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久延寺からの旧東海道「小夜の中山」は、中山峠から先の3kmほどのだらだら下りの尾根道を指し、箱根峠・鈴鹿峠と並び東海道三大難所のひとつ。また歌碑・句碑の道で知られ、和歌・俳句の名所でもあった。4/3(水) 11:18旧街道沿いに「小夜の中山公園」小夜の中山峠周辺案内図。「小夜の中山」を詠み込んだ和歌は、勅撰集だけでも四十余首。このほか多くの歌集、句集、紀行文にとりあげられ、歌枕として古くから人々に親しまれ愛されてきました。代表的な和歌や俳句の碑が、この峠の道沿いに建てられています。遠い昔に想いを馳せながら、ゆっくり歩いてみてはいかがでしょうかと掛川・菊川・金谷を結ぶ「自然と歴史と伝説のさんぽ道」桜が満開の「中山公園 西行法師の歌碑」。西行法師が69歳で峠越えした際に詠んだ「年たけてまた越ゆべしとおもひきや 命なりけりさやの中山」の歌で有名となった場所石碑には「東のかたへあい知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔になりたりける思ひ出でられて」 西行法師この歌碑は、円位という西行の別名を、力強いがまろやかな性格を、大木の幹の姿に重ねた年輪を、背割り切り口の鋭さに明晰さを、たて積みの煉瓦に北面の武士の鎧を、時々陽光に輝やく真鍮の文字に歌人の心を、池水に映る影に再び越える気分を、池を囲む玉石に数珠を、いぶした煉瓦の色は黒染めを、そして笠を外してひと休みする西行を造形したものです ほぼ満開に近い桜小夜の中山峠箱根と並び称される東海道の難所。古くから多くの旅人達が、この峠に苦しめられながらも、数々のうたや伝説を伝えてきた景勝の地です桜が満開の「小夜の中山公園」”光の庭園” 小夜の中山公園案内図先を急ぐので公園内には入らず小夜の中山公園、火剣山への道標。 小夜の中山ハイキングコース、街道を進むと「日坂宿」、引き返すと「諏訪原城跡」電柱電線が桜の木を囲い北の方角に『粟ヶ岳の茶文字』が再び見えてきた11:24中山茶業組合が左手に。 第48回農林水産祭天皇杯受賞工場であると 11:26佐夜鹿一里塚。 この一里塚は江戸より五十四里。「東海道宿村大概帳」によると、当時は街道の両側にあり「松」と「榎」が植えられており道幅は三間あったと云う猫がベンチに佐夜鹿(小夜の中山)一里塚。 徳川家康は慶長六年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道に宿駅を設置しました。 その後、街道の並木の整備とともに一里塚が作られました。一里塚とは、江戸日本橋を基点にして一里(三十六町)ごとの里程を示す塚で、街道の両側に5間(約九㍍)四方の塚を築いて、その上に榎や松が植えられました。 ここ小夜の中山の一里塚は、慶長九年(1604)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里程を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて五十六里と言う説があります。 また、元禄三年(1690)の「東海道分間絵図」では日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里三十町ですので、この一里塚は五十二里に相当します。 天保十四年(1843)の「東海道宿村大概帳」では、日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里に相当すると思われます。 東海道のルートは時代とともに若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したと言う記録はありません。 いずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などによっておおよその道程の目安になっていたことと思われます11:27街道沿いの民家に咲く花桃更に両側の茶畑を楽しみながら進むと歌碑が 11:29『蓮生法師』続後選和歌集の歌碑が『甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山』 遙か甲斐の白根の峰々は雪で白い。今、神無月(十月)、時雨の中、さやの中山を 越えることだ11:29街道沿いに『神明神社』の石鳥居が佐夜鹿神明神社の『社殿』更に両側の茶畑を見ながら下る、沓掛日坂方面11:33林に中に一里塚の如き『鎧塚』建武2年(1335)、北条時行の一族名越太郎邦時が、世に言う「中先代の乱」のおり京へ上がろうとして、この地に於いて足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったと言われる11:35『記友則』古今和歌集の歌碑『東路の さやの中山なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ』東国へ行く人がきっと通るのが佐夜の中山である。中山のなかといえばなかなかに(なまじっか)どうしてあの人に思いを掛けたのであろう11:36街道沿いの民家の前には花が開花、『ハナカイドウ(花海棠)』ミツバツツジ(三つ葉躑躅) ボケ(木瓜)しばし庭先でおばさんと談義、『シャクナゲ(石楠花、石南花)』そして更に茶畑に囲まれた旧東海道を下る『藤原家隆朝臣』新古今和歌集の歌碑『ふるさとに 聞きしあらしの声もにず 忘れね人を さやの中山』旅に出て耳にするここ佐夜の中山の山風の音は、都で聞いたのとは似ても似つかない。このように都もとおざかったのであるから、いっそ都の人のことなど忘れてしまえよ11:43芽吹き前の茶11:44『 松尾芭蕉』野ざらし紀行の句碑『道のべの 木槿(むくげ)は馬に くはれけり 』 道端の木槿の花が、乗っている馬にパクリと一口食われてしまったよ11:44振り返る、句碑、歌碑が約100mおきに建っている11:45この日は天気がよく暑かったが、風が爽やかで気持ちがよかった11:46旧東海道の右手に『白山神社』由来や詳細は不明だが、遠州では福田町の白山神社が古くから人々の信仰を集めていたから、ここはその末社ではと。白山は、修験道の三聖地として山伏僧兵が集まるところとなり、霊峰白山を信仰する山岳信仰の代表核として栄えた。 日本海を航行する船は現在の石川県の沖合いを通過するとき、帆を下ろして白山を 遥拝する習わしになっていたといい、海運によって全国に勢力を広げて行った。 特に江戸時代から歯痛止めの神として庶民から信仰された神様でもあるのだと。神社前に、夢舞台東海道道標「白山神社」。日坂宿 宿境まで??町(??km)、金谷宿 宿境まで??里(??km)11:48『壬生忠岑』新古今和歌集の歌碑『東路の さやの中山さやかにも 見えぬ雲井に世をや尽くさん』東国の道中の佐夜の中山よ、はるか遠くここまで来たが、はっきりとも見えない遠い旅の空の下で生涯を終えることであろうか 11:48白山神社から300mほど先で道がふたつに別れていた。 左が旧東海道、右の急な坂道は国道一号線へと通じる道で、中央に道標が立てられていた。東海道の道先を指す板には、「この先1.5km車両通行不可」と表示されていた。国道一号線に抜ける道は、茶畑が広がる斜面をくねくねと下っていくと、小夜中山隧道の西側と日坂との間あたりに出るのだ11:51卵形の石碑・『馬頭観音』は、白山神社から200mほど下った左手にあった。 「往来歩行人馬 為御祈祷建之」と刻まれていて、旅人の安全を祈願したもの。 この馬頭観音は、伝説『邪身鳥物語』に出てくる三位良政卿が、京から下向してきた折に乗ってきた愛馬を葬った所と伝えられているのだと。 馬頭観世音菩薩とは六観音のひとつ。本来は3つの顔と8本の腕を持ち宝冠の上に馬頭を載せていて、いっさいの魔性や煩悩(ぼんのう)を打ち払う仏です(ヒンドゥー教に由来)。日本各地に見られる馬頭観音は、馬頭を頂いた観音様の姿から、馬とともに生活する人々の間に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれたともいわれます。力尽きた馬の供養や、道中の安全祈願の意味も込められ、駅路の急な坂道などに建てられました。また、馬頭観音信仰は、武士が天下の政権を握った鎌倉時代に、戦いに馬を使うことの多い武士の間に流行したといわれます。馬頭観世音。従来の中山峠には、多くの伝説が残されていますが、その一つに蛇身退治の物語が 言い伝えられています。この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、 三位良政卿が乗って来た愛馬を葬ったところとされています 11:53『妊婦の墓(三界萬霊塔)』。 こちらも茶畑の一角に墓石があった松の根元で自害した妊婦小石姫(三位良政と月小夜姫との間に生まれた子)を葬った所で、墓碑には 「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・旧跡」 と刻してあります 11:54涼み松広場の碑。 夜泣石があった場所の北に大きな松があり延宝4年(1676)芭蕉が伊賀上野に2度目の帰郷をした旅の帰りの夏の日に松の下で詠んだと言います。今は若い松が植えられており休憩できる広場として整備されています。ここまでの歩数は 12,000歩、JR金谷駅から約3時間この広場内に芭蕉句碑もあった。 『命なりわづかの笠の下涼み 松尾芭蕉涼み松小夜の中山夜泣石のあった駅路の北側に大きな松があり、松尾芭蕉がこの松の下で 「命なりわずかの笠の下涼み」 と詠んだと言います。それよりこの松を涼み松と呼び、この周辺の地名も涼み松と称されるようになりました。この句は延宝4年の「江戸広小路」に季題下涼み夏に記されて帰京の途次の作として記されています 金谷宿から掛川宿ー続く
2019.06.09
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菊川坂の石畳を下り「間の宿 菊川」へ。4/3(水) 10:39山間の花咲く「間の宿 菊川」へ入る国道473号線のバイパスの橋脚深むし茶の工場10:40高麗橋を渡り暫く歩くと右手にあった小さな堂は『秋葉山常夜燈』。 御堂には、青銅製の秋葉山常夜燈が安置されていたそしてその先左手に、夢舞台東海道道標「菊川の里」。日坂宿 宿境まで一里(4km)、金谷宿 宿境まで十八町(2.4km)10:43菊川神社の石鳥居所在地:静岡県島田市菊川711旧街道を左に曲がると鳥居と満開の桜が迎えてくれた茶畑が広がる東海道道標の先に建屋の壁全面に描かれた『昔をしのぶ 間の宿 菊川』案内絵図が。間の宿(あいのしゅく)は、日本の近世に当る江戸時代の主要街道上で発達した施設の一種で宿泊は禁止されていた。宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設である(一部例外あり)。 宿場間の距離が長い、峠越え等の難路である等、旅人に多大な負担を強いる地勢があると、係る地点には需要に応える形で便宜を図る施設が自然発生的に興るものであるが、その様にして宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設が「間宿」である。ただし、宿場としては非公認であって、公式には宿ではなく村若しくは町とされ、旅人の宿泊は原則禁じられていたので旅籠(はたご)は存在しないし、駕籠や人足、伝馬を扱う問屋場もなかったがあくまでも名目上・表向きの事であった間宿として異例であるが、東海道の金谷宿 ー 日坂宿間にあるここ菊川宿の様に、徳川幕府による宿駅整備以前から存在していたものが何らかの理由で指定から外され、間宿となった場合がある。この場合もやはり、宿泊だけは許されなかったが、大井川の川留めなど諸事情により旅人の宿泊施設が足りなくなった時等は、宿泊が公認された。 尚、間宿より小規模な施設を立場(たてば)と言い、所謂“峠の茶屋”等がそれである。 間の宿のなかには立場が発展したものもある10:45案内絵図の斜向かいに広場が「さんぽ茶屋菊川の里会館店」所在地:静岡県島田市菊川643-2間の宿、菊川。間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって作られました。普通、2宿間の距離は3~4里に及ぶ時に間の宿を置きますが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は特別に間の宿「菊川」 が置かれました。 間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では金谷宿の許可がないと旅人を泊めることは出来ませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁じられていました。そこで生まれたのが菊川名物の 「菜飯田楽(なめしでんがく)。大井川の激流を渡り、金谷坂を登りきった旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。なお、下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別おいしかったと言われています。この店には御殿と呼ばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があったそうです宗行卿詩碑 日野俊基歌碑。源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり公家と幕府の対立は表面化し、承久3年(1221) 後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中御門中納言藤原宗行は捕えられ、鎌倉へ送られる途中の七月十日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に次の詩を書き残した。 「昔は南陽県の菊水 下流を汲みて齢を延ぶ 今は東海道の菊川 西岸に宿りて命を失う」承久の変から約百年後の、正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次、菊川の宿で、宗行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ。 「いにしえも かゝるためしを 菊川のおなじ流れに 身をやしづめん」 間の宿菊川は史跡とロマンの里である広場の入口に昔を偲ぶ多くの石碑や案内板が設置されていた上記写真の中央の石「菊川由来の石」その昔附近から菊花紋の石が数多く出土されました。その石は菊石と呼ばれて、川の名前を菊川と名付け、地名も生まれました。 白菊姫の伝説による菊石は北之11km位の処にある佐夜鹿公民館の傍にあります金谷宿の昔ばなし』のボード。・「八挺鉦(やからかね)」 (八挺鉦を打ち鳴らして投げ銭を受ける大道芸をする美少年と少女のお話)・「与茂七越し」 (東西の急坂を難なく行き来する与茂七、権七という名コンビの駕籠かき名人のお話)名物「飴の餅」のこと近くで工事中の国道473号線バイパスの案内板も広場から旧東海道を10:49旧東海道を進んでいくと『小夜の中山 登り口』が現れた四郡の辻から僅かな石畳を登った先に『青木坂』の登り口があった旧東海道の道標『歴史ろまんコース』、『小夜の中山』、『火剣山』の案内板が、青木坂の入り口に10:51陸・海・空をつなぐ国道473号線バイパスの工事、遠くに国道一号線10:54青木坂の左の山斜面には茶畑が広がる。登り口からは、これまでの峠ではあまりなかった心臓破りの急坂が続いていた10:56上って来た道を立ち止まり振り返ると11:02更に上り坂が続いていた日坂の宿と菊川の里の境界表示板。すなわち、ここが島田市と掛川市の市境である。ここから先には「小夜(さよ・さや)中山峠」にちなんだ和歌や俳諧の碑が続いていた11:03阿仏尼歌碑。 登り坂の途中にある島田市と掛川市の境標を越えると右手の民家前に鎌倉中期の歌人 阿仏尼の歌碑があった碑には、阿仏尼が記した紀行文 「十六夜(いざよい)日記」 の一節 。『雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月』 。雲のかかる 小夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ11:06更に坂を上り、坂の左手は緑一色の茶畑が広がっていた11:08急坂を登って行くと、左手の木の間に鎌倉時代の歌人衣笠内大臣の歌碑があった。衣笠内大臣(きぬがさないだいじん)歌碑『旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり』。旅姿に夕霜が身に凍みるここ小夜の中山の峠道は一面の笹原で、笹の葉をならして木枯らしが吹き渡ることだよ11:09世界農業遺産「茶草場の里 日坂」右手に『久延寺(きゅうえんじ)』の表示があったので訪ねる11:11久延寺の山門所在地:静岡県掛川市佐夜鹿291 掛川市指定文化財『久延寺境内』。久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山。本尊は聖観音で、昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の敵を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである」という夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称される。 慶長5年(1600)、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大坂から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。 右の絵は、天明6年(1786)に尾張藩士 高力種信が東海道の風物を描いたものの一枚である。久延寺とその西に並ぶ飴屋などが描かれていて、当時の風景を知ることができる山門からの、高野山真言宗大学山久延寺 本堂。 天平年間、三位中将良政が勅命によって蛇身鳥を退治して当寺を建立したと伝えられる。 開基は行基菩薩と伝えられるが、戦国時代の度重なる兵火により古文書はなく寺暦は定かでない鐘楼、手水舎、地蔵堂夜泣き石伝説 小夜の中山夜泣石。その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。 傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刀研師の弟子となった。そこへ轟業右衛門が刀研ぎにきたおり、刃こぼれがあるので訊いたところ、「去る十数年前 小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。その後、弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。 文化元年 滝沢馬琴の「石言遺響」より茶亭跡の碑。これは 松平土佐守が、家康を接待した山内一豊の史実を後世に伝えるために建立した茶亭跡慶長5年(1600)掛川城主 山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。 関ヶ原の合戦の後、山内一豊は功績を認められ、土佐二十万石に栄転したと山門と本堂11:15久延寺の前の駐車場の奥に在った『接待茶屋跡』からの茶畑鎌倉時代・永仁年間(1300)頃から旅人の求めに応じて茶等を接待し、旅人の憩いの場となっていたという。芭蕉の「馬にねて 残夢月遠し 茶のけむり」の句も この辺りで詠まれたものといわれています11:16旧東海道五分咲きの桜ズームアップ 金谷宿から掛川宿ー続く
2019.06.08
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金谷坂の石畳を登り切り、廻りに茶畑が広がる「旧東海道 金谷坂 石畳下り口」。4/3(水) 9:41明治天皇御駐輦阯(ゴチュウレンアト)所在地:静岡県島田市金谷坂町明治天皇休憩所跡の碑は今までも何ヶ所もあったが、この「輦(レン)」の字を使っていたのは初めてか?。いやこの「輦(レン)」の字は初めて見ました。明治天皇遷都行幸の際、行列を停めて富士の眺めをご堪能された地なのだと。街道は「金谷お茶の香通り」金谷お茶の香通り沿いにある『芭蕉句碑』『馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟(けぶり)』(野ざらし紀行より)。これは芭蕉41歳のときの句で「金谷宿を夜明け前に発って 馬上で夢うつつの状態のとき、中山峠にさしかかる辺りから 茶の香りがしてきて ハッ!と目が覚めた」と。松尾芭蕉は江戸時代の人間なので、この金谷坂の石畳は馬に乗って通る事ができた事になる9:43明治天皇御駐輦阯の碑の先から、牧の原大茶園が始まった。この茶園を明治維新に徳川の旗本や川越人足達が開墾した場所であると。茶葉に霜の被害が及ぶことを防ぐ目的で設置される多くの送風機・防霜ファン(ボウソウファン)が立ち並んでいた。この台地の下をJR東海道本線が走る場所である4月になりお茶の芽も出し、5月の八十八夜には茶摘みが始まる、今年は5月2日!9:46金谷お茶の香通り沿いにある「諏訪原城跡」の案内標識諏訪原城跡(スワハラジョウアト)所在地:静岡県島田市菊川1174番地今年3月23日(土)にオープンしたばかりのビジターセンター。開館時間:10:00 ~ 16:00 休館日:月曜日 入館料:無料施設内には諏訪原城のジオラマ何故か、施設内に掲示されていた「佐柿国吉城(サガキクニヨシジョウ)」所在地:福井県三方郡美浜町 続日本百名城 NO.139朝倉氏の侵攻を退けた国境の城続日本百名城の全てを回るつもりはないがネットで購入した。因みに私は日本百名城は、2016/11/18(金)に岐阜城で全国統一し、1,292番目の登録完了者。所要年数は約3年を要した続日本100名城のスタンプ置き場続日本100名城「146 諏訪原城」国指定史跡「諏訪原城跡」そして正面に深い大掛かりな『空堀』が姿を現した。 武田流の「三日月堀」なのであった外堀が続く石鳥居が正面に諏訪神社武田氏の守護神である諏訪明神を場内の一角に祭ったことから、諏訪原城と呼ばれるが、史料には、城の変遷を示す牧野(原)城・金谷城・扇城という呼称が見られる諏訪原城跡 諏訪原城は天正元年(1573)武田勝頼の臣馬場美濃守氏勝を築城奉行として築かれた 規模雄大は山城であり、当時の東海道武田領の最前線牧之原台地の東北角を占めた 天然の要害であった。遺構は、本丸・二の丸・三の丸・大手郭・帯郭・西の丸・搦手・亀甲曲輪の八郭から成る特徴のある縄張りにより配置形態のうえから「扇城」とも呼ばれた。 自然掘と人工の大小掘が十三本あり、いずれも深くて急斜面を呈しているが、石垣は用いられていない順路に従い、『二の曲輪』『本曲輪』方面に進む大手北外堀静岡県において現在発掘が進められている、興国寺城とこの諏訪原城は、武田氏(興国寺城の場合は北条氏も含む)が静岡県下で活躍した段階と、徳川氏が活躍した段階とで、大きく城の造りが異なっている(具体的には、堀や土塁の大規模化)ことを私たちに示してくれるのではないかと真新しい『史跡 諏訪原城跡』の石碑。天正3年(1575)、徳川家康によって攻め落とされたのち、牧野城と改名され、今川氏真や松平家忠らが城番になった。『家忠日記』には、堀普請や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されている。天正9年(1581)に、高天神城が落城し翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性はなくなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと言われています国指定史跡「諏訪原城跡」諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代史の過程を理解する上で見逃すことのできない重要な遺跡として国の史跡に指定されている諏訪原城の縄張図 本丸から同心円状に曲輪と空堀を巡らせているが、この「丸い縄張り」こそが武田流上空から見る諏訪原城遠景二の曲輪中馬出(三日月堀)武田流築城術の特徴と言われている丸馬出右側は外堀、一番奥に「二の曲輪北馬出」二の曲輪北馬出の門(復元)発掘調査で確認された門の礎石から復元した。門の形式は薬医門二の曲輪北馬出から望む島田市街地と富士山ズームアップ二の曲輪北馬出諏訪原城の馬出は、広大な台地上からの敵方の攻撃を想定し、台地側にのみ7ヶ所構えられ、すべて半円形で前面に三日月掘を持つ「丸馬出」である。中でも、南北に配置された長さ50mにも及ぶ巨大な2基の馬出が防衛ラインの拠点であった。二の曲輪北馬出は最北端に位置し、南側二の曲輪中馬出と土橋で接続する「重ね馬出」で、北側の防備を固めるために付設された曲輪になる大井川に架かる大井川橋(先週3/27に渡った)二の曲輪北馬出には真新しい門があり、「薬医門」と呼ばれていると。 薬医門を訪れた際には、扉を閉めてみましょうと。 左右の扉を閉めると3cmほどの隙間ができるのだと。この隙間こそ重要で、例えば槍を持った敵兵が扉に迫った時、扉を閉めたくても槍で邪魔をされて、扉を完全に閉められなくなると。しかし、扉の間に槍が入るほどの隙間があれば、槍を向けられても閉扉し、閂を差すことができるのだと。これぞリアルな戦国の知恵!!ニの曲輪諏訪原城は、本曲輪を扇の要にたとえ、扇状に曲輪が広がっているため、江戸時代には 「扇城」と呼ばれることもあった。ニの曲輪は、南北315m、東西約75mの広さを誇る城内最大規模の曲輪である。平成22年度の調査で、ニの曲輪中馬出との通路が土橋ではなく、通路中央が途切れ「木橋」となることを確認した。虎口部分では、城門(間口約2.4m、奥行き約1.5m)の礎石(建物の土台となる石)4ヶ所を、曲輪内の調査では、外堀と平行する土塁の基底部(幅約20m)と土を突き固めた版築が確認されている。ニの曲輪を南北に仕切る土塁は、西側に設けられた土塁との接点で幅約1m弱の大人一人が通れる程度の開口部が検出され、二の曲輪南北間を繋ぐ通路跡と推定される二の曲輪の「東内馬出」「南馬出」「東馬出」の案内板木立の中に諏訪神社大手南外堀諏訪原城の台地側前面に方形に突き出した曲輪が大手曲輪で、その位置や構造から、城の最終段階に付設されたと考えられる。大手曲輪は、大手北外堀と大手南外掘によってコの字型に囲まれ、古絵図では、西側前面に巨大な丸馬出と三日月掘が描かれている。この三日月掘の一部が、発掘調査で確認され、その存在が証明された。現在、大手南外堀の大半は茶園となり、全容を見ることはできない諏訪原城址は広かったので約30分間の城内散策であった。10:15諏訪原城ビジターセンター前にある民家の茶摘み機械。人が乗り自走しながら茶摘み、高さ&幅は調整できるのか右方向の山肌に「茶」10:15金谷お茶の香通りと県道234号線(吉沢金谷線)が交差。正面に「珈琲と雑貨の店 こもれび」。旧東海道はここから「菊川坂石畳」を下る茶畑が広がる「東海道菊川坂、下り口」菊川坂と金谷坂の説明板だが判読しづらく江戸時代、東海道を行き交う旅人たちにとって、金谷の峠越えは、粘土質の山道であったため大変難儀をしていました。このため、近郷近在からの助郷役により、石畳を敷いて旅人の難儀を救ったといわれています。・・・・・・・・・・10:17菊川坂の石畳を下り始める急な坂を下る、確かに粘土質ではたまらないムスカリが咲き10:21茶畑もきれいに、菊川茶の産地旧東海道菊川坂石畳普請助郷役芳名。以上、525名 東海道400年祭「平成の道普請」 平成13年1月21日10:24菊川坂の途中から「間の宿 菊川」を見下ろす、そこから再度上る山並みを望む菊川坂石畳この菊川坂石畳は、平成十二年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳も近隣十二か村に割り当てられた助郷役の人たちによって敷設されたものです。 この長さは、三百八十間(約六百九十メートル)あったともいわれています。 しかし現在では、昭和三十年代から四十年代にかけての工事により、一部破損されたところもありますが、このように長さ百六十一メートル、最大幅四・三メートルを残しております。かつては、江戸と京都を結ぶ主要な街道としてこの石畳も多くの旅人たちで賑わったと言われ、往時をしのぶ文化遺産として大切に後世に伝えていかなければなりません 島田市教育委員会弥次さんも写真を撮りながら下る10:29石畳を踏みながら菊川坂の急な坂道を下ると、谷底に菊川の集落が見えて来た舗装路横断 茶畑の中の石畳を下って行くと途中で舗装路を横断する。 ここで下から、旧東海道を大阪から歩いており、この日は連続10日目で今朝掛川から歩いて来たという男性の方が上がって来られしばし道中談義。この後は、日本橋まで行き、帰路は中山道で帰りたいとのことバイパス工事の橋脚と花桃菊川坂石畳と間の宿菊川菊川坂石畳は平成12年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ二例目として徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。 菊川の里は吾妻鏡の中の建久元年源頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿・・・」とあり、これが菊川の里の初見です。 承久3年(1221)の承久の乱で鎌倉幕府に捕らえられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中この菊川の里で詩を残しています。 更にその百年後、元弘元年(1331)の元弘の変で捕らえられた公卿日野俊基が鎌倉への道すがら、この里で歌を残しています。 江戸時代には、西の日坂宿・東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきました。 このように、菊川の里は、昔から時代の変遷の中で東海道の駅として大切な役割を 果たしながらロマンと重みのある歴史を刻んできました10:36掛川方面から江戸へ向かう旅人にとっての『東海道菊川坂 上り口』 金谷宿から掛川宿-続く
2019.06.07
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青春18きっぷを利用しての延べ16回目の弥次喜多道中です。この日も天気が良いとの情報でいつもの電車でJR金谷駅へ向かった。4/3(水) 6:37国府津駅過ぎ辺りからの富士山、列車内は学校も新学期前で学生も少なく7:20JR三島駅手前からの富士山(車窓)今回が4回目で、後一回4月10日までに使用する必要がある。列車内には我々と同じような高齢者?が乗車8:57三島、静岡駅で普通電車を乗換。先頭車両に乗車してしばし鉄撮りに熱中島田駅手前の踏切8:57JR島田駅舎島田駅のホーム下に咲く花は?正面は新東海製紙の煙突9:01JR金谷駅手前の桜も満開に9:03一週間ぶりのJR金谷駅に到着、茅ヶ崎から2時間48分を要したホームにはポスターが「しずおか満腹旅」どれも美味しそうだが我々は旅を急ぐので、無縁か?9:06改札口へ向かう、大井川鉄道のりかえ案内9:08JR金谷駅を出て、今日も静かな国道473号線を下り「金谷一里塚跡」へ向かう9:09国道473号線の左手に「巖室神社(イワムロジンジャ)」の鳥居。 地域の人々に「姫宮さん」と呼ばれ親しまれる神社民家の庭先に咲く花4月に入りいろんな花が咲き乱れている9:10JR東海道線のガード下近くに『金谷一里塚跡』と『金谷宿』道標。旧東海道はここを左折してガード下をくぐり金谷坂の石畳へ向かう金谷宿金谷は東に大井川、西に小箱根といわれた金谷坂、菊川坂、小夜の中山と難所を控えた交通の要衝であった。日本橋から24番目の宿場。島田と同じ規模で大井川の川越し業務を行っていた。大井川を無事に渡った旅人は金谷宿で「水祝い」の宴を開いた。また川留めになると金谷の旅籠だけで足りず、旅人はその先の間の宿・菊川や日坂宿で逗留した宿の町並みは、八軒屋橋の東の入り口から金谷坂手前の現不動橋のところまで、16町24間(約1.8km)の長さで、江戸から京に向かう際には全体に緩やかな上り坂の町並みである。人口は4300人ほどで対岸の島田宿より少なかったのは、平地が少ない地理的な事情によるものと考えられる。金谷宿には本陣が三軒あり、西本陣の柏屋は先祖の功によって家康より屋敷を拝領した家柄で、名主を務め宿場の有力者であった9:12長光寺下の枝垂桜は先週(3/27)来た時も咲いていたがまだ待ってくれていた満開の枝垂桜をズームアップ9:14民家の前に咲く花「???」9:15金谷大橋(西入口土橋)跡。現在の不動橋は、江戸時代には「西入口土橋」(金谷大橋)と呼ばれ、金谷宿の西入口となっていました。規模は長さ6間(約10m)横幅2間半(約4.5m)橋桁は三本立四組の土橋でした。土橋とは橋桁の上に丸太を組み、上に小枝を敷き、さらに表面に土を搗き固めて造られた橋をいいました。「御普請所」となっていて約3年目毎に代官所の負担で修理や掛け替えが行われました。金谷坂を下ってきた大名行列は橋の北側にあった休み茶屋(たばこ屋善五郎)で休息し、身なりや隊列を整えてから、宿場に整然と入りました。 またここから上りは金谷坂の登り口となり、牧之原台地と小夜の中山峠の急坂を連続して上り下りするという東海道の難所の一つでした。大橋の東側袂には「どじょう屋」という一膳飯屋があり、そこが「駕籠仕立て所」となっていて、坂を上下する公認の駕籠かき達の詰め所になっていました金谷大橋(西入口土橋)跡からJR金谷駅を9:17緩い坂を上る「大井川鉄道沿線ウオーキング」の案内9:18緩い坂道にある「秋葉神社?」上り坂の途中から大代川&大井川方面を振り返る。遠く、新東名高速道路の高架橋も見えた。残念ながらこの時は富士山は雲に?隠れていた9:19国道473号線を横切り「旧東海道石畳」へ。国道を上ると富士山静岡空港&御前崎市方面へ向かう9:21国道沿いに駐車場があり、ここから「旧東海道石畳」へ駐車場にあった「島田市観光案内」「meguri 石畳茶屋」の案内9:22東海道金谷坂、石畳上り口。石畳は金谷から牧ノ原台地を抜ける場所にあった。急坂で尚且つ粘土質であることから滑りやすく、大名行列や旅人が苦労したため、幕府が石を敷き詰めさせた歴史があります。一旦は舗装されたが、平成3年に町民の手で石畳が復元されたと石畳茶屋所在地:静岡県島田市金谷坂町2482-1 Tel:0547-45-5715まだ時間が早くオープン前であったが、テラス席もあり居心地が良いと評判Lunch 11:00~14:00 ランチセット \1200造りは古民家の風情もありランチも美味しいと。ケーキ、クッキーも販売している9:24先程は見えなかったが富士がきれいに山の斜面には茶畑も桜は五部咲きか東海道 金谷坂の石畳。 この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩き易いように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、僅か30メートルを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430メートルが復元されました。いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三個所だけとなりました9:27石畳茶屋の上に『仁誉地蔵尊』お足地蔵の説明で「昔、足の病に苦しんでいた仁一という方が、坂の入口にあった地蔵尊を毎日拝んでいたと。ある日、夢枕に地蔵尊が現れてお告げがあり、旅人の足の無事を祈っていたところ、仁一の足の病もよくなっていた」と 何故か祠の横に「第89回全国高等学校野球選手権大会」の看板が掲示。因みにこの大会の優勝校は「佐賀北高校」が初優勝。準優勝が広島の広陵高校で今でも鮮明に記憶がある。8回まで4:0で勝っていたが9回に逆転された。敗戦投手は現在広島カープで活躍している野村選手。静岡県からは、常葉菊川高校で11年ぶり2回目の出場であった9:28左に「鶏頭塚」奥に「庚申堂」鶏頭塚鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。 「曙も夕ぐれもなし 鶏頭華」 の句と「六々庵巴静寛保甲子四年(一七四四)二月十九日没」と刻んだ自然石の碑である。 巴静というのは蕉風をひろめた江戸時代の俳人で、その教えを受けた金谷の門人たちは、師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺にこの句碑を建てた。この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが風雅の心ある地元の人々の心配りによって保存が図られて現在に至っている。なお塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている庚申塔三猿良き事は大いに広め 悪しきをば 見ざる聞かざる言はざるが良し庚申堂の由来旧東海道の上り下りの旅人達が、道中の無難息災、家内安全を祈願して街道筋に点在する効験あらたかな庚申堂に立寄り誠意を込め願望の成就することを祈念して旅立ったもので、堂宇に猿田彦命および、その主従を合詞して歴年四月「カノエ・サル」の日に追善を施行しております9:30ウグイスが鳴く、石畳をさらに登る9:34前方に赤い幟が並んだ場所が現れたすべらず地蔵尊所在地:静岡県島田市菊川1213長寿・すべらず地蔵尊『六角堂・鞘堂』長寿・すべらず地蔵尊 このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものです。 すべらず地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶うということからきています。多くの「すべらずに合格」祈願の絵馬が掛けられていた石畳の脇には『シャガ』の花がかわいいスミレが咲き9:40そして石畳の坂を一旦登り終えると、そこには様々な案内板が。旧東海道 金谷坂 石畳下り口 金谷宿から掛川宿ー続
2019.06.06
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我が家の玄関先に咲く胡蝶蘭。現役時代に会社からもらい受けた10鉢ほどある胡蝶蘭が今でも咲いている6/1(土) 7:44 車窓からのJR御徒町駅から上野駅間。孫の運動会があり出番が早いとのことで早朝に出かける車窓からの上野公園の西郷隆盛像7:49 東京メトロ日比谷線の「上野駅」へ地下道にきれいに東京メトロ日比谷線へ7:52 日比谷線の上野駅ホーム北越谷行きの電車8:00 国道4号線の「入谷交差点」言問通りに咲く紫陽花8:03 言問通りからの東京スカイツリー運動会は9時から開催だが、8時過ぎには校門前に到着。入門許可証をもらい校内へ、この日は薄曇りで暑くもなく運動会見物にはよかった。小学生の全校数は400~500人か? その孫に多くのジジババが応援に、私もその中の一人だが。最近は小学生がらみの事件が多く、詳細なブログアップができませんが感動した一部だけをアップさせていただきます。朝の開会式の挨拶も、近隣の住民の方のことを考えマイクを使用せず。9:24 3年生の「80m走」で孫は一位でゴール一年生の時はリレー選手に選抜されたが・・・・・・10:083年生の「エイサー・ケチャンバ」みんな元気に飛び跳ねて紙の太鼓を持ち飛び跳ねる校内の沈丁花11:235、6年生の「敵将討ち取ったり!!」まず一対一で帽子の奪い合いを行い、最後は男女に分かれて敵将の兜を奪いあう競技昼食は講堂内で弁当を頂く。午後の部は13時から始まる。最近は熱中症対策で学校も気を使っているようで①子供たちの控え席には黒いネットで覆い直射日光があたらないように②定期的に霧を噴霧③十分に水の補給をするようにと放送14:215、6年生の組体操ブリッジ、できない子もいたが倒立最後は全員が中央に集まりウエーブを組体操と言えば昔は5段ぐらいに組み上げていたが危険とのことで現在は殆ど中止最後は、4、5、6年の「高学年リレー」。リレーで一位になった選手には、令和最初とのことで全員にメダルを授与された。紅白の戦いは、孫の紅組が勝ち、孫にとって初優勝。閉会式の挨拶はマイクを使用していたが、聞こえる範囲の人へ今日一日のうるささを釈明する挨拶内容であった。運動会の開催でもいろいろと気を遣う世の中であることを痛感した一日でした。16:36運動会は15時に終わり、長男の家へ。12階からの東京スカイツリー国際通り、三社祭では神輿が浅草寺方面国際通りの入谷方面17:24西方面で、天気がよいと富士山が見えるとのこと。夕焼けも17:3217時半から夕食を予約しているとのことで国際通りへ国際通りから路地を、外国人観光客が多く17:43アサヒビールの本社ビル20:28孫は運動会で疲れ寝ていたが、運動会談議で盛り上がり夕食を終え店を出る20:50JR上野駅のホーム小腹がすき、「きつねソバ」を食べる21:04JR上野駅ホーム。21:04の電車に乗り帰宅自宅には22:30に帰宅、今日一日の歩数は、10,342歩で立ちっぱなしで疲れた。 END
2019.06.05
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山のホテルから箱根神社に立ち寄り、つつじを求めてホテル花月園へ。5/17(金) 10:24山のホテルのテラスで休憩する観光客。珈琲を飲みながらのんびりとつつじ&富士山を堪能できるポイント山のホテル本館内優雅なランチやティータイムを楽しめる10:26約一時間で山のホテルを後にするバス駐車場から多くの観光客が小田急 山のホテル神社通りの「山のホテル」入口10:31警備員が交通整理10:36芦ノ湖畔にある「箱根神社 平和の鳥居」外国人観光客が並んで記念写真を撮影平和鳥居の由来鳥居扁額の題字は前宰相吉田茂氏の墨蹟であります。・・・・・・・・・・・・・平和鳥居から箱根神社所在地:神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1手水舎鳥居と手水舎急な石段を上る参拝者本殿へは石段を上るが今回はスルー10:45箱根神社から、箱根町仙石原にある「ホテル花月園」へ向かう11:07ホテル花月園所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1244-2 TEL:0460-84-8621ホテル花月園玄関つつじまつり期 間:2019.5.10(金) ~ 5.19(日)駐車場&入場無料つつじが咲く頃に来たのは初めてのホテル花月園箱根の中でもつつじの名所として名高い、ホテル花月園のつつじ庭園庭園には赤白3,000株ものつつじが咲き誇る ホテル玄関先から玄関先の一段低いところにあるつつじ庭園赤白のつつじが何ともいえないつつじ庭園には椅子も置かれのんびりできる夜は20:00まで夜間ライトアップが開催される庭園を散策した後は、展望レストランで「優雅なつつじランチブッフェ」を。食べ放題! ソフトドリンクバー付き!価格:\1,800/60分(税込み) ランチ:11:30 ~ 14:00無料で見れるのが最高!三色のつつじが咲き乱れる庭園ズームアップ11:19約12分間と短時間であったが、ホテル花月園のつつじを堪能できた。山中城のつつじも見たいと思っていたので、向かうことにホテル花月園から箱根の関所経由、箱根峠を越え山中城跡へ。この時間には富士山は見えず。11:53バス停の「山中城跡」へ到着、駐車場には多くの車が駐車していた駐車場に車を止めて山中城跡へ行くがつつじはちらほら咲いていた。田尻の池障子堀(しょうじぼり)ここのつつじを期待したが遅かった富士山も見えず。つつじが満開だと・・・・・・・二ノ丸方面を望むまた来たいものですネ障子堀(しょうじぼり)後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。・・・・・・・・・開花時期を確認して再度来たいものです12:16バス停前の「山中城売店」所在地:静岡県三島市山中新田410前回来た時は月曜日で休日山中城売店内前回食べなかったので「寒ざらしだんご」と「ところてん」を食べる。寒ざらしだんごは「油で揚げているので熱いので注意してください」とおばさんから、ところてんも美味しかった!12:37平日であったが多くの観光客が訪れていたが、皆さん私と同じようにつつじを期待されて来られたのか13:30には帰宅したが、箱根路のつつじを堪能できた。次回は山中城のつつじを期待したい。 箱根のツツジ狩りーEND
2019.06.04
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つつじ園から、少し高台のしゃくなげ園へ向かう。5/17(金) 9:50ふじ棚のふじも咲き始め白と紫のふじ主なしゃくなげの種類:約20種300株。日本最古の輸入交配種群ゴーマー・ウォータラー花は大輪、白色で薄藤色が入り、ブロッチ(斑点)は黄茶色。イギリスで1900年以前に作出。本品種は、岩崎小彌太が日本で初めて導入した西洋シャクナゲといわれているゴーマー・ウォータラー「小田急 山のホテル」があるこの地には、かって三菱4代目社長、岩崎小彌太男爵の箱根別邸がありました。岩崎男爵は別邸を明治44年(1911)に建てましたが、庭園を造るにあたり、多くのシャクナゲを英国から輸入しました。これが日本への洋種シャクナゲの最も古い導入ではないかといわれている。この「ゴーマー・ウォータラー」は、当時輸入された学術的にも貴重なシャクナゲの1株と見られ「日本ツツジ・シャクナゲ協会」にもその存在を認められたステラ・ウォータラー花は中輪で、紫がかったピンク、ブロッチは濃色で目立つ。葉は濃緑色で細長く裏毛が薄く生えている。商業的な生産はなく、栽培も非常に少ないと思われる希少品種。イギリスで1865年以前に作出現在のホテルの庭園には、約3,000株のつつじと約300株のしゃくなげが植えられていますが、これらも別邸を建築する際に男爵が植えたもので、樹齢100年以上の貴重な古品種が多数残っているフォーチュネイ中国に分布する野生種のシャクナゲ。7枚花弁のピンクの花が咲き、葉は長い。19世紀に中国からヨーロッパに渡り、多くの園芸品種の交配種となっている。この庭園には多数の株がある山のホテルには、ほぼ全園にシャクナゲ類が植えられているが、そのうちここ「シャクナゲ畑」はおよそ4,000㎡の範囲に、シャクナゲが植えらえている特に老樹になっている洋種シャクナゲは、ヒマラヤ地方産×北米産の品種がめだち、ヒマラヤ地方同志の交配種は現在まで残らなかったように観察されることは、日本の気候を考える上に重要な点と思われますと10:06しゃくなげ園から降りるつつじ園へ木の合間からホテル前のつつじ、後方に芦ノ湖入口には多くの観光客がホテル前にテラスがありコーヒーを飲める安藤楢六翁の像碑 文当社の前身小田原急行鉄道は昭和2年に開業、その後、一時期戦時統合政策により西南各私鉄とともに東京急行電鉄を形成するに至ったが、23年6月分離独立し、新たに小田急電鉄として発足した。戦後の荒廃と混迷のなお続く同年12月、新生小田急の初代社長に就任した安藤楢六翁は、労使一体を経営の根本理念に掲げ、疲弊した鉄道を復興し沿線地域社会の・・・・・・・・・白錦(しろにしき)白滝(しらたき)とも呼ばれている。中輪二重、白色、がくが不完全に花弁に変化し、縁が不規則に切れ込んだ花が咲きます。稀に関東地方の歴史ある庭園で栽培されている希少品種ですつつじの先に富士山が顔を出すズームアップして多くの観光客がひっきりなしに訪れる日時計10:23約一時間の散策で庭園を出たが、多くの観光客が訪れていた 山のホテルー続く
2019.06.03
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かねてより行きたかった、芦ノ湖湖畔の「山のホテル」へ今がつつじの見頃だろうと予想して5/17(金)の朝から箱根へ向かった。5/17(金) 8:41芦ノ湖畔へ、天気が良く富士山が顔を出していた東京箱根間往復大学駅伝競走復路スタートの杭国道一号線の箱根関所南交差点にある石碑往路のゴールは、この箱根関所南交差点を右折するこの方向からゴールへ向かってランナーが来る国道一号線沿いの、茶屋本陣「畔屋」茶屋本陣「畔屋」広場にある箱根駅伝の石碑と像勝承夫の詩碑「駅伝を讃えて」勝承夫略歴箱根駅伝栄光の碑 「若き力を讃えて」、ランナーの右手下に富士山がかすかに見える。先日大手町にある像を見たが、箱根町にもあると聞き訪れる9:00芦ノ湖からの富士山箱根海賊船 箱根町港。所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根161右側が新造船の海賊船「クイ―ン芦ノ湖」で桃源台船舶工場で建造された。新型海賊船のデザインは、列車の設計で有名なドーンデザイン研究所の水戸岡鋭治氏が担当した。起工式。主船体ブロックの搬入が完了し、2018年9月19日(水)に桃源台船舶工場(箱根町元箱根164)にて「新型海賊船」の起工式が執り行われた。試運転の実施。2019年3月15日に試運転を行い、芦ノ湖上を初めて運行した9:04山のホテルへ向かう途中富士山が見えたので湖畔へ。箱根海賊船 元箱根港近くの湖畔には釣り人も多く富士山をズームアップするが頂上は雲に隠れ9:24小田急「山のホテル」所在地:神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80 TEL:0460-83-6321庭園見学時間:9:00 ~ 17:00いつもこの前の道を通るが、つつじの見頃であった駐車場は既に満杯ご飲食施設・イベント案内マップ斜面に植えられたつつじ元箱根から無料のシャトルバスがホテル玄関先まで送迎してくれる9:28受付でチケット(800円)を購入。年配の方が受付に「シニア割引はないのか」「今日は皆さんシニアですから」のやりとりが聞こえてくる2019 つつじ・しゃくなげフェア開催期 間:2019年4月下旬 ~ 5月下旬ホテル庭園見学券を購入(800円)して入園。12日目とは?つつじも満開で、富士も見え最高!ビューポイント多くの観光客が園内を散策早咲き遅咲きのツツジが満開に主なつつじの種類約30種3,000株の開花時期:4月下旬 ~ 5月下旬宿泊ホテル富士も顔を出し緩やかな傾斜地に咲く見南山荘の石碑ホテルの窓に映えるつつじ。宿泊したことはないがネットで調べると、部屋は昭和風モダンでよい味が出ているとつつじも人丈以上の大木つつじ越えに富士が4階にある展望台から富士山が見える。5月中旬から後半にかけてつつじも咲き時、温泉の質がよくて、お肌がツルツルになったと鮮やかな赤色パンフレットの写真から9:43園内にあるチャペルステンドグラスが綺麗チャペルの前にあるローズガーデン。ローズガーデン開花時期:6月中旬~7月中旬頃、9月中旬 ~ 10月中旬頃しゃくなげも咲きこの赤が何とも言えない鮮やかさ9:49しゃくなげ園へ 山のホテル-続く
2019.06.02
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日本橋へは昨年の2月15日(木)に訪れているが、これ以降昨年10月26日(金)から再開して、現在静岡県の「見付宿」まで旅友と弥次喜多道中をしているので再度訪れた。5/4(土) 15:09景観を損なっている首都高速の下に架かる「一石橋(イチコクハシ)」所在地:東京都中央区八重洲一丁目11皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えている。当時は西河岸町と北蛸町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。『江戸砂子(エドスナゴ)』は江戸時代中期に著された江戸の地誌。著者は俳人菊岡沾涼一石橋の親柱木橋としては最後となった明治6年(1873)の一石橋は長さ14間、幅3間の橋でした。大正11年(1922)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となった。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われた。平成9年には大正11年の橋本体は全て撤去されたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿をしのばせている。平成14年に中央区民文化財に登録された一石橋迷子しらせ石標江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていた。そこで安政4年(1857)、西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである石碑には「満(ま)よひ子の志るべ」告知石碑は、このほか湯島天神境内、浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同様のものがあった。しかし震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけ総高は175.7cm15:11呉服橋交差点直進すると「JR東京駅」、この交差点を左折して永代通りへ15:15日本橋 長崎館アンテナショップ所在地:東京都中央区日本橋二丁目1-3(アーバンネット日本橋二丁目ビル1F)国道一号線沿いのビルの前に人だかりが何のイベントか?15:15ここの交差点を左折して上野方面へ国道一号線の中央通り、直進すると都道10号線(永代通り)15:16国道15号線の中央通り「日本橋交差点」直進すると旧東海道で銀座方面へ、後方が日本橋15:17正面に日本橋、とらや 日本橋店所在地:東京都中央区日本橋一丁目2-615:18景観を損なう首都高速都心環状線が上を走る「日本橋」。1964年の東京オリンピックで首都高速を突貫工事で完成させたが、地下化する計画があると日本国重要文化財「日本橋」構造・形式 石造二連アーチ橋 高欄付(青銅製照明灯を含む) 附 東京市道路元標 一基建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定で、指定年月は平成11年5月13日日本橋川日本橋魚市場発祥の地東京市道路元標元標の広場15:22日本国道路元標(道路元標複製)所在地:東京都中央区日本橋室町一丁目1元標の広場日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられている。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められた 現在の日本橋は、明治44年(1911)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋である 各地への里程標:北方面各地への里程標:西方面四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんばし」の文字は最後の将軍徳川慶喜公の揮豪によるものと日本橋川に架かる高架の杭都高速都心環状線の高架に「日本橋」ここから京へ向かって、5/21現在静岡県の「見付宿」へ到達している都高速都心環状線の高架の間に立つ青銅像当初の建設計画をもう少し高くしていると・・・・・余りにも低すぎるのでは現在の日本橋は、明治44年(1911)4月3日開橋の第19代日本橋花崗岩製の橋である。上の高架橋は首都高速都心環状線で、建設した当時の日本橋川は家庭からの水で汚染されていたのではないか15:25小型の観光船が、以前行った、ロシアのサンクトペテルブルクでは、これ以上に狭くて橋が低い川をクルーズしたが、これからの観光の目玉になるのでは?15:31先程の日本橋 長崎館アンテナショップへ立ち寄るゆるキャラとの握手会で集まった人?ネットで調べるがこのゆるキャラの名前は?この日がお披露目なのか15:32事前に予約した人が多く、各人1分程度のツーショット撮影と放送していた15:33国道一号線から路地へ入りJR東京へ向かうが、居酒屋が立ち並ぶ15:37JR東京駅八重洲北口の都道405号線の交差点同交差点から、先程歩いた道15:39JR東京駅八重洲口のビル建て替え工事新幹線ホーム15:44JR東京駅の「東海道本線」この日の歩行数は、11,550歩でしたが、一般参賀で暑い中での数時間の立ちっぱなしはきつかった。 一般参賀と日本橋へーEND
2019.06.01
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一般参賀の後、和田倉門近くにある「将門首塚」を訪れた。5/29(水) AM10:00放送の、テレビ朝日「じゅん散歩」で高田順次が「千代田区大手町」を散策、放送していた。5/4(土) 13:57和田倉噴水公園。13時のお出ましから、桔梗門をでて約一時間でたどりつく。一般参賀を終えた人が多く休んでいた。自動販売機のドリンクはすべて売り切れ!私は、東海道53次の本に、日本百名城のスタンプ「江戸城」を再度捺印皇居案内板14:05和田倉門から馬場先濠14:06和田倉門を出て、若い時この辺りのビルに勤めたが。このビル名は、(仮称)OH-1で2棟からなり来年2月完成予定。三井物産やホテルが入るとのこと14:10国道一号線の日比谷通り。信号の横に丸の内警察署 和田倉門外交番がある14:12国道一号線はここを右折将門首塚の案内14:17都旧跡「将門塚」所在地:東京都千代田区大手町1丁目1-12019年「神田祭日程」のポスター数人の団体がお経を唱えていた東京都指定文化財(都旧跡)「将門塚」神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしている。平将門公は、承平天慶年間(931~946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行った。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信仰を受けた。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、また5月の神田祭のときには必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田祭の時に同保存会の方々により担がれる将門首塚の由来酒井家上屋敷跡江戸時代の寛文年間この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである将門首塚前二礼二拍一礼して参拝平将門は、平安時代中頃に関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起こした人物です。徳治2年(1307)遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大蔵省再建事業の際に崩されました。幾多の変遷の後、昭和45年(1970)に将門塚保存会などにより現況のように整備された将門首塚の碑昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治2年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。明治2年(1869)より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、古跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示された石塔婆はケースの中に保存14:2915分ぐらい滞在したが多くの人が訪れていた。雷が鳴り天気が怪しくなってきたので「将門塚」を後にする・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・余談ですが、今年の4/9(火)に旅友と東海道53次で訪れた掛川宿の「平将門十九首塚」。十九首塚史跡公園所在地:静岡県掛川市大池平将門十九首塚天慶の乱で滅ぼされた平将門以下十九名の首が、京都からの使者による検死後、埋められた場所と伝えられている。十九首の地名の由来になり、町民は首塚を守り神としている。昔は十九の塚があったと十九首塚史跡公園のそばを流れる逆川に架かる「将門橋」後日、ブログにて「掛川宿から見付宿」をアップ予定です。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5/4(土) 14:31日比谷通り(都道403号線)の交差点上記交差点にある「読売新聞東京本社」前の花壇。高田純次の「じゅん散歩」はここから散策したネモフィラが満開14:35箱根駅伝のスタート、復路のゴール点にある像。残念ながら「じゅん散歩」では放送されずこのような像は、鶴見中継点にもあったが箱根にもあると旅友から聞き、後日訪問することにした東京箱根間往復大学駅伝競走の歴代優勝校今年は第95回で優勝は「東海大学」が初優勝読売新聞東京本社前にあり訪れる観光客も読売新聞東京本社前通り、1月3日は箱根駅伝で人だかり14:38多くの駅伝ファンが訪れていたこの日は土曜日で休日、平日は多くのサラリーマンで賑わっているのでは14:40近郊の案内図東京サンケイビル前にある大きなモニュメント。「じゅん散歩」で放送、平日には多くのビジネスマンで賑わい東京サンケイビル ネオ屋台村が開かれ、カレー・和食・中華など日替わりでキッチンカーが出店すると14:46左の高架はJR中央線で東京駅方面。右のビルは、NTT DATA大手町ビル大手町ビルの前に立つ像14:50常盤橋の概要所在地:東京都千代田区大手町二丁目7番地先 常盤橋公園内明治10年(1877)に架橋された都内に現存する石橋としては最も古い石橋であり、江戸時代には常盤橋門の木橋が架けられていたが、萬世橋・鍛冶橋・呉服橋など旧来の外郭諸門を木橋から石橋に架け替える一環で、本橋も東京府によって改架された。この石橋は、一部に、小石川門の枡形石垣の石材を使って架けられたもので、その特徴は、大理石による八角形の親柱や唐草の意匠が施された鋳鉄の手摺柵など、同時期に築造された他の石橋には見られない近代的石造橋の先駆けとなった明治4年(1871)常盤橋門の様子を写した古写真明治末期の常盤橋歌川広重『古今東京名所』旧常盤橋の復旧工事計画?常盤橋辺りの案内図14:53渋沢栄一の像所在地:東京都千代田区大手町二丁目7-2 常盤橋公園像の下には「青淵渋澤榮一」とある。「じゅん散歩」でも訪れ放送した青淵渋澤榮一翁は、天保11年埼玉県の農家に生まれたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となって慶応3年欧州に赴き、民主主義自由主義を知る機会を得た。帰朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に当ったが、明治6年退官し、同年創立された第一国立銀行の頭取となり、爾来産業経済の指導育成に任じ開興した会社五百、常に道徳経済合一主義を唱えて終生之を実践し我が国運の発展に偉大な貢献をした・・・・常盤橋の上を走る「首都高速都心環状線」14:55外堀(現 日本橋川)に架かる旧常盤橋の復旧工事?この辺りは「東京駅常盤橋プロジェクト(2027年度 完成予定)」。現在、高度経済成長期に建てられたビルの建て替えラッシュ中で、8年後には日本一のビルの高さとなる超高層ビル(地上61階、高さ 約390m)も完成 日本橋へ続く
2019.05.31
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5/4(土)に新天皇の即位を祝う一般参賀があるとのことで、混むことは覚悟して朝から皇居へ出かけた。一般参賀は既に5/6(月)にアップしておりますが、未公開の写真を追加でアップさせていただきます。9:43東京駅の丸の内北口へ向かうが、駅員が一般参賀は「丸の内南口」へのプラカードを持ち案内していた9:46東京駅丸の内南口ホール天井北口と同じようにホールの天井を飾っている9:46丸の内南口改札を出て9:47JR丸の内南口、多くの人が参賀に?9:48皇居方面へ向かう9:49ハトバスの二階建て観光バス9:53国道一号線「和田倉門交差点」の先には既に多くの参賀者が並んでいた9:55交差点を渡っても先が混んでいるとのことでしばらく待たされる。この間に交差点の警官に今日の人出予想を聞くと「年賀が10万人であったので、今日は13万人か?」と同交差点から、国道一号線の日比谷通り9:56数分待ち、国道一号線「和田倉門交差点」を渡る10:04和田倉門交差点を渡り、内堀通り手前の「行幸通り」に並ぶ10:21馬場先濠の石垣、交差点を渡ってからここで約30分待機10:49人だかりがしていたのでズームアップすると参賀者に配る日の丸の旗を整理10:50行幸通りに約一時間待機してようやく我々の列が動き出す10:52通行止めになっている、内堀通りを横切る。行幸通りには何列もの人が並んで10:53手荷物検査へ向かう11:07手荷物検査を終え、大きなものは持ち込めないので預けることに手荷物検査の後はボディチェック。正面奥に「坂下門」11:07桔梗門方向12:35セキュリティ検査後、皇居前広場に8列に分かれて並び、暑い中立って待つ。一時間半待って、ようやく我々の列が動き出す、この間何の情報もなく、年寄も子供もひたすら立って待ったが、あちこちで「人が倒れたよ!」の声が12:371~8の立て札が立つ12:39正門へ向かうが、私は二重橋を渡るのは昭和天皇の年賀依頼12:42振り返ると長い列が、後で知ったが、この時間各地でヒョウが降ったと警察犬も待機注意看板!12:45正門石橋からの正門鉄橋(二重橋)12:48正門の前に立つ皇居警察官正門を入る12:50伏見櫓江戸城西の丸の西南隅に建てられた二重櫓で、両横には大規模な多聞も続いている。 1628年3代将軍家光の時代の江戸城修築に際して、京・伏見城から移築したものと伝 えられている。石垣も櫓も堅牢で、関東大震災でも崩れずに往時の姿をとどめている。 伏見櫓の高さは13.4mで、十四間多聞、十六間多聞が脇を固めている。別名で「月見 櫓」と呼ばれ、皇居で最も美しい櫓といわれている皇居宮殿 長和殿へ向かう一般参賀者振り返ると、正門からの参賀者の列12:52正門石橋、皇居前広場正門鉄橋(二重橋)を渡る参賀者12:53江戸城 西の丸玄関門12:54皇居宮殿 長和殿12:55お出まし前のベランダ13:0113時ちょうどにこの日4度目のお出まし。日の丸の旗を振り、前後から「天皇陛下万歳」の声が聞こえてくる13:03カメラ、携帯で撮影13:24皇居宮殿 豊明殿一般参賀を終え出口へ向かうが、天皇陛下が見れなかった方は前に出て再度待つ人も。次は14時になるので、一時間は待てず私は出口へ向かう13:26坂下門方向は混むとのことで、桔梗門へ13:27宮内庁、右側は「乾門」へ向かう。桜の時期、坂下門から乾門への桜鑑賞で一般公開されている13:30乾門&北の丸方向13:30富士見櫓江戸城本丸東南隅に位置し、江戸城遺構として残る唯一の三重櫓。現存する三重櫓は、 明暦3年(1657)の明暦の大火(振袖火事)での焼失後、万治2年1659)の再建。どの角度 から見ても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」の別名も。天守焼失後の 「代用天守」の櫓ともいわれている13:37桔梗門も人でいっぱい13:40桔梗門を出る13:43江戸城桔梗濠に面した門が桔梗門で「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺された外桜田 門に対して、内桜田門とも呼ばれている。この門を入ると江戸城三の丸で、大名など の登城は、大手門と内桜田門(桔梗門)と定められていた。現在では皇居一般参観の入 場門になっている石垣も修復しているのだろうが13:44桔梗門を出て、桔梗濠とテントは手荷物の預所13:48桔梗門(内桜田門)13:56一般参賀を終え、東京駅へ向かう人帰宅後のニュースで、今日の一般参賀には開門前には既に5万人の参賀者が訪れてい たと。また、今日一日の一般参賀者は14万1130人で、気温も上がり121名が熱中症 で収容されたとの報道。このあと、近くにある「将門首塚」を訪れる。 将門首塚へ続く
2019.05.30
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新金谷駅廻りで蒸気機関車を撮影後、今日のゴール点金谷宿のJR金谷駅へ向かう。3/27(水) 16:00宇布賣神社所在地:静岡県島田市金谷天王町石段を上り神社本殿へ、既に今日の歩行数は28,000歩この石垣の石も川越人足が運んだ石なのか?上っても何もないとのことで私はここで引返す16:10人通りの少ない旧東海道(国道473号線)に戻り、JR金谷駅へ向かう。金谷宿金谷は東に大井川、西に小箱根といわれた金谷坂、菊川坂、小夜の中山と難所を控えた交通の要衝であった。日本橋から24番目の宿場。島田と同じ規模で大井川の川越し業務を行っていた。大井川を無事に渡った旅人は金谷宿で「水祝い」の宴を開いた。また川留めになると金谷の旅籠だけで足りず、旅人はその先の間の宿・菊川や日坂宿で逗留した宿の町並みは、八軒屋橋の東の入り口から金谷坂手前の現不動橋のところまで、16町24間(約1.8km)の長さで、江戸から京に向かう際には全体に緩やかな上り坂の町並みである。人口は4300人ほどで対岸の島田宿より少なかったのは、平地が少ない地理的な事情によるものと考えられる。金谷宿には本陣が三軒あり、西本陣の柏屋は先祖の功によって家康より屋敷を拝領した家柄で、名主を務め宿場の有力者であった佐塚屋本陣(本町・佐塚佐次右衛門)寛永12年(1635)参勤交代制度とともに、各宿に本陣が開設されましたが、その当初より、佐塚家は佐次右衛門の名を継いで金谷宿本陣を務めた。建坪263坪、門構え、玄関付で、門の屋根には対の鯱が付いていたので「鯱の御門」と呼ばれていた。表の間口は13間、奥行は35間半で、現在の佐塚家と東隣の住宅の敷地にあたる。慶応4年(9月8日明治改元、1868)10月5日明治天皇御東幸のおり、ここで天皇がお昼休みをとられた16:13緩やかな坂の旧東海道(国道473号線)をJR金谷駅方面へ歩く。バス停は「金谷本町」金谷宿柏屋本陣跡所在地:静岡県島田市金谷本町柏屋本陣(一番本陣)跡柏屋は代々河村八郎左衛門を名乗り「金谷六人衆」と呼ばれた名家の一つ。代々本陣と名主を務めていた。先祖の河村弥七郎が徳川家康に忠節を尽くしたことで信州に知行地を与えられ、金谷宿・島田宿にも屋敷を与えられた。江戸初期には柏屋と佐塚屋が本陣、山田屋は脇本陣だった。寛政3年(1791)の「竹下屋火事」と呼ばれた大火によって本陣二軒・脇本陣一軒・旅籠屋五十二軒の全ての宿泊施設が焼失した。・・・・・・・・・尾張徳川家、紀伊徳川家の定宿となっていた。嘉永7年(1854)の「東海大地震」で壊滅し本陣を廃業。その後は旅籠屋を営んだと本当に人通りが少ない旧東海道(国道473号線)の緩い坂を、今日のゴール点へ向かう脇本陣(角屋・金原三郎右衛門家)跡。脇本陣とは、参勤交代の大名や、勅使(天皇の使い)、公家(朝廷に直接仕える人)などが休泊する本陣の予備的な宿泊所です。普段は上級武士の休泊所となっていましたが、本陣が重複したときなど、格式の低いものが格式の高いものに本陣を譲り、脇本陣に移りました。 元禄~正徳(1688~1715)ころの屋並図によると本陣は柏屋・佐塚屋の二軒で山田屋が脇本陣となっています。 寛政3年(1791)の大火(竹下屋火事)で本陣・脇本陣を含む金谷宿のほとんどが焼失して しまいました。それから十年後の享和2年(1802)の記録では、幕府からの拝借金で、玄関・門構などは仮設ながら三つの本陣が復興しています。しかし「脇本陣なし」となっています。 天保14年~安政6年(1843~1859)「東海道宿村大概帳」には三本陣とは別に脇本陣が建坪105坪(346.5㎡)玄関付(門構えなし)と記録されています。これ以後の金谷宿脇本陣は、本町の角屋・金原三郎右衛門家が勤めました。金原三郎右衛門は享保19年(1738)金谷宿の年寄(門屋職の補佐役)を勤めました。また、文政年間(1818~1830)から明治3年(1870)の大井川川越し関係の記録の中では、代々川庄屋(川会所の長)の役職を勤めていました定飛脚問屋(三度屋)跡。田町の南側に「浅倉屋何右衛門」、北側に「黒田屋重兵衛(治助)」という定飛脚の問屋がありました。定飛脚とは、「三都定飛脚」ともいい、江戸と上方の京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、月三度(二日・一二日・二二日)出したところから「三度飛脚」、取扱所を「三度屋」とも言いました。またこの飛脚がかぶった笠を「三度笠」と呼びました。並便は昼間のみの往来でしたが、昼夜兼行の早便(特別急行便)は、江戸・大坂間の到着期限を六日としたことから「定六」ともよばれました。明治4年(1871)郵便の制度が施行されるまで、書類や信書、金銀の郵送もこの定飛脚で取り扱われました東海道金谷宿案内絵図現在いる場所は中央の一里塚16:21夢舞台東海道道標「金谷宿」日坂宿 宿境まで???。← 破損していた島田宿 宿境まで三十三町(3.7km)一里塚跡 金屋町新町延享3年(1746)の「東海道巡覧記」によれば「金谷一里塚榎木」とある。 里程 江戸へ五十三里 嶋田へ一里 日坂へ一里廿四町 金谷宿道路標識JR東海道本線のガード下を通りJRのガードをくぐると斜面に枝垂桜が咲き満開に近いのか日蓮宗 本遠山長光寺へ、右はJR金谷駅。所在地:静岡県島田市金谷新町2253長光寺本堂天保元年(1644)、慈善院日悦(ニイエツ)上人が身延山二十六世智見院日暹(ニッセン)上人を開山に開いた日蓮宗 本遠山長光寺天保十四年の「宿明細書」によれば、「御除地高二石、凡建坪六拾五坪右は往還より南の方四拾二間程入り、往還差支の節は御休泊相勤め申し候」とあり、金谷宿唯一の日蓮宗寺院であったと鐘楼と松尾芭蕉の句碑松尾芭蕉の句碑伊賀国上野に生まれ、俳号桃青ともいう。芭蕉の号は深川の庵の周りに芭蕉が植えてあったのでそれを号とした。芭蕉の俳諧の特色は、日本文学の伝統的要素を振興文学たる俳諧の中に生かしたこと。つまり古い美と新しい美とを融合した点にある。『道のべの 木槿は馬に 喰はれけり』 道ばたに咲いていた木槿の花は、私の乗っている馬にパクリと一口食われてしまった。 何事が起ったというわけではないが、ついさっきまで咲いていた花はもう影も形も無い。唐突のようでもあり、当然のような気もして、なんだか瞬間に幻を見たような思いである。意識・心情の深さから、平凡な事柄に深遠な悟りにも似た禅機的心象を感じる句である。注「野ざらし紀行」中の一句である境内の桜も満開に、来週も来るがもう終わっているか?枝垂桜は見頃になっているか楽しみ長光寺境内から下り長光寺側にはJRの改札がなかったので引き返し「一里塚跡 金屋町新町」から、旧東海道(国道473号線)の金谷宿を振り返るJR金谷駅前のロータリーロータリーにあるモニュメントは「ユメオン〜夢音〜」という愛称が公募によってつけられており、未来に向かって大きく躍進し、夢のある町づくりを目指してほしいという願いが込められているのだと。モニュメントは輪が垂直に重なったようなものの中に、鐘がいくつか(カリヨン)設置されていた。これはおそらく時報としての機能なのでしょうが、いろいろな曲が流れるように設定されているようです。聴いてみたかったが!JR金谷駅と左奥は大井川鉄道金谷駅バスロータリーの壁面には、長さ25m、高さ2.5mの「金谷茶まつり」の陶板彫刻が一面に刻まれていた。 銘茶の産地「金谷」で二年に一度行われる「金谷茶まつり」。新茶の季節の到来を告げる祭り。祭りのメインはやはり茶娘道中。茶摘み衣装をまとった茶娘約1000人が華麗な踊りを披露すると。夕方からは法被姿の若者が威勢良く引き回す屋台道中、力強い川越し太鼓の演奏などが行われると。夜間に行なわれる創作踊りも圧巻とのことようこそ、空港のあるまち島田市へ駅舎からのJR金谷駅前改札を入るJR東海道本線の下り方面はすぐトンネルに上り静岡方面金谷駅近郊の名所案内次回(青春18きっぷの有効期間4月10日)もここまで電車で来て、掛川駅を目指す予定遠くに先程渡った大井川橋が見える16:54JR車窓から上流の大井川橋JR藤枝駅から、ひたすら歩き『箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川』の島田宿大井川を渡る。今日の歩行数は、JR藤枝駅からJR金谷駅まで7時間半、約3万歩でした。江戸時代の大井川の水量がどの程度であったのか? JR藤枝駅から金谷宿ーEND
2019.05.29
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島田市博物館から大井川橋を渡り新金谷駅。『箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川』3/27(水) 15:00大井川の河川敷に降りる。江戸時代まではこの辺りから、徒渡しで対岸の金谷宿へ。右上の大井川堤は県道342号線の河原大井川港線河川敷に咲く・・・・・15:07夢舞台東海道道標「島田宿」と石碑金谷宿 宿境まで???、藤枝宿 宿境まで???。判読できず県道342号線の河原大井川港線を振り返る15:09県道342号線の大井川橋東交差点、県道381号線と合流。ここまでの歩行数は、自宅から23,800歩大井川橋:2003年 土木學會選奨土木遺産に指定。大井川橋は、昭和3年に架設された鋼製のトラス橋。下部は井筒型の基礎と門型の橋脚により構成されている。当時の技術力を結集して建設された最大級の道路橋である。いまなお建設当時の姿をよく残していることから、土木学会選奨土木遺産として認定された大井川橋概要。道路の名称:一般県道島田金谷線(旧国道一号線 → 県道381号線)所在地:静岡県島田市稲荷 ~ 金谷町金谷河原橋 長:1026.4m橋の形式:17径間下路式プラットトラス橋下部工:橋台2基、橋脚16基建設期間:対象13年 ~ 昭和3年風が強く、上流を望む大井川の下流方向、江戸時代と違い現在はダム等の建設で水量が少ない富士川橋、安倍川橋と同じような構造国道一号線の橋とその上流に新東名高速道路の橋が見える15:14下流の新東海製紙の煙突ズームアップ水量が少ない、江戸時代の水の量を見たいものですネJR東海道本線の陸橋JR東海道本線の陸橋を貨物列車が走る歩道橋に旅姿のタイル15:24大井川橋西側、橋を渡り終えて、25,200歩に。橋を渡るのに1,400歩を要した。大井川橋の石碑15:25大井川橋を渡り県道381号線の東町交差点15:28この先に「新金谷駅」の道路標識があるが手前を左折して路地へ入る15:33歩いて数分で「宅円庵(タクエンアン)」所在地:静岡県島田市金谷東2-13-2宅円庵と日本左衛門首塚の看板。境内にいると何故か湯けむりが上がり石炭を燃やしている匂いが。この辺りに金谷宿の川会所があるのでは?宅円庵宅円庵 由来。慶安4年の開創。宅円大徳上人の御名を記念せんがため、宅円庵と号す。後、知る由もなく伝記によれば、上人この附近を巡湯のみぎり、某家の旅宿にて自身の負わし薬師如来の夢に現れて『大井川は、水難多く、通行の旅人等の悩めるを救わんがために一宇を建立せよ』との霊告あり。附近の庄屋と相はかりて勧化せられしに浄財集りて堂宇の建立をはたしたり。本尊は薬師瑠璃光如来を奉祀したりと宅円庵の六地蔵日本左衛門首塚。日本左衛門は江戸中期の大盗賊、尾張藩の下級武士の子で、若い頃から放蕩を繰り返した人物。本名は浜島庄兵衛。盗賊団の頭目となり、遠江国を本拠に東海道周辺を荒らしまわった結果、全国指名手配となる。逃亡していた日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書(初の盗賊手配書)をみて逃げ切れないと観念し、京都で自首。延享4年(1747)処刑された。享年29歳首は遠江国の見付に晒されたが、金谷宿の愛人・お万こと三好ゆきが首を盗みだし、宅円庵に葬った。後に日本駄右衛門として歌舞伎『青砥稿花紅彩画』に白浪五人衆(白浪=盗賊)の題目として描かれた警笛がしたので墓地へ行くと蒸気機関車が。先程の湯けむり、石炭を燃やしている匂いはこの蒸気機関車だったのだ15:37宅円庵の裏は、大井川鉄道 大井川本線の「新金谷駅」であった転車台で方向転換中。鉄撮りのカメラマンが立ちここの転車台は電動? 手押ししているところもあるがズームアップすると蒸気機関車は「Ⅽ56 44」。製造:三菱 神戸造船所、製造:昭和11年(1936)。この車両は札幌近郊や千歳線等で使用されていたが、太平洋戦争の開戦と同時にタイ・ビルマ方面の軍隊に供出され、戦時輸送のためタイへ送られた。太平洋戦争激化により大破した車両が多い中、とても運の強いSLといえる。昭和54年(1979)6月、タイから31号機と44号機が日本に帰国。31号機は東京・靖国神社に、44号機は同年6月29日に大井川鉄道へ入線した 転車を終える蒸気機関車は大井川本線の新金谷駅から千頭駅まで毎日一往復運行。 新金谷駅発:11:52 かわね1号 千 頭 駅 着:13:09 千 頭 駅 発:14:52 かわね2号 新金谷駅着:16:09観光シーズンには三往復運航しているようだ。因みに運賃は、新金谷駅から千頭駅まで、乗車券 1,720円+SL急行券 800円古い電気機関車、近鉄特急新金谷駅前には多くの観光バスが待機、右は宅円庵の墓地16:09着のツアー客を待っているのか15:42鉄道会社の古い電気機関車、車両が15:48県道230号線(住吉金谷線)の跨線橋から新金谷駅15:49大井川鉄道は蒸気機関車を4両現役で運行している15:53県道230号線(住吉金谷線)を歩き金谷宿へ大代川県道230号線(住吉金谷線)に架かる「ふれあい橋」15:55ふれあい橋から丘を望むが茶畑? 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.28
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島田宿の大井川 川会所から島田市博物館へ。川越制度(カワゴシセイド)と川会所(カワカイショ)。慶長6年(1601)徳川家康は東海道に宿場伝馬の制を定め、街道整備を行った。しかし、大きな河川には橋がほとんど架けられず、旅人は船か徒歩で渡るほかなかった。特に大井川は渡船も禁止され、流れが急で不慣れな旅人が渡るには危険であったため、川越しの手助けを職業とする人々が現れた。そして、街道の通行量の増加とともに渡渉の方法や料金などを統一する必要が生じた。3/27(水) 14:05川会所からの島田大堤。そのため、元禄9年(1696)に幕府により代官所を通じて川越制度ができた。その管理のために川庄屋の役職と業務の拠点となる川会所がおかれた川会所には、川庄屋のもとに年行事、待川越、川越小頭などの役職をおいてその日の水深を測り川越賃金を定め大名から庶民まですべての通行人に対する渡渉の割り振りや諸荷物の輸送配分などの運営をはかる仕事が行われた川会所からの街道。川越制度は明治維新まで続けられていたが、明治3年(1870)に大井川の通船が許可されたことに伴い廃止された川会所からの満開の桜と「そば玄」川会所内に貼られた説明書。連台越しの手順 旅人は、前夜島田宿の旅籠に泊まり、早起きして早朝出立する。すでに川方では 川庄屋によって「何十何文川」であるか定められ、宿中に触れ歩いてあるので、 旅人は出立前に、当日「何文川」であることを知ることができた。・・・・・越立の方法 普通大井川を渡渉するには、川越人足の肩車で越す場合と、連台で渡渉する場合 とがあった。・・・・・・・・・現在の川会所の建物は安政3年(1856)に建てられたもので、制度の廃止後、大井川通船の事務所や学校の校舎などに利用されて移転を繰り返した。そして昭和41年(1966)8月に島田宿大井川川越遺跡が国の指定を受けたことに伴い、昭和45年(1970)8月現在地に移築された島田大堤。天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(1604~1605)で決壊し、建設まもない島田宿のすべてが押し流された。その後、大堤完成までの確かな記録は不明だが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、向谷水門を堀抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化した。これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えた。大堤の規模は、高さ二間(約3.6m)で向谷水門下から道悦島村境までの、長さ3150間(5733m)と記録されている川会所前の松の下に松尾芭蕉「馬方は しらじ時雨の 大井川」の句碑がある。他にも「さみだれの 空吹きおとせ 大井川」など、数多くの句が残されている14:10八重枠稲荷神社。川越人足たちが京都の伏見から勧請して建てた昔、ここは大井川の出し堤防があり、洪水の時には蛇龍に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて、激流から村を守った。八重枠稲荷の名前はここからきている。宝暦十年(1760)に川越衆の安全と事故の排除を祈願して建立されたとここで水をくいとめた「せぎ跡」。水をくいとめたにしては少々せぎの高さが低いが・・・・・・・大井川の堤下にある「朝顔の松公園」島田市博物館前にある「いたずらがきの碑」14:13島田市博物館。 所在地:静岡県島田市河原1-5-50ここまでの歩行数は、22,300歩島田市博物館分館との共通観覧券で館内へ入る.一階では「川留め文化」をわかりやすく常設展示。二階では特別展や企画展を開催している。この日は二階は閉鎖中で一階のみを見学東海道 宿場人口ランキング1位:53番目の大津宿(大津市) 14,892人 中山道の宿場を兼ねターミナル宿場2位:19番目の府中宿(静岡市) 14,071 徳川家康隠居の城3位:41番目の宮宿(名古屋市) 10,342 熱田神宮に近い、桑名宿への海路4位:42番目の桑名宿(桑名市) 8,8485位:43番目の四日市宿(四日市市) 7,114旅籠では相部屋もあたりまえ。はじめは木賃宿といって食事の提供がなく素泊まりであった農民を苦しめた助郷制度。助郷とは、江戸幕府が宿場付近の農民に課した夫役のこと。島田宿は他村と異なり、大井川の川越し助郷があったため、川留めなどの場合、助郷人馬は幾日も留め置かれることから、余分な出費までかさみ、農繁期には農民にとって大変過酷な制度でした旅 姿旅の用心集、飯盛女。旅といえば、昔も今も先立つものはお金。道中では巾着切りや枕さがしといわれる道中師にやられたり、山道では追い剥ぎに出合うかもしれないと・・・・・・・。飯盛女は、旅人の食事の世話や接待をした、享保3年幕府は、旅籠一軒につき飯盛女二人と決めたが、守られなかったと、飯盛女のいる旅籠はとても繁昌した天下に知られた島田の刀鍛冶水の深さと川幅で違ってくる値段、大井川川越賃銭:寛政年間無理に渡った大名安永8年(1779)3月、尾張藩主が江戸から名古屋への帰途、大井川にさしかかった時、ちょうど大井川は増水していた。この日は、御状箱瀬といって人馬の渡渉は一切中止のはずですが、無理に渡渉を強行した。その理由としては、いつ川明けになるかわからないことと、滞在する経費が著しく軽減されると思ったからでしょうと川越しをとりしきるのは川会所の組織銭枡、寛永通宝、大井川の川札、大井川の台札常設500台がスタンバイ:充実の輦台(サンダイ)ラインナップ東海道川越大井川の図(広重画)川越し人足の仕事と生活。人足達は、口取、待川越、本川越、水入、弁当持ちなどの階級区分があり、一番から十番までの10組にわかれていて、その時々の交通量によって、必要な人数に動員がかけられた。この川越人足達は、番宿に待機していた。また、人足に出ない日は、農業などでくらしていた島田大祭:神輿渡御行列一覧図東海の奇祭 -島田大祭ー元禄年中、大井神社が現在の地に遷座されて以来、3年に一度秋の豊穣を感謝して、大名行列、大奴、みこし、鹿島踊り(県の無形文化財指定)、特に屋台の長唄は、昔から江戸歌舞伎の登竜門として位置づけられてきた。三日間の祭りの華やかさは元禄絵巻そのものです。25人衆の大奴が、安産祈願の帯を木太刀にさげ、行列をつくってゆっくり進むさまは、日本三奇祭の一つに数えられている。その行列の総勢は三千人とも言われ、豪華絢爛で大勢の人々が見物に来ている日本三奇祭について。『年中行事辞典』によると日本三奇祭として、山梨県富士吉田市の富士浅間神社火祭静岡県島田市の大井神社帯まつり愛知県稲沢市国府宮裸祭 いろいろ説があるようですが島田の帯まつりの大奴14:30 から、ジオラマビジョンを20分見る。約40分間博物館内を見学して、川越文化を知ることができた。14:54館外に「大井川の通船で使われた川船」が展示されていた明治時代に入ると、大井川の川越制度は廃止され、明治4年(1871)には、本格的な船による物資の運搬事業「大井川通船事業」が始まった。船着場は、島田市向谷、家山、川根本町千頭などに設けられ、向谷から家山までは3日終点千頭までは5日間の航路だったようです。この川船はその通船に使われたもの。川をさかのぼる時は、人が押して進んだので、船頭の苦労は大変なものであった。そのため、昭和の初めには高瀬船、飛行艇へと移っていった松尾芭蕉の句碑。「ちさはまだ 青ばながらに なすび汁」。この句は芭蕉が元禄7年(1694)5月中旬、島田宿へ二度目の逗留をした時の句であるこの句は、もはや初夏なのに目の前のお膳の汁には、春野菜であるちさ(チシャ菜)が、花もでない青葉のまま、そのうえ盛夏のものである茄子までがはいっていて、青々として香り高いちさと色鮮やかな紫の初茄子とをご馳走をしてくれた主人如舟に対する感謝の意をあらわしたものであると。この句から江戸時代でも、ちさと茄子を汁に入れていたのだと・・・・・14:56島田市博物館前から川越遺跡を振り返る。右前方に「せぎ跡」朝顔の松の由来浄瑠璃『朝顔日記』では、恋する人を慕って流浪する盲目の娘深雪が大井川のほとりで、川留めの悲運に泣くが、その時、奇跡的に目が治るくだりがあり、当時江戸で大評判となった。このことから大井川河畔の巨松を「朝顔の松」と名付けた朝顔堂。しかし昭和のはじめに枯れたので、その樹幹を朝顔の松公園内の朝顔堂に木碑として保存している。句碑は巌谷小波の「爪音は 松に聞けとや 春の風」川越場の絵図14:58お馴染みの夢舞台東海道道標「島田宿」。金谷宿の宿境まで???。戻ると藤枝宿の宿境まで???島田市博物館を後にする15:00県道342号線の河原大井川港線から『箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川』へ 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.27
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大井神社を引き続き参拝してから、大井川の「川越遺跡の川会所」へ向かう。3/27(水) 13:05大井神社拝殿の南側に位置する、静霊神社、春日神社、大井天満宮の各社静霊神社前方左に「大井神社拝殿」正面に、江戸時代に建造され平成16年に復元された「常夜燈籠」大井神社境内に隣接する、結婚式場がある「大井神社宮美殿」弥次さん、帯祭の装束を身に着けて13:09弥次さんが御朱印を頂く13:15旧東海道(県道34号線)の本通りを歩き、右側に「大善寺」所在地:静岡県島田市向島町2919本堂と梵鐘大善寺の梵鐘当山の鐘は、天明4年(1784)「時の鐘」として備え付けられた(旧鐘銘)。それ以後、昼夜六時(二時間おき)にこの鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ッ(日の出時刻)と暮れ六ッ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図ともなっていた。しかし、この鐘は昭和19年(1944)太平洋戦争の際、供出され現在の鐘は昭和48年(1973)に新しく造られたもので、毎月1日・15日と大晦日に撞かれています13:18大善寺を出て、来た方向を振り返る13:23旧東海道(県道34号線)の本通りを歩き「新東海製紙㈱」所在地:静岡県島田市向島町437913:28お馴染みの夢舞台東海道道標「島田宿」。金谷宿の宿境まで六里(0.7km)。戻ると藤枝宿の宿境まで二里十六町(9.5km)島田市博物館、大井川川越遺跡の道標大井川流域は、太古の昔より人が暮らし、江戸時代には東岸に駿河国島田宿、西岸に遠江国金谷宿を擁し、東海道の要衝として豊かな文化を育んできた。この先を左側に入り、新東海製紙の塀に沿って歩く13:34川越遺跡島田宿の川越の拠点となった場所で、当時の街並みが復元・保存されている。川幅12町(1.3km)もある大井川は、幕府により架橋、通船を禁じられていた東海道最大の難所で「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれたほど流れが急だった。そのため、不慣れな旅人が歩いて渡るには危険だと川越の手助けを職業とする者が現れた。江戸時代初期の万治年間(1658~1661)頃の東海道名所記によると、馬方が川越人足と結託してわざわざ深い所を渡って高い料金を取り、水かさが多いときは法外な料金を要求してくると記されている等のトラブルが発生した。島田宿大井川川越遺跡案内図川越遺跡(カワゴシイセキ)に入り「上段の間が現存する塚本家」「上段の間」とは、奥の一室が一般の座敷より一段(約20cm)高くなっていて、身分の高い人をお迎えする特別な部屋のこと。江戸時代、大名や公家などの宿泊する本陣には必ず備えられていた。塚本家に伝わる文書によると、九州肥前(長崎県)で古い家柄を持つ大名、大村藩(二万七千九百石余)によって建てられた家です。そして大村藩の参勤交代や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が、大井川を渡る時に特別の便宜をはかり、川越しの準備や手続きを代行した。その間大名を座敷の上段の間にお通しして接待し、・・・・・・・・トラブル発生の為、島田代官・野田三郎左右衛門は元禄9年(1696)川越制度を整え、川会所を設置した。川会所はこの制度に基づき、川越業務の管理・運営を行った。業務内容は、その日の水深による川越賃銭のの決定、川札(切符)の販売、通行人の渡河順序の割り振り、荷物の配分などだった。昭和41年(1966)に国の史跡に指定13:37島田市博物館分館所在地:静岡県島田市河原2-16-5島田市博物館との共通券とのことで300円で購入して、中に入る300円の観覧券中に入り分館の奥にある「島田市民俗資料室」各種のこぎりおの、かんな等の大工工具懐かしいいろんな工具が展示畑作業の農工具郵便ポスト、ウナギをとる籠昭和初終戦後の膳と石臼13:50 約15分の見学で島田市博物館別館を後にする13:52大井川川越遺跡の街並み案内。往時の島田宿大井川の渡し場近くの街並みに、川越しを取り仕切る「川会所」や川越人足の詰所「番宿」などが復元されている13:53法被(ハッピ)「大井川連台越」を着る川越人足もいっぷく。川越人足は法被を着て、腰に二重廻しと称する前垂れ平日の水曜日だが観光客が少ない、旧街道。番宿と川越人足。川越人足の数は、はじめ大井川両岸の島田・金谷にそれぞれ350人と定められていたが、幕末には約650人に増えていた。人足たちは、裸で腰に二重廻しと称する前垂れをしめ、お互いに川越取と呼びあい、関取に一脈通じると自負していた。人足たちの集合場所が一番宿、二番宿と呼ばれる番宿であり、年配者になって、川越業務を直接やらないようになった人たちが集まった立合宿や仲間の宿、川札をお金に換えた札場などがあった仲間の宿現在、人は住んでいないが?一応住所登録はされているようだ。主に年をとった川越し人足たちの集まった宿。ここは、人足たちの仕事上の意見交換や、各組どうしの親睦の場として使用されたといわれている札 場川越し人足が川札を換金する所で、昔ながらの位置に保存されている。一日の川越が終了すると、それぞれの番宿において川札を回収して、札場で現金に換えた後、人足たちに分配した14:00そば玄と大井川川会所10割蕎麦が美味しいと旧東海道 大井川 川会所(カワカイショ)川越しの料金を決めたり川札を売ったりしたところ大井川の川越(カワゴシ)江戸時代の初期、慶長6年(1601)に幕府は江戸と京都を結ぶ東海道に宿場伝馬の制を定めて街道交通を整備するいっぽう、大井川や安倍川、酒匂川など主要な河川は江戸城の要害として、架橋や渡船を認めず川越人足に旅人を担いで川を渡らせた川会所前の桜川越賃銭と越し方大井川を渡るには、川札(川越札・油紙ともいい、人足一人を雇うために札1枚が必要)を川会所で買い、川越人足に手渡ししてから、人の肩や連台に乗り川を越した。この川札の値段は、毎朝、待川越(マチカワゴシ)が水の深さと川幅を測って定めた。水深は股通や乳通と呼び、股通の場合は川札1枚が四十八文であった。また、大井川の常水は帯通二尺五寸(約76cm)、脇通四尺五寸(約136cm)を越すと川留になった。川越しに必要な川札の枚数は・・・・・・・・・。役人の「年行事」川越人足の経験者の中から選ばれ、9~11人が交替で詰めた。 「川庄屋」島田宿の問屋場で伝馬業務に従事する人の中から選ばれた川札のねだん(カッコ内は現在の値段):寛政年間(1789~1801)。脇通:九十四文(約2820)、乳通:七十八文(約2340)、帯上通:六十八文(約2040)、帯下通:五十二文(約1560)、股通:四十八文(約1440)大高欄連台(ダイコウランレンダイ)担ぎ手16人、手張4人に台札(川札の32枚分)の計52枚半高欄連台(半手すり2本棒)担ぎ手は、並連台と同じ4人で4枚と台札(川札の4枚分)の計8枚平連台(並連台)一人乗りの場合、担ぎ手4人で川札4枚と台札(川札の2枚分)の計6枚14:04肩車と手張(補助者)川越人足の肩にまたがって越した。川札は1枚。常水以上は、手張1人がつくので川札が2枚必要だった広重「東海道五拾三次之内 嶋田 駿岸大井川」(保永堂版) 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.26
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島田宿本陣跡から大井川手前の大井神社へ。島田宿は「箱根八里は馬でも越すが越さぬは大井川」と詠われた、東海道の難所の一つで、大井川の増水時には足止めを食ったために人々で賑わっていた宿場。3/27(水) 12:36この場所は旧東海道の宿場の中心で、この通りは平成20年度国交省の美しいまちなみ優秀賞を受賞している。「美しいまちなみ優秀賞」を競っただけにきれいな街並みであるが、活気が感じられないのが残念! 南方向を見る島田御陣屋(代官所)跡の碑には代々の代官名と任命時期が記されている。江戸時代島田宿には、駿河国志太郡や遠江国榛原郡などの幕領(天領)を支配する御陣屋(代官所)が設置されていた。島田御陣屋は、駿河国府中城主徳川頼宜の代官であった長谷川藤兵衛長親が、元和2年(1616)に建てた屋敷がはじまりで、その子藤兵衛長勝が寛永19年(1642)、幕府の代官職に任命され、その屋敷が御陣屋となった昼時だが人が少なく活気が感じられないのが残念だ、南方向おび通りを進むと「御陣屋跡」があり駐車場になっている、北方向12:38旧東海道側に戻り「からくり時計塔」。角のパン屋からパンを焼いているいい香りが漂い、お客さんが訪れていたベーカリーのマーク12:40旧東海道(県道34号線)の本通りを歩き、この先を左折するとJR島田駅。右折すると島田市役所カラーの「しまだおすいマンホール」島田市は「帯まつり」が奇祭として有名である12:41街道沿いに松尾芭蕉の「駿河路や句碑」があちこちに立つ。芭蕉は島田宿の俳友塚本如舟を二度訪ねており、ニ度目は元禄7年(1694)5月で芭蕉最後の旅となった。その際、大井川が川留になっており4日間も如舟の家に、滞留することになった碑面には「するがの国に入て するがぢやはなたち花も ちゃのにほひ はせを」 はせを:芭蕉の俳号12:42旧東海道(県道34号線)の、本通り2丁目交差点12:44㈱大村屋酒造場所在地:静岡県島田市本通1-1-8美味しい静岡県の伝統の地酒! 「おんな泣かせ(純米大吟醸)」は、静岡地酒の中で、盛も全国的に名を知られた商品のひとつではないだろうか。日本三大奇祭のひとつ「島田帯まつり」が有名な島田市で唯一の酒蔵である12:45街道脇に村境の石柱。東:六合村境、北:???旧東海道を振り返る。西:大井川渡船北???、北:???石柱の交差点に立つ道標12:47旧東海道(県道34号線)の本通り沿いに「大井神社」ここまでの歩行数は、18,900歩12:47反対側に、日蓮宗正覚寺の山門正覚寺山門所在地:静岡県島田市本通1-4704山門横の枝垂桜正覚寺境内枝垂桜はこれからが見頃に12:51正覚寺を参拝後「大井神社」へ。所在地:静岡県島田市大井町2316島田の参土神(ウブスナガミ)で、洪水を鎮め安産をもたらすとして信仰が篤い神社。元禄年間(1688~1704)に始まった「帯まつり」は3年に一度開催される。由来はいくつかあるが、嫁入りの丸帯を神社の大祭の際、行列に供する大奴の大太刀に掛けて宿内へ披露するようになったのが始まりともいわれる。県の無形文化財に指定されている升形跡(宿西入口)。島田宿の西入口には、川沿いに土手で囲い、東側は正覚寺入口の小路で囲った、例の少ない升形の見付が設けられていた。ここに宿場の番人を置いたという記録はないので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようですと鳥居をくぐり、江戸時代より鎮護の社。大井川川越安全・道中無事祈願「大井神社」鳥居横にある「道中飛脚奉納燈籠」江戸時代安政3年(150年前)江戸ー京都ー大阪の飛脚達が道中及び大井川川越の無事を祈って奉納した燈籠参道の石垣の石は、江戸時代に大井川から土手(堤)石垣 ← 参道の石垣。江戸時代大井川の川越稼業の人達が、毎日の業を終えて帰る際に、河原から石一つ選び持ち帰り、それを蓄積してこの土手(堤)を築いたものである福徳開運の神様「大井恵比寿神社」の案内手水舎安産祈願「帯塚」使った帯を供養してこの塚に納め一家の平安と安産を祈る。昔からの島田の信仰大井神社最古の奉納燈籠。寛文3年(1663)、大井神社の現在地遷座前の燈籠という事になる。お旅所から移したものかと福徳開運の「大井恵比寿神社」福寿の手水鉢。享保21年(1736)、武州玉川の治水工事にあたっていた川崎平右衛門らが奉納した大井神社拝殿常夜燈籠再建について。大井神社常夜燈籠は江戸時代に建造されたが長い歳月を経て風雨による損傷が甚だしく倒壊のおそれもあったので、平成15年2月解体その後島田の宮大工佐野覚氏の献身的な精進努力により一年有余ヶ月の時を経て此度竣工した。一部は流用し・・・・・。大奴・鹿島踊像大井神社の大祭「帯祭り」の大奴・鹿島踊の姿を後世に伝えるブロンズ像。「帯まつり」は日本三奇祭として有名である。日本三大奇祭をWikipediaで検索すると下記の10があるようです。御柱祭:諏訪大社、なまはげ:秋田県男鹿市、吉田の火祭り:山梨県富士吉田市、その他諸説として、島田帯祭:島田市、会陽(裸祭り):岡山市、・・・・・・・大奴像・鹿島踊像 建立記念碑島田鹿島踊 先導 三番叟像(サンバソウゾウ)この三番叟につづき鏡持、杓子、鼓、ササラ、稚方の諸役が華麗な装束をつけて続き舞いながら供奉する島田の帯祭 大奴日本三奇祭の一つに数えられ、寅・巳・申・亥・歳三年に執り行われ大名行列と共に25人の大奴が供奉する大井神社御由緒大井神社は、貞観7年(865)授駿河国正6位上大井神と三代実録に記載の見える古社。昔、大井川が乱流し度重なる災害に悩まされた里民は、子孫の繁栄と郷土の発展の為に御守護を祈るべく大井神社を創建した。幾度びかのご遷座の後、島田宿が東海道53次の要衝として宿場の固まった元禄初年、当地に正式に遷座し、元禄8年より御神幸の神事が始まり、下島(現 御仮屋)の旧社地は御旅所と称せされ、日本三奇祭「帯祭」と讃えられるようになった大井神社拝殿13:00大井神社拝殿 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.25
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蓬莱橋の「蓬莱橋897.4茶屋(ヤクナシチャヤ)」で休憩後、島田宿本陣へ。3/27(水) 11:30蓬莱橋897.4茶屋からの蓬莱橋。店名の「897.4」は、蓬莱橋の長さが「897.4m」であり、「厄なし」と厄払いのご利益スポットになっていることに由来する江戸時代の大井川川越風景茶屋で「抹茶ソフトクリーム」を食べる。弥次さんの自宅そばにある横浜薬科大学との共同開発店内の黒板にはメニュー描くのは専門家だと観光案内河川敷に咲く花桃茶屋の裏に建設中のモニュメント記念碑のイメージ大井川は、明治15年(1882)国の直轄河川として改修工事が開始され、平成4年(1992)で110周年を迎え記念としてここに碑を建立した。中心の柱は大井川を表し、その柱をとりまく輪はそこに暮らす人々の街をイメージしています。上に伸びる川と斜の輪には川と人と街の安全と調和の土台になっているのは堤防であるという事を表現している。輪と柱をつないでいるパイプを9本使用することで、大井川周辺に位置する3市6町を表し、パイプとパイプの空間は、大井川周辺各市町の面積比で表現している。碑の高さは、河口までの流路延長160kmの約10万分の1、円の面積は周辺市町の行政面積149.809haのおよそ1千万分の1に表現されている蓬莱橋を望む11:55昼時だったが時間がないので先を急ぐことにして、旧東海道へ戻る民家の玄関先、来年はわが家でも植えたいものだが12:04JR東海道本線の「第一相良街道踏切」12:08旧東海道(県道34号線)本通りへ戻る江戸時代の島田宿一、島田宿の成立 慶長6年(1601) 徳川家康により、東海道の「伝馬駅」として指定される。 慶長9年(1604)頃 大井川の大洪水で宿駅施設はすべて押し流され、北の「元島 田」で仮に継立てを行った。 元和元年(1615) 元の島田宿に戻り復興した。一、宿内家並東西長さ 九町四十間(約1.1km)。一、宿内人口(天保14年・1843) 6727人 内 男:3400人 女:3327人 当時の静岡県内では、府中に次いで人口が多かった。一、宿内総家数(天保14年・1843) 1461軒12:09島田宿一里塚の石柱島田宿一里塚は、天和年間(1681~1684)に描かれた最古の「東海道絵図」の中で、江戸から五十里と記され、北側の塚しか描かれていません。幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では巾五間二尺で北側のみ、塚の上には榎が植えられていたことが記されている12:10反対側の歩道沿いに「甘露の井戸水」ご自由にどうぞと12:12旧東海道の本通り、製茶処「佐の幸茶店」。店の横にお地蔵さんお地蔵さん(七商会)「金運上昇」所在地:静岡県島田市本通7丁目12:13旧東海道の本通りから路地を入り。曹洞宗 佛殿山林入禅寺所在地:静岡県島田市祇園町8512-1林入禅寺本堂12:17林入禅寺の東にある「須田神社」須田神社鳥居と本殿須田神社の境内に「大井川の川越し」のポスター2019.4.6(土) ~ 5.26(日)須田神社の境内と本殿12:23旧東海道に戻りJR島田駅方面へ12:24刀匠 島田顕彰碑と島田刀鍛冶の由来碑島田の刀鍛冶は、室町時代より江戸時代末期にいたる約400年間の歴史をもち。繁栄期には、この島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。その系譜は、義助・助宗・広助を主流とし、作風は、相州風・備前風などのみえる業物打ちであった。・・・・・・・島田鍛冶集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史のなかでも、とりわけ燦然と輝いている12:26現在の地図における江戸時代の史跡場所旧東海道の島田の宿場の様子が案内図により説明12:27旧東海道(県道34号線)の本通りはモール化しまだ おすいマンホール「帯祭」12:29おび通りに建つ「からくり時計塔」。所在地:静岡県島田市本通4丁目。この通りは平成20年度国交省の美しいまちなみ優秀賞を受賞している。この場所は旧東海道の宿場の中心で、下本陣があった場所。からくり時計塔の下に「下本陣跡」「島田宿本陣跡」がある。からくり人形出演時間:午前10時~午後8時までの1時間ごとにお出まし島田宿本陣跡島田宿には、西から上本陣村松九郎治家、中本陣大久保新右衛門家、下本陣置塩藤四郎家の三軒がありましたが、脇本陣は有りませんでした。参勤交代の行列は、数百人から千人以上に及び、戦のときの行軍と同じと考えられていたため、大名の泊まる宿を戦場と同じく「本陣」と呼んだといわれた下本陣を示す碑で置塩藤四郎家跡からくり時計塔12:31天野屋横に「本陣跡」の碑12:32上本陣 村松九郎治家跡の石柱ホテル割烹 三布袋に上本陣の碑がある。「サンポテイ」と読み150年の歴史がある俳聖芭蕉翁遺跡・塚本如舟邸跡12:33芭蕉は島田宿の俳友塚本如舟を二度訪ねており、ニ度目は元禄7年(1694)5月で芭蕉最後の旅となった。その際、大井川が川留になっており4日間も如舟の家に滞留することとなった。碑にある句には如舟のもてなしへの謝辞がこめられている 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.24
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今日23日は、私の「??回目」の誕生日。島田宿のJR六合駅近くから蓬莱橋へ向かう。3/27(水) 10:48旧東海道(県道381号線)の大津谷川に架かる「栃山橋」栃山橋から大津谷川下流両岸には桜並木、JR東海道本線静岡空港(富士山静岡空港)の標示10:49栃山土橋。大津谷川と伊太谷川が、この橋の川上で合流して栃山川と名を変える。昔は「島田川」とも呼ばれていた。享和3年(1803)に書かれた「島田宿書上控」によると、江戸時代の「栃山橋」は土橋で、長さ17間(36.6米)、横幅3間(5.4米)、橋杭は3本立て7組で支えていた。土橋とは、板橋の上に柴(木の枝)を敷き、その上に土を貼ったもの。この橋の東端が、当時の道悦島村と島田宿の境となっていた道路脇に咲く???10:51監物川と監物橋寛永12年(1635)、島田宿は田中藩の預所となり、田中城主であった水野監物忠善の支配下にはいった。志太郡一帯を支配することになった監物は、水不足に悩む栃山川以東の村々のために、灌漑用の水路を作ることを計画した。そして島田宿の南(横井)に水門を設けて大井川の水を取り込み、そこから栃山川まで水路を開削して大井川の水を引き入れた。感謝した農民たちは、その名前を後世に残そうと、この水路を「監物川」と呼び、東海道に架けた幅三間、長さ二間の短い土橋を「監物橋」と呼んだ10:52旧東海道(県道381号線)の御仮屋交差点10:53夢舞台東海道道標「島田宿」金谷宿 宿境まで三十三町(3.6km)。藤枝宿 宿境まで一里二十三町(6.6km)10:54旧東海道(県道381号線)の御仮屋交差点。旧東海道はここを直進して「本通り(県道34号線)」へ11:04升形跡(宿東入口)宿場の出入口には「見付」と呼ばれた施設がありました。もともとは城門の見張り施設のことをいった。宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道に直角や駒の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升型の見付もありました。島田宿の東入口には、例の少ない升型の見付が設けられていた。広さは五間四方(約80m)ほどです。ここに宿場の番人を置いたという記録は有りませんので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです旧東海道(県道34号線)の本通り11:07本通り商店街を歩くがここもシャッター街歩道のマンホールには江戸時代の侍が描かれていた11:08中村菓子舗所在地:静岡県島田市本通7-7739もともとは和菓子専門だったが、現在の店主から洋菓子を創作するようになったと。ここを右折して約500m先の「蓬莱橋」へ向かう11:10JR東海道本線の「第一相良街道踏切」を渡る、この地点は東京から206K923MJR島田駅方向しまだ おすいマンホール「蓮台越 大井川」11:13高野山島田教会、高野山蓮花院別院の石柱所在地:静岡県島田市宝来町2-18境内には右側にふじ棚こじんまりした三重塔修行像11:16蓬莱橋へ350m交差点を渡り11:20ショッピングモールの「アピタ島田店」所在地:静岡県島田市宝来町8-2こちらには多くの車が訪れていた、本町通りがシャッター街になるのも当然か11:21県道342号線(河原大井川港線)の蓬莱橋交差点アピタ島田店と県道342号線(河原大井川港線)沿いの蕎麦屋11:22蓬莱橋(ホウライバシ)所在地:静岡県島田市南二丁目地先。明治12年(1879)対岸にある牧之原台地を茶畑に開墾した農民の出資により、大井川に架けられた木造の橋。その名残りで今でも橋を渡るには、料金がかかる。ここまでの歩行数は、14,300歩蓬莱橋 通行料金表大井川蓬莱橋渡橋記念:渡橋料 100円を購入 NO.071185英国ギネス社認定 世界最長の木造歩道蓬莱橋通行止めのお知らせ。蓬莱橋上部工架替工事のため、2019年3月31日まで途中までしか行けない橋の手前の広場に立つ「勝海舟之像」。何故ここに、勝海舟の像があるのか?ギネスブック世界記録認定証書。「世界一長い木造歩道橋」。橋の長さ:897.422m 橋の幅:2.700m。蓬莱橋は、1997年12月30日英国ギネス社より、人が歩いて渡る「世界一長い木造歩道橋」として認定された橋の下に降り見上げる太い木が地中に、どのくらい入っているのか橋は大きな木で組み上げられている勝海舟は、咸臨丸の船長として渡米し、この時にお茶が世界的な商品価値を秘めていることを認識する。帰国後、新政府の要職を歴任、明治2年(1869)勝海舟たちの命を受け、中條景昭、大草高重が指導する旧幕臣たちが、牧之原で1425haの茶畑の開墾を開始した。この時、海舟は様々な問題に関して相談を受け、経済的な援助も惜しまなかった明治8年(1875)に官職を辞した後も、陰に日なたに牧之原開拓士族を物心両面で協力し続けた。また、明治6年(1873)には、仕事を失った川越人足たちも約30haの茶畑を開墾し始め、明治11年(1878)には約41haに拡張された。この過程で対岸の島田から開墾に参加する者や、牧之原から大井川を渡って島田と交流をもつ旧幕臣が増えた。当初は小船を利用して大井川を渡ったが、あまりにも大変であったため、許可され架けられたのが「蓬莱橋」である大井川の上流側、河川敷にはたくさんの流木途中まで行けるとのことで渡るが、風が強く欄干がないので怖い弥次さんも風で帽子が飛ばされるので、手に持ち引き返す下流側には東海道新幹線の橋梁も。近年は上流にダム等が造られて、水嵩も減っている大井川風が強く怖いので早々に引き返す11:28大井川の上流側前方土手下に島田球場の照明塔が見える 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.23
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千貫堤・染飯伝承館から島田宿へ向けて歩く。千貫堤の側にJR東海道本線の瀬戸踏切があり、昭和34年(1959)新幹線の開発と実現を目指し「こだま高速度試験」が藤枝~島田間で実施され、瀬戸踏切付近で狭軌線世界最高速度の「時速163km」を記録。さらに一里山踏切西~陣屋踏切東の間に試験線(第3線)を敷設して広軌化に向けて各種試験が続けられた。当時私もこのニュースを聞いて当時の国鉄学校へ行こうかと思ったが!3/27(水)9:48千貫堤・染飯伝承館近くで、芝桜がきれいに咲き始めていた旧東海道(県道222号線)へ向かう9:51旧東海道(県道222号線)沿いの「育生舎跡」明治初年の学校「育生舎」。明治5年8月 2日:学制発布明治7年4月14日:上青島村、下青島村、内瀬戸村、瀬戸新屋村、久兵衛市右衛門 請新田村の五ヶ村が聠合し、上青島村一番地(庄屋 小沢家の所地) に公立小学校を創設、育生舎と名づけ開校した9:54旧東海道(県道222号線)の松並木9:55旧東海道の左手前に立杭が田中藩領牓示石蹟の石柱と説明板。江戸時代は細かく藩を区分して行政をしき、田中藩も他領と入り組んでいたため、藩境に境界を示す牓示石を立てた田中藩領土青島は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接し、また、この標石を立てた少し前、上青島村の一部が旗本日向銕太郎の所領となっている。この標石は一丈余(約3m)の石柱で「従是西田中領」と書いてあった。これと対になるのは田中藩領細島村の西端と考えられる。市内には瀬戸新屋村と鬼島村に田中藩領の牓示石があった9:56このような松並木を見ると昔の東海道情景を思い出す。心癒されるこのような風景をいつまでも残してほしいものですネ!9:57松の根も浮き上がり10:01旧東海道(県道222号線)の青島焼津街道10:02青島酒造㈱「喜久酔(キクヨイ)」所在地:静岡県藤枝市上青島246番地喜久酔ブランドで有名、一説には皇族もご愛飲とか朝比奈川、瀬戸川、大井川水系の伏流水に恵まれ、水・米・杜氏の三拍子が揃う藤枝は昔から銘酒を生み出してきた。四つの蔵元が造るお酒はどれも華やかな香りと、やわらかなうまみ、さわやかなのど越しで飲む人を楽しませると。テイクアウト専門の「東海道 写楽」店がある道路をはさんで、路地を入ると酒蔵がある酒蔵と、手前の壁の落ちた土蔵旧東海道沿いの店舗軒先にぶら下がる杉玉10:07旧東海道(県道222号線)の青島焼津街道の東光寺谷川の瀬戸橋を渡る瀬戸橋の横にある広場、枝垂桜が植えられ「御小休所阯」の石碑10:12旧東海道(県道222号線)の松並木(青島焼津街道)を歩き島田宿へ向かう松並木の先に夢舞台東海道道標と石柱。松並木が旧東海道の姿を醸し出している10:14夢舞台東海道道標「上青島の一里塚跡」 道標には島田宿 宿境まで二十九町(3.2km)藤枝宿 宿境まで一里五町(4.5km) 日本橋から51番目の一里塚、ここまでの歩行数は、7,520歩所在地:静岡県藤枝市上青島右側の写真は昭和57年に発掘調査され、塚のかたちを表す円形の石積みがみつかった10:18旧東海道(県道222号線→381号線)と合流「一里山交差点」10:20旧東海道(県道381号線)沿いの唐揚げ専門「はっぴ商店」所在地:静岡県藤枝市上青島660-1おいしそう!!!10:21道幅の広い旧東海道(県道381号線)を進む10:23島田市へ入り「島田宿」。慶長6年(1601)東海道設定と同時に宿駅となったが、その3年後に大井川が氾濫し、発足したばかりの島田宿は濁流に流され全滅した。元和元年(1615)堤防工事は完成し寛永12年(1635)に再建された10:24宿の西端の大井川は東海道一の大河だが橋も渡船もなく、人足の手を借りる徒渡しだった。梅雨時にはたびたび川留となり、島田村と対岸の金谷宿は足止めされた旅人であふれた。川留が長引くと暇つぶしに博打に明け暮れたり、飯盛女を呼んで騒いだり、客同士の喧嘩やトラブルも多かったが、宿場は大いに儲かり、東海道の中でも裕福な宿場だった。道路標識は国道一号線となっているが、現在は旧東海道(県道381号線)となっている。ガムテープを貼っていたが剥がれている10:25島田は室町から戦国時代にかけて刀鍛冶が多く集まり刀の生産地だった。江戸時代の初期でも刀鍛冶が十一軒あった。名物は小鰻頭、大井神社に伝わる「帯まつり」は、奇祭として有名であると。弥次さんが何か撮影?平成31年2月17日(日) 後午後5時。スーパーボランティア尾畠氏通過と。写真はリヤカーを引く尾畠氏ソウル ~ 東京。2015.5.14 「朝鮮通信使が通りました」と10:28旧東海道(県道381号線)、島田金谷線を進む10:28日本橋から206km、京都まではまだ半分も来ていないのだ!所在地:静岡県島田市道悦(ドウエツ)一丁目10:32道路キロポスト206.2kmの上は「国道一号線」とあるがシールが貼られて10:33街道沿いに「味処 魚一」。所在地:静岡県島田市道悦5-1-18明治元年創業というお店で、旅館だったこともあり、お店の雰囲気は他にはない貴重なもの。女将さんたちは着物姿で感じよく接待。料理も一品一品丁寧ですと10:34キロポスト206.4km 国道1号線がみえる。この先の交差点は「島田市道悦交差点」、旧東海道は右前方へ10:35旧東海道(県道381号線)から「JR六合駅」10:36JR六合駅前の、旧東海道(県道381号線)「島田市道悦交差点」10:37振り返り「JR六合駅舎」10:44旧東海道(県道381号線)の「道悦島西交差点」を振り返る10:45夢舞台東海道道標「道悦島」10:46旧東海道を振り返る、県道381号線は右方向へ 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.22
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延べ回数15回目の3/27(水)の弥次喜多道中記です。この日も天気が良いとの情報でいつもの電車でJR藤枝駅へ向かった。3/27(水) 6:00早朝の茅ヶ崎駅北駐輪場から駅へ向かう。朝は肌寒くジャンバーを着て6:08コンビニでパン&おにぎりを購入して改札口へ今回は青春18きっぷの3回目8:34静岡駅で浜松行きの電車に乗継ぎ、先頭車両に乗り鉄撮り、安倍川を渡る8:38安倍川駅を過ぎ用宗(モチムネ)駅、隣を東海道新幹線が走る8:39線路脇の菜の花がきれいに咲き8:418:44焼津(Yaizu)駅8:48昔仕事で訪れた「バスクリンのツムラ(旧 津村順天堂)」の静岡工場8:49JR藤枝駅が見えてくる8:50JR藤枝駅8:52約2時間半でJR藤枝駅へ到着。サッカーの蹴球都市、藤枝市「サッカーと時間を刻む」8:53藤枝駅北口駅前広場のふじ棚の下に建つ「青地雄太郎先生の像」。胸元にはたくさんの勲章がかかっている銅造である。ネットで調べると藤枝駅を誘致し地域に発展をもたらした功労者とのこと。志太郡前島村(現・藤枝市前島)出身の政治家。若くして志太郡青島村初代村長となり、村政に心血を注ぎ、地域の発展に大きく寄与したと藤枝駅北口駅前広場。藤枝駅ができる以前の青島地区は、東海道と田沼街道沿いにのみ集落が発達し、後は広大な田園の中に数戸単位の小集落が点在する散村が見られるだけだった。雄太郎の出生地である前島も、田沼街道沿いに集落があるだけで、後に駅となる場所は一面の田園地帯だったという。当初明治20年(1887)5月には藤枝宿を通るものとして、土地の買収が進んでいたが、6月になり突如取り消しの通達。この状況にあった明治19年7月雄太郎は東京専門学校を卒業し前島村に帰郷、鉄道敷設計画を知るや、その誘致に奔走した8:55現在の住居表示街区案内図その結果、明治22年(1889)4月16日、静岡・浜松間に鉄道が開通、前島に設置された藤枝停車場が開業した8:56駅北口の「お弁当・仕出料理 喜久屋」所在地:静岡県藤枝市駅前1-6-19県道222号線沿いにあり、藤枝名物の染飯がオススメとのことで立ち寄るが定休日名物の染飯は、クチナシで黄色に染めた強飯をすりつぶし薄く小判形に乾かしたもので、染飯と呼んだ。瀬戸山を越える携行食でもあり、茶店で食べる際は蒸し返して客に出したと。道中昼食で食べようと思ったが残念!当時の浮世絵8:59駅前神社9:11小さな「秋葉神社」9:12旧東海道(県道222号線)、懐かしい松並木9:15六地蔵尊堂所在地:静岡県藤枝市瀬戸新屋4この六地蔵尊は歴史的にも古く、東海道筋の霊験あらたかな由緒ある霊場としてよく知られており、人々の帰依も篤く尊ばれており、駿河国二十四番札所第九番の霊地に指定されている六地蔵尊のご利益は「災難削除」「延命長寿」「家内安全」「交通安全」等で、近郷近在からの参拝者は絶えることがなく、東海道に面していることから、著名な旅人が数多く祈願されたとも伝えられている。お堂の額の「鏡池堂」の文字は、儒学の大家渡邊崋山がこの地を行脚したときに揮毫したもの六地蔵尊は、このお堂の近くに神龍が棲んでいたと伝えられる鏡ヶ池から出現し、庶民の安穏祈願のため、玄昌行者の手によって今から八百年余りも前の承安3年(1171)に玄昌庵と称する祠で、鏡ヶ池の畔に祀られたといわれている六地蔵尊の縁日は、毎年8月23、24日に行われており、夜店が並び余興もあって、楽しく賑やかな場となっている9:18古東海道蹟。昭和30年代までは、ここから西に瀬戸山の丘が続いていた。この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下りると内瀬戸の部落へ通じていたこの道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府を開いた翌年源頼朝上洛の帰路が初めてであるといわれる9:19旧東海道(県道222号線)の向かい側に「東海道追分」の石柱。ここには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、東海道が六地蔵の所を通るようになったのは、開拓が進んでからである。当時、東海道はこの碑の所から東へ竜太寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋(五又路)へ通っていた。東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼んだ。古道はその後も主要道路として、青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた9:20東海道追分の石柱から、旧東海道(県道222号線:青島焼津街道)へ9:23旧東海道の松並木9:26右側に赤い看板の「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」9:27旧東海道(県道222号線)沿いに「瀬戸古墳群供養塔」所在地:静岡県藤枝市下青島社の横に「瀬戸古墳群供養塔」9:28旧東海道(県道222号線)沿いに「市指定文化財 瀬戸の染飯版木」の木柱旧東海道から路地を入ると案内板が立つ千貫堤(センガンヅツミ)。寛永12年(1635)田中城主となった水野監物忠善は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺裏山)まで約360米にわたり、高さ3.6米、巾29米の大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある昭和40年代の土地開発によって、池田山および藤五郎山は、中学校の運動場の造成や新幹線等の盛り土に使われ消滅した。現在は石野家の南側に、約40mの堤がそのままの姿で残っている9:33千貫堤・瀬戸染飯(セトノソメイイ)伝承館所在地:静岡県藤枝市下青島1006-3千貫堤・瀬戸染飯伝承館は、藤枝市指定史跡「千貫堤」と、江戸時代の名物「瀬戸の染飯」を伝承する目的で平成21年に開館した開館時間は10時からであったが、丁度ボランティアの方がおられて開けてもらう伝承館内でボランティアの方に説明してもらう。ここで「藤枝名物の染飯」を期待したが販売はしていなかったのが心残り!瀬戸の染飯は、東海道に面した上青島村瀬戸町(現在の藤枝市上青島付近)の茶屋で、戦国時代から売られてきたもので、東海道の名物として広く知られていた。染飯は、強飯(コワメシ)(餅米を蒸したもの)を、”クチナシの実”で黄色く染めてすりつぶし、小判型などに薄く延ばして、干して乾かしたものです。乾燥した”クチナシの実”は山梔子と呼ばれる漢方薬として知られ、消炎・解熱・鎮痛・利尿などの薬効があるとされていた。くちなしの汁で染めた染飯は、旅人にとって足腰の疲れを取る食べ物として評判が良かった。「名物 瀬戸御染飯」と彫られた壺型の版木(市指定有形文化財)は、染飯を入れた紙袋や包装紙を刷るのに用いたもので、明治中期まで染飯を商っていた石野家に残されている。江戸時代後期の俳人・小林一茶は寛政4年(1792)に句作修行のため、西国行脚の道中「染飯や我々しきが青柏」という句を詠んだ瀬戸は上青島村と下青島村の字名であり、藤枝宿と島田宿の中間に位置することから、江戸時代中期まで東海道の立場(旅人の休憩場所)でした葛飾北斎画(パンフレットから)。残念ながら「瀬戸染飯」の味は確認できず東海道藤枝宿9:48千貫堤・瀬戸染飯伝承館をあとにして、島田宿へ向かう 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.21
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開会式後、千曲市・坂城町の各グランドに分散して4チーム(一部3チーム)のトーナメントにより優勝旗(但し、上位8グループまで)を争う。敗者戦もあり各チーム一日に2試合できる。5/12(日) 7:43我がチームの入場行進大会会長、来賓の前を行進、来賓も入場行進時は立ち上がり手拍子昨年は球団旗を忘れたが7:4657チームが勢ぞろい7:49センターポールに国旗、大会旗、連盟旗を掲揚国旗、大会旗、連盟旗が掲揚され祝砲を打ち上げ7:52前年度優勝チームから優勝旗返還8グループが勢ぞろい7:55優勝旗を返還盾を受け取り7:56吉松大会会長のあいさつ、地元テレビの中継録画。昭和の時代に始まり現会長は3代目8:00来賓の県会議長の挨拶、この後競技上の注意8:09選手宣誓は、前年度優勝チームの「御前崎OB野球俱楽部(静岡県)」。同チームの選手が記念写真この方も80歳以上か?挨拶を終え会長と握手8:11開会式を終了8:12開会式も終わりプラカードも持ってくれた女子中学生と記念写真開会式会場から移動、グランド近くのさかきおすいマンホール9:00から、一回戦の第一試合開始。長野市OB野球クラブ(長野市) 対 亀田1964(新潟県)。外野の後方を「しなの鉄道線」が走る、工場棟は日精樹脂工業㈱桜の花も終わり第一試合の長野市OB野球クラブの攻撃11:00 から一回戦の第二試合開始。東京日本橋ロータリークラブ(東京都) 対 湘南ブルースターズ試合結果は我がチームが、11:3 で勝利。12:53昼食後、敗者戦の、亀田1964 対 東京日本橋ロータリークラブ我々はこの間木陰で休憩。14:30から、決勝戦、長野市OB野球クラブ 対 湘南ブルースターズ試合結果は、若さにも負け、3:10 で敗戦。昨年に続いて決勝で敗れる。Fブロック結果:長野市OB野球クラブ の優勝15:52試合を終え直ちに表彰式準優勝でトロフィーと賞状をもらう15:55表彰式後、今回の参加者13名が揃い記念写真一旦ホテルへ帰り、温泉に入り17:00にホテルを出発して帰路に。17:10酒造コレクション所在地:長野県千曲市大字戸倉1855-1いつも立ち寄る、造り酒屋の「蕎麦料理處 萱」でお土産を購入無料で酒造りの工程が見学できる試飲しながらお土産を購入国道18号線沿いの店先18:03帰路は、更埴インタから上越・上田方面へ入り、上信越自動車道経由。左の高架は北陸新幹線18:04 長野自動車道を走り更埴JCTへ更埴JCT、上信越自動車道へ合流18:04関越道方面「坂城・軽井沢」18:06上信越自動車道の有明山トンネル。この辺りは有明山トンネル、森トンネル、五里ケ峯トンネルと長いトンネルが続く。北陸新幹線でも長いトンネルがあり、東京から来るとトンネルを出ると長野駅に18:13三っの長いトンネルを出ると「坂城インタ出口」 戸倉・上山田へ18:14太郎山トンネル18:18この辺りの上信越自動車道はいつも空いている18:19東部湯の丸サービスエリア近く18:24夕陽が山に沈む18:27小諸インタ出口18:31浅間山畑仕事も18:35佐久平パーキングエリアまで2km各インタまでの距離表示18:36トイレ要求があり、この先のパーキングエリアへ立ち寄ることに。左上の施設は「平尾温泉 みはらしの湯」。所在地:長野県佐久市下平尾2682日帰り温泉施設があり、”温泉、サウナ、炭酸泉、露天、日替湯、景色を満喫できる”佐久平パーキングエリア「佐久平ハイウエイショップ」18:59上信越自動車道「碓氷・軽井沢インタ」20:05関越自動車道と合流20:15関越自動車道「高坂サービスエリア」の小島屋乳業レストランで夕食。他のメンバーは、生姜焼き海老フライ定食、チャーシュウ麺をオーダー私は、肉が欲しくて昨日の昼食に続いてロースかつ定食を食べる21:50渋滞もなく順調に走り、圏央道海老名JCT21:51寒川北インタ近く22:00倉見の駐車場へ到着。今回の走行距離は680kmであった。このあと各自、車等で帰宅、私はメンバーを自宅に送り22時半についた。来年も行けるのか?、チームが高齢化しているので真剣に考える時期ではと思うが!40歳以上の方は参加資格がありますので、人部したい方は是非連絡の程お願いします。健康体での平均寿命アップのために一緒にやりませんか! 長野の旅ーEND
2019.05.20
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中山道の奈良井宿を見学後、千曲市の定宿「千曲館」に宿泊&前夜祭。5/12(日)開催の「第44回寿野球全国大会」へ参加。5/11(土) 14:23旅館「越後屋」の前から街道を望むJR中央本線「奈良井駅」方面、雨が降り出したので引き返す籠を担ぐ現代の中高年者和菓子屋の「てずから」所在地:長野県塩尻市奈良井418手作りおやき、五平もちが美味しい!ここの路地を入ると「臨済宗 妙心寺派 大宝寺」。天正10年(1582)に開かれた臨済宗妙心寺派の寺院であり、奈良井宿に5ヶ寺ある一つ奈良井「とうぶき」中山道奈良井宿の山里には、春から初夏にかけて、大人の背丈程になる大きな蕗が原生している。太さはおよそ直径3センチ、その葉はまるで傘のようです。この大きな蕗は「奈良井とうぶき」と呼ばれ、古くから地元の家庭料理の食材として、子や孫へと受け継がれてきた14:29水場の「横水」手打そば屋、雨が降り出し急いで駐車場へ松坂屋本陣跡中山道奈良井宿名所「鍵の手」の石柱と道祖神たれが自慢の五平餅を購入して食べるが、少々冷たかった14:47奈良井宿権兵衛駐車場にある「Ⅽ12-199号蒸気機関車」製造所:日本車両㈱ 埼玉県蕨工場、製造年月:昭和13年8月20日。この蒸気機関車は、第2次世界大戦前、鉄道省が軸重制限のある簡易線規格路線用に投入するための小型軽量機関車として設計製造した282両のⅭ12型蒸気機関車のうちの一両で、昭和13年(1938)に埼玉県で製造された。初任地の新潟鉄道管理局山形機関区で終戦を迎えたのち飯山機関区を経て、昭和30年(1955)に長野鉄道管理局木曽福島機関区に配置され、以後18年余、主として短路線の貨物輸送や構内入れ替え用機関車として木曽路で活躍した。昭和49年(1974)に役目を終え廃車になり、翌年国鉄長野鉄道管理局から楢川村(当時)に貸与され、当地に設置された八重桜はまだ満開前14:50奈良井川に架かる権兵衛橋を渡り国道19号線へ14:58国道19号線を走り、贄川宿(ニエカワジュク)入口中山道六十九次の33番目の宿場15:22国道19号線から20号線を走り長野自動車道「塩尻インタ」へ向かう15:24長野自動車道「塩尻インタ」15:25塩尻インタ入口15:34松本インタ出口15:38前方に北アルプス安曇野インタ出口まで1km、大町、白馬方面北アルプスがきれいに見えていた15:52トイレ休憩で「筑北パーキングエリア」へ立ち寄る16:09長野自動車道の姨捨サービスエリア辺りからの長野盆地16:15更埴インタを出る16:16北陸新幹線の高架との立体交差右は北陸新幹線16:17更埴インタ出口16:52千曲川に架かる大正橋を渡る、前方は戸倉上山田温泉16:54戸倉温泉街、この先を左折してホテルへ16:55定宿の「千曲館」大会参加でもう十数回宿泊しているホテル所在地:長野県千曲市上山田温泉1丁目 tel:026-275-1111戸倉上山田温泉の「ぶらーりお散歩」毎年8月7日は河川敷(千曲川)で花火大会が開催される18:30から夕食最近の試合はエラーが多く敗戦が続き、明日は試合というのに練習方法等の話で激論。チームも高齢化しているので、早く後継者を勧誘する必要がある。また練習方法も酒抜きで話し合う必要があるのではと。食後はカラオケを始めるが疲れたので早めに席を立ち部屋へ5/12(日) 5:456時から朝食とのことで5時に起床して準備、ホテル前の駐車場7:00 にホテルを出発して会場へ移動。途中、コンビニで試合用のドリンクを購入7:10試合会場へ到着大会小雑誌は新元号の「令和元年」参加資格 ①令和元年12月31日時点で満40歳以上(昭和54年生まれ)の者で、出場選手9名 の年齢合計が450歳以上のチーム ②女子参加は認めるが、年齢は50歳として計算する ③チームの登録選手人数は制限しない競技規則 ①試合は7回戦もしくは、1時間20分を越えて新しいイニングに入らない ②投手は、45歳以上(昭和48生まれ)とし、1人連続3イニング以内とする ③ 他7:20チアガールも練習に、今年はメンバーが少ない感がしたが、吹奏楽も同中学吹奏楽部7:21入場行進のために整列した57チーム、以前は88チームが参加していたが、ここ数年選手の高齢化で年々減っており、昨年は61チームの参加7:23来賓、旅館組合等も整列、今年から来賓は椅子に座り。昨年は午後から雨の予報であったが、今年は天気が良く雨の心配もなく7:27入場行進前に祝砲が3発打ち上げられる7:28チアガールも熱が入り、入場行進開始昨年までは低学年の子もいたが7:29国旗を先頭に入場行進、プラカード先導は戸倉上山田中学校女子生徒国旗大会旗、連盟旗7:30前年度最高クラス「千曲市長杯」で優勝した「御前崎OB野球俱楽部」を先頭に行進7:36石川県からの「寿根上ゴーイング」、元ヤンキース松井選手の地元から。いつもお土産でお菓子(ホームラン)を頂く7:38滋賀県からの「彦根赤鬼クラブ」。応援の熟年女性も遠征に同行してカメラマン7:43我がチームが53番目に行進 長野遠征ー続く
2019.05.19
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今年も、長野県千曲市で開催される「第44回寿野球全国大会」へ参加するため、一泊二日の男旅へ参加。千曲市の定宿「千曲館」へ行く前に、中山道の奈良井宿へ。倉見の工場駐車場に集合してマイクロバスに乗り9:00に出発。今回は13名の参加だが一名は仕事の関係で、明朝の出発で試合に参加。早速近くのスーパーでつまみ・ビール・焼酎を購入。9:30 寒川北インタから圏央道に入ると同時に乾杯!!!5/11(土) 9:53中央自動車道の小仏トンネル、長さ 1642m。圏央道ができて以来、八王子まで30分程度で来れるようになり便利になった!10:08中央自動車道「談合坂サービスエリア」でトイレ休憩10:29大月JCT手前500m10:32中央自動車の大月インタ手前10:39笹子トンネル:長さ 4717m、速度制限 70km/h10:49前方に南アルプスが見える11:03双葉JCT、左折すると中部横断道へ、将来は東名高速道路へつながるがいつになるか?11:05南アルプスの「甲斐駒ヶ岳」甲斐駒ヶ岳は、南アルプス国立公園内の赤石山脈北端の山梨県北斗市と長野県伊那市にまたがる標高2,967mの山。峻険な山容をもち、半ば独立峰のような姿勢で孤立する日本アルプス屈指の名峰で、日本百名山、新日本百名山等に選ばれている11:07前方に深田久弥が選定した日本百名山の一つ八ヶ岳が八ヶ岳は、山梨県と長野県に跨る山塊。南北30km余りの山体で、大火山群である。最高峰は赤岳で標高2,899mマイクロバスの運転は野球仲間、今回はラウンジがない車内。今回の大会参加者は13名で、この日は12名。参加者平均年齢66.3歳(79 ~ 48歳)と高齢化、昨年は平均63.5歳であったが11:10須玉出口辺りで道路工事中11:16八ヶ岳、右奥は最高峰の赤岳11:20トイレ休憩で「八ヶ岳パーキングエリア」へ八ヶ岳パーキングからの甲斐駒ヶ岳11:38小淵沢 富士見インタ出口11:40予定では伊那インタで出て奈良井宿へ11:42富士見パノラマリゾートのゲレンデ所在地:長野県諏訪郡富士見町富士見6666-703冬はスキー場、春・夏・秋は花、紅葉が楽しめるリゾート地で知られる11:44中央道最高標高点:1,015m、ここから長い下り坂に11:57中央道、長野道の分岐点、岡谷JCTまで3km12:00伊那インタまで、21km。昼食をどこでとるか、駒ケ根に名物の「ソースかつ丼」があるので予約を入れる12:10中央アルプスにはまだ積雪がズームアップ12:13中央自動車道「小黒川PA 2km」「駒ケ根SA 18km」は、ETC出口専用12:22駒ヶ根インタ出口ここを左折して予約した昼食会場へ、右折すると中央アルプス駒ヶ岳へ12:24中央アルプス花の道沿いに、予約した「きらく」が前方に。とんかつ、ソースかつ丼の「きらく」所在地:長野県駒ケ根市赤穂北割一区3145運転がないので地酒も飲む全員、名物の「ソースかつ丼」をライス少なめにして食べるライス少なめのソースかつ丼、ライスの上にキャベツ&かつ13:15食事を終え、目的地の中山道奈良井宿へ向かう。13:19中央アルプス花の道を伊那方面へ北上、左手に中央アルプス13:30中央アルプス花の道(伊那西部広域農道)を北上して「かんてんぱぱガーデン」所在地:長野県伊那市西春近広域農道沿い tel:0265-78-2002営業時間:9:00 ~ 18:00 定休日:年末年始を除き無休寒天のトップメーカーが運営する花と緑いっぱいの公園工場。3万坪の敷地内には工場直営ショップや日本初の寒天レストラン、美術館など様々な施設があり、一日中のんびりとくつろぐことができる。途中行くつもりであったが時間が無くなり、ここで昼食をとればよかった写真はネットから13:40中央アルプス花の道「中の原交差点」ここを左折して国道361号線を走る13:41菜の花が咲き(車窓から)道路沿いに咲く芝桜13:46国道361号線の「権兵衛トンネル」所在地:長野県上伊那郡権兵衛峠道路。伊那路と木曽路を結ぶ国道にあるトンネルで長さ:4,470m 標高:1,062m。伊那側は道も良く道路が空いているのでスピード違反には注意を!!!13:51トンネル通過に約5分、冬場は豪雪地帯で凍結に注意と13:53ここを右折して県道493号線を、6.8kmで「奈良井宿」へ13:58奈良井ダム(車窓から)14:01国道19号線に合流、奈良井宿まで1km14:02道の駅「奈良井・木曽の大橋」まで1km。私は二度目の訪問14:06奈良井宿権兵衛駐車場へ車を止める。奈良井宿所在地:長野県江尻市奈良井。中山道六十九次の34番目の宿場。駐車料金はマイクロバスは1,540円であったが、出発時間を15:00にして自由散策へ。中山道奈良井宿ご案内図奈良井は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。慶長7年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられて中山道67宿が定められ、奈良井宿もその宿場の一つとなった。選定地区は中山道沿いに南北約1km、東西約200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道に沿って南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた奈良井宿は、中山道最大の難所といわれた鳥居峠をひかえ、峠越えにそなえて宿をとる旅人が多く「奈良井千軒」とよばれるほどの賑わいをみせた。現在も宿場当時の姿をよく残した建物が街道の両側に建ち並んでいるレトロなバスが街道を走る。建物の大部分は中二階建で、低い二階の前面を張り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出している。屋根は石置き屋根であったが、今日はほとんど鉄板葺きである。二階正面に袖壁をもつものもあり、変化のある街並みを構成している街道にある、おすいマンホール?荒沢不動尊前の道祖神、八重桜が満開荒沢不動尊を振り返る上問屋資史料館。石碑は「明治天皇御駐輦所」。明治天皇が13年の行幸の際に立ち寄ったところです。建物の中は会所としての機能もあり、奥は賓客をもてなす場所のようです。二階から格子越しに宿場町を行きかう人を見下ろすのもいいと、中庭もありおしゃれな作りであると14:23外国人も含め多くの観光客が訪れている 長野の旅ー続く
2019.05.18
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藤枝宿から今日のゴール点、JR藤枝駅へ向かう。3/20(水) 16:21大慶寺本堂(祖師堂)。所在地:静岡県藤枝市藤枝4-2-7本堂屋根は入母屋屋根の正面流れに千鳥破風を取り付け、さらに向拝を軒唐破風としている。社殿様式権現造りの拝殿部分を模していて、優美さの中にも荘厳な雰囲気をかもしだしている本堂には田中城祈願寺の表札久遠の松と「道円・妙円の墓碑」。道円・妙円両夫婦のお墓は、本堂庭先の「久遠の松」の前に建つ石彫大宝塔の最下部に安置されている(鎌倉時代の墓)久遠の松(天然記念物)は日本名松百選の一つ。日蓮聖人お手植えの松で樹齢750年余年の黒松、樹勢旺盛で枝振りが四方に張り出て誠に見事である。松としては最高の樹齢で全国まれにみる大木で天然記念物に指定されている。高さ14間(26m)、根元周囲23尺(7m)、現在、板振り東西30m、南北30mまで成長している。昭和58年「日本名松百選」に選出された弥次さんが御朱印を頂く間に境内を散策。境内の史跡(田中藩士等の墓碑)境内には田中城主太田資直公、本多正供公姫君、本多正珍公側室、漢学者石井縄斎、国学者熊沢惟興先生の墓碑を初めとして家老(重富、高瀬、岡本、・・・・・・)以下武士のお墓があり、また地方文化発展・・・・・・・・の墓碑もある16:36夢舞台東海道道標「藤枝宿 上伝馬町」道標には島田宿 宿境まで二里四町(8.3km)岡部宿 宿境まで一里十九町(6km)16:38旧東海道(上伝馬通り:県道32号線)の歩道路面に「下本陣跡」。足元の路面にあるので見落とす可能性があるので要注意!16:39旧東海道(上伝馬通り:県道32号線)の歩道路面に「上本陣跡」所在地:静岡県藤枝市藤枝3-2人通りの少ない旧東海道(上伝馬通り:県道32号線)16:40旧東海道(上伝馬通り:県道32号線)の路面に「問屋場跡」16:42旧東海道(県道32号線)沿いにある「浄土宗 正定寺」境内にある「本願のマツ」。正定寺境内の本堂前にあるクロマツで、傘形に枝張りした美しい姿に整えられている。この場所は江戸時代の東海道「藤枝宿」の宿場町の西木戸口近くにあたり、古図などに描かれている。松は享保15年(1730)に田中藩主であった土岐丹後守頼稔が大坂城代となった時に寄進されたものであるという由来が伝わっている浄土宗 正定寺山門所在地:静岡県藤枝市藤枝2-3-27本願の松松の大きさは、目通:3米、樹高:六米三十、枝張東西:十一米五十、南北:十四米藤枝市指定天然記念物に指定されている「本願の松」。丹後守は境内の弁天堂に祭られている弁財天の信仰が篤く、大坂城代に登用されるに当たり報恩謝徳のために植えたといわれ、別名を延命の松という。弁天堂は老朽のため明治45年に解体され、昭和47年に再建された本堂と本願の松境内にある「弁天わらべ地蔵」16:48瀬戸川に架かる「勝草橋」所在地:静岡県藤枝市藤枝1-1-1瀬戸川の上流側。桜や彼岸花、金比羅山緑地の桜を見ることができる。明治8年(1875)11月に初代勝草橋が瀬戸川に架けられ開橋となった。勝草橋という名前は旧幕臣の伊佐新次郎岑満が付けたものといわれる。伊佐は江戸幕府の時代に下田奉行所支配組頭として外国との交渉に当たるなど活躍し、唐人お吉の物語にも登場している。彼は明治維新によって徳川家に従って駿府入りし、廃藩後には牧之原の茶園開墾に尽くすとともに、書道・漢籍に深く通じていたため・・・・・・・・勝草橋の名前の由来。由来には二つの説が伝えられており、一つはむかし田中城の兵が付近の河原で合戦して勝利を得たことから、勝軍橋といっていたのが縮まって、勝草橋になったという説。もう一つは志太という地名が植物のシダ(羊歯)の読みと同じで、シダの異名を勝草と称することから志太橋という意味で勝草橋になったという説16:51瀬戸川を渡り「志太一里塚蹟」へ奈良時代、官道の四里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。志太一里塚は江戸から約200kmで50里目に当たり、瀬戸川堤から西へ約50m・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。藤枝市内では志太の他、鬼島と上青島に一里塚があり、上青島には近年まで塚蹟が残っていた当時の宿並み「東海道藤枝宿 上伝馬町」瀬戸川に架かる「勝草橋」を振り返る16:52旧東海道を歩き、国指定跡「志太郡衙跡」16:53為善館について明治6年5月、志太村家地太67、68番地に為善館が創設された。この学舎は明治43年の、瀬戸川大水害のため流出して確認が困難であるが、現記念碑の建っているあたりと推定される。これは、寺小屋の・・・・・・・・16:58旧東海道を歩く。道路脇に松がはみ出し17:00旧東海道を振り返る17:01岡野繁蔵(1894~1975) 出生地の石柱。「裸一貫から南洋のデパート王」となった繁蔵は明治27年青島村のこの地に生まれた青島小学校、育英学校に学び、21歳でインドネシアのスマトラ島に渡り大信洋行を興し雑貨貿易商として成功し、更にスラバヤに千代田百貨店を経営し隆盛を極めましたが太平洋戦争でやむなく日本に引上げた。戦後、衆議院議員に当選し、国や郷土のために貢献したが、昭和50年81歳の生涯を終えたと17:03旧東海道を歩き「青木交差点」へ17:04青木交差点は、県道381号線と225号線の五差路。正面が旧東海道の島田宿方面、ここまでの歩行数は35,500歩17:07青木交差点から県道225号線を南下して、JR藤枝駅へ17:15県道225号線を歩き正面にようやくJR藤枝駅が見えてくる歩道面に「FUJIEDA」17:17JR藤枝駅北口へ到着、ここまでの歩行数は、36,970歩であった17:19改札へ向かうが、その前にビールとつまみを購入ここの駅舎も新築されていた改札を入る17:29の熱海行きに乗ることにホームへ17:29熱海行き電車が到着丸子宿では「とろろ汁」は食べれず。宇津ノ谷峠を越え、ひたすら歩いた道中記でした。今日の歩行数は、JR安倍川駅からJR藤枝駅まで8時間40分、35,000歩でした。帰りは、青春18きっぷにて普通電車で帰るが約3時間を要し遠い。電車内で疲れを癒すためにビールを飲み、地元に帰ってからも居酒屋へ立ち寄り、自宅へは21:30 丸子宿から藤枝宿-END
2019.05.17
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シャッタ―街の藤枝宿を散策しながら今日のゴールJR藤枝駅へ向かう。失礼!水曜日で休日だったのか?郊外に大型モールがあるのでどうしても客筋は車を使用してそちらへ!!3/20(水) 15:20旧東海道(さわやか通り)の藤枝市本町三丁目。電柱には「サッカーエース最中」15:22恵比寿大神 大黒天恵比寿大神 大黒天15:23東海道藤枝宿。藤枝市には名所史跡が点在している。伝統と歴史を今に伝える「ふじえだ」。藤枝宿は他の宿場のようにひとつの町や村が宿場になったものではなく、街道に面した志太群、益津群の一部の町がそれぞれの親村に属しながら宿駅の役割を担ってきた。そのため町並みの長さは2kmと長かった。宿場の西には老中・田沼意次の領地の相良に通じる田沼街道があり、藤枝は交通の要衝でもあった藤枝宿の名物は、クチナシで黄色に染めた強飯をすりつぶし薄く小判形に乾かしたもので、染飯と呼んだ。瀬戸山を越える携行食でもあり、茶店で食べる際は蒸し返して客に出した。東海道藤枝宿の左車町、下伝馬町、白子町15:27旧東海道(さわやか通り)のシャッター街を歩く15:30シャッター街を歩くと歩道の路面に徳川家康 ゆかりの町の看板が目に入る白子由来記の石碑。所在地:静岡県藤枝市本町2-6-1天正10年(1582)、本能寺の変に際し、追ってから逃れるため伊賀から伊勢に入った家康は、野武士に襲われたところを三重県鈴鹿市白子町出身の百姓・小川孫三に助けられた。孫三は藤枝に白子町を安堵され、諸役免除の朱印を与えられた凡今より三百九十年前本能寺変の折、伊勢白子の住人・・・・・・・小川孫三の紹介家康は伊賀路を越え野武士に襲われたがどうにか逃れ、伊勢の国白子に着いた。家康はこの町の住民小川孫三に、海を渡る船を手配することを命じた。孫三は、夜にまぎれて小船に家康を乗せて、若松の浦より漕ぎ出して夜を徹して海を渡り、尾張の国床鍋に船を着けた。重ねて家康の仰せに従い三河の国大崎まで送り届けた。孫三はここより伊勢の国に帰った。その後の事情により岡崎城に来て、家康に仔細を話した。家康は孫三の話を良く聴いた後、当地に移住することを許可し、この地芝間を新白子町と名づけ、地子諸役免除の御朱印を賜った 天正14年8月14日(御朱印)15:37旧東海道(長楽寺通り)のシャッター街を歩くと歩道に案内15:39臨済宗・妙心寺派 青龍山長楽寺所在地:静岡県藤枝市本町1-10旧街道から参道を歩き境内へ。藤枝市七福神巡りのお寺にもなっている長楽寺、数々の伝説・由緒あるお寺山門を入ると広い境内が広がり長楽寺本堂15:47旧東海道(長楽寺通り)の蓮華寺池公園入口バス停蓮華寺池公園入口バス停。夢舞台東海道道標「藤枝宿」15:49浄土真宗 熊谷山蓮生寺所在地:静岡県藤枝市本町1-3-31田中藩藩主・本多氏の菩提寺。由来には源氏の武将・熊谷直実の伝説が絡んでいる。直実は、源平一ノ谷の合戦で自分の息子と同じ年頃の平敦盛を討ち取ったことで悩み、出家し「蓮生」と名乗った。故郷の熊谷に帰る途中、藤枝の長者に路銀を借りようとして、、十念(念仏を十篇となえること)質草とした。(下へ続く)すると長者の庭の池に十本の蓮が生え、花が咲いた。後日、蓮生が長者にお金を返し長者が質草の返却にと念仏を唱えると、念仏一篇ごとに蓮が消えはじめた。長者は驚き最後の一本を残してもらった。長者はこの奇跡に感服し仏門に入り、屋敷を念仏道場としたのが寺の始まりという。蓮生寺本堂本堂前の枝垂桜枝垂桜が一分咲き境内に「親鸞聖人の像」本堂の鬼瓦。蓮生寺本堂は明治37年の藤枝大火により焼失後、大正2年に再建され、平成15年に屋根瓦と白壁が全面改修された。この鬼瓦は本堂屋根に飾られていたもの本堂裏にある天然記念物の「蓮生寺のイブキ」。根廻:1.65m、樹高:6.8m、樹齢:約700年蓮生寺のイブキイブキは、ヒノキ科の常緑高木でビャクシンともいわれ、幹がねじれる性質もある。雌雄異株であるが、蓮生寺のイブキは雄株である。球果は熟して紫黒色となる。蓮生寺のイブキは、明治36年1月木町から出火した大火のため一部類焼したが、その後樹勢を復活し今日に及んでいる鐘 楼15:56蓮生寺裏にある「蓮華寺池公園」。この先にコーヒーのスターバックス店がある蓮華池の周りは桜の木があったがまだ蕾は硬く。蓮華寺池公園は、市の中心に位置する花と水と鳥をテーマにした総合公園である。園内には200本を越えるふじの木が植えられ、ふじの名所としても知られている桜の木もたくさんあり桜の開花時が楽しみ15:58野外音楽堂やジャンボすべり台などさまざまな施設が整備され、市民の憩いの場として親しまれている16:12旧藤枝製茶貿易会社社屋所在地:静岡県藤枝市藤枝5-3お茶が輸出品として栄えていた時代を象徴する建物16:15旧東海道(ちとせ通り)の千歳交差点へ戻り、ここを右折して旧東海道を歩く旧東海道(ちとせ通り)の千歳交差点16:17旧東海道(ちとせ通り)を歩き、歩道の路面に「大慶寺」日蓮宗大慶寺・久遠の松(ダイケイジ・クオンノマツ)。田中城主の祈願寺で、本多氏の頃には家老以下藩士の大半が檀家になり「さむらい寺」と呼ばれていた。境内には日蓮上人のお手植えと伝わる「久遠の松」がある。樹高25m、推定樹齢約750年といわれる大慶寺の鐘楼堂と本堂(祖師堂)。所在地:静岡県藤枝市藤枝4-2-7円妙山大慶寺の由来。日蓮聖人京都遊学往復お立ち寄りの霊跡本堂内16:20本堂から境内の「久遠の松」を望む 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.16
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美濃國の岩村藩の飛び領地横内村を歩き、藤枝宿へひたすら歩く。3/20(水) 14:21旧東海道(県道81号線)を歩く民家の玄関先に屋号「興助さん」14:22右上に『 ⇒ 東海道横内村 ⇒ 』の木板左下に『仮宿區入口』岡部庁 、朝比奈 の石碑14:25旧東海道(県道81号線)、藤枝市狩宿歩道橋中央松並木の下に、「東海道横内」「是東岩村領横内」入口の道標(左側へ)岩村藩領傍示杭(岩村藩の飛び領地横内村)。岩村藩は美濃国の岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城とした3万石の藩。享保20年(1735)岩村藩主・松平乗賢が老中に出世し、横内村など周辺十五の村、計五千石の領地をもらった。このように本領から離れた領地を「飛び領地」という14:27藤枝市狩宿歩道橋上から焼津森線の焼津方面ここまでの歩行数は自宅から、24,300歩狩宿歩道橋上から焼津森線の森方面14:29従是西田中領従是西田中領の石碑この牓示石は田中領と岩村領との境界牓示標である。14:31旧東海道から県道208号線に合流14:32道標は、日本橋から197km「藤枝市八幡」。旧東海道はこの先を左方向へ、右は県道381号線。中央に「藤枝警察署 広幡交番」14:34旧東海道沿いに「廣幡尋常小学校跡」の立杭14:35旧東海道(県道208号線)の松並木、県道208号線は以前は国道一号線?14:42旧東海道(県道208号線)は、葉梨川に架かる橋を越える橋を渡り葉梨川の土手には桜並木14:46旧東海道(県道208号線)に建つ「常夜燈」常夜燈の下に「旧東海道 鬼島の建場」の石碑。石碑には、十返舎一九・道中膝栗毛からの文章が。「街道の松、枝を鳴らさず往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。大井川の川留めが解けたので、岡部に帯留せし旅人・駕・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の二人も、そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る。ここは宿場間のお休み処茶屋女「お茶まいるサアお休みなさいマシ」と進められるまま、昼間っからイッパイ・・・・・・・・・・・。わがまち藤枝のマンホール、県道208号線は「藤枝静岡線」14:48社軍司神社の鳥居14:50須賀神社所在地:静岡県藤枝市水守3丁目水守17ここまでの自宅からの歩行数は、26,500歩須賀神社の鳥居須賀神社のクスこのクスは樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、御神木として大切にされてきた大木です。旧東海道の脇にあって、古くから往来する人々を見守ってきました。近くには「東海道中膝栗毛」などにも名所として登場する鐙ヶ淵(アブミガフチ)など、東海道ゆかりの史跡がある静岡県指定天然記念物のクス(数値は平成13年時)樹高:23.7m、根廻:15.2m、目通:10.9m、枝張:東西 21.2m、南北 27.9m御神木指定証大きくなりすぎて、幹の一部が空洞化してしまっているようで、覆いが被せられ露出しないようになっている須賀神社奥にある忠魂碑14:56須賀神社境内を後にする14:58旧東海道(県道208号線)と県道381号線の水守交差点へ向かう。建設中の「水守中央公園」水守交差点手前にある新設の水守中央公園15:08県道381号線を少し歩き、道を逸れて旧東海道(さわやか通り)へ。右側前方に藤枝成田山が見える15:09藤枝成田山所在地:静岡県藤枝市本町4-5-24成田山の歴史と左車(サグルマ)狭い境内にはいろんな像が水かけ不動尊ボケ除の像。心配なところを撫でてくださいとあり、光っているおでこを撫でる。何故、かぼちゃが光っているのか?15:12旧東海道(さわやか通り)を望む15:17旧東海道(さわやか通り)を歩き、街道脇に石柱。「従是西下傳馬」、「従是東左車」と彫られ上記石柱の横に「布袋和尚の石像」布袋和尚の説明板があったが、字が薄くて判読できなかったのが残念 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.15
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旧東海道の「サッカーロード岡部」を歩き藤枝宿へ。3/20(水) 13:02日蓮宗 見珠山正應院の山門弥次さんが御朱印を頂く13:04日蓮宗 見珠山正應院を出て旧街道を歩く。サッカーロードおかべ藤枝の手まりの館13:05旧東海道を歩き静岡県はサッカーが盛んでJリーグには次のチームが登録されている。 J1:ジュビロ磐田、清水エスパルス J3:藤枝MYFC、アスルクラロ沼津長谷部 誠は、藤枝市出身で藤枝東高校出身 1984年1月18日生まれ(35才)13:06藤枝手まり工房サッカーボールを手まりでアレンジ飾りに軒下に飾り13:08曹洞宗 瑠璃山光泰寺(ルリサンコウタイジ)所在地:静岡県藤枝市岡部町内谷424木喰仏 聖徳太子像五行菩薩はこの聖徳太子像を三日間で完成させている。丸みに満ち、おだやかな表情をもった像からは、日本廻国の大願成就を間近にし、83才にしてますます円熟味を増していく五行菩薩自身の心の表れが感じられる。現在、光泰寺本堂本尊脇に准胝観音菩薩像とともに安置されている13:11好光人形 岡部工房所在地:静岡県藤枝市岡部町内谷130岡部宿の大旅籠柏屋で「好光作 等身大雛人形」が展示されていた店頭のシャッターに貼り紙。「本年度は静岡店のみでの営業ですと」13:13道路面の「東海道 岡部宿」13:14県道208号線に合流枡形跡(マスガタアト)曲尺手(カネンテ)ともいう。本陣めがけて敵がたやすく侵入できないように宿場の出入り口に設けたもので、ここは道が直角に折れ曲がっている。また、ここには木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日木戸を明六ツに開け、暮六ツに閉じた(朝夕6時)13:15旧東海道(県道208号線)13:16旧東海道の反対側に「五智如来公園」所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部29ここまでの歩数は、21,400歩五智如来像向かって右から「阿弥陀如来」「釈迦如来」「大日如来」「阿閦如来」「宝生如来」田中城(藤枝城)城主であった内藤弌信の姫は、口が不自由であったが、岡部宿にあった誓願寺の本尊である阿弥陀如来に、願をかけると完治したという。成就のお礼に田中藩家老がこの五智如来像を寄進したといわれる。元は誓願寺の境内にあったが、寺が移転し、如来像だけがこの地に残された。五智とは大日如来が備える五つの智慧のことで、密教の金剛界曼陀羅で五智に対応する五尊の如来を五智如来という13:18トイレもあり休憩できる五智如来公園13:20池めん 岡部店所在地:静岡県藤枝市岡部町内谷641-3旧東海道(県道81号線)沿いのラーメン屋で、昼食をとることに店内のカウンター、ビールが欲しかったがまだ歩くので我慢!愛想のいい女性店員が対応してくれた私は、台湾ラーメン 850円 をオーダー。スープ、キムチ等の漬物類が食べ放題。また、ラーメンライス用のライスも無料弥次さんは「まぜそば」をオーダー。食べ方の説明、麺を食べた後、ライスを入れて食べると美味しいと!らーめんの食べ方14:00昼食をとり、旧東海道(県道81号線)旧東海道の松並木を歩く14:02松並木の根元にムスカリが咲いていたボケも咲き14:05東海道岡部宿の松並木は一直線、この先で国道一号線と交差国道一号線(藤枝バイパス)の高架下を通り島田方面へ。この先から旧東海道は、県道81号線から381号線に替わる14:06国道一号線の高架下にある石碑「これより東海道岡部宿」。来た道を振り返る、通ってきた松並木が見える14:08旧東海道は県道381号線から脇道へ入る道路脇にある「従是西巖村領?」の立杭岩村藩領傍示杭(岩村藩の飛び領地横内村)。岩村藩は美濃国の岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城とした3万石の藩。享保20年(1735)岩村藩主・松平乗賢が老中に出世し、横内村など周辺十五の村、計五千石の領地をもらった。このように本領から離れた領地を「飛び領地」という横内歴史案内14:11寺の塀に「油街途(アブラガイト)」と立杭曹洞宗 西了山慈眼寺(セイリョウザンジゲンジ)」所在地:静岡県藤枝市横内179御本尊:阿弥陀如来(平安時代)。開 創:慶長4年(1599) 開基の龍谷秀泉和尚が横内村の人々の協力を得て伽藍を建立し、藤枝市高田常楽院 六世学翁宗参大和尚を御開山に拝請して開創された境内に祀られている尊像。14:13旧東海道沿いにある立杭「高札場跡」郷蔵跡(ゴウグラアト)西村小路 代官屋敷14:17旧東海道沿いの町案内旧東海道沿いの町内会館。右側の歩いてきた街道を振り返る横内あげんだい。横内歴史研究会が、毎年8月16日開催している、盆送り火法要あげんだい「夏祭り川原供養祭」地元の有志により、平成20年度に復活された。慈眼寺から火を採って朝比奈川までもっていき、朝比奈川をたいまつ行列、迎え火専用船「慈眼丸」檀信徒による手作りの舟。こうして夏のお盆を迎える14:19朝比奈川の上流を望む 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.14
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岡部宿の「大旅籠柏屋」「内野本陣」を見た後、今日のゴール藤枝宿を目指す。3/20(水) 12:26一階の本屋敷には身分の高い武士が、二階には身分の低い武士や、商人などの庶民が泊まったといわれている。狭く急な階段を上り、二階の展示場へ二階の「二の間(客間)」駄賃高札御上洛東海道 文久3年(1863)宇津の谷峠峠越えの様子鞠子(丸子)名物とろろ汁屋が軒を並べている安倍川当時の川越の様子がうかがえる府中岡部藤枝嶌田大井川を渡る大名行列金谷大井川を渡る大名行列当時の絵をジオラマで紹介柏屋今昔現在の建物は天保7年(1836)に建てられたもので、旅籠屋だけでなく、質屋や郵便局などにも使われてきた12:32一階の、本座敷に飾られた雛飾り。安政3年(1856)京都で製作された「雛人形御殿飾り」、寄贈:山内 様。岡部宿の山内家に伝わった京風の様式の雛飾りで、京都御所内の御殿をかたどった建物3棟に40体以上の雛人形を配する豪華なものです。箱書きには、安政3年(1856)の年号が記されている。雛人形は、男女一対の内裏びなを中心として、後宮に仕える官女や御所に参内する公家たちが、階段を上り下りする様子など生き生きと表現されている。また、牛車の行列や雛道具なども御殿飾に賑わいを添えている。江戸時代の終わりごろに製作された雛飾りとしては、保存状態がよく、京風の格調高い御殿飾りは、地方に伝わる例として全国的にも珍しく貴重なものであると他の雛人形嘉永5年(1852)製作の雛人形12:36主屋歴史資料館を出て裏庭へギャラリー なまこ壁(左棟)、和食処 一祥庵(右棟)。和食処 一祥庵は、地場特産品を食材にした、四季の小鉢膳(一日20食限定)をはじめ、松花堂弁当、とろろ汁膳(季節限定)、蕎麦など旬の岡部の味覚を賞味できるとギャラリー なまこ壁内に飾られた雛飾り。昔の土蔵を改装したもので、貸ギャラリーとして個人やグループで利用できる開館時間は、9:00 ~ 17:00階段にも多目的棟ふくろい遠州の「可睡斎ひなまつり」ポスター開催:2019年1月1日(火) ~ 3月31日(日)さるぼぼ2,000体を飾る。「さるぼぼ」はさるの赤ちゃんに由来し魔除けや子宝、安産を意味するそうです。赤色やカラフルな色とりどりの吊るし雛を演出した和の空間であると12:46岡部宿本陣址旧東海道(県道208号線)の丸子宿方面内野本陣史跡広場本陣とは江戸時代に大名や旗本、幕府の役人などが使用した格式の高い宿泊施設の事。内野家は、元禄年間(1688~1704)に本陣職を命ぜられてから、明治時代に宿場の制度が廃止になるまでの約180年間、代々本陣職をついだ。当時の建物は残っていませんが、敷地はそのまま残されており、昭和48年には「岡部宿本陣跡」として市指定史跡となった発掘調査を終え広場として公開。この本陣跡は現在、当時の建物間取りを平面表示し、歴史文化や街道のたたずまいを感じられるよう門塀をイメージ再現した「岡部宿内野本陣史跡広場」として整備した内野本陣内の展示品旧東海道(県道208号線)の岡部北交差点。「岡部宿」奈良時代の街道は海沿い(現:焼津市)を通り、日本坂を上って安倍川を渡り駿府に達していた。藤枝から岡部を経て宇津ノ谷峠を越える街道は、中世以降に発達したもので、建久5年(1194)に源頼朝が鎌倉と京都を結ぶ鎌倉道を整備し、岡部宿を設立した。慶長6年(1601)東海道の伝馬制度設定の翌年に、岡部は宿駅となった旧東海道(県道208号線)の丸子宿方面。宿の町並み長さは13町50間(約1.5km)。山間の宿場で、幕府の公用荷物や人゚を運ぶ人足や馬を出すことは大きな負担であった。大井川が川留になると岡部にも泊まる客が増えたが、参勤交代のような大規模な通行があると、隣の丸子宿や藤枝宿から夜具を借りねばならなかったという。広重の保永堂版「東海道五十三次 岡部」にも、薪を背負った木こりや女性が峠道を歩く姿が描かれ、ひなびた山間の様子がうかがえる12:48問屋場跡幕府の公用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りました。しかし、公用の仕事がない時には、一般旅行者や荷物を有料で送った。岡部宿には、岡部本町と加宿内谷の二か所に問屋場があった初亀醸造㈱所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部744純米吟醸『べっぴん』を販売、評判がいいと!朝比奈川、瀬戸川、大井川水系の伏流水に恵まれ、水・米・杜氏の三拍子が揃う藤枝は昔から銘酒を生み出してきた。四つの蔵元が造るお酒はどれも華やかな香りと、やわらかなうまみ、さわやかなのど越しで飲む人を楽しませると12:50旧東海道は県道208号線から左に入る上記角に、夢舞台東海道道標「岡部宿」藤枝宿 宿境まで???(??km)。丸子宿 宿境まで???(??km)12:51小野小町の姿見の橋小野小町は絶世の美人であり、歌人としても有名であった。晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊ったという。小町はこの橋の上に立ちどまって、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだと言う。こんな事があって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名づけたという12:54高札場跡高札場は、宿場内の目立つ所や、人々の多く集まる所に設置され、法度や掟(法律や条令)、犯罪人の手配などを木札に書き高々と掲げて、社会の人々に知らせた所です。高札が、四ツ辻(交差点)などに建てられると、そこを「札の辻」と呼んでいた旧東海道沿いの高札場跡近くに「弘法大師堂」12:54日蓮宗 見珠山正應院所在地:静岡県藤枝市岡部町内谷旧東海道から参道を入り山門へ。境内には桜がたくさんあり4月には桜が最高では日蓮宗 見珠山正應院12:58境内には桜、ツツジがたくさん本堂と多寶塔(タホウトウ)。多寶塔は駿河路唯一で、開基政薩院日勇上人の第50回忌記念として篤信家が発願され静岡県の名工に推挙された宮大工松浦茂治氏の手により、昭和54年に和様素木造りで7年間を費やして建立された 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.13
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宇津ノ谷峠を下り、岡部宿へ。3/20(水) 11:27坂下地蔵堂 延命地蔵尊坂下地蔵堂は、国道一号線の新宇津ノ谷トンネル岡部口の真下に位置し、蔦の細道と旧東海道が合流する場所の手前にある建立年代、建立者は不明ですが、元禄13年(1700)に、岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の三人が発願して地蔵堂を再建し、堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立した。霊験あらたかたと村人や近隣の人々に信仰され、その霊験のあらたかさを示す二つの伝説「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」残されている堂内には地蔵菩薩像が安置されており、この地蔵尊は宇津ノ谷峠を越えようとする旅人の安全を守り、また、堂前の木陰は旅人の疲れを癒した。今でも8月23、24日の大縁日には、串に刺した十団子をお供えして供養している。また、新盆供養のために遠方からも参拝客が訪れている旧東海道脇に咲くスイセン11:29左上は国道一号線、「つたの細道 西口」の石柱11:30東海自然歩道バイパスコースこの辺りの道案内11:31国道一号線に合流、先の山を越えてきた国道一号線沿いを歩く11:32新東名「藤枝岡部インタ」の道路標識11:37国道一号線を越える陸橋上から、「道の駅 宇津ノ谷峠」(藤枝側上り線)所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部2190-1ネットで調べると、今まで訪れた静岡県内の道の駅としては、最低レベルと投稿されていたが・・・・・この先のトンネルを通過すると右側に「道の駅 宇津ノ谷峠」(静岡側下り線)がある。ここから東京まで195km陸橋上から国道一号線の「廻沢口交差点」11:39国道一号線沿いの旧東海道(県道208号線)を歩き、ここを右折しては「大旅籠柏屋 歴史資料館」を目指す11:51旧東海道(県道208号線)を歩き、道標の「大旅籠柏屋 歴史資料館」11:53ひたすら歩くが人との出会いもなく11:54旧東海道(県道208号線)沿いに「東海道岡部宿案内板」。岡部宿は東には宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めた。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7(1602)年に宿の指定を受けた岡部宿は当初、川原町・本町・横町の3町で構成されていたが、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり、明治5(1872)年1月の伝馬所廃止を機に宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えた。江戸時代の作家、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』にも登場している11:56十石坂観音堂(ジッコクサカカンノンドウ)所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部階段を上がった上にある、江戸時代末期に作られたお堂。内部には二基の厨子が安置されている。また、江戸時代に駿府地誌の編集で活躍した、河野蓀園(コウノソンエン)の碑文が残されている入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。厨子一。中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、柿ぶき(こけらぶき)で二重垂木、妻入りである。彩色がほどこされていて江戸もやや末期の作と思われる。厨子二。観音堂の向かって右側にある。宝形、板ぶき屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものである。江戸も中期以降の作と思われると11:57菜の花が咲く旧東海道(県道208号線)を歩く11:59旧東海道(県道208号線)沿いに「枡形跡(マスガタアト)」の石碑曲尺手(カネンテ)ともいう。本陣めがけて敵がたやすく侵入できないように宿場の出入り口に設けたもので、ここは道が直角に折れ曲がっている。また、ここには木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日木戸を明六ツに開け、暮六ツに閉じた(朝夕6時)12:03旧東海道(県道208号線)沿いに「笠懸松(カサカケノマツ)と西住墓(サイジュウノハカ)」ここは歌聖として有名な西行が、西住と東国へ旅をした時に起きた悲しい物語の舞台である。「笠懸松」は右手西行山の中腹にあったが、松喰虫の被害を受けて枯れてしまった。その根元には「西住墓」と伝えられる古びた破塔がある12:04旧東海道(県道208号線)の5km先に「道の駅 玉露の里」がある東海道岡部宿「立光山不動尊」12:05岡部川に架かる「岡部橋」欄干にある浮世絵12:05旧東海道(県道208号線)、直進して島田方面へ12:06旧東海道(県道208号線)から右側へ入り「浄土宗 専称寺」へ西行座像。西行法師の旅姿をした座像で白木彫りの作りである。像底裏に「享保11年(1726)江戸の湯島天神の西にいた柑本南浦(コウシモトナンポ)が最林寺(川原町、文化5年焼失)に奉納」の意味の銘がある。江戸時代後期の作と思われる。不動尊立像。一木彫り立像で忿怒の形相が力強く表現されている。鎌倉前期のものといわれている。二体とも当山専称寺にて保管されている浄土宗 専称寺。所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部663江戸時代から伝承されてきた「一ト火」というお灸で有名なお寺専称寺本堂に掲げられた扁額石柱に「旧山門跡」12:10浄土宗 専称寺の旧山門跡の石柱12:11岡部宿、旧東海道の道筋、周辺案内図旧東海道(県道208号線)へ戻り「大旅籠柏屋(オオハタゴカシバヤ)」ここまで自宅から、19,000歩。所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部817旅籠とは江戸時代の宿泊施設。柏屋はその規模から「大旅籠柏屋」といわれ、岡部宿を代表する旅籠でした。柏屋を経営していた山内家は、旅籠と質屋を兼業し、田畑の集積も進め、その富を背景に代々問屋や年寄などの宿役人をつとめる、岡部宿でも屈指の名家でした。柏屋は随所に当時の面影が残る、東海道筋の貴重な建物で、平成10年には国の登録有形文化財認定された柏屋の建物。延べ床面積は約331㎡(約100坪)。柏屋は、文政と天保の2回、岡部宿の大火で焼失していますが、当時の『類焼見舞覚』や『諸入用之覚』などの資料によれば、天保6年(1835)に「棟上げ」をしているので、江戸時代後期の建造物であることがわかると主屋歴史資料館かしばやの雛まつり「好光作 等身大雛人形」。雛祭りをしていたので、入館料を購入して「主屋歴史資料館」へ入る。弥次さん喜多さんも座り、いっぷく好光作 等身大雛人形 等身大の雛人形は、市内で雛人形を製作していた職人が、自らの技術向上のために等身大雛人形の製作を思い立ち、昭和44年に完成した。その大きさから段飾りで飾ったのは、お披露目のときの一回だけといわれている。その後雛人形は旧岡部町に寄贈されて、大旅籠柏屋で毎年飾られるようになった。等身大の雛人形として十五人飾りは珍しく、さまざまなメディアからも取材を受け話題となっている主屋歴史資料館「みせの間」。江戸時代に建てられた「大旅籠柏屋」は、当時の旅籠の様子や人々の暮らしぶりが一目でわかる貴重な資料館。一階のみせの間と二階の客間では、弥次さん、喜多さんがあなたのお越しをお待ちしていますと畳の「野郎畳(ヤロウダタミ)」縁(ヘリ)をつけない畳。坊主縁(ボウズベリ)の畳。坊主畳蔀戸(シトミド)蔀戸は、水平に吊り上げて開閉する、格子などを取り付けた板戸のこ。平安時代ごろから住宅建築で使われ始め、やがて寺社にも広まっていったと考えられてい資料館内から12:26主屋歴史資料館の中には旅姿の衣装が 丸子宿から藤枝宿ー続
2019.05.12
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宇津ノ谷集落から、旧東海道の峠を越えて岡部宿へ。3/20(水) 10:46道路標識。左方向:登録有形文化財 明治宇津ノ谷隧道(明治のトンネル)。右方向:国史跡 東海道宇津ノ谷峠越夢舞台東海道道標「宇津ノ谷」岡部宿 宿境まで二十六町(2.9km)。丸子宿 宿境まで十町(1.1km)10:48明治のトンネルへ向かっていくと。宇津ノ谷地区カントリートレイル案内図明治のトンネル入り口。一緒に登ってきた女性も一眼レフで撮影土木學會選奨土木遺産 2018宇津ノ谷隧道群(明治・大正・昭和)。宇津ノ谷隧道群は、ひとつの峠において、日本で2番目にできた明治の近代隧道(トンネル)をはじめ、大正、昭和の各時代に3つのトンネルが建設され、明治時代から現在に至るまで百数十年に渡り地域の重要交通路を担ってきた稀有な土木遺産群です明治宇津ノ谷隧道の登録有形文化財のプレート明治のトンネルの由来。宇津ノ谷峠(旧東海道)は、江戸初期東海道の駅伝制が整備され官道となった。明治のトンネルは、旧東海道を通行する人達のために、明治9年総工費24,800円で築造された日本最初の有料トンネルです。当時は、測量技術が発達していなかったため「く」の字型のトンネルになってしまい、見通しが悪いため照明用のカンテラを設置していた。このトンネルの構造は、静岡口の約20mは青石造りでしたが、大部分が角材の合掌造りであったため、明治32年に照明用カンテラ失火により焼失崩壊し、一時廃道となりました。現在の赤煉瓦トンネル(通称)は静岡口を直線に手直ししたため、長さ203mとなり明治37年に竣工した。静岡口のトンネル二人で記念写真明治のトンネルの静岡口側の斜面に咲く「寒緋桜」トンネルの手前には駐車場・トイレもあるズームアップ10:53明治のトンネルから下り、旧東海道の宇津ノ谷峠道へ。人通りの少ない、宇津ノ谷集落を見下ろす10:54旧東海道のぼり口。国指定史跡『東海道宇津の谷峠越え」東海道宇津ノ谷峠道の御案内:展望広場下。現在地からの距離。岡部町側登り口まで、960m明治のトンネルまで、140m峠の地蔵堂跡まで、330m10:55峠道の路傍に立つ地蔵10:56竹林の中を登るがこの辺りは緩やかだ11:03宇津ノ谷は丸子、岡部両宿の間に位置する間宿です。行交う旅人が宇津ノ谷名物「十団子」を求めたり、無事に峠を越えてほっと息をついたところです。ここからの眺めは昔も今も変わらず、山間の集落の景観は、当時を彷彿とさせてくれますと11:04登坂の途中、大阪からの男性と出会いしばし立ち話し。前日は藤枝に宿泊して、朝から日本橋へ向かっていると11:05雁山(ガンザン)の墓の石碑と説明板俳人雁山は、山口素堂に俳諧を学び、甲府と駿河に庵を結んで自らの俳諧の地盤を固めた。享保12年(1727)頃旅に出て音信不通となったため、駿河の文人たちが、旅先で没したものと思いこの墓碑を建てたと伝えられている。しかし、雁山はその後『有渡日記』や『駿河百韻』等を著し、明和4年(1767)、82才で甲府に没した。もとは今より山側にあった東海道の傍らに建てられていたが、山崩れで流れ、この位置に移されたこの辺りは、明治43年8月に起きた集中豪雨による山崩れのため、地形が大きく変わってしまったところです。階段は整備に伴い便宜的に設けたもので、江戸時代には今より山側上方を、幅2間(約3.6m)の道が通っていた11:07旧東海道を登っていくと「峠の地蔵堂跡の石垣」この石垣は、江戸時代中(十八世紀末)ごろ、宇津ノ谷峠の傾斜地に地蔵堂(石垣上)を構える際、平らな土地を確保するために積まれたものです。石垣は二段構えで総高約7m、最大幅約12m。石材は、すべての箇所で横幅が縦幅より長い「平置き」の積み方を施している。根石はやや大きい寸法の石材を用い、天端石はやや小さい石材を用いているようですと・・・・・・・・・・・・・峠の地蔵堂跡の石垣を右下に見ながら登る上から見下ろすこの奥の空地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を偲ばせている。江戸時代末期の歌舞伎脚本作家 河竹黙阿弥の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を舞台にした「蔦紅葉宇都谷峠」というお芝居がある。・・・・・・・・・延命地蔵尊は、現在宇津ノ谷の慶龍寺に祀られており、縁日は、毎年8月23、24日宇津ノ谷峠の地蔵堂。「峠の地蔵堂跡」は、平成12年度に実施された発掘調査の成果に基づいて整備された。発掘調査によって、この平地には地蔵を祀っていた建物跡と考えられる痕跡が2箇所検出された。・・・・・・峠の地蔵堂。東海道を往来する人々が道中の安全を祈り、また「道しるべ」の役割を果たしていた東海道宇津ノ谷峠道の御案内:峠の地蔵堂跡辺り登ってきた「宇津ノ谷峠道」天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原征伐のため開いたといわれる道を、江戸時代に整備し東海道とした。峠道にある地蔵堂跡は歌舞伎『蔦紅葉宇都谷峠』の文弥殺しの舞台。今でも鬱蒼とした杉木立が殺しの舞台を彷彿とさせる11:10宇津ノ谷峠へ到着。旧東海道のぼり口から約15分で到着。難所と聞いていたが今までの坂と比較すると楽であった。自宅からの歩行数は、13,800歩11:12峠を下り始める12:13明治のトンネルがこの下を通過している東海道宇津ノ谷峠道のご案内:峠を下り静岡市の市境を過ぎ藤枝市へ入るこの付近は、宇津ノ谷トンネルの管理道ができたことにより、道の様子が大きく変わっている。旧道は写真(?色)に示す形状になっていた11:14下ってきた旧東海道を振り返る(石垣の上から)11:17旧東海道を下り東海道宇津ノ谷峠道のご案内:明治のトンネル入り口11:18振り返る、左方向へ下ると「明治トンネルの岡部入口」方面岡部側の旧街道は道幅が広い11:20髭題目碑(ヒゲダイモクヒ)碑の正面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれている。側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」と刻まれており、旅人の安全と世の平和・豊作を願って建立されたことがわかる。裏面には建立年月の「天保6年霜月再興」とこのような髭題目碑は日蓮宗の信仰が盛んな県東部にはごく普通に見受けられるが、中部のこの辺りでは非常に珍しいものである備前国(岡山県)木綿屋門平をはじめ、???から島田市辺りまでの建立者達の名前が刻まれている11:23林の中に「蘿径記碑跡」の杭が立つこの碑は文政13年(1830)、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅をおそれ、末長く残すために建立した石碑です。「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。今は坂下地蔵堂の裏にあります11:24夢舞台東海道道標「参勤交代の道」岡部宿 宿境まで十八町(2km)。丸子宿 宿境まで十八町(2km)11:26つたの細道公園11:26旧東海道(別名 大名街道)。正面の坂が、宇津ノ谷峠方面。この道は、駿河国の安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津の谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津の谷峠道である徳川家康が五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱんとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、20万石以上の大名は武将が20騎、足軽が120~300人もあり、1万石の大名でも5、60人の供揃えで、その行列はこの峠をうめつくしたことであろう。この道も明治9年(1876)トンネルの開通によって閉ざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.11
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丸子宿の長源寺から、岡部宿へ向かう。3/20(水) 10:03旧東海道(国道一号線)沿いを歩き、赤目ケ谷中交差点にある「丸子赤目ヶ谷」歩道橋を渡り旧東海道へ。この辺りは日本橋から188.7km地点。ここまで自宅から8,700歩10:05丸子赤目ヶ谷歩道橋の上から振り返る同場所から岡部宿方面(京)歩道橋を渡り旧東海道へ、大きな阿弥陀如来像?10:10旧東海道(県道208号線)沿いにあった昔の取引先の工場10:16再度、国道一号線に合流旧東海道の道路端に10:21再度、国道一号線の宇津ノ谷(逆川)歩道橋を渡り旧東海道へ歩道橋の上から「道の駅 宇津ノ谷峠」10:24道の駅の手前に交通安全とあるが「宇津ノ谷一里塚」この先の左側に道の駅「宇津ノ谷峠」(静岡側下り)10:25旧東海道は、国道一号線から分かれて県道208号線へ道の駅辺りは日本橋から190kmソメイヨシノが咲き始め10:28道の駅にあった「丸子路広域マップ」所在地:静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷82道の駅では、天ぷらそば、とろろ定食や静岡おでんがおすすめだと、豚汁もグッド宇津ノ谷峠周辺ガイドこの辺りには、明治時代のトンネル、昭和初期のトンネル、昭和中期のトンネル、平成時代のトンネルと4本ある。今日は峠越えの旧東海道を歩くことに道の駅の窓ガラスに10:31この辺りで左に迂回して国道一号線を横切り(県道208号線)を歩き宇津ノ谷峠へ菜の花と桜が咲き東海道の難所「宇津の谷峠」国史跡指定。蔦の細道(平安の道)、峠の伝説「十団子 慶龍寺」、秀吉からの陣羽織「御羽屋」峠越えの古い東海道、一つの峠に4本のトンネルがある10:33竹藪があるがまだタケノコは・・・・・手打ち「蕎麦処 きしがみ」 営業は11時から14時、御羽織屋裏で営業先程の道の駅「宇津ノ谷峠」(静岡側下り)を望む10:33国道一号線の宇津ノ谷トンネル手前が平成時代のトンネル(下り)、奥が昭和中期のトンネル(上り)10:35国道一号線を越え、宇津ノ谷集落へ10:36ミツマタも咲き静岡市上下水道局「宇津ノ谷ポンプ場」10:37旧東海道(県道208号線)を振り返るハクモクレンもきれいに咲き10:38旧東海道(県道208号線)を歩き、宇津ノ谷集落入り口へようこそ、宇津ノ谷へ左側が集落経由「明治トンネル」へ明治トンネルの案内、0.5km(15分)夢舞台東海道道標「宇津ノ谷」岡部宿 宿境まで二十九町(3.2km)、丸子宿 宿境まで七町(0.8km)。4月7日の選挙用看板も立ち並び10:39交通の難所「宇津の谷峠宇津ノ谷集落の案内丸子川に架かる村中橋を渡り集落へ10:40宇津ノ谷集落は登り坂10:41宇津ノ谷の集落は、宿場ではなく間宿としての雰囲気が色濃く残っている10:42お羽織屋(オハオリヤ)所在地:静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷拝観中止の貼り紙天正18年(1590)小田原征伐に東海道を下った豊臣秀吉が立場茶屋だった石川家に立ち寄った際、馬わらじを自分の馬のものと取り替えたい所望した。主人が三脚分しか出さないので、秀吉が訳を訪ねると「四は縁起が悪いので一脚を残し、勝利を祈願するつもりだ」と答えた。秀吉は、縁起が良いと大いに喜んで気分よく出発。戦いに勝って帰りに立ち寄り、褒美として和紙と絹でできた自分の陣羽織を与えた。以来「お羽織屋」と呼ばれ、多くの大名がこの羽織を見るために訪れた10:43集落の民家の軒下には屋号の「角屋?」観光客も少なく、住民とも会わず煉瓦敷きの旧街道を登る観光客の女性から「イノシシがいるようで怖いので一緒に明治のトンネルへ行きたい」と話しかけられる一緒に明治のトンネルへ向かう。きれいに咲き10:44トンネルへの途中、宇津ノ谷集落を振り返る 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.10
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昔の丸子宿には名物「とろろ汁」の茶店が何軒もあった。すり下ろした自然薯と出汁を合わせ麦飯にかけて食べる。3/20(水) 9:23旧東海道(県道208号線)を振り返る。丁子屋(チョウジヤ)の駐車場。営業時間帯には多くの観光バス、乗用車が駐車。お江戸の雰囲気で愉しめる「とろろ寄席?」が開催されているのか?ここまでの歩行数は、自宅から 5,900歩丁子屋の横にはいろんな石碑があった丁子屋の横にある「芭蕉の句碑」はかり知れない恩義を極め偉大な名声と数多くのすぐれた詩文は、未来永劫まで称えられ大空のように広大無辺で果てしなく誰にもその神髄を知ることはできない十返舎一九「東海道中 膝栗毛の碑」。膝栗毛では茶店に寄った弥次さん喜多さんがとろろ汁を注文したが、店の夫婦の喧嘩が始まり、亭主がすり鉢を投げたのであたりはとろろ汁だらけになり、この騒ぎで二人は名物を味わうことができず、仕方がなく一句。「けんくわする夫婦は口をとがらして鳶とろろにすべりこそすれ」辰 石。徳川家康公は駿府城築城にあたり、その石垣は丸子など近在より集めたと伝えられる。この石もその一つで、丸子舟川より運び出されたが、370余年間目前の旧東海道の下で眠っていたが、去る丙辰(1976)正月電話ケーブル埋設工事の際掘り出されたもので辰年にちなみ龍が爪あと(くさび割りあと)を残して天に昇ったと岡本かの子 著「東海道五十三次」より。午前の陽は流石に眩しく美しかった。老婢が「とろろ汁が出来ました」と運んで来た。別に變つた作り方でもなかったが、炊き立ての麦飯の香ばしい湯気に神仙の土のやうな匂ひのする自然薯は落ち付いたおいしさがあった。私は香りを消さぬ・・・・・・千寿の前。戦乱の世、源平時代には数々の美しくも悲しい物語が残されている。私達の郷土にも「千寿の前」の物語が伝えられている。千寿は静岡市手越の長者の娘として生まれ「白拍子」と呼ばれる舞姫であった。白拍子は麗しい美人が多かったようですが、中でも千寿は源頼朝が天下の美女、十二人を集めた時、その第一に千寿をあげている程だった。・・・・・・・・・・清酒「千寿白拍子」はこの千寿の前にちなんで醸されたもので、ふくいくとした優雅な香り、新鮮でまろやかな旨味を含んだお酒で「まりこ」のとろろ汁と共に東海道の名物として永く世人の愛飲を頂いておりますと9:25店の前に「鞠子宿 丁子屋(チョウジヤ)」の石碑。現在もとろろ汁屋を商う慶長元年(1596)創業の老舗。今日は残念ながら臨時休業日。所在地:静岡県静岡市駿河区丸子7-10-10 tel:054-258-1066営業時間は、11:00 ~ 19:00 定休日は、?丸子宿のとろろ汁の茶店江戸時代の丸子宿夢舞台東海道道標「丸子宿」。岡部宿の宿境まで一里十七町(5.8km)。府中宿の宿境まで一里四町(4.4km)この道筋は江戸時代の東海道です。丸子宿の西の見付と高札場があった。分岐する道を川沿いに西北へ進むと、諸大名や幕府役人、文人等が東海道の往来の際に立ち寄った名所、連歌師宗長ゆかりの吐月峯紫屋寺(トゲッポウサイオクジ)があります。道沿いには、明和元年(1764)に建立された道標があるが、元は別の場所に建てられていたものと考えられると旧東海道案内案内板(泉ケ谷地区の史跡)細川幽斎公歌碑。幽斎(1534~1610)は、室町末期・安土桃山時代の文武両道に卓越した大名であり歌人でもあった。細川元常の養子となって、足利十二代将軍義晴、十三代義輝に仕えて信長に懇願して義昭を十五代将軍に推挙した。秀吉、家康にも重臣として格別信頼され、日本三景で有名な、丹後国の宮津十二万石城主となった・・・・・・・・・。石碑は「丸子川の石碑」丸子川に架かる橋から「丁子屋」を振り返る9:28丸子川を渡ると丸子元宿高札緑地にある「高札場跡」。高札場には、複製した三枚の高札とともに、そこに書かれた内容を紹介している高札場は、幕府や諸藩が定めた法度や掟書を木の板札に書き、人目を引くように高く掲げておく場所のことです。丸子宿の高札場は現在地にから丸子川を渡った東側に設けられていたと言われている定(忠孝奨励諸法度)一 忠義や孝行を奨励し、夫婦兄弟諸親類は睦まじく召使いの者(手代・使用人)にも 情愛を加える事。もし不忠義や不幸する者には重い罪とする。一 何事にも贅沢してはいけない。。住家・衣服・飲食等まで倹約を守る事。一 悪心をもっていつはり、又は無理な言いがかり、又は自分の欲のために人の害に なる事はするな。すべて家業のために励む事。一 ・・・・・・・・定(宿駅諸法度)一 御朱印御伝馬人数は御書付の外多く出さない事。一 伝馬並びに駄賃の荷物は、一駄について四十貫目、人足の荷物は一人にいて五貫 目に限る事。一 丸子より府中(静岡)までの駄賃銭は一駄について四十七文。乗懸け荷は人と共に 前と同じ、荷物なくして乗るらば三十一文。人足賃は一人にて二十四文。・・・ ・・・・・。條々(毒薬にせ金等禁制)一 毒薬並びににせ薬の売買は堅く禁制なり、若し商売する者には罪科とする。たと へ同類といえども訴え出る輩者にはきっと護褒美をくだされる事。一 にせ金銀の売買は一切停止すべし、 自然持ち来るは両替屋において打ちつぶして其の主に返すべきなり。並びに外し の金銀、にせの金銀は金座銀座で改めるべき事。 附(ツケタリ) にせ物するべからず事。一 寛永の新銭は金子一両につき四貫目。勿論一歩には一貫目、御料・私領共に年貢 収納等にも御定の員数とする事。一 ・・・・・・9:29高札場、丸子川の向こうに丁子屋を望む9:30東海道 ~ 丸子宿喫茶去 夢想菴所在地:静岡県静岡市駿河区丸子5163-19:37旧東海道(県道208号線)から、国道一号線を遠望ズームアップすると9:39旧東海道(県道208号線)の丸子川沿いを歩き「観音堂」観音堂で、国道一号線と合流この道筋は江戸時代の東海道です。国道一号の拡幅によって、かつての面影は全く残っていませんが、西へ向かえば東海道の難所宇津ノ谷峠、東へ向えば丸子宿です。赤目ケ谷の起木神社には、源頼朝上洛の折の梅ノ木にまつわる伝承があり、神社の山手には、幕臣で近代茶業の振興に貢献した多田元吉の墓所があります。また長源寺には国学者野沢昌樹の墓所もあります9:41この辺りから国道一号線(右側)からそれて旧東海道へ9:42後方は、国道一号線の二軒家交差点上の写真をズームアップすると「吐月峰柴屋寺(トゲッポウサイオクジ)」への標識。吐月峰柴屋寺。二軒家交差点から1kmあるので立ち寄れなかったが、永正元年(1504)今川氏親に仕えた連歌師・宗長が宇津山の麓に庵を結んで柴屋軒と称したのが始まり。宗長の死後、寺に改め宗長寺ともいった。この柴屋寺は当時の丸子城の一部だった。本堂正面(南)の丸子富士、庭の西方に天柱山、東に吐月峰を借景にした枯山水庭園は国の名勝に指定されている。宗長が植えた竹を使った竹細工は当時から名物で、煙草の灰落とし(灰吹)に「吐月峰」と書いて「はいふき」と読ませた9:43国道一号線の赤目ケ谷交差点、日本橋から188kmのキロポストも立つ赤目ケ谷交差点に立つ案内板、「起木天満宮」。建久6年(1195)源頼朝公が上洛のとき、一本の紅梅の大樹が倒れて通行の妨げになっていた。ところが頼朝公がお通りになる前夜に、この梅樹が一夜にして起き上がった。これを聞いた頼朝は「これぞ天神の霊木なり」起木天神と命名されたと言う。赤い花咲く梅の木だったことから、此処の部落を赤梅谷が赤目ケ谷となったと伝えられている9:46旧東海道沿いに「日本の紅茶発祥の地 丸子紅茶」丸子紅茶所在地:静岡県静岡市駿河区丸子67759:52臨済宗妙心寺派 長源寺、起樹(オキギ)天満宮所在地:静岡県静岡市駿河区丸子6850堂の前に庚申塔霊泉山 長源寺宝台院の末寺として、寛保元年(1741)慈悲と心の安らぎの観音様を祭ったお寺長源寺 本堂長源寺境内起樹天満宮の鳥居丸子は紅茶発祥の地。丸子に茶園を開いた多田元吉は明治9年政府からインドに派遣され紅茶製造技術を持ち帰り全国に広めた。伝統の紅茶作りは現在も続いている起樹天満宮の本殿本殿に掲げられた、左:名馬 磨墨(スルスミ) 右:名馬 女唼10:01丸子路観光案内図「長源寺・起木神社」遥か千余年の歴史をつづるロマンの里10:01振り返ると、右は旧東海道(県道208号線) 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.09
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延べ14回目の旧東海道の道中記は、青春18きっぷを利用しての二回目です。今回も旅友Kさんとの弥次喜多で、日本橋から20番目の宿場町「丸子宿(マリコジュク)」、岡部宿、藤枝宿の道中記を10回にわたってのアップとなります。'19/3/20(水) 6:03早朝の茅ヶ崎駅北口、旅友Kさんは一番電車で既に電車の中だととのメール既に朝陽は出て?青春18きっぷの二回目で、乗り降り放題8:32静岡駅で浜松行きの電車に乗り換えて先頭車両に乗車私は撮り鉄ではありませんが、先頭車両から進行方向を撮影8:33今日も天気が良く富士川に静岡駅を出て数分で安倍川へ8:34東海道新幹線との交差JR安倍川駅が見えてくる8:35JR安倍川駅へ到着、新しい駅舎JR安倍川駅で下車改札を出て8:38新しいJR安倍川駅の北側、Kさんは駅舎を撮影8:49駅前から旧東海道へ向けて歩く8:52丸子宿へ8:57旧東海道の松並木旧東海道沿いの「丸子交番」所在地:静岡県静岡市駿河区丸子3-2-28:57お馴染みの夢舞台東海道道標「丸子宿」。岡部宿の宿境まで二里(7.5km)。戻ると府中宿の宿境まで二十一町(2.8km)9:04旧東海道(県道208号線)の交差点に「ようこそ丸子路へ」の看板直進は国道一号線だが、旧街道はここで左折この先は旧東海道(県道208号線)。丸子名物「とろろ汁・丸子紅茶」。国指定名勝史跡庭園「吐月峰柴屋寺」の看板が立つ交差点隅東木戸まで約230m9:06旧東海道(県道208号線)沿いに「一里塚跡」の石碑9:09此処が「江戸方見附跡でこれから丸子宿」の看板東海道53次のうち丸子宿は日本橋から四十六里、数えて二十番目の宿でした。宿場は街道に沿って三百五十間・規模は小さいが正式な宿場だった。宿場の入口(江戸方)、出口(京方)に見付という場所があり、街道の見張場の役目をしていた9:11旧街道沿いの「丸子下宿」にある水神社この道筋は、江戸時代の東海道。ここ丸子宿は文治5年(1189)、源頼朝が奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて、駅家を設けたのが起源といわれている。今の元宿といわれる辺りで、戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長も「丸子という里、家五、六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記している水神社裏の土手から丸子川上流側に桜が満開ズームアップして9:13ここは東の見付を通り丸子宿に入ってきた所です。見付は、宿場の出入り口にあり、往来を監視する機能をもっていた。現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、本陣跡、脇本陣跡の碑や、格子戸の残る家、間口が狭く奥行の深い家並みなどから、丸子宿のようすを思い起こすことができる 丸子宿年表江戸時代の丸子宿。東海道「丸子宿」駿府町奉行所支配所の規模9:15店先には屋号も下げて。丸子宿は「鞠子(マリコ)」とも書いた。宇津ノ谷峠を控えていたため、東海道制定時に宿場に指定された。町並みは丸子川に沿って東西7町(740m)しかなく、人口も約800人の山間にある小さな宿場だった9:18明治天皇御小休所跡(丸子宿脇本陣跡)9:19丸子宿には、お七里屋(シチリヤ)と呼ばれる紀州藩御用を務める機関もあった史跡「丸子宿 横田本陣跡」の石碑所在地:静岡県静岡市駿河区丸子7-9この辺りのたいていの家には、屋号がかかげてあり、鈴木姓が多い9:20丸子宿 塚屋明治天皇御小休所跡(丸子宿脇本陣藤波家跡)9:21旧東海道(県道208号線)沿いの民家の軒先でみかんを販売9:22とろろ汁の丁子屋(チョウジヤ)が見えてくる。この辺りには、名物「とろろ汁」を売る茶店が何軒もあった 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.08
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GWに入って天候不順が続いていたがそんな中、昨年東海道53次で訪れている地元の神社・寺院へ、つつじ&ふじの花を求めて訪れた。4/29(月) 8:30 曇り空の中、自宅を車で出発。8:53JR平塚駅北側の国道一号線「宮の前交差点」。右前方に「平塚八幡宮(相模國一国一社)」8:55国道一号線「立野町交差点」8:57国道一号線「春日神社北側交差点」同交差点の中央分離帯のつつじ9:05旧東海道(国道一号線)、大磯松並木9:11江戸から十七里の「中丸の塚」9:16六所神社の駐車場へ、道路一杯に古木がはみ出し六所神社所在地:神奈川県中郡大磯町国府本郷935六所神社本殿相模国の総社であり、第十代・崇神天皇の御代の創建とされ、大化の改新後の養老2年(718)に現在地に遷ったと伝えられる。相模国の一宮から四宮までの四社と、平塚八幡の分霊と主祭神の柳田大明神を祀り、六所神社と呼ばれることになった本殿から境内を見る。昨年の11/20(火)、弥次喜多道中で歩いて訪れている。この時のブログは「大磯宿から二宮の吾妻神社ー3」で公開済み('18/12/17)六所神社裏のふじ棚紫色のふじふじの花が咲くと訪れる蜂がクマバチ(熊蜂)、クマンバチともいわれる。名前は怖いイメージだが・・・・・・9:24JR東海道本線の地下道をくぐり、旧東海道(国道一号線)沿いに建つ、六所神社の鳥居おすいマンホール「大磯」9:31旧東海道(国道一号線)の「吾妻神社入口交差点」を右折して旧東海道へ。前回はJR大磯駅から国府津駅まで歩いたが、やはり車は楽だ!9:34等覚院の駐車場へ到着。裏を走るJR東海道本線駐車場そばに咲いていたモッコウバラも満開9:35真言宗 梅澤山 等覚院(藤巻寺)所在地:神奈川県中郡二宮町山西793旧東海道沿いに咲くつつじが咲き昨年の11/20(火)、弥次喜多道中で歩いて訪れている。この時のブログは「大磯宿から国府津駅ー4」で公開済み('18/12/18)。前回ふじの花がきれいと聴いていたので、今回の訪問となったがつつじも綺麗に咲き等覚院本堂とふじこのふじの木は古くから有名で、元和9年(1623)将軍家光上洛のおり、当地に駕籠を止めてふじの花をご覧になったと伝えられている。また、寛文の頃仁和寺宮が関東に下向されたとき、ふじの花をご覧になり「藤巻寺」の別号を与えられたとここのふじはつぼみは淡い紫色だが、開花すると真っ白に咲くのが特徴。見頃となる4月下旬には壮麗なふじを愛でに近隣の人々や参拝者が訪れている昨日('19/4/28)、地元ケーブルテレビが撮影にきたとのことふじの花花 言 葉 :「決して離れない」「歓迎」「恋に酔う」名の由来:花が風に散る姿の「風散(ふぢ)」または「吹き散る」という意味に由来ふじ(藤)の花の花言葉「決して離れない」は、木に絡みつき大きく成長し木の周りには綺麗な花を咲かせることから、つけられたらしい。古くから、松を男性、ふじを女性にたとえて、庭木として松とふじを近くに植えたクマバチは、大きく黒く、大きな羽音で怖いイメージがあるが、名も熊と蜂、攻撃的な感じです。でも、そんなに怖くはありません、クマバチは温厚な性格で人間を攻撃することは殆どありません。クマバチに接近しても、殆ど気にせずに蜜を吸っている同じように大きな蜂でも、スズメバチ(雀蜂)は危険です!イメージ的に、クマ(熊)に比べ、スズメ(雀)なので、可愛い感じがしますが、攻撃的な蜂です。肉食の蜂なので、蜜を吸いに来てる蜂を狙ってくることがあるので、スズメバチには近づかないように!!!推定樹齢約400年を越えるといわれる白藤は、幹が根元からぐるりと渦を描くように伸びている大きなクマバチが「ブーンブーン」と飛び廻り梵鐘と満開のふじもと吾妻社の別当坊・千手院にあり明治のはじめ当等覚院に移された。寛永8年(1631)の銘があり、町内に現存する最古の梵鐘である境内には観音堂、鐘楼が建ついろんなオダマキが植えられ咲いていたつつじも満開いろんな花が植えられていた、これからは紫陽花が咲くと9:52丁度、庭の手入れをしていた人(檀家のボランティア)の御茶の時間で、私もお茶と最中を頂く。縁台に座り込みお茶を飲みながら、住職のお母さん、檀家の方と雑談。ここの総本山は、東寺真言宗総本山「京都東寺」雑談は、 ①この寺は真言宗で、住職のお母さんも四国遍路をした。 ②檀家の方は定年退職時に、ツアーでマイクロバスで回った(連続で16日)。 ③私も昨年、一昨年の二回遍路に行ったが、一昨年二宮の住職さんと出会ったが。 帰宅して調べると、第71番札所「弥谷寺」:香川県三豊市で'17/10/16(月)に。 お母さんから「それはうちの住職(大きな体)です」。 ④昨年、空海が修行した中国西安の青龍寺へ行き、0番札所の御朱印をもらった。 ⑤お母さんは四国遍路で屏風の御朱印ももらった。 ⑥檀家さんは今年84歳になるので運転免許証を返納する。等々の雑談で、時の過ぎるのを忘れ、約30分間話し込む。10:19本堂前のサルスベリ手入れされた槙の木と六地蔵歴代住職の墓を案内していただいた檀家(半日ボランティア)さん、珍しい彫り物とこの御墓に珍しい彫り物があると。字が彫られていたが判読できず墓石に日光東照宮の「見🙈、聞か🙉、言わ🙊」の彫り物s10年生まれの私より一回り上の先輩先程まで座っていた縁台には他の方が。GWの間はふじが楽しめると!10:28約一時間の滞在で「等覚院」を後にする住職のお母さんから頂いたパンフレット。国宝 東寺「空海と仏像曼荼羅」。開催期間:2019.3.26(火) ~ 6.2(日) 9:30 ~ 17:00休館日:月曜日場 所:東京国立博物館 平成館(上野公園)おすいマンホール「にのみや」10:37旧東海道から、国道一号線へ、下りは大渋滞中。この川西交差点を左折して上りの帰路に着く、赤い幟は「金目の煮付」11:01旧東海道(国道一号線)の大磯「さざれ石交差点」。前方右側に、さつまあげ等の「井上蒲鉾店」11:05この化粧坂交差点を左折して、旧東海道へ入る東海道五十三次 大磯 虎ケ雨古木に「サルノコシカケ」11:10大磯の旧東海道の深緑11:16旧東海道(平塚市紅谷通り)。平塚宿は道を間違え全てを見ていないため、後日再度歩く予定自宅には11:45に到着、往復39kmのドライブでした。ふじが咲いているであろうと等覚院を訪れたが、お茶を頂き雑談の中で、一昨年四国遍路中に出会った体の大きな二宮の住職が、まさかここの住職であったとは!!! END
2019.05.07
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今年のGWは史上初めての10連休と長く、テレビ放送を見ているとどこの行楽地も人人で大混雑!毎日が休みの私は、自宅待機で、近場の花と畑仕事で過ごす。4/28(日) 9:30連休後に長野遠征があるので野球の練習に参加。高架は圏央道「海老名南JCT ⇔ 寒川北インタ」グランドからの富士山10:10練習の帰りに「関東の富士見100景 茅ヶ崎市からの富士」へ立ち寄る平成16年11月に指定された場所近くの「腰掛神社」15:00午後は買い物でイオンモールへ。休日にはライブが行われているので30分間を楽しむ。この日は初めての「Sinon」 青森下北半島在住の女性シンガーで歌姫とCarpentersの歌 等を歌う5/1(水) 11:50マルチの場所に、枝豆を植え付ける。ジャガイモも芽かきをして土寄せ畑に咲くタンポポ14:45令和を祝って村の神輿玄関先で咲く胡蝶蘭庭に咲く雨上がりの花「西洋しゃくなげ」オダマキシランスイートピーパンジーこれからはバラが咲き、バラの香りが漂う。5/2(木) 14:50高野山真言宗 甘沼山成就院新聞に載っていたということで多くの人が訪れていた。本堂裏にある「なんじゃもんじゃの木」なんじゃもんじゃの花の香りが漂い天高く咲く花ハンカチの木ハンカチの花の蕾、いつもなら咲いているのだが今年は遅いのかと5/4(土) みどりの日人出が多いことはわかっていたが、天皇陛下の即位を祝う一般参賀があるとのことで自宅を8時半前に出て東京駅へ向かう。9:48東京駅南口から皇居へ向かうが多くの人が皇居方面へ。ハトバスの二階建て観光バス9:53国道一号線「和田倉門交差点」の先には既に多くの参賀者が並んでいた。交差点の警官に人出を聞くと「年賀が10万人であったので、今日は13万人か?」と10:04内堀通り手前の「行幸通り」に並ぶ参賀者。行幸通りは、陛下が行幸される際に東京駅まで移動のために使用する道路。地下通路があって両壁には写真が貼ってあり、一種独特の雰囲気があるので、散歩コースとして歩かれてはと。また、更にその下には陛下専用の鉄道が引かれているとのことだが本当かどうか?。行幸通りには複数列あり動かず、待機状態に10:08行幸通りから馬場先濠と国道一号線の日比谷通り10:43既に参賀を終えた(10:00)人たちが帰路に10:5050分待ってようやく我々の列が皇居前広場へ移動始める。隣の列では多くの人が待機、日の丸の旗を係員からもらう10:52通行止めになっている、内堀通りを横切り10:53皇居前広場へ、この先で手荷物検査&セキュリティー検査。大きい荷物は一時預かりに10:54検査への協力を呼びかける婦警11:11セキュリティー検査後、8列に区別されたエリアで暑い中、何も放送がないため我慢強く約一時間立って待機。あちこちで「人が倒れた!」の声、また、時間を待てず帰る人も続出12:37ようやく一時間半待って「皇居宮殿 長和殿」へ向かう12:44正門石橋手前から正門鉄橋(二重橋)を望む。いつも皇居前広場から撮影している「正門石橋」は、明治22年(1889)、明治新宮殿の造営に伴って寛永元年(1624)に架橋された木製の西丸大手橋が、皇居正門石橋に架け替えられた12:47正門鉄橋(二重橋)と伏見櫓美しい弧を描く皇居の堀に架かる橋で、公式行事に使用される12:49正門を入り緩い坂を上る。この坂を上るのは、もう40数年前に父母&義父と昭和天皇の年賀以来になる正門を振り返る12:50伏見櫓江戸城西の丸の西南隅に建てられた二重櫓で、両横には大規模な多聞も続いている。1628年3代将軍家光の時代の江戸城修築に際して、京・伏見城から移築したものと伝えられている。石垣も櫓も堅牢で、関東大震災でも崩れずに往時の姿をとどめている。伏見櫓の高さは13.4mで、十四間多聞、十六間多聞が脇を固めている。別名で「月見櫓」と呼ばれ、皇居で最も美しい櫓といわれている12:52正門鉄橋(二重橋)から正門石橋を渡る参賀者12:55ようやく「皇居宮殿 長和殿」前に到着。既に多くの人が長和殿前に集まり、身動きできない状態に13:01今回は4回目のお出まし日の丸の旗を振り、前後から「天皇陛下万歳」の声が聞こえてくる前の人がカメラをあげるのでモニターにも映し出されたが瞬間にしか見れず13:18お出ましの場所で、約10分間のお出ましであった。後方にいた人は前に出て、次の14時まで待機する人もお出ましの横の生け花がきれいに13:27帰り道の案内坂下門は混んでいるとのことで、桔梗門へ向かう13:32富士見櫓(皇居東御苑)江戸城本丸東南隅に位置し、江戸城遺構として残る唯一の三重櫓。現存する三重櫓は、明暦3年(1657)の明暦の大火(振袖火事)での焼失後、万治2年1659)の再建。どの角度から見ても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」の別名も。天守焼失後の「代用天守」の櫓ともいわれている13:42桔梗門も帰る人でいっぱい。江戸城桔梗濠に面した門が桔梗門で「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺された外桜田門に対して、内桜田門とも呼ばれている。この門を入ると江戸城三の丸で、大名などの登城は、大手門と内桜田門(桔梗門)と定められていた。現在では皇居一般参観の入場門になっている13:45桔梗門を出て、桔梗濠と東京駅方面13:52桔梗濠に建つ「桜田巽櫓」城の隅角に造られた監視と防御を目的とする櫓が「隅櫓」ですが、江戸城で現存する唯一の隅櫓になっている。桜田巽二重櫓とも、単に巽櫓とも呼ばれている。関東大震災で損壊したのちに解体して復元し、往時の姿をとどめている13:53内堀通りの交差点、一般参賀を終えて帰る人で道はいっぱい。JR東京駅へは迂回した方がよいと交通警察が説明13:56皇居前広場方向。15時が最後のお出ましのため、行幸通りの参賀の受付を終えていた帰宅後のニュースで、今日の一般参賀には開門前には既に5万人の参賀者が訪れていたと。また、今日一日の一般参賀者は14万1130人で、気温も上がり121名が熱中症で収容されたとの報道。私はこの後、東海道53次に関連した江戸城のスタンプを、和田倉休憩所で再度頂き、将門首塚、日本橋を訪れて帰宅した。東京ではヒョウが降ったと報道していたが、皇居の周りでは雨も降らず。この日の歩行数は11,800歩で、ゾロゾロ歩きであったため疲れた一日でした。5日の朝日朝刊から。今日は朝10時から一時間ごとに六回宮殿のベランダに立たられたと END
2019.05.06
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府中宿の駿府銀座発祥の地から安倍川を越えて、丸子宿の入口にあるJR安倍川駅へ。3/15(金) 16:04旧東海道(県道208号線)を丸子宿へ16:07駐車場の上にある「津島神社」所在地:静岡県静岡市葵区梅屋町4-1二階が神社で、おみくじも自動販売機でユニークなシステム新通りの旧東海道16:15ここの神社も二階にある「秋葉神社」所在地:静岡県静岡市葵区新通1-8-1516:19県道208号線沿いにある、「府中の一里塚」所在地:静岡県静岡市葵区本通8-4-7一里塚の説明板だが判読できず。残っている一里塚は少ないと。市内長沼、本通八丁目、丸子、??、四?か所に設置されたが、いずれも現形をとどめていない。本通りの一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものであると県道208号線から振り返る16:25県道208号線から旧東海道の新通りへ戻る。たい焼きが美味しそうだったが16:28旧東海道の新通りを直進して、この交差点を右折16:29この先の安倍川橋手前で、旧東海道の新通りと県道208号線が合流する16:30県道208号線の弥勒(ミロク)交差点正面は「川根本町」方面、右は県道208号線県道208号線の弥勒交差点で安倍川橋方向16:31葵区弥勒、安倍川橋近くにある弥勒緑地にある安倍川架橋の碑この石碑は、宮崎総五氏が社会事業のためにと、明治7年に多額の私財を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治41年に建てられた由比正雪公之墓趾夢舞台東海道道標「弥勒(MIROKU)」道標には丸子宿 宿境まで十六里(1.8km)府中宿 宿境まで二町(0.2km)弥勒歩みの跡(案内図)弥勒の町には、近世以降の歴史の中で「由比正雪墓趾碑」、昭和初めの小学校4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」、溺死や剣難者のための「慰霊碑」・・・・・をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されている江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で『正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を”安倍川餅”という。これが「弥勒町」の名の由来となった』と記されている16:36弥勒緑地から旧東海道の新通りを振り返る県道208号線沿いに「駿府キリシタン殉教之碑」慶長17年(1612)3月、徳川幕府はキリシタン禁教令を発して原主水、おたあジュリアン直臣のキリシタン武士や侍女を駿府から追放し、当時二つあった駿府の教会を破壊した。禁教は次第に強化拡大され、慶長19年3月には町人キリシタンの中心として、八名が逮捕牢送りとなり、棄教を迫られた。・・・・・・・・・・・16:37元祖 安倍川餅「石部屋(セキベヤ)」休みであったが、安倍川餅は当初は餅に黄粉をまぶしただけだったが、貴重品の砂糖を使ってから評判になり、慶長年代には名物になっていた。家康が近くの金山に巡視に行ったときも、この餅が献上されたという。茶店では一個五文で十個を皿に盛り、客に出した石部屋の駐車場もあり、この横に「安倍川の義父の碑」がある安倍川の義父の碑所在地:静岡県静岡市葵区弥勒2-5この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金百五十両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。昭和4年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川の近くのこの地に碑が建てられた。昭和初めの小学校4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」16:38安倍川橋の手前で、県道208号線を振り返る。この先の右方向は、旧東海道の新通り16:39安倍川橋橋の架かる安倍川は、静岡県と山梨県の境にある大谷嶺・八紘嶺・安倍峠に源を発する。源流の大谷嶺(標高2000m)の斜面は「大谷崩れ」と呼ばれ、長野県の稗田山崩れ富山県の鳶山崩れとともに日本三大崩とされている。一級水系安倍川の本流で、清流としても有名でその伏流水は静岡市の水道水にも使われている。大河川でありながら本流・支流にひとつもダムがない珍しい川であるネットがかけられているが塗装中?この橋は、静岡県内の4大河川(富士川・安倍川・大井川・天竜川)に架かる最初の橋として完成した。橋の建設には、失業した川越人夫を助ける雇用対策の側面もあったようです95年前の安倍川橋の工事風景大正11年3月に工事が着工され大正12年7月に安倍川橋が架けられた。この時の総工費は上記から当時の金額で、594,000円であった。工事期間は1年4か月と、今では考えられない工期である!大正から現在へと受け継がれる95才の安倍川橋。安倍川橋の歴史。1,明治4年(1871)6月、安倍川の川越人足が廃止になることに伴い、渡し船を配置する ことになったが、秋冬(10~2月)は川の水量が少ないため、この期間に使用するため の木製の仮橋を架設した。2,明治7年(1874)3月24日、本設の木橋が完成し「安水橋」と命名。全長509m。総工 費は当時の金額で7,000円。通行料は一人につき4厘。3,明治29年(1896)10月、県に移管され、通行量が無料となる。4,明治36年(1903)4月、架け替え(木橋)、総工費は当時の金額で14,900円。5,大正12年(1923)7月23日、鉄橋(トラス橋)に架け替え。「安倍川橋」に改称、総工 費は当時の金額で594,000円。6,昭和43年(1968)4月、歩道橋を新たに設置。7,平成2年(1990)3月、右岸側一部(2径間分)架け替え。富士川、大井川と同じような鋲止め大正12年に完成した現在の安倍川橋は、橋の長さ・桁の数で日本有数のボーストリングトラスト橋である一週間前(3/8)に渡った、富士川橋も同じような構造であった16:45安倍川橋から下流の新幹線3月の初め頃は水がなく渇水状態であったと。安倍川にはダムが一つもない為水量の変化が激しいのだと、このブログ作成時に知る16:47安倍川橋西、ここまでの歩行数は37,100歩16:51橋を越えたあたりは「千手の里 手越」史跡案内があったが、歩行数が4万歩近くなり時間も遅くなったので、JR安倍川駅へ向かうことに。ネットで調べると、1335年の南北朝時代に、足利尊氏と新田義貞が争った「手越河原の戦い」が起きた場所である16:52旧東海道(県道208号線)17:01国道一号線「手越原東交差点」の丸子宿方面同交差点から国道一号線の駿府方面。この交差点を渡り、JR安倍川駅へ向かう17:12東海道新幹線の「横井架道橋」を通って南側へ。東京駅から171km94m地点の標示17:13左はJR東海道本線、右側は東海道新幹線17:17ひたすら歩き、JR安倍川駅へ17:19ようやく安倍川駅に到着17:20JR安倍川駅に到着17:21改札は、一日乗り放題の「青春18きっぷ」で入場改札を入いりビールを買いたかったが、売店もなくあきらめてホームへ下りる藤枝方面、次回はこの方向から帰ってくるのだ!17:28発の熱海行きが入線今日はひたすらJR興津駅からJR安倍川駅まで歩いた。今日一日の歩行数は43,300歩約9時間の道中でした。帰りの乗車券は青春18きっぷを利用して、17:28発の熱海行きで帰路に着いた。 興津宿から丸子宿手前ーEND
2019.05.05
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人通りの多い府中宿を散策しながら駿府銀座へ。府中宿は駿河で最大の宿場で、幕府老中直轄の駿府町奉公が支配した。町並みは南北28町(約3km)もあり、家数は東海道の宿場でもっとも多く、宿内人口は大津宿に次ぎ二位、問屋場には貫目改所が併設された。幕府公認の遊郭があったのは府中宿だけ。3/15(金) 15:36上伝馬本陣 脇本陣跡駿府貫目改所跡この辺りにいろんな跡が集中している。駿府貫目改所、問屋場駿府城廻りの町割り図幕末頃の駿府伝馬町鳥瞰図夢舞台東海道道標「府中宿」道標には丸子宿 宿境まで一里三里(4.3km)江尻宿 宿境まで二里二十二町(10.2km)15:37道標は「上下伝馬町」二軒の本陣と脇本陣、問屋場・貫目改所の宿場の機能が設けられ、数十軒の旅籠屋などが軒を連ねていた。町内には江戸時代に朝鮮通信使が来日した際、従者の休憩所にあてられた法伝寺や、新光明寺があります。また、東征軍参謀の西郷隆盛と勝海舟の命を受けた山岡鉄太郎(鉄舟)とが江戸城の無血開城を決めた会見の場が静岡市の史跡に指定されている。明治2年に静岡宿と改められたが、大正4年には再び伝馬町になった15:38この辺りは、静岡鉄道の新静岡駅もあり人通りが多い伝馬町の歴史は、慶長14年(1609)に家康公が駿府を町割りして、東海道53次の宿と定めたことに始まる。宿には本陣、脇本陣、問屋などが置かれ旅館や商家が軒を連ね街道を往来する大名行列や旅人により賑わいを呈した。明治以後も静岡宿と行ったが、明治22年市制が布かれ、静岡市伝馬町の誕生となった街角に陶器のモニュメント15:39静岡東急スクエア所在地:静岡県静岡市葵区伝馬町6-115:40静岡市指定史跡「西郷・山岡会見碑」所在地:静岡県静岡市葵区御幸町現在は再開発により石碑と説明文しか残っていないが、この地で江戸城無血開城等の下詰めの話し合いがされた場所西郷・山岡会見の地慶応4年(1868)3月9日、旧幕府方を平定しようと駿府まで軍を進めた官軍参謀・西郷隆盛のもとへ、勝海舟からの手紙を携え山岡鉄舟が乗り込んだ旅籠・松崎屋源兵衛跡。この会見は勝と西郷の江戸城無血開城談判の予備会談で、山岡は徳川慶喜の身柄の善処を西郷に約束させた道標は「新谷町(シンガイチョウ)」新谷町名の由来については、江戸時代の地誌『駿河紀』に、「新谷氏の居宅ありし故に名づく」と記されている。昭和20年、伝馬町と御幸町へ改編され、新谷町の町名はなくなった15:42交差点の角の歩廊に石が置かれ駿府城石垣の刻印入りの石。1)大御所家康が天下普請で築かせた駿府城。 家康が将軍職を引退して駿府城へ移り住むことになり、全国の大名に普請(土木 工事)を命令する『天下普請』によるものであった。2)駿府城の石垣に使われた石 石垣普請に参加した大名が、藁科川沿いの富厚里周辺や長尾川沿いの地域(いず れも静岡市葵区)や、大崩海岸(静岡市駿河区石部から焼津市浜当目)などから運 ばせた3)石に刻まれた印 石垣に使われた石の中には『刻印』と呼ばれるさまざまな文字や記号が彫られ ているものがある。刻印は、石垣普請を命じられた大名、工事責任者、石の所 有権などを示す目印などの諸説があり、その役割は今も研究されていると15:44道標は「江川町」江川町(エガワチョウ)は、江戸時代から昭和20年までの町名で、伊豆国韮山の代官を勤めた江川家の先祖が、天正年間にこの地に住まいしたことに由来するといわれている15:44御幸通りの石碑15:49府中宿には駿河国の国府が置かれ、政治の中心地ゆえ「府中」と呼ばれ、また駿河の府中なので「駿府」ともいった。慶長12年(1607)将軍職を譲った家康は、駿府城を改築して江戸からこの地に隠居した。2年後の駿府城焼失による天下普請で、城の再建とともに安倍川の流路の変更や薩摩堤の築堤、さらに城下町の整備が進められた。基盤の目のように整然とした区割りの中につづら折りのように東海道が整備され、宿外れには二丁町遊郭が設けられた。この町割りが現在の静岡の原型である駿府城慶長10年(1605)将軍職を秀忠に譲った徳川家康は、駿府城を改築。慶長12年(1607)7月、大御所として移り住んだがその年の12月、失火により本丸御殿や天守が焼失。家康は天下普請を命じ、主に西国大名を動員して大規模な平城をわずか10ヶ月で完成させた。城下全体の人口は十万人とも十二万人ともいわれた。日本の首都のようなにぎわいだったという。家康は元和2年(1616)七十五歳で死ぬまでの約10年を駿府城で過ごした。寛永9年(1632)以降は城主を置かず、城代の時代が明治維新まで続いた静岡御用邸跡当地には明治33年から昭和5年まで、皇室の御宿泊所である静岡御用邸が置かれていた。明治天皇は西上の帰途などに度々、静岡御用邸の御宿泊され、御二階から富士山を眺められたと伝えられている。昭和天皇は昭和5年の行幸の際に御一泊され、浅間神社など市内各所を巡幸された。和風木造二階建ての重厚な建物は、惜しくも昭和20年の大空襲により焼失してしまいその後、静岡駅から当地に至る道路は「御幸通り」として往時を偲ばせている15:50静岡市役所静岡庁舎15:513基のガス燈所在地:静岡県静岡市葵区追手町5-5静岡でガス事業が開始されたのは明治43年です。静岡駅前や七間町など市内6か所にガス燈が点され、文明開化を告げる光として市民に親しまれた。この3基のガス燈は静岡市市制施行100周年と市庁舎本館改修工事落成を祝して静岡ガスが寄贈したもの15:52駿府城下町に清流を運んだ『御用水』と『町方用水』。徳川家康公による駿府のまちづくり静岡の由来 & 駿府町奉行所跡 碑静岡の由来明治2年(1869)廃藩置県を前にして、駿府または府中といわれていた地名の改称が、藩庁で協議された。一旦は他の名に決まったが、時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決、同年6月20日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられたと駿府町奉行は老中直属の組織で、町政全般の掌握から訴えなどの裁き、城下の警備や府中宿の管理などまで、駿府の町民生活に直接関わる広範な業務を担っていた。寛永9年(1632)に大手組町奉行として駿府城大手御門前のこの地に設置され、明治元年(1868)までに旗本を主に六十三人が町奉行に任命された。町奉行の配下には、与力八人と同心六十人がいてその職務にあたっていた15:54旧東海道沿いに「里程元標址の碑文」15:55札之辻址の石柱と、札之辻町の道標15:56札之辻町(フダノツジチョウ)この町名は、江戸時代ここに高札場があったことに由来する旧東海道を進む15:59駿府銀座発祥の地の石柱所在地:静岡県静岡市葵区両替町1丁目慶長17年(1612)駿府の銀座は江戸に移された。今日の東京銀座のルーツは静岡にあると16:00旧東海道の「両替町通り」を丸子宿方面へ16:01遍界山 不去来庵(フキョライアン)不去来庵は「伊伝」の屋号で知られる渡邊家の先祖が、光格天皇の御念持仏であった「阿弥陀如来尊像」を祀るために三代にわたって築いた由緒あるお堂です16:02旧東海道の「両替町通り」沿いに「十辺舎一九生家跡伝承地」十辺舎一九生家跡伝承地上る木碑『膝栗毛』で名高い江戸の戯作者、十辺舎一九は駿府町奉行同心 重田興八郎の長男として明和2年(1765)両替町一丁目のこの地で生まれた。享和2年(1802)38歳で『東海道中膝栗毛』を刊行し、一九の文名は大いに揚がり以来文筆一本で生計を立てた我が国最初の職業作家と称された 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.05.04
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静岡縣護国神社から府中宿へ向かう。3/15(金) 14:59旧東海道は国道一号線の「柚木交差点」を横切り南へ15:02JR東海道本線の地下道をくぐり南側へ15:04夢舞台東海道道標「曲金(マガリカネ)」道標には府中宿 宿境まで八町(0.9m)江尻宿 宿境まで二里五町(8.3km)街道沿いにはスイセンがきれいに咲いていた15:06曹洞宗 法蔵寺所在地:静岡県静岡市駿河区曲金2-7-33山門をズームアップ15:10旧東海道(池田街道)を歩き前方に東海道新幹線の高架が見える15:12東海道新幹線の高架下、東海道本線の下を通り15:14国道一号線の「春日一丁目交差点」15:15府中宿東見附静岡鉄道の列車、国道一号線沿いにある西見附まで3600m国道一号線を横切り、斜め右の伝馬町通りへ15:17下横田町平安時代に編まれた「延喜式(エンギシキ)」には東海道の駅の一つに「横田」の名が記されている。古代の「横田」の位置に関してはいくつかの説があるが、この記録から横田周辺が古来より東西を結ぶ要衝であったことがわかる。・・・・・・・・旧東海道の伝馬町通りの道標「下横田」民家のような「延命地蔵尊」15:18歩道のタイル「市の木 ハナミズキ」「市の花 たちあおい」「市の鳥 カワセミ」15:20道標は「猿屋町」猿屋町の由来は、猿引きの住む町であったことに由来します。猿引きとは、正月などに家々を回り、猿に舞わせて一年の安泰を祈る芸能のことで、猿廻しとも呼ばれる15:21歩道にはこんなタイルも「府中の宿散歩道」旧東海道の伝馬町通りを進むこのお寺は「???」15:26横田町西交差点15:27道標は「鋳物師町(イモジチョウ)」東海道府中宿の一画に位置し、町名は江戸時代の初めに、鋳物師が住んでいたことに由来します。「鋳物師町」の名は今はなく、現在は伝馬町・横田一丁目・日出町に分かれている西見附まで、約2.8km。東見附まで、約0.7km府中宿は江戸から約44里(約176km)品川宿から19番目の宿場です。東見附は横田町西見附は川越町にあり、天保14年(1843)には、本陣2軒、脇本陣が2軒、旅籠は43軒家数は3673軒、人口は14,071人の東海道最大規模の宿場でした。伝馬町には、馬の手配や荷物の受け継ぎなど宿場の重要な業務を行う問屋場、大名や公家など身分の高い人が泊る本陣・脇本陣、東海道には3か所しか設置されていなかった公用荷物の運賃を定める貫目改所などがあり、大変な賑わいであった当時の町割り町割りの説明この途中で、カラフルなマンホール蓋を発見。 静岡市の花「タチアオイ」を描いたカラーマンホール蓋。デザインは旧市のものと同じで、中央の市章を新市章に変えたものであると → 弥次さん情報 漫画家の故さくらももこ氏が寄贈した「ちびまる子」デザインのカラーマンホール蓋。 富士山と駿河湾と魚を背景に、ピンク色でコーディネートしたよそ行き風の「ちびまる子」が微笑んでいる。空には「静岡市」の文字も → 弥次さん情報15:28伝馬町通りを進む、左下に石碑がズームアップすると「久能山 東照宮道」の石碑15:29石碑は「花陽院門前町」華陽院(ケヨウイン)門前町町は伝馬町と鋳物師町に挟まれ東海道に面し府中宿の一画を構成している。町名の由来となった玉桂山華陽院は元来智源院と呼ばれ、松平竹千代、後の徳川家康公が今川氏の人質時代に勉学に通った寺として知られている。駿府での竹千代の養育にあたった外祖母源応尼(家康公の生母お大の方の母)の法名に因み、華陽院に名を改めた。華陽院には、源応尼の墓と並んで家康公の五女市姫の墓がある伝馬町通りにある「華陽院バス停」15:31伝馬町東交差点15:32府中宿は、駿河国の国府が置かれ、政治の中心地ゆえ「府中」と呼ばれ、また駿河の府中なので「駿府」ともいった。慶長12年(1607)将軍職を譲った家康は、駿府城を改築して江戸からこの地に隠居した本陣 脇本陣跡府中宿(伝馬町)界隈伝馬町界隈の歴史的な場所として徳川家康公の外祖母が眠る華陽院や、朝鮮通信使の休憩場所となった・・・・・・15:33この行列は「パン屋」、人気があるのか多くの人が列をなしていた15:34伝馬町交差点15:35市街地の消火栓用マンホール2007年「大御所家康公駿府城入城四百年祭」 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.05.03
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この辺りの旧東海道は、JRの東海道本線と東海道新幹線で分断されており、長い地下道を通って線路の北側へ移動、府中宿を目指して歩く。3/15(金) 13:35所在地:静岡県静岡市駿河区栗原この辺りは旧東海道が通っていたが、旧国鉄の拡幅工事のために分断されたそのため、旧東海道は地下道をくぐる東海道は昔この辺りを通り、西は古庄へ東は国吉田へと通じていた。国道一号線(静清国道)が整備されたことから交通量も減り、旧東海道と呼ばれるようになった。昭和37年国鉄操車場の建設により、栗原の西側が分断され、更に静清土地区画整備事による、新しい街づくりが行われたことから、栗原地内の旧東海道もその姿を消したJR東海道本線の地下道、途中ですれ違い用に広いスペースを設置東京から163k160m地点の標識海側から山側へ13:38道路面に旧東海道のマーク東海道本線の北側を西側(東静岡駅)へ向けて歩く13:40この道を斜め右に入り府中宿へ向かう13:41大谷川に架かる「後久橋(ゴキュウハシ)」後久橋を渡り、東海道本線、県総合運動場方面を望む13:42旧東海道の「夢舞台東海道道標」夢舞台東海道道標「古庄(フルショウ)」道標には府中宿 宿境まで三十里(3.6km)江尻宿 宿境まで一里十九町(6.1km)13:46国道一号線の古庄交差点、ここで合流13:47旧東海道(国道1号線)を歩き府中宿へ国道一号線の古庄交差点古庄交差点に「兎餅」跡地13:50JR東静岡駅手前の旧東海道(国道1号線)の「長沼交差点」この交差点を右に入り旧東海道へ13:54曹洞宗 久應院所在地:静岡県静岡市葵区長沼2-1-12本 堂境内に六地蔵13:58長沼一里塚跡14:00静岡鉄道「長沼駅踏切」14:02ここまでの歩数は、自宅から26,000歩。12時もとっくに過ぎお腹も空き「営業中」の札が目に付く。ランチの食べられる魚屋さん「魚進(UOSHIN)」所在地:静岡県静岡市葵区長沼631 TEL:054-261-8626営業時間:10:00~18:30 ランチ:11:00~14:00 定休日:木、日、祝日ランチ:日替り定食、刺身定食、フライ定食、海鮮丼などしらす、干し物などを地方発送もしてくれる店内に入り昼食をとることに、刺身もあり一杯やりたくなるランチタイム14時を過ぎていたが、「鯵と豚玉定食」900円をオーダー。食べ終えて店のおばさんたちと記念写真14:33食事を終えて、店の前から振り返り「静鉄長沼駅」静岡鉄道の列車14:39静岡縣護国神社所在地:静岡県静岡市葵区柚木366平和の道標ここは平和の杜です。このお社は護国神社といい、日本の平和と美しい山河や家族を護るために戦争で亡くなられた静岡県出身の約76,000人の方々を、神様としてお祀りあります。私達が豊かな生活ができるのは護国神社の神様のおかげですと広い境内を進む神紋は「丸に桜」で、明治維新から大東亜戦争に至る静岡県出身の戦没者・殉死者を祀る。社務所の二階は遺品館になっており、戦没者の遺品約4千点が展示されている桜の開花はまだ早かったがその時期は最高では神宮祭主 池田厚子様「お手植えの高野槙」 平成18年11月9日池田厚子様は、昭和天皇の第四皇女で平成天皇の姉。旧岡山藩主、池田家第16代当主池田隆政の夫人である境内配置図境内は約99,000㎡を誇る二の鳥居と拝殿拝殿の前は広大な広場拓魂碑満洲国の崩壊により難民と化し、非命に斃れた(たおれた)人々を偲ふ(しのふ)民族の悲劇に散った、満州開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る神域に拓魂の碑を立つノモンハン事件慰霊碑この碑は、ノモンハン事件に従軍して、散華した戦友の慰霊のために建立したものである。ノモンハン事件は昭和14年5月中旬、旧満州国興安北省ハイラル南方ノモンハンにおけるソ蒙軍の越境に端を発し、紛争が拡大して平原の砂丘を血に染め、日満・ソ蒙両軍が激しい砲火を交えた日本戦史に特筆される事件である。・・・・・・・・・14:49静岡縣護国神社の鳥居、拝殿工學士 市川紀元二銅像。 明治期の陸軍中尉 日露戦争で戦死した最初の学徒出身兵。この像は当初、東京大学の校内に抜刀姿の銅像で建てられたが、第二次世界大戦後静岡護国神社境内に移されたのだと14:54静岡縣護国神社を後にする 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.05.02
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今日から新元号の『令和』。昨日は一日NHKで『平成』からの譲位の放送。昨夜は、『平成』の時代のことを反省しながら最後の夜を一人宴会。新元号も平和で平穏であることを願います!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・江尻宿を後にし、府中宿へ向かう。3/15(金) 12:21旧東海道を歩き、久能寺観音道標。前方左に、以下いろんな説明板があったこの道標は、安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺観音道は、この平川地から有東坂・今泉・船越・矢部・妙音寺・鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道のことである。久能寺は、もと久能山にあったが、甲斐の武田信玄が駿河の国の攻略の根拠地として久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の位置に移築されたものである。明治維新となり廃寺、その後、明治16年(1883)山岡鉄舟が再興、久能寺を鉄舟寺と改め現在に至っているとこの辺りの案内図東海道という言葉は崇神天皇10年9月、四道将軍として武淳川別を東海に派遣した日本書記の記事に始まる。ヤマトタケルが、東征の道に草薙剣の物語を残し、古代大和朝廷確立と律令国家の為の重要路として、防人達が遠く九州に下り、調を積んだ荷駄が大和に向けて通ったことであろう。中世には、いざ鎌倉の為に整備され徳川時代になり、東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。慶長12年(1607)徳川家康公の命により、当時の東海道は今の北街道を通っていたものを七日市場の巴川に七橋(現在の稚児橋)を架け追分上原を通り駿府横田迄駅路(正規の道)となった上原堤「宗丹池(ソウタンイケ)」宗丹池は農業用水の溜め池として、また狐ヶ崎遊園地のボート遊びの場として利用されてきたが、今は釣りや堤廻りの散歩等で、地域の人々の憩いの場として親しまれている。因みに全国に知られている民謡の「ちゃっきり節」はこの遊園地の開園を記念して作られた静岡鉄道のコマーシャルソングであったと12:23割烹「芳川」、お手頃うなぎ料理店所在地:静岡県静岡市清水区上原1-2-20創業180年余り、旧東海道沿いにたたずむいている本店は、西郷隆盛や清水次郎長も訪れたという逸話も残る静岡市内では数少ない日本庭園を持つ老舗の割烹料理屋12:25上原子安地蔵堂(ウワハラコヤスジゾウドウ)所在地:静岡県静岡市清水区上原1-5-30創建は鎌倉時代とされる。長寿・安産・子育・安全の守護として近隣の人々の信仰を集めてきた。武田信玄が駿府の今川氏真を攻めた永禄11年(1568)、武将山県昌景がこの地蔵堂のある上原の地に宿営布陣した記録があるというまた天正10年(1582)家康が武田勝頼を攻めるとき、江尻城の武田方城主・穴山梅雪とこの地蔵堂で会見した。穴山は家康側につき、武田軍は敗退した。お堂は本尊とともに、明治24年(1891)に一度焼失し、現在のお堂は昭和7年(1932)の再建である境内にある保存樹木(まき)樹齢:約230年、樹高:10.7m、枝張り:東西4m、南北7m周囲(目通り):2.2m小さな地蔵堂であるが歴史を語る場所である12:30上原鎮守十七夜宮伝説の碑12:30千手寺所在地:静岡県静岡市清水区上原2-4-52ここまでの歩数は、18,100歩門前左に、句碑の案内上田五千石(1933~1997):長野県出身、・・・・・・・石碑には「柚子湯出て 慈母観音の 如く立つ」 上田五千石の作品千手寺本堂門前で休憩をして府中宿へ向かう(12:40) 12:47静岡市立清水有度第一小学校14:48県道407号線と合流交差点脇に、夢舞台東海道道標「有度(ウド)」道標には府中宿 宿境まで一里二十六里(6.8km)江尻宿 宿境まで二十四町(2.6km)12:49史跡 東海道草薙一里塚狸八相縁起身 丈:10尺(3.3m)、重 量:500kg と大きい狸13:00旧東海道(県道407号線)の先に草薙神社の大鳥居が見えてきた草薙神社の大鳥居所在地:静岡県静岡市清水区草薙1-19草薙神社は大鳥居から離れているので素通り(すみませんでした)13:04JR草薙、静鉄草薙駅辺りの、高層マンションと静岡銀行ビルJR草薙、静鉄草薙駅方向13:05旧東海道はこの地下道(県道407号線下)をくぐり南側へ進み右折する13:17谷田山 東光寺所在地:静岡県静岡市清水区谷田9-15小さいお寺だが落ち着いたきれいなお寺で、早朝坐禅会をやっていると門前に立つ「葦葉(ロヨウ)達磨大師像」葦葉達磨大師像について菩薩達磨大師(ダルマさま)は、今から約1500年前、インドの香至国の王子としてお生れになられました。60歳で中国に渡り、少林寺で壁に向って九年間坐禅を続けました。実践を通したダルマ様の布教によって「禅」の教えは中国に広まった。その教えが後に日本に伝わり、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗となった13:18旧東海道を府中宿方面に向かう先に、東名高速道路の高架橋が見えてくる13:21東名高速道路の高架橋下を通る耐震補強された橋脚東名高速道路の東京方面カラーの消火栓マンホール。カワセミ(翡翠。静岡市の市鳥)が消防士の姿で、消火ホース、AED、救助ネットを持って急いで走っている姿が描かれたユニークなデザイン(弥次さんから)13:25秋葉山への石の除夜燈13:28静岡県総合運動場の「硬式野球場の照明塔」13:31静岡鉄道「県総合運動場駅」ここまでの歩行数は、23,000歩旧東海道は、踏切の手前を左折13:32道路の歩道に埋められたタイル、近くに総合運動場があるだけにブロンズ像「はばたき」作者は???13:35JR東海道本線の線路脇にある「旧東海道記念碑」 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.05.01
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今日は平成最後の日です。今回の「令和」への元号変更で経済効果が5兆円あるとか。新年号の時代も平和で災害が少ないことを。旧東海道を歩き江尻宿(現在の静岡市清水区)の稚児橋から府中宿へ向かう。3/15(金) 11:20魚町稲荷神社。所在地:静岡県静岡市清水区江尻町14-9境内には巨大なサッカーボールの石碑がある永禄11年(1568)12月、駿河に攻め入った武田信玄は翌年、江尻城を築いた。その後天正6年(1578)当時の城主・穴山信君(梅雪)は城を大改築し、城を鎮護する神として稲荷社を造営した。江尻城は関ヶ原の合戦後に廃城となった鳥居と本殿本殿横に巨大なサッカーボールの石碑日本少年サッカー発祥の碑。清水エスパルスの選手が、シーズン前に必勝祈願に訪れることで有名昭和30年代、日本のサッカーは、いわゆる御三家と呼ばれた広島、藤枝、浦和を中心に展開していた。その頃清水は、どこにでも見られるごく平凡な地域の一つであった。昭和31年、ここ魚町稲荷神社に隣接する江尻小学校にサッカー好きの新任教師(堀田)が赴任した。その日から先生は子供達と毎日運動場でボールをけった。ところが当時江尻小学校には ”ボールを、足で蹴ってはいけない” という校則があった。しかしサッカーの魅力にとりつかれた子供達の様子を見て、校長先生も許可をした。これが「日本で初めての少年サッカーチーム」を生むきっかけになった・・・・・・11:23江尻城跡昔この江尻小学校および中部電力清水営業所の敷地周辺に江尻城(小芝城)があった11:29旧東海道に戻り。スイーツの「河童の屁」の店舗11:30巴川に架かる稚児橋旧東海道の「江尻宿木戸跡の碑」方向巴川の下流方向、欄干には河童。巴川に架かるこの橋は、家康の命により慶長12年(1607)に架橋された。渡り初めをしようとした際に、川の中から河童の稚児が現れたという伝説から橋の名前が江尻橋から稚児橋になった。ここから沼津行きの船が出ていた橋の四隅に立つ河童男の子の河童女の子の河童11:36入江二丁目交差点、旧東海道はここを右斜めに入る11:37旧東海道を府中宿方面へ歩く、左側に旧東海道の道標「法岸寺」入り口旧東海道の道標「法岸寺(ホウガンジ)」入り口浄土宗 法岸寺所在地:静岡県静岡市清水区入江南町3-3311:39白壁の家は「?餅」11:39旧東海道沿いにある「慈雲禅寺」臨済宗妙心寺派 慈雲禅寺所在地:静岡県静岡市清水区入江2-2-30慈雲禅寺は今からおよそ四百数十年前(十六世紀末)一安禅師によって、聖観世音菩薩を本尊として開創された臨済宗妙心寺派の禅寺である。臨済宗は、お釈迦様の正法をを受けつぎ、初祖達磨大師、宗祖臨済禅師、白隠禅師に及ぶ禅宗で、自心佛であることを信じて坐禅に励み、本当の自分にめざめ脚下を照顧めて生きることを信条にしている長泉智牛和尚之墓所長泉智牛和尚は、豊後国(大分県)に生まれ、白隠禅師に師事した高僧、常に農業の振興につとめ、当時やせ地に悩む三保の農民を救うため、遠く九州からサツマイモの苗を取り寄せ農民にすすめた。サツマイモは砂地でも良く育ち、たちまち三保全土に広がった。そして、慈雲寺の芋和尚と親しまれ、長い間初穂七俵を贈る船が出されたという。入江小学校発祥之地。明治5年(1872)学制発布に基づき、翌6年本堂に入江小学校の前身である入江学舎が創立されたが、その運営は困難を極めた。その中で、時の住職端道和尚は、読み書きを学ばせ、体操の代わりに縄をなわせ、女子には子守をさせながら、畑の桑をつませて養蚕を行い、機織りをし、その利益で筆や紙を買い学校を続けたという八ッ石慈雲禅寺の本堂本堂の扁額は「慈雲寺」境内にあった摩尼車(マニグルマ)。摩尼(マニ)とは、インドの古い言葉で、無垢・離苦如意を意味し、宝珠の総称です。宝珠には、不幸・災難を除き、濁水を清水にする不思議な力があるとされている。心静かに、念じながら、回してくださいと山門からの本堂11:44江尻宿木戸跡の石柱11:45旧東海道の店頭に「祝 静岡市民栄誉賞受賞 さくらももこさん」の貼り紙が。そう言えばこの辺りに生家があるのでは?11:47「江尻宿」案内板入江3丁目交差点11:48旧東海道は、県道197号線「入江富士見線」を横切る。三保・日本平方面で、静鉄「桜橋駅」へ11:51清水銀行追分支店手前の交差点から、国道1号線方向清水銀行追分支店旧東海道を振り返る、江尻宿方面旧東海道の前方に「追分羊かん 本店」の看板12時になりお腹も・・・・・11:55追分羊かん 本店所在地:静岡県静岡市清水区追分2-13-21ここまでの歩数は、自宅から16,700歩この地方に伝わる羊かんの由来は、江戸初期までさかのぼる。ある砂糖商人が箱根の山中で旅に病める明(中国)の僧に出会い、手厚く介抱した。やがて病が癒えた僧は深く感謝し、小豆のあつものづくりの秘技をねんごろに伝授して旅立っていったという。街道沿いの追分付近にある追分羊かん本店のほか、市内各所で購入可能最中を一個食べながら、美味しいお茶を頂いた。奥には団体客用の部屋も12:01店内でお土産も購入可能追分羊かん 本店前にある道路案内12:04遠州都田の吉兵衛の供養塔春まだ浅き文久元年(1861)、正月15日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み、里人が供養塔を最期の地に建立して俠客の霊を慰さむ。此處を訪れる諸士は彼のために、一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろうと12:06夢舞台東海道道標「元追分」道標には府中宿 宿境まで二里七里(8.8km)江尻宿 宿境まで七町(0.8km)12:07金谷橋昔からこの辺りは、東海道と清水湊への道「志ミづ道」の分岐点であることから「追分」と呼ばれていた追分と金谷橋の今昔周囲には数軒の家が並び街道の両際は松並木が続き、その両側には田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが、重い荷物を運搬する牛馬は橋横の土手を下り渡川して土手に上り街道に合流した。古来、牛道と言われた名残りを今にとどめている東海道の史跡であると12:12静岡鉄道のちびまる子電車踏切手前に「追分」道標JR東海道本線の興津行き電車12:14JR東海道本線と静岡鉄道の追分踏切を渡り府中宿へ 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.04.30
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西園寺公望公の別荘「坐漁荘」を見学後、一部解りずらい旧東海道を歩きひたすら江尻宿を目指す。3/15(金) 10:12国道一号線と合流する場所にある「延命地蔵堂」所在地:静岡県静岡市清水区横砂東町24横砂の延命地蔵菩薩と常夜燈横砂・延命地蔵尊とは『病は治せるが寿命は延ばせない』との無理な願いを叶えてくれるのが、横砂の 延命地蔵 さんです。その昔は獅子舞の縁起もあって、地域・家庭の安全・健康と五穀豊穣を祈ったと伝えられています10:15旧東海道(国道1号線)の「横砂自治館前交差点」10:18臨済宗妙心寺派「東光寺」の山門と本堂所在地:静岡県静岡市清水区横砂本町20-31境内にある不動尊旧街道線沿いの「臨済宗妙心寺派 東光寺」の石柱10:21旧東海道(国道1号線)、横砂交差点10:26 旧東海道(国道1号線)を歩き、興津宿方面を振り返る庵原川に架かる橋から、上流に東海道新幹線の陸橋。ふと見ると川に赤い水が流れ込んでいた!水質に問題はないのか餡子のような赤い水? 現役時代の仕事から気になるどこの工場からの排水なのか?10:29日本橋からのキロポスト、距離は168km。ここの南側の方向に合同酒精があり、若いとき設備を納入しよく訪問したものです。まさかこの年になり、ここまで歩いてくるとは感慨深いものです!庭先の辛夷が満開10:32袖師ふるさとの路「延命地蔵」10:34旧東海道(国道1号線)の袖師交差点袖師(ソデシ)交差点の歩道橋へ10:36袖師交差点の歩道橋上から清水港方面、JR東海道本線との地下道10:38夢舞台東海道道標「袖師ヶ浦」道標には江尻宿 宿境まで六町(0.7km)興津宿 宿境まで二十三町(2.5km)10:43日本橋からのキロポスト、距離は169km。先程のキロポストから、1kmに14分を要した169kmのキロポストから前方に「辻町交差点」。旧東海道を歩いていると、時々神社&お寺には必需品の「畳店」を見かける袖師ふるさとの路、松原観音堂、津嶋神社津島神社10:45旧東海道(国道1号線)の辻町交差点。旧東海道はここから国道一号線からそれ、右側に入り江尻宿へ。所在地:静岡県静岡市清水区辻3-7辻町交差点にある「細井の松原無縁さんの碑」。辻村の東辺りから西久保にかけて、細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年、松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。平成13年、東海道400周年を記念しこの石碑を建立細井の松原の沿革。夢舞台東海道道標「細井野松原」もあったが撮影を忘れました旧東海道へ入り、辻交差点を振り返る10:58旧東海道「江尻宿」。江尻は巴川の尻、即ち下流という意味の地名で、巴川が作る砂州上にできた清水湊の近くにある宿場。江戸から18番目の宿場である。戦国時代の今川氏支配の頃は三日市が立ち栄えた。その後、武田信玄が今川氏に代わり支配し江尻宿を築くと、城下町となり職人の町として発展したその後、家康が支配し東海道設定時に江尻宿の道筋を現在の銀座通りに変えて、慶長12年(1607)には巴川に稚児橋を架橋し、町並み長さ13町(約1.5km)の宿場町となり、人口約6,500人は駿河では府中宿に次ぐ大きな宿場だった10:59前方に国道一号線の「江尻東交差点」江尻東交差点から南側にある「JR清水駅」を望む。現役時代にはよく来たものです11:01江尻東交差点を横切り旧東海道へ。町名の由来「鍛冶町」。永禄12年(1569)武田信玄が江尻城を築き江尻は城下町として発展した。その後天正19年(1591)城下町から出火して周囲の民家を焼き尽くし、この火事が原因で鍛冶職とか鋳物職のような火を扱う家屋を海岸近くの現在の地に移したといわれている江尻宿には二十七戸の鍛冶職があり、その大部分が鍛冶町にあったといわれる。初めは江尻城の御用鍛冶として刀剣類を作り、その後刃物鍛冶鍬や鎌を作る農鍛冶となった。このように鍛冶職人が多く住んだので鍛冶町と名づけられた。城や宿場のあった町に数多く鍛冶町の名が残されている11:03旧東海道沿いに、串焼専門店「東海一の木内もつ焼き」11:09旧東海道を歩きこの先を右折。正面に巴川に架かるJR東海道本線の架橋が見える右折して巴川に沿って北上清水にはよく来ているがこの通りは初めて歩く、夜の飲み屋が少ないのか?11:10夢舞台東海道道標「江尻宿」道標には府中宿 宿境まで二里二十三里(10.3km)興津宿 宿境まで一里四町(4.4km)11:12通りにモニュメント「蒼空へ」 1998.3 松永 勉 作ペットショップ「小松屋」犬の美容室の看板11:14歩いてきた道を振り返る大きな捕鯨のモニュメント11:16江尻宿寺尾本陣跡、明治天皇行在所跡11:17東海道「江尻宿(18番目)」宿には、人馬や物資の移動を管理する問屋場を中心に、大名の宿泊する本陣三軒、それに準ずる脇本陣三軒と、一般の旅籠屋が五十軒程たち並び、人びとの往来で栄えていた、江尻宿の昔の姿であった。清水湊は江戸や上方との中継港であり、また背後の駿府へ物資を供給する重要な湊で大型船が出入りした。また駿府城の天守下から巴川を通って清水湊まで水路が開削されていた。明治時代はお茶の輸出港として栄え、現在は国の特定重要港湾、国際貿易となっている「江尻宿」案内板11:18旧東海道「魚町交差点」。直進すると江尻城跡があるが、旧東海道は左折して稚児橋へ交差点脇に道路標識 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.04.29
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清見寺の参拝後、江尻宿へ向かう。3/15(金) 9:02仏殿の左奥にある「聖観世音菩薩銅像」その奥に五百羅漢五百羅漢石像釈迦如来の御弟子で仏典の編集護持に功績のあった方々です。江戸時代中期(天明年間)の彫造にして作者不詳形相悉く神異非凡の作であります。此の羅漢尊者の群像は島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっている昔の同僚に似ている・・・・・この難しい表情は、誰かに・・・・・五百羅漢の横に土筆が仏殿横から山門を仏殿の扁額臥龍梅(ガリュウバイ)大方丈の前庭にある臥龍梅は、昔を懐かしんだ家康が訪れた際に接木したもの臥龍梅の咲き残り梵 鐘正和三年(1314)鋳造されたもので、謡曲「三井寺」に出づ、又、天正十八年(1590)豊臣秀吉が韮山城攻伐の際、陣鐘に用いた。総 高:140.2cm、鐘身高:113cm、口 径:80.7cm韮山城攻伐の際、この梵鐘を陣鐘に用いたとのことだが、現地へ移動するのが大変であったのではと思うが寺から眺める清見潟は絶景をうたわれたが、東海道線の開通で境内は分断され、戦後は清水港の拡張や海岸の埋め立て、道路の建設などで景観は失われたと弥次さんが御朱印を頂きに「書院」へ駿府静岡市「歩いて歴史探訪」(由比・蒲原エリア)の案内咸臨丸 殉難碑石碑の文字は「榎本武揚 書」仏殿、大方丈石塔は「山梨治重 顕徳塔」9:21清見寺の山門を出て東海道本線の陸橋、清水港のクレーン、後方に日本平9:23清見寺の西側にある「瑞雲院」臨済宗妙心寺派「瑞雲院」寒さくら 清見の寺に 唯た一枝 忍ぶむかしに ある如く咲く 与謝野晶子薄寒桜(ウスカンザクラ)、左側の木オオシマザクラとヒザクラとの雑種といわれている。毎年開花の時期は早く、1月中旬ごろに、ピンク色のきれいな花を咲かせる。この樹は、大正元年(1912)ワシントンのポトマック河畔に尾崎行雄東京市長が桜の苗木を寄贈するため、興津果樹試験場にそれの育成を懇請された際、熊谷八十三技師が担当し、東京荒川堤から収集した五十九種の苗木の一種である。この薄寒桜は育成本数が少ないため、アメリカ行きの選からもれたものを興津試験場に定植することになった。その内の一本は当山にも分興された。尚、現在の薄寒桜は、更にその孫にあたる清見寺を分断する東海道本線山門を見ながら旧東海道(国道1号線)へ9:29旧東海道(国道1号線)とJR東海道本線の間に建つ総門海への道は旧東海道からの「大正天皇在東宮海水浴御成道」9:31旧東海道(国道1号線)樗牛は清見潟の風景をこよなく愛し・・・・・・の石柱9:32旧東海道沿いにある老舗の魚屋「魚格出口魚店」所 在 地:静岡県静岡市清水区興津清見寺町97 tel:054-369-0336 営業時間:9:00 ~ 18:00 定休日:土曜日ネットで調べると、【1日〇〇枚売れる!? 人気の魚屋さん】と。揚げはんぺん(1個/100円)が週末になると多くて500枚ぐらいは売れる大人気の商品骨ごとすったキスとハモのすり身を混ぜ合わせて作ったはんぺん9:33旧東海道(国道1号線)を歩き、前方に興津坐漁荘(オキツザギョソウ)の標識が興津坐漁荘(オキツザギョソウ)の標識9:3510時からのオープンであったが早めに入れて頂く。入館料は無料。坐漁荘は、明治・大正・昭和にわたる大政治家で最後の元老・西園寺公望が晩年を過ごした旧宅。大正9年(1920)に建てられ、亡くなるまでの22年間を過ごした庭からの別邸。当時の建物は明治村に移築保存されているが、この地にある現在の建物は平成16年に復元し公開されたものです(パンフレットより)居間の前にある広縁からの庭。敷地約380坪(1250㎡)、二階建て140坪(460㎡)。前庭は清見潟を望む景勝地だった邸宅内には西園寺公の写真が飾られ暖炉もある応接間二階にある「鴬張り廊下」、歩くと・・・・・・埋め立てられる以前の坐漁荘の前浜の景色薩埵峠 芳盛 作実際にはこのようには見えないが!江尻 三保遠望興津駅上りホームにて列車を待つ、西園寺公望公 昭和10年頃女中頭 お綾さん大正13年、西園寺家小間使いとして入り、昭和3年から女中頭。老公の身辺を世話し、外出に付き添い、昭和15年の最後を見取る9:52ボランティアの方の説明を聞く。いろんな資料が展示されていた10:00清見潟のバス停10:03ここを左折して「井上馨の像」へ、高架は静清バイパス10:03井上馨候之像桜が咲けば最高であったが、まだ硬い蕾であった「碑文のよみかた」の説明板があるが読みずらい。井上馨の別荘が先で、その後大磯に別荘があった西園寺公望がこちらに来たと井上馨候之像日本の武士(長州藩士)で、政治家、実業家。鹿鳴館時代を作り大臣を歴任しながら首相になれなかった男。伊藤博文、山縣有朋と並び「長州三尊」と称された10:09歩いてきた道を振り返る。旧東海道は国道一号線から民家の路地へ入る、案内が明確でないのでわかりずらい同場所から江尻宿方面を望むが、旧東海道はわかりずらい。弥次さんのiPhoneの道案内で歩けたが・・・・・・10:11JR東海道本線「横砂踏切」旧東海道はこの踏切を横切って国道一号線へ合流する 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.04.28
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今回は延べ13回目の旧東海道道中記です。JRでの交通費が近距離きっぷ範囲を越えたので、昨日14日に購入した「青春18きっぷ」を利用して、3/15(金)その一回目の弥次さんとの道中記です。普通電車を一日乗り放題できる「青春18きっぷ」。有効期間が4月10日までのため計画的に利用する必要がある3/15(金) 6:01朝は寒かったのでダウンをはおり、駐輪場に自転車を預けて茅ヶ崎駅北口へ向かう6:05 日の出前の茅ヶ崎駅北口8:16 三島駅で乗り換えてJR興津駅へ到着、今日も晴天だ!旧東海道(国道1号線)へ向かう8:31旧東海道(国道1号線)沿いの、昔からの老舗「米屋 高山仙吉商店」きれいな瓦の歴史を感じる旧家で、室内には昔からの道具や日用品が展示されておりお米と暮らしの小さな博物館になっている8:32日蓮宗 理源寺所在地:静岡県静岡市清水区興津中町193本 堂境内には「稲荷堂」目の神様『意眼さん』若狭の国宮津城主(京都)の子。盲人、身延山日朝上人の許に参詣の折この地にて死す。廿九歳、短い一生であったが、目の不自由な人々のために尽くす。『日朝さん』『意眼さん』として尊敬される。お墓に元禄十年三月七日とあり、毎月七日におまつりが行われている境内の奥に咲き始めた、カンヒザクラ(寒緋桜)8:37現在も営業している、東海道興津宿、割烹旅館「岡屋」8:38興津宿興津は薩埵山、清見寺山が駿河湾に迫り交通の難所だったので、坂東(関東)から北の備えとして中世には関所(清見関)が置かれた宿駅であった。また身延山へ向かう身延道との追分があり、交通の要衝でもあったので慶長6年(1601)東海道の宿場となった「興津宿」案内図明治元年十二月興津宿宿割地屋号。宿の町並みは、東は身延道標あたりから西へ10町55間(1.2km)の長さだった興津宿の由来東海道53次のうち17番目の宿場として栄えた興津は、興津郷と称されていた。地名のいわれは「宗像神社」の興津宮を当地に勧請したことに由来するこのあたりの海岸一帯では製塩業が盛んだったので、身延道は日蓮宗総本山の久遠寺への参詣ばかりでなく、甲府や信州への塩の道でもあった。江戸中期には興津川流域で和紙の生産がはじまり、駿河和紙として興津はその集散地として栄えた。名物は興津の海で獲れる甘鯛。興津鯛と呼ばれ、家康の大好物であった。また興津川の鮎の塩焼きも有名。清見寺門前の東海道筋にあった「藤の丸膏薬」の万能膏薬は美少年が着飾って並んで売り、男色の相手もしたので人気があった興津町役場跡昭和56年6月29日「清水市合併 二十周年記念」石碑夢舞台東海道道標「興津宿」道標には江尻宿 宿境まで一里(3.9km)由比宿 宿境まで二里十一町(9.0km)8:42日蓮宗 耀海寺(ヨウカイジ)興津宿の東本陣・西本陣の菩提寺。JR東海道本線の北側にあるので参拝はやめる8:43興津宿東本陣跡の石柱8:45旧東海道(国道1号線)の江尻宿方面脇本陣水口屋跡所在地:静岡県静岡市清水区興津本町36江戸時代には興津宿の脇本陣として旅籠を営み、明治以降は皇族、政治家、財界人、小説家、画家など各界著名人の別荘旅館として有名になった。現在は「水口屋ギャラリー」として当時の資料を展示している振り返り由比宿方面8:47商店街のシャッターにイチロー選手、うまいもんだ!8:47興津宿西本陣跡の石柱8:52日本橋から166kmの道標8:53旧東海道(国道1号線)沿いの山の手に「清見寺」8:54清見寺前にある「東海道 興津宿」の説明板興津の歴史、東海道についておきつの街の観光案内図清見ヶ関跡坂東(関東)から北の備えとして中世には関所(清見関)が置かれた場所上記案内板「清見ヶ関跡」、英語、韓国語で表示旧東海道(国道1号線)から海への、大正天皇在東宮海水浴御成道の石柱清見寺総門所在地:静岡県静岡市清水区興津清見寺町418総門の向こう側を東海道本線が横切るという珍しいお寺(従って境内に踏切がある)JR東海道本線の静岡方面JR東海道本線の陸橋からの「清見寺山門」白鳳年間に清見関が設けられたとき、その守護として仏堂が建立されたのが始まりといわれる。本尊は観音菩薩。江戸時代は東海道筋の名刹として知られた。徳川家康は今川氏の人質として駿府にいた幼少時、この寺の住職太原和尚(第一世)より教育を受けたため「家康公手習之間」がある山門前に六道地蔵尊六道地蔵尊は、人はこの世を終わって後、冥途の長旅をして六道の辻に出ると云う、而して生前の行いに因って、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上動)の内何れかを自から選ぶと云うのです。地蔵尊は常に此の辻に立って冥途の人の心のささえとなられている山門の横に、「田中清左衛門逆修塔」鐘楼&書院臨済宗妙心寺派 清見興国禅寺の仏殿大方丈の大玄関9:01この地蔵尊は薄幸な夭児の霊と世の交通災害の為、尊い生命を失った児童の霊をなぐさめようと発願して建立されたもの 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.04.27
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信玄館での昼食を早々に終え近くの「放光寺」へ。4/17(水) 13:08真言宗智山派 高橋山放光寺(ホウコウジ)仁王門所在地:山梨県甲州市塩山藤木2438仁王門にある高橋山の扁額仁王門から境内を望む、花桃がきれいに高橋山放光寺の沿革天正10年(1582)織田の兵火をこうむって一山ことごとく無に帰したが、徳川氏の保護を受け、寛文年間には義定の直子孫保田若狭守宗雪が中興開基となり現在の基礎をなした。寺に保存されている文化財は多く、中でも平安時代の仏像三躯は著名である放光寺は「縁結びと花の寺」として知られており、四季折々の花が咲く。また、事前に予約すれば「名物の精進料理」も食べれるお寺である仁王門から本堂へ、右側に鐘楼堂本 堂本堂前の阿字門、宝物殿本堂前の門から入口方面、右側にはシャクヤクが本堂前に門が二門あり珍しい旅友Kさんが御朱印を頂く左側は阿字門、右側は??門放光寺の駐車場の花桃桜は終わっていたが、毎年多くの人々が除夜の鐘を撞きに訪れる鐘楼堂おじさんたちが駐車場の真ん中に大きな丸いのは「土俵にしては大きいなー?」。ネットで調べると、毎年4月29日に開催される「柴燈護摩火渡り修行」する場所紅白の花桃がきれいに咲き花桃をズームアップ白の花桃境内の花桃出発時間が迫り信玄館へ急ぐ、桜と総門近くのぶどう棚総門の扁額には???国道140号線(雁坂みち)の新隼橋北交差点13:24新隼橋北交差点には「恵林寺」の案内板13:25県道38号線(信玄のみち)。前方側に信玄館駐車場、13:30に次の「ハーブ園」へ向かう。左側に恵林寺がある。乾徳山恵林寺は、臨済宗妙心寺派 の寺院で甲斐武田氏の菩提寺として知られる。前回訪れたので今回はパス13:40ハーブ庭園 旅日記 勝沼庭園所在地:山梨県甲州市勝沼町等々力1736 tel:0553-44-3715営業時間:9:00 ~ 17:30 定休日:年中無休 入園&駐車料金:無料出発予定は、14:30とのことで50分間の滞在。園内には土産物店もあり、肌に良い化粧水やクリーム、目に良いブルーベリーのジュースやハーブティーが買える観光客を笑わせる話し上手なイケメンガイドがついて、園内を案内してくれる前回は12月であったため温室内の案内だったが、今回は園内のチューリップが満開記念写真の椅子観光バスが何台も訪れていた新種のチューリップが満開左が新種で、右は古い種類だとチューリップが満開このマスコット人形の名は?ズームアップしてパンフレットの撮影ポイント菜の花とツツジ5月のゴールデンウイークの後は薔薇がきれいに咲くので、是非来て下さいとブルーベリー『眼』のためのハーブ。白内障・近視・乱視・疲れ目・ドライアイ等の眼に効果があると日本の薬草=日本のハーブshop13:58土産物店の前でイケメンガイドが説明世界で二番目に美味しいソフトクリームと謙虚に書かれているがさて一番は?ナチュラル「ミルクローション」。アトピーなどにも効果があると。「ちびまる子ちゃん」の作者さくらももこさんも使用し漫画に描いて、知られるようになったとブルーベリージュースを、毎朝空腹時に50㎖をゆっくり飲むと目に良いと。1,620円を1,200円にするとのことで、土産用に1本購入14:23出発時間が近くなりバスへ向かうステビア葉をかむと甘みがある、砂糖よりも甘いと14:25ハーブ庭園 旅日記 勝沼庭園を後にする勝沼インタから中央高速道路に乗り、八王子JCTから圏央道を走り茅ヶ崎へ。平日で渋滞もなく順調に走る。15:36厚木パーキングでトイレ休憩、対岸の相模川の堤に咲く芝桜この後、道路の渋滞もなく順調に出発地の茅ヶ崎市民文化会館前に、16:00到着解散していつもの居酒屋へ立ち寄る。参加費6,460円を二人で分担したので、安い料金で一日を楽しむことができた。Kさんありがとうございました。来年はどこへ行けるのか、もう少しルートを変更してほしいものですね。ブログ以外で、デジブックで公開しておりますので訪問していただければ幸いです。「河口湖・甲府バス旅」をクリック願います。 火口湖・甲府盆地の旅ーEND
2019.04.26
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バスツアーの続きです。4/17(水) 9:38フルーツパークの側にある「甲州わさび漬センター」へ前回も立ち寄っており、到着するとおばさんがバスに乗り込み宣伝。何故か前回も同じだが、滞在時間が15分と少なく、この間にお土産を買えと!本日の来客「ツアー」の名札店内入り口にある、試食用の小さなスプーンをとり中に入ると、7種類のわさび漬けがテーブルの上にあり手に載せて試食し放題。好きなわさび漬けを3個選び、店員に渡して購入する(1,100円/セット)。前回もそうであったがつい買うことになりワンセット購入した他にも乾ぶどう、栗まんじゅう等いろんなお土産もあったが時間がなく試食だけで甲府名物「ほうとう」もあったが、9:55には次の訪問先へ移動10:18甲州わさび漬センターを出て、国道20号線を走り「ジュエリー工房」へ。添乗員から、ここの滞在時間は1時間半だとのこと。今回の安いツアーのスポンサーなのか時間が長い10:20前回も来ているので二度目になる「㈱ラッキー商会」所在地:山梨県甲府市湯田2-10-12日本のジュエリーの1/3を生産し、山梨県で最大の地場産業であるジュエリー業界にあって、1937年創業、業界でも屈指の歴史と実績を有しているメーカー。 女性ガイドの説明を聞く、一階ホールに約40,000点のリング型を展示一階から二階への階段横に展示二階ホールで椅子に座り約十分間の説明を聞く。前回もそうであったが、説明が流暢で上手。ダイヤの加工、神明シリカのネックレスをかけると、冷え性・肩こり等がなくなる等々の効果があると。神明シリカは函館近くの山から掘り出している店内に入るとネックレスをかけてくれ、ショッピングの間着用させてくれ血行が良くなるとのことであったが、ちょっと高価(約13万円から)すぎて・・・・・工場内製品売り場では撮影禁止のためポスターを撮影ジュエリーの企画、デザイン、製造、販売のすべての部分を備えて、事業が社内で完結している数少ないジュエリーメーカーである。1988年に中国・大連市に工場を設立、軌道にのり日本人の感性によってデザインされたジュエリーを中国で製造し、全世界に販売するという長期戦略を描いているどの製品も高価であるので、もう必要がない高齢者は控室にて集まり(笑)狭い敷地内に多くの観光バスが停車、観光客の時間調整をしているようだ工場内に咲くハナミズキ11:45までの見学であったが、11:30に出発11:50モンデ酒造㈱所在地:山梨県笛吹市石和町市部476 tel:055-262-3161営業時間:8:30 ~ 17:00 定休日:年内無休ツアーのパンフレットには載っていなかったが・・・・・・。添乗員から滞在時間は30分間、「昼食前で空腹での試飲に注意してください」とWELCOME TO OUR WINE LAND私はもう何度も訪問しているワイン工場であるこの先の製品のボトルラインは撮影禁止エリアこの辺りからは「撮影OKエリア」。音楽を聞かせながら保管していた製品陳列昔の、蒸留器 → 冷却器、と樽モンデのオリジナル製品赤ワイン用ぶどうモンデ酒造自社畑・上屋敷畑「マスカット・ベーリーA」赤ワインの「仕込み方法」「味わい」「良く合うお料理」白ワイン用ぶどうモンデ酒造自社畑・塚ノ越畑「甲州」工場を出ると樽の門から入り試飲&売店へ工場の間に一般道があり、警備員が観光客のために交通整理左側は工場棟土産物店に掲げられた社紋お土産&試飲コーナー飲み放題の試飲買い物を終えバスへ12:20バスに乗り込み、ほろ酔い気分で昼食会場へ向かう12:23JR中央本線踏切12:27フルーツラインを走り甲府盆地12:28山の斜面には桃の花、ぶどう棚12:29万力八幡トンネルの山には、芽吹き前のぶどう畑が広がる12:36国道140号線(雁坂みち)を走り、昼食会場の「信玄館」が見えてくる。所在地:山梨県甲州市塩山小屋敷2311恵林寺近くにあり、前回もここで昼食した12:43信玄館の二階は大食堂で観光バス用のレストラン既に膳は用意され火がついていた。膳はスタンダードの「しゃぶしゃぶとおこわセット」野菜を先に入れて豚肉は後から入れてくださいと説明を受け。ランクアップされた方の膳は、肉が和牛か?おこわが美味しかったが、量が少なかったのが残念!13:02早めに食事を終え外に出る。信玄館前に鎮座する「武田信玄像」。他の店先にも同じような信玄像があったが、果たして山梨県下には何体あるのか?13:05信玄館の近くにある「放光寺」へ所在地:山梨県甲州市塩山藤木2438高橋山放光寺(ホウコウジ)。真言宗の古刹で元暦元年(1184)新羅三郎義光の孫清光の子安田義定が賀賢(ガケン)上人を開山として創建した。戦国時代には、武田信玄の祈願所として篤い崇敬と保護を受けた。往古は、塔頭12末寺70ヶ寺の大寺であったが織田信長の兵火により焼失し、その後慶長年間に再建された。ここには、重要文化財の仏像4件5躯(大日如来・愛染明王・不動明王・金剛力士像)が安置されている真言宗智山派 高橋山放光寺の総門ここの桜の木は満開も終わり。総門から歩いて放光寺仁王門へ13:08民家の庭先に咲く花桃縁結びと花の寺「放光寺」事前に予約すれば「名物の精進料理」も食べれるお寺であるブログ以外で、デジブックで公開しておりますので訪問していただければ幸いです。「河口湖・甲府バス旅」をクリック願います 放光寺境内へ
2019.04.25
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3月頃に旅友のKさんから「以前行った、バスツアーの招待状が来ているので行かないか」とお誘いの連絡があり計画、4/17(水)のツアーに参加した。調べてみると前回は、H29(2017)年12月1日(金)に参加していた。J:COMからの、招待状。招待者は受付時に身分証明書を提示する必要がある。同伴者の参加費は一人\6,460と割安、お料理は「A」のスタンダード。集合:6:30、出発:6:40集合場所:茅ケ崎市市民文化会館前。旅行会社:㈱ステップトラベルパンフレット昼食は「A」:追加無し 「B」:1,620円(税込み) 「C」:2,700円(税込み)訪問場所。①河口湖の桜 ②わさび漬けセンター ③山梨FUJIフルーツパーク ④ファッション工房 ⑤信玄館⑥チューリップパーク(ハーブ庭園)4/17(水) 6:15集合場所の市民文化会館前には既に人だかりが八重桜の桜が満開7:46茅ヶ崎西インタから圏央道を走り、八王子JCTから中央道、河口湖インタへ向かうバスの車内の飾り7:53河口湖インタ手前の車窓からの富士8:10 河口湖へ到着、観光時間は8:40までで30分間。第八回 富士・河口湖さくら祭り期間:2019年4月6日(土)~14日(日)こちらのポスターは「第七回・・・・さくら祭り」とあるが、印刷ミス?会場からの富士と桜青空でないのが残念だが中国人観光客が結婚写真?堤に芝桜が咲きスマホでの撮影今年の桜の開花は、最近の低温で遅れ今が満開サクラと芝桜のコラボもいいゆっくり撮影したいが最近の天気で積雪が多くなっているボートが走り逆さ富士も撮れず満開の桜旅友Kさんも撮影に夢中さくら祭りは終了していたが露天商は営業露出不足で・・・・・・富士をズームアップ8:30出発が8:40のため駐車場へ向かう綾小路きみまろの店がある9:00河口湖から国道137号線(御坂みち)の新御坂トンネルを通り笛吹市へ。中央リニア線の実験線架橋。所在地:山梨県笛吹市御坂町上黒駒この辺りは標高が高いので桃の花が満開山の斜面には、桃の花と菜の花が咲き誇り満開の桃の花9:10山梨FUJIフルーツパーク所在地:山梨県笛吹市御坂町金川原888 tel:055-262-7211営業時間:9:00 ~ 17:00 定休日:年中無休 駐車場:一般・・・約70台三島市の箱根路の登り口にも同じような建物があった今年1月12日(土) 9:00 にオープンしたばかり【いちご狩り予約受付】店先にはイチゴを展示。ツアーのいちご狩り希望者は1200円で姉妹店が、愛知県蒲郡市に「蒲郡オレンジパーク」、三島市に「伊豆フルーツパーク」があり、フルーツ狩り、食事が楽しめる二階にはレストランもある季節により、いちご狩り、メロン狩りが楽しめるもう「令和」のミニ提灯が登場ガラス越しの部屋でバームクーヘンをカットまだ時間が早かったが、たくさんのバスツアーが立ち寄るようだ店内を出るとビニールハウス棟が三島にも同じようなビニールハウスがあったビニールハウスをのぞき見すると段ボールは「らくらく交配」。Kさんからミツバチが入っている段ボール箱で、イチゴ栽培にはミツバチが必須だと水耕栽培ショッピングを終え次の場所へ9:30同じようなバスがあるので乗り間違いをしないようにブログ以外で、デジブックで公開しておりますので訪問していただければ幸いです。「河口湖・甲府バス旅」をクリック願います 甲州わさび漬センターへ
2019.04.24
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昨日に続いてこの後アップする、東海道53次の弥次喜多道中シリーズが長くなりますので、その前に、4月の桜 他のブログをアップします。4/4(木) 朝日新聞から5月1日からの元号は「令和」に決まりましたが、その候補名が新聞に。又「令和」の考案者の名前も同じ日の新聞には「河原を覆うシバザクラ」の記事も、行ってみたいが4/6(土) 14:00 イオンへ買い物にミモザがきれいに咲いていた。旅友から、ミモザはアカシヤ科だが蜜蜂は好まないと高さが15mになる木で、この黄色が何とも言えないフランスのコート・ダジュールでは、この花を利用して香水を生産しているとTVで。南フランスに所在する、風光明媚な保養地と知られる海岸。まだ行ったことがないコート・ダジュールでは、山一面に咲き誇っているとばあさんは買い物を、爺は公園へ、満開の桜を撮影にズームアップして公園内では、桜の木の下で家族、仲間で宴会の最中今年は4月に入ってから寒くなり、花もちが長くなっている染井吉野も満開着物を着た女性も散策市民は桜のトンネルの下を桜のトンネルの下を(2)平成最後の桜見物を楽しんでいたそんな人通りの中で・・・・・・ズームアップこの桜の種類は?ズームアップして蜜蜂は来ないのか?約20分間の撮影で、ばあさんが待つイオンモールへ帰る散り始める桜庭先のアケビの花4/7(日) 11:30 野球のグランドでも4/8(月) 15:00 庭先のマーガレット冬場に霜よけをして防寒対策をしたため、きれいに咲く4/9(火)早朝から家を出て「青春18きっぷ」を利用して、JR掛川駅へ。有効期限が4月10日で、この日で無駄なく5回目の利用青春18きっぷを利用しての効果は、14,850円でした今回は延べ17回目の東海道53次で、掛川宿、袋井宿から見付宿へ。今年の静岡県下は寒く、桜はこの時期が満開であった。この日のブログアップは5月になりますので、一部を先にアップしました。9:45 掛川宿から袋井宿への途中にある満開の桜9:46平将門十九首塚への途中にある「松ヶ岡(旧山崎家住宅)」。明治11年11月1日に「明治天皇掛川行在所」でもある入り口に貼り紙があり、一般公開は毎月第4土曜日10:00 ~ 15:00 で次回は4月27日であった。あきらめて帰りかけたが、折りしも市関係者の方が中におられ、神奈川県から来たと伝えると説明付きで短時間の見学をさせてもらった。くぐり門を入ると本宅建物は敷地が1200坪で、江戸時代・明治・大正の建物があり、当家の山崎家から掛川市に寄付され、現在市で管理していると。本宅の裏には中庭があり、柿の木等が植えられている建物も傷んできているので早く修理を終え、公開日数を増やしたいとお忙しい中、約10分間の見学をさせていただいた、ありがとうございました!庭先にはアヤメが咲いていた。私が茅ヶ崎から来たと伝えたら、寄付された山崎氏は茅ヶ崎で獣医をしておられると10:15「平将門十九首塚」近くを流れる逆川の堤に咲く満開の桜並木逆川に架かる「将門橋」将門橋の近くの公園にある「平将門十九首塚」。首塚は民家の前にあり、何か目隠し(植木等)をしてほしいものです道路には、かけがわの「おすいマンホール」13:00袋井宿の「どまん中茶屋」所在地:静岡県袋井市袋井339袋井市役所前の桜も満開、「どまん中茶屋」が道路の角に建つこの日はJR掛川駅から、袋井宿、日本橋から28番目の宿場町「見附宿」まで歩き歩行数は36,100歩でした、天竜川は渡れずJR磐田駅から帰る。 END
2019.04.23
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4月初めの旧東海道の金谷宿、日坂宿、掛川宿の花です。東海道53次シーリズでのこの宿のアップは、花が終わった時期になりますので一部アップさせていただきます。4/3(水)青春18きっぷの4回目の利用7:20JR東海道本線の車窓からの富士山(三島駅手前)9:03 JR金谷駅へ到着9:09JR金谷駅前の民家の軒先来年はわが家でも植付けしたいが、この花の名は?9:12旧東海道の金谷一里塚近くの「長光寺」の枝垂桜もう満開の枝垂桜9:14金谷坂への途中9:24金谷坂入口の「石畳茶屋」の桜と茶畑上記場所からの茶畑と霜よけ風車10:30旧東海道の「菊川坂」の坂下で東大阪からの人と出会う。日本橋へ向かってもう10日目で、ネットカフェ等に宿泊しながら向かっており、今日は掛川を7時頃出発したと。日本橋からは、中山道経由で東大阪へ帰るとのこと10:35菊川坂を下り、花桃がきれいに咲いていた。工事は東名高速道路の菊川インタへの、バイパス道路用橋脚。菊川坂を下ったらまた山登りだと(先程の人から)10:39間の宿「菊川」。この後、小夜の中山・久延寺を目指して「青木坂&大井平」を登る10:54青木坂を登る、廻りは茶畑11:17久延寺前からの桜と茶畑11:23日坂宿を目指して長い尾根道を下る。このような古木の所を通す電線は、一工夫してほしいものですね。どう見ても電線の付設の方が遅いと思われるので11:27庭先に咲く花桃11:36カイドウも咲きツツジボケシャクナゲまで咲いていた12:01「夜泣石跡」近くの茶畑と桜13:01日坂宿辺りの、満開のしだれ梅?13:23事任(コトノママ)八幡宮の境内に咲くオオシマザクラか?ズームアップ13:51道の駅「掛川」近く旧東海道(県道415号線)旧東海道(県道415号線)脇の花壇に咲くチュウリップ14:14逆川の桜14:43旧東海道(県道415号線)千羽交差点手前。このあたりの桜は蕾がまだ硬い15:56日本百名城の「掛川城」。前回は'13/11/24 に訪れ、ここでスタンプ帳を購入してスタンプラリーを開始したまだ満開前の桜やはりお城は桜とのコラボがいいですね! END
2019.04.22
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薩埵峠は古来より東の箱根峠、西の鈴鹿峠の間にあって東海道の三大難所として知られている。海岸に沿った僅かな平坦地に国道1号線、東名高速道路、JR東海道本線という東西を結ぶ重要な交通網が通っている。薩埵峠に登れば富士山、駿河湾、伊豆半島が一望でき浮世絵師歌川広重によって描かれた往時と同じ絶景が広がる。3/8(金) 16:30中腹に雲がかかる富士山早咲きの桜が咲いていたが16:34名残惜しいが、またいつか撮影に訪れたい場所薩埵山の合戦薩埵峠の歴史16:36夢舞台東海道道標「薩埵峠」富士山がかすかに見える、露出オーバー16:37興津宿に向って坂を下る16:39薩埵峠からの坂道を下り終えるJR興津駅まで3.3km(60分)、薩埵峠まで0.9km(28分)16:42往還坂16:46旧東海道から「白髭神社」白髭神社(シラヒゲジンジャ)所在地:静岡県静岡市清水区興津東町1504小高い山の上にある小さな神社であった16:53農地の間の旧東海道を歩き、興津宿へ下る興津の街並み16:58土地改良之碑薩埵峠からは右側の道から下ってきた、峠まで2.3km(65分)17:00川越遺跡江戸時代の川幅は25間(45m)あまり。興津川は徒渡し(カチワタシ)だったが、水かさが減る冬場の10月下旬から3月5日までは仮の橋が架けられ、無賃で渡れた。両岸に川会所があり、旅人は川札を買って、人足の肩車や蓮台に乗り川を越えた。川札はその日の水深により値段が異なり、水深4尺五寸(約1.4m)を越えると川留となった。広重の保永堂版「東海道五十三次 興津」は興津川の徒渡しの様子を描いている東海道難所 薩埵峠之絵図17:02JR東海道本線のガード17:03ここを右折してJR興津駅へ1.6km(30分)17:05興津川に架かる「浦安橋」、ビルの向こうは日本平左の橋は国道一号線、高層ビルは「駿河健康ランド」17:06JR東海道本線の貨物列車は上り方向へ17:10左の高架は国道一号線道路標識は、直進は国道1号線の浜松・藤枝、左折して国道52号線で甲府・身延17:12興津中町東交差点17:1417:18旧東海道(国道1号線)の興津中町西交差点この交差点の角にある「身延道起点の道標」。江戸時代、駿河と甲斐を結ぶ身延道との追分に石塔寺があった。明治時代になって廃寺になり、この身延道標と髭題目碑が残った。このあたりから興津宿の入り口となる17:20旧東海道(国道1号線)を、JR興津駅へ向かう17:22一里塚跡(興津):江戸から41番目の一里塚17:24興津駅前交差点JR興津駅へ17:26JR興津駅へ到着。ここまでの歩数は40,039歩駅前の「興津宿」案内17:28JR興津駅改札口近距離きっぷ運賃表の上り東海道線の最先端は「大磯駅」で、1,660円だ!そろそろ運賃が高くなるので「青春18きっぷ」を購入する必要がある17:31反対側のホームに下り電車が来る来週は電車でここまで来る予定だが、静岡方向17:56車窓からの富士山、車内が写っていますが。富士がきれいに見えていた今回の道中記は始めてから延べ回数12回目で、JR富士駅からJR興津駅経由自宅までは42,047歩の32.12kmでした。薩埵峠の登りはきつかった。歩き始めた時は天気が良く、富士川からの富士が綺麗に見えたので、薩埵峠からの富士を期待したが、午後3時頃になると一部に雲が発生し全体が見れなくなった。しばらく待機したが雲は取れずあきらめて興津宿へ下った。いつかパンフレットのような富士を見てみたいものです! JR富士駅から興津宿ーEND
2019.04.21
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