風雲 いざなみ日記

2006年12月19日
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紅葉と雨



年の瀬が近づく12月も半ばになると、テレビ局のどこかの時間帯では必ず忠臣蔵の時代劇ドラマが放送されたりして、私たちはその度に浅野家家老 大石内蔵助 をはじめとする赤穂の 四十七士 の忠義に感動を覚えたものでした。



けれども、社会秩序が整備された天平の元禄の世にあって、どうしてこんな大事件が起こったのでしょう。 資料の多い割には、未だに解明されていない未知の部分も残され、歴史的には大変興味深い出来事だと思います。


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検証(刃傷松の廊下)

それは、元禄14年(1704)のことでした。 当時は、まず朝廷への新年の挨拶に将軍家から使いが京へ上り、その返礼として天皇や上皇の勅使や院使が江戸へ下るのが慣例となっていました。 この江戸城で勅使一行を迎える一連の式典は、朝廷の古いしきたりに従って行われていたため、勅使をもてなす接待係として "御馳走役" を命じられた諸大名は、粗相のないようにと様々な事に気を使い、役目を果たすまでは大変苦労をしました。



折りしも、元禄14年の正月に将軍家の使いを果たしたのが高家の吉良家でした。 そして、勅使をもてなす役を仰せつかったのが赤穂三代藩主 浅野内匠頭長矩 でした。内匠頭は、若干17歳の折にもこの大役を無事に果たしていたのでしたが、何か違いなどがあってはならないと、助言を得るため家臣に命じ、 吉良上野介義央



浅野家の家臣からは、このお役目に際しては、吉良上野介に先に贈り物などをする方が良いのではと内匠頭に上申した者もいました。 しかし、内匠頭としてはお役目もまだ済まないうちに贈り物をするのは心苦しいと、家臣の意見を退けて事を進めたため、吉良上野介の機嫌を損ねたともいわれています。 ともあれ、嫌味をいわれたり意地悪をされながらも、個々の行事も順調に進行し、将軍から勅使へのお返しの品を送り、御馳走役の主な役目を今まさに終えるところでした。



仮名手本忠臣蔵挿絵より



諸説ある中でも有力な説によると、この日、内匠頭は上野介に作法について尋ねますが、上野介は、とあざ笑いながら、諸侯の居並ぶ面前で内匠頭を馬鹿にし、それでも怒りを堪えて上野介にアドバイスを求めた内匠頭にまったく取り合おうとしません。 



このため、これまで耐え忍んでいた内匠頭でしたが、遂に溜まりに溜まっていた上野介に対する怒りは頂点に達し、ブチ切れてしまいました。 そして、ちょうど松の廊下に差し掛かる上野介に、腰の小刀を抜いて切りつけてしまいます。 事件は、元禄14年(1701)3月14日 午前11時頃、江戸城松の廊下で起きたのでした。



『この間の遺恨覚えたか!』



殿中は一瞬にして騒然となりますが、内匠頭は吉良上野介の背中に傷を負わせたところで梶川与惣兵衛に組み伏せられて討ち取ることは適いませんでした・・・。



(2)に続きます。




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最終更新日  2006年12月19日 00時21分27秒
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