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椎名誠「遺言未満、」(集英社文庫) 本屋さんの新刊文庫の飾り棚でこの本の表紙を見て「あっ?!?」 と思いました。「遺言未満、」という書名の横に、夕日の逆光で影でしかない著者、椎名誠の写真です。 その、おバカぶりがうれし面白くて「本の雑誌」ともども、夢中になって読んでいた、あのガハハハの椎名誠が「影」になって写っている! のです。 80歳だそうです。 二十数年ぶりに、椎名誠を購入して読みました。椎名誠「遺言未満、」(集英社文庫)です。 夢中になった始まりは「さらば国分寺書店のオババ」(情報センター出版局)だったことははっきりしていて、続けて「わしらは怪しい探険隊」(角川文庫)、「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵(本の雑誌社)「場外乱闘はこれからだ」(文藝春秋)、「インドでわしも考えた」(集英社文庫)、「赤目評論」(文春文庫)、まあ数え上げ始めるときりがありませんが、理由は簡単で、すぐ読めたからですね。で、ヒマつぶしに最適だったからです。 ご本人はSF 作家を自称していらっしゃるらしいのですが、SFは、多分、一冊も読んでいません。もっぱら活字中毒と怪しい探検隊に引きずられていました。何本か撮っていらっしゃるはずの映画も、見るには見た気がしますが忘れました。 で、90年代の半ば頃に、突如ブームが終わって、今回の購入は実に久しぶりです。 というわけで本書ですが、下の目次をご覧いただくと一目瞭然ですね。まあ、そういう編集、造本なわけですが、テーマは「死」です。 葬式とか遺書とかの話ばかりです。 著者の椎名誠は1944年生まれのようですから、この本が書かれた時は70代ですが、今年、2024年には80歳です。さすがに椎名誠でも、まあ、そういうテーマになるのでしょうね。 一人の人間がどのくらいの蚊に刺されたらどうなるか。具体的に調べた研究者グループのことが紹介されている。場所は北極圏。おびただしい蚊の雲に1分間とりまかれたあと急いで屋内に戻って被害を調べたら、一人につき約9000回刺されていた。一人の人間の体には5リットルほどの血液が流れている。蚊が一回に吸う血液の量は5マイクロリットル(100万分の5リットル)だからものの数に入らないようなものだが9000回となると話が違ってくる。 同書は続いて恐ろしい推算をしている。― 我慢強く、15分間そこに立ち続けていると、その人は血液の15パーセントを失い、30分たつと血液の30パーセントを失ってしまう。40分たつと2リットル。45分たつと刺され死にするというのだ。(P131)」(遺言状と死にそうになった話-無数の蚊に刺されつづけたら) やっぱり、椎名誠でしたね。。健在ですね。でも、やっぱり、そうはいっても80歳で、あのころから50年たっているのですね。「あの頃は面白いことをけっこうたくさんやったよなあ」「そうだったなあ」話は二分くらいしかできなかった。「いろいろ楽しかったよなあ」「そうだったなあ」そうしてしばらく互いに黙った。彼は最初すこし笑ったような気配があったがとても疲れてきているのがわかった。いくらか沈黙があった。やがてどちらからともなく言った。「じゃあな」「じゃあな」あっけなかったけれどおれたちの「さらば友よ」の挨拶はそれだけだった。(P269「さらば友よ」文庫版のためのあとがき) 文庫版のあとがきとして書かれた北上次郎、またの名を目黒孝二との別れのシーンの一節です。ちょっと笑えません。でも、まあ、このまじめさも椎名誠なわけです。【目次】「死」を知る生物念願のお骨佛をおがみに家のいのち遺骸と地獄好き四万十川での死孤立死はいやだ身のまわりの「死」のことなど多死社会を迎えうつ葬祭業界遺言状と死にそうになった話葬列の記憶鳥葬へのあこがれ東京のイスラム教モスクに行く墓のない国ハイテク納骨堂の周辺骨を喰らう。骨を撒く遺言未満八丈島の海へ~あとがきにかえて 結局、振り返ってのは、ボク自身の「老い」でしたね。遺言とか、遺書とか、考えたことのないテーマを、何となく刻み込まれた感じです。まあ、読むというのは、そういうことなわけで、しようがないですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.31
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マイテ・アルベルディ「エターナルメモリー」シネリーブル神戸 予告編を見て「これは泣けるやつやな(笑)」 とか思いながら見に行きました。会場は、いつも以上に老人カップル大会で、「ウーン、みなさん仲がええんやなあ?!」 でした。 見たのはマイテ・アルベルディというチリの監督の「エターナルメモリー」です。泣けました(笑)。 少し年かさのアウグストという夫がアルツハイマーで、舞台女優の妻パウリナの献身的な介護の生活をドキュメントした美しい映画でした。二人が「いつも心にあなたがいる」という姿を生活の中のシーンとして撮ったとチラシも謳っています。それはそれで、文句をいう気はありません。ボクだって、そろそろ他人ごとではありませんし。まあ、そんな気分で眺めていました。 しかし、見始めて、すぐに、ハッとしました。あっ!あの頃の、チリの映画なんや! 1970年代のあの時の、チリ! といえば、キューバの再来を恐れたアメリカから徹底的にパージされたアジェンデ大統領が、ピノチェトによるクーデターで殺されたチリです。確か、1973年の9・11だったと思いますが、アメリカの暗躍がうわされて、暴力がまかり通った戒厳令下のチリです。 で、映画の出だしで映し出されるアルツハイマーの主人公アウグストの、あやふやな記憶のシーンは、ピノチェト政権による暴力シーンです。民衆が警棒で殴り散らされるシーンが映され、つかまった友人の喉が子どもたちの前で切り裂かれた話をアウグストが思い出します。 軍人や警察権力の暴力に怯えながら、懸命にニュースを撮り続けるジャーナリストがアウグストなのです。「おー!」 でしたね。 彼は10年以上続いたの軍事独裁政権の暴力の時代のジャーナリストだったのです。で、妻のパウリナはといえば、1980年代ようやく民主化を取り戻した新政府の文化大臣なのです。 この命がけで民主化を闘った二人という設定にこそ、このドキュメンタリィーの狙いがあるのではないでしょうか。 映画は、アルツハイマーを自覚したアウグストが、自分の人生の「記憶」の消滅を恐れますが、執拗にこだわっているのが、自分が書いた「本」についてでした。「あの本が盗まれる!」 という、あきらかに朦朧とした意識での彼の叫びは、軍事政権の真相を取材し、記録した彼自身の心の底、意識の最も深い所にある、人生をかけた自由の希求! の思いを感じさせて、やっぱり泣けましたね。 あの時代のチリを生きたものすごい人生がそこにはあるのではないでしょうか。 で、彼のその思いを最もよく理解した同伴者がパウリナですね。彼女は、病気の夫が何を焦っているのか、何にこだわっているのか、おそらく、心の底から理解していて、その心と心の出会いが語っているのはあなたはよく闘った!そして、今も、よく生きているよ!最後まで一緒に生きよう! だったんじゃないでしょうか。 まあ、ボクの思い入れですけど。二人と、監督に拍手!でした。 20世紀の終わりころから、高度経済成長の平和ボケで、歴史に関心を失いつつある所からは見えていませんが、世界のいたるところで国家的な暴力が大手を振って民衆を弾圧していたし、今も、し続けているんですよね。 世界のあちこちで映画を撮っている人たちは、それぞれの社会の歴史を振り返りながら、記憶として刻むことの大切さを意図して撮っているのではないでしょうか。たとえば、この映画でも、ボンヤリ見ていると、いつの時代にも、どこの社会にもあらまほしい、美しい夫婦愛のドキュメントのように見えるのですが、虐殺が横行した恐怖社会の歴史を、忘れることを恐れる老人の記憶という、実に現代的なテーマで振り返りながら、未来の自由を希求する上で、一人一人の記憶の意味を問い直そうとしている作品だと思いました。もう一度、拍手!ですね(笑)。監督 マイテ・アルベルディ撮影 パブロ・バルデス編集 キャロライナ・シラキアンキャストパウリナ・ウルティアアウグスト・ゴンゴラ2023年・85分・G・チリ原題「La memoria infinita」2024・08・28・no113・シネリーブル神戸no266追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.30
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マルコ・ベロッキオ「夜の外側 前・後」シネリーブル神戸 久しぶりに5時間を越える長編映画を見ました。マルコ・ベロッキオという、イタリアの監督の「夜の外側」(前・後編)、340分でした。エライ!でしょ(笑)。 1978年3月に起きたアルド・モーロという、イタリアのキリスト教民主党の党首で5度の首相経験を持つ人が、「赤い旅団」という武装グループに誘拐され、55日間の拉致・監禁の末に殺害された事件を描いた映画でした。Ⅰ 発端 モーロ誘拐Ⅱ 混乱 苦悩するコッシーガⅢ 交渉 パウロ6世の手紙Ⅳ 対立 赤い旅団Ⅴ 家族 エレオノーラの憔悴Ⅵ 告解 55日目 チラシによれば、上のような小題が付いていますが、実際は数字が示されるだけの章立てで転換していく進行で、全部で6章、それぞれを独立した短編(?)として見ることも出来る仕立てでした。 まあ、二日にわたって見終えましたが、まずは見終えたことに拍手! でしたね(笑)。 で、この作品の面白さは、歴史的事実に対して「イフ」を持ち込んだところ じゃないかなと思いました。 もう、50年ほども昔のことだということもあって、なんとなく「ああ、そういうことがあったなあ・・・」 とか、何とか、まあ、そういう、あやふやな記憶で見ていたのですが、第1章の終わりまで見終えたあたりて、「エッ?そうだったっけ???」 の展開なのですね。第6章まで見終えてみると、「そうだよな!」 という事実に基づく結論で収まって、ようやく納得したのですが、「もしも、内務大臣、あるいは政治家たちがこう判断していたら、教皇がこうしていたら、犯罪者グループがこうだったら。」 まあ、そういうイフを重ね合わせて、事件の真相というよりも、実は、あの時代のイタリア、(あるいは、世界をかも) を描こうとしているんじゃないか、まあ、くたびれながらも、そういう納得でした。チラシの中の見開きの写真の雰囲気が、いかにもこの映画の狙いを感じさせますね。 歴史事実にイフを混ぜ込むことで、新たな歴史評価、あるいは、再評価を描こうとしている のかもしれない監督マルコ・ベロッキオに拍手!ですね。 こういう発想、ボクは、結構好きですね(笑) ドラマとしては、「赤い旅団」の内幕を描いたⅣ章、モーロの妻や家族の様子を描いたⅤ章、映像としては、「ああ、イタリアや!」 というⅢ章の教皇のシーンと、Ⅵ章の拉致されているモーロの告解のシーンが印象に残りました。政治的誘拐の相手に「告解」の機会を与える極左グループって?という驚きと告解の内容ですね。まあ、映画的創作なのでしょうが。 それにしても、前後編、それぞれ3時間づつ、座っているのが大変でした。年ですね(笑)。監督・脚本・原案 マルコ・ベロッキオ原案 ステファノ・ビセス ジョバンニ・ビアンコーニ ニコラ・ルズアルディ脚本 ステファノ・ビセス ルドビカ・ランポルディ ダビデ・セリーノ撮影 フランチェスコ・ディ・ジャコモ編集 フランチェスカ・カルベリ クラウディオ・ミザントーニ音楽 ファビオ・マッシモ・カポグロッソキャストファブリツィオ・ジフーニ(主人公アルド・モーロ)マルゲリータ・ブイ(妻エレオノーラ・モーロ・キャヴァレッリ)トニ・セルビッロ(教皇パウロ6世)ファウスト・ルッソ・アレシ(内務大臣フランチェスコ・コッシーガ)ダニエーラ・マッラ(赤い旅団アドリアーナ・ファランダ)ガブリエル・モンテージ(ヴァレリオ・モルッチ)ダビデ・マンチーニ(マリオ・モレッティ)アウローラ・ペレス(マリア・フィーダ・モーロ)エバ・チェーラ(アニエーゼ・モーロ)ミケーレ・エブルネア(ジョヴァンニ・モーロ)グロリア・カロバーナ(アンナ・モーロ)ファブリツィオ・コントリ(ジュリオ・アンドレオッティ)ジージョ・アルベルティ(ベニーニョ・ザッカニーニ)ロレンツォ・ジョイエッリ(エンリコ・ベルリングエル)アントニオ・ピオバネリ(パスクワーレ・マッキ神父)パオロ・ピエロボン(チェーザレ・クリオーニ)ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ(ドメニコ・スピネッラ)セルジョ・アルペッリ(コッラード・グエルツォーニ)アレッシオ・モンタニャーニ(アントニオ・メンニーニ神父) ブルーノ・カリエッロ(サンタ・キアラ教会の神父)2022年・340分・G・イタリア原題「Esterno notte」2024・08・18・20-no106・108シネリーブル神戸no262・263追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.29
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久しぶりの須磨の海! 徘徊日記 2024年8月27日(火) 一の谷あたり 久しぶりに、須磨、一の谷の丘の上の公園にやって来ました。夏の終わりのはずの須磨の海と青空 です。 向うの方から台風がやって来つつあるそうですが・・・・・ 右端に写っている水色の手すりはこうなっています。 ここはコンクリートの階段の上の踊り場です。ほぼ、誰もいらっしゃらないので、ボンヤリ海を眺めて、持参のサンドイッチとか食べたり、コーヒーを飲んだり、タバコを吸ったりします。そういえばウグイスの声がなくなったなあ・・・ というのが今日の感想です。八月の末ですからね、たとえ、須磨、一の谷でも、ウグイスがなく筈はありませんね(笑)。 写真がないので、夏のはじめの写真です。このころはウグイスが元気でした(笑)。二月も前の話ですが(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.08.28
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アンヌ・フォンテーヌ「ボレロ 永遠の旋律」シネリーブル神戸 少し時間に余裕があったので、神戸駅で降りて歩き始めました。炎天下でした。「シマクマさん!」 元町商店街の手前の交差点で信号を待っていると、右手のほうから声がかかって振り向くと「現代小説研究会」とかで、30年来のお友達のYさんです。「どこ行くの?」「映画。ボレロ見に。あなたは?」「パルシネマ。」「羅生門?」「ううん、羅生門は昨日でオシマイ。今日から新しいの。」「ああ、三宅唱だっけ?」「そうそう」「で、歩いて帰り道?」「そうそう。」「元町まで?」「そうそう、行きは新開地まで阪急に乗るんだけど。」「あのね、私、ガンなのね。」「えっ?」「29日、病院で医者と相談なのよ。」「病院って、どこの?」「中央市民。大きくなりかたが予想より早いんだって。」「あー、そうなんだ。」「だから、歩かないと、歩かないでしょ。」「ああ、一人だと、歩かないね、きっと。」「わたしね、コープさんで水買うんだけど、二本買って、一本づつ家まで運ぶの。コープさんまで往復して、お店の人に笑われてるわ。」「え、そんなに重いの?」 とか、なんとかで、元町商店街の、結構な人混みもあっという間で、大丸の前までやってきました。「9月の会、会えるよね。」「うん、わからんけど、29日しだい。」「じゃあね、映画行くわ。」「うん、じゃあ、またね。」 というわけで別れました。 シネリーブルの席について、始まったのはアンヌ・フォンテーヌという監督の「ボレロ 永遠の旋律」です。 なんとなく、期待というか、予想というかとは違っていて、ボレロの作曲家ラヴェルの芸術的伝記映画 という趣でした。「この映画、きっと女性の監督やな。」 なんの根拠もありませんが、見終えてすぐ、そんなふうに思いました。 そういえば、この映画でラヴェルを演じたラファエル・ペルソナという男前の俳優さんはアラン・ドロンの再来 とか言われていらっしゃる方ようですが、アラン・ドロンが亡くなったそうですね。ボクには「太陽がいっぱい」の人でしたが、時代が変わっていくのを実感しますね。 映画の話にもどると、「ボレロ」の作曲を依頼したロシア人だかの舞踏家イダ・ルビンシュタインという人のダンスが、まあ、そういう演出なのでしょうが、あまりに露骨! というかに辟易しましたが、一方で、「音楽は具象だ!」 と叫ぶラヴェルは印象的でした。 最後に脳腫瘍だかの手術の後だったのか、包帯を巻いた姿のラヴェルを見ながら「私、ガンなのよ。」というお友達の声が聞こえてきた気がして、ちょっと、ドキッとしました。 監督・脚本 アンヌ・フォンテーヌ原作 マルセル・マルナ脚本 クレア・バー ピエール・トリビディク ジャック・フィエスキ ジャン=ピエール・ロンジャ撮影 クリストフ・ボーカルヌ編集 チボー・ダマド音楽 ブリュノ・クーレキャストラファエル・ペルソナ(ラヴェル)ドリア・ティリエ(ミシア)ジャンヌ・バリバール(イダ・ルビンシュタイン)エマニュエル・ドゥボス(マルグリット・ロン)バンサン・ペレーズ(シバ)ソフィー・ギルマン(マダム・ルヴロ)アンヌ・アルバロ(ラヴェルの母)アレクサンドル・タロー(ラロ)フランソワ・アリュ(ダンサー)2024年・121分・G・フランス原題「Bolero」2024・08・22・no110・シネリーブル神戸no264追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.28
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ワンちゃん大行進! 徘徊日記2024年8月21日(火) ハット神戸あたり 109シネマズハットという映画館で「フォールガイ」というおバカ映画を見てご機嫌で、ちょっと海見て・・・ とか何とか思いついて、まだ西日の日盛りを南に歩きました。 神戸市の防災センターの中庭を通り過ぎながら見上げると、30数メートルの津波はここですよ(写真の上の方) という表示があって、「おおー!?」 でした(笑)。 まあ、新幹線を止めたりとか、イロイロ騒がしい今日この頃ですが、どうせ、また想定外で責任放棄するのがオチなんじゃないのという気がしてしらじらするのですが、30メートルの津波はやっぱりすごいですね。 で、ワンちゃんたちが元気に走っている公園 です。まあ、鉄製らしいので熱そうで、背中に座る気にもなりません。 海岸沿いの、いや、運河沿いか?の歩道に出ると正面は倉庫群と橋です。この風景、結構好きです。座り込んで持参のサンドイッチの残りで腹ごしらえです。 いつもはここから三宮行のバスに乗るのですが、それに乗ると摩耶埠頭を経由して、あの橋を渡れます。橋の上からポートアイランドあたりが見晴らせます。 でも、まあ、今日は乗りません。 ボンヤリ橋を見ながら一服して、振り返るとこんな少女が立っていました。名前は知りませんが、県立美術館のお嬢さんですね。 別に、何の用もありませんが、涼しそうなので美術館の中を通って北側の歩道橋に出て振り返ると、先日パンクしたのかと面白がっていたカエルくんが果てていました(笑) 暑さでパンクじゃなくて、5時を過ぎたあたりで、空気の栓が抜かれるのでしょうね。ちょっと残念ですたが、果てた姿がリアルで笑えますね。これが報告したくて書いた日記でした(笑)。 今日は灘からJRで帰ります。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.08.27
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半藤一利「清張さんと司馬さん」(NHK出版) 今日の読書案内は半藤一利という方の「清張さんと司馬さん」(NHK出版)です。今では文春文庫で読める本のようですが、ボクが読んだのはNHK出版の単行本です。 2001年ですから、もはや20年も昔の「NHK人間講座」という教養番組のために、当時、存命だった半藤一利が書いたテキストがNHK出版から単行本化されている本ですが、単行本にするための大量の「註」が新たに書きこまれていて、どっちかというとそこが面白い本です。 「清張さん」というのは松本清張で、「司馬さん」というのは司馬遼太郎です。著者の半藤一利は、今では「昭和史」(平凡ライブラリー)、「幕末史」(新潮社)、「漱石先生ぞな、もし」(文春文庫)で、作家・歴史家として知られていますが、もとは文藝春秋社の編集者で、駆け出しの編集者時代に、まあ、敗戦後の昭和を代表するお二人の「文豪」と出会い、伴走者として仕事をしたからこそというところがこの本の読みどころでした。 表題のお二人は、それぞれ、松本清張は1909年(明治42年)生まれで、1992年(平成4年)没。司馬遼太郎は1923年(大正12年)生まれで、 1996年(平成8年)没。ついでに著者の半藤一利は1930年(昭和5年)生まれで2021年(令和3年)没です。 もう、この世にいない人が、もっと前にいなくなった二人の作家について、それぞれ生前の出会いの思い出を語っている本です。 まあ、そういうわけで、今となっては、本もですが内容そのものが骨董品のようなものですが、実は、ボクが、まあ、そういう本を今ごろ案内している事情にはもう一人の亡くなった方が絡んでいらっしょいます。 といいますのは、今年2024年の6月に亡くなった、江戸、幕末思想史のエキスパートで、神戸大学の名誉教授だった野口武彦先生(一応、門下生)の、まあ、膨大な蔵書整理、いや、処分かな?で、古本屋さんのお手伝いをする機会が最近あったのですが、その時、ふと目にとまって、ちょっとパチってきた本なのです(笑)。遺品ですね。 先生が残された本を読む楽しみは、傍線と書き込み、それから付箋、ポストイットとの出会いです。「シマクマ君、これ読んだ?ここ、面白いよ」 先生の、あの、ニコニコ笑顔と一緒に聞こえてくるささやき声を聴きながら、ボク自身が、今、どちらの世にいるのか、朦朧たる至福の読書(笑) ですね(笑)。 まあ、私事はともかく、本書の内容ですが下に目次を貼っておきますね。 で、あちこちに引かれている傍線ヶ所から、一ヶ所紹介します。第六章「巨匠が対立したとき」 もう一つ、お二人がかなりやり合っていつ対談を見つけました。昭和四十八年一月の「別冊小説新潮」なんですが、これが非常に面白いので、最後に紹介することにします。 主題は幕末の尊王攘夷運動をめぐって、なのですが、司馬さんがこの大いなる運動を引き起こした思想的背景に水戸学、すなわち朱子学があったと説き、「水戸学をやらない人でも朱子学をやって、王を尊ぶべし、武力でもって政権をとるやつを卑しむべし、覇王を卑しむべしということがあるのです。ですから、尊王攘夷というのはもう常識としてあって・・・」と言いかけるのを、清張さんが「ぼくは、それはちょっと従えないな」と押しとどめて、以下、ちょっと激しい論戦が長々と戦わされることになります。(以下略) 長い引用になりますから端折りますが、結論はこうです。松本 端的にいえば、安政の大獄以前の攘夷は、神国をけがすといった式の、きわめて単純素朴な考えだったと思う。それから以後の攘夷は幕府を倒す武器になる。そこんとこの攘夷論は性格を見分けていわないと、いっしょにいうと、あれはわからなくなっちゃうんだ。司馬 それは確かにそのとおりですね。 で、半藤一利のまとめは 司馬さんの小説は、ということは歴史の見方ということになりますが、司馬さんの言葉を借りれば、歴史を上から鳥瞰するように捉える。つまり、歴史を大づかみして読者に示しながら、登場人物の活躍を描くことで、歴史のうねりを手に取るようにわからせる。この俯瞰的な見方が司馬さんが歴史を語る時にも、文明批評をするときにも、見事に適用される。そのことが清張さんとの議論でも発揮されていると、わたくしには思えるわけです。 しかし、清張さんは違った。清張さんは地べたを這うんです。草の根を分けるんです。刻々の変化を見るんです。大づかみではなく、ごちゃごちゃと微細に分け入るんです。そのために少々混乱を来たそうが、読者が理解しようがしまいが、一切お構いなしなところある。(P120~P121 ) わざわざ赤鉛筆でひかれている傍線ヶ所を太字にしましたが、フフフでしたね。司馬遼太郎は歴史を上からのぞき込んでかっこいい奴を選び出し、松本清張は下から見上げて、怪しい奴を追及する。 バブルから平成の時代に、司馬遼太郎があれほど流行って、松本清張は忘れられたのか?わかりやすいが好きな現代でも、司馬が描いた竜馬はマンガ化されたりで、ウケ続ける理由がこのあたりにありそうですね。目次 はじめに一 二人の文豪と私二 社会派推理小説の先駆者として三 古代史家としての清張さん四 時代小説から歴史小説へ五 『坂の上の雲』から文明論へ六 巨匠が対立したとき七 司馬さんと昭和史八 敗戦の日からの観想九 清張さんと昭和史十 『日本の黒い霧』をめぐって十一 司馬さんの漱石、清張さんの鷗外十二 司馬さんと戦後五十年を語るあとがき参考文献松本清張略年譜司馬遼太郎略年譜 本書の山場は、昭和史をめぐる二人のスタンスの相違ですが、まあ、そのあたりはどこかで手に取っていただくほかありませんね。ボクのほうは、久しぶりの半藤一利ブームがやってきそうな予感です。またご案内しますね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.26
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フレデリック・ワイズマン「至福のレストラン」シネリーブル神戸 「ニューヨーク公共図書館」のフレデリック・ワイズマンが新しいドキュメンタリーを複数撮っているという噂をどこかで聞いて、待っていました。 で、多分ですが、最新作「至福のレストラン」を見ました。240分、ハイ、4時間のドキュメンタリー映画でした。 三ツ星レストランがどうのとか、フランス料理がとか、ワインは何がとか、全く知らないし、関心もない70歳の日本人の老人が、あつらえられたドラマがあるわけでもない、次の料理のための準備をする料理人や、客との言葉のやりとを注意しあうフロアー係の会話や、レストランの周辺の風景や、放牧されている牛やヤギの様子が延々と映し出されるドキュメンタリーフィルムに、4時間、飽きることなく、釘付けになる! というのはいったいどういうことなのでしょうか? 途中10分の休憩はありましたが、4時間のフィルムが、突然暗転して、「あっ、終わった!」 と思った次の瞬間思い浮かんだことは「一度もBGMなかったな!?」 でした。ボクが、この映画で気づいたのはそれだけでした。フレデリック・ワイズマン、御年94歳。遂に完成形になったな! まあ、一人でそんなふうに納得したワイズマンの最新作でしたが堪能しました。拍手!です。 もう、それ以上、何もいうことはありませんが、一流レストランの話なので料理について一つだけいえば、多分、世界中から美味しいという評判でお客がやってくるのであろう料理が、ごく普通の生真面目な料理人によって、何の衒いもカッコつけもなく調理されて、皿に並べられていくことが一番驚きでした。世界は、あたり前の普通で出来上がっているのですね。 やっぱりもう一度拍手!ですね。監督・製作・編集 フレデリック・ワイズマン製作 カレン・コニーチェク撮影 ジェームズ・ビショップキャストミッシェル・トロワグロセザール・トロワグロレオ・トロワグロマリー=ピエール・トロワグロ2023年・240分・G・アメリカ原題「Menus Plaisirs - Les Troisgros」2024・08・23・no111・シネリーブル神戸no265追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.25
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チョン・ジア「父の革命日誌」(橋本智保訳・河出書房新社) 今日の読書案内は現代韓国文学の話題作、チョン・ジアという女性作家の「父の革命日誌」(橋本智保訳・河出書房新社)です。「父が死んだ。電信柱に頭をぶつけて。生真面目に生きてきた父が電信柱に頭をぶつけ、真摯そのものだった人生に幕を下ろした。」(P005) 死んだ父は80歳を過ぎた老人で、名前はコ・サンクウ。前職がパルチザンだそうで、似たような年恰好で脊椎狭窄症の母と二人暮らしでした。 語り手は一人娘で、名前はコ・アリ、50歳を過ぎて一人者です。名前のアリは白鵝山(ハクアサン)の「ア」と智異山(チリサン)の「リ」で「アリ」。漢字で書けば鵝異、命名の経緯は、下に引用した訳者の著書紹介でも見当がつくと思いますが、語り手が、父親のことを「前職パルチザン」と呼んでいるととも繋がりますし、作品の背景にある韓国現代史も浮かびあがってくるのですが、まあ、作品中に書かれていますから、まあ、そちらをお読みください。 で、彼女は都会、多分、ソウルあたりで、大学の講師かなんかして暮らしているようですが、父の死を知って智異山(チリサン)の麓の求礼(クレ)という生まれ故郷に帰ってきて、葬儀を取り仕切っています。 小説は、父の葬儀のドタバタの数日を描いている、まあ、いってしまえば「お葬式」小説 です。 親の葬儀の経験のある方であれば、どなたでも体験されるんじゃないかと思いますが、知っているつもりで知らなかった親の真の姿の発見のオドロキが描かれています。ありきたりといえばありきたりですが、どんどん読めます。「面白い!面白い!」 と、ボクがどんどん読めてしまった理由は、「前職パルチザン」の両親の生活に対する興味がまずありました。ボク自身の現代韓国社会に対する関心に。ほとんどジャストミートで応えているところです。 で、もう一つは「ユーモア」小説だ! ということですね。 表紙をご覧になって、お気づきかもしれませんが、葬儀に集まる、母親はもちろんのこと、叔父、叔母たちや、知人たち、全く想像もしなかった少女の登場に到るまで、一見、ぶっきらぼうなユーモア あるいは、自分を笑うというか、集まった人たちに対するちょっと醒めた眼で語り続けてられています。 しかし、笑いながら、読み続けていると、その照れ隠しのようなユーモアで語られる、人々の描写の底には、語り手の人間たちに対する、そして、もちろん、父や母に対する、「愛のようなもの」があるという発見にたどりつく葬式の終わりがやって来ます。 で、その焼き場で泣き始めた語り手の姿をみて感じた納得が三つ目の面白さでした。父の遺灰を握ったまま、私は泣いた。 ドタバタだった葬儀の終わりに、初めて涙を流すシーンの冒頭ですが、「パルチザンの娘」を生きてきた語り手が、パルチザン以前に、人間として生きた父親の素顔の発見! にたどりつく感動のラストです。チョーありきたりです! しかし、パルチザンの娘として偏見と蔑視にさらされて生きることを押し付けられた50年の人生の苦闘の結果、あたり前の人間として生きた父親の遺灰を抱きしめるかのラストは、社会、家族、個人という、まあ、吉本隆明ふうにいうなら、共同幻想、対幻想、個的幻想という、人間存在を縛る幻想性の衝突と和解を文学的に昇華させんとする作家の力技のなせる業だと思いますが、実に、感動的ですね(笑)。 楽しいだけの作品ではありませんでした。私たちが見失っている歴史性・社会性の上に立たないかぎり、あるいは、共同幻想との対峙を見据えないかぎり、家族との葛藤や自分自身の叫びのリアル、対幻想や個的幻想の真相にはたどり着けないことを描いている作品だと思いました。 なんだか訳の分からないことをウダウダいってますが、小説という表現は、それを書いている作家がどんな社会やどんな時代をどんなふうに生きているのかを伝えるものだったのだということを思い出させてくれた作品でした。 訳者である橋本智保さんがあとがきでこんなふうに著者の紹介をかいていらっしゃいます。 本書は2022年に韓国で刊行された「父の革命日誌」(チャンビ刊)の全訳である。著者チョン・ジアは、美しい智異山(チリサン)と蟾津江(ソムジンガン)に囲まれた全羅南道(チョルラナムド)の求礼(クレ)で生まれる。父はかつて全羅南道党組織部長であり、母は南部軍政政治指導員であった。父は長い期間にわたって収監され、娘のチョン・ジアは軍部独裁政権下で多感な時期を送った。 1990年、「パルチザンの娘」(全三巻)という実話をもとにした長編小説を書き、センセーションを起こした。チョン・ジアはパルチザンの娘である自分に課された使命だと思って執筆したと述べており、両親がパルチザンになったいきさつや、どのような活動をしたのかについて記録した。 ところが思想の自由が保障されていなかった当時、「パルチザンの娘」は刊行直後に国家保安法違反により発禁処分を受け、チョン・ジアは指名手配され逃避生活を余儀なくされた。 まあ、これだけでお隣の国の政治、社会のことをいかに知らないか実感したのですが、一人の人間が「書く」という時に、今、生きている社会にたいして、書き手がどんな覚悟をもっているのか、読み手の側も、腹を据えて読む必要を実感した読書でもあったわけです。 で、出版社の著者紹介はこんな感じです。チョン・ジア (チョン,ジア) 1965年、韓国・求礼生まれ。1990年、自身の両親をモデルにした長篇小説『パルチザンの娘』で作家デビューするが、発禁処分となる。作品集に『歳月』(新幹社)など。李孝石文学賞ほか、数々の文学賞受賞。 韓国の新しい文学、翻訳も揃い始めています。面白そうですよ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.24
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朝倉裕子 詩集「母の眉」(編集工房ノア) そのとき子どもが生まれておばあちゃんと呼ぶようになった部屋にはかすかにでも規則正しく呼吸の音幼い日のようにおかあちゃんと呼んでみるもう返事はない握った左手に握りかえす力もない 詩人は1952年生まれの女性です。彼女が子供産んで、母親のことを「おばあちゃん」と呼ぶようになった時から、おそらく30年以上の時がたっていて、今、彼女自身も「おばあちゃん」と呼ばれているのではないか。そんな思いが、詩人より少しだけ年下の読者であるボクには浮かんでくる詩です。 「おかあちゃん」と耳元で囁いても、もう、握りかえしてこない母との「そのとき」が、静かに浮かんできます。 偶然、知り合いになった朝倉さんが、新たに上辞された詩集「母の眉」を贈ってくださいました。飾らない言葉でしるされた詩を読みながら、朝倉さん自身が今日まで生きていらっしゃった「時」とともに、自分自身の「時」を彷彿とする詩集でした。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.23
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デビッド・リーチ「フォールガイ THE FALL GUY」109シネマズハット 暑い、暑い、夏のあいだ、ナシのつぶてだった、愉快な仲間のピーチ姫からラインが入りました。「今年もドタバタアクション映画の季節がやってきたよ。フォールガイ観てね!」 というわけで、109ハットで見ました。デビッド・リーチ監督の最新作「フォールガイ」です。 はい、紹介してくれてありがとう! でした(笑)。 映画製作現場ネタの作品で、主人公がスタントマンです。だから、映画の裏の世界ですが、当然、それでは面白くないので、裏の裏の裏くらいまで全部見せます! という作品でした。 スジはこびが、少々面倒でしたが、大丈夫でした。きっとこの人とこの人はうまくいって、この人は悪者やって、 と、適当に予測していると、苦心惨憺、危機一髪、ではありますが、その通りというか、期待通りというかに展開して、とどのつまりは、スタント映画の、スタント場面まで、だから、ライアン・ゴズリング君演じるスタントシーンの、実際のというか、当然、本物のスタントマンの活躍があるわけですが、そのシーンまで見せてくれたようで、いや、ほんとニコニコ、大満足! でした(笑)。 歩いているだけで汗だくになる酷暑の日盛りから、お客さんがほとんどいない、で、チョー涼しい映画館に紛れ込んで、持参したサンドイッチかなんか、何の遠慮もなく頬ばりながら(だって、周りに人いないし)、キッスかなんかのBGMが派手に流れたり、エミリー・ブラントさんのラブソング熱唱のカラオケシーンまで一曲全部あったりして、当然のことながら、あっと驚くスタントシーン連発 で、ドキドキ、ハラハラ、映画を見るのは、日ごろの悩みも(ありませんが)、暑さも忘れて極楽ですね(笑)。いやホント、拍手!拍手!でした。 ああ、それから、この方を忘れてはいけませんね(笑)。フランス語しか理解しないらしいスタント(?)ワンちゃんです。名前は忘れましたが、彼(多分)の大活躍も、なかなか愛嬌があって楽しい作品でした。拍手!監督 デビッド・リーチ原案 グレン・アルバート・ラーソン脚本 ドリュー・ピアース撮影 ジョナサン・セラ編集 エリザベット・ロナルズドッティル音楽 ドミニク・ルイスキャストライアン・ゴズリング(コルト・シーバース:スタントマン)エミリー・ブラント(ジョディ・モレノ:映画監督)ウィンストン・デューク(ダン・タッカー:スタントコーディネーター)アーロン・テイラー=ジョンソン(トム・ライダー:映画俳優)ハンナ・ワディンガム(ゲイル・メイヤー:プロデューサー)テリーサ・パーマー(イギー・スター)ステファニー・スー(アルマ・ミラン:トムのアシスタント)2024年・127分・G・アメリカ原題「The Fall Guy」2024・08・21・no109・109シネマズハットno49追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.22
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百日紅、これが咲いたら秋?! ベランダだより2024年8月18日(日)玄関先あたり 世間では、夏といえばこの花なのですが、我が家では秋の始まりの花なのです。はい、ちょっと遅いんですね盛りになるのが。 で、盂蘭盆もすんで、そろそろ秋風が、今年はことに待ちどおしい8月の下旬を迎える今日この頃咲き誇り始めました。百日紅! ですね。 まあ、正直、暑苦しい花なのですが、こうして青空を背景に写してみると悪くないですね。 で、こちらがまだ緑のカリンです。今年は実が少ない気がしますが、これが黄色くなってきたら、さすがに涼しくなるのでしょうねえ。 銀杏も、青々です。 暑い夏でしたが、台風もやって来るそうですし、そろそろ秋でしょうかね。 にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.08.21
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武田一義「ペリリュー外伝 2」(白泉社) 今日は2024年、8月14日です。関西では、所謂、お盆の墓参りの日です。あっちの世界から、帰って来はる魂(?)をお迎えする日です。死ねば死にっきり主義者のシマクマ君は、自分や、家族に連なる、あの世に行ってしまった係累の「魂」をお迎えする行事をほっぽり出して久しいのですが、前日の8月13日に届いたトラキチクンのマンガ便に入っていたこのマンガを読んで、ちょっと考え込んでしまいました。 読んだのは武田一義の「ペリリュー外伝 2」(白泉社)です。 武田一義は、すでに「ペリリュー・楽園のゲルニカ(全11巻)」(白泉社)を上辞していて、まず、その作品が、ボクのなかでは、抜群の傑作なのですが、その作品の完成後、スピンオフというのでしょうか、本編で触れられなかったエピソードを「ペリリュー外伝」として描き続けていて、これはその第2巻です。『入来周作の戦い』・『戦場からの便り』・『泉康市の願い』・『おぼえていること』・『お父さんへ。』 本巻にはこの五つの短編が収められています。読み終えて、一番残っているのが「戦場からの便り」の中のこのシーンでした。 ペリリュー島を制圧し、残存日本兵の掃討の任務にあたっていたアメリカ軍の兵士デビッド・クレイ一等兵の話です。 彼は戦場から、フィアンセに手紙を書くのですが、戦場で自分がしていることに苦しめられ、手紙に愛の言葉が書けないことに苦しんでいました。 で、結果、こういう死に方をしてしまったというお話です。 このマンガを読んでいた2024年の8月の10日過ぎ、どこかの政党の総裁選だかに出馬がうわされている、元首相の息子とかが、靖国神社に参ったとか、参らなかったとかいうニュースがネット上に飛び交っていました。 あたりまえのことかもしれませんが、このマンガで描かれているデビッド・クレイ一等兵というアメリカ兵は、あの神社には祀られていません。これは、ただの類推ですが、このマンガの中で死んで行った多くの日本兵は遺骨の行方も定かではないし、果たしてあの神社に祀られているかどうか、かなりあやふやな気がします。 で、ついでにいえば、このマンガの戦争で、最高指揮官だった昭和天皇は、戦後この神社への参拝をしていません。東京裁判、極東軍事裁判でA級戦犯として断罪された人たちが合祀されているというのが理由らしいですが、本当の理由は知りません。 で、このマンガの作者、武田一義は、こんなふうに、日本兵もアメリカ兵も、そして、島の住民も描いています。九死に一生を得て、復員、帰国した日本兵の戦後の姿も描いています。マンガのネタとして調べ始めて、描かずにいられないところに来てしまったのでしょうね。大したもんだと思いませんか? イベント化した靖国参拝で浮かれているような、若い国会議員さんたちのアホさを笑うのは70ジジイの得意技ですが、この手の風潮は「お国のため」とかいう安易なスローガン と手を取り合っていることが多いことには要注意ですよね。 まあ、そういう世間の風潮を、ちょっと考え込むきっかけになった「ペリリュー外伝 2」(白泉社)でした。繰り返しますが、傑作! です。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.21
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ピエール・フォルデス「めくらやなぎと眠る女」元町映画館 まあ、なにはともあれ村上春樹の原作のアニメ化というわけですから見ないわけにはいきません。先週から始まっていましたが、上映時間が遅いのでパスして、今週になってお昼過ぎの上映なので出かけました。 見たのはピエール・フォルデスという監督のアニメーション映画、「めくらやなぎと眠る女」です。もちろん、原作は村上春樹、英語版だと思っていたら、英語版は先週で終わりで、日本語版でした。 で、どうだったか?一応、合格!でした(笑)。 ちょっとエラそうな云い方ですが、ここ、数年の間に撮られた村上春樹原作の映画化作品が、なんだかなあ? の連続だったことを思えば、上出来でした。まあ、ボクの場合、大昔の「風の歌を聴け」あたりが、何も覚えていないにもかかわらず、よかったな! なわけで、あてになりませんが(笑) で、このアニメですが、聴いたことのある声の日本語で繰り広げられるエピソードや登場人物たちには、声だけではなくて、その内容にも何となく覚えがあって、はあ、そうですか、という気分で見ていましたが、小村さんの奥さんのキョウコさんが、2011年の震災のシーンに取りつかれるのを見ていて、そうでしたっけ?とか、カエルくんが救うのは神戸の震災の直後の逸話だったんじゃなかったっけ?、とか思ったりしながら見終えました。 この映画が「かえるくん、東京を救う」、「バースデイ・ガール」、「かいつぶり」、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、「UFOが釧路に降りる」、「めくらやなぎと、眠る女」 という、六つの短編の組み合わせでできているのを帰って来て知りましたが、どの作品も、東北の震災以前の作品で、ボクの訝しがりは、そう的外れではなかったようなのですが、まあ、2022年制作ですから、こうなりますよねと腑に落ちました。 で、そうはいいながらも白けなかった、最大の理由は最初と最後の闇のシーンでした。そうなんです、村上君は、こうやって降りていくんです。地下2階ですね! まあ、もうそれだけで、「よし、そう!そう!この監督は信用できる!」 という感じで頷きながら見入っていましたが、アニメだから、直接それが描けるんですよね。 で、とどのつまりには、たとえば、引っ越し荷物から出てきた、行方不明だったネコの「ワタナベクン」とか、正気に戻った(?)片桐さんの膝の上にある「アンナ・カレーニナ」とか、地下2階から、帰ってきたのか、持ち帰ったかの小道具が「ここはどこ?キミはだれ?」 と問いかけて終わるのがハルキワールドなわけですから、合格!なわけです(笑)。というわけで、拍手!でした。 久しぶりの雨模様の元町映画館だったのですが、神戸は、やはり村上春樹の街だからでしょうか、思いのほかお客さんがいらっしゃっていましたね。まあ、それはうれしいのですが、お若い方の姿がほとんどなかったのはさびしいですね。二十代の方たちって村上春樹なんて、もう読まないんでしょうかね?70越えた老人が、出てきた話を全部知ってたとか、一人で喜んでいるんですけど、考えてみれば変ですね(笑)。 ああ、それから、もう一つ面白かったのは登場人物たちの絵柄ですね。日本のアニメとちょっと違っていて、だからでしょうか、妙に日本人!という感じでした。中でも小村君の顔が、どことなく村上春樹に似ていたのは笑えましたが、そう思うのはボクだけですかね?監督・脚本 ピエール・フォルデス原作 村上春樹日本語版演出 深田晃司日本語版翻訳協力 柴田元幸日本語版音響監督 臼井勝日本語版監修 ピエール・フォルデス字幕版キャストライアン・ボンマリートショシャーナ・ビルダーマルセロ・アロヨスコット・ハンフリーアーサー・ホールデンピエール・フォルデス日本語版吹き替えキャスト磯村勇斗(小村)玄理(キョウコ)塚本晋也(片桐)古舘寛治(カエルくん)木竜麻生(シマオ)川島鈴遥(少女)梅谷祐成(ジュンペイ)岩瀬亮(佐々木)内田慈(ケイコ)戸井勝海(鈴木)平田満(ケン)柄本明(キョウコの元バイト先のオーナー)2022年・109分・PG12・フランス・ルクセンブルク・カナダ・オランダ合作原題「Saules Aveugles, Femme Endormie」2024・08・19・no107・元町映画館no256追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.20
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リッカルド・ミラーニ「幸せのイタリアーノ」元町映画館 予告編を見ていて、見ることに決めていました。こういう、見るからにおバカ系、且つ、「ボクらイタリアやケンね!」的、「それでいいのか!」的、コメディ 好きです。 見たのはリッカルド・ミラーニ監督の「幸せのイタリアーノ」です。 邦題は「はぁー???」 ですが、まあ、原題は「Corro da te」で、訳せば「君に向かって走る」とかいう感じで、かなり直球勝負なラブ・ストーリーを思わせますが、主人公がスポーツシューズメイカーの社長さんというあたりから「笑い」のほうにシフトしていることは明らかで、存在=セクハラという、いかにもなイタリア男ジャンニ君を、多分、イタリア的セクシー男前のピエルフランチェスコ・ファビーノ君が演じているわけで、要するに、こてこての女たらしの彼が、なぜか、ずっと走っている映画! でした(笑)。 異性を見れば、「関係が成り立つか?成り立たないか?」 という観点でしか興味がわかないというタイプの方は、男女を問わずいらしゃるのだろうということは、まあ、経験上からも知っていますが、この映画に出てくる男性が、ほぼ、全員、そういう思考の方というか、そういう開き直り方で描かれていることが、まあ、かえって爽快というか、まあ、勝手にしてくださいというか、しかし、それにしても、こういう発想って、フェミニズムとかの考え方からすれば、アウト! だと思うんですけどね、という始まりでした。 で、お相手が、まあ、これまた、見るからに「チョー美人!」で、かつ、車椅子生活を余儀なくされている身体障碍者なのですね。その女性相手に、自らも障碍者のふりをするという、これまたアウト! な発想で、今年の悪質映画ワースト10とかにラインアップするしかないだろうという展開なのでしたが、ボクの結論は、セーフ!(笑) でしたね(笑)。 まあ、なんで、セーフなのか? を語り始めると、ボク自身が、「美人の後ろ姿には見とれる」 健常で反ボケで、あつかましい老人男性であったりすることの「差別性」に無自覚なことが暴露されそうですが、要するに映画が描いている「人と人の出会い」が、アウトの可能性を、何とか乗り越えようとしている素直さ! に笑えたからですね。 明るく、こういう映画を作って、みんなで笑えるイタリアって、いい所ですね。まあ、そういう感想でしたね。 チョー美人のキアラを演じたミリアム・レオーネさん、イタリアのくそ男ジャンニを演じたピエルフランチェスコ・ファビーノくんに拍手!でした。 それから、際どいシチュエーションを笑える話につくりあげたリッカルド・ミラーニ監督に拍手!いやープロですね(笑)。監督・脚本 リッカルド・ミラーニオリジナル脚本 フランク・デュボスク脚本 フリオ・アンドレオッティ ジュリア・カレンダ 撮影 サベリオ・グアルナ衣装 アルベルト・モレッティ編集 パトリツィア・チェレザーニ フランチェスコ・レンダ音楽 ピエルニコラ・ディ・ムーロキャストピエルフランチェスコ・ファビーノ(ジャンニ)ミリアム・レオーネ(キアラ)ピエトロ・セルモンティ(医師)バネッサ・スカレーラ(ルチア―ナ)ピラール・フォリアティ(アレッシア)アンドレア・ペンナッキカルロ・デ・ルッジエーリジュリオ・バーセピエラ・デッリ・エスポスティ(祖母)ミケーレ・プラチド(ジャンニの父)2022年・113分・G・イタリア原題「Corro da te」2024・08・15・no105・元町映画館no255追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.19
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ちばてつや「ひねもすのたり日記6」(小学館) 2024年8月のトラキチ君のマンガ便に入っていました。2024年5月の新刊です。第1巻から読み続けています。ちばてつや「ひねもすのたり日記(第6巻)」(小学館)です。 1939年生まれ、御年86歳のちばてつやさんの、まあ、いわば、徘徊日記ですね(笑)。全ページカラーで、いろいろなご病気を体験されてはいるようですが、元気な日々が「ひねもすのたり」と振り返られていて楽しいマンガです。 表紙を飾っているのは若き日の松本零士さんですね。昨年、2023年の2月に亡くなった松本零士さんを偲んで、連載数回にわたって、出会いの思い出が描かれているページにこんなシーンがあります。 日清のチキンラーメンですね。1950年代の半ば頃に新発売されたと思いますが、即席ラーメンとか、インスタントラーメンとかいう言葉も、このラーメンで生まれたんですね。 で、ご馳走だったんですよね。 このシーンは、お二人の年恰好から考えて、多分、1960年代のはじめの頃だと思いますが、懐かしいですね。 もっとも、その頃田舎の小学生だったぼくなんかには、結構、高価なインスタント食品だった印象で、普通に食べるようになったのは1960年代の終わりころだった気がします。 で、このシーンの後には、このラーメンに「さるまたけ」が添えられるというオチがついていて、まあ、それもなつかしいですね。 「男おいどん」というマンガ、覚えていらっしゃるでしょうか(笑)?「さるまたけ」、本当にお食べになったと松本零士さんは、後日の講演か何かでおっしゃっているそうですが、うーん? ですね。 まあ、あの頃の懐かしい漫画家さんたちも、実は、もうほとんどいらっしゃらないのですよね。ちばてつやさん、がんばって書き続けてくださいね!追記2024・08・19 第1巻・第2巻・第3巻・第4巻・第5巻・の感想はこちらをクリックしてくださいネ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.18
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キティ・グリーン「夏の終わりに願うこと」シネリーブル神戸 不思議なことが続いています。2024年の7月の後半から8月にかけて、うーんと唸るタイプの映画 が、みんな女性の監督なのです。 で、何の知識もないままやってきた「夏の終わりに願うこと」というこの作品もキティ・グリーンという、メキシコの若い女性監督でした。 やっぱり、ウーンと唸りました。傑作です! いきなり、公衆便所の一室で、ニコニコしながら便器に座っている、小学生くらいの少女と、「ネエ、まだ出ないの?」 と促している母親のシーンで始まりました。「ちょっと、早くしてくれませんか!」 とドアをたたく外からの声があり、「ああ、もうダメ!」 という母親の叫びがあって、相変わらず「まだ、でない。」 とニコニコしている少女の横で、おかあさんはスカートの下のパンツをおろしてしゃがみ込み、ことに及んでしまうという展開です。すごい! おかあさんが少女の座っている便器の横の床で音を立てながら小用に及び、「えー?!、そこでおしっこしちゃうん?」 という見ているこっちのタジタジをものともせず、「ちょっと、紙とって」というセリフとともに、おかあさんが運転している自動車のシーンへかわります。「えー、その床、ちゃんと流したん?」 と、たじろぎが治まらないまま、思わずつぶやきながら思うのです。「で、今のシーンなんやったん?」 と思っていると、「おとうさん、死なないでほしい!」 あどけなく笑っていた少女が真剣な顔で答えて映画が始まったようです。 今日はオジーちゃんの家です。いつもは病気で会えないお父さんのお誕生日パーティです。 廊下の絵の上を這うカタツムリ。カマキリみたいな甲虫。カラス。年下の従妹のエステルとネコ、花にたかる小さな蜂。喉にあてて使うオジーちゃんの発声器。焼け焦げて燃え上がってしまったオバサン手製のお誕生日ケーキ。みんな集まって踊りはじめるオバサン。「地球は滅ぶの?」「10億年後太陽が赤色矮星になった時に滅ぶよ。」 燃え上がる小さな熱気球。 パーティーのトリは、おかあさんに肩車された少女の、母子二人羽織、口パク絶唱は歌劇「ルチア」のアリア。 トイレで、あどけなく笑っていた少女のはじける笑顔。ようやく出来上がったケーキの蝋燭の炎に浮かびあがる少女の顔。 で、きれいに整えられたお父さんのベッド。 すべてのシーンが「で、今のシーンなんやったん?」 を繰り返し浮かび上がらせます。「ん?、ん?、ん?」 で、ワクワク、ドキドキへ引き込んでいく、それぞれのシーンのコラージュはただものではありません。 まずは、百面相の少女ソルちゃんを演じたナイマ・センティエスちゃんに拍手! で、メキシコの新しい監督リラ・アビルスに拍手!拍手!です。 人が、いや、地球や、太陽や、宇宙も、小さな虫や、ネコや、声を失ったオジーちゃんや、ガンで苦しんでるお父さん、心配のあまり、姉妹げんかをしてしまう伯母さんたちや、お父さんとソルちゃんを励ますお母さん。そして、あれこれ考えこんでしまう「太陽」と名付けられた少女ソルちゃん。 みんなが、今、生きていることの姿を、ありのままに励まし、肯定しようとしている映像の美しさが見ている老人の「ん?、ん?ん?」 に応えていく心地よさ、これが映画ですね(笑)。 で、この映画、原題が「トーテム」なんですよね、やっぱり「?、?、?」なんですけど、何となく納得しましたね。宇宙樹とかいうあたりでしょうかね(笑)。監督・脚本 リラ・アビルス撮影 ディエゴ・テノリオ編集 オマル・グスマン音楽 トマス・ベッカキャストナイマ・センティエス(ソル・少女)イアスア・ラリオス(ルシア・母)マテオ・ガルシア・エリソンド(トナティウ・父)モントセラート・マラニョン(ヌリア)マリソル・ガセ(アレハンドラ)サオリ・グルサ(エステル・少女の従妹)クルステレシタ・サンチェス(クルス)フアン・フランシスコ・マルドナド(ナポ)アルベルト・アマドール(ロベルト)2023年・95分・G・メキシコ・デンマーク・フランス合作原題「Totem」2024・08・12・no104・シネリーブル神戸no261追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.17
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「バンちゃん、チコク!」 徘徊日記 2024年8月13日(火) 阪神御影から住吉川あたり 2024年8月13日の暑い一日は、JR垂水駅の 西口広場の待ちぼうけから始まりました。💦💦「シマクマさん、久しぶりに神戸に帰ります。今回は、いろいろ変わったらしい垂水の町をウロウロするでいかがでしょう。」 メールをくれたのは、高校の教員生活最後のおともだち、バンチャンでした。「垂水?ボク、毎日、通過してるけど、あなたは数年ぶりだろうから、別にいいよ。午前中がいいなら、10時でどう?」「はーい。」 というわけで、駅前の炎天下に、勇んで10時にやってきたシマクマ君ですが、待てど暮らせどバンチャンは現れません。 11時になってようやく現れました。「はーい、お久しぶりでぇーす(^^♪」「うん、ボク、どうも、時間、間違えてたらしくて10時から待ってた💦💦」「えっ?ああ、間違えてたのボクですね。」「バンチャーン!?!?」 あのころから、チコクで名を馳せた猛者! ではあったのですが、やってくれましたねえ(笑)。まあ、間違えてるのはボクかもな、と思いながら待っていたボクもエライ! で、それから2時間後、二人がやってきたのが阪神御影の駅前にあるこの石碑の前です。兵庫県里程御影標柱ですね。 再開した二人は、まあ、とりあえず垂水の商店街をふらついて、喫茶店で涼んだりしながら「これからどこ行く?」「元町にでも行きますか?」「元町で行くとこあるの?」「ありませんけど。」「じゃあ、神戸から元町商店街でも歩こうか?アーケードは、ちょっと涼しいし。」 で、JRで移動です。 バンチャンは車内で持参のおにぎりをおいしそうにほうばっています。シマクマ君に食欲はありません(笑)。 神戸駅で下車して、元町商店街の入り口まで歩くと「兵庫県里程元標」という石柱があります。 この石柱の前で提案したのです。「あのさ、この石柱やけど、東向きには御影に次の石柱があるって、前々から、行ってみたかったんやけど、行ってみる?」「歩いて?」「あほか、死んでまうわ。そこの西元町駅から阪神や。」 で、やってきたのが阪神御影というわけですね。 目的の御影標柱はありましたが、時刻は午後1時を回っていて、当然のことながらこちらもやっぱり炎天でした。「これ、地震で折れたんかな?」「地震って、95年ですよね。」「ああ、あんた、知らんのやな。」「はい。生まれてませんね。」「そうか、そうやんな。ボク、このあたり、それ以前の記憶ばっかりや。そや、せっかくここまで来たんやから住吉川行ってみようか?」「川を渡ったら、ボク、地元です。」「ああ、そうやん。ばんちゃん、東灘の子やったなあ。」 で、まあ、一人徘徊なら、そんな無謀なことは思いつきませんが、そこから北東にむかって歩き始めて、途中、誰もいない公園で涼んで、たどり着いたのが水道橋です。六甲道から西宮まで貫通している山手幹線が住吉川を渡る橋ですね。 最初の写真の場所です。あれは、北向きで背景が六甲山、こちらは南向きで、向こうは茅渟の海です。 結局、阪急岡本まで徘徊して、久しぶりに阪急電車にも乗れて、充実した炎暑徘徊の一日 は終わりました。「ああー、暑かった!」 ですね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.16
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「カエルくん、ダウン!?」 徘徊日記 2024年8月10日(土)兵庫県立美術館あたり ハット神戸という新興住宅地に新設されて何年になるのでしょうかね。109ハットという映画館が、最近のお気に入りで前はよく通るのですが、今日はちょっと中をのぞいてみようかなとやって来ました。そうです、兵庫県立美術館ですね。 炎天下の屋上では名物(?)のカエルくん、今や、目の玉も充血せんばかりの張り切りぶりで、ふんぞりカエル状態です(笑)。 別に、カエルくんを見に来たわけではありません。お目当ての展示はこちらです。「描く人、安彦良和」展。 そうです、ガンダムシリーズのあの人です。 この雰囲気の絵柄の人です。もっともボクの興味はガンダムではありませんが、美術館の入口にはガンダム前後のデザインがいっぱいでした。 なかなかシャレていますが、お目当ては「虹色のトロツキー」 でした。 まあ、残念ながら、展示場のほんの一角に原画があっただけで、ちょっと肩すかしでしたけどね。 上の、これが入場券。70歳以上は半額です(笑)。 で、さっきの玄関の四角いモニュメントをロビーのほうから見ると、下の写真です。 まあ、こんなもんでしょうとカエリ道、振りカエルと、やってきたときに、あんなに元気だったカエルくんが、なんと、屋上でへこたれていました、 とんがり帽子も折れちゃって、「もう、だめ!ひっくりカエル!」 という顔で屋上のへりにしがみつています。見るからに息も絶え絶えという様子です。 ひょっとしてですが、この熱気で、風船ガエルくん、ホントにパンクしちゃったんじゃないでしょうかね(笑)。 フフフフ、今日一番面白かったシーンです。たまには、美術館とかにも来てみるものですね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.15
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萩原健太郎「ブルー・ピリオド」109シネマズハット トラキチクンのマンガ便で読んでいて、ちょっと気に入っていた人気漫画が映画化されたということで、さっそく見てきました。 萩原健太郎という方が監督している「ブルー・ピリオド」です。 ここのところ「キングダム」とか、「ゴールデンカムイ」とか、ああ、そういえば「メタモルフォーゼの縁側」、「違国日記」とかもそうでしたね。人気漫画の実写映画版を見て、結構よろこんでいます。 「違国日記」は原作を読んでいないので、ちょっとわかりませんが、ほかの作品は「原作」→「映画」 という順番で見て、案外、シラケないのが不思議です。たぶん逆だったらマンガも読まない気もしますが、そうはいいながらも、「違国日記」とか原作が気になっていますから、そういうわけでもなさそうです。マンガである! まあ、その納得が、実写の映画で、普段ならシラケる所を素通りできるわけですね。見ていて、熱演している眞栄田郷敦君とか、ファイト! とか何とか、声をかけたくなってしまうのが楽しい作品で拍手!でした。 というわけで、原作のマンガの方で気に入っていて佐伯先生が薬師丸ひろ子さんだったりして、チョットずっこけそうになりましたが、彼女だって、いつの間にか、還暦だったりするわけで、まあ、こういう役どころなのですよね(笑)。 いつまでも機関銃をぶっ放すセーラー服の少女しか思い浮かばないボクの方が失礼なのであって、だって、あの映画って1981年ですからね、40年間、セラー服を着せたまま彼女を思い浮かべていた! こっちがどうかしているわけですが、でも、まあ、やっぱり、そういうことってありますよね(笑)。 まあ、そういうわけで、結構楽しい映画でした。監督 萩原健太郎原作 山口つばさ脚本 吉田玲子撮影 光岡兵庫編集 平井健一音楽 小島裕規“Yaffle”主題歌 WurtSキャスト眞栄田郷敦(矢口八虎:芸大受験生)高橋文哉(鮎川龍二:女装のユカチャン)板垣李光人(高橋世田介:ライバル)桜田ひより(森まる:美術部の先輩)やす(矢口行信:父)石田ひかり(矢口真理恵:母)薬師丸ひろ子(佐伯昌子:美術部顧問)2024年・115分・G・日本2024・08・10・no103・109シネマズハットno4追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.14
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キティ・グリーン「ロイヤルホテル」シネリーブル神戸 予告編を見ていて、それでどうするのかな? と思っただけの理由で見に来ました。キティ・グリーンという、オーストラリアの女性監督の「ロイヤルホテル」です。ハラスメント地獄! 女性にとっての恐怖を描く新感覚フェミニスト・スリラー。 まあ、チラシにはこういう文句が踊っていて、だいたい、スリラーは苦手なので、あんまり鬱陶しいことが続くようだと逃げ出そうという心づもりでしたが、最後まで見終えました。 誇大広告でしたね。現実はこんなもんでしょ。まあ、そう感じるボクがセクハラ人間だという可能性について考えるのは置いておいて、オーストラリアであろうが、日本であろうが、女性であろうが、男性であろうが、文化的、経済的、地理的辺境にやってきた単独旅行者、あるいは映画のような友だち二人旅で楽しい旅を続けられる! という前提は成り立つのでしょうかね。なんだか、旅する二人の幼さが気にかかってしまうのは年のせいでしょうかね?まあ、そういう気分で、どっちかというと、楽しい旅を夢みて旅をしているお二人がアブナイ!なあ・・・ と思って見ていましたが、やっぱりアブナカッタ! ですね(笑)。 まあ、そうはいいながら、映画のなかでの主人公ハンナの反応に、ちょっと、共感を感じて見ていましたから、とどのつまりの結末まで、何となく予想できました。 で、チラシを見直すと女性の決意を示す、新時代のエンディング とあって、まあ、それでいいんじゃないのという感じで振り返りましたが、如何せん、登場人物たちの行動も、それによって物語というか、反セクハラの主張を作り出す意図も底が浅いんじゃないでしょうかね(笑)。 ただ、辺境に行かなくても、ただの町中の暮らしの中でも失われつつある「社会的モラル」というか、何というか、「知らない人に親切にする」とか、「困っている人に気付く」とかいう、本当はあたり前の感覚が総崩れしていきつつあるかの現代社会について、結構、面白い視点から作られている印象で、好感はもったのですが、やっぱり、なんか、物足りませんね(笑)。 旅する二人は「こんなもの、燃やしてしまえ!」 で、まあ、ボクも、「そうだ!そうだ!」 という気分なのですが、旅から帰ってきて、ちょっと新しくなった目で見たときに、実は、街の暮らしもおんなじだったらどうするのですかね? 途中、旅の出会いと困惑の展開と、カンガルーなんかが出てくる風景は悪くないんですけどねえ(笑)。でも、まあ、監督キティ・グリーンさんが、なかなか頑張っていることは事実なわけで、拍手!ですね。監督 キティ・グリーン脚本 キティ・グリーン オスカー・レディング撮影 マイケル・レイサム編集 カスラ・ラスールザデガン音楽 ジェド・パーマーキャストジュリア・ガーナー(ハンナ:旅する女性1)ジェシカ・ヘンウィック(リブ:旅する女性2)ヒューゴ・ウィービング(ビリー:店主・アル中)アースラ・ヨビッチ(キャロル:店主)トビー・ウォレス(マティ:ダメ男1)ハーバート・ノードラム(トルステン:ダメ男2)ダニエル・ヘンシュオール(ドリー:ダメ男3)ジェームズ・フレッシュビル(ティース:ダメ男4)アースラ・ヨビッチ(キャロル:店主)2023年・91分・G・オーストラリア原題「The Royal Hotel」2024・08・07・no102・シネリーブル神戸no260追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.13
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ゼロ・チョウ(周美玲)「流麻溝十五号」元町映画館 監督も、映画の下馬評も知りません。題名を見ても意味が解らなかったし、何の予測も思い浮かばなかったのですが、元町映画館のポスターを見ていて台湾の新しい映画か? まあ、そう思って見に来ました。ゼロ・チョウ(周美玲)という女性監督の「流麻溝十五号」という作品です。 全く知らなかった台湾の現代史について、新しく教えられることのオドロキに打ちのめされて見終えました。 時代は1953年、舞台は台湾の南東にある離島、緑島という所の「新生訓導処」という女性政治犯の強制収容所でした。 1895年から1945年まで続いた大日本帝国による植民地統治を経て、国共内戦に敗れた蒋介石による台湾統治が始まるのですが、1947年の2・28事件、大陸から移入してきた、軍人・官僚、(外省人)に対する台湾人(内省人)の抵抗事件ですが、その事件以降、国民党政府によって戒厳令が布告され、所謂、「白色テロ」の時代が始まりますが、戒厳令が解除されたのが、蒋介石の息子蒋経国の死の前年の1987年だそうです。映画を見終えて帰ってきて、ネットで調べられる台湾現代史をたどり直して、もう一度、啞然としました。 で、映画にもどります。映画は、その白色テロ時代に思想犯として収容された女性たちを描いていました。 実は、見ていて、最もオドロイタことというのは、収容されている本省人たちが、外省人である看守や軍人に隠れて話す言葉が「日本語」だったことです。中国語の字幕を読みながら見ていると、突如、日本語の会話が聞こえてきます。「え?なに?なんで?」 1953年という時代設定から考えて、台湾の成人たち(本省人)が「日本語」を話せるというのは当たり前で、日本人の統治が終わった後、だから、1945年以後ですね、大陸から来た人たち(外省人)は、その言葉がわからないという、1950年代当時の、台湾における歴史的現実 が、映画として表現されているわけです。 収容されている人たちの中には、もちろん外省人もいるわけですが、当時、2・28事件弾圧が本旨であった外省人である蒋介石にとって、反共教育に名を借りた本省人弾圧が目的の収容所だったのでしょうから、収容されている多くの人が台湾人(本省人)であり、その結果、1945年までの弾圧言語、強制言語であった日本語が「自由」を維持する内緒の言葉 として流通していたのです。 主人公たちが日本語で内緒話をし始めるの見ていて、最初はキョトンとしましたが、歴史的背景に気づいてギョッとしましたね。こんなふうに、二重、三重の抑圧の歴史を生きてきた人びと が、台湾に、そして、きっと朝鮮にもたくさん存在するはずだということすら、ボクは忘れていました。そういえば、蒋経国の後、台湾民主化の立役者として登場した李登輝という人は「日本名」を持ち、青年時代、京都大学で学んだ人だったですよね。 映画は、ドラマとしての面白さ以前に、「伝えること」に重心を置いた描写・構成が印象的な作品 でした。 おそらく、2024年の今、台湾でも多くの人がこの作品に描かれている歴史的な事実を忘れてしまっているという現実があるのでしょうね。一見、穏やかなシーンの展開で終始しますが、その時代に「女性に対する思想教育」という、男性的で権力的な発想が、まずあったことが、今の台湾社会が忘れてはならないという思いが静かに響いていました。 Untold Herstoryと副題が付いていますが、そこで何が行われたか、たとえば主人公の一人は女子高校生だったわけですが、彼女が語ることができないないまま生きていかざるを得ない社会が続いたという事実を、今、掘りおこそうとしてるゼロ・チョウ(周美玲)という女性監督の勇気に拍手! でしたね。まさに、今、撮られなければならない映画でした。拍手!監督 ゼロ・チョウ(周美玲)原作 ツァオ・シンロン脚本 ゼロ・チョウ ウー・ミンシュアン主題歌 ツァオ・ヤーウェンキャスト余杏惠(ユー・シンホェイ)ユー・ペイチェン陳萍(チェン・ピン)リエン・ユーハン嚴水霞(イェン・シュェイシア)シュー・リーウェンシュー・タオジャン・ユエ2022作・112分・G・台湾原題「流麻溝十五號 Untold Herstory」2024・08・04・no099・no254追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.12
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ジェーン・カンピオン「ピアノ・レッスン」パルシネマ 半年ぶりでしょうか、久しぶりにパルシネマにやって来ました。2本立てですが、お目当てはジェーン・カンピオンというニュージーランドの女性監督の「ピアノ・レッスン」です。 1993年の作品で、カンヌでも、アメリカのアカデミー賞でも高く評価された映画だということは、ちょっと知っていましたが、見るのは今回が初めてでした。 ストーリーは、あちらこちらに見かけることができるので追いません。イギリスのスコットランドあたりから、太平洋の真ん中にあるニュージーランド入植者のもとに、父親の命令で嫁がされる、自ら「ことば」を音として「発声」することを拒否しているシングルマザーである女性エイダと、彼女の「ことば」を理解する娘、小学生くらいの少女フローラの親子の話でした。 この女性にとって「音」としてのことばはピアノの響きなのでしょうね。 映画は、彼女の心の声によるナレーション で始まります。 嫁入り道具にはピアノがありました。ところが、ニュージーランドの新夫は、これを拒否するのですね。 他の荷物は現地人の人夫たちにはこばせたのですが 大きな波の打ち寄せる海岸にピアノがポツンと残されていました。 この映画で最も印象に残ったシーンです。住居までの泥道をせかされる主人公の女性が、丘の上から海岸に打ち捨てられたピアノを振り返り見るシーンには、もう一度胸打たれました。 それから、数日後だったでしょうか、土地と交換にピアノを手に入れたベインズという男の道案内で、エイダが娘のフローラと二人、海岸のピアノと再会し、そこでピアノを弾きます。それが、上のシーンです。 ボクにとって、この映画は、この三つのシーンがすべてでしたね。 そこから後は、何となくな、つけたしというか、べインズとの情事のシーンも、夫による指の切断のシーンも、ハラハラ、オロオロしながら目を瞠る思いで見るには見たのです。その展開で繰り広げられた、愛のドラマの深さにも、充分、胸打たれもしたのです。とても美しいドラマだったことに感動したことも事実です。 にもかかわらず、この、三つのシーンの衝撃 というかは、言葉ではうまく説明できませんね。のこりのシーンが、みんなつけたしだったような感覚になってしまって見終えたのでした。 邦題が「ピアノ・レッスン」とつけられていますが、この映画は「The Piano」でないと変ですね。エイダのホリー・ハンターとフローラのアンナ・パキンには、もちろん、拍手!でした。しかし、男たちもよかったですね。 言葉をしゃべらない結果でしょうかホリー・ハンターの表情のすばらしさ には、言葉を失いましたね(笑) 監督・脚本 ジェーン・カンピオン撮影 スチュアート・ドライバーグ美術 アンドリュー・マッカルパイン衣装 ジャネット・パターソン編集 ベロニカ・ジェネット音楽 マイケル・ナイマンキャストホリー・ハンター(エイダ・口を利かないシングルマザー)アンナ・パキン(フローラ・娘)ハーベイ・カイテル(ベインズ・入植者)サム・ニール(スチュアート・夫)ケリー・ウォーカージュヌビエーブ・レモン1993年・121分・R15+・オーストラリア・ニュージーランド・フランス合作原題「The Piano」2024・08・06・no100・パルシネマno081追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.11
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李鳳宇・四方田犬彦「パッチギ! 対談編」(朝日選書774) 2024年に公開された「ちゃわんやのはなし」というドキュメンタリ―映画を見ていた思い出した本がりました。 1冊目が、映画の、ほぼ、原案というか、アイデアというか、制作者をインスパイアーした作品はこれだろうと思った司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」((文春文庫)、2冊目が見ながら浮かんできた村田喜代子の傑作「龍秘御天歌」((文春文庫)。 で、3冊目が、エンドロールに出てきた映画のプロデューサの名前に、思わず「ああ、この人か!」と思って、思い出した、李鳳宇と四方田犬彦の対談集「パッチギ! 対談編」(朝日選書)でした。考えてみれば、もう、20年も昔の本です。 李鳳宇とわたしがはじめて会ったのは一九八九年のことだった。彼は設立したばかりの映画配給会社を妹さんと二人でやりくりしていて、わたしにパンフレットの原稿を依頼に来た。死ぬならパリで死にたいですねえと、彼は別れ際にいった。それも、若いころの津川雅彦に似た顔で、さりげなくいった。なんてキザな野郎だというのが、わたしの第一印象である。 で、とか何とかいいながらウマが合ったのでしょうね、一九五三年生まれの映画研究者・批評家と、一九六〇年生まれで、駆け出しの映画プロデューサーだった二人が、こうして出会った初対面から10年後の一九九八年、それぞれの「青春」時代について、一方が遅れてきた全共闘世代の高校時代を、もう一方は、日本人が知らない在日の高校生のワイルドな日常を語り合うことになります。 で、その対談から7年の時がたちます。 それから七年があっという間に経過した。李鳳宇は「シュリ」や「JSA」といったフィルムを次々と配給し、日本で韓国映画が大ブレイクするきっかけを作った。わたしは東アジアの大衆映画の研究に没頭し、その合間にTVで韓国文化についての連続番組に出演したり、二度目のソウルで長期滞在を果たした。 一人は、井筒和幸の「パッチギ」をプロデュースし、「韓流」ブームを演出したと評判だったプロデューサであり、もう、一人は、当時、書きに書きつづけていた、人気の映画批評家でした。 まあ、そんな二人が、二度目の「青春」対談をしたのが、2005年で、その年の4月に本になりました。 ボク自身、四方田犬彦の名は、80年代のニュー・アカブームで登場した当座から知っていましたし、その著作に関していえばほぼ「追っかけ」でした。が、李鳳宇の名は、映画「パッチギ」で初めて知ったばかりでした。 で、飛びつくようにして買い込んで読みました。 この対談集には2005年の対談と、1998年の対談の二つが収められていますが、読み直しても、やはり面白いのは、お二人が、それぞれの高校時代を語り合っている1998年の対談ですね。 四方田の高校時代についての語りは、同窓生で作家の矢作俊彦とか、経済学者の金子勝からウソを言うな! と批判された前科があるくらいですから、まあ、当然(?)おもしろわけですが、李鳳宇の高校時代から、大学時代、特に今回読み直していて、たとえば1979年の朴正熙暗殺事件あたりの回想には、興味惹かれましたね。 まあ、その初読から20年です。実は、映画には、この初読の時期の10年前くらいから前から興味を失っていましたし、四方田の著作にも、この対談を最後に飽きて、その後のお二人の消息はよく知らない10年を過ごしていたのですが、毎日出かける仕事が無くなって、サンデー毎日の身の処し方に困って出かけ始めている映画館で李鳳宇の名前と再会して、四方田の本の山から、ようやく見つけ出して、読み直してみると、これが、案外、面白いことを再発見したという次第です。 本書の巻頭に、四方田犬彦がはじめにと題してこんな言葉を書いています。 時間は過ぎ去る。人間は年をとってゆくが、少しも利口にならない。いつも同じことをして一喜一憂したり同じ失敗をして自分がいやになったかと思うと、また気を取り直して新しいことに向かったりする。 うまいこと言いますねえ(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.10
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内田樹「図書館には人がいないほうがいい」(アルテスパブリッシング) あのー、ですね、40年近く高校の国語の教員をやってきて、最後の数年、図書館長という、まあ、そういう役職名はないんですが、勝手にそう名乗る仕事になって、如何に、よりたくさんの生徒さんが図書館に来るかということ目標にして仕事をしました。 手製の看板やチラシを作ったり、特集コーナーを作ったり、大工仕事を請け負っていただいた校務員さんともども、悪戦苦闘というか、まあ、実際は楽しい日々だったのですが、まあ、しかし、高校の図書館に生徒さんを呼ぶのは至難の技でした。 で、あれから、10年ですね。先日、市民図書館の新刊の棚に内田樹の「図書館には人がいないほうがいい」(アルテスパブリッシング)という本を見つけて、書名の過激さに、思わず借りてきました(笑)。 で、ご案内です。 図書館にはね、本来、人が集まって、ワイワイやる機能はないの、誰もいない、本だけ山盛りあるのが正しいの。それでいいの! まあ、そういうご意見です。で、あれこれ苦労したことをすっかり忘れて、ナルホド! と納得でした。 とりあえず、この本ができた経緯について内田さんが語っています。少し長いですがお読みください。もうこれだけで「読書案内」ですね(笑)・ 日本語版のためのまえがき というタイトルを見て驚く方がおられると思います。そうなんです、これは「韓国語版」がオリジナルで、それを翻訳したのがこの「日本語版」という本なんです。 最初に少しこの本の出自についてご説明します。 僕は10年くらい前から毎年韓国に行って講演旅行をしています。最初のうちは教育関係の講演依頼が大半でした(『先生はえらい』や『街場の教育論』が僕の著書の中では比較的早くに韓国語訳が出たせいです)。でも、そのうちに僕の他の分野の著作もどんどん訳されるようになりました(これまでに40冊くらい訳されたそうです)。『レヴィナスと愛の現象学』や『レヴィナスの時間論』のような「難物」まで訳されているのです。 これはひとえに本書の企画をしてくれた朴東燮先生という献身的かつ超有能な翻訳者のおかげです。 朴先生は「世界でただ一人の内田樹研究者」を自認されるほどの内田フリークで、僕の著作は当然、ブログに書いたものも、SNSに書いたものも、誰も知らないような媒体に寄稿したものまで、ほぼ網羅的に蒐集しているという奇特な方です。最初にお会いしたころはヴィゴツキー心理学を専門にする大学教員だったんですけれど、大学を辞めて「独立研究者」になり、以後は好きなことを研究したり、本を書いたり、セミナーを開いたり、こうして僕の書き物や日本のさまざまな書物を韓国の読者に紹介する仕事をしておられます。 日韓の文化的な相互理解のために朴先生ほど尽くされている人は他になかなか見出し難いので、ほんとうなら日韓両政府から「日韓の相互理解と相互信頼の醸成のために大きな貢献を果たした」といって勲章をもらってもいいくらいのご活躍をされています。残念ながらいまの日韓両国政府には「日韓市民が相互理解を深める」ことを外交的なポイントにカウントする政治的習慣がありません。安全保障のことを真剣に考えたら、こういう仕事こそODAや合同軍事演習よりずっと価値があると思うんですけれど。まあ、愚痴を言っても始まりません。 とにかくその朴先生のおかげで僕の本が韓国語にどんどん訳されて、おかげで「内田というのは、なんだかいろいろなことを書いているらしい」ということが韓国内で周知されるようになりました。そしてついには「韓国で企画された、韓国オリジナルの内田本を出したい」と考える出版社まで登場してきたのでした。これには僕もびっくりしました。 3年前にソウルに行ったときにその出版社の方とお会いしました。熱心に企画をお話しくださるのですが、僕は、ご存じのようにだいたいいつも同時並行に数冊の「文債」を抱えていて、「まだかまだか」と編集者に責められて青息吐息というのがデフォルトなので、とても新規の書き下ろしは無理ですと申し上げました。それでも、「内田先生の本を待望している韓国の読者のためにぜひ」と熱心に懇請されて、僕もふらふらと心が動いて、「じゃあ、みなさんから『内田に訊きたいことがある』というご質問があれば、それを伺って、それに僕がご返事をするというかたちで書くことにしましょう」とご返事をいたしました。 そうやって朴先生と往復書簡のやりとりが始まりました。それが1年ほど続いて、なんとか一冊の本になりました。でも、それはこの本じゃないんですよ。間違えないでくださいね。それは韓国では『内田樹の勉強論』というタイトルで出版されました(そのうち日本語版も出るはずです)。 本書も韓国語版がオリジナルですけれど、コンテンツは日本語の「ありもの」コンピレーションです。本書の骨格になったのは僕が2023年夏に図書館司書たちの集まりで講演をしたその講演録です。講演録そのものは学校図書館問題研究会の機関誌に掲載されたのですが、機関誌ですからあまり読者が多くない。せっかくだからと僕のブログに上げました。するとそれを読んだ朴先生が「図書館と書物を主題にして一冊作る」というアイディアを思いつかれたのです。 そうして、僕がこれまでに書いた「図書館と書物」についてのエッセイを片っ端から集めて一冊作り、それを韓国語に訳して、『図書館には人がいないほうがいい』というオリジナルのコンピレーションを作りました。 その本は今年(2024年)の春に刊行されましたが、驚くべきことに、僕の本としては初めて韓国でベストセラー入りしました(ほぼすべての主要メディアが書評に取り上げてくれました)。内田本としては過去最高の売り上げを記録中だそうです。すごいですね。これは朴先生の企画力の勝利という他ありません。 その日本での出版を朴先生がアレンジしてくださり、こうしてアルテスパブリッシングから出ることになったのが、この日本語版です。 朴先生は韓国語版のために長文の「内田樹論」を書いてくださいました。李龍勲先生も韓国の図書館文化にとって本書が持つ意味を明確な言葉で語ってくださいました。この場を借りてお二人のご厚意にも感謝申し上げます。 先に書いた通り「ありものコンピレーション」ですので、たしかに韓国の読者にしてみたら、どれも「初めて読むテクスト」ですけれども、日本人読者にとってはそうではありません。収録されたテクストの大半は僕のブログにすでに掲載されていて、今でも読めます。図書館司書さんたち相手の講演録は、半分弱に縮めて、『だからあんなに言ったのに』(マガジンハウス新書)に採録しました。ですから、そちらをお読みになった読者が本書をぱらぱら読んでいるうちに強い既視感に囚われて「ああ、オレはデジャヴュを経験しているのだろうか」と頭がくらくらしても、病気じゃないから大丈夫です。ほんとに「同じ話」を読んでいるんですから。 図書館司書さんのための講演以外にも、「これ、どこかで読んだぞ」というものが散見(どころじゃないです)されると思いますが、これはもともと日本で既発のものを韓国語に訳して出すという企画ですから、「日本で既発のもの」については既読感があって当然なんです。 ですから、この「まえがき」で読者のみなさんに警告しておきますけれど、中身を読まずに買っちゃだめですよ。まずぱらぱらと立ち読みして、「既読のもの」と「未読のもの」の比率が……そうですね、3:7くらいだったら、買ってもいいと思います。既読が4割超えてるなと思ったら、書棚にそっとお戻しください。でもほら、好きなミュージシャンのベスト・アルバムを買うときって、「ほとんどの曲はもう持ってるけれど、これとこれはこのアルバムにしか収録されていないからなあ……」と悩んだ末「えいや」と買うっていることあるでしょう。あの気合ですよ。 さて、以上でこの本の成り立ちと「警告」はおしまいです。 この本の中味について少しだけ解説しておきます。 これは図書館と書物に関する本です。僕は本が大好きです。今読んでいる本も、これから読む本も、たぶん読まずに生涯を終える本も、読んだけれどすっかり内容を忘れてしまった本も、あらゆる本を僕は深く愛しております。その形態が紙であれ電子書籍であれ、ベストセラーであれ a selected few のための本であれ、あらゆる書物に神の祝福が豊かにあることを僕は願っております。 僕がこの本で言いたかったことはとりあえずは二つです。一つは、書物の歴史は資本主義の歴史より長いということ。もう一つは、書物はたとえそれを手に取る人が100年間一人もいなくてもそれでもアーカイブされる価値があるということです。 僕がそう思うようになった理路については本書を徴されてください。 僕がその意を強くしたのは『ジョン・ウィック:チャプター2』(2017年)を観た時です。本書にも書きましたが、あの中でニューヨーク中の殺し屋に追われる身となったジョン・ウィックはニューヨーク公共図書館に逃げ込みます。ひとけのない書架の奥の方にある厚い書物をくり抜いて、そこにジョンはたいせつな宝物を隠していたので、それを取りに行ったのです。もちろん宝物はちゃんとそこにありました。彼がその本を前に書架に戻してから後、どれくらいの歳月が流れたか知りませんが、誰一人その本を開かなかったのです。僕はその場面を観て、「図書館はこうじゃなくちゃ」とつい呟いてしまいました。そうなんですよ。そこが図書館の「すごいところ」なんです。 図書館は「アーカイブするところ」なんです。そして、書物であれ、美術品であれ、音楽であれ、アーカイブされた場所にはいつの間にかある種の「深淵」が開口し、そこに身を投じると、人は「地下水脈」に触れることができる。 この本はそういう「変なこと」をなんとか読者のみなさんに分かってもらおうと思って書てくれました)。 では、最後までどうぞお読みください。また「長いあとがき」でお目にかかります。 いかででしょうか。 ボクが、本書を読み終えてポイントだと思うのは 図書館は「アーカイブするところ」なんです。そして、書物であれ、美術品であれ、音楽であれ、アーカイブされた場所にはいつの間にかある種の「深淵」が開口し、そこに身を投じると、人は「地下水脈」に触れることができる。 ですね。 「アーカイブ」っていう流行言葉が使われていますが、直訳すれば、「保存する」ですね。ご存知でしたか?そうなんです、図書館は「本の置き場」 なのです。 教員生活最後の数年間、ボクは開架書棚と奥の倉庫にある5万冊を越える蔵書の表紙にバーコード・ラベルを貼り、PCの蔵書目録にデータを記入し、貸し出し可能な蔵書化するのが仕事でした。 本好きの教員には、夢のような仕事だったのですが、気づいたことが一つだけあります。PCで、データ化された本と棚に並べた本はちがうのですね。 迫力というか、リアリティというか、影響力というか、何かが違うのです。 それから、もう一つ、つくづくと実感したのは、まあ、ちょっと古いとはいえ、県立高校の、たかだか5万冊程度の蔵書を触って、40年近く教員をしてきた自分の読書量の少なさでした。教員面の割に、大した本を読んできたわけじゃあねえな! まあ、その時感じたのは、そういう気分でしたが、で、この本で、内田さんがおっしゃっていることは、多分そういうことです。図書館で大切なことは棚を見上げた人間に「おまえは大した奴ではないね!」 と教えることなんです。 まあ、そのあたり、著者の語り口の面白さも含めていかがでしょう。本好きな人には、特におすすめですよ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.09
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レベッカ・ミラー「ブルックリンでオペラを」パルシネマ お久しぶりのパルシネマでした。 で、多分、「音楽映画」で括った2本立ての1本でした。主人公の一人がオペラの作曲家というわけで、そっちを期待しましたが、シッチャカ・メッチャカ・ラブ・コメディでした(笑)。 演技派のワンちゃんはじめ、異形のオペラ作曲家スティーブン(ピーター・ディンクレイジ)さんと超美女の精神科医パトリシア(アン・ハサウェイ)さんのご夫婦は医者と患者の出会いのようだし、パトリシアさんの連れ子のジュリアンくんと恋人テレザちゃんのカップルは、高校生のくせに(笑)、覚えたてのセックスに夢中で、こちらもシングル・マザーでテレザちゃんを育てた、マグダレナ(ヨアンナ・クーリグ)さんは、偶然、パトリシアさんの医院の掃除婦さんで、彼女の今のパートナー、だから、テレザちゃんの義理のパパは、何それっていう感じの南北戦争フェチのトレイさん。そこに、女だてらに引き船の船長で、かつ、恋愛依存症だかで、ストーカーのカトリーナ(マリサ・トメイ)さんが絡んで、もうシッチャカメッチャカでした(笑)。 ええっと、遅くなりましたが、見たのはレベッカ・ミラー監督の「ブルックリンでオペラを」でしたが、「She Came to Me」の原題のままでよかったんじゃないかという作品でした。 中でも、美女のアン・ハサウェイさんは歌劇場のプロデューサーと精神科医という別人の二役で、とどのつまりは患者の前で全裸!(笑) を披露したうえで、なんと修道女の道へという大活躍で、いや、ホントご苦労様でした(笑)。 アメリカの人って、こういうの、面白がるんですかね。ボクは、ちょっと、ポカーン でしたが、とりあえず拍手!でした(笑)。監督・脚本 レベッカ・ミラー撮影 サム・レビ美術 キム・ジェニングス衣装 マリナ・ドラジッチ編集 サビーヌ・ホフマン音楽 ブライス・デスナー音楽監修 トレイシー・マクナイトキャストアン・ハサウェイ(パトリシア・精神科医)ピーター・ディンクレイジ(スティーブン・オペラ作曲家)マリサ・トメイ(カトリーナ・船長)ヨアンナ・クーリグ(マグダレナ・家政婦)ブライアン・ダーシー・ジェームズ(トレイ・裁判所の速記者)エバン・エリソン(ジュリアン・パトリシアの息子)ハーロウ・ジェーン(テレザ・マグダレナの娘)2023年・102分・G・アメリカ原題「She Came to Me」2024・08・06・no101・パルシネマno082追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.08
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ヤスミン・アフマド「タレンタイム」元町映画館 昨日、7月25日に見たのが「細い目」、で、今日見たのが「タレンタイム」です。マレーシアの女性監督ヤスミン・アフマド追悼15周年特集での上映です。「タレンタイム」って何ですか? まあ、そんな気分で見始めました。タレント発表会、だから、まあ、いってしまえば学芸会、文化祭のことでした。舞台は、日本でいえば高等学校、登場人物たちはおおむねその年頃の少年・少女たちです。 ボクの、最近の流行言葉でいえば「あんた誰?」を自分自身に問いかけざるを得ない年頃の彼らが、目の前の他者に対しても「あんた誰?」と、問わざるを得なくなるのっぴきならない事態に、否応なく遭遇し、「問う」ことではなくて、「行動する」ことにしか活路がない現実、まあ、いってしまえば人生の真実と出会う話です。 ちょっと脈絡がめちゃくちゃですが、思いだしたで書きますが、三田誠広が「僕って何」(河出文庫)で芥川賞をとったのが1977年で、学生運動でもみくちゃになった高校生の発するのんきな「自分への問い」に呆れた思いを、周囲の友だちと語り合った記憶があります。しかし、ボク自身、ちょうど大学生だったわけですが、フト立ち止まると、まあ、そんなふうに「問う」ことのリアル に、こっそり、うなずく、そういう年頃で、そういう時代がありました。 この映画の発表会=タレンタイムに登場する少年・少女たちは、もちろん「あんた誰?」とも、「僕って何?」とも問うわけではありません。しかし、次々と彼らが演奏する、様々な音楽は、音楽という共通性を剥ぎ取れば、歴史性、言語、社会階層のギャップの坩堝を暗示するわけで、あんた誰?合戦!になりそうなのですが、映画は、少年、少女たちが各々奏でるそれぞれの音楽を共に謳う世界への希望! を語っていると思いました。 昨日見た「細い目」から5年後に撮られた作品でした。何だかよくわからなかった監督の創作意図というか、モチベ―ションというかが、「細い目」を見て考え込んだせいもあるでしょうが、くっきりとわかる気がしました。 追悼特集ということで配布されていたヤスミン・アフマド監督の笑顔が美しい遺影の絵葉書です。冷静に現実を見据えながら、とても、率直で、素直な映画という印象でした。拍手!監督・脚本 ヤスミン・アフマド撮影 キョン・ロウ音楽 ピート・テオパメラ・チョン(ムルー・高校生)マヘシュ・ジュガル・キショール(マヘシュ・高校生)モハマド・シャフィー・ナスウィップ(ハフィズ・転校生)ハワード・ホン・カーホウ(カーホウ・優等生)アディバ・ヌール2009年・115分・マレーシア原題「Talentime」2024・07・26・no094・元町映画館no253追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.07
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近浦啓「大いなる不在」シネリーブル神戸 予告編を見ながら「どうしようかな???」 と、まあ、かなり躊躇しながらでしたが、最後は「あなたは誰だ」 というチラシのコピーにつられて見ました。見たのは近浦啓という監督の「大いなる不在」です。「なんだかなあ???」 でした(笑)。 幼かった自分と母親を捨てた父親が警察沙汰をおこして保護され、おそらく血縁ということで呼ばれた息子とその妻が、すでに老いた父親と再会し、「父と息子」として出会い直す という父子物語でした。 老優、藤竜也も、息子役森山未來も、父の同居人、だから義母役の原日出子も、息子の妻真木よう子も、カット、カットの演技や脚色の様子は悪くないのですが、全体として何を表現したいのか、何を描きたいかよくわかりませんでした。 脚本家なのか監督なのか知りませんが、映画のような体験をなさった方がいて、これはドラマになると思われたんじゃないか、で、いろいろ、脚色をくわえて映画にしたということを、うがち半分で想像しましたが、ある個人が、いかに劇的な体験をしたとしても、たぶん、そこを越えなければ、納得のいく映画や小説にはならないという峠を越えそこなっている感じでした。 チラシに書かれていますが、「あなたは誰だ?」 という問いは、人間の存在の基底を揺さぶる問いだと思います。正体不明の父親を演じる藤竜也も、やがて、その問いが自問へと変容してゆく息子を演じた森山未來も、なかなかのものだったのですが、劇的リアルとして納得がいかなかったのが何故なのか、ホントは、よくわかりませんでしたね(笑)。 で、つかぬ事を伺いますがという気分で、この作品をご覧になった方に伺いたいのですが、 遠山陽二(藤竜也)の同居人だった直美(原日出子)さんですが、結局、どこで、どうなさっているのでしょうね。 彼女の、残された日記帳をクローズアップして、父親の物語を語るのはいいのですが、まさか、彼女は亡くなっているとかじゃないですよね。なぜ、彼女の「不在」について映画は語らないのでしょうね。 まあ、そのあたりも、今一、納得がいかなかった理由かもしれませんね。 監督・脚本・編集 近浦啓共同脚本 熊野桂太撮影監督 山崎裕音楽 糸山晃司エンディングテーマ 佐野元春&THE COYOTE BANDキャスト森山未來(遠山卓・息子)真木よう子(遠山夕希・卓の妻)藤竜也(遠山陽二・父)原日出子(直美・陽二の同居人)三浦誠己神野三鈴利重剛塚原大助市原佐都子2023年・133分・G・日本2024・07・26・no093・シネリーブル神戸no257追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.06
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リー・アイザック・チョン「ツイスターズ」109シネマズハット 毎日暑いので、なんかパーッと楽しい映画はないか?なに?竜巻か? まあ、そういう気分でやってきた109ハットです。 珍しく、映画館の広告ページをネットで覗いていると、リー・アイザック・チョンという監督の映画のようです。その名前に聞き覚えがありました。「たしか、ミナリという、韓国からアメリカへの移民の話を撮った、韓国系のアメリカ人?だったような???」 「ミナリ」は、2年ほど前に見て、おもしろかった記憶があります。「へぇー、今度はパニック映画か?」 まあ、そんなことを思い浮かべながら見たのはリー・アイザック・チョン監督の「ツイスターズ」でした。竜巻といえば、オクラホマ! ですよね。もちろん行ったことがあるわけではありませんが、なんとなくな風景は浮かんだりします(笑)。 で、そのオクラホマを舞台にした、今ふう(笑)、竜巻パニック映画でした。まあ、やたらと人が飛んでゆくパニックシーンも、登場人物たちが繰り広げる「人間ドラマ」も、なかなか豪快、かつ、ナイーブで面白かったですね。今ふう! と最初に書きましたが、そう思った理由は単純です。アメリカには、竜巻を追いかける「ストームチェイサーstorm chaser」と呼ばれている、本来は気象観測が目的の専門家がいるそうなのです。で、この映画の、主要な登場人物たちは、みなさん、そのストームチェイサーなのですが、プロの気象学者はケイト一人で、あとはユーチューバーとか、災害便乗投資家とか、竜巻に挑むというか、対決する目的というか、理由というかが、まあ、いかにも、今ふうやなあ! というわけでした。 この、くそ暑い夏に、ピッタリかどうか、まあ、そのあたりは怪しいですが(笑)、映画館は涼しいし、見終えて、すっきり! 炎暑の帰り道もなんのそのでした(笑)。 主役のケイト(デイジー・エドガー=ジョーンズ)とタイラー(グレン・パウエル)、それからドローンを飛ばすリリー(サッシャ・レイン)が、かっこよくて拍手!でした。 制作に,あのスピルバーグの名があるのも、何がナルホドなのかわからないままに、なるほどなあ・・・ でした(笑)。監督 リー・アイザック・チョン製作総指揮 スティーブン・スピルバーグ他原案 ジョセフ・コジンスキー脚本 マーク・L・スミス撮影 ダン・ミンデル編集 テリリン・A・シュロプシャー音楽 ベンジャミン・ウォルフィッシュキャストデイジー・エドガー=ジョーンズ(ケイト・クーパー:気象学者)モーラ・ティアニー(キャシー・カーター:ケイトの母)グレン・パウエル(タイラー・オーウェンズ:ユーチューブで有名なストームチェイサー)アンソニー・ラモス(ハビ:竜巻リサーチ会社のCEO)ブランドン・ペレア(ブーン:タイラーチームのビデオ・グラファー)サッシャ・レイン(リリー:タイラーのチームのドローンの操縦士)2024年・122分・G・アメリカ原題「Twisters」2024・08・01・no097・109シネマズハットno47追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.05
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ジミー・T・ムラカミ「風が吹くとき」シネリーブル神戸 1986年ですから、古い、イギリスのアニメです。日本では1987年に公開されて、評判になったそうですが、ボクは見ていませんでした。「これって、愉快な仲間たち、子供のころ見たのかな?」「さあ、どうかな?私は見た気がするわ。絵本もあるでしょ。」「うん、それは知ってんねん。あんな、ボクのアホブログで「ジージの絵本」って、案内してんねんけど。これだけダントツにアクセス数いうの、あれが多いねん。でな、寒がりやのサンタさんのこの人のアニメやけどな、ボクは見てへんから見てくるわ。」 で、やってきたのはレイモンド・ブリッグズの原作で、ジミー・T・ムラカミという、日系の人らしい監督のアニメ、「風が吹くとき」です。 映画が始まって、主人公の老夫婦がおしゃべりを始められてのけぞりました。森繁久彌さんと加藤治子さんのご夫婦でした(笑)。 英語版だとばかり思いこんで座っていたのですが、今回のリバイバル上映は日本語吹き替え版でした。ちなみに、日本語版を監督したのは、あの、大島渚監督だそうです。 森繁さんも加藤さんも、ご長命でしたが、もういらっしゃいません。大島渚もジミー・ムラカミもこの世の人ではありません。ムラカミさんは、1933年生まれの、日系アメリカ人2世だそうですが、アイルランドで2014年に亡くなったそうです。まあ、見終えて、そういうことを調べていて、何だかしみじみしてしまいました。 ああ、忘れてはいけませんね。原作者のレイモンド・ブリッグスも2022年に亡くなってます。 で、映画にもどります。ラジオや新聞が伝える世界の様子や、公共のパンフレットが教える世間のルールに、あくまでも従順に、健康保険や年金を気にしながら、老後を暮らすジムとヒルダという、イギリスの田舎の村に暮らす老夫婦が、突如起こった核戦争の風にさらされて、自分たちが、なぜ、こんなふうになるのか、全くわからないまま、風にさらわれていくかのような作品でした。 絵本版と同じ展開の悲劇です。ただ、映画には、絵本には、多分、なかった風に舞うタンポポの夢のようなシーン が二度あったと思いますが、印象的でしたね。監督による、登場人物二人に対するいたわりのシーンのように思えました。 森繁さんと加藤さんの演じる老夫婦のセリフは、名人二人の読み聞かせになるのかなと、まあ、それはそれで楽しみにしていていましたが、抑揚を殺した、やはり、名人芸のセリフ回し! で、世界の片隅で、今ふうの方から見れば、世界についても、科学的知識についても、無知蒙昧の暮らしを、最後まで淡々と暮らしていく人間の姿を演じ切っていらっしゃいました。スゴイものです。拍手! で、ちょっと本音をいえば、ホントは英語版を見たかったんです。たとえば、音楽はピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズで、主題歌はデビッド・ボウイなのですが、森繁さんと加藤さんの声とは、ちょっとチグハグですよね(笑) それから、このジムとヒルダの暮らしぶりを無知による愚かしさとして感じる方もいらっしゃるようですが、果たしてそうなのでしょうか? たとえば、福島の原発事故やコロナの蔓延とワクチン騒ぎの中で無知でなかった人間はいたのでしょうか?中東では爆撃やミサイル攻撃、戦争状態が続いていますが、そこに暮らす、普通の人たちの中に、ミサイルにいかように対処すべきかの、有効な知識を持って暮らしている人がいるのでしょうか? ジムとヒルダの、一見、哀れな生活のリアルは、ボクたち自身の生活のリアルとどこが違うというのでしょう。二人に吹き付けてきた風はいまも吹いているのではないでしょうか?「37年の時を経て、あの時の風はまだ吹いている」 まあ、チラシのコピーの意図は知りませんが、風は吹き続けていて、他人ごとのように、それに気づかない無知蒙昧の世界が広がっている。 のかもしれませんね(笑)。監督 ジミー・T・ムラカミ日本語吹き替え版監督 大島渚製作ジョン・コーツ製作総指揮イアイン・ハーベイ原作・脚本 レイモンド・ブリッグズ音楽 ロジャー・ウォーターズ主題歌 デビッド・ボウイキャスト(英語版)ジョン・ミルズ(ジム)ペギー・アシュクロフト(ヒルダ)日本語吹き替え版森繁久彌(ジム)加藤治子(ヒルダ)田中秀幸(ロン)高井正憲(アナウンサー)1986年・85分・イギリス原題「When the Wind Blows」1987年7月25日(日本初公開)2024・08・02・no098・シネリーブル神戸no259追記2024・08・04ついでなので、ジージの絵本、「風が吹くとき」も、覗いてみてくださいね(笑)。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.04
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マイケル・マン「フェラーリ」キノシネマ神戸国際 フェラーリとか、ポルシェとか、全く興味ありません。見わけもつきません。F1って何ですか? 男です。スポーツカーどころか、普通の乗用車のことも知りません。40年間、普通免許を持っていましたが、自動車を運転したのは、まあ、せいぜい数時間です。 まあ、そういうじーさんが「フェラーリとか、ちょっとカッコ良さそうやし、覗いて見たろ!」 と調子に乗って、まあ、さほど期待もせずに見た映画でしたが、圧倒されました(笑)。納得のいく作品でした。面白かったですね(笑)。 舞台は1950年代のイタリアでした。で、まず、エンツォ・フェラーリと、その妻ラウラ、死んだ息子ディーノ、愛人リナ、愛人との間の子どもピエロという、一人一人の人物の描き方の、何というのでしょう、ド迫力! 中でも、エンツォ・フェラーリの身勝手というか、自己中というか、けた外れの存在感、ラウラの愛憎相半ばする鬼気迫る表情、この夫婦は見ものでしたね。もう、それだけで、納得でした(笑)。 二つ目が、公道レースが行われるイタリアの景色の素晴らしさ。で、ものすごく美しい風景、で、そこを疾走する自動車の迫力! 見物人が手を振る公道レースで起こる事故の映像のド迫力! 映画で走らせているのは、フェラーリや、ほかのスポーツカーの、その時代の本物のレプリカというのでしょうか、まあ、プラモデルにしか見えないボクには猫に小判(笑) だったのですが、自動車好きにはこたえられないリアル! だったでしょうね。 で、見終えてようやく気付いて唖然! だったのが、フェラーリを演じていたのが、あの、アダム・ドライバーだったことですね。チラシを見たときも、もちろん、映画を見ている間も全く気付かなかったボクも、まあ、大したものですが、彼のシブイ演技力、別人化するメーキャップも一見の価値ありの迫力でした。ボクは、この俳優の主演映画を、ここのところ片手以上見ているのですが、今回が、一番納得でしたね(笑)。 まあ、いってしまえば、ありがちともいえる創業者伝説なのですが、ボクはシラケることなく見終えました。この手の伝記物、歴史物が好きなんだなあ!!! ということが、自分でよくわかりましたが、スポーツ・カーになんて何の興味もない人がご覧になっても、充分納得がいく作品だったと思いました。監督 マイケル・マン原作 ブロック・イェーツ脚本 トロイ・ケネディ・マーティン撮影 エリック・メッサーシュミット編集 ピエトロ・スカリア音楽 ダニエル・ペンバートンキャストアダム・ドライバー(エンツォ・フェラーリ)ペネロペ・クルス(ラウラ・フェラーリ)シャイリーン・ウッドリー(リナ・ラルディ)サラ・ガドン(リンダ・クリスチャン)ガブリエル・レオーネ(アルフォンソ・デ・ポルターゴ)ジャック・オコンネル(ピーター・コリンズ)パトリック・デンプシー(ピエロ・タルッフィ)2023年・130分・PG12・アメリカ・イギリス・イタリア・サウジアラビア合作原題「Ferrari」2024・07・31・no096・キノシネマ神戸国際no12追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.03
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村田喜代子「龍秘御天歌」(文藝春秋社) 2024年、まあ、今年の夏のはじめに「ちゃわんやのはなし」という、十五代沈壽官さんという、薩摩焼の当主を追った、実に味わい深いドキュメンタリー映画を見たときに、思い出した本が三冊あったのですが、その一冊が、今日案内するこの小説です。 村田喜代子の「龍秘御天歌」(文藝春秋社)ですね。1998年、ですから、25年も前に「文学界」に発表され、その後、単行本として出版され、今では文庫で読むことができる作品ですが、映画で、歴史事実の解説として、アニメーションで描かれていた薩摩焼の初代と同じく、まあ、「ちゃわんやのはなし」の登場人物たちは500年の歴史の中を生きていらっしゃった! わけですが、本作は、同じ、慶長の役で拉致されて、日本で窯を開いた朝鮮の陶工の初代の葬式を、慶長の役、丁酉(ていゆう・ひのととり)倭乱から、ほぼ、50年後の江戸時代初期という時代と、黒川藩という、多分、有田あたりに架空の藩を設定することで、小説的想像力を奔放にふるって描いた作品! です。 初七日を迎えると、忌中の家はいちおう普段の暮らしにもどる。龍窯で知られた辛島家にも精進落としの日がやってきた。朝の内に檀那寺の願正寺で内輪だけの法要をすませた。その後に精進落としの酒肴を弔問客に出すのだが、これは皿山の土地柄で一日の窯仕事が終わった夕方から席を設ける。 これが書きだしですが、すでに、日本名を名乗っている龍窯という窯の窯元、辛島家の初代、当主、十兵衛が亡くなり、通夜、葬儀、埋葬が滞りなく終わったかの初七日の法要のシーンから始まりますが、ここから250ページ、小説が描いているのは一人の人間の死と魂のゆくへをめぐる、夫婦、親子、一族のドラマ でした。 引用個所から、亡くなった十兵衛の跡取り、長男の十蔵が、参会者に向かって挨拶を始めますが、描かれるのは屋敷の客間、中の間、下の間に集う50人を越える人間たちの、一人一人の身分、年齢一覧でした。 上の八畳間は外からの客で、顔ぶれはこうだ。 皿山代官所からは、下目付の柳番太郎。取り締まり方の市田佐内。町役からは、赤絵付庄屋の団六。大散使の問屋おこない屋喜平。村役の俵山窯焼き宗八。別当の河原山窯焼き藤次郎。散使の窯焼き亀平。被官の豊田常臣。 中の間は窯の働き手たちで占められていた。ざっとこうである。 喪主十蔵は四十四歳。故十兵衛の妻の百婆、七十歳。故国朝鮮の習慣で女隠居は通り名で呼ぶ。百婆とは窯の者がつけた尊称だ。次男、ロクロのの以蔵、三十三歳。四男で同じく窯焚き兼良、三十三歳。十蔵の長男でロクロの兵太、二十歳。次男でロクロの参平、十七歳。以蔵の長男で窯焚きの以助、十九歳。次男で窯焚きの以作、十七歳。雇い人でロクロの権十、七十歳。権十の長男で同じくロクロの清助、四十歳。次男で同じくロクロの市次、三十七歳。故万治の長男で窯焚きの寅吉、四十七歳。次男で同じく窯焚きの熊吉、四十五歳。万治の女房で呉須すりのアカ、六十八歳。釉かけの伊十、七十二歳。 下の八畳には十蔵の嫁で型打ちのコシホ、三十八歳。以蔵の嫁で同じく型打ちのオクウ、三十七歳。元良の嫁でだみ手のアカイ、三十一歳。兼良の嫁でだみ手のイヌ、二十五歳。他に雑役の荒仕子、薪の皮はぎなど住み込みの者たちと、辛島家の子供たち十数人で、締めて五十余名。 ここまで、この初七日の席に座っている人の名前を真面目に読んできた人はえらいと思います。写しているボクも、ちょっとエライ。で、何で、この個所を引用したのかといいますと、一つは葬式とはこういうものである! という作家の視線というかを、とりあえず紹介したかったわけです。ここではまとめて引用しましたが、作品では、一人一人、行分けして描かれています。 で、二つ目は、今、この席に座っている伊十という、辛島十兵衛と流浪を共に生きてきた老人がどんな気持ちでここにいるかというところから、この七日間に、辛島家の葬儀の現場でおこったドラマ、つまりは作品全体の二重構造が見え始めるという、とっかかりを、案内しないわけにいかないと思ったからですね(笑)。 七日目に行う日本の精進落としじたい、伊十には納得がいかない。坊主がきて経をあげた後は飲み食いだけで忌み明けとなる。伊十の故国では死者を出した家は、三年間も忌み明けはできない。葬式後七日目といえば、喪主は故人を埋めた墓地に仮小屋を建てて寝泊まりし、仕事もなげうって朝に晩に膳を差し上げ、地へ頭をすりつけて礼拝に励んでいる頃だ。国が異なると弔い方も違うのは仕方がないが、何と想いの薄いことだろう。 目脂にかすむ目で伊十はもう一度、座敷中を眺めた。すると賑や耀かな人々の背後に、白麻の喪帽に喪服をつけた影法師のような一群がぼーっと居並ぶのが見えた。異相の彼等は動かず塑像のようでもある。しかし顔を見ればそれは伊十の仲間たちばかりだ。 故辛島十兵衛こと張成徹(チャンソンチョル)。百婆こと朴貞玉(パクジョンオク)。長男十蔵こと張正浩(チャンジョンホ)。十蔵女房コシホこと権麗喜(クォンコヒ)。次男以蔵こと張太浩(チャンテホ)。以蔵女房こと韓青玉(ハンチョンオク)。三男元良こと張永浩(チャンヨンホ)。四男兼良こと張秀浩(チャンスホ)。十蔵長男兵太こと張衛善(チャンウィソン)。次男参平こと張明善(チャンミョンソン)。以蔵の長男以助こと張光善(チャングワンソン)。次男以作こと張順善(チャンスンソン)。ロクロの権十こと韓大中(ハンデジュン)。長男清助こと韓植元(ハンシグオン)。次男市次こと韓植耀(ハンシギョ)。故万治こと李則一(イチギル)。女房アカこと金明順(キムミョンスン)。長男寅吉こと李延吉(イヨンギル)。次男熊吉こと李延泰(イヨンテ)。藤次郎こと権会雄(クォンフェヨン)。亀平こと張日徹(チャンイルチョル)。 故郷全羅道(チョルラド)の田舎では秋になると胡桃がいっぱい熟れた。わし達は実を厚い殻の中に閉じこめた、あの胡桃そっくりだなあ、と伊十こと韓則陽(ハンチギャン)は思った。 それぞれ、座敷に座っている人たちが、もう一度眺め直されていることがお分かりになるだろうと思いますが、この作品の面白さは、こうして作家が描き始めた目の前の世界を朝鮮の魂が底流する二重構造とあつらえたところにあると思いますが、この後のワクワクするような展開の主人公は、百婆こと朴貞玉(パクジョンオク)ですね。 龍窯という窯を夫十兵衛を支え、伊十や権十を励ましてつくりあげ、子を産み、子供たちの妻子を教育してきた、百婆という女性の、自由でおおらかで気骨に満ちた振舞いのすばらしさは、ちょっと言葉では言えませんね。まあ、お読みになって、お確かめください(笑)。 映画「ちゃわんやのはなし」で、たしか、十四代沈壽官を支えたお母さんだったか、十五代の奥さんだったが、蝶になって登場するシーンがありましたが、「あっ、百婆だ!」 でしたね。 これで、「ちゃわんやのはなし」で思い出した二冊目の案内終了です。あと一冊ですね。残すは「パッチギ・対談編」です。ガンバリマス!追記2024・08・03 この小説の題名の「龍秘御天歌」についてですが、「龍飛御天歌」という、15世紀、朝鮮の李王朝の頃編集された、王朝礼賛歌集があるそうです。ボクは読んだことはありませんが、村田喜代子さんが、その歌集を意識において大目をお付けになったことは確かでしょうね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.02
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レイチェル・ランバート「時々、私は考える」シネリーブル神戸 小さな事務所に、経理や会社運営のコンピューター関連のサポート業なのでしょうね、数人の職員が働いて、主人公のフラン(デイジー・リドリー)という女性も、出勤するとPC画面の前に座って、キーボードを相手にしています。 同僚だったキャロル(マルシア・デボニス)の定年(?)退職の集いがあって、新しく加わったロバート(デイブ・メルヘジ)を迎える打ち合わせがあって、そこはかとない会話が、ともに働いている人たちの近くて遠い穏やかな人間関係を自然に描いていきます。 窓からは港に泊まるクルーズ船が見えて、屋上(?)からは、町から海を越えて対岸にかかっている大きな橋が見えています。 映画を見終えて浮かんできたのは、この大きな橋の風景でした。 見たのはレイチェル・ランバートという女性の監督の「時々、私は考える」でした。 PC相手の事務仕事を得意としているらしいフランという女性の仕事場で衝立越しに周囲が気になってしようがないありさま、職場の同僚や、アプローチしてくるロバートとの距離感がどうしても埋められない様子、そして仕事や自宅での休息の合間に湧きおこってくる想念が描かれていました。 「時々、私は考える」彼女の脳裏に浮かんでくるのは、このチラシに写っている海岸の風景の中にいる自分の姿でしたが、帰ってきて「Sometimes I Think About Dying」という元の題名を見てふーん、死ですか?! と思いながら、でも、まあ、時々考えるでいいんじゃないの? とも思いました。 ボクは、時々、まあ、近所にあるからですが、明石大橋の全景が見渡せる丘に座って、橋を渡っていく豆粒のような自動車の流れを見ながら考えることがあります。フランのように、直接的な死の想念が浮かぶわけではありませんが、日常生活で出会う自分以外の人たちに対して、一抹の面倒くささを感じることはわかります。 映画は、失意のフランが、退職して老後を楽しむはずだったキャロルと、偶然、再会し、予想しなかったさみしい生活を語り終えたキャロルから「みんなには砂糖たっぷりのドーナツがいいわよ!」 と教えられてドーナツを職場に差し入れして喜ばれながらも、相変わらずのチグハグぶりで、おしまいまでハラハラさせられますが、いいお話でしたね(笑)。 主人公のフランを演じたデイジー・リドリーさんですが、何かどこかで見たことがあるような女優さんでしたが、なかなか味のある表情で気に入りました。拍手!ですね。監督 レイチェル・ランバート脚本 ケビン・アルメント ステファニー・アベル・ホロウィッツ ケイティ・ライト・ミード撮影 ダスティン・レイン美術 ダニエル・マハマン衣装 ジョーダン・ハミルトン編集 ライアン・ケンドリック音楽 ダブニー・モリスキャストデイジー・リドリー(フラン)デイブ・メルヘジ(ロバート)パーベシュ・チーナ(ギャレット)マルシア・デボニス(キャロル)ミーガン・ステルター(イゾベル)ブリタニー・オグレイデ(ソフィー)2023年・93分・G・アメリカ原題「Sometimes I Think About Dying」2024・07・28・no095・シネリーブル神戸no258追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.01
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