奇   知   外   記

奇  知  外  記

PR

×

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Category

カテゴリ未分類

(331)

天の父母様聖会_世界平和統一家庭連合

(902)

天の父母様聖会

(41)

天心苑特別徹夜精誠

(80)

天心苑TV[CheonShimWonTV]

(23)

独生女考

(110)

真の父母論

(6)

家庭連合 解散命令

(32)

宗教/天地創造

(657)

韓鶴子総裁御言選集

(101)

文鮮明先生み言葉選集(講演文)

(685)

平和の母・平和を愛する世界人として

(430)

天一国摂理史

(127)

自叙伝で歌を!~「平和の母」オリジナルソング集

(38)

郷  土

(99)

石川能登地震

(20)

家庭・家族

(62)

仕事

(6)

ブログ村

(237)

平和

(173)

驚くほどの古今東西の予言書

(34)

分派(祝福権委譲と異端者・爆破者宣布ほか)

(360)

UCI、サンク

(374)

夜昼の神様

(6)

虚偽「ONE TRUHT」

(21)

ネット拉致・不正アクセス関連記事

(150)

統一運動

(251)

人権・拉致

(168)

国際勝共連合 UNITE(ユナイト)

(44)

ユナイト

(5)

天の父母様聖会_世界平和女性連合

(5)

日韓トンネル・ピースロード

(87)

日韓関係

(108)

韓国

(311)

米国

(29)

PeaceTV、U-ONE News

(219)

天苑宮天一聖殿入宮式

(16)

龍辰憲院長真の父母様の生涯路程

(11)

原理本体論

(1)

天の父母様聖会 希望前進礼拝

(1)

文鮮明総裁聖誕100周年

(22)

世界情勢

(5)

環境保護

(8)

ドラマ

(17)

韓流サッカー

(388)

サッカー

(231)

ピースクィーンカップ

(63)

ピーススターカップ

(46)

城南(ソンナム)

(68)

ソロカバ

(2)

MIRAIOH TV

(4)

PeaceLinkTV

(88)

光言社キャラクター・こうたん

(1)

韓国ニュース

(1)

真の父母論・韓民族選民大叙事詩

(4)
2021.03.15
XML
すべては善悪の戦場を越えなければ

一九五九年十二月六日(日)前本部教会

 この時間は’すべては善悪の戦場を越えなければ’もう一度いうと’すべては善悪の戦場を越えなければ’このような題目をもって、お話します。


 1. 堕落人間の実像と堕落圏を逃れ得る条件

 我々は堕落した祖先の後孫であることを知っています。ここに堕落したという言葉を認めるならば、自分自身がある栄光の条件や、価値的な何かの条件を持っていたとしても、それもやはり堕落圏内に属するものと知らねばなりません。我々自身が心で、あるいは体で感じる幸福感、あるいは希望にあふれる所望を持っていたとしても、これもやはり堕落圏内の所望であり、堕落圏内の幸福なのです。生活を営んでいる我々自体も、やはり堕落圏内に留まっている自体であることを否定できません。我々の生命がそうであり、我々の理念と幸福の要素がそんな立場におかれているので、この環境においてそのままであったなら、堕落の恨を脱ぎ捨てることはできないのです。このままの私で幸福な世界、あるいは理想世界の’私’であると自任することはできないのです。これは明らかな事実です。 それゆえ人間は誰かれなく、老若男女を問わず、彷徨しまた彷徨しつつ、歴史を綴ってきたのです。ときにはこっちに追われ、ときにはあっちに追われ、引き裂かれ、踏みつけられ、血に染まる悲惨な歴史路程を経てきたのです。

 かように歩んできた人類の行路、あるいは歴史の流れは、どこへ行くためにこのように流れているのか? 一言ゆえに堕落した、この恨多い歴史と世界を越えるためなのです。 皆さんがどんなに幸福らしく暮らしていると自負しても、堕落圏内で暮らしているのです。本来の命は、このように生きることを願っていないのです。ですからこの世界で生きている人間も被造万物も、どうしたらこの世界を越えることができるかと、この苦痛圏内で命を懸けて闘っているのです。これが今日、世界で起きている現象であることを、我々はよくよく知らねばなりまん。

 人間に幸福があり、ある理想があり、真の生命の喜びがあるとして、それはいつ成るのでしょうか? 今日のこの堕落圏内の幸福や理想、あるいは喜びではなく、堕落圏を踏み越えて’私は果たして天と地のまえに自信ある生命、永遠なる生命を得たのであり、永遠なる幸福の園、永遠なる理想の園に立った’とすることのできる一日を迎えて後でこそ、真の幸福、真の理想世界が始まると、我々は言わざるを得ないのです。

 この堕落のどん底を埋め、踏み越えるべき運命におかれている人間ですから、皆さんの心はこの時間も駆けているのです。この時間、皆さんの家庭も駆けており、この民族も駆けているのであり、今日我々が生きているこの世界と天宙までも、駆けているのです。ところで、どこへ向かって駆けているのか。恨み多い堕落圏を蹴とばして越えるために、駆けている我々であることを忘れてはなりません。

 神がおられるとしたなら、神の目的は何であり、善があるとしたなら、善の目的は何でしょうか? 歴史上の善なる人々がこの地上に来て、犠牲になっていった目的が何でしょう? 駆けているこの人類がこの峠を早く越えるためであることを、我々は否定することができません。人間にこの峠を越えさせようと、神様は善なる個人を送られ、善なる環境を開拓させ、善なる国家形態を得て、善なる世界へと率いる摂理をされているのです。



 それでは越えるときはどのようにして越えるのか? 笑って越えることはできません。もつれた紐を切ってこそ、越えることができるのです。それも一っぺんに越えることはできません。一人づつ越えるのです。このように越えた自分たちが集まって群れをつくり、一つの家庭を、一つの民族を、一つの国家形態を、一つの世界を立てなければ駄目なのです。これが結論です。

 ここに来た皆さんは、自分に誇る何かがありますか? 命を懸けて闘う何かを持っていますか? すべてが堕落圏内のものですから、誇る自身の価値が大きければ大きいほど、大きな十字架を負わなければならないのです。各自のものが大きければ大きいほど、大きく掛かる立場に立つというのです。ですから修道の道を行く人々は、みな切り捨ててゆくのです。彼らの目的が国を救い、世界を救うことであるにもかかわらず、彼らはどうして個人を切り捨て、国家を切り捨て、世界を切り捨ててゆくのか。これが修道の道を行く人々の矛盾した行路なのです。彼らは越えるべき一時があることを知るので、ただその目的のために行くのです。

 越えてゆくときは、打って越えて行かなければなりません。なぜ? この世の中は精算すべき世の中ですから、善なる立場で打たねばなりません。従って修道の道は、打ってゆく道です。

 終わりの日は、我々の目的が近づくのです。最後の審判の一日が近づいて来るので、この一瞬間を迎えるべき我々は、いかなる立場に立たなければならないか? 人の世で誇る愛、誇る命、誇る理念に対して、堂々と笑いとばして行けないとしたなら、新しい勝利の勇者として、サタンの権勢を蹴とばして越えては行けないことを、皆さんは知らねばなりません。歴史はそこに向かって行っているのです。それゆえ我々もこれを越えなければならず、我々の家庭も越え、この社会、国、この世界、天上の数多くの霊人までも越えなければなりません。世の中だけが越えるのではなく、世の中が越えると同時に、神も越えなければならないのです。


 2. 善悪の闘いの条件が残っているすべての存在

 堕落した人間に対して摂理される神様は、人間が苦しむなら同じように苦しみ、人間が悔しいなら同じように悔しいのです。境遇と立場は違っても内的な心情は同じですから、天も越え、地も越えなければならないのです。このような運命にある人類と天が、これを越えるための合同作戦によって喘ぎ苦しんできたのが、今日我々の信仰路程なのです。合同作戦を広げるための土台が、今日の宗教なのです。ですから今日の宗教人たちは、この作戦で勝利すべき責任を負っているのです。

 それではアダムが堕落して以後、この終わりの日まではいかなる期間か? この期間は我々が望む期間ではありません。この期間を早く早く短縮させ、解決しなければなりません。なくていい期間です。それゆえ良心のある者は誰かれを問わず、このような世の中がどうか過ぎ去ることを願っているのです。この暗黒の世界、恐怖に襲われるなかで喘いでいるこの世の中が、どうか過ぎ去ることを二七億人類は誰もが待ち焦がれているのです。人類のみがそうではなく、天もそうなのです。天も苦待し、人類も苦待しているので、この世界を精算して越えてゆくことが道(修道)です。早く勝って越えてゆくことが、今日宗教がなすべきことであり、これに妨害となる何かがあるなら、宗教人はこれを攻撃し、打ち破ることを断行してこそ成るのです。我々がこのような責任を負っているのです。

 今日我々は五感を通してこの世界の万象を見渡し、我々が生きている社会の現象を見渡していますが、この見える万物を見渡すとき、我々は何を感じなければならないか? いかなる存在も、善悪の戦場であることを感じるのです。善と悪の闘いの路程を経るということを、感じなければなりません。

 神はこの地と天を求めることを願うのですが、地はこのままでは求られません。なぜ?一大精算をしなければならないからです。この地上の人類は神のまえに、いっぺんに相続したいのですが、このままではできません。なぜ? 汚れたからです。だから精算しなければなりません。この地に誇る草の一株も、善悪の闘いの場であることを知らねばなりません。また、皆さんが着ている着物一つにも、善悪の闘いの痕跡が残っているのです。見て、聞いて、感じるすべてのもの、またこの地の小さな物の一つにも、神とサタンが対決するその日から、善悪の戦場において所有が左右されてきたということを、皆さんは知らねばなりません。

 旧約時代には、神様は祭物を通して、物質をおいて闘われたのです。この物質は万物を代身したものです。万物が戦場になった日から、神様はこの万物を抱え、サタンの讒訴を受けることのない一日を所願とされたのですが、未だにその日を迎えていないのです。

 その次に、人間を戦場として闘ったのですが、この代表者が神の息子イエスだったのです。イエスをおいて、神はサタンと闘ったのです。ここにおいて勝利して、イエスを天の側に引き込むとき、神はサタンの讒訴を受けざるを得ないのです。このように万物から今日までの人類全体は、善悪の戦場で左右されてきたことを、我々は知らねばなりません。 今日我々の体もそうであり、我々の心もそうであり、我々の心情もそうなのです。今どんなに素晴らしい何かを持っているとしても、そこにはサタンが讒訴する条件があるのです。我々自身の体と心が、どんなに貴いとしても、これはあくまでサタンが讒訴する戦場におかれているということを、知らねばなりません。



 それでは神の願いが、何でしょうか? 創られた被造万物のすべてが、このような闘いの条件に掛かっているので、全体を越えてサタンが讒訴せずに背を向ける一日を見ることです。これが神様が闘ってこられた目的であるにもかかわらず、神は未だにその日を見ることができないのです。


 3. 神の願いと復帰の原則

 皆さんは地上において、天を代身する責任を負っているのです。このような責任を背負う我々は、どのようにすべきか? 善悪の条件に掛かっている万物を率いて、サタンの要素を押し退け、神のまえにお返ししなければなりません。人間復帰の前に、万物復帰をしなければなりません。神様は人間を創る前に、まず万物を創られたのです。それゆえ自分自体がでる前に、自分にある全部をサタンのまえにおいて闘って勝利して、取った万物を神の前に立てなければならないのです。ですから世界は物質をもって闘ってきたのです。 今日修道を信じ、キリスト教を主としたすべての民主陣営は、サタンと闘って、この世界のすべての経済力を天の側に返さなければならないのです。原則がそうです。天の側に回さなければなりません。でなければ、サタンに飲み込まれてしまいます。サタンに引っ張られてしまいます。では経済力を天の側に回すには、どうするのでしょうか。善なる人に分配しなければなりません。

 物質を天の側に向けるには、サタンが関係するすべての条件を切らねばなりません。その次には、自分の体を向けなければなりませんが、この体は心を主としてこそ、回るのです。この心が神の心に似せても、本然の心情を通じることができる基準が立っていなかったら、体を回すことはできません。サタンが体を握っているので、心を中心としてこの体を回すことができる者にならねばなりません。

 今、人々は理念を中心にして人間を奪うための闘い、肉体を奪うための闘いをしているのです。この理念は精神を象徴しているのであり、心の世界を象徴しているのです。皆さんには全世界を抱えたい心があります。こんな心、即ち理念を中心に人間を奪う闘いをしているのです。



 もしも良心が思慕する理念が、天地が変わっても変わることのない理念であるなら、心は回るのです。心は回るでしょう。そのようになるのです。

 今日人類が物質を天の側に引き入れるには、どのようにしなければならないか? 民主主義陣営に変わることのない理念があって、世界がこの理念を中心に回れば、可能です。そんなときには我々の肉体も、天のまえに求めてゆくのです。

 今までの人類は、物質を懸けて闘ってきました。肉体を懸けて、天地を代身する良心を追求する人々が闘ってきました。ところが次には、変わらぬ心を中心に、変わらぬ神の心情に通じる心情を持つなら、最後の決判が下るのです。

 物質を求め、体を求め、心を求め、その次には心情を求めるなら、この地はすべての事が解決されるのです。皆さんがどんなに素晴らしいといっても、こんな条件が掛かっているのです。間違いなく。

 ですから世界を支配することができる主義がでてきたとしても、人間がこの主義を中心に死の場を体恤することができる心、世界まで左右する理念ですら支配できない心情が凝結する一つの場所を持っていない限り、闘いは終わらないのです。善悪の闘いは終わらないのです。また、我々がサタンから物質を奪って神のまえに返し、体を奪って返し、心を奪って返さなければならないのですが、この心を返すためには、どんなに変わらぬ理念があったとしても、それで良しとしていては駄目なのです。

 この理念のおく深くひそむ心情問題に入って、心情が通じる場に立てば、神が私であり私が神であり、神のものが私のものであり、私のものが神のものになるのです。この心情を連結させるとき、今まで捧げた物質、体、心が全部一つに統一されて、神のまえに最高のものとして決定されるのです。そのために祭物を捧げるのです。


 4. 私の怨讐が何であり、善悪はどのように区別するのか

 皆さんは怨讐を持っています。皆さんのまえに見える物質が怨讐であり、皆さんの体が怨讐です。これらがサタンの祭物になる条件なのです。

 罪とは何でしょうか? サタンが侵犯することができる条件を提示することです。皆さんの心が往ったり来たりすることも怨讐です。一度善であるなら、善でなければなりません。ところが悪なる場に入る人間は、心がしきりに背くのです。行かなければならないのに、行こうとしても日に何度も変わるのです。

 善と悪の区別はすぐにつくのです。悪なる場にいるなら、心がしきりにその場を離れようとするのです。日に何度も変わることが悪です。変わる世界で変わり切れないのが、天のまえに近いのです。ですから変わるこの心、この怨讐を追い出さなければなりません。変わり得る理念なら、その理念も打ち破らなければなりません。

 ある宗族を中心として、ある民族を中心として、ある宗教を中心としてきたのですが、これが本然の良心と心情を糾合してきた天倫、あるいは自然の軌道による変わらぬ形態として動くことができるときこそ、初めて人類は理想世界へと入るのです。

 言い換えれば、物質が怨讐です。この肉体が怨讐です。この心が怨讐であり、この心情が怨讐です。なぜ子供は父母が好きなのか。子供に対する父母の心が、変わらないからです。死んでも変わらないから、良いのです。天をなぜ、良いというのか。いかなる曲折にも天は変わらないがゆえに、良いというのです。変わらないということは、最後に現れます。父母もそうではないでしょうか? だから変わらないというもの、変わらない自体が現れなければなりません。

 皆さんが持っているすべてのものは、怨讐世界の利用道具です。ですから修道人は物質を打ち、肉体を打ち、自分の欲望を打ち、自分の心情を打つのです。これが何であるかは知らなくても、いつかより大きな物、より大きな善の肉体、より大きな善の良心、より大きな善の心情を求めるという目的があるので、道人たちはそれに向かって駆けているのです。これを我々は、蕩減復帰歴史というのです。


 5. 人類がすべき最後のこと

 それでは最後の日、終わりの日というこの時に、我々はどのようにしなければならないか? 精算するところへ行かねばなりません。’物質よ、わがまえに現れて権限を振るってみよ、私と闘おう’と一時に捨て切ってしまう自分にならねばなりません。そうすれば体を復帰することができるのです。そうすれば体が留まるのです。天地が変わっても、この肉体が変わることのない理念に染みて、心のまえに屈伏しなければなりません。神の心情と人類が持つ根本的な心情が、通じることのできる変わらぬ心情の一つの核心が起こるなら、サタンは風呂敷をくるんで行くのです。風呂敷をくるんで行くというのです。

 事実今、情的な出発地が準備されているのです。ところが本然の心情は天にあり、血統はサタンのものであるので、このサタンの血統を絶つために天を求めてゆくのです。こうしてどこへ行って帰結されるのか。心情に入って帰結されるのです。理念が最高に追求する目的が何でしょう。理念を立てる目的が何でしょう。神の愛を実践するためです。それゆえこれが今日、全世界にひろがる良心的な人、信仰を持つ人々が歩むべき、最後の勝敗を分ける道なのです。

 こんな境地から神を見やるとき、神は気の毒です。六千年間闘って来られましたが、今日神の心情を踏み越えることができる一人の人間がいますか? いません。神は真に哀れです。六千年間、一つの肉身を求めて来られたのですが、神の心情を踏み越える肉身がどこにあるでしょうか? 神は哀れです。理念を立てるために苦労されたのですが、神の心情を中心にする理念はないのです。ですから今日この世界が、こんな姿になったのです。 理念と我々の肉身と万物が、神の心情に接ぎ木されていって整理されるその瞬間に、本然の位置は決定されるのです。ですから皆さんは物質を見やるとき、’歴史的な数多くの善なる人々の血を籠絡したこの物質よ’と怨痛なる心を持たねばなりません。自分の肉身を見やるときには’天の呻吟をもたらすこの肉身よ’心の動きを探ってみるとき’神の心情に背く心よ’という恨めしさを感じなければなりません。今がそうでなければならない時です。そのようにできる所が神の最後の目的地ですから、そこでは二人の主人に仕えることはできません。

 このようなことを我々が認定するなら、ある理念圏内に入るときには物質も問題ではなく、死も問題ではないという理念圏に入らなければなりません。このような理念が、真の理念なのです。ある理想主義があるなら、この主義のためなら’物質が問題ではなく、億千万金の宝華が問題ではない。この肉身一つ死ぬことぐらい問題にもならない’とすることのできる主義でなければなりません。

 この理念のために死ぬとしても、悔しく憤ることなく喜んで’当然のこと’とすることができる理念、このような理念がこの地上に現れなければなりません。キリスト教が驚くべきことは、このためです。彼らがイエスを抱える瞬間は、ただイエスのみです。何ものも意に介さないのです。イエスを抱えて行く道では、死も意に介さないのです。問題ないというのです。

 イエス様が立てておかれた理想は、良心の理念です。今はこの良心の理念を越えて、心情の基準を立てなければなりません。ですからイエス様は’わたしは新郎であり、あなたたちは新婦’とされ、良心の橋を架けて心情に世界にまで連結しようとされたのです。

 終わりの日とはいかなる日か? 神の息子イエスと、人間の心情が連結される時です。だから全人類は、イエスの心情に接ぎ木されなければなりません。そのようになればイエス様は’あなたたちは神の息子であり、わたしはあなたたちの新郎であり、あなたたちはわたしの新婦’とされるのです。なぜ、そうなのか。新婦を捜し求めるときは、これが世界のどんなものよりも勝っている時だからです。今日の理念は世界を抱くためのものであって、心情は神と全体を抱くためのものです。理念というものは対象世界を抱くためのものであり、心情は主体と対象を抱くものです。だから心情世界において、初めて統一が起こるのです。

 このような観点から、今日我々は修道を終結させて、越えてゆかなければなりません。歴史の流れを見、論理的な推理をしてみれば必ずそうあるべきであって、このような立場で全体を代表して現れたものが、キリスト教です。ですからキリスト教は世界的な宗教なのです。しかしこのキリスト教が再び一段階、革命すべき問題があります。キリスト教が良心的な基準にのみ喘いでいるなら、滅びるのです。キリスト教が神の愛、神の心情を標榜して動いてゆかないなら、今日民主陣営が行く道を失うのです。それで我々統一教会はこのような面に指向して行くのです。

 心情を通した真理においては神のまえに全体が子女であり、全体が新郎・新婦であり、全体が兄弟姉妹なのです。このような圏内に入るとき、我々は食口という名詞を立てることができるのです。このような一食口には、億千万金を与えても取り替えることができない価値があることを知り、またこの価値を貴く思わなければなりません。今日のどんな主義や金銀財宝を与えても、取り替えられない価値として知らねばなりません。

 我々はこのような価値を知る人間が慕わしく、修道の道を行くのです。神様もこのような価値を知り、慕って生きる園を創るために苦労して来られたのが、六千年の復帰歴史なのです。

 我々は嘆息しなければなりません。我々は天に対して’お父様! お父様が与えたい万物を与えてください、お父様が与えたい体を与えてください、お父様が与えたい心を与えてください、お父様のみに対することができる心情を与えてください’と祈祷しているのですが、考えてみればお父様が与えられたのに、我々が失い、また失ってきたのです。これが堕落です。ですから我々は善の物質を回復しなければならず、善の理念を回復し、善の心情を回復しなければなりません。これが人類がすべき最後のことなのです。歴史は善の物質、善の理念、善の心情のある所に向かって行くのです。数多くの民族が引き裂かれ倒れる恨があったとしても、民族を越え、国家を越えて、そこに流れてゆくのです。


 6. 終わりの日に持つべき人生観、生活観、宇宙観

 現在を見渡してみると、二つの理念がぶつかっています。ここにおいて一つが壊れる日には、どうなるのでしょうか? ’この物質はわたしのもの。この世界、人類がわたしのもの。この理念がわたしのもの。この心情がわたしのものだ’とすることができる主人公が現れなければなりません。このすべてを自身のものとして所有できる資格者、人類を籠絡したサタン、我々の良心と体と、我々の物質を籠絡したサタンに対して’この野郎’と怒鳴りつけ、審判することができる人間が現れなければなりません。こんな人間が、どのような人間か? キリスト教でいう再臨時代に、審判の場を逃れられる人間であり、最初の復活に参与する栄光を占める人間です。皆さんにこのような腹がありますか? ここでいう腹とは、拳を突いて語る腹のことではありません。歴史と共に、過去・現在・未来を通した摂理路程において、サタンが讒訴するすべての条件を蹴とばしてゆく権限を意味するのです。

 神様は地上で’サタンに対するすべての物質を取りだせ’とすることができる息子・娘が出てくることを六千年の間、待ち焦がれておられるのです。’未来世界は我々のものであり、私のもの’とする群れが出なければなりません。これはある人間の欲望ではなく、神の願いなのです。万物を創られたのは’これは私のものだ’とすることできる観が立つ真の息子・娘のためであったのです。ですから我々には、宇宙観がなければなりません。生活観が必要であると同時に、宇宙観が必要です。世界観が必要です。この世界観が何でしょうか? ’この世界が私の世界だ’という観です。本来の人間はこのようになっているのです。

 こんな観点から、人間はすべて世界主義者です。劣っていても優れてもすべて’私の世界だ’というのです。ところが私の世界だと主張できる条件を持っていないので駄目なのですが、この条件を得て天上に行って訴えたら、いくらでも求められのです。この天地は私のものとする主義が、皆さんが持つべき主義です。その次には、この世界に広がっているすべての人類は、一つの兄弟だという観がなければなりません。それでこそ、神が父の役目を果たせるのです。兄弟、この兄弟という観念を持って’この地上の理念は我々の家の理念であり、我々の心情は父母の心情だ’とすることができれば、世界は一つです。宗族を超越して一つになるのです。このような世界を立てられなかったなら、どんな政治、どんな理念も役に立ちません。

 今日アメリカがどんなに経済力を誇っていても、ご覧なさい。彼らが風呂敷をひろげて全人類に分けてあげなければなりません。天運がこのように動いていることを、その人々は知らないのです。ですからアメリカが、これをやらなかったら駄目です。神の代身、倉庫にあるものを分けてあげるのです。このような心を持たなかったら、悪く言われるのです。アメリカが今、そうでしょう。

 このような見地から今日、我々が世の中を見渡すとき、この世の中は二つに分かれて進行していることを知るのです。それで今日はどのような様相を呈しているのか。人間の世で尊いという家庭基準が壊れているのであって、先進国家がよりはなはだしいのです。まず間違いないのです。彼らが父母が分かりますか、兄弟が分かりますか、夫婦が分かりますか、子女が分かりますか? みな壊れてしまったのです。天運がこのように行っているのです。これをそのままにしていたら、離れることができないからです。このようなことを見るとき、世の中は終わりなのです。

 それではここに、この世の中は滅んでしまうのか。違います。ここに新しい過程を経て収拾するところが現れてこなければなりません。であれば生存するのです。この世界は物質を越え、宗族を越え、五色人種を超越して’私のものであると同時にあなたのもの’という世界です。このような理念の動きが起こってこそ、世界は一つところへと収拾されてゆくのです。このような世界で我々は一つの兄弟となり、一人のアボジを中心とする父子の関係を成すことができるのです。神と人間がこのような関係で、神のものであり自分のもの、自分のものであり神のもの、神の喜びが自分の喜びになる時が地上に起こってくるまでは、物質に対する闘いも、肉身の闘いも、主義の闘いも、喘ぐ心情の闘いも解決することはできません。これを知らねばなりません。

 このような観点から、いま一度過去を振り返って見てください。我々が何を中心にして生きてきたのか。これが物質であるなら、物質が受けるなら受ける準備をしなければなりません。これがこの肉身であるなら、この肉身が排斥されるなら排斥されなければなりません。我々がこの地上のある理念を持っているとして、この理念が砕かれるなら我々も砕かれるのです。日本を見てください。帝国主義が砕かれたので、全部が砕かれたのです。今日人間におきまして、愛が砕かれるときはすべてのものがみな砕かれ、みな失って喘ぎ苦しむ人間になってしまうのです。

 哀れな人間が誰であるかといえば、すべてのものを失って’自分のもの’を持たないで喘いでいる人間です。本来、人々は全天宙を’自分のもの’とすることができたのです。それゆえ万物を失い、この地も失い、それらを’自分のもの’とし、心情世界やその理念も’自分のもの’とすることができる位置を失った人間が哀れな人間なのです。乞食はなぜ哀れですか? 自分を維持する所がなく、自分のものを残すことができないので、哀れなのです。


 7. 我々の欲望と神の愛

 今日我々人間はいかなる欲望を抱いて、運命的な復帰の道を行っているのか。すべてのものを自分のものにするために、行っているのです。’この天地がわがもの、この天と地にある人類がわが兄弟よ、地の上の理念が正にわが理念であり、主権者や企業主のものではなく、わがもの’。その次には’神もわがもの’とする場にも行くのです。それでは皆さんの欲望は、どこまで行けば止むのか。神もわがものとして、神だけを抱えてどうするのか。神の心中の愛も’わがもの’とすることができる場まで行くなら、すべてのことが終わるのです。

 皆さん! 神の愛がどんなものか分かるの? 言葉ではそれらしいのですが、事実もそうなのです。人間が万物の霊長になることができる権限が何でしょうか? ’神様、おいでください’というとき’おう、行こう’と来られるように、神を呼び出すことができる主人公になることです。これは神の心情を自分のものとするなら、可能なのです。’神様行きます’とするとき’おう、来い’とされるのは何ゆえでしょうか? 皆さんそうではありませんか。心情が一つになり、互いに慕うときには、来るなといっても付いて来るのです。神様も人間にこのような標準で対し、求めておられるのです。’地の上で暮らしている人間たちよ、数千年前から喘いでいるこの恨を、おまえたちが解いてくれることが何だろうか。わたしの心情全体をおまえたちが占め、万物の主人となることができる姿になるとき、わたしに結ばれた恨をすべて忘れるのだ’とされることが、神の愛なのです。

 聖書に’わたしは父のうちにおり、父はわたしのうちにおり、あなたがたがわたしのうちにおり、わたしがあなたがたのうちにいる’とあるみ言は、どんな意味か。人間の欲望というものは、この土くれを思いのままにしてみても満足しないのです。今日、フルシチョフやアイゼンハワ-大統領などという人たちがこの世の中を膝元に置いて’やあ、おまえたち、これをやれ’というとき’はい、やります’とするようにしたら、平安になれるでしょうか? 安らかではないのです。人間は最後に神様が’良く闘った、このようにやれ’とされて喜ぶように創られたのです。

 神様は我々が、神の愛を独占する王者になることを、望んでおられるのです。ここに万事が解決されるのです。我々がその場に入って、六千年の恨み多い天に対し’アボジ’と呼ぶ一言に、神の六千年間に結ばれたすべての恨が、みな解かれてゆくのです。

 そのようになれば、キリスト教は新しい次元に飛躍するのです。二千年前に来られたイエス様が、あなたがたは物を握って闘い、体を握って闘うが、そうではない。このすべてのものを捨て、わたしを信じなさい、とされました。あなたがたは、わたしイエスの新婦になることを信じなさい、とされたことは有難いことです。天的な心情の因縁を結びなさい、とされたことなのです。であれば、再び訪ねて来られるのです。そのようになれば、また神も人類を訪ねて来られるのです。

 人間が神を求めてゆくとき、どのようにする人間が善なる人か。大きなことを考えてゆく人です。愛国者なら自分の家庭を捨て、自分の肉体を犠牲にしても、三千万民族を考えなければなりません。三千万民族を自分の肉体や、自分に属している何よりもさらに考える人間が、愛国者であり忠臣です。心情的にこのように考えなければなりません。忠臣烈女、孝子孝女が全部、このコ-スをたどるのです。

 最後に、このすべてのサタン世界の条件までも精算できる一つの基準が何か。どんなに優れた人でもなく、人格者でもありません。ある権勢を持つ主権者も、この基準になることはできません。神も身じろぎもできない愛です。この愛を持つ人が全体の中心であり、全時代史の中心であることを、皆さんは知らねばなりません。


 8. 主が迎えることができる者

 今日我々は少なくとも、少ない三千万民族だとは限らないのです。百万信徒にすぎないキリスト教徒だとは限らないのです。世界に数多くのキリスト教徒がいて、天を愛する人が多いのですが、統一教会員が多いとは限らないのです。

 天が願う歴史的な心情をもって、すべてのサタンの要素を絶つことができる人格者に、まずならなければなりません。こうして審判の基準を立てておいて、それ以外には許すことができないとする者になってこそ、六千年の間闘って来られた神の代身、この地上の事を整理する代表者として立つことができるのです。

 神様はすべてを失ったのです。万物も失ってしまい、愛する息子・娘も失ってしまい、切ない愛の心情も踏みつけられたのです。神がそうなのですから、人間がどうしてそんな道を行かないでいられるでしょうか。ここに誰が打つのでもなく、自分自身が打たなければなりません。’天に背反したこの体を捨てて当然’と果敢に断ち切る存在でこそ、怨讐圏内に因縁のあるすべての恨み多いことを、踏み越えて行けるのです。これができない人は主様を迎えようにも、どうにもならないのです。ここで語る人の言葉に、間違いありません。事実がそうだというのです。

 このような心情をもってゆく人々には、心と肉体と物質が自動的に付いてくるのです。ですからこんな心情を持つ国があり、民族があったなら、世界の物質はすべて彼らによって料理されるのです。世界の人類は彼らによって左右され、世界の主義も彼らによって判決づけられ、世界の愛も彼らによって左右されるのです。事実がそうなら一度やってみますか? ここに立って語る人間もこのような事を知っているので、こんな事をやっているのです。

 それではその方法に入るには、どのようにするのか? これが我々のやる事です。我々はサタンの条件物になっている自身であることを、知らねばなりません。我々が財布に数千万ウオンの大金を入れていても、これがサタンが付いてくる餌であることを、知らねばなりません。ですから、このようになっているので・・・。

 今我々は団結しなければなりません。団結しなければ。神様は愛する息子・娘の手を経て、すべてのものが現れてくることを願っておられるのです。私の考えはそうです。そうだというのではなく、そのようだというのです。誤解してはいけません。サタンに籠絡された万物を、ノアの箱舟を通して、神が愛することができる聖別された物として繁殖させようとしたのが、神の心であったのです。

 だから我々は神のものとして、神の情に通じることができる物質を造らなければなりません。神の情が通じる万物の基盤を、造らなければなりません。堕落した人間の嘆きが何でしょうか? 万物の嘆きが何でしょうか? 神の情的な感情を感じられない段階におかれているがゆえに、嘆息するのです。この肉身が今サタン世界におかれているがゆえに、神の情的な感じに付いてゆけないのです。心もそうであり、全部がそうなのです。


 9. 物質の割礼、体の割礼、心の割礼、心情の割礼

 ですから私はこんな生活をしているのです。ある食べ物を出されても、むやみには食べないのです。皆さんは知らないでしょう。ここには必ずある理由があるのです。イスラエル民族がカナンの地に入るとき、万物の割礼をして、体の割礼をして、心の割礼をしたのです。物質の割礼、体の割礼、心の割礼したのですが、私はここに心情の割礼までするのです。

 皆さん、今日世の中の人間がみな何でしょうか? 神を求めてゆくとき、必要なものを勇断をもって実行しなかったら、主様に出会うことはできません。絶対に会えません。息子・娘であれ、何々というものまでも自分の手で断ち切っていってこそ、その後に神の愛が連結されて入ってくるのです。このような観点から、皆さんの心がそのように動いてゆく所があったなら、行って抱きしめなければなりません。首を抜かれても落ちてはなりません。落ちたら自分だけが犠牲になるのです。ですから必ずこんな覚悟をもって動かなければなりません。終わりの日であるこの時、この時代にこのような動きが、この地球上に現れなければならないのです。

 世の中にこれを模範とする動きが現れる前に、神を中心にして、理念を中心にして、食口という名詞を立てなければなりません。統一教会の食口という言葉が、ここに出るのです。分かりますか? ここに物質をもって、食口の威信を籠絡したら駄目です。自分の一家庭のある事情を中心に、我々食口の因縁を蹂躪する人間は、不合格者です。ある理念や思想観念、ある信仰観念を中心に、我々の理念を測る人間も、不合格者です。ある情的な感情を中心に、実践することを躊躇する人間も、不合格者です。この言葉が合っているか合っていないか、見ていてみなさい。

 堕落した以後、我々人間には恨めしい運命の道があることを、知らねばなりません。愛する食口に出会うためには、数千万金を一朝一夕に使い果たしたとしても’あなたに出会ったので、どんなに良かったでしょうか’という心を持たねばなりません。この肉体が疲れ、苦痛を受けることがあっても’愛する兄弟一人を捜し求めるためなら、どんな所でもかまわず行かねば’という心を持たねばなりません。このような理念を抱き、イエスのように地上でみ旨を成就できずに逝く恨があったとしても、この理念だけの為に行くという人間は、必ず神の愛に接するのです。

 理念を中心に物質を捨てる人間は、神の息子としての肉身を占める権限を受け、肉身を占める理念も地を中心とする理念であれば、捨てて行く人間は神の心情が待っているのです。このように、一段階、一段階、連結されて上ってゆくのです。イエス様は万王の王としてこの地上に来られ、理念も捨て、命までも捨てて行かれたのですが、その上に心情があることを知っておられたので、神に対して’アボジ’と呼ぶことができたのです。我々も同じなのです。

 このような観点から我々は今、判決を下さなければなりません。自分がどんな場に立っていて、私はどんな存在であり、どれほどの価値的な場に立っているのか? 自明な事実です。皆さん自身がこの道を行くにおいて、ある世の中の物質をおいて躊躇するか、あるいは自身の家庭や、自身の国家的な立場で躊躇するか、これまでの主義や理念、あるいは信仰的な観念のゆえに躊躇するかしては駄目です。これは問題にもなりません。さらには愛の問題、即ち情的な問題までも、自信をもって越えて行かなければなりません。見事に越えて行く衝撃的な事を、終わりの日には必ず求めなければなりません。


 10. 善悪の戦場を越えるには

 歴史の流れは不義を許さないのです。それで修道(道)は良心を通して、善であれと教えるのです。善は命令するに、’自分の体を犠牲にして、おまえのすべてのものを他に与えよ、頭を下げて他を受けよ、民族を受け、世界を受け、人類を受けて神を受けよ、そして自分の体を神様に預けよ’とするのです。このようにすれば、どのようになるのか。最後にはどうなるのか。神の愛を自分に与えるのです。善が目的もなしに命令するでしょうか? このようにすれば、神の愛を自分に与えるのです。これを知る者、これを感じる者にならなければなりません。

 世の中でどんなに反旗を掲げたとしても、神の愛を侵犯することはできません。神の愛の世界は、侵犯する場がありません。サタン世界は侵犯することができても、神の愛を中心とするところは侵犯できません。これがお終いであり、永遠であり、変わらない基準だからです。ですからこの基準の上に出発することができる真の息子・娘、真の家庭、真の社会、真の世界、真の世界の万物にならねばなりません。それでこそ全世界は善悪の戦場を越えることができるのです。

 それではこんな場に出てゆけない我々は、どうしなければならないか。我々が見るときも善と悪が闘い、聞くときも、食べるときも、話すときも、動くときも、全部が善悪が対立して闘っているのです。それゆえ我々は善悪を選んで’私はこのように行かねばならない’神の心情に立脚して、神の変わらぬ理念を通して見るとき、’このように行かねばなない’という観を立てなければなりません。こんな宇宙観を立てて、心情を通して左右を分けて行くとき、皆さんはこの戦場を越えることができるのです。

 それでイエス様も、神の愛が染みる十字架を受けて行かれたのです。神の愛。皆さん、故郷を捜して行く人が、父母と争って行って良いでしょうか? 父母の愛が恋しくて行く人は喜悦に溢れ、希望に溢れるのです。イエスが十字架上で、誰を恨んで切なく逝かれたでしょうか? アボジの愛の懐に行く場ですから、イエスは怨讐に対して福を願われたのです。今日皆さんはこのような場を、取り戻さなければなりません。ですから堕落した人類は、復帰の過程を経なければなりません。そのためにはこのような条件を精算しなければなりませんが、そのようにできる自分であるか、自問自答してみてください。


 11. 我々の責任と祝福の基準

 神の願いが何でしょうか。我々人間が、お父様が案じることのない場で、お父様のものとして貴く思う物質を造り、お父様が愛することのできる肉身を造り、お父様が愛することのできる理念を持つことです。物質を復帰して、肉身を復帰して、理念を復帰して、天のまえに現れるなら、神様は取ることができるのです。それで人類は理念を追求しているのです。イエス様がわたしは新郎であり、あなたがたは新婦という理念を中心に、生死の境を越えてゆかれたので、このお方と共にすべてを捨てて、死の峠を越える覚悟をする者がいるなら、その前に主様は愛の主人公として現れるのです。

 終わりの日には、そこが恋しくてまた恋しく、見たくてまた見たく、行きたくてまた行きたくなければなりません。億千万金があったとしても、それが問題ではないのです。今地上でどんなに富貴栄華を享受していても、これを蹴とばして捨てて行くように率いる教団を、今日人類は迎えてこそなのです。もしも統一教会がこの路程を行かないなら、また他の所へでも行かなければなりません。ここが最後ではありません。風呂敷を包んで、また行かなければならないのです。

 今日我々が、自身を籠絡する物質の権限を嘲笑い、自身を打っている肉体的なすべての条件を嘲笑い、自分を縛ったいるすべての条件を、心情のまえに屈伏させる自分にならなかったなら、この峠を越えられません。越えられないのです。絶対に越えられません。

 ’私は誰のために教会に行く、私は愛する息子・娘のために教会に行く。あるいは愛する夫のために、妻のために教会に行く’という者たちはみな越えられません。誰のために行くかといえば、神のために行くのです。神を自分のものとして所有するために、神の愛を自分の愛として求めるために、教会に行くのです。

 ですから聖書には、気概を持てとあるのです。こうして神のまえに祝福を受ける過程を経てゆけば、その次は無事太平です。そのときはこの天地にサタンが一杯いても、そんな人間は支配できないのです。そんな時が来るのです。外的にそんな時代が来れば、ここに内的に合わせなければならない時代が、必ず来るのです。

 だから今日我々は恨み多い過去を再び嘲笑い、この時代を蹴とばして神様が愛することのできる土くれ、神様が抱いて愛することのできる万物、神様が愛することのできる兄弟姉妹、神の愛を歌う息子娘を抱くことができる、その一つの所に向かって駆けて行かなければなりません。そこまで我々が行かない限り、この地上の悲惨な歴史は終わらないのです。

 今日我々はこの争いの世界が、どうか過ぎ去ることを願っています。人類はこの争いの世界が過ぎて平和の世界、愛の世界、善の世界が来ることを願っているのです。この一つの世界を指向するのが神の目的ですから、この時が目の前に近づいているこの時、我々が理念的なすべてのものを一代で精算して、内的な準備をして越える者にならなければ、審判主であられる神の息子として立つことはできません。皆さんは審判の時が来る前に、審判を受けていって、神の仕事をすることができる資格者にならねばなりません。こうして審判の時になれば神の代身、審判の行使をしなければなりません。これが聖書で言う、祝福の基準なのです。

 今日我々が行く道は、こんな道です。神を我々のものとし、神の心情を我々の心情として、この地と宇宙を我々のものとして、造らなければならないのです。天と地の心情に背信したのですから、食べることも忘れ、いつどんな所でもこのみ旨を成すためには、責任を持って行くという心情に染みる人間になってこそ、このすべての恨み多い善悪の戦場を越えることができるのです。そのような者がこの恨み多い戦場を、まず越える資格者になるのです。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

奇知の外の凡人 が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村 ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓

​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.03.15 04:00:05
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: