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「信玄」とは(
出家
後の)
法名
で、正式には徳栄軒信玄。
1915
年
(
大正
4年)
11月10
日
に
従三位
を贈られる。
Ø 甲斐の 守護 を務めた 甲斐源氏 武田家第18代・ 武田信虎 の嫡男。先代・信虎期に武田氏は 守護大名 から 戦国大名 化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・ 信濃 に侵攻する。その過程で 越後国 の 上杉謙信(長尾景虎) と五次にわたると言われる 川中島の戦い で抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、 駿河 、西 上野 および 遠江 、 三河 、 美濃 、 飛騨 などの一部を領した。
Ø 次代の 勝頼 期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、 西上作戦 の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。
3「武田 信虎」
武田 信虎 (たけだ のぶとら)は、 戦国時代 の 武将 、 甲斐 の 守護大名 ・ 戦国大名 。 武田信玄 の父。 甲斐源氏 の 宗家 ・ 武田氏 第18代当主。
信虎の出生と生年
明応3年(1494年)もしくは明応7年( 1498 年 ) 1 月 6 日、武田氏の第17代当主・ 信縄 の嫡男として生まれる。初名は 信直 (のぶなお)。
生年の明応3年説は 江戸時代 前期に成立した 軍記物 『 甲陽軍鑑 』に天正2年に81歳で死去したとする記述から逆算されたもので、江戸後期に編纂された地誌『 甲斐国志 』では武田氏に関する記述の多くが『甲陽軍鑑』に拠っており、これを追認している。
また、昭和戦前期には広瀬広市が信虎の菩提寺である甲府市古府中町の大泉寺過去帳・ 位牌 に記される「天正2年3月5日逝去81歳」から逆算して明応3年を生年としている。
明応3年説は昭和戦後期に 磯貝正義 、 上野晴朗 、 笹本正治 、 小和田哲男 らによって支持されてきたが、 2006 年 には 秋山敬 が『 高白斎記 (甲陽日記)』や『大井俣神社本紀』に記される明応7年正月6日であった可能性を指摘している。
平山優 も大正時代に原本は焼失したものの、『甲斐国志』にその引用が残されている 古長禅寺 所蔵の『武田信虎誕生疏』が『大井俣神社本紀』の記事を裏付けるものであるとしている。
なお、信虎の母に関しては古くは『甲斐国志』の記事により信縄正室の崇昌院と考えられてきた(人物部第三)が、一方で信縄側室の岩下氏の出身地である岩下村(現在の山梨県笛吹市春日居町岩下)に信虎の誕生屋敷があるとも記されてきた(古跡部第一)。ところが、廣瀬廣一が信虎の祖父である 武田信昌 の菩提寺であった永昌院の住持であった菊隠瑞潭の法語集である『菊隠録』の中に岩下氏を信虎の母、岩下越前守を信虎の母の兄とする付箋があることを指摘し、岩下氏生母説が有力となった。
また、平山優は崇昌院生母説の根拠の1つとされてきた高野山十輪院の『武田家過去帳』にある彼女を「甲州武田信虎御母様」と表記に疑問を呈し、「御母様」という表現になっているのは崇昌院が信虎の生母ではなく、側室所生の信虎を正室である彼女の子として位置づけたことによるものである、と指摘している。
また、平成20年(2008年)に山梨県笛吹市が実際に誕生屋敷の伝承地を発掘調査をしたところ、16世紀初頭の武家屋敷とみられる遺構の存在が確認されており、少なくても岩下氏の一族がここに屋敷を構えていた事実は確認されている [6] 。
武田宗家の統一
室町時代 の甲斐国では、 応永 23年( 1416 年 )の 上杉禅秀の乱 に守護・ 武田信満 が加担して滅亡したことをきっかけに守護不在状態となり、河内地方の 穴山氏 や郡内地方の 小山田氏 らの 国人 勢力や 守護代 の 跡部氏 らが台頭し、乱国状態となっていた。
寛正6年( 1465 年 )7月には守護・ 武田信昌 が跡部景家を滅亡させると甲斐国内の実権を握り、明応元年( 1492 年 )には信昌の嫡男・ 信縄 が家督を相続した。信昌は 山梨郡 落合( 山梨市 落合)において隠居すると、信縄の弟である 油川信恵 に家督を譲る意志を示し、家中は信昌・信恵派と信縄派に分裂した。
信縄・信恵間の抗争は両者に甲斐国人が属したほか対外勢力とも関係し、 伊豆国 の 堀越公方 では内紛が発生し、 駿河国 の 今川氏親 と、将軍 足利義澄 の命を受けた 伊勢宗瑞 (北条早雲)により 足利茶々丸 が追放されると信縄は茶々丸を支持し、さらに 上野国 の 山内上杉氏 とも結んだ。対して信恵は駿河国の 今川氏親 ・ 伊豆国 の伊勢宗瑞と結び対立した。
明応7年( 1498 年 )8月25日に発生した 明応地震 の影響により信縄・信恵間には和睦が成立し、『王代記』によれば甲斐都留郡の吉田( 富士吉田市 )に亡命していた足利茶々丸は伊勢宗瑞に引き渡されて切腹した [8] 。信縄が家督を継承し、 永正 2年( 1505 年 )9月16日に信昌が死去し、『 菊隠録 』によれば永正3年10月17日に生母岩下氏(信縄側室)が、『 高白斎記 』によれば永正 4 年2月14日には信縄が続けて死去する。
これにより信直(信虎)が家督と甲斐守護職を継承し、再び信恵派との抗争が再開される。
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