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【2021年8月30日(月)】 会の所用で事務所で寄って、その後、コロナで影響を受けての名古屋往復でした。 ですので、事務所には車で行きました。ウォーキングもしたいので、京都御苑の北に停めて歩きました。 京都御苑の間ノ町口(あいのまちぐち)の百日紅が満開でした。京都御苑の間ノ町口(あいのまちぐち)の満開の百日紅よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/30
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【2021年8月29日(日)】 昨日、会の26日の月イチの集まりの記録は仕上げたので、今日は、会の出来ていなかったことを少しずつ進めました。散歩も行く余裕なく、終日PCに向かってました。 「若冲と応挙」の第39回です。二人の絵の比較の3回目です。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-1 絵を比べてみる(続き)図1 若冲「百犬図」個人蔵(右は部分拡大) 図2 応挙「狗子図」敦賀市立博物館 「子犬」。図1若冲。毛の模様はそれぞれ違うし、色んな方向を向いていますが、目だけは同じ形をしています。可愛いいですが、どことなく不気味です。一匹だけ前を向いて立って、オチンチンを見せている犬がいます。分かりますか?左端の中央少し下です。 図2応挙。本当に可愛らしく、思わず抱き寄せたくなります。これも写生で様々な姿態を描き止め、子犬「らしさ」を全面に打ち出した結果でしょう。子犬の愛らしさをここまで魅力的に表現した画家はそれまでいませんでした。 「魚」。図3、図4若冲。水の中の視点で描いています。魚たちは同じ方向に泳いでいます。図4は以前の回でも紹介しましたが、蓮の花が水中に咲いていて、現実にはあり得ない世界が表現されています。図5応挙。水面の上から鯉を見ています。自然な泳ぎをしています。応挙の魚の絵は、水中からの視点のものは見たことがありません。日常の生活では、水面の上からしか魚を見ることがないためでしょう。左:図3 若冲「群魚図(鯛)」動植綵絵右:図4 若冲「蓮池遊魚図」動植綵絵(再掲) 図5 応挙「鯉魚図」 いずれも宮内庁尚蔵館 双幅の左幅 個人蔵 「雪」。図6若冲。若冲の描く雪は、以前の回で述べたように、かき氷にかける練乳のようなネットリ感が特徴です。胡粉が用いられ、「裏彩色」も使って、質感を出しています。図7応挙は、生地を塗り残すことで雪を表現しています。ですので、胡粉のように物理的な盛り上がりはないのですが、松の葉の描き入れの密度や、幹や枝の墨の濃淡で、ふわふわした雪の質感・立体感を見事に表現しています。図6 若冲「雪中錦鶏図」動植綵絵(再掲) 図7 若冲「雪松図屏風」国宝(再掲) 部分 宮内庁三の丸尚蔵館 部分 三井記念美術館 次回も「絵を比べてみる」を続けます。その後、二人の生涯を比較した後、二人の作品を観覧できるところを紹介して、終わりにしたいと思います。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/29
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【2021年8月28日(土)】 外出が少ないのと、忙しいのとで、8月の歩行歩数一日平均が8000歩を切ってしまいました。挽回すべく、朝に8000歩強の散歩をしました。終日で1万歩くらいになるでしょう。お盆前は、9時頃にはもう暑くて散歩どころではなかったですが、今は、昼間はともかくとして、9時頃でも散歩ができるような季節になりました。 今日は、在宅で、一昨日の会の役の集まりのフォローアップなどでした。 写真は、24日に三条河原町の京都市観光局を訪問するときに、久しぶりに鴨川縁を歩いたときのものです。南側から三条大橋を望んでいます。雨が多ぁったあとで、水流が強かったですが、澄んだ流れでした。コロナ禍下で歩く人も少なく、のんびりとした風情でした。賑やかになるのも嫌だし、コロナで静かなのも嫌だし、勝手なものです。鴨川と三条大橋よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/28
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【2021年8月27日(金)】 昨日は、月イチの会の役の集まりでしたが、緊急事態宣言下なのでリモートでした。往復の時間が不要なので楽ですが、運動不足になります。今日は、それのフォロー。 リモート集まりが終わった夕刻、困ったことに。我が家はエコウィルを使っていますが、エラーメッセージが出てお湯が出なくなりました。もう13年使用していて保証期間が過ぎており、この前の点検でも、「痛みが来ていて、時期は何ともいえないですが、近いうちにトラブルが発生するかもしれません。」と言われました。壊れないうちに、エネファームに替えようと思ったのですが、問題なく使えていたので、忙しさにかまけて放ったらかしにしていました。「ついに来たか。」という感じです。 夕刻でいつものサービス会社には電話が繋がりません。大阪ガスのサービスセンターに電話したら、今日、サービスをお望みでしたら、出張費や工事費が3割アップしますとのこと。夏場だし、夜バタバタするのも嫌なので、明日の午前中に来てもらうことにしました。 そうこうしていたら、大阪ガスからいつものサービス会社に連絡が入ったのか、その夜、サービス会社から電話があり、「今から行きます」と。それならということで来てもらって見てもらったら、エコウィルの部分ではなく、給湯器やその回路部分が水に濡れて、やられていることが分かりました。大よその修理費用を教えてもらいましたが高額でした。「それなら前から考えていたことだし、エネファームにしますので、すぐ見積りお願いします。」と即決。工事までは、お湯無しをガマンする覚悟でした。 そうしたら後刻「今の給油機の外に臨時で給油機を取り付けて、お湯だけは使えるようにします。そうしたうえで、エネファームの契約、設置をさせていただきます。」との話しがあり、今日、臨時の給湯器を設置してもらいました。多分、次の契約に繋がるので、今回の費用はサービスなんでしょう。水シャワーは1日だけですみました。向こうがエコウィル部分、手前が給湯器部分。外に出っ張っているのが臨時の給湯器よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/27
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【2021年8月25日(水)】 昨日は、京都市産業観光局に立ち寄り、事務所出頭、夕刻から会の月イチの集まりでした。今日は、計画在宅で会の諸事です。そろそろ夏の梅雨が明けて、暑くなりそうです。 「若冲と応挙」の第38回。「絵を比べてみる」の2回目です。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-1 絵を比べてみる(続き) 図1 若冲「老松孔雀図」動植綵絵 宮内庁三の丸尚蔵館(再掲)「松」の表現も比較しましょう。図1若冲(前回も紹介)の松は葉が密で、そのうえ中心部の背景に濃い緑色が加えられ、まるでイガクリのように見えます。動植綵絵で登場する松はすべてこのような表現になっています。それらの前景には必ず白い鳥が描かれており、松の緑を濃くしているのは、鳥の白さを強調するためだと思われます。一方、図2応挙の松の絵は、葉が疎らで、根元まで葉が一本一本認識できます。葉が一本一本見えたほうが、より松らしく見えるという考えから、意識的に葉を疎らに描いたのではないでしょうか。例のそのまま「写す」のではなく、「らしく見せる」の「写す」です。図3応挙は、遠景として描かれた松部分の拡大です。遠景では葉の一群が小さくなるので、葉を一本一本描こうとすると、さらに疎らにせざるを得ません。すると緑色が弱まり松らしく見えなくなるので、よく見ると葉の後ろに薄く緑色を置いているのが分かります。図2 応挙「松に孔雀図」部分(再掲)大乗寺 図3 応挙「保津川図屏風」重文 部分拡大 千總 松のついでに「梅」です。図4若冲のほうは、あり得ない奇妙な枝ぶりが多く描かれ、満月の夜の静けさの中に緊張感が漂います。図5応挙のほうは、梅らしい枝ぶりで、紅梅はピンク色、紅色が混ざり、春に向かうのどかな日を感じさせます。図4 若冲「月夜白梅図」個人蔵 図5 応挙「梅花双鶴図小襖」三井記念美術館 図7 応挙「黄蜀葵鵞鳥小禽図」 図6 若冲「芦鵞図」動植綵絵 とろろあおいがちょうしょうきんず 宮内庁三の丸尚蔵館 部分 個人蔵 続いて「鵞鳥」です。図6若冲。ガチョウの羽や体は真っ白なはずですが、「裏彩色」による錯視的な金色が加えられているようです。動植綵絵の他の白い鳥の絵も、すべてこの錯視金色が加わっています。ガチョウの体型はもっとずんぐりしているはずですが、三角形状にスタイリッシュにデフォルメされています。図7応挙。オデコの出っ張りといい体型といい、こちらの方が実際に近いでしょう。しかし、体や羽に金色が配されています。絹本ですので、若冲と同じように「裏彩色」を用いているかもしれません。これも「動植綵絵」を見た、あるいは評判を聞いた応挙が「俺だって、裏彩色で金色を出せるんだぞ」とライバル意識むき出しで描いたのかもしれません。「色」の面では、応挙らしからぬ表現かなと思います。 図8 若冲「雪中鴛鴦図」 図9 応挙「芙蓉飛雁・寒菊水禽」 せっちゅうえんおうず 双幅の内左幅「寒菊水禽図」 動植綵絵 宮内庁三の丸尚蔵館 個人蔵 「鳥」です。図8若冲。真横を向いた石上の鴛鴦(おしどり)。もう一羽は水中に顔を入れています。番(つがい)でしょうか。でも石上の鳥は、水上の鳥を見ているわけではありません。「おしどり夫婦」という言葉もありますが、反対に冬の景色と相まって孤独感を感じます。若冲の絵はこのように一枚の絵に複数の動物・鳥・昆虫が描いてあっても、何か孤独感を感じさせる絵が多いように思います。対して図9応挙。仲のよさそうな鴨や鴛鴦の群れです。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/25
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【2021年8月23日(月)】 昨日も今日も計画的在宅日として、26日の会のことで忙しくしています。今日も、雨が降ったりしています。梅雨以上の長雨のように感じます。長い間お日様を長時間見ていません。 「若冲と応挙」の第37回。前回まで若冲と応挙の生涯と作品をシリーズで紹介してきましたが、今回から、この2人の巨匠の比較にトライアルしたいと思います。まず、絵を比べてみます。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる4-1 絵を比べてみる 前回で応挙の章が完了しました。「若冲と応挙」というタイトルで書いてきましたので、最後にこの2人の画家の比較をしてみたいと思います。まず、同じ画題を扱った絵を並べてみましょう。同時代に生きた画家とはいえ、大きく画風の違う2人の絵を比較することなど無意味かもしれませんが、案外と似ているところもあるのです。 最初は「鶴」です。図1若冲と図2応挙はよく似た構図です。余白のとり方もよく似ています。両方とも鶴を描いた中国画を土台にしているのかもしれません。ただ図1若冲は「裏彩色」を使って羽を金色に輝かせる技法を使っている(筆者の推定)ところ、背景の梅の木の枝ぶりなどに若冲らしさが見えます。図3若冲の動植綵絵のバージョンでは余白が少なくなり、鶴も真横向きか、真正面向きになり、若冲らしいインパクトの強い絵になっています。 図1若冲「竹梅双鶴図」 図2応挙「双鶴図」 図3若冲「梅花群鶴図」動植綵絵 プライス・コレクション 島根・八雲本陣記念財団 宮内庁三の丸尚蔵館 次に「蝶」です。図5応挙はもちろんですが、図4若冲も珍しく遠い蝶ほど小さく書いて遠近感を表現しています。ただ若冲の方は飛んでいる蝶はすべて翅を180度開いているのに対し、応挙の方は色んな翅の開き角度の蝶を描いています。ある一瞬を捉えれば、現実は応挙の絵です。こういう瞬間が見えるわけではないので、応挙は蝶の死骸の翅を色んな開き角で広げて写生をしたのかも知れません。若冲は意識的に全部180度開いた蝶を描いて、色彩豊かな大輪の芍薬(しゃくやく)とともに華やかさを演出したかったのではないでしょうか。 図4若冲「芍薬群蝶図」動植綵絵 図5応挙「百蝶図」 宮内庁三の丸尚蔵館 徳川ミュージアム 次に「孔雀」です。図6若冲のは白孔雀です。白孔雀は実際にいるようです。「裏彩色」を使って錯視的な金色を加えています。また、白孔雀の場合、羽のハート形に描かれた部分は通常は白色のはずですが、背景の松と同じ緑色を置いています。意識的に煌びやかさを加えたのでしょう。図7応挙のは写実的で、頭から胴にかけての光沢のあるグラデーションを使った質感表現が見事です。この2つの絵の孔雀の格好が同じです。若冲の動植綵絵の人気が出て、「細密さでは、負けないぞ」というライバル意識をもって応挙は描いたのかも知れませんし、同じ中国画を参考にしたのかもしれません。図6若冲「老松孔雀図」動植綵絵 図7応挙「牡丹孔雀図」(再掲)宮内庁三の丸尚蔵館 宮内庁三の丸尚蔵館 (続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/23
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【2021年8月21日(土)】 「京の夏の旅」六道珍皇寺の4日目でした。 京都に9月20日から9月12日までの緊急事態宣言が発出されました。それに伴い、「京の夏の旅」も最低限9月12日まで休止となりました。ただ、明日までは経過措置として公開が継続され、私も行かせていただきました。もともとの開催期間は、9月30日までですので、緊急事態宣言が解除されて、再開されることを祈るばかりです。 公開では、書院からお庭に下りていただいて、小野篁が冥界の閻魔庁に通ったという「冥途通いの井戸」がご覧いただけます。 また、篁がこの世に戻ってくるために通った別の井戸があったと伝わっていたのですが、平成23年に隣接地で、その伝承の井戸が発見されました。「黄泉(よみ)帰りの井戸」と呼ばれており、その井戸もご覧いただくことができます。 ただし、今回は、写真撮影はお堂から庭を向いてのみとなっていますので、写真で紹介できるのは、書院廊下から見える「冥途通いの井戸」のみです。小野篁「冥途通いの井戸」よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/21
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【2021年8月16日(月)】 今日は京都では「五山の送り火」ですが、昨年に続いて、部分点火でした。去年は、来年は絶対大丈夫だと思っていたのに、2年連続となりました。「来年こそは」と思いたいですが、あまり期待しないことにします。会の20日の集まりの準備をしました。 「若冲と応挙」第36回、円山派についてです。◆第3章 円山応挙(続き)3-7 円山派 応挙はたくさんの弟子を受け入れて育て、「円山派」を形成しました。応挙の画風を受け継いだ呉春も多くの門人を育て「四条派」を形成しました。両派合わせて「円山四条派」と呼ばれています。図1に系図を示します(字が小さくなるので、半分に分割しています)。図1 円山派とその派生流派の系図 すでに紹介した宗家の円山応瑞、応震、応立が右端に書かれています。左下には明治時代から昭和前期に活躍した竹内栖鳳の名もあります。応挙と同時代に活躍した若冲や曾我蕭白は、多くの弟子を持たず、ほとんど本人の代で終わっているのに、狩野派のような伝統を持たない応挙がこれほど多くの門人を持ち、かつその画派が長く続いたのは何故でしょう。 まず、応挙の生きた時代が背景として考えられるでしょう。文化にかかわる層が町人へと拡大しました。平常の暮らしの中で、掛軸、襖絵などで美を求める人が増えたわけです。技の秀逸さと、部屋を飾るに相応しい分かりやすく、かつ新しい画風に注目が集まり、注文が増えます。若冲・蕭白とも「平安人物志」の人気ランキングに登場しますが、実際の需要は応挙のほうが格段に大きかったと思います。その需要に応えるには、弟子をたくさん受け入れ、育てなければなりません。弟子を多く持つと、手取り足取り教えるのでは賄えなくなります。明確な絵画理論を弟子に伝え、写生帖を有効活用するなどもして、弟子を育てたのだと思います。そして、既に述べましたが、大規模障壁画の仕事などをするにはチームワークが大切です。そのようなマネジメント能力も応挙は持ち合わせていたのでしょう。そして、弟子たちの個性も大切にしたのではないでしょうか。長沢蘆雪は「奇想の画家」の一人に数えられるほど個性的な絵を描いたし、呉春は四条派を形成し、森徹山らは森派を形成するなど一味違った画風を追求しました。応挙の画風は、秀逸だけれども、発展性があり、応用展開できる余地があったので、弟子たちは師とは異なった高みを目指し、円山四条派は後世に長く引き継がれることになったのではないかと思います。図2 長沢蘆雪「虎図」串本・無量寺 図3 呉春「池辺雪景図」 個人蔵 図2に長沢蘆雪「虎図」、図3に呉春「池辺雪景図」を示します。「池辺雪景図」は雪を白く塗り残す技法や構図が以前の回で紹介した応挙の「雪松図屏風」に似ていますが、応挙の絵にはない洒脱さが加わっています。 これで応挙の章を終えます。次回から若冲と応挙の比較をしていきます。 (続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/16
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【2021年8月15日(日)】 雨が続きます。雨の被害が相次いでいますが、幸い私の地域は今のところ避難指示は出ていません。修学旅行ガイドでよく通る清水寺参道の茶わん坂での崖崩れは驚きました。 もう一つ気になるのが甲子園。「天候不良のため、本日8月15日第1試合の開始を午前8時から遅らせます。天候の回復を待って、試合を行う予定です」とのことですが、果たして・・・。 3連続在宅日の中日。会の集まりの準備に追われています。京都駅往復もします。 「若冲と応挙」の第35回。応挙のその他の作品の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 その他の作品(続き) 図1「氷屏風図」。やはり天明期の作です。左上へ、右上へ、水面の氷のひびが入っています。現代絵画と見まごう構図です。図1「氷図屏風」天明年間(1781~1788)大英博物館蔵 図2「海上竜巻図」天明7年(1787)個人蔵 図2「海上竜巻図」。応挙55歳の作品です。竜巻の恐怖感を水墨画で見事に表現しています。天に昇る龍も描かれています。当時は竜巻は龍が起こすと信じられていました。 図3「富士図」。応挙60歳の作です。富士山は、生地色のまま塗り残し、外側を墨でぼかす「外隈」の技法が使われています。「外隈」は狩野探幽が得意とする技法でした。円満院祐常は「萬誌」で「探幽は遠山、ことに外隈が美しい。この隈は一回の刷毛では施すことができない。最初に水でほどよく隈をとり、その湿ったところへ淡墨や濃墨を入れると”ほっこり”としてよい」と書いています。応挙はこの絵で探幽風の外隈を意識したのかもしれません。図3「富士図」寛政4年(1792)三井記念美術館蔵 図4「龍門図」寛政5年(1793)京都国立博物館蔵 図4「龍門図」。応挙61歳の作です。中幅は滝の中を昇る鯉が砲弾のような形で描かれています。これは応挙独特の鯉の描き方です。中幅の寸法を左右より長くして、鯉の上昇が強調されるよう工夫されています。 最後に制作年代はよく分かりませんが、軽妙な作品を2点紹介します。 図5「狗子図画賛」。「己が身の闇より吼て夜半の秋」の句を蕪村が添えています。「秋の闇夜で吠える黒い犬は、自分の色のように黒い心の闇から吠えるのだろうか」という意味です。句の意味と可愛い黒犬の対照が面白い絵です。 図6「猫も杓子も図画賛」。「ぢいもばばも猫も杓子もおどりかな」の句を蕪村が添えていますが、「猫は応挙が戯れに描き、杓子は蕪村が酔って描いた」と右側に書かれており、絵は蕪村との共同作品であることが分かります。応挙らしくない猫の描写が面白いです。左:図5「狗子図画賛」賛は蕪村 個人蔵 右:図6「猫も杓子も図画賛」応挙・蕪村筆 海の見える杜美術館蔵 (続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/15
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【2021年3月14日(土)】 12日は雨の中を二人でお墓参り。その足で名古屋に寄って帰ってきました。お墓参りのとき雨が激しく、閉口しましたが、レインコートを持っていっていたので助かりました。雨とコロナで渋滞がなかったことも助かりました。 昨日13日は、終日事務所。 今日から3日連続在宅ですが、今日は夜にオーイ会のZoom飲み会があります。 近くに避難指示が出ています。私の住む所にも出るかもしれません。 「若冲と応挙」の第34回です。応挙の代表的な作品以外を観察していきます。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 その他の作品 ここ3回は晩期の応挙、雅号の由来、ゆかりの地、肖像画について紹介してきました。 今回は、生涯についての解説の流れの中で紹介しきれなかった作品について、一風変わった作品を中心に紹介したいと思います。年代順にみていきます。 図1「鬼の念仏図」。「円山主水」の署名のある20歳代の作品ですが、水墨画でひょうきんさを描き出す余裕さえ感じさせます。僧・可円の「見るや人角のはえたる鬼さへも かねをたゝいて南無阿弥陀仏」の歌が添えられています。 図2「山水図」。応挙33歳の作品で「仙嶺」の雅号を用いています。画面奥から手前にかけて、墨の色を次第に濃くすることによって遠近感を出しています。淡墨でだいたいの図をつくり、これが乾かないうちに勢いよく濃墨を溌ぐ溌墨(はつぼく)という技法で描かれています。右下の、叩きつ付けるような激しい濃墨は現代書道のような筆遣いです。図1「鬼の念仏図」18世紀 個人蔵 図2「山水図」明和2年(1765) 三井記念美術館蔵 図3「夕涼み図」安永元年(1772) 個人蔵図3「夕涼み図」。応挙40歳頃の作品です。描かれているのは、三井総領家の4代目三井高美(たかよし)と伝わります。高美は応挙のパトロンだったわけですが、この無防備にくつろぐ姿からは、高美にとって応挙は心許せる存在でもあったことを窺い知ることができます。絵の右端には高美作・書と思われる「さつぱりと はらひはてたる まるはたか さそやすゝしく世をわたるらむ」の歌が入っています。 図4「幽霊図」安永年間(1772~1780) 個人蔵 カリフォルニア大学バークレー美術館寄託 応挙の絵の中でよく知られているのが、「足のない」幽霊の絵です。図4に「幽霊図」の代表作の一つを示します。応挙40歳代の作です。江戸時代の国学者・藤井高尚(1764-1840)は、その著書の中で次のように記述しています。 「今人幽霊といへるものは、足なきもののやうに思へり。しかるに100年以前(享保以前)描くところのえん魂にはことごとく足あり。さてこの足なき幽霊はいつ頃より出来しといへるに、こはいと近く円山応挙よりおこりしなり」 足のない幽霊を描きだしたのは応挙だとしています。以前の回で紹介した「七難七福図巻」の凄惨な場面を描いた応挙にとっては、恨みの形相をもった見るからに恐ろしげな幽霊を描くことはたやすかったでしょうが、応挙は足が消えかかり、伏し目がちのはかない表情を持つ幽玄な幽霊を描きました。こういった幽霊図のモデルとなったのは若くして亡くなった最初の妻・雪で、夜中に髪が乱れたまトイレに立った姿を写したと伝わります。 図5「元旦図」18世紀 個人蔵 図5「元旦図」。作年代は不詳です。正装した男性が初日の出を拝しています。元旦の静粛な雰囲気が伝わります。回りの景色も日に照らされて明るいはずですが、描かれていません。日の出で太陽が顔を出した瞬間は眩しくて、それまで見えていた回りの景色が一瞬見えなくなるという経験はないでしょうか。応挙は、人の眼に感じる日の出を描いたのかも知れません。 図6「波上白骨座禅図」天明期 香住・大乗寺蔵 図6「波上白骨座禅図」。天明期の作ですから、50代前半の作と考えられます。波の上で白骨の人体が座禅するという特異な画題です。仏教的な寓意が何かあるかも知れませんが、人物を描く場合、裸体に服を着せるという考え方で描いた応挙ですので、さらに突き詰めて、骨格を描くというところまで入り込んだのかもしれません。「解体新書」が刊行されたのが、応挙が42歳のとき。応挙は解剖学も学んだといわれています。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/14
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【2021年8月11日(水)】 昨日は、午前中、事務所で関係の組織の方々の打ち合わせ。午後からは外に出てお世話になる組織へのご挨拶でした。それが終わって、事務所で諸事。終日外出していました。今日は、終日在宅で、会の諸事です。 「若冲と応挙」の第33回。生涯のお話しを前回で終え、今回は、雅号の由来、肖像画、ゆかりの地についてです。◆第3章 円山応挙(続き)3-7 雅号の由来、肖像画、ゆかりの地 応挙という雅号の由来について触れておきます。 以前の回で、応挙が私淑した一人が、宋から元にかけての中国の画家である銭舜挙(せんしゅんきょ)であると書きました。応挙はその精密な描写力を高く評価し、彼を目標とし、彼に近づこうと努力を重ねたといわれています。それだけではなく、写実を追い求めた円満院祐常も銭舜挙を高く評価していたようです。パトロンとなった祐常が銭舜挙の画力に近づこうとする応挙を見て、「銭舜挙の筆意に応ぜむ」という意味で与えたのが「応挙」という雅号であったといわれています。銭舜挙は銭選とも呼ばれます。応挙は「仲選」という落款印も多く押しています。「仲選」は「銭選に伯仲せむ」という意味だといわれています。図1「雪松図屏風」の落款上の印:応挙之印 下の印:仲選 落款のことについてさらに付け加えると、応挙の作品には「応挙冩」(冩=写)の款記を記したものが多くあります。一般的には「――筆」「――画」「――之図」が使われますが、応挙の作品では圧倒的にこの「写」が書かれたものが多くなっています。「写」には「えがく」という意味もあるので、応挙は「筆」という意味で「写」を使ったとも考えられますが、いわゆる「うつす」という意味で「写」を使ったと考えたいところです。ただ、応挙の「写」は、実物をそのまま写すという意味の「写」ではなく、対象を対象らしく描くという意味の「写」であることは、今まで述べてきたことで推し量ることができます。図1に「雪松図屏風」(以前の回で紹介)の落款を示します。「応挙之印」、「仲選」の落款印と「応挙冩」の款記を見ることができます。 図2 応挙肖像画 山跡鶴礼筆 さて、若冲の肖像画については、生前時に描かれたものは存在しないことを書きました。応挙はどうでしょう。実存します。応挙の弟子の一人である山跡鶴嶺(やまあとかくれい)が晩年の応挙を描いたものです。図2に示します。生前の肖像画なので、こんな風貌だったのでしょう。まじめな人柄のように見えます。 応挙ゆかりの地は、ポイントポイントで説明してきましたが、地図を使って説明したのは、誕生・幼少期の亀岡のみでしたので、ここで現京都市中心部のゆかりの地をプロットした地図を図3に示します。図3 京都市中心部の応挙ゆかりの地(若冲生家、若冲親族菩提寺・宝蔵寺を含む)図4 円山応挙宅跡碑 四条堺町西入ル南側 その中に若冲の生家や親族の菩提寺「宝蔵寺」もプロットしました。若冲生家は錦小路高倉、応挙の自邸はその目と鼻の先にありました(1782年以降は四条堺町。図4の碑が建つ)。応挙のアトリエは浄土宗寺院大雲院にありました。大雲院は現在東山の高台寺に近い「ねねの道」沿いにありますが、当時は今の京都高島屋の場所にありました(図5の碑が残る)。昭和48年、高島屋の拡張で現在地に移転したのです。図5 大雲院跡地碑 四条寺町下ル東側(高島屋裏側) 右端は現・大雲院 東山高台寺近く 「ねねの道」沿い 若冲のアトリエの場所ははっきり分かっていませんが、生家に近い場所だったとすると、応挙と若冲は、1キロも離れていないところで絵を描いていたことになります。ただ、文献上では、応挙と若冲が会ったという記録は残っていません。以前の若冲のところで述べたように、若冲、応挙両名と交流のあった著名人の一人儒学者皆川淇園(みながわきえん)(応挙の絵の弟子でもありました)が、天明8年(1788)に応挙、呉春らとともに石峰寺の石像群を観覧しましたが、そのとき若冲は石峰寺にいなかったと、自ら著した「淇園文集」に書いています。しかし、別の機会に二人が顔を合わせ、言葉を交わした可能性は大きいと筆者は思っています。仮に会わないまでも、互いの絵を目にする機会は多かったと思います。「平安人物志」でも、常に上位を争ってきた2人ですので、互いにリスぺクトし、互いに影響を受けたものと思います。それを窺わせる作品もありますので後述します。 応挙の弟子でもあり、四条派の始祖である呉春の自邸跡が、錦小路東洞院上ル西側にあり、碑が建っています。その碑の建つ場所には、低層マンションがあり、何と「Shamaison 呉春」という名が付いています(図6)。呉春やその弟子たちの多くが四条通付近に住んだので「四条派」と呼ばれます。図6 呉春宅址 次回は、円山派、応挙の一風変わった絵などを紹介します。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/11
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【2021年8月9日(月・祝)】 今日は在宅。会の諸事なかなか思うようにはかどらず気持ちが落ち着きません。お天気も台風接近で朝から雨で、朝の散歩は無しです。気温は高くないようですが、蒸し蒸ししています。 「若冲と応挙」第32回。応挙の晩期の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 晩期(続き) 図1 悟真寺 応挙は大乗寺の「松に孔雀図」を描いた3ヶ月後、寛政7年(1795)7月17日、63歳で亡くなります。応挙は菩提寺である浄土宗の寺院・悟真寺に葬られました。悟真寺は元々は四条大宮(大宮東映のあった場所)に在りましたが、1951年に太秦の現在地に移転しました(図1)。応挙の墓は悟真寺の墓地に子孫の墓とともに建っています(図2)。墓地の向こう側に見える建物は東映太秦映画村です。 図2 応挙とその子孫の墓@悟真寺(左から応誠、応震、応挙、応瑞、応立) 右の写真は応挙の墓の拡大 墓碑は妙法院真仁法親王揮毫 中央が応挙の墓で、墓碑は応挙のパトロンの一人であった妙法院宮真仁(まさひと)法親王(光格天皇の兄)揮毫です。応挙の墓の向かって右が円山派2代応瑞、応挙の向かって左が3代応震、一番右が4代応立(おうりゅう)、一番左が5代応誠です。 図3 円山応挙家系図(再掲) もう一度、応挙の家系図を図3に示します。応挙の次男・応受も画家になりましたが、母方の祖父木下萱斎の養子となって木下家をついだので、木下応受とも名乗っていました。養子として出たため、ここには応受の墓がないわけです。2代応瑞は子に恵まれなかったのか、応受の子の応震が応瑞の養子になって円山派3代を継いでいます。しかし、この応震も子がなく、友禅工寺井久次郎の子が養子に入って応立として4代を継ぎます。5代は応誠ですが、4代応立との血縁的な関係を調べましたが、よく分かりませんでした。そしてこの5代応誠のあとは、円山家による円山派は続かなったようで、3代応震の妹(国井家に嫁いだ)の子が国井(円山)応文として、円山派一門の後継者となり(応誠同様5代を名乗った)、その子国井(円山)応陽(6代)に引き継がれました。家系図には書かれていませんが、応陽の子・国井(円山)応祥が7代として継ぎ、現在は応祥の縁戚にあたる駒池(円山)慶祥氏(本名駒池慶子)が8代として活躍されています。近年、悟真寺の天井画や襖絵を、慶祥氏の弟子(恐らくご子息)円山真祥氏(本名駒池真)といっしょに描いています。 図4「応挙誕生地」碑 図5「応挙誕生地」碑 @太秦・悟真寺 @亀岡・穴太寺近く (「もっと知りたい円山応挙」から) さて、この悟真寺で「応挙誕生地」と書いた大きな石碑を見つけました(図4)。そのときは、新しく建てられたもののように見えました。応挙は亀岡で生まれたので奇異ですが、京都府生まれという意味では合っているので、悟真寺なりの解釈によるものなのだろうと、そのときは理解しました。その後、亀岡の穴太寺近くの「応挙誕生地」の碑を訪ねたときに、以前の回で述べたように、近年どここかに移築されて無くなってしまったことを知りました。そのときは気付かなかったのですが、あとでひょっとしてと思って、美術書に掲載された亀岡の碑(図5・再掲)と悟真寺の碑(図4)を比べると全く同じ形、全く同じ字形であるのが分かりました。亀岡の碑が移築された先は、太秦の悟真寺だったのです。悟真寺の碑の近くには何も説明書きがなく、これを見た亀岡市民は「応挙は悟真寺近くで生まれたと誤解するじゃないか」とクレームをつけるのではないかと心配しています(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/09
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【2021年8月8日(日)】 暑い日が続きます。昨日は、「京の夏の旅」大覚寺の見学で外出しましたが、今日、明日は、在宅で会の諸事などです。 今晩はオリンピックの閉会式。日本選手の活躍はすごくて、感動しましたが、やはりどこか物足りなさが残るオリンピックでした。何かなぁと思ったら、無観客とかではなく、競技場外の触れ合いがないからでしょうね。普通なら、ホストタウンと選手たちの触れ合い、外国からの観客が日本を楽しむ様子、そんなニュースが、選手の活躍の後に流れるのですが、それがないのです。世界中から選手以外も集まるお祭だったはず。残念です。「若冲と応挙」第33回目です。応挙の晩期へと入っていきます。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 晩期 前回、前々回は、応挙工房をあげて多くの障壁画大作を遺した、45歳から56歳までの円熟期を中心に述べました。今回は、応挙の生涯最後の時期、57歳から63歳の晩期を中心に紹介します。年代でいえば、寛政元年(1789)から寛政7年(1795)です。 天明8年(1788)1月30日、若冲もそうであったように、応挙は京都市中の大部分を焼き尽くした天明の大火に遭遇します。応挙は、この大火前から、襖絵などの大作を描くにあたって、大雲院という浄土宗寺院の方丈をアトリエとして使わせてもらっていました。場所は寺町四条の現・京都高島屋の裏手です。自宅は当時四条堺町にありましたので、そこからは数百メートルのところです。ところが、この天明の大火で、応挙はアトリエも自宅も同時に失うことになります。 焼け出された応挙は、幼少の頃、僧になるべく預けられた亀岡の金剛寺(以前の回でで紹介しました)に一時身を寄せ、そのときに、金剛寺のために、障壁画「波濤図」「山水図」「群仙図」を描いたと云われています。応挙の場合、障壁画はアトリエで描いたうえ、弟子たちに現場に運ばせるのが常だったので、これらの襖絵は応挙がその場で描いた唯一の障壁画群ということになります。図1に「波濤図」の一部を示します。図1「波濤図」重文(部分) 亀岡市・金剛寺蔵(東京国立博物館に寄託) 金剛寺ではデジタル複製画常時展示 「波濤図」は3室30襖と一間の壁紙に描かれたものですが、応挙が生涯をとおして同一テーマで描いた作品としては最大のものです。また、3室を分割する襖を外したり開いたりした場合でも絵がうまく繋がるように、緻密な配慮のもとに描かれています。図示の部分は、仏間に面しており、本尊釈迦如来像を正面に見て左側の部分です。画面左から右に向かって、すなわち本尊に向かって波がせり上っていくように描かれており、宗教的な高揚感を演出しています。「波濤図」「山水図」「群仙図」とも重要文化財に指定されており、「波濤図」「山水図」は軸装されたうえ、東京国立博物館に寄託されています。金剛寺では、「波濤図」のデジタル複製8面が常時観覧でき、「群仙図」原画が11月3日に公開されます。 天明の大火では御所も焼失することになりましたが、2年後の寛政2年(1790)には寛政度御所造営が竣工し、その障壁画制作にあたっては応挙にも声がかかり、一門で参加しました。御所の障壁画を担当するということは、最高権威によって認められたということであり、絵師として最も名誉なことです。応挙本人の評価だけでなく、応挙工房が、応挙の統率のもと多くの質の高い障壁画を描いていたことも評価されたのでしょう。「平安人物志」で市中人の人気でトップであったことは既に述べましたが、朝廷・幕府からも認められたということです。この障壁画には、円山派だけではなく、狩野派、土佐派のそうそうたる絵師も参加しましたが、残念ながら1854年の火災で焼失してしまいました。 奥文鳴「仙斎円山先生伝」によると、応挙は61歳の頃から病で歩行困難となり、井以前の回でも述べましたが、眼病も患い絵画制作に支障をきたすようになっていました。しかし、まだどうしてもやり遂げないといけない仕事が残っていました。天明の大火で中断していた障壁画制作です。いまや立派に成長した弟子たちにも支えられて、寛政6年(1794)には讃岐・金刀比羅宮表書院の中断分「瀑布・山水図」を完成させ、寛政7年(1795)には、香住・大乗寺の中断分「松に孔雀図」を完成させました。「松に孔雀図」は以前の回で紹介しましたので、ここでは金刀比羅宮表書院(図2)の「山水図」の一部を紹介します。図3に金刀比羅宮表書院の障壁画配置図を示します。図2 金刀比羅宮表書院 図3 金刀比羅宮表書院 障壁画配置図 「富士一の間」「富士二の間」は明治時代の画家である邨田丹陵筆ですが、それ以外は全て応挙筆で、重要文化財に指定されています。応挙が筆を執るにあたって、三井家総領家5代三井高清が資金を出したという記録が残っています。今回の研究に際し、筆者もここを観覧しましたが、何よりも原画がオリジナルの位置で鑑賞できることが最大の魅力です。ただ、廊下からのガラス越しの鑑賞のため、天気が良いとガラスへの外光反射で見にくくなってしまうのが難点です。四国八十八ヶ所巡礼をされている方がいらっしゃったら是非お立ち寄りください。以前の回で紹介した張り子の虎のような虎の絵も、「虎の間」の「遊虎図」の一部です。そして図4が天明の大火後の晩年の作品「山水図」です。図4 金刀比羅宮表書院「山水図」(部分) この部分は、貴人が着座する一段高い上段の間から、左方向を見下ろす部分です。岩山が直角に折れ曲がった部屋の角に描かれていますが、それが左右面で自然に繋がり、その後ろの山々が、途中で直角に折れ曲がっているにも関わらず、右の面から左の面にわたって、真っすぐ遠くまで連なっているように見えます。上段に座った客人は、室内に居ながら広大なパノラマ風景を楽しむことができるのです。応挙イリュージョンです。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/08
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【2021年8月7日(土)】 今日から3連続在宅日の予定でしたが、今日は外出しました。「京の夏の旅」が開催中で、会期は9月末なのですが、大覚寺の霊宝館は8月9日で終了してしまいます。それに気付いたので、今日行ってきました。 バスと阪急で、阪急嵐山駅まで行って、そこから歩きましたが、3キロメートルあるので、45分くらいかかりました。朝から蒸し暑くて、途中清凉寺で休憩を入れて、かなりバテバテで大覚寺に到着しました。「京の夏の旅」の案内 大覚寺は何度か拝観したことがありますが、霊宝館に入るのは初めてだと思います。我が会のメンバーが担当しています。表門臥龍の松と式台玄関村雨(むらさめ)の廊下宸殿の蔀戸心経前殿から石舞台と勅使門を望む勅封心経殿 霊宝館は通常、春・秋の「名宝展」で公開されいますが、今回の「京の夏の旅」に合わせて特別に公開されています。北野天満宮とタイアップして、「伝説を纏う髭切と膝丸」と題して、名刀が展示されています。北野天満宮が髭切(鬼切丸)、大覚寺が膝丸(薄緑)です。 両刀とも平安時代、清和源氏の流れをくむ源満仲により天下守護のため鍛えられた刀ですが、その後、それぞれの刀は、時代とともに持ち主が替わり、今は北野天満宮と大覚寺に所蔵されているとのこと。膝丸は源頼光の「土蜘蛛」の話、髭切は渡辺綱の一条戻り橋での「鬼切り」の話でも有名です。両刀とも重要文化財に指定されています。 その他霊宝館では、多くの寺宝が展示されていましたが、重要文化財では、狩野探幽「竹鶴図」、木像彩色「不動明王坐像」「軍荼利明王坐像」「大威徳明王坐像」(室町時代)、平安時代明円作の木像彩色「五大明王像」を観覧することができました。五大堂から勅使門を望む大沢池と能舞台 大覚寺をあとにし、帰りは久しぶりに「竹林の小径」に立ち寄ってみました。コロナの影響で観光客が少なかったです。竹林の小径渡月橋よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/07
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【2021年8月4日(水)】 5連続在宅日の最終日です。今日は、朝から良い天気で午前中から暑いです。もうじきエアコンオンしようかと思います。 在宅が多いので、またご近所散歩を復活させていますが、暑いので朝散歩しています。「お通じ」が何か調子いいです。朝散歩の効果かもしれません。 「若冲と応挙」第30回。応挙の円熟期の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-5 円熟期(続き) 大乗寺の次の襖絵は、応挙が最晩年に描いた、「松に孔雀図」(図1-1)です。金地墨画で、色調のわずかに違った2種類の墨が用いられ、青みがかった墨で松の葉が表され、それ以外の部分はやや赤みのある墨で描かれています。その違いは僅かなのですが、金地に描かれた効果も相まってか、松は青々と茂っているように見えます。図1-1 大乗寺客殿「松に孔雀図」(部分) この絵が、襖がL字型に配置されることを利用して、巧みに立体表現をしていることは、一目瞭然です。右側襖には手前に伸びる枝、奥の襖には左に伸びる枝が描かれています。そして、よく見ると2本の松の右側の幹から、こちらに向かって伸びる枝を発見することができます。八方に枝が拡がる松をその場で見ているような錯覚にとらわれます。そして、奥の2本の松の幹の根元に地面が見えます。ところが、決して盛り上がっているのでなく、畳から連続に平坦に地面が繋がっているように見えるのです。観察者は襖の向こうに広大な空間を見ているような感覚にとらわれます。 図2-2「松に孔雀図」(部分)仏間を開けたとき さらに、もう一つマジック。右側奥の欄間に彫刻がある4枚の襖の向こうは仏間になっています。仏間は襖が開けられたままになる場合も多くあります。図1-2が開けた状態です。松の幹は1本になってしまいますが、松の枝が見事に繋がっています。 大乗寺は常時、客殿の内拝が可能です。内拝料は大人800円。詳しくは次のホームページをご覧ください。http://www.daijyoji.or.jp/main/index.html この円熟期の代表作の筆頭は、図2-1「雪松図屏風」でしょう。応挙生涯の代表作の筆頭といってもいいかもしれません。若冲・応挙の絵のなかで、唯一国宝に指定された絵です。この絵はいわゆる「金地屏風」です。それまでの画家の金地屏風の金地は、モチーフを引き立たせるためのものでした。ところが、応挙は、風景画においては、そのような効果に加え、金地で透明な大気を表わそうと意図しました。さきほどの図1-1「松に孔雀図」もそうですが、本作品にはその意図がより顕著に表れているといえるでしょう。図2-1 「雪松図屏風」上:右隻 下:左隻(国宝)三井記念美術館蔵 構図に目を向けてみましょう。右隻の松は直線的で力強い老松で、左隻の松は曲線的で柔らかい若木です。右隻の松の幹は大胆に上下をカットされ、狩野永徳の大画面巨樹表現を思い起こさせます。やや下から松を見上げ、鑑賞者に迫りくるようです。右から左に伸びる大枝は、画面奥から手前に張り出してきています。一方、左隻の松はかなり下から見上げています。枝は手前から奥へ向かう方向性をもっています。右隻の松葉の一かたまりと左隻右の松の松葉の一かたまりの大きさを比べると、右隻の松の方が手前にあって、左隻の松の方が後方にあることが分かります。屏風一双を並べたとき中央に余白ができますが、その余白が左隻、右隻の奥行き差を強調しているようにも見えます. 次に細部を見てみましょう。図2-2に右隻の部分拡大を示します。雪の部分は、遠くから見ると白色の絵具を使っているように見ますが、そうではなく、紙の地の色を残しているだけなのです。雪を描かずして、雪を描いているのです。雪の部分には一筋の筆も入っていません。それを遠くから眺めると「あら不思議」、幹や枝を柔らかく覆った雪に見えるのです。以前の回でお話しした「遠見の絵」です。樹皮は墨を何度も重ねて、ごつごつとした質感を出しています。これも近くで見ると筆が連続しておらず、粗い感じですが、遠くから見ると自然なゴツゴツ感になります。幹や枝は輪郭線を用いない没骨(もっこつ)法で描かれ、特に横に伸びる枝には、付立(つけたて)の技法が使われていることが分かります。一本の筆全体に薄墨を含ませ、さらに先の部分に濃墨を含ませ、筆を横に倒して引くと、一筆の中で濃淡を表現できます。これが付立です。今風にいうと「グラデーション筆」です。近くで見ると粗い印象ですが、襖を鑑賞する位置から見ると、この枝が丸い立体となって見えるのです。これも応挙の「遠見の絵」理論を実践したものです。図2-2 「雪松図屏風」右隻の部分拡大 そして、以前の回で紹介した「雲龍図屏風」同様、屏風が折り曲げられた状態で見ると、さらに臨場感、奥行き感が増すのです。屏風の折り曲げも考慮したうえでの、立体表現が図られているからです。 「雪松図屏風」は東京日本橋にある「三井記念美術館」所蔵です。「三井記念美術館」は常時観覧できますが、「雪松図屏風」がいつも観覧できるわけではありません。1年に一度くらい、期間を限って観覧できます。私も今回の研究で、2019年の「雪松図屏風」公開の折り、三井記念美術館を訪問しました。最も感動したのはやはり「雪松図屏風」でした。近寄って見ると粗いのですが、屏風を観賞する距離から見ると、同じ絵とは思えないほどの存在感が醸し出され、圧倒されました。 興味のある方は、次のホームページで展示予定など確認ください。「雪松図屏風」以外にも多くの名品を所蔵しており、本稿でもすでにいくつか紹介してきました。 http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/index.html 図3 左:三井記念美術館入口(東京日本橋) 右:筆者観覧の美術展パンフレット 次回以降は、応挙の晩年、応挙ゆかりの地、応挙の名の由来などについて、述べていきたいと思います。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/04
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【2021年8月3日(火)】 今日は在宅日。会の諸事を進めました。久しぶりに朝から雨で、朝のウォーキングができなかったので、夕刻、雨が上がってからウォーキングをしました。雨が降った後で、日差しもなかったので、暑さはそれほどではありませんでした。ただ湿度の高い一日でした。 今日の読売朝刊から。緊急事態宣言が発出された大阪ですが、吉村知事、松井市長は8月の府立・市立学校の修学旅行は、実施の方針とのこと。 果たして、このニュースが、他県にどれくらい影響するでしょうか。京都への修学旅行の実施決断に影響するかもしれません。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/03
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【2021年8月2日(月)】 今日も早朝に散歩。勤務がほとんどないので、意識的にウォーキングをしなければなりません。8時にはもう暑いので、7時半には終えることができるよう、6時半には歩き始めたいところです。会のお役目の月イチの集まりの記録は昨日出せたので、今日は自分のペースで会の諸事をそjました。 「若冲と応挙」の第29回。応挙の「円熟期」に入っていきます。◆第3章 円山応挙(続き)3-5 円熟期 前回は、三井家の庇護を受けた「黄金期」について述べました。 これに続く時代は、応挙45歳から56歳までの時代で、美術書では「円熟期」とも呼ばれる時代です。以前の回でも述べたように、円満院時代の安永4年版「平安人物志」(図1)では応挙の弟子である島田元直や源琦(げんき)がランクインしています。円満院時代には、既に応挙工房が形成されつつあったものと考えられます。三井家の庇護を受けた黄金期には、応挙工房ががさらにしっかりとしたものになり、労力を要する寺社の障壁画制作などの仕事が入ってくるようになったと考えられます。そして、続く天明期(1780年代)には、大規模な障壁画を数多く制作することになります。これが「円熟期」です。図1 「平安人物志」安永4(1775)版 画家の項(再掲)(応挙、島田元直、源琦の名が見られる) 何面にも及ぶ障壁画を描くためには、頭領絵師が中心となって一貫した構想を立て、これに沿って門人たちの能力を考慮しなながら、仕事を分担して仕上げていく統率力が必要となります。若冲も障壁画の大作を遺してはいますが、その枚数からいうと応挙が圧倒しています。応挙は自身の絵の力に加え、頭領絵師としても非常に長けたものを持ち合わせていたということです。 この時代に制作した障壁画を年代順に列挙していきます。安永9年(1780)応挙48歳、本願寺山科別院「春景海浜図」、天明4年(1784)52歳、愛知・明眼院(みょうげんいん)「老梅図」「芦雁図」「老松図」「朝顔狗子図」。その後は、ほぼ毎年障壁画制作に携わっています。天明5年(1785)53歳、和歌山白浜・草堂寺「雪梅図」、天明6年(1786)54歳、和歌山串本・無量寺「波上群仙図」「山水図」、天明7年(1787)55歳、京都・南禅寺帰雲院「海辺老松図」、香川・金刀比羅宮「遊鶴図」「遊虎図」、兵庫香住・大乗寺「山水図」、翌年同寺「郭子儀図」。和歌山・草堂寺と無量寺は、臨済宗東福寺派の禅宗寺院です。当時の両寺のそれぞれの住職は京都の本山に居た頃から応挙と旧知の間柄で、本堂が普請された際に、応挙に障壁画制作を依頼したのです。明眼院は、その寺名からも窺い知れますが、中世から眼病で知られる寺院です。奥文鳴の「仙斎円山先生伝」に、応挙は最晩年眼病に悩まされたと書かれており、この時代すでに眼病が持病になっていて、この寺院で治療を受け、そのお礼に障壁画を描いたのではないかといわれています。 このように非常に多くの障壁画を一時期に遺していて、すべてを紹介しきれませんので、ここでは一部を紹介します。 代表作の一つが兵庫県・香住 大乗寺の客殿の障壁画群です。山陰海岸にある香住は冬場の蟹で有名ですが、この大乗寺は応挙寺とも呼ばれ、知る人ぞ知る観光スポットになっています(図2)。和歌山の2寺と違って、どのような経緯で大乗寺が応挙に障壁画制作を依頼したのかはよく分かっていません。図2 兵庫・香住 大乗寺 山門・応挙碑・応挙像 障壁画の面数はなんと165面で、すべて重要文化財に指定されています。応挙一門総がかりで制作しています。応挙に加え呉春、奥文鳴、円山応瑞(応挙の子)、山本守礼、秀雪亭、亀岡規礼、源琦、長沢蘆雪が筆を執っています。そして多くの絵が、天明7年(1787)から翌年にかけて描かれているのに対し、孔雀の間の絵だけは、時期が数年空いてます。寛政7年(1795)、応挙は63歳で他界しますが、その3ヶ月前に自らが描いたものです。なぜ時期が空いてしまったかというと、完成直前だった孔雀の間の絵が天明の大火(天明8年・1788)で灰燼に帰してしまったからです。痛手から立ち直った応挙が、眼病に悩まされながらも、弟子たちに支えられて、最後の力を振り絞って描いた作品なのです。 図3に大乗寺客殿襖絵の配置図を示します。薄く色付けしたところが、応挙本人の筆による絵が入った部屋です。筆者は去年(2019年)に大乗寺を訪れましたが、原画をデジタル複製と置き換えるプロジェクトを進めているところで、既に大部分がデジタル複製と置き換わっていたと記憶しています。置き換えられた原画は収蔵庫に収納されており、気候の安定した春・秋に期間限定で公開されているようです。普段訪れると多くはデジタル複製での観覧となるわけですが、応挙やその門人たちが納めたままの位置で、しかも間近で眼にすることができるところが大きな魅力です。図3 大乗寺客殿 襖絵配置図 応挙本人が揮毫したのは3室で、山水の間の「山水図」、郭子儀の間の「郭子儀図」、孔雀の間の「松に孔雀図」です。ここでは「山水図」と「松に孔雀図」(こちらは黄金期ではなく晩年の作ですが)を紹介します。 山水の間は、床・棚・付書院を備えた本格的なつくりの部屋で、貴賓が訪れたときの座所とする間です。一段高い上段の間に座って、左手側の「山水図」を眺めると、奥の方へと水面が延びてゆくのが見えます(図4-1)。反対に下段の間の下座から上座を見上げると、広がる水平線が次第に陸地へと収斂してゆくのが見えます(図4-2)。この2つの写真は非常に表情が異なっており、なかなか同じ絵からの写真とは信じられないくらいです。しかもどちらから鑑賞しても遠近法に破綻がありません。複数の鑑賞者の位置を想定して構想を練って描いた応挙ならではの作品です。図4-1 大乗寺客殿「山水図」(部分) 図4-2 大乗寺客殿「山水図」(部分) 上段の間から見る 下段の間から見る この山水図の付書院の床の間の上の絵(図5)を見てみましょう。水辺に小さな崖があり、その上に家が建ち、松が水面の上に伸びているという景色に見えます。この絵の下は艶のある板間になっており、崖や松が水面に映っているような効果が見てとれます。板間を水面と見たて、絵の一部として利用しているのです。応挙はこの襖絵を描くにあたって大乗寺を訪れていないとのことなので、部屋の構造・間取りなどの情報を弟子たちから得て、アトリエでこの構図を練り、絵を描いたのだと思います。これも応挙ならではの構想力といえるでしょう。図5 大乗寺客殿「山水図」(部分) 床の間に絵が映っている(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/02
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【2021年8月1日(日)】 昨日は、30日の会のお役目月イチの集まりの文書作成で終日費やし、今日は、その最終化でした。それ以外に、車の1年目の定期点検でディーラーを往復しました。オリンピックの熱戦とともに、暑い日が続きます。 「若冲と応挙」の第28回目、「黄金期へ」の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-4 黄金期へ(続き) さて、そろそろ「黄金期」のお話しに入っていきましょう。「黄金期」は三井家の庇護を受けた時期でもあると書きました。三井家のことについて触れておきます。 三井家の初代三井高利(1622~94)は、三重・松坂(現松阪市)で生まれました。高利は延宝元年(1673)、江戸に呉服店・越後屋を開き、京都に西陣織などを仕入れる仕入れ店を置き、そこを商いの本拠とし、やがて高利も京都に移り住みました。高利は「現金正価販売」「薄利多売」という当時としては画期的な商法で越後屋を発展させるとともに、両替商も営み、一代で三井家の業容を大きく発展させました。代々の三井家の人々は、江戸時代の間は、多くの分家も含め、ほとんどが京都に住まいました。現在の三井グループは東京が本拠となっていますが、江戸時代は京都が本拠だったのです。この11月3日、超豪華ホテル「ホテルザ三井京都」が二条城前に開業しましたが、その地は、もと三井の総領家(本家)があった場所なのです。 図1「郭子儀祝賀図」一幅 三井記念美術館 財力をつけた三井家は、18世紀になると、茶道具など美術工芸品の収集を盛んに行い、芸術に対する関心を高めていきました。しかし新興商人であった三井家の芸術に対するアプローチはかつての商人たちのようにはいきません。古いタイプの商人は、伝統に基づいた貴族的な美を追求しました。以前の回で書いたように、江戸時代前期に活躍した尾形光琳の絵は商人たちに人気がありましたが、宮廷生活など伝統的な約束事の知識をもっていないと、真に観賞できないものでした。京都の伝統という基盤を持たない新興商人の三井家にとっては、近寄りがたいものでした。しかし、応挙の写実的な絵は、前提知識を必要とせず、平明で分かりやすく、かつ美しく心に訴えるものだったため、三井家は応挙の絵を所望するようになります。こうして応挙40歳、安永元年(1772)頃、応挙と三井家の関係が始まりました。東京日本橋の三井記念美術館に応挙の作品が多く所蔵されているのはこのような経緯によるものです。 特に応挙と親しかったのが、三井家四代の三井高美(たかはる)です。図1は高美が実弟の高彌の還暦祝いに送った「郭子儀(かくしぎ)祝賀図」です。郭子儀は唐の人で、多くの武功に輝く名将で、子宝に恵まれ、長寿を誇ったといわれ、吉祥画題としてよく採り上げられます。この絵では郭子儀は高彌の肖像画で描かれています。高美の一周忌に応挙は図2の「水仙図」を供えています。図2「水仙図」一幅 三井記念美術館蔵 黄金期の応挙は多くの傑作を遺しており、前回の「雲龍図屏風」は黄金期初期のものです。もう一つ黄金期の傑作を紹介します。図3「藤花(ふじばな)図屏風」です。純金地にフジのみを描いています。フジは他の植物や物体に絡まって育つ植物ですが、あえてフジのみをピックアップし、複雑に絡み合う樹形に興味を集中させています。幹や蔓(ツル)は、輪郭線を用いない没骨(もっこつ)法で、付立(つけたて)(2種類の濃淡がある墨や絵具を大きめの筆含ませ一気に描き上げる技法)の画技をもって、刷毛で一気に描かれています。それに対して、花や葉は没骨法ではあるものの極めて精緻に描かれています。応挙の大画面作品のなかでも、極めて装飾性が高い作品で、以前の回で述べた写生理論、「気ヲ写ス第一ト(シ),其上理ヲ学て可レ付レ意云々」=「生き生きとした生命感を写すことを第一義としたうえで、理(対象の構造や構成の原理)を学び、意(画家の制作意図)を加える。」を実践した作品といえるのではないでしょうか。図3「藤花図屏風」六曲一双の右隻 根津美術館蔵(下の図は部分拡大) 若冲のところで述べたように、「平安人物志」には応挙も常連として登場します。繰り返しになりますが、「平安人物志」は、江戸時代中期から後期にかけて刊行された京都の市井の各方面の文化人を人気番付のようなかたちで紹介した書物です。円満院時代の初期、明和5年(1768)版の画家部門で、応挙は大西酔月に続き2番目にランキングされています。このとき若冲3位です。さらに黄金期の安永4年(1775)版では、応挙は1位にランキングされ、若冲は2位です。後の時代の天明2年(1782)版でも応挙1位、若冲2位です。特筆すべきは、明和5年版にはランキングに応挙の弟子の嶋田内蔵助(島田元直)が既に入っており、安永4年版には、円山派から派生した四条派の祖である松村文蔵(呉春)、応挙の弟子である駒井幸之助(源琦)らがさらに加わっていることです。天明2年版(1782)にはやはり応挙の弟子である山本主水(山本守礼)、長沢蘆雪も加わっています。若冲がランキングで孤軍奮闘していたのに対して、応挙の門人たちは、応挙が画風を確立し始めた頃に既に活躍を始めていたということです。 次回は円熟期へと入っていきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/01
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