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バター茶のその後が気になる御仁の為に。
ブータン、常夏の都市(と言っても日本から見れば村)プナカと風の谷ウォンデェポダンで過ごした後、私達はまた首都(と言っても横須賀ぐらい)に戻りそこで2日過ごした。
皆で民族衣装を着てメモリアルチョルテンに行き記念撮影をし、買い物をし、織物の学校を見学し、伝統料理を食べ、郵便局に行きオフィスの奥まで行き日本にEMSを送った。時には皆と別行動で青年海外協力隊の平田さんに案内してもらって本屋めぐりをしたり・・・。
毎日の私達の行動があまりにもゆっくりしているので(食事に時間がかかりすぎて自宅で待機しているガイドが待ちくたびれてしまうことも、みんなで長く盛り上がりすぎてレストランの電気をパチンと落とされてしまうことも有った)次の移動地に着くのはいつも夕闇の中ということになってしまうのだった。
ティンプーから旅の初めに着いた空港のあるプナカに移動した時もそろそろ夕暮れ、バンを飛ばしたがパロの国立博物館の見えるところであえなく閉館時間ということに・・。
それではと次の予定のアサミちゃんのベストフレンドであるタカシさん(ブータン名は分からず)の実家にお邪魔した頃には辺りはまたしても薄暗闇になっていた。
←暗い写真なので画像修正後
アサミちゃん曰く、タカシさんの家は嘗てJICAの国際貢献で日本から来て28年の農業指導の後、この地で亡くなったダショー西岡のパロに3つ有ったオフィスのうちの1つを貰い受け改造した伝統洋式家屋だそうだ。
西岡さんのブータンでの活躍の本を読んだ私は、このラッキーに1人飛び上がって喜んだのだった。興味深々で仏間や台所を見せてもらい、居間の窓から眺める先には夕闇にライトアップされたパロソンとパロ国立博物館が浮かび上がっていた。
タカシさんのお父さんがお茶の接待をしてくれた。ブータンでは男が接待をするのだという。皆が車座に座った真ん中にザウとビスケットが並べられ、お父さんがマグカップにバター茶を並々と注ぐ!
そこでアサミちゃんがストップをかけた。ゾンカ語で皆はミルクティを頂きたいことを告げると、お父さんは台所に立って行き、ミルクティをポットに持って帰って来た。
真ん中に1つ、バター茶の注がれたマグカップ!
多分私の全神経がそこに集中していたのだろう。アサミちゃんには私の目からテンテンテンと点線がバター茶に注がれているのが見えたのだろうか。ムサシさんの家でバター茶をすべて飲み干した私を観察していたのだろうか。
ミルクティーが揃ったところでアサミちゃんが
「これはウサギさんなら飲めますから」とバター茶のカップを私の方に押してきたのだった。
頂いた物は出来るだけ飲む主義。まあね、一杯なら。
それより私にはお父さんの名前の方が気になっていた。
確かダショー西岡が作った農業センターには初期の頃、12歳と14歳の少年が技術見習いで入り、その2人は茨城県に農業留学しその後のパロの農業に大きく貢献していることを本を読んで知っていたから、もしかしたらそれはタカシさんのお父さんかも知れないと思ったのだ。
「お父さんの名前はなんですか?」
果たしてお父さんはドルジさんと言った。そして日本に農業研修で来ていた事が有るというではないか。
そうなのだ、あの本に出てきた、12歳のドルさんにきっと間違いがない。ここまで来て良かった。バター茶を飲んで良かった。
と、油断した隙にふと見ると、お父さんが私の空になったカップにまたバター茶を注いでいるではないか。
「あの、もう、けっこ・・・・」その時はすでに遅かりし、私のカップにはバター茶がまた並々と注がれた後だった。
ダショー西岡(ダショーは彼の貢献に対して国王から送られた称号、サーのようなもの)の所属したJICAや日本語教師のアサミちゃんや学校建設の貢献をしている平田さんの所属している青年海外協力隊などたくさんの日本人がブータンでは一生懸命働いているはずだった。単なる旅行者である私には彼らの苦労は分からないが、それでもアサミちゃんを通して、彼らがどんなにブータンに溶け込んで日本とブータンとの架け橋になっているかはひしひしと感じることが出来た。
ゾンカ語を自由に操り、キラを着て現地に同化し、たくさんの生徒達に日本名を与え、私達が移動するどこに行っても生徒のガイドたちから「先生」とか「クズザンポー」とか声を掛けられるアサミちゃんを見ているとすばらしいなと思うのだった。
コウタさんとムサシさん パロゾンで会ったガイド中の生徒さん
パロゾンで再会のガイド中の生徒さん タイガーネストレストランで働いている生徒さん
コウタさんの彼女ツェリンさん タカシさん タイガさん
もっともっと生徒達に会って、時にはこの再会セレモニーのおかげで私達の予定が日暮れに向かって遅れていくのではないかと、自分達の食事タイムの遅さを棚に上げて、旅行者達4人は愚痴るのであった。
翌日のタクツァン登山の後、私達は高級ホテルウマでゆっくりお茶をしていてまたしても薄暗くなってしまったパロの小高い丘の上に立つダショー西岡のチョルテンに立った。それはこの旅行の前からの私のリクエストをアサミちゃんが覚えていてくれたから。
西岡チョルテン チョルテンの有る丘に立ち並ぶ祈りのダルシン(旗)
このチョルテンがこの地にある限り、JICAや青年海外協力隊がどんなに勇気付けられることだろうと思ったのだった。