全13件 (13件中 1-13件目)
1
スリランカの観光地No1といえばシギリヤ・ロックである。ジャングルの真ん中にポツンと195mの岩の塊があり頂上には空中宮殿と呼ばれる遺跡があることで有名だ。ペルーのマチュピチュと似たようなスポットってことで日本の番組でも何度も紹介されてるので知ってる人もいるだろう。【シギリヤ(シーギリヤ)の解説はwikiで】シギリアに向けてロハンとヒランタと僕の3人で出発。ピタコッテから車で4時間ぐらいの距離なのだがレンタカーのエンジンが故障して途中の修理工場でピットイン。青い服がロハン、白い服がヒランタ。日本の解体屋ではせいぜい100円程度、もしくはタダで持ってけや!のプラグカバーの中古がスリランカでは4000円。修理工賃200円。こりゃ日本車の中古パーツを輸出すればボロ儲けだわ。シギリヤ到着。想像をはるかに超えたデカさ。残念ながら雨が降ったり止んだりの天気。入場料は外国人4200スリランカ・ルピー、或いはUS30ドル(約3300円)、スリランカ人の入場料はたったの50ルピー(約40円)という格差。US30ドルといえばスリランカの入国VISAと同じ値段だがまあスリランカ国家のために大奮発してチケットを買う。というつもりだったがロハンが「ご招待」と言って払ってくれた。しかし30ドルの価値は大いにある。(払ってないけど)とにかく素晴らしいの一言に尽きる。 シギリヤ・ロックの表面。当時はこの岩全体が巨大ライオンの姿に彫られていたのだが今では両前足の部分だけがきれいに残っているだけだ。シギリア・ロックのどの部分を写しても芸術的な写真が撮れる。シギリア・ロックの前では人間なんぞ小さな蟻と同じだ。側壁につけられた階段から山頂に向かう。天気はどんどん荒れて来て暴風雨となる。ここは快晴の日に来たかったので残念。360度のジャングルが見渡せる空中宮殿は大きく、まるでアユタヤのワット・マハタート規模の遺跡が巨岩の上にある感じなのであった。シギリヤはスリランカ旅行では絶対にお薦めのスポットだ。ちなみにガイドするよ、と言い寄って来る人が多いけどここは解説を聞くスポットではなく「感じ取る」スポットだ。俺、独りで来たら1日中ここを散策してるだろうな。
2016年01月31日
コメント(6)
スリランカにはインド製の3輪タクシーがやたら多い。呼び名はタイと同じで「トゥクトゥク」と呼ぶ。バス燃えてました。そういえば23年前、娘が当時4歳の時にバリ島の田舎道で乗ってたミニバスから出火して逃げ降りたことあったなあ。元旦のコロンボ市内のメインロード。いつもなら大渋滞の道路らしいがガラガラ。「こんな光景見たことない」と同行のスリランカ人が言ってた。シンハラ語で書かれた看板。どうしてもカエルさんが怒ってる顔に見えるんだけど。市内のモスク。中を見ると多くの人が礼拝をしていた。そういえばコロンボでもピタコッテでもニゴンボでも路地でビディーを吸ってたりスーパーで買い物してたり安食堂でご飯食べてたりしてたら色んな人達に写真撮られた。そんでわざわざケータイやスマホで撮った写真を僕に見せて親指を突き立てて「Good!」と笑って握手されたな。アレ、絶対誰か有名人と間違えてるかもなあ。ピタコッテの夜の仏教寺院。ライトアップされ過ぎで俗っぽい。
2016年01月29日
コメント(6)
「おい、サイトーはクリスチャンなのか?」僕が食卓の料理を前にして両手を合わせているからだ。「いや、無宗教だ。日本では食前・食後に手を合わせるんだ」たとえばチキンの料理があるだろ?そのために鶏を殺すだろ?その命と引き換えに俺達は食事をするわけだ。鶏の命に手を合わせる。弔い、いや違うな、感謝なのかな。それから米が食卓に並ぶまでにはすごい労力がかかってる。稲を植えたり水をやったり収穫したりの工程があるからだ。それらをしてくれた人達への感謝として「いただきます」、料理してくれたこの家の家族への感謝の気持ち、それが「いただきます、ごちそうさま」という言葉なんだよ。正月の料理としてココナッツで作った白い食べ物があった。それからスパイシーなサモサ、裏庭で獲れたバナナ、カステラ。おいしい本場のセイロンティーはミルクと砂糖たっぷりだ。少々スパイスが入れてあって紅茶というよりマサラチャイだ。ロハンの実家には母親と妹夫婦が住んでいてBMWのバンに乗っているんだな、と思ったらインド製のバンだった。フロントのデザイン同じじゃねえか。居候先の近くにある線路。ロハンのipadでコロンボ市内のシルバーアクセ問屋を検索。どうやらコロンボのエリア3という地区に問屋が集まってるようだ。ロハンが借りてきたレンタカーでエリア3に向けて出発。しかし元旦のため店はほとんどが閉まっていた。
2016年01月28日
コメント(4)
飛び乗ったコロンボ行きローカルバスの窓からは真っ青な空と海がずっと見渡せていた。ビーチでのバカンスはアッという間だったなあ。しかし、過ごした時間は濃かった。4時間か5時間ぐらいでコロンボ駅に到着した。駅前の商店で居候先であるピタコッテへの行き方を訊いた。103番バスに乗り、途中で168番バスに乗り換えた。バス内に流れるインドのPOPS音楽があまりに心地良かった。スリランカでもラタ・マンゲシュカールの歌声は人気があり彼女の声を聴きながら至福の時間を過ごしていた。バスが停まった。いつの間にか寝てしまっていた。ん?周りの乗客が誰もおらんぞ。車掌さんもいない。バスを降りようとしていたドライバーさんに「ココはどこ?」と尋ねたら聞いたことのない街の名前。そこからピタコッテに辿り着くまでが大変だったが何とか居候先に戻ることができた。住所を書いた紙切れを持ってなかったらスリランカで迷子になっているところだった。初めて訪れる国なのに地図すら持ってないのだし。(これ、ワタクシのバッグ。8泊9日の海外旅行の荷物はこれだけ)居候先の家族と晩ご飯を食べた後に外出。7年前に日本の藤棚の下で偶然出会ったマンガラさんは閑静な住宅街に立派な3階建ての家に住み、レストランを経営している。久し振りの再会に話が弾む。外では新年を祝う爆竹の音が凄まじい。大晦日の夜はそうして楽しく更けて行ったのだった。
2016年01月27日
コメント(6)
そういえば朝から何も食べてなかった。海岸沿いには安食堂が1軒あるだけだった。あとは津波によって土台だけになった集落の跡だけだ。家族でやっているらしい食堂では質問攻めに遭う。日本人だと分かると非常に喜んでくれる。ネパールも親日的だったがスリランカは更に親日的だ。窓から入る海からの静かな風を受けながら食事。どこからともなく近所の子供達が集まってくる。食べ終わってまた波打ち際に沿って歩き出す。ゲストハウスまで1時間以上かけて戻った。荷物をまとめて(まとめるまでもないけど)チェックアウト。ヒッカドゥアの駅まで行ってそこからコロンボに帰ろう。歩いているとおじさんが声を掛けてきた。「ヒッカドゥアからコロンボ方面の電車は2時間先だぞ」「じゃあバスで帰ろうかな」「ワシもそっちに行くんだ。お、このバスだ、乗れ!」基本的にアジアのローカルバスにはバス停はない。手を挙げれば停まってくれるのである。徐行するだけのバスに走って飛び乗る。この瞬間がたまらなく愉快だ。旅をしている、サイコロを転がしている、そんな気分だ。
2016年01月24日
コメント(10)
スリランカのビーチまで列車で行こうと思ったのは2004年に起こったスマトラ沖地震の津波被害によってその列車が呑み込まれ多数の被害者を出したからだった。シニガマ村のゲストハウスの家族達に津波のことを訊いてみた。「私達家族は高台に逃げて全員無事だった。 でも隣りの果物屋の女性は子供を亡くしたよ」翌朝、僕はその果物屋でフルーツジュースを買った。「今日はどこに行くの?」と果物屋の彼女。「ビーチを歩いて、夜にはコロンボに帰る予定だよ」「じゃあ津波博物館を見学して。バスで10分ぐらいよ」バスには乗らずのんびりと1時間以上歩いて行った。30分も歩いた頃、僕はただ呆然としていた。道路沿いに無数のお墓が建っているのだ。そしてそこに明らかに集落があっただろう痕跡。建物の土台だけが残っている。村が壊滅したのだろう。津波博物館に到着。日本では絶対に公開されない死体の山の写真。列車が流されて乗客の死体が山積みになった写真。死んだ子供を抱えて泣いている母親の写真。あとは津波のメカニズムなんかが展示されていた。館内を案内してくれた女性に訊いてみた。「あなたの家族は大丈夫でしたか?」「子供を2人失いました。津波に呑まれて手が離れてしまった」彼女が淡々と当時の状況を説明してくれた。もう涙が枯れるほど泣いたからなのか、津波博物館の案内係として職務中だからか。堪え切れずに僕は泣いた。そうして彼女も泣いた。「日本の援助には本当に感謝しています」と彼女が顔を上げる。そういえばこの周辺の橋の多くは日本の国旗が刻まれ【この橋は日本の援助によって作られました】とある。多くの親が子供を失い、多くの子供が親を失っただろう。スリランカのビーチ沿いで3万5千人以上が亡くなったのだ。それでもこの辺りの子供達はきれいな瞳を輝かせて「ハロー!ジャパン!」と僕に手を振るのだった。自転車に乗ったおっさん達も「アユボアン!」と笑ってくる。海の青さはただ無邪気に青いのではなく深い悲しみを含んだ青さなのかも知れない。僕はこの半日だけで自分の意識が明らかに変わった。
2016年01月21日
コメント(8)
頭の中で描いていた「南の島のビーチ」の究極の1シーンは澄み渡った青空の下にコバルトブルーの海がどこまでも続き、波が打ち寄せる砂浜にヤシの木の影、というものだった。妄想のシーンを探すために列車に揺られて浜辺を歩いて「ああ!これこれ!」とうっとりと立ち尽くす。昨夜泊まったゲストハウスに荷物は全部置いてきた。ポケットに無造作に突っ込んだスリランカ・ルピーと手に持ったデジカメ、それからニゴンボで買ったビディー。このビディーというタバコは「ベガーズ・シガー」と呼ばれていてそのまま日本語に訳せば「乞食のタバコ」だ。サンダルを脱いで波打ち際へ。手ぶらの旅は気持ち良い。守るもの、失うものがないんだから。砂浜に揚げられたアウトリガーの舟。ああ、この舟で沖に出てダイブしたいな。豪華クルーザーに乗るよりこちらの方がいいよなあ。180度の海岸線。見渡す限り誰もいない。ここは多分、スリランカで最もきれいなビーチだ。名所ヒッカドゥアからずっと歩いて来たけれどもこんな無名の誰もいないビーチの方がきれいなんだから。砂山を作ってトンネルを掘る。今日は全くの自由。時間なんてどうでもいいんだ。砂山を作ってデジカメでセルフタイマーにして記念撮影。50歳の中年男性が独りで浜辺で砂山作ってカメラを置いてまた砂山まで歩いて戻って写真を撮る、っていうのは傍から見たらすげえ虚しく映るだろうが(笑)本人は大はしゃぎで鼻歌なんか歌っておる。白痴が幸せ。何の悩みもなく全てにおいて自由。この広い空の下、本当に誰もいないビーチ。具体的に言うと場所はどのあたりなんですか?そんなことは自分で歩いて探し当てろ。魂が、本能がそこに導いてくれるから大丈夫。
2016年01月19日
コメント(10)
夜中に海辺の仏教寺院から読経が聞こえて来た。拡声器を使って村中に響き渡るようなボリュームである。時計を持っていないので時刻は分からないが空に浮かんでいる月の移ろい具合からして深夜3時ぐらいか。夜中のビーチで夜を明かすのも悪くないだろうと思いゲストハウスを出て真っ暗な浜辺に向かう。月明かりに照らされた海、空には天の川。ビーチの乾いた場所に寝転んで夜空を眺める。いつの間にか眠っていたらしく、目が覚めたらブルーアワーだった。ヤシの木のシルエットの向こうから陽が昇る。 裸足で砂浜を歩く。寄せ来る波がズボンの裾を濡らす。黄金色の波打ち際なんて一体何年ぶり、いや、何十年ぶりか。俺の足、長っ。頭、小さっ。 朝陽を浴びて海岸沿いの花も一斉に目覚める。足元には次の波が来たら跡形もなく消える砂の芸術。誕生から消滅までのスパンは違うけれども人も植物も工業製品もビルも山も何もかもこの世のもの全ては、宇宙のもの全てはいつかは消え去るものという同じ宿命を持っている。
2016年01月17日
コメント(4)
コロンボ駅から南に向かう電車は海岸に並行して走る。2時間ほど乗っていると一旦海岸沿いから離れる。そしてまた青い海が見えるようになるとベントタに着く。当初はここらあたりで降りるつもりだったが何となくもっと南に行ってみたかったので乗り続ける。更に30分ほど走った頃、小さな駅があったので降りてみた。何とそこはヒッピーの聖地ヒッカドゥアだった。ヒッカドゥアでは大きなリュックを背負った欧米人達が一斉に降りたので少し興醒めしてしまった。そのバックパッカー達と同類のような気がしたからだ。旅にそんな大きな荷物は必要なのか?駅前では欧米人達にTAXIやHOTELの客引きが群がる。「嫌だな、観光場所での洗礼だよなあ」と思う。しかしその考えは杞憂であった。僕には誰1人として客引きが寄ってこないのである。(笑)ヒッカドゥアの中心地に消え去る彼らとは逆方向に僕は駅前の道路を北に向かって歩き出す。何もない海岸沿いを1時間以上歩く。途中の店でジュースを買って飲みながらサンダルを脱いで夕暮れ近い砂浜を独り歩く。津波で1階が廃墟になったホテルの2階部分だけが営業している。宿泊値段を訊くと2400円。「もう今日は客は来ないよ。値段下げて」Better than nothing.(何も収入が入らないよりマシだろ?)まあ英語の文法が正しいかどうかは分かんないけど夜遅くそんなセリフを言うと大幅ディスカウントする宿が多い。だけどホテルの主人は値段を下げてくれなかった。これは駆け引きである。原価を伴わない値段とはそんなものだ。駆け引きは成立せず、僕は別の宿をいくつも訪ねる。シェアハウスのテラスで寝させてくれ、と言っても断られ結局トゥクトゥクのドライバーに「1500円以内の小さな安宿」とリクエストをして1軒の安宿に連れて行ってもらった。安宿というよりもホームステイ・スタイルのその宿はゲスト用の部屋数がたった1部屋だった。僕の求めていたタイプの宿である。談話室で各国のバックパッカー達と過ごす夜も楽しいが今回はその安宿の家族や子供達と楽しく過ごした。トゥクトゥクのドライバー絡みで仲良くなったスリランカ人からヒッカドゥアでのマリファナ・パーティーに誘われたが断った。20代30代の時は「OK、Go!」というノリだったが今は心の内に湧き上がるプライベートな時間を過ごしたいのだ。屋台で10円で2巻き買った蚊取り線香NINJA。これがまた効かないんだな。宿で「ここは何ていう場所だ?」と訊いたら「シニガマ」という言葉が返ってきた。観光客の全くいない無名の村である。
2016年01月15日
コメント(6)
独りだけで南の海辺のビーチで泊まりたい。居候先のロハンの家でgoogle earthを眺めながらスリランカで最もきれいなビーチを探す。海まで車で送って行ってあげるだとか一緒に行って宿を探してあげるとか言われたが僕は独りで電車に乗って行きたいのである。適当に切符を買って電車のシートに座り景色を眺めきれいな海が見えたらそこで降りてみる。そして自分で歩いて安宿を探して泊まる。今までいつもそんな感じで旅をしてきた。ロハン宅で朝食を食べてから出発。食事はアジアによくあるダルスープやチャパティーなどで何の違和感もなく手で食べる。コロンボ駅から南行きの電車に乗った。適当に50スリランカルピー(40円)の切符を買った。降りる駅がもっと遠くになったとしたら追加で払えばいい。自分の妄想では進行方向右側の窓辺に座って光る海を眺めながら隣りの乗客と拙い会話をして青い海が見えたら途中下車するつもりだったのだ。ところが電車に乗ったと同時にその妄想は外れる。座る場所なんてなかった。超満員なのである。吊り革にしがみついて身体が「く」の字になりながら天井で暑い熱気をかき回す扇風機の風に当たるのだった。急に電車が停まる。乗客が騒ぎ出して窓から顔を出している。どうやら人身事故のようだ。電車が人をはねたらしい。30分ほど経って運行再開。次の駅に着いて驚いた。先程の事故の死体を駅のホームに横たえたのだ。ということは事故現場から死体を乗せて来たわけだ。あの満員車両に死体を乗せたとは。窓の外に見える死体は顔の3分の1がなく首のあたりはグチャグチャで内臓のような物が出ている。死体の横から血が流れていて地面を赤黒く染める。死体を担ぎ出した乗客が血で汚れた手を洗っている。インドと同じように、あからさまな死がそこにあった。
2016年01月13日
コメント(4)
朝起きてバルコニーでジュースを飲んでから水シャワーを浴びて散歩に出ることにした。お迎えの車は9時か10時か11時頃に来ると言っていた。 蚊帳に囲まれたベッド。集中治療室とか隔離病室ではありません。なんかセミダブルベッドに枕が2つあるだけでエロティックだな。ホテルを出るとバ~ン。いきなり海じゃん!ロハンは俺の好みを良く分かってるな。俺は高級ホテルは嫌いだ、リゾート地の安宿が好きなんだ、と以前チラリと話したことがあったからな。サンダルを脱いで裸足で砂浜を歩く。残念ながら曇り空なので海の色もイマイチ。パスポートもお金もホテルの部屋だから手ぶらだ。てか、俺まだスリランカ・ルピー持ってないや。散歩をしてたらホテルのボーイが走って来て電話が来たと告げる。ロハンから「間もなくお迎えに行くから」との内容。迎えに来たのはロハンとピアだ。ピアとは7年前から日本で仲良くしているがニゴンボで会えるとは。彼女のお母さんのデング熱は無事治ったらしい。そして昨夜のトゥクトゥクの運転手はピアのお父さんだった。今日は彼がニゴンボを無料案内してくれるらしい。まずは地元の食堂でランチ。別に行きたくなかったけど海辺の魚市場。ヒンドゥー寺院とか教会とか刑務所とか見に行ったけどまあ別に大したことなかったな。 トロピカルジュース屋さんで名前も知らないジュースを注文。美味すぎる!ちなみに100スリランカ・ルピーは80円ぐらい。表示価格x0.8が日本円と簡単に計算できるのが楽だった。夕方、ニゴンボを離れてバスでスリジャヤワルダナプラコッテに。スリランカの首都はコロンボだと思われがちだけどスリジャヤワルダナプラコッテだよ。覚えておいて。
2016年01月11日
コメント(8)
夜明けに賛美歌が聞こえて来て目が覚めた。そうだ、昨夜は空港までロハンが迎えに来てくれて勝手に海辺の観光地のホテルをキープしてくれたんだった。スリランカは仏教にヒンドゥーが少し混じった宗教なのだがイギリス植民地時代の名残りを残すこの町ニゴンボは9割以上がキリスト教徒で見事な教会も多数あるのだった。窓を開けたまま寝ていたのでひんやりと心地良い。ベッドを囲む蚊帳に光が射し込み、まるでベールのようだ。賛美歌を聞きながらベールに包まれている。生きている、生かされているという感慨が頭を貫く。この朝だけは神の存在を感じたような気がした。バルコニーに出てみると裏庭はヤシの木がいっぱいで東から西に向かって鳥の大群が飛んでいる。森から抜け出た彼らは食事のために海に行くのだろう。きれいなもの、醜いもの、賢い者、愚かな者、ずっと残るもの、儚く消えるもの。この世の全てのものは神が創造したという寓話も素直に頷けるようなピュアな朝の空気だった。泡のように生まれては死んでいく人間達は笑いながら、騙しながら、裏切りながら、泣きながら、いつか神の御許に行こうと今日も打算的な祈りを捧げている。
2016年01月08日
コメント(10)
今回のスリランカ旅行には中国東方航空を利用した。スリランカ人の友人が代金の全額を支払ってくれたのでどこの航空会社だろうが構わなかったのである。(荷物が23キロx2個までOKだからココになったのだ)チケットを販売してくれた某大手旅行会社の人が言うには「中国東方航空は利用者様からのクレームやトラブルが非常に多く、 遅れるのは当たり前なのであまりお薦めできません。 それでもいいならチケットを販売致します」という消極的な売り方だったが、僕はそれもまた面白そうだと思っていた。天下のH.I.S(あ、実名書いちゃった)が「運です」と言うほどフライトに問題があるのだろうかと、怖いもの見たさもあった。行きは何の問題もなし。少々拍子抜けである。しかし帰りの便をリコンファーム(搭乗予約再確認)をした時のことだ。東方航空コロンボ支店に「帰国便のリコンファームをしたいが」と言うと「今ティーパーティーやってるんで。ガチャ!」と電話を切られた。お、恐るべし中国東方航空。(笑)コロンボから上海経由で名古屋行きの帰国便。コロンボ出発は3時間遅れた。チェックイン・カウンターに並ぶ中国人利用客のマナーの悪さと東方航空社員の手際の悪さは目を見張るものだった。(笑)搭乗ゲートはフライト予定時刻になってもオープンせず、3時間経ってからいきなり変更。しかも突然ファイナルコール。飛行機内のCAは事務的なそっけなさで笑顔なし。まあそれは別に期待してないので問題なし。名古屋到着。荷物が無くなっていた。僕だけでなく10数人の荷物が無いのだ。(笑)多分今頃は上海で止まっているか、どこか別の国に行ってるだろう。セントレア空港職員さんが平謝りしていてかわいそうだった。「見つかったらご自宅に配送致します」と言ったので「まさか着払いじゃないでしょうねぇ?」と訊いたら「いえいえ、こちらが送料は負担します」まあそれは当たり前だわね。中国東方航空を利用してどこかへ行こうと思ってる人、なかなか刺激的なのでぜひお薦めするぜ!チャイナ・イースタン・エアライン万歳!
2016年01月05日
コメント(10)
全13件 (13件中 1-13件目)
1