歴史の回想のブログ川村一彦

歴史の回想のブログ川村一彦

PR

プロフィール

歴史の回想・川村一彦

歴史の回想・川村一彦

カレンダー

コメント新着

終末の預言 @ 終末の預言 ルカによる福音書 21章 21:10そして更に、…
日本真空管大全の著者@ Re:「戦後日本の回想・30年」トランジスターラジオ発売。    川村一彦(02/18) 大変面白く拝読させていただきました。 な…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2024年11月23日
XML
カテゴリ: 安土桃山時代




元亀元年(1570年)、信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前国の朝倉方の城を攻め始める。長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から急襲。信長は殿を務めた木下秀吉らの働きにより、近江国を脱出した( 金ヶ崎の退き口 )。


信長との同盟に反対していた家臣達は、信長が朝倉攻めに際して一報を入れなかったことから、隠居の久政をかつぎ出し、長政に織田軍への進撃を提案したと言われている。敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録はない。


また、そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、金ヶ崎の戦いでの織田軍は、目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もある。


同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)。


先鋒の磯野員昌が織田軍の備え13段のうち11段まで崩す攻撃を見せ、織田軍は敗走の用意をしていたという逸話はあるものの、信憑性は薄い。結局この戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わった。


なお、当時浅井軍の足軽だった藤堂高虎は、姉川の戦いに参戦し、織田軍に対し武功を上げて長政から感状を送られた。


姉川の戦いの後、信長に脅威を覚えた本願寺(野田城・福島城の戦い)が、反信長の意志を表した(信長包囲網)。9月には朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成や織田信治らを討ち取る。だが、信長が足利義昭に和睦の調停を依頼し、さらに朝廷工作を行ったため、12月に信長と勅命講和することになる。


また、浅井氏と協力関係にあった延暦寺は、元亀2年(1571年) 9 月に信長の比叡山焼き討ちにあい、壊滅してしまった。


武田信玄との連携


元亀3年(1572年)7月、信長が北近江に来襲した。長政は父の代からの同盟者である朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた。信長との正面衝突にはならず睨み合いが続いたが、浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況であった。


遅れること同年9月、将軍・足利義昭の要請に応える形で武田信玄がやっと甲斐国を進発する。信玄はこの時、長政・久政親子宛に「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候」という書状を送っている。


同年10月宮部城の宮部継潤が羽柴秀吉の調略で降伏、その後信玄の参戦を機に北近江の信長主力が岐阜に移動した隙を突き、虎御前山砦の羽柴隊に攻撃を仕掛けるも撃退されてしまう。その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を撃破し(三方ヶ原の戦い)、三河に進んだ。


同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国した。信玄は義景の独断に激怒し、再出兵を促す手紙(伊能文書)を義景に送ったが、義景はそれに応じず、黙殺的態度を示した。それでも信玄は義景の再出兵を待つなどの理由で軍勢を止めていたが、翌年2月には進軍を再開し、家康領の野田城を攻め落とす。


しかし、信玄の急死により、武田軍は甲斐に退却した。これにより包囲網は一部破綻し、信長は大軍勢を近江や越前に向ける事が可能になった。


浅井家滅亡


天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を落とし、浅井家中にも寝返りが相次いだため、浅井氏の救援は不可能と判断した義景は越前国に撤退を始めた。


撤退する朝倉軍を信長は追撃して刀根坂にて壊滅させ、そのまま越前国内へ乱入し朝倉氏を滅亡させた後( 一乗谷城の戦い )、取って返して全軍を浅井氏に向けた。


浅井軍は、信長の軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の小谷城(滋賀県長浜市)が、織田軍に囲まれる。信長は不破光治(同盟の際の使者)、さらに木下秀吉を使者として送り降伏を勧めたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂した。


8月27日父の久政が自害。『信長記』には翌28日に長政は小谷城内赤尾屋敷にて自害したとされるが、29日に出された長政の片桐直貞に対する感状が発見され、命日は9月1日であることが判談できる。


この感状において長政は、同年7月末に信長主導で行われた改元後の元号「天正」ではなく、足利義昭が主導して改元された前の元号「元亀」を使用している。これを信長に対する抵抗の意と解釈する説がある。


ただし改元の同時期に浅井勢は既に小谷城に籠城しており、外界の情勢に疎かっただけとも考えられる。


享年29。墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺。


『信長公記』には、天正2年(1574年)の正月、内輪の宴席において薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景・久政・長政の頭蓋骨を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。また、『浅井三代記』にはこれらの髑髏を杯(髑髏杯)にしたとある。



姉川の戦い (あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日 / グレゴリオ暦8月9日)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。


「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。


合戦までの経緯


尾張(愛知県西部)出身の戦国大名である織田信長は、駿河の今川義元を討ち取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政には、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいた。


信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢父子を破り( 観音寺城の戦い )、足利義昭を奉じての上洛を果たした。


その後、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前の朝倉義景に対し、元亀元年(1570年)4月に信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁(同盟関係、主従関係とも)も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。


優位から一転、挟撃される危険に陥った信長は撤退を開始。信長の家臣たちは「金ヶ崎の退き口」を経て退却した。


開戦


織田軍の撤退後、朝倉義景は自身は敦賀に滞陣し、戦後処理や浅井長政との連絡に努め、5月11日に一族の朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に進発させる。朝倉軍は浅井軍とともに南近江まで進出し、六角義賢と連携し信長の挟撃を図ったが、この連携はうまくいかず、信長は千草越えにより5月21日に岐阜への帰国に成功し、六角軍は6月4日、野洲河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛に敗れてしまう。


このため、浅井・朝倉軍は美濃の垂井・赤坂周辺を放火するとともに、国境に位置する長比・苅安尾といった城砦に修築を施し兵を入れて織田軍の来襲に備えた。朝倉軍は6月15日に越前へ帰陣するが、前後して長比城に配置された堀秀村・樋口直房が調略により信長に降り長比・苅安尾両城は陥落する。


これを受けて6月19日、信長は岐阜を出立しその日のうちに長比城に入った。


6月21日、信長は虎御前山に布陣すると、森可成、坂井政尚、斎藤利治、柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆、木下秀吉、丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせた。翌6月22日、信長は殿軍として簗田広正、中条家忠、佐々成政らに鉄砲隊500、弓兵30を率いさせ、いったん後退した。


6月24日、信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。


ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。一方、浅井方にも朝倉景健率いる8,000の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵5,000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000となった。


6月27日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが、翌28日未明に姉川を前にして、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した。これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が向かった。


午前6時頃に戦闘が始まる。


浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長記)」という激戦になったが、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面から攻めさせた。まずは朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走した。結果的に織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。


信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れた。


奇襲説


姉川の戦いは朝倉・浅井軍の奇襲であったという説を高澤等は唱えている。6月27日早朝に浅井・朝倉軍は一旦大依山から姿を消した。


この時の状況を『信長公記』では「六月廿七日の暁、陣払ひ仕り、罷り退き候と存じ候のところ廿八日未明に三十町ばかりかゝり来なり」と陣払いして退却したと思った浅井・朝倉軍が突然として距離三十町のところに現れた様子を記している。織田軍は敵勢が陣払いしたと勘違いして再び軍勢を横山城の包囲体制に戻し、織田軍は本陣の背を突かれる形となり両軍陣形を整えず即座に戦いに突入したとする。また姉川の戦いは両軍日時を取り決めた合戦だったとしている。



合戦の影響


姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が信頼していたと言われている重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、浅井政澄、弓削家澄、今村氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた武将が戦死した。朝倉氏では真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死した。


両軍は戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出した。一方、初期戦闘で苦戦した織田方では坂井政尚の嫡子である尚恒らが戦死している。横山城は降伏、信長は木下秀吉を城主にした。


この戦いには敗れたがこの時点では浅井・朝倉連合軍にはまだ余力は残っており、近江、越前周辺では比叡山の僧兵衆や石山本願寺の一向一揆と手を結び、湖西の志賀郡などで攻防戦が繰り返された( 志賀の陣 )。


これらの戦いでは織田方の被害も軽微なものとはいえず、信長の実弟織田信治をはじめ森可成、坂井政尚などの諸将を失った。


信長は浅井・朝倉を支持する比叡山を焼き討ちするなど、周辺敵勢力の掃討に打って出た。また、軍事力だけでは攻略は困難と判断した信長は諜略によって浅井家の内部分裂を謀った。


その代表例が姉川の合戦で最も武功をあげた磯野員昌の離間である。姉川の合戦により領国が南北に分断されてしまっていたため犬上郡の佐和山城を守備する磯野員昌らは孤立してしまい物資の補給すらままならない状態であった。そこに目をつけた秀吉が浅井家家中に員昌内通の風説を流し、長政らに員昌に対する疑念をもたせることに成功、長政は再三にわたる員昌からの物資補給の要請をすべて拒絶し、兵糧が残り少なくなった員昌はついに織田方に投降し浅井滅亡の流れを決定付けることとなった。


次第に弱体化していった浅井・朝倉両氏は大局的な戦略に方向転換し甲斐の武田信玄や本願寺顕如らと組み信長包囲網を形成していく事になる。



天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きしなかった。このように仕官先を転々として流浪生活をしている間、無銭飲食をしたという話も残っている。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024年11月23日 06時04分22秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: