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雲が出ていたので富士山が気になるが、薩埵峠へ。3/8(金) 14:57薩埵峠は右側の坂を登る。左へ下ると駿河湾、国道1号線が近い。薩埵峠までは、2.3km、55分と標示ビワの木に黄色い袋白い袋も。花を摘果して、黄色・白色の袋を掛けていたがどう違うのか?15:02江戸時代にタイムトリップした感覚に陥る「間の宿 西倉沢村」軒下に杉玉がぶら下がり15:06石段の上にお寺があるがこれからが大変な坂になるので、下から見上げるだけに15:07西倉沢村は薩埵峠の東坂登り口を控えており、由比宿と興津宿の間の宿と呼ばれていた。当時は茶屋が十軒ほど並び、茶屋本陣・脇本陣があった川島家は代々西倉沢村の名主を務め、慶長から天保の時代の230年間茶屋本陣を務めた明治天皇ご小休「柏屋」江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶屋を営んでいた。明治元年(1868)及び11年(1878)、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休に当てられた。明治15年(1882)頃、静岡県令大迫貞清が療養のため柏屋に逗留された際、倉沢の気候風土が郷里の九州に似ているところから、田中びわの種子をとりよせ栽培をすすめ、当地に田中びわが普及するところとなったと。先程のびわはその流れか?15:09一里塚(由比・西倉沢)薩埵峠まで1.3km(26分)、JR由比駅まで2km(40分)江戸から数えて四十番目の一里塚で、江戸からおよそ160kmの距離になる。ちなみに由比駅~東京駅間は158.4kmです。この一里塚は薩埵峠東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた夢舞台東海道道標「倉沢」興津宿 宿境まで一里十四町由比宿 宿境まで三十一町 駿河湾がすぐそこに藤屋望嶽亭(フジヤボウガクテイ)所在地:静岡県静岡市清水区由比西倉澤84-1 tel:054-375-3486不定休で入館無料だが、個人宅のため公開時間は不定(要事前連絡)、Pは無富士山の眺めが良かったので望嶽亭とも呼ばれた茶店。幕末の戊辰戦争にまつわる話が伝わっている。慶応4年(1868)、幕府の密命を帯びた山岡鉄舟は、府中まで攻めてきた官軍参謀・西郷隆盛との江戸城無血開城交渉に赴いた。道中の薩埵峠で官軍に追われた山岡は、望嶽亭にかくまってもらう。主人の藤屋七郎兵衛は山岡を漁師に変装させ、清水次郎長宅へ。次郎長は山岡を府中へ案内し、府中宿伝馬町の旅籠・松崎屋で西郷と会談することができたという → 次回(3/15)訪れた15:11坂を登り始めるが振り返ると、駿河湾、由比宿が、富士は頂きだけが見える15:13坂の途中で立ち止まり富士を望む15:17坂の下は東名高速道路、国道一号線、JR東海道線同場所から振り返ると、富士の頂きが15:21息を切らせながら坂を登る、遠く三保松原が見える15:22東海道薩埵峠周辺絵図15:25薩埵峠へようやく到着、自宅から 33,280歩夢舞台東海道道標「薩埵峠」興津宿 宿境まで一里三町(4.2km)、由比宿 宿境まで一里六町(4.4km)駿河湾と遠方に伊豆半島が見える残念ながら、富士の頂きは見えるが中腹には雲がかかり坂道を上っているときは暑かったが、薩埵峠は標高が244mあり日陰でもあったので寒くなる駐車場があったが平日にもかかわらず満車。土日祝日は待機状態になると係員薩埵峠はもともと岩城山と呼ばれていたが、倉沢の海から漁師に引上げられた地蔵菩薩を祀ったことからこの名がついた。広重の保永堂版『東海道五十三次 由比』はこの薩埵峠からの風景を描いている。薩埵峠は海に突き出した山なので、初期の東海道は山と海岸の間のわずかな平地を、波間を縫って通り抜けなければならない難所だった。明暦元年(1655)薩埵山の中腹に、天和2年(1682)にはさらにその上に道が付けられた薩埵山合戦場古来、ここでは二度の大合戦があった。まず観応2年(1351)室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義が不仲になり、ここ薩埵峠から峯つづきの桜野にかけて山岳戦を展開し、やがて直義軍が敗退した。ニ度目は永禄11年(1568)から翌年にかけてで、武田信玄が駿河に侵攻したので今川氏真が清見寺に本陣を置き薩埵峠に先鋒を構えたが敗退した。そこで小田原の北条氏が今川に加勢して出陣し、今度は、武田が敗れて一旦甲州へ引き上げたが、永禄12年12月に三たび侵攻し、このとき蒲原城を攻略した東海自然歩道バイパスコースJR興津駅:4.3km(90分)、JR由比駅:3.4km(63分)薩埵峠山之神遺跡眼下に東名高速道路駿河湾の先に富士市内と愛鷹連山。今朝出発の富士市の製紙会社煙突16:05しばらく待つが雲がなくならないので、あきらめて興津宿へ下ることに16:08薩埵峠から数百メートル下り、まだ工事中の展望台へ。まだ市の検査前で立入禁止!展望台下に富士山ライブカメラがあり、よくTVで見る光景この展望台にある道標しばらく待機して雲がなくなるのを待つが16:17興津宿へ向かう薩埵峠は、東海道53次の中では由比宿と興津宿の間に位置する峠。山が海へと突き出した急峻な地形である事から、古来より東海道の難所の一つに挙げられ、北陸道の親不知と並び称される程でしたが、嘉永7年(1854)に起こった安政東海地震により峠直下の海岸が隆起し、安易に通行できるようになったため、東海道(国道1号線)は現在の海岸線を通るルートに改められている16:19東海道「薩埵峠」興津宿 ← 薩埵峠 → 由比宿薩埵峠薩埵峠には上道、中道、下道の三道があった。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり中道は、明暦元年(1655)に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は、峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です風光明媚な絶景の地貼られていた絶景の写真16:23午房坂、桜の木も植えられているが午房坂16:26狭い旧東海道沿いに桜の木が桜の新種か「おきつ薄寒桜」。植樹は昨年平成30年1月と JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.20
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由比宿を出て、いよいよJR由比駅経由薩埵(サッタ)峠へ向かう。3/8(金) 14:04旧東海道(県道370号線)の由比西木戸から由比宿方面を振り返る14:05旧東海道に架かる由比川橋埋立記念碑橋の右側に立つ石碑は、昭和36年新幹線蒲原トンネル掘鑿に当たり、其の土を利用し由比川左岸窪地埋立を計画・・・由比川橋から、東海道線、東名高速道路、前方の山は薩埵山橋の欄干に飾られた東海道53次の絵14:08橋を渡り右側に「料理茶屋 民宿玉鉾」所在地:静岡県静岡市清水区由比450-1桜えびかきあげ、生しらすが食べれる料理茶屋由比川橋を振り返る旧東海道(県道370号線)の消火栓マンホール静岡県はサッカーの県旧東海道沿いの民家の軒先にぶら下がるアルミ缶の風車。店の中には切り絵がたくさんあり、近所のおばさん、先生と呼ばれる人としばし雑談したが撮影は遠慮した旧東海道(県道370号線)は「由比桜えび通り」と呼ばれている14:15桜えび・しらすを製造販売。現在は桜えびやしらす干が名産だが、桜えび漁は明治中期以降に始まった下り懸魚(ゲギョ)の稲葉家。平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、花鳥などを掘り込み装飾も兼ねている稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物ですとせがい造り軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし棰を置いたもの。民家建築に美観を添えたもので、由比の町並みに特に多く見られる由比桜えび通りを歩き前方にJR由比駅14:30振り返ると富士の頂上が見える夢舞台東海道道標「今宿」道標には興津宿 宿境まで一里三十二町(7.4km)由比宿 宿境まで十三町(1.4km)由比桜えび通りの上には大きな桜えびが「素足ー少女」 大城章二作JR由比駅前の案内板「東海自然歩道(バイパスコース)」由比駅 → 薩埵峠 3:30 薩埵峠 → 興津駅 0:50 の案内由比駅前の由比桜えび通りから、富士の頂上部分が見える14:34JR由比駅構内、茅ヶ崎まで「近距離きっぷ運賃表」の最大範囲で、1660円ここまでで、朝から28,500歩14:41JR由比駅を後にして、薩埵峠へ向かう14:43旧東海道(県道370号線)と県道369号線が合流右方向が、旧東海道(県道370号線)で由比宿へ、富士山が僅かに見える薩埵峠の道路標識が14:46薩埵峠入口、直進すると国道一号線へ振り返ると富士に雲がかかっていた14:47薩埵峠への旧東海道へ入り道標薩埵峠まで2.9km、40分ぐらいか?坂を登ると「地すべり管理センター」寺尾(昔の海道をみる)ここ寺尾には昔、南方寺という真言寺があり地名の起源となったと伝えられている。昔の家並みは海沿いにあったが、たびたび津波の被害をうけ、そのため天和3年(1682)高台に新道を改さくし東海道とした。現在の街道は当時のままの道幅所々に格子戸、蔀戸の古い家を見ることができる14:49高台に新道を改さくし東海道とした街道からの駿河湾、伊豆半島旧東海道を薩埵峠へ向かう14:52軒先にぶら下がっているのは、道幅が狭いので車が軒先にぶつからないように14:53名主の館 小池邸所在地:静岡県静岡市清水区由比寺尾464-9平成10年に国登録有形文化財となった。入館は無料で、月曜日(祝日の場合除く)が休み 9:30~16:00or16:30小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めた。名主は年貢の取立・管理、戸籍業務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でももっとも重要な役割を担っていた。この建物は明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残している由比宿東海道あかりの博物館所在地:静岡県静岡市清水区由比寺尾473-8入館は大人500円、小人200円(中学生以下父母同伴は無料) 不定休、土日祝 9:00~16:30 平日 10:00~15:00江戸・明治・大正時代までの、あかり(灯具)及び資料を展示している。それぞれの灯具がその時代を語ってくれると思います。昔のあかりの中でくつろぎ、そしてやすらぎを感じていただければ幸いです 館長番匠師格子戸、蔀戸等、昔の面影を残した建物を建築して昔の街並みを保存している14:57薩埵峠は右の坂へ。タクシー、乗用車とすれ違う JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.19
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蒲原宿の西木戸から、江戸から16番目の宿「由比宿」へ向かう。3/8(金) 13:02夢舞台東海道道標「西木戸・茄子屋の辻」県道396号線沿いに建つ道標13:03和歌宮神社鳥居神社本殿をズームアップ13:10旧東海道(県道396号線)を由比宿に向けて歩く13:21一乗院所在地:静岡県静岡市清水区蒲原中369-1北向不動尊 一乗院13:25JR蒲原駅前広場13:27旧東海道(県道396号線)を由比宿に向けてひたすら歩く。名物の桜えびの店旧東海道を振り返る13:32前方に東名高速道路の高架橋13:34東名高速道路の高架橋下13:37右は県道396号線、ここを左方向に直進して由比宿へ窓に映える我が姿13:38小川を越え、お馴染みの夢舞台東海道道標。高架橋は東名高速道路ですぐ海になる夢舞台東海道道標「由 比」。由比宿の宿境まで三町(0.3km)蒲原宿の宿境まで二十六町(2.8km)13:40神沢川酒造場の煙突、「清酒正雪」を生産販売13:42由比一里塚注意しないと見落とすようなところに説明板が由比の新町の一里塚は、江戸から39番目で松が植えられていたが、寛文年間(1661~1673)山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺堺外堂とした。十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されている13:44由比宿東桝型跡宿場の出入り口は桝形(かぎの手)に折れ曲がり、木戸が作られ万一の攻撃を防ぐなどの治安維持とともに、宿の出入り口の道標にもなっていた。ここを通り過ぎると町並みが始まり、本陣、脇本陣、問屋、旅籠、茶屋などが置かれていた。由比宿も東西の出入り口は桝型に折れており、現在も面影が残されている由比宿東桝型跡を振り返るこの建物は?由比は現在も小さな町で古い家が残り、宿場の面影を残した静かな落ち着いた街並みである御七里役所之跡紀州徳川家の飛脚の中継所跡である。同家は江戸~和歌山間(584km)の約七里(28km)ごとに中継役所を置き、五人一組の飛脚を配置し、その中継所を御七里役所と呼んだ。普通便は毎月三回、江戸は5の日、和歌山は10の日に出発、道中8日を要した白塀に上記「御七里役所之跡」プレート13:48由比本陣公園・静岡市東海道広重美術館所在地:静岡県静岡市清水区由比297-1由比宿鎌倉時代からの宿場で、源頼朝から恩賞として由比地方を与えられた大宅光延の子孫が由比氏を名乗り支配した。山と海に挟まれた街道沿いの村で、漁業と製塩業を生業とした。由比から東金沢の海岸では、女が塩を汲んで塩竃へ移したり、海女が貝を採ったりする風景が見られた。宿の町並み長さは5町半(約600m)と短く、人口も700人ほどで、東海道にある宿場の中でも小さな宿場だった。現在は桜えびやシラス干しが名産だが、桜えび漁は明治中期以降に始まった由比本陣公園の表門由比本陣かっての由比本陣内には、現在と同じ敷地の中に大名等の宿泊に使用された母屋や明治天皇がご小休された離れ館、徳川家康公お手植えの松といった由緒ある史跡があった。現在の本陣内では、表門や木塀、馬の水吞み場等のほか、記念館「御幸亭」において、先の離れ館の内部を再現している本陣の表門と芝生広場、奥に物見塔由比本陣公園の全体案内図静岡市東海道広重美術館由比本陣公園内の東海道由比宿交流館馬の水吞場この横の長い水路状の濠(幅1m、東西20m)は、馬の水吞場といって、むかし大名行列の馬に水を呑ませたり、身体を洗ったりしたところ水深ももとは60㎝もあった。屋数の前の道路にこのような施設があるのは、他の宿場の本陣にはあまり類例を見ない珍しいもの馬の水吞場には亀が本陣前に、正雪紺屋(ショウセツコウヤ)この紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている脇本陣温飩屋(ワキホンジンウンドンヤ)由比宿には脇本陣をつとめた家が三軒あった。そのうち江戸時代後期から幕末にいたるまでつとめたのが、この温飩屋明治の郵便局舎(平野氏宅)由比本陣公園と物見塔加宿問屋場跡ここは江戸時代に加宿十一カ村(北田、町屋原、今宿など)が共同で問屋場を設営した所。問屋場とは、幕府の命令で街道通行者のために人足と駄馬(百人・百匹)を用意した役所で、由比宿の場合は本宿と加宿が一ヵ月交代でこの負担を勤めた14:00旧東海道沿いにある、日蓮宗 正法寺日蓮宗 正法寺本堂おもしろ宿場館おもしろ宿場館前で弥次さんがポーズ旧東海道由比罐詰所寄宿舎第三寮「由比宿」案内板江戸後期 由比宿宿割地屋号由比宿西木戸西の木戸(通行人の出入口)が、この先の桝型(曲がり角)の所あたりだったと。旧東海道その桝型を左折して坂道を下って由比川の河原へ出ると、仮の板橋が架けられていて、それを渡りました。雨が降って水量が増すと、この仮板橋は取り外された。このように由比川は徒歩で渡ったので、歩行渡りといっている14:04JR由比駅に向かって歩く JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.18
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木屋の土蔵で昔の富士川の流れ、蒲原宿の話を聞きながら休憩。蒲原宿は江戸から15番目の宿。蒲原は古くから交通の要衝で、駿河の国に設置された六駅のひとつで中世には、既に宿があった。戦国時代には北条氏の蒲原城があったが、武田信玄に攻め落とされた。天正3年(1575)長篠の戦いで武田軍を破った家康は、その勢いで蒲原城を落とした。武田が滅ぶと駿河は家康の領土となった3/8(金) 11:50臨済宗妙心寺派 岩戸山龍雲寺所在地:静岡県静岡市清水区蒲原2-12-10本堂聖観世音菩薩を御本尊とする寺院本堂の前に境内にある涅槃像11:56旧東海道へ戻り、道標。蒲原宿は、富士川の川留の際は賑わい、甲州・信州方面の年貢米や塩の輸送基地としても栄えた。諏訪神社の門前に常夜燈があり、ここが東木戸跡。西木戸まで蒲原宿の町並み長さは14町33間半(約1.6km)。蒲原は江戸後期の土蔵造りの町屋、連子格子の旅籠や、明治・大正時代の建物も保存され、宿場の雰囲気を感じる11:57民家のブロック塀に「馬頭観音」この付近に昭和の初め頃まで馬小屋があり、馬頭観音が祀られていたと伝えられていたが、平成10年11月に通りの北側の駐車場整備の際、半分土に埋もれたこの馬頭観音供養石塔が発見された「馬頭観音」供養石塔の由来かって馬が、貨客の運搬、農作業など、生活の重要な役割を担っていた時代「馬頭観音」は馬の守り神として、人々の信仰を集めていた。また、路傍に立てられたその石像や供養塔は往還(街道)の道しるべとしても親しまれた11:58日蓮宗東漸寺(トウゼンジ)所在地:静岡県静岡市清水区蒲原2-13-7東漸寺山門今月の聖語鐘楼と蕾が固い桜渡邊利左衛起立の法界塔木屋の渡邊家の、17・18代が起立したもの東漸寺本堂東漸寺沿革当山は日蓮聖人直弟日興上人の弟子中老僧日目上人の開創といわれ、北条重時の嫡男石川式部入道勝重の発願により、元弘元年(1331)の創立された。・・・・・・・12:02なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家)当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」というと。「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく昔から贅沢普請ともいわれている。もともとは城郭などに用いられた技術・・・・・・佐藤家の向かい側にある、商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)。当家は、昭和まで続いた「僊菓堂(センカドウ)」という屋号で和菓子を作る商家であった12:04問屋場跡幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交代の折の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をした所で、宿のほぼ中央にあたるこの場所に設置されていた旧東海道の町並み矢張り電柱・電線が邪魔な光景だ!12:06「蒲原夜之雪」記念碑へ記念碑と広重の絵がプレートで。この記念碑は、昭和35年(1960)この絵が国際文通週間の切手に採用されたのを機に建てられた歌川(安藤)広重の「蒲原夜之雪」この絵は、歌川(安藤)広重が、天保3年(1832)4月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道53次シリーズの中でも最高傑作といわれている12:09善福寺入口12:09旅籠「和泉屋」(鈴木家)当家は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠でした。天保年間(1830~1844)の建物で安政の大地震でも倒壊を免れた今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠を見ることができる本陣跡西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣)もあった12:11旧東海道、地方選挙を控え掲示板が蒲原宿の案内板旧東海道沿いの建築物を表示木屋の土蔵で紹介された「食事処 よし川」の看板。昼を過ぎそろそろ昼食を!12:13県道396号線の「善福寺入口」交差点旧東海道方面蒲原宿案内板12:15県道396号線沿いの「食事処 よし川」へ到着。ここまでの歩数は、自宅を出て19,310歩矢張りこの辺りは桜えびだ!桜えびランチ(税込み1,000円)。店内は予約客でいっぱい、カウンターで食べたが美味しかった。年配のおかみさんと会話、富士駅から歩いてと聞いてびっくり、興津まで気をつけて頑張ってと12:47県道396号線沿いの「食事処 よし川」、江戸方面12:50御殿道跡かって、この辺りに「蒲原御殿」があった。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を、慰労するために徳川家康が建てた小規模のものであったが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され、規模も大きくなった。背後の山を「御殿山」、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいる。ちなみに、寛永11年(1634)の家光上洛以降「蒲原御殿」は使用されなくなった高札場跡12:51旧東海道を振り返る、江戸方面大正時代の洋館「旧五十嵐歯科医院」所在地:静岡県静岡市清水区蒲原3-23-312:52蔀戸(シトミド)のある家、国登録文化財「志田家住宅主屋」。志田家は「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家であった蔀戸とは、日光や風雨などをさえぎる戸のこと。上下二枚に分かれていて上半分を長押しから吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにとめ、全部開放する時は下のものは取り外せる。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締りの役を果たした12:53東海道57次、中山道67次交流館12:55美しい格子戸の家(増田家)、道路左側の家かっては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日主婦によって磨き込まれた美しい木目が、この町独特の情緒ある風景でしたと12:56旧東海道沿いに「長榮寺石碑」。お寺へはこの路地を入いり右に折れる浄土真宗 長榮寺所在地:静岡県静岡市清水区蒲原3-21-22鐘楼と大師像、桜はまだ硬い蕾長榮寺本堂本堂前には大きな蘇鉄が13:01西木戸・茄子屋の辻旧東海道から県道396号線へ合流蒲原宿の西の入り口には木戸があり「西木戸」と呼ばれていた。この近くに青木の茶屋(茄子屋)があり「茄子屋の辻」で乱闘が起こった。承応2年(1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり、茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒した。しかし、最後に追っ手に見つかり殺された。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養した。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として保存されている JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.17
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3/8(金) 10:20お馴染みの夢舞台東海道道標「中之郷(ナカノコウ)」。小休息して蒲原宿へ向かうが宿境まで二十三町(2.5km)戻ると吉原宿の宿境まで一里三十町(7.2km)10:21東名高速道路の高架下をくぐり抜けて左折10:27宇多利神社参道所在地:静岡県富士市中之郷旧街道から奥に入るので行かなかったが、立派な鳥居をくぐり、急な石段を上って行くと、木造瓦葺の雰囲気のある、手入れの行き届いた社殿があると10:30左側の坂を下り、新幹線の下をくぐり蒲原方面へ10:34富士がきれいに見えるが宝永山あたりから雲が飛ぶ10:40坂を登り東名高速道路の脇道へ富士がきれいに見える左下は東名高速道路。この辺りの旧東海道は高台を歩いている10:43東名高速道路の高架橋から京都方面同場所から富士を望む。富士川サービスエリアまで、3km地点富士市の消火栓ハクモクレンも満開10:47旧東海道は下り坂で蒲原宿へ桜エビの天日干し:富士川河口河川敷(西側)、パンフレットから10:50坂道を下ると、光蓮寺裏の墓地に咲く寒緋桜クリスマスローズ境内入り口に所在地:静岡静岡市清水区蒲原1-10-11 光蓮寺の山門浄土宗 海前院光蓮寺本堂先日のテレビで、クリスマスローズがきれいと放映されたため来たというご夫婦境内にはたくさんのクリスマスローズが鉢植えでクリスマスローズのお寺で知られている桜は早かったがクリスマスローズは満開10:57立派な戦死者の墓石、珍しく写真入りの石碑が10:58旧東海道に立てられた案内板案内板を確認して蒲原宿方面へ歩く旅友。気温も上がり上着を脱ぎ11:00水道管のマンホール11:01民家の間に「蒲原一里塚」江戸から38番目の一里塚であるが、民家に挟まれ都市計画をもう少し・・・・・!案内板には、最初の一里塚は、元禄12年(1699)の大津波で流失して、宿の移転にともなってここに移されたが、当時の面影はないと先程の一里塚を振り返る。民家の間の狭い場所に存在する11:01北条新三郎の碑(墓)入口所在地:静岡県静岡市清水区蒲原1-14旧東海道から山へ登る。「岩戸山」の石碑細い登り坂を昇る11:04北条新三郎の墓。永禄12年(1569)12月6日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い落城した。城主北条新三郎は城から抜け出し常楽寺まで逃れたが、寺に火を付け自害したと。その後供養のために、ここに碑をつくったと。碑には戒名が記されている11:10諏訪神社所在地:静岡県静岡市清水区蒲原1-7-25見にくい案内板御神木のシイノキ幹周(胸高)は2.9m、根回り8.4m。古い幹が、地上数mの所で切断されているのは、大きな傾きによる倒木の防止を図ったためか。樹齢は不詳11:12境内から蒲原の街を、日本軽金属の工場11:13旧東海道「蒲原宿東木戸」お馴染みの夢舞台東海道道標「蒲原宿 東木戸」。由比宿の宿境まで三十九町(4.2km)戻ると富士川の宿境まで七町(0.8km)東木戸・常夜燈蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいた。なお木戸と木戸との間のことを「木戸内」という。東木戸は、わずかであるが桝型になっている。また東木戸には「常夜燈」が残されている。常夜燈とは、今でいう街灯にあたるもので各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていた。東木戸にある常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を照らしていた。文政13年(1831)のものと考えられている諏訪神社の下にある「東木戸」11:15「蒲原宿」案内板この辺りは山の手から下って来て、海岸が近くなる日本軽金属発電所への導水管JR東海道線の下をくぐり発電所へ河津桜?が満開、逆光で11:18歴史国道とは。歴史上重要な幹線道路として利用され、歴史的・文化的価値を有する道路として国土交通省(建設省)が選定した道路。全国で24カ所選定されており、東海道では下記の4カ所が選ばれている。 ①関宿(三重県亀山市) ②藤川宿(愛知県岡崎市) ③岩淵間宿~蒲原宿~由比宿(静岡県富士市、静岡市) ④落合宿、馬籠宿、妻籠宿(長野県、愛知県) ← 東海道ではないのでは?11:20木屋の土蔵、市指定文化財「渡邊家土蔵(三階文庫)」土蔵内の見学は無料で、所有者からボランティアで説明していただける。我々も運良く奥さまに30分程説明を受けることができた。天保の飢饉では蒲原宿の住民を施金や施米で救い、三島宿の再建にも尽くした旧家。この土蔵は飢饉で疲弊した農民を建設工事に雇い、183両と3年をかけて建築した。安政の東海大地震で建物の大半は全壊したが、この土蔵だけが無傷で耐えた渡邊家は、江戸時代末期に問屋職を代々務めた旧家です。また、材木を商っていたことから「木屋」という屋号で呼ばれていた。この土蔵の中には、江戸時代の貴重な資料が多く保管されているパンフレットから土蔵内は撮影禁止であったが、間宮林蔵以前に日本地図を書いた「長久保 赤水」なる人物を知った建物の構造に特徴があり、24本の通し柱が各階で一寸(約3cm)ずつ内側に傾いている。渡邊家土蔵(三階文庫)は、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる「四方具」という耐震性に優れた技法で建築されている。三階建ての土蔵はあまり例がなく、棟札から天保9年(1838)2月21日に上棟したことがわかり、市内最古の土蔵であると木屋稲荷木屋稲荷は渡邊金璙が天保9年(1838)2月に当家稲荷として石御祠を造った11:48木屋稲荷由来 JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.16
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旧東海道の蒲原宿はこの辺りから山寄りの街道へ。3/8(金) 9:24富士川の「渡船場跡」山寄りの旧東海道へ。蒲原宿の設立当時は、JR東海道線の南(海側)にあった。駿河湾に面し、富士川の河口に近かったこともあり、元禄12年(1699)の大津波で宿場は壊滅し、2年後に山寄りの現在地へ所替えした9:26民家の間から富士川を望む9:27急な石段の上に、日蓮宗 光栄寺所在地:静岡県富士市岩渕1135-1日蓮宗光栄寺本堂本堂前から富士川がきれいに見える、枝垂桜は開花前本堂前からの富士山もきれい9:29光栄寺から降りて旧東海道へ戻る9:31道路のカーブミラーに移る富士山富士山と宝永山。宝永山は宝永4年(1707)の宝永大噴火で誕生した山。富士山最大の側火山で、標高は2,693m。宝永4年の噴火時にはここの境内から多くの人が見たのであろうか9:32道路標識、一里塚へ向かう道路面に埋め込まれた、岩渕「東海道ルネッサンス」常夜燈高台からの富士川同場所から、伊豆半島を望む清源院手前からの先程の、日蓮宗光栄寺本堂9:35高台の曹洞宗 清源院境内へ所在地:静岡県富士市岩渕553曹洞宗 清源院本堂清源院の隣にある「天満天神宮鳥居」高台にあり富士山がきれいに見える。六地蔵も赤い帽子をかぶり境内に咲くハクモクレン9:41旧街道に戻り、振り返る庭先の花がきれいなオープンガーデンの民家(富士市)9:42旧街道を蒲原宿へ前方右に「小休本陣常盤邸」の庭にそびえる犬槙の大木この辺りの町並み小休本陣常盤邸。国登録有形文化財に指定されているが、この日は休みなのか見学できず横から覗き見るが歴史街道『間宿岩淵』案内図。岩淵のブチは「淵」or「渕」どちらが正解?岩淵村は富士川渡船を控え、準備をする一時休憩でにぎわった間の宿だった。当初は富士川沿いの旧東海道にあったが、度々の水害と宝永4年(1707)の大地震と富士山噴火を機に、東海道の付替えとともに現在の高台へ移転した。小休本陣常盤邸は岩淵村の名主と渡船名主で、地元では西本陣と呼ばれた9:48旧東海道の常盤邸横を入ると奥に鳥居が、その奥に東名高速道路の高架ズームアップすると「八坂神社の鳥居」9:50曹洞宗 新豊院参道所在地:静岡県富士市岩淵328創建時は真言宗だったが、途中曹洞宗に改宗された。毎年3月の「大観音大祭」には、日本一大きな観音様が御開帳される曹洞宗 光福山新豊院参道沿いに槙の木が植えられている9:53前方に大木がそびえる岩渕の一里塚。この先を右へ曲がり蒲原宿へ東海自然歩道バイパスコース(富士川コース)案内板史跡「岩渕の一里塚」この一里塚は、起点である江戸日本橋から三十七里目にあたる。この前の本市場一里塚は35里目なので本来なら36里目だが、富士川の渡しに36里目を仮定して、岩渕一里塚は37里目と調整している。この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立ち並んでいたお馴染みの夢舞台東海道道標、富士川「間宿 岩淵」。蒲原宿の宿境まで三十二町、戻ると吉原宿の宿境まで一里二十一町左側の塚の榎は虫害のため昭和42年枯死してしまった。そこで昭和45年3月、二代目を植えたものであると一里塚の榎、富士山が小さく見える9:57左側(西)の榎は江戸期からのものと推定、右側(東)の榎は二代目10:04旧街道を蒲原宿へ向かうが、左側に「秋葉山」の石塔10:06民家の庭先にミモザが咲き2月に行ったポルトガルでもたくさん咲いていた10:08歴史国道「間宿・岩淵」の名残が薫る『四季の和菓子』。「岩淵に 名物有りと 菓子摘む」旧東海道(県道188号線)から富士川駅前交差点(県道396号線)、手前を右折10:09お馴染みの夢舞台東海道道標、富士川「中之郷」前方に東名高速道路が走る蒲原宿の宿境まで二十三町(2.5km)戻ると吉原宿の宿境まで一里三十町(7.2km)夢舞台東海道道標「中之郷」からの富士山午前中は富士がきれいに見える10:15野田山健康緑地公園案内図 JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.15
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朝から天気が快晴、富士山がきれいに見れて最高の景色、薩捶峠経由興津宿へ行くが富士がどこまできれいに見れるか心配。3/8(金) 8:37雁堤(カリガネツツミ)下にある「橋下公会堂」所在地:静岡県富士市松岡1580-2この石段を上がり雁堤上へ石段の途中にある「護所神社」護所神社の由来。古来から繰り返す富士川の洪水で、しばしば欠潰流失の惨害を蒙るため、衆人は人柱の説をとり千人目の旅人を生きながら護岸の人柱とすることに決めた。千人目に当った旅僧はこれを快諾し、従容として人柱とかした。以来三百余年の今日まで遂に堤防の欠潰を見ず、住民はその徳を慕い「護所神社」としてその霊を祭った護所神社越えに富士山加島新田開発古郡(フルゴオリ)重高・重政・重年 築堤の石碑雁 堤全長2.7kmに及び、上から見た堤の形が、雁が連なって飛ぶ様子に似ていることから雁堤と呼ばれている。江戸時代初期の富士川の河口部はたびたび洪水を起こしていた。駿河代官・古郡重高・重政・重年の親子三代が、50年の歳月を要して広大な遊水地を持つ堤を築いた。以来400年あまり一度も決壊せず、下流域は洪水から救われ五千石の新田が開発された雁堤の上流側、橋は新東名高速道路西側の富士川方向雁堤、雁堤の守護神築堤工事の想像図桜の木はまだ硬い蕾堤内の「雁公園」雲一つなくあまりにもきれいでカメラを覗く東名高速道路の富士川サービスエリア近くにある「道の駅 富士川楽座」のゴンドラ8:45雁堤を降りる8:49旧街道に戻り、梅の花は満開8:50この交差点を右折して旧東海道(県道396号線)民家の庭先にアルミ缶の風車?8:56旧東海道を富士川へ向かってこの石碑は?この辺りには「松岡陣屋跡」があったはずだが?水神社の杜9:00この先は富士川橋少々読みずらい「水神ノ森と富士川渡船場」の案内板。渡船場跡は、慶長7年(1602)東海道で富士川渡船が開始された。東岸には川沿い20町(約2.1km)の間に上船居・中船居・下船居の三ヶ所に渡船場が置かれ、川瀬の状況で使い分けられた富士川渡船場跡の石碑水神社案内図所在地:静岡県富士市松岡手水舎と水神社社殿9:07旧東海道(県道396号線)の富士川橋水神社を振り返る富士川橋の東側。富士川は、長野県・山梨県及び静岡県を流れる河川。一級水系富士川の本流であり日本三大急流の一つに数えられている。甲斐と駿河を結ぶ水運としての要路であり、古くから人々の暮らしに密着してきた富士川は水の量が多い感富士川橋は鋲留め富士川の名の付いた同名の橋は複数ある。この橋は静岡県富士市から静岡市清水区に至る県道396号富士由比線(旧国道1号)に架かる道路橋梁。大正13年(1924)完成の鉄橋(トラス橋6連)、橋長399m、対面通行9:09ここから見る富士山と景色は最高と。いつもは東海道新幹線 or 東海道線から見る光景だが今日は歩いて渡る富士川を渡りながら帽子を気にしながら撮影富士には雲一つなく、赤い橋は東名高速道路手前から東名高速道路、富士の麓に新東名高速道路が走る水神社の後方に、愛鷹連峰9:16富士川を渡り、静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標に出会う。富士川「間宿 岩淵」。蒲原宿の宿境まで五町、戻ると吉原宿の宿境まで???富士川沿いに上流へ富士川橋9:19船型の植樹桝江戸時代、ここに富士川渡船や甲州との水運の基地としての岩渕河岸があった。渡船には、定渡船(長さ10.3m、巾1.57m)6艘、高瀬舟(長さ13.2m、巾1.8m)18艘があり、一方甲州三河岸との通船には高瀬舟(笹船または小廻船とも呼ばれた)300艘(明治時代には800艘)があり、これら多数の船が出入りしていた角倉了以翁の紀功碑京都の豪商、角倉了以(1554~1614)・素庵の父子は、慶長12年(1607)、同19年両度にわたり、幕府から富士川の開さくを命じられた。その水路は岩渕河岸から鰍沢河岸の間約18里(71km)で、大変な難工事の末、完成した。これにより、富士川水運は明治44年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たした渡船「上り場」常夜燈旅友は花粉症で完全装備を9:22旧東海道はこの辺りから山寄りの街道へ JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.14
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今年1/28(月)に原宿からJR富士駅まで歩いていたが、2月はポルトガル旅行があったため、旧東海道の弥次喜多道中は1か月間休みました。再度、3/8(金)に旅友のKさんと、JR富士駅から興津宿まで再開した。3/8(金) 6:01日の出前の茅ヶ崎駅北口。朝は寒いのでダウンを着て駅へ東の空を7:26沼津駅前の車窓から富士山を望む。今日は天気が良く富士山がいろんなところで期待できる7:49沼津駅で乗り換え、JR吉原駅から出ている岳南鉄道。岳南線(ガクナンセン)は富士市内の吉原駅と岳南江尾駅とを結ぶ岳南電車の鉄道路線。路線距離は9.2kmで、工場夜景撮影で有名な路線、以前は2日/月運転していたが岳南鉄道のローカルな電車と富士山。乗降客が年々減っているようで経営は厳しいのでは?車窓から富士を撮影沼川を渡る7:50潤井川からの富士山電線が邪魔になる7:53JR富士駅に到着、1/28(月)以来の訪問駅北口の2階通路から西方面、雲一つない好天だ!駅北口商店街へ、駅を振り返る8:01富士駅北口前商店街、早朝で店はまだ開店前8:04富士本町通り(県道175号線)を北方向へ歩き。この交差点を左折して旧東海道へ、前回は右方向から来た(本市場一里塚跡)富士をズームアップ、左折して蒲原宿へ向かう後方正面は、本市場一里塚跡方面蒲原宿方面へ歩き始める電柱の下に「道祖神」の石碑8:08富士大橋通りの交差点にある、曹洞宗「不二山 金正寺」所在地:静岡県富士市平垣本町10-47民話「金正寺の猫」ゆかりの寺院で、境内には猫の像もあったらしいが。明治元年の明治天皇行幸では休息御座所となったと境内裏の墓地からの富士山富士をズームアップいつも電線が気になる光景である8:13小川の横に「札の辻跡」「札の辻」いわれ実相寺は約八百余年の昔、久安元年鳥羽法皇勅願の寺で西に比叡山、東に実相寺とまでうたわれた関東の名刹である。四十九院五百の僧坊が甍を並べて常に数百の学僧が寮生活をして?学に精進した霊場である。昔の岩本山実相寺は方一里と称せられ南は今の平垣札之辻まで及んでいたという路地の片隅にきれいな小川に鴨が8:18???神社民家の庭のハクモレンと黄色のミモザ8:24県道396号線に合流道標の上に貼られた「渡船場案内」足元に咲く花、春の訪れを感じる旧東海道(県道396号線)8:25天白神社所在地:静岡県富士市柚木村社天白神社本 殿神社の側面にずらーと並ぶ赤いバケツが印象的。火事への備えが万全!8:27旧東海道(県道396号線)8:28JR身延線の高架昔は踏切で道路も渋滞したであろうJR身延線「柚木駅」8:29旧東海道(県道396号線)、この先を右折すると富士宮へ8:32旧東海道(県道396号線)の橋下交差点、上空には電線が張りめぐされて旧東海道は右方向へ進み富士川へ8:34道標と除夜燈。ここを右方向へ行き「雁堤(カリガネツツミ)」へ石道標をズームアップ8:37雁堤下へ到着 JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.13
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現在、東海道53次の弥次喜多道中を行っているが、3月中旬以降「青春18きっぷ」を利用して弥次喜多道中を毎週一回とペースアップをしている。こんな中、1日に新元号も「令和」に決まり、春休み最後の昼過ぎに桜見物で賑わう市内の公園を訪れた。4/4(木) 12:51 ~ 13:03 高野山真言宗 甘沼山成就院所在地:神奈川県茅ケ崎市甘沼473高野山真言宗 甘沼山成就院4/15から4月末頃には、白く垂れさがる総ほうがハンカチを垂れ下げたように見える珍しい「ハンカチノキ」の花が美しく咲く。5月初めには「なんじゃもんじゃの花」や日本しゃくなげの花が美しく咲く寺でもある境内の横には参拝者用の駐車場「なんじゃもんじゃの木」の開花時には多くの人が訪れる釈迦の誕生を祝う催し「花まつり」が、4月8日(月) 午前9時 ~ 午後4時に開催される成就院本堂本堂左奥に建立された石碑、三名の方が奉納されているマンサクの木マンサクと修行大師像一言大師本堂左奥に枝垂桜があるがこれからの開花なんじゃもんじゃの木まだ芽吹いたばかりだが、5月初めにはきれいに咲く本堂裏の墓地奥に咲く染井吉野聖観世音菩薩満開の染井吉野13:13 ~ 13:54前回 '17/4/17(月)にアップしている茅ヶ崎市の北部にある浄土宗浄見寺を訪れた。浄見寺は大岡忠相の先祖、大岡忠政が徳川家康から現在の茅ケ崎市堤を与えられ陣屋(屋敷)を構え、大岡忠政の父ら家族の霊を供養するために建てられ、13代の大岡一族が眠っている。大岡忠相は、テレビドラマ『大岡越前』の主人公として有名で、八代将軍・徳川吉宗の時代に、41歳という若さで江戸南奉行に大抜擢された。浄見寺所在地:神奈川県茅ケ崎市堤4317浄見寺境内前にある公園では、子供たちが桜の下で春休み最後の日を楽しんでいた民俗資料館「旧和田家」和田家は、江戸時代に萩園村の村役人を務めた家柄。移築復元のため、解体作業中に安政2年(1855)3月吉日の元号のある棟板が発見されている旧和田家、防火設備も整い古民家の中。部屋には「機織り機」「神棚」等が昔懐かしい釜戸も満開の桜と 染井吉野浄見寺山門の横には「大岡越前守菩提所」の石碑浄見寺の弁才天坐像手水舎と本堂創建年は慶長16(1611)年、開山:深誉円察、開基:大岡忠右衛門忠政若い「旅立ちの法然さま」新しい鐘楼と山門六地蔵延命地蔵尊、墓地への石段枝垂桜も咲き満開に近いのか境内の奥に建つ、民俗資料館「旧三橋家」三橋家は、香川の旧家で江戸時代には、香川村の中の旗本戸田氏の知行地の名主を務めた。文政11(1828)年の元号のある棟板等が発見されている古民家の横には桜の木が満開旧三橋家の中、天井裏に上る階段付きの家具木陰に咲くシャガゴルフ場の「スリーハンドレッド」との境に大きなメタセコイアが立つ広場には若い枝垂桜スリーハンドレッドの八番ホール。220ヤード、パー3、グリー奥には枝垂れ桜。安倍首相も時々プレーしている大岡一族13代が眠る墓地。平日は未公開になっているので、外から撮影。大岡忠相も75歳で亡くなり、ここに眠っている。忠相が72歳の時に一万石の大名となり、西大平(岡崎市)に陣屋(屋敷)を構えた。これが縁で、茅ヶ崎市と岡崎市は『ゆかりのまち』を結んだ浄見寺本堂横の庭。左奥に染井吉野染井吉野染井吉野の大木石楠花も咲き始めるアセビと石仏かんざしのようなアセビボケの花境内から山門越しに境内の外に咲いている八重桜以前('17/4/17)に撮影した「満開の八重桜」茅葺屋根と染井吉野以下の写真は、前回公開('17/4/17)の第62回大岡越前祭の写真です。今年の「第64回 大岡越前祭」の開催は開催日&場所 5/18(土) 10:00 ~ 14:30 浄見寺周辺 地元の人が、歌にダンスに和太鼓等、多彩なステージで会場を盛り上げる。 5/19(日) 12:30 ~ 越前行列 茅ヶ崎駅周辺詳細は別途パンフレットで!興味のある方は「茅ヶ崎市のホームページ」へお願いします。 この祭りは、江戸時代の名奉行・大岡越前守忠相の遺徳をしのび始められた 今年はパレードを見学撮影しようかと思っております。皆さんも、一度見に来てください!!! END
2019.04.12
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リスボンから、ロンドンヒースロー空港でトランジットして成田空港へ向かう。2/14(木) 10:10リスボンから2時間40分でロンドンヒースロー空港へ到着。到着はターミナル3で、全員集合して点呼後、ターミナル5へ移動10:16ターミナル3を移動ターミナル5へ移動するが広い10:20ターミナル5へはバス移動10:34バスに乗車ターミナル5へ10:41ターミナル5に到着地震対策なのか見上げると天井はオープンだが、大きな丸いもので目隠し?案内板ターミナル2、3,4へはバスで12:04ラウンジで待つことにDUTY FREE SHOP でお土産用のウイスキーを一本購入12:34出発の電光掲示板で、搭乗ゲートを確認する13:00出発ゲート13:20搭乗機へはバス移動13:25搭乗機へ到着ジェットエンジンは人丈以上の大きさタラップを登り14:13離滑走路を移動、長い旅が始まる次の飛行機も続き14:15ようやく離陸15:55一回目の機内食がでる16:29機内で映画を楽しむ「終わった人」主演:舘 ひろし(定年を迎えた亭主)、黒木 瞳(妻)内館牧子のベストセラー小説「終わった人」の映画化。定年後やることが無くなり、妻から邪魔者扱いされ・・・・・・、自分と重ねながら長旅を過ごしたもう一本、日本映画を見る20:05ロンドン時間:8:05pm、東京時間:5:05am、到着時間:10:02amあと5時間の飛行23:41(ロンドン時間) → 東京時間:8:41am日本も近くなり、ニ度目の機内食が出る八日目:2/15(金) 9:42(日本時間に変更)ロンドンヒースロー空港からの飛行経路9:43既に日本の上空へ、福島から郡山を過ぎ10:06成田空港上空へ 10:07着陸後、成田空港第二ターミナルへ到着後、入国審査、荷物の受け取りを行い、ツアー仲間&添乗員にお礼の挨拶をして分かれ税関を通過して到着ロビーへ。小林さん姉妹とも再開を約束して分かれ、ai-parkingへTELして車を受け取る。途中雪がぱらつく中、高速道路を走るが羽田方面が渋滞しているとのことで、カーナビは渋谷方面へ誘導、環八、第三京浜を走り旅友宅へ到着。我自宅へは、13:40に無事到着した。今回の旅の動線をまとめるポルトガルの旅の長編ブログへの訪問ありがとうございました。他にデジブックにて前・中・後編の三部作にて公開しておりますので併せて訪問の程よろしくお願いします「ポルトガルの旅-後編」。旅を終えて、今回のポルトガルの旅で、45歳ごろから始めた年一回の海外旅行も43ヶ国に訪問したことになったが、今後いつまで行けるのか。ポルトガルはヨーロッパの一番端にあるためか、まだ人気観光スポットではないようでスペイン、イタリア等に比べ素朴で質素な感じがした。だが最近は観光客も増え、スリ、置き引き等が多くなり度々添乗員から「貴重品に注意するように」と呼びかけられた。いつも海外に行くと世界史を勉強して訪れるべきと思うが、今回も予習不足でエンリケ航海王子についても・・・・・・でした。以前NHKの大河ドラマで最初にポルトガル語の「オブリガード」が流れ、この言葉だけは覚えていたが。食事はどこも美味しかったが、ただナザレでのいわし三匹の「いわし料理」にはビックリした。主食のパンが美味しく、スイーツの「パステル・デ・ナタ」(エッグタルト)も美味しくお土産に購入したかったが長持ちしないとのことで。三大聖地のサンティアゴも訪れることができ。昨年、四国八十八ケ所札所も結願しているので、これからの御利益を期待したいが。昨年の旅で知り合った、Kさん姉妹との旅ができ天気にも恵まれ楽しかった。少々遠距離であったのが難であるが、また行きたいものです。 END
2019.04.11
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日本への帰国の日、朝三時に起床、リスボン空港からロンドンヒースロー空港経由成田空港へ。ポルトガル七日目:2/14(木) 3:35ホテルの部屋からの外人通りもなく4時にホテルを出発、4時半にはリスボン空港へ到着。朝食は、ホテルにてサンドイッチを準備願いバスの中で食べる。4:29国際線の出発カウンターへ現地添乗員の若い見習の子が空港でお見送りにBAカウンターへ向かう4:30早朝だがもう多くの旅行者がカウンターへ旅慣れしているツアー仲間の旅友BAカウンターでチェックインセキュリティー検査、出国検査も順調に進む。 リスボン空港からロンドン・ヒースロー空港へは7:15発のBA499便。 JL、AA、QRとの共同運航便5:44出発ロビーの確認に電光掲示板へ電光掲示板で出発ロビーの確認をするがなかなか決まらず6:23空港内の缶詰土産物店この椅子は?缶詰土産店のパンフレットコムル社(Comur)は創立75周年を迎え、世界中の海でのポルトガルの功績をしめす壮大なコレクションを作成するために500年におよぶ歴史を掘り下げたと私達の選りすぐりの魚オリーブオイル漬けのいろんな魚群。土産用にスーパーでタコとイカを各5個購入したが、18€(2,322円)6:24出発ロビーへ到着6:45搭乗機に乗る機体はエアーバス社のA3207:36眼下に、テージョ川に架かる、ヴァスコ・ダ・ガマ橋(Ponte Vasco da Gama)。全長は17.2kmあり、ヨーロッパで最も長い橋として知られている。このテージョ川の水源はスペインで、アラゴン州テルエル県のアルバラシン山地がその始まりで1,200kmの長さ。スペインではタホ川と呼ばれているのだユ-ロ圏内の機内食は有料サンドイッチホットドリンクワインソフトドリンクビールのメニュー9:03トイレに立ち一番後方から撮影、満席ではなかった9:33そしてテムズ川の河口が見えて来た。 ロンドン市内はこの場所から上流、河口から90kmの距離にある9:43イギリスの観光はしたことがないので、着陸まで機窓からの風景を楽しむ9:499:509:50ロンドン橋が中央に9:51そして大観覧車のロンドン・アイ、テムズ川、ウェストミンスター橋9:519:529:52ハマースミスブリッジ(Hammersmith Bridge)。 ロンドン、テムズ川にかかっている橋で、一番古い橋だと。1824年にイギリス政府がテムズ川に橋をかけることを決行された1番目の橋。広いテムズ川に、十分な重さに耐えられるだけの橋の完成は難しく、1884年に漸く完成したと9:53高層マンション群?9:539:539:539:549:549:54鉄道が走る9:55ロンドンヒースロー空港へ到着10:06リスボンから2時間40分で到着。到着はターミナル3で、全員集合して点呼後、ターミナル5へ移動他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-後編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅ー続く
2019.04.10
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約40分のシントラ王宮を観光後、自由時間となり集合時間の17:15までシントラの街を散策した。16:24路地裏の土産物店店内の土産物16:31レプブリカ広場から、傾斜面に立つ市庁舎方向を望む市庁舎のユニークな尖塔をズームアップレプブリカ広場からシントラ王宮の煙突16:37レプブリカ広場からのシントラ街並み&ムーアの城跡。集合時間が17:15で時間も中途半端、行きたい「ペーナ宮殿」は遠くて・・・・・・ムーアの城跡の旗がはためいていたが行くには時間が無く16:45広場の近くにあった、サン・マルティン教会(St. Martin Church)を訪ねたサン・マルティン教会教会は、比較的質素な小さな教会であった。 正面の祭壇天井の飾り2階部分を見上げて床面の木の蓋の下には棺?道標だが距離が無く。サン・マルティン教会前のシントラ観光案内所へ立ち寄る16:55坂道の路地郵便ポスト17:04集合時間が17:15のため、集合場所へ向かう17:09集合場所には既にツアー仲間が集合もう少し自由時間に余裕があれば、マリア2世の王配フェルナンド2世が建設した ペーナ宮殿(Palácio Nacional da Pena)等も訪ねたかったが残念ながら・・・・・バスを待ちながら、ムーアの城跡を望む観光用の馬車旅友Kさんは、集合時間を待つ間にソフトクリームを楽しんでいた17:16ユニークな市庁舎の尖塔。17:20にバスに乗りリスボンへ向かう17:22バスの車窓からのシントラ駅17:31高速道路をリスボンへ17:34陽も下がり夕陽を浴びるマンション群17:44夕方の渋滞が発生17:48リスボンのツインタワーとか17:49カンポリーデ駅夕陽に水道橋17:50リスボンの街は狭くバスにて移動中、この水道橋は何度見たか絵心があればビューポイントでは17:53交差点でパーフォーマンスをする女性適当にお玉を落としていた(笑)18時に、ホテルへ到着旅友Kさんは、オプショナルツアー「ファドディナーショー」へ参加のためでかける。私は、添乗員お勧めのホテル近くの中華料理店へKさん姉妹3人で出かける。20:05料金は後払いで、料理をとる他のツアー仲間の人も既に食事中中華料理中心のバイキングを食べるポルトガルの寿司、焼きそば、意外と美味しかった。ビール瓶二本を飲み、12.7€(1,638円)20:45 食事を終えホテルへ帰る明日のホテル出発が4時と早いため、荷物を整理して早々にベッドへ入る。旅友のKさんはオプショナルツアー「ファドディナーショー」でまだ未着。今日一日の歩行数は、12,400歩でした。いよいよ明日は帰国の途に!!他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-後編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.04.09
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シントラ王宮内の続きです2/13(水) 15:32紋章の間16世紀、ポルトガルの最盛期に君臨したマヌエル1世の絶大な権力をものがたる部屋。 壁にはアズレージョで狩猟の光景が描かれているのだと。 天正遣欧使節がこの王宮を訪れたときには、すでにこの「紋章の広間」は完成しており、使節もこの広間に通されたはず。 壁と天井を埋め尽くす贅をこらした意匠に、遠く日本からやってきて、初めてヨーロッパの地を踏んだばかりだった彼らは、度肝を抜かれたに違いないのだ。大航海時代の覇者ポルトガルの財力を見せつけられたことであろう。この写真は、旅友のブログからコピペさせて頂きました(何故か未撮影)天井には中央部に、ポルトガル王家の紋章そしてその周りには、8人の王子の紋章が並んでいた八角形の中に王室の紋章と竜が飾られていた次の間へ王宮の窓からシントラ街並みを中国の間(Sala Chinesa)金箔を使った漆塗りの屏風。 屏風はポルトガル語で 「 ビョンボ 」 と言うのだと礼拝堂。 この王宮で最も古い建物。アラベスクの壁と床は、マヌエル王の王妃が、スペインのアルハンブラ宮殿を参考にして造らせたとたくさんの鳩の絵がフレスコ画で描かれていたが、全部微妙に向きが違っていたアップしてアラブの間へもとは、ドン・ジョアン一世の寝室として造られた部屋であると名の由来は、アラビア人がこの水盤を中央に据えてパーティーをしたことからによるのだと。また、この王宮は最初はムーア人リスボン総督の住居であったとアラブの間にある噴水壁面にアズレージョ客 間(Quarto de Hóspedes)ジョアン一世が祈りの部屋、着替えの部屋として使用したのだとジョアン1世の天蓋付きの見事なBED厨 房(Cozaiha)外から見た双子の高さ33mの煙突は、極めてユニークな形状。19世紀末まではポルトガルとサヴォイの王国の武器庫となっていたと入口上にある紋章は、ルイス1世(在位1861-1889)の王妃マリア=ピア・デ・サボイア(イタリア王ヴィットリオ=エマヌエーレ2世の娘)の紋章であると。左側がポルトガル王家の紋章で、右側の赤地に白十字がマリア=ピア王妃の実家サボイア(サヴォイア)家の紋章と10以上ある薪コンロ、オーブン、動物を解体した調理台などがあり、煙突の真下には料理を温めておく保温棚があった。王室の宴会の準備に使用され、様々な銅や鉄の台所用品も展示されていた。手前にあるのは、丸焼き用の鉄串であろうか? そして周囲の壁は白一色であったこの厨房は15世紀に造られたものであると。左奥に黒い、保温棚厨房の隣にある「マヌエル様式の間」への入口マヌエル様式の間マヌエル1世によって建てられた部屋であるとマヌエル1世(Manuel I、1469年- 1521年)は、ポルトガル王(在位:1495年 - 1521年)傍流の六男として生まれながら、偶然が重なって平和裡に王位につき、さらにその治世においてインド航路の開設等の吉事に恵まれて、ポルトガル王国の黄金期を築いたことから、幸運王と称される。先王ジョアン2世の推し進めた中央集権化政策を継承し、海外交易による莫大な利益を背景に、ポルトガルの絶対王政を確立した人物と。左側の壁には銀製の鏡があり見事風呂の洞窟風呂の洞窟 壁には噴水や庭園を描いたアズレージョが見事王宮から出るシントラの王宮を振り返る厨房の煙突も15:57そしてシントラ王宮の見学を約40分で終え、レプブリカ広場に出る。ここで解散、17:15まで自由時間となり、添乗員から「御茶を飲む人は御一緒に」と言われ飲むことにするレプブリカ広場から見上げると、ムーアの城跡の旗がたなびいていた。本来なら「ムーアの城跡へ行こうか」となったのだが、何故かこの日はならず添乗員について路地に入る石畳の狭い路地を登る顔に顔料を塗り狭い階段の両脇に土産物屋やレストランが所狭しと営業坂道を上りカフェへ16:04路地の坂を登り、カフェへ到着ショーケースにはスイーツが並び店内の壁面に冬の絵がレモン茶とまんじゅうで、2€(260円)を食べる外に出ると、オビドスで楽しんだ「Ginja」がここでも売られていた 再度、一杯飲むがチョコのカップがシンプル、つばがついていない一杯1€で値段はオビドスと同じだが、日本なら試飲で無料か?16:23集合時間までまだ小一時間あったのでどこかえと思ったが・・・・・ 他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-後編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.04.08
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リベイラ市場で各自昼食後、オプショナルツアーの『世界遺産・シントラ王宮観光とシントラの街散策』に参加した。2/13(水) 14:00集合時間が14時半のため、それまで市場周辺を散策。生花エリアで花の種子を購入リベイラ市場から外に出てドン・ルイス公園(Jardim Dom Luis)へドン・ルイス公園に立つ、伯爵サダ・バンディラの像。ポルトガルの政治家(1795~1876)公園内にジャカランタの大木ドン・ルイス公園前の街並みそして再び、リベイラ市場内に戻る。生蟹が水槽の中にリベイラ市場の寿司屋のカウンター歴史モノのポートワイン。一番左の1933年産は1087.5€(約140,000円)14:25男性用、女性用トイレ14:43予定通り14:30に集合して、シントラ観光に出発。オプショナルツアーへの参加者は半数の16名に現地ガイドの井上さんが同行シントラへ向けて14:47前方に再びアグアス・リブレス水道橋( Aqueduto das Águas Livres)が。世界で最も高い石造りのアーチで18世紀建造この水道橋は、地下にもぐっているところも含めると全長18km。ブラジルのゴールドラッシュによる巨万の富をバックに、18世紀に20年かけて造られたもの。高さ65mはフランス南部に在るポン・デュ・ガールの48mをしのぐ。現在は上水道としては使われていないが、歴史的建造物として保存され、上は遊歩道になっているとのことリスボンからシントラへのカンポリーデ駅付近。リスボンは右方向でこの辺りからトンネルになる15:02エイショ・ノルテ=スル道路・IP7をシントラへ向かう15:14リスボンから西へ約28km。深い緑に覆われた山中に、王宮を中心として豪奢な城館や貴族の別荘が点在する。かってイギリスの詩人バイロンが「この世のエデン」とたたえた美しい景観は、世界遺産にも登録されている。シントラ王宮(Palácio Nacional de Sintra)シントラ王宮案内図円錐形の高さ33mの煙突、この独特の形状が王宮のシンボルになっている15:15シントラ王宮の手前でバスを降り、レプブリカ広場へ。王宮が建てられたのは14世紀で、1910年まで王族が夏の離宮として使用していたが、ポルトガルが共和制になってからは国の文化財になっているのだとシントラ王宮前の「レプブリカ広場(Praça da República)」王宮正面の階段途中に在った噴水シントラの町並みと山の上には「ムーアの城跡」ムーアの城跡をズームアップそして王宮の入り口から広場を振り返るムーアの城跡7~8世紀にムーア人によって築かれた。1147年にアフォンソ・エンリケス王によって落城され、その後修復されたが、現在は廃墟のようになっている。天気が良ければ城壁の塔からシントラの町と大西洋が望める王宮は、イスラム教徒が残した建物をディニス王が居城とし、14世紀にはジョアン1世が増改築を行った。シンボルとなっている2本の煙突は、この時代に造られたものだ。その後もマヌエル1世の時代に増築が行われ、ムデハル、ゴシック、マヌエル、ルネッサンスなど多彩な建築様式が見られる。現地添乗員の井上さんのガイドで案内されたのが「白鳥の間」天井には、生涯伴侶を変えず夫婦円満の象徴とされる27羽の白鳥が。どれもポーズが違っているのだとそしてどの白鳥も首に王冠を飾っているところが王宮らしい。宮廷舞踏会場として用いられた大広間であったと。これは1662年、27才でイギリスのチャールズ2世に嫁いだ娘のカタリーナのためにその幸せを願って描かせたもの王宮の窓越しに「ムーアの城跡」とシントラの街並み王宮中庭(聴衆の中庭)次いで、「カササギ(鵲)の間」カササギの間の壁の装飾。夏の離宮のはずであるが、大理石造りの立派な暖炉も天井に描かれているのは136羽のカササギ(鵲)。口には「POR BEM」と書かれた布を咥えているのだと。これは、侍女にキスをしているところを王妃に見つかったジョアン1世が、「POR BEM」=「善意でキスしたのだ」と言い訳したことに由来していると。王妃は何も言わなかったが、噂は女官たちの間に瞬く間に広がったと。王は「おしゃべり」の象徴であるカササギを侍女の数である136羽描かせたのだと絨毯の上には机とその脇に椅子が。世界で初めて作られたという天球儀は黄金色に寝台が置いてある部屋は「ドン・セバスティアンの部屋」。 在位1557~1578年のポルトガル王で、生涯独身で後継者を作らずに戦死したため、ポルトガルの王位継承を混乱させてしまった人壁面には、葡萄の葉のモチーフのアズレージョが貼られていた「カエサル(シーザー)の間」壁全面に架かっているのはタペストリーか?そして「ガレー船の間」、まさしく船底の如き天井 回廊の壁際にはたくさんの陶器の手描きの絵皿がケースに入れて陳列されていた王宮の二階からムーアの城跡を望む。この光景は歴代のポルトガル国王も見たのであろうズームアップして、ムーアの城跡を。登ってみたかったが時間もなく次の「紋章の間」へ行く途中の「神父の部屋」に、ポルトガルの家具が置かれていた。 17世紀のスペインのものと推定される飾り戸棚だと。西洋のものと東洋のものが同じ空間に置かれているのは、貿易が盛んだったポルトガルならではか15:31露出が合わず他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-後編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.04.07
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サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台から降り、リスボンのバイシャ周辺を散策。レスタウラドーレス広場の南、ロシオ広場からテージョ川に面したコメルシオ広場までの一帯は、バイシャ(低い土地という意味)と呼ばれる。2/13(水) 12:27レスタウラドーレス広場の舗装工の彫刻像。路面には、リスボン市旗に描かれている船が描かれていた。ポルトガルで有名な、小石を敷き詰めて模様を描き出した伝統の「ポルトガル式歩道」。 白や黒の小石で波や幾何学模様を作る伝統技術は、15世紀までさかのぼるポルトガルの植民地だった、リオデジャネイロやマカオにもこの技術が輸出されているのだと。舗装工の手仕事による「ポルトガル式歩道(Calçada)」をリスボン市長が、舗装工たちの活動に敬意を表し「都市とコミュニティとしての我々のアイデンティティーを表す芸術」であるとし設置したのだと。像は、彫刻家セレジオスチーニ(Sculptor Sergio Stichini )による作品であると『Tribute from the city of Lisbon to the pavers who build the ground we tread』『リスボンの街から、我々が踏み歩いている地面を築き上げた舗装工への賛辞』と称賛の言葉が書かれていた12:29そして観光用トゥクトゥク( TUKTUK)が出番を待っていた。東南アジアでもよく見かけたが、どちらが本家?。左奥にロシオ広場リスボンのへそ「ロシオ広場」へリスボンで最もにぎやかな広場広場に面したテラス席ジャカランタの木ロシオ広場、正式名はドン・ペドロ4世広場だが、リスボンっ子にはロシオ(公共の広場という意味)の愛称で親しまれている。正面にはマリア2世国立劇場、ポルトガルでも一流の劇場。周囲にはカフェやみやげ物屋が並び、バスやタクシー乗り場もあって1日中賑わっている広場の中央には初代ブラジル国王となった、ドン・ペドロ4世のブロンズ像像の上に鳩がとまり12:37夜遅くまでにぎわうバイシャ地区の「アウグスタ通り」。真っ白に塗りまくったストリートパフォーマーの女性ロシオ広場のすぐ東に位置する、フィゲイラ広場(Praça da Figueira)広場に立つ、ドン・ジョアン1世の騎馬像ジョアン1世(João I, o de Boa Memória, 1357年4月11日 - 1433年8月14日)は ポルトガル王国アヴィス王朝の創始者でポルトガル王(在位:1385年 - 1433年) ペドロ1世の庶子で、フェルナンド1世の異母弟。エンリケ航海王子の父に当たる。 政治・軍事の多くに成功を収め、ポルトガルの全盛期の基礎を築き上げたことから 「大王」と呼ばれているのだと かつて欧州最大の市場があったが、1949年に解体。現在も多くの商店やカフェがあった。特に老舗菓子店、コンフェイタリア・ナシオナルは有名フィゲイロ広場前の市電乗り場アルファマ一周する市電12番、ベレン行きの市電15番、またサン・ジョルジェ城へ行くバス 737番はここが始点サッカー用具12:41プラタ通りをテージョ川に向って歩き「サンタ・ジュスタのエレベーター」20世紀初頭にエッフェルの弟子のフランス人建築家によって造られた。高さ45mの巨大な鉄塔の内部を、クラシックなエレベーターが上り下りする上にはバイロ・アルトへ通じる連絡橋があって、カルモ教会の裏側に出ることができ、また頂上は展望台になっており、リスボンの街並みとサン・ジョルジェ城が一望できる12:43アウグスタ通りへ戻るロシオ広場のドン・ペドロ4世のブロンズ像が見える真っ白に塗りまくったストリートパフォーマーの女性が座りズームアップジャカランタの木越に、ドン・ペドロ4世のブロンズ像12:49ロシオ広場でひときわ光っている有名なイワシの缶詰屋さんきれいに陳列されている鮮魚が氷の上に美しく飾られた店ファドを歌う像もここでも焼き栗を販売12:57レスタウラドーレス広場へ戻りバスへ乗り、リベイラ市場へ向かう13:03前方はテージョ川、コメルシオ広場前を右折リスボンの海の玄関口「コメルシオ広場」1755年の大地震で破壊されたマヌエル1世の宮殿があったことから、別名テレイロ・ド・パソ(宮殿広場)とも呼ばれる。1908年にはカルロス1世と皇太子が暗殺されるなど、さまざまな歴史の舞台ともなった。中央にはドン・ジョゼ1世の騎馬像もあるテージョ川沿いから1本内側に入ったアルセリナ通りを進む13:11リベイラ市場の正面へ到着まずは2階に上がる。「リベイラ市場(Mercado Da Ribeira)」は、1882年開設の市場で、2014年にリニューアル・オープンし、一部「タイムアウト・マーケット(Time Out Market)」というフード・コートとして賑わっていた。青果、魚介類、肉類など、隣の市場で売られているような新鮮な食材を使った料理がリーズナブルな価格で提供されていると添乗員から有名シェフや人気レストランのお料理を気軽に食べられるほか、SUSHIやスイーツの店など45店舗が入ったフードコートになっているのだと。営業時間は、日曜~水曜:10:00~24:00、木曜~土曜:10:00~2:00 オープンなので旅行者には便利であるとこのフードコートの隣は、生鮮食品の市場になっており営業時間は、6:00~14:00フードコート横には生花店が並んでいたお馴染みのスイーツの店パステル・デ・ナタエッグタルト。ポルトガル中どこでも見かけるポピュラーなお菓子。特にベレンのものが有名で1837年創業のナタの老舗とのこと中央に多くのテーブルが。各レストランのカウンターでオーダーと支払いを済ませるとブザーを渡され、料理ができるとブザーが鳴るので、その間に席を確保しておくシステムのようであったフードコート中央を見ると「Time Out MARKET」の看板が中央に。24のレストラン、8つのバー、12のショップがあるとMANTEIGARIA SILVAポルトガル産の生ハムや郷土チーズをおいしいワインと一緒に味わうことが出来る店鮮魚の切り身もそして添乗員から集合時間14:30までは自由行動で、各自昼食を済ませて欲しいと。13:28中央のテーブルは混雑しており、店も行列ができていたので、我々は右手一番奥隅の穴場?のカウンター式の店に陣取る。イカ(CHOCO)、マグロ(ATUM)、チーズ(QUEIJO)・・・のコロッケが並ぶコロッケの専門店の「CROQUETERIA(クロケテリア)」売店の女性7種類のコロッケがあると。ビールと3種のコロッケがセットを注文、7.5€(968円)。 コロモもカラッとサクサクしていて美味しかったが、少々小腹が・・・・・・13:56と思っていたら旅友Kさんがハンバーグを追加オーダー、シェアーしていただく他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-後編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.04.06
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ジェロニモス修道院観光後は、リスボンのへそと言われる「ロシオ広場」近くに戻り、グロリア線のケーブルカーに乗り、終点駅のすぐ上の『サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台』へ。2/13(水) 11:19リスボンの市内交通。地下鉄やバスの他、リスボン名物の市電、坂の多い街ならではのケーブルカーが、市民の重要な足となっている。なお、これらの交通機関は、乗り放題券またはプリベイドカードを使用した方がお得と路面電車の電線11:22線路沿いのインド通りを走る4月25日橋の下にあるスタジアム。旅友がネットで調べるとスポーツクラブの屋根付きの設備でテニスコート等がある模様。ユニークな形状の屋根である11:24何度この光景を見たか、4月25日橋とクリスト=レイ像11:33リスボン市内の渋滞はあまりなく順調に走る車窓からのリスボン市街地11:37街路樹は散り11:42リベルダーデ通りの南端にある「レスタウラドーレス広場」。ポルトガル再独立を記念する広場で、レスタウラドーレスとは『復興者たち』という意味であると広場中央には、勝利と独立の成精神を表す、高さ30mのオベリスクが立っている。1886年4月28日に完成。16世紀末からスペインに支配されてきた屈辱の60年間。民族の自立を願う愛国者たちは、1640年ついに蜂起し、ポルトガルの再独立を勝ち取った11:45レスタウラドーレス広場の西側にあるグロリア線ケーブルカー乗り場。7つの丘の街リスボンの低い所と高い所を結ぶ、傾斜がきついのが有名なグロリア線乗り場下では焼き栗を販売ズームアップすると、中国語で、2.5€(322円)。欲しかったが、誰も購入せず!レスタウラドーレス広場ケーブルカーを待っていると、日本からの添乗員が大声で「泥棒がいるから注意してください」と。近くに若い女性三人がスマホで写真を撮る仕草をしながら歩き廻っていたのであった。三人は大声に、驚いたかアッという間に姿を消したのであった。さすがベテラン添乗員と感服と安堵しきり、やれやれ!!グロリア線の車両を横から見るとよくわかったが、車輪と車体の差が前後でかなり違うのであった。ケーブルカーの両端の駅自体が、坂道上下にあるために急傾斜を運行するのでこのような車体構造になったのだと 。それにしても車体全面が落書き?でラッピングされていた ドアーもレトロな構造下の駅の軌道は6本車体は前方と後方の高さが異なる構造。ツアー仲間が多いので二班に分かれて乗車年期の入った車両現地添乗員と何やら相談ドアーに描かれたこれは?12:01車内の床面は水平。そして我々が乗るケーブルカーへ乗り込む。ケーブルカー内でもスリに注意と我がガイドブックにも「スリに注意!」グロリア線の下側の乗り場で危うくスリに遭うところでしたと、投稿されていたわずか数分でアッという間に終点に到着し、ケーブルカーを降りる上側の乗り場。両側の壁にも落書き、ご自由にか?目的地は終点駅の直ぐ上の『サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台』。 リスボンの「モンマルトル」として知られているのだと。 現地添乗員の研修生?が案内してくれた 12:05サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台1927年と埋め込まれた、リスボンの石畳夕暮れ時が美しいサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台からの、ケーブルカーの上側乗り場展望台からの眺望は、赤レンガ屋根の連なり、遥か右方に佇むリスボンの象徴サン・ジョルジェ城が一望できた。特に夕暮れ時は、西日を受けたリスボンの街並みが黄金色に輝き、いっそう美しさを増すとガイドブックに。その左手にはグラサ修道院教会サン・ジョルジェ城の歴史は古く、最も古い遺構は紀元前までさかのぼると。その後、5世紀の西ゴート族、9世紀のムーア人が今の城の元となった城壁を築き、その後1147年にポルトガルの初代国王アフォンソ・エンリケスがレコンキスタによりムーア人から奪還、その後改修して居城とした。 最も高い要塞部分の北西には、中世の城があった。包囲された時代、もし要塞を攻撃され侵入されたら、城が最後の強固な抵抗の場所であった。 四角形の10の塔があり、歩いて塔を上ると、360度の素晴らしいリスボンの眺めが楽しめると。午後の自由時間に訪問したかったが、一人行動は危険なため断念してオプショナルツアーに参加したその左手にはグラサ修道院教会(Igreja e Convento da GraçaIgreja )絵を描く女性?多くのパステル画?が土産用に販売されていたわずか10分程度の滞在で、展望台からケーブルカーへ12:13下りのケーブルカーの到着を待つ多くの観光客を運ぶ12:15ケーブルカーに乗り先頭へ対向車線のケーブルカーが登ってきた撮影をする観光客終点が見えて来た、乗車を待つ観光客運転席の上に『栄光のエレベーター』の1885年から百周年記念メダル(1985)の碑。 表面(左)は正面から見たケーブルカー、裏面(右)は2本のケーブルカーがレール上で 交差する姿が描かれていた。 発行されたメダルは ブロンズ製、Ø80mm、230gであったと12:24レトロな運転席から上り方向他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-後編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.04.05
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発見のモニュメントの観光終了後、再びバスに乗りジェロニモス修道院に向かう。10:22駐車場近くのガソリンスタンド10:30線路をはさんでいるので高架橋を渡り自転車も悠然と走る10:36前方に4月25日橋10:38プラサ・ド・インペーリオ庭園近くでバスを降り、糸杉の中を歩いて10:41ジャカランタの木トラムの通る広い道路の方向にジェロニモス修道院が右側にそしてトイレ休憩を兼ねて、パステイス・デ・ベレン店に立ち寄るPasteis de Belémリスボンで人気のエッグタルトの老舗(1837~)の店店内には多くの観光客ショーケースの中には・・・・・・エッグタルトを頂けるとのことで、店の外で待つ各自一個を頂く、美味しかった!ネット情報によると、毎日平均10,000個売り上げる(最高は1日55,000個)とツアー仲間も観光客用の馬車エッグタルトを食べ終え10:55ジェロニモス修道院世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産のひとつであるジェロニモス修道院はヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓および、エンリケ航海王子の偉業を称え、1502年にマヌエル1世によって着工され、1511年に回廊など大部分が完成したものの、その後、マヌエル1世の死やスペインとポルトガルの同君連合による中断等もあり、最終的な完成には300年ほどかかっているとその建築資金は最初バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、その後も香辛料貿易による利益によって賄われたとジェロニモス修道院の南門修道院の名前のもととなった聖ヒエロニムスの生涯が描かれている南門は、「ポルトガルが誇るマヌエル様式建築の最高傑作」といわれている聖母マリア像を中心に、24の聖人や高位聖職者の像が据えられている内陣ステンドグラスの手前に、カモンレスの石棺教会に入って右側に、筆と竪琴が彫られているポルトガルの詩人カモンレスの石棺サンタ・マリア教会の内部に入る。ヤシの木に見立てた高い支柱には海洋をモチーフにした模様が彫られていた聖母マリアに捧げられたという、身廊と二つの側廊から成る三廊式の教会。壁画や天井画、柱の装飾の凝っていて荘厳な雰囲気がステンドグラスマリア像東側にある主祭壇にはキリストの生涯を描いた絵画が飾られ、中央にある銀製の聖遺物箱はインドから持ってきた銀で作ったとキリストの生涯を描いた祭壇画。 祭壇画は「ローレンス・サルセード」の作品中央はセバスティアン1世(D.Sebastião I, 1554年1月20日-1578年8月4日)王の棺。ポルトガル王国アヴィス王朝の王(在位:1557年-1578年)。「待望王」(o Desejado)と呼ばれていると 西側に向きをかえると二層に分かれていて、上部の聖歌隊席には磔刑のキリスト像が飾られていた。天井の複雑に交差するリブが荘厳な空間を演出していると正面からステンドグラスがきれいに幼いイエスを抱く聖母マリアの母子像。 光線が当たり、マリアの着ている衣の青が一番美しい聖歌隊席から教会内部を教会に入って左側に、インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマの棺の中央には カラベル船が彫られていた側廊を歩く。Anthony Chapelの見事な黄金の祭壇11:11サンタ・マリア教会だけを見て出口へ向かう11:13ジェロニモス修道院を出て、向かい側の発見のモニュメントを見る振り返ってジェロニモス修道院バスへ向かう11:16バスに乗りリスボンのへそ「ロシオ広場」へ他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-後編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.04.04
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ポルトガル六日目:2/13(水) ポルトガル最後の観光。7:08部屋から東の空。遠くにテージョ川に架かるヴァスコ・ダ・ガマ橋(Ponte Vasco da Gama)が確認できた。この橋は斜張橋で、リスボン近郊のサカヴェン (Sacavém) とモンチジョ (Montijo) を結ぶ。全長は17.2kmあり、ヨーロッパで最も長い橋として知られている1995年に着工され、リスボン国際博覧会開催直前の1998年3月29日に開通。ヴァスコ・ダ・ガマ橋という名前は、航海者ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達500周年を記念して付けられたと7:16朝食は6:30からオープンとのことで早速レストランへ、めずらしく野菜がある7:39日の出がビル越えで8:23朝食を終え、部屋からテージョ川8:41ホテル前、市内観光は9時からリスボン市街地の案内板9:05予定どうり、現地ガイドの井上順子さんの案内で市内観光へ出発9:14車窓からの市街地。以下の説明は、現地ガイドからポルトガルの給料は、最低600€(約8万円)と低いが乗っている車は高級車だと9:18闘牛では、スペインは牛を殺すが、ポルトガルでは殺さないと9:20前方にアグアス・リブレス水道橋、シントラから18kmひかれているリスボンはユニークな地形で七つの丘があるので水道橋も多い?9:25車の人気は、1位:トヨタ、2位:フォルクスワーゲンであったが、最近はベンツだとこの先を右折するとシントラ方面への道9:31ジャカランタ並木で、5~6月には満開になるとジャカランタは南アフリカで知られているが、日本でも熱海海岸で咲いているインドのガンジー首相の像、何故ここにあるのかは???9:37カスカイス線の電車カトリックの記念碑「クリスト=レイ像 」リオ・デ・ジャネイロにあるコルコバードのキリスト像に触発されて造られた。1959年5月17日に除幕。当時ポルトガルはアントニオ・サラザールの独裁下にあり像の建設はサラザールの命で行われた9:41バスを下車、ベレンの塔へ。トーレ・デ・ベレン庭園の東側エリアにある水上飛行機のモニュメント。これは南大西洋を縦断し南米まで飛んだサンタ・クルス号のレプリカ1922年6月にポルトガルの海軍士官、サカディラ・カブラル操縦士、ガーゴ・クーチホ航法士らが、ポルトガルのリスボンからブラジルのリオ・デ・ジャネイロまで横断飛行に成功した事を記念して作られたのだと。飛行距離は8383km、飛行時間は62時間26分であったと。ちなみに本物の機体は海洋博物館に展示されていると ベレンの塔6世紀にマヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られた。テージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。建築様式はマヌエル様式である。ベレンの塔はリスボンのベレン地区にある塔で、「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産として世界遺産リストに登録されているオジサンも記念写真司馬遼太郎が「テージョ川の貴婦人」と表現した優美な石造りの塔塔の屋上部には、四隅に見張り櫓があるテージョ川の上流に架かる「4月25日橋」クリスト=レイ像テージョ川は、スペインから1200km流れる川9:54バスに戻りながらサンタ・クルス号のレプリカを再び10:00バスに乗り「発見のモニュメント」へ移動インド通りを走ると再びカスカイス線の電車が。車体には多くの落書きが10:03発見のモニュメント記念碑正面にある石畳には、多くのポルトガル人航海者が大陸や国に到達(発見)した年が記述された世界地図のモザイク画が描かれていたモザイク画の上で説明雲ひとつない青空にジェロニモス修道院が白く輝いていた東南アジアの国々。1512年、現インドネシアのモルッカ諸島へとポルトガルが上陸。このモルッカ諸島は、香辛料の中でも特に貴重なナツメグが取れる唯一の地域であったため、この地域をめぐって西欧各国で争いが激化した。最初はスペインと香辛料の独占をめぐって争ったが、ポルトガルが支配権を勝ち取った。その後、世界の覇権がポルトガルからオランダへと移り変わった17世紀前半に、オランダへと支配権が移って行ったと西側の像西側の人物はエンリケ皇太子を入れて17名東西併せてヴァスコ・ダ・ガマをはじめとする33人の偉人像を従えて、堂々とエンリケ航海王子の像が エンリケ航海王子を先頭に、エンリケの弟、航海士が続く天球儀のモニュメント向かい側に線路をはさんでこの後訪問する「ジェロニモス修道院」東側の像記念碑の中には入ることも出来、小さなスペースがあってリスボンの歴史を展示している他、屋上までエレベーターで上がれるが今回のツアーでは残念ながら。屋上は狭いが、ベレン地区やテージョ川の素晴らしい眺めを堪能することが出来るこちら側もエンリケ航海王子を先頭に。6人目が「フェルディナンド・マガリャインス(マゼラン)」史上初の世界一周達成後ろから二人目が「フランシスコ・ザビエル」- イエズス会宣教師現地添乗員と記念写真10:18多くの観光客が他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-後編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.04.03
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昨日に連続してポルトガルのブログの合間にアップします。ポルトガルの旅(その20)は明日3日から再度アップしますのでよろしくお願いします。4月1日(月) 発表の新元号は『令和(レイワ)』に来月5月1日から、令和5月1日になる4/1(月) 11:41NHKは朝8:15からニュース「新元号発表」を報道。予定より遅れて、菅官房長官から発表された(以下写真はTVから)なんとなく菅官房長官はにゃけた感じがしたが、私だけが感じたのか出典は1200年前の歌集「万葉集の序文」からと。従来は中国の古典籍からであった朝からのNHKの報道で知ったことは 1,元号の最初は、645年の「大化」、1400年後の現在の「平成」は247番目の元号 2,今回の元号「令和」が248番目になる 3,今までに使用された漢字は72種類で、多い漢字は ①「永」が29回 :文永、寛永、永禄、宝永、安永、嘉永、・・・・・ ②「天」「元」が27回:天平、天保、元亀、元禄、元文、・・・・・ ③「治」が21回 :治安、治承、元治、明治、・・・・・ ④「応」が20回 :元応、応仁、慶応、・・・・・ ⑤我が人生は、昭和、平成、令和と三代にわたっているが更に夜のニュースで、今後使用する『令』の書体についてもNHKで放送私は、いつも後者を使用しているので ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3月に入ってからの庭の花3/12 ミツバツツジ3/12 カタバミ ?ポルトガル ロカ岬の斜面一面を黄色の絨毯で覆っていた3/12 ハクモクレン咲いているときはきれいだが花の命は短く3/12 カンヒザクラ(寒緋桜)桜の中では早咲きの桜カンヒザクラ、いろんな桜と交配して新種を3/12 道祖神3/13 我が畑のブロッコリー旅友からもらった苗だがようやく収穫、この後は脇芽を楽しんでいるアスパラも芽を出し数日後には収穫3/14 ジャガイモを植える3/18彼岸前で・・・・・富士もきれいに見え木の枝にとまるホオジロ3/30 畑に来た「ジョウビタキの♀」畑仕事をするといつも飛んでくる3/31 野球のグランドのタンポポ春になり蝶々も飛来これ以降は、4/1 の自宅廻りの花です。雨に濡れた「ハナニラ」マーガレットクロッカスワスレナグサ(勿忘草)クリスマスローズマンサク ?ブルーベリーの花染井吉野まだ三分咲き花桃菜の花も終盤にポピー ?蕊をとらえる白い色のオオシマザクラオオシマザクラこの桜の種類は?染井吉野カタバミ ?陽を浴びて満開に芝桜も満開に枝垂桜セグロセキレイコブシ(辛夷)と桜枝垂桜中学校の裏に咲く染井吉野は満開 END
2019.04.02
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今日から4月に入り、公共機関&大半の企業は新年度になる。さて、今日は新年号が発表されるがさて「??」どうなるのか。私にとって、昭和、平成、「??」と人生を送ってきたが・・・・・。日本各地は桜が咲き、桜前線も北上して各地で「さくらまつり」真っ盛り。さて私のブログも「ポルトガルの旅」が、その19まで公開、後はリスボンの市街地観光だけになり、今日はこれからのブログの予告をします。現在、弥次さんと東海道53次に挑戦中。昨年の、’18年2月15日に「日本橋」から始めた。その後、四国八十八ヶ所札所めぐり等がありしばらく中止していたが、四国札所めぐりも結願したため、涼しくなった昨年の10月20日より再開した。まず本を購入、右側:日本橋 ~ 見付宿、左側:浜松宿 ~ 三条大橋/高麗橋日本橋 ~ 見付宿3月27日の段階で、日本橋から24番目の宿場「金谷宿」まで到達。昨年の2月から延べ15回目の道中記既に公開しておりますが11回目:1月28日(月) 吉原宿からの「左富士」これ以降は、4月10日以降の公開となります。12回目:3月8日(金)JR富士駅から、蒲原宿、由比宿、興津宿へ。この日は天気が良く富士山が良く見えたが、最後の薩埵峠では雲に隠れる。富士川からの富士山蒲原宿への途中、曹洞宗 清源院からの富士山東名高速道路の高架橋からの富士山薩埵峠では生憎の雲が発生、富士の頂上のみが見える興津駅までは、通常料金での切符を購入していたが、往復2,370円を超えると「青春18きっぷ」が良いと聞いていた。このため、興津駅(1,940円)までたどり着いたので、早速3月14日(木)にみどりの窓口で購入した。ちなみに、切符代が11,850円で5回分であるため、片路1,185円を超えると日帰りで出かけこの切符を利用するとメリットが大。青春18きっぷでの道中記有効期間が4月10日(水)であるので、それまでに利用し終える必要がある。このため、弥次さんとスケジュールを相談して行動予定。13回目:1回目:3月15日(金)興津宿から丸子宿へ。乗車券は茅ヶ崎 → 興津、安倍川 → 茅ヶ崎JR興津駅から、興津宿、江尻宿、府中宿、丸子宿へ。江尻宿の「追分羊かん」本店府中宿の「西郷・山岡会見碑」府中宿の「油井正雪碑」この日は、9時間 40,300歩の道中でした。14回目:2回目:3月20日(水)丸子宿から藤枝宿へ。乗車券は茅ヶ崎 → 安倍川、藤枝 → 茅ヶ崎JR安倍川駅から、丸子宿、岡部宿、藤枝宿へ。丸子宿の「丁子屋のとろろ汁」、この日は休業日丸子宿の「明治のトンネル」前で記念写真宇津ノ谷峠道藤枝宿の蓮生寺境内に咲いていた枝垂桜この日は、8時間40分 36,970歩の道中でした。15回目:3回目:3月27日(水)藤枝宿から金谷宿へ。乗車券は茅ヶ崎 → 藤枝、金谷 → 茅ヶ崎上青島一里塚手前の旧東海道(県道222号線)の松並木大井川に架かる蓬莱橋(ホウライバシ)。全長897.4m、幅2.4mで人が歩いて渡る木造の橋の長さとしては世界一で、1997年12月30日ギネスブックに登録された。渡橋料金は大人100円島田宿に入り「川越遺跡」川会所大井川の川越業務の管理・運営を行った。業務内容は、その日の水深による川越賃銭の決定、川札(切符)の販売、通行人の渡河順序の割り振り、荷物の配分などだった。満開の桜は、オオシマザクラ?大井川を渡り金谷宿へJR金谷駅裏の長光寺に咲く枝垂桜この日は、7時間35分 31,000歩の道中でした。16回目:青春18きっぷ4回目:4月3日(水)の予定金谷宿から掛川宿へ。乗車券は茅ヶ崎 → 金谷、掛川 → 茅ヶ崎桜の開花はどうなっているか楽しみだが、金谷駅からは急な坂が続く!17回目:青春18きっぷ5回目:4月10日(水)の予定掛川宿から見附宿へ。乗車券は茅ヶ崎 → 掛川、磐田 → 茅ヶ崎頑張って天竜川まで行けるか?青春18きっぷ利用状況青春18きっぷによる効果は、14,850円。しかし、普通列車利用のため、3時間近く座っているのも疲れます END
2019.04.01
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ロカ岬の後は、海岸線を南下して約42km先の今夜の宿泊地リスボンへ移動。2/12(火) 16:06バスの車窓からのロカ岬の北方向。シントラ山脈16:15車窓からは、再びオオキバナカタバミ?の花が丘の斜面に咲き乱れていた陽光に水面が輝く大西洋。サンセットを観たかったが16:23バスのドライバーが、天気が良いので海岸沿いの道路N247を走って、海岸の景色を楽しみながらリスボン市内に向かってくれる、と添乗員から。 先程訪れたロカ岬方面をギンショ海岸(Guincho Beach)を車窓から16:24この辺りのサンセットも最高では16:32観光客が多く沖の舟をズームアップ岩だらけの海岸16:36ドライバーの好意で途中臨時停車し『地獄の口(Boca do Inferno)』の観光。地獄の口とは、ユーラシア大陸西端部のイベリア半島西端部の海岸に、存在する洞窟、因みに、ポルトガル語の「boca」は「口」や「入口」という意味で「inferno」は「地獄」という意味であると。大西洋の荒波に岩が削り取られてできた洞窟とのこと。 『地獄の口』案内図地獄の口先程横を通ったカボラソ灯台(Cabo Raso Lighthouse)が見えた遠くには貨物船の姿が岩場では釣り人が断崖が続く灯台をズームアップ散策道から覗くと大きな穴が開いていた。 そこに、波が打ち寄せるのであったが、この日は波も静かに・・・。 荒天時には、洞窟の入口に波が壮観に押し寄せるため、この場所はカメラマンの 人気スポットであると 順番に記念写真を撮影カメラマンの人気スポット道路脇の花壇に花が咲きここにもカルポブローツス・エドゥリスの花がきれいに咲き16:51約20分間の撮影タイムをサービス願いバスへ乗り込む17:07リスボンのカイス・ド・ソドレ駅から約30分でカスカイス駅への鉄道17:10Forte da Cruz。 ポルトガルでの高級ウェディング会場でありオペラやコンサート会場もあると17:20プライア・デ・カルカヴェーロス(Praia de Carcavelos)はエストリル(Estoril)の海岸で、最大の砂浜がある海水浴のメッカ。その手前にあったのが、サン・ジュリアン・ダ・バーラの要塞(Forte de São Julião da Barra)17:28そしてテージョ川の河口まで進む。多くの小舟が浮かんでいた釣り船か?そして見えて来たのが4月25日橋(Ponte 25 de Abril)。4月25日橋は、リスボンとテージョ川対岸のアルマダとを結ぶ長さ2,277 mの吊り橋。1966年8月6日に開通、建設したのは、サンフランシスコのサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジと同じアメリカン・ブリッジである17:35カスカイス線(Linha de Cascais)の電車が横を走っていた17:40明日、観光予定の「ジェロニモス修道院」17:424月25日橋の下を潜る。 長さは2,277 mで、上段が6車線の道路、下段が複線の鉄道となっているのだと。開通した当初は、当時のポルトガルの独裁者アントニオ・サラザールにちなみ、サラザール橋と呼ばれていたが、1974年4月25日のカーネーション革命のすぐ後、革命が起こった日から名前をとって改称されたと17:434月25日橋からの陸上側の高架17:56狭い路地のレストランへ到着18:00今夜の食事はレストランで「タコのリゾット」。テーブルには、既に天ぷら、野菜のステックが置かれていた18:02パンを食べながら天ぷらを。天ぷらは、室町時代に鉄砲伝来(1543年)とともに、ポルトガルから伝わったといわれているビールは、やはり都会だけに、7€(903円)と高い18:25スープも出たが、上品な「前菜」も18:43タコのリゾット、はじめての食だが美味しかった!19:10最後はアイスクリーム19:25食事を終え狭い路地でバスを待つ夜になると冷えてくる20:00ホテルへ到着、今夜の宿泊ホテルは、ラマダリスボン(旧オライアスパーク)へ連泊。20:35ベッドが近いので、写真撮影後横へスライド21:28カレーの具とポルトガルで購入したタコの缶詰を食べながらワインを飲むポルトガル五日目は、漁師の町ナザレから南下してロカ岬経由リスボンへ、210kmのバス移動でした。この日の歩行数は9,250歩でした。他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅ー続く
2019.03.31
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オビドス観光を終え、南西部にあたる約132km離れたロカ岬へ。2/12(火) 13:58オビドスの城壁を歩いた怖さから離れ、バスで一路ロカ岬へ向けて高速道路を走る高速道路脇の畑にはブドウ畑14:02A8系統を走り「トーレス・ヴェドラス(T.res Vedras)」方面へ14:18山の上には風力発電14:19車窓からの民家だが、高層アパートが14:22北海道の美瑛のような風景である14:24A8系統「ロウレス(Loures)」経由、リスボンへ26km。ロカ岬には途中で西方面へ海岸線が近いので風力発電が多いのか14:35高速道路は山を越え14:45高速道路の料金所料金所の横の看板リスボン(Lisboa)10km、オエイラス(Oeiras)6km、カスカイス(Cascais)19km15:05一般道路に入いる、家庭用の風力発電か?道路脇の斜面には黄色の花が一面にカタバミの一種であろうか?オオキバナカタバミ?それとも黄色のオギザリス?遠くに大西洋も15:10ロカ岬の標識(Cabo da Roca)15:13車窓からのロカ岬灯台大西洋も光り輝き15:16ロカ岬へ到着。レンタルの小型の電気自動車で散策できるのか?ロカ岬は、ポルトガル共和国リスボン都市圏にあるユーラシア大陸最西端の岬。北緯38度47分は日本の福島市とほぼ同じ緯度高さ140mの断崖の上に建つロカ岬灯台ロカ岬から南方向カトリック教徒の十字架が先端部に。 十字架のモニュメントはロカ岬のシンボル塔の前で記念写真。この日は珍しく風もなく帽子も飛ばされず碑の前は断崖絶壁多くの観光客が訪れていた石碑には、ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩20節の一節が刻まれている 「ここに地終わり 海始まる AQUI ONDE A TERRA SE ACABA E O MAR COMECA」北方向を望む柵の外は断崖絶壁黄色のカタバミの花の中に多肉植物が群生していたカタバミの花添乗員の話だと珍しく風がないと姉妹の何に?万歳大西洋に沈むサンセットも最高では灯台の周りにはレストランもある南方向北方向を望むが断崖絶壁中国人観光客、柵が無いので危険!多肉植物が群生多肉植物の花常緑多年草多肉植物のカルポブローツス・エドゥリスであろうか?ハリエニシダの花棘があり痛い風が強いのか低木ばかりの岬カタバミの花16:00石碑の立つ断崖の先には大西洋が拡がる。最近は観光客が多くなりスリ等が増え、馬に騎乗した警官が警備旅友は『ユ-ラシア大陸最西端到達証明書」をもらいに添乗員とビジターセンターへ。証明書は2種類の中から選べて11€で大きさはA3版とのこと。ネットで調べると、この最西端到達証明書の保有率ナンバーワンは日本人。他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅ー続く
2019.03.30
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城壁に囲まれたオビドスを自由散策、各自で昼食をとりバスへ。2/12(火) 11:30入口からここまで案内されこの場所で解散。集合は駐車場へ 13:45最奥の広場からのオビドス郊外サンティアゴ教会の塔場内に咲いている花、カタバミ城壁の岩にポザーダ・カステロ・オビドスポルトガルでは歴史的建造物をこのように宿泊施設に改修してよく利用するのだと。15世紀の城を改装したポザーダで、中世の城で優雅な一夜を!宿泊料金は、シングル(160€=20,640円~260€)、ダブル(170~270€)11:40城壁の歩行は危険なため、添乗員から自己責任でと言われたが、オビドスの北側城壁の上を歩くことに決断。そして添乗員から「難しい漢字の名前(戒名)」に変わらぬようにくれぐれも注意と。この辺りは怖くないが、徐々に高くなる北側には鉄道が走り「オビドス駅」が城壁の下にあるが無人駅城壁頂部から北西方向の眺望。田園も拡がっていたが、足元は・・・・・ 城壁の上からのポザーダ・カステロ・オビドスと白いサンティアゴ教会 城壁の北側を望むが、高くなっており壁に寄り添って歩く。引き返すこともできず進行方向左側には手摺がないため、城壁頂部を足元をしっかり確認しながら進む。この辺りは地上から約13mか?私にとって風があると怖くて登れなかったが、この日は幸いに風もなくどうにか11:48ようやく城壁頂部にたどり着き一安心、オビドスの街並みを望む歩いてきた城壁、今思っても足元が震える・・・・・手摺もなく、大人ひとりがやっと歩けるほどの幅城壁の最上部から、手前にサンティアゴ教会とポザーダ・カステロ・オビドス。ここから右の城壁は通行禁止になっており、ここから下へ降りる城壁の下では旅友がズームアップすると城壁の下で旅友が談笑11:53城壁から降り、ディレイタ通りへ夏にはブーゲンビリアがきれいに咲く場所だと猫ものんびりと、ゼラニウムで彩られる路地サンタ・マリア広場右手にあるアーケードの付いた建物は旧市場。また正面にはペロリーニョ(罪人のさらし柱)が立っている教会の隣の建物がかって市庁舎だったため、権威の象徴として、1513年にペロリーニョが立てられ、罪人は見せしめのため籠に入れてここに吊り下げられた12:30ディレイタ通り沿いの「tasca torta」で旅友4人で昼食。スープ、サラダ、サンドイッチをオーダー。12:55しばらく待ち、まずスープが出てくるお疲れ気味の姉妹瓶ビールを飲むが出てくるのが遅くサラダとサンドウィッチを4人でシェアー。サンドイッチの数が一つ足りなかったが、正確な数が通じていなかった模様 サンドイッチとポテトチップツナサラダチキンサラダ店内で販売していたエッグタルト?13:29食事を終え精算(各自9€=1160円)、ショーケースにはいろんなスイーツが13:32ディレイタ通り、集合時間が13:45のためバスへ急ぐオビドスのお酒『GINJINHA(ジンジャ)』ジンジャはサクランボを漬け込んだ果実酒。アルコール度数は18~20%でワインより少し高め。製造の過程で砂糖や水、シナモンなどを使用することもあると。チョコレートのカップでジンジャ(1€)を飲ませてくれる口先がついたカップで一杯飲むが、私はこのカップがチョコとは知らず捨てる。旅友にカップはチョコで食べれるのだと聞き急いで拾い上げて食べるお土産に1セット(7€=903円)購入ジンジャーチョコを購入した後、集合時間が13:45のため急いでバスへ戻る13:45水道橋:16世紀に造られた、長さ3kmの水道橋の端っこであると13:51車窓からの水道橋他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.29
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カルダス・ダ・ライーニャの朝市を散策した後、約7km南に位置する城壁に囲まれた人口800人程のオビドスへ向かった。2/12(火) 10:38高速道路を走って南下。標識はガソリンスタンドまでの距離と、それぞれの値段か?10:41丘の上にオビドスの城壁が見えてくるオビドスは「谷間の真珠」と呼ばれる絵のようにかわいらしい町で、夏には色とりどりの花々が軒先を彩る。その歴史は、ローマ時代に海からの敵の進入を防ぐため、砦が築かれたことに遡る10:43間もなく高速道路を降りるイスラム教徒に征服された後、1148年にアフォンソ・エンリケスによってムーア人の支配が終わると、町の再建が行われた。1282年にはディニス王が、オビドスを訪れすっかり魅了されてしまった王妃イザベルに町を贈り、以後1834年までオビドスは代々の王妃の直轄地となったオビドスのカトリック教会オビドスは、王妃に愛されてきた美しい町である10:51駐車場にバスを止め城壁内へ向かうバス駐車場入口の右側には城壁が続いていたポルタ・ダ・ヴィラ:おとぎの国への入口。イスラム時代に造られたオビドスのメインゲート。写真は南口で、町の外側を向いている入口の看板???正面の門は入らず左側の入口から入るポルタ・ダ・ヴィラ内は、敵の進入を防ぐために二重のジグザグ構造になっており、アーチ形のジグザグ通路の内側は18世紀のアズレージョで覆われている。現在は修復中で見れなかったが、小さなお堂が祀られている11:05『谷間の真珠』と呼ばれる中世の面影を残す美しい村。 正面に「カモンイス記念碑」ポルタ・ダ・ヴィラを抜けるとディレイタ通りが目の前に続いているが、そのすぐ右脇の広場にポルトガルの詩人カモンイスをたたえる記念碑が建っているカモンイス記念碑の前は、像ではなく女性が銀粉を体中に塗っているポルタ・ダ・ヴィラを振り返る。銀粉の女性の写真を撮り、コインをBOXへ城壁の修理狭い小路の下には様々な植物や花が植えられていた。オビドスでは家の壁が青や黄色で塗られているが、これは町の旗にこの2色が使われているためだと添乗員の説明を聞きながら、更にディレイタ通りを村の奥に向かって進む飾りつけされたディレイタ通り、夏にはゼラニウムが彩るディレイタ通りから上の路地ディレイタ通りには、この地方の特産品である陶器や編み籠を並べたみやげ物屋があるサン・ペドロ教会添乗員から自由時間での昼食場所の説明ディレイタ通りから下の路地11:15サンタ・マリア教会。 真っ白な外観が印象的なサンタ・マリア教会は、城壁に囲まれたオビドスの街の中心にあった。 エンリケ航海王子の甥であったポルトガル王アフォンソ5世が、1444年にまだ10歳の頃に、わずか8歳のいとこイザベラと結婚式を挙げた教会であると。 内部の壁は、全面が17世紀の美しいアズレージョで覆われているペロリーニョ(罪人のさらし柱)とサンタ・マリア教会路地の先にサンティアゴ教会サンティアゴ教会、右奥にポザーダ・カステロ・オビドスサンティアゴ教会、現在は本屋さんになっていた上空に飛行機雲監視台は自然の岩山の上に建っていたサンティアゴ教会の横にある北門をくぐり更に奥に進む11:25春も近くになり花が咲き他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.28
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ポルトガル五日目:2/12(火)今夜の宿泊地はリスボン、ナザレから南下しながら途中いろんな場所へ立ち寄る。6:02 ホテルの部屋から、北側にある崖上のシティオ地区。明るい照明は丘へのケーブルカー7:11 日の出が近くなった崖上のシティオ地区同時間に、東を望む7:32 ポーターが荷物を運んでくれるので部屋の外へ出し、最上階の五階食堂へパン&ハム7:43 ホテル食堂から南方向7:59 日の出前の東方向同時間の、北方向の丘に日の出が当たり8:03 出発が9:00で集合が8:50 のため、海岸へ散歩することに。オープンエアのカフェが並ぶソウザ・オリベイラ広場宿泊ホテルの五階建ての「マーレ」(白色の建物)。五階のレストランからの眺めが良いホテル8:05広いナザレの海岸ナザレの町は、砂浜に沿って広がるプライア地区、崖上のシティオ地区、東側の丘にある最も古いペデルネイラ地区の3つからなっている昨夜行ったレストラン8:08陽が昇る足長オジサンが撮影ナザレといえば、1954年のフランス映画『過去をもつ愛情』の中で主題歌『暗いはしけ』をアマリア・ロドリゲスが歌ったシーンで、日本でもなじみになった港町。この地の名は、8世紀に西ゴート王ロドリゴがロマノという僧を供にこの地までやってきたとき、彼が携えていたマリア像が、はるかイスラエルのナザレのものだったことに由来する高い波が押し寄せる崖の上には、サン・ミゲル要塞がある沖には漁師のボート?ナザレは、独自の風習を残す漁師町である昨夕、夕陽を見に行った展望台二人で記念写真鳥たちが餌を求めて沖にはヨットも静かに砂浜に押し上がる波餌を求めて海岸に押し上げられたカニは鳥に食べられて抜け殻にクラゲも押し上げられ8:32プライア地区の狭い路地を歩きホテルへ戻る9:119時にホテルを出発、ナザレから約29km先にある、カルダス・ダ・ライーニャへ向かう。丘の上に建つ民家高速道路を走り9:37カルダス・ダ・ライーニャへ到着。オビドスの北に位置する人口2万人ほどの町。「王妃の湯治場」という名のとおり、ジョアン2世の王妃レオノールが設立した鉱泉温泉がある。像は、ポルトガルの女王 レオノールデエイビス像ドン・カルロス1世公園の前でバスを降り、朝市へ向かう9:42毎日広場で開かれる、この町の台所である「レプブリカ広場」の朝市へ近郊の村々から運ばれてきているナッツ、手作りのお菓子ナス、キューリ、トマト等いろんな野菜レタス石鹸の販売、手作りチーズも売られている大きいかぼちゃは切り売り太いネギかごに入れた花(5€=645円)シクラメン(4.5€=580円)カルダスと言えば、もうひとつ、この町で忘れてはならないのが陶器であるが、この日は開店していなかったお土産で蜂蜜を購入、4€(516円)/500g と安かった朝市見学を終えバスへ向かう10:19陶器が並ぶ土産物店の前を歩きバスの待つ「ドン・カルロス1世公園」へ10:25 次の観光地オビドスへ向かう。他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.27
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トマールの世界遺産「キリスト修道院」から、約80km離れた今夜の宿泊地ナザレへ向かう。途中、添乗員から天気が良く夕陽が期待できるとのことで、明朝行く予定の丘へこれから行き夕陽を見ることに。2/11(月) 16:40トマールから西方向へ高速道路を走る空には雲がなく日の入は18時頃か?16:57走行している車が少ない山には風力発電17:29崖上のナザレのシティオ地区へ到着シティオ地区にある「ノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会」(右側)現在の建物は17世紀のもので、ナザレの守護聖人たちが祀られている。祭壇付近から翼廊まで旧約聖書を題材とした18世紀のアズレージョで飾られており、また祭壇の左横から裏へと続く通路もアズレージョで埋め尽くされている。奥には階段があり、上れば祭壇中央のマリア像にたどり着く。このマリア像こそが、ロマノ僧ゆかりの聖母像だ。内部は見事なバロック様式になっているが時間がなく訪問できず試食品の豆菓子をもらい既婚の女性は7枚重ねのスカートを着ることで知られている17:34崖上のシティオ地区から、長い砂浜に沿って広がるプライア地区を見下ろす夏の砂浜は、ポルトガル国内はもとよりヨーロッパ中から訪れるバカンス客で砂浜が埋め尽くされる17:37夕陽も期待できる17:40姉妹で記念写真17:41崖上から見る砂浜の波が幻想的であった動画で見せれないのが残念!17:42大西洋に沈む太陽17:45夕陽を浴びるナザレの街カモメも舞い18:00大西洋に沈む太陽大西洋に沈む太陽は、自分にとっては初めての経験18:01まだ見たかったが夕食の時間もあるので海岸へ下ることに18:09丘から降りて海岸線へ18:13静かな砂浜18:19太陽も沈み18:20穏やかな海岸18:20サン・ミゲル要塞がある18:46宿泊ホテルの「マーレ」へ到着しばし部屋で荷物を整理した後、夕食のためにロビーに集合(17:20)してレストランへ19:33ホテルから歩いてレストランへ今夜の夕食は「いわし料理」まずビールをオーダーするが、リゾート地だけにビールの値段も8€(1,032円)と高い19:46魚のスープ20:01野菜を盛られ20:04ウエイターが、いわしとジャガイモを持参各プレートに、いわしを3本とおおきなジャガイモがのせられる。久しぶりに焼いたいわしを食べたが完食20:27最後にデザートで「焼きリンゴ」20:40レストランにあった魚20:41レストランを出てホテルへ20:42夏場は海水浴客で賑わっている朝、時間を間違えて一時間早く起きたので早めにベッドへ入る。今日の歩数は、9,300歩でした。他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.26
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トマールにある世界遺産の「キリスト修道院」を散策した。2/11(月) 15:18南門から城門方向を望む墓の回廊(Claustro do Cemiterio)ゴシック様式の回廊で15世紀にエンリケ航海王子が増築した回廊のひとつで、修道士たちの墓所となっている。アズレージョは17世紀の改築の際に付け加えられたもので壁を彩っている沐浴の回廊(Claustro da Lavagem)かっては貯水池があり、修道士たちが洗濯や沐浴を行った2階部分も回廊になっており、1426年頃から作られ1453年に完成した城門を望む沐浴の回廊から東側を見下ろすと、エンリケ航海王子の住居だった宮殿の廃墟航海王子は、1420年から40年間ここで暮らした沐浴の回廊から見える、修道院主要部鐘楼がくっついた円形の砦のような感じに見えるが墓の回廊新聖具室(Sacristia Nova) 16世紀のもので、礼拝堂の1つにある幻想的に装飾された天井。真ん中には、ポルトガル紋章と弧状球と一緒にテンプル騎士団の十字架がテンプル騎士団聖堂(Rotunda)入口エルサレムの聖墳墓教会に倣って12世紀後半に造られた。ビザンチン風ロマネスク様式の聖堂。16角形の円堂になっており、騎士たちはすぐ戦いに行けるように馬で回りながらミサに参加したと円堂の外側は16角形、内部は8角形で、ゴシック、マヌエル様式の彫刻と絵画で彩られている。円堂中央部の8角柱と周歩廊の壁画はゴシックの天蓋で覆われ、聖者と天使の彫刻で飾られている 左側は絵画中央洗礼室のキリスト像キリスト像をズームアップ聖堂の天井フレスコ画のなくなっている壁も主回廊(Claustro principal)ジョアン3世時代の16世紀、ジョアン・デ・カスティーリョによって造られた。1581年、ポルトガルを併合したスペイン王フェリペ2世は、ここでポルトガル王フィリペ1世として戴冠した。イタリアの影響を受けたルネッサンス様式サンタ・バルバラの回廊(Claustro de Santa Barbara)のテラス上部にある、世界に躍進した当時のポルトガルを偲ばせる模様 マヌエル様式の窓(Janera Manuelina) テラス上部にある、16世紀に世界に躍進した当時のポルトガルを偲ばせる模様。マヌエル様式の傑作として知られているもので、キリスト騎士団のマルタ十字、国の紋章と大航海時代を代表する海草、サンゴ、ロープ、鎖といったモチーフが盛り込まれたダイナミックな彫刻で飾られている 廊下の両側に並ぶ入口もそれぞれ個室になっていた廊下の天井廊下のアズレージョアズレージョ食堂顔の前で手を合わせているが台所のかまどオリーブオイル貯蔵庫(olive oil cellar)ミシャの回廊(Claustro da Micha)1543年に完成、回廊の西側の部屋にはパンを焼くかまどがあり、当時はここで貧しい人々にパンが配られた地下水槽への螺旋階段16:06宿舎の回廊(Claustro da Hospedaria)16:16キリスト修道院の観光を終えて外へ出る熟した柿か?アンズの花か?キリスト修道院の丘から16:19修道院の観光後、ナザレへ向かう他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.25
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2/11(月) 13:36昼食会場の「ポサーダ デ コンデイシャ コインブラ」コニンブリガの遺跡から 2.6 km 、コインブラ大学から16.5 kmのファミリー向けの4つ星ポサーダ。このポサーダ(POUSADA)には43室の部屋と、レストラン、屋外プール、およびフィットネスセンターがあるとのこと。ポサーダとはかつて国の重要なものだった建物などを改装したポルトガルを代表するホテルレストランの位置(パンフレットより)前庭から郊外を望むカタバミの花前庭にあるプール夏のホテル(パンフレットより)庭のオレンジの木昼食後、出発まで時間があったので廻りを散策ポサーダ デ コンデイシャ コインブラ前、他のツアーバスも看板も無く店?樹形は枝垂桜だが、ポルトガルに桜があるのか?ポルトガルもこれから木々の芽吹きがはじまる片側は車の駐車エリアで一方通行になっているCONIMBRIGA(コニンブリガ)方面ポルトガル国内では最大級の古代ローマ遺跡がある修道院の建物か?歴史を感じさせる壁だがポルトガルのコインブラという街は、古い大学街で、坂が多く川があり陶器店も多くのどかな町であった。細かな絵付の陶器ポサーダから前庭を、14時に出発してトマールへ14:00 昼食後、約69km離れたトマールへバス移動。14:07車窓からの地中海松、自然に樹形が丸くなっている高速道路は丘、山の上を走りトンネルがない。日本でも東北自動車道は仙台までに2ヵ所しかない(余談ですが)住宅街も丘の上が多いこの辺りもブドウ畑が多い高速道路14:51サービスエリアのガソリンスタンド15:01トマールが近くなる。ナバオン川の畔に広がるトマールの町は、マヌエル様式の美しい修道院と、4年ごとに行われるタブレイロスの祭りで知られているこの地に修道院が創設されたのは12世紀のこと。1147年サンタレンの戦いに勝利し、レコンキスタに貢献したテンプル騎士団に、アフォンソ1世がその恩賞として土地を与えたのが起源とされるアンズの花?テンプル騎士団が弾圧された14世紀以降はキリスト騎士団に受け継がれ、当時団長を務めていたエンリケ航海王子は、その豊かな財力によってポルトガルを大航海時代へ導いた15:06キリスト修道院の案内板キリスト修道院の城門1983年に世界遺産登録された城門を入り南門へ城門を振り返る城壁に沿って南門へ12世紀末から16世紀まで5世紀にわたり増改築が続けられた修道院は、ポルトガル最大の規模を誇るアロエがきれいに咲きテンプル騎士団聖堂(Rotunda)エルサレムの聖墳墓教会に倣って12世紀後半に造られた。ビザンチン風ロマネスク様式の聖堂。16角形の円堂になっており、騎士たちはすぐ戦いに行けるように馬で回りながらミサに参加したと南門(Portal Sul)扉は現在、閉鎖されているリスボンのジェロニモス修道院を手がけたスペイン人建築家、ジョアン・デ・カスティ-リョが1515年に建造スペインのサラマンカで生まれたプラテレスコ(銀細工)様式で装飾されている天球儀をズームアップ15:17ポルトガル建築の変遷がたどれる他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.24
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コインブラの観光の後、トマールへの途中昼食をとる。2/11(月) 10:57中庭に面して、旧大学の時計塔&ラテン回廊像はジョアン三世(1502~1557)で、父親はマヌエル一世大学の教授???左にラテン回廊、中央に鉄の門 マヌエル様式の門・ファサード(Portal Manuelino)。 サン・ミゲル・チャペルや聖ミカエル教会とも呼ばれる礼拝堂が内部にあると 11:15正面の「鉄の門」を出て、右手には芸術学部/文学部の校舎と像丘の上の大学から坂を下って下町へ。新カテドラルイエズス会のコレジオ付属教会として1598年に建設を開始、完成には1世紀余りを要している。バロック様式の美しいファサードが印象的。外観のみを鑑賞右に横たわる塀は「国立マシャード・デ・カストロ博物館」を囲む城壁の一部城壁の一部の上に建つ現在の建築物ローマ時代の井戸狭い石畳の坂道を下っていく坂道の正面に「旧カテドラル」アフォンソ・エンリケスによって1162年に建立された、ロマネスク様式の教会。かって内部はスペインのセビーリャから運ばれたイスパノ・アラブのタイルで覆われていたというが、いまはほんの一部しか残っていない旧カテドラルの横を下る坂道の石畳正面から見た、旧カテドラル。回廊はゴシック様式としてはポルトガルで最も古い13世紀の建造。また1530年頃に造られたカテドラル北面の入口は、ポルトガルでルネッサンスの影響がみられる初期のものだとケーブラ・コスタス通りと呼ばれる狭い階段路を下ったポルトガルの洗濯女の像かつてモンデゴ川で洗濯をする女性たちの姿が見られたと坂道を振り返る"コインブラ・ファド" を象徴するかのようなポルトガルギターをかたどった女性像。ポルトガルギターはポルトガルの民族楽器でファドの演奏などに使用されるのだフェレイラ・ボルディス通りを歩くコルク製のバック、帽子を土産用で販売11:40ここでしばし12時まで自由時間に皆さんお土産を買いに、フェレイラ・ボルディス通りへ戻るポルトガルの「コンフェイト」。 日本の金平糖とは違って、ポルトガルのコンフェイトは透明感が無く凹凸も浅く控えめ早速、姉妹で休憩店内の販売旧市街の入口にあるボルタジェン広場右は、ポルトガル銀行像は、元首相のジョアキン・アントニオ・アギアルモンデコ川に架かるサンタ・クララ橋市街地案内図丘の上の大学への道旅友は、サンタ・クララ橋へ遊園地の如き缶詰専門店店先でアコーディオンを奏でるオジサン美味しそうだが、これから昼食のため控えるワイン屋さん一本約6€(約780円)と安い12:17ツアーバスを待つ12:25車窓からの、モンデコ川に架かる斜張橋(ペドロ・イネス橋)12:40昼食会場のレストラン「ポサーダ デ コンデイシャ コインブラ」へ早速、パン、オリーブを黒ビール(2.5€:322円)野菜スープ(グリーンピース)あさりとポーク13:25最後はデザートを頂く他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.23
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ポルトガル四日目:2/11(月)この日の観光はポルトから約116km南下して、政治のリスボン、商業のポルトに次ぐポルトガル第三の都市文化のコインブラへ。4:42 ← 二人供5:42と思って起床した昨日行ったスペイン時間をポルトガル時間にしていなかったのか、二人の目覚まし時計が1時間早く鳴り起きる。昨夜の夕食が少なかったのか二人ともお腹がすき、持参したソーメンをいつものように鍋で湯を沸かし作る湯がいたソーメンを洗面所で水洗い。いつもこの時ソーメンの一部が流れ流して詰まらせている。この反省から次回はざるを持参することに!5:00まだ四日目でポルトガル料理には飽きていなかったが、やはりソーメンは美味しい!5:50 ← 七時前にしては「暗いねー」と言いながら部屋から写真を撮るがまだ6時前7時と思っていたがまだ6時。朝食の時間と思い1階の食堂へ行くがクローズ、フロントで確認し始めて時間の間違いを知り部屋へ戻る7:00朝陽が上がる7:15 からの朝食を終え荷物を整理。8:16ホテルの部屋からホテルの部屋からホテル周りの民家8:35九時にホテル出発予定であったが、月曜日で渋滞するとのことで8:45に出発8:46予想どうり道路は渋滞。道路脇を鉄道が9:01渋滞で幹線道路へ出るのに20数分を要した9:01通勤でバス停で待つ市民9:06通勤の乗用車が多い9:07ハクモクレンが咲き9:12霧が発生、ポルトは霧の発生が多いとのこと9:14サッカースタジアム。ポルトガルのサッカーチームFCポルト(Futebol Clube do Porto)のホームスタジアムで収容人数は50,399名の「エスタディオ・ド・ドラゴン」9:16霧がますます濃くなる9:18太陽も霧の中9:249:27高速道路の料金所9:44ポルト郊外に出て霧もようやく晴れてくる10:05バスの最後席から後方を望む天気は快晴10:09高速道路沿線のブドウ畑10:30コインブラの市街地に入るコインブラは、丘の上の大学を中心に広がる人口10万人ほどの小さな町であるポルトガルの歴史のなかで果たした役割は大きい。多くの政治家や文化人たちを世に送ったコインブラ大学は、1290年ディニス王によって創設された。最初はリスボンにおかれていたが、その後コインブラに移ったりリスボンに戻ったりしながら、1537年コインブラに落ち着いたヨーロッパでもパリ、ボローニャ、サラマンカに並ぶ古い大学で、1911年にリスボン大学が創設されるまでは国内第一の学術の中心地であった。学生は黒いマントに身を包み町中を闊歩し、そのマントの裾に切れ目が多いほどもてる証だったと10:34市庁舎あたりから緩やかな坂を登っていく郵便局、市場があるBandeira の坂を登る2013年には、14世紀以降大学として使われている山の手のアルタ地区と、16~20世紀にキャンパスがおかれた下町のソフィア地区が世界遺産に登録された10:41正面は「総合図書館」正面は「鉄の門」、右手には芸術学部/文学部の校舎振り返って「コインブラ大学」旧大学の無情の門とも呼ばれる「鉄の門」を入る女子学生が噛み切ったマントの切れ端?鉄の門を入り中庭へ。正面に建つ、学生たちが「カブラ(山羊)」と呼ぶ時計塔。18世紀に建造されたもので大学のシンボルになっている中庭に面して「ジョアニア図書館」ジョアン5世治下の1724年に建てられた図書館。また、大学の創設者ディニス王とジョアン三世の像が立つ像はジョアン三世(1502~1557)で、父親はマヌエル一世右側の階段を上ったギャラリーはラテン回廊。かってここではラテン語を話すことが義務づけられていたジョアニア図書館裏モンデコ川の南方面斜張橋(ペドロ・イネス橋)をズームアップ10:56南の方向の山には雲海?他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.22
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サンティアゴのカテドラル(大聖堂)の散策を終え、連泊のポルトのホテルへ帰るためポルトガルへ南下した。2/10(日) 17:15天気もすっかり回復し、往路の道(AP-9)を南下してポルトへ向かう17:23高速道路脇の木が黄色に輝き17:26外気温は14℃と上がり、道路脇にはミモザの黄色い花が飛び散り17:52(スペイン時間)料金所へ:バスの時計は16:52だが時差を変更していないのでポルトガル時間のままここの料金所ではETCはなく現金?で料金を支払い17:54民家の左下に穀物用の倉庫が17:57Ria de Vigo(リア・デ・ビ-ゴ)に浮かぶ、ムール貝の養殖棚Ria de Vigo(リア・デ・ビ-ゴ)に浮かぶ島Ria de Vigo(リア・デ・ビ-ゴ)に架かる斜張橋のロンデ橋西に沈んだ夕陽で輝く、Ria de Vigo(リア・デ・ビ-ゴ)の養殖棚18:00ロンデ橋を渡る18:01スペインのVigo(ビ-ゴ)へ18:05(スペイン時間)aeroporto:飛行場N-555:Redondela(レドンデーラ)、N-120:Puxeiros Mos17:13、ここでポルトガル時間に変更、-1時間17:27太陽が沈む17:35 車も少なく渋滞もなく順調にポルトへ。この辺りの山は夏場に山火事が度々発生すると 17:4317:55ガソリンスタンドの看板?、2km先にサービスエリアがあるのか17:56トイレ休憩で、サービスエリアへ立ち寄るバルセロイス駐車場夕陽が沈み夕焼け、明日は天気が良いと!ハクモクレンが咲いていた日本ではまだ咲いていないレストラン内のパン、ドーナツサンドイッチ他のツアーバスルフトハンザドイツ航空利用「ポルトガルの休日8日間」2019.2.7~1418:06ポルトガル名物のエッグタルトをひと切れ頂く。15分間のトイレ休憩で出発18:26進行方向の夕焼18:27A3ルートをポルトへ18:29ポルトの街か?18:40もうすぐポルトへ18:47ポルトのホテルへ19時に到着19:15夕食は各自でとのことで、ホテル近くのスーパーへ買い物にチーズが安い19:25急いで購入してホテルへ19:30 ~ 20:30夕食はホテル内でバイキング料理ビール:2€(250円)を飲みながら今日の反省サンティアゴでお土産用に購入したオッパイチーズ:9.0€(1200円)/750gこの日のバス旅は往復約500kmで、総歩数は、8,600歩でした。他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.21
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アラメダ公園からカテドラル(大聖堂)へ。サンティアゴ・デ・コンポステラの【サンティアゴ巡礼】世界遺産に1993年に登録された。9世紀初頭、星に導かれた羊飼いが、サンティアゴの地でキリストの12使徒のひとりであるヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の墓を発見した。その後キリスト教徒の間で聖地とされ、各地から巡礼者が訪れるようになった。ヤコブはスペインでの布教活動を終えエルサレムに戻って亡くなった後、スペインで埋葬されたと伝わっていたがその墓の所在は忘れられていた。「コンポステラ」とは星降る野原の意味。2/10(日) 14:55フランコ通り(Rúa do Flanco)の商店街をオブラドイロ広場に向かって歩くイベリコ豚のハム売場イベリコ豚の何年熟成物?日本で購入すると5万円以上もするのではないか正面にサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の尖塔が見えてきた通りには寿司屋も営業、食べてみたかったがゆでたタコが陳列されていたが何処産?ストリートミュージシャンカテドラル(大聖堂)の尖塔が近くになり人も多くなる手前の木はオレンジ15:04オブラドイロ広場正面に建つ市庁舎(旧ラジョイ宮殿:Rajoy Palace)、18世紀中頃に仏人のシャルル・レモーの設計によるもので、長さ90mの正面は、半円アーチのアーケードの上にあり、中央の円柱に支えられた柱廊の上には馬に跨った勇ましい像がサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂着工:1060年 完成:1211 横幅:100m 奥行:70m大聖堂の西側のファサード上部中央の尖塔をズームアップサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂正面中央の紋章オブラドイロ広場中央にある、サンティアゴの道終点の標識。そして巡礼の終着地点を示すホタテガイが。 ホタテガイを踏むと幸運がもたらされるようで多くの観光客が踏んでいた世界遺産に関する記念のプレート道路にあるホタテガイの巡礼路。巡礼者はこの印を道しるべとして歩く裏側の広場に面したカテドラルの北側の門。18世紀にネオクラシック様式で建てられたもので、修復中北側の門の正面からインマクラーダ広場から見た修道院。サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学(Escola Universitaria de Traballo Social - USC)の建物にもなっているとのこと裏口はこの時は内部が改修工事中のために閉鎖中であった。この広場で乗馬した馬を洗ったとカテドラル(大聖堂)の周りを歩いて、縦長の穴は弓矢で射る穴だと枯れた木はブドウワイン用の木なのかキンターナ広場に面した聖なる門(Puerta Santa)・・・免罪の門。聖なる門はこの日は閉鎖中。下部には門の両脇に12世紀頃のロマネスク様式の24人の像が刻まれている銀細工の広場の、カバロスの泉(Fonte dos Cabalos)15:38銀細工の門から聖堂内に入る。主祭壇は17世紀後半に造られたチュリゲラ様式で、中央に聖ヤコブの像が祀られていたが、残念ながら、正面祭壇右側には改修工事中のパイプ足場が。 左右にはヤコブの弟子の聖アタナシオと聖テオシドロがいると中央祭壇の右側から狭い階段を登り、中央祭壇を見下ろしているヤコブの背中に聖ヤコブの像に後ろから抱きつく旅友「聖ヤコブ像に抱きつけば、巡礼は終わる」とのことで皆さん抱き着いてヤコブ像に抱きつき、この後地下礼拝堂への階段を降り、聖ヤコブの銀製の棺を拝む聖堂内の祭壇いろんな祭壇があったが???足場をセットして修復中の中央祭壇中央祭壇手前の左右にあるパイプオルガンドイツ製だと内部の中央にぶら下がっている大型香炉のボタフメイロがあるのだが、工事中で取り外されていた。儀式の際に6人の男性が振り回す大型香炉が見ものだと修復工事の影響で、2019年1月28日から大聖堂でのミサは行われないと。このため、聖堂内の椅子も撤去されていた祭壇の・・・・・15:58キンターナ広場のサンパイオ・デ・アンテアルターレス修道院。 小さな窓は48個あり鉄格子に囲まれていた。真ん中の白い十字架は半島戦争(ナポレオンとの戦い)の戦死者を祀ったものであると聖堂内へ出入りした「銀細工の門」、キリスト受難の図が彫り刻まれている銀細工の広場には4頭の馬の噴水が。 かって銀細工師たちが店開きしていたことに由来するカテドラル(大聖堂)前で記念写真見納めになる!16:38集合して、バスの待つ場所まで徒歩で向かう。 再びサンティアゴ・サン・フランシスコ修道院が正面にこの後、オッパイチーズを土産用に購入して同じ高速道路を帰路に着く (17:00)他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.20
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ポルトガル三日目:2/10(日)歓喜の丘から、エルサレム、ローマに並ぶキリスト教三大聖地のひとつである、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう。12:31歓喜の丘 (Monte do Gozo:モンテ・ド・ゴソ)遠くサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂を望む大聖堂をズームアップ。手前に競技場のスタンド、照明塔が見える歓喜の丘は、サンティアゴ・デ・コンポステラの5km手前の丘にあるマントの後ろには巡礼の証の帆立貝が巡礼の道ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の来訪を記念する記念碑が別の丘(右側)の上に建つ記念碑をズームアップ日本スペインの交流400週年記念碑。1613年、スペインに対する我が国最初の公式使節である慶長遣欧使節団(仙台藩主伊達政宗の命によりフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として)スペイン国王フェリペ3世の下に派遣されてから400周年を記念して建てられた。碑の周りには、巡礼者の靴が無造作に放り投げられていた記念碑の周りで添乗員が説明天気も良くなり、像の前で記念写真12:45歓喜の丘からサンティアゴ・デ・コンポステラへ向かう12:56駐車場へ到着、前方にサンティアゴ・サン・フランシスコ修道院(Convento de San Francisco de Santiago)が見えるドーム付きの鐘塔が2塔正面(ファサード)13:07昼食をとるために、サン・フランシスコ通りを進むオブラドイロ広場(Praza do Obradoiro) 正面に市役所を含む官公庁の建物(旧ラジョイ宮殿)。 現在ではこういう公共の建物を、巡礼者の人たちが泊まれる施設にもしているとパラドール デ ソス デル レイ カトリコ ホテル (Parador de Sos del Rey Catolico)路地を下りレストランへ馬車があったが、何に使うのか?サンティアゴ・デ・コンポステーラのカトリック教会(Church of San Fructuoso)石畳の路地ホルタス通り(Rúa das Hortas)を下る13:14人通りの少ない路地を振り返る33名のツアーが連なってレストランへ建物の壁に、巡礼道のホタテ貝のマークこのマークを至る所で見かける。ホタテ貝のマークには諸説あるようだが①エルサレムで殉教した聖ヤコブの遺体を弟子が船に乗せて海をさまよい、辿り着い たのがサンティアゴ・デ・コンポステーラ。その時に船の裏に沢山の帆立貝がつい ていたという説。②ヤコブが布教の旅で帆立貝を首から下げていて、水を汲んで飲んでいたという説③サンティアゴ・デ・コンポステーラに巡礼した人が記念に現地名物の帆立貝を食べ て持ち帰った。無事に帰還した印なので縁起もののお守りとして身につける。他に も諸説あるそうだ (旅友のブログから)絵になる風景スペインの郵便ポストは黄色汚水用マンホールか?13:18レストラン前に到着13:24昼食のガリシャ料理の「スープ」ボーイがお皿に盛りつけしてくれる鮭のステーキ?とサラダデザートは「アーモンド味のケーキ」店のいけすにカニが14:30昼食を終え大聖堂の撮影ポイントへ向かう人通りが少ない通りレストラン路地の隙間から大聖堂が現れる14:41添乗員から大聖堂の撮影ポイントであると。高台から見るカテドラルの美しさは、絵ハガキになるほど有名なのだと。目の前の低地を挟んで少し高台に位置する大聖堂の姿は素晴らしい全体像を見せてくれた朝方は雨であったが晴れて最高!!!。出発地が隣国だから違うのが当然か!女の子もジャンプして記念写真本当に絵ハガキになる光景である年期の入った水飲み場散策路の脇で大聖堂を見ていたこの人は誰?旅友がネットで調べてみると1906年にゴルジと共にノーベル生理学・医学賞を受賞したスペイン人のサンティアゴ・ラモン・イ・カハル氏との書き込みクリスマスローズが咲き、日本の我が家ではまだだがスイセンもきれいに咲きアラメダ公園の広場の水場が右手に樫の木が立っているが中には樹齢200年にもなる大木もあるとアラメダ公園の入口に立つカラフルな姉妹と記念写真14:55アラメダ公園の入口には「2人のマリア」の愛称で親しまれている有名な姉妹のカラフルな像が立っている。スペイン内乱の時代に政治的見解が左翼寄りであると迫害されたこの姉妹は、派手な服装で毎日午後2時から公園を散歩していた他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅-中編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅ー続く
2019.03.19
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ポルトガル三日目:2/10(日)ポルトガルのポルトから約230km離れたスペイン北部の巡礼街道の終点地へ向かう。サンティアゴ・デ・コンポステーラは、エルサレム、ローマに並ぶキリスト教三大聖地のひとつである。7:18ホテルの朝食、今日も野菜がない。パンは美味しく、オレンジもジューシーで美味しかった8:09ホテルの外は昨夜から風雨が強く雨模様ホテルの部屋から裏の民家を撮影8:17ホテルの玄関から撮影、8:30にホテルを出発9:14今日のバスの席は「B-グループ」が優先とのことで撮影しやすい前席に旅友と座る9:30しかし雨でカメラの焦点が合わず9:37天気も雨が小雨になり前方の空も青空が出てくる9:40高速道路料金所、ゲートの上には緑色の「Reservada a Aderentes」の標示があるがこれは、日本のETCレーン9:40ESPANHA Valenca スペインへ9:41この看板は9:49前方に山の上に岩場が?、出口は「A Granxa」ズームアップすると9:50前方の空は青空になってくる、ラッキー9:50、ポルトガル時間スペインとの国境を越え、スペインとは時差が1時間あるので時間を進めるようにと10:52、スペイン時間に変更(+1hr)サンティアゴ・デ・コンポステーラは、AP-9ルートの、Pontevedra(ポンテベドラ)、Vigo (ビーゴ)方向へ10:54右出口は「PORRINO」へ10:58この辺りはすっかり天気も良くなる11:0111:03国境を越えスペインに入っていたので、時計を1時間進める。前方に海が見えてくる、茶色の標識があるので、名勝・観光地があるのだ!11:04右の出口は、Vigo (ビーゴ)ビーゴはスペインの大西洋に面する港湾都市で、スペイン最大の漁港である11:05Ria de Vigo(リア・デ・ビーゴ)湾に浮かぶ養殖棚は、ムール貝の養殖Ria de Vigo(リア・デ・ビ-ゴ)湾に架かる斜張橋へ。Pontevedra、Santiago(サンティアゴ)方面の標識が出る11:06斜張橋のロンデ橋を渡る11:10トイレ休憩で高速道路のサービスエリアへ。トイレは売店&レストラン内にあり無料であったが他の国では有料が多い。店内も清潔感があり、どこかの国とは違うサービスエリア内に咲いていた、ヒマラヤユキノシタきれいに咲いていたサービスエリア内にあるガソリンスタンドの標示。Gasoleo 軽油(Diesel)、Sem Chumbo がガソリン。Diesel :軽油 1.259€/ℓ 162円/ℓ??? : 1.339efitec 95:レギュラー 1.289 166円/ℓefitec 98:ハイオク 1.409Auto Gas :プロパン 0.688 カードは、VISA、Master、AMERICAN、他が使用可能。今の時期、日本ではレギュラーが、132~140円/ℓであるので、少々高い!パーキングのガソリンスタンドはほとんどがセルフ高速道路脇に「この辺りの民家の穀物倉庫」ズームアップすると、高床式になっている11:25 パーキングを出発11:34道路脇の舗装用ローラー車のモニュメントは???11:38Pontevedra、Santiago(サンティアゴ)11:39この辺りまで、Ria de Vigo(リア・デ・ビ-ゴ)湾11:40Santiago(サンティアゴ)は直進、右出口は、Pontevedra11:47Santiago(サンティアゴ)へ11:50山には風力発電が林立11:58高速道路脇には黄色の花が咲き11:59ミモザの花12:00工場から蒸気が舞い上がる12:10料金所12:11Santiago(サンティアゴ)まで、4km12:16片側5車線と広い高速道路12:17車窓から12:22一般道路に降り「歓喜の丘」へ12:25歓喜の丘へ到着他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅ー前編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.18
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ポルトガル:二日目、2/9(土) ポートワインのワイナリ-見学後、ドン・ルイス1世橋を渡り旧市街地へ移動。ポルト歴史地区は世界遺産に登録されており、2016年からは「ポルト歴史地区、ルイス1世橋およびセラ・ド・ピラール修道院」として、登録名にも明記された。16:18バスを下車、フェルナンド通りを下って、サン・フランシスコ教会へボルサ(証券取引)宮の前に立つ、エンリケ航海王子の像。ポルトガルではいたるところの広場に立つ、エンリケ航海王子の像この像は若い頃の像。ポルトには「エンリケ航海王子の家」もある。14世紀前半に建てられ、19世紀まで関税事務所として使われていた。ポルトガルの大航海時代を築いたひとり、エンリケ航海王子はこの家で生まれたとされているが、真偽のほどは定かではないとサン・フランシスコ教会下へ先ほど行った対岸の、ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区旧市街を走るレトロな市電。ポルトの旧市街には、車道を走る3路線の市電があり、旅行者にも人気が高い16:27サン・フランシスコ教会へ。正面の美術館には、宗教画などが展示されいるサン・フランシスコ教会は、14世紀に建造された修道院付属の教会。当初はゴシック様式だったが、17世紀にバロック様式に改装された教会の内部は撮影禁止で、ターリャ・ドゥラーダ(金泥細工)と呼ばれるバロック装飾が施され、天井、壁、柱は、つる草鳥、天使など、金箔を張った彫刻で覆われている。なかでも左側2番目の礼拝堂にある「ジェッセの樹」と呼ばれるキリストの系図は必見だと16:50サン・フランシスコ教会を見学後、教会前のステージへ17:00バスに乗車して、ドン・ルイス1世橋へ移動。坂を登っていくが正面は「サン・ベント駅」20世紀の初め、修道院の跡地に建てられた「サン・ベント駅舎」サン・ベント駅前からバスは坂を登り下車観光客用のミニトレイン17:05ドン・ルイス1世橋を望む、この後ここを渡って対岸へドン・ルイス1世橋の上を走るライトレールヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区のワイナリーここから地下になり、サン・ベント駅へドン・ルイス1世橋水面からの高さは45mあり怖い橋の上層からドウロ川の上流側を望む、インファンテ橋ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院。メトロの最新鋭車ライトレールが近づいてくる歩行者が近くにいるので徐行しながら走行、自転車も走り橋の上層からドウロ川の下流側を望む17:19橋を渡りここで記念写真のビューポイント世界遺産の旧市街地ドン・ルイス1世橋は巾8mの2階建て構造になっており、上層の長さは395mで、下層の長さは174mである。現在上層は歩行者とメトロ用に、下層は自動車と歩行者用になっている17:30ドン・ルイス1世橋を振り返るカテドラルもとは要塞として12世紀の建てられ、17~18世紀の改修が加えられた。北面のバロック様式の外廊は、クレリゴス教会を設計したイタリア人建築家ナソーニによって、18世紀に付け加えられたもの修復中なのか東側はテントに囲われサン・ベント駅へ歩いて17:36正面は「サン・アントニオ・コングレガドス教会」右が「サン・ベント駅」。駅のホールの壁を飾るアズレージョはジョルジェ・コラコが1930年に制作。ジョアン1世のポルト入城など、ポルトにまつわる歴史的な出来事が描かれている。正面の教会の壁面もアズレージョが彩る駅舎に入るとホールの壁を飾るアズレージョとは、ポルトガル・スペインで生産される、典型的な上薬をかけて焼かれたタイル改札はなく直接ホームへ地方へのホームホール南側の壁南側の壁、中間のアズレージョは「ジョアン1世のポルト入城」南側の壁、下のアズレージョは「アフリカのセウタ攻略を描いた場面」。中央に立っているのはエンリケ航海王子である駅舎のホールホール北側の壁を飾るアズレージョ上段:国境の戦い下段:スペインとの調印式??ホーム入口最左側のアズレージョ途絶えることもなく5世紀の間生産され続け、ポルトガル文化の典型的な要素となった。ポルトガルへ行けばどこでも、アズレージョは教会、宮殿、一般の家の内や外、鉄道駅や地下鉄駅でさえも見られる17:44サン・ベント駅は北部のミーニョ(MINHO)地方の玄関口であり、そして反対側の ドウロ(DOVRO)地方への玄関口にもなっているので白い天井に地方の方向を示す。 MINHOとDOVROの文字が黒字で書かれているのだと赤い建物(Mercado Ferreira Borgos)には相変わらず長蛇の列が、何か開催17:59再びボルサ宮前を歩き夕食会場のレストランへ18時になり、ドウロ川の建物に明かりが灯るレストランへ夕食はバカリャウ(タラ)ビルの合間からドン・ルイス1世橋が見える18:12まず、ミックスサラダ18:27タラのグリルはシェアーして18:45フルーツサラダ の三点セットで夕食を終える19:09夕食後、ドウロ川へ行きライトアップされた、ドン・ルイス1世橋小雨がぱらついていたが小雨の中テントのレストランドン・ルイス1世橋とノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院路地を歩いてバスへ19:17坂道から振り返ってドウロ川20:00この日のホテル:Axis Portoに到着20:04ベッドが近いので離して寝るポルトガル二日目はバス移動が多く、歩行数は9,100歩でした。明日は、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへ。他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅ー前編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅ー続く
2019.03.17
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ポルトガル:二日目、2/9(土) バターリャ観光の後、昼食をとり高速道路を北上してポルトガル第2の都市ポルトへ。ポルトはドウロ川北岸の丘陵地に築かれた、起伏の多い街。坂の多さは「七つの丘の街」と呼ばれるリスボンにも劣らない。人口約23万人、この国の商工業の中心地として栄えてきた街である。12:52一般道路からの車窓、斜面にはブドウ畑が広がる起伏が激しい坂道12:56高速道路(A1)へ入る13:01高速道路を、Porto へこの標識は高速道路料金。高速料金はスペインでは無料でしたがポルトガルでは有料。以前は無料であったがポルトガルの財政難から2012年あたりから有料になったと。料金は日本に比べて安く、また一部では機械が車のナンバーから自動的に読み取り、クレジットカードに請求される仕組みになっていると(旅友からの情報による)13:2813:41木の枝の上にコウノトリの巣がたくさんあったが撮影できず民 家13:43この黄色の花が咲く木は、ミノザ?14:04アヴェイロ(Aveiro)は、ポルトガルの「水の都」。茶色の標識は名勝地&観光地の案内版14:10高速道路から教会14:24トイレ休憩で高速道路のサービスエリアへ。トイレは売店&レストラン内にあり無料であったが、他の国では有料が多い自動販売機で売っているのはタバコ?コーラ付き食事は、6.95~10.95€(約900~1,400円)パーキングの草むらで咲く花 ?葉がとげとげしいがこの花の名は「ハリエニシダ」(旅友から)今回のツアーは、33名、内訳は男性12名、女性21名で今回の旅も女性優位。ご夫婦は9組と多かった14:31ツアーバスの前でKさんと旅友14:52道路標識に時刻を表示していた14:54CREP Espinho14:56高速道路料金所、ゲートの上には緑色の「Reservada a Aderentes」の標示があるがこれは、日本のETCレーン15:01ワイン用のブドウ畑。ローマ帝国の衰退後、西ゴートの時代を経て、8世紀に支配権はイスラム教徒に移る。11世紀、そのイスラム教徒から国土を取り戻したフランス貴族がいた。彼はその報酬として、ドウロ川とその北のミーニョ川とに挟まれた地域を与えられ、その地名からポルトカリア伯爵と呼ばれた。ポルトガルにフランスからブドウの苗を持ち込んだのも彼だ15:01Porto(Freixo)15:05高速道路は、ドウロ川を渡る。白い橋は鉄道橋?15:09ドウロ川の川岸を河口(西)方面へ。全長925km、スペインに源を発するドウロ川は、ポルトガル北部の山岳地帯をゆったりと流れ、ポルトを経て大西洋に注ぐかってワインを運んだ帆船(ラベーロ:Rabelo)だが、今は観光船に!ドウロ川の南岸にある、ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区。ローマ時代にカーレ(Cale)と呼ばれる州であった。そして港(Portus)の役割を持っていたので、ポルトゥス・カーレと呼ばれていた。これがポルトガルの語源ドウロ川の上流側下流側のインファンテ橋とドン・ルイス1世橋ドン・ルイス1世橋を渡る列車ズームアップして列車を撮影15:13ツアーバスは、ドン・ルイス1世橋の狭い下を渡るドン・ルイス1世橋から上流を望む同、下流側、ゴンドラが空中に浮かぶ15:17ツアーバスを下車してポートワインのワイナリーへドン・ルイス1世橋をヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア側から撮影。エッフェルの弟子により1886年に建造された、鉄のアーチが美しいポルトのシンボル的存在。対岸との高低差のある街を結ぶ二重構造になっており、上層からの眺めが素晴らしい観光客が多く添乗員から、ガイディングレシーバーで「スリにご用心と!」かってワインを運んだ帆船(ラベーロ:Rabelo)、ドウロ川の河口方面のアラビダ橋ドン・ルイス1世橋と帆船機械によって搾りだされたブドウ液は、樽に詰められて冬を越しこの帆船で運ばれる15:22ポートワインのワイナリー「SANDEMAN」ドウロ川の河岸に30を超すワイン工場が並んでいる1790年にスコットランド人のジョージ・サンデマンが創設。黒マントとソンブレロのトレードマークは「ドン」の愛称で知られるワイナリーの見学工場内を案内してくれた女性も黒いマント姿で説明ショーケースにある高価なポートワインポートワインは、アルト・ドウロと呼ばれるドウロ川上流域で収穫されたブドウから造られる。山の斜面に広がる段々畑で育てられたブドウは、9月中旬に、大きな籠を背負ったランショと呼ばれる人々の手でつみ取られる。搾りだされ冬を越したブドウ液は、その後帆船によってヴィラ・ノヴァ・デ・ガイヤに運ばれ、熟成と瓶詰めが行われる樽にもマント姿の刻印が大きな熟成樽工場内で水が湧き出ている場所ワイナリーを見学後、試飲室&土産物店へ。雑誌によると、ポートワインの種類は、原料となるブドウや熟成年数などにより、おもに8種類に分けられ、いずれも食前酒や食後酒として飲むのが一般的だと2種類のポートワインの試飲ができ、土産物として購入できる。高貴な香りと味わいを楽しむが自分にとっては少々甘いので購入しなかった見学を終えてワイナリーを出るポルトガルの帽子をかぶり帆船とドウロ川の河口方面のアラビダ橋道路脇では焼き栗を販売していたが、味は?16:00空中をゴンドラが!最近の新聞で、日本でも横浜の桜木町駅から横浜港のレンガ倉庫間にゴンドラを設置すると報道されていたがヴィラ・ノヴァ・デ・ガイヤからの旧市街地対岸の旧市街地の高台16:11ツアーバスに乗り対岸の旧市街地へ他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅ー前編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.16
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ポルトガル:二日目、2/9(土)世界遺産の「バターリャ修道院」の後半10:43教会の内部は非常に簡素だが、内陣奥の聖母マリアとキリストの生涯を描いたステンドグラスが彩りを与えている教会にはゴシック、ルネッサンス、マヌエルなどさまざまな建築様式が見られる上部のステンドグラス教会から「ジョアン1世の回廊」へ1386年に建設が始まり1515年に完成。初代建築家アフォンソ・ドミンゲスによって造られたゴシック様式の簡素な回廊に、約100年後にリスボンのジェロニモス修道院を手がけたボイタックがマヌエル様式の装飾を施し、見事な調和を生み出しているレース細工のような繊細な狭間飾りが見事狭間には天球儀やエンリケ航海王子の紋章である十字架などが彫り込まれている狭間にある天球儀をズームアップジョアン1世の回廊からの中庭マヌエル様式とはポルトガルを代表する16世紀初めの建築様式。ゴシック建築を基調とする様式で、大航海時代の繁栄を思わせる豪華な装飾が特徴。貝殻や鎖、ロープ、天体儀などのデザインが多く用いられている。様式名は、大航海時代を築いたポルトガル王マヌエル1世(1469~1521)に由来する。10:56参事会室教会の北側にあるジョアン1世の回廊の東側に続いている参事会室は、現在、第1次世界大戦とアフリカの植民地争いで命を落とした無名戦士の墓が置かれていて、衛兵によって守られている11時の衛兵交代式前。交差リブヴォールトによって支えられた部屋には柱が一本もなく、建設当時は天井が落ちるのではないかと騒がれた。設計したアフォンソ・ドミンゲスは、安全性を証明するため3日3晩この部屋に座り続けたという参事会室にも、キリストの苦難の場面を表した16世紀のステンドガラスがあり美しいキリスト像11:00交代の衛兵がジョアン1世の回廊から1時間ごとに2名が交代お疲れさまと無言で交代2名が後退して退室ジョアン1世の回廊へ出ていく約3分で交代式を終える衛兵と記念写真ロープが編み込まれた模様も参事会室からジョアン1世の回廊回廊からの尖塔回廊の北西角にある噴水:食堂の入り口の手洗い場ジョアン1世の回廊の反対側には前衛芸術品の置物?アフォンソ5世の回廊15世紀に造られたゴシック様式の回廊。天井のリブヴォールト交差部分に取り付けられている紋章はドゥアルテ1世とアフォンソ5世のものだ中庭に糸杉が植えられたアフォンソ5世の回廊簡素なデザインのアーチが並ぶ、アフォンソ5世の回廊アフォンソ5世の回廊から東側に出る。正面は「未完の礼拝堂」未完の礼拝堂前から北側を望む未完の礼拝堂。連続アーチと精緻な装飾が見事な礼拝堂入口ジョアン1世の息子ドゥアルテ1世により建設が始まり、没後は後のマヌエル1世に引き継がれて100年程工事が続けられたが、ついに未完に終わった。その理由は、設計上のミスという説と、ジェロニモス修道院の建設のために建築家がリスボンに行ってしまったという説があるが、確かなことはわかっていないかたつむりはゆっくり進む・・・・・観光後、修道院入場チケットをもらう11:19観光後、昼食時間まで自由行動。修道院周りの土産物店を散策ポルトガルの帽子を購入何故か、店主からワインを一本頂く11:40から、修道院近くのレストランで昼食。メニューはポルトガル語で解らないが、約10€(約1200円)レストランのトイレ、なぜかカバーが防臭対策?11:56サラダ料理:朝食で野菜がなかったので!チキンの煮込み:パンを食べたので、ライスは硬くて食べず12:23最後にデザートで、大きなプリンが出る。味は日本と同じで美味しかった!12:36食事を終えて12:37修道院とともに発展してきたバターリャの町他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅ー前編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.15
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ポルトガル:二日目、2/9(土)リスボンから北へ約300kmのポルトへ向かう途中、約123kmの場所にある世界遺産の「バターリャ修道院」へ立ち寄った。2/9(土) 8:18八時半ホテル出発とのことで、早めにロビーへ集合8:32ホテル前の道路脇にあるガソリンスタンド。バスの席は、公平にとのことでグループに分けにして日毎に前の席へ移動。我々は「Bグループ」でこの日は二番目に乗車8:38ホテルから十数分でリスボン空港近くへ8:40一般道から高速道路へと8:41高速道路「A1」ルートで、Porto(ポルト)まで、301kmの標示8:47車窓からの市街地8:48高速道路の料金所8:52車窓からの??工場8:54高速道路と並行して河川が8:55天気が今一であるが8:58火力発電所か?9:01直線部分が少ない高速道路9:06起伏とカーブが多く変化に富んでいる高速道路9:14石油・ガス貯留施設が高速道路脇に9:21起伏の多い高速道路9:23Porto(ポルト)まで、239kmの標示9:35車窓から風力発電が9:40一般道を走り、松は地中海松(丸くなる)9:58バターリャ市街地?9:59バスの車窓の正面に「バターリャ修道院」の姿が見えてくるバターリャはポルトガル語で「戦い」という意味10:00バターリャ修道院。バターリャ近郊のアルジュバロータで、1385年8月14日王位を狙って攻め込んできたカスティーリャ軍をジョアン1世率いるポルトガル軍が打ち破った。スペインに対してポストガルの独立を守る、、歴史に残る戦いだったバターリャ修道院の正式名は、勝利の聖母マリア修道院。ブルゴーニュ朝のフェルナンド1世が亡くなると、王位継承をもくろむ隣国カスティーリャ王ファン1世は、3万もの大軍を率いてポルトガルに攻め込んだ。独立を守るためアヴィス朝の始祖となったジョアン1世は、戦勝を聖母マリアに祈願し、奇跡的な勝利をとげる聖母マリアに感謝をささげるため、ジョアン1世がアルコバサの修道院を手本として1388年に始まった建設は、アフォンソ・ドミンゲスをはじめとする何人かの建築家により16世紀初頭まで引き継がれた壮大かつ可憐な修道院は、ポルトガルのゴシック・マヌエル様式を代表する建築のひとつで、1983年には世界遺産にも登録された修道院前の広場に立つ地元の英雄アルヴァレスの騎馬像NVNO ALVARES PEREIRA (1360~1431)この碑は旅友からの情報から。国際ロータリークラブのロゴマークの石碑で。国連の『環境と開発に関する世界委員会』の記念?に設置した物らしいですと修道院前の土産物店。トイレ休憩の合間にツアー仲間は早速店先へ集結試食品を食べ美味しいのか皆さん購入大きなリンゴも販売、値段は???地元の子供ずれゴシック様式の尖塔。外壁の石灰岩が時の経過と共に黄土色に変色し、更に雨風に晒される事で黒ずみ歴史の重みを感じる、白い尖塔は修復したもの勝利の聖母マリア修道院、中央扉口中央扉口はアーチ・ヴォールトと言う形を成していて「キリストの戴冠」と旧約聖書に登場する王、天使、預言者、聖者ら78体の聖像が天蓋の下に刻まれている修道院入り口のアーチ・ヴォールトの上部ズームアップ勝利の聖母マリア修道院、中央扉口右側の使徒中央扉口から入ると、修道院の南側に位置する教会。奥行き約80m、高さ約32mでポルトガルでも1、2の規模を誇る内部は非常に簡素だが、内陣奥の聖母マリアとキリストの生涯を描いたステンドグラスが彩りを与えているステンドグラスは16世紀のもので、厳粛な美を伝える巨大な空間である創設者の礼拝堂教会に入ってすぐ右側にある、15世紀に造られたジョアン1世の家族の墓所。中央には、ジョアン1世と王妃フィリパ・デ・ランカスターの棺が置かれている棺の上から見た写真、王と王妃は手をつなぎ礼拝堂内、柱やアーチの装飾が美しい礼拝堂の上部。当初の天井は1755年のリスボン大地震で崩れ、その後再建されたエンリケ航海王子の棺周囲にはエンリケ航海王子をはじめ4人の王子が眠る ジョアン1世と王妃フィリパ・デ・ランカスターの棺の頭側下部、由緒あるライオン他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅ー前編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.14
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2/8(金)の朝からいつもの旅友と六泊八日のポルトガル旅行へ。今回は、昨年のウズベキスタンで知り合ったKさん姉妹と申込み、ポルトガル&北スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの旅行に行って来ました。 参加ツアーは阪急交通社(TRAPICS)の【ブリティッシュエアウェイズ航空利用<北スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光付!決定版ポルトガル8日間】2/8(金) 6:34 東の空は朝焼け自宅を6:25に出て、旅友宅へ立ち寄るが国道は既に渋滞6:42朝陽が上るが7時前に旅友をピックアップして成田空港へ向かうが渋滞。途中予定時間が気になるがスピードを上げどうにか時間を短縮、東関東自動車道の「酒々井SA」から、駐車場のaiパーキングへTEL連絡、成田空港第二ターミナルで愛車を預ける。9:09British Airways (BA)のチェックインカウンターの「J」へ到着。 ツアーカウンターでの集合前にBAカウンターでチェックインと言われていたので並んで待機。我々のフライトBA6便のチェックイン開始時間は9:35から9:13そしてこの旅行仲間のKさん姉妹と合流し、チェックイン。 BAのチェックインカウンターでパスポートを提示し、搭乗券(ボーディングパス)のロンドンまでとリスボンまでの2枚を受け取る。預けた荷物はリスボン空港で受取る。フライト便(BA6)はイギリス・ロンドンヒースロー空港行き。ロンドンでトランジットしその後別のBA便に乗り換え、ポルトガルのリスボン空港に向かう両替で円をユーロに替えた後、ツアーデスクの受付が10:30からでそれまで時間があるので2F喫茶店で4人で一休み。妹さんとは初対面のため挨拶を交わす10:30集合時間になり、阪急の受付カウンターへ向かう阪急交通社カウンター、今回の添乗員Sさん。既にツアー仲間の人が受付中で我々も手続き、ガイディングレシーバー、eチケット等を受け取る。集合は72番搭乗口とのことでそれまで各自で行動10:40手荷物検査 → 出国審査へ出国審査ではスタンプを捺印してもらう11:05出国手続き゚を終え「AKIHABARA」へ日本のいろんなお土産を販売しており、外国人観光客で長い行列11:14待合場所へゲートは72番、12:35発 ロンドン行きBA6便。JL7081との共同運航便電光掲示板に「搭乗機は、12:35発、ロンドン行き(BA6便)、出国手続中」11:15搭乗ゲート、72番11:31搭乗機、JALとの共同運航便12:10機内へのボーディングブリッジから14:39予定より30分遅れて離陸、日本海を越えて昼食の機内食がでる。ビーフを依頼する15:23使用機材は、B787.空路MAP、ロシア上空20:43テレビで映画を見ながら5時間半飛び、ロシア上空画面を替えて、白海?20:44(日本時間)、白海?13:53:ロンドン時間に変更時差が9時間で日本時間は22:53の夜中、デンマーク手前14:29二回目の機内食がでる、パスタもあったが15:51イギリス・ロンドンヒースロー空港上空へ到達、日本から13時間の飛行16:12ロンドンヒースロー空港上空で旋回16:27ロンドンヒースロー空港へ到着、ビジネスクラス。いつかは乗りたいが・・・・・16:28搭乗機から降りて集合、33名の点呼。初めてツアー仲間が集まるが、33名は大所帯である。いつもきれいに並んでいないので添乗員も数えるのが大変、最後は「皆さんいるでしょう」と言って移動開始。このあと、ターミナル 5からターミナル 3へバス移動18:33ロンドンヒースロー空港でトランジットしてポルトガルのリスボン空港へ。ターミナル内でポルトガルで二人で飲むウイスキーを一本購入機内へ持ち込む。ポルトガル・リスボン空港へは、19:15発のBA504便。この便は、BA、JL、QT、AA、AY、CXの6社共同運航22:07予定の時間にロンドンヒースロー空港を出発して飛行、機内サービスはなく、飲み物&食べ物は有料。使用機材は、エアーバスのA320で、リスボン上空へ到着22:31ロンドンから2時間強延べ15時間近くの飛行時間であったが無事到着。まず、人数の確認をして入国審査場へ。リスボン空港の別称はウンベルト・デルガード空港22:36空港内の、けばけばしい土産物店 → 缶詰の土産物店22:39入国審査へ行くが、時間が遅くてゲートが2ヵ所しか開いておらず時間を要した23:37入国審査後、手荷物を受け取りバスへ、リスボンガイドの井上順子?さんのお出迎え23:41時間は既に23:41で、今日は32時間41分と長い一日であった23:56リスボン空港から約15分程走ると、この日の宿泊ホテルへ到着23:58ホテルは、VIP イン ベルナ ホテル(VIP Inn Berna Hotel)0:19ホテル室内バスルーム&トイレ 等の備品を確認このあと、日本から持参したカップヌードルを食べて各々ベッドインして爆睡(1:00)ポルトガルへの一日目は飛行機が主で、歩行数は 7,400歩でした。ポルトガル:二日目、2/9(土) 7:04六時前には起床、朝食へ。一階は「0」標示7:12ホテル内の朝食、野菜類がなく、ハム&チーズ、パン、コーヒーで7:43朝食後ホテル前で、気温は約 8℃東京よりは少し高めの気温。昨夜のバス内では、街路樹は「ジャカランダ」と言っておられたが、これは違うホテル前、ロータリーもなく8:01朝食後部屋へ戻り、九階の部屋から西・東?左側の青いドームの建物は「闘牛場とショッピングモール」とのこと南、北?このあと、8:30にポルトガル第二の都市ポートに向ってホテルを出発するので荷物を整理してロビーへ下りる。他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅ー前編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.13
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旧東海道(県道171号線)の吉原本町通りから左折して歩くが、旧東海道は曲がりくねっていて複雑。弥次さんのIphoneを見ながら今日の目的地JR富士駅へ向けて歩く。1/28(月) 14:04正面は「隠れ河原 かりん糖専門店和田屋」所在地:静岡県富士市中央町2-2-3-20 営業:9:00~19:00ネットで調べると、全試食できる店で御茶もだしてくれる。ここを右折して正面方向に歩く曹洞宗 芙蓉山立安寺(リュウアンジ) (14:06)所在地:静岡県富士市中央町2-4-31当寺の由緒書きによると、保泉寺の第二世護峰吟守和尚は、寛永の頃ささやかな隠居所を作って住んでいた。たまたま江戸深川の材木商 高須屋善助(兄)と伊藤善二郎(弟)が、伊勢参宮の帰り道に寺のある吉原宿に泊まったところ、夜中に夢の中で悪龍に悩まされたので、その龍霊を供養しようと考え、近くの庵居に住んでいた吟守和尚と協力し、一寺を建立して、山寺号を芙蓉山龍安寺としたのが、立安寺の始まり立安寺本堂以前、この寺の境内には、太子堂と観音堂とがあったが、今では古くなったため取り払われ、そこにお祀りしてあった聖徳太子像と石造の聖観音像は、現在本堂に移されて安置されている浄土宗 稱念寺 (14:12)所在地:静岡県富士市中央町3-2-11正面は、庚申山門で鉄筋コンクリート製の2層建築で、下層は仁王門、上層は法隆寺夢殿風の八角円堂となり、「庚申山門」の扁額を掛けている稱念寺本堂本尊:阿弥陀如来で本堂は昭和8年に再建された14:15稱念寺の前を流れる小潤井川に架かる錦橋から、富士山の頂上には雲がかかり青葉通り (14:16)錦町交差点 (14:19)この国道139号線を北上すると東名高速道路の富士インタへ14:20錦町交差点を横切り、(新)吉原宿・西木戸跡。本来の西木戸跡はもう少し北側にある。青葉通りのここを左折して旧東海道を直進 道路脇にこの界隈の案内図「ここは市役所南東」旧東海道沿いに漫画の説明板を発見 (14:25)土地の人の英雄?を漫画的に紹介して、子供たちに残しているのか?青嶋八幡宮神社所在地:静岡県富士市青島町77青嶋八幡宮神社中興の碑延宝8年(1680)、中吉原にあった宿場町は大津波で破壊的被害を被っていた。そんな折、幕府は検地を強行。名主・川口市郎兵衛が拒否すると、幕府は彼を磔(ハリツケ)にした。村民は悲しんだが、公には幕府の罪人であるため、密かに川口家の屋敷神である八幡社に祀った。82年後の十代将軍・家治の頃に赦免され、村民は八幡社を磔八幡と呼び、手厚く祀った旧東海道沿いの民家の塀際にある「道祖神」から北(江戸)方向 (14:28)旧東海道(県道396号線)を京方面へ歩く (14:34)JR富士駅までは後、3km地点旧東海道はここを右に入り旧東海道の道案内 (14:36)道路の上にあるのでつい見落とす標識、車の運転手にはカーブミラーがあるので良いが、歩行者にはチョット不親切だ!旧東海道の潤井川に架かる「富安橋」 (14:37)富安橋から潤井川の上流を望む旧東海道の左手にある石柱。刻まれた内容は判読不能 (14:39)旧東海道沿いの「袂の塞神(タモトノサイノカミ)」 (14:43)塞神とは集落を守るため村の入口に祀られる道祖神のこと。笏を持つ像だが年号などの刻銘はなく、江戸後期のものと思われる。ここまでの歩行数は、33,600歩富士見大通り (14:46)右の北方向は東名高速道富士インタ、左に南下すると新幹線の新富士駅県道181号線「総合庁舎北」交差点を横断 (14:51)静岡県総合庁舎の敷地内にある「間の宿 本市場」 (14:54)所在地:静岡県富士市本市場この地は吉原宿と蒲原宿の間にあって、間の宿として東の柏原と共に多くの茶屋が建ち並び旅人たちで賑わった。左方向、よしわら宿本市場村は富士川を控えていたので、茶屋が建ち並び、ここから富士登山大宮口に至る道があった。ここの名物は白酒、葱雑炊、肥後ずいきなどで知られていた広重が描いた、白酒売りの茶屋で憩う旅人右方向は、かんばら宿民家の一角に「鶴芝の碑」 (14:56)ここから眺める雪の富士山は美しく、山腹の雪の形が一羽の鶴が舞っているように見えたことから、鶴芝と呼ばれていた文政3年(1820)、この奇景を京都の画家・蘆州が絵に描き、これに江戸の学者・亀田鵬斎(ボウサイ)が詩文を添えて鶴の茶屋前に碑を建てた【間宿 本市場】界隈の図旧東海道順路 (14:58)横断歩道がないので北側へ少し迂回道路の中央分離帯の中に「旧東海道跡地」 (14:59)派手な建物の前が旧東海道で江戸方面浄土宗 法源寺(ホウゲンジ) (15:00)所在地:静岡県富士市本市場町1040右側の石碑は「天保14年の名号塔」山門から境内・本堂を望む、和順観音像本尊:阿弥陀如来伝承によると、鎌倉光明寺第八世祐崇が開創した法源寺境内日蓮宗 蓮寿山常諦寺(ジョウネンジ) (15:05)所在地:静岡県富士市本市場町84山門から境内に入りここの境内からも富士が見えるのだが旧東海道の道案内杭 (15:10)正面は県道396号線 (15:11)県道396号線を横断して、旧東海道へ上記道案内杭の上にある図だが疲れ気味旧東海道本市場一里塚 (15:14)日本橋から35番目、花壇の奥に「旧東海道一里塚」と刻まれた石碑がある一里塚横にあるバス停一里塚から川沿いに西の方向へ歩く、ここまで 36,000歩 (15:15)富士駅前からのアーケードが見える (15:18)今回は少々時間が早いがここまでとし、JR富士駅北口へ向かう (15:19)今日は月曜日で休日なのか、商店街のシャッターが閉まり昼を食べていないので何か食べたいが (15:23)JR富士駅北口へ到着 (15:25)JR富士駅2階コンコース (15:29)何か暖かいものを食べたかったがどこもオープン前立ち食いそばでもと探すが、これも見つからずあきらめて駅のホームへ (15:35)JR富士駅ホームから熱海行き(15:59)の電車に乗り帰路に着く熱海で乗り換えて、湯河原あたりの車窓 (16:50)18時前には自宅にたどり着くが、今日一日の歩行数は 38,510歩でした。今日は昼過ぎまで富士山がきれいに見え最高、足も痛くなくどうにか無事に歩けた。次回は、JR富士駅から蒲原 or 由比宿か? 原宿から吉原宿-END
2019.03.12
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引き続き、旧東海道(県道171号線)を吉原宿へ向かう。1/28(月) 13:16交差点に「左 富士碑」。東海道を江戸から京都へ旅する際、いつも右手に見える富士山を、左側に仰ぐことができる場所が、吉原の沼川を過ぎたあたり。これは道が大きく北へ向かって曲がっているためで「左富士」と呼ばれた工場棟の上に頂上部分が見える左富士名勝 左富士東海道を東から西に進むと、富士山は右手に姿を見せるが、この辺りは松並木の間から左手に見えることから「左富士」と呼ばれたと吉原 左富士 碑江戸時代の歌川広重の保永堂版『東海道五十三次吉原』の「吉原左富士」で有名になり名勝となった。碑には、その絵が刻まれている右方に見える黒い山は愛鷹山である。左に富士山を眺めながら馬に乗った旅人が行く。前方の馬は背の両脇に荷物を入れたつづらを付け(37.5kgずつ)、その上にふとんを敷いて旅人を乗せている。この方法はのりじりといい賃銭がかかった。手前は馬の鞍の左右にこたつ、のやぐらのようなきくみを取り付け、それに三人の旅人が乗っている。これを「三宝荒神」といっていた久しぶりに、静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標に出会う。吉原宿「左富士」、戻ると原宿まで二里九町(9km)バス停の中には「富士山は見ています」のポスター。きれいな町、素敵な町、我が心の町 → ごみは、家に持ち帰りましょう!道路脇には「名勝 東海道左富士」の道標 (13:19) 道路左側に富士が見えるのだが、工場棟がジャマだ!!!電線もあり都市計画が駄目ですね旧東海道(県道171号線)沿いに建つ「馬頭観音菩薩」 (13:23)平家越の碑 (13:25)橋は「平家越え橋」平家越の碑所在地:静岡県富士市新橋町11地先治承4年(1180)源平の富士川の合戦の際、近くの沼にいた水鳥が一斉に飛び立った。その羽音を源氏の夜襲と勘違いした平家軍は逃走したというこの戦いには挙兵した甲斐源氏の武田信義が参戦している。またこの戦いの翌日には奥州からかけつけた源義経と頼朝の対面が実現している。八幡神社内にある対面石:静岡県駿東郡清水町八幡39平家越え橋から傘雲の富士山 (13:27)川を泳ぐ鴨大日本製紙㈱の正門からの富士 (13:33)宝くじ売り場当店から、2013年のサマージャンボで一等 5億円の当たりくじが出ましたと依田原山神社の鳥居 (13:36)所在地:静岡県富士市依田原家下118拝殿:祭神は大山祗の命(オオヤマズノミコト)と、手水舎昔から津波や大火、暴風などで被害を受けてきたが、昭和52年に現在の拝殿が新築された。拝殿左手前に、狛犬 阿吽一対 がある神社裏の住宅街にある、依田原山神社の標識灯 (13:38)東木戸跡 13:40ここが吉原宿の東端になる、民家の間から富士が見える吉原宿「八坂神社」八坂神社は須佐之男命をお祀りする神社。この神様は、大変暴れ者で神様の国を追われたが、人間界では怪物八俣の大蛇を退治して英雄となった。また、助け出した美しい姫と結ばれて、幸せな家庭を築いた。そのため、厄除け、縁結びの神として、人々に信仰されている付近の道案内東木戸跡から200m先に岳南鉄道の踏切がある岳南鉄道のレトロな電車旧東海道(県道171号線)の岳南鉄道踏切 (13:42)この鉄道の発足は、日産重工業(現日産自動車)の専用鉄道で、戦後に岳南鉄道になったらしい。この先は吉原宿の商店街岳南商店街西端にある東海道案内図今まで歩いてきた商店街であったが・・・・・赤がえるの岳南鉄道「吉原本町駅」レトロな電車が走っており、JR吉原駅から岳南江尾駅まで9.2kmの単線電化線。「紙の町」富士市らしく、切符は紙製の硬券。10駅すべてのホームに「富士山ビューポイント」の表示があり富士山とのコラボ写真が撮れる。また、「日本夜景遺産」に認定された鉄道夜景などで知られている岳南鉄道「吉原本町駅」に隣接した「陽徳寺」 (13:43)所在地:静岡県富士市吉原1-4-30本尊の地蔵菩薩が「身代わり地蔵尊」むかし、寺町【今の東本通り付近】に悪性の眼病がはやった時、町の人々がこのお地蔵さんに願をかけると、眼病はたちまち潮がひくように治った。その時お地蔵さんの目にいっぱい目やにがついていたので『身代わり地蔵』というようになった。その後も、はしか、おでき等身体の弱い子に・・・・・陽徳寺の境内万延元年(1860)の火災で旧記を失い、開基・開山を含め沿革は詳らかでない。本尊の地蔵菩薩は元々は駿東郡青野村にあった光明庵でまつられていた。それがある年の大洪水で元吉原宿付近まで流されてきたのを、宿場の人が救い上げ陽徳寺の本尊としたそうですと陽徳寺の鐘楼の右手に富士が見える見よう歩こう富士市の東海道 (13:45)休日なのか静かな吉原本通り商店街(吉原宿) (13:47)吉原本通り商店街から天神社参道へ鳥居には「天満宮」と (13:48)所在地:静岡県富士市吉原3-1-10吉原祇園祭「天神社」毎年六月第二週頃の二日間、吉原の六つの神社の氏子町内が合同で行う祭りである。「吉原のお天王さん」と呼んで、夏の邪鬼祓いをしている。各神社の天王神輿は二日間に担ぎ出され、山車は二日間曳き回され、お囃子が演奏される。山車同士のすれ違いでは競り合いとなり、お囃子の腕比べが祭を盛り上げる。〈吉原祇園祭の六社〉①天神社 ②木之元神社 ③山神社 ④八坂神社 ⑤八幡宮 ⑥和田八幡宮天神社社殿境内に咲く紅梅朱があざやかな社殿吉原地区最古の神社で、寛永4年(1627)に菅原道真を含め合祀している。社殿左前に菅原道真像がある吉原天神社当社は往昔吉原宿見附産土神総社にして、天の香久山(香久山浅間宮)の高処(み)にあったが、度々砂を押し上げられ、所を迫られ鎮座なり難く元吉原今井・鈴川の地に引き移った・・・・・・社記には、建久4年(1193)源頼朝が富士の巻狩りのおりに、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原攻めの余路に参拝したと伝えている天和2年(1682)現在の地に祀りて、以来当地の鎮守「天神さん」として崇敬を集め、年々歳々社頭は賑わい殊に学問の神の御神徳により、数多くの受験生が参詣に訪れる手水舎鳥居をくぐると両側に黒い牛が寝そべったすがたで迎える色付きの「ふじしおすいマンホール」 (13:52)江戸から14番目も宿場「吉原宿」 (13:58)原から吉原まで東西13km、南北2kmの広大な沼地があったので「葦の茂った原」から吉原と名付けたと伝わる。吉原宿は開設から約80年の間に、度重なる津波や高潮の被害に遭い、二度所替えをした。そのため東海道は大きく北へ迂回することになり、右手に見えていた富士山が、左手に見えるようになり「左富士」と呼ばれる景勝地となった。移転後の吉原宿の町並み長さは東西1町10間(約1.3km)文化3年(1806) 道中奉行所(編)『東海道分間延絵図(13巻之内3)』上記『東海道分間延絵図』より主要施設名を抽出。吉原の町並みは近代化され昔の面影は残っていない次郎長、鉄舟も常宿した「旅籠 鯛屋」吉原宿の面影は残っていないが、商店街のアーケード街に江戸時代から営業している「鯛屋旅館」がたった一軒残っている。旅館前に、梅風呂の湯、素泊まり 3,450円から。隣は、一麺入魂 本手打うどん・そばバス停も「鯛屋旅館」これまでの宿場は史跡を示す何らかの標識があったが、この宿場は西木戸跡と東木戸跡以外何もない。それと月曜日で休日だったのか、半分以上の商店がシャッターを下ろしていて、なんとも寂しい限りであった吉原宿 道案内 (14:00)当時の旅の案内所に「名は同じけれど江戸の吉原とは雲泥の違いにて、女の風もいとひなめきたり」と吉原宿のひなびた様子を書いている。この交差点を左折して、蒲原宿(三里:12km)、京都(九十里:354km)。直進すると、本宮(富士宮)三里:12kmここの通り沿いに「長さん小路」がある。いかりや長介(本名・碇矢長一)さんは1931年、東京隅田区に生まれ、1944年小学校卒業と同時に富士市に疎開。その後、工場の仲間とバンド活動を始め、吉原のダンスホールなどで演奏。青春時代の16年間を富士市で過ごした。1959年、28歳で上京し、ミュージシャンからザ・ドリフターズのリーダーとして活躍した。 原宿から吉原宿-続く
2019.03.11
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旧東海道から離れて「富士と港の見える公園」へ向かう。1/28(月) 12:06木之元神社裏の高台からの富士日蓮宗 大乗教会 (12:07)所在地:静岡県富士市鈴川中町2-25宗派?妙法寺 (12:15)所在地:静岡県富士市鈴川町12-14山門だが扁額がなく・・・・・境内も芝を焼いて・・・・・阿字神社奥宮 (12:19)見付宿石碑・井戸、案内板鎌倉時代のはじめころ、このあたりに見付が構えられ、東海道を往来する旅人を改め、吉原湊から対岸の前田まで舟渡しをしていた見付と(元)吉原宿その後、南北朝から戦国時代になると、吉原湊が、軍事的、商業的に重要視され、この見付には、道者商人問屋も置かれ、宿場、港町としての機能を合わせ持つようになった。しかし、この地は湊からの高浪や、砂丘からの漂砂の害がひどく、天文年間(1532~1554)に、今の鈴川、今井地区へ所替えし、まもなく吉原と改名され、東西への旅人で繁栄した。慶長6年(1606)に至り、徳川家康によって東海道駅伝制が敷かれ、吉原宿として指定された。しかし、この地も寛永16年(1639)に度重なる漂砂や高波の被害で、依田橋村西方に所替えした仏舎利塔仏舎利塔阿字神社 奥宮石水門の石碑石碑の表面に「石水門」の絵を描写明治16年伊達文三らによって第二次石水門の築造が計画され、内務省雇蘭人モルテルの助言や、石工小島佐左エ門父子の優れた技術などによって明治18年見事に竣工した。昭和42年、近代的な田子の浦港築造に伴って撤去されるまで、実に80余年の間使命を果たしてきた沼川石水門を、永久に記念してここに建碑したものであると。昭和44年11月石碑の裏面に「石水門」の説明。この河口は、吉原湊(小須湊)といって鎌倉時代から交通に、或いは商港として大いに利用されてきた。しかし、江戸時代の中頃になると湊は次第に浅くなり高浪が押しよせると湊口は惣ち土砂で閉塞され、海水はその土砂を乗り越えて耕地内に逆流し、関係34ヵ村、2千余町歩におよぶ田畑に毎年大損害を与えた。慶応2年野村一郎らは、湊口に堅牢な防潮堤を築いたが、明治2年の大暴風雨で破壊され、続いて明治3年渡辺佐一郎らが、第一次石水門の築造を始めたが、工事半ばで流出してしまった。その後、明治16年伊達文三らによって・・・・・(上段へ)展望台に登り田子の浦港越えに富士山がきれいに仏舎利塔南アルプス方向ズームアップ対岸の左に「ふじのくに田子の浦みなと公園」ズームアップして対岸の展望台田子の浦港に停泊するタンカー富士と港の見える公園案内図所在地:静岡県富士市鈴川字砂山621-6公園下にある「富士と港の見える公園」の石碑阿字神社 里宮阿字神社里宮鳥居 (12:36)このあと、海岸線を歩いてJR吉原駅へ向かうJR吉原駅南側に設置されている「歩く健康つくり一万歩」 (12:46)松と潮騒コース起点:JR吉原駅、全長:6.1km、所要時間:約2時間JR吉原駅南口から跨線橋を渡り北口へ、ここまでの歩行数は 24,500歩跨線橋の上から、京都、富士方面JR吉原駅改札口 (12:49)JR吉原駅北口に降り、旧東海道(左:県道169、右:170号線)の吉原駅北口交差点へJR吉原駅北口駐輪場、毘沙門天大祭の垂れ幕が毘沙門天大祭に伴う交通規制図大祭期間中の3日間は、数十万の人々で賑わうので電車・バス等の公共交通機関をご利用くださいと!旧東海道を歩き、河合橋交差点 (12:53)沼川に架かる河合橋から、河口方向の製紙会社。江戸時代の吉原は駿河半紙の産地だった。明治23年、冨士製紙工場が設立され、近代製紙業の町へと変わった上流側に停泊するボート上流側、この辺りは製紙会社が多く、昔田子の浦港を汚染し社会問題となった旧東海道(県道171号線) 河合橋・(元)吉原宿跡 (12:56)元吉原宿跡東海道が制定された当初、吉原宿は妙法寺(毘沙門天)からその先のJR踏切を桝形状に渡るあたりにあった。ここを元吉原と呼ぶ。寛永16年(1639)大津波で宿場が破壊され2km先にあった依田一里塚(34里目)の先に移転し、中吉原と呼ばれた。しかし、中吉原も41年後の延宝8年(1680)の大津波で破滅的被害を受け、翌年の元和元年(1681)さらにその先にある現在の吉原本町に移転した。当時は新吉原と呼ばれた河合橋西江戸時代、この辺り一帯は立派な松並木が整備されていた。現在はここを含め、数本の松がかってを偲ばせている。また、ここから江戸方面へ150mほど行くと、沼川に河合橋が架けられている。かっては高欄付きの板橋で、河合橋からの富士山の景色が明治期の古写真に数多く残されている旧東海道(県道171号線)を歩き、国道一号線、新幹線の高架 (13:01)新幹線の高架下にある依田橋西交差点からの富士山旧東海道(県道171号線)を歩いて左富士神社へ向かう (13:04)旧東海道(県道171号線)、この辺りから右にカーブして左富士に(民家の屋根上に)左富士神社 (13:08)所在地:静岡県富士市依田橋町10近郊の案内図漢文で???依田橋村の一里塚一里塚の場所は、現在民有地になっているため、左富士神社の境内に、一里塚跡の石碑を建立した江戸から34番目の一里塚。度重なる水害等により、吉原宿と共に、この一里塚は三度所替えしている東海道分間延絵図 文化3年(1806)の依田橋村雲がかかってきた富士山 (13:15)桜が咲く時期の左富士(掲示されていた写真から) 原宿から吉原宿-続く
2019.03.10
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まだ富士山がきれいに見えているので、早く左富士へ行きたいが。1/28(月) 10:48引き続き旧東海道(県道380号線)を京へ向けて歩く愛鷹神社所在地:静岡県富士市檜新田石鳥居や瓦葺木造の枯れた本殿の佇まい、生い茂る大木・・・と、結構の整った雰囲気のある神社である旧東海道(県道380号線)沿いの電柱の傍に「庚申魂」 (10:53)富士に雲がかかってきたので天気はくだりざかか? → 傘雲に?県道380号線の檜(ヒノキ)交差点 (10:55)旧東海道はここを左へ曲がり県道170号線(旧東海道)へ直進は県道380号線で、国道一号線に突き当たる檜交差点にある「旧東海道順路」道路標識東 間宿 柏原少々疲れ気味の標識 (10:57)県道170号線(旧東海道)へ入り、檜交差点を振り返る旧東海道(県道170号線)沿いの、小さな庚申堂 (11:02)天気が悪くなるのか、雲が富士の頂上に近ずく庚申堂所在地:静岡県富士市大野新田 ここまでの道中の住所は「・・・新田」が続く旧東海道沿いの「高橋勇吉と天文堀」の碑 (11:06)石碑三新田(大野・檜・田中)の80haに及ぶ水田を幾多の水害から守るために、排水用の堀を天保7年(1836)から14年の歳月をかけて完成させた人物。勇吉は天文の知識や土木技術に優れていたので、村民はこの堀を「天文堀」と呼んだ。いま、三新田の耕地は土地改良や道路などで開発が進み、勇吉の天文堀は、その跡を見ることはできない旧東海道の南側に小高い丘が、富士が見えるのではと登ることに (11:12)三位稲荷神社の鳥居鳥居をくぐると工場の向こうに素晴らしい富士が見える。ここで、今朝購入したおにぎりを食べながら休憩、ここまでの歩行数は16,700歩西側の製紙工場鳥居の前に出て撮影旧東海道「元吉原小入口」バス停がある鳥居の間から富士を前景を入れて撮影保存樹木所在地:稲荷神社樹 種:エノキ(ニレ科)、クスノキ(クスノキ科)富士の撮影に熱中して、稲荷神社の社殿の撮影を忘れる旧東海道(県道170号線)の「元吉原小入口」バス停 (11:25)ここのバス停は吉原中央駅方面で、次は「毘沙門天」妙法寺(毘沙門天)前の門前の宿「旅館 立場」 (11:30)妙法寺(毘沙門天)の鳥居所在地:静岡県富士市今井2-7-1石段を登り本殿へ妙法寺(毘沙門天)開創は寛永4年(1627)の日蓮宗のお寺。延宝8年(1680)の台風の高潮で宿場とともに流されたが、元禄10年(1697)この地に再建された。家康側室・お玉の方(水戸藩祖頼房の母)や紀州藩祖の頼宜も信仰したという。江戸時代中期から始まったとされる旧暦正月7~9日に行われる毘沙門天大祭の「だるま市」は、高崎、深大寺とともに日本三大だるま市として知られる毘沙門天全景お身拭い 毘沙門天あなたの身体の痛むところと、この像と同じところ(例えば腰・足・ひざなど)を御布でよくさすって下さい。毘沙門天王が代わって、その痛みをとり去って下さいますと厄除線香を購入して、竜神洞、毘沙門堂、右は客殿ネパールにあるような建物毘沙門堂の前にごま木「清水エスパルス応援!!」のごま木。一緒に応援して下さる方は、応援メッセージを書いてご奉納してください。無料ですと。私も名前を書いて置く毘沙門天大祭のポスター開催日:2019年2月11日(祝) ~ 13日(水)札場受付でパンフレットを頂く大祭の期間中は数十万の人々で賑わうと札場受付からの毘沙門堂、客殿弥次さんが御朱印を頂く(平成31年1月28日付き)文言は「福聚海無量(フクジュカイムリョウ)」と書かれている。「福寿海無量」は本来経典の中では「福聚海無量」となっており観世音菩薩の功徳は「福を聚めた大きな海のように量に限りが無い」という意味である(ネットより)境内では2週間前だが、毘沙門天大祭の準備中一万歩元吉原松と潮騒コースの看板。毘沙門天からの距離を表示。江戸方面「高橋勇吉の碑」0.7km、京方面「葉隠塚」0.3km旧東海道(県道170号線)の門前の宿「旅館 立場」今でも営業しているのか? (11:45)毘沙門堂の西側に隣接する、妙法寺本堂と鐘楼妙法寺本堂旧東海道沿いで咲くロウバイ銅板敷きの屋根の民家海老坂薬師 (11:53)木之元神社 (12:02)所在地:静岡県富士市鈴川東町1木之元神社鳥居、本殿は修復中なのかテント囲い富士市指定天然記念物の、木之元神社の御神木「ムクロジ」樹高:11.6m、目通り:1.8m樹勢は良く、稀に見る巨木であり市内にあっては珍木として貴重な存在である小高い丘の上にある、木之元神社境内赤い鳥居は、伏見稲荷大明神左下に、一万歩元吉原松と潮騒コースの看板 (12:04)木之元神社からの距離を表示。木之元神社のムクロジの木標 原宿から吉原宿-続く
2019.03.09
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JR東海道線植田踏切を渡り、吉原宿を目指して旧東海道(県道163→380号線)を歩く。1/28(月) 9:47富士市との境界線がこの先に富士市との境界手前にある「八幡神社」所在地:静岡県沼津市植田48八幡宮鳥居八幡神社本殿八幡神社の境内富士市に入り、JR東海道線「柏原踏切」東京駅から136k894m地点 (9:54)富士山がきれいに見えている。ここまでで、10,000歩踏切を渡って「山之神古墳」へ、JR東田子の浦駅が見える線路脇を歩き「山の神古墳」へ山の神古墳所在地:静岡県富士市東柏原新田135古墳は前方後円墳で、庚申塚古墳の東方150m、標高5m程の砂丘に位置し、6世紀末~7世紀初頭に造られたもので、当時のスルガのクニの王墓と考えられ前方部は古くから畑となり、墳丘南側は鉄道線路のため、全体の1/3が削り取られている。墳丘前面に浜石による葺石が施され、昭和54年の調査では周溝が確認され、埴輪も出土したJR東海道線の上り貨物列車庚申塚古墳へ (9:59)古墳の形状は双方中央墳で、浮島沼に接する砂丘上の海抜5mに位置し、およそ1500年前につくられ、当時この一帯を支配していた古代豪族の墳墓と推定される形状は「双方中央墳」といい、図のように全国的にも非常に珍しい例です富士市の消火栓マンホールふじし「おすいマンホール」旧東海道(県道380号線)にもどり「東田子の浦駅」入口 (10:08)六王子神社(ロクオウジジンジャ)鳥居東田子の浦駅前にある神社で、「三股の伝説」というのがある六王子神社所在地:静岡県富士市中柏原新田172伝説「三股の伝説」昔、沼川と和田川と潤井川とが合流し深い渕になっている所を「三股」と呼んでいた。この渕には龍が住んでいて、毎年お祭りをし、少女をいけにえとして捧げるしきたりがあった今から400年程前、関東の巫女七人が京都へ向かう途中、このいけにえのクジを引き、一番若い「おあじ」が引き当ててしまった。仲間の六人は国元へ引き返す途中、柏原あたりにきたとき、悲しみのあまり世をはかなんで浮島沼へ身をなげてしまった。村人が六人のなきがらを一カ所に弔ったのがこの六王子神社だといわれているJR東田子の浦駅 (10:12)所在地:静岡県富士市中柏原新田171 駅番号:CA06 東京から137.4km旧東海道(県道380号線)南側にある「延命地蔵尊」松林の向こうは駿河湾の防波堤がある旧東海道(県道380号線)をはさんで北側に六王子神社の鳥居大六天神社 (10:17)旧東海道(県道380号線)沿いにある神社境内に保存樹木の看板樹木:エノキ(ニレ科)、ムクノキ(ニレ科)樹木は光合成により炭酸ガスを吸収し、酸素を出すなど人間生活に重要な役割りをはたしている ← 昔、学校で教わった間宿 柏原・本陣跡 (10:23)この辺りは「東原宿」柏原には大きな立場があり間の宿と呼ばれた。名物は浮島沼で獲れる鰻。現在は茶屋本陣跡の碑があるのみ。私も蒲焼が欲しい!!!望嶽(ボウガク)の碑。東:間宿 柏原望嶽の碑:富士市に入ってこのような説明版が目立つ。文化5年(1808)尾張藩の藩医柴田景浩が、西柏原・立圓寺境内に建立したもの。ここから眺める富士山のすばらしさを称賛している日蓮宗立圓寺(リュウエンジ)と富士山 (10:24)所在地:静岡県富士市西柏原新田72万治3年(1660)に京都立本寺20世霊鷲院日審によって開創された。明治初期および昭和7年(1932)11月14日大火で類焼し、堂宇、古文書など焼失した宗祖700遠忌報恩事業として総欅造りの本堂を完成、楼上に鐘楼をそなえた仁王門を建立、台座とも九尺五寸の釈尊座像(ブロンズ製総金箔押)を奉納した仁王門今日は富士山がくっきりと見え、江戸時代に眺めた富士山のすばらしさを感じた境内の望嶽碑、ゲラテック号遭難誌ゲラテック号遭難誌清水港から救援米を運ぶ途中、昭和54年(1979)10月19日台風20号に遭遇し、強風と高波により船体は立圓寺南方の柏原海岸に打ち上げられ救助を求める二人の船員の遵い生命も奪われた船体は直立のまま海岸線と防潮堤の中間の陸地に打ち上げられ、新聞・テレビのマスコミにも登場し日曜・祝日には、五万人の人出を数え売店十数軒出店するなど近郊は勿論のこと、東京・愛知・山梨より見物人が押しかけた。船体は六ヶ月を要して解体処理された左は尾張藩の藩医柴田景浩が建立した「望嶽碑」と、ゲラテック号2名の「慰霊の碑」望嶽碑の背面には、下記の内容が漢文で記されている旧東海道(県道380号線)を西に歩き、昭和放水路「広沼橋」 (10:35)広沼橋上から駿河湾への昭和放水路橋の上から富士を望む増田平四郎の像浮島沼の干拓に生涯を捧げ「スイホシ」と呼ばれる排水路の大工事を行った人。現在はその跡に「昭和放水路」ができている。又、この付近に江戸から33里(129.69km)の、一里塚があったという増田平四郎とスイホシの説明。天保7年(1836)の大飢饉や度重なる水害から村民を救済するため、原宿の増田平四郎(1807~1892)が浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治2年(1869)の春で、全長505m、巾7mの水干(スイホシ)といわれる放水路で人々は「スイホシ」と呼んだ旧東海道(県道380号線)の江戸方面この場所から「西(元)吉原宿」に入る玉ねぎに水を与える主婦 (10:41)旧東海道(県道380号線)沿いの、春耕道しるべ第一号石碑 (10:43)米之宮神社 (10:44)所在地:静岡県富士市田中新田米之宮神社本殿米之宮神社入口にある「淡嶋神社」 原宿から吉原宿ー続く
2019.03.08
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旅友の弥次さんから1月28日(月)は天気が良いとのことで、東海道53次の「原宿から吉原宿・富士市のJR冨士駅」を目指して歩いた。茅ヶ崎駅からの日の出前 (6:29)乗車前にコンビニでおにぎりを購入、電車賃はまだ1,320円と手ごろである。6:44発の沼津行き電車に乗車沼津駅で浜松行きの電車に乗り替え、原駅前の車中からの富士山 (8:19)今日は弥次喜多道中しながら富士が見えるようだ、吉原での左富士も期待大!JR原駅前からの富士 (8:21)原宿は江戸から13番目の宿。原宿の「原」の地名は、この地の山側にあった浮島沼を中心とした広大な湿地帯だった浮島ヶ原に由来する。その浮島ヶ原と海岸に挟まれた一本道にある宿場。高波の被害で慶長14年(1609)に現在の地に移転。原は特に産業もなく、住民は浮島ヶ原から海へ放水路を開削し新田開発に努めた。植田新田、助兵衛(スケベエ)新田、一本松新田なその名が残る。天保9年(1838)、と天保13年の大火で脇本陣・旅籠の多くが焼失。以後再建されなかった原駅近郊の案内板。原は臨済宗中興の祖といわれた白隠禅師が生まれ没した地なので「駿河には過ぎたるものが二つある。富士のお山と原の白隠」と謳われた。雄大な富士山が眺められる地としても人気があった原駅前からの富士山江戸時代の名物は浮島沼で獲れる鰻の蒲焼。特に原と吉原の間にあった「間の宿 柏原」の鰻はよく知られていたズームアップするが雪が少ない秋葉大権現 (8:31)旧東海道から海側の路地にある民家に隣接した小さな神社旧東海道(県道163号線)から海側にある、浅間神社へ (8:36)所在地:静岡県沼津市原560浅間神社、第一鳥居第一鳥居 由来記JR東海道線三島行き電車 (8:38)本殿前の鳥居浅間神社本殿県道380号線沿いにある、沼津市立原中学校校門? (8:43)駿河湾の護岸へ (8:46)伊豆半島護岸からの富士山ズームアップ田子の浦、富士方面台風津波対策で高い護岸となっている (8:49)県道380号線沿いの松林の中にある「いぼ神様」 (8:53)古来より、このお社のうしろにあった巨松の盤根の間にくぼみがあり、つねに水がたまっていた。「いぼ」のできた人が、この水をいぼにぬり祈願すると、いぼがよく落ちるので、いぼ神様といわれ広く(原町誌より)信仰されている東海道原宿 一里塚 (9:00)江戸時代に築かれた日本橋から32里目の説明街道をはさんで両側にあったと思われるが、現在は宅地化されてその面影はない一本松史跡 町あるきマップ 所要時間1~2時間ぬまづ げすいマンホール浅間神社 (9:12)所在地:静岡県沼津市一本松561慶安3年(1650)創建、明治8年2月村社に列せられる。境内西側の末社には、三扉の神があり、櫛摩知命、大己貴命、少名彦名命が祭られている。又、境内入り口東側には天王社(素戔鳴男命)が祭られている一本松浅間神社曹洞宗海岸山 大通寺 (9:18)所在地:静岡県沼津市一本松62紹外舜隆和尚(シュウガイシュンリュウオショウ)を招いて開山した寺。幕末に徳川の藩士が開いた寺小屋は、明治6年に初学舎と命名。スルガ銀行初代頭取、岡野喜太郎氏も学び、境内には碑が建てられている大通寺山門大通寺本堂鐘楼と忠霊塔寺小屋があった場所なので境内にはありがたいお言葉がたくさんあると境内から鐘楼、山門境内の隅に五百羅漢囲碁の盤を前に考える像浅間愛鷹神社 (9:28)所在地:静岡県沼津市桃里508浅間愛鷹神社延享2年(1745)の創建で、元和元年(1615)に鈴木助兵衛父子により当地の開拓が始まってから、130年後である。神社の建造物は何回も改築されている。今のは昭和44年に建てられたものである境内社としては、山神社と天王社とがある。当地区内には、別に桜地蔵尊と稲荷神社とがある旧東海道(県道163号線)からの富士山 (9:36)JR東海道線の南側に「桃里の桜地蔵尊」 (9:38)踏切は70m後戻りして右折してくださいと桃里の桜地蔵尊:これより弊社敷地につき、通行できません。お近くの踏切を・・と沼津市花いっぱいコンクールで「市長賞(モデル花壇)」受賞JR東海道線の下り電車旧東海道(県道163号線)の植田踏切を渡り (9:43) 原宿から富士-続く
2019.03.07
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大田子海岸からのサンセットを見るために2時間待機。2/21(木) 15:48大田子海岸夕陽展望所(OTAGO SUNSET VIEW TERRACE)所在地:静岡県賀茂郡西伊豆町田子大田子海岸は日本の夕陽百選!西伊豆・夕陽日本一宣言の絶景オブジェの穴から「メガネッチョ」を覗く、最近ではゴジラとも呼ばれている島15:59展望テラスから細い道を上り裏山へ登る16:01太陽が西の空に、日の入までにはまだ1時間半メガネッチョ(ゴジラ)と呼ばれる島を横から見る西の空、水平線上は雲がない16:10大田子海岸「展望テラス」まだ時間が早いので駐車場には車が少ないテラス横にはトイレも整備されている山の斜面に咲く河津桜16:25西の空、日の入1時間前になり赤味を帯びるメガネッチョ(ゴジラ)16:45雲の中から斜光が、水平線に雲がなく日の入が期待できる16:48雲の合間から太陽が出る17:03日の入りを待つ男三人17:05赤味を帯びてくる携帯を構える先輩17:08旅友がiPhoneで調べると、遠くに見えるのは御前崎17:12日の入までには後20分17:13 真ん中の島に灯台がある17:20雲の中に太陽が17:23漁船が人を乗せて帰港17:24日の入間際だが17:25雲の中から太陽が出てくる17:26ズームアップ更にズームアップ17:27西の空は赤味を帯びるが、雲の色は変わらず太陽が出てくる17:29御前崎方面の地上がズームアップ灯台の灯がともる17:30ズームアップ、太陽に模様赤味は増えず17:31地上に隠れだす風も弱く穏やかであるので色が変わらない?17:32地上に沈む期待したほどに色も変わらずズームアップ17:33太陽全体が沈み17:33赤味を残す。これ以上に色は変わらず17:39大田子海岸夕陽展望所(OTAGO SUNSET VIEW TERRACE)咲くほどまで駐車場に車が10台ほどあったが3月の春分の日と、9月の秋分の日の前後に、男島と女島の二つの島の間に夕陽が沈む様子は神秘的なほど。メガネッチョと呼ばれる奇岩も人気3月の春分の頃にサンセット撮影で再度来たいものです。本日の総歩行数は、9,236歩でした、一万歩にならず。デジブックにてBGM入りで「河津桜と西伊豆の旅」を公開しておりますので、併せ て訪問願います 河津桜と西伊豆ーEND
2019.03.06
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伊豆半島へ来たときはいつも立ち寄る仁科漁港の「沖あがり食堂」で今回も昼食をとる。2/21(木) 14:10「漁協直売所(沖あがり食堂)」へ到着所在地:静岡県賀茂郡西伊豆町仁科980-6 ☎ 0558-52-0018営業時間:11:00~15:00 火曜日は定休日ですのでご注意を!店内では魚の直売も味のある看板オヤジと記念写真。今日は同席の椅子がないイカで勝負! 丼で勝負! のこだわり食堂。刺身イカを乗せた「イカス丼」、漬けたイカと卵の黄身で夕陽をかたどった「夕陽丼」、刺身イカと漬けたイカを乗せた「いか様丼」など、”イカ”と”丼”にこだわるユニークな食堂で、ライダー等のリピーターが多い。タイミングがよければ「活きたイカ」もお刺身でゲットできる注文した「いか様丼」820円店内にあったポスター。今日の旅の目的のひとつは、この夕陽だが!!! 14:28堂ヶ島公園堂ヶ島案内図今日は波が穏やか、亀岩、蛇岩風が穏やかで、堂ヶ島遊歩道を歩く今日も観光遊覧船は欠航のようだ!海面上に遊歩道の岩場を登り「遊覧船乗り場」亀岩、蛇岩仁科方面の「夕陽スポット」トンボロ現象の中ノ島方面急な岩場を登り亀岩、蛇岩14:38いつも風が強いので岩肌が削られ昭和天皇陛下休息の地「亀岩展望地」亀岩展望地からの亀岩、蛇岩亀岩展望地の休息所展望広場への坂道は別名「仲直りの坂」。急な坂道になっており、喧嘩した夫婦も思わず手をつないで昇るのを助け合うと言われています。一度お試しになってみてはと?展望広場からの「三四郎島のトンボロ現象」地。ネットで調べるとこの日のトンボロ現象は朝方であったと、既に満ち潮に!この地は、伊豆の「松島」と。この展望地の下は、浮石質凝灰岩が海水で浸食され、断崖となって海よりそそりたっている。その様が、日本三景の一つである陸奥(宮城県)の「松島」に匹敵することから「伊豆の松島」と呼ばれている。また周囲に見られる植物は、伊豆西海岸に多く見られるウバメガシで、良質の木炭である「備長炭」を作るのによく用いられている堂ヶ島ホテル群昨年の暮れに孫の誕生会で宿泊したホテルがある堂ヶ島瀬浜海岸の三四郎島(伝兵衛島、中ノ島、沖ノ瀬島、高島の四島)からなる。伝兵衛島は付近から眺めると象の形に似ていることから、別名象島の名前で親しまれている。でも象よりマンモスに近いかも?とトンボロ現象トンボロ現象は普段は海だが、干潮時には陸地から島へ幅30mの砂州ができ、陸から島へ歩いて渡ることができる珍しい現象である展望広場の下の岩場立ち入り禁止地域へ進入した先輩。「注意看板があるよ」と注意するが堂ヶ島の天然記念物「天窓洞(テンソウドウ)」堂ヶ島の代表的な奇勝のひとつで、島の中が洞くつになっており遊覧船が入るその天井に空いた穴から見る景観、射し込む光の美しさは、まるで天使が舞い降りてくるように幻想的であるその景観は遊覧船でゆったりと、小さな船旅を満喫できる昭和天皇・皇后陛下堂ヶ島行幸記念植樹の横に石碑昭和天皇に同行した、入江侍従の歌後方は「天窓洞」陸地側の洞の入口、天窓への入口は、西口、南口、東口と三カ所ある15:10日の入りまでにはまだ時間が早いが、堂ヶ島公園から大田子海岸へ行く事に。国道136号線を北上して、大田子海水浴場へ下る。15:33大田子海岸夕陽展望所(OTAGO SUNSET VIEW TERRACE)所在地:静岡県賀茂郡西伊豆町田子日本一の夕陽! との呼び声も高い大田子海岸。沈む夕陽を眺めながら、静かなロマンにひたってみましょうとあるが。今回はオジン三人の旅であるが(笑)手前の島は、メガネッチョ、最近ではゴジラとも呼ばれている島ズームアップすると、手をしゃぶっているみたいと手前にはカモメが飛び交い15:41奥の島には燈台が立つ日の入が17:30頃で、約2時間待機することに。デジブックにてBGM入りで「河津桜と西伊豆の旅」を公開しておりますので、併せ て訪問願います 河津桜と西伊豆-続く
2019.03.05
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南伊豆町のみなみの桜を見た後、国道136号線のマーガレットラインを走り西伊豆の雲見海岸へ、曇っており富士山は期待できないが2/21(木) 11:52青野川の堤に咲く、みなみの桜は満開みなみの桜と河津桜との違いは?ネットで調べると「みなみの桜」と「河津桜」は品種的には河津桜とのことみなみの桜と河津桜の見頃と最盛期もほぼ同時本場の河津町だけでなく、南伊豆町の河津桜も必見なので両方行きましょう!と先輩のOさんから「桜は3本仕立てにする」とか染井吉野に比べ色が濃いので見ごたえがある菜の花とのコラボが余計に生える12:00南伊豆町の歴史「石切丁場」この前の岩山は採石場跡である。古来より伊豆半島は江戸や小田原、駿河などの城を築く時の石の供給地であった。江戸が開けるに伴って石山が開発され、幕末に至っては品川沖の御台場建造に、さらに進んで明治維新後、東京と変わり発展を続ける中、建物の基礎、橋梁、道路の石畳等に大量に使用された。特にこの辺りの石は、良質できれいな伊豆の青石としてもてはやされ、木炭と並んで地域の大きな産業であった道の駅「下加茂温泉 湯の花」に掲げられた「静岡県へようこそ」の案内板。道の駅内には、無料の足湯がある道の駅の試食コーナー酒づけサンマ、美味しかったさんま寿司 500円/6カット人気があるようで、品切れのため本店から急送15分待ちで我々も一箱購入先輩のOさんは光物は苦手のため二人で食べる。味は肉も厚く酢がきいていて美味しかったテレビ局が撮影にいつ放映されるのか・・・・・・皆さん複数箱購入していた、値段も500円と割安感満開のみなみの桜みなみの桜は河津町よりも見応えを感じる堂々とした大木河津町では川沿いに柵が多く、河原に降りられる場所が限られるが、南伊豆町には柵が無く眺望も抜群河原に降りるだけでなく、河原を歩き続けることが可能で、この絶景を存分に満喫出来ますともう相当年数の桜の大木夜桜ライトアップも最高と!河津町ほど混んでいなくて最高河川敷から見上げる桜も最高河川敷には大根の花も咲いていた菜の花とのコラボ前ボケの桜を入れて人力車に若い母子が乗り、自撮り撮影、パパは歩いて撮影12:46南伊豆町の「みなみの桜と菜の花まつり」を見終えて、堂ヶ島方面へ向かう。13:12国道136号線を北上して伊浜展望広場所在地:静岡県賀茂郡南伊豆町伊浜2173マーガレットの里「伊浜」南伊豆町伊浜地区はマーガレット栽培が盛んで、全国でも有数の出荷量を誇っている。伊浜地区の段々畑は、海に面しており霜が降りず、西側に波勝崎が突き出しているため、強い西風をさえ切り伊豆半島の中でも温暖な土地として知られ、花の栽培には適しており、品質のよいマーガレットが生育されている展望広場から島は「宇留井島」、下の村は伊浜ズームアップ近くに波勝崎の猿園があるのでか、猿の像「みなみの桜」も咲き波勝崎苑 猿園?13:16ズームアップ、波勝崎苑 猿園か13:30雲見海岸へ、天気が良ければ富士山が見えるのだが牛着岩(ウシツキイワ)の大牛と子牛別名”夫婦岩”とも呼ばれていて綱で結ばれている。名前の由来は、時は文化13年(1816)、伊能忠敬が全国を測量していた頃の話。雲見に大洪水が起こり、十数軒の住居が流されたり埋まったりと大変な被害を出した。その際、家畜も流されてしまったが、牛が岩に流れ着き生きながらえていたため、この岩を「牛着岩」と呼ぶようになったとか。以前は、岩の頂上に鳥居が建っていた、またここは、ダイビングスポットでもある先輩のOさんもスマホで撮影に熱中雲見海岸の烏帽子山、雲見浅間神社堂ヶ島海岸越えに富士山が見えるのだが13:32雲見海岸の奇岩このあと、仁科漁港へ向かう。デジブックにてBGM入りで「河津桜と西伊豆の旅」を公開しておりますので、併せ て訪問願います 河津桜と西伊豆-続く
2019.03.04
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引き続き河津町の河津桜を見てから、国道135号線を南下して南伊豆町へ向かう。2/21(木) 9:54お土産店で「さんまハリコ」の試食。最初食べたのは美味しかったが「アジの干物」、さんまハリコは内蔵があり苦かった。この為「金目鯛の干物」を購入した10時近くになりツアー客も多くなるピンクの桜は、菜の花とのコラボが最高菜の花とのコラボピンクとイエローとのコラボ「さくらの足湯処」がある:営業は、9時 ~ 17時(無料)10:19駐車場へ向かい河津町から南伊豆町へ向かう11:17南伊豆町へ到着今年は、「第21回みなみの桜と菜の花まつり」開催期間:2/10(日) ~ 3/10(日)日野菜の花畑「元気な百姓の花畑」ファミリーマートの駐車場に車を止め散策:後で食料品を購入国道136号線、観光バスも停止して10数分間の滞在菜の花の香りが一面に漂い桜とのコラボを期待したが、後方の桜の開花はまだ先のようだコンビニ方面青野川の堤の桜は「ソメイヨシノ」携帯で撮影愛犬連れが多い菜の花をズームアップここのステージで「菜の花結婚式」も行っている。2/17(日)に第19回菜の花結婚式が開催されたようだ(パンフレットより)11:26菜の花畑は、約10分の撮影タイムで後にする11:38道の駅「下加茂温泉 湯の花」近くの駐車場(500円)に車を止める。下加茂温泉の青野川沿いに咲き誇る桜と菜の花みなみの桜と菜の花街道来の宮橋スタンプがあり、ウォークラリ-でスタンプを集めると豪華景品が当たると南伊豆町では何故か河津桜と言わず「みなみの桜」と言っている夜は毎日 18:00 ~ 21:00 までライトアップしているピンクが濃く川面に映えるお花見人力車も、桜並木を湯けむり橋この辺りの桜は伊豆最南端「銀の湯会館」から温泉の蒸気が舞い上がるズームアップ銀の湯橋を渡る人力車温泉が豊富なのかこの辺りには「温泉利用の製塩工場の跡」がある人力車は、一人1500円~、時間で梅の花も開花11:51湯けむり橋引き続き下加茂温泉のみなみの桜道を散策した。デジブックにてBGM入りで「河津桜と西伊豆の旅」を公開しておりますので、併せ て訪問願います 河津桜と西伊豆ー続く
2019.03.03
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2月19日の新聞紙上で河津桜が見頃であるとの情報を得、旅友から20日の夜、明日行かないかとのメールがあり、急遽先輩のOさんも誘い3人で行く事に決定。いつものように旅友は自宅を5時半に出てわが家へ、6時前に我が家を出発して二宮の先輩宅へ立ち寄る。三人での河津桜は、’17年から連続3年目で昨年までは一泊の旅。熱海から国道135号線を南下して、9時前に河津町へ到着。今年は「第29回河津桜まつり」で、開催期間:2/10(日) ~ 3/10(日)2/21(木) 8:56車を駐車場(700円)へ止め、河津川のお花見ウォーキングコースへ満開の河津桜と菜の花のコラボ菜の花の香りも漂いなかなかうまく撮れないウォーキングコースには土産店も。いろんなものを試食しながら「帰りに買ってください」と言われ上流へ向かって歩く。お土産に金目鯛の干物を購入した、3枚/1000円さんまのハリコ丸干しとどこが違うのか?ミモザの苗木先週のポルトガルの旅で高速道路脇で多く見かけたミモザ9:05来宮橋(キノミヤバシ)、橋ごとに大きな看板が来宮橋橋上から上流河津桜は、オオシマザクラとカンヒザクラの自然交配種と推定されている下流を望む、菜の花と河津桜のコラボが映えるズームアップ、ピンク色が映えるこの日は風もなく穏やかな天気満開の河津桜携帯での撮影が多い水面に映える一眼レフカメラを持つ女性一部は葉桜に黄色のカタバミカタバミ科の多年草で、庭や路傍に普通に生え、雑草として広く世界に分布するこの花はポルトガルのロカ岬にも、山の斜面一面に咲いていた吊るし雛9:18豊泉橋(ホウセンバシ)この辺りの河津桜も満開河津川の上流側下流側ズームアップして川を河津桜で囲む出店も年々整備され街をあげて9:29県道沿いにある「河津桜原木」昭和30年頃の2月のある日、この家の主人であった飯田勝美氏が、河津川沿いの冬枯れの雑草の中で芽吹いていた、約1m位に育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えたのが始まり。約10年後の昭和41年1月下旬、やっと花が咲き始めた。同年4月 主の勝美氏は花が咲くのを見届け永眠した。その後綺麗に咲く桜を見て譲ってほしいという話もあったが思い出の桜のため手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ親しまれていた義援金竹筒その後の調査で新種の桜とわかり、昭和49年には河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され昭和50年4月に河津町の木に指定された いつもは人だかりがすごいが向かい側の広場から愛犬家も記念写真畑の畦道を帰路に着く河川敷で警官が職務質問?9:50 駐車場に向ってお花見ウォーキングコースを下る。デジブックにてBGM入りで「河津桜と西伊豆の旅」を公開しておりますので、併せて訪問願います 河津桜と西伊豆ー続く
2019.03.02
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