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2022年大晦日 ゆく年や戦火交じえる国多く 青穹(山田維史) ゆく年や扨もそもさん吾が喜寿 ゆく年や三千世界旅行けば 行く年や呑みとるほどの器量好し 行くとしや雲は流れて鐘の声(追記) ゆく年や老いて憂き世も楽しけり【Haiku】 New Year's Eve 2022 Yukutoshi ya senka mmajieru kuni owuku The passing year. But many countries are in the midst of war Yukutoshi ya satemo somosan ware ga kijyu The passing year. Well, how was it? The first year of my fake death resurrection Yukutoshi ya sanzensekai tabi yukeba The passing year. If you travel to the next year or three thousand cosmically worlds Yukutoshi ya nomitoruhodo no kiryoyoshi The passing year. Good age and good figure enough to drink Yukutoshi ya kumo wa nagarete kane no koe The passing year, the clouds flow and the bell of New Year's coming ring(addition) Yukutoshi ya oite ukiyo mo tanosikeri The passing year. The sad world is also interesting when I get old nowTadami Yamada
Dec 31, 2022
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ああ、21時を回ったか、たった今、おせち料理を六品作り終えた。残りは明日だ。全部で十品の予定。亡母は決まった十五品を長年の恒例としていたから、母には敵わない。私が作っているのは、亡母から受け継いだ料理。教えてもらったことはないが、目と舌が覚えていて、まったく変わっていない。品数が少なくなっている以外は、新たに私自身が付け加えた料理は無い。つまり、時代は変われど、我が家のお節料理の内容はちっとも変わっていないのだ。十年前くらいから、食材は次弟が全て前もって買い揃えて置いてくれている。しかしこの三年ほど弟一家はこないので、年寄りには十品でも多すぎるくらいだ。 ちょっと疲れた。DVDで古い映画を観ようと思っていたが・・・
Dec 30, 2022
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2022年晦(つごもり) 古ごよみ残り三日の務めかな 青穹(山田維史) 注連垂(しめしで)や正月控えさや鳴りぬ 障子差す寒月見よと開けはなす 門松や松針先に宿る月【Haiku】 December 2022 Furugoyomi nokori mikka no tsutome kana Becoming this years's calendar old, I wonder if there three days remaining its duties Shime-shide ya syogatsu hikae saya-narinu A few days before New Year's Day, The streamers to offer up makes a wispering In a moderate breeze Syoji sasu kangetsu miyo to akehanasu A light shines through the shoji screens. Let's open to see the cold moon Kadomatsu ya matsu harisaki ni yadoru tsuki The cold moon that dwells on the tip of needle of the pine of New Year's gateTadami Yamada
Dec 29, 2022
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正月飾りを済ませた。我が家の長い長い伝統では、実は28日が飾り付けの最終日。それ以前に済ませて置かなければならないのだが、私はなかなかそれができない。とうとう今日、28日になってしまった。門松を飾り付け、仏壇に花を活け・・・なんだかんだ忙しく立ち働いた。 昔、亡父は家長の役目で銀器を磨いたり、鶏を捌いたりしていた。そうそう、日章旗も門口に立てていた。子供の私はそれを横目で見ながら、洋燈(ランプ)の火屋(ほや)を磨いた。今の若い人には信じられないかもしれない。電気がなかったわけではない。もしかしたら昭和30年当時の一般サラリーマン家庭としては、家電製品はいろいろ揃っていたのかもしれない。洗濯機、掃除機、電気釜、トースター、パーコレイター、電蓄、アイロン、テレヴィ、ラジオ。・・・自宅にテープレコーダーこそなかったが、私が近所の子供達に見せる自作の影絵劇のために、父の会社からアカイのオープンリールの大型のテープレコーダーを借り出してもらっていたので、私はその操作のちょっとした熟練者だった。・・・ランプ磨きは面白かったのだ。ガラスがピカピカに輝くのは美しかった。・・・父の会社の高橋ご夫婦が餅搗きに来てくださるのは、何日のことだったろう? まあ、そんなことを思い出しながらの飾り付けだった。 三弟一家には今年もパーティを行わないと、次男が連絡したと言っていた。私を休ませようと思っているのかもしれない。新型コロナウィルス禍になって以後、ずっと中止している。しかし正月料理は作るので、明日から私は怒涛のようなスケジュールだ。「怒涛」のような、というのは嫌いじゃない。ザンブリ荒波をかぶりながら進んで行くイメージが好きだ。
Dec 28, 2022
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現在、世界各国のトップ権力者あるいはその地位の経験者には、その言動や政策を観察している精神医学者や心理学者によって、パラノイア(誇大妄想や被害妄想、過度な虚言がある偏執症)やサイコパス(粗暴性・凶暴性がある精神病)を指摘されている人物がいる。 その人数が多いのか少ないのかを指摘することは、実際のところ難しい。しかしながら苦悩の人生をどれだけの国民が強いられているか、また無意識的に顔に仮面を貼り付けた心理的な「ねじれ」が「国民性」となっていることが、第三者的多数によって指摘可能ならば、そこには権力者個人の病的な異常性がある、と私は考える。 「権力」の興味深い点は、それを頂点として底辺に広がる社会に、権力者の異常性と同じような異常者や異常な現象があちらこちらに出現し始めることだ。そうなると、・・・病膏肓(やまいこうこう)という言葉があるが・・・社会が二進も三進も行かないほどに悪のガスが膨満し、そのガスがエネルギーとなって国を誤った方向へ動かしてゆく。ヒトラーのナチス政権によって、当時のドイツ国民がサディスティックに堕落していった例は、そのことを我々に教えている。 さて、我が日本の権力者はどうであろう。 パラノイアやサイコパスを指摘される人物はいないのであろうか。 上述の私の意見は、国政に関わることだけについて言っているのではない。 もちろん閣僚の度重なる汚職。暴言。国庫に臭い手を突っ込む奴ら。国民を食い物にする議員達。・・・日本の政治は、はるか明治維新前から暴力と暴力専門家であるヤクザと固く結びついて来た(注)。現に、議論にならぬ言葉の暴力は止むことはなく続いており、また、ヤクザ口調でまくし立て国会の品位を汚している閣僚がいる。 ・・・そのような人格卑しい議員を選出している日本の社会で、頻繁すぎるほど頻繁に学校教師による児童・生徒・学生に対する暴言や暴力行為が起こってい、幼稚園児に対する保育士の暴力が起こっている。障害者施設における介護士の暴力・性的虐待。児童相談所や教育委員会の職務怠慢・欺瞞・虐待加担・隠蔽工作。世間の目から隔絶された刑務所や拘置所における、収監者に対する刑務官や警察官によるサディスティックな虐待。外国人に対する虐待。・・・これらは全て組織的階級性があり、強者/弱者という社会が容認している立場の違いがある。「パワハラ(パワー・ハラスメント)」などとジャナリスムは表現しているが、実のところ心理的には強者のサディズムの発露である。ナチス政権下で起こっていたことと同根だと考える。 強者による虐待や暴行が常態化するうちに、強者に一種の暴行の楽しみが萌してくるのだ。その例は、刑務官が収監者を裸にしてその肛門に対して肛門が負傷するほど強烈な放水した事件などは、刑務官の性的な快楽が潜む虐待でしかあるまい。あるいはまた、最近起こった義父による幼女虐待から死に至らしめた事件で、義父が連日の虐待を始めるにあたり、「楽しみの始まりだ」と幼女に言っていたと供述している。・・・少子化傾向を国家弱体化の元凶であるとして、女性は結婚して子供を産むことが務めだと公言して止まない男女議員がいる。しかし、日本はまさに現在、子供受難の国である。それは国政の至らなさなのではあるまいか。 ・・・そしてさらに、私は官僚たちの政権扈従の事実隠蔽や詐称による組織維持にも似たような臭いを嗅ぎつける。 私は、裁判官にも時の政権に対するへつらいを感じることがある。司法の独立性を裁判官が放棄しているのだ。これは裁判官の任命は天皇がすることになっているが、それは内閣の指名に基づいており、任命権は内閣にあるからである。司法の独立はひとえに任命された裁判官の人格にかかっている。制度的に見れば、日本の三権分立の内実はグチャグチャなのだ。 サディズムは誘拐や監禁や拉致等の犯罪事件の中にも出現している。つまり、人を人と思わないという反社会的な精神構造が育まれていると言ってよいだろう。自他の意識が明確で、自意識が独立した社会意識になっているのではなく、自他の区別がない幼児性を引きずってい、自己中心的なのである。 自己中心的な精神の幼児性が、日本の社会にどのように広がっているかについて、ごく卑近な例で示してみよう。近年頻繁に耳目にする「〇〇過ぎる」という言葉に現れている、と私は観察している。曰く、「可愛い過ぎる」「美味過ぎる」「上手過ぎる」「美し過ぎる」「ヤバ過ぎる」等々。 (注:ヤバイという俗語は危険というほどの意味であろうが、素晴らしいというほどの極めて多様性がある用法に変質している) このように言っている本人は、じつは褒め言葉であることが多いのだが、その無意識に横たわっているのは物事の判断が自己を中心にしている、ということである。素直にストレートに、「可愛い」「うまい」「上手だ」「美しい」と言えば済むはずだが、微妙に自意識が絡んでくる。前もって批判を軽くかわしているのだ。「可愛い」「うまい」「上手だ」「美しい」と言ったなら、「ヘー? どこがよ。あんた、そんなふうに思うの?」という批判が出るかもしれない。そこで傷つかない程度の自己基準を設けておいて、「過ぎる」と言って自己基準を曖昧にしているのである。彼らが「可愛過ぎる」と言うとき、その意識は他人に対して「大変可愛い」と言うのとは異なっている。この奇怪な日本語用法はナルシスティックな幼児性である。 議論が少々遠回りしたが、日本社会に蔓延しているナルシスティックな幼児性が、私は権力者や国会議員や地方議会議員の精神構造を形成していると観察しているのである。彼らは誰もが尊大に構え、大人の中の大人のように見られがちだ。しかしながら、彼らの責務によって陶冶されるはずの人格に、反社会的に流れてゆく緩みがあることは指摘されなければならない。人格とは社会的なものである。意識に社会が存在しないナルシスティックな幼児性にとっては、人格もへったくれもない。己しかないのだから、当然である。 世界の或る権力者のようなパラノイアやサイコパスを指摘されないまでも、今や日本の社会が二進も三進も行かないほどに悪のガスが膨満し、国を動かし始めているのではないか? 私の懸念である。(注) 次の注目すべき研究がある。私は上記で「暴力専門家であるヤクザ」という表現をしたが、エイコ・マルワ・シナワ氏の表現の借用である。 エイコ・マルコ・シナワ著、藤田美菜子訳 『悪党・ヤクザ・ナショナリスト 近代日本の暴力政治』 朝日新聞出版 朝日選書997、2020年 At present, psychiatrists and psychologists whoobserve the behavior and political policies of toppowers around the world and those who have heldsuch positions have paranoia (delusions of grandeur,persecution, and excessive lying) and psychopaths(psychotic disorders with brutality and ferocity) havebeen pointed out. It is actually difficult to point out whether thenumber is large or small. However, the people whoare forced to live a life of anguish, and the psycho-logical "twist" that unconsciously puts a mask ontheir face has become a "national character." If a third-party majority of people from outside can pointit out, I think there is a pathological abnormality of theindividual in power. The interesting thing about "power" is that in the society that spreads from the top to bottom, abnor-mal people and abnormal phenomena similar to theabnormalities of those in power begin to appearhere and there. In that case, there is a word called"Yamai Koukou", but the evil gas swelled so that thesociety and misled the country move in the direction.The sadistic corruption of the German people at thatWW II time by Hitler's Nazi regime teaches us this. Well, what about our Japanese powers? Isn't there anyone who points out paranoia andpsychopathy? My opinion above is not only about matters relatedto national politics. Of course, the repeated corruption of cabinet minis-ters. rant. Those who stick their stinking hands intothe treasury. Lawmakers who prey on the people, ... Japanese politics has been tightly linked with violenceand the yakuza, who are experts on violence, long before the Meiji Restoration (*). In fact, the violence of uncontroversial words continues without stopping, and there are cabinet ministers who are tarnishing thedignity of the Diet with yakuza tone. ... In a Japanese society that elects such low-rankinglegislators, school teachers verbally and violently act against children, students, and students too frequently, and kindergarten teachers violence against kindergar-ten children occurs. ing. Violence and sexual abuse by caregivers in facilities for the disabled. Neglect of duty,deception, complicity in abuse, and cover-up work by child guidance centers and boards of education. Sadistic abuse of inmates by prison guards and policein secluded prisons and detention centers. Abuse offoreigners. ...These are all organized hierarchies, and there are differences in the positions of the strongand the weak that society accepts. Journalism de-scribes it as “power harassment,” but psychologically itis actually the manifestation of the sadism of the strong. I think it's the same root as what happened under the Nazi regime. As abuses and assaulys by the strong become normalized, a kind of enjoyment of violence begins toemerge in the strong. An example, the incident such asprison officers stripping prisoner of his clothes andspraying them with water so strong that they injure prisonaer's anus is nothing more than abuse that lurkin the sexual pleasures of prison officers. Or in another example, this is a recent case of childabuse by her stepfather, which led to her death. Whenher stepfather began to abuse her every day, he toldthe little girl, "Well, this is the beginning of the fun." Hestated to the police. ... There are some legislators, both male and female,who openly declare that it is the duty of women to getmarried and have children, citing the declining birthrateas the root cause of the nation's weakening. However,Japan is a country of child suffering right now. Isn'tthat the inadequacy of national politics?... And I also smell something similar to bureaucrats' concealment of subordination to the regime and maintenance of the organization through false pretenses. I sometimes feel that the judges are flattered by theadministration of the time. Judges are renouncing theindependence of the judiciary. This is because the appointment of judges is supposed to be made by theemperor, but it is based on the nomination of the cabinet, and the right to appoint judges rests with thecabinet. The independence of the judiciary depends solely on the character of the appointed judges. Froman institutional point of view, the separation of Japan'sthree powers (judicial, legislative, and administrative) isa mess. Sadism also appears in criminal cases such as kid-napping, confinement, and abduction. In other words,It ican be daid that an anti-social mental structure is being nurtured that does not regard people as people. It is not that self-consciousness is clear and self-consciousness has become an independent socialconsciousness, but it is self-centered that it is draggingthe childishness that there is no distinction betweenself and others. Let's take a very familiar example of how the childishness of a self-centered spirit spreads in Japanese society. I observe that it appears in the word "too much" that I hear frequently in recent years. He said, "Too cute", "Too much delicious", "Too much good", "Too much beautiful", "Too much dangerous (althoughthey mean "Too much great")", etc. In fact, the person who says this is often a compli-ment, but what lies unconsciously is that the judgmentof things is centered on the self. It should be enough tosimply say "cute", "good", "skillful", and "beautiful", butthere is a subtle sense of self-consciousness involved. They dodge criticism lightly in advance. If you say"cute", "good", "skilled", and "beautiful", you might getcriticism like "Hey? Where are you? Do you think that way?" Therefore, we set a self-standard to the extent that it does not hurt, and then say "too much" to makethe self-standard ambiguous. When they say "too muchcute", their awareness is different from saying "verycute" to others. This bizarre Japanese usage is narcis-sistic childishness. Although the discussion has been somewhat detoured, I observe that the narcissistic childishness hat is prevalent in Japanese society forms the mentalstructure of those in power, Diet members, and local assembly members. They are all arrogant and tend tobe seen as adults among adults. However, it must bepointed out that there is an anti-social flow of loose-ness in the personality that should be cultivated by their duties. Personality is social. For the narcissistic childishness in which there is no society in conscious-ness, there is no personality or sloppiness. It is naturalbecause there is only oneself. Even if the paranoia and psychopathy of somepowerful people in the world are not pointed out, isn't Japanese society now filled with evil gas to thepoint where it can't move forward or backward, andis starting to move the country? This is my concern.*(note) There is the following notable research. I used theexpression "yakuza who are experts in violence" above, but I borrowed the expression from Ms. EikoMaruko Sinawer.Written by Eiko Maruwa Siniawer, Translated by Minako Fujita"Akutoh・Yakuza・Nationalists: Violent Politics in Modern Japan" Asahi Sensho 997, Asahi Shimbun Publishing, 2020Original book;"Ruffans, Yakuza, Nationalists: The Violent Politics ofModern Japan, 1860-1960"Ithaca, Cornell University Press, 2008Tadami Yamada
Dec 26, 2022
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2022年12月24日 聖夜菓子値上げは卵不足とか 青穹(山田維史) これ如何に聖夜に軍機飛ばぬとな 新型コロナウィルス禍つづき 二年越しマスクは冬のものならず 手袋や去年(こぞ)より手首細くなり 蕪村忌の中天暗き曇りかな【Haiku】 December 24th, 2022 Seiya -kashi neage wa tamgo fusoku toka The price of the Christmas cake was raised due to the shortage of eggs Kore ikani seiya ni gunki tobanu tona No way, is it true? fly military aircraft what they didn't do on this holy night eve New coronavirus disaster continues Ninen goshi masuku wa fuyu no mono narazu During two years, the mask was not for winter wears, and goes on now Tebukuro ya kozo yori tekubi hosoku nari Winter gloves, Become my wrists thinner aged than last year Buson-ki no chuten kuraki kumori kana The today's night sky during the anniversary of Buson's death dark and cloudy above my house Tadami Yamada
Dec 24, 2022
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午前中に、予約してあった新型コロナウィルス・オミクロン株対応ワクチンを接種した。新型コロナウィルス対応ワクチンの5回目の接種である。近所の医院は今年中の予約は完了していたので(1ヶ月前のことだ)、少し遠いが高幡不動まで自転車で行ってきた。 走りながら、街の様子は変わりなく見えた。一昨年、COVID-19のパンデミックが起こってからほぼ1年半ほどは、街は閑散として、車の往来も少なく思えた。その後、最近になって政府や東京都の政策が変わり、街に人の往来が戻ってきたようだ。 政策の変更と同時に、自治体における感染者数・感染による死亡者数が報道されなくなった。国の対策委員会トップが、対策が多忙を極めているので全国感染者総数の把握を中止する提言をした。 私は、全く非科学的な愚かな考えだと批判した。 大変なことは重々承知しているし、目にも見えている。しかし統計をとるということは、いまこの時の対策のためばかりではなく、はるか将来を見越してのことだ。将来の科学的判断のための重要な基礎資料となる。それをきちんと制作して、残してゆくことは、いつの時代であろうと今を生きている人間の責務である。このたびのような事態ならば、医学的な判断材料としてのみならず、パンデミックやクラスターが社会全体をどんな状態にするのか、人々はどんな動きをするのか、どんな対応策がシステム化されるべきなのか・・・そのような社会学的な研究の重要資料となるはずなのだ。政策および現場対応責任者には非科学的な思考者は任につけるべきではないのだ。人間は誰しもが不安に煽られて右往左往する。しかし、不安を動機とするその場しのぎの政策は、必ずや将来に禍根を残す。・・・私の批判の矛先はそこまでおよぶ。 In the morning, I inoculated the vaccine for the newcoronavirus Omicron strain that had been reserved.This is the 5th inoculation of the new coronavirusvaccine for me. A nearby clinic was fully booked for this year (it was a month ago), so I went to Takahata-fudo, which is a little far away, by bicycle. As I ran by bicycle, the city seemed unchanged. Twoyears ago, for about a year and a half after COVID-19pandemic broke out, the city seemed to be quiet withlittle traffic. After that, recentry, the govermment andTokyo metropolitan govermment changeed theirpolicies, and it seemed that people have returned tothe city. At the same time as the policy change, thenumber of infected people and the number of deathsdue to infection in local govermment's countermeas-ures committee proposed to stop tracking the totalnumber of infected people nationwide because thecountermeasures were extremely busy. I criticized it was as a totally unscientiffic and stupididea. I am fully aware of the difficulties, and I can see it.However, collecting statistics is not only for counter-measures at this time, but also for anticipating thefuture. It will be an important basic material for futurescientific judgement. It is the duty of people who livein the present to create and leave them properly, nomatter what era they are in. In the event of a situationlike this, it should not only be used as a basis formedical judgement, but also what kind of situationpandemics and clusters will affect society as a whole,what kind of movements people will take, and whatkind of countermeasures should be systematized.Or... it should be an important material for suchsociological research. No unscientific thinker shouldbe in charge of policy and field response. All humanbeing are driven back and forth by anxiety. However,stopgap policies motivated by anxiety will inevitablyleave troubles in the future. ... that's where my criticism goes.Tadami Yamada
Dec 23, 2022
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戦争や内紛で敵国の文化財のみならず自国の文化遺産を破壊することは全く稀ではない。それらの行為の影響は一時代に限定されるはずはなく、また一民族の文化史に限定されることでもない。広い視野に立てば、人類史に亀裂を入れ断裂し、人類が営々と築いてきた智慧の足跡を無化することであろう。私は、文化破壊行為は人類に対する「犯罪」であると断言してはばからない。なぜなら繰り返される破壊行為にもかかわらず、我々は歴史学を修め、考古学を修め、人類史を研究し、古生物学を修め、地球考古学のみならず宇宙考古学を研究しながら、人間とは何であるかを探り続けているのであるし、また、探り続けなければならいからである。 ところで先ほど午後2時少し前に、CNNがじつに興味深い事実を報じた。 ウクライナの国境警備隊が、ドニプロ河の土手で防御施設を建設を進めていた。そして深さ約1メートルの土中から古代の壺などの陶器の破片を発見した。ウクライナ軍は即座に考古学者に連絡した。それは貴重な歴史的遺物であった。軍は施設の建設を中止した。国境警備隊によると、「勝利」を達成した後、考古学者のチームが現地で作業に着手する予定だという、とCNNは記事を結んでいる。 私が「興味深い」と言ったのは、軍が即座に考古学者に連絡するとともに、防御施設の建設を中止した点である。戦争のさなか、しかも悪辣な侵略者によって毎日のようにミサイル爆撃をされている中で、人類史・文化史の欠落部分を埋めるであろう遺物が、まさに思いがけず出現した。そして、その時点で、遺物の保存保護を第一にして、死線をかけた軍施設の建設を中止したのである。私はこのような実例をかつて聞いたこともなければ耳にしたこともない。軍の指揮官の国史・民族史の先を見通す知性に、「ああ、この国(ウクライナ)にはこのような軍人がいるのだ!」と、驚嘆したのである。 Archeological Finds Of The Ukrainian Army It is not uncommon for wars and civil strife todestroy not only the cultural properties of enemycountries but also the cultural properties of one'sown country. The influence of these acts cannot belimited to one era, not is it limited to the culturalhistory of one nation. From a broader point of view,it would destroy wisdom that mankind has pains-takingly built up. I do not hesitate to say that culturalvandalism is a "crime" against humanity. Because, inspite of repeated acts of destruction, we continue tostudy histry, archeology, human history, paleontology,geoarcheology, as well as space archeology. It isbecause we continue to search for what mankind is, and we must continue to search it. By the way, just before 2:00 pm, 21 Dec. 2022, CNNreported a very interesting fact. The Ukrainian Border Guard was constructing efensive facilities on the banks of the Donipro River. they found fragments of ancient pottery and other pottery in the ground about one meter deep. The Ukrainian military immediately contacted archeologists.It was veluable histrical rekic. The military stopped con-struction of the facility. After achiving a "victory," theBorder Guard said a team of aecheologists will beginwork on the site, CNN concludes. What I said was "interesting" is that the militaryimmediately contacted archeologiste and stoppedconstruction of defensive faciliries. In the midst of war,and in the midst of daily missile bombardments by vicious invaders, a relic appeared quite unexpectedlythat would fill a missing piece in human and culuturalhistory. At that point, the preservation and protectionof relics was given top priority, and the construction ofmilitary facilities, which was on the verge of death, wasstopped. I have never heard of such an instance. I wasamazed at the military commander's intellect, whichforesaw the future of national and ethnographic history,and said, "Oh, there are such soldiers in this country(Ukraine)!"Tadami Yamada
Dec 21, 2022
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大雪 大雪の新聞記事で着重ねる 青穹(山田維史) 着ぶくれを鏡に映し首すくめ【Haiku】 Heavy Snowfall O-yuki no shimbun-kiji de kigasaneru Wearing many layers of clothing after reading a newspaper article about heavy snowfall Kibukure wo kagami ni utsusi kubi sukume Reflect my bloated clothes in the mirror and shrug my neckTadami Yamada
Dec 20, 2022
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牡蠣 養殖の牡蠣はフライか土鍋かと 青穹(山田維史) 生牡蠣や老いにそぞろのエロスあり 牡蠣売りや路上で食いしパリの冬【Haiku】 Oyster (for dinner) Yoshoku no kaki wa furai ka donabe ka to Should farmed oysters be fried or cooked in a clay pot? Namagaki ya oi ni sozoro no erosu ari Raw oysters There is eros that suddenly moves the body of old age Kaki mukase rojyo de kuishi pari no huyu Oysters were shelled by vendors, I ate them on the street in the winter of ParisTadami Yamada
Dec 19, 2022
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今年も残り2週間を切った。まだ活動できる日数が、それだけあるということだが、ここで今年一年の私の活動を総括してみよう。77歳をどれだけ有効に過ごせたか、ハハハ、どうだったかなァ・・・ まず本職の絵。油彩画新作11点。こいつは少ない。全く新しい技法の実験を繰り返していたせいもある。 韓国国際展出品(Gallerry Edel)。 ウクライナ支援ポスター65点。 戦争をやめろポスター31点(制作継続中)。 tumblr;Tadami Yamada's Art Work 再開。 俳句218句。その中から英語に訳したもの90句。 ブログ日記318ページ。 読書;国際的視野に立った社会学および視覚文化論関係27冊。 東京都に報告した民生委員として最終年の活動日数120日。 こんなところか。 昨日、かつて私が民生委員としてお世話した重篤の病を得た方からお礼の電話があった。命を支え、生活環境を支援するネットを作るために、心理面に関わってくる細かい事柄を、病院を訪ねて主治医にお願いを書面にして手渡すなどしていた。現在、寛解に向かっているとのことで、電話のお声に明るさが窺えた。嬉しい電話であった。
Dec 18, 2022
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一つ提案する。 自衛隊はこれまで自らの存在を「肩身がせまい」と嘆いてきた。憲法9条の改正(実は平和憲法の改悪)を画策する者たちは、その言葉を盾にとって戦後すぐの時期から策謀をめぐらしてきた。その首謀者の一人岸信介に、私は15歳の中学生の時に会いに行き、実際、面会している。 しかし、どうやら、国会議員たちはさしたる熟慮もせず、憲法もそっちのけにして、敵地先制攻撃を可能とし、長距離兵器保有の決定をした。自衛隊員のご家族にとっては喜ばしいことなのか、悲しむべきことなのか、私はわからない。しかしながら、はっきり言えることは、今後は肩身を広くして自衛隊員は死闘を繰り広げることができる。 とはいえ、自衛隊員のご家族にはやはり忸怩たる思いがあろう。 そこで、決して廃棄されたのではない現憲法をないがしろにして(法学者は誰も問い詰めないが、憲法逸脱や無視は国家に対する最大の犯罪である)、このような決定をした国会議員の今後の処遇について、私は一つの提案をする。 全ての国会議員は、義務として1年間、海外の戦闘地域に傭兵として研修に送り出す。なかなか勇ましく、悪賢い奴らだから、きっと良い働きをするだろう。なに、たとえ死んでも、議員の代わりはいくらでもいる。将来がある若者を戦場に送り、ミサイルの標的にするよりよほど「国家」のためだと思うのだが。如何? そりゃァ、男女平等、機会均等だ、女性議員だって自国のためにも同盟国のためにも勇敢に戦うだろう。何しろ普段から、とんでもはっぷんの言辞を弄する女性議員たちだ。 国会議員・・・国民の代表だもの。まずは先手を打って、死に場所に立つ覚悟で、立派に「敵」を倒してみせなきゃ、肩書きが廃る。そうでしょう、戦後生まれの岸田さん? あなたは税を打ち出の小槌と思っているようだが、国の身の丈を超える防衛費で国民を疲弊させた挙句、戦地から遺体袋に入れられて帰国したなら、たぶん「国葬」だ。 とにかく国会議員全員が一度戦闘の前線に行きなされ。戦争大好きな支持団体もあるようだからね。アハッ、私の提案だ。
Dec 17, 2022
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山田維史『愚か者の数は限りない 「核兵器を持ってるもんね わかってるよね?」』戦争をやめろポスターNo.31
Dec 16, 2022
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平山滝合橋 冬鴉たきあひ橋に落とす影 青穹(山田維史) 遠火事や滝合橋を見越す町 別れても滝合橋や枯れすすき【Haiku】 Takiaibashi of Hirayama Fuyugarasu Takiaibashi ni otosu kage A winter crow The shadow cast on the Takiai Bridge To-kaji ya Takiaibashi wo mikosu machi A distant fire The town seen from Takiai Bridge over Wakare te mo Takiaibashi ya karesusuki Even if we break up we'll meet again at its name Takiaibashi even as being withered pampas grass 〔Note〕Takiaibashi Bride ; Takiai means that the separated streams of water meet again at the waterfall. A long time ago. However, there is still a bridge over the river rhat retains its old name. 〔Note〕Karesusuki (withered pampas grass); It is said in the lyrics of "Sendo Kouta (Boatman's song". "I'm the withered pampas grass of the riverbed, and you are also withered pampas grass. Anyway, the two of us are withered pampas grass which flowers do not bloom in this world."Tadami Yamada
Dec 15, 2022
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去る12月1日の新聞各紙の死亡欄に、パリ人肉食事件の犯人・佐川一政が死去したとあった。死亡したのは11月24日だったようだが、1週間後の公表だった。享年73。・・・私はいま、佐川について書こうとしているのではない。この死亡広告をきっかけにして思い出した、私の蔵書から一冊の稀覯本を紹介しようと思ったのである。 寺石正路著『食人風俗考 全』明治31年5月25日発行。発行兼印刷者・高知市・片桐猪三郎。発売元・東京神田・東京堂。定価(正価)30銭。87頁。120mmX190mm。矢野宗幹旧蔵。 著者の寺石正路と言ってもご存知の方は多くないかもしれない。高知市に在住した在野の民俗研究者である。私がこの人物を知ったのは、南方熊楠との間に書簡往来があり、平凡社刊『南方熊楠全集 第9巻』の書簡集による。 『食人風俗考 全』は日本におけるカニバリズム研究としては嚆矢となる書物かもしれない。本書を私が入手したのは何時であったか明確ではないが、1970年代半ばだったと思う。つまり佐川一政の事件より以前。そして、「アンデスの聖餐」として知られる1972年のウルグアイ空軍機が厳寒のアンデス山脈に墜落した事故。70数日間の人肉食のサヴァイヴァルで16人が自力で生還したが、この事件の前後の入手だったと記憶する。ただし、私が同書を入手した動機は、アンデス事件とは何の関係もない。 次に目次を紹介する。 第一 総論。 第二 食人ノ種類。 第三 食欲土人ヲ食フノ場合。 第四 小児婦人ヲ食フ例。 第五 病者老人ヲ食フノ例。 第六 死人ヲ食フノ例。 第七 壮者又敵人食フノ例。 第八 飢饉等非常ノ際人ヲ食フノ場合。 第九 情感上人ヲ食フノ場合。 第十 道徳上人ヲ食フノ場合。 第十一 自己ノ或ル体力ヲ強メン為メ人ヲ食フ例。 第十二 疾病治療ノ為メ人ヲ食フ例。 第十三 厭勝ノ為メ人ヲ食フ例。 第十四 葬式上ノ義務トシテ死人ヲ食フ例。 第十五 結論。 人体犠牲考 第十六 緒論。 第十七 死者ニ食物トシテ人肉ヲ供スル場合。 第十八 神前ニ食物トシテ人肉ヲ供スル場合。 第十九 死者又神前ニ怨ヲ晴サシメン為メ人肉ヲ供スル場合。 第二十 誠心ヲ表スル為メ人体犠牲ヲ行フ場合。 第二十一 人体犠牲ト殉死ノ区別。 第二十二 結論。 寺石正路氏について詳しく紹介する資料を私は持ち合わせていない。しかし寺石氏の風貌を知る、大変珍しい写真がある。阿井景子著『龍馬と八人の女性』(2005年、戎光祥社刊)の155ページに掲載されている小さな写真の中に、その人がいる。昭和15年に坂本家の縁先で撮影された写真だが、河田小龍の二人の娘と共に端座している。阿井景子氏は取材で坂本家を訪れた時にこの写真を見せられたのであろう。文中のどこにも寺石正路氏についての記述はない。あるいは阿井氏は、寺石氏が在野の民俗研究者だという以外は、(あるいはそれさヘも)、ご存知なかったかもしれない。袴を履き居住まいをただす姿はやはり明治の男である。 同署の裏表紙に朱墨で旧蔵者・矢野宗幹の自筆署名がある。矢野宗幹(やのむねもと;1884-1970)は、昆虫学者である。実はこのお名前には、私は子供の頃から少しばかり親しんでいた。それで『食人風俗考 全』が矢野氏の蔵書であったことに驚き、また、この頁数の少ない薄い本を、古書店の膨大な本のなかに発見したことを喜んだ。現在ではおそらく入手は非常に難しいであろう。 本書が古書店に出てきたことについて、私は詮索は余計なことだとわきまえつつ、私の入手時期と考え合わせると、1970年に所蔵者矢野宗幹氏が逝去されたことと関係があるかもしれないと思っている。 ちなみに『食人風俗考 全』の正価は30銭だった。刊行年の明治31年頃のコーヒー1杯が2銭という記録がある。そこから推定して本書の価格を現在の貨幣価値に換算すると、およそ6,000円ほどだ。同書に広告されている他の本より1,500円から3.000円ほど高値である。わずか87ページの本である。かなり高価な本だったと言えよう。 さて、ついでに私が所蔵するカニバリズム関係の本を紹介してもいいが、画像を掲載することもないだろう。文庫化されているものもあるので、現在でも容易に入手できるだろう。 日本文学の中で最も知られているのは、上田秋成『雨月物語』の中の「青頭巾」。 現代文学では大岡昇平『野火』、武田泰淳『ひかりごけ』。唐十郎『佐川君からの手紙』。そして佐川一政『霧の中』その他。 たしか70年代のゲイ小説に「青頭巾」を翻案したものがあったと思うが、思い出せない。たぶんアマチュアの著作だ。 『神道集』(東洋文庫94,平凡社)に、第二代(日本書記による)綏靖天皇(すいぜいてんのう;在位582年~549年)は、朝夕に7人の人間を食したとある。たぶんに伝説的ではあるが、日本における最も早いカニバリズム記。尚、『神道集』は、南北朝中期に安居院澄憲(あぐいんちょうけん)の子孫が編纂したとされる。 論文では中野美代子『カニバリズム論』は、寺石『食人風俗考』以後のおそらく唯一の研究論文であろう。 ドキュメンタリーでは、『アンデスの聖餐』(早川書房刊)がある。この飛行機墜落事故と人肉食サヴァイヴァルに関しては多くの本がある。 ついでに中国の古典から。 干宝著、竹田晃訳『捜神記』(平凡社刊 東洋文庫10)、巻六の155「妻が夫を食えば」。 そして昭和14年 (1939)に大阪・懐徳堂で鈴木虎雄が行った連続講義『禹域戦乱詩解』(刊本は戦火で焼失)を昭和19年に再刊したものを底本に、『中国戦乱詩』として講談社学術文庫に収録。これはまことに恐るべき人肉食のオンパレードである。【追加】 コリン・ウィルソン、パトリシア・ピットマン共著・ 大庭忠男訳『殺人百科』 彌生書房刊 昭和38年6月15日初版 この本は "ENCYCLOPAEDIA OF MURDER" の抄訳。 原書は15世紀以降1961年までの有名殺人事件を収録。 抄訳本にはカニバリズム事件が3件収録されている。 【再追加】 コリン・ウィルソン、ドナルド・シーマン共著 関口篤訳『現代殺人百科』 青土社刊 1988年11月10日 第1刷 1989年2月15日 第7刷(山田所蔵本) "Encyclopaedia of Modern Murder 1962-1983" の全訳本書は上記『殺人百科』以後の有名殺人事件を収録。カニバリズム事件は西独のヨアヒム・クロム事件1件。尚、日本人はテルアビブ空港乱射事件の岡本公三を記載。
Dec 13, 2022
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映画『ルイス・ウェイン』を観て、彼の絵に関することで気に留めたことがある。ちょっとメモしておく。 映画の中で次のシーンがあった。 後に結婚することになる妹たちの家庭教師エミリーが、授業のための準備をしている。その姿をルイスが窓越しに見る。そして初めて彼女になんとなく魅かれる。ルイスは彼女に、「あなたは絵を描くのですか?」と言う。「いいえ。子供たちに絵の授業をするので、その準備をしていたのです」と、エミリーは応える。するとルイスは、「絵を描くには、見ることが大切です」と、アドヴァイスする。 私が注目したのはルイスのこの「見ることが大切です」という言葉だ。 もちろんこれは脚本家の書いた言葉なので、ルイス・ウェイン本人がそう言ったかどうかは不明だ。私はその真偽を確認しようとしているのではない。 しかし、このセリフを思いがけないヒントとして、ルイス・ウェインが統合失調発症後に描いた猫の絵、・・・それが次第に「見た目に」猫らしさの形態を留めなくなってゆく過程に、画家の「見る」という生理的機能を動員しての創作から、生理的機能によるのではない「見る」という行為・・・私は「見る」という言葉を使うしかないのだが・・・に移って行ったのかどうか、ということを自問したのである。 彼の猫の描写の変化を、精神に異常をきたしたからだ、というのは簡単だ。大方の人はそれで納得してしまうだろう。しかし、私は画家として、実際に日常的に描いている行為者として、そんな説明で納得はできない。 映画の中で、ナレーションにより、「絵を描く技術>が崩壊してしまった」とあった。この言葉も、脚本家の創り出した言葉であろう。 本当にルイス・ウェインは、画家としての技術が、崩壊してしまったのだろうか? 実は、私の研究によれば、専門的に獲得された技術は、統合失調発症後にも必ずしも崩壊しないのである。彼らの絵画作品で言うと、今この場という自らの立地点・・・すなわち確固とした一つの視点は、極めて不安定になり、一つの画面に本人のたくさんの異なった立地点が出現する。 尤も、このことは子供の絵やアマチュアの絵にも見られることだ。しかしながら、専門的な技術者であった統合失調者の場合、その異なったそれぞれの立脚点(視点)での物象(例えば家)は、一点透視なり二点透視なりの正確な図像なのである。数学的な遠近法の原理は、全くと言っていいほど崩壊していないのである。 これはどういうことを示しているのだろか? 増悪期が一層進行して、ついに痴呆化してしまう場合もあるが、まず理解できることは、統合失調症とはまさにその名称どおり、自己という精神的主体的な<個>を確立できなくなってしまっている。かつて分裂症と言っていたが、まさに自己が次々に分裂してゆき、錯綜し、個としての統合を失う。そして分裂し錯綜したそれぞれの個は、それぞれの断絶した環境にいる。全く異なった<光景>を見ているのである。その光景を正常者は幻視とか幻覚と言うが、病者が実体として感覚していることを理解しなければならない(わかりやすくするために、正常者には見えない光景を病者は見ている、と言っておこう)。 増悪期が進行し、自己統合回復が不可能になると、統合失調症に関する精神病理学では<超越>という言葉を使っている。・・・ここまで進行してしまうと、果たして専門的な技術が維持されているかどうか、私は例証できない。ここに至っては、おそらくその技術は崩壊しているだろう。あるいは、・・・私は大胆に言うが・・・全く新しい創造的技術が獲得されている。 さて、ルイス・ウェインは、絵を描くためにはまず対象を「見る」ことを推奨した。脚本家のセリフではあるが、しかしまさにその通りだ。 彼の描く猫が、次第に猫の形態が変化する過程で、彼は「見る」ことをやめたのだろうか? 私が問題にしているのは、その点である。 私は世間がしばしば言い、日本の絵描きは特に言う、「心を描く」などということを、そうそう簡単には認めないし、信じもしない。しかしながら、世間が言う意味とは全然違う意味で、ルイス・ウェインはやはり「見て」いたのではあるまいか、と私は思うのだ。何を? 分裂してゆく自らの心を・・・。 あるいは、ルイスが電気的なショックと痛みを感じていたなら(それを正常者は上述の通り幻覚というだろうが、病者にとっては現実感覚である)、その精神的肉体的知覚を猫の周囲のギザギザ模様に即座に置換してしまう統合失調者特有の「能力」で、分裂してゆく自己を見ていたのだ、と私は考えるのである。なかなか説明が難しいが、私は、ルイス・ウェインンの統合失調発症後の猫の「表現」は、自己と対峙する外界的物象ではなく、実は彼自身である、と推測している。すなわち、猫=ルイス・ウェイン、という等式である。彼の猫の絵は、掛け値無しの正確な意味での「自己表現・自己表出」だということだ。そしてあえて言うなら、絵として表出した「助けてくれ!」という絶叫だ、と私は考える。 映画の中で、ほんの一瞬のような短いカットだったが、ベネディクト・カンバーバッチ氏が演じたルイス・ウェインがイーゼルに立てかけた小さな画面(キャンヴァスではなくガラス板のように見えた)に向かって、筆で緑色の絵の具をペタペタと叩きつけるように塗っていた。・・・・いやァ、カンバーバッチさん、その演技はやりすぎでしょう。いかにも<狂った>ように見せたかったのかもしれないが、ルイス・ウェインの遺した作品に、そんなペタペタ絵の具を叩きつけたものはない。・・・そこです、私がルイス・ウェインの統合失調発症後の絵に問題を据えるのは。 たしかに彼の描く猫は、猫らしさを失い、それ自体が模様化してしまった。けれども、彼が「見て」いる対象を表現する新たな確たる<技術>が窺えるのだ。それは芸術作品とは言えないにしても、子供が描くような絵でもなければアマチュアの絵でもない。そして、私は、末期(まつご)に向かう彼の絵にある非常な<エネルギー>を指摘しないわけにはゆかない。それは「自己」という生命が尽きる最後の炎なのではあるまいか。 映画『ルイス・ウェイン - 生涯愛した妻と猫』を観て、私の気がかりをメモとして留めておく。【付記】 荒俣宏氏が私に話されたことだが、荒俣氏が取材された統合失調症を患いながら絵を描いている人は、作品に全く執着がなかった、と。絵を描いている様子は一心不乱なのだが、描き終わると、もはやその絵には関心がないらしのである。いわゆる<作品>とは違うのかもしれない。 尤も、統合失調者がみなそうであるとは言えない。例えばエドヴァルド・ムンクが統合失調を発症したことはよく知られているが(彼は回復した)、ムンクの場合は、自作への執着はかなり甚だしく、場合によっては売却した作品のレプリカを作って手元に置いていたほどである。ムンクは自作品への執着のみならず、自己執着も強く、画家としての自分の手を「神の手」と自覚していた。
Dec 12, 2022
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山田維史『戦争によって人民は焼け死に 戦争によって人民は凍え死ぬ』戦争をやめろポスターNo.30山田維史 戦争をやめろポスターNo.22~30
Dec 11, 2022
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朝、年2回を恒例としている血液検査を主治医のクリニックで受診。 私は健康体だが、これを維持するために、外観ではわからない、そして自覚無い身体内部を知るための、自主的な検査である。この結果と主治医の意見とを併せて、私は自分の食べるもの・・・と言うより、口に入れるものを水一杯さへ記録しながら、調整する。私自身が一日三食、365日、調理しているので可能なのだ。特別神経質なのではない。決して大雑把ではないが、神経質な面は、私の性格には無い。むしろ面白がっている。機械整備士のルーティンのようなものだ。 と言うわけで、開院するや一番に受診し、ものの30分で帰宅。 午後2時、市民会館ホールでの民生委員退任式に臨む。 厚生労働大臣、東京都知事、日野市長、それぞれからの感謝状を拝受して帰宅。 市役所へ向かう途中で目にし 冬寂の橋に凭りたる老爺あり 青穹(山田維史) 年降るや水面に映す孤影かな【Haiku】 Fuyu sabi no hashi ni yoritaru ro-ya ari Winter, silence, There is an lonely old man leaning on a bridge Toshi furu ya minamo ni utsusu koei kana An old solitary shadow reflected on the surface of the water as the years go by Tadami Yamada
Dec 9, 2022
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午後、映画を観に出かけた。ウィル・シャープ監督『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻と猫』(原題:The Electrical Life of LOUIS WAIN; ルイス・ウェインの電気的な生涯)。 実話に基づく伝記的な(ははは、ゴロ合わせではない)作品。19世紀のイギリスで可愛らしい猫の絵で人気を博したが、統合失調を発症し精神病院で死亡した(1860ー1939)。 私がこの映画を観に出かけたのは、実は拙論『病める貝の真珠 ・・・精神分裂病者の絵を巡って』(1994年)においてルイス・ウェインについて書いていたからである。ルイス・ウェインの猫の絵は、統合失調発症前の可愛らしい作品から、発症初期、そして増悪期(ぞうあくき)に至ってほとんど猫の外観を留めなくなった作品まで、ロンドンのベスレム精神病院が丁寧に収集し保存していて、病の進行による絵の変化がよくわかるかなり稀な例なのである。 増悪期の絵は猫の周囲に奇怪な連続模様が出現する。かつて荒俣宏氏と統合失調者の絵を巡って対談したとき、荒俣氏がこの連続模様とポリゴンとの相似性を指摘された。ポリゴンは多角形という意味ではあるが、特にコンピューターグラフィックスにおける3次元CGで、3点以上の頂点を結んでできる連続的な多角形をさすことが多い。私は荒俣氏の指摘が非常に興味深かった。 この映画のエンディング、まさに物語が終わって、ルイス・ウェインの猫の絵が次々と紹介される。そのイントロダクション・イメージとしてCGによる動画が映し出される。そのさまざまに変化してゆくイメージは、ポリゴンと言うよりむしろフラクタルなイメージだが、統合失調者の描くイメージをそのように総括したウィル・シャープ監督に荒俣氏の指摘に非常に近い理解を私は感じた。 さて、映画作品そのものについて述べるべきだろうが、私が最も面白く思ったのはウェイン家の老嬢たちの存在と、その映画的描写である。上流階級に属し、亡父から潤沢な財産を相続しながら、長男ルイスの金銭感覚に頓着しない性格のために、今や借金暮らしの泥沼にいる家族。ウェインの妹たちだ。日常を、人生を、無為に暮らす老嬢たちは、金持ちの男と結婚しようと思っているものの、世の中、そうは問屋が卸さない。彼女たちの精神もエキセントリックになっている。 私が面白いと言うのは、実は、イギリスのビクトリア朝(1837-1901)の19世紀、まるで白馬でやって来る王子さまを待つかのように、金持ちの男の出現を心に描いて婚期を逃した上流階級女性は少なくなかったのである。中にはひょんなことから莫大な財産を相続し、一人ホテル暮らしをしながら婚期を逸した女性もいた。それは女性を清純というイメージで、(表向きは)祭り上げていた男社会の問題でもあった。女性はシンボリックに白百合で表現された。女性は性的な欲望を抑圧して生きていた。フロイドの精神分析学の研究は、ビクトリア朝の女性にあまりにもヒステリーが多いことから、その原因の探求に端を発している。 また、この時代、イギリスに特有な女性殺人事件が起こっていた。先に述べたように、大金を相続し、ホテル暮らしで、しかも結婚願望が強い老嬢を狙う、一見紳士風な殺人鬼どもがいたのである。ロンドン警視庁のいわゆるブラック・ミュージアム(犯罪博物館)には、それらの事件のおぞましい証拠物件が展示されている。 という具合に、この映画の主人公ルイスを取り巻くビクトリア朝の家庭環境は、流石にイギリスの監督なので、きっちり描写していた。映画パンフレットの中の映画評論家の時代解説はいささか勉強不足。19世紀のイギリス社会を掴んでいない。 邦題に『生涯愛した妻と猫』とあるが、その観点からすると、ルイスと妻との愛情生活の描き方は、実際短い結婚生活だったとしても、やや描写不足、と私は感じた。しかしそれは監督の罪ではない。邦題をつけた人の責任だ。原題のThe Electrical Life of LOUIS WAIN (ルイス・ウェインの電気的な生涯)の方が、私にはずっと好もしい。 映画の中で、ルイスは「電気」の正体を知ろうとしていたと描かれている。エーテルなどという言葉が飛び出すのは面白いが、少し時代感覚がずれてはいないだろうか。ウェインが生まれる20年も前に、イギリスの物理学者ジェイムズ・ジュールが、動体電流の熱量は電流の2乗と抵抗の績に比例するという今では中学生も知っているいわゆる「ジュールの法則」を発見していた。また彼が10歳の頃には、発電機が完成していた。いまさら雷放電を追いかける時代ではなかったはず。 彼の増悪期の猫の周囲にギザギザ模様が頻出し、まるで漫画などで帯電状態を表現したイメージのようだが、統合失調者はしばしば電気ショックを浴びせられているという身体的な痛みを訴えることがあるようだ。原題のThe Electrical Life には、そのような臨床精神病理学的な意味も込められているかもしれない、と私は思う。 あるいは、後に妻となる妹たちの家庭教師エミリーがプリズム分光実験を子供達に見せるワン・シークエンスあった。ルイス・ウェインの関心ごとをエミリーが代替しているのである。画面に虹色光線が射していた。しかしイギリスの偉大な先達アイザック・ニュートンがブリズム分光実験をしたのは17世紀半ば、ルイス・ウェインが生まれる2世紀も前のこと。子供達が面白がって分光遊びをすることはあろう。映画のシークエンスはさらりと流す程度だったが、暗い部屋の中に差し込む一筋の虹色光線は、映画的な効果はあろうが、ルイスの生涯の事跡に組み込まれることでもない、と私は思った。 それとも、この虹色光線と彼の絵の猫の周囲に統合失調発症後に現れる虹色とを、暗示的に結びつけたか? ウィル・シャープ監督の意図がもしそこにあったならば、統合失調者としてのルイス・ウェインの絵の色彩について、おそらくこれまで論じられなかったであろう視点を提示しているかもしれない。・・・この点については、私は現時点で何も言えない。 『生涯愛した妻と猫』という邦題のせいかどうかはわからないが、観客はほとんど女性ばかりだった。映画配給会社としては、この邦題で成功だったのかな? ルイス・ウェインを演じたのはベネディクト・カンバーバッチ氏。私が好きな俳優。 拙論『病める貝の真珠 ・・・精神分裂病者の絵を巡って』は、このブログの左フリーページに掲載してある。【余談】 ついでながら、ベネディクト・カンバーバッチ氏は、15世紀のイングランド王リチャード三世の遠い親戚であることが遺伝子研究で判明している。今からちょうど10年前、2012年、レスター大学研究チームが或る駐車場を発掘照査して、出土した遺骨がリチャード三世のものであることがわかった。そして3年後の2015年に、レスター大聖堂においてリチャード三世の遺骨の埋葬式が行われた。この時、カンバーバッチ氏も出席され、詩を朗読された。・・・私は、シェイクスピアの『リチャード三世』におけるその容姿容貌に関する出典は何かということや、またディッケンズの歴史書の記述などからリチャード三世に少しばかり関心があった。しかし600年前の発掘遺骨を王として恭しく再埋葬したこと、またDNA検査で遠い親戚とわかったベネディクト・カンバーバッチ氏が列席したについては、さすがイギリス、とちょっと呆れながらも面白く思い、埋葬式の翌日、このブログ日記に書いた(2015年3月27日)。映画館パンフレット。本の形にデザインされているのが面白い。デザインは大島依提亜氏、中山隼人氏。 映画館へは1時間ばかり早く行き、開場時間までジュンク堂書店に寄り、4冊買った。ジュンク堂は東京でも少なくなった本屋らしい本屋で、書棚は充実してい、私のお気に入り新刊書店。新宿の紀伊国屋書店は、おかしな売り場レイアウトにしてしまった。実に探書し難い。ちょっと行く気がしなくなってしまった。
Dec 7, 2022
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山田維史『かりにも能く侵略を制するならば どうして多く殺傷することがあろう ー 杜甫』戦争をやめろポスターNo.28
Dec 6, 2022
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サッカーW杯決勝トーナメント16強戦、日本チームはクロアチアにPK戦(1-3)で破れてしまった。残念。日本チームは素晴らしかったのだが(1-1で粘った)、持ち堪えられなかった。試合巧者と言われているクロアチアは、それが事実であることを証明したかもしれない。が、実は日本チームはむしろ攻守ともに巧みだったと私は思う。 W杯は4年毎の開催だが、それにしても日本代表選手は確実に世代交代が起こっている、あるいは世代交代ができている、と思ったのは私だけだろうか。素晴らしい選手が陸続としているのは嬉しい。
Dec 6, 2022
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さあ、ようやっと民生委員・児童委員の委嘱任務から解放された。午後、新任委員への引き継ぎを完了した。 午前中、出かけるまで、作品のためのプリミティヴなアイデアを3点粗描した。
Dec 5, 2022
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山田維史『侵略に正義はない』 戦争をやめろポスターNo.27------------------------------------- 木々の葉の降リゆく日々と吾もまた 青穹(山田維史)【Haiku】 Kigi no ha no furi yuku hibi to ware mo mata The days when leaves fall from the trees and me becoming old tooTadami Yamada
Dec 3, 2022
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サッカーW杯、E組第3ゲーム日本vsスペイン。いやー、驚いた驚いた。日本が勝っちゃった。2-1で! 日本は勝ち点6を挙げ、何とE組1位で決勝トーナメントへ進出だ。 第2ゲームの対コスタリカ戦では、コスタリカが第1ゲームの対スペイン戦で7-0で大敗していたので、おそらく大概の観衆は日本が優勢と思っていただろう。だが日本は破れた。油断したのではあるまいけれど、日本の一瞬のスキをつかれて崩れてしまった。(私はいつも、あらゆるスポーツの高度な試合を観ながら思うのだが、実に精妙なメンタル問題に左右されるということ。対コスタリカ戦における日本チームの一瞬の「スキ」は、その実例のような気がする。) さて、コスタリカに大勝した(世界の強豪と言われつづけている)スペインと対戦する日本の勝敗の行方を、世界の観衆はおそらく気持ち3分の2ぐらいでスペインが勝利するだろうと思っていただろう。残り3分の1を日本に賭けたとしたら、それは日本が第1ゲームで、W杯6回の優勝を誇るドイツを破っていたからだ。世界の観客は日本チームのこの勝利を、(失礼にも)歴史的!と称していた。ハハハ、日本の報道メディアも「歴史的!」と言っていたっけ。 と言うわけで、この第3ゲームの対スペイン戦の日本チームは、攻撃よりも防御に徹した感があった。前半戦のみならず後半戦も、どちらかと言うと防御体制の戦略だっただろう。前半でスペインに1点を先取され、長いハーフ・タイムの間にチームの戦略に何が話し合われたか私はわからないが、後半3分に堂安律が左足で強烈なシュートを決め1-1に。そして6分、田中碧が勝ち越し点2-1を上げた。 さあ、16強から8強に進めるか。 行ける、行けない、行ける、行けない・・・・ハハハ、花占いをするオフィーリヤのようだ。 16強Tの初戦は対クロアチア。12月5日。クロアチアは世界ランク2位のベルギーとのゲームを引き分けている。16強の壁は厚い。
Dec 2, 2022
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