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「呼ばれてもいないのに、やって来たのは、あんたたちでしょ!」 機関銃を持った侵略者ロシア軍の前にたちはだかり、彼らに詰問する女性をBBCが撮影した。ヴィデオに記録された彼女のすべての言葉を、のりこえる言葉はないだろう。ウクライナ女性ロシア兵士を詰問/BBC-NEWS-JAPAN またTV東京の「豊島晋作のテレ東ワールドポリティクス」が伝えているケニアの国連大使大使のスピーチも,私は記憶にとどめた。それは国境線問題に関するまったく新しいパラダイム理論と言ってよいかもしれない。ロシアを怒るアフリカの論理/テレ東
Feb 28, 2022
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ウクライナに連帯 青空に黄の花映ゆるウクライナ 青穹(山田維史) 凍返り春日迎えよウクライナ 名にし負う旗なびかせて春は来る 春雨やその目ぬらすなウクライナ 暮れて明け暮れて明けゆく菜種御供
Feb 27, 2022
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新型コロナウィルスのワクチン3回目の接種後の副反応がひどく、昨日はまる一日、何もしないで寝ていた。私は病気になったことがないので、発熱には弱いのかもしれない。 今朝、血圧等を測ると、血圧はむしろ低めで、109/79。脈拍はやや速めの95。体温は36.6℃。腕の重さもなくなったので、まあ,回復したのだろう。 1,2回目の接種後はまったく何も起らなかったが、あれからちょうど8ヶ月後の3回目の接種後には副反応が出た。これは、1,2回目のワクチンにより抗体ができ、それが持続しているために、この抗体に対して3回目接種で副反応が出たと考えられる。これはあくまでも私の考察だが、これが正しいのなら、ワクチンは私の身体に有効だということだ。 ともあれ、今日一日、おとなしくしていて,様子をみよう。
Feb 26, 2022
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昨日新型コロナワクチンのブースター接種をした。12時間後、副反応が出た。接種した肩に凝りのような重さが生じ、寝苦しさを感じながら,今朝、血圧を測定した。血圧は正常だったが、脈拍が異常に速かった。104である。熱は正常。しかしさきほど18時に計測すると,発熱していた。37.9℃だ。じつは昼間、倦怠感があり、発熱のせいだろうが、仕事にも何にもならず、ずっと寝ていたのだ。昏々と眠り、こんなに眠ったことはなかったと思うほど眠った。しかし、倦怠感がなくなったわけではない。 こうした副反応は起こりうると,説明書にある。ショックやアナフィラキシーではないので、こうした軽度の副反応が数日間つづく場合もあると説明書にある。しばらく活動を控えることにする。 しかし、軽度の副反応とは言え,私はこんなことは初めてだ。 24日未明、ロシア軍がウクライナに全面侵攻。 自らの肥大した欲望のために、身勝手な理屈をつけて、他国を侵略する者。侵略とはそういうものだ。大義名分や正論はない。
Feb 25, 2022
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午前中、予約してあったCOVID−19の3回目のワクチンを接種。 医者が「前2回の接種後に何か異変を感じましたか?」と訊くので、「な〜んにもありませんでした」と私が応えると、看護婦さんがクスッと笑った。その看護婦さんが、15分待機時間が過ぎたと知らせに来て、また、にこやかに「おだいじに!」と送り出してくれた。元気な爺さんと思ったのかもしれない。私も「ありがとうございました!」と笑いながら。深刻になったって、しょうがないものネ。とは言え、手指の消毒,外出から帰宅してのマスクの廃棄、洗面・洗髪、そして眼鏡の洗浄は徹底して。他者に対する責任としての自己管理を思いつつ。
Feb 24, 2022
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先日2月2日につづいて今日は日付に2が6っつ並ぶ2022222。7つ並ぶのは200年後になる。 そして、2月22日はゴロ合わせでニャンニャンニャンの日、「猫の日」なのだそうだ。 私はそういう今時の巷の遊びにはとんと疎いので知らなかったが、朝日新聞朝刊の科学欄に書いてあった。キャット・ラヴァーが増えているらしい。かく言う私もその一人。まあ,私の場合はアニマル・ラヴァー、動物好きなのだが、しかし初代ご先祖様猫からその曾孫まで16匹の猫を飼い、一時に10匹育てていたときもあるのだから、キャット・ラヴァーであることは間違いない。 そのご先祖様の天才クロ(女性です)と,その娘のミミ、ミミの娘でクロの孫のミーコを描き、故花輪莞爾氏の著書『猫鏡』(平凡社刊)の表紙をデザインした。。その表紙が1992年の第15回ブルノ・グラフィック・ビエンナーレ(チェコスロヴァキア)で、優作として選定され、カタログにカラーで掲出された。 この全304ページ厚表紙のカタログは、じつは20年くらいの間、弟が所蔵する本のなかにまぎれていたようで、つい先日、弟が蔵書を整理中に見つけて持って来てくれたのだ。私はカタログの存在さへすっかり忘れていた。ちょうど30年前の作品であるが、ニャンニャンの日にちなんで、天才クロと娘と孫娘の肖像画をここに掲載しよう。
Feb 22, 2022
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西郷輝彦氏が亡くなられた。享年75。 西郷輝彦氏は私とは一つ違い。私が年上だが、西郷さんの代表曲はいつの間にか記憶してほとんど歌えるほど、私の青春歌謡歌手だった。「十七歳のこの胸に」(水島哲作詞、北原じゅん作曲、1964)や「赤い花」(水島哲作詞、北原じゅん作曲、1965)は、私は大学1.2年ですでに19歳を過ぎていたけれど、12歳から家族と遠く離れ独り暮しをしてきていた私にとって、歌詞のなかに自分が歌われているような気持がしていた。まさに「十七歳のこの胸に しまっておいた思い出」があり、「春にそむいて散るはなびらを 背に受け行こう一人旅」という気持だったのだ。ばかげたことを言うようだが、会津の藩校日新館の流れを汲む教育を受けた私が,薩摩隼人の歌をくちずさんで我身を鼓舞してもいた。「彼奴にできることならば おいらに出来ぬわけが無い 夢ならでっかい夢を見ろ」(「青年おはら節」星野哲郎作詞、米山正夫作曲、1965)。 私がいまでも記憶し、歌える西郷輝彦氏の歌を列記してみる。 「君だけを」 「チャペルに続く白い道」 「星空のあいつ」 「十七歳のこの胸に」 「青年おはら節」 「赤い花」 「涙をありがとう」 「恋人ならば」 「星と俺とでとできめたんだ」 「星娘娘」 「恋のGT」 「涙になりたい」 「星のフラメンコ」 「初恋によろしく」 「願い星叶い星」 「真夏の嵐」 西郷輝彦氏の御逝去を悼みます
Feb 22, 2022
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昨夜から降りつづいていた雨が、ひとしきり止んだすきに、市会議員選挙の投票に行ってきた。 はっきり言うと、立候補者はだれもかれも、まあ、帯にも襷にもなりそうもない。29人の立候補者の言うことが、ほとんど同じ。当たり前と言えば当たり前のことしか言ってない。たとえ当たり前のことでも、市政として実現するとなれば資金が要る。それをどのように捻出するかが、特に地方政治の立候補者としては、財源の論説を展開しなければならないはずだ。しかしそんな基本のキを言う者は一人もいなかった。まるで打出の小槌でも持っているかのように、振れば金がザックザックと出てくると思っているのか。 立候補者のほとんどが現任議員として数期もやってきて、いま、我が市は不正行為や、市としての違法行為に揺れているのだから、何をかいわんやだ。つまりは、市議会は不正や違法な事案を議決してきたということだろう。事案の不正や違法を見抜く能力もなければ、もちろん糾す能力もなかったわけだ。恥知らずというしかない。・・・それでも私は、棄権せずに投票してきた。悲しい町。悲しい国である。 ところで幕末の松山藩士で、俳人でもあった内藤鳴雪が、大正15年2月20日に東京麻布の自邸で没した、今日はその鳴雪忌である。享年八十。末期の句は、「ただ頼む湯婆(たんぽ)一つの寒さかな*」。悲しい句である。しかし、人生、ひとつの達観の句とも言える。私もこういう句に行き着きたいものだ。 暮れてなお小雨はやまず鳴雪忌 青穹(山田維史) 【*註】「湯婆(たんぽ)」は、湯湯婆(ゆたんぽ)
Feb 20, 2022
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夜中である。ちょっと変なことがあった。 二階の私の部屋を、戸外から壁をコンコンと叩く音がしたのだ。 家の周囲には何もない。音がした方向にある隣家との距離は、互いのセットバックを挟んで最短3メートルほど離れている。外から我家の二階にのぼれるものではない。隣家の我家に向いている側は、直立した窓のない壁である。 私は気のせいだと思い、書き物をしていた仕事をつづけた。 すると5分も経たないで、再びコンコンと壁が叩かれた。気のせいではなかった。非常にクリアに、コンコンと2度叩かれた。 私は、階下で家人が何かしているのかもしれないと思い、たしかめるために階下へ降りて行った。下は灯りが消えて暗かった。家人は自分の部屋に入って寝ていた。 「?」・・・私は、念のため家の周囲を見ておこうと,外に出た。小雨が降っていたが、建物をぐるりと一周してみた。何事もない。もちろん人影もなかった。 何だろう、あの音は? 不審に思いながらも・・・しかし、その後は音もしなくなって、これを書いている。
Feb 20, 2022
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今朝、2月18日の朝日新聞に、京都・六波羅蜜寺の重要文化財「空也上人立像」が、半世紀ぶりに東京国立博物館にやって来る、と報じられていた。 私はこのブログの昨年11月14日の日記に、この御像について書いた。その前日の13日が空也上人の忌日だったからだ。そして、私はこの御像を1964年10月1日および11日と、2度、所も東京国立博物館で観たと述べた。所蔵の図録の画像も掲載した。 朝日新聞は、「半世紀ぶり」と書いているが、空也上人立像の旅は、正確には58年ぶりということになる。今年は空也上人の没後1050年に当り、それを記念しての特別展だそうだ。会期は3月1日から5月8日まで。 私の記憶の眼には58年後の現在も、展示の様子もそのお姿も消えずに残っている。眼に焼き付けようという思いで、2度観に行ったのだった。 懐かしくもある。またお会いしに行こうかしら。19歳の感覚の記憶と、特別展終了日の1週間後に77歳になる老人の感覚とを、比較してみたい気もする。空也上人立像の両眼にやどっていた光を、いまの私はまともに見返すことができるであろうか。
Feb 18, 2022
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旧知の著述家・編集者、倉持哲夫氏が新刊のご著書を贈ってくださった。『名言名句で読む日本人の歴史 一日一言の教養』(さくら舎 2022.2.5刊)。 「一日一善」という言葉がある。本書は書名にあるとおり「一日一言」、神代・古代の素戔鳴尊(すさのおのみこと)に始まり、近代・現代の美空ひばりまで、全324人が遺した言葉と、それぞれの生涯についての著者倉持氏による解説から成る。 たとえば私が昨日のブログの拙句の自註で述べた明恵上人の言葉として、倉持氏は、「くまもなくすめるこころのかがやけば わかひかりやと月をもふらむ」という歌を採り、(一点の隈もなく澄み切っている心が光り輝いているので、それは自分の光りであると、月は思うだろうか)と現代語訳を付されている。 まことに的確な訳で、「わかひかりや」(我が光りや)の「や」を現代的に断定詠嘆の「や」と読み違えると、まったく逆の解釈になってしまう。この「や」は反語である。倉持氏が明恵のこの歌を採ったのは、自我の肥大に潜む驕慢に対する優しい戒めを、現代社会に発信せんがためにほかならないだろう。月はただ静かに光り輝いているではないか、と。 倉持氏は、「〈日本人は言葉と心を、とりわけ大切にし、尊んできた〉というテーマで、日本人の素晴らしい、たくさんの豊かな〈心の名言〉を通じて,日本の精神史・文化史・日本人の歴史を読み解く本」を執筆・編纂したと述べている。 私は先日のブログで俳諧の「連」について少しばかり触れた。倉持氏のこのたびの企画は、まさに「連」である。しかし互いに脈絡のない先人の名言・名句を並べているかというと、そうではない。精神史・文化史・歴史、と述べているとおり、古代から現代にいたる時間をつなげようと企図している。時間は連綿とつづいているではないかと反論する人がいるなら・・・これも私は「連」との関係で述べたが・・・じつは日本文化は「刹那に生きる美学」にとらわれて来て、それは時間を分断することであった。倉持氏が採択した324人の言葉や句は、倉持氏の意図を外せば、まったく異なる文脈でとらえることができるのである。 歌舞伎の『白浪五人男(青砥縞花紅彩画;あおとぞうしはなのにしきえ)』の「稲瀬川勢揃い」の場を例にしてみようか。いわゆる「連(つら)ね」の場。日本駄右衛門、弁天小僧、忠信利平、赤星十三郎、南郷力丸の五人の悪党がずらりと居並び、つぎつぎと口舌もあざやかに名のりをあげる。五人の男たちは生まれも育ちもちがう。いうなれば、それぞれ異なった「文脈」のうちに生きてきた。だが、いまそれぞれの名乗り(名言・名句)を「連ね」てゆくと、撚り合わさった一本の太い軸として立ち顕われるのだ。 それが「連」の機能である。 倉持氏は「連」を機能させることで、本来互いに脈絡のない名言・名句を、過去・現在・未来と連なる時間軸として形成したのである。それはまた、編著者・倉持哲夫の精神軸であると言えよう。【著者紹介】早稲田大学政治経済学部卒業。講談社インターナショナル編集長を務める。日本タオイズム協会理事。日本文化・東洋思想・武道・宗教・精神世界・歴史・文学・経営・経済・建築・自然・政治・国際関係・社会・芸術・芸能・ファッション・教育・語学など、幅広いジャンルの書籍(和書、英文書・対訳書)と雑誌などの企画編集・執筆・翻訳活動をおこなっている。
Feb 17, 2022
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昼間、ことし初めて暖房をきった。すると住宅街を、売り声もかまびすしく灯油販売の車が過ぎていった。ハハハ、ほんに人さまざまだ。 春めきて草に陽に舞う明け雀 青穹(山田維史) 霞たつ多摩の丘ゆく列車かな 静けさにかすかに聴くは春子(はるご)かな 春風や胸に吹きたり身の始末 月おぼろヴィデオに残る死者の歌 あかあかや明恵と居たり春の月* 【自註】明恵上人(1173−1232)の歌、「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかの月」に拠る。なお、芭蕉の「松島やああ松島や松島や」はこの明恵の歌の模倣(本歌取り)だと、私は推測する。
Feb 16, 2022
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ハハハハ、東京大雪の気象庁の予報は、おおはずれだったなー。まあ、こんなはずれは結構じゃないですか。私は予定していた外出を、キャンセルせずに出かけることができた。 塩焼きの鰊に添うるみぞれ哉 青穹(山田維史) 【自註】「みぞれ」は、もちろん大根おろしのこと バレンタイン・デイ 愛のチョコ九十五カカオにしてもらう 喜寿の春ビターチョコほどの思い出も
Feb 14, 2022
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また東京に大雪予報が気象庁から出ている。日野市の防災課からも午後6時過ぎに注意をうながすメールが配信された。さて、先日のように、明けたら快晴だったと、いかないかなー。今(22時)は、小雨が降っている。しかし水道凍結も想定して、念のため薬缶に水を汲み置く置くことにしよう。
Feb 13, 2022
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昨日はこのブログで早とちりして、アルゴリズムをめぐって展開するダン・ブラウンの小説『ディジタル・フォートレス』を紹介するつもりが、画像もまちがえて『ザ・ロスト・シンボル(失われた象徴)』(2009年)を掲載してしまった。すぐに気がついて画像とともに訂正した。 それで今日はあらためて『ザ・ロスト・シンボル』を紹介しようと思う。 この小説は、アメリカ合衆国議会議事堂の建物と首都ワシントンDCの都市構造についての象徴学をめぐる冒険小説である。昨年1月6日のアメリカ合衆国議会議事堂暴動事件は、いま現在も同国では捜査がつづいている。民主主義を国家の基本理念とするアメリカの象徴である議会議事堂が、議会開催中に暴徒によって襲撃されたのだった。 ・・・その議事堂が、じつはフリーメイソンの象徴を秘めて建築されている。 フリーメイソンは元々は石工の組合のようなもので、ヨーロッパ中世の封建社会の制度下で建築事業における石工たちの既得権を維持するため、および伝統技術を守秘するためにできた職業的な結社である。後には知名人士が加入するようになった。加入儀式(イニュッシエイション)は厳格な宣誓のうえ秘密裏におこなわれた。かの万有引力の発見者アイザック・ニュートンもそのメンバーだったといわれる。 合衆国初代大統領ワシントンがフリーメイソンの団員だったことは良く知られている。 しかしアメリカ合衆国議会議事堂がフリーメイソンの象徴学にもとづいて建てられていたとは、私はこの小説で初めて知った。議事堂ばかりではない。ワシントンDCの都市構造がシンボリックだという。 著者ダン・ブラウンおとくいの象徴学・図像学がテンコ盛りである。もちろん全体はフィクショナルなエンターテイメンとであるが、象徴学・図像学の謎解きは非常に良くできていておもしろい。謎の小さなピラミッドのオブジェをめぐって国家組織による国際的規模の冒険活劇は展開する。 古色蒼然のお膳立てのようだが、そうではない。とんでもない最新科学の問題がでてくる。「おい、ほんとかよ!?」って、ね。ハハハハ、読んでのお楽しみです。 Yesterday, I'm jumping to conclusion on this blog to introduce Dan Brown's novel "Digital Fortress", whichdevelops over algorithms, but the image of the bookis wrong. "The Lost Symbol"(2009). Has been posted.I immediately noticed it and corrected it with theimage. So toay I would like to introduce "The Lost Symbol"again. This novel is an adventure novel about the buildingof the United States Capitol and the urban structureof the capital Washington, DC. The United States Capitol riots on January 6, last year, are still under investigation in the country. TheCapitol, a symbol of America with democracy as thenation's basic philosophy, was attacked by mobsduring Congress. The Capitol was actually built with the symbol ofFreemasonry. Freemasonry was originally like a masonry union,a professional association formed to maintain themasonry's vested interests in the constructionbusiness under the feudal system of the Middle Ages of Europe and to keep traditional techniquessecret. Later, celebrities came to join. The enroll-ment ceremony was held in secret wirh a strict oath. It is said that Isaac Newton, the discoverer of universal gravitation, was also a member. It is well known that the first president of theUnited States, Washing ton was a member ofFreemasonry. However, I learned for the first time in thisnovel that the United States Capitol was built onthe basis of Freemasonry's symbolism. It's notjust the Capitol. The urban structure of Washing-ton DC is said to be symbolic. Author Dan Brown is skilful at iconography andsymbology. They are in full swing. Of course, thewhole story is a fictional entertaiment, but themystery of symbology and ionography is very well done and interesting. An international-scaleswashbuckler by a national organization unfoldover a mysterious little pyramid object. It seems to be an old-fashioned setting, butit is not. A ridiculous latest scientific problemcomes up. "Hey, really!?" HAhahaha. You arelooking forward to reading.Tadami Yamada
Feb 12, 2022
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気象予報で昨日の東京は大雪になるはずだった。たしかに夕刻には霙が小雪にかわり、暗くなってから郵便を投函しに外出した私の眼鏡に降りかかる雪が、たちまち水滴になって視界をくもらせた。私は水道が凍結するかもしれないと思い、用心のため大薬缶に水を溜め置いた。雪掻き用のスコップも倉庫から出しておいた。しかし、ハハハ、気象予報はみごとにはずれた。ナショナルホリディの明るい日がさした。庭の木の日陰に、雪がはだれに消え残っていた。 夕方、注文してあった本がとどいた。買うばかりで、なかなか時間がとれず未読のまま積んである本が溜まって来た。 ところで特に最近、あちらこちらで「アルゴリズム(algorithm)」という言葉を目にする。ちょっとした流行語である。コンピューター・プログラミングにはおなじみの言葉だが、簡単に言えば、さまざまなデータの集合を、目的に合うように如何にシステム化するかの演算方式だ。頻繁に目にするといえば、きょう2月11日の朝日新聞のコラム〈山腰修三のメディア私評〉にも、「なによりジャーナリズムにはプラットフォームの論理そしてアルゴリズムの実態や影響を分析し,報道することが求められる。」とあった。 アルゴリズムについてここに詳しくは述べないが、ふと思い出したエンターテイメントのおもしろい小説がある。すぐに探し出せたので画像を掲げておく。『ダ・ヴィンチ・コード』を書いたダン・ブラウンの『ディジタル・フォートレス(ディジタル砦)』(1998年)。翻訳があるかどうか私は知らないが、この小説はアルゴリズムを扱っている。表紙に謳っているように、AIの究極のコード、強力で危険、かつ破られることがないコードをめぐってアメリカ合衆国の政治の中枢,そしてFBIとCIAの巨大組織で展開する冒険小説。あいかわらず奇妙奇天烈な名前の日本人が、怪しい影を投げかける。昔ならば、SFの題材だろうが、現在のIT万能の社会では、現実味がある物語だ。おもしろい。 According to the weather forecast, it was supposed tobe heavy snow in Tokyo yesterday. Certainly, in the evening, sleet replaced light snow, and the snow that fell on my glasses, which I went out to post mail after dark, immediately turned into water droplets and clouded my view. I thought the water might freeze, so I put water in a kettle just in case. I also took out a shovel for scraping snow from the warehouse. However, hahaha, the wether forecast was off the maek. The bright day of National Holiday has come. In the shade of the trees in the garden, the snow was mottled and left. In this evening, the book I had ordered arrived. However, I just bought books, and I couldn't get enoughtime to read them. By the way, spaecially recently, I see the word "algo-rithm" here and there. It's a bit of a buzzword. It's afamiliar word in computer programming, but in a nut-shell, it's an arithmetic method of how to systematizevarious sets of data to suit your purposes. Speaking of frequent occurrences, the Asahi Shimbun colum <Shuzo Yamakoshi's Media Private Review> onFebruary 11th also states, "Above all, journalism ana-lyzes and reports on the actual conditions and effectsof platform logic and algorithm. Is required." I won't go into details about the algorithm here, butthere is an interesting novel about entertainment thatI suddenly remembered. I found it right away in mybookshell, so I'll put up an image. Dan Brown's "DigitalFortress" (1988(, who wrote "The Da Vinci Code". I don't know if there is a Japanese translation, but thisnovel deals with algorithms. As stated on the cover, anadventure novel developed by the political center of United States and FBI and CIA giants over the ultimate AI code, a powerful, dangerous, and unbreakable code.As usual, a Japanese who is a strange and bizarre namecasts a suspicious shadow. In the old days, it would bethe subject of SF, but in today's IT-universal society, itis a realistic story. Interesting.Tadami Yamada
Feb 11, 2022
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二月の雪 きさらぎの雪は夜ふけに人知れず 青穹(山田維史) きさらぎの雪は眼鏡にた走りぬ 街灯の寂しきなかに春の雪 春の雪とけて儚き胸のうち【Haiku】 Kisaragi no yuki wa yofuke ni hito shirezu The snow in February falls at midnight secretly Kisaragi no yuki wa megane ni tabasiri nu The snow in February melts immediately, becomes drops runs on my glasses Gaito no sabisiki naka ni haru no yuki Spring snow flutters in the poor light of a streetlight Haru no yuki toke te hakanaki munenouchi Spring snow melts, transient, in my heartTadami Yamada
Feb 10, 2022
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東京は明日、雪になるかもしれない。そんな予報が出ている。 それを見越して、コピー用紙を数束買いに出た。文字原稿を印刷していて、1度にA4判を500枚印刷したので買い置きがなくなったのだ。 私は執筆にコンピューターを使っている。しかし、書き上がった原稿を、紙に印刷しないと安心できない。USBメモリーやDVDに記録するけれども、これらのメディアは、決して安心できる保存媒体ではないからである。私は何度もそれで取り返しがつかない失敗をしてきた。 その一つの媒体が、MDである。この媒体はすでに製造が中止になり、それと同時に読み取り装置も店頭から消えた。使用していた読み取り機は、コンピューターのヴァージョンに適合しなくなった。コンピューターが2,3年ごとに次々とヴァージョン・アップをするので、いつのまにか記録媒体のヴァージョンと適合しなくなるのだ。 ソフトウェアーも然りである。私はIT企業会社の勝手な理由による使用媒体との不適合発生によって、どれほど金銭的損失をこうむってきたことか。初期のアップルワークスに始まり、編集ソフトのクウォークエクスプレス、イラストレーター、フォトショップ、各種の外字漢字ソフト、エクセル、ワード、オフィス、はがきソフトetc. 私のような個人使用者が100万円、200万円の出費を強いられているのだから、一般会社や官公庁の出費は莫大であろう。官公庁の出費は、つまりは国民の税金で支払われているのだ。 電子書籍についても言える。電子書籍は個人の財物とはならない。紙の書籍のような所有の概念が成立しないからだ。おそらく古書の概念も成立しないだろう。古書を繙くという学術世界が破綻するだろう。 私はこのブログにおいて、オックスフォード大学の各カレッジの図書館や、アイルランドのトリニティーカレッジ図書館の画像を掲載した。またニューヨークのかつての財閥ピアポント・モーガンの私設図書館、現在のモーガン・ライブラリー・アンド・ミュージアムが何を意味しているか、あるいはヴァチカンの全長数十キロにおよぶという秘密図書館が、何を意味しているか、誰か考えたことがあるだろうか。なぜ彼の国の人々は、その膨大な記録を紙に書き残し、現在も書き、未来へ繫げようとしているのか、私たちは考えたことがあるだろうか。 同様の事体は、早くもヴィデオテープに出来(しゅったい)していた。家庭におけるヴィデオテープ録画が機器の製造中止で再生不可能になった。もちろん商品として販売されていた映画や音楽等のヴィデオテープも然りだ。現在、専門会社に依頼すると、ヴィデオテープ録画をDVDに変換してくれる。しかし、それとて、1本の変換費用が900円以上するのではないか。私は,1本1,500円という広告を見たことがある。 「巨大IT企業に世界は支配されてしまう」という意見がある。まったく的外れとも言えない。 政府が公文書保存を紙から電子媒体に変えるといっている。 「バカな!」と、私は驚いた。将来的に公文書記録が存在しない国になってしまう! このバカ者たちの政策により、国家の基盤となる重要資料が失われてしまう。そうなれば、もはや国家を維持してゆけまい。いや、国家の態をなすまい。 日本は世界の歴史的時間の流れに結びつこうという意志(意思)を、徹底的に欠如した文化をはぐくんできたことを指摘しておかなければならない。 世界のあらゆる民族が、その生命を原初からの時間に結び、さらに未来へつなぐ橋渡しとして現在を文化的にとらえている。しかしながら、日本人は、時間を分断してきた。まるで刹那を生きることに腐心するかのように。 事実、日本の伝統と称す「年号」が、それを示している。 この伝統は、完全に世界の時間から分離している。「嘉元」元年などと言われて、はたしてどれだけの人が、世界時間と結びつけて認識できるだろう。『源氏物語』が世界最古の長編小説だと知っていて、しかも奇特に「寛弘4年頃」に成立したと知っていて、その年号が西暦1007年のことだと指摘できる人が、どれほどいるだろう。1007年であることを知らないで、「世界最古の長編小説」だと言っても世界には通用しない。 日本の原初から流れているはずの時間を、文化的に、ぶつ切りにしているのだ。日本の歴史は生命の神話的根源につながってはいない。日本神話は政治的根源ではあっても、茫漠たる生命の根源を物語ろうという意志からは遠い。 この記事を読まれた方は、私が何を言っているのかと思うかもしれない。 じつは、「政府が公文書保存を紙から電子媒体に変える」という政策は、きわめて「日本人らしい」のだ。多くの国民は、この政策に疑問を抱かないかもしれない。紙資源の無駄をはぶき、「エコロジカル」な先進的な考えではないか! と、賛意を示す人もあろう。それだから良いと,私は言うのではない。 電子メディアの脆弱性は、冒頭で述べた私の小さな経験を例にするまでもなく、現在、国政上の大きな問題になっている記録の削除や書き換え、あるいは国際的なハッキング等々、問題が多過ぎる。何より、バカ者政治家や官僚には好都合であろうが、歴史の検証が不可能になる虞れがある。 公文書の勝手な削除や書き換えは、それを誰が行おうと、日本国民に対する重大「犯罪」であるのだが、問題を追及する意識は極めて低い。あまつさえ、国家に対するその重大「犯罪」の上で政治の中枢が胡座(あぐら)をかいてさえいる。 私が危惧するのは、その点だ。私が、日本の基盤がなくなる、というのはそのことである。 私たちは、もはや、世界時間から分離し、日本人として民族の時間をぶつ切りに切り捨てて、それで良しとしてゆくことは出来ないのだ。それは偏狭な民族主義とは相容れない「国」についての考え方である。なんなら「新・愛国心」と言ってくれても良い。 Tokyo may snow tomorrow. Such a forecast has comeout. In anticipation of that, I went out to buy a few bundlesof copy paper. I was printing a text manuscript, and Iprinted 500 A4 size sheets at a time, so I had no stock. I use a computer for writing. However, I cannot be re-lieved unless I print the written manuscript on paper.Although it is recorded on a USB memory or DVD, thesemedia are by no means a safe storage medium. I havemade irreparable mistakes with it many times. One of the media is MD. The medium has alreadybeen discontinued, and at the same time the readerhas disappeared from the store. The reader I was usingno longer fits the computer version. Computers up-grade their versions one after another every few years,and before I know it, they don't match the version ofthe recording medium. The same is true for software. I have suffered a fi-nancial loss due to the incompatibility with the mediumused for the AI company's own reasons. Beginning withearly Apple Works, editing software such as Quark XPress, Illustrator, Photoshop, various external charac-ter kanji software, Excel, Word, Office, postcard soft-ware, etc.. Since individual users like me are forced to spend1 million yen and 2 million yen, the expenses of general companies and government offices would beenormous. Government spending is, in other words,paid by national taxes. The same can be said for e-books. E-books are notpersonal property. This is because the concept of ownership like a paper book does not hold. Theacademic world of brewing old books will collapse. In this blog, I posted images of the libraries ofeach college of Oxford University and the library ofTrinity College in Ireland. And what does New York'sformer conglomerate Pierpont Morgan's privatelibrary, the current Morgan Library and Museum, orthe secret library of Vatican's tens kilometers longmean? Or has anyone ever thought about it? Havewe ever wondered why the people of that countrieswrote down that huge records on paper, still writingit, and trying to make it into the future? A similar thing was already made into a video tape.Videotape recording at home became unplayabledue to discontinuation of equipment. Of course, thesame goes for video tapes such as movies andmusic that were sold as products. Currently, if youask a specialized company, they will convert thevideotape recording to DVD. However, the con-version cost for one tape may be 900 yen or more.I have seen an advertisement for 1,500 yen perone videotape. There is an opinion that the world will bedominated by a huge IT company. It can't be saidto be completely off the mark. It is said that the Japanese government will changethe storage of official documents from paper toelectronic media. I was surprised,”How stupid!". In the future, it willbe a country where there are no official documentrecords! Due to the policies these idiots, importantmaterials that form the basis of the nation will belost. If that happens, we can no longer maintain thenation. No, it doesn't form a national state. It must be pointed out that Japan has cultivateda culture that completely lacks the will to connectwith the historical flow of time in the world. All the peoples of the world culturally view thepresent as a bridge that connects their lives to thetime from the beginning and further to the future.However, the Japanese have divided the time. It'sas if people have been at great pains about livinga moment. In fact, the name of an era, which is called theJapanese tradition, shows that. This tradition is completely separated from thetime of the world. For example, if It is said that thefirst year of "Kagen", and how many people canrecognize it in connection with world time. Howmany people know that "Genji Monogatari", if theyknow that it is the oldest novel in the world, andthat it was written around "Kanko 4th year", but that the year is 1007 AD. There will be. Withoutknowing that it is 1007, even if it is said to be"the oldest novel in the world", it does not workin the world. Culturally, the time that should have flowed fromthe beginning of Japan is cut into pieces. Japanesehistory does not lead to the mythical origin of life.Although Japanese mythology is a political source,it is far from the will to tell the source of vaguelife. If you read this article, you may wonder what I am saying. In fact, the policy of "the government changingthe storage of official documents from paper toelectronic media" is extremely "Japanese-like."Many people may not question this policy. Is it an"ecological" advanced idea that eliminates wasteof paper resources, isn't it? Some people mayshow their support. That's why I'm not saying it'sgood. The vulnerabilities of electronic media are notlimited to my small experience mentioned at thebeginning, but there are many problems suchas deletion and rewriting of records, which arecurrenrtly major problems in national affairs, andinternational hacking. Above all, it may be convenient for stupid politicians and bureaucrats, but it may make itimpossible to verify history. The arbitrary deletion or rewriting of official documents is a serious "crime" against theJapanese people, no matter who does is extremelylow. Even more, the political center sit even cross-legged on its serious "crime" against nation. That's what I'm worried about. That is why thepeople will lose the foundation of Japan. We can no longer separate from world time, cutoff ethnic time as Japanese, and make it good. It isa way of thinking about "the nation" that is incom-patible with narrow nationalism. You can say "New Patriotism". Of course, it is me.Tadami Yamada
Feb 9, 2022
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インドの大歌手ラター・マンゲーシュカルさんが亡くなられ、国葬がおこなわれたと各国のメディアが報じた。享年92。 インド映画を観たことがある人は、彼女の歌声を必ずや聴いている。あのインド映画の舞踊と歌が入った祝祭的スタイルは独特だが、そこでの女性の歌は、じつはラター・マンゲーシュカルさんがバック・シンガーとして歌っていた。スクリーンに登場している俳優は、いわゆる俗に言うところの口パクだった。ラター・マンゲーシュカルさんのお声は、非常に高い音まで艶やかに軽々としていられた。ファルセット(裏声)ではない。声のレンジ(幅)がひろかったといわれている。 「インドのナイチンゲール(天使という意味:山田註)」と、親しみをこめて呼ばれていた。インド国民の喪失感は大きいにちがいない。「国葬」で送られたことが、それを物語っている。 ラター・マンゲーシュカルさんを悼みます。 ラター・マンゲーシュカルさんの死去を伝えるBBC ラターさん1997年のコンサートより ここには日本語で歌う「さよなら」が含まれている。 12:16〜13:17 The media of each country reported that the Indiansinger Lata Mangeshkar had died and a state funeralwas held. She is 92 years old. Anyone who has seen an Indian movie always listensto her singing voice. The festive style of the Indian movie with dances and songs is unique, but the female song there was actually sung by Lata Mangeshkar as a back singer. The actors on the screen were so-called lip-synching. The voice of Lata Mangeshkar was bril-liant and light even to a very high-pitched tone. She is not falsetto. It is said that her voice range was wide. She was familiarly called "Indian Nightingale (mean-ing angel: Yamada Note)". The Indian people musthave a great sense of loss. The fact that she was sent at "her state funeral" speaks for itself. I mourn Lata Mangeshkar.Tadami Yamada
Feb 7, 2022
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三寒四温と言うが、俳句ではたしか1月の季語。元々は中国東北部、かつての満州、現在の遼寧省・吉林省・黒龍江省のあたりの気候の表現。三日寒い日がつづくと四日温かい日がつづき、その寒暖の差のはげしさが数日の周期であらわれる。冬季において特にはげしい現象のようだ。どうやらこの三寒四温は、春の前触れというのでもないようだが(もちろん、やがて春はやってくるけれど)、日本では春の前触れとしての感覚が強く表現されているかもしれない。 こんなことを書き始めたのは、じつは昨日の日のゆるみを感じた温かさから一転して、今日はひどく寒かったからである。我が町の朝の気温はマイナス4.5℃だった。時間とともに少しずつ上昇したが、それでも午後1時頃にようやく6℃。それが今日の最高気温だった。 私は、小さい花々の鉢を日没が近づくと屋内に取り入れている。植物の本能はすばらしいもので、人間よりずっと敏感に春が近づいていることを感じ取っている。それだから、いつまでも屋内で過保護にしているわけにゆかない。しかしながら今日のように,一気に零下まで気温が下がると,「ねえ,君たち、どうする? 外に出るかい?」と、訊きたい気持になる(ああ、それは気持だけのこと。いくら脳天気な私も、実際に声はだしません。・・・う! 猫には、声にだして話しかけているなー!)。 今日は、庭に小鳥たちも鴉も来なかった。どこで寒さをしのいでいるやら。 春菊の白和え雪のごとくなり 青穹(山田維史) 春菊の白和え猪口に雪のごと Although it is called Sankan Shion (a cycle of threecold days and four warm days), it is a seasonal wordfor January in Haiku. Originally a representation of the climate around northeastern China, formerManchria, and now Liaoning, Jilin, and Heilongliangprovinces. If three cold days continue, for warm dayscontinue, and the difference in temperature appears ina cycle of several days. It seems to be a particularlyviolent phenomenon in winter. Apparently, this Sankan Shion is not a harbinger of spring (althoughspring will come soon), but in Japan it may be strong-ly expressed as a harbinger of spring. I started writing this because it was terribly coldtoday, turning from the warmth I felt yesterday'sthe sun to be getting longer and warmer. The morn-ing temperature in our town was minus 4.5 degreesCelsius. It rose little by little over time, but it was still 6 ℃ at around 1 pm. That was the highest tem-perature today. I take small flower pots indoors as sunset ap-proaches. The instinct of plants is wonderful, and theyI feel that spring is approaching much moresensitively than humans. Therefore, it cannot beoverprotected indoors forever. However, when thetemperature drops to below zero at once liketoday, I feel like asking, "hey, you guys, what areyou going to do?" (I don't actually make a voice, ...Uh! I'm doing it for my cats!) Today, neither birds nor crows came to the mygarden. Where are you getting out of the cold?【Haiku】 Syungiku no shiraae yuki no gotoku nari The crown daisy was mixed with a white bean curd and became to dress with like snowTadami Yamada
Feb 6, 2022
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寒さが去ったとは言えないけれど、「どこかで春がうまれてる」* である。 餘寒にも椿の莟ふくらみて 青穹(山田維史) おちこちの庭の花木に芽吹きかな にぎやかに鳥のさえずり春や春【*註】『どこかで春が』百田宗治作詞、草川信作曲の唱歌。私が長野県の川上第二小学校1年生のときの卒業式(1953年・昭和28年)の歌である。作曲者草川信が長野県出身ということもあったであろうが、川上第二小学校は、戦後の新しい学校教育に果敢にとりくんでいた。私はこの小学校に入学し、私の人生で最高の教師樋口カエ子先生に出会えたことを、僥倖にめぐりあったと思っている。 It can't be said that the cold has passed, but "wherespring is born somewhere"*.【*Note】" Where Spring is" written by Soji Momota and composed by ShinKusakawa. This is the songof the gradiation ceremony (1953, Showa 28) whenI was in the first grade of Kawakami Daini Elemen-tary School in Nagano Prefecture. The composerShin Kusakawa was from Nagano Prefecture. That may be the reason why the graduation song washis song, but the Daini Elementaly School was braveenough to work on new postwar school education.I am fortunate to have met Kaeko Higuchi, the best teaxher in my life, when I entered this elementary school.【Haiku】 Yosamu ni mo tsubaki no tsubomi fukuramite The camellia buds swelled Even in the a little cold in the early spring Ochikochi no niwa no kaboku ni mebuki kana Oh! it's a bud on the flowers and trees in the garden here and there Nigiyaka ni tori no saezuri haru ya haru Lively song of birds Oh spring, spring!Tadami Yamada
Feb 5, 2022
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きょうは立春。しかし・・・ 春立ちてソーラーパネル拭いけり 青穹(山田維史) 春立てど電話は吾の助けよぶ 春立ちぬマスクのかげの不精鬚 コート脱ぎマスクはずせぬ春立ちぬ Today is the first day of spring. However...【Haiku】 Haru tachite sora-paneru nugui keri The beginning of spring The dust on the solar panel I wiped it Haru tatedo ware ni tasuke wo yobu denwa Spring has come though A phone call to ask for my help Haru tatsu ya masuku no kage de naderu hige Spring has come Stroking a beard of behind a gauze mask Koto nugi masuku hazusenu haru tachinu Spring has come I took off my overcoat, can't take off gauze maskTadami Yamada
Feb 4, 2022
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きょうは節分である。「追儺(ついな)」、あるいは「鬼やらい」「なやらい」ともいう。 古代中国・晉の時代、4世紀半ばに干宝(カン ホウ)が著わした、怪異事件を集めて記録した書物『捜神記』に、つぎのような記事がある。 「昔、センギョク氏に三人の息子があったが、三人とも死んでから疫病神になった。一人は揚子江に住みつき瘧(おこり)の神となり、一人は若水に住みついて魍魎(もうりょう)となり,一人は人の家に住みついて子供に引きつけや夜泣きをおこさせる小さな化物になった。だから正月には方相氏に命じて追儺の儀式を行わせ、疫病神を払うこととなったのである。」(東洋文庫『捜神記』竹田晃氏訳、平凡社刊) この儀式が日本に渡来し、立春の前夜、すなわち季節の分け目(節分)に、各社寺で豆を撒いて災禍を追い払う「追儺式」がおこなわれるようになった。しかしながら、1821年から1842年にかけて幕府の命令で屋代弘賢(やしろひろかた)が編纂した『古今要覧稿』によれば、節分と追儺とは後世おなじことのように行われているが、本来、平安朝期の「追儺式」は12月の晦日のみに行われ、ほかの日にはおこなわれなかった。節分とははっきり差別していた、とある。さらに、時代が下ると節分に大豆を打ち撒くにようになったが、これは『後漢書』が典拠で、すなわち「以赤丸五穀播漉之(あかまるごこくをもって これをうちまく:山田)」とあるが、日本において豆撒きが行われるようになった時代は判然としない、とある。 ともあれ、平安時代には宮中や貴族の邸では、追儺行事に柊とナヨシ(魚のイナ)の頭を門に挿した。このことは『土佐日記』にも書かれている。そしてやがて時代は下って、江戸時代には庶民の習俗となり、ナヨシのかわりに鰯の頭を使うようになった。現在でもこの習俗が残っている地方があるかもしれない。 ちなみに、我家には昔から「恵方巻」を食す習慣がない。亡父亡母も「恵方巻」知らなかったと思う。私がそれを知ったのは20年くらい前で、50歳を過ぎていたと思う。スーパーマーケットや,最近はコンビニエンス・ストアでも見かけるが、買ったことがない。関心外と言ったほうがよいかもしれない。そして、じつは「恵方巻」の食しかたを知ったときは、内心、「うわッ!」となった。三つ子の魂なんとやらで、我家では誰一人としてとても真似できない。もちろん海苔巻は好きだ。鉄火巻も好きだし、太巻寿司も好きだ。 ・・・ただ、そのう、恵方巻はその食作法がねー、どうもねー。 この「恵方巻」とその食作法について,私は疑問をもっている。つまり、これはかなり近年になって、スーパーマーケットのような総菜を扱う商店によって考案された、いわゆるアイデア商品とその販売作戦を起源とするのではないか、という疑問だ。 というのは、民間信仰に関する書物(たとえば桜井徳太郎編『民間信仰辞典』東京堂出版刊、1980年)にも、「恵方」についての記述はあるが、「恵方巻」を吉方角に向いて大口で1本の太海苔巻を食う習俗があるなどとは記されていない。 恵方(吉方)は、陰陽道において歳徳神の司る方角で、十干十二支の組合せできまる。毎年、方角がことなるのはこの組合せによるからである。農村ではこの日に田畑に年初めの鍬入れをおこない、豊作を祈願した。また、節分の日に限ったことではないが、初物を食するとき、食前に東の方角に向かって笑うという習俗をもっている人たちに、私自身が遭ったことがる。 私はつぎのように推測してみる。「恵方巻」は、陰陽道による恵方信仰、および初物を食べるときに東を向いて笑う習俗に、韓国のキンパと日本の太巻寿司とからヒントを得て関西方面の食品業者がつくりだした、戦略商品として始まった新しい習慣なのではないか? 如何であろう。 【節分の豆撒きを川柳に詠む】 歳の数豆喰うと言うが 豆撒きや七十六を四十にす 青穹(山田維史) 豆撒きや非戦主義者の我が口へ 鬼やらいミサイル撃てど鬼も居ず 豆食えば腹ふくるなり呆け政治* 追儺式僧侶神主からさわぎ 豆でコロナ禍祓えもすまい【自註】正岡子規の「柿くへば・・・」のパロディ。 Today is Setsubun (the day before the begining ofspring. Been Throwing Festival). Also known as "Tsuina (nuo folk religion ceremony. Drive awaydisasters)" or "Oniyarai (drive away demons)" and"Nayarai (same meaning as drive away demons)" In the ancient Chinese Jin dynasty, the book "Soshinki (In Search of the Supernatural)", which waswritten by Gan Bao in the middle of the 4th centuryand recorded a collection of mysterious incidents,has the following article. "Once upon a time, Mr. Sengyok had three sons,but all three because epidemic gods after they died.One lived in the Yangtze River and became the godof sickness, and one lived in Yuandan and becamea god of plugue in water. Then, one of them became a small thing that settled in a person's house andattracted children and made them cry at night. Therefore, in the New Year, he ordered Mr. Hosouto perform a ritual of religion and drive away theepicdemic god.(Translated from Chinese into Japanese by Akira Takeda, Toyobunko "Soshinki", published by Heibonsha. Translated into English by Tadami Yamada.) This ritual came to Japan, and on the even of thebeginning of spring, that is, on the eve of theseason (Setubun), a "Tsuina-shiki (nuo folk religionceremony" was held in which beans were sprinkledat each shrine and temple to drive away the disaster. However, according to the "Kokin-yoran-ko (An-cient-and-Currenr Handbook Manuscript(" compiledby Hirokata Yashiro at the order of the TokugawaShogunate from 1821 to 1842, Setsubun and Tsuinaare performed in same way as posterity. The Tsuinaduring the Heian period was held only on New Year'sEve in December, not on other days. It is said thathe was clearly discriminated against Setsubun.Furthermore, as the times went down, soybeansbegan to be sprinkled on Setsubun, which is basedon the "Gokanjo (Hou han shu)", that is, "以赤丸五穀播漉之 (akamaru gokoku wo motte, kore wo uhi-maku. : Toranslated Chainese into Japamese reading./English: sprinkled red beans of five ereals)". However,it is not clear when soybeans were sown in Japan. It was. Anyway, in the Heian period, at the palace andaristocratic residences, a holly and a head of Nayoshi(fish gray mullet) were inserted into the gate for thereligion event. This is also written in "Tosanikkii (Tosadiary". Eventually, the times went down, and in the Edoperiod, it became a custom of the common people,and instead of a gray mullet, peple began to use thehead of a sardine, There may be some regions wherethis custome still remains. By the way, my family haven't the habit of eating"Ehomaki (old rice ,fride egg, and many kind of vegetable etc., rolled in dried seaweed)" for a longtime. I think my late father and mother didn't know"Ehomaki" either. I kew it about 20 years ago, I thinkI was over 50 years old. I see it in supermarketsand convenience stores these days, but I have neverbought it. It may be better to say that it is not ofmy interest. And when I learned how to eat "Eho-maki", I became "wow!" Somehow, the child is fatherto the man, I cannot be imitated, and by anyone atmy home. Of course I like seaweed rolls. I like TekkaMaki (raw tuna fish rolled in seaweed), and I alsolike Futomaki (thick roll rice in seaweed). However, I don't like Ehomaki's eating method. Nothanks. I have doubts about this "Ehomaki" and eatingmethod. In other worda, the question is that thismay have originated from so-called idea productsand their sales strategies, which were devised bystores that handle delicatessen items such assupermarkers in recent years. This is because books on folk religion (forexample, Tokutaro Sakurai's "Folk Religion Dic-tionary" published by Tokyodo Publishing Co.,Ltd., 1980) also have a description of "Eho (lackydirection)", but "Ehomaki" is turned to the direv-tion of auspiciousness. It is not stated that thereis a custom of one mouth and eating one thickseaweed roll. "Eho (lacky direction)" is the direction controlledby the god of sacredness in Onmyodo, and can be combined with the 12 zodiac signs. It is becauseof this combination that the directions are differ-ent every year. In rural areas, on this day, a ground-breaking of the year to pray for a good harvest.Also, although not limited to the Setsubun day, I,myself, had met once to people who have thecustom of laughing toward the east before eatingthe first crop of the seson. I guess as follows. "Ehomaki" was created by afood company in the Kansai region, inspired byKorean gimbap and Japanese sushi rolls, based onthe Onmyodo belief in Eho belief and the custom oflaughing eastward when eating the first crop in theseason. Isn't it a new custo that started as a strate-gic product? How is it?【Senryu】 (The custom of eating beans as many as one's age) Mamemaki ya nanajyuuroku wo shijyu ni su Sowing beans. Changing my 76 years old to 40 durling eating beans, because I can't eat it number of my age Mamemaki ya fusensyugisha no waga kuchi e Setsubun ceremony. To the sowing of beans and my mouth of a paicfist Oniyarai misairu utedo oni mo izu Shooting demons and missiles, but no demons anywhere Mame kueba hara fukurunari boke seiji If you eat beans, you will feel a full stomach with indignation for stupid politics Tsuinashiki soryo kan'nushi karasawagi Mamede korona-ka harae mo sumai A storm in a tea cup from Buddhist monk and Shinto priest Could't exorcise Corona virus disaster with sowing beansTadami Yamada
Feb 3, 2022
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朝の食卓に置いてある新聞をなにげなく見ていて、日付が202222であることに気付いた。私は数字にとらわれるほうではないが、千年に1度のめぐりあわせである。「ホーッ!」と、少し顔がほころんだ。きょうのゼロが埋まって2が並ぶのは200年後。あすの老い先さへ危うい私が、いくら頑張っても200年は生きられない。2022年2月2日に万々歳である。もう過ぎてしまったが午前2時22分22秒、そしてこれから22時22分22秒を付け加えると完璧! さらに今月、もう一日。22日だ。2022222222222。 色即是空 空即是色 アッハッハ。 浅き春袂落しの香に匂う 青穹(山田維史) コロナ禍の電話商い春浅し【自註】袂落し: 着物の袂に匂袋や、男は煙草入などをいれる。それを「袂落し」という。 Looking at the newspaper on the table in the morn-ing, I noticed that the date was 202222. I'm not obses-sed with numbers, but it's a once-in-a thousand-year meeting. "Huh!", My face smiled a little. It will be 200years after today's part of zero is filled and twos are lined up. I can't live for 200 years no matter how hardI try, because I'm in danger of tomorrow's old age. Hurrah for February 2, 2022! It's already passed, but it's perfect if you add 2:22:22 am and 22:22:22 fromnow on! Another day this month. It's 22nd. 2022222222222 "Being viz. Nothing, Nothing viz. Being" Ahaha!【Haiku】 Asaki haru tamoto-otoshi no ka ni niou Shallow spring It smells in the incense putting in a sleeve Korona-ka no denwa-akinai haru asashi Corona virus disaster Just only telephone businesses are. Spring shallow, ah!Tadami Yamada
Feb 2, 2022
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私のこのブログ日記を、高校生が読んでくれているとは思わないが、ちょっと高校生のために書いておこうかと思う。 先日,私は川柳と小津安二郎監督の映画『東京物語』について書いた。いささか話が横道にそれながらの文章だったので、「物は付け」の『枕草子』の流儀だと弁解した。その後,全文を英語でも書いたのだが、『枕草子』をどのように英訳したらよいだろうと考えながら、とりあえず『Pillow book』とした。『枕草子』は、たぶんきちんとした英訳が海外で出版されているであろうと推測したが、私はそこまで追求しなかった。 さて、Pillow book と書いてから、じつは私自身、これはまずいと思った。というのは、私はすぐに、pillow talk などの英語表現を連想したからだ。つまりベッド・インしてからの愛のささやき。日本語では、閨房の「睦ごと」である。 つぎに私は、古文を勉強する高校生は、この随筆文学の代表的な古典『枕草子』が、なぜ枕草子という題名(書名)をつけられているか、わかっているだろうか? と思った。 『枕草子』の「枕」は、寝具ではない。pillow ではないということ。「枕詞(まくらことば)」の枕である。枕詞は、主部(主題)を引き出すための慣用形容詞句で、いわば導入語(句)。「枕詞」を英語で言うなら、「a customary epithet ; カスタマリー エパセト」, すなわち慣用形容詞句。慣用的というのは、ある文化圏における事象(名所旧跡の景物や事物)を、即座に連想させる汎社会的に認知されている形容である。 『枕草子』は、その書かれている事柄によっておよそ三つくらいに分類できる。和歌に用いられている枕詞、すなわち「歌枕」に事寄せた随筆。「物」に関する作者(清少納言)の感覚的な随筆。そして日記(回想)、である。 私が、「物は付け」と言うのは、たとえば『枕草子』の有名な書き出し、「春は曙。ようよう白くなりゆく山際」のように、まず語ろうとするテーマを冒頭に置き、そこから以下の文章を連想的に展開してゆく方法。文章作法のひとつの技術である。私はいま便宜的に漢字まじりに読点をつけて例示したが、原文は最初から最後まで句読点がない文章だ(註:この句読点無しの文体模倣は、現代文学では谷崎潤一郎や野坂昭如にある)。つまり、「春」という事象(物)に、「付けて」記述してゆくのである。『枕草子』はおよそその流儀で書かれている。『枕草子』という題名は、その記述スタイルを指しているのである。 つぎに私は、自分自身に向かって言う。 『枕草子』という題名を、正確に英訳するとしたら、どのように表現すると良いか。まさか『The Customary Epithet Book』ではないだろう。たとえそれが、上述した「枕」の意味を伝えているとしても。 私は同様な他の例を考えてみた。たとえば、「枕絵」、「春画」。いずれも浮世絵のポルノグラフィーである。これらの版画や肉筆絵は、海外の大美術館がかなり熱心に蒐集しているけれども、総括的にどのような分類名称で英訳されているのだろう。「枕絵」は、pillow picture で、まあいいだろう。しかし「春画」を spring picture としたならば、春の景色でも描いた作品と、すくなくとも文字のうえからは誤解されかねない。 私は、文化(ひろい意味で)とは、おもしろいものだと思う。この、「春」のイメージだが、春画に類する言葉で「春情」がある。春の気配に対する感覚でも良いのだが、何と言うか、もっとムラムラっとしたセクシャルな感情が萌すことだ。「青春」という言葉もおもしろいが、その青春に肉体的な恋愛感情が萌すと「春情」となる。しかしこの「春情」、若いときに限らない。私のような老人も一向に沈静化しない情感である。ハハハ、持続するのだな。それが「春情」。これも正確に英訳するのは難しいかもしれない。 逆に英語が日本文化のなかで奇妙な感覚と意味を付与されてしまった言葉もある。セクシャルな言葉ついで。そして私は色を扱う画家なので、「pink」を例にしよう。 「ピンクサロン」「ピンクショー」「ピンク散らし」に加えて一時代を風靡した「ピンクレディ」や「ピンキーとキラーズ」。「お」を付けて「おピンク」と来れば、一層オヤジ的な卑猥感が増す。「桃色遊戯」などという言葉も昭和の半ばころまであった。そう言えば,高橋真梨子氏に『桃色吐息』という素敵な歌がある。 ところが、この pink, 英語だと「社会主義」ということだ。また、「ピンキー」と言えば、白人と黒人とのmullattoを指した。たぶんに軽蔑的な言葉で、現在では使われなくなっている。 したがって「ピンクサロン」は、社会主義者のサロン。「ピンクレディ」は、社会主義の女性ということになる。ユッフォーである。また、「ピンキーとキラーズ」は、mullattoと殺し屋。なんともはや。 日本人には、「春」「桜」「桜色(ピンク)」と連なる特別な感覚があるようだ。総体的に見れば日本人に限った感覚ではないとも思えるが、その感覚の奧に若く淡いセクシャルな感覚があるという私の観察からは、やはり日本人特有かもしれない。「桜のように散る」という表現は「潔さ」の謂いと理解されているが、じつは若い男性のマゾヒスティックなセクシャルな心理が無意識裡にある。私はあえて「若い男性」と断った。「桜のように散る」という表現が、老人や女性の死に使われることはないからだ。この表現が、たんに「いのちの儚さ」を表わしているのではないことは明白であろう。 私は19歳だった或る日のことを、ふと思い出す。伯父の寺に二三日滞在したとき、私に僧侶となってほしかった祖母を慰めるため、私は僧侶の準礼装をして本堂で写真撮影した。その衣を決める時・・・衣の色によって位階があるのだが・・・着付けてくれた伯母が、「若い維史さんには、この色がよろしいでしょう」と言ったのは、ピンクの僧衣だった。・・・伯母の意識には、「若さ」と「薄紅梅(ピンク)」が重なるイメージだったにちがいない。 このような衣服の色のイメージは、平安貴族の衣服の重色目(かさねいろめ)にも現われている。春の装束で、若い男に限るとされていた色名をあげてみよう。「」が色名で、その後の記述が重ね色目である。 「紅梅(こうばい)」は,経(たていと)が紅、緯(よこいと)が白の布。 「莟紅梅(つぼみこうばい)」は表が紅梅、裏が蘇芳(すおう:黒みをおびた紅)。 「桜重(さくらがさね)」は表白、裏赤花または濃紫。この重色目は男30歳まで。 「桜萌黄(さくらもえぎ)」は表萌黄、裏花色。 「樺桜(かばざくら)」は表蘇芳、裏赤花。または表薄蘇芳,裏濃蘇芳。または表紫、裏青。 ・・・これが、若い男性に限るとされた平安貴族の春の衣服の色である。なるほど、若いからこそ似合うだろうような巧みな色の組合せだ。「樺桜」なぞ、地味な色のとりあわせだからこそ、一層若さが際立つだろう。老人では闇に溶け込むようなものだ。ジジムサイと言われるのがオチだろう。 あとまわしになってしまったが、かつて50年以上昔、『血と薔薇』というハイブラウな季刊誌があった。私も所蔵しているが、いまは探し出すのがめんどうだ。その一冊に、横尾忠則氏が「切根之図」(たしかそんな画題だった)を掲載していられた。特攻兵が桜舞い散る下で、片膝をつき、右手の抜き身の軍刀で自らの男根を切り落している。・・・この絵に対して三島由紀夫氏が「(横尾忠則氏は)良く分っている」と評した。 それを思い出した。「桜のように散る」とは、日本文化のどのような無意識を表現しているか、見事に言い当てている例である。 きょうのこの日記も、またしても「物は付け」になってしまった。 高校生には、試験の解答のための勉強からは洩れてしまうことがたくさんあるのだ、と思ってほしいなー。 I don't think high school students are reading this blog diary, but I think I'll write it for high school stu-dents today. The other ay, I wrote about Senryu and the mpovie "Tokyo Story" directed by Yasujiro Ozu. Since thestory was a little sideways, I excused it as the style of"Makura-no-soshi" of "Mono wa zuke (Things areattached". After that, I wrote the whole sentence inEnglish, but I thought about how to translate "Makura-no-soshi" into English, so I decided to use "Pillowbook" for time being. I speculated that a decentEnglish translation of "Makura-no-soshi" would prob-ably have been published abroad, but I didn't pursueit that much. Well, after writing the Pillow book, I actually thoughtthis was bad. That's because I immediately associatedEnglish expressions such as pillow talk. In other words,a whisper of love after bed-in. In Japanese, it is the"Mutsugoto" of bedroom. Next, do high school students studying ancient writing know why this typical classical essay "Makura-no-soshi (word-for word translation is Pillow book)"is given this title? I thought. "Makura (pillow)" in "Makura-no- soshi" is not bed-ding. It's not a pillow. It is a "Makurakotoba". "Makura-kotoba" is an idiomatic adjective phrase for drawingout the main part (subject), so to speak, an introduc-tory word (phrae). If you say "makurakotoba" in English,"a customary epithet ; customize epithet", that is, anidiomatic adjective phrase. Idiomatic is a pan-sociallyrecognized description that immediately remainds usof an event in a cultural area (a sight or thing at ahistoric site). "Makura^no-soshi" can be classfied into about threetypes according to what is written. The essays on theMakurakotoba used in Waka (a 31-syllable Japanespoem). that is "Utamakura". The sensuous essays bythe author (Sei Shonagon) regarding "things". And diaries (recollections). For example, the famous phrase "Spring is dawn. The mountainside that gradually turns white ..." in"Makura-no-soshi" is that the first word is put "Spring" whih is theme of the essay. From the word,the following sentences are developed associatively.It is one of the writing techniques of the author SeiShonagon. And this style is "Things are attached". I have just addeda comma to the example forconvenience, but the original text is a sentence with-out punctuation marks from the beginning to the end (Note: This stylistic imitation without punctuationmarks is found in Junichiro Tanizaki and Akiyuki Nosaka in contemporary literature.). In other words,it is described as "attached" to the event (thing), in thiscase is "spring". "Makura-no-soshi" is written in thatstyle. The title "Makura-no-soshi" refers to that writingstyle. Next, I say to myself. If the title "Makura-no-soshi" could be translated intoEnglish accurately, how should be expressed? It's prob-ably not "Customary Epirhet Book". Even if it conveysthe meaning of "makura" mentioned above. I considered another similar example. For example,"Makura-e" and "Shun-ga". Both are ukiyo- pornogra-phy. These prints and hand-painted paintings are col-lected quite enthusiastically by large museums over-seas, but what kind of classification name is used forEnglish translation as a whole? "Makura-e" is apillowpicture, which is good. However, if "Sung-ga is used as a spring picture, it may be misunderstood as a workdrawn in the scenery of spring, at least, there seemsproblem characters are concerned. I think culture (in a broad sense) is interesting. Thisimage of "spring" has "shunjo (spring feeling)" in a word similar to Shun-ga. It's okay to have a sense of spring, but it's more of a horny and sexual feeling. The word "seishun (blue-spling : youth)" is also in-teresting, but when the physical feelings of love sprout in that seishun, it becomes "shunjo (spring feeling)". However, this "spring feeling" is not limited to when you are young. It is a feeling that even an old man like me does not calm down at all. Hahaha, it's going to last. That is "Shunjo". This may also be difficult to translate into English accurately. On the contrary, there are some words in whichEnglish has been given a strange feeling and mean-ing in Japanese culture. In addition to sexual words.And since I'm a painter handing color, let's take "pink"as an example. In addition to "Pink Salon" "Pink Show" and "Pinkhandbill", "Pink Lady" and "Pinky and Killers" were predominant in the times. If you add a Japanese pre-fx i"O" and come with "Pink", "Opink", you will feel even more obscene. Words such as words "pink game" is also around the middle of the Showa period. By the way, Mariko Takahashi has a wonderful song called "Pink Breath". However, this pink, English means "socialism".Also, speaking of "pinky", it meants mullatto berweenwhites and blacks. Probably a derogatory term, it isno longer used. Therefore, "Pink Salon" is a socialist salon. "PinkLady" is a socialist woman. Oh, it's UfO! lala. Also,"Pinky and Killers" is a mullatto and muderes. Whatno longer. The Japanese seem to have a special feeling of"spring," "cherry blossoms," and " cherry blossomscolor (pink)." Overall, it seems that the feeling is notlimited to Japanese people, but from my observationthat there is a young and pale sexual feeling in theback of that feeling, it may still be peculiar toJapanese people. The expression "scatter (die) likecherry blossomes" is understood to be the so-called"purity", but in fact the masochistic sexual psychologyof young men is unconscious. Idared to say "young men". This is because the expression "scatter likecherry blossoms" is not used for the death of oldpeople or women. It is clear that this expression doesnot simply represent "the ephemeral nature of life." I suddenly remember one day when I was 19 yearsold. When I stayed at my uncle's temple for a coupleof days. I dressed up as a monk and took a picture at the main hall to comfort my grandmother whowanted me to be a monk. When deciding on theclerical robe ... there are ranks depending on the color of the robe ... The aunt who put it on said,"Young Tadami-san should have this color." It wasthe robe of pink. ... The aunt's consciousness must have been an image of "youth" and "light red plum(pink)" overlapping. The image of the color of such clothes also appearsin the combination color of the clothes of the Heianaristcracy. Let me give you a color name that wassupposed to be limited to young men in spring costumes. Double quotation marks " " are the color name, and the description after that is the combi-nation color. "紅梅 (Kobai : Red plum)" is a cloth with red sutras and white wefts. "莟紅梅 (Tsubomi-kobai : Red plum's bud)" is red plum on the front side, and back side is blackish red. "桜重 (Sakuragasane : pile of cherry blossoms)" is white on the front, and red flowers' color on the back, or deep purple. ... This olor combination is up to 30years old for men. "桜萌黄 (Sakura-moegi : cherry blossoms with light green)" is the front and back flower colors. "樺桜 (kabazakura: birch with cherry blossoms)" is blackish red on the front, and red flowes coloron the back. Or the front is light blackish red, and the back is deep blackish red. Or front is purple, back is blue. This is the color of the Heian aristocracy's springclothing, which is limited to young men. Indeed,it's a clever color comination that would suit manbecause he is young. The mystery of "birch with vherry blossoms", a combination of sober colors,will make man's youth even more prominent. It'slike blending into the darkness of an old man. Thepunch line is probably called so old thing. Although it has been turned around, there usedto be a high-brow quarterly magazine called"Blood and Roses" more than 50 years ago. I alsohave it, but it's hard to find it now. In tyhat one book, Tadanori Yokoo published"Sekkonn no Zu" (whih was certainly such thetitle). Under scattering cherry blossoms thesword of a kamikaze soldier, he kneels on oneknee and cuts off his cock with sword of hisright hand. ... Yukio Mishima mentioned thispainting as "'(Tadanori Yokoo) he understoodwell." I remembered it. "Disperse like cherry blossoms" is an example of how the unconsciouseness ofJapanese culture is expressed. Today's diary has become "attached things" again. I want high school students to think that thereare many things that are missed from studying foranswering exams.Tadami Yamada
Feb 1, 2022
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