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昨夜日本語クラスが終わった後、その日のボランティア皆で食事に行った。そのうちの私も含めて3人はブータンに一緒に旅をした仲間。1人はその時ブータンに青年海外協力隊で赴任していて、我々の旅を企画し、彼女の生徒である日本語を勉強しているガイドと共に案内してくれた女性だ。私はその時一緒に行った仲間に聞いた。「もう一度チャンスが有ったらブータンに行きたい?」しばらく考えたのち「うーん、あのでこぼこ道が無かったらねえ。峠にはトンネルが出来たらいいのに」と答えが返って来た。確かに私以外全員が酔ったからなあ。でも、そうかなあ、安全のためというなら少しはわかる気がするが、それはブータン国民が望まない自然破壊につながるのではないだろうか。ふと考えてしまった。その、国民総幸福論の国から結婚ほやほやの国王と王妃が来日している。毎日テレビる見る国王は民族衣装の「ゴ」を着て、国王とジェケンポ(最高位のお坊さん)が身にまとう黄色いカムニを付けておられる。私は毎日女性の民族衣装である「キラ」を変えて現れるきれいな王妃様に目が釘付けになる。キラは安いものはマーケットで1,500円ぐらいから売られているが、高いものは旅行者でも手が出ないほどに高くその織や刺繍に手が込んでいるものだ。王妃様が来ておられるのは高いんだろうなあ。今日来ておられた白いキラに赤い刺繍の「ラチェ」ははっとする美しさだった。私はブータン旅行中、プナカのゾン(政府の役所兼僧院かな)にはどうしても正装で入りたくて旅の初めに首都の生地屋さんでキラを購入したのだった。ラチュだけは高くて買えなくて(旅の最後には清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったが)ゾン訪問時はガイドさんの妹のを借りた。キラを着るのは旅の記念になると皆は思って買い求めたようだが、私はキラを来て入ることが信仰を理解することなのだと信じたのである。根っこは我々と同じ仏教の信仰。誇り高き国への敬意だったかもしれない。私が買い求めた今日の王妃様と同じ赤の地に刺繍がしてあるラチェを身に着けてまた再びブータンを訪れる日が有るだろうか。今日の王妃様のキラはここに↓http://www3.nhk.or.jp/news/tokusetsu2011/1117.html
November 17, 2011
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私のブログを読んでくださる方はきっとブータンはなんてすばらしい国だろう。まるで桃源郷のような、ひょっとしたら極楽に近い国ではないだろうかと感じられたことだろう。実際私は自分のブログでそう思われるだろうと思いながら書いて来た。せっかく、そう思っていただいて悪いが、今日はその気持ちを「どかん」と落とすようなことを書こうと思っている。その前に2つの仮定 1.もし、自分の国の歴史の中にいつの頃からか住み着いた自分と違う民族がいて、その人口がどんどん増え、自分達の民族よりそれが増えてしまい、その文化や慣習や主張が本来の国のそれを押しのけて来たらどうするか。 2.もし先祖からずっと他の言葉を話す民族が多い国に暮らしているうちに、本来の自分の国の文化や言葉や伝統や民族としての誇りや国籍を捨てなければその国を出て行けと言われたら、どうするか。夢のような国ブータンにはブータンを追われネパールやインド領内の難民キャンプで過ごすブータン難民と言われる人たちが何万人もいる。え!と思うだろう。悲しいかなそれは事実だ。昔、民族浄化政策で住み慣れたブータンを終われたネパール語を話す民族である。はるか昔にブータンに住み着いて、ブータンで土地を持ち、田畑を耕し、生活していた。あるときブータン政府が国民調査した時、ゾンカ語を話すブータン人と変わらぬ数で増えて来たネパール語を話す民族に危機感を抱いたブータン政府は、ブータンの文化を守るためにゴの着用やゾンカ語を話すことを全国民に強要した。ネパール語を話し南部の暑い地域に住む民族にとってそれは辛いことだった。人々はブータンを逃げ出し、ネパールやインドで難民となって難民キャンプで暮らしている。あの崇高な王様がなぜそんなことをしたか?答えは「失われた王国」にあった。多分。 昔、そんなに遠くない昔、1975年5月地球の上から1つの王国が消えた。その王国の名前はシッキム。ヒマラヤを背にし、ネパールとブータンの間にあった国。紅茶で有名なダージリンもずっと昔はシッキムにあった。シッキムもまた王様の治める王国。そしてそこにもネパール語を話すたくさんの民族が居た。そしてその民族はやがてシッキム王と同じ民族の数をはるかに超えて増え、ついには民族的に乗っ取られる形になってしまったのである。そして、その国は滅び今はインドに併合されてしまっている。 ブータン王はもちろん隣国の悲劇を目の当たりにしている。自国民を地球上のどの王よりも愛し命を掛ける王様なのは周知の事実。その王と政府が取った政策は間違っていたのだろうか?ほんのちょっとブータンの、それも一部分だけを旅行したよそ者が判断できる問題でもなく、遠く平和なほとんど単民族に近い国の国民が歴史や経過も良く勉強しないで判断できるものでもない。しかし、もう一度最初の仮定に戻ってみよう。その時、私達はどうするだろうか。 人事だからと言って目をそらすものでもないし、ただ単にその国はすばらしかったと夢うつつのままでいてもいけない。次にブータンを訪れるチャンスが有るのなら次はきっともう少し違ったものが見えてくるかもしれないともあれ、その国の自然は彼の国が必死で守り続けるだけあって極楽のように美しいのであった。そして、王様はまだ一生懸命難民問題に取り組んでいるであろう。難民キャンプを訪れて、難民にブータンに戻るように呼びかけたのだと聞いている。 注:本日の記事は政治問題である。賛否両論有るだろうし、事実の正確性も勉強不足だ。だから、このブログ上での政治論争はお断り。影の無い世界は存在しないと言う話。
May 27, 2010
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バター茶のその後が気になる御仁の為に。ブータン、常夏の都市(と言っても日本から見れば村)プナカと風の谷ウォンデェポダンで過ごした後、私達はまた首都(と言っても横須賀ぐらい)に戻りそこで2日過ごした。皆で民族衣装を着てメモリアルチョルテンに行き記念撮影をし、買い物をし、織物の学校を見学し、伝統料理を食べ、郵便局に行きオフィスの奥まで行き日本にEMSを送った。時には皆と別行動で青年海外協力隊の平田さんに案内してもらって本屋めぐりをしたり・・・。毎日の私達の行動があまりにもゆっくりしているので(食事に時間がかかりすぎて自宅で待機しているガイドが待ちくたびれてしまうことも、みんなで長く盛り上がりすぎてレストランの電気をパチンと落とされてしまうことも有った)次の移動地に着くのはいつも夕闇の中ということになってしまうのだった。ティンプーから旅の初めに着いた空港のあるプナカに移動した時もそろそろ夕暮れ、バンを飛ばしたがパロの国立博物館の見えるところであえなく閉館時間ということに・・。それではと次の予定のアサミちゃんのベストフレンドであるタカシさん(ブータン名は分からず)の実家にお邪魔した頃には辺りはまたしても薄暗闇になっていた。 ←暗い写真なので画像修正後アサミちゃん曰く、タカシさんの家は嘗てJICAの国際貢献で日本から来て28年の農業指導の後、この地で亡くなったダショー西岡のパロに3つ有ったオフィスのうちの1つを貰い受け改造した伝統洋式家屋だそうだ。西岡さんのブータンでの活躍の本を読んだ私は、このラッキーに1人飛び上がって喜んだのだった。興味深々で仏間や台所を見せてもらい、居間の窓から眺める先には夕闇にライトアップされたパロソンとパロ国立博物館が浮かび上がっていた。タカシさんのお父さんがお茶の接待をしてくれた。ブータンでは男が接待をするのだという。皆が車座に座った真ん中にザウとビスケットが並べられ、お父さんがマグカップにバター茶を並々と注ぐ!そこでアサミちゃんがストップをかけた。ゾンカ語で皆はミルクティを頂きたいことを告げると、お父さんは台所に立って行き、ミルクティをポットに持って帰って来た。真ん中に1つ、バター茶の注がれたマグカップ!多分私の全神経がそこに集中していたのだろう。アサミちゃんには私の目からテンテンテンと点線がバター茶に注がれているのが見えたのだろうか。ムサシさんの家でバター茶をすべて飲み干した私を観察していたのだろうか。ミルクティーが揃ったところでアサミちゃんが「これはウサギさんなら飲めますから」とバター茶のカップを私の方に押してきたのだった。頂いた物は出来るだけ飲む主義。まあね、一杯なら。 それより私にはお父さんの名前の方が気になっていた。確かダショー西岡が作った農業センターには初期の頃、12歳と14歳の少年が技術見習いで入り、その2人は茨城県に農業留学しその後のパロの農業に大きく貢献していることを本を読んで知っていたから、もしかしたらそれはタカシさんのお父さんかも知れないと思ったのだ。「お父さんの名前はなんですか?」果たしてお父さんはドルジさんと言った。そして日本に農業研修で来ていた事が有るというではないか。そうなのだ、あの本に出てきた、12歳のドルさんにきっと間違いがない。ここまで来て良かった。バター茶を飲んで良かった。と、油断した隙にふと見ると、お父さんが私の空になったカップにまたバター茶を注いでいるではないか。「あの、もう、けっこ・・・・」その時はすでに遅かりし、私のカップにはバター茶がまた並々と注がれた後だった。 ダショー西岡(ダショーは彼の貢献に対して国王から送られた称号、サーのようなもの)の所属したJICAや日本語教師のアサミちゃんや学校建設の貢献をしている平田さんの所属している青年海外協力隊などたくさんの日本人がブータンでは一生懸命働いているはずだった。単なる旅行者である私には彼らの苦労は分からないが、それでもアサミちゃんを通して、彼らがどんなにブータンに溶け込んで日本とブータンとの架け橋になっているかはひしひしと感じることが出来た。ゾンカ語を自由に操り、キラを着て現地に同化し、たくさんの生徒達に日本名を与え、私達が移動するどこに行っても生徒のガイドたちから「先生」とか「クズザンポー」とか声を掛けられるアサミちゃんを見ているとすばらしいなと思うのだった。 コウタさんとムサシさん パロゾンで会ったガイド中の生徒さん パロゾンで再会のガイド中の生徒さん タイガーネストレストランで働いている生徒さん コウタさんの彼女ツェリンさん タカシさん タイガさんもっともっと生徒達に会って、時にはこの再会セレモニーのおかげで私達の予定が日暮れに向かって遅れていくのではないかと、自分達の食事タイムの遅さを棚に上げて、旅行者達4人は愚痴るのであった。翌日のタクツァン登山の後、私達は高級ホテルウマでゆっくりお茶をしていてまたしても薄暗くなってしまったパロの小高い丘の上に立つダショー西岡のチョルテンに立った。それはこの旅行の前からの私のリクエストをアサミちゃんが覚えていてくれたから。 西岡チョルテン チョルテンの有る丘に立ち並ぶ祈りのダルシン(旗)このチョルテンがこの地にある限り、JICAや青年海外協力隊がどんなに勇気付けられることだろうと思ったのだった。
May 20, 2010
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ブータン3日目、プナカのホテルで一泊した私達は翌日ほとんどの観光客が出かけてしまったと思われる頃、ゆっくり朝食を摂り、出発した。この日はほぼ遠足のような日だった。まずは昨日昼食を摂ったレストラン「ビレッジ」の脇を下り、田んぼや畑の中をハイキング。目的地は見えている、谷を下り、村を通り、その先の丘の上にあるチミ・ラカン。子宝の寺。田んぼのあぜ道を歩く、途中にマニ車、ぐるっと時計回りに回って、またあぜ道を進む。牛がいる、農作業の人がいる。犬がダラーと寝ているのどかな道。丘を登るにつれ豊かな農村地帯の向こうにゆったりとパロの川が流れる。チミラカンにはお坊さんの学校が有って、特別に見せてくれた。小さい子供達が英語を勉強していた。以前に書いた4歳のお坊さんが一緒に勉強していた。まだ字は書けないのだろうノートは無し。お寺のほうにはお坊さんと小坊主が座っていた。私達がガイドの説明を受けている間にお坊さんはどこかに出かけて行った。すると、小坊主が床にごろんと横になって昼寝を始めた。ハエが飛び交う暑い堂内、住職さんのお付は疲れるのだろう。それでも私達が五体投地をしてお賽銭を置くと、起き上がって来て祭壇に有った水差しを取って、重ねて差し出した私達の手に香水を掛けてくれた。祈りのダルシン(棒にくくりつけて立てた旗)サボテンが咲き、トカゲが木に張り付いている丘に風が吹く。チミラカン遠足の後は車移動でウォンデェ・ポダンに移動。ウォンデェのゾンが高台に見える頃、道端に車を止めて今度は急な坂を登る。風が強く吹き、乾いた空気はサボテンの咲く丘の土を舞い上げる。キラを着ている私はとても歩きにくい。コウタさんが「ウサギさん、キラを持ってくださいね」と笑いながら冗談を言う。キラは一枚の布だから、実際しっかりキラを押さえていないと大変なことになるのだった。川向こうのゾンと同じ高さになった頃、足が疲れてがたがたになった。まだ着かないのかな。やっと村落の端に着く。村落の一番下には土で出来た家畜小屋があり、人家の集落はその上に固まっている。広い農村に歩つんぽつんと離れて家を建てるブータンに有ってここの家々は集落を作っている。昔、ネパールから来た人々の集落だそうだ。異国で助け合って生活するには寄り添って生活するほうが便利だったんだろう。 もう歩けない。ゾンはもはや遥か眼下になってしまい。何十枚という小さな棚田の景色が広がる頃、集落の一番てっぺんにある村のお寺に辿り着いた。お寺の前では村の女性達が集会を開いていた。アサミちゃんがゾンカ語でお寺の中を見学する許可をもらったので中に入ると、ちょうど修復作業中で塑像の仏像を作ったり、壁に曼荼羅を書いたりしていた。二階の仏間からは遥か下の方にウォンデェの町とゾンが見えた。 寺を出ると一人の女性が私に近づいて来たので「ガデンチェ ラ(ありがとうございました)と言うと、何かゾンカ語で話しかけてきた。分からないよとアサミちゃんに助けを求めると、「こんな遠いところのお寺まで良くお参りに来てくれてありがとう」と言っているのだと教えてくれた。風の谷のリンチェンガン村はガイドブックには出ているが、高い場所にあるのと時間がかかるので上までは、観光客はめったに来ないところだそうだ。棚田を見下ろす崖の端で座り続ける女性二回目の遠足を終え、バンに戻り、昼食を済ませた後、ティンプーに戻る前にチェックポイントを通過して川を渡り、リンチェンガンと川の反対側にあるウォンデェの町を見学した。風の渡る谷に住むのは大変なことに違いない、ブータンのほかの地域と違ってここでは人々が寄り添い固まってしたたかに生活しているのだった。ゾンのある川向こうから眺めたさっき登ったリンチェンガン村の様子
May 14, 2010
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ブータン料理は世界一辛いと言われている。何故か?韓国料理も辛いよ。スパイスのコチジャンがたっぷり。インドネシア料理もメキシコ料理もみんなスパイスに唐辛子が入っているから。ブータンもスパイスにとうがらしを使う。ブータン代表料理がこれエマダツィ(Chilly with Cheese)これは唐辛子の代わりにジャガイモを使ったもので↓ケワダツィ(Potato with Cheese)ここでクイズその1なぜブータンの料理は世界一なのか。ヒントは上の2つにある。そう、チーズを使ったとうがらし、チーズを使ったポテト。ポテトのところにとうがらしを置き換える。すなわち唐辛子はスパイスではなく野菜なのである。スパイスにちょっと、なんてものじゃなく、ドカンと使うのである。エマダツィの中の緑はすべてからーい唐辛子。それでも足りないらしく、こんな赤唐辛子の調味料も付いて来る。ホテルの食堂や外国人向けのレストランで↓ 白いご飯や赤いご飯に混ぜて食べる。最初は辛い、辛い、と言っていたのがだんだん慣れて来た。なんだそれほどでもない。食べられるじゃない。ところが、これらのホテルやレストランは外国人用にそんなに辛くなく作ってあるのだそうだ。その上、アサミちゃんが予約の段階で手加減を依頼することもあるようだった。私達のために。それではと地元の人が行くローカルレストランで食べる。 小龍包のようなMOMO以外は皆辛~い。からーい。地元のレストランで食べた時はアサミちゃんの友人で青年海外協力隊でブータンの学校建設に携わっているという平田さんが一緒だった。注文して例によって全員の料理が一緒に出てくるまでの長い待ち時間の間に平田さんは付いていた紙ナプキンでお皿を丁寧に拭いているのである。全員の分を拭いてくれる。????「何しているの?」「お皿を綺麗に拭いているんです。ブータン人は皆します」「え!」我らゲスト一同目が点になった。ブータンに来て今まで一度も拭いてない。紙ナプキンは付いていたけれど・・。それは何のために?お皿は拭かなきゃ汚い?お店の人を信用していない?お皿拭くのをもっと早く言ってよね。 基本的にガイドと運転手はゲストと一緒のレストランで食事をしない。レストランやホテルの厨房の一角でまかない飯を食べるのである。台所で食べるご飯はただ、だからゾンカ語が話せるアサミちゃんは時々台所でガイドと一緒に食事をした。1人分が浮くんだって。ゲストが是非一緒にというとガイドは一緒に食事をするが、すごく遠慮する。アサミちゃん言うところ、彼らはあまりそれを歓迎しないのだという。ブータン人はすごくいっぱい食べる。小食の外国人より食べるのは気が引けるし、何より外国人のご飯は辛くない。え!あれで辛くないの?じゃあ、もっと辛いの?甘いスイーツはあるの?普通のホテルで出るのは(普通と言っても私達のは高級ホテルだったが)この程度。一泊10万円するウマホテルでは(前回書いたアマン・コラのほかにもある超が付く高級ホテル、もちろん泊まってはいないスイーツ探検だけ)横浜インターコンチネンタルと変わらない。値段も多分変わらない。何でも探検するのがいいねという事で、町に1件のハンバーガー屋で食べたヤクのハンバーガー。ものすごく美味しかった。マクドナルドより。朝食バイキングはどのホテルでもいつもほとんど同じ。パンも同じ(多分ブータンにはこのサイズしかないんだろう)。アサミちゃんは新しく出来るホテルのスタッフ教育もしたのだという。だからあちこちのレストランに生徒や知り合いがいた。そういう時は後から特別にマンゴーやバナナが出ること有った。「だれだれさんから」と言って。ブータンかなりのコネ社会らしい。ではこれらの野菜はブータンでは採れるのか?日曜日に開かれる市場に行った。1階 いやー、野菜も果物も実に豊富だ。ここはインドなどからの輸入野菜のマーケット。え!じゃあブータンのは?2階 チーズ 八つ頭のような木の根っこかと思うような芋うーん、何だか品物が寂しいそれでも香辛料だけはたくさん有った。首都以外は基本的に自給自足なんだろう。地方の民家は何枚もの田畑や林の間にぽつんぽつんと建っている。隣の家とも離れている。牛もいる。馬もいる。鶏もいる。市場に物がないからと言って食べ物に困ると考えるのは間違っているのだろう。ブータン赤米、タイ米を半分にしたサイズでぽろぽろしている白いブータン米、上から3番目の白い米はダショー西岡(JICAプログラムの日本人)がブータンに住んで20年掛けて指導した、白米。 最終日のタクツアン山登りの時のピクニックランチは、ガイドも皆一緒にパロのレストランで調達して、ガイドのタイガさんが麓から背負って来た食べ物を食べた。渡されたお皿にそれぞれバイキング形式でおかずとご飯を盛って来て食べ始める。ふとガイド達を見ると、なんと皆、ナプキンでお皿を拭いているではないか。しまった。拭くのを忘れた!極端に清潔な国日本から来た、お皿はいつも綺麗だと思って疑わないゲスト達であった。
May 13, 2010
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人は死んだらどこに行くのだろうか。死は恐ろしいものだろうか。ゼンダさんによると、ブータンにはお墓がないという。人は死んだら焼かれ、その灰は川に流される。ブータンに流れるいくつもの川はすべてインド・バングラディッシュに流れガンジス川に行き着きやがてはインド洋に注ぎ込む。死は新しい生への出発。すべての生き物は生まれ変わる。人から動物へ、動物から昆虫へ。どう生まれ変わるかは生きていた時の生き方しだいで決まる。生まれ変わった世界の一番上は人間界。来世もまた再び人間界に生まれ変わるために人々は暇があればマニ車を回し、数珠を繰り、殺生を慎み、犬や猫に施しをする。日常においてちょっとした親切を心がける。今生は来世のためにある世界。そうやって生き物は転生を繰り返す。願うのは少しでも上の階級に生まれ変わること。農地を持った農民に、僧に、人々から崇拝される高僧に。 メモリアルチョルテンでマニを回し祈る老人達 ドチェ・ラ峠のチョルテンの前で数珠を弄る老婆 タクツアン登山の昼食の残りを犬に与える チミラカンのマニ車の下に座り続ける老婆一番上は人間界と書いたが実はその上がある。生の繰り返し(輪廻)から開放された人は涅槃に到達する。最もえらい聖職者は、この世に必要とされた時、生まれ変わって戻ってくるそうだ。パロの博物館でガイドのコウタさんが言った。コウタさんのおじいさんのお兄さんもまた名の知れた高僧の生まれ変わり(化身)だったと。 1988年、ブータン国王はタシガン県に赴いた。昼食の時、その場に居た4歳にも満たない幼い僧が国王に向かって言った「タンゴ僧院を立てたのは私です」。タンゴ僧院を建てタクツアン僧院建設指導したのは17世紀にブータンに現れた高僧、デシ・テンジン・ラプゲ。少年僧は4歳とは思えない聡明さでものを言い、普通の人が知ることが出来るはずもないことをたくさん知っていた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第4代国王妃著「幸福大国ブータン」より要約 ブータン4日目、プナカからティンプーに戻った私達は二手に分かれた。ハルミさん、ワキさんと案内のアサミちゃんの買い物組み、そしてお寺や歴史が好きで少しでもたくさんの場所を見学したい唯一の男性ダイヤさんと私はガイドのコウタさん、ムサシさんとソナムさんの車でティンプー郊外、山の中にあるタンゴ&チェリ僧院見学に出かけた。またしてもの山道で酔ってしまって無口になったダイヤさんを助手席に乗せて、私はガイドの2人に日本語と英語で質問攻めにしたのだった。それはチェリ僧院を山の下から眺め、タンゴ僧院の見えるところに着いた時、コウタさんが言った一言からだった。「今、タンゴ僧院にはタクツアンを建てた化身が住んでいる」王妃様の本で読んだデシ・テンジン・ラプゲのことではないか!ブータンに来る前、本を読んでからというもの頭から離れない「生まれ変わり」。映画のセブン・イヤーズ・イン・チベット」や「ダライ・ラマ」の世界。今、ブータンは彼を必要としているのだろうか。人々が必要とするとき、聖職者は人間界に転生をする。その時の少年は今、10歳だという。タンゴ僧院で国中の高僧から学び、読経し、儀式を執り行い、瞑想をしているという。たとえ許可が出たとしても1時間はがけ登りをしなければ着かないだろう山の上のタンゴ僧院を見上げながら、私は暫しの間、輪廻の不思議に感動して立ち尽くしていた。 タンゴ僧院 チミラカンの中のお坊さんの学校で見た最年少4歳のお坊さん 後日、タクツアン登山の折、登山のための助っ人ガイドのタイガさんに「今の最高位のジェ・ケンポの後継者は決まっているのですか?」と聞いたら、「次のジェ・ケンポはタンゴ僧院のデシ・テンジン・ラプゲにもう決まっている」という答えだった。何年か後のシャプドゥンの日にブータンに戻って来たら、ジャカランタの咲くプナカ・ゾンでまた新しいジェ・ケンポに頭をなでてもらえるだろうか。その時はそっと下からそのお顔を垣間見よう。
May 11, 2010
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プナカ・ゾンで幻想的な時間を過ごした後、私達はバンでさらにモ・チュ(川)岸を遡って行く。超高級ホテルでおやつを食べるために・・・。シンガポール資本(飛行機の中でゼンダさんに教えられた)のアマン・コラはブータンの街から離れた林や田んぼの中にに6箇所のロッジタイプのリゾートホテルを持っている。非日常をヨーロッパやアメリカのお金持ちがこの神秘の国で過ごそうというものだ。一泊10万はするというそれがどんなものか見て見たいじゃないか、とすぐ乗る我らなのである。途中1mほど下の畑にトラクターが落っこちていた。「置いてあるんじゃない?」「いや、落っこちているんだと思う。人はいないけれど・・・。」モ・チュ(川)の脇で車を乗り捨て運転手のソナムさんを置いてつり橋でモチュを渡る。コウタさん、揺らさない揺らさない!橋の向こうにはディズニーランドの屋根付きゴーカートのような車が待っていた。猛スピードで田んぼのあぜ道をゴー。田んぼの真ん中、川を見下ろす絶景にアマン・コラ ホテルが有った。 ブータンに有ってブータンじゃない世界。アマン・コラのカフェで私が頼んだのはそば粉のガレット(クレープ)。そば粉から挽いているんじゃないかと思うほど、かなり時間が経って出て来たそれは、多分東京のリッツやマンダリンと変わらないだろう。「全員の料理が出来ないと出さないんじゃない?」「そうかもね」この予想は当たっていた。他のどのレストランでも全部の料理がいっせいに出てくるのだった。それぞれ注文ののスウィーツとコーヒーを飲む。寄ってくるハエを追う。超高級でもここはブータン、ハエはいる。駄目だ、ここではブータンを知ることなど出来ない。金持ち大国の傲慢さしか感じられない。ここの宿泊客は、ブータンに何を求めているのだろうか?バリやモルジブと同じ感覚を求めてくるのだろうか。少しでも旅行費を安く上げようと苦労しているアサミちゃんが、つぶやいた「3日分のみんなの夕食が1回で吹っ飛んだ」それでも毎回の辛い料理に苦戦していた私達は、甘いものでお腹いっぱいになってまたゴーカート、つり橋の順に車に帰る。「ムサシさんの実家が近くで、ムサシさんが見せてくれるというけれど、行く?」「もちろん!」周りに民家がぽつんぽつんとしか見えない田舎の風景の中、日没間際で暗くなりかかる道がこれ以上細くはならないだろうと思われる頃、停車。またしても川岸に車を置いてつり橋を渡る。田んぼのあぜ道、石がゴロゴロの山道をどんどん登っていく。 馬もいる、山の上にはチョルテン日が落ちる、あたりが暗くなり、足元がおぼつかない。山の上のチョルテンに灯が灯る。 写真は明るく画像処理してあるが、実際はすごく暗くて良く見えない。やっと着いたと思ったら隣の家だった。それからさらに暗がりを進む。橋からかれこれ30分も登った頃、ムサシさんの実家に着いた。 暗がりの中から家畜の牛達の興味深々な視線を感じる。はしご段を上がると、2階が玄関、暗がりに犬とおじいさんが座っていた。「クズザンポー ラ」と私が声を掛けるとおじいさんが「クズザンポー ラ(こんにちは)」と答えてくれた。靴を脱ごうとするとそのまま入れという。家族の靴は脱いでおいてあるのに、ムサシさんも靴を履いたままで、そのままで良いと言う。私達のために気を使ってムサシさんまで靴を脱がない。居間のソファーに皆は掛けられないので、私とコウタさんとムサシさんは置いて有ったベットに腰掛けた。お母さんがバター茶を振舞ってくれた。皆、おっかなびっくり飲んでいる。「駄目だ」と言う。私はまたいつもの癖で、せっかく出してくれたものだからと全部飲み干したがこれがその後の民家訪問第2弾の命運を大きく分けることになるのだった。 お母さんはお茶請けに「ザウ」という伝統的な米を炒ったお菓子を出してくれた。家の中で1番立派な仏間を見せてもらい。この家に住んでいる家族全員と記念写真を撮って、それぞれがお土産にもらったザウを持って外に出ると、街灯も町の明かりも一切ない暗闇が待っていた。山の上に灯がともされたチョルテンの明かりのみが、ここが人の住む世界だと教えているのだった。「どうやって帰るの?」そう、川までいくつかの携帯電話のあかりを頼りに30分皆、転ばないように、小川に填まらないようにと手探りで戻ったのだった。私の手をムサシさんはずっと引いてくれていた。「ウサギさん、大丈夫ですか」と30回は言ってくれただろう。ブータンの男性はハンサムな上に優しいのだった。その日の宿泊ホテルに戻る真っ暗な道でバンが止まった。前方にいくつかの明かりと何台かの車が渋滞している。落ちたトラクターを上げているようだ。「10分待ってくださいと言っています」「じゃあ。30分だね」みんなが言った。いやいや、それじゃ無理ですよきっと、と私は思った。落ちたトラクターをショベルカーで上げているのである。クレーンじゃなくて。ひっくり返すんじゃなくて、吊り上げなきゃ無理でしょう?結局持ち上げられなくて、事故現場の横を徐行しながら進むことになったのだった。
May 10, 2010
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ブータンは国土のほとんどが山また山なのである。だから鎖国を止めてさて飛行場をを作るとなった時、首都ティンプーは狭すぎて飛行機が下りない。そこで首都から車で1時間半のパロ谷(谷と言っても標高2,300m)に飛行場を作った。「ようこそ」と若者達に迎えられた私達は総勢8人でバンに乗り首都を目指す。高速道路をひた走る。日本のそれを想像してはいけない。高速道路と言っても日本の林道に毛が生えたような・・・。赤茶けた山肌にぽつぽとと低い木が生えている風景の中を山肌を縫うようにカーブする道路。アサミちゃんの配慮で私達と日本語勉強歴2ヶ月の2人のガイドが互いに話せるように席を決めて有った。早速ハルミさんがガイドのコウタさん、ムサシさんを質問攻めにする。2人はアサミ先生の顔を見ながら日本語をそっと教えてもらいながら応答していた。30分ほど高速道路(ということにしておく)を走ったところ川の合流点でチェックポイントの建物(関所)が有った。コウタさんが私達のビザを持って事務所に走る。ブータンの道路には要所要所にこのチェックポイントがあり、旅行者はビザを提示しなければ通過できない。全国に6個あるゾンカク(県)の入り口にあるのかと思ったら、そうでも無いらしい。適当。バンを降りて橋を歩いて渡る。写真では小さくて見えないがゲートの後ろの山肌に見たことも無い白くて尾の長いサルが2匹出没。ここで席替え。前夜、夜遅くバンコク空港に着いた私達は早朝の雷龍(Drukair)に乗るため、空港で夜を明かしたのだ。寝て無い上にがたがた道、カーブの連続で4人のゲストのうち私以外の3人がダウン。全員少しでも酔わない前の席に移動。後ろから話しかけると尚酔うというので必然的にガイドと話をするのは私だけになった。バンの中は急に静。これでこれからの1週間車に酔わない私の指定席は決定。ガードレールの無い道を誰も連れていない離れ牛(こんな表現があるんだろうか)が悠々と歩いている。車は猛スピードで牛をかわしながら走る。牛だって車を避けない。すべては仏教の教えで。無事首都に着いた私達はホテルに直行。ハルミさんはベットに沈没。ガイドも運転手も一時解散してホテル休憩と相成ったのだった。 ついでだから、ブータン道路事情続き。ブータンでは都市(といえるものなら、何しろ15分歩けば町を抜ける)から都市に移動するのに3,000m級の峠を越えなければ行かれない。峠越えの途中にはこんな露天が出ていることも、道端で座り込んでアスパラガスを売る女性もいる。インドからの労働者が座ってたむろしていたり、おばあちゃんと子供が一休みしていることもある。2日目に通過した3,150mのドチュ・ラ(峠)はこんな山道。ただいま事故渋滞中。これから通過する谷の向こう側では事故処理中。運転者が気遣われる。 すれ違うトラック。ブナカ谷を走る道路手前の道路には珍しくガードレールがある。もしも道の真ん中にマニ車(お経の輪の塔)やチョルテン(記念仏塔)があったら、時計回りにぐるっと回り込んでから進む。絶対右手から回ってはいけない。車も人もぐるりと回る。 ティンプー、タシチョゾン近くのチョルテン 田んぼの中のマニ車(左から回ってから進む)もしも道の真ん中に犬が寝ていたら、もちろん避けて通る。すべては仏の慈悲の心。ブータンには信号が無い。首都にだって信号が無い。昔、車が入ってきた頃信号を付けたんだそうだ、でも、誰も信号を守らない。車が来ないのにどうして待っているの?と言ったかどうか分からないが、止めちゃったんだそうだ。信号らしきものは首都の真ん中にただ一つある、ポリススタンド。手旗信号機のみ。それすら果たして見ているのかどうか。でも、信号が無くてもみんな譲り合って、阿吽の呼吸で街中を車が通っていく。時にはブウブウウクラクションを鳴らしながら。すべては仏教の精神で。花壇であってもマニ車の方向に回りましょ。そうすればぶつからない!
May 7, 2010
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