国定公園へ向かった。・途中で「峠下」という標識を見つけた。ここは函館戦争勃発の地として有名。明治元年(1868年)10月に、この峠下で大鳥圭介の舞台と政府軍が戦い、函館戦争が勃発した。峠下から峠を上り始め、汗びっしょりになった。トンネルを抜けると、大沼が見えてきた。・大沼では遊覧船に乗った。大沼の後方に、美しい駒ヶ岳(1,133m)が見えた。昼にイカ定食を食べた。・13時に大沼を出発し、国道5号をひたすら自転車で進んだ。どこまでもまっすぐな道で、海と空と草原の景色が続く。・八雲を越えて海岸沿いを走り続け、夕方に長万部(おしゃまんべ)駅に着いた。駅前では沢山のサイクリスト(チャリンコ族)に会った。皆で挨拶を交わした後、銭湯に行って風呂に入ったり、カニや鶏肉を買って皆で食事をしたりして、とても楽しかった。・夜はビールを飲みながら、皆が語る幽霊の話を聞いた。石北本線・常紋トンネルの幽霊の話、積丹半島・神威岬の念仏トンネルの幽霊の話、幸福駅の首吊り幽霊の話、登別の幽霊の話など、皆の話は尽きなかった。北海道の道路で「!」の標識があるが、あれは幽霊が出る場所なので気をつけろという意味だという人もいた。中には「?」の標識があり、そこは恐ろしい場所だと言う人がいたが、「?」の標識は本当にあるのだろうか?。・駅近くで、皆で寝袋を並べて野宿をした。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院函館→長万部。↓ 函館、大沼、長万部の位置。↓ マップルガイド 17 北海道/旺文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 P12~13函館、大沼、長万部。ーーーーーーーーーーーー1986年8月11日(月)。函館の公園で野宿をした後、起きて函館朝市に行った。↓ 函館朝市。↓ 函館港と倉庫群嘉永7年(1854年)4月、米国のペリー提督が5隻の艦船を率いてこの港に姿を現し、函館の住民を大いに驚かせたが、ペリー著「日本遠征記」に”世界の最良港の一つ”と記されているように、船が出入りしやすく、安全な港として国際的に名を知られた港。この赤レンガの金森倉庫は、明治40年(1907年)頃の建築で、レンガを2枚半の厚さに積み上げた外壁、木骨の柱、能登で焼いた瓦葺の屋根で、函館港の歴史を語り継ぐシンボル的存在であり、時折り、テレビ、映画のロケーションの場になっている。↓ 日本最初の気候測量所跡。この辺りは、新島襄の海外渡航を助けた福士成豊(日本で最初に西洋型の続豊治の次男)が、明治5年(1872年)英国から機械を買い入れて、日本で最初の気象観測をする「函館気候測量所」を開設したところである。↓ 北海道第一歩の地碑。明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏む者がその第一歩を印したのが東浜桟橋である。↓ 日本最古のコンクリート電柱。↓ 重要文化財 太刀川家住宅店舗。明治34年(1901年)、米穀商初代太刀川善吉が建築した土蔵造り2階建店舗。↓ ペリー会見所跡。嘉永6年(1853年)日本との貿易を求めて来航した米国のペリー提督は、幕府との間に日米和親条約を締結し、翌7年(1854年)4月、5隻の艦船を引き連れて函館に入港した。ペリーは、この地にあった場所請負人山田屋寿兵衛で松前藩家老松前勘解由らと会見し、市内の調査、家屋の借用、必需品の買いつけを申し入れたり、港内測量などを行って函館を去った。↓ 外人墓地と私の自転車。↓ 外人墓地(ロシア人墓地)。↓ 高龍寺。↓ 旧ロシア領事館(道南青年の家)↓重要文化財 旧函館区公会堂。↓ 元町公園。 霧が深く、海が見えない。↓ 聖ヨハネ教会。英国プロテスタントの教会。↓ 元町カトリック教会と自転車。ゴシック様式のローマカトリック教会。↓ ハリストス正教会。写真が見当たらなかったので、キヨスクのお土産袋にある「ハリストス正教会」の絵を紹介する。↓ 玉姫殿があった。↓ 函館→大沼。↓ マップルガイド 17 北海道/旺文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 P21大沼。↓ 大沼と駒ヶ岳(1,133m)↓ 大沼国定公園の掲示板。 (左にユートピア大沼の案内あり)↓ 函館本線、大沼、駒ヶ岳。↓ 大沼と駒ヶ岳。↓ 大沼遊覧船に乗船して回る。↓ 記念撮影。(大沼、駒ケ岳)↓ 大沼駅の記念スタンプ。↓ 大沼郵便局の記念スタンプ。↓ 大沼、八雲、長万部。↓ キタキツネの旗を買って、自転車に付けた。↓ 函館本線の山越駅(八雲町)で記念スタンプを押した。「山越内関所之跡」:江戸時代に日本最北の関所。ーーーーーーーーーー↓ 長万部駅に到着。駅前に集まった自転車仲間で記念撮影。 中央で麦わら帽子を被っているのが私。↓ 黄色いタオルを首に巻いているのが私。↓ 皆で宴会をして、幽霊話を聞いた。↓ 長万部駅の記念スタンプ。
2023.08.11
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今から37年前の1986年8月に、北海道を自転車で旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)2日目は青森から函館へ移動しました。【2日目 : 1986年8月10日(日)】・夜行特急「八甲田」に乗り、上野駅から青森駅まで移動した。列車内はギュウギュウ詰めの状態で、シートに座れなかったので、通路に新聞紙や雑誌を敷いて座った。上野駅で知り合ったSさん、列車内で知り合った人たちと話が盛り上がった。列車は白河、郡山、仙台と進んで行った。夜の11時頃に眠たくなり仮眠をするも、トイレに行きたくなった人が通路を通るたびに、スペースを開けなければならず、熟睡ができなかった。それでも少し寝て、目が覚めると一戸付近だった。列車は二戸、八戸、浅虫を通り、青森駅に到着した。・青森で青函連絡船「摩周丸」に乗船し、函館に向かった。200円でシャワーを浴びて、上野から一緒になったSさんと、甲板でビールを飲んだ。下北半島を越えて、函館山が見えて来た。Sさんは「函館山は東京タワーと同じくらいの高さですからね」と言った。・函館港でSさんと別れ、函館駅で分解型自転車を組み立てた。慣れていなかったので、組み立てに1時間以上かかった。ここで、日本を歩いて一周している男性に声を掛けられた。・自転車で五稜郭に行った。五稜郭タワーの上から五稜郭の五角形を確認し、景色を眺めた。・湯の川温泉街を抜けて、トラピスチヌ修道院を見学した。海側を走り、啄木記念碑を見た。そのまま西に進み、墓地を抜けて立待岬に着いた。沖の漁火が見えた。・函館山山頂までロープウェイで上がった。100万ドルの夜景を期待していたが、霧が立ち込め、何も見えなかった。夜景の写真が撮れず、残念だった。・麓に下り、街を自転車で巡るが、バイク族がいっぱいいた。店でラーメン、焼売を食べた。・市内の公園で野宿した。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 1986年8月10日(日)朝、急行「八甲田」が青森駅に到着。↓ 青森駅から見た線路。ここで行き止まりになっている。↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院より。青森から函館へ、青函連絡船「摩周丸」に乗船。↓ 青函連絡船「摩周丸」乗車記念スタンプ。1986年(昭和61年)8月10日。↓ 函館市HPより。「摩周丸:青函連絡船記念館」の写真。摩周丸は、青函トンネル開通により、1988年3月に運行を終了した。今は、函館市の青函連絡船記念館として使用されている。↓ 摩周丸の船内にある「船の現在位置」。函館行き航路は青い線。青森行き航路は赤い線。函館行きの青い線の中に、位置を示す赤い光が見える。↓ 上野駅で知り合ったSさんと、摩周丸も一緒に乗船した。左がSさん、右が私。↓ 甲板でビールを飲みながら、記念写真。↓ 有料望遠鏡で下北半島を見るSさん。↓ 下北半島。↓ 函館山が見えてきた。Sさんと記念撮影。↓ マップルガイド17 北海道/旺文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)P12~13道南地図。↓ マップルガイド17 北海道/旺文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)P15函館地図。↓ 函館駅で記念撮影。↓ 組み立てた自転車に乗って、五稜郭へ移動した。↓ 五稜郭タワー。↓「函館と五稜郭 五稜郭タワー史跡館ガイド/五稜郭タワー株式会社」↓ 五稜郭タワーの概要。↓ 函館五稜郭祭。毎年5月中旬開催!!↓ 特別史跡 五稜郭。 函館戦争・己己の役。維新戦争末期の明治元年10月、幕府海軍副総裁、榎本武揚は開陽以下8隻に幕軍諸隊二千を乗せ、北風荒ぶ蝦夷地(森町)鷲の木に上陸。同、11月函館五稜郭を無血占拠し、榎本武揚はここに民主主義に根差した新政権を築く。激動する歴史の狭間で新天地を夢見た男達のたった7カ月で消える幻の共和国の誕生だった。↓ 五稜郭タワーの上から見た景色。五稜郭の五角形がよく分かる。↑ 函館戦争当時あった五稜郭内の函館奉行所庁舎。明治元年(1864年)、五稜郭が完成したとき、郭内に建築中であった函館奉行所庁舎も落成した。それから3年後の慶応3年(1867年)、徳川幕府の大政奉還によって幕府直轄の血であった函館は新政府に引き継がれた。しかし、翌明治元年、幕府海軍副総裁だった榎本武揚は、徳川旧幕に対する新政府の処遇を不服とし、品川沖から艦隊をもって北上し函館五稜郭を占拠し、函館戦争の拠点となった。明治2年、榎本軍の降伏により新政府の管轄にもどったが、その後、賊軍が使用していたという理由で郭内の建物(函館奉行所)を解体してしまった。↓ 函館奉行所跡発掘調査概要明治4年、札幌に開拓使本庁を設置するのに伴い解体された函館奉行所庁舎跡について、発掘作業を行っています。この発掘作業は市立函館図書館に残されている「五稜郭内庁舎平面図」をもとに進められています。尚調査期間中はグラウンドの使用が、昭和61年(1986年)6月2日~10月3日まで出来ませんので無断で立ち入らないように願います。函館市教育委員会。↓ ほっかいどう函館五稜郭 カラー記念スタンプ。↓宗教法人 天使の聖母トラビスチヌ修道院。明治31年(1898年)、フランスから派遣された8人のシスターが始めた修道院。↓ トラピスチヌ修道院で記念撮影。↓ 石川啄木の案内板。この辺りは、かつては砂丘が湯の川まで続き、ハマナスが咲き乱れ、啄木が好んで散歩した所であり、歌集「一握の砂」に「砂山の砂に蟹遊び初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」と歌われている。函館市。↓ 石川啄木像。↓ 石川啄木像と記念撮影。「潮かおる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ今年も咲けるや」と台座に記されている。↓ 北海道旅行のために購入した分解型自転車。この自転車は、北海道旅行の後、東北旅行、そして社会人になりオランダ赴任になった時も持参し、オランダ国内やドイツのライン川街道などを走った。↓ 立待岬近くの石川啄木一族の墓にて。石川啄木「東海の小島の磯の白浜にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」 ①「宮崎郁雨(みやざきいくう)の歌碑。郁雨は歌人で、家業の味噌製造業を行った。石川啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。②「砂山影二」の歌碑 (写真の下の歌碑)歌碑は影二の歌集「坊ちゃんの歌集」の冒頭の作品。大正10年5月、世をはかなんで青函連絡船から深夜の津軽海峡に身を投じ、弱冠20歳の生命を断った。↓ 立待岬(たちまちみさき)。↓ 沖に漁火が見えた。↓ 立待岬で記念撮影。↓ 墓地の奥は、函館山。↓ 函館山と高田屋嘉兵衛の像。高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)は、江戸時代後期の廻船業者で、淡路島出身。函館で商売を行い、函館の発展に貢献する。1811年、千島列島を測量中のロシア軍艦ディアナ号艦長のゴローニンなどが、国後島に上陸した時に松前奉行の役人に捕らえられ、約2年間、函館の松前に監禁されたというゴローニン事件が起こった。翌1812年に高田屋嘉兵衛の船が同船副艦長ピョートル・リゴルトに拿捕され、カムチャッカに連行されたが、高田屋嘉兵衛が仲介役となり、ロシア側から謝罪文を貰う事で、ゴローニンは釈放され、事件解決となった。↓ 函館山ロープウェイの搭乗券。↓ 函館山山頂。↓ 伊能忠敬 北海道最初の測量地 プレート。(函館山山頂)↓ ブラキストン(Blakiston)のプレート。(函館山山頂)イギリスの動物学者トーマス・ブラキストンは、津軽海峡の北と南で、動物の分布に相違があると考え、津軽海峡でブラキストン線という境界線を提唱した。例えばクマならば、この線を北限とするのはツキノワグマで、この線を南限とするのはヒグマ。↓ 函館山。↓ 明治館。ーーーーーーーーーーーー↓ 函館で押した記念スタンプ。1986年(昭和61年)8月10日。ーーーーーーーーーーーーー↓ NTTテレフォンカード (函館)を購入した。↓ きた北コール北海道のパンフレット。↓ テレフォンサービス :音楽で描く「函館の夜景」に電話を掛けて聞いた。↓ NTT観光テレフォンカードの案内。このころはテレフォンカードがブームだった。
2023.08.10
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今から37年前になりますが、1986年8月に北海道を自転車で旅行しました。アルバイト先に無理を言って、1986年8月9日(土)~1986年8月21日(木)の13日間を休んで、旅をしました。前年度(1985年8月)に、高校時代から通学用に使っていた自転車で四国一周旅行をしたのですが、これでは列車に乗せられないので、北海道旅行に合わせて分解型自転車を新規購入しました。自転車を分解して、袋に詰めて新幹線にも乗ることが出来ます。北海道旅行の写真が残っていたので、まずは1日目を紹介します。【1日目 : 1986年8月9日(土)】・朝6時に起きて、家から広島駅までバスで移動。広島駅から東京駅まで新幹線を利用した。・東京駅から上野駅まで歩くことにした。通りすがりの人に上野駅の方向を教えていただいたのだが、途中で間違えたようで、神田神保町から武道館、靖国神社まで行ってしまった。・再び歩くと、後楽園球場に着いた。人が集まっているので見に行くと、ドカベン(香川伸行)選手がいた。・結局、3時間も大回りをして上野に着いた。不忍池では夜店が並び、そばの会場で「第35回江戸趣味大会」が行われていた。歌手・「北泉舞子さん」のオンリーコンサートで、私は初めて北泉舞子さんの歌を聴いた。・コンサートの後に上野駅に行くと、青森行きの夜行急行「八甲田」に乗車しようとする人たちでプラットホームはギュウギュウ状態だった。「八甲田」には「MOTOトレイン」の車両があり、バイクも乗せることができた。・「八甲田」の車両だが、シートはすでにいっぱいで、私は床に新聞紙や雑誌を敷いて座った。結局、床も人だらけになり、身動きがとれなかった。若い人と知り合いになった。Sさんという人で、神奈川県横浜市戸塚で勤務しているが、お盆休暇で函館に帰省するとのことであった。車両の床で並んで座った。シートに座っている人たちの足の間に体を入れて、横になろうとするが、難しいので体育座りで寝る事にした。トイレに行きたい人が出ると、床に寝ている人が全員起きて、歩くスペースを作らなければならず、中々寝られなかった。車内は冷房が効きすぎで寒かった。列車は白河、郡山、仙台、平泉と進み、駅名を確認していたのだが、いつのまにかウトウトしてしまい、翌朝は一戸(いちのへ)付近で目が覚めた。ーーーーーーーーーーーーーー「北海道 マップルガイド17/旺文社/昭和61年(1986年)5月第4冊発行」ーーーーーーー1986年8月9日。 東京駅から上野駅まで歩く途中、道を間違えて遠回りをした。↓ 「寿人遊星」像。九段下にある像。1986年ハレー彗星の地球接近を記念して建てられたとのこと。↓ 東京都の紋章。 横には私の自転車に積むバッグなど。↓ 日本武道館。↓ 東京ドーム。まだ建設中だった。 (完成は1988年)人だかりがあり、見るとドカベン(香川伸行)選手だった。。↓ 後楽園遊園地。。↓ 東京駅から道を間違え、3時間歩いて、やっと上野駅に着いた。↓ パンダ像 (赤ちゃん誕生おめでとう 駅長)。↓ 右側に西郷隆盛像がある。↓ 上野・不忍池と夜店。↓ 樟脳(しょうのう)船(400円)。とても懐かしい。↓ 不忍池。↓ 北泉舞子 コンサート会場。↓ 第35回 江戸趣味納涼大会。↓ 北泉舞子さんが歌を歌う。↓ 1986年 夏の高校野球大会 カルピスCM。東東京代表:正則学園高校。 西東京代表:東亜学園高校。↓ 上野駅で記念ハンコを押した。↓ 夜行急行「八甲田」(上野→青森)。バイクを乗せる「MOTOトレイン」が連結していた。上野駅で知り合いになったSさんと記念撮影。函館まで一緒に行くことになった。(左:Sさん、右:私)↓ MOTOトレインの中。北海道をバイク旅行する人たち用。↓ シートに座れなかったので、通路や、シート客の足元に座って寝た。床は新聞紙や雑誌をちぎって敷いた。車両内は人がギュウギュウ詰めの状態だった。深夜にウトウトしていると、トイレに行きたいという人が通路を通るため、皆が起きて体を傾けて通してあげた。まったく熟睡できなかった。列車は東北本線を夜中進み、翌日午前中に青森駅に到着する。
2023.08.09
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2023年8月5日(土)夜、テレビで女子サッカー(日本対ノルウェー)の試合を見始めると、左目ですが、画面の中央から左側にかけて、暗い雲のようなものが見え、画面を隠していました。夕方まで銀座に行っていたので、もしかしたら、夕日を見た残像が残っているのかと思い、時間が経てば落ち着くだろうと考えていましたが、試合が終わっても状況が変わりませんでした。雲のような部分を見ると、色とりどりの小さい記号のようなものが、フラッシュ暗算のようにパッパと見えてきます。目を閉じると、黒の背景に白い雲が見え、白い部分にカラフルな記号がひっきりなしに現れては消えていきました。網膜剥離の可能性があると考え、翌朝、日曜日でも診察している眼科に行き、検査をしていただきました。医者からは、紹介状を書くので大学病院で精密検査を受けてほしいと言われました。月曜日に大学病院の予約を行い、8月8日(火)に大学病院へ行きました。検査を受けた後、先生と話をしました。「中心性脈絡網膜症」のようで、血管から漏れて網膜と脈絡の間にたまった水が問題らしく、時間をかけて自然に水がなくなるのを待つことになりました。加齢が原因かと聞いたところ、30代、40代の人も沢山なっている病気だと言われました。先生から「この病気はストレスが原因で起こることもあるが、最近ストレスになる事がありましたか」と聞かれ、私には心当たりがありました。今年7月に仕事で大問題が発生し、自分一人で対応できなくなりました。どうしたらよいか毎日悩み、生活に支障がでるくらいになったので、心療内科に行って相談し、薬を処方していただきました。私にとって大ショックだったトラブルによるストレスが、もしかしたらこの網膜症を引き起こしたのかもしれません。9月に大学病院へ再度行く事になりました。少しでも良くなってほしいと思います。ーーーーーーーーーーーー↓ テレビ画面。↓ 私の左目。灰色の雲が覆っているように見えた。↓ 黒く覆っている部分をじっくり見ると、小さいカラフルな記号が、ひっきりなしに現れては消えて行った。↓ 目を閉じると、黒い背景に、白い影が見え、カラフルな記号がはっきり見えた。記号は瞬間ごとに変わっていく。視神経の電気信号が関係しているのかもしれない。
2023.08.08
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「三浦雄一郎の『歩く技術』 60歳からの街歩き・山歩き /三浦雄一郎、三浦豪太/講談社/2011年10月11日 第1刷発行」という本があり、プロスキーヤー・登山家の三浦雄一郎さんが70歳、75歳で2回もエベレスト登頂を果たすまでのトレーニング過程が書いてあるので、少し紹介します。P50~51「三浦流超ヘビー・ウォーキング」僕の最終的な目標はエベレストだ。~ そこで始めたのが、南極遠征の時に効果のあった、荷物を背負って歩くというトレーニングだ。立山での強力(ごうりき)生活の経験から編み出したものだ。工夫したのは、背中の荷物に加えて、足には重い登山靴を履くということだ。さらに進化し、足に重りをつけて歩く方法も導入した。アンクルウェイトである。アンクルウェイトは、足首に巻いて付属のマジックテープで固定するタイプが一般的である。ナイロン製の包みの中に、鉄の粉や円筒状の鉄の棒などが入っている。登山用品ショップ、スポーツショップなどでさまざまな重さのものを売っている。僕の場合、70歳のエベレスト初登頂を目指し始めたころ、トレーニング中にふらりと立ち寄ったスポーツ用品店で見つけて買ったのが最初である。まずは、足首に1キロのアンクルウェイトを巻き、背中に10キロの荷物を詰め込んだザックを背負うことから始めた。これで登山靴を履いて外出したり、散歩したりするのである。これなら、毎日でもトレーニングができる。当初は、1日1時間くらいずつ歩いていた。P52~53「アンクルウェイト&バックパック20キロで都内を徘徊」ヘビー・ウォーキングも、3年目からは片足5キロずつ、背中も20キロになった。通常より重たい登山靴を作ってもらい、これにアンクルウェイトを巻く。外出する時はほとんど身につけていく。パーティーがあっても、タキシードを着ても、足に登山靴、アンクルウェイトといういでたちだ。~ 最終的には、片足8キロ、背中に30キロを背負い、東京でも札幌でも町中1時間以上歩けるようになれば、エベレストに行けると想像していた。3年たつと、その状態で歩けるようになった。富士山には5~6回登ったが、ヒマラヤでも前述のとおり6000~8000メートル級の山に登れるようになった。普通のトレーニングは、スクワットとか、ウェイトをつけて腹筋だとか腕立てなどをやるのだが、僕はただひたすら奴隷のように、足に重りをつけ、背中に荷物を背負って歩くだけだった。腹筋、腕立て伏せはほとんどやらなかった。それでもエベレストに登れた。山に登るわけだから、それに近い状態でのトレーニングを選んだのだ。山に登るときにも重い荷物を背負っていくので、そのとおりにする。登る時には登山靴を履くので、日頃もそれを履く。さらに負荷をかけるために重りをつけて・・・。日常の生活の中で、普段の行動に負荷をかけるトレーニングは、とても有効だと思う。ーーーーーーーーーーーー上記の本を読んで、以前からアンクルウェイトに興味があったのですが、長い間、なかなか購入に踏み切れませんでした。しかし、最近病気が続き、興味がある事を後回しにすべきでないと思い、アンクルウェイト2キロX2を購入しました。店内で両足にウェイトを巻き、家まで帰りました。散歩をするときは、必ずウェイトを着けて歩こうと思います。↓ 初めて購入したアンクルウェイト2キロ↓ 「ベストフィット リスト&アンクルウェイト2.0kgX2クロステックスポーツ株式会社」↓ 左足に巻く。↓ 右足も巻く。↓「三浦雄一郎の『歩く技術』 60歳からの街歩き・山歩き /三浦雄一郎、三浦豪太/講談社/2011年10月11日 第1刷発行」↑ 三浦雄一郎のモットー◎ 何とかなる◎ くよくよしても始まらない◎ 細かいことは気にしない◎ サボってもまた始めればいいメタボ、生活習慣病を解消し、エベレスト登頂すら可能にした、楽しくて簡単なトレーニング法を公開!!
2023.08.07
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2023年8月5日(土)、住んでいるマンションから花火大会の花火が見えたので、写真に撮りました。一部を紹介します。同日、各所で花火大会があったため、最寄りの花火大会だけでなく、その左右で遠くの地域の花火がよく見えました。3カ所の花火をまとめてみることが出来たので、得をした気分です。
2023.08.06
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2023年8月5日、妻と一緒に神保町のビクトリアに行きました。日帰り登山用のリュックサックが破れたので、妻が新しいリュックを買ってくれました。下山がきついという話をすると、トレッキングポールも追加購入となりました。次は京橋のモンベルに行こうという話になり、地下鉄を乗り継いで、京橋に移動しました。去年まで着ていたモンベルの服が行方不明になったので、妻がモンベルの服を3枚プレゼントしてくれました。京橋のドトールコーヒーで昼食をした後、銀座を散歩しました。銀座の大通りが歩行者天国になっており、16時から17時半まで、「ゆかたで銀ブラ」という案内がありました。色々な行事が予定されていたので見たかったのですが、この日は女子サッカー(日本対ノルウェー)や花火大会があったので、行事は見ずに急いで帰りました。↓ 地下鉄「京橋駅」。↓ モンベル京橋店。↓ ドトールコーヒーで食事をした。↓ 銀座。↓ 歩行者天国。↓ ゆかたで銀ブラ。
2023.08.05
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2023年8月3日、長男がアメリカ・ハワイから帰国し、うちに寄りました。夏休暇で1週間遊んできたとのことです。お土産は「ホノルルクッキー」で、早速食べました。1,500枚以上写真に撮ったらしいのですが、数枚だけ見せてもらいました。↓ ハワイの長男。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 長男のハワイ土産「ホノルルクッキー」
2023.08.04
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JR駅で、JR東日本「特別設定 えきねっと限定 大人の休日パススペシャル 会員限定 利用期間2023年9月4日~13日の連続する4日間または5日間」のパンフレットをいただきました。わたせせいぞうさんの絵で、福島がテーマになっています。↓ ©わたせせいぞう/APPLE FARM INC.「色とりどりの五色沼 グリーンは癒やしの色」 福島県 五色沼湖沼群(るり沼)↓ 猪苗代ハーブ園アンブレラスカイ。↓ 新幹線グリーン車。↓ フルーツ狩り。↓ JR東日本「特別設定 えきねっと限定 大人の休日パススペシャル 会員限定 利用期間2023年9月4日~13日の連続する4日間または5日間」のパンフレット。
2023.08.03
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2023年8月1日に、シェ・レカミエの「常夏マンゴーショートケーキ」を妻と食べました。私が「店には『シャインマスカットのモンブラン』があった」と話すと、妻が「それが食べたい」と言ったので、会社の帰りに購入しました。子供達が巣立った後、私がケーキを買うのは年に1~2回程度です。今回ケーキを買ったのは、妻が私を助けてくれたお礼です。いつもは背広を会社の椅子に掛けて退社するのですが、7月末に遅い時間まで面接業務を行い、うっかり背広を着たまま帰宅しました。翌日も面接業務があるので背広を持って行こうと思っていましたが、部屋に置いたまま忘れて会社に行ってしまいました。午後から面接業務があるので、妻に相談メールを送ると、妻が勤め先で有給を取得して、私の会社に背広を持ってきてくれることになりました。妻から背広を受け取り、無事面接業務をすることができました。背広と言うと、色々と思い出があります。以前、九州で月曜日に会議があるので、日曜日の朝一番の便で羽田空港から福岡空港まで移動することがありました。日曜日は色々と観光しようと思い、背広を鞄に入れて、私服で家を出発したつもりだったのですが、背広は部屋に置いたままでした。妻が背広に気づき、羽田空港にいる私にメールで連絡してくれました。家に戻るわけにもいかず、背広を送付してもらう時間もないので、私は月曜日の会議をどうしようと動揺したのですが、妻からは「福岡空港に着いたら福岡市内の紳士服チェーン店で背広を購入する事。カードを使っても良い」とすぐに的確な指示が来ました。紳士服会社の福岡営業所に行くと、私が家の近所で過去に購入した紳士服のデータをパソコンで呼び出すことができたので、昼には服を引き渡せると言われ、本当に助かりました。昼に服を受け取り、午後には観光しに行きました。出張から帰って、妻にお礼を言ってお土産を渡すと、「毎回毎回、出張なのに遊ぶことばかり考えているから、こういうことになるのではないの?」と注意されました。今回、妻とケーキを食べながら、「福岡出張の時に助けてもらったね」と言うと、「ずっと昔、背広とズボンを間違えて色違いを着て会社に行った事があって、私が会社にちゃんとした服を持って行ったことがあるけど、忘れたの?」と言われ、私は記憶に残っておらず、恐縮する事しきりでした。↓ シェ・レカミエ シャインマスカットのモンブラン。しゃい
2023.08.02
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2023年8月1日、シェ・レカミエ(CHEZ RECAMIER)でケーキを買って帰りました。「常夏マンゴーのショートケーキ」で、ヤシの木の飾りが付いており、南国の夏をイメージします。ケーキを食べ始めた妻が、「サーモンの味がする!」と言うので、私もマンゴーとクリームを口に入れると、本当にサーモンの味がしました。食べ物の食べ合わせで、別の味が生まれることがありますが、マンゴーとクリームでサーモン味になるとは驚きでした。目をつぶってケーキを食べると、サーモンの刺身を食べている感じがして、とても面白かったです。↓ シェ・レカミエの「常夏マンゴーのショートケーキ」。
2023.08.01
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