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山里絹子「『米留組』と沖縄」(集英社新書) 市民図書館の新刊の棚で見つけました。2022年4月の新刊です。西谷修の「私たちはどんな世界を生きているか」(講談社現代新書)という本の案内にも書きましたが、自分が生きているのが「どんな世界なのか」、その輪郭があやふやな気がして、まあ、ちょっとイラつているのですが、そのあたりの触覚に触れたのがこの本でした。 「『米留組』と沖縄」(集英社新書)です。著者の山里絹子という方は琉球大学の先生で、社会学者のようです。 書き出しあたりにこうあります。 戦勝連合国による日本の占領は、一九五一年のサンフランシスコ平和条約により終わったが、沖縄島を含む南西諸島は、日本から切り離され、アメリカ軍政による直接的な支配下に置かれた。 沖縄の住民による「限定的」な自治を認めるため、琉球政府が発足したのが一九五二年。米軍の統治期間は琉球列島米国軍政府(軍政府)から琉球列島米国民政府(民政府)と名を変えたが。占領軍が決定権を持ち続けるという支配構造は、沖縄の施政権が日本へ返還される一九七二年まで続いた。 ここまでは、あやふやではあるのですが、ボクでも知っていることでした。しかし、その時代、初等、中等教育を終えた沖縄の若者たちにとって、高等教育・大学教育の機会はどのように保障されていたのかについて、何一つ知りませんでした。この文章をお読みの方で、この時代に少年期、青年期を本土で暮らした方でご存知の方はいらっしゃるでしょうか? まあ、1954年生まれのボク自身は1972年に18歳ですから、ぴったり重なるのですが、何も知りませんでした。 本書によれば、当時の沖縄の青年が高等教育を受ける方法は、本土の大学への留学、沖縄本島にアメリカ軍政府が設立した琉球大学への進学、そしてアメリカの大学への留学という三つの道があったようですが、もちろん知りませんでした。 本書の記述は、そのうちの「一九四九年から、アメリカ陸軍省はアメリカ政府の軍事予算を用いて、沖縄の若者を対象にアメリカの大学で学ぶための奨学制度」「戦後沖縄社会において米国留学制度は「米留」制度、そして米国留学経験者は「米留組」と呼ばれ、合計一〇四五名の沖縄の若者がハワイやアメリカ本土へ渡り大学教育を受ける機会を得た」 というアメリカの大学への奨学生留学について、「米留組」と呼ばれてきた人たちに対する具体的な聞き取りによる、事例の考察を目的とした論考です。 読んでいて驚いたことは、現在も沖縄本島にある国立琉球大学が、アメリカ陸軍の占領統治資金で設置された占領地教育の大学であったこと。米国の大学への奨学生選抜が、占領地に対する思想統制、あるいは分断化を目的として行われていたことの二つです。 読み終えて、こころに残ったのは、二人の米留組のその後についての記述です。 一人は、太田昌秀さん、2017年に亡くなりましたが、1990年から2期、沖縄県知事を務めた方についての記述です。 太田さんは一九五四年に「米留」した第六期生だ。一九九〇年に沖縄県知事に就任し、一九九八年まで八年間の任期を務めた。 一九九五年少女暴行事件が起こり、沖縄に大きな衝撃が走った。基地外に出かけた米兵三人に小学生が車で連れ去られ、暴行されたのだ。当初米兵の身柄を日本側が拘束できなかったことを受け、事件の1か月後には、日米地位協定の見直しと米軍の整理・縮小を求める抗議集会として「沖縄県民総決起大会」が開かれ、主催者発表で八万五〇〇〇人もの人が集まった。 同年、大田さんは代理署名拒否という形で、県民の怒りを日本政府に突き付けた。当時、米軍用地を所有する地主が契約更新を拒否しても、政府は強制的に使用手続きを行おうとしていた。そこで代理署名が大田さんに求められたが、拒否を表明したのだ。(P205) これに対し、当時の内閣総理大臣が原告となり、大田知事を被告として訴える「職務執行命令訴訟」を起こした。 一九九六年七月一〇日、大田さんが法廷で意見陳述したことは次の通りだった。 復帰に際し沖縄県民が求めたものは、本土並みの基地の縮小、人権の回復、自治の確立であるが、現在も状況はほとんど変わっていないこと。また、沖縄の基地問題は単に沖縄という一地方の問題ではなく、安保条約の重要性を指摘するのであれば、基地の負担は全国民で引き受けるべきであること。 日本の民主主義のありようを問いただしたのであった。 しかし、最高裁の法廷で裁判員は誰一人として大田さんを支持しなかった。最高裁の判断は「署名拒否によって国は日米安保条約に基づく義務を果たせなくなり、公益を害する」というものであり、敗訴という結果に終わった。(P206) いかがでしょうか。で、もう一つは、著者山里絹子さんの父親である方についてのこんな記述です。父は最後の「米留組」だった。出発したのは1970年、アメリカの独立記念日7月4日。(P234) ふと父が私にゆっくりと聞く。「もし、僕の足が自由に動いたら何をしたいと思う?」会話の流れから外れた唐突な父からの質問に、私は息が詰まった。― え?何だろう。また旅行に行きたい? 私は冷静を保とうとしながらそう言った。「旅行もいいけど、思い切り走りたい」と父が言った。 そして、またゆっくりと私に聞いた。「もし僕の両手が自由に…動いたら…何をしたいと思う?」ととぎれとぎれの声だった。― うーん、なんだろう。私は喉の奥が熱くなり小さい声で言った。「もし、僕の両手が自由に動いたら…お母さんを両手で抱きしめたい」 私には言葉がすぐに見つからなかった。お茶を一口飲んでから、静かに息を吸って、声を整えて、ようやく言葉を発することができた。― お母さんにも伝えてあげたほうがいい。(P240) 今や、老いた「米留組」の父と、自らもアメリカに学んだ娘の会話です。戦争をしかねない、愚かとしか言いようのない風が吹いています。沖縄の島々にミサイル基地を作るなどということが現実化しつつある時代です。歴史を知ることの意味を静かに、真面目に、考えることを訴える本でした。 著者のプロフィールと目次を載せておきます。山里絹子(やまざと きぬこ)琉球大学 国際地域創造学部准教授。1978年生まれ、沖縄県中城村出身。琉球大学法文学部卒業。2013年ハワイ大学マノア校大学院社会学学部博士課程修了。名桜大学教養教育センター講師を経て現職。専門分野は、アメリカ研究、社会学、移民・ディアスポラ、戦後沖縄文化史、ライフストーリーなど【目次】はじめに ――戦後沖縄「米留組」と呼ばれた人々第一章 「米留」制度の創設と実施第二章 「米留組」の戦後とアメリカ留学への道のり第三章 沖縄の留学生が見たアメリカ第四章 沖縄への帰郷─「米留組」の葛藤と使命感第五章 〈復帰五〇年〉「米留組」が遺したものおわりに ――もう一つの「米留」あとがき
2023.09.04
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米本浩二「魂の邂逅」(新潮社) 2018年に読売文学賞をとった『評伝 石牟礼道子――渚に立つひと』(新潮社)の米本浩二が、題名の上では石牟礼道子と、彼女の、文字通り生涯にわたる伴走者であった渡辺京二との関係を、「魂」の出会いとして描いているということなのですが、読後の印象では、晩年のお二人に対して、独特のポジションに立つことのできた米本浩二という「書く人」が、そこにいてしまった結果、書かずにはいられなかった、渾身のルポルタージュという印象でした。 まあ、下世話に言えば、あの、石牟礼道子と渡辺京二の「愛の軌跡」と、その「わかれ」を、そこまで書いちゃっていいの? といいたくなる暴露本といえないこともありません。実際に、晩年のお二人の傍に立って、その目で見たことを書いているのですから、迫力満点です。 とりあえず目次です。 目次1 道子の章2 京二の章3 魂の章4 闘争の章5 道行きの章6 訣別の章 2023年3月現在では、石牟礼道子の闘病と二人の永遠の別れを書いている「訣別の章」で、ベッドに寝たきりになった石牟礼道子の下の世話までしながらも、結局、あとに残された渡辺京二も亡くなってしまったということを思い浮かべずに読むことはできませんが、石牟礼道子の死の直後、インタビューを求められて断った渡辺京二の発言には、やはり心打たれました。 彼が、その時、何といったのか、「そうか、そりゃあそうだよな。」 ありきたりですが、ぼくは、ことばにすれば、そう思いましたが、そのあたりに興味を感じられた方は本書を手に取られて、確認していただくほかありませんね。 で、今回は「魂の章」から、二人の出会いの一端を引用して、紹介します。 道子と京二の魂の邂逅は、世俗的には、すなわち近代社会的視点からは「不義」と見なされる。二人とも近代法に基づいた配偶者がいて子供もいる。引用した文章から分かることは、道子が渡辺に「責任」を求めたことだ。(P118) どうかどうか、お子さまたちとあつこさまのこと、私はどんなことでもいたしますから。おねがいします。 あなたがその責任を僕に誓わせてくれるひとであることに、僕は感謝すべきなのです。 どこへなりともお連れになって下さいあの月がオレンジにくづれているから われにきこえし息くるしげにながければおそれを持ちて微かに身じろぐ くづれ去る刹那の如きを保ちおりわが前にかぎりなき交錯あり 魂を奪いし覚えはないと云うに地の下に来ておとこは去らぬ 変調の楽章はまだ鳴りひびきふと予感するわれの終焉 身じろげば闇となるべしわれをめぐり螺旋の青はいまかがやけり どの短歌も該当しそうな気がするのが道子の怖いところである。どの歌でもいい、これを道子の甘い声で朗誦されたら、男は悶絶するしかないであろう。(P120) 二人が、あくまでも「魂」で出会ったというのが、著者のモチーフですが、肉体の交わりよりも、よっぽど大変な関係だったようです。 まあ、こういう本の案内は難しいですね。そうであったろうと予想はするのですが、まあ、お読みになっていただけば、少なくとも、米本浩二がどこまでどう書けば?ということを考え抜いて書き下ろした力作であることに納得なさると思いますよ。
2023.03.18
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渡辺京二「未踏の野を過ぎても」(玄書房) 2022年12月25日に渡辺京二が亡くなったというニュースをネットで知りました。「苦海浄土」以来、半世紀以上にもわたって、石牟礼道子のお仕事を支え続けてこられたことが、よく知られた方ですが、彼自身のお仕事も膨大、且つ、重厚で、「これが代表作で・・・」などと利いた風な紹介を許すようなレベルではありません。 しかし、それにしても、渡辺京二という人がどんな思想家であったかということを、何とか伝えたいと思って、思い出したのがこの文章でした。2011年に出版された評論集「未踏の野を過ぎても」(玄書房)の冒頭に収められた、東北の震災をめぐっての発言です。 無常こそわが友 このたびの東北大震災について考えを述べるように、いくつかの新聞・雑誌から注文を受けたが、全部お断りした。というのは、私の感想を公表すれば、多くの人びとが苦しんでいるのに何ということを言うかと、大方の憤激を買いそうな性質のものだったからである。私は世論という場に自分が登場するのもいやなのであった。 このほど、その書きにくいことを書いておくのは、場所が少数の読者が読んで下さるにすぎぬ私の著書だからである。この範囲なら妄言も許されるだろう。 私は大震災に対するメディアおよび人々の反応ぶりが大変意外だった。なぜこんなに大騒ぎするのか理解しかねた。これが大変な災害であり、社会の全力を挙げて対応すべき事態であるのは当然としても、幕末以来の国難であるとか、日本は立ち直れるのだろうかとか、それに類する意見がいっせいに溢れ出したのには、奇異の念を通り越してあきれた。三陸というのは明治年間にも大津波が来て、今回と同様何万という人が死んだところである。関東大震災では十万以上の死者が出た。首都中枢が壊滅したのである。それでも日本が滅びるなど言い出す者はいなかった。 第一、六十数年前には、日本の主要都市は空襲で焼け野原になり、何十万という人びとが焼き殺されたではないか。焼跡には親を失った浮浪児たちがたむろし、人びとは飢えていた。このたびの被害者が家を失って、「着のみ着のままです」と訴えているのをテレビで見た。お気の毒である。だが私は、少年の日大連から引き揚げてきたとき、まさに着のみ着のままだった。帰国してみると、あてにしていた親戚は焼け出されてお寺に仮住まいしていた。その六畳一間に私たち親子四人が転がりこんだ。合計七人が六畳一間で暮らしたのである。むろん、こんなことは私たち一家だけのことではなかった。今回のような原発事故の問題はなかっただって?日本の二ヵ所で核爆弾が炸裂したのを忘れたのか。 それでも日本はもうダメだ、立ち直るのには五十年かかるなんて言うものはいなかった。一九四七年、私が熊本に引き揚げてみたら、街の中心部は焼跡にバラックが立ち並んでいるというのに、映画館は満員で、街には「リンゴの唄」が流れていた。相変わらず車を乗り廻し、デパートの駅弁大会といえば真っ先に駆け付けるのに、放射能がこわいからといって、何の根拠もなく米のトギ汁を服用させて、子どもに下痢させるなど、現代人はどうしてこんなに危機に弱くなったのか。いや、東北三県の人びとはよく苦難に耐えて、パニックを起こしていない。パニックを起こしているにはメディアである。災害を受けなかった人びとである。 この地球上に人間が生きてきた。そして今も生きているというのはどういうことなのか、この際思い出しておこう。火山は爆発するし、地震は起こるし、台風は襲来するし、疫病ははやる。そもそも人間は地獄の釜の蓋の上で、ずっと踊って来たのだ。人類史は即災害史であって、無常は自分の隣人だと、ついこのあいだまで人びとは承知していた。だからこそ、生は生きるにあたいし、輝かしかった。人類史上、どれだけの人数が非業の死を遂げねばならなかったことか。今回の災害ごときで動顚して、ご先祖様に顔向けできると思うか。人類の記憶を失って、人工的世界の現在にのみ安住してきたからこそ、この世の終わりのように騒ぎ立てねばならぬのだ。 このたびの災害で日本人の生きかたが変わるのではないかという意見もよく耳にする。よい方へ変わってくれれば結構な話だ。だけど、大津波が気から価値観が変わったというのも変な話ではなかろうか。われわれは戦争と革命の二〇世紀を通じて、何度人工の大津波を経験してきたことか。アウシュビッツ然り、ヒロシマ、ナガサキ然り、収容所列島然り、ポルポトの文化革命然り。私は戦火と迫害に追われて、わずかにコップとスプーンを懐に流浪するのが、自分の運命であるのを忘れたことはない。実際には安穏な暮らしを続けながら、夢の底でもそれを忘れたことはない。日本人、いや人類の生きかた在りかたを変えねばならにのは昨日今日始まった話ではないのだ。原発が人間によって制御不可能な技術であることも、経済成長と過剰消費にどっぷり浸かった生活が永続きしないのも、四〇年五〇年前からわかっていた話だ。 もちろん、誤りを改むるに憚ることなかれというし、津波であろうが原発事故であろうが、何がきっかけなっても構わないけれど、歳月が経てばまた忘れるんじゃないか。何か大事件が起これば大騒動し、時がたてばけろりと忘れるというのは、どうも私たちの習性らしいのだ。何があっても騒がず、一喜一憂せず、長期的なスパンで沈着に物事を受けとめ考えてゆく、そういう民でありたいものだ、私たちは。ただ、今回の災害によって世の中が変わると感じた人びとは、案外的を射ているのかもしれない。つまり、潮時が来ていたのだ。そう受けとれば、大騒ぎした甲斐もある。しかし、万事は今後にかかっている。本当に世の中、変わりますかな。(P9~P12) いかがでしょうか。こういう方です。震災から10年の歳月が経ちました。確かに潮時だったという実感は残っていますが、「大騒ぎした甲斐もある」方向への変化は、かけらもないというのが事実でしょうね。コロナの騒ぎに関しても、おそらく、無反省となし崩しが大手を振っていくに違いないでしょう。 そういう時代の中で、私たちは、ことにあたってこういう発言が出来る思想家を、また一人失ったということです。マア、ぼくにとっては、ゴミにして捨てる前に、とりあえず手に取りなおしてみる膨大な書籍がまだあることを再確認した訃報でした。
2023.01.31
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米本浩二「水俣病闘争史」(河出書房新社) 石牟礼道子の伝記「評伝 石牟礼道子―渚に立つひと」(新潮社)の著者米本浩二の最新の仕事「水俣病闘争史」(河出書房新社)を読みました。 1961年生まれの私は、水俣病闘争に同時代的に参加したわけではない。石牟礼道子から話を聞いて道子の評伝を書くなど、彼女の生涯とその作品について自己流の資料収集や論考を重ねてきたにすぎない。水俣病事件に関してはアマチュアである。事件の中心的要素である水俣病闘争に関しても同様だ。(P9「はじめに」) この「はじめに」を読みながら、自分のことを振り返りました。本書の記述に沿えば、第四章「困難、また困難」に記されている1970年11月28日、大阪厚生年金会館で開催された「チッソ」株主総会に巡礼団を名乗る患者たちが、巡礼姿で乗り込んだあたりですが、巡礼団の出発を見送って熊本に残った渡辺京二の11月25日の日記が引用されています。 巡礼行にのぼる患者一行を一時に熊本駅に見送る。アローで三島由紀夫の死を知る。信じられぬ気持。悲哀の念、つきあげるようにわく。生きていることを信じたかったが、本田氏宅でおばあちゃんより切腹の後、首を落とされたと聞き暗澹となる。(中略・著者) 今日の事件総体について何をいうにせよ、忘れてはならぬのは、これが三島由紀夫という恐るべき明晰さと解析力をもった知性によって引き起こされた事件だということだ。文学と政治との混同とか、個人的美学の無力さだとか、ロマン的政治主義の危険さとか、そういったお題目は三島自身の批評眼がとらえつくしていたはずだ。(「渡辺京二日記」70年11月25日) ぼくは、三島由紀夫の市谷での自決の当日の事を、なぜか覚えています。夜のNHKのテレビニュースで知ったのですが、一緒に見ていた父親がため息をついたのに気づいて聞きました。「知っとる人?」「小説家やな。よう知らんけど。」 そんな会話をしましたが、父親が三島由紀夫と同い年の丑年であったことに気づいたのは、ずっと後でした。 ぼくは著者の米本浩二よりも、7歳年長ですが、当時、ぼく自身は高校一年生で、「水俣病」も「石牟礼道子」も知りませんでした。 石牟礼道子は「苦海浄土」(講談社文庫)で、浪人をしていたころ、渡辺京二は「北一輝論」(朝日評伝選)で、大学生のころはじめて読みました。石牟礼道子と渡辺京二が「水俣病闘争」のただの同伴者、支援者ではなく、牽引者であったと気づいたのは、ずっと後の事でした。 アマチュアを自称する、この本の著者に関心を持ったのは、この人が石牟礼道子の伝記を書いたあたりからですが、ここのところ、この人の興味の動き方というか、関心の持ち方にはある親しさのようなものを感じて著書の追っかけをしています。 本書は、水俣病事件を記録した膨大な資料の山を、「闘争史」という視点で絞り込み、もちろん闘争の主役は患者ですが、闘争を支え続けた二人、石牟礼道子と渡辺京二を人形浄瑠璃の舞台の人形と黒子のような関係で描いていて、実に面白く読みました。「みやこには、まことの心があるにちがいない。みやこには、まことの仏がおわすにちがいない。そのように思いさだめて、人倫の道を求め、わが身はまだ成りきれぬ仏の身でございますが、それぞれの背中に、死者の霊を相伴ない、浄衣をまとい、かなわぬ体をひきずって、のぼってまいります。胸には御位牌を抱いて参ります。口には死者たちへの鎮魂のご詠歌を、となえつづけてまいるのでございます」(P114~P115) 上で書いた、1970年11月の株主総会闘争の闘争宣言のビラの内容です。もちろん、書き手は石牟礼道子ですが、この出来事から50年、半世紀の時が経ちました。結局、勝利宣言はないまま、石牟礼道子は鬼籍に入り、渡辺京二は、齢90歳を超えたはずです。 若い世代の人に読んでほしい本ですが、ぼくのような傍観者だった人で、関心はあるというタイプには、より、面白い本かもしれませんね。 石牟礼道子の幼年時代の社会から書き起こされていますが、とりあえず目次を貼っておきます。しかし、まあ、ぜひ、本のほうをお読みください。目次 はじめに第1章 寒村から塩と木材/日本窒素肥料/アセトアルデヒド/新興コンツェルン第2章 闘争前夜異変/公式確認/細川一/排水口変更/有機水銀説/爆弾説とアミン説/産業性善説/漁民暴動/猫四〇〇号/サイクレーター/患者家庭互助会/見舞金契約/「水俣病は終わった」/胎児性患者/安賃闘争/新潟水俣病/公害認定第3章 闘争の季節(とき)がきた水俣病市民会議/確約書/石牟礼道子/渡辺京二/血債を取り立てる/水俣病を告発する会/熊本地裁に提訴/水俣病研究会/第一回口頭弁論/補償処理委/厚生省占拠/巡礼団第4章 困難、また困難臨床尋問/一株運動/チッソ株主総会/ほんとうの課題/敵性証人/カリガリ/自主交渉/チッソ東京本社/年越し交渉/五井事件/鉄格子第5章 大詰めの攻防公調委/判決前夜/判決/東京交渉団/補償協定第6章 個々の闘い果てしなく水俣病センター/チッソ県債/杉本栄子/石牟礼道子の涙/原田正純/無要求の闘い/差別糾弾闘争/緒方正人おわりに主要参考文献「水俣病闘争」関連年表 ついでに、著者のプロフィールです。米本 浩二(よねもと・こうじ)1961年徳島県生まれ。毎日新聞記者を経て著述業。石牟礼道子資料保存会研究員。著者『みぞれふる空』『評伝 石牟礼道子』『不知火のほとりで』『魂の邂逅』ほか。
2022.10.23
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谷津賢二「荒野に希望の灯をともす」元町映画館 中村哲がアフガニスタンの人の中で、周囲の人と同じように荷袋を担いでいる姿が、チラシに写っていますが、写真ではなくて、「中村哲が生きて動いている姿が見たい。」ただ、それだけが理由で見に行きました。 1980年代、まだ若い中村哲の姿、初めて水路に水が流れ始めたときの姿、2019年の死の直前のパワー・シャベルを動かしている姿、米軍のヘリコプターを見上げている表情、それぞれを見つめながら、何も言うことはありません。涙がこみあげてくるを辛抱しながら、見つめ続けるだけでした。映画は谷津賢二「荒野に希望の灯をともす」でした。 元町映画館が、一週間限定で朝10時から上映してくれています。そのチラシにこんな言葉がありました。彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。中村哲 できれば、「生きるために地面を掘る」ことの大切さを、ゆかいな仲間のちびら君たちや、時々、出会う若い人達に伝えられたらいいなあと、改めて思いました。 荒涼とした灰色の砂漠が緑の大地に変わった風景に、何度も見たはずなのですが、やはり、心を揺さぶられました。 難渋する工事の中で、絶望的な表情を浮かべている仲間に「みんなの心に灯をともそう!」と静かに語りかける中村哲の表情と口調が心に残りました。監督 谷津賢二構成 上田未生取材 柿木喜久男 大月啓介 アミン・ウラー・ベーグ撮影 谷津賢二編集 櫻木まゆみピアノ演奏 中村幸朗読 石橋蓮司語り 中里雅子2022年・90分・G・日本2022・09・27-no112・元町映画館no181
2022.09.28
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原一男「水俣曼荼羅」元町映画館 待ちに待っていた原一雄監督の新作「水俣曼荼羅」を見ました。世間ずれしているぼくは、連日満員を恐れていたのですが、普通の月曜日の午後、上映がはじまった元町映画館は、いつもと同じのんびりした雰囲気の十人余りの観客が座っているだけで、拍子抜けしてしまいました。ジョニー・デップの「MINAMATA」に、思いのほかたくさんの人が集まっていたことで、何か勘違いしていたようです。 ボクにとって、原一雄は「さようならCP」(1972)、「極私的エロス・恋歌1974」(1974)、「ゆきゆきて、神軍」(1987)の映画監督です。 特に学生時代に自主上映会で見た最初の二つの映画は、当時、二十歳だったぼく自身の生き方や考え方を卓袱台返しのようにひっくり返した作品で、その影響は40年以上たった今でも、まあ、日々の生活の上での考え方はともかく、少なくともドキュメンタリー映画を観る時の物差しとして残っています。 その原一雄が、2004年から20年かけて水俣を撮ったというのです。これを見逃すわけにはいかないという思いで映画館にやってきました。 映画は「第1部 病像論を糾す」、「第2部 時の堆積」、「第3部 悶え神」の3部構成で、それぞれのあいだに休憩時間を挟んだ、ほぼ6時間の上映でした。 第1部で印象的だったのは患者認定制度の基準とされてきた「末梢神経説」を否定し、新たに「中枢神経説」を証明した熊大医学部・浴野教授の、あっけらかんとした孤立無援の爽やかです。 第2部では小児性水俣病患者・生駒さん夫婦の痛快無比で、やがて哀しい「人間」としての正直さです。 第3部では、少女のままおばあさんになってしまった胎児性水俣病患者・坂本しのぶさんの明るさと、彼女の人恋しさを聞きただす原一雄監督の度胸と根性です。加えて、ひょっとしてと思っていたら、登場した石牟礼道子さんのよれよれの暮らしの姿と次の言葉でした。悶え神、悶えて加勢する。自分は何もできないからせめて水俣の人々と嘆き、悲しみを共にしよう。 実は、この言葉、彼女の著書の中でも出会うことのできる言葉で、第3部の題名を見て「ひょっとして彼女が出るのか!?」と思った理由なのですが、パーキンソン病の症状のまま、原一雄監督の「最近、許すということをおっしゃっていると聞いたのですが?」という、なんとも単刀直入な問いに対して、この言葉を語る姿に目を瞠りました。上記の引用はポスターからそのまま引用したものですが、映画の中で彼女が使うのは「加勢する」とという言葉を使っていたと思いますが、四方田犬彦がこの映画のホームページで使っていた「幽体」という言葉のままの姿の石牟礼道子の口から、その言葉が出た時には、さすがに涙がこぼれました。 この映画は監督である原一雄のカメラがとらえる世界に対する立ち位置というのか、構えというのか、それは彼の以前の作品でもそうなのですが、見ていてドキドキする位置にカメラが来て、聞こえてきて「えー??」とたじろぐような問いかけを口にしながらカメラが相手を映しとるのです。それを見ながらため息が出そうな「面白さ」を実感するという連続なのですが、まあ、うまく言えません。 ただ、この作品は、いろいろ見て来た水俣ドキュメンタリーの中で「面白い」という感想を素直に口にしていい初めての映画だと思いました。 この面白さのことがうまく言えないなあと思って映画のホームページを見ていると監督の「コメント」という文章の中にこんな一節を見つけました。 私は、ドキュメンタリーを作ることの本義とは、「人間の感情を描くものである」と信じている。感情とは、喜怒哀楽、愛と憎しみであるが、感情を描くことで、それらの感情の中に私たちの自由を抑圧している体制のもつ非人間性や、権力側の非情さが露わになってくる。この作品において、私は極力、水俣病の患者である人たちや、その水俣病の解決のために戦っている人たちの感情のディティールを描くことに努めた。私自身が白黒をつけるという態度は極力避けたつもりだが、時に私が怒りをあらわにしたことがあるが、それは、まあ、愛嬌と思っていただきたい。 面白さの理由は、どうもこの辺りにあったようです。事件や歴史ではなく、人間そのものが映っていたのです。人間の喜びや悲しみ、ためらいや怒り、それは被害者の人たちだけではない、支援者、撮影者、そして、あろうことか権力の側の人々の姿も「人間」そのものの姿として、カメラは辛抱強く映し出しているのです。「水俣曼荼羅」とは、実にうまい題をつけたものです。それが地獄図であったとしても、地獄の木っ端役人たちが、まあ、腹立たしくも悲しいのですが、同じ人間としてリアルでなければ地獄のリアルは描けないのです。 スター扱いするのも何ですが、環境大臣として登場する小池某という女性政治家の空虚ぶりをくっきりと映しとっているシーンがありました。そこでは、彼女が、ほかの登場人物たちや映画を見ているぼくのような並みの「人間」ではないことを如実に映していて、そういう「人間」が、相も変わらずご活躍(?)のニッポンの現在が、ディストピアであることを確信させる、記憶に残る「面白い」シーンでした。 映像に登場する被害者や支援者の皆さんには、もちろん拍手!なのですが、おそらく代表作の一つになるに違いない作品を、またしても撮った原一雄監督に拍手!です。 いやー。スゴイです。大した事件が起こるわけではないのですが時間を忘れます。監督 原一男構成 秦岳志整音 小川武編集 秦岳志2020年・372分・日本2022・06・27-no86・元町映画館no180追記2022・07・05映画の公式ホームページはこちらです。監督の文章はこちらで読めますが、赤い地に白字という読みにくさなので、ここにコピーして貼りました。コメントまだ、取材・撮影のために水俣に通っていたときのことだが、ある日、街角で「水俣病公式確認60周年記念」という行事のポスターを見て、私は唖然とした。この行事は、もちろん行政が主催するものだ。今日に至るまで、水俣病の問題は決して解決していない。つまり、このポスターの意味は、行政には、解決する能力がない、あるいは解決する意思がない、ということを意味している。その行政が、何か、ご大層に、記念行事をするなんて変ではないか。変であることに気付かないところが、まさに正真正銘、“いびつ”で変なのであるが。 では、なぜ、そのような“いびつさ”が生じたのか? 結果としては、私(たち)は、15年かけて,その“いびつさ”を生むニッポン国と、水俣の風土を描くことになった。私は、ドキュメンタリーを作ることの本義とは、「人間の感情を描くものである」と信じている。感情とは、喜怒哀楽、愛と憎しみであるが、感情を描くことで、それらの感情の中に私たちの自由を抑圧している体制のもつ非人間性や、権力側の非情さが露わになってくる。この作品において、私は極力、水俣病の患者である人たちや、その水俣病の解決のために戦っている人たちの感情のディティールを描くことに努めた。私自身が白黒をつけるという態度は極力避けたつもりだが、時に私が怒りをあらわにしたことがあるが、それは、まあ、愛嬌と思っていただきたい。この作品で、何が困難だったかといえば、撮られる側の人たちが、必ずしも撮影することに全面的に協力して頂いたわけではないことだ。それは、マスコミに対する不信感が根強くあると思う。映画作りはマスコミの中には入らないと思っているが、取材される側は、そんなことはどうでも良いことだ。とは言え、撮られる側の人が心を開いてくれないと、訴求力のある映像は撮れない。撮る側は、撮られる側の人たちに心を開いて欲しい、といつも願っているが、撮られる側の人たちは、行政が真っ当に解決しようという姿勢がないが故に、水俣病問題の労苦と重圧に、日々の暮らしの中で戦わざるを得ないので、カメラを受け入れる余裕がない。苦しいからこそ、その実態を率直に語って欲しい、晒して欲しい、というのは撮る側の理屈だ。完成作品は、6時間を超える超長尺になった。が、作品の中に入れたかったが、追求不足ゆえに割愛せざるを得ないエピソードがたくさんある。かろうじてシーンとして成立したものより、泣く泣く割愛したシーンの方が多いくらいなのだ。だが私たちは撮れた映像でしか構成の立てようがない。その撮れた映像だが、完成を待たずにあの世に旅立たれた人も、多い。ともあれ、水俣病問題が意味するものは何か?水俣病は、メチル水銀中毒である、と言われている。その水銀が、クジラやマグロの体内に取り込まれて今や地球全体を覆っているのだ。日本の小さな地方都市で発生した水俣病が、今や全世界の人間にとっての大きな問題になっている ― そのことの大きさを、強く強く訴えたいと思っています。
2022.07.05
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アンドリュー・レビタス「MINAMATA 」109シネマズHAT神戸 アメリカで「MINAMATA]を撮っているという噂を聞いたときから見るつもりでした。あのジョニー・デップが、あのユージン・スミスを演じる。もうそれだけで興味津々というわけでした。 ところが、関西で封切られて1週間の間に、新聞紙上でも映評が載ったりして、ちょっと騒ぎっぽいのでビビリました。三宮とかの映画館はヤバそうだと腰が引けて、ハット神戸の109シネマを予約して出かけました。 映画はアンドリュー・レビタス監督の「MINAMATA 」です。 ぼくはユージン・スミスという写真家の数ある写真の中で、「楽園へのあゆみ The Walk to Paradise Garden」という、写真家の長男パトリックと長女ホワニータだそうですが、小さな子供が手をつないで森のなかを歩いている後姿の写真が一番好きです。 ところが、映画の始めの頃、その写真が、なんだか、やけくそな雰囲気が漂っているユージン・スミスの仕事場の床に散らかる一枚として画面に出てきたあたりから、ドキドキしはじめました。 ひょっとして、この映画の主役は、あの「写真」、写真集「水俣」を見たことがある人であれば、きっと誰でもが心に刻み付けるあの「写真」なのではないか。それが、ドキドキの理由です。 「あの写真の、あのシーンを映画にするのか。そういえば、最初に映ったあのシーンは‥‥。」 そう思いはじめると、なぜだかわからないのですが、意識のなかに、あの「写真」が浮かんできてしまうのです。 ユージン・スミスが水俣にやってきて、マツムラさんのお宅にとまり、確か劇中では「アキ子ちゃん」と呼ばれていたと思うのですが、マツムラさん夫婦の娘で、胎児性水俣病の少女の写真を撮りたいという希望が拒否されるのを見ながら、やはりそうだという確信に変わったのですが、繰り返しその写真が浮かんできて、なぜだかよくわからないのですが、映画の展開とは何の脈絡もなく、だらだら、だらだら、涙が流れ始めて止まらなくなってしまったのです。 あの写真というのは、ユージン・スミスの傑作写真、「入浴する智子と母 Tomoko and Mother in the Bath」です。 あれこれ言いたいことはありますが、結論を言えば、やはり、あの写真が主役でした。 最初に撮影を拒否された、「アルコール依存症」で「外人」の写真家ユージン・スミスが、誰との、どんな出会い、どんな凌ぎ合いをへて、あの写真を撮る現場にたどり着いたか。その時、彼の眼はカメラを通して何を見ていたのか。彼の写真は何を写し出しているのか。 映画は、一つ一つ問いかけ、一つ一つ答えるかのよう、実に素朴に一人の「人間」を描いていきました。そしてあの写真の場面にたどり着くのです。 彼がそこに何を写しているのか、それはうまく言えません。しかし、初めて出会ったときから、印象深く感じながらも、おそるおそる見ていたこの写真を、この先、「美しい写真」として見ることができるようになったと思いました。 この映画が、ぼくにくれたのはそういう「勇気」のようなものでした。あのジョニー・デップが、どんな思いでこの写真を撮る「人間」を演じたのか、それを思い浮かべながら、世の中、まだまだ捨てたものじゃないし、世界は広いし、ピュアな気持ちを仕事で表現している人がいることを実感しました。 なんだか「老け込むんじゃないよ!しっかりしろよ!」と励まされたような気持になる映画でした。 それにしても化け方がすごいジョニー・デップに拍手!監督 アンドリュー・レビタス脚本デビッド・ケスラー スティーブン・ドイターズ アンドリュー・レビタス ジェイソン・フォーマン撮影 ブノワ・ドゥローム音楽 坂本龍一キャストジョニー・デップ(W・ユージン・スミス)真田広之(ヤマザキ・ミツオ)國村隼(ノジマ・ジュンイチ)美波(アイリーン)加瀬亮(キヨシ)浅野忠信(マツムラ・タツオ)岩瀬晶子(マツムラ・マサコ)キャサリン・ジェンキンス(ミリー)キャサリン・ジェンキンスビル・ナイ(ロバート・“ボブ”・ヘイズ)青木柚(シゲル)2020年・115分・G・アメリカ原題「Minamata」2021・10・04‐no89・109シネマズHAT神戸
2021.10.08
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石牟礼道子・藤原新也「なみだふるはな」(河出文庫) 友達と100日100ブックカバーという、「本の紹介ごっこ」を、順々に楽しんでいます。同世代の人たちなのですが、予想していたよりずっと、思いがけない、知らない本が紹介されて驚いています。 先日、写真の好きな友達から藤原新也という写真家の「風のフリュ-ト」という写真集の紹介がありました。 なんとなくどこかで見たことか、聞いたことがあるような書名で、気になったのですが、いつどこで出会ったものやら、全くわかりませんでした。一方で、藤原新也という人の、ちょっとラジカルな空気を思い出して気にかかりました。 そんな日の偶然ですが、彼と石牟礼道子の対談「なみだふるはな」(河出文庫)がチッチキ夫人の本の山にあるのを見つけて読み始めました。 この文庫本は、2020年の3月の新刊ですが、元の単行本は2012年に出されています。その頃、職場で図書館の係をしていましたが、新しく入庫した本として出会い、ついでに読んだ記憶がありました。対談集ですから、読むのに苦労はいりません、今回は藤原新也の名に惹かれての読み直しです。 東北の震災があった2011年の6月に、3日がかりで話し合っている本です。二人の話の中には、ここで案内したいことがたくさんあります。当時84歳の石牟礼道子が子供の頃からの「水俣」という土地や「水俣病」の患者さんたちの思い出を語り、それを藤原新也が聞くという段取りの本です。 読んでいてスリリングなのは、石牟礼道子の話に登場する人物や風景に、藤原新也が「カメラ」越しに見続けてきたインドでの経験や、東北の震災で津波にすべてを飲み込まれた集落の様子や、とりわけ、福島の原子力発電所の事故の現場近くに暮らしていた人間の話が「コラボ」してゆくところです。 「水俣」と「福島」の悲惨の渦中に身を置いた二人の「語りあう」聲のひびきが「共鳴」してゆく内容には、「読みどころ」がたくさんあります。 対談も3日目になって、石牟礼道子が部屋で転ん大けがをした時の不思議な体験を語りはじめます。石牟礼 二年前、ここの入り口で倒れて大腿骨と腰椎がこんなになって。そこの扉の所で転んだんですよ。それから気絶したんでしょうね。二か月ばかり記憶がほとんどない。憶えがないんです。病院に行ったことも、手術をしたことも。回復期に入ってから、ところどころ思い出しますけれども。 森があって、それも太古の森ですけど、右側は海で、海風が吹いてくると、森の梢、木々や草たちが演奏されるんですよ、海風に。何ともいえない音の世界が・・・・ その音楽が。それが眠りに入るときも、目がさめるときも、何か思いついて夢想が始まるようなときには必ず、なるんです。演奏される。海風がふうっと吹いてきて。 それで、魂の秘境に行っているような、この世の成り立ちをずっと見ているような、そんな音楽が聞こえて。二か月半ぐらいつづきましたね。藤原 二か月半は長いですね。極楽浄土じゃないですか(笑)石牟礼 長かった。大変幸せでした。痛みなんか全然感じない。いまごろ痛みが出てきているんですけれどもね。その音楽は消えちゃった。あの音楽はよかったなと思って。入院している時ですけど。お見舞いのお客様が見えたりすると、ちゃんと応対していたそうです。でも覚えていない。藤原 去年ですか?石牟礼 一昨年です。 それがまあ、美しい音色でしてね。その音楽を再現できない。藤原 でも、いい音楽だったなという記憶はあるんですね。石牟礼 はい。いままで聞いたうちでいちばん印象的だったのは弦楽器の低音でしたが。日によって鳴り方が違うんです。海風を受けて梢で揺れる葉っぱの大きさとか形とか、一本一本ちがいますでしょう。梢が演奏されるときは高音でしたね。梢がいっせいに震えるときは。藤原 ぼくの写真集に「風のフリュート」という写真集があるんです。アイルランドに行ったとき、西のアイルランドだと、すごい絶壁なんですね。土地も痩せていて、ごろた石をたくさん積み上げて風を遮って、風が来ないところでジャガイモとか耕している。その石積みが荒っぽいものだから、穴がたくさん空いているんですよ。風がピューと吹くでしょう。そうすると穴から、小さい穴から大きい穴から、音がフルートみたいに聞こえてくる。それを聞いて「風のフリュ-ト」というアイルランドの写真集を作ったんです。石牟礼 石も鳴るでしょうね。 ありました。探し物が見つかりましたね。ぼくは藤原新也の「風のフリュート」にこの本で出会っていたのですね。 まあ、今回は、それが伝えたい案内というわけで、ここに引用した二人の会話については大幅に省略しています。 石牟礼道子が部屋で転んで、意識不明のまま手術したり、ベッドの上で人と会ったりして生活している話は、実はもっと長い話です。 その時、彼女がそこで聞いていた音楽の話も、まあ、もう、「この世」の話なのか、「あの世」の話なのか、ある種の神秘体験とでもいう印象の話です。しかし、かなり丁寧に語られていて、デタラメが語られているわけではありません。 巫女気質とでもいうのでしょうか。石牟礼道子の「意識の遊行」、シャーマンを思わせる体験は他では読めません。是非、お読みになられることをおすすめします。 その、この世とも、あの世とも分かちがたい音楽の話に呼応して藤原新也が語り始めた話が「風のフリュート」だったのです。 彼がアイルランドで聞いた「石」と「風」が奏でる音楽はそういう響きだったということなのです。 次は、やはり、「風のフリュート」を読まないわけにはいかないようですね。追記 2023・12・21 この本について、池澤夏樹が「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)の2012年4月26日に「座談の達人」と題してこういっています。 二人の座談の達人がそこにいて、ものすごくおもしろい、意味の深い話を交していて、幸運にも自分はその場に陪席しているという気分になる。(P371) ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.06.27
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石牟礼道子追悼文集「残夢童女」(平凡社) 石牟礼道子が亡くなって二年たちました。平凡社から追悼文集が「残夢童女」と題されて、2019年の夏に出版されました。 それぞれ「傍にて」、「渚の人の面影」、「石牟礼道子論」と題され三章の構成で、石牟礼道子のすぐ傍らで生活していた人から、思想的な論者まで、三十数人の追悼文が載せられています。 どなたの文章がどうのというよう主旨の本ではないことは重々承知のうえでいうのですが、御子息の石牟礼道生氏と詩人の伊藤比呂美さんの文章が心に残りました。 母に連れられて水俣の町を歩いて家に帰ろうとしていた。小学校に上がる前の冬だった。途中の道端で商店街の飾りであったクリスマスツリーから役目を終えて落ちていた飾りのベルを拾った。銀紙で被われて上手に出来ていた。幼いころ、工作が好きだった私は大事に両手で隠すように拾い上げた。ところがその光景を見ていた母がいきなり血相を変えて声を上げた。「すぐに手を離しなさい。捨てなさい」と叱った。もうじき警察署があると脅した。 おもちゃも三輪車も欲しかったが祖父亀太郎が作ってくれた竹馬で我慢していた頃だった。買ってやれないが拾ったものを欲しがるなどとは卑しい精神であると教えたかったのか不憫と思ったのかは今となっては判らない。幼い頃、普段は溺愛されていたのでこのように凄まじく怒られたこのことだけは今でも鮮明に覚えている。意にそぐわぬことには激しい反応を示す母だった。その時の母の迫力に圧倒されて銀色のベルを足もとの側道に丁寧に置いた。(石牟礼道生「多くの皆様に助太刀されて母は生きてまいりました」) 石牟礼道子などという、「とんでもない」女性の息子として育った石牟礼道生氏とぼく自身の生育には何の共通点もありません。しかし、母親がほぼ同世代、おそらく、石牟礼道生氏も昭和三十年代に幼少期を過ごしたぼくと同世代の方だと思います。 ぼくは、この文章に同じ時代に子どもだった実感をそこはかとなく感じさせる「におい」のようなものを感じたのです。母からの初めての叱責について、よく似た記憶が、ぼくにもあります。 母と子という関係において、子は母のことを一つ一つのエピソードの経験で、だんだん理解していったりするのではないと思います。事あるたびに、最初の記憶と照らし合わせながら、何となくな納得、「アッ、おカーちゃんや。」という思いを「母」に重ね合わせていくことを繰り返すのではないでしょうか。 少なくとも、母親が忙しくて貧しかった、あの時代に育った子供たちはそうだったように思います。 世間や社会に対して凄まじい怒りをあらわにする母の姿に、幼い日の「銀色のベル」の記憶を重ねて「納得」しようとした息子がいたことを、そして、その母の死に際して、もう一度、その「思い」を繰り返している息子の姿にうたれました。 石牟礼道子の「文学性」や「思想」というようなこととは関係のない、子から見た「母」のほんとうの姿が、息子である道生氏の記憶のその場所に在るのではないでしょうか。 もう一つ、思わず膝を打つような思いをしたのが、詩人の伊藤比呂美さんの文章でした。 わたしは石牟礼さんの文学に対して、尊敬も思慕も大いに持っているのだが、だからこそ石牟礼文学について語り合う石牟礼大学というものを熊本の仲間とともにやったりしているわけだが、それは既に読んで好きなものを思慕しているだけで、なんだかいつも、なんだか少し、反発する気持ちも持っていることが、いつも少しばかり後ろめたかった。 わたしは東京の裏通りの生まれ育ちで、そこの人々がどんなに他人に酷薄か見てきた。自分の親もふくめて、そうだった。石牟礼さんの文学に出でてくる、弱い者を大切にする善良なコミュニティや、互いに手を合わせ合うような人の情は、居心地が悪かった。石牟礼さんその人だって、そういうコミュニティから蹴りだされた人なんじゃないか。そう口の中でもごもご思っていた。(伊藤比呂美「詩的代理母のような人」) 石牟礼道子の作品との出会い方や作品の価値というのが人それぞれに違うのは当然です。世の中に絶対化できる作家や作品があるわけではありません。 ぼく自身は、石牟礼道子の作品と二十代に出会って以来、手放しては読み、手放しては読みということを繰り返してきました。なぜ、読みつづけられなかったのか。読みながら感じる微妙な居心地の悪さはの正体は何なのか。全集が出たのを見ながら、思わず遠慮してしまう気分になったのは何故なのか。その答えが伊藤さんのこの文章にある、そう思って、なんだかホッとしました。 伊藤さんの石牟礼道子への思いが、ぼくなどとは比較にならない、生半可なものではないことは、これに続く文章をお読みいただければすぐにわかっていただけると思います。 でもこの頃、一つ、また一つ、読み始め、読み通して発見する。そして感動する。 その鏡を何枚もたてた真ん中で、時間軸と空間軸がずれているような、その石牟礼さんらしさを味わう。そういう作品が少しずつ増えてきた(伊藤比呂美「詩的代理母のような人」)。 伊藤比呂美さんは、ぼくより一つお若い詩人なのですが、彼女の文章を読みながら、65歳を越えた今から、もう一度、石牟礼道子の作品を手に取り直し、今度は投げ出さずに読み始め、読み続けることへのる励ましの声が聞こえてくるように、ぼくには思えたのでした。 この本に載せられている追悼文は、心もこもったものばかりです。石牟礼道子が残した作品を、もう一度読み直し、あるいは、初めて読み始める、たくさんの道筋が示されていると思います。一度手に取られてはいかがでしょうか。ボタン押してね!ボタン押してね!椿の海の記 (河出文庫) [ 石牟礼道子 ]
2020.04.22
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石牟礼道子「魂の秘境から」(朝日新聞出版) 石牟礼道子さんが2018年2月に亡くなって、二年の年月が過ぎました。亡くなった年の四月に、生前「朝日新聞」に月一度の連載で掲載されていたエッセイに「魂の秘境から」という題がつけられた本が出ました。 彼女が晩年、パーキンソン病に苦しめられていたことはよく知られていますが、入所された介護施設での暮らしの中で書き続けられた、いや、口述らしいですから、語り続けらたエッセイが一冊の本になっています。 連載は2015年の一月から、亡くなった2018年の二月十日の十日前一月三十一日まで続いていたようです。 31回の連載には「夢」と「記憶」が綴られています。最初の「少年」との出会い、アコウの大木、父と祖父と石と、沖縄戦で死んだ兄、繰り返し夢に現れる母。大まわりの塘、水俣から不知火の海。 ページを繰っていると、時々白黒の写真があって、文章の淡々しいシーンと交錯します。時に、ハッとするような、こんな言葉が書きつけられています。 文章を書くということは、自分が蛇体であるということを忘れたくて、道端の草花、四季折々に小さな花をつける雑草と戯れることと似ていると思う。たとえば、春の野に芽を出す七草や蓮華草や、数知れず咲き拡がってゆく野草のさまざまを思い浮かべたわむれていると時刻を忘れる。魂が遠ざれきするのである。(魂の遠ざれき 二〇一六年二月二十三日) 石牟礼さんの「魂」が何処へともなくさまよい出てゆく、そのお出かけに付き合うのに、ほんとうは、妙な緊張感はいらないでしょう。そう思ってページを繰るとこんな写真が添えられていました。 彼女の手に目を瞠り、写真の中でその手が書き記そうとしている言葉を追いました。祈るべき 天とおもえど 天の病む 東北の震災のあとの句だったと思います。とても有名な句なのですが、やはり、しばらくの間、言葉を失って見つめていました。 一番最後の文章の日付は二〇一八年一月三十一日です。彼女の死の十日前ですね。題は「明け方の夢」です。 この前、明け方の夢を書き留めるように記した「虹」という短い詩にも、やっぱり猫が貌をのぞかせた。同やら、黒白ぶちの面影があるようにも思える。 不知火海の海の上が むらさき色の夕焼け空になったのは 一色足りない虹の橋がかかったせいではなかろうか この海をどうにか渡らねばならないが 漕ぎ渡る舟は持たないし なんとしよう 媛よ そういうときのためにお前には 神猫の仔をつけておいたのではなかったか その猫の仔はねずみの仔らと 天空をあそびほうけるばかり いまは媛の袖の中で むらさき色の魚の仔と戯れる 夢を見ている真っ最中 かつては不知火海の沖に浮かべた舟同士で、魚や猫のやり取りをする付き合いがあった。ねずみがかじらぬよう漁網の番をする猫は、漁村の欠かせぬ一員。釣りが好きだった祖父の松太郎も仔猫を船に乗せ、水俣の漁村からやってくる漁師さんたちに、舟縁越しに手渡していたのだった。 ところが、昭和三十年代の初めころから、海辺の猫たちが「狂い死にする」という噂が聞こえてきた。地面に鼻で逆立ちしきりきり回り、最後は海に飛び込んでしまうのだという。死期を悟った猫が人に知られず姿を消すことを、土地では「猫嶽に登る」と言い慣わしてきた。そんな恥じらいを知る生きものにとって「狂い死に」とはあまりにむごい最期である。さし上げた仔猫たちが気がかりで、わたしは家の仕事の都合をつけては漁村を訪ね歩くようになった。猫に誘われるまま、のちに水俣病と呼ばれる事件の水端に立ち会っていたのだった。(二〇一八年一月三十一日朝日新聞掲載)註「媛」には「ひめ」とフリガナがついています。 これが、あの石牟礼道子さんの絶筆です。何も言う必要を感じません。石牟礼道子さんという人はこういう人だったんです。追記2020・03・11 記事は口述だったそうです。昨晩の「夢」を語っていらっしゃる石牟礼さんの姿はそこにあるのですが、魂は、時間も場所も超えて、よざれていらっしゃったのでしょうね。 全く偶然なのですが、この記事を書いている今日は東北の震災の日でした。今日あたり、彼女の魂は、どのあたりによざれていらっしゃるのでしょうか。「天」ではなく「人」が病んでいくこの国の世相をどうご覧になっているのでしょかね。追記2022・12・26石牟礼道子の文業を、文字通り、その始まりから生涯支え続けた渡辺京二の訃報をネットで見ました。命日は2022年12月25日、死因は老衰だそうです。92歳だったそうです。 無念という言葉が浮かんできました。 自分はこの世に必要ないのではないかという人がいるが、そんなことは誰も言っちゃおらん。花を見てごらん、鳥のさえずりを聞いてごらん。世界はこんなにも美しく、誰しもを歓迎していてくれる。(2022・12・26読売新聞) どうにも避けることができないことだというのはわかっているつもりですが、こうして、みんな亡くなってしまうのですね。ボタン押してね!ボタン押してね!苦海浄土 全三部 [ 石牟礼 道子 ]
2020.03.13
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2004年《書物の旅》(その11) 中村哲「空爆と復興」(石風社)15年ほど昔、高校生の皆さんに教室で配っていました。もう、いい年の教員でしたが、教科書の外の世界に目を向けてほしいと願っていたようです。その「読書案内」を「2004年書物の旅」と称して投稿しています。下の記事は、その案内を2020年に書き直して投稿したものです。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 2020年1月、再び戦争が始まりかかっています。そんな現場に軍艦を派遣するという事態が起こりつつあります。「あの国は敵の仲間だ。」と考える人がいることに何の配慮もない愚かしい政策が、やっていることを隠すことでようやく体面を保っているような政治権力によって実施されようとしています。 2004年に出版されたこの本は2001年に始まった米軍によるアフガニスタン空爆の最中から、2003年にかけての最前線の現場で活動するスッタフの皆さんの報告集です。中には中村哲の国会での「自衛隊の派遣は有害無益」という発言も全文掲載されていますが、その言葉を今、もう一度思い出すことから2020年の「読書案内」を始めたいと思います。 2002年の7月に書かれた「復興という名の破壊」という文章の中に、こんな言葉があります。「もう、これくらいで放置していただきたい」というのが一言で述べ得る感想である。現在のアフガニスタンの状況は、大の大人が寄ってたかって、瀕死の幼な子を殴ったり撫でたりしているのに似ている。この一年間、私たちにとって聖歌といえるものは、「情報化社会」が必ずしも正しい事実を知らせず、むしろ、世界中に錯覚を振りまいて、私たちが振り回されることになるのを身にしみて知ったことである。無理が通れば道理が引っ込む。世界を支配するのは、今やカネと暴力である。 昨年(2002年)九月、米軍の空爆を「やむを得ない」と支持したのは、他ならぬ大多数の日本国民であった。戦争行為に反対することさえ、「政治的に偏っている」ととられ、脅迫まがいの「忠告」があったのは忘れがたい。以後私は、日本人であることの誇りを失ってしまった。「何のカンのと言ったって、米国を怒らせては都合が悪い」というのが共通した国民の合意のようであった。 だが、人として、して良い事と悪い事がある。人として失ってはならぬ誇りというものがある。日本は明らかに曲がり角に差し掛かっている。日本の豊かさは国民の勤勉さだけによるのではない、日本経済が戦争特需によって復興し、富と繁栄を築いた事実を想起せざるを得ない。そして富を得れば守らねばならなくなる。華美な生活もしたいが、命も惜しいという虫のよい話はない。殺戮行為を是認して迄華美な生活を守るのか、貧しくと堂々と胸を張って生きるのかの選択が迫られていたといえる。「対テロ戦争」は何を守るのか。少なくとも命を守るものではなさそうである。 2003年12月の「平和を奪還せよ」という文章ではこう書き残されています。 このところ現地では米軍に対してだけでなく、国連組織や国際赤十字、外国NGOへの襲撃事件が盛んに伝えられています。「アフガン人は恩知らずだ」といって撤退した国際団体も少なくありません。 しかし、現地側が当惑するのは、そもそも「復興」が「破壊」とセットで行われ、それも外国人の満足が優先するからです。結局、軍事的干渉は取り返しのつかぬ結果を生みました。人々が生きるための無私な支援なら、どうして武力が必要でしょうか。そのような活動はみなこぞって守ってくれます。私たちは少なくとも地上で、一度も攻撃を受けたことがありません。以前は歓迎された日章旗ですが、「日本政府とは無関係だ」と明言せざるを得ない事情に至りましたが、それでも日本人の誇りというものがあります。 平和とは消極的なものではありません。それは戦争以上に忍耐と努力、強さはいります。「平和」は、私たちの祖先が血を流して得た結論のはずです。弱い者に拳を振り上げて絶叫するのは、人として卑怯かつ下品な行為です。一つの国が軍隊(自衛隊)を動かすことがどんな重大事なのか、おそらく、この愚かさと無関心は、近い将来、より大きな付けを払うことになるでしょう。「日本は既に米国の一州となった」と言われて是非もなく、尊敬されるどころか、攻撃の対象になるのは時間の問題でしょう。ひしひしと迫る破局の予感の中で、アフガニスタンの現状を見て「この償いをどうしてくれる」と言いたいのが実感です。 それでも悲憤を押さえ、「だからこそ自分たちが此処にいるのだ」と言い聞かせ、砂漠化した大地が緑化する幻を見ては、わが身を励ますこの頃であります。 今回の事態においても、「私たちの祖先が血を流して得た結論」であるはずの「平和」が失われる危機に、今、直面しているという認識を「私たち」は共有しているのでしょうか。無知と驕り高ぶった臭いのする傲慢が蔓延してはいないでしょうか。 この本の読みどころは、中村哲のこうした発言の他に、彼とともに「平和を奪還」する仕事に携わっている、現場のスタッフの皆さんの生の声が収録されているところだと思います。460ページにわたる大部の本ですが、手に取ってご覧になってはいかがでしょうか。追記2020・01・12中村さんについて「中村哲ってだれ」・「医者井戸を掘る」・「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」という投稿にはそれぞれ表題をクリックしてください。読んでいただければ嬉しいです。追記2020・02・16ロッキン・オンの渋谷陽一さんが「中村哲」のインタビューを公開しました。是非お読みください。ボタン押してね!ボタン押してね!天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い [ 中村 哲 ]
2020.01.13
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中村哲・澤地久枝「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」(岩波書店) 「九条の会」の発起人に名を連ねる澤地久枝さんが、空爆下のアフガニスタンで井戸を掘り、水路を作り続けていた、医師中村哲さんをインタビューした本があります。「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」と題されています。題名が、大仰だとお思いの方も、騙されたと思ってお読みになってください。 映画「花と竜」で、その名を知られた玉井金五郎の孫であり、「土と兵隊」、「麦と兵隊」で知らている作家火野葦平の甥っ子で、昆虫好きで、赤面恐怖症であった少年時代の中村哲君の回想から、1980年代の初頭、全くの自腹でアフガニスタンに渡り、診療所を開き、歴史的な大干ばつの飢餓の危機と、アメリカ軍による空爆の中、ペシャワール会のスタッフを率いて命がけの人助けを続けた2010年に至る、人間「中村哲」の「ホンネのすがた」を聞きだしたインタビューです。 澤地さんは、この本の巻頭にこんな文章を引用しています。堅苦しいと思われるかもしれませんが、是非お読みください。ここに中村さんの活動の、公式的な要約と、彼の考え方が凝縮して表現されています。 2001年10月13日、衆議院「テロ対策特別措置法案」審議の場に参考人として出席した中村哲さんのこんな発言です。「私はタリバンの回し者ではなく、イスラム教徒でもない。ペシャワール会は1983年にでき、十八年間間現地で医療活動をつづけてきた。ペシャワールを拠点に一病院と十カ所の診療所があり、年間二十万名前後の診療を行っている。現地職員二百二十名、日本人ワーカー七名、七十床のPMS(ペシャワール会医療サービス)病院を基地に、パキスタン北部山岳地帯に二つ、アフガン国内に八つの診療所を運営。国境を超えた活動を行っている。 私たちが目指すのは、山村部無医地区の診療モデルの確立、ハンセン病根絶を柱に、貧民層を対象の診療。 今回の干ばつ対策の一環として、今春から無医地区となった首都カブールに五カ所の診療所を継続している。 アフガニスタンは一九七九年の旧ソ連軍侵攻以後、二十二年間、内戦の要因を引きずってきた。内戦による戦闘員の死者七十五万名。民間人を入れると推定二百万名で、多くは女、子供、お年寄り、と戦闘に関係ない人々である。 六百万名の難民が出て、加えて今度の大干ばつ、さらに報復爆撃という中で、痛めに痛めつけられて現在に至っている。 アフガンを襲った世紀の大干ばつは、危機的な状況で、私たちの活動もこれで終るかもしれない。アフガンの半分は砂漠化し、壊滅するかもしれないと、昨年から必死の思いで取り組んできた。 広域の大干ばつについて、WHOや国連機関は昨年春から警告し続けてきたが、国際的に大きな関心は引かなかった。アフガニスタンが一番ひどく、被災者千二百万人、四百万人が飢餓線上にあり、百万人が餓死するであろうといわれてきた。 実際に目の当たりにすると、食料だけでなく飲料水が欠乏し、廃村が拡がってゆく事態で、下痢や簡単な病気でおもに子どもたちが次々と命を落としていった。 私たちは組織を挙げて対策に取り組み、「病気はあとで治せる、まず生きておれ」と、水源確保事業に取り組んでいる。今年一月、国連制裁があり、外国の救援団体が次々に撤退し、アフガニスタンの孤立化は深まった。 水源の目標数を今年以内に一千カ所、カブール診療所を年内に十カ所にする準備の最中に、九月十一日の同時多発テロになり、私たちの事業は一時的にストップした。今、爆撃下に勇敢なスタッフたちの協力により、事業を継続している。 私たちが恐れているのは、飢餓である。現地は乾期に入り、市民は越冬段階をむかえる。今支援しなければ、この冬、一割の市民が餓死するであろうと思われる。 難民援助に関し、こういう現実を踏まえて議論が進んでいるのか、一日本国民として危惧を抱く。テロという暴力手段防止には、力で抑え込むことが自明の理のように議論されているが、現地にあって、日本に対する信頼は絶大なものがあった。それが、軍事行為、報復への参加によってだめになる可能性がある。 自衛隊の派遣が取りざたされているようだが、当地の事情を考えると有害無益である。」 「私たちが必死で、笑っている方もおられますけれども、私たちが必死でとどめておる数十万の人々、これを本当に守ってくれるのは誰か。私たちが十数年かけて営々と気付いてきた日本に対する信頼感が、現実を基盤にしないディスカッションによって、軍事的プレゼンスによって一挙に崩れ去るということはあり得るわけでございます。」 「アフガニスタンに関する十分な情報が伝わっておらないという土俵の設定がそもそも観念的な論議の、密室の中で進行しておるというのは失礼ですけれども。偽らざる感想でございます。」 この発言に澤地さんは怒りをこめてこんなふうに付記しています。 「議事録では笑った議員を特定できない。しかし語られている重い内容を理解できず、理解する気もなく笑った国会議員がいたのだ。」「命がけで医療と水源確保を行ってきた中村哲の十数年間へ、「日本」が出した結論を心に留めたい。」 ここからが、インタビューの本番になります。 澤地「先生はもう60歳を越えられましたね」中村「ハイ。1946年の九月十五日生まれですから、もう超えています。」澤地「あまりごじしんのことかたりたくないとおかんがえですか。」中村「どちらかというと、自分をさらけ出すのはあまり好きではないです。でも、必要であれば話はしますので。」 どうも、何でも、ペラペラしゃべるタイプではなさそうです。ともあれ、こうして、会話が始まりました。最初は、あのトレードマークのような「髭と帽子」の話でした。 何時間かけて、インタビューされたのか、詳らかにはしません。読みでのあるインタビューだと思いますが、さすがに澤地久枝さんですね、最後の最後に、中村さんの性根の根っこに触れるような、こんな会話になったのです。「このお子さんたち二人が生まれたのは、92年ですか。」「92年です。」「何月生まれですか。」「十二月。」「そして、2002年の十二月。」「十二月に生まれて、十二月に亡くなったんですか。」「だったと思います。ちょうど十歳でした。」「小学四年生ですか。」「ごめんなさい。四月一日生まれです。」「先生の、今までの人生の中に生涯忘れられないクリスマスというのがありますよね。これは患者さんの苦しみの問題だけれども、そのほかに、「あれは自分にとって厳しかったな」というのは、この坊ちゃんが亡くなったことですか。」「そうです。」 まるで、尋問のような問い詰め方なのですが、愛児の発病と死について、ここまで、悲しみを越えて、聞きただしてきた緊張にみちた態度が、そのまま伝わってくる口調なのです。 ここまで読んで、読者であるぼくは、冒頭での国会での発言は、ご子息の不治の病の発病を知った最中の出来事であり、彼の発言を笑った国会議員に対する澤地さんの怒りの、もう一つの理由にも気づくことになるのでした。「アフガニスタンが直面する餓死については、自民党だとか共産党だとか社民党だとか、そういうことであはなくて、一人の父親、一人の母親としてお考えになって、私たちの仕事に個々人の資格で参加していただきたい。」 2001年、中村医師の国会証言の中のことばを、澤地さんは「訴える一人の父親の心中には、不治の病床の愛息の姿があったはずである。」 と、この会話の記述の途中に記しています。 死んでしまった中村哲の「真心」が2001年の証言の中に残されているのではないでしょうか。「医者、井戸を掘る」・「空爆と復興」は表題をクリックしてください。追記2023・12・21 池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)をパラパラやっていて、2010年の3月25日の日記に出ているのを見つけて、ちょっと嬉しかった。 かなり長い日記の最後に彼はこう書いています。 中村哲のような偉人をどうあつかえばいいのか? 彼個人を崇拝することに意味はない。自分には決してできないことをする人物への思いは容易に妬みや悪意に変わり得る。イラク人質事件の際の大衆のグロテスクな反応を思い出せばわかることだ。 彼だけではなく、彼が指さす先を見る。アフガニスタンを見る。アメリカのやりかたに徹底的に反抗する。それを是とする議員を次の選挙で落とす。そして、言うまでもなく、中村哲とペシャワール会を支援する。 そういう当然の結論に至るためにこの本はあるのだろう。(P284) 彼をして、ここまで叫ばせる状況が2010年にはあったわけですが、2019年に、その中村哲が、まさに、凶弾に倒れ、コロナ騒ぎで明け暮れ、アフガン空爆などなかったかのように、新しい戦争が次々と始まっている現在があります。 中村哲が指さした向うを、もう一度見据えるための覚悟が求められていることを、一人で痛感する今日この頃ですね。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.12.14
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中村哲「医者井戸を掘る」(石風社) アフガニスタンで井戸を掘っていた医者、中村哲の悲報が流れてきました。と、ほぼ同時に「憲法九条は中村さんを守らなかった」という趣旨の、心ない発言が、ネット上で飛び交っているのを目にしました。「憤り」を通り越えて、「哀しみ」しか浮かばない「やるせなさ」を感じました。 中村哲の、何冊目かの著書「医者井戸を掘る」(石風社)がここにあります。風土病化して蔓延する「ハンセン病」の治療のボランティア医師として、1983年にパキスタン、ペシャワールに渡り、以来、十数年、戦火を避けて逃げてくるアフガニスタンの人たちの悲惨を目の当たりにし、ついに、土木作業である「井戸を掘る」ことを決意した中村哲とペシャワール会の、西暦2000年から2002年にかけて、ほぼ、二年間の活動報告書です。 それから二十年、活動は続いていますが、医者が井戸を掘る、現場の苦闘を伝える、最初のドキュメンタリーといっていい本です。 中村哲の活動を伝える書物はたくさんありますが、この一冊を読んでいただくだけでも、ネット上に垂れ流されている発言が、命がけで他国の、貧しい人々を助けようとしながら、志半ばにして凶弾に倒れた「人間」に対して口にするべき言葉ではないことは理解していただけると、ぼくは思います。2001年、「正義のクルセイダー」を標榜した、アメリカ軍によるアフガニスタン空爆は開始される直前、日本の外務省による指示で、国外退去を余儀なくされた中村哲の発言があります。現地のスタッフに向けられた別れの挨拶です。本書に挿入されている、石風社の「石風」というパンフレットにある記事です。「諸君、この一年、君たちの協力で、二十数万名の人々が村を捨てず助かり、命をつなぎえたことを感謝します。今私たちは大使館の命令によって当地を一時退避します。すでにお聞きのように、米国による報復で、この町も危険にさらされています。しかし、私たちは帰ってきます。PMS(ペシャワール会医療サービス)が諸君を見捨てることはないでしょう。死を恐れてはなりません。しかし、私たちの死は他の人々のいのちのために意味をもつべきです。緊急時が去った暁には、また、ともに汗して働きましょう。この一週間は休暇とし、家族退避の備えをしてください。九月二十三日に作業を再開します。プロジェクトに絶対に変更はありません。」 長老らしき人が立ち上がり、私たちへの感謝を述べた。「みなさん。世界には二種類の人間があるだけです。無欲に他人を想う人。そして己の利益を図るのに心がくもった人です。PMSはいずれかお分かりでしょう。私たちはあなたたち日本人と日本を永久に忘れません。」 これは既に決別の辞であった。 続けて、帰国した中村哲が見た「日本」に対する感想が続けられています。 帰国してから、日本中が湧き返る「米国対タリバン」という対決の構図が、何だか作為的な気がした。淡々と日常の生を刻む人々の姿が忘れられなかった。昼夜を問わずテレビが未知の国「アフガニスタン」を騒々しく報道する。ブッシュ大統領が「強いアメリカ」を叫んで報復の雄叫びを上げ、米国人が喝采する。湧きだした評論家がアフガニスタン情勢を語る。これが芝居でなければ、皆が何かにつかれているように見えた。私たちの文明は大地から足が浮いてしまったのだ。 全ては砂漠のかなたに揺らめく蜃気楼のごとく、真実とは遠い出来事である。それが無性に哀しかった。アフガニスタン!茶褐色の動かぬ大地、労苦を共にして水を得て喜び合った村人、井戸掘りを手伝うタリバンの兵士たちの人懐っこい顔、憂いを称えて逝った仏像…尽きぬ回顧の中で確かなのは、漠々たる水なし地獄の修羅場にもかかわらず、アフガニスタンが私に動かぬ「人間」を見せてくれたことである。「自由と民主主義」は今、テロ報復で大規模な殺戮戦を展開しようとしている。おそらく、累々たる罪なき人々の屍の山を見たとき、夢見の悪い後悔と痛みを覚えるのは、報復者その人であろう。瀕死の小国に世界中の超大国が束になり、果たして何を守ろうとするのか、私の素朴な疑問である。2001・9・22 2001年九月に、やむなく帰国した中村哲は、十月一日には、もう、ペシャワールに戻り、米・英軍が空爆を始めた十月七日の二日後にアフガニスタンに入国し、空爆難民のための食糧の配給のボランティアを開始しています。 その間、日本政府は「テロ対策特別措置法」を成立させ、憲法九条に抵触する可能性の高い、自衛隊のインド洋派遣、海外派兵を断行しています。 アメリカ大統領ブッシュによって始められた「正義の戦い」がいかに、正当な根拠に欠けた愚かな振る舞いであったかは、アメリカでは、2018年に公開された映画、たとえば、「新聞記者たち」や「バイス」が暴露していますが、日本の中では、きちんと批判しているメディアは、あまり見かけません。 この十数年、中村哲が、上記の発言の中で指摘している、「夢見の悪い後悔と痛み」を反省として発言する政治家など、もちろん、この国には一人もいませんでした。 モラルも見識もない権力が、アメリカの御機嫌取りのように、今年も海外派兵を繰り返そうとしています。まさに、九条をないがしろにするこういう政策が、命を張って弱者を助け続ける「人間」を背後から撃つような、愚かな仕打ちである自覚など、残念ながら、何処にも感じらません。 本書をお読みになれば、「井戸掘り」としては全く素人のボランティアたちが、知恵をしぼり、肉体を酷使し、一人、また、一人と、現地の人々に生きる希望を与えていく様子が手に取るようにわかります。毎日、毎日の活動が、大地の姿を変えていく感動がここには記録されています。 「アフガニスタン社会の実相」、「タリバンと民衆との関係」、「バーミヤンの仏像破壊の真相」、「空から米軍によって投げ落とされる食糧を信用できないと焼き捨てる民衆」、印象的な報告が随所に記されています。 中でも面白いのは、実際に井戸を掘る技術や、水路を作る工事の実況です。アフガニスタンの人々が、何故、中村哲をはじめとする日本人ボランティアを信用し、その死に涙するのか、その実況を読めば、おのずと納得がいくと、ぼくは思いました。(S)追記2019・12・12「中村哲ってだれ」・「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」・「空爆と『復興』」はそれぞれここからどうぞ。「バイス」・「記者たち」も題名をクリックしてください。追記2022・09・27 以前、テレビで放送された「荒野に希望の灯をともす」というドキュメンタリーの「劇場版」が、元町映画館で上映されているのを観てきました。生きて、動いている中村哲の姿に、感無量でした。こんな人がいたという事実を見失わないこと、次の世代に伝えること、は、ぼくにもできるかもしれないと思いました。 苦難の続く作業の中で、絶望的な表情を浮かべている仲間に「ここで生きている人たち一人一人が心に灯をともせば何とかなる。」とアジッている、いや、説得している姿が心に残りました。出来れば、是非ご覧ください。 ボタン押してね!にほんブログ村
2019.12.13
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影山あさ子「ドローンの眼」元町映画館 ヒイキにしている(もちろん気持ちだけ)元町映画館が10月11日(金)と12日(土)、二階のイベントルームでやった「緊急上映会」を見にいきました。 30人限定なので、予約しての参加でしたが、ほぼ満員でした。なんとなく、老人会の寄り合いみたいな感じだったのが少し残念でしたが、見終わった後の質問、意見交換会も活発で、ちょっとカンドーしました。 映画は辺野古の埋め立て現場を空から見るというプロジェクトで出来上がったものですが、目的は「監視」です。「観光」や「自然観察」ではありません。しかし、映し出されるシーンは美しい。 海に定規を当てて線を引いたような不自然な直線と曲線。その部分部分に広がる濁水。それが「軍事基地」を作って金を設けたり、戦争を夢想して興奮している「人間」の仕業です。 基地を欲しがっているのはアメリカだけではないようです。奄美大島、宮古島、石垣島、与那国島。自衛隊の基地が次々と建設されています。知りませんでした。 米軍の基地の中に核兵器が隠されていないという保証がないことは、以前から知っていました。しかし、戦争を夢想するこの国の、いないはずの「軍人」や、アメリカの軍人に頭をなでてほしがっている政治家たちが、南の果ての島にこんなものを、着々と作っていたなんて。 映画を直視するのが苦痛な気分です。やっぱり、見ないと分かりませんね。心がザワザワしますが、ヤッパリ見ないと。 みんなに「ほんとうのこと」 が見えるように体を張って頑張っている影山さんたちの努力に頭が下がりました。 明日も元町映画館でやっています。大阪でも東京でもやるといってました。短かくて、素朴な映像です。見て、自分の心にざわざわするものを確かめることから始めましょう。ぼくはそうするつもりです。2019・10・11・元町映画館no179追記2024・03・25 この映画が映していたミサイル基地や自衛隊員用の防空壕がすでに完成していることを、三上智恵監督のドキュメンタリー映画「戦雲」が伝えています。まず、「ホントウノコト」 を、自分の目で確かめてほしいと思います。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!
2019.10.11
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佐古忠彦「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」 沖縄の政治家、瀬長亀次郎さんの記録です。元町映画館で見ました。昔、筑紫哲也の報道解説番組で見かけたアナウンサー、佐古忠彦さんが資料を集めて作ったドキュメンタリーでした。「映画」という感覚で見ると、少し失望する感じでしたが、テレビの特集番組としてみるなら、問題ありません。観たのは「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」です。 何よりも、瀬長亀次郎を、丁寧に、忠実に描こうとしている気持ちが伝わってくる映画でした。 歴史を書き換えたり、出来事がなかったことにする風潮が蔓延している世相に対して、「ほんとうのこと」を言い続けた政治家がいたこと。今となってみれば「瀬長君とは立場が違う」などと紳士的な口調で言いながら、「核兵器配備の密約」のシラを切り続け、いけシャアシャアとノーベル平和賞まで手にした政治家がいたこと。沖縄に米軍基地があることを、「日本」という国家にとって「当然」視する風潮を無反省に煽り続けている政治家がいたし、今もいること。 どの政治家が「まともなこと」を言っているのか、立場によって変わる問題ではないということを、なんとか伝えようと映画を作った人たちがいる。その「努力」と「誠意」が伝わる映画だった。 「基地はいらない」と言い続けた瀬長亀次郎の「まともさ」は決して古びない。時代や国を越えた「まともさ」だとぼくは感じました。 何を学ぶとか、知るとかいうことを越えて、辺野古に新しい基地はいらない。単純なことだ。基地は戦争の道具なんだから。帰り道で、そんなふうに思いました。(画像はチラシの写真です。)監督 佐古忠彦プロデューサー 藤井和史 刀根鉄太 撮影 福田安美 音声 町田英史 編集 後藤亮太 音楽 坂本龍一 兼松衆 中村巴奈重 中野香梨 櫻井美希 テーマ音楽 坂本龍一 語り 山根基世 役所広司キャスト 瀬長亀次郎2019年128分日本2019・09・18元町映画館no178ボタン押してね!にほんブログ村
2019.10.01
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石牟礼道子「苦海浄土」(講談社文庫) 自分の生活する世界の外側や遠くの他者に対して関心を持つ時、自分のことを「こうだ」と思い込んでいた自己認識のあやうやさと出遇うことがある。この年齢になっても職場や近所づきあいで経験的には全く初めてのタイプの人と出会ったりする事は相変わらずあって、やっぱりうろたえる。 ドキドキしながら、一度自分の中にもどってみる。べつにどんな人とでも常に「存在」を賭けて真摯に付き合うことが身上というわけではない。しかし、自分の中にも、ほかの人から見れば、こういう変なタイプがいるのではないか、そんな風に考えると心当たりがある事もある。モチロンいつもという訳ではない。全く予想もつかないような人物もいる。心当たりがあるからといって必ずしも理解できたというわけでもない。かならず仲良く出来る訳でもない。 ただ、まぁそういうふうになってしまう事はありうるよな、というふうに相手に対しての、ちょっとした納得が生まれる程度のことだ。とりあえず嫌いとか好きといわなくてもよい。鶴見俊輔という哲学者が『同情』という言葉を使って考えているコトの入り口くらいかもしれない。 鶴見の言う『同情』というのは英語ではsympathyだろう。パトスが共振=シンクロナイズ=synchronizeすることという意味かなと思う。『共感』を持って他者と出遇うこと。孟子が言う『惻隠の情』というのはこれと近い事かもしれない。 哀れみとか心痛とかだけではなくて、率直な関心。交感作用。わからない人は辞書をどうぞ。ここで、ぼくは人格者になるための心得について言いたいわけではない。鶴見の言う『同情』や孟子の『惻隠の情』を徹底させると結構すごいコトになるということを話題にしたいのだ。 石牟礼道子の『苦海浄土』が文庫新装版で講談社から新しく出たそうだ。これまでにも講談社文庫版で読むことは出来たし、国語の教科書にも取り上げられてきた。 「ほーい、ほい、きょうもまた来たぞい」と魚を呼ぶのである。しんからの漁師というものはよくそんなふうにいうものであったが、天草女の彼女のいいぶりにはひとしお、ほがらかな情がこもっていた。海とゆきは一緒になって舟をあやし、茂平やんは不思議なおさな心になるのである。 いかなる死といえども、ものいわぬ死者、あるいはその死体はすでに没個性的な資料である、と私は想おうとしていた。死の瞬間からオブジェに、自然に、土にかえるために、急速な営みを始めているはずであった。病理解剖は、さらに死者にとって、その死が意思的に行うひときわ苛烈な解体である。その解体に立ち会うことは、わたくしにとって水俣病の死者達との対話を試みるための儀式であり、死者達の通路に一歩たちいることにほかならないのである。 ゴムの手袋をしたひとりの先生が、片手に彼女の心臓を抱え、メスを入れるところだった。私は一部始終をじっとみていた。彼女の心臓はその心室を切りひらかれるとき、つつましく最後の吐血をとげ、わたしにどっと、なにかなつかしい悲傷のおもいがつきあげてきた。死とはなんと、かつて生きていた彼女の、全生活の量に対して、つつましい営為であることか。 人間な死ねばまた人間に生まれてくっとじゃろか。うちゃやっぱり、ほかのもんに生まれ替わらず、人間に生まれ替わってきたがよか。うちゃもういっぺん、じいちゃんと舟で海にゆこうごたる。うちがワキ櫓ば漕いで、じいちゃんがトモ櫓ば漕いで二丁櫓で。漁師の嫁御になって天草から渡ってきたんじゃもん。うちゃぼんのうの深かけんもう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる。「苦海浄土 第3章 ゆき女きき書き」 水俣病で亡くなった坂上ゆきとういう女性をめぐって書かれた、「ゆき女きき書き」の一節。読み手の胸倉をつかんではなさない文章だと感じた。 「共感」するということが、すでに死んでしまった「ゆき女」の病理解剖の現場にまで立ち合い、その切り裂かれた心臓の最後の一滴のしたたりまで見ることを止めない石牟礼道子の冷静な目と筆致を支えているように感じる。 「同情」ということが一緒に涙を流したり、抱き合ったりすることにとどまることではないことを彼女は描いている。「見て書く」という行為に自分という存在をかけて表現しているといえないだろうか。そこにみなぎる気迫、それこそが、「同情」が行為であり、行動であって「こころのありさま」だけのことではないことが文章にくっきりとあらわれている。そこが石牟礼道子の強烈さだといっていいと思う。1968年に出版されて30年以上の歳月がたっている。僕が初めてこの本に出会ったのも30年も昔のコトになる。 今年、彼女の全集が藤原書店というところから出始めている。出来ればどこの学校の図書館にも置いてもらって、ひそかに彼女に「共感」し、自分のなかに「同情」を育てる人が一人でも生まれてくれば一寸凄いのではないだろうか。 この記事を書いている最中。2004年10月15日。水俣病患者に対する国家=行政の責任を認定した判決が最高裁から下された。被害発生から50年以上も経ってやっと、である。いったい何人の人が、世の中から「見捨てられた」という思いで死んでゆかれたことだろう。そう考えてしまう。(S)2004・10・14追記2019・09・16 石牟礼道子さんはいなくなった。鶴見俊輔さんもいなくなって久しい。この「案内」を教室で配布したときから15年も経ってしまったことを実感しながらも、少し驚いている。 福島の原発事故の被災者に対して「管轄外」と言い放つ復興庁の長官や、汚染水の「海」への廃棄を最後っ屁のように言い放つ大臣。とどのつまりは、公共事業の犠牲者に「ボランティア精神」を説く大臣迄出てきた。石牟礼さんや鶴見さんが生きていたらなんというだろう。 古い記事だが、捨てないで投稿しようと思った。 ボタン押してね!にほんブログ村ふたり 皇后美智子と石牟礼道子【電子書籍】[ 高山文彦 ]苦海浄土 全三部 [ 石牟礼 道子 ]
2019.09.17
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土本典昭 「水俣 ― 患者さんとその世界〈完全版〉」 淀川文化創造館 シアターセブン 今週、二度目のシアター・セブンでした。やっぱり、高速バス、阪急特急と乗り継いで、でも、前回より30分くらい早く到着しました。上映までには、小一時間あったのですが、50席あるかないかの小さなホールです。その上、今日は土本典昭特集最終日、傑作の誉れ高いドキュメンタリーというわけで、とりあえず入場券を確保しようとチケット売り場へ行きました。「おっ、2番や。そんなに混まへんのかな?」「先週は、結構、満員でしたけど。」「そうか、そうやんな、上映してんの気付くの遅かったから。他のも見たかってんけど。パルチザンとこれしか、あかんかってん。」「ああ、火曜日いらっしゃってましたね。」「うん、見るの、これも、初めてちやうねんけど、見納めやな。」「昔、見てはるんですか。」「うん、大昔やな。」 モギリのお嬢さんとおしゃべりできて、すっかり上機嫌です。 べつにエロじじいというわけではない。今週、一週間、同居人以外と口をきいたのは、どうも、初めて‥‥。 だから、まあ、電車のお隣りの座席のおじさんとでも、「よっ!」「元気?」 とか、なんとか、会話したかもしれない状態だったわけです(笑)。 ああ、そういえば、昨日かな?明石駅で通りすがりの、ちょっと知っている高校生に声をかけられたな。あれもうれしかった。 そんなことを考えながら、結構、すいている座席の一番後ろに陣取りました。観たのは土本典昭監督の「水俣 患者さんとその世界〈完全版〉」です。 スクリーンで映像が動き始めました。海が映っています。お経か?御詠歌か?はっきりしませんが、そういう、かすかな声が聞こえています。 海に船が浮かんでいます。白黒のフィルムですが、天気がよくて、青い水平線が上の方に見えています。 丘の上で、海を見ながら、交渉の行く末を悩む人がいます。寄合で集まって、どうするのか、男や女が相談しています。こっちの方で寝転んでいる人もいます。 海の中を歩いてタコを獲る老人がいます。つかまえたタコの急所は目と目のあいだのようです。そこを噛んで、腰にぶら下げていきます。海が緑色に透きとおって、揺らいでいます。 少年が笑って、カメラを見ています。少女が大勢で遊んでいる子供たちのところに、よろけて歩きながら近づいていくのを子供たちがじっと見ています。 母親がスプーンで、抱きかかえた娘の口に食べ物を運びます。繰り返し吐き出す食べ物を、繰り返し口に運んでいます。食卓では子供たちが食事をしています。 夏ミカンの畑で収穫です。兄が、弟を抱えて家まで連れて帰ってきます。石のボールでおばちゃんと野球をしています。なかなかバットに当たりません。ときどき当たると、おばちゃんがうれしそうに笑っています。 工場の煙は、町の空の上に広がっていきます。黒い排水溝が見えます。そこから海も黒く広がっていきます。画面は、ずっと、モノクロです。イメージには色がついたり消えたりします。 それぞれが、ちいさな鐘を掲げ持って御詠歌の練習をしているおばさんやおじいさんの中で、若い石牟礼道子が、所作が上手にできなくて困っています。たぶん、歌の文句もご存知ではなかったのでしょうね。彼女もインテリだったんですね。御詠歌を無心に、そして、懸命に唱えるなんて、最初はできなかったんです、きっと。 白装束と菅笠姿で歩いている人たちがいます。黒い生地に「怨」と染め抜いた幟がはためいています。画面を見ながらふと思い出しました。「あの、幟の文字、怖いよね、ほんとに。」 初めて集会に座った時、隣の女の子がつぶやいた言葉です。40年前の記憶です。 裁判所、電車、大阪のビルの街。株主総会。社長はズボンのポケットに手を突っ込んだまま壇上に立っています。今でも、立派な会社の社長はああやって「苦情」を聞いているんだと思いました。信じられないくらい何も変わっていません。 光る海に船が浮かんでいます。 胎児性とクレジットが出ています。ぼくと同い年か、ほぼ同世代の子供たちです。森永のヒ素ミルク中毒の子供たちも、ぼくと同い年でした。 五十年の歳月が流れているはずのフィルムに映し出される子供たちは、今でも子供のままで懸命に生きています。硬直したり、反り返ったりしている手首や足首は、五十年後も、やはり硬直して、反り返っています。 やはり観てよかったと思いました。涙はこぼれませんでした。こうして、たしかに生きていた、この子供たちの姿を忘れてしまうのは、まともなことではないと思いました。ボク自身は、できればまともでありたいと思っています。 65歳を過ぎて、1本のドキュメンタリー映画を見て「まともでありたい」と思ったことを思い出せる日は、またあるのでしょうか。忘れてはいけない。心もとないことですが、そう、思いました。 製作:東プロダクション 監督:土本典昭 製作:高木隆太郎 撮影:大津幸四郎 録音:久保田幸雄/浅沼幸一 日本 1971 2時間47分 1973年度(第1回)世界環境映画祭グランプリ/マンハイム映画祭デュキャット賞 1972年度ベルン映画祭銀賞/ロカルノ映画祭第3位/優秀映画鑑賞会年間第3位2019/03/01七芸・シアター7no3にほんブログ村ふたり 皇后美智子と石牟礼道子【電子書籍】[ 高山文彦 ]苦海浄土 全三部 [ 石牟礼 道子 ]
2019.08.03
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「中村哲って誰? 」なだいなだ「人間、とりあえず主義」 先日、杉山龍丸という人物を案内しましたが、そこで中村哲という人物の名前が出てきました。 西日本新聞(2018/02/28)朝刊にこんな記事があります。《アフガニスタンへの支援を行う福岡市の非政府組織「ペシャワール会」は27日、現地代表の中村哲医師(71)=福岡県出身=が同国のガニ大統領から国家勲章を受けたと発表した。長年にわたる現地での用水路建設や医療活動が高く評価された。(略) 中村医師は1984年から隣国パキスタンで医療支援を始め、91年からアフガンでも活動。一時は両国で最大11カ所の診療所を運営した。アフガンを襲った大干ばつを受けて2003年に用水路の建設や補修を始め、事業で潤う土地は福岡市の面積の約半分に当たる約1万6千ヘクタールに上る。 同会によると、勲章は「長年、最善を尽くして専門的な支援を行い、保健と農業の分野でわが国の人々に多大な影響を与えた」として授与された。 7日に首都カブールの大統領官邸で行われた叙勲式にはガニ大統領や同国の農業大臣らが出席。大統領は中村医師が書いた用水路建設の技術書を6時間かけて熟読したと明かし、「あなたの仕事がアフガン復興の鍵だ」と何度も話したという。 中村医師は「活動が地元で評価され、為政の中枢に届いたことが特別にうれしい。自然が相手の仕事は、効果を得るまでに長い時間がかかる。さらに大きく協力の輪が広がることを祈る」とコメントした。》 もうひとつ、これは筑摩書房の「ちくま」という冊子に、精神科医で作家だったなだいなだが「人間、とりあえず主義」という連載をしていたことがあります。今から10年ほど前のことです。2009年11月号に「中村哲にノーベル平和賞を」という文章を書いています。中村哲の紹介にちょうどいいと思います。続けて読んでみてください。「憲法9条にノーベル賞を」という運動があるそうだ。突飛な発想で、面白いと思うが、ノーベル賞は人間化組織に与えることになっているので、まったく実現性がない。それよりも、かなり実現性のある、中村哲あるいはペシャワール会にノーベル平和賞を、という運動に切り替えたらどうだろう。残念なことに、中村氏と、まだ面識はないが、彼の著作を読み、彼の仕事ぶりを映したドキュメンタリーで見る限りの判断だが、これまでの受賞者にひけをとらない業績だと思う。 長年にわたるアフガニスタンでの井戸掘りや用水路の建設の仕事は、僕など、まねようとしてもできない。彼はこの仕事に半生をつぎ込んだ。日本でも評価され、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、西日本新聞などがさまざまな名目で賞を与えているし、驚くことに、日本の外務省までもが大臣賞を与えている。しかも。マスコミが注目する以前に与えている(そのころの外務大臣は誰!)。 それほど日本人が認めている彼の業績だ。彼にノーベル平和賞をという考えにだれも異存はあるまい。 ノーベル平和賞だけは、ノルウェー国民議会が選考を行うことになっていて、日本では非核三原則を国会で表明した、佐藤栄作元首相が受賞している。受賞したとき、少し流行遅れになったセリフだったが「アッと驚くタメゴロー!」を口にしたことを覚えている。本当にアッと驚いた、すぐに信じられなかった日本人は、僕だけではなかったろう。後々、核持込に関する日米間の密約があったことなどが知られるようになり、選考委員会が21世紀になって発表した報告の中で、後悔を表明したことで有名だ。非核三原則についての日本の首相の発言だ。当然、憲法九条を踏まえたものと理解されたのだから、憲法九条が受賞したようなものだ。だが、選りによって、あの人と憲法九条が結び付けられたとは! ノーベル平和賞には、ほかにも、なぜ?と後世になって首をかしげるような受賞が少なくはない。イスラエルのメナヘム・ベギン首相(当時)などもその一人だ。第一次中東戦争のときに一般市民虐殺の疑いを持たれているからだ。だが、この賞にけちをつけることになったら困るので控える。 中村哲ならば、佐藤元首相のときの間違いを訂正するという、いい機会をノルウェー議会の選考委員会に与えることになるから、一石二鳥である。そんなことよりもともかく彼が、アフガンの人たちと汗を流して掘った用水に水が流れ、荒地が緑に覆われる光景は、感動的だ(いくつかのドキュメンタリーで見て、年のせいで涙もろくなったのか、そのたびに目頭がジーンとなった。)戦争ではアフガンの人々の心をとらえれないことを、オバマ大統領に知らしめるためにもいいだろう。 ペシャワール会の伊藤和也さんが、不幸な事件に巻き込まれた記憶もまだ生々しい。また最近はパキスタンの辺境地域の治安も悪くなり、ペシャワールに根拠地を置く彼らの活動も、困難になってきているようだ。こういう時期だからこそ、ノーベル平和賞が意味を持つ。今年は無理かもしれないが、来年分の推薦の締め切りは、一月末。それまでにはまだ時間が十分にある。民主党、社民党の代議士たちが、推薦状を書く時間は十分にある。《中略》 僕はこれまで、車に「イラク戦争反対」と書いて走ってきたが、これからは「アフガン戦争反対」か「アフガンに平和を」と書いて走ろうと思う。 微妙に、10年前の時代の空気が流れているエッセイですが、中村哲の仕事が、漸く知られるようになった頃の文章です。新聞記事も、なだいなだも触れていませんが、記事にある1991年という年は旧ソ連によるアフガン侵攻作戦がようやく終わったころに当たります。戦争と干ばつで荒廃した大地に、風土病化し蔓延しているハンセン氏病治療のボランティアとしてアフガニスタンにやって来たのが中村哲の仕事の始まりでした。 そこから10年、井戸を掘り、岩だらけの大地に水路を作るという大土木事業が、医者である中村の創意工夫で続けられたのです。出版やカンパによる資金収集と日本の古来の竹籠式石組み技術による手仕事で続けられた事業がようやく成果を生みはじめた2001年、こんどはアメリカによる空爆が始まりました。 ソ連もアメリカも「イスラム原理主義の巣窟としてのアフガニスタン」という認識は変わりません。いつものことですが戦争や爆撃でどれだけの無辜の民衆の命が失われたのか、攻撃した人たちがきちんと報告することはありません。 しかし、以来、戦火が消えたことがない国の爆撃の下で、井戸を掘り続けて、民衆の命を守る仕事を続けた医者が中村哲です。 著書の案内は今回はできませんが、紹介したなだいなださんは、残念ながらこの原稿の2年後、2013年に亡くなってしまいした。 なだいなだという人は「いじめを考える」(岩波ジュニア新書)・「こころの底に見えたもの」(ちくまプリマー新書)といった中学生向きに書かれた本をはじめ、難しいことを、難しく言わない「こころ医者」を自称し、アルコール依存症の治療で知られた精神科医で、ラジカルだけれど、軽妙なエッセイが持ち味の人です。「人間、とりあえず主義」(筑摩書房)という題の本はありますが、この記事は載っていないと思います。 中村哲の著書の一冊、「空爆と復興」(石風社)の写真を載せました。高校生向けには「アフガニスタンの診療所から」(ちくま文庫)などがあります。(S)追記2019・12・04 2019年12月4日のニュースで中村哲氏の死が報道されています。どうしていいかわからない動揺が自分の中にあるのが分かります。この案内で、いずれノンビリ紹介しようとたかをくくっていました。「志の人」という言葉どおり、志士と呼ぶべき人がこの国にもいることが、ぼくは嬉しかったのです。ぼくにできることは、彼の仕事の足跡を、著書一冊、一冊、紹介することぐらいかもしれません。今日は、それを肝に銘じておこうと思っています。追記2022・09・27 中村哲の仕事を撮ったドキュメンタリー「荒野に希望の灯をともす」を元町映画館で見ました。彼の生きている姿を見るのは久しぶりです。いつだったかテレビで放映した時に見ましたが、初めてみるような気分でした。 亡くなって、3年がたちます。ぼくにできることは、彼の残した著書を若い人に伝えることくらいです。一冊づつ読み直して案内し続けようと思いました。ボタン押してネ!にほんブログ村アフガニスタンで考える 国際貢献と憲法九条 (岩波ブックレット) [ 中村哲 ]価格:691円(税込、送料無料) (2019/5/20時点)アフガン・緑の大地計画 伝統に学ぶ灌漑工法と甦る農業 [ 中村哲 ]価格:2484円(税込、送料無料) (2019/5/20時点)心の底をのぞいたら (ちくま文庫) [ なだいなだ ]価格:583円(税込、送料無料) (2019/5/20時点)ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.05.20
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金大偉「花の億土」十三第七芸術劇場 亡くなってしまった石牟礼道子の声が聞きたくて、顔が見たくて、朝から、市バス、JR、阪急と乗り継いで十三までやって来ました。チッチキ夫人、ピーチ姫と連れ立って、家族で映画鑑賞会。「おー、十時開演に間に合ったぞ。」 そのとき、フト、そういえば、学校は夏休みですが、世間の方々は、お仕事だったのだと思いだしました。三人並んで観たのは金大偉のドキュメンタリー、「花の億土」です。 座って語り続ける石牟礼道子の顔。ユラユラと歩きながら、諤諤と首が動く様子で暮らしている立ち姿。いいよどみ、いいよどみする、あの声が、宇宙だか、あの世だか、海のむこうのほうだか、をかたり続けているように聞こえます。「これ、これ、ふふふふ。これが聞きたかった。石牟礼さん、何を言ってもいいよ。宇宙の果てまで行こうが、魂の奥底をのぞき込もうが、人類の滅亡を予感しようが。あなたが、文字通り懸命に語りかけていらっしゃる、どもって、言いよどんで、頭もからだも、ゆらゆら、ゆらして。なんのかっこも、わざともなく、悶えていらっしゃる。それを見ていて、聞いていて、ぼくは気持ちが軽くなるのがわかるのに、涙が止まらない。」 映像にくぎ付けになりながら、ふと、違和感が萌してきました。書店のプロモーションフィルムの匂いがにじみ出ています。 「監督さん、ひどいことだと、失礼なことだと分かっていていいます。監督さんがなさっている編集というか、解釈というかは、勝手な思い込みの老人には邪魔なんですよね。石牟礼道子の、いつわりのない声と表情を、自分の頭だか、こころだかのどこかにこすりつけて帰りたいだけなんです。申し訳ないんですが、彼女を、なんだかえらい人にしないでほしいんです。」 観終わって、十三の商店街を歩いて、チッチキ夫人とピーチ姫と三人でうどん屋さんに入りました。「おとん、大阪やねんから、うどんやろ。なんでそばやねん。」 「キツネそばって書いてるから、うん?って思って頼んだのに、ハイ、タヌキねって,なんやねん。いっしょやん。」 「ああ、そばならタヌキか。」 「自分もざるそばやん。」 「ああ、暑いから、でも、カヤク飯つけたし。ちょっと、その卵とじうどん、ツユ飲ましてよ。」 「神戸と一緒やで、はい、どうぞ。」 「やっぱり、ぬくいうどんがよかったかな。」 お土産には、いつの間にかチッチキ夫人が「酒蒸し饅頭」を買っていました。「いつ買うたんや?油断もスキもないな。」「ここに来たら、やっぱり、これやんか。食べへんの?」監督・撮影・編集・音楽 金大偉ナレーション 米山実配給 藤原書店2013年 日本 113分 2018・08・17七芸・シアター7no4追記2023・05・26古い記事を修繕しています。もう5年位前の出来事です。三人でうどん屋さんに入ったことだけ、妙に覚えていました。 押してね! ブログ村ボタン ブログ村ボタン
2019.04.20
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米本浩二「評伝石牟礼道子:渚に立つひと」(新潮社) 河出書房新社から「池澤夏樹個人編集:世界文学全集」全30巻が2011年に出版されて、その中に日本文学としてただ一作選ばれたのが石牟礼道子の「苦界浄土(三部作)」でした。 「石牟礼道子が世界文学!」 言葉の後ろにつくのが!マークなのか?なのか、微妙なニュアンスで評判になった。「そりゃあ!マークでしょう」と思ったが、出版に際してつくられた「苦界浄土刊行に寄せて」というビデオを見て、どうでもいいやとおもいました。ビデオが気に入らなかったのです。 映画の中で石牟礼道子は、こう語っています。(ぼくなりの要約なので、本物はユーチューブで検索していただけば、誰でも聞けます。) 本当のテーマというのは人間が生きるということについて美しい話をどなたとでもできるようになりたかったというのが悲願のようにありましたのに、うかうかと年を取ってしまいました。 これをお読みいただく方々にとっては、まあ、一つの災難であろうとは思うんですね。こういう暗い材料を文字に書いて、本にして、何の予備知識もない方々に読んでいただくわけですので、なんだか申し訳ないような、自分の背負っている重荷をその人たちに背負っていただいて、加勢してくださいとお願いをするような気持ちで、申し訳なく思います。 馬鹿の一つ覚えといったらいいんでしょうか、ほかのことはあまり考えられずに、やっとやっと、考え、あの、これまでに、自分にとっては不可能だったようなことを何とか書き終えましたけれど、重荷でございましょうけれどお読みいただければ幸いでございます。 その石牟礼道子が今年(2018年)二月に亡くなって、とてもショックでした。彼女は、ちょうど、ぼくの母親の世代の人でした。彼女の生き方は、なんというか群を抜いていると思っていたのですが、どこがどうなって、そうなっているのかわかりませんでした。 石牟礼道子の死のちょうど一年前に米本浩二という毎日新聞の記者(だった人かな?)が「評伝 石牟礼道子」(新潮社)を発表しました。書いた人は知らない人だったのですが、読みだして納得しました。三年がかりで書き上げた労作でした。 序章に、米本浩二がこの評伝執筆を決意するにあたって、「岩の上でもじもじする」ペンギンの背中を押した渡辺京二という思想家の言葉が記されていました。 渡辺京二は作家(こう呼ぶのは、ぼくには抵抗がありますが、でもまあ作家なのかな?)石牟礼道子を、最初に発見し、その出発から死に至るまで支え続けてきた人だと思います。 支えると言っても、生半可なことではなかったのではないでしょうか。「義によって助太刀いたす」という「水俣病を告発する会」の70年当時のリーダーの、有名な言葉がありますが、渡辺京二という人は、石牟礼道子に対して生涯をかけた「助太刀」を貫いた人だとぼくは思います。世の中には、凄い人がいるものなのです。 本書をお読みいただけばわかることですが、水俣病闘争の初期に石牟礼と出会い、晩年にいたっては、食事の世話、原稿の清書から出版社との交渉に至るまで、黒子のように付き添ってきた人です。 渡辺自身にも「もう一つのこの世:石牟礼道子の宇宙」(弦書房)という評論集があるのですが、その渡辺が米本浩二に語りかけた言葉が本書にありました。 石牟礼道子に密着して話を聞く。伝記に尽きるわけだよ。彼女の言葉と、著書の引用、関係者の証言、この際、戸籍調べもして、ノートも未発表原稿も、ほかのなにもかも全部ぶちこんで、伝記を書く。そういう仕事をするには、己を虚しくしないといけませんからね。若いときは、そういうふうに己を虚しくするのはなかなかできない。ほかにいっぱいするべきこと、楽しいことがあって、己を虚しくしようとは思わないでしょう。熱烈なファンはいっぱいいるんだけどね、そこまでやろうとする人はいないね。だけど、まあ、そんなもんでしょう。 後世になってやっと研究者があれこれほじくりはじめるんでしょう。それはそれで結構なんです。ただ、関係者が生きているうちにね、話を聞けばね、相当面白い本ができると思う。 彼女は逸話集ができるから。変わってますから、すること言うことが。珍談奇談、山みたいにあるわけですからね。ただそれは残さないと消えてしまう。珍談奇談の類は僕も書いていません。イギリスが島国の話はちょっと書きましたけど。彼女らしい面白い話はたくさんあるんですよ。書き残さねばならない。発表しなくてもね。書かないと消えてしまう。 こんなふうに言われて、米本浩二は、その責任の重大さに、きっと震えたに違いないとぼくは思います。 1970年代初頭、首都に翻った「怨」という一文字の吹き流しと、「死民」というゼッケンを発案し、チッソ本社前の路上に患者とともに座り込んだ、闘う人。「苦界浄土」をはじめ、数々の傑作を世に問い続け、今や、世界的評価を得ている作家。祈るべき 天とおもえど 天の病む 晩年、こう詠んだ詩人について、「変わってますから」と励まされて書くことは、それ相当の肝が据わらなければできる仕事とは思えません。 黒地に「怨」と染め抜かれた吹き流しから私が感じるのは、正体不明の遺物と向き合う生理的、根源的な恐怖である。 石牟礼道子を書くということは、彼女が世に現れた当時、何も知らなかった小学生だった米本浩二にとって、「根源的恐怖」の正体を突き止めようと勇気を奮う決意なしには、なしえなかったのではないでしょうか。 しかし、彼は書いたのです。米本 封建的な農家の嫁という立場で書くのは大変だったでしょう。石牟礼 水俣病をやり始めたときは、お姑さんから、道子さんたいがいにせんね、弘がぐらしか(かわいそう)ばい、と言われました。(以下略)米本 ご実家の反応は?石牟礼 お前がやっていることは昔なら獄門さらし首ぞと父が言った。覚悟はあるのか、と。ある、というと、そんならよか、と言いました。獄門さらし首、なるほどと思いました。安心しました。だれよりも、産んでくれた親が一番わかってくれているなと思いました。(以下略) 米本 七〇年、大阪のチッソ株主総会に向かっているころに、作家の三島由紀夫が自衛隊で割腹自殺しています。石牟礼 彼のひどく古典的な死に方は、わたくしの水俣病事件と思わぬ出会いをすることとなった。と『苦界浄土三部作』に書きました。三島さんほどの人が、もったいなかと思った。死ぬくらいなら患者さんの支援に加勢してもらいたかった。三島作品をちっとは読んどったです。まあ、文章がきらびやかで、とても新鮮に思えて、私は才能を認めていました。孤高というか、規格外というか、普通の文壇的な作家とは違うち思うてましたね。勝手に親近感を覚えていたから‥‥。(以下略)米本 (ミカン)いただきます。あの、今の時代をどう思いますか。石牟礼 日本列島は今、コンクリート堤になっとるでしょう。コンクリート列島。海へ行くと、コンクリートの土手に息が詰まる。都会では小学校の運動場までがコンクリートです。これは日本人の気質を変えますよ。海の音が聞こえんもん。米本 水俣病の現在をどう見ますか。石牟礼 水俣病の場合はまず棄却という言葉で分類しようとしますね。認定の基準を決めて、認定の基準というのは、いかに棄却するかということが柱になってますね。国も県も。そして乱暴な言葉を使っている。言葉に対して鈍感。あえて使うのかな。あえて使うんでしょうね。棄却する。 一軒の家から願い出ている人が一人いるとしますね、私はあんまりたくさん回ってないけど、ほんの少数の家しか回ってないけども、行ってみると、家族全員、水俣病にかかっとんなさるですよ。家族中ぜんぶ。ただその人の性格とか食生活とか生活習慣が先にあるんじゃなくて、水俣病になってる体が先にあるもんで、病のでかたがちがうんですよね、ひとりひとり。 魚を長く食べ続けたと訴えても、それを証明する魚屋さんの領収書とかもってくるようにという。そんなものあるわけない。認定する側の人だって魚屋さんから領収書貰ってないでしょう。そういうひどいことを平気で押し付けてくる。証明するものって、本人の自覚だけですよね。それをちゃんと聞く耳がない。最初から聞くまいとして防衛してますね。 自分のことを一言も語れない、生きている間、もう七〇年になるのに自分のことを語れないんですよ、患者たちは。(以下略)米本 パーキンソン病との闘いがつづきます。石牟礼 複合汚染だと思っています。私の今の症状の中に水俣病の患者とそっくりの症状がある。原田正純先生に『私にも水銀が入ってますよね』と言ったら、『当たり前ですよ』とおっしゃいました。箸をとりおとす。鉛筆をとりおとす。ペンをとりおとす。なんか手に持っていたものを取り落とすことがしばしば。そして発作がきますけど、脳の中がじわじわしびれてくるんですよ。(以下略) できあがった作品は、例えば、ぼくの「どこがどうなっているのか」、生い立ちは、家族は、生活は、という疑問に、実直に答えてくれています。 石牟礼道子が背負い込まねばならなかった「重い荷物」の由来と遍歴を丁寧に解き明かしているともいえるでしょう。 しかし、それ以上に、米本浩二自身が、石牟礼道子という「もう一つのこの世」に生きた人間を、海の向こうに、はるかに見晴らす渚に立っている印象を、素直にもたらすものでした。書き手の、実直ともいうべき誠実が形になった伝記だと思いました。乞う、ご一読。追記2019・11・12 石牟礼道子「苦界浄土」はこちらで案内しています。表題をクリックしてみてください。追記2020・01・23 この本が文庫になるそうだ。現代という時代が過去をないがしろにすることで、ありえない夢を見ようとしているのではないかと疑うことが、最近増えた。忘れてはいけなかったり、大切にすべき考え方や生き方は「過去」の中にもある。 忘れてはいけない人を描いた米本さんの誠実が輝いている本だ。めでたい。追記2022・10・04 石牟礼道子の伝記を書いた米本浩二が、新たに「水俣病闘争史」(河出書房新社)を書いて、この夏の終わり、国葬騒ぎの最中の2022年8月に出版されました。感想はべつに書こうと思いますが、70年代、学生時代を、初めて石牟礼道子や渡辺京二を読んだ頃を彷彿させる読書でした。 で、まず、こっちの投稿の修繕をやりました。「水俣病闘争史」の案内も近近投稿するつもりですが、さて、どうなることやらです(笑)追記2022・10・25 「水俣病闘争史」(河出書房新社)の感想を書きました。題名をクリックしてみてください。 2018/09/01ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.04.15
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