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「ユダヤの民と宗教」シーグフリード著新書版なのでコンパクトだが、読み応えがあった。章ごとの訳注の分量が多く、親切。ユダヤ教側がなぜキリストを受けいれなかったのか。キリスト教アリウス派だったら受けいれる余地はあった。もしメシアを受容していたら、イスラム教は起こらなかったかもしれない、など、興味深かった。------------------------イスラエル民族の宗教のすべては「約束」に力を得ている。単純にして、絶対的に純粋な一神教であって、その後イスラム教のみがこれと同じほどの純粋な一神教を再現している。この善を愛し悪をいとう神は人格神であって、人間に語りかけ、会話をなし、人はこの神に祈り、神はそれに耳を貸し、その上この神と、人は問答し、かけひきまでできるほどである。(12頁)ユダヤ教は偶像の攻撃に始まった。新しい点といえば、まごころから神に仕えることが本質的であるとされた点である。 (50頁)イスラエルの信仰は正義の神、悪を憎み正しきを守る人格神が一つであるという、比類のない中心的思想を特徴としている。それらはすべて二つの命題にまとめられよう。すなわち「汝は心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべきである。」また「自分を愛すると同様に汝の隣り人を愛すべきである。」この思想の特に目を引く点はその驚くべき簡潔さであって、全てを神に、神にのみに限定している点である。そこにこの教えの偉大さが見られる。 (84頁)(キリスト教と分離した)ユダヤ教には何が残るであろう。頑なな一神教の立場と、完全な律法の遵守と、キリストの出現によって毫も影響を受けなかった救世主待望の思想がそれである。(115頁)キリスト教徒との離反は不可避的であった。なぜなら神と律法に集約されたユダヤ教は、キリストのペルソナの上に作られたキリスト教とは別個のものだったから。(119頁)-----------------鈴木一郎訳 c1967 岩波新書
2021年05月30日
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狭い家に二家族と一人、計八人。トイレにも満足に行けず、水も流せず、風呂は交代で行水。人の気配を感じれば、すべてを休止し、息を殺す。過酷な環境の中で、14歳の女の子は、大人の様子を観察し、批判し、評価する。親さえからも心の距離を置く。精神的独立を求める心の叫び。地上では来ることはなかった将来への夢と憧れを語る。ラジオに耳を傾け、戦況に心を弾ませ、戦争の終結を心に描いたが、夏のある日、音もなくゲシュタポがやってくる。「アンネの日記」は小中学校の教科書に載っていると聞いたが日記のすべてが万人向けとは言えない。少女らしい希望や、苦難に負けない強靱な心を吐露する部分なら良いのだけれど。ボクも何回かこの日記をここに引用してきたが好みにまかせた選択に過ぎない。捕らえられて強制収容所での最後の7ヶ月の日々もしアンネが日記を書くことが許されていたらどんなことが書かれるのだろうと、想像する。死に至らしめられた不当な迫害に直面しますます精神の自由に憧れ、そこに心を置いていたに違いないと思えるのだ。
2021年05月18日
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1944年4月11日 火曜日 いったいだれがこのような苦しみをわたしたちに負わせたのでしょう。だれがユダヤ人をほかの民族と区別させるようにしたのでしょう。だれがきょうまでわたしたちを、これほどの難儀にあわせてきたのでしょう。わたしたちをいまのようなわたしたちにしたのが神様なのは確かですが、いつかふたたびわたしたちを高めてくれるのも、やはり神様にちがいありません。わたしたちがこういったもろもろの苦難に堪え抜き、やがて戦争が終わったときにも、もしまだユダヤ人が生き残っていたならば、そのときこそユダヤ人は、破滅を運命づけられた民族としてではなく、世のお手本として称揚されるでしょう。 神様はけっしてわたしたちユダヤ人を見捨てられたことはないのです。多くの時代を超えて、ユダヤ人は生きのびてきました。そのあいだずっと苦しんでこなくてはなりませんでしたが、同時にそれによって強くなることも覚えました。弱いものは狙われます。けれども強いものは生き残り、けっして負けることはないのです!
2021年05月17日
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1944年2月12日 土曜日親愛なるキティーへ、太陽が輝いています。空は紺碧に澄みわたり、心地よいそよ風が吹き、そしてわたしはあらゆるものにあこがれていますーー深く思い焦がれています・・・・ひとと話したい、自由になりたい、お友達がほしい、ひとりになりたい。そしてなによりも・・・・思いきり泣きたい!1944年2月23日 水曜日どんな富も失われることがありえます。けれども、心の幸福は、いっときおおいかくされることはあっても、いつかはきっとよみがえってくるはずです。生きているかぎりは、きっと。----------------------アンネ・フランク略年譜1929年6月12日 ドイツ(フランクフルト)で誕生1934年 オランダへ移住1940年5月15日 オランダ降伏1942年6月12日 13歳の誕生日に父からサイン帳をプレゼントされる1942年7月6日 隠れ家へ1944年8月4日 逮捕1944年8月8日 ヴェステルボルク通過収容所(オランダ)へ1944年9月3日 アウシェヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向かう移送列車に乗せられる1944年10月28日 ベルゲン=ベルゼン強制収容所へ1945年1月6日 母・エーディト、アウシェヴィッツで餓死1945年2月の終わりから3月初めベルゲン=ベルゼンで死亡 アンネの死の数日前に姉マルゴット死
2021年05月14日
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1943年12月30日 木曜日そしてまたハンネリは? まだ生きているでしょうか。いまどうしているでしょうか。神様、どうか彼女を護って、ぶじにわたしたちのもとへ連れもどしてあげてください。ハンネリ、わたしはたえずあなたの立場に自分を置いてみます。あなたの立場だったら、どんな運命に出あっていただろうかを考えます。なのに、たびたびここの暮らしをみじめに思ったりするのはなぜなのでしょうか。ハンネリや、彼女とおなじように苦しんでいる同胞の身を思いやるとき以外は、どんなときにも感謝の心を持ち、満足と、幸福とを噛みしめるべきではないでしょうか。私は利己的で、卑怯者です。(中略)これだけ恵まれていても、まだ神様を信ずる心が足りないからでしょう。神様は多くのものをーーわたしがとうてい受ける資格のないものを与えてくださっているのに、わたしは依然として毎日のように、多くの過ちを犯しつづけているのです。同胞の人たちのことを考えると、ただ泣きたくなります。一日じゅうでも泣いていたいくらいです。いまできることは、神様におすがりして、奇跡を起こしてくださるように、そして不幸な人たちをすこしでも救ってくださるように、そうお願いすることだけ。それだけはいまでも十二分にやっているつもりです。 227~228頁 1944年1月6日 木曜日ハンネリはわたしにとって、わたしの親しいひと全員、ユダヤ人全員の苦難の象徴のように思えます。ですから、彼女のために祈るときは、全ユダヤ人のため、苦しんでいる人たちみんなのために祈っているんです。 238頁(アンネが祈っていた友だちハンネリは救出され、アンネは死んだ)「アンネの日記・完全版」アンネ・フランク 深町真理子訳 株式会社文藝春秋©1994
2021年05月13日
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朝はバイクで仕事先から帰り一休みして夕方は自転車で街を巡るそこにここに薔薇の花大小の花の群こんなに薔薇が多かったの?そんなにも薔薇が好きだったの?わが家にも一本の薔薇あり大輪が一輪咲いた淡いピンクが可憐妻が大喜びで写真に撮って子供たちに得意げに送る!
2021年05月12日
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日記を書き始めた初期、母親に手厳しいアンネの姿がある。大好きな父親への嫉妬心があるのかな。しかしアンネは日記の後半には、母へのいたわりを書いているという。まだそこまで読み進めてはいないが。強制収容所では、母に寄り添っていたアンネが目撃されている。しかし母娘は分かたれ、母はアウシェヴィッツで餓死姉はビルケナウ収容所で死に、数日後にアンネも死亡父だけが生還し、「アンネの日記」を出版した。
2021年05月10日
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「パスカル」を読み終えたので、5月は「アンネの日記・完全版」を手に取った。「だれよりもたいせつなキティーへ」と書き始める。キティーとは日記帳につけた愛称。若きアンネの心情はあふれる。友人、親戚、家族のこと、さらけ出している。母親との葛藤にも、アンネのからっとした性格がでている。「どうしてこんなにまでママのことが嫌いになったのか、自分でもさっぱりわかりません。」「実のおかあさんよりも、お友達のほうがよっぽどよく理解できるなんてーー悲劇ですよね、これって!」
2021年05月07日
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かつては相撲を楽しみに見ていた自分今は闘技場で人とライオンが戦うのを楽しく見ていた観客と重なる。相撲って危険な闘技だったんだ。以前からうすうす感じてはいたが先場所、投げられ死んだ力士を見て眼が覚めた。たとえば日本の神事で人が死ぬことで有名な諏訪の御柱祭とか生と死を賭ける遊びごと。遊び事なんて言ったら叱られるか。命がけは良いかも? しかし何に命を賭けるかで人の価値が問われてくる。やはり犬死にの類だな。とりあえず相撲観戦は卒業しよう。
2021年05月05日
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「聖人物語式パスカル学者」のようにではなく、マルクス主義社会学者として人間パスカルを描こうとしたという。この本の扉を開いた時、著者がマルクス主義者だとわかって、読むのをやめようかと思った。しかし思い直して読み始め、最後の2章は斜め読みだったが、なんとか読み通した。著者にはパスカルの信仰の高揚についての共感はない。それでもパスカルを愛している著者の思いは隠しようもないのだ。いくら人間パスカルが賛美されても、神への賛美に至らなければ、パスカルは喜ばないと思う。日本語訳者・川俣晃自という人の訳文が、すばらしい。「永遠の沈黙」云々というこのパスカルの一行は、突如として感得されて不安な魂を締めつけずにおかなかった或る激動を表現し得ている。これは一つの絶叫である。この孤立した簡潔な一句にあふれている芸術のなんというすばらしさ。十二音綴詩体ではじまったかと思うとたちまち砕け散り、飛び去らせてゆくその韻律のすばらしさ、孤独なパスカルの叫びはパスカルが充たそうとして充たすことのできなかった空間を遠くひろがってゆく。それにしてもこのパスカルの叫びは、やがてランボーやロートレアモンのごとき詩人たちが辿りつき、あらためてまた美しい文体や文学に移し入れるに至ったあの切れ切れな嗚咽と相へだたることはいかばかりであろうか・・・・。 183頁
2021年05月04日
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