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昨日の娘の帰省トラブルの記事を書いてて自分のことをいろいろ思い出した。私はほとんど嫁姑問題では悩んでない。もちろん一緒に住んでなかったし、お正月とお盆に夫の実家に帰省していたけど車で一時間ちょっとの場所だったので日帰りでお昼ご飯を一緒に食べるくらいで泊る必要もなかった。それに姑は子育てのことやその他のことでいっさい口を挟んだことなんてなかったから。専業農家の嫁で朝から晩まで真っ黒になって働いていて、夫には「野菜くえよ」とはよく言っていたけど、私にこうしろああしろとはいっさい言わなかったなあ。優しい姑だったと思う。姑と一緒に住んでいた義姉によると姑自身が若いころ姑(お婆さん)にいじめられていたそうなので、自分はそうなるまいとしていたのではないかと聞いたことがある。私とは真逆の姑で、結婚してからずっと苦しんでいたのは私の姉。一緒に住んでいたし、いろいろ口も出されていた。よく実家にきて、母に愚痴を聞いてもらっていたのを思い出す。結婚していきなり、料理はすべて姉が作り、銀行員の義兄には何もさせるなって感じだったらしい。台所にもいれるなって感じ(いつの時代やねん)いつもワイシャツにアイロンをかけろとも言われていた。姉はフルタイムで教師として働いていたから自分の時間なんてなかったんじゃないかと想像できる。(私なんて夫のワイシャツにアイロンかけたことないわ、、、洗濯の時、ピシっと伸ばすだけだよ。夫が皺ができないタイプのワイシャツを買っている、、ダメ妻やん)それで、料理はまったくできない義兄になってしまって姉が限界に近づいて、それこそ姑の顔をみたり、声を聞くだけで洗面所に行ってゲーゲー吐いてしまうようになって家を出たいと義兄に訴えても、長男である義兄はそれができなかったんだよね。で、姉は自分だけでも家をとりあえず出るって言ったときに「俺のご飯は誰が作るのか」って言ったのだそう。その一言で姉の中の何かが切れて、その後はもう何があっても元には戻らなかったのだよね。母が言っていたのだけど、「〇ちゃん(私)には嫁姑問題の辛さがわからない」と姉が言ったそうだ。確かにそうだ。経験していないから想像はできるけど、ほんとの辛さはわからないだろうと思う。(そう言ってる実母だって経験ないよ)経験したことがないことはわからないのはしょうがない。それを言ったら、私がパニック障害や微小血管狭心症で胸が痛くて苦しんでいるとき、「気持ちの問題じゃないの?」と健康な姉に言われたもんね。それだって経験してないから姉はわからなかったと思う。でも経験していなくても気持ちに寄り添える人でいたいとは思う。シャンテロゼミサトマダムピエールオジェ(たぶん)どんどん咲き進む薔薇ゆっくりでいいよ~~~(#^^#)にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村<
May 5, 2023
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私の両親、国内の旅行もめったに行かず、車にも乗らない人たちだったのでほとんどお出かけをしない夫婦だった。そんな飛行機にも生まれてこのかた一度も乗ったことのなかった二人が、ある日アメリカにやってきた。母は「まさか自分が敵国に行くとは思いもしなかった」とか「飛行機の下に何もないと思うとすごくこころもとなくてすーすーして不安だった」とか言っていた。(母は名古屋空襲のとき、命からがら弟をおぶって両親と兄弟姉妹とともに三河に逃げてきた)二人にしたら、清水の舞台から飛び込むくらいの気持ちでやってきたのかもしれない。やってきたのは私たちが住んでいたノースカロライナ州のアパートメントだ。アトランタに夫が迎えに行くことになっていたけどそれまではまったく英語ができないけど、二人だけ。税関もなんとか通ってやってきた。すごい冒険だったと思う。あのころ両親は何歳だったのだろうと計算してみたら、母はなんと今の私の年!61歳父は65歳だった。え~私はあのときの母と同じ年なんだ~びっくりだわ。でもまだあのときは母は生活習慣病(糖尿病、高血圧)があったとはいえ、がんになる前でまだ元気だった。父はその数年前に胃を全摘する手術をしたので以前に比べると体力もなく、かなり痩せてしまっていた。2週間くらいはいただろうか。(よく覚えてない)少しは観光はしたけれども、そんなに出歩いた覚えはない。そのとき2歳だった娘とよく遊んでくれてた。観光にはいかないけど、近くのスーパーとか、モールの服やさんとかに行くだけでも、両親にとっては大冒険。あのころ太っていた母は「私のサイズがたくさんある」って喜んでいくつか服を買っていった。母と私が服を選んでいる間、父はベンチで座って待っていたのだけど知らないアメリカ人の老人に話しかけられて、うろたえていたわ~。「No English No English!」「Sorry Sorry」と叫んでた。「まったくわからんのに、ペラペラしゃべられた」と父は困りながらも笑っていた。アジア人でも英語ペラペラな韓国人とか中国人とか台湾人がたくさん住んでいたから父のことも英語のわかる暇な老人がベンチに座っていると思われたのかもしれないね。私たちが米国に住んでいなかったら、絶対海外に行くことなんてなかった両親。いろいろ大変なこともあったと思うけれども、両親の人生で記憶に残る体験ができてよかったって思う。まだ動けるうちにね。そう思うと私自身も、まだ動ける今のうちに旅行とかやりたいことをやっておくのが人生の正解なような気がする。でも私の場合、愛猫が好きすぎて、旅行に行っても心配で楽しめないような気もする。でも夫と息子に世話を頼んで行くなら、できないことないような気もする、、、、100%私だけのストーカーの愛猫でも私がいないと夫と息子にスリスリしてるらしい。今、私が行きたいのは台湾。食事もおいしそうだし、豆料理とか野菜料理とかいっぱいありそうだしね。この図書館の本読んでますます行きたくなった「食べすぎなくらい豆を食べる」「地味な不調は漢方で治す」「近所で街中で運動する人が増加中」「たくさんある果物屋さんはいつも繁盛」ね~PBWF食で運動好きな私を呼んでるかと思うくらいの内容だわ~。昨日の刺繍の第一作目できあがり(^^)/可愛い猫ちゃん 愛猫より女のこっぽいけど一応、あずきちゃんもこんなふうに座っているときもある。まだ水に溶けるシールは溶かしてない。もういくつかやってからまとめて溶かしてアイロンかける予定可愛い、、、自己満足の世界だけど。丸い刺繍の枠がこの袋にはギリでつけられた。これに入れてまた本借りてこよっと。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村<
February 22, 2023
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夫にもらった貼り薬が足の痛みを和らげたので、ほかにもないかと家の中を探すと出てきた。母にもらったモーラステープ。4年前のちょうど10月に亡くなった母。そのちょっと前に自分のやつを私にくれたのだ。最期のころは体のそこらあたりが痛くて体中に貼ってた母。届かないところは貼ってあげた。長年肥満体型でマックスで80キロ以上あったのに亡くなるころには小さな小さな背中になってた。胸にもお腹にも大きな手術の後があって痛々しかった。モーラステープを見たらそんなのがいっぱい浮かんできちゃってなんか涙が出てきちゃったよ。母の最期のころ、私自身の体調が悪すぎて連日、母を施設から病院に連れていくのが辛くて(途中でパニック症状が出たり、血圧が上がってふらふらになったりしてた)母に直接、「もう明日はこれん」とか「これ以上無理」とか言ってた自分が悲しくて悲しくて、、、。でもあれ以上のことができたかと言えばやっぱりもうあれが精一杯だった。亡くなって4年経ってもいろんな後悔はある。できないにしてもあんな言い方はなかった、、って。悲しそうな母の表情が浮かぶんだよね。ごめんね、、、。もらったモーラステープ、もう期限がとっくに切れてるけど貼り薬だからいいや。大事に使うね。かおりかざり新しく50代主婦ブログに参加しました。にほんブログ村ミニマリストのカテゴリーを2型糖尿病に移行しました。にほんブログ村↓いつもの薔薇ブログもよろしくね(*^^*)にほんブログ村<
October 26, 2020
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お正月に姉と会った。その時に姪の代になったら墓じまいするかもしれないという話を聞いた。「墓じまい」、、か、、テレビでよく話題になったりするので軽い気持ちでそう言ったのかもしれないけどなんか寂しいなあと思った。先祖代々の墓ではなく、父と母が生きているときに自分たちの墓のために実家のすぐ近くに墓用の土地を買い、父が亡くなったときに母が墓石を建てた。今は父と母が眠っている。実家から歩いて15分くらい、車で5分くらい。そのお墓から実家の平屋の屋根が見える。母は生前、「お墓から家が見えるんだよ」って嬉しそうに言ってたっけ。今は姉がお墓の世話をしてくれてる。いつ行ってもお花があって大変だろうなあと思う。姉にはいつも感謝していて、会ったときには「ありがとうね」って言っている。姉も「自分が生きている間はやるから」って言ってくれてる。姉と母とよくもめたこともあったけど、父が亡くなった後、お墓のお世話をしてくれていた姉に母はいつもありがたがってた。でも姉が亡くなった後、それを姪にやれとは言えない。私の方が長生きしたら、そこから私がやりたい。(5つ年が違うけど姉の方が元気そうなのでわからない)いつもお花を供えることはできなくても墓じまいしてしまうことは私が生きている限りは寂しいので。「千の風になって」の歌詞の中で「私はお墓にはいません」ってある。確かにそんなにお墓にこだわらなくてもいいのかもしれない。父と母は明白に私の心で生きているから。今、家の中のものや庭のものをなるべく整理して少なくしようと思っているのだけれど、そんな中、欲しいものが二つある。それは小さい小さい仏壇と小さい小さい神棚。実家には父が亡くなったときに母が買った金色の立派な仏壇がある。でもそんなりっぱな物じゃなくてコンパクトで小さいもの。でもちゃんと父と母に手を合わせて感謝できるもの。理想の家、、、小さい仏壇と小さい神棚と観葉植物と庭の緑と薔薇と生きていくのに必要なものだけがある家、、、。まだゴールは遠すぎるわ~~~畑のレタス 食べるにはまだ小さい根っこをつけて取ったのでペットボトルで水耕栽培中(*^^*)のし餅ときなこ餅餅つき機、大活躍中50代の生き方ブログのカテゴリーに入りました。いろんな人がいていろんな生き方があって面白いです。↓下をクリックすると読めるよ。にほんブログ村少しでもミニマリストに近づけるようにカテゴリーに入ってみました。↓クリックすると読めるよ。にほんブログ村↓いつもの薔薇ブログもよろしくね(*^^*)にほんブログ村
February 11, 2020
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母の弟で法事かなにかで会うといつも「世が世なら」といっていた叔父がいる。姉と私の間で「世が世なら」のおじさんで通じるくらい。母方の先祖のことは母から詳しく聞いたことはないのだけどかなり裕福だったことは知っていた。(後から知ったのだけど、多額の寄付をしたためか豊川稲荷の鳥居に曽祖父の名がある)太平洋戦争以前は名古屋の徳川美術館の近くのお屋敷に住んでいたこと。名古屋の空襲で一家で三河に逃げてきたのだけど三河に持っていた土地は農地改革でほぼ没収されてしまったこと。などは小さい頃になんとなく聞いていた。母は昭和6年生まれで10歳の頃、戦争がはじまり、14歳で終戦を迎えている。思春期の真っただ中だ。学校でしっかり学べてないことはその後母の学問のコンプレックスとなっていた。6人兄弟で上から二番めの長女だった母は空襲のとき、下から2番めだったその「世が世なら」の叔父さん(赤ん坊)を背中にくくりつけて逃げたという。母は10歳までの裕福だった時代の思い出話はほぼしなかった。戦後の苦しかった時代の話はよくしていた。特に食料がなくてつらかった話。(だからのちのち食べ過ぎて肥満になったと自分で言ってた)暮らしぶりが一気に変わり、祖父はお酒を飲みはじめ、祖母との喧嘩が絶えなかったそうだ。それを見るのが子供心に悲しくて自分は結婚してもぜったい子供の前で親の喧嘩はみせないと誓ったそう。私が小学生のころ、友達に「親の喧嘩みたことない」と言ったら、「嘘つき」って言われたなあ。でもほんとこどもの頃は見たことなかった。(でも老年になってからはしてたけど)以前に両親ともに遺産放棄してお金に執着がなくて幸せな人生を送った(病気以外)って書いたことあったけど、「世が世なら」のおじさんのように過去の栄光(裕福なとき)にすがることもしなかった母はいまさらながら、潔い人だったと思う。その後、父と結婚して4年して姉が産まれ、また5年して私が産まれた。貧乏だったのですぐには子供は作れなかったそうだ。父や母が亡くなって初めてわかることって多い。介護中、母の言動に困らされたこともあったけどこうして思い出すといい母だったと思う。亡くなってずいぶん経つけど父も母も私の心のなかでは大きな存在で生きている。待ち遠しい春シリーズブルーデージー50代の生き方ブログのカテゴリーに入りました。いろんな人がいていろんな生き方があって面白いです。↓下をクリックすると読めるよ。にほんブログ村少しでもミニマリストに近づけるようにカテゴリーに入ってみました。↓クリックすると読めるよ。にほんブログ村↓いつもの薔薇ブログもよろしくね(*^^*)にほんブログ村
December 25, 2019
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父が亡くなってから13年、母が亡くなってから3年が経つ。父が私によく言っていたのは「歯は大事にしないといかん」ってこと。晩年父は歯が一本もなかった。母がいうには父はヘビースモーカーだったので歯がヤニで色が変わっているのをみられるのがいやでトラブルがあっても歯医者になかなか行かなかったらしい。父は歯を守ることが健康につながるとよく言っていた。実際、認知症と歯が関連しているという本も読んだことがある。噛み続けることで脳の老化を食い止めることができるという内容だった。父の教えを守り、歯医者は好きではないけれども定期的に通っている。昨日も行ってきた。最近やっと、パニック障害を心配せずに行けるようになった。母は亡くなる前、自分の死期を悟ったとき何度も何度も私に言ったことがある。それはお金のこと。父と母は贅沢をせず、堅実に生きてきた。土地は借地だったので遺産として残らなかったのだけど銀行の預貯金がいくらかあった。姉と私で分けるのだけど両親なきあと、実家に住んでお墓を守る姉に2/3そして次女の私に1/3とすると決めたと。それに納得しなきゃだめだよって。世の中、たとえ少ない遺産でも親が亡くなった後、兄弟姉妹で遺産を争い裁判沙汰になる事例はいっぱいあると母はいう。母はそれをすごく心配していた。母は姉と私が仲良くすることを強く望んでいたから。そんなの心配しなくてよかったのに。それ以前に私は父と母に大事なことをいっぱい教えてもらった。8人兄弟だった父も6人兄弟だった母も二人とも実家は土地持ちだったのに遺産放棄をしてお金に執着しなかったこと。父は逆に早く亡くなった両親の代わりに育ててくれた兄にいつも感謝していた。お金に執着しないことで得られる平穏、自分たちで稼いだお金で建てた山の小さいおうち、贅沢しないでも得られる幸せ。そして親戚、家族への感謝の気持ち。そんなものを両親から見せてもらっていたから。お金は大事だし、なくては困るけどそれは絶対、大事な人には変えられないし、健康はお金では買えない。あんなに辛かった更年期障害だって医療費いっぱいかけても全然治らなかったけど費用ゼロの半日断食でおさまった、、、ほんとお金じゃ健康は得られないね。今朝の薔薇黄色の薔薇 フランスアンフォちょっとピンクを帯びて咲いた(*^^*)50代の生き方ブログのカテゴリーに入りました。いろんな人がいていろんな生き方があって面白いです。↓下をクリックすると読めるよ。にほんブログ村少しでもミニマリストに近づけるようにカテゴリーに入ってみました。↓クリックすると読めるよ。にほんブログ村↓いつもの薔薇ブログもよろしくね(*^^*)にほんブログ村
November 19, 2019
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母が亡くなってもうじき3年。今現在親の介護真っただ中の人たちのブログを読むたびに母のことを思い出す。母は長い間生活習慣病に悩まされていた。私が高校生のときにもう糖尿病でインスリンの注射を打っていたから40代のころからだ。その後70歳で子宮がん、数年して心臓のバイパス手術と経験したあと、ずっと病院通い(クリニック)が続いた。どこかが悪くなるたびに薬は増えて10から20種類くらいの薬を飲んでいた。認知症ではなかったので母が自分で薬の管理をしていたから、全部は把握してなかったけど、糖尿病の薬、血液をサラサラにする薬、鉄剤、安定剤、血圧を下げる薬、肝臓の薬、骨粗鬆症の薬痛み止め、睡眠導入剤、便秘薬、、、など多岐にわたっていた。ある日母は手と足にまったく力が入らなくなって救急車で運ばれた。(このとき以外にも数回救急車のお世話になっている。)運ばれた先の市民病院で診てくれたのがI医師。母が最期の最期まで信頼していた先生だ。その先生がいうには母が倒れたのは大量の薬のせい。減らせる薬はできるだけ減らすからと言われた。、、、、I医師には感謝している。でもこんなふうに大量の薬で体に異変を起こるまえにどうして以前のクリニックの医師は減薬してくれなかったのだろう。そのとき、そんな疑問も浮かんだ。老人に大量の薬を出すことでどこかで利益を得ている人がいるとしか思えない。こんな母の様子を傍から見ていたから、ただ医師に言われるがまま薬を飲むことがどんなに怖いか、自分自身で自分を守らないといけないって気づかされた。ちなみに50歳ころ私もこのI医師にかかって糖尿病の薬を一時もらっていた。数値が改善したときもう薬は飲まなくていいよと言ってくれた。その後また糖尿病になって近所のクリニックに行っていたのだけど数値が改善しても「飲みつづけろ」と言われた、、、、、、、どうして医師によって言うことがちがうのかね、、、と思ったよ。そこのクリニックは行くのはやめた。薬って結局その症状を抑えるだけ。対処法でしかないのだ。だったら、薬はやめて根本から治してくれる方法が一番じゃないのか。血液を浄化して免疫力を高める、、、、、、、また断食のすすめ、、、の話になってしまった(*´з`)病気の人がみんな断食で簡単に病気を克服してしまったら世の中の薬品会社、医者が困る???医療費が削減できていいと思うんだけどな。夏中咲いてた日日草(*^^*)畑の畝をたくさんつくってくれた夫 感謝収穫、種まき、苗植えが私で畝つくり、終わった野菜苗の撤退は夫の分業でやっている。草取りは二人で。ときどきいっぱい撫ぜてあげるとあとはいい子で待っているマロ。仔犬のときはすごいやんちゃだったけど私の言うことはよく聞くいい子(#^^#)50代の生き方ブログのカテゴリーに入りました。いろんな人がいていろんな生き方があって面白いです。↓下をクリックすると読めるよ。にほんブログ村↓いつもの薔薇ブログもよろしくね(*^^*)にほんブログ村
September 29, 2019
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今日は10月の5日。ちょうど一年が経った。母が旅立ってから。おばあちゃん(母のこと)へ日曜日に実家で無事に一周忌を終えたよ。この一年はあっという間だったよ。4月に愛犬のミルもそっちに行ったけど犬好きだったおじいちゃん(父)と二人で可愛がってくれてると嬉しいな。「薔薇ばかりやらんで野菜育てりん。」っておばあちゃん、よく言ってたよね。4月からJAのキラキラ農園で野菜も作りだしたんだよ。採りたての野菜は美味しいね。ネギがあんなに美味しいなんて知らなかったよ。おばあちゃんと野菜の話したかったな。そうそう更年期の不調も治ったんだよ。いろんな偶然や本との出会いもあってのことだったんだよ。最初は空腹が体にいい(若返る)ということをテレビ番組で知ってね、間食やめて空腹時間を作って腸を休めたんだよ。それが結構辛かったので本を読んでやる気を出そうとして「半日断食」の本に出会ったの。そこで玄米、青汁(グリーンスムージー)のことを知ってやりだしたら、これが私にとってはすごい効果。糖尿病も治って、4か月経った今、特定健診での血液検査はすべて異常なしだったよ。私の不調のことを心配して「おまえ(私のこと)は私に体質が似てるから気をつけて」って口癖だった。もしかしたらおばあちゃんがめぐり合わせてくれたのかもしれないね。今私は55歳。おばあちゃんは84年の人生だったけど70歳からはずっと病気で辛かったね。健康に気を付けて私は健康寿命を延ばすからね。テクテク毎日歩いてるよ。最近は気候がいいのでマロとまた海まで歩きだしてるんだ。近くの海に行くと気持ちが安らぐんだ。忠犬のマロはどこまでもついてくるよ。家も綺麗にしてるよ。観葉植物だらけなの。運気が上がるらしいよ。最近はペンキを塗って2階のトイレを綺麗にしたよ。before殺風景なトイレがね、afterほら、このとおり(*^^*)家族しか入らないからブルーのトイレにチャレンジしてみたんだよ。秋薔薇もね、ぞくぞくと咲いてきているんだ。ディスタントドラムスやプリンセスドモナコシェエラザードもね。食べられる野菜もいいけど、心に栄養をくれる薔薇も素敵だよ。人も植物も動物も生きているものはみんないつかそっちに行くんだよね。だから毎日生きていることに感謝して「当たり前」なんてこと一つもないと心に刻んで今日もこのかけがえのない一日を生きていくよ。Life is a gift.Never take it for granted.人生は贈り物決して当たり前のものとは思わないにほんブログ村花・ガーデニングランキング
October 5, 2017
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今日は豊川まで免許の更新に行ってきた。豊川への道のりは母を市民病院に連れて行くため何年間も何度も何度も通った道。近くに住んでいた姉は平日は仕事があり、叔母も近くに住んでいたのだけど、高齢なので車いすの扱いは大変だったので病院に連れていくのはもっぱら私の仕事だった。いまでも母のいた施設に行けば、まだ母がいるような錯覚に陥る。約10年前父が亡くなった後、ほんとにいろいろあった。母も寂しかったのだろうと思うけど姉と私に望むことがとても多くて正直、姉も私も辟易してた。まだ施設に入るまえ、姉が実家で母と暮らし始めたときに姉と母が大喧嘩したことがあった。姉からは長~いメール、母からは長~い電話がかかってきたこともあった。でも施設に入ってから話相手の女友達やはさみ将棋をやるボーイフレンド(笑)ができてからは笑顔が増えてお洒落さんになった(#^^#)施設の中には家族はほとんど訪れない人もいる中、姉、私、叔母さん(母の妹)がよく顔を出していたからね。いろんな老人がいるんだって母の視野が広まったのだと思う。スタッフの人たちとも仲良く頼りにされていて入る前はディケアとか嫌っていたけど、実家で昼間一人でいるより、母は施設での方が明るかった。母が亡くなった後、姉と二人で施設を片づけに行ったとき、仲良くしてくれていた母の友達が廊下の東側の窓を指さして「毎朝、あそこの窓のところに車いすで行って朝日に拝んでた。家族の幸せを祈ってたよ。」って涙を流してくれた。おばあちゃん、、、、ありがとうね、、、、。あなたが祈ってくれたように私は笑顔で残りの人生を生きようって思う。毎日とはいかなくてもできるだけ。朝日の中の薔薇たちディスタントドラムスローズポンパドールああ、、おばあちゃんが拝んでいた朝日に薔薇が輝いている、、、I wish heaven had a phone,so I could hear your voice just one last time.天国に電話があったならもう一度だけあなたの声が聞きたいにほんブログ村にほんブログ村
November 9, 2016
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母の夢を見た。夢ではまだ独身でひさしぶりに短大時代の友達と会った後駅が新しくなってたせいで迷子になってなかなか家に帰れない夢。夢の中で「母が待ってる。早く帰らなくちゃ。」って焦ってるまま目が覚めた。無事に帰って母に会えてから目覚めたかった。でも目が覚めたとたん、笑顔いっぱいの母の写真と目が合ったから安心した。料理してても食事してても母を思い出す日々。最後は卵豆腐しか食べれなくなってて母のために施設の近くのスーパーに買いにいったこと。小学生のころ母の料理の手伝いで大根をすったり、缶づめ開けたり、さやえんどうのすじを取ったりすると利き手に少し小児麻痺の後遺症があった母はうれしそうだった。そんな昔の何気ないことを思い出すようになった。涙目になったり、笑顔になったり、、、。不思議だなあ、、、気持ちの良い風が吹くと母を近くに感じる。(千の風にのって、、、みたいだね(*^^*))ネットで買っておいたひものれんが届いた。楽天のレビューがとてもよい人気の商品(#^^#)早速つけてみた。いつも開けてあることの多い押し入れと本箱の前ブラウンのひものれんを垂らして見た目の乱雑さをなくしてみた。完全には隠れてないけれど玄関近くの廊下からみるといままでよりずっとスッキリしてていい感じ(*^^*)送料をタダにするために(←出たケッチー主婦(~_~;)私の寝室の入口にも短めのをゲット。ライトグリーンとブラウンの二重。風を感じるひもスクリーンは寝室に入るとき気持ちいい(*^▽^*)なんか好きなものばっかりの自分の部屋に入るっ♪ってわくわく感が出る感じ(≧▽≦)窓から見えるデッキガーデンの薔薇はまた今日種類が増えた。ジュビリーセレブレーションとヴァンデグローブとゆっくりと開くムンステッドウッド(≧▽≦)机の上には付箋をつけた庭づくりの本もあるよ。(またまた1円の本、、、ケッチー再び、、、(~_~;)今興味のあるページは枕木のデッキのところ。庭も、、、、やらなくちゃ。暑くも寒くもない季節、、、今やらなくていつやるのって感じ。明日頑張ろう!(^^)!It's the little memoriesthat will last a lifetime.一生胸に残るのはささやかな思い出にほんブログ村にほんブログ村
October 14, 2016
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重いブログ記事を書いておいてそのまま放置しておくなんて、、、読んでくれてる人が心配してるだろうに。ごめんなさい。母の危篤状態から毎日病院通いが続き疲れがたまってたのか、今日は昼すぎからずっと寝てしまった。寝たら元気になってきたので夕飯づくりの前後にブログを書くことにした。輸血、栄養点滴をした後、母の状態は落ち着いている。まだ点滴は続いてる。私や姉のことはしっかりわかるし、一時期のようなつらそうな状態ではないけれど少し変なことを言っているので姉と二人で心配している。高齢者医療、、、あのままなにもしなければ亡くなっていたと思う。いくつかの国々(スウェーデンなど)はあの状態でいる場合、何も治療はしないらしい。日本ではほとんどの場合家族は治療を望むから、、、寝たきり老人が増えるという。どちらがいいのか、、、若い人たちの医療とは違うと思う。そのときどうするのか、どうされたいのか、もっともっと細かいところまで相談しておくべきだったと思う。でも実際母自身も入院する前、どうされたいかわからないって言った。いまだになにが正しかったのかわからない。正解なんてあるのだろうか、、、。今日は庭にお客さん。鳩の赤ちゃん。生垣の上で休憩してる。薔薇の枝のとげに気を付けてね。こちらはハリネズミの新入り(*^^*)うさぎさんも(*^^*)Never regret anythingbecause at one time it was exactly what I needed.過ぎたことを後悔しない。その時の自分にとってまさに必要な経験だったのだから。にほんブログ村にほんブログ村
October 3, 2016
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注:今日は重い話なので聞けない人はブログをそっと閉じてください。昨日の夕方姉と一緒に母の容態について医師から話を聞いた。栄養状態も血液検査の結果もかなり悪いこと。何が起きてもおかしくないこと。私自身このところ安定剤の量がずっと増えてる。医師から話を聞く前日も寝られなくてネットで「終末期医療」とか「延命」とか「自然死」とか検索しているうちにますます不安や悲しみが増幅していって心配でたまらなくなってくる。母にとってどうしてあげることが一番いいのか悩みすぎてしまったのだと思う。医師から話を聞いたあと夜、誰もいない市民病院の外来の待合室のところで姉と二人でいろいろ話した。私は苦しむ母を見るのが辛くて栄養を点滴で与えることが助からないのに無駄に延命させてるだけにならないのかという不安を姉に話した。姉はまだ意識がある母だからよくなる可能性だってある。心臓だって息だって自力でしてるんだから、、、。辛いけど見守ろうという。どんな選択でも後悔することはあるかもしれない。でも今私たち二人が母のことを思ってせいいっぱい出した結論だから。医師は聞く。栄養剤の点滴は打つのか輸血はするのか、、、、。そのたびに選択するのは家族。延命措置や胃ろうはしないと言ってた母だけどまだ話せる母にとって点滴することは延命にあたるのかどうなのかそれさえ、無知な私にはわからない。今朝、また大量の下血があったということで姉と私は病院に駆けつけた。輸血をしていることで落ち着いたということだけどまだ危篤状態は続いてる。水曜日の午前中一人で母を訪ねたとき、かすれた声で母は「〇子(姉の名)と仲良く、、、」と言った。仲良くしているよ。頼りにしているよ。私は姉がいてくれてほんとに心強いし、姉もそういってくれてる。ああ、、、姉がいてくれてほんとによかった。I overthinkespecially at night.いつも考えすぎちゃう(特に夜)今日のパレードもうじき開くヤングリシダス生まれたばかりのモンステラのライトグリーンの葉っぱとっても綺麗。にほんブログ村にほんブログ村
September 30, 2016
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姉から電話があって母のかかりつけ医から「ターミナルの時期ですね」と言われたという。姉がどういう意味かと聞くとお別れする時期が近付いたという意味だと。今日は姉と時間を合わせて母のいる施設に行ってきた。もう車椅子にも乗れなくて首も痛くて起き上がれない。退院して施設に戻ったけれどまた入院になるかもしれない。母は施設に居たそうだけど入院した方がいいのかどうなのか姉と私で相談する。今の痛みや辛さが病院で和らぐのならその方がいいのかもしれないとも思うし。母自身はまだ頭はしっかりしているようだけど自分でも決められないという。どちらを選択してももう腸の手術もできないし見守ることしかできない。私のできること。自分の体をしっかり整えてできる限り母のところへ行くこと。何もできるわけじゃないけれど行けば慰めになると母が言ってくれたから。今まで何度も何度もよみがえってきた。心臓のバイパス手術からも子宮がんの手術からも腸の手術からも脊柱管狭窄症の手術からも血栓の手術からも、、、そうして元気になるといつも強気なこと、、、面白いこと言い始めた、、、。長い腸の手術が終わり数日後「不死鳥のように蘇った」って自分で言ってた強い母。どうか、、、もうこれ以上の痛さや苦しみを神様どうか与えないでください。Crying is okay here.ここでは泣いてもいいんだにほんブログ村にほんブログ村
September 24, 2016
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今日は母のところへ行ってきた。退院はしたものの体調はひどく悪そうだった。ちょうど午前中シャワーに入れてもらった後だったのでよけいに体力を消費してしまってぐったりしていた。痩せてしまってからも少し前までは(たぶん無理してた)私が行くと一生懸命いろんなことをしゃべろうとしていたけれど今日はぐったりしていた。母は入院して同部屋の人に気を遣うより慣れた施設の一人部屋でよく知っているスタッフさんにお世話になるほうがずっといいという。何かできることはないかと聞くとモーラステープを足に貼ってほしいというので貼ってあげた。 帰り際、手をさすってあげたりした。ずっとささやくような声で「ありがと、、、ありがと、、、」って言ってた。いつも強気で私や姉を怒らせるような冗談を言ったりしてた母はどこに行っちゃったんだろう。帰りの車で涙した、、、。ちょっと前に母に「あんたいつも同じ服着てない?」って冗談言われたから今日は母のためにおしゃれしていったんだよ。こんなのもつけて、、、。80歳過ぎても母は私や姉にこきれいにしてて欲しがった。だから冗談もよく言ってた。施設に入っている人やスタッフの人に綺麗な娘さんたちだねって(←顔は普通、身なりが綺麗って意味)言われたかったんだ。、、、、、天国のおじいちゃん、おばあちゃんの体が少しでも楽になるようにどうか見守って、、、。トイレの赤い花、、、。息子は少し元気を取り戻してる。三つめのプラントハンギング。これで終わり。ダイソーのロープを4本使いきった。一つで作ると短くなる。一個半ロープを使うとちょうどいい。ジャングル部屋のアイビーを株分けしたもの。黄緑のポトス八百屋で買った200円の観葉植物一日中日当たりのいい部屋。娘が一人暮らしをしだしてから3年くらいまったく使ってなかった。もったいなかったな。Choose happiness.幸せを選んでにほんブログ村にほんブログ村
September 16, 2016
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母が入院した。前回、施設で会ったときには次から次へとしゃべってとても元気な様子だったのに今日はひどく落ち込んでた。いつも憎まれ口をたたいて私や姉を困らせるのに今日は違った。自分にはいい娘が二人いるっていう。長い闘病生活の間、いろいろしてくれて感謝してるって。おまえにも何度も何度も病院の送り迎えしてもらった。ありがとうって。、、、、、やだよ。おばあちゃん。急にそんなこと言わないでよ。前回みたいにまた憎まれ口たたいたり、冗談いってよ。前回は無理にしゃべったんだよっていう。遠くからやってくる私に何度も来なくていいように心配かけないように。私はどうして気が付かなかっただろう。母はこんなにも小さくなって体重も半分になってしまったのに私に心配かけないように必死で強がっていたのだ。愛情の表し方がほんとにへたなんだから、、、ごめんね私も素直になれなくて。気の強い母の涙を見たら思わず母の手を握ってた。ふくよかだった母の手が知らない間にゴツゴツした骨ばった手に変わっていた。「もう来なくていい」っていう母に何度も「また来るから」という私。私自身の体調を整えて母の様子をできるかぎり、見に行こうと思う。There is always light behind the clouds. 雲の向こうは、いつも青空。にほんブログ村にほんブログ村
August 5, 2016
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愛犬ミルの調子が悪くなってから急に母のことが心配になって行ってきた。前回行ったときに体重がどんどん減ってきていると言っていたのでよけい気になってた。私はへんな偶然とか迷信とかジンクスとかを信じる方。義母が6年前に亡くなったとき同じ時期、愛犬のくーちゃんも天使になった。大昔、実家で飼っていたヨーキーのリカちゃんは私が小6のとき私一人だけで看取った。なぜかというと父のすぐ上の兄(叔父)がバイクで交通事故にあって両親がそこへ駆けつけていたから。リカちゃんと叔父はほぼ同時に亡くなった。叔父がなくなったとき、父が泣いた。父が泣いたのを見たのはあの時が最初で最後。だからミルが調子が悪くなったときすぐ母のことを考えた。身長153cmの母は昔体重が80キロ以上あった。それが70歳を過ぎたころから入退院、手術を繰り返し50キロくらいになって最近では味覚を感じないと言ってて42キロくらいになったという。車で一時間。母は私の顔を見てまず一言。「めずらしい。外は槍が降ってるんじゃない。」とかいう(~_~;)(↑2週間くらい前に行ってる)前回行ったときは「調子が悪い人はこんでいい。私が死んだときに来い。」って言われた。体は80歳を超えて悪いところだらけだけれど、頭は私よりしっかりしてるかも??って感じは全然変わってなかった。私のこと、姉のこと、4人の孫のことを一気にしゃべりだし、ほぼ一方的に一時間くらいしゃべって最後に「あんたはいつまでも更年期なんて言っとっちゃだめ!」「薔薇ばっかり育ててないで野菜を育てろ!」と言いたいことは全部言った様子、、、、(~_~;)まあ、、、とにかく元気でよかったけど、、、(*´з`)今日の庭ダブルデライト外で咲かせてる。夏はマツボックリみたいなプリンセスアレキサンドラケントさっぱりした一重のジャクリーヌデュプレやっとゴーヤーができてきた(*^^*)この小さい大人シックな朝顔の次に違う種類の朝顔もやっと咲いてきそう(*^▽^*)細い葉っぱのつるには赤い小さな花が咲く予定(*^^*)おばあちゃん(母のこと)野菜はゴーヤーとミニトマトはできてるよ。薔薇はやめないよ。それから口が悪くてもいいから長生きしてね。No gift to your mother can ever equal her gift to you – life.あなたが母に贈るどんなギフトも、母があなたに贈ったギフトにはとてもおよばない。それは命にほんブログ村にほんブログ村
July 21, 2016
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今日いつものように園芸店で花苗見ていたらこてまりがあった。その香りで一気に幼いころの記憶がよみがえった。実家で父が植えたこてまりの木。低木だったけれど、いっぱいの白い花を咲かせてた。外遊びが好きだった幼い私はこの花をちぎっておままごとやったり、秘密基地に飾ったりした花。今考えると父も植物が大好きだった。8人兄弟の下の方だった父は両親は幼いころになくなりほとんど兄たちに育てられたらしい。裕福ではなかったはずなのに父は兄たちの援助で東京の大学に行かせてもらったそう。だから土地の相続のときは喜んで権利を放棄したらしい。(←母に聞いた)それでも実家は広い庭なのは自分の土地ではないから。地元の神社からの借地。そこにいろんな植物が植えてあった。お休みの日はいつも庭にいた父。ほとんど草取ってたけど(*´з`)退職してからはランの鉢がいっぱいで天気によってあっちこっちに動かしてた。なんか薔薇の鉢、動かしてる私にそっくりだ(~_~;)ほとんど叱られた記憶がない。優しい父だった。(↑というと姉は「私は叱られたし」とかいう(*´з`)2007年の1月17日に亡くなったからもう9年も経つ。家族の誰よりも私に相撲のことを話してくれた。いまでも相撲見ながら父を思い出す私はとても幸せな幼少期を送ったと思う。「お父さん、琴奨菊、日馬富士を突き落とし3横綱連破したよ!10年ぶり日本出身力士優勝するかもしれないよ~~。」相撲の話や植物の話、、、もっとしたかったなぁ、、、。今日作った寄せ植えは小さいこてまりの苗でピンクのラナンキュラスを入れて可愛く作った。鉢も小さいテラコッタ(≧▽≦)昨日ペンキした鉢カバーとりあえず大きい植物を入れておいた。日曜日に10年に一度の寒気が来るとは思えないほど景色。風とか強くなるのか、雪が降るのか、またネットで調べなくちゃ。Children of honest poverty have the most precious of all advantages over those of wealth.清く貧しい家庭に育った子供は、裕福な家庭の子にはないかけがえのない宝物を与えられている。にほんブログ村
January 22, 2016
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昨日は娘と一緒に実家へ行った。実家といっても父は亡くなり母は住んでいないので実姉が姪と二人で住んでいる。娘を実家に降ろした後、(軽なので車椅子と母と娘とは乗せられないので)今度は母を連れに施設へ迎えに行った。お正月は姉と母と私だけの3人だったので母の口の悪さに閉口してた姉と私。だからとても微妙な空気が流れてたけど今回は母にとっての孫(娘)がいることでずいぶん違った。、、、、、よかった、、、、、子はかすがい、、、、じゃない、、、孫はかすがい、、、、状態、、、、娘(姉と私)二人のときは遠慮がまったくなかったけれど孫(娘)がいるとぜんぜん違うもん。やっぱりいいおばあちゃんでいたいのだ。それにしても彼氏の話やら、アパートの値段やら、仕事のことやら、、、、あれこれ聞かれた娘も大変だ。最後にはいつものように「フィリピーナみたい」(仕事がら日焼けしてるので)とか言われそれでも笑顔の娘、、、、、、、、、あんたはえらい!!!帰りの車で娘が「おばあちゃんよくしゃべるねぇ。」「だいぶやせちゃったけど、頭はしっかりしてる。」というので「あんなこといろいろ聞かれてやじゃない。」「それにフィリピーナとか言われて、、、、さっ、、、」「大丈夫だよ。慣れっこ。」と笑う娘。一人暮らしして全部自分でやりくりして休みまでがんばって働いていてどんどん強くなっていく娘がまぶしかった。。。私もがんばらなくちゃなあ。最近娘に刺激されたり、反省させられたりすることが多い。いちいち母の言動にイライラしないでおおらかな心を持たなくちゃ、、、、、、、、、、やっぱり無理かも、、、、、ER ムンステッドウッドTo make your children capable of honesty might be the beginning of education.子供たちを正直でいられるようにすることが教育の始まりかもしれない。にほんブログ村
August 14, 2015
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今日は自分の実家へ行ってきた。「お正月」と「お盆」は家族と出会うとき。私も姉も二人ずつ子供はいるのだけどみんな来なかったし(それぞれの理由あり)うちの旦那も行かなかったので実母と実姉と私の3人。。。。。微妙。。。。身近すぎてか、娘婿とか孫がいないから遠慮がないせいか、母の口の悪さが炸裂してた。。。。80を超えた母はとにかく気が強い。私と姉に「こうしてほしい。ああしてほしい。」っていつも言ってる。私にも「子供が親の世話をするのはあたりまえ!」ってはっきり言う。私も姉もできることはしてるつもり。でもやってもらったことは忘れてしまっていつもいつも欲求ばっかり。相手には優しい言葉をかけないけど、いつもいつも自分にはかけて欲しい。そんな感じ。愛情とか優しさはキャッチボール。返さなくちゃ返ってこないのに。救われるのは姉には私がいるし、私には姉がいること。お互い母に対しての悩みは同じ。だから前に朝イチでやってた「母が重い」ってほど深刻にならないですんでると思う。わかってくれる、共感してくれる人がいるって心強いことだと思う。家に帰ってくると家族のありがたみがわかる。優しい旦那でよかった~~病気がちだけど、優しい息子でよかった~~って。ぐさぐさ傷つく言葉は家の中にはないから。自分にいつも笑顔が戻ってくるのがわかる。母には悪いけど、やっぱりネガティブな空気が流れてるところにずっといるのは辛いから。朝イチのカウンセラーが「自分が幸せになることが最高の親孝行」「母とは義務的に会わなくてよい」って言ってた。親との関係がこじれて拒食症になったり、うつ病になったりする話もあると聞く。だから私は自分の家庭を大事にしていつものように笑顔で楽しく過ごしていこう。イオンモールのお花やさんで買った福袋。薔薇はやってないけどお花の好きな姉のために持っていこうと思って昨日購入。ミニ薔薇は私がもらっとこ♪ひらひらの可愛いシクラメンこれと白いシクラメンを姉へ。家の中もお花いっぱいになっちゃうかな。。。A good laugh is sunshine in a house.楽しい笑いは家の中の太陽である。にほんブログ村
January 2, 2015
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母がまた入院した。でも今回の入院は手術はなさそう。口の悪い母は健在なのだ。頭もしっかりしていて、看護婦さんの間違えなんかもすぐ指摘する。母を見てると認知症を予防するヒントが見えてくる。母はおしゃべりでユーモア好き。ここ二年ほど老人ホームに入ってる。そこでは7,8割の人が認知症だという。軽い認知症の人たちは毎日スタッフの人に「○○さん、今日は何月何日ですか。」と聞かれるらしい。その中の一人が聞かれる前に母のところに来て「今日って何月何日?」って聞きに来る。悲しいかな。教えてあげても忘れてしまう。「聞かれるのがいやだ。」って愚痴こぼす人に母は「今度聞かれたら、”パス”って言いん。(言ったら)」と変な知恵をつけたらしい。しばらくスタッフの人たち「パス」「パス」と答える人たちで困ったらしい(*´ω`*)ゞまたある日明細書をじっと見てて一言。「私の食費みんなより一日数百円高い。納得いかん。。。一ヶ月にしたら数万違う。。。」元銀行員、、、お金にうるさい。母は塩分制限ありの食事なのだ。「私の味噌汁はお湯が後から入れてあるだけ。そんなの自分でやるし。」そうじゃないと思うけどね。。。(-_-)しかもお湯足しただけなら塩分量変わらんし。。。たまにわけのわからん下ネタも言う。それに一緒に笑ってる私も私だと思うけど、、、(´+ω+`)今日の庭風景二番花の蕾はいっぱいなのだけど、今はスキャボロフェアのみこれでもかって咲いてる。一番花より花つきよし。しかも下向き加減の花はない。名無しのミニバラ。ベル型の黄色いクレマチスハンギングのペチュニアハーブ オレガノの白い花体は小さいのに大きな花を咲かせてるアナベル駐車場のポーチュラカこれ以上広がると車のタイヤに踏まれそう。。。薔薇の二番花が咲くまで小さい花も楽しもう♪にほんブログ村
June 15, 2014
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今日は実家の母が銀行、郵便局などに連れて行ってほしいというので車で実家へでかけた。今姉と暮らしている母だけれど、フルタイムで働いている姉の行けない昼間の用事の時は時々頼まれて私が実家に行っている。父が亡くなって一年半。私にとって身近な人が亡くなったのは父が初めてだった。まだいまだに実家に行くと父が「よく来たな。」と喜んでくれる姿を思い出す。父は孫4人をとてもかわいがってくれていた。とりわけ、まだ小学生だった一番小さい孫の息子が実家に行くとすごくうれしそうだった。亡くなる前の数年はほとんど耳が聞こえてなかったけど、それでも息子と父は必ず二人で碁盤の前に座っていた。耳の聞こえない父と寡黙の息子。ちゃんとコミュニケーションできているのかなって思ったこともあるけど、息子もおじいちゃんと碁や五目並べをやるのが好きだった。ちゃんと愛情を感じていたのだと思う。亡くなるその日の午前中に入院している父と最後に話したのは私だった。自分はひざが反対側に曲がるほどの骨折をしたのに、最後まで息子のことを心配してた。そして車で帰る私に「気をつけて帰れよ。」の言葉が最後だった。その午後容態が急変した。ほんとに優しい父だった。亡くなったばかりの頃は泣いてばかりだった母も最近はずいぶん元気になった。自分の体のことを悲観して暗くなることもあるが入院していたころに比べたら元気そうだ。その母がひさしぶりに涙声でいう。「あんたと○○(息子)が今から来るって電話で聞いたときのほんとにうれしそうなおじいちゃんの顔が忘れられない。」って。私も思わず涙がでそうになったけど、なんとかごまかした。「うん、そうだね。」って。私には霊感とかは何もないけど、父の仏壇の前に座って父の笑顔の写真を見るといつでも心が暖かくなる。おじいちゃん、これからもずっと見守っててね。息子がいつか元気になって好きな夢を追いかけられる幸せな人生を送れるように。
July 9, 2008
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今日は父の遺骨がお墓に納まった。そのお墓から実家の屋根が見える。父は生前からここなら家が見えるからとすでにお墓の土地だけは購入してあった。母もだいぶ元気になってきたので、お墓の墓石ことやら、仏壇のことやらいろいろ決めることができるようになった。母もしばらくは入院中だったのでここまでくるのにゆっくりになったけど、慌てずできてよかったと思う。父の残したものの中に真新しい地図がでてきた。「日本大地図」と「日本名所地図」だ。かなりりっぱなものだった。名所の地図の方は日本の川、桜、橋、祭り、山、城、滝などを初め、名所100選がたくさん載っていた。母が息子にもらってほしいという。一番小さな孫だった息子が見てくれると父も喜ぶという。なくなる最後の日まで父は息子のことを心配していた。父は天国から今でも息子のことを見守ってくれていると思う。母のことも姉のことも4人の孫のことも私のことも。父のことを考えると暖かい気持ちになる。体はなくなっちゃったけど、父の残した愛情はみんなの心の中にいっぱい残っているのだ。私も無条件で愛してくれた父のように大きな愛で子どもたちを包んでいけるといいと思う。 何見てるの?
June 4, 2007
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母が心不全で救急車で運ばれ、救急病院に入院してから三週間がたった。入院したころは比較的、元気だった母も最近はめっきり元気がない。もちろん長年連れ添った夫を亡くしたこともあるし、自分の体もまだとても辛いからだと思う。救急病院は心不全が落ち着いたということで出ることになり、今は私の家から20分の病院に入院中だ。午前中、ほとんど毎日行くようにしている。体がつらく、入院しているから悪いほう悪いほうに考えてしまうんだろうか。弱音をよく吐くようになった。母の望みは自宅に帰ること。でも今のままではとても無理。姉が一緒に住んでくれるにしてもフルタイムで教師をしているから昼間は1人。でも何をするにもとても1人じゃ無理な状態だ。私の家で息子の部屋に母を連れてこようかと考えたこともある。でも階段だらけで二階にあがるのはとても無理だし、母自身も毎日何十人も生徒さんが来るところでは休まらないと言う。病院を転院したころには伝え歩きでトイレにも行けたのに、ここ数日あまり食欲がないためか手足に力が入らなくて立ち上がるのもたいへんそうになってきた。なんとか早く元気になってもらいたい。息子のように楽しいことを考えるようにしなくちゃ。最近、息子は家では調子がいい。ペットセラピーの効果絶大なようだ。犬と戯れて笑顔が多く見られる。母も好きなことがあるといいのにな。趣味があまりないからなあ。Laughter is the best medicine. 笑いは最高の薬。 たまご・・・ナメナメ☆
January 31, 2007
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お通夜、葬儀が無事終わった。葬儀屋さんで行ったのだけど、主催する側がこんなにも大変だとは思わなかった。すべてが初めてのことで姉と二人でここ数日間駆けずり回っていた気がする。悲しみに浸るひまもなく。救われたのは父が穏やかな顔をしていたこと。亡くなるその日まで好きな短歌を書いていたし、好きな相撲もみたいって言ってた。もちろんひどい骨折でつらかったのだろうけど、薬が効いていたのか、つらい症状を私に見せまいとしていたのか、私には一度もつらいとは言わなかった。着替えのときはつらいって言ってたけど。体の中の酸素が少なくなり、そのまま意識不明になり、ひどく苦しむこともなく逝った父。心不全と診断された。いつもの優しい穏やかな顔で今にも話しかけてくれそうだった。お通夜の晩、姉と私と息子とそして父と葬儀屋さんにそのまま泊まった。夜中三時におなかがすいて、おすしの残りとおまんじゅうを父の隣で食べた。父に話しかけながら。不思議と父だと思うと見守ってくれている気がして少しも怖くなかった。むしろうれしかった。母は葬儀だけ、病院から外出許可をもらって参列することができた。息子もお通夜の半分とお葬式はほとんど参列することができた。姉のお通夜と葬儀の挨拶には、父の書いた日記が読まれた。私、孫4人を初め、親戚のほとんど、参列者のほとんどが泣いていたそう。みんなに好かれていた父。晩年は耳が遠くなり、寂しそうだった。もっと話し相手になってあげればよかった。もっと娘と息子を連れて頻繁に遊びに行けばよかった。ごめんね。父の娘に生まれてよかった。 おとうさん、ありがとう。
January 21, 2007
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mintさん、fateさん、Iku*さん、ひままたさん、その他ブログを読んで心配してくれた皆さん、ありがとうございます。心配かけてます。一人一人にコメントのお返事ができなくてごめんなさい。今日お通夜で明日葬儀になります。母も入院中なので姉とおばと私で走り回ってます。忙しくて泣いてるひまはないですね。まる一日中留守にしている間犬たちの世話を息子がやってくれています。主張先から夫が大急ぎで今日帰ってきます。娘もごはんのことなどやってくれてます。今日から私だけ泊まりで行きます。息子がきちんと起きて土曜日のお葬式に行けるか心配です。でも亡くなるその日まで一番小さい孫の息子のことを心配していた父。息子と二人でSLを見に旅行に行きたいってずっと言ってた父。筆まめでよく孫たちに手紙をくれた父。実家に遊びに行くと必ず碁と五目並べで息子と遊んでくれた父。おじいちゃん、待っているから、、、行けるといいと思います。
January 19, 2007
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今日、父が亡くなりました。最後まで家族、孫たちのことを気遣ってくれてた。午前中、私が面会した時はまだ大丈夫だったのに。今日の午後3時から足の手術の予定だった。その前に急に容態が悪化して私は間に合わなかった。午前11時帰り際にいつものようにおじいちゃんがかけてくれた言葉。「気をつけて帰れよ。」自分の体の方がよっぽどつらいのに、、いつも優しかった父。さようなら。He was the kindest man I've ever known.私の知る人の中で一番やさしい人だった。
January 17, 2007
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母が三日前に入院した。心不全だ。昨日父を連れて病院に行った。そのときは比較的元気に話ができた。でもその日の朝、入院中、意識が飛んで初めて電気ショックをやったと話してくれた。苦しかったに違いない。でも母はすごい。そんなときでもユーモアを忘れない。今度の主治医はジャガー横田のだんなさんにそっくりだったと教えてくれる。あの強さは見習いたいと思う。母と父は二人暮し。母が入院したことで気落ちした父をおいて家に帰った。私の家から実家まで車で45分くらいかかる。夕方姉から電話。今度は父が自転車で転んで足を折ったという。よく聞くと反対側に足が曲がっていたぐらいひどいけがで救急車で運ばれたそう。そういうわけで今、父も母も同じ病院に入院中だ。第三者のように冷めた気持ちで日記を書いた。そうしないとつらいから。すべてがうまくいかない、大変なときって人生にはある。今日また病院に行ったとき、両親は今自分たちのことで大変なのに孫の○○(息子)のことも気にかけてる。「冬休み過ぎて学校に行けたか」って。心配させないためにどれだけ「行けたよ」って答えたかったか。でもいつかはわかってしまうから正直に「まだだよ。」と答えた。しかたないよね。病院帰りに姉と実家のかたずけをし、両隣にあいさつをして帰ってきた。家ではmilkとku-chanの世話をしてくれた夫と息子。家に帰ってきてほっとした。あしたからは夫は二週間の出張。私は自分の体を大切にしながら、仕事、病院の行き来とやっていかなくちゃね。私がいない間は息子が犬たちの世話をしてくれると思う。いつかは出口がある。それまでいろいろがんばらなくちゃ! 枕の間で寝るのはあったかくて気持ちいい。"Will this matter a year from now?" 一年たてば、すべて過去。
January 13, 2007
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