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アリ・アスター「ボーはおそれている」109ハット 一月ほど前のことです。上に貼ったチラシを一目見て同居人のチッチキ夫人が言いました。「私、これは行くわ。(キッパリ!)」「なんで?」「なんか、情けない顔してはるやん。この人。」「ホアキン・フェニクスやん、ほら、こないだ、ナポレオンになってた、あんたは要ってへんけど。マザコンのナポレオンいうて騒いでたやろ、ボクが。」「ふーん、そうやったっけ。」 で、劇場公開が始まって二人で出かけました。 109ハットの小さめのホールでしたが二人以外には学生風の若い男性が二人だけでした。見たのはアリ・アスター監督の「ボーはおそれている」でした。 見終えて、二つ向うの席のチッチキ夫人を振り返ると、彼女は、それぞれ席を立って出て行く青年たちを目で追いながら、声をひそめて言いました。「あの子ら、面白かったんやろか?」「あんたはどうやねん。」「わたしは、最初のシーンから、もういい、出て行きたい、の繰り返しやんか。なんなん、この映画。」「ふーん、ボクは、それでどうなるの?やったで(笑)ホアキン・フェニクス、ずっと情けない顔してたやん。それが見たかったんちゃうの?」「あんな母親出てくる思わへんやん。」 見てすぐはかなりお怒りでしたが、家に帰ると質問攻めでした。「最初、さあ、子供産んだばっかりの女の人が叫んでるこえきこえてくるやん。アンナン、できへんと思うねん。産んですぐやでぇ。」「夢やからできるねん。」「誰の?」「主人公。」「どういうこと?」「ボクはな、はじめから終わりまで、みんな、ボーいう男の人の夢や思うねん。まあ、当てずっぽうやけど、きっと。」「みんな、夢やったん?」「ほら、この前からホサカがおもろいこというてるって騒いどったやろ。夢で起こることって、あり得へん事でも見てて疑わへんって、そういえばそうや、おもろいなぁって。」「そやから、起こること、全部、どこか変やったん?」「そうやん、ボクらには夢ちゃうもん。」「ボーにはホンマのこと?」「まあ、そういいたいんやろうな。ボク、見始めて、すぐ、ホサカの話思い出したから、ふーん、ソウナン?!って見てた。」「ずっと?」「うん。」「最後、爆発すんのは?」「夢の終わり。目覚めたら、また、あの情けない顔。」「おかーさんは?」「映画の今、実在やとしたら、生きてる。知らんけど。ほんでな、ボーのマザコンの様子の描き方は、アメリカの人が好きらしい精神分析の発想の、まあ、映像化に見えた。」「どいうこと?」「あんな、人間ってな、大人になって、自分は、とか、私とか、主体とか、自己とか、思ってるけどな、それって、小さいころに母親とか父親の喜んだり怒ったりすること、まあそれを他者の欲望っていうねんけど、それを見て、それに合わせて自分って出来ていくいう理論。で、ボーのおかんってシングル・マザーやろ。そやから、父親は、人格のないチンチンのバケモンでしかないいうことになるわけ。なんか、そんなシーンもあったやん。」「天井裏?」「うん、父親がそれやったら、男の自分はなんや?ってなるやろ。無意識を占拠してるのは全部母親の欲望で、なおかつ自分は男やで。困るやろ。」「なんなん、それ。」「途中、子ども部屋で目覚めるやろ。ボーって、見るからにもう中年すぎてるやん、なんか、不気味やろ。」「あの年になっても、始まりに支配されてるいううわけ?あかんわ、そんな話。あの子らどう思って見てたんかな?ちょっと、感想聞きたいわ。」「さあなあ、若い人、どうなんかなあ。ボクのは当てずっぽうやか、あてにならんけど、そんな、フロイトとかについて知らんやろうからなあ。わけわからんホラーなんちゃう?ただ、ボクは、なんか、醒めて見てたいうことやん。この監督さん、たぶんそういうのン好きやねんきっと。」 と、まあ、あれこれ盛り上がったのですが、どうなんでしょうね。文字通り素っ裸で走り回ったホアキン・フェニクスさんに、ご苦労様でしたの拍手!ですね。いやはや、俳優というのも大変ですね(笑)。 ところで、上の会話の中でホサカと呼んでいるのは、作家の保坂和志です。で、引用は「世界を肯定する哲学」という新書の次の箇所です。「夢は無意識の発露である」というのがフロイト以降の定説となった定義だけれど、夢には忘れられがちなもっとずっと大きな特徴がある。それは「夢の中では何歳になっても与えられた状況を真に受ける」ということだ。(「世界を肯定する哲学」ちくま新書)(P152) それから、ジャック・ラカンについての話は、まったく偶然だったのですが、ここのところ読んでいた竹田青嗣という批評家の「新・哲学入門」という新書の次のような記述を頭に浮かべています。 ラカンは、フロイトの去勢複合の仮説を精神分析理論の核心として受け取り、疎外された自己統合としての人間主体、という独自の像を提示する。その力点を「反―主体の形而上学」と呼ぶことができる。 《主体は、もともとは欲望のバラバラの寄せ集めです。これこそ「寸断された身体」という表現の本当の意味です。そして、「エゴ」の最初の統合は、本質的に「他我(アルター・エゴ)」であり、それは疎外されているのです。欲望する人間主体は、主体にまとまりを与えるものとしての他者を中心として、その周りに構成されます。そして、主体が最初に対象に接近するのは、他者の欲望の対象として体験された対象なのです》(「精神病の問いへの序論」ジャック・ラカン「精神病」岩波書店) 幼児は、鏡像段階以前(自我が統合される以前)では、自己身体を寸断された像としてもつため、このバラバラの身体としての自己を統一された「主体」として形成する上で、「他我」、つまり「他者の欲望」を必要とする。人間は、自分の欲望を自分で構成することはできず、他者の欲望によって自分の欲望を形成する。この意味で、人間の「主体」は本質的に「疎外」されたもの、いわば他我によって想像的に”騙り取られたもの“であるとされる。(竹田青嗣「新・哲学入門」現代新書)(P147) ゴシック体は、ボクなりです。論の真偽はともかくとしてですが、最近、面白がって読んでいる1冊です。映画にかぎらず、小説、詩歌とか絵画、写真とか、ボク自身が何を見て、何に反応しているのか? を考え込むことが、最近よくあるのですが、そういうときの参考になります。ラカン、ポンティ以降の人間理解は、よくわからないなりにスリリングです(笑)。 で、最後になりましたが、この「Beau Is Afraid」という作品で、あの年齢まで、ボーが怖れ続けているという考え方が、ある意味でホラーだと思うのでした。アリ・アスター監督が採用しているとボクが考えている人間理解の考え方が、でたらめだとは思いませんが、なんだか、図式的だよなあ?! という感じなのでした。監督・原案・脚本 アリ・アスター撮影 パベウ・ポゴジェルスキ美術 フィオナ・クロンビー衣装 アリス・バビッジ編集 ルシアン・ジョンストンキャストホアキン・フェニックス(ボー・ワッセルマン)ネイサン・レイン(ロジャー)エイミー・ライアン(グレース)スティーブン・マッキンリー・ヘンダーソン(セラピスト)ヘイリー・スクワイアーズ(ペネロペ)ドゥニ・メノーシェ(ジーヴス)カイリー・ロジャーズ(トニ)アルメン・ナハペシャン(少年時代のボー)ゾーイ・リスター=ジョーンズ(若き日の母親)パーカー・ポージー(エレーヌ)パティ・ルポーン(モナ・ワッセルマン)2023年・179分・R15+・アメリカ原題「Beau Is Afraid」2024・02・29・no034・109ハットno40 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.10
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「えっ?アーモンドとちゃうやん!」 徘徊日記 2024年3月8日(金)北長狭あたり 2月の末に「アーモンドの花が咲いている。」と喜んでお伝えした、神戸の元町駅の西、北長狭通の西向きの一方通行の中央分離帯ですが、7分咲きになって、なかなかいい風情なのでウロウロしました。 で、今日は時間が早いこともあって、こんな樹名の札が下がっていることに気付きました。 何と、ベニススモモと記されているではありませんか。「えーっ?アーモンドとちゃうやん!」 ですね。サクラにしろ、アーモンドにしろ、バラ科の花ですが、このベニスモモも、やっぱりバラ科で、花影は似ていますね。 ボクは、ここの街路樹はアーモンドだと思い込んでいたのですが、ようするに花を見ても、木を見ても見分けられないということですね(笑)。 で、まあ、ちょっとショックだったのですが、今日は天気もいいので、桜、モクレンのシーズン到来に向けて写真の練習ですね(笑)。 最近、老眼が進んで、スマホカメラの画面のピントが合っているのかどうか定かでない状態なのですが、 天気がよくて、久しぶりに青空で、花の名前は間違えていましたが、自動車の方には、中央分離帯でウロウロしている老人は迷惑かもしれませんが、まあ、それほどたくさん走っている道でもありませんからね。 ベニスモモ、漢字で書けば紅李らしいですね。ちょっと、イイ名ですね。中国から来た花のようです。スモモの実がなるようです。これまた、ちょっと気になりますね(笑)。 ああ、そうだ、この近くのコブシも、蕾から少し開いて咲いていそうなので、そっちにも行ってみますね。ああ、それから、今日は、これから元町映画館でこの映画です。ついでに紹介ですね。 それじゃあ、またね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) ボタン押してね!
2024.03.10
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永田和宏「歌に私は泣くだろう」(新潮文庫) 歌人で科学者の永田和宏の「あの胸が岬のように遠かった」(新潮社)を偶然読んで読書案内に書きました。「スゴイで、アッケラカンやで、おくさんいはったら怒らはるで。」「題見たらわかるやん。胸って、女の人のやろ。」「うん、でも、チョット癖になって、今度はこれを借りてきた(笑)。」「はあー?すきやなあ(笑)。でも、それ、『波』で連載してた時、評判やった気がするわ。ちらちらしか読んでないけど。」 「あの胸が岬のように遠かった」(新潮社)は、現代を代表するといわれている女流歌人の一人、河野裕子亡き後、取り残された夫で歌人の永田和宏が、彼女との出会いを赤裸々に語った、いわば、回想的青春記 でしたが、新たに読み終えた、「歌に私は泣くだろう」(新潮文庫)は、妻であり、二人の子供たちの母であった河野裕子の10年にわたる闘病生活を共に生きた夫、永田和宏の共闘記・共棲記 ともいうべきエッセイでした。 始まりは2000年の9月でした。その日のことを河野裕子が詠んだ歌がこれです。 病院横の路上を歩いていると、むこうより永田来る何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない 裕子 歌を詠んだ河野裕子自身が、その日のことを振り返った文章がこれです。 「十余年前の秋の晴れた日だった。乳癌という思いがけない病名を知らされたあの日の悲しみわたしは生涯忘れることはあるまい。鴨川のきらめく流れを、あんなにも切なく美しく見たことは、あの時もそれ以後もない。 人には生涯に一度しか見えない美しく悲しい景色というものがあるとすればあの秋の日の澄明な鴨川のきらめきが、わたしにとってはそうだった。この世はなぜこんなにも美しくなつかしいのだろう。泣きながらわたしは生きようと思った。(「京都うた紀行」京都新聞出版センター) まあ、案内はこれで終わってもいいとは思うのですが、本書の最初の書き出しの記述がこうです。 すべてはこの一首から始まったと言っていいのかもしれない。 夜中すぎ鏡の前で偶然気づく左脇の大きなしこりは何ならむ二つ三つあり卵大なり 河野裕子「日付のある歌」 二〇〇〇年九月二十日の夜である。「左脇の大きなしこり」。風呂に入っているときに気付いたという。すぐに私に見せにきた。で、本書の最後の記述がこれです。さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ 裕子 死の前日に、私が口述筆記で書き残した数首のうちの一首である。河野裕子にとっても、そして私にとっても短かった「この世」の時間。寂しくても、暖かかったと感じてくれたことを、そして、そんな「この世にて」私と出会い、私たち家族と出会って幸せだったと思ってくれたことを、今は何にも替えがたい彼女からの最後の贈り物だったと思うのである。 永田和宏が病と闘う妻、河野裕子と暮らしながら、詠んだ歌の一つが、本書の題名として取られているこの歌です。歌は遺り歌に私は泣くだろういつか来る日のいつかを怖る 永田和宏 二〇一〇年八月十二日にその日が来ました。河野裕子がこの世に遺した最後の歌がこの歌です。手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 河野裕子 泣くのは、永田和宏だけではありませんね。 歌の言葉では「相聞」というのでしょうか、あるいは「挽歌」の心かもしれませんが、この作品の読みどころの一つは、愛し合った夫婦の、残された夫による素直な述懐にあると思いますが、もう一つは、河野裕子の闘病10年のすさまじさを包み隠すことなく書くことで、「生きようと思った」一人の人間の美しくも哀しい生の真実 を描いたところでしょうね。 ボクは、胸、打たれましたね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.09
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「オッ!コブシの季節やん!」 徘徊日記 2024年3月6日(水) 北長狭あたり いつものことですが、元町映画館で映画を見て神戸駅に向かう徘徊です。 西向きの一方通行の北長狭道路を渡って、一本北の道を通るのが定番でしたが、途中の100円パンのパンジローさんが閉店してしまって、こっちの道の方が好きなのですが、なんとなくさみしくて、ここの所は商店街か、JRの高架下ばかり歩いていました。 で、久しぶりに通りかかって「おおーっ!」 思わず声が出そうでした(笑)。コブシの蕾がふくらんで、来週には、一気に開花ですね。 はい、そうです、浄土真宗のこのお寺のある前のとおりです。この通りはコブシが並木になっていて、春先にはなかなか気分のいい通りなんですよ。 少し西に歩くと、人気の洋食屋さんの「朝日」さんがあって、ボクがいつも立ち寄っていたのは、その隣の100円パン屋さんでしたが、ザンネンなことに、昨秋、閉店してしまいました。 通りの西の端には宇治川の商店街がありますが、道ばたには、こんな石柱があります。 さて、何と読むのでしょうね。左に行けば再度山とでも読むのでしょうか。ここからまっすぐ左、だから北に登って行けば諏訪山公園、再度山へとたどり着けそうですが、たしか、山中にある大龍寺の山号が再度山だったような気がしますね。 空海が唐に行く前に上って、帰ってきてからもう一度お礼参り(?)をしたとかいう山の名前だった気もしますが、あてにならない記憶です(笑)。 夕方で、白い花に、なかなかピントが合わなくて、また、もう少し明るい時間にやって来たいですね。( ̄∇ ̄;)ハッハッハ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) ボタン押してね!
2024.03.08
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ロバート・フラハティ「極北のナヌーク」元町映画館 神戸の元町映画館が3月の始まりの1週間、SILENT FILM LIVE【シリーズ22】という、サイレント映画をピアノの伴奏で見るという、まあ、同じく神戸のパルシネマとか十三の七芸とかでもやっていらっしゃる企画をやっていて、今回はドライヤーの「裁判長」、ロバート・フラハティの「極北のナヌーク」、ジョージ・メルフォードの「シーク」という、それぞれ100年以上も昔の作品がプログラムされていて、これがそのチラシです。 もともと、チャップリンであろうが、キートンであろうがサイレントは寝てしまう という思い込みもあって、敬遠していたのですが、つい先日見たドライヤーの「ミカエル」というサイレント映画が思いのほか面白かったこともあって、チョット、興味を持っていました。 で、二日前、街角で偶然会った元町映画館のオネ~さんに「極北のナヌークいいですよ!」 と誘っていただいたこともあって、意を決して、やってきた元町映画館です(笑)。 見たのは「極北のナヌーク」という1922年のドキュメンタリィー映画でした。監督はロバート・フラハティという初期のドキュメンタリー映画では有名な人らしいのですが、そんなことをいえば「映画といえば」 で、すぐ名が出てくるルミエール兄弟だって、まあ、ドキュメンタリーなわでしょうとか、なっちゃうんですが、とりあえず、この作品を見終えた後の満足感というのはなんといっていいのか「やたらあれこれこれ語り掛けたい気分」 と「うーん、と唸って、いい心持ちのまま座り込みたい気持ち」 がぶつかり合う感じでした。 世界で、最も古い映画の一つということで、珍しい風景や人間模様のニュース映画的なコラージュ映像を予想していましたが違いましたね。 作り手の意図がどのあたりにあるのか、確たることはわかりませんが、極北に生きるものたちの、犬も、きつねも、海豹も、セイウチも、そして人も、赤ん坊も、生きて登場するです! たとえば上の写真の赤んぼうが動き出すのですが、その場面、その場面で、生きているからこその、実に、興味深い、それでいて見ているこちらに、いろんな思いがい浮かんでくる、それぞれが、それぞれの「ドラマ」を生きていて、やがて「生きものの世界」 の大きなうねり、たがいが励まし合いながら盛り上がる協奏曲のエンディングのように膨れ上がっていくさまは、実に圧巻でした。 珍しいものを見せものとして見せるというのではなくて、普遍的な生の実相を一つの物語として描こうとしている ようで、まさに映画そのもの! でした。 ピアノの伴奏も、時に軽快に、時に激しく耳を打ちながら、映像に引きつけられる意識を助けるように響いて、大したもんだと唸りました。 上映の前後にはピアニストの鳥飼りょうさんと映画館の高橋さんとの掛け合いトークもあり、大満足の拍手!でした。 トークの中で、アキ・カウリスマキという、今年のお正月に「枯れ葉」という映画が評判だったフィンランドの監督の生涯でベストだとかいう話がありましたが、なるほどなあ・・・さもありなん!やな。 とわからないなりに納得でした。監督・製作 ロバート・フラハティ1922年・78分・アメリカ原題「Nanook of the North」2024・03・06・no037・元町映画館no228 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.08
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100days 100bookcovers Challenge備忘録 (61日目~70日目) 下の一覧の書名か表紙写真をクリックしていただければ、元の掲載記事にたどり着けますので、よろしくお願いします。no61(2021・01・26 T・S)アゴタ・クリストフ「悪童日記」(早川書房)no62(2021・02・28 K・S)萩尾望都『ポーの一族』 小学館no63(2021・03・10 T・K)原作高森朝雄 ちばてつや『あしたのジョー』発行 日本テレビ 発売 読売新聞社 全11巻no64(2021・03・27 E・D)小林公二『アウシュヴィッツを志願した男 ポーランド軍大尉、ヴィトルト・ピレツキは三度死ぬ』講談社no65(2021・04・04 T・S)エーリヒ・ケストナー「飛ぶ教室」(新潮文庫)no66(2021・04・14 N・Y)兵庫県在日外国人教育研究協議会『高等学校における外国につながる生徒支援ハンドブック~すべての生徒が輝くために~』no67(2021・04・28 K・S)『USムービー・ホットサンド 2010年代アメリカ映画ガイド』(グッチーズ・フリースクール編:フィルムアート社)no68(2021・05・07 T・K)星野博美『のりたまと煙突』 (文春文庫)no69(2021・05・31 E・D) 庄野潤三『夕べの雲』(講談社文庫)no70(2021・06・07 T・S)色川武大「狂人日記」(福武文庫・講談社文芸文庫) 2020年5月に旧友3人組で始めて、開始早々5人組に増えて続けてきた100days 100bookcovers Challengeです。巷では、外出が思うようにできないコロナ騒ぎの中で「一週間で7冊」として流行っていたのを見て「100日で100冊」にしたら面白かろうという思いつきでしたが、60冊を超えたところで、1年、365日を越えてしまいました(笑)。 こうして備忘録にしないと、紹介した人自身が、何を紹介したのかわからない、忘れてしまった、という日数と冊数ですが、現在(2024年3月)98冊目に、ようやく到達して、一応ゴールが見えてきました(笑)。まあ、それにしても時がたつのは早いものです。大学生なら、入学して卒業してしまうまでかかっているのですから驚きです。 まあ、そういうことで、投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目)(81日目~90日目)というかたちでまとめています。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.07
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永田和宏「あの胸が岬のように遠かった」(新潮社) 今日の「読書案内」は、後期高齢者になった元京大教授が著者ですが、「いやー、そこまで書きますか!?」 と70歳を迎えることにビビっている、前期高齢者のシマクマ君がひっくり返りそうな率直さで、10年ほど前に亡くなった配偶者、河野裕子さんとの出会いから結婚までの思い出をつづっていらっしゃる「あの胸が岬のように遠かった」(新潮社)です。 ちなみに、著者の永田和宏さんは細胞生物学の学者で、歌人。配偶者だった河野裕子さん、息子さんの永田淳さん、お嬢さんの永田紅さんも、現代短歌に少し関心のある方ならご存知であろう歌人です。 市民図書館の新入荷の棚で見つけて、借りてきたのですが、読みながら繰り返しのけぞりました。あけっぴろげ! とはこのことですね、文書に書かれている当事者が、すでにいらっしゃらないので、まあ、文句をつける人はいないのかもしれませんが、ボクが、もし、同居人との出会いを、こんなふうに赤裸々に描きこんで公開するというと、ボクの場合は、まだ、生きている当事者である同居人が許さないでしょうね。 たとえば、書名の「あの胸が岬のように遠かった」は、永田和宏自身の短歌の上の句で、全体では「あの胸が岬のように遠かった。畜生!いつまでもおれの少年」という短歌ですね。あの胸が岬のように遠かった。畜生!いつまでもおれの少年 永田和宏『メビウスの地平』 こう詠ったのは、一年程も前のことだったろうか。自らの幼さを呪詛するように「畜生!」と吐き出した少年は、そのはるかに遠かった胸にようやく到達した。(「わが愛の栖といえば」P196) で、それに対応して乗せられているのがブラウスの中まで明るき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり 河野裕子「森のように獣のように」 これは自伝なのか、回想なのか、はたまた、告白なのか、まあ、よくわかりませんが、新潮社のPR誌「波」に2020年1月号から2021年6月号まで連載されていた「あなたと出会って、それから…」というエッセイ(?)の単行本化されたもののようです。 上に、引用しながら「まあ、興味をお持ちになった方がお読みになればわかるだろう」と書きやめたのは、引用歌の前段として、河野裕子さんの死後らしいですが、永田和宏さんが発見されたらしい河野裕子さんの「日記」と、永田さん自身の「日記」の、その当時の記述が、そのまま転記されていて、小説とかであれば、まあ、のけぞったりしないのですが、「えっ?あなたと、あなたの奥さんの実話?」 というわけですからね。短歌どころではない内容で、やっぱり、のけぞりましたね(笑)。そのまんま書き残していること自体が「若気の至り」とでもいうほかない、若き日の経験ということが、まあ、誰にでもある気がしますが、それを50年後に人目にさらすというのがすごいですね(笑)。 ここまで、茶化すように案内していますが、著者が、こういう作品を世に出すという覚悟は、多分、並大抵ではありませんね。 愛する人を失った時、失恋でも、死による別れでも、それが痛切な痛みとして堪えるのは、愛の対象を失ったからだけではなく、その相手の前で輝いていた自分を失ったからなのでもある。私は2010年に、40年連れ添った妻を失った。彼女の前で自分がどんなに自然に無邪気に輝いていたかを、今ごろになって痛切に感じている。 本書の「おわりに」の章で「知の体力」(新潮新書)という、ご自身の著書からの引用ですが、「愛する人」とか、真っ向から口にされると、まあ、チョットのけぞるのですが、著者の誠実な生き方が告白されていることは疑いないですね。 書くとなると、そこの底まで浚えないと気がすまない様子ですが、歌人というの、そういう性の存在なのでしょうかね。 まあ、しかし、後に、世に知られるようになった、二人の現代歌人の青春記! 好き嫌いは別れそうですが、やっぱり読みごたえはありますよ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.07
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原泰久「キングダム 71」(集英社) 愉快な仲間のトラキチクンの2024年、2月のマンガ便に入っていたのが原泰久の「キングダム71」(集英社)です。もちろん最新号です。 宜安の戦いで敗北をきっし、六大将軍に名を連ねる桓騎を失った秦が、いよいよ、王翦を総大将に押し立て、総力を結集して趙の李牧に、再度、挑む戦いの始まりです。 このマンガの主人公の一人である、李信こと、信が率いる飛信隊も、今や、、なんと、3万の大群です。 戦いの名は「番吾の戦い」、もちろん、「史記」にも記述されている紀元前232年にあった史実です。 久しぶりに、山の民を率いる楊端和も登場します。しかし、敵国、趙の国内における諜報戦において、若干の遅れをとっている秦ですが、出陣の様子はこうです。 戦いの前夜、ともに戦う王翦の子、王賁にたいして問いかける李信の言葉が耳に(いや、目かな)残ります。「大丈夫なんだろーな」「・・・・・」「お前の父ちゃんは」「・・・・・」「当然だ。父は勝つ戦しかせぬ人だ。」 二人とも、何か、いやな予感 を感じているようですよね。 で、戦いが始まるや否や、自国内での李牧のたくらみが、序盤、早々から炸裂し、窮地に陥るの、意気揚々、3万の大軍を率いる信その人でした。 というわけで、あとはマンガをお読みください。史実を知っている人には、本巻71巻に続き次巻の72巻も、相当、辛い展開になりそうですね。 ボクは、楽しみですけどね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.06
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タル・ベーラ「ヴェルクマイスター・ハーモニー」シネリーブル神戸 439分の「サタン・タンゴ」を見た喜びと、映画には圧倒された記憶だけ残っているタル・ベーラ監督の「ヴェルクマイスター・ハーモニー」、146分を見ました。 スクリーンに映っている人が、なにをしてるのか、よくわからないにもかかわらず、確かに、そこにいるという実感のようなものがわらわらと湧いてきて、ドキドキするという感じのシーンに出逢いたくて、こりもせず、待っていました(笑)。 開始早々、こいつは何者なのだという思わせる、ヤーノシュ(ラルス・ルドルフ)という名の、上のチラシの暗い顔の青年が、店主が閉店を宣言して、酒瓶を片付け始めた酒場で不思議な「宇宙論」を展開したあげく、そこにいた飲んだくれたちを捲込んで踊り始めます。いきなり、ポカーンでした。 で、その青年が音楽家エステル(ペーター・フィッツ)の家にやって来て、ロッキング・チェアで本を抱えたまま居眠りをしていたエステルを着替えさせ、ベッドに寝かしつけて、また出かけます。チラシによれば、彼は郵便屋さんらしいのですが、最後までわかりませんでした(笑) で、彼が出かけたのは、広場にやって来たクジラを見るためのようです。青年がクジラをしげしげと見ている長いシーンで、危うく寝込んでしまいそうになりましたが、何とか頑張って、目を凝らしてみていると、暗い道を歩き始めます。 ちょっと、ついでですが、ヴェルクマイスターは実在の音楽家です。バッハが対位法で有名ですが、その理論の先駆者だったと思います。この映画では、題名にも使われていて、登場人物の音楽家エステルが、その曲を批判しています。対位法を宇宙の調和の比喩だと受け取るならと、考えると、青年の宇宙論といい、理論批判といい、映画がなにかを暗示してる 気がしました。まあ、当てずっぽうですが(笑) で、その次に聞こえてくるのが、ボクでも知っているラデッキー行進曲でした。今ではニューイヤー・コンサートとかの定番で、ヨハン・シュトラウスの華やかな名曲ですが、元を糺せば、曲名が将軍の名であることでわかりますが、オーストリア・ハンガリー帝国の軍隊音楽です。この映画では、この曲が、かなり執拗にスクリーンに鳴り響いた後に、暴動だったと思います。 で、見終えて、浮かんでくるのは青年が歩く姿、青年と老音楽家が連れ立って歩く姿、暴徒と化した群衆が一斉に歩く姿、群衆の乱暴狼藉が、何故か、病院のような施設を襲い、とどのつまり、暴徒が乱入していった部屋のバスタブに、呆然と、静止画像のように、立っている裸の老人の姿です。 いったい何が起こっているのかわからないのですが、街が騒然となる直前、響き渡ったラデッキー行進曲が耳から離れませんね。 最後のシーンでは、戦車によって鎮圧されたらしい街の病院の一室に入院しているらしい主人公の青年と見舞いに来たらしい音楽家が並んでベッドに座っているシーンに、曲名はわかりませんが、静かな演奏の、多分ピアノだったと思いますが、音楽が流れてきた哀しさ には、いわくいいがたいものがありましたね。 結局、またしても、わけがわかりませんでしたが、拍手!でした(笑)。まあ、それにしても、登場人物たちの、場面、場面での表情というか、存在感というのは、やはりすごいかったですね。納得!でした(笑) 帰り道、駅前の信号で、偶然、元町映画館で働いているお友達を見つけて声をかけました。「ずーっと歩いているシーンばっかりやった。」「何いってるんですか、タル・ベーラは、それが見たくて見に行くんでしょ。」「ナッ、ナルホド!」「ああ、それは、そうと、極北のナヌーク、水曜ラストです。サイレントですが、すごくいいですよ。是非!」「あっ、わかった、うん、行くつもりやねん。じゃあね。」監督 タル・ベーラ共同監督 フラニツキー・アーグネシュ原作 クラスナホルカイ・ラースロー脚本 タル・ベーラ クラスナホルカイ・ラースロー撮影 メドビジ・ガーボル編集 フラニツキー・アーグネシュ音楽 ビーグ・ミハーイキャストラルス・ルドルフペーター・フィッツハンナ・シグラデルジ・ヤーノシュ2000年・146分・ハンガリー・ドイツ・フランス合作原題「Werckmeister Harmonies」2024・03・04・no036・シネリーブル神戸no235 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.05
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乗代雄介「パパイヤ・ママイヤ」(小学館) 乗代雄介の作品にはまっています。図書館の棚から、適当に借りてきたこの作品は、昨夏だったか芥川賞を逃した「それは誠」(文藝春秋社)という、高校生の群像を描いた作品の一つ前の単行本で、かなり新しい作品です。 何に興味があってハマっているのかということですが、作家の「方法意識」ですね。どんな登場人物に、何を書かせようとしているのかな? というあたりですね。彼の小説は、全体としてはもちろん小説なのですが、手紙、日記、語り、記録、というふうに、ある特定の文体を採用することによって、「出来事の時間」と「書くという行為の時間」をずらすことによって生まれてくる、記述としては描かない「何か」 を狙っているんじゃあないか、で、その狙いは何だ、というふうな興味ですね。ボクが、ここで「何か」と考えているのは、所謂、「テーマ」とか「主題」とかと呼ばれているものとは少し違うものですね。 それがわかったらどうだというんだ!? と問い返されると困るのですが、まあ、そのあたりの作家の姿が見えてくると面白いんじゃないかという気分にすぎません(笑)。 で、「パパイヤ・ママイヤ」(小学館)ですね。ガール・ミーツ・ガール! 一読、こてこての青春小説です。すぐ読めます(笑)。で、 とりあえず、書き出しはこんな感じです。 これは、わたしたちの一夏の物語。 他の誰にも味わうことのできない、わたしたちの秘密。 もしもあなたが私の撮った写真を持っているなら話はちょっと変わってくるけど、そのほとんどんは世界に一枚しか存在しないものだし、そもそも、誰かさんを差しおいてあなたがそれを手に入れるなんて絶対にありえない。 わたしにしたって、この夏の写真のことは、もう言葉で説明するのがやっと。例えば、あの日あの時、わたしたちの物語の入口を写した一枚。 笹藪の間に空いた砂利道をふさぐように建っている灰色のフェンス。網目にはいくつかの案内板が備えつけてある。南京錠を付けた閂が通されているけれど、フェンスと藪の間には人が通れるぐらいの隙間があって、そばには「歩行者通路」と書かれた赤いコーンが置いてある。(P001) この文章の書き手である「わたし」はママイヤちゃんです。高校生くらいの女の子です。「わたしたち」といっていますが、もう一人がパパイヤちゃん。高校2年生の女の子です。「わたしたち」の二人は今日、初めて会います。 知り合った経緯とか、ママイヤ、パパイヤというネームの経緯は、そこら中にあるレヴューか、本があれば、このあと数ページも読めばわかりますから、まあ、お読みください(笑)。 で、この作品で乗代雄介が持ち出してきたのが「写真」です。ちょうど、この作品を読んでいた時に、ボクの知り合いの中学生、我が家の愉快な仲間のオチビさんの一人ですが、彼女がデジタルとかスマホとかではない、フィルム使用のポケットカメラで写真を撮りたいのだけれど、ジージは持っているかといってきたので、事情を聴くと「流行ってるねん!」 ということで、この小説の設定に納得したのですが、引用にあるとおり、写真の画像の描写が文章にしてあるところが、ひょっとして、作家のたくらみなのでは? というのがボクの興味です。 写真を撮っているママイヤちゃんと、それを、横とかで見ているパパイヤちゃんが、作中での写真の意味について、青春ドラマのハイティーンの少女らしい会話をします。「なんで好きなの、写真」「わたしだけが気付いているって思えるから」「何に?」「この世界の」言ってから「なんだろ」と考える。「その美しさに?」「えー」声はいつもにも増して長く伸びた。「いいじゃん」力なく笑って手すりに両肘をついて、顔を隠そうとしている自分に気付いた。「写真やるには弱すぎるよ、わたしは」そう言って遠くではなくすぐ下の海を見下ろす。「変わっちゃうのに耐えられないから」「でも写真って、撮る方が気付いてなくても写るじゃん。それならよくない?」私がそれについて答えられないでいるうちに、パパイヤは言った。青春という言葉が思い浮かんだけど、恐怖とも感動ともつかないざわめきが心いっぱいに広がって口が動かない。(P162) ここで、写真について語っているママイヤちゃんですが、主人公のキャラクターの描写が、作家の記述の狙いの第一番目にあることは、お読みになればすぐにわかるシーンですが、その後、撮るだけ撮って、今までは現像しなかった筈の写真を、夏の終わりのクライマックスのシーンでは、現像して二人で見ます。 で、二人が見る写真の描写だけ引用するとこんな感じです。 砂利道の脇に並んだ丈の高いヨシ。奥を見通せないほど密生しているが、何本か倒れて少しだけ明るく見える所に、斜めに倒れた自転車の後輪がかろうじて見える。原っぱの片隅にある小屋の中、寝そべって顔を出している白ヤギ。船だまりに係留されている沢山のボート。杭を挟んできれいに並んで、内側の白や淡い水色が明るく光を弾く。順行だから水は深い青、一面にさざなみが建っている。半分ほど車で埋まった大きな駐車場の奥にぽつんと建つ観覧車。フレームに透けている青空に、一つ一つ色分けされたゴンドラが虹のように円を描く。 これを読みながら、この小説が描いている二人の夏はかなり以前に終わっていて、書き手のわたしが、その時の写真を見ながら書いているらしい、その場面というか、記憶を反芻している雰囲気がただよっていて、すでに大人になった一人の女性が、ボクには浮かんでくるのですが、考えすぎでしょうか。 まあ、それが、作家が方法的に意図したことかどうか、ボクには定かではありませんが、面白いことは事実ですね。ひょっとしたらこの作品は、青春ど真ん中の少女の「この夏」の思い出ではなくて、アラフォーだか、アラフィフだか知りませんが、まあ、そういうお年の方を励ます「あの夏」のお話かもしれませんね。 久しぶりに、青春! いかがでしょうか(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.04
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ソ・ウニョン「同感 時が交差する初恋」シネリーブル神戸 ここの所ギャガのアカデミー賞シリーズにはまっていますが、今日は、ちょっと一息! という気分で韓国映画でした。予告編を見ていて、滝口悠生という作家の「水平線」(新潮社)という小説を思い出して気に掛かっていたので見ました。 「水平線」ではスマート・フォンに過去から電話がかかってくるという出来事を起点にして、戦前、硫黄島で生まれ、戦禍の中で命を落とした人や、戦中から戦後の故郷喪失の人生を生きた人の歴史を、電話を受けた現代の兄妹が、それぞれ、たどり直すという、まあ、ボクなりのまとめですが、作品で、かなり胸打たれた作品でした。その小説が、2023年に読んだ日本の小説ではベストだった印象で心に残っていたこともあって、この映画が予告していた「時間旅行」の設定に興味を惹かれたのでした。 見たのはソ・ウニョンという監督の「同感 時が交差する初恋」でした。心温まる、なかなか後味のいいラブストーリーでした(笑)。 韓国には2000年に製作された「リメンバー・ミー」という恋愛映画、ラブストーリーの金字塔があるそうですが、その映画のリメイク作品らしいですね。ボクは、もちろん、その映画は知りませんが、「その映画、きっと、ウケたやろうな!」 と思わせる「同感」の後味でした。 まあ、上のチラシに写っている主人公の男性キム・ヨン(ヨ・ジング)君の、甘いマスクというか、ノー天気なボンボン顔のイケメンというかに、まず、アゼン! でしたが、イヤ味がないのがいいんでしょうね。 キム・ヨン君とキム・ムニさんという二人の、同じ大学に通う男女の学生が、1990年代と2020年代の30年程のギャップを越えて、アマチュア無線の無線機で交信、タイムスリップするという設定でした。 それぞれの時代を生きる20代の若い人が、時間と男女という性別を越えてわたしもそう思う! と共感するというお話でしたが、それを見ながら、よかった! よかった! と老人は笑うのでした。拍手! 二人をつなぐ無線機が、実は同じ無線機だとわかるあたりから、オシマイはこうなんじゃないの(笑) と結末が浮かぶのですが、ほぼ、想像通りの結末 に喜ぶ老人というのはなんなんでしょうね(笑)。監督・脚本 ソ・ウニョンキャストヨ・ジング(キム・ヨン)チョ・イヒョン(ムニ)キム・ヘユン(ハンソル)ナ・イヌ(ヨンジ)ペ・イニョク(ウンソン)2022・114分・PG12・韓国原題「Ditto」2024・02・27・no030・シネリーブル神戸no232 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.03
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デイミアン・チャゼル「セッション」シネリーブル神戸 今日は2024年、2月24日の土曜日です。3連休の真中で、人が多そうなのですが、「ギャガ・アカデミー賞受賞作品特集上映」鑑賞週間ときめた週なので、ガンバリマス!(なんのこっちゃ!)「なあ、セッションって、見たことある?」「あるある、テレビでやってた。なんか、苦しいねん。」「なんや、苦しいって?」「そやから、見てて、もう、息つまるねんか。でも、最後はよかったと思うで、見といで、見といで。」 というわけで6本目はデイミアン・チャゼル監督の「セッション」でした。 ナルホド! 息がつまるというか、そこまでやるかというか、まあ、納得ですね。 ジャズ・ドラマーになりたい青年の、なんというか、まあ、典型的なビルドゥングス・ロマン、あしたのジョーならぬ、明日のアンドリュー! という感じでした。ジョーの才能を見つける丹下段平役が、フレッチャー先生ですが、これが鬼でした(笑)。 楽器がドラムなので、テンポのことを異様に厳しく指摘するのですが、悲しいかな、ボクにはスクリーンから鳴ってくるリズムの違いが全く分からないわけで、なんだかわからないまま「息がつまる」シーン の、これでもか!これでもか! の連続でした。「見てきたで。」「よかったやろ。」「うん、苦しい、息がつまるの意味、ようわかった(笑)。」「ヤロ!」「あんな、元の題のWhiplashって、ムチやん。才能のある若い子にはムチやねん(笑)。」「そうなん?そんなんいややわ。でも、タイガースの佐藤には要るな。」「うん、ほっとくとクーラーに行くらしいから。ほんで、帰って来ながら気がついたんやけど、この映画のデイミアン・チャゼルって「ラ・ラ・ランド」の人やんな。ウケ方知ってはるいう感じやな。ラストも、思わず拍手!やし」 というわけで、無事、独り立ちしたアンドリュー君とちゃんと怒ったニコルさんに拍手!でした。 若いっていいですね(笑)。監督・脚本 デイミアン・チャゼル撮影 シャロン・メール編集 トム・クロス音楽 ジャスティン・ハーウィッツマイルズ・テラー(アンドリュー・ニーマン)J・K・シモンズ(フレッチャー)メリッサ・ブノワ(ニコル)ポール・ライザー(ジム・ニーマン)オースティン・ストウェル(ライアン)ネイト・ラング(カール)2014年・107分・G・アメリカ原題「Whiplash」公開日 2015年4月17日2024・02・24・no028・シネリーブル神戸no231 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.02
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杉田協士「彼方のうた」元町映画館 2024年、3回目のSCC・シマクマシネマクラブです。見たのは杉田協士監督の「彼方のうた」でした。「春原さんのうた」作品の監督だったっと思いますが、見たような、見ていないような??? M氏の提案の中から、ボクが選んだのですが、なんというか、オッサン二人で見る映画ではなかったですね。 映画全体の印象では、なんとなく気がかりなところがいくつもあるのですが、「なんでそうしてる?それがどうした!」 というわけのわからなさというか、困惑というか、「こんな映画オッサン二人で見てどうすんねん!」 でした(笑)。 もちろん、感想戦も盛り上がりません。近所の喫茶店でお茶しながらM氏がこんなことを話し始めました。「アガサ・クリスティを読んだんですけどね。」 そういいながら取り出したのが「「私」をつくる 近代小説の試み」という 安藤宏という東大の先生の岩波新書でした。「である、とか、です、ますとか、断定の一人称ですけど、微妙に違いますよね。英語だとひととおりしかないんでしょうけど、推理小説とかの翻訳で~であるといういい方選ばれて、その結果、微妙に読者のこっちは、そこでをだまされるってことってありませんかね?」 目の前のM氏が、さっき見た映画にからんでおっしゃっているのか、最近お読みになったらしいクリスティに騙された遺恨(笑)でおっしゃっているのか、まあ、多分そっちだろうと思って「フムフム」 していましたが、お別れして歩きながら、さっき見た映画の「私」、まあ、小説でいえば語り手、映画なら監督ですが、が「である」で語っていたのか「ます、ました」で語っていたのか 気になり始めました。 で、この作品は、いわば通りすがりの第三者が見た光景の羅列として差し出されていて、「こういう光景を見ました。」 だったのですね。「ずっと、イヤホンをしていました。」「通りすがりの女性に道を尋ねました。」「男は泣き始めました。」「映画を見ているのを見ました。」「オムレツをつくるのを見ていました。」 シーンの主体は代わりますが描写の文体は「ます」でした。プロット、プロットでの原因と結果はともかくとして、ストーリ全体の「である」を支える因果関係ができるだけ抜け落ちる文体が故意に選ばれている印象だけが残っています。ストーリーをであるで捉えたがるオッサンは微妙に置き去りなんです。気がかりの理由は、多分そのあたりですね。 帰ってきて、チラシを読むと、「助けを必要としてしている見知らぬ人に手を差し伸べる」 とかなんとか主人公のキャラクター説明があって、チョット啞然としました。映っている人も映している人も、それぞれ、過剰な思い込みの人たちがいて、それをボーっと見ながら、理解できない自分に困惑する気分が、もう一度ワラワラと湧いてきて、腹立たしいような、情けないような「そういうことは画面で描くのが映画なんじゃないの?」 と呟くオッサンでした。ヤレヤレですね(笑)。監督・脚本 杉田協士撮影 飯岡幸子編集 大川景子音楽 スカンク/SKANKキャスト小川あん(春)中村優子(雪子)眞島秀和(剛)KayaKaya2023年・84分・G・日本2024・02・26・no029・元町映画館no225・SCCno18 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.01
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「庭さきは満開です(笑)。」 徘徊日記 2024年2月28日(水) ベランダあたり 今日は2月28日です。今年はうるう年らしいので、もう1日ありますが、2月ももう終わりです。で、ベランダの前の梅林は満開です。 いちばんお元気そうな1本です。何だかわらわらとしてよくわかりませんが、まあ、とにかく満開です(笑)。 で、梅林の手前にある遊び場の1本がこちらです。幹を見ると古木の印象ですが、そんなに古い梅の木ではありません。 シマクマ君としては、ベランダのすぐ裏のこの木を自慢したいのですが、チョット頼りないうえに、花数も少ないですね。 角度を変えると、こんな感じです。背景に見えるのがシマクマ君の住棟です。この木の向うに、もう1本、もっと若い木が植わっています。 見かけは、まだ、苗木のような風情ですが、花はたくさんつきました。近寄ってアップしてみますね。 写真を撮ってベランダにもどってくると、黄色い花がこっちを覗いていました。「ねぇー、この黄色い花なに?」「カタバミかなぁ、雑草よ。」 だそうです。 表の玄関先にはこんな花も咲いていました。 はい、これは知っています。水仙ですね。実は団地のあちらこちらに群棲していて、今が盛りなのですが、我が家の玄関先では一輪、イヤ、こういう場合は四輪?、だけです。 まあ、こういう風情です(笑)。後ろの南天は、まだ実をつけたことがないような気がします。玄関先なのですが、日が射さない北向きなので・・・・。 まあ、そうはいっても、春めいてきましたね。月を越えれば雪柳が咲きそうです。じゃあ、また3月に、ですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) ボタン押してね!
2024.02.29
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デビッド・O・ラッセル「世界にひとつのプレイブック」シネリーブル神戸 今週から、当分は「ギャガ・アカデミー賞受賞作品特集上映」鑑賞週間と腹をくくって通っています。金曜日の今日で5本目でした。今日から上映開始時刻が1時間ほど早くなっていて、チョット助かります(笑)。 見たのはデビッド・O・ラッセルという監督の「世界にひとつのプレイブック」でした。2013年のアカデミー賞に、あれこれノミネートされて、パット(ブラッドリー・クーパー)とティファニー(ジェニファー・ローレンス)という、まあ、ぶっ飛んだカップル! のティファニー役だったジェニファー・ローレンスさんが主演女優賞を獲得した作品だそうです。題名ですが、邦題はもちろんボクには意味不明ですが、原題の「Silver Linings Playbook」を直訳しても、「立派な脚本」とかなのかと、困惑するだけでしたが、要するに、ちょっと過激なラブコメ でした(笑)。ハイ、二人のお話は世界に一つだけ、まあ、そういうことのようです(笑)。 で、感想ですが、はい、面白かったですね。パットのおやじとおふくろさんを演じていたロバート・デ・ニーロとジャッキー・ウィーバーのカップルも、かなり、ぶっ飛んでいて、笑えました。 ただ、主人公のお二人が、原因はともかく、「ご病気」であるという設定で、新たな人間関係の受容によって、社会生活を回復していく過程を「笑い」で描こうとしているように見える所に、チョット、違和感を持ちましたね。 人間の相互理解がもたらす「解放」の「可能性」を描いているわけですから、文句をつける筋合いはないのかもしれませんが、ボクにはひっかかりましたね(笑)。 で、なかなかユニークな女性を演じていたジェニファー・ローレンスさんの女優賞には、もちろん、文句はありませんが、もう一人のユニークな人物、主役のパットをくりかえし眺めていて、えーっ??? でした。ブラッドリー・クーパーって、この人、昨年見た「マエストロ」(クリックしてみてね)のバーン・スタインやんけ!(笑) まあ、10年以上も前の作品ですから、ブラッドリー・クーパーさんも、当然、お若いのですが、映画って、化けるんですねえ。いや、ほんと、笑っちゃいましたね。 というわけで、まあ、それほどこだわることなく、楽しい後味で、拍手!でした。 さて、私設アカデミー賞週間、次は何を見るのでしょうね。楽しみですね(笑)。監督・脚本 デビッド・O・ラッセル原作 マシュー・クイック撮影 マサノブ・タカヤナギ編集 ジェイ・キャシディ クリスピン・ストラザーズ音楽 ダニー・エルフマンキャストブラッドリー・クーパー(パット)ジェニファー・ローレンス(ティファニー)ロバート・デ・ニーロ(パット・シニア 父)クリス・タッカー(ダニー 病院の友達)ジャッキー・ウィーバー(ドロレス 母)アヌパム・カー(ドクター・パテル)シェー・ウィガム(ジェイク)ジュリア・スタイルズ(ヴェロニカ)ジョン・オーティス(ロニー)ポール・ハーマン(ランディ)2012年・122分・G・アメリカ原題「Silver Linings Playbook」公開日 2013年2月22日 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.29
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「元町でアーモンドが咲き始めてますよ!(ホントは、アーモンドじゃなくてベニスモモ)」 徘徊日記 2024年2月26日(月) 北長狭あたり JRの東海道本線と元町の商店街の間にある、北長狭通、西向きの一方通行の道路の、一方通行だけれど、何故かある中央分離帯にアーモンドの木が並木で植わっています。 咲き始めていましたよ! 今日は2月の26日、逃げる2月もあと3日。あっ、今年ってうるう年なんですね。というわけで、今年の咲はじめのアーモンドをご覧ください。もうすぐ春なんですね(笑)。 元町映画館で映画を見て、お友達とご一緒だったので4丁目の喫茶店ベアでおしゃべりをして、「じゃあ、さよならね。」 と歩き出したあたりから、おや? とは思って歩いていたのですが、6丁目あたりで、漸く写真を撮ることを思いつきました。 背景は、6丁目あたりの歩道橋、東を向いて撮っています。ごらんになればおわかりだと思いますが、西日が射していて明るいような暗いような写り方ですね。 まだ、咲き始めたばかりですが、青空が背景になると美しいですね。背景は、シャッターばかりになったモトコーです。 ちなみに、今日、元町映画館で見たのはこれです。「彼方のうた」、いい題名なのですが、オッサン、二人で見る映画ではなかったようです(笑)。 感想のいいようがなくて困りました(笑)。追記2024・03・08 お詫びと訂正です。「アーモンドが咲き始めた。」と喜んでこのブログに書きましたが、あの通りの街路樹は「アーモンド」ではなくて「ベニスモモ」でした。 間違ったことをいって、申し訳ありませんでした。 ただ、まちがってブログに書いていることはそのままにしておきたいと思います。一応、自分に対する戒めですね。あしからず(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) ボタン押してね!
2024.02.28
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乗代雄介「最高の任務」(講談社・講談社文庫)(その1) ここのところ、乗代雄介という、1986年生まれらしいですから、37歳の寅年、我が家の愉快な仲間の3番目のカガククンと、たぶん同い年の作家に、ちょっとはまっています。 始まりは、2023年の、第169回芥川賞の候補になって落選したのですが、その後、織田作之助賞とかをとった「それは誠」(文藝春秋社)を読んだところからです。 で、すでに案内しましたが、2020年に芥川賞に落選しながら三島由紀夫賞、坪田譲治文学賞を連取した「旅する練習」(講談社文庫)を読んで、今回は「最高の任務」(講談社文庫)です。「最高の任務」(講談社文庫)には「生き方の問題」と「最高の任務」という二つの作品が入っているのですが、そのうちの「最高の任務」は2019年、乗代雄介が初めて芥川賞にノミネートされ、その後の芥川賞4連敗! の始まりの作品です(笑)。 落選し続けている作家の作品を、なぜ追いかけて読んでいるのか? まあ、そういうふうに尋ねられそうですが、面白いからですね。何が面白いのかというと、「作家の方法意識」です。あからさまなのですね(笑)。 たとえば、「旅する練習」では、姪と歩いた旅を作家である叔父が記録しているという設定でしたが、この作品集にある「生き方の問題」の書き出しはこうです。 歴史を遠ざけよ。同時性の状況に立つのだ。これが基準である。私が同時性を基準にして物事を裁くように、私もまた裁かれるのである。背後に流れる無駄話はすべて幻想だ。 キェルケゴール貴子様 これを読まなくちゃ ― 今まさに貴方が読み始めた、世にも珍しいエピグラフ付きの手紙を、そんなふうに認識したのはいつだった?今日か昨日かそれよりずっと前か。 かと言って、僕はその答えを知りたいわけじゃないし、そもそもこの手紙が貴方の家の郵便受けに届く日(二〇一八年七月七日)も知っている。なにしろ僕自身がそのように指定する張本人だし、今貴方がこうして読んでいるということは、僕が立派にやり遂げたってことに違いないんだから。(単行本P7) ご覧のように、この作品は「僕」が、父方のいとこの「貴子さん」にあてた手紙です。単行本で、ほぼ90ページ、全文、一通の手紙! です。ボクがあからさまな「方法意識」と呼んだのは、とりあえずそういう書きかたです。 わざわざキェルケゴールなんか持ち出しているのも、手紙の書き手である僕という登場人物と作家自身の、それぞれの意図が重ねられていて、読みながらのハテナ? の答も複数化するはずですね。 それが、どうしたといってしまえばそれまでですが、手紙の小説化、小説の手紙か、といえば、有名なのは、例えば高校のときにお読みになったことがある(だろう)、漱石の「こころ」ですが、教科書に掲載している部分というのは全編手紙ですね。 で、授業では「覚悟」とか「精進」とか、登場人物の、哲学的、宗教的、人間性を象徴するような「ことば」にこだわって「知ってるか? わかるか?」 と、いたいけな高校生を脅す方が多いのですが、そんなことより、死ぬ前になって「ある人間」が、なぜ手紙を書くのか、なぜ、その場面、あの場面を(いろいろありますが)思い出すのか、そしてそれを書かねば気がすまないのか、という、人間の記憶、あるいは、生きてきた時間に向き合っている態度に対する興味は、高校生にだって、案外、リアルで、そうなると、作家が、何故、登場人物にその場面を思い出させるのかという問いをも成立するわけで、教室も盛り上がって、なかなか面白かったのですが、この作品も、まあ、そういうことをあれこれ思わせて面白いというわけです(笑)。 この作品の手紙の場合は、どっちかというとラブレターのようなものですが、当の貴子さんに伝えたいのか、小説の読者に伝えたいのか、訊き質したいような内容もあって驚きます。まあ、それはそれで面白いのですが、なんというか、「旅する練習」もそうでしたが、オチをつけたいようなのですね。結果、わけのわからなさが解消してしまうというか、そのあたりが???でした。 でも、その結果、いいお話でした! という後味でしたがね(笑)。それでいいのかなと思わないでもないのですよね(笑)。で、次は表題作の「最高の任務」ですが、それはその2に続きます(笑)。また読んでね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.28
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ミシェル・アザナビシウス「アーティスト」シネリーブル神戸 「ギャガ・アカデミー賞受賞作品特集上映」の3本目はミシェル・アザナビシウス監督という知らない方の作品で「アーティスト」でした。2012年の受賞らしいですね。 素人目にはアメリカ映画史という感じの展開で、てっきりアメリカの若い監督だと思って見終えましたが、なんと、フランスの監督でした(笑)。 で、画面は白黒ですが、灰色感の強い色調で、音はBGMの音楽だけで、セリフはスーパー・インポーズです。要するにサイレント映画ですね。作品情報を全く知らないで見たシマクマ君は、いつになったらセリフの「声」が聞こえて、灰色のスクリーンに「色」がつくのか、そればかり気にして見ていましたが、最後の数分になって聞こえてきた「音」、セリフじゃなくて靴音でしたがね(笑)。その「音」には感心しました。さすがアカデミー賞と、まあ、その音を見せる段取りのセンス!には、思わず拍手!でしたが、「この5分のために、90分辛抱したんだなあ・・・」 と、サイレント映画なんて数本しか見たことのないシマクマ君程度の映画経験ではとても追いつくことができない作品でした。 要するに、サイレント仕立ての、実に才気に満ちた作品! だったことは認めます。で、この作品を面白がる人がいることも認めますが、イヤー、ネムイのなんのって! 完敗でした(笑)。 いや、ホント、いろいろありますねえ(笑)。監督・脚本 ミシェル・アザナビシウス撮影 ギョーム・シフマン美術 ローレンス・ベネット衣装 マーク・ブリッジス編集 アン=ソフィー・ビヨン ミシェル・アザナビシウス音楽 ルドビック・ブールスキャストジャン・デュジャルダン(ジョージ・バレンタイン)ジャン・デュジャルダンベレニス・ベジョペピー・ミラーベレニス・ベジョジョン・グッドマンアル・ジマージョン・グッドマンジェームズ・クロムウェルクリフトンジェームズ・クロムウェルペネロープ・アン・ミラーペネロープ・アン・ミラーマルコム・マクダウェルマルコム・マクダウェルミッシー・パイルミッシー・パイルベス・グラントベス・グラントエド・ローターエド・ロータージョエル・マーレイジョエル・マーレイケン・ダビティアンケン・ダビティアン2011年・101分・G・フランス原題「The Artist」2024・02・21・no025・シネリーブル神戸no228 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.27
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ダニー・ボイル「スラムドッグ$ミリオネア」シネリーブル神戸 今日は「ギャガ・アカデミー賞受賞作品特集上映」という企画の2本目、2009年ですから、一番古い作品、「スラムドッグ$ミリオネア」を見ました。インドの監督の映画だとばかり思って見終えましたが、ダニー・ボイルというイギリスの監督の作品だということを、最近、ちょっと親しくなってうれしい、シネリーブルの受付嬢に教えられ、二度びっくり! でした。 一度目は、もちろん、見終えて、なんというか、あまりのうまさ、面白さにびっくり! でした。アカデミー賞の監督賞、作品賞ほか、あれこれ取ったという作品だそうですが、さもありなん! の納得ですね。 映画製作の当時、だから、まあ、今となっては10年以上も昔のことなので、あやふやですが、そういえばクイズ・ミリオネアって、日本でもあったなあ、とか思いながら見始めました。インドのミリオネアで、お金の単位はルピーです。ちなみに、1ルピーは1円80銭くらいだそうです。だから、賞金の価値は二本より高いんでしょうね(笑)。 文字を読めるかどうかも怪しいスラムで育った少年がクイズに挑戦して、最後の1問に到達したところで、詐欺を疑われて警察の取り調べを受ける。そこから映画は始まっていて、最初からの1問ごとに、少年が、何故、答えを知っていたかがフラッシュバック・シーンのように描かれていくという段取りです。 昨日見た「イミテーションゲーム」で、同性愛の罪で捕まった天才数学者が、戦争中の体験を供述するという段取りと、ほぼ同じでした。昨日は天才数学者の悲劇でしたが、この映画はスラムで暮らす少年と少女の冒険活劇でした。 シャマールとサリームという主人公とその兄、恋人ラティカという3頭のスラムドッグが、ムンバイ、まあ、ボクたちの世代はボンベイという名で知っているインドの大都市のスラム、裏社会を舞台に生き延びていく様子を描いているのですが、その社会描写が凄まじい! ですね。シャマールという、多分、ハイティーンの孤児の少年が、今日まで生き延びることができたことがまず奇跡的だと驚かせながら、一か八かで答え続けながら、一問、一問、答える度に、出演者の失敗に期待しながらも、自らにはかなえられない一獲千金の夢に興奮しながら、、テレビにくぎ付けになる小市民たちに、最後には大逆転するという展開は、ものの見事に70歳の小市民もスクリーンにくぎ付けにしましたね。 これが、公開の頃のチラシのようです。敗北も納得です。上手いものです。拍手!やるなあ!インド映画って、こういう展開か!? とか何とか、びっくり半分、納得半分で出てきたロビーで最初に書いた二度目のびっくり体験でした。「これって、インドの監督なの?」「いえ、ダニー・ボイルはイギリスの監督です」「ええー?イエスタデイの人か。」 まあ、見たこともないのにいうのは変ですが、実にインド映画っぽいと思ったのですがちがうようですね。インド映画初体験はまたの機会ですね(笑)。監督 ダニー・ボイル原作 ビカス・スワラップ脚本 サイモン・ビューフォイ撮影 アンソニー・ドッド・マントル美術 マーク・ディグビー音楽 A・R・ラフマーン編集 クリス・ディケンズキャストデブ・パテル(ジャマール・マリク 弟)フリーダ・ピント(ラティカ 恋人)マドゥル・ミッタル(サリーム・マリク 兄)アニル・カプール(プレーム・クマール 司会者)イルファン・カーン(警部)2008年・120分・イギリス原題「Slumdog Millionaire」公開日 2009年4月18日2024・02・20・no024・シネリーブル神戸no227 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.26
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永井荷風「濹東奇譚」(新潮文庫) 今日の「読書案内」は永井荷風「濹東奇譚」(新潮文庫)です。上の写真ですが、表紙が汚れていますね(笑)。昭和57年、1982年に48刷の新潮文庫です。タバコを平気で吸い続けている部屋の書棚に40年以上も立っていた文庫です。背表紙は、もっと悲惨です。永井荷風なんか、もう読まない! と思いこんでいたのですが、長年続けている本読み会の課題になって読み直しました。 永井荷風といえばですが、最近の大学の国文科(そんな学科名はもうないかも?)だか、日本文学科だかの学生さんで、永井荷風を、ながいにふうと読む方がいらっしゃるということで、ときどき行く古本屋のおやじさんが嘆いているのを耳にして笑ったことがありますが、さもありなんですね(笑)。 芥川龍之介とか夏目漱石の名前は高校の教科書あたりで、まだ目にするかもしれませんが、永井荷風なんて、間違っても高校生には読ませられないわけで、「図書館戦争」のシリーズとかが大好きだから「日本文学科」に、まあ、とりあえず進学した学生さんが、近代文学の教授が配るプリントに、読み仮名もつけずに内田百閒とか永井荷風の名前が並んでいても読める道理がありませんね(笑)。 ところで、みなさんは「百閒」とか「荷風」という雅号の由来はご存知でしょうかね(笑)。何だか、学校の先生ふうになってきましたが(笑)。 内田百閒の百閒は作家の故郷の川の名前らしいですね。で、荷風は、少し難しくて、素直な女子大生さんが「に」とよんだ「荷」という漢字ですが、荷風という雅号の場合には、漢和の辞書をお引きになると出てきますが、「蓮」の花のことらしいですね。蓮の花に吹き寄せる風 というようなニュアンスのようですね。で、まあ、「蓮」って? なのですね(笑)。彼が、この雅号を名乗ったのは学生時代のことのようですが、雅号の向うに人影があるようで、栴檀は双葉より芳し というわけのようですよ(笑)。 で、「濹東奇譚」(新潮文庫)です。荷風は1879年、明治12年の12月3日生まれで、この作品は1937年、昭和12年に朝日新聞に連載した作品ですね。 作中に、主人公がラジオの放送の音を嫌がる描写がありますが、盧溝橋事件の年、中日戦争だか日中戦争だか知りませんが、戦争の始まった年です。 永井荷風とは、何の関係もありませんが、相撲は双葉山で、野球は沢村、スタルヒン、なんと、だめトラ・タイガースが初めて優勝した年ですね(笑)。 覚えやすいでしょ(笑)。 まあ、そういう時代というか、社会に向けて 濹東と記せば、何となく高尚なニュアンスですが、要するに、東京は向島の私娼窟をふらつく老年にさしかかった小説家の徘徊日記(笑)とでも呼べそうな作品ですが、これがスゴイんですね。 何がどうすごいのかというようなことは、幾多の批評家の皆さんがすでにおっしゃっているわけで、その口マネをしても仕方がないので言いませんが、二度と手に取ることはないだろうと思っていたこの作品を、この度、読み直す機会があって、感心したのはこういう場面でした。「一体、どうしたの。顔を見れば別に何でもないんだけれど、来る人が来ないと、なんだか妙に淋しいものよ。」「でも雪ちゃんは相変わらずいそがしいんだろう。」「暑いうちは知れたものよ。いくらいそがしいたって。」「今年はいつまでも、ほんとに暑いな。」と云った時お雪は「鳥渡(ちょいと)しずかに。」と云いながらわたくしの額にとまった蚊を掌でおさえた。家の内の蚊は前より一層多くなったようで、人を刺す其針も鋭く太くなったらしい。お雪は懐紙でわたくしの額と自分の手についた血をふき、「こら。こんな。」と云って其紙を見せて円める。「この蚊がいなくなれば年の暮れだろう。」「そう。去年はお酉様の時分にはまだいたかも知れない。」「やっぱり反保か。」ときいたが、時代が違っている事にきがついて、「この辺でも吉原の裏へ行くのか。」「ええ。」と云いながらお雪はチリンチリンとなる鈴の音を聞きつけ、立って窓口へ出た。「兼ちゃん。ここだよ。何ボヤボヤしているのさ。氷白玉二つ・・・・・それから、ついでに蚊遣香を買って来ておくれ。いい児だ。」(P69) 主人公が、散歩と称して通っている、川向うの街、玉ノ井で暮らしている女性「お雪」との会話です。いかがでしょう、この場面!。 実は、この日をかぎりに訪ねることをやめた「お雪」という女性との回想シーンなのですが、なんというか、小津映画の会話シーンが浮かぶような・・・・。 お雪はあの土地の女に似合わしからぬ容色と才智とを持っていた。鶏群の一鶴であった。然し昔と今は時代がちがうから、病むとも死ぬような事はあるまい。義理にからまれて思わぬ人に一生を寄せることもあるまい…。 後日、お雪が病に倒れたらしいという噂を耳にした主人公はこんなふうに記し、残る蚊に額さされしわが血汐 という、一句で始まる詩のようなもので作品は締めくくられるのですが、ボクにとっての発見は、引用個所をはじめとした会話シーンの、しみじみとした見事さ! でした。 戦災で偏奇館と名付けられた住まいも、蔵書も喪い、この作品が最後の傑作と呼ばれる永井荷風なのですが、実は亡くなったのは 1959年、昭和34年で、80歳まで生きたのですね。 教科書には乗らない作品ですが、若い人がお読みになってどんなふうに感じられるのかちょっと興味がありますね。図書館戦争がお好きな方には、ここには引用していませんが、地の文が難しすぎるかもしれませんね(笑)。 余談ですが永井荷風を読みながら思い出したのが滝田ゆうという漫画家の「寺島町奇譚」(ちくま文庫)でした。東京あたりの方はともかく、われわれには玉ノ井とか言われてもまったくわかりません。で、そちらが故郷の滝田ゆうです。書名をクリックしていただければ、最近書いた「マンガ便」に行けると思います。じゃあ、よろしくね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.25
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ビクトル・エリセ「瞳をとじて」シネリーブル神戸今回の感想はビクトル・エリセの新作「瞳をとじて」です。神戸での初日は2024年、2月9日、金曜日でした。1月の半ばから「ミツバチのささやき」、「エル・スール」の2本を見て予習して、さあ、いよいよ! というか、待ちに待ったというか、まあ、そういう気分で駆け付けました。 見終えて、2週間以上たちました。いろいろなことが浮かんでは消え、消えては浮かびする、ふしぎな2週間でした。感想が形になりません。まあ、そうはいっても忘れてしまいそうなので、とりあえず書いておきたいことを書いておこうということです。書いておきたいことは二つです。 一つは、ちょうど50年前に作られた「ミツバチのささやき」で少女アナを演じていた、アナ・トレントという女優さんが、この映画では記憶を失ったフリオ・アレナスという男の娘アナとして出演していたのですが、彼女がその父親と再会し、顔を合わせたときに「私はアナよ」 という、ミツバチのささやきのあの一言を、50年を隔ててささやくのですが、その娘の眼差しに、困惑の表情を浮かべる老人に、じっと見入った後、まさに瞳をとじるシーンがあります。 で、そのシーンに見入りながら、ボクの中に浮かんできたのは、ボク自身が、自分では気づかないまま暮らしているに違いない、膨大な失われた記憶についての、なんともいえないカラッポな感慨でした。瞳をとじても、なんにも浮かんでこない「現在」 に座っている自分に対する、そこはかとない自覚といってもいいかもしれません。ボクは、なにをして、今日まで生きてきたんだろう? そんなふうにいってもいいかもしれない、自問のような感慨です。 映画を見ているボクに、スクリーンで瞳をとじたアナ・トレントの脳裏に浮かんでいるかもしれない、記憶を失っている父、5歳だったあの時の自分自身、そして55年の自らの人生、それぞれに対する記憶の重なり合った映像を空想させる、エリセの映画術に対する感嘆もさることながら、見ているこちら側の「記憶」の空虚に対して「あなたは何をして生きてきたのか?」 と、静かに問いかけてくる迫力に目を瞠りました。おそらく、長く映画が撮れなかったエリセ自身の中で、練りに練られてきたに違いないシーンなのだと思いましたが、さすが、ビクトル・エリセ! と思わざるを得ないシーンでした。 二つ目は、ラスト・シーンです。かつて、ともに映画を作った二人の老人が、あの時の映画のラストシーンを、目を瞠るとはこのことだた言わんばかりに見つめていました。 瞬きもせず、スクリーンを注視し続けるふたりの姿を見ながら、ボクの中に浮かんできたのは「生きるとは、こういうことだ!」 という、なんだかとてつもなく哀しい感慨でした。 このシーンの二人は「あの時に帰ることはできないだろう」 という、だからこそ、激しく胸をうち、忘れられないシーンになるに違いないという、なんだか、確信めいたこの思いは、20代、30代の頃のボクは持つことができなかったに違いないし、こうして、今、この作品に出逢えたよろこびも、この年齢になった今だからこそなのだという、うれしいような、悲しいような気持ちで映画を見終えたシーンでした。 傑作ですね。80歳をこえて、生涯3本目ですかね、こんな長編映画を撮ることを忘れなかったビクトル・エリセに拍手!拍手!です。 作品の始まりからラストまで、あれこれ、アイデアの宝庫 のような作品で、言ってみたいことは山のようにありますが、どうせ、半端にしか語れない聞いた風なことをいうのはやめます。どこかで映画の専門家たちが語ることでしょう。 みずから「瞳をとじて」みて、浮かんでくる思いと、世界の空虚に堪能しました(笑)。監督・原案・脚本 ビクトル・エリセ脚本 ビクトル・エリセ ミシェル・ガスタンビデ撮影 バレンティン・アルバレス美術 クルル・ガラバル衣装 ヘレナ・サンチス編集 アセン・マルチェナ音楽 フェデリコ・フシドキャストマノロ・ソロ(ミゲル・ガライ元映画監督)ホセ・コロナド(フリオ・アレナス/ガルデル失踪した俳優)アナ・トレント(アナ・アレナス アレナスの娘)ペトラ・マルティネス(シスター・コンスエロ)マリア・レオン(ベレン・グラナドス)マリオ・パルド(マックス・ロカ 映画編集者)エレナ・ミケル(マルタ・ソリアーノ)アントニオ・デチェント(ティコ・マジョラル)ホセ・マリア・ポウ(フェラン・ソレル ミスター・レヴィ)ソレダ・ビジャミル(ロラ・サン・ロマン)フアン・マルガージョ(ドクター・ベナビデス)ベネシア・フランスコ(チャオ・シュー)2023年・169分・G・スペイン原題「Cerrar los ojos」2024・02・09・no018・シネリーブル神戸no222 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.24
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トム・フーパー「英国王のスピーチ」シネリーブル神戸 あのー、ですね、イギリスの国王とかいうような人が、吃音で悩んでいたのが、治ったとかいうような話、フツー、知らんし! という話題だと思いませんか? 特に、ボクは、どこの国にかぎらず、皇族がどうとか、ああ、そうだ、先日バスに乗っていると、「もうすぐ、○○様のお誕生日でしょ。」 とかいう声が聞こえてきて、その会話をしているのが、なんというか、結構、お若い方だったりしたこともあって、「ええー、○○って、さま付けなわけ???」 という気分で、チョットのけぞりそうになるタイプなところもあって、なんでそういう、彼の国では、きっと、さま付けされているような人の悩みからの脱却とかをネタにした映画がアカデミー賞なわけ? と、素直(笑)に疑問を持ちながら、でも、まあ、「ギャガ・アカデミー賞受賞作品特集上映」の1本ということで見に行きました。 見たのはトム・フーパーという、イギリスの、案外、若い監督の「英国王のスピーチ」でした。参りました(笑) 脱帽です。うまいものですね。 最初から最後まで、ボクのような心の狭い人間でさえ、一度としてシラケさせない作品でした。 ついでにいうと、まあ、恥ずかしながらなのですが、苦しむジョージ6世を演じたコリン・ファースと、まあ、カウンセリングということなのでしょうね、彼の心を開かせたライオネル・ローグ役のジェフリー・ラッシュという二人の俳優の演技の応酬やりとりに、かなりドキドキしながら、とどのつまりには、王の演説がうまくいくことを祈ったりさせられてしまったり、ああ、この子がエリザベス女王になるんだ! と妙にしみじみ見ってしまったり、大きな筋立てとは直接関係ないようなものなのですが、ローグの、確か三人の息子たちと、ジョージ6世の二人の娘、もちろん、エリザベスととマーガレットという子供たちがとてもいいのですね。そのあたりも、いや、ホント、手抜かりありませんでした。拍手!ですね。 いやはや、この特集、これで「イミテーションゲーム」、『スラムドッグ・ミリオネア」、「アーティスト」と本作で4本目ですが、ここまで、ハズレなしです。見ていて「わけわからん!」 と悩まないで済むところが、アカデミー賞なのでしょうね(笑)。気楽でいいですね。 監督 トム・フーパー脚本 デビッド・サイドラー撮影 ダニー・コーエン美術 イブ・スチュワート衣装 ジェニー・ビーバン編集 タリク・アンウォー音楽 アレクサンドル・デスプラキャストコリン・ファース(ジョージ6世)ジェフリー・ラッシュ(ライオネル・ローグ)ヘレナ・ボナム・カーター(妃エリザベス)ガイ・ピアース(兄エドワード8世)デレク・ジャコビ(大司教コスモ・ラング)マイケル・ガンボン(父ジョージ5世)ティモシー・スポール(ウィンストン・チャーチル)ジェニファー・イーリー(ローグ夫人)2010年・118分・G・イギリス・オーストラリア合作原題「The King's Speech」公開日2011年2月26日 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.23
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モルテン・ティルドゥム「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」シネリーブル神戸 GAGA、ギャガと読むそうですが、所謂、その映画配給会社が「ギャガ・アカデミー賞受賞作品特集上映」という企画が2024年2月のなかばからシネリーブル神戸で始まっています。 これが、そのチラシですが、一番古い作品で、2009年の「スラムドッグ$ミリオネア」ですから、ここ15年間くらいのアカデミー賞というわけですが、映画館を徘徊し始めて、漸く5年という新参者には絶好の企画ですね。お値段も、老人1000円です。いいですね(笑)。 ただ、上映時間が午後6時過ぎからで、ほぼ、3週間の間に一日1本で17本すから、全部見るのはまあ無理なのですが、見たいけど見落とす可能性もあって、そこが大変です。まあ、なにはともあれ、2月19日の月曜日から通いはじめました。 1本目はモルテン・ティルドゥムという監督の「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」でした。2014年の作品で脚色賞だそうですが、大満足でした(笑)。 第二次世界大戦下から戦後数年のイギリスが舞台で、ナチスの暗号システム「エニグマ」の解読に成功したアラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)という科学者を主人公にした、いわば歴史、評伝映画で、そこがまずボクの好きなパターンだったわけですが、映画全体が、まあ、ただの印象ですが、俳優の演技が堅実で、画面が色合いも構図も落ち着いている、思うにイギリス的だったこともよかったですね。 おそらく、評判になった作品でしょうから筋をなぞることはしませんが、主人公のアラン・チューリングが世界で最初につくりあげたコンピューターに、少年時代の親友クリストファーの名前を付けて愛した いきさつの描きかたには胸をうたれました。 また、彼が協力者として選んだジョーン・クラーク(キーラ・ナイトレイ)という、これまた数学的天才の女性も素敵でした。 で、彼が「女性」であることの社会的桎梏から、一歩前に進むことを促し、励ました「誰も予想しなかった人物が誰も想像しなかった偉業を成し遂げる事だってある」 という、美しい言葉を、戦後、戦時下での業績全てを国家機密として抹殺され、同性愛者であること犯罪として追及され、絶望の淵に立たされたチューリングに対してジョーンが励ましとして語りかけたシーンでは、やっぱり涙がとまりませんでしたね(笑)。 ベネディクト・カンバーバッチ、キーラ・ナイトレイの二人の演技と、監督の構成力に拍手!でした。 これが特集のラインアップですが、やっぱり、頑張って見ないわけにいきませんね(笑)監督 モルテン・ティルドゥム原作 アンドリュー・ホッジス脚本 グレアム・ムーア撮影 オスカル・ファウラ編集 ウィリアム・ゴールデンバーグ音楽 アレクサンドル・デプラキャストベネディクト・カンバーバッチ(アラン・チューリング) キーラ・ナイトレイ(ジョーン・クラーク)マシュー・グード(ヒュー・アレグザンダー)マーク・ストロング(スチュアート・ミンギス)チャールズ・ダンス(デニストン中佐)アレン・リーチ(ジョン・ケアンクロス)マシュー・ビアード(ピーター・ヒルトン)ロリー・キニア(ロバート・ノック刑事)ジェームズ・ノースコートトム・グッドマン=ヒルスティーブン・ウォディントンアレックス・ロウザー(アラン・チューリング少年期)ジャック・バノン(クリストファー・モルコム)タペンス・ミドルトン(ヘレン)2014年・115分・G・イギリス・アメリカ合作原題「The Imitation Game」2024・02・19・no023・シネリーブル神戸no226 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.22
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滝田ゆう「寺島町奇譚(全)」(ちくま文庫) 最近、久しぶりに永井荷風の「濹東綺譚」(新潮文庫)を読みました。長年続けてきた本読みの会の課題だったのですが、読みながら思い出したのがこのマンガです。 滝田ゆう「寺島町奇譚(全)」(ちくま文庫)です。 手元にあるのは1988年の新刊ですが、まあ、35年も前の本ですから、ご覧のように、しっかり、薄汚れています。 ご存知の方は、すぐにお分かりになると思うのですが、永井荷風が作品の舞台にして濹東と呼んでいるのが、いったい、東京のどのあたりで、どんな町だったのか、たとえばボクのように関西からほとんど出たことのない人間には皆目見当がつきません。 隅田川の川向うといわれても、もちろんわからないわけです。あの小説の中には、あたかも極私的東京案内であるかのごとく、詳しい地名が書き連ねられているわけで、繰り返しますが、知っている人にはありありとしたリアリティ を作り出しているに違いないにしても、少なくともボクのような読み手には面倒くさい細部でしかないわけです。 で、思い出したのが瀧田ゆうです。1990年に、58歳の若さで世を去った人です。永井荷風が濹東と呼んだこの地域の戦前の町名が「寺島町」らしいのですが、そこが滝田ゆうの故郷、生まれは違うようですが、育った場所だそうです。 作品名が「寺島町奇譚」とあるように、永井荷風が「濹東綺譚」と名付けて描いた世界を明らかになぞりながら、そのあたりをうろついていた、ひょっとしたら荷風かもしれない中年男の後ろ姿を、家業のお手伝いで庭先を掃きながら見ていた小学生キヨシの目から描いたマンガです。キィよっ・・・・・・・・・?えらいな店のそうじかいまっしっかりべんきょうしてえらい人になるんだぞかわいいぼーやっ ドンの看板がありますが、キヨシくんの実家です。お父さんとお母さん、それからオバーっちゃんとお姉さん、ネコのタマと暮らしています。家業はごらんのとおりスタンドバーで、お姉さんは女給さん、お父さんは板前さんです。 住んでいる街はこんな感じです。荷風が通っていた、通称「玉ノ井」の街の風景です。二階が、女性たちの仕事場です。「ぬけられます」 この看板が、この街のキーワードのようです。関西のボクでもその名は知っている戦前の有名な私娼の街です。 ふたつの作品を読み比べてみると、滝田ゆうはこの町で少年時代を過ごした人で、その、いわば思い出の視点から描かれています。永井の作品は、有名な「断腸亭日乗」(岩波文庫)にも、その玉ノ井通いを描いていますが、ここに通ってきたよそ者の視点で書かれていますが、このマンガと小説との違いは、もう一つあって、時間です。荷風が描いているのは1930年代の終わり、昭和10年代の始めですが、滝田のマンガは1944年あたりから始まり、1945年、日付も明らかで3月10日の数日後までです。 これが、640ページの分厚いマンガの最後のページです。 1945年3月10日、この街でなにがあったのか。そうです、キヨシの住んでいた街がすべて燃えて消えてしまう事件、後に東京大空襲と呼ばれることになる大惨事があった日です。 永井の小説に描かれた大人の世界も、ここまで、キヨシが暮らしてきた世界も、ともにすべて焼尽して消えてしまう、このマンガの結末は、まさに「奇譚」と呼ぶべき作品だとボクは思います。 それは、まっとうな振りで暮らしている人たちが避けて通りそうな下町の私娼窟に、素朴で素直な人間や人情の美しさがあることを綺譚と呼んで書きしるした荷風にも、さすがに、想像できなかったに違いありません。一人一人の普通の人が、普通である証しのように、家族や、友達や、隣のおじさんや、猫や犬と一緒に生きていた街が、一晩で、街ごと消えてなくなってしまったんですよ。 これを奇譚! と呼ばずして、どう呼べばいいのでしょうね。滝田ゆうの記憶の中に、きっと、死ぬまで存在しつづけた「寺島町」が「奇譚」として、読者の中に残っていくことを、柄にもなく祈りますね。私たちには忘れてはいけないことがあるのではないでしょうか。 まあ、今では手に入れることが難しい作品かもしれませんが、いかがでしょうか。傑作ですよ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.21
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市川沙央「ハンチバック」(文藝春秋社) 今日の読書案内は、2023年の夏、ボクの見立てでは「文学」とは何か?! という、まあ、いわば基本的な「問い」を投げかけたことが理由なんだろうなということで話題になった芥川賞作品、市川沙央の「ハンチバック」(文藝春秋社)です。 単行本として出版されてすぐに読み終えたのですが、読書案内に感想を書くことをためらっていました。で、先日、三島有紀子という監督の「一月の声に歓びを刻め」という映画を見て、何となく得心がいって、書いてみようかなという気分で、こうして案内し始めています。 まずは、ちょっと、悪口を言うための揚げ足取りのような引用からです。 アメリカの大学ではADAに基づき、電子教科書が普及済みどころか、箱から出して視覚障害者がすぐ使える仕様の端末(リーダー)でなければ配布物として採用されない。日本では社会に障害者はいないことになっているのでそんなアグレッシブな配慮はない。本に苦しむせむし(ハンチバック)の怪物の姿など日本の健常者は想像もしたことがないだろう。こちらは紙の本を1冊読むたびに少しずつ背骨がつぶれていく気がするというのに、紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。EテレのバリバラだったかハートネットTVだったか、よく出演されていたE原さんは読書バリアーフリーを訴えてらしたけど、心臓を悪くして先日亡くなられてしまった。ヘルパーにページをめくってもらわないと読書できない紙の本の不便を彼女はせつせつと語っていた。紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残ページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい。出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ、と私はフォーラムに書き込んだ。(P34~35) こう書いているのは井沢釈華と名付けられている小説の語り手であり主人公です。引用個所は、せむし(ハンチバック)の怪物と自称するこの人物の心象の語りで構成されているこの作品の中で、この作品を読むであろう、いわゆる「健常」な読者が暮らしている「日本」という社会に対する、いわば「告発」が語られているわけですが、まだ冷静でわかりよい箇所です。 実は、老化の中で、身体的健常だけを頼りにして暮らしているボクのような人間には、作品のほぼ全体が、辟易するしかない、誇張した自己暴露か、露悪的な健常社会否定としか受け取れない、まあ、悪態! と呼ぶしかない叫びの連鎖でした。 で、作者市川沙央の履歴を見て考え込んでしまいました。市川沙央 いちかわさおう1979年生まれ。早稲田大学人間科学部eスクール人間環境科学科卒業。筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎症および人工呼吸器使用・電動車椅子当事者。 考え込んだ理由は、作品の冒頭から、読み手に向かって「悪態」を吐き続ける井沢釈華という語り手は、ほぼ、等身大の市川沙央として描かれていたことについてですね。この悪態のどこが「文学」なのだろう? という、まあ、いってしまえば、ストレートな疑問ですね。 問題は、作品そのものに対する作者の在りようを知ったときに浮かんでくる、作者と作品との関係というか、「書く」という行為の意味 ですね。 ボンヤリ考えているボクに見えてきたのは、一読したボクには文学的昇華とはとても読めないこの作品のテキストの向うに、作家が自らの苛酷な生を肯定するために、書くという行為に賭ける姿 が垣間見えるのではないか、それはひょっとしたら文学かもしれない!? のではないかという朧気ながらなのですが、作品肯定の道すじでした。 こういうふうに、頭からこだわりを抜けた原因は、最初に書いたように三島有紀子という監督の「一月の声に歓びを刻め」を見たことにありますね。三島が、その映画を撮った動機は、彼女自身の中にあった「性的暴力」の被害者としての「心の声」ですね。何というか、映画そのものは、もっと上手に伝えられないものなのだろうかと、スクリーンを前にしていら立つ作品だったのですが、映画が訴える監督自身が伝えたいことを考えながらこの小説のことを思い出したからです。 思うに、「露悪的」とも思える悪態の数々は、多分ですが、健常な読者からの、ありがちな、「同情」の拒否! なのでしょうね。語られている内容のどうしようもなさとは裏腹なのですが、その口調の中に、かすかに漂うユーモア の中にこそ、読者と共有できるかもしれない、作家自身の、がけっぷちの「生の肯定」の意思 があるのかもしれませんね。 意見を聞くことができた小説読みの友人は言っていました。「一度目はうんざりするんだけど、二度目に読むと印象が変わるよ。もう一度読んでご覧なさいよ(笑)。」 まあ、当分、読み返すことはないと思いますが、拍手することをためらいながらも、目が離せない作品の登場でした。
2024.02.20
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アン・テジン「梟 フクロウ」シネリーブル神戸 チラシの写真をじっと見ていて、ええー怖いんちゃうの?! と、ちょっとビビりながらやって来ました。韓国製エンターテインメントに対する期待もありました。見たのはアン・テジン監督の「梟 フクロウ」です。 こういうことをいうのはネタバレなのかもしれませんが想像していたほスリリングでもミステリアスでもなくて、中学生ぐらいなら、子供連れで見ても大丈夫な韓国製時代劇でした。 朝鮮半島では慶長・文禄の役という傍迷惑な侵略が16世紀にありますが、その時、朝鮮を助けた明が17世紀に滅んで、清になりますね、その王朝交代のときに、清に対する臣従を拒み続けながら、結局、敗れた仁祖(ユ・ヘジン)という王さんは長男の王子、昭顕世子を清に人質として取られます。で、数年後に帰国した、その世子の変死の記録が「仁祖実録」という書物に記されていて、韓国では、今でも、歴史ミステリーネタらしいのですが、その事件を映画化した作品でした。 ようやく帰国した世子の変死を王、仁祖(ユ・ヘジン)は嘆くのですが、実は、その死の現場を目撃した「盲目」の鍼医 がいて、それがこの作品の主人公、若き天才鍼医ギョンス(リュ・ジュンヨル)です。 盲目の人物が、なにゆえ、事件の真相を「見る」ことができたのか??? というわけです。 答えは「梟 フクロウ」とい題名に最初から明らかにされていて、画面を注意深く(まあ、それほど体操ではなくても)見ていると、映画が始まってすぐに「あれ?」 と気付かせてくれますね。で、そこからは「真実」の争奪戦で、まあ、どこの国にもあるんじゃないかと思いますが、「歴史ミステリー」として繰り返し映画や時代小説のネタになる宮廷陰謀ドラマの展開なわけです。 こう書いてくると、なんだかつまらない映画のようですが、見ていて飽きません。見終わって、そうか、そうか、拍手!でした(笑)。 ちょっとだけ、いらんことをいうと、ここ十年、ほとんど、見たこともないのにそういうのは、ちょっと失礼かもとか思うのですが、テレビ・ドラマみたいでしたね。作品全体の柄が、思ったほど大きくなかったというか、まあ、ボクにはですが、わかりやすいというか、そこが少し不満でしたね(笑) もっとも、贔屓のユ・ヘジンという俳優さんが、仁祖という王様を演じていたのですが、なんというか、百面相的熱演で満足したことが後味のよさになったと思いました(笑)。ユ・へジンさんに拍手ですね。まあ、出ている人で、その人しか知らないからでもありますからね、悪しからずですね。監督・脚本 アン・テジン撮影 キム・テギョン編集 キム・サンミン音楽 ファン・サンジュンキャストリュ・ジュンヨルユ・ヘジン2022年・118分・G・韓国原題「The Night Owl」2024・02・15・no021・シネリーブル神戸no224 ところで、ご覧いただいた皆様、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.19
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「団地の梅、あれから十日たちました!」 徘徊日記 2024年2月17日(土) 団地あたり オヤ、団地でも、そう気づいたのが2月6日でした。あれからもう10日たちました。空模様のすぐれない日が続いて、なんとなく億劫で、気にはなるのですが、前を通り過ぎて10日です。二月は逃げるやな。 って、子どものころ母親がいっていましたが、逃げていく二月を追いかけています。 裏庭の白梅です。まだ満開とはいえませんが、花が開き始めました。後ろに見える斜面にも梅の木が生えていて、ベランダから見ると「ふふふ」 です。 お天気もいいので、スリッパをつっかけて近寄ってみます。 松の緑を背景にして白い小さな花がぽつりぽつりです。「フフフ」 の中に、とりわけ「フフフ」 の枝があったりします。 芝生は茶色くて、梅の木は黒くて、白い花が、なんだか精いっぱい咲いている風情ですが、冬から春になろうとしているんですね(笑) オヤ、向こうの棟の前に紅梅です。 こちらは、少し日陰なのですがね。近づくと「ふふふ」 でした。 上にも一枚載せました。振り返って、最初の斜面の白梅を見ると、まあ、こんな感じへす。これはもう「( ̄∇ ̄;)ハッハッハッハ」 ですね。 ここはもう春ですね(笑)。 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!
2024.02.18
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バリー・アブリッチ「オスカー・ピーターソン」シネリーブル神戸 今日は金曜日、待っていた「オスカー・ピーターソン」の初日でした。「ドキュメンタリーらしいけど、オスカー・ピーターソン、多分、音楽がなつかしいて、ええと思うんやけど、行く?」「うん、行く、行く。」 というわけで、二つ返事で同伴鑑賞でした(笑)。バリー・アブリッチ監督の「オスカー・ピーターソン」、英語だと「Oscar Peterson Black + White」で、「Black + White」が、ピアノのことだというのはいうまでもないのですが、見終えてみると「黒人」と「白人」、アメリカ社会の人種差別をあらわしているということが、この映画の、とても大切なポイントだということを、静かに納得する作品でした。 2025年が70年代によく聴いていた、ジャズ・ピアニスト、オスカー・ピーターソンの生誕100年だそうで、映画は、そのお祝いのコンサートの始まりから終わりまでという構成だったと思いますが、何はともあれ、スクリーンに映し出される、黒鍵と白鍵の上をなぞるように動きながら、その手の動きが見えているからこそ、よけいに信じられない音の響きにおどろきながら、音楽に聞き惚れながら、二本の腕と「指」に見とれる! あっという間の80分でした。「すごかったな。」「うん、すごかったわ。自由への賛歌もすごくよかって、涙も出たけど、脳梗塞になってから、もう一回、弾けるようになったのがすごいよねえ。」「うん、ずっと、すごかった。お父さんそっくりで、デカい娘さんも、ケリーっていう奥さんもすごかったなあ。」 ホント、何もいうことはありません。拍手!でした。 二人で納得してシネリーブルのエスカレーターで1階に上がり、外にを出ると海の方から花火の音がして、暗くなった空に火輪が広がりました。「あっ!花火やん、行こ!行こ!」 あとを追いかけながらスマホ写真を撮りましたが、一枚もピントが合っていませんでした(笑)。まあ、とりあえず、1枚だけ貼っておきますね(笑)監督 バリー・アブリッチ撮影 ケン・ヌ編集 ニコラス・クレイマン音楽監修 マイケル・パールマッターキャストビリー・ジョエルジョン・バティステクインシー・ジョーンズラムゼイ・ルイスハービー・ハンコックブランフォード・マルサリスケリー・ピーターソンデイブ・ヤング2020年・81分・G・カナダ原題「Oscar Peterson Black + White」2024・02・16・no022・シネリーブル神戸no225
2024.02.18
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小澤征爾・大江健三郎「同じ年に生まれて」(中公文庫) 2024年の2月6日、音楽家の小澤征爾が亡くなったそうです。フェイスブックで知り合った方が、その記事をシェアなさっていたので知ったのですが、記事を読みながら涙があふれてきて、チョットうろたえました(笑)。 小澤征爾が指揮するコンサートに行ったこともなければ、LPやCDにしても、立派なステレオシステムで聴いたこともありません。ときどき、ユーチューブで聴くくらいなものです。 ただ、彼の、例えばチャイコフスキーの「弦楽のためのセレナーデ」とかを、パソコンをいじるときのBGMで聴いたりしていると、何故か、突如、涙が流れてきて困る、そういう、音楽家です。 で、思い出したのがこの本です。小澤征爾と大江健三郎の対談集です。 「同じ年に生まれて」(中公文庫) 2004年に出版された文庫本です。下の目次にありますが、2000年に行われた3回の対談をまとめた本です。 思い出した理由は、もちろん小澤征爾の訃報が2024年、2月6日の死を伝えたの見て、即座に大江健三郎が2023年の3月3日に亡くなったことを思い出したからです。「ああ、あの二人は同じ年に生まれて、同じ年に逝ってしまったんだ。」 ボンヤリそんなことを考えていて、この本です。表紙の写真は、2000年ですから、お二人が65歳のときの姿です。 内容は2000年の8月に、長野で二度、同年の12月に東京の成城で一度、計、三度の対談とこの時の「出会い」について、それぞれの気持を書いた二つのエッセイです。 小澤征爾は「語り合えてよかった」と題してこんなふうに振り返っていらっしゃいます。 思い起こせば今から四十年近く前。指揮者として着任したばかりの僕がNHK交響楽団にボイコットされた時、大江さんは武満さんと井上靖さん、三島由紀夫さん、黛敏郎さん、團伊玖磨さん、有坂愛彦さん、一柳慧さん、それから中島健三さん、山本健吉さん、浅利圭太さん、谷川俊太郎さん、石原慎太郎さんたちと一緒に、僕を励ますためのコンサートを急いで開いてくれたことがあった。あのコンサートのおかげで、僕にとって夢にも考えなかったほど大勢のさまざまな友人、先輩が一気に増えた。けれども僕はすっかり日本で仕事をするのをあきらめて、仕事のあてもないままアメリカに渡った。そんな、半人前にすらなっていなかった僕を、大江さんは知っている。僕たちは同じ時代を生きてきたんだと、しみじみ懐かしい。(P224) 後に「世界の小澤」と呼ばれるようになる、小澤征爾の始まりの思い出ですね。 ヨーロッパ帰り、カラヤン仕込みを鼻にかけたかもしれない26歳の青年指揮者をNHK交響楽団のメンバーが全員でボイコットしたという事件はかなり有名ですが、1961年のことですね。その時、一人で指揮台に立った青年を励ました人たちがいて、その人たちの名前を、65歳になった、あの時の青年が、一人一人、指折り数えている姿が思い浮かんでくるようで胸打たれました。 で、話し相手が大江健三郎ですね。 小澤さんと僕とは同じ年に生まれた。小澤さんは中国で、僕は四国の森の中で。戦後の社会の混乱と、それが再生する過程の気風をなした民主主義がなかったら、異分野で仕事を始めたばかりの青年であるふたりが会って話すことはなかっただろう。いま、初老となったふたりがあらためて長い時間をかけて話すこともなかったにちがいない。 まあ、こちらも「ノーベル文学賞作家」なわけで、どちらが主役というのは決めかねますが、彼は彼で、二人の活躍を総括する言葉として「民主主義」を出してくるというところがおもしろいですね。 彼が使う「民主主義」という言葉が、この対談以前はもちろんのこと、この出会いから、今日までの20年の間に、あくまでも、その言葉を使い続けた大江ともども、惨憺たる目にあっていることを思わないではいられない印象的な文章だと思いました。 くりかえしになりますが、同い年、1935年生まれで、敗戦の年に10歳です。その、お二人が、同じ一年の間に、ほぼ、90年の生涯をとじられたのを目の当たりにして、まあ、1980年ころから「戦後」の終わりは繰り返し言われてきたことではあるのですが、いよいよ「戦後民主主義」が終わった! まあ、そんなことを実感しました。 対談そのものは、具体的な引用はしませんが、今、お読みになれば、20年前の発言のぶつかり合いということはあるにしても、闊達だった小澤征爾、いつものようにくどい大江健三郎に出会える面白さがありますね。まあ、ある年代より上の方という条件はあるかもしれませんが、「自分たちが育った時代」が終わったことをお感じになるのではないでしょうか。 なんだか消極的理由ですが、お読みになってはいかがでしょう。 参考までに目次を貼っておきます。 目次僕らは同じ年に生まれた(大江健三郎)若い頃のこと、そして今、僕らが考えること芸術が人間を支える"新しい日本人"を育てるために語り合えてよかった(小沢征爾) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.17
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100days 100bookcovers Challenge備忘録 (51日目~60日目)no51(2020・11・18 T・S)山下洋輔「ドバラダ門」(新潮社)no52(2020・11・21 N・Y)樋口一葉『たけくらべ』川上未映子訳(「日本文学全集13」河出書房新社)no53(2020・11・28 K・S)鬼海弘雄『ぺるそな』(草思社)no54(2020・12・09 T・K)HARUTAKA NODERA(野寺治孝)『TOKYO BAY』発行トレヴィル・発売リブロポートno55(2020・12・18 E・D)写真・文 奈良原一高 文 塩野七生『ヴェネツィアの夜 奈良原一高写真集』岩波書店no56(2020・12・20 T・S)篠原勝之『骨風』文藝春秋社no57(2020・12・25 N・Y)辰巳芳子『あなたのために いのちを支えるスープ』(文化出版局)no58(2021・01・04 K・S)寺田寅彦『柿の種』岩波文庫no59(2021・01・15 T・K)村山斉『宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎』 幻冬舎新書no60(2021・01・23 E・D)アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』 福島正実訳 ハヤカワ文庫 今回は50日目から61日目の備忘録です。書名か本の写真をクリックしていただければ、掲載記事に行くと思います。 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (61日目~70日目)というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.16
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「おや、おや、咲いているじゃあありませんか!」 徘徊日記 2024年2月6日(月)団地あたり その2 天気もいいので、その1に引き続いてうろうろしています。 ほらほら、咲き始めていますよ。 まあ、まだ蕾がちなのですが、団地にも、そろそろ春がやってきそうですね。 ココなんか、いいカンジじゃないですか。 来週が楽しみですね(笑)。 ボタン押してね!
2024.02.15
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倉多江美「続お父さんは急がない」(小学館) さて、「続 お父さんは急がない」(小学館)です。「正」・「続」2巻で完結した作品のようですね。「正」編が2000年の5月の新刊、こちらの「続」編は2003年の1月の新刊です。20年前のことで、マンガのあった書棚の主のピーチ姫は小学校の高学年だったはずですが、彼女が読んだのですかね? まあ、チッチキ夫人のお読みなったマンガも一緒に入っているようですからね、チョット、小学生が喜ぶには大人のマンガな気がしますね。 表紙カバーの折り返しにこんなコメントがあります。「やっと『お父さんは・・・』の2冊目ができました。別にのんびりした性格ではないので、単なる怠け者かも。わたしってまだ漫画家なのかな、と思ってしまうこのごろ。ま~、それもまたよし。なんとか続編としてまとめてくださったことに感謝!倉多江美」 当時、倉多江美さんは50代だったと思いますが、この作品で、本当にお描きにならなくなったのかなと思うと、なんだかしみじみしてしまいますね。 あたり前ですが、続編も娘の佐江子さん、息子の卓くん、お父さんとお母さんの四人家族のお話です。 第1章は「思索する人」でした。 これが、その章の始まりのページです。 思索する人の幸せは極めうるものを極め 極め得ないものを静かに尊敬する… こたつで寝ているのがお父さん、勉強もしないで「名言集」か何か読んでいるのが、受験生の佐江子さんです。 で、次のページでも佐江子さんの「思索」は続きます。棋士の記憶力はすごいものがあるという何年も前に打った碁をいつでもすらすら並べられるこれは棋士にとって常識のうち対局したものはすべて頭の中にインプットできるなんて受験生にとって無限のキャパシティはうらやましい限りだがうちの父さんの棋士だからやっぱりそうなんだろうか・・・でもちょっとちがう気がするふあああああああぁよいしょカシャタバコを吸うときは裏のドアを開ける・・・これは母のスリコミ まあ、こういう日常です。そうそう、続編で、ようやくわかりました。お母さんのお名前は、結局、わかりませんでしたが、お父さんは相羽けん吉四段です。テレビの解説で紹介されていました。いいお年ですが、万年四段だそうです。ああ、これはお母さんが愚痴っていた言葉です。 それから、最終章の「あれから」は、数年後の後日談です。佐江子さんは無事志望の大学を出て、卓君は院生から、ホンモノのプロ棋士になって、若手のホープです。新しい登場人物が二人いて、新聞記者の稲葉さんとさおりちゃんという2歳くらいのオチビさんです。まあ、おわかりだと思いますが稲葉さんは佐江子さんの配偶者、さおりちゃんはお二人のお嬢さんです。もちろん、お父さんとお母さんは、おじいちゃんとおばあちゃんにはなりましたが、相変わらずですよ。 いやはや、本当にのんびり読めて、何にも起こらないいいマンガ! 無事、完結しました。「お父さんは急がない」の感想はこちらからどうぞ。題名をクリックしてみてくださいね(笑)。
2024.02.15
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三島有紀子「一月の声に歓びを刻め」シネリーブル神戸 久しぶりの日本映画です。まったくの偶然ですが、自宅にいた午前中、「安克昌の臨床作法」という雑誌、「心の傷をいやすということ」という映画で評判(?)になった、今は亡き、あの、安克昌を追悼した雑誌ですが、その中にある、彼とか、彼の友人の医療関係者のPTSD=心的外傷に取り組む話を読んでいて、医者というか治療者という人たちの、患者に対する立ち方に目を瞠るような気分を引きずるようにやってきて、見たのがこの映画でした。 三島有希子監督の「一月の声に歓びを刻め」です。別に狙ってきたわけではありませんが、見終えて、あまりのことに絶句! でした。 映画は暗い雪の道をカンテラをぶら下げて、なんとかかんとか歩いていく老人の姿で始まり、寒々とした湖畔で胴間声を張り上げる老人の姿で終わりますが、実は三つのストーリーから構成されているオムニバス形式でした。一つ目は性的暴力の被害者であった娘れいこの死の責任を引きずる老父マキ、二つ目は母の事故死の現場を恐れる娘、海、、そして、三つ目は自らの性的な暴力の被害体験に苦しむれいこ、それぞれ、いってしまえばPTSDを抱える登場人物たちの、いわば「生きることの苦しみ」を真摯に描いた作品でした。一つ目と三つ目に同じれいこという名前が登場しますが、直接の関係はありません。ただ、「苦しみ」の共鳴、心の声のつながりを意図、あるいは希求してのことかなというおもんばかりは成り立ちます。映し出される風景は、それぞれ美しく、登場するのは哀しい人たちです。それぞれのエピソードも悪くありません。にもかかわらず、見終えた感想はなんだかなあ・・・ でした。 80歳をこえているはずのカルーセル麻紀さんが、なんだか可哀そうでしたね。彼が雪道をよろめきながら歩き、湖畔で転げまわるようにして、濁声で叫ぶという熱演だったのですが、その声が映画に響いてこないんですよね。 帰ってきて、映画が監督自身の体験に根差して作られているらしいことを知って驚きました。昨秋の芥川賞でも、作家自身の苛酷な体験に根差した作品が評価されていましたが、その作品も、ボクには登場人物が可哀そうなだけで、小説としてはなんだかなあ・・・ だったわけで、なんだかよくわかりませんね。 なにはともあれ、この映画、ボクにはハズレでしたが、世評がどうなるのか、チョット興味がないわけではありませんね(笑)。監督・脚本 三島有紀子撮影 山村卓也 米倉伸編集 加藤ひとみ音楽 田中拓人キャストカルーセル麻紀(マキ)松本妃代(海)哀川翔(誠 海の父)前田敦子(れいこ)坂東龍汰(トト・モレッティ)片岡礼子(美砂子)宇野祥平(正夫)原田龍二(龍)長田詩音(さら)とよた真帆(真歩)2024年・118分・G・日本2024・02・13・no020・シネリーブル神戸no223
2024.02.14
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ブリッツ・バザウーレ「カラー・パープル」109ハット なんというか、何はともあれ、機嫌のいい映画が見たいと思って、三連休の最後の日に109ハットにやって来ました。 見たのはブリッツ・バザウーレという監督のミュージカル「カラーパープル」です。 スピルバーグが1985年に公開して、原作ともども話題になった「カラーパープル」のリメイクだそうです。まあ、その、元ネタ映画を見たことがあるから、今回の鑑賞になったのですが、何にも覚えていないことが幸いして、なかなか楽しい2時間でした。 もともとがアリス・ウォーカーの、当時、ピューリッツァー賞をとったノンフィクション小説が原作で、今回も同じですから、話の筋は変わりません。ボクぐらいのお年の方には、原作をお読みになった方も多いのではないでしょうか。読みでのあるいい作品だった記憶だけありますが、要するに、物語の展開を歌とダンスでやるということで、まあ、歌もダンスもわからない老人ですが、飽きずに最後まで見終えました。 こういう、趣向を変えたリメイクというのは、演劇なんかでやられることも多いようで、この作品もブロードウェイでの当たり狂言の映画化のようで、まあ、だから、ダブル・リメイク(笑)というわけのようですね。 元の映画にあった、歴史的な分厚さは感じませんでしたが、これはこれで、見てよかったですね。 主人公のセリー(ファンテイジア・バリーノ)とか、友達の歌手シュグ・エイブリー(タラジ・P・ヘンソン)とか、歌を歌ったり、踊ったりの出演者の方たちは、たぶん、かなりな実力でしょうね。拍手!でした。 監督 ブリッツ・バザウーレ原作 アリス・ウォーカー原作ミュージカル マーシャ・ノーマン脚本 マーカス・ガードリー撮影 ダン・ローストセン編集 ジョン・ポール音楽 クリス・バワーズ音楽監修 ジョーダン・キャロル モーガン・ローズ楽曲 ブレンダ・ラッセル アリー・ウィルス スティーブン・ブレイ振付 ファティマ・ロビンソンキャストファンテイジア・バリーノ(セリー)フィリシア・パール・エムパーシ(若き日のセリー)シアラ(妹ネティ)ハリー・ベイリー(若き日のネティ)タラジ・P・ヘンソン(シュグ・エイブリー)ダニエル・ブルックス(ソフィア)コールマン・ドミンゴ(ミスター夫)ハリー・ホーキンス(ハーポ義理の息子)H.E.R.(スクイーク)アーンジャニュー・エリス(セリーとネティの母親)デビッド・アラン・グリア(エイブリー牧師・シュグの父)デオン・コール(アルフォンソ)ジョン・バティステ(グレイディ)ルイス・ゴセット・Jr.(ミスターの父親)タメラ・マン(ファーストレディ)エリザベス・マーベル(ミス・ミリー)2023年・141分・G・アメリカ原題「The Color Purple」配給 ワーナー・ブラザース2024・02・12・no019・109ハットno39
2024.02.13
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ビクトル・エリセ「エル・スール」シネリーブル神戸 ビクトル・エリセ特別上映会の2本目は「エル・スール」、「南へ」でした。数年前に元町映画館がやってくれた時に見損なっていたこともあって、どうしても見たい作品になっていました。 入場に際して配られた絵葉書でじっとこちらを見つめているのが主人公の少女エストレーリャです。彼女の「南へ」の旅立ちのシーンの、期待に満ちた美しい表情に見とれていると映画は終わりました。納得ですね(笑)。なにもいうことことはありません(笑)、そんな感じでした。 帰ってきて、スペインの地図を見ました。「カモメの家」と、物語の舞台にその名を冠したカモメの風向計が、どんなに風が吹いても「南」をさし続けている。 という、謎というか、暗示的なラストシーンのナレーションが耳から離れないのですね。ところが、イベリア半島の「北」と「南」というイメージがボクのような極東の島国の人間には全く浮かばないのです。 地図の地名を確かめながら、思い浮かぶのはドン・キホーテとか、スペイン市民戦争、ピカソのゲルニカ、・・・でも、まあ、この方向でこの映画の背景にあるものを考えるには、今のところ勉強が足りませんね。 なにはともあれ、苦悩する父と娘のお話として見ていて、充分、納得しました。 秘密に閉ざされた父が、不思議な霊感をもたらすペンダントのような振り子を15歳の少女エストレーリャの枕許に残して、カモメの家から出て行ってしまった朝から映画は始まりました。 アグスティーン! 父を探す母の声を階下に聞きながら、暗い部屋で目覚めた娘は、枕許の振り子を見つめ、父が、もう帰ってこないことを確信したようです。 で、娘の脳裏に浮かぶ美しい思い出がスクリーンに広がります。とりわけ印象深いシーンは、「振り子」の霊感の思い出でした。海に面した、荒涼とした丘の上に水脈を見つけ出す父と娘の儀式のシーンを見ながら、この作品を見るのが初めてではないことに気付きましたが、それが、いつ、どんなふうにしてだったのか、ひょっとしたら予告編か何かで見たシーンがかぶっているのか、わからないままスクリーンに見とれていました。 エストレーリャが、まだ小学生だったころです。自分の部屋のベッドに寝ていると、いつも、天井から足音が聞こえてくる屋根裏部屋に忍び込んで、大好きな父に秘密があることに気付きます。「お父さんには、何か秘密がある。」 子どもから大人になる儀式を終える年ごろになったエストレーリャの眼差しに、父の秘密、父と母との秘密、父ともう一人の女性との秘密、父とおじいちゃんとの秘密、秘密の山は少しづつ姿、形、その輪郭をあらわし始めめるのですが、そんな、ある朝、秘密を残したまま、父は消えてしまいます。残されたのは自らを撃ち抜いた遺体とあの振り子だけです。 ひとりの人間と世界の、夫と妻の、そして父と娘の、なんとも、かなしい別れですが、娘はもちろんのこと、ひょっとすると妻も予感していたのではないかと感じさせる何かが、それが何であるかということはわかりませんが、この映画の奥にはあるようです。見ているボクには、それが、あの振り子の秘密とかかわるのではないかという予感だけです。 謎だけ残して映画は終わります。なんともいえない、哀しい作品なのですが、ひょっとしたら「希望」に通じるかもしれないという、ほとんど根拠のない後味に、思わず、拍手!でした。 南へ旅立つ娘を、あの魔法の振り子はどんな水脈に連れてゆくのでしょうね。あの時の父の言葉に従って、呼吸を整て、瞳をとじれば、そこに秘密の水脈が・・・。 余談ですが、映画としては最後まで作り切れなかった原作の中でエストレーリャは弟と会うのだそうです。それでどうなるのかまで知りませんが、この作品では一度も描かれなかった「南」の風景は見てみたかった気がしますね(笑)。 監督・脚本 ビクトル・エリセ原作 アデライダ・ガルシア・モラレス撮影 ホセ・ルイス・アルカイネ美術 アントニオ・ベリソン音楽 グラナドス モーリス・ラベル シューベルトキャストオメロ・アントヌッティ(アグスティン・アレーナス 父)ソンソレス・アラングーレン(8歳のエストレーリャ)イシアル・ボジャイン(15歳のエストレーリャ)ローラ・カルドナ(フリア 母)ラファエラ・アパリシオ(ミラグロス 父の乳母)ヘルマイネ・モンテーロ(ロサリオ夫人 祖母)オーロール・クレマン(イレーネ・リオス/ラウラ 女優)マリア・カーロ(カシルダ家政婦)フランシスコ・メリーノ(イレーネ・リオスの共演者)ホセ・ビボ(グランドホテルのバーテンダー)1983年・95分・G・スペイン・フランス合作原題「El Sur」1985年10月12日(日本初公開)2024・02・02・no015 ・シネリーブル神戸no219
2024.02.12
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ビクトル・エリセ「ミツバチのささやき」シネリーブル神戸 ビクトル・エリセ、1940年生まれのスペインの監督です。84歳ですね。1973年に「ミツバチのささやき」で登場した方ですが、その彼が31年ぶりに新作映画を撮ったということが評判になっています。新作の題名は「瞳をとじて」だそうですが、その公開を記念してビクトルエリセ特別上映と題して「ミツバチのささやき」が上映されていて、続けて1983年の「エル・スール」も上映されるようです。これがそのチラシです。上の写真は、入場の際に頂いた絵葉書です。 以前も書きましたが、同じ映画をくりかえし見るという性分ではありません。しかし、この監督は違いますね。実は5年ほど前に元町映画館で見ました。70年代の半ば、まだ20代だったころ見たという記憶だけはあったのですが、まあ、あてにはなりません。それが二度目か、ひょっとしたら三度目の鑑賞でした。 で、63歳を過ぎるころから映画館をウロウロし始めて7年ほどたちますが、その間に見た500本ほどの作品の中で、ボクとしては珍しいことですがもう一度見たい映画!記憶に残る1本! の地位を獲得しているのが、この「ミツバチのささやき」です。 で、特別上映会の初日に駆け付けました。以前見たときに、ボクの意識の中にあったのは「スペイン内戦とビクトル・エリセ」 という構図でした。この映画が撮られた1973年というのは独裁者フランコがまだ存命のころです。だから、まあ、そんなに追いかけて読んだわけではありませんが、この映画に対する批評をなぞりながら見た気がします。 で、今回は、とにかくボンヤリ見よう・・・ と思ってやって来ました。 始まりました。村にやって来た映画を見る子供たちの中に、あのアナちゃんがいます。スクリーンにあらわれる怪物、丘の上から眺める草原の向うにある小屋、ズット向こうまで続いている線路、レールの響き、遠くに見えたと思ったら、あっという間に近づいてくる機関車、小学校の教室、床に倒れているいるおねーちゃんのイサベル。「そうだ、あっこに一人で行ってみよう!」 お腹を空かせて隠れているおじさん、おじさんの手の中に消えた懐中時計から聞こえてくるオルゴールの音色。「そのオルゴール、どうしてお父さんが持っているの????」「あの、おじさんのところに行ってみなっくちゃ。」 アナちゃんの瞳の奥に広がっていく「おどろき」や「ふあん」や「よろこび」の中に、69歳という年齢を忘れて入っておいでと映画は語っていました。ドキドキしました。「これは、すごいで、見といたほうがええ思うで。」「あの子供たちのおる大きな家と大人たちって、ホラー映画みたいやったわ。おねーちゃん、ホントに死んだんや思ってドキドキしたわ。そんなことが起こりそうな雰囲気やんか。」「えっ?」「だから、子ども相手してるのに上からというか、誰もしゃがまへんやん。毒キノコやいうて踏みつぶすし。」 あとから見に行ったチッチキ夫人の感想でした。ナルホド! ですね。あの子どもたちは二人ボッチなんですね。 あの日、スクリーンに何度も映し出される、あの、美しくも、広い広い世界で一人ぼっちになったアナちゃんは、あの小屋で不思議なおじさんと会ったんですね。 本当は生きていたおねーちゃんとは違って、血の塊だけ残していなくなった、あの、おじさん・・・。生まれて初めて、いなくなってしまうこと、よくわからなかった死んでしまうことの不安のなかをさまよっているアナちゃんを、あの、映画に出ていた怪物が救ってくれるんですね。 ずっと見開いていた瞳をようやく閉じて深い眠りつくアナちゃんに、老人は、やはり、ほっと胸をなでおろして映画は終わりました。拍手! 文句なしの傑作でした。どこかで上映してくれることがあれば、もう一度見たい作品です(笑)。 監督・原案 ビクトル・エリセ脚本 アンヘル・フェルナンデス=サントス ビクトル・エリセ撮影 ルイス・クアドラド美術 アドルフォ・コフィーニョ編集 パブロ・G・デル・アモ音楽 ルイス・デ・パブロキャストアナ・トレント(アナ)イサベル・テリェリア(イサベル)フェルナンド・フェルナン・ゴメス(父)テレサ・ギンペラ(母テレサ)ケティ・デ・ラ・カマラ(ミラグロス女中)ラリ・ソルデビリャ(教員)ミゲル・ピカソ(医者)ジュアン・マルガロ(逃亡者)エスタニス・ゴンザレス(警官)ホセ・ビリャサンテ(フランケンシュタイン)1973年・99分・G・スペイン原題「El espiritu de la colmena」2024・01・26・no012・シネリーブル神戸no218
2024.02.11
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大江健三郎「読む行為」(大江健三郎同時代論集5・岩波書店) 市民図書館の新入荷の棚に並んでいたので、思わず借りてきた本です。今更、大江健三郎の評論集などを読む気力はほとんどないといっていいのですが、新しい本として並んでいるのを見ると借りてしまうという所に、自分の年齢を感じてしまいましたね(笑)。 1980年代に、一度、「同時代論集」と銘打って出されていたシリーズの新装版のようです。全部で10巻あるようですが、この第5巻は、多分、1970年ころに「壊れものとしての人間」(講談社)として出版され、その後、講談社文庫、講談社文芸文庫に収められていた長編評論と、単行本としての記憶がないまま、以前の同時代論集にはいていた「アメリカ旅行者の夢--地獄にゆくハックルベリイ・フィン」と、同じく「渡辺一夫架空聴講記」の三つの評論が収められていますが、いずれも1969年ごろ「群像」とか、岩波の「世界」とかに連載されていた文章です。 「壊れものとしての人間」は講談社の単行本で、「地獄に行くハックルベリイ・フィン」は図書館のバックナンバーで読んだ記憶がありますが、まあ、40年以上も昔の話ということもあるのでしょう、内容は何も覚えていませんでした(笑)。 図書館で、作品掲載雑誌のバックナンバーまで探すとかいうと、かなり入れ込んだファンのように思われるかもしれませんが、大学に入ったばかりのころのことで、すでに新潮文庫で出ていた「セヴンティーン」(新潮文庫)の続編で、「文学界」という文芸雑誌には発表したけれど、本としては出されなかった「政治少年死す」という作品が、「文学界」のバックナンバーなら読めるとかいうことが、数少ない「話が合う」友だちとの間で話題になって、二人で図書館をウロウロしたことも、ボンヤリ覚えています。まあ、50年前、そういう年頃で、そういう時代でしたね(笑)。「大江の評論はダルイよな!」 それが、その友達との合言葉でしたが、小説だって、当時、出版されたばかりで、「スゴイ!スゴイ!」 と騒いでいたことだけは覚えている「万延元年のフットボール」(講談社文芸文庫)とかを、最近、読み直して驚きましたが、何を喜んで読んでいたのか、今となっては見当がつかないわけですから、クドクドと、やたら一文が長い評論なんて、自動的に字面を追っていただけで、今となっては、何にも残っていませんね。 で、今回、まあ、ヒマに任せて読み直していて、こんなところにハッとしてしまいました。 ぼくがしばしばくりかえしてきた愚かしい泥酔さえも、時にはそうした指向にみちびかれていたことがあった。誰もいない書斎で、あるいは旅さきのホテルで、ぼくはおよそ嫌悪感とともにしか、その味を認識しえない強い酒によってひとり猛然と酔いはじめる。その酔いの上昇のさなかに、ぼくは頭のなかの火のかたまりに熱せられてしだいに赤く浮かびあがってくるタングステン・コイルで示されるような、はっきりした分岐点の存在を見出す。それはAの道を選択するならば、この暴力的な自己破壊じみた乱酔をなおも加速して、それがついににせの情熱すぎないにしても、ともかくその昂揚のうちに死ぬ、あるいは意識が存在しなくなるのであり、Bの道を選択するならば、再びここから醒めておよそ額をまっすぐにあげることもむつかしいような憂鬱の明日にはいりこむのであるところの分岐点である。アルコール飲料の眠りをさそう性格によってぼくの実験はなんとか無難にすんできたといっていいかもしれない。泥酔したあげくの眠りは、死に似ているし、二日酔いの憂鬱は、狂気のさめたあとの脱力感をいくらかなりと想像させる。もともとぼくは、活字のむこうの暗闇から自分を無意味に引き剥がすところのアルコール飲料を、二十代の半ばちかくまで嫌悪していた。それが不意に、ウイスキーあるいはジンに向かって急速に近づくことになったのは、狂気あるいは死に準じるものについてひとつの体験に近いように思える状態を、想像力のヒューズが焼けきれるような電圧まで忍耐せざるをえなかったとき以後なのであるから(もっとも忍耐しえた以上、ぼくはもとより死も、狂気も経験しなかったわけだ)、ぼくの頭のコンピューターの配線図は、アルコール飲料と無意識との接続について単純な直線を描いているにちがいない。(P159) 実は、昨年の夏、具体的にいえば2023年ですが、「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫)という、1950年代の末に書かれた、今となっては大江健三郎の初期を代表する作品を読みあって感想をいうという会がありました。はい、読書会ですね。そこで、その作品の主人公の少年の、結末における絶望的状況ということが話題になりました。 その作品で、読んだ方はご存知でしょうが、作家が「このままだと主人公の少年は死ぬほかはない。」という、まあ、絶望的結末を描いていることに対して、作品の価値を疑うかの違和を唱える方がいて、その意見を聞きながら、ボクの中に広がっていったのは「それはちゃうんちゃうかなあ!?」 という気分でしたが、ふと、湧いた、その拒絶感を説明することができませんでした。 で、偶然、この文章に出会ったというわけです。本文は「芽むしり仔撃ち」の執筆から、ほぼ、10年後の1968年、「皇帝よ、あなたに想像力が欠けるならば・・・・」と題されて「群像」に発表されたエッセイの、ほんの部分ですが、いかがでしょう、彼は絶望していたのではないでしょうか。 彼にとって「状況」を描くということが 狂気あるいは死に準じるものについてひとつの体験に近いように思える状態を、想像力のヒューズが焼けきれるような電圧まで忍耐せざるをえなかった 行為であったという述懐だとボクは読みましたが、その結果生まれた、この時代の作品群が、おおむね絶望的な状況に投げ出された人間 を描くことになったことは、作品を否定する理由には、やはり、ならないし、当時、読者であったボク自身を含めて、多くの読者たちは、作家のその状況認識をこそ支持したのではなかったか、というのが、この文章を読んでハッとした理由のように感じました。 ただ、たとえば、ここで自らのアル中の危機と想像力のぶつかり合いを持ち出して語られる大江の「絶望」の語り方を、当時、20代だったボクたちはだるい!と思っていたようなのですね。 というわけで、ボクのような「同時代」を、なんとなく知っている年齢の読者は、どうしても、その時代に引き戻されてしまう、いわば、古色蒼然とした「同時代論集」なのですが、もっと、若い、これから、ひょっとしたら大江健三郎とか読むかもしれない人たちが、どこをどうお読みになるのか、そういう興味も浮かんできた評論ですが、読みでがあることは疑いないと思いましたね。 まあ、初めてこの本で大江に出会うのは、チョット、無理があるとは思いまうがね(笑)。
2024.02.10
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コルム・バレード「コット、はじまりの夏」シネリーブル神戸 明日から、プログラムが替わるというので、大慌てで見に行きました。コルム・バレードというアイルランドの若い監督の「コット、はじまりの夏」です。期待はアイルランドの風景と、少女の眼差しでした。大当たり! 何だかくじにでも当たったようなことをいっていますが、期待を大きくうわまわる圧倒的ともいうべき作品でした。主役の少女コット役のキャサリン・クリンチが評判のようですが、大型新人監督の登場ですね(笑) ただ、感想は難しいですね。実は、上に貼ったチラシの写真はラスト・シーン直前のシーン、自宅に帰った少女コットが駆けだしたシーンなのですが、見ている老人は「それで、コット、あんた、これからどうするの?」 と涙しながら心の中で問いかけていた時のシーンです。 彼女は、小学校3年生くらいの少女ですが、彼女が、この後、だから、ラストシーンは、ほぼ、予想がついていたのですが、その後ですね、「彼女はどうするのか?どうなるのか?」 と、もう、気が気じゃない気持ちになってしまった69歳の老人だったのでした。映画のなかの幼い登場人物に、何もしてやれないことを、まあ、こんなにハラハラさせていただいたのは、ひょっとしたら初めてかもしれませんね(笑)。 日本の映画業界の人たちは、この作品に「はじまりの夏」なんていう題名をお付けになっているのですが、元々の題名は「An Cailin Ciuin」、アイルランド語!ですが英語に直せば「The Quiet Girl」、「沈黙の少女」ですね。 お腹が空いても何も言えない家庭、姉たちも弟も両親もいるんですよ。それなのに、どこにも居場所がない暮らし。9歳の少女が何も云わず、涙も流さず、じっと、世界を見つめながら暮らす生活。想像できますか? 夏休みだからでしょうね、口減らしとしか思えない理由で、自宅からは遠く離れた親戚夫婦の家に預けられて、初めてであった、見ず知らずのおばさんに、生まれて初めて親切にされた夜、オネショをしてしまう9歳の少女ですよ。 その少女が、預けられた家で変わっていくんですよ。彼女を預かった夫婦も彼女と出会うことで悲しい隠し事から立ち直っていくんです。 無愛想なおじさんは黙っていることは悪いことじゃない。 とブッキラボウにいいながら、テーブルに一つビスケットを置いて行ってくれるんです。 床掃除を手伝う牛小屋、玉ねぎをむく台所、おじさんと座る夜の浜辺、おばさんが選んでくれた新しいオシャレな洋服、向こうに郵便受けのある美しい並木道のかけっこ。 で、彼女は牛の赤ちゃんにはお母さんの牛乳をあげて、人間が粉ミルクを飲めばいい! っていえるようになるんです。 でも、夏は終わるんです。別れが来るんです。最初に書いたラストシーンです。 見ているだけの老人は、少女が、あの、どんな干ばつのときも枯れない美しい井戸でがあることを祈りながら、涙を流すんです。 セリフはみんなアイルランド語のようでした。家や、木立、草原、そして言葉も、みんなアイルランド映画です。見たことを誰かに語りたくなる、出も語りながら涙がこぼれてしまうそんな作品でした。 偶然ですが、1月の末から「少女の眼差し」三連発! でした。後の二本はビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」のアナとイサベル、「エル・スール」のエストレーリャですね。子どもの眼差しを、大人の勝手な解釈によって、あれこれいじらないで、静かに見入らせてくれる作品でした。 これからも、静かな映画をつくり続けてほしいと期待させる若い監督の出現です。出演者にも、監督にも、カメラマンにも、音楽の方にも、拍手!ですね(笑)。監督・脚本 コルム・バレード原作 クレア・キーガン「The Quiet Girl」(英題)撮影 ケイト・マッカラ美術 エマ・ロウニー衣装 ルイーズ・スタントン編集 ジョン・マーフィ音楽 スティーブン・レニックスキャストキャサリン・クリンチ(コット)キャリー・クロウリー(アイリン・キンセラ)アンドリュー・ベネット(ショーン・キンセラ)マイケル・パトリック(ダン)2022年・95分・G・アイルランド原題「An Cailin Ciuin」(アイルランド語)2024・02・08・no017 ・シネリーブル神戸no221追記 2024・02・09 感想では、まあ、涙もろい年寄りでしたが、実は、この作品にはかなりラジカルな「社会批判」が根底に据えられていると思いますね。ネグレクトとか、蔓延する貧困に対する理解ですね。この監督は、ただの叙情映像の人ではありません。そこが、実は、最近の若い監督にあきたらないボクが期待できるところだと感じた大きな理由の一つですね。
2024.02.09
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乗代雄介「旅する練習」(講談社・講談社文庫) 本日の案内は乗代雄介という、1986年生まれですからまだ30代の作家の、「旅する練習」(講談社・講談社文庫)です。2021年の三島由紀夫賞受賞作品で、その年の芥川賞の候補にもなった作品のようです。知らなかったのはボクだけで、有名な方かもしれません。 こんな書き出しです。 亜美の中学受験は無事に終わった。学力もぎりぎりのところで周囲も心配していたが、本人の楽観と勉強への身の入らなさはそれ以上で、塾に行く以外の勉強はほとんどしなかったと聞いている。 書き手は「私」、職業は「作家」。中学受験をした亜美という少女は「私」姉の娘で、だから姪っ子です。女の子ですがサッカーが大好きで、叔父さんの「私」は、彼女の練習相手です。そういうわけで、亜美ちゃんは女子のサッカー部がある私立中学を受験して、無事合格したようです。 時は、2020年の3月ですが、これが、読み手の世界の実時間に重ねられていて、受験を終えた小学生の亜美ちゃんの、卒業までの最後の一月が、コロナ騒ぎの始まりと重なっていて、学校からのこんな連絡ですることがなくなります。 臨時休校期間 新型コロナウィルス感染拡大防止のため、市立小中高等学校を臨時休校にいたします。三月二日現在の予定であり、今後変更があった場合は、ホームページなどで周知いたします。 で、「旅」です。関東地方の地名で、具体的には思い浮かびませんが、安孫子という町から、アントラーズというサッカー・チームの本拠地、鹿島という町まで、利根川の堤防を歩く旅、ロード・ムービーならぬロード・ストーリーの始まりです。 題名から、「旅」をするための「練習」か? と思って読み始めましたが、亜美ちゃんは移動のあいだ、ずっとボールを蹴って歩いています。リフティングっていう、あれですね。作家である「私」は、休憩の度にノートに「目に見える風景」とか「鳥」とかについて「文章」を書いています。 「リフティング」と「描写」の練習をしながらのロード・ストーリーの始まりというわけです。コロナで、学校もお休みになり、することのなくなった小学6年生と、もともと暇そうな叔父さんの「練習」の旅 というわけです。三月九日 11:40~12:12 ハケの道は崖線沿いの道全般をさすが、ここでは、手賀沼公園のある小さな入江から崖の前を通る文化財の多く残る道を通りの名にしているようだ。住宅の並ぶ細い道に面した、一段上がった存外広い敷地が志賀直哉邸跡である。当時の庭木が多く残るというが、一際目立つのは立派なスジダイで、赤い花をたっぷりつけたヤブツバキの上に、葉でいっぱいの枝を伸ばしている。(中略)84 これが旅の初日の文章です。まあ、こんな調子の「練習」成果が記録されていきます。最後の数字は亜美ちゃんのリフティングの数ですね。三月十四日 14:07~15:15 257 旅の終わりの日です。文章の方の記録の内容は省略しますが、257回、新記録で旅は終わります。 で、ここまで読み終えたボクは、あれ? 何か変なところがあったな。あれは、なんだったんだ? と、ふと気になる箇所にもどりました。三月十三日ですから、この日の前日あたりに挿入されていた文章です。そこまで、旅の時間の流れに沿って記述されていた「小説」が、ここらあたりだけ、未来の時間で書かれていたところです。 私は二カ月以上経った後でまたこの場所を訪れ、あの時三人で立っていた場所に今度は一人で座り、忘れ難いその時のことを必死に思い出しながら書いた。五月二十六日 14:09~14:54 鳥栖大橋から西へ四キロほど来ると、軽野港という船の係留地がある。その手前の取水門、何となく明るい青のペンキで塗られた螺旋階段のわき、コンクリートで護られた堤防を下りて座る。釣り人が捨て置いた魚が腐臭を漂わせるこんなところでわざわざ書こうというのは、今年の三月十三日に、ここでカワウが死んでいたのを見たからだ。 (中略)水面すれすれに滑りかつ翻りながら何羽も川を渡ったツバメが宙へ駆け上がる。西方の空は地平から天まですっかり雲が覆っていて、南の青空との境は不思議なもどまっすぐだ。雲の低いところは立派な形をとって陰影を際立たせて連なり、高いところは霞んで貼りついたように広がり、大きな太陽に今にも幕を引こうとするようだ。上空を旋回しているトンビも届かいない高い高い雲の影に隠されたものをじっと眺めても、湿った生温かい風に運ばれてきた魚の腐臭が、私を地べたに引き戻してしまう。それは、この開かれたページのすぐ後ろにある旅の風景を未だに振り替えることができないのによくいている。あの旅について書かなければと私は思う。(P128~P129) あたかも、出来事と同時にここまで進行しているかの小説が、全て終わった後に書かれているという暗示です。「えっ?この旅の後なにかあったの?」 三月十四日の記録のページにもどったボクは、残り数ページの結末部分を、そんな期待を持ちながら読み終えました。あの旅について書かなければと私は思う。 という記述の意味がよくわかる結末でした。 で、この、五月二十六日の記録の挿入が、この小説の評価を、おそらく二分させるに違いないというのが読後の感想です。 小説家の「私」は、なぜ、この記録を書かねばならないと思ったのか。結末までお読みになれば一目瞭然だと思うのですが、164回の芥川賞の最終候補に残ったこの作品について、選者の小川洋子は「文学とは何なのか、を追い求める小説になっている。」 といい、同じく選者の山田詠美は「そして、結末は……私には、たくらみが過ぎてあざとく思える。」 と、まあ、真っ二つなわけです。 お二人とも、さもありなんですが、ボクは、どっちかというと山田詠美さんのバッサリ!に1票でしたね(笑) 皆さんはいかがでしょうね(笑)。
2024.02.08
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ジェシー・アイゼンバーグ「僕らの世界が交わるまで」シネリーブル神戸 2024年、2回目のSSC、シマクマシネマクラブでしたが、見たのはジェシー・アイゼンバーグという、どんなお仕事なさっていた方なのかボクは知りませんがアメリカの期待の新人監督のデビュー作「僕らの世界が交わるまで」でした。 英語の題が「When You Finish Saving the World」ですから、まあ、「世界を救い終えたとき」くらいなのかなと思いますが、実に安上がりな「世界」というか、幼稚な「救済」というか、見ていてガッカリしました。 時々お出会いして、一緒にお勉強している二十歳前後の大学生の方たちが「世界観」、英語にすれば「view of the world」とか「world view」とかになりそうですが、その「世界観」という言葉を、例えば、「私の世界観では・・・」という感じで、かなり安直にお使いになって、チョットのけぞることが多いのですが、この作品を見終えたときに思い出したのは、彼女たちが口にする「世界観」という言葉で、若い、優秀な監督の「私の世界観では…」 という演説というか、レクチャーというかを聞き終えた印象で、やっぱり、チョット、のけぞりました(笑)。 主人公の一人、高校生のジギー君は、まあ、多分ですが、ユーチューブのようなメディアで自作のフォークソング(?)をうたって小遣いを稼いでいる少年で、もう一人の主人公、母親のエヴリンさんはDVの被害者を匿うシェルターを運営している活動家の女性という設定でした。 そのノーテンキな息子と、しっかり者の母親、蚊帳の外の父親との、まあ、ありがちな「母子」、あるいは「親子」のすれ違いの物語だったと思うのですが、背景に現代的な社会的現実が描かれているというのがミソなわけです。 息子の活躍するネット・メディにしろ、DVシェルターにしろ、同級生たちが話題にするマーシャル諸島の歴史にしろ、ああ、それから、フォークソングを歌っている息子に父親が口にするブルースを白人が歌うことへの批判にしろ、現代社会が直面している、あるいは、2020年という、今だからこその問題として、新しい認識が求められているリアルな話題なのですが見ていて、今一、引き込まれないのですね。 理由を考えると思い当たるのは、まあ、多分ですが、この監督とか、映画製作者にとっての、映画の中で語られている「社会問題」のとらえ方が、女子大生たちが口にする「世界観」という言葉のとらえ方に似ていると感じたからでしょうね。 いってしまえば、人間や世界のとらえ方が「図式」的だと感じさせてしまう展開だったわけなのですね。「おもしろかったですか?」「なんか、うすかったですね。」 何だか、老人二人の気はあったようですが、作品に乗り切れなかったの残念でしたね。なんでこうなるのでしょうね(笑)。監督・脚本 ジェシー・アイゼンバーグ撮影 ベンジャミン・ローブ美術 メレディス・リッピンコット衣装 ジョシュア・J・マーシュ編集 サラ・ショウ音楽 エミール・モッセリキャストジュリアン・ムーア(エヴリン・カッツ 母)フィン・ウルフハード(ジギー・カッツ 息子)アリーシャ・ボー(ライラ)ジェイ・O・サンダース(ロジャー)ビリー・ブリック(カイル)エレオノール・ヘンドリックス(アンジー)2022年・88分・G・アメリカ原題「When You Finish Saving the World」2024・02・05・no016・シネリーブル神戸no220・SCCno17
2024.02.07
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「ウメといえば、団地は?」 徘徊日記 2024年2月6日(火) 団地あたり その1 2024年は、2月4日(日)が、多分、立春だったんですが、その翌日の月曜日は雪こそ降りませんでしたが激しい雨ふりで、約束があって出かけましたが、夕方帰って来ると「東京」とかは雪だったようで、テレビで大騒ぎしていましたが、能登とか、もちろん雪なのでしょうね。 で、翌日の2月6日は、まあ、神戸のこのあたりは朝から陽が射していて、でも、寒いので、家の中でゴソゴソしていると、チッチキ夫人の一声です。「ウメ、咲き始めてるの知ってる?」 そうですね、我が団地は「ウメ」が春を告げてくれる住まいなのでした。 とりあえず、ジャンパーを着こんで、ズック靴をはいて、裏庭からです。 咲くと可憐な白梅なのですが、まだ蕾です。でも、梅の蕾っていい感じですね(笑) その上の斜面の雑木林の中の梅も、まだ蕾です。咲けば紅梅です。チョットした梅林になっているところをよたよた登って行くと梅一輪! まあ、そういう風情で花をつけてる白梅がありました。 向うの建物が、我が住居です。自宅のベランダから見ると、チョットした斜面に咲いていた白梅です。 おっと、こちらの紅梅は咲き始めています。 日陰になっていて、うまく撮れていませんが、日が当たっているのがわか棲み家ですね。その手前が子どもたちの遊び場ですが、今日は学校があるのでまだ誰もいません。 もう少し、ウロウロしてみますね。続きはその2です(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) ボタン押してね!
2024.02.06
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倉多江美「お父さんは急がない」(小学館) 古いマンガです。ピーチ姫の棚に並んでいたので手に取ってみるとやめられません。倉多江美さんの「お父さんは急がない」(正・続)の二冊です。 今回の案内は正編ですが、手元にあるのは正編は2000年、続編は2003年の初版です。「プチフラワー」という月刊誌に連載されていたようです。 なにが面白いといわれても困ります。しなければならないことがほぼなくなったヒマな老人が読むのに、絵柄の大人しさとか、ただの日常のお話の、まあ、何も起こらなさとか、ともかくテンポがちょうどいいのです(笑)。 相羽さんというご家族の話で、お父さんが日本棋院のプロ棋士、お母さんはパート、お嬢さんがいらっしゃって佐江子さん、私立の女子高の3年生、息子さんは卓(たかし)君、小学校六年生ですね。 ここで案内しようと思って、お父さんとお母さんのお名前をさがし直しましたが、どこにも見つけられませんでした。そんな感じではないのですが、高3の佐江子さんが主人公なのでしょうかね。まあ、一応は少女マンガのということで描かれているわけですからそうかもしれませんが、少なくとも語り手は彼女のようです。 適当に引用してみますね。 まあ、こんな感じです。夜は、町内にの商店街の福引で当たったホテル料理を食べに行くという、一家の朝食の場面ですが、前のページからセリフを拾うとこうなります。「美味しいものを食べに行くんだから今日はおなかを空かせておかないと」「わたしもご飯いらない 太る」「久しぶりよねホテルで食事なんてお父さんの稼ぎじゃむりだもんね」「お前はすぐそういうイヤ味を言う」 父の職業はプロ棋士 つまり碁打ちである「あらイヤ味じゃなくて事実じゃない せめて五段になってくれたら対局料もちがってくるのに ネ~」 四段で止まったまんまよ 勝負師のくせにピリッとしないの「じゃあ これふりかける」「アハハいいかも」「・・・・ごちそうさま」「あら卓もういいの」「うん」「行ってきまーす」 弟の卓は六年生になってやはりプロ棋士志望である「お金持った」「うん」 土日は院生の対局日だ「終わったら地下鉄のところでまちあわせだから わかった」「うん」 卓は勝手に日本棋院の院生採用試験を受け合格した 母は卓が弁護士か医者になってくれることを夢見てた「気を付けて」「ああ~勉強のできる子だったのに」わたしはというと二流の短大の付属の女子高に通いとうとう三年生にまってしまった「漠然とした不安」 まあ、こんな感じです。シマクマ君の唯一の趣味が、かつては囲碁だったこともあって、ときどき出てくる囲碁用語や対局場面の描写が気にならないというか、むしろ、好きなことも読み続けらる理由かもしれません。作者の倉多さんは、別に囲碁に詳しいわけではないらしいのですが、最後にお描きになったのが碁打ちの家族漫画というのも、すこしふしぎです。でも、違和感は全くありません。で、出来事といって、別に何にか起こるわけではありません。食事をしたり、墓参りに行ったり、ああ、それから囲碁の対局のシーンがあったりするだけです。イヤ、ホント、なにも起こりません。 初めて読むマンガ家ではありませんが、しかし、この、倉多江美さん、なにがどうといえるわけではありませんがなかなかやりますね。 調べてみると、1950年生まれ、ただ今、73歳で、ご存命のようです。ただ、マンガの創作はこの作品が最後のようです。事情はわかりませんが、ザンネン! ですね。 「続 お父さんは急がない」の感想はこちらの題名をクリックしてみてくださいね。
2024.02.06
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「今日は東遊園地まで、ルミナリエ!」 徘徊日記 2024年1月27日(土) 三宮あたり 元町で「メンゲレと私」という、かなり強烈な映画を見て、フラフラ商店街を歩いて、シネリーブルで「ミツバチのささやき」を見ているはずのチッチキ夫人と合流しました。「どうやった?」「ホラーみたいやったわ。」「ホラー???」「だって、あの家、お化け屋敷みたいやん。」 「ミツバチのささやき」鑑賞の第一声がホラー!? ですからね。絶句! でしたが、気を取り直して「ルミナリエ、チョット行って見いへん?」「人多いんちゃうのん?」「うん、先週よりだいぶ増えたけど、大したことない。」 というわけで、歩きだしました。すぐそこです。 今年は、メリケン波止場に有料コーナーを作ったらしいですが、二人で歩いていったのはフラワーロードの市役所の南の東遊園地の会場でこっちは無料です。 ついでですが、シネリーブルのある朝日会館ビル(今でもそういうのかどうか?)の1階のロビー(?)にあったルミナリエがこれです。 単体ですが、なかなか美しいですね。 というわけで、恐れていたほどの人込みもなく、なんとなく見て回りました。チッチキ夫人は久しぶりやって来た東遊園地に、新しく出来ていた貸本屋だか図書館だかカフェだかわからない建物に興味を惹かれてウロウロしていましたが、すぐに飽きて、元町まで歩き直して、二人で夕食を食べて帰りました。 家に帰り着くと、愉快な仲間のトラキチクン一家が「有料地区」に行った写真が届いていました。 こんな感じのようです。ナルホド、ふーん!ですね(笑)。じゃあ、またね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) ボタン押してね!
2024.02.05
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司修「私小説・夢百話」(岩波書店) 司修という、一般には大江健三郎の作品のの装幀家と知られていますが、絵もお描きになるし、小説もお書きになる、まあ、マルチな方がいらっしゃいます。その方が大江健三郎の魂に捧げる — 装幀者として という献辞を最初のページに記して、3月に大江が亡くなった2023年の6月に出版されたのがこの「私小説・夢百話」(岩波書店)という、「絵」と「掌編小説」をセットにした小説集です。 岩波書店の「図書」という、月刊のPR誌がありますが、その表紙の「絵」と、表紙裏の、まあ、本人がおっしゃるには「小文」がセットになっていて、2017年の1月から、2021年の12月まで、連載で掲載された、単純に5年ですから六十話ですが、その百に足りない分が、おそらく「書き」+「描き」おろされて、「夢百話」という体裁が出来上がっています。 わが家のように「図書」を毎号揃えているという、書店勤めの家族がいなければあり得ない暮らしの方は別として、よほどお好きな方が「ああ、あれか!」と思い浮かべられるかもしれないという程度の、あれ! の単行本化です。書き下ろされた分には、少し長いものもありますが、だいたい、見開き2ページで構成されている、いってしまえば大人の「絵本」です。 たとえば、これが第二章、138ページ~139ページ、絵の題が「空の怪物アグイー」です。 このままでは文章が読みにくいでしょうから、ちょっと写しておきます。赤んぼうの脳は白紙ではない 子どもは意識を持って生まれてこないけれど、心は白紙ではなく、現代に至る歴史を備えた脳を持って生まれる、とユングは、身体の歴史を例に語っています。人間誰もが持っている胸腺は魚類にまでつながるとも。 「子ども科学電話相談」のファンである私は、宇宙誕生までの壮大な想像をかきたてられます。 「惑星ソラリス」(タルコフスキー)の、惑星ソラリスの海全体が脳です。海は、ソラリス・ステーションに滞在する学者たちの夢を読み取って、死んだ妻や怪物を「ゼリー状」の生きものとして作り出し、学者たちを戸惑わせます。学者の一人が地球に戻り、空に浮かんでいた巨大な赤んぼうの存在を語ります。四メートルもある生まれたての裸の赤んぼう、私は、「あれだ。アグイーだ」と思いました。 大江健三郎の「空の怪物アグイー」です。普段は空を浮遊していて、ときどき前衛音楽家Dの脇に降りてきます。 「カンガルーほどの巨きさで木綿の肌着をつけた赤んぼうで名前はアグイー」 Dはかれのアグイーの世界を、中原中也の《含羞はじらひ》で語ります。 枝々の拱(く)みあはすあたりかなしげの空は死児等の亡霊にみち まばたきぬをりしもかなた野のうへはあすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき 先だって、死んだ母親の頭に妊娠していた彼女の胎児の脳を移植して、新しい人格が生まれるという、ギリシアのランティモスという監督の、まあ、へんてこな映画を見たのですが、その印象に誘われてこのページを引用しました。 こちらは、20世紀、ソビエト・ロシアのタルコフスキーという監督の「惑星ソラリス」という映画シーンから、大江健三郎が小説で描いたアグイー、そこから、おそらく武満徹を経由して中原中也の詩の世界へ、夢想が広がっていって、見てきた映画の世俗的結末の世界よりも、よほど、豊かなイメージの連鎖の世界で、短いながらも読みごたえがあると思いました。 まあ、全編、この調子の意表をついた展開で、ノンビリ手に取るのが楽しい本ですが、欠点は価格ですね。4400円です。絵もカラーですし、装幀もしっかりしていて、仕方のない価格なのですが、買うには根性がいりますね(笑)。 ボクは図書館の本で楽しんでいますが、そうなると、あんまりノンビリもできないんですね。まあ、諦めて笑うしかないですね(笑)。 目次と著者の紹介を載せておきます。 目次 私小説・夢百話1(マグリットの『夢の箱』;天才・安部公房のマネ;夢の耳 ほか)私小説・夢百話2(朔太郎の『猫町』;猫町;夢中夢 ほか)私小説・夢百話3(武満徹の『夢の引用』;鳥人間のピアノ調律師;水のピアノ ほか)司修[ツカサオサム] 1936年生まれ。独学で絵を学び、絵本の原画、書籍の装丁、小説の執筆、装幀家として、大江健三郎氏、小川国夫氏らと交流した。1978年『はなのゆびわ』で小学館絵画賞受賞。1988年「バー螺旋のホステス笑子の周辺」で芥川賞候補、1993年「犬」(『影について』)で川端康成文学賞。岩波書店刊『新約聖書』『旧約聖書』の装幀 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.04
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「こちらが蝋梅!」 徘徊日記 2024年2月2日(金) 三宮神社あたり1月の末に通りかかったときに白梅、紅梅の咲はじめを見つけて、「ここには黄梅も咲きますよ。」 と書いたところ、「黄梅は蝋梅でクスノキ目、梅とは違うようですね。」 というご指摘をいただきました。おしゃべりしたくてしようがない老人には、こういうコメントはうれしいですね(笑)。ハイ、梅はバラ目、バラ科、黄梅・蝋梅はクスノキ目、ロウバイ科、違う種類の木の仲間なのですね。というわけで、ここの黄梅もクスノキと寄り添っているわけです(笑)。 こういう、この時期になっても実のようなものがついているのも、特徴かもしれませんが、じつはこの実は有毒ですね。調子に乗って齧ったりしたらだめなのです(笑)。 1月の下旬に咲き始めていた白梅も花がふえてきましたね。青空に白い花は気持ちのいいものですね。梅といえば香ですが、ボクのハナには何も匂ってきません(笑)。 紅梅も、ほれ、このとおり。 はい、ここは、いつもの三宮神社の狭い境内ですね。親子連れの女性がお参りしていらっしゃったので、お参りもせずに写真だけ撮らせていただきました。 折角ですから、紅梅の写真をもう一枚載せますね。狭い境内で、紅・白・黄色の「ウメ」が競い始めていますよ。 それではまたね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) ボタン押してね!
2024.02.03
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マルティカ・ラミレス・エスコバル「レオノールの脳内ヒプナゴジア」元町映画館 新開地のパルシネマで朝から「マッチ売りの少女」じゃなくて「マッチ工場の少女」を見て、あろうことか、元気になってしまって、ヨシ、もう1本! と、歩いてやってきたのが元町映画館で、なんだか意味不明な題名なのですが、人の好さそうなおばさんが写っているポスターの映画が始まるところだったので、いつもなら躊躇するところなのですが「ふーん、フィリピン映画ね?」 と見始めてポカーン! でした(笑)。 ちなみに題名の「レオノール」は主人公のおばあさんのお名前で、「ピプナゴジア」というのは、訳せば「半覚醒」という医学用語(?)のようですが、要するに意識不明と覚醒の中間状態のことのようで、一昔前なら「夢想」とか何とかに翻訳しそうなものですが、「ヒプナゴジア」のまんまですから、まあ、意味不明ですね。 で、映画ですが、レオノールさんというおばあさんが映画監督だったというのがみそですね。そのおばあさんが落ちてきたテレビで頭を打って意識不明ならぬ「脳内ヒプナゴジア」状態に陥って、そこからはシッチャカメッチャカでした(笑)。 半覚醒ですから、まず、脳内の出来事と現実が入り混じりますね、で、彼女の脳内にあるのが「映画」ということになると、当然、脳内でも「現実」と「映画」という、まあ少なく見積もって二重化が起こります。で、頭を打ったのがテレビですから、もう一つ「テレビのなかの世界」が加わりますね。それが全部スクリーンに映し出されるわけですから、まあ、ポカーン!!! ですね(笑)。まあ、ストーリーを説明するのは、ボクにはムリ(笑)ですね(笑)。 で、伝わってくるのはこの映画を作っている人たちの「元気!」 でしたね。わけわかんないなりに、後味が悪くないのは、まあ、そういう話だろうとかおもいながら、登場人物たちに「たのむから、落ち着いて!」 とかなんとか呼び掛けながらも、まあ、最後まで見た老人の感想ですね(笑)。 でも、これって、老人のヒプナゴジアの世界なんですよね。くだいていえば「半ボケ状態」 でしょ。そこが、笑えるというか、笑えないというか、チョット、困っちゃうところでしたね(笑)。 なにはともあれ大きな体で、シッチャカメッチャカの世界で奮闘していらっしゃったレオノール役のシェイラ・フランシスコさんに拍手!でした。何だか、おおらかで、明るいんです。監督・脚本 マルティカ・ラミレス・エスコバル撮影 カルロス・マウリシオキャストシェイラ・フランシスコ(レオノール)ボン・カブレラ(ルディ)ロッキー・サルンビデス(ロンワルド)アンソニー・ファルコン(死んだロンワルド)アラン・バウティスタ(バレンティン)レア・モリナ(イサベラ)2022年・99分・G・フィリピン原題「Ang Pagbabalik ng Kwago」2024・01・23 ・no0011・元町映画館no223
2024.02.02
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100days 100bookcovers Challenge備忘録 (41日目~50日目)no41(2020・09・21 T・S)大岡昇平「成城だより」(文藝春秋社)no42(2020・09・27 N・Y)大川 渉・平岡海人・宮前 栄『下町酒場巡礼』(四谷ラウンド)no43(2020・10・05 K・S)千野栄一『ビールと古本のプラハ』(白水Uブックス)no44(2020・10・14 T・K)池谷裕二『怖いくらい通じるカタカナ英語の法則』(講談社ブルーバックス)no45(2020・10・25 E・D)阿部公彦他『ことばの危機―大学入試改革・教育政策を問う』(集英社新書)no46(2020・10・27 T・S)田村隆一「田村隆一詩集」(現代詩文庫・思潮社)no47(2020・11・03 N・Y)水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)no48(2020・11・04 K・S)エミリ・ブロンテ『嵐が丘』(上・下) (河島弘美訳 岩波文庫)no49 (2020・11・12 T・K)小池昌代『屋上への誘惑』 光文社文庫no50(2020・11・17 E・D)奈良少年刑務所詩集 『世界はもっと美しくなる』(編集 寮美千子 ロクリン社) 今回は41日目から50日目の備忘録です。書名か本の写真をクリックしていただければ、掲載記事に行くと思います。追記2024・05・11 投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)(51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目)(81日目~90日目)というかたちまとめています。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2024.02.01
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アキ・カウリスマキ「マッチ工場の少女」パルシネマ 2024年は新年早々カウリスマキ監督の「枯れ葉」が満員御礼で入場できないという珍事(?)で始まりました。どうなってるの? だったのですが、ほぼ、同時にパルシネマが企画していた、同じ監督の「マッチ工場の少女」は、予想通り、まあ、ボクとしてはこっちのほうがいいのですが(笑)、ノンビリした観客数で、実にゆったりと見ることができました。 実は、パルシネマでは1990年ごろの「コントラクト・キラー」と「マッチ工場の少女」という2作を朝パル・夜パル企画で特集してくれていたのですが、結局、見ることができたのは「マッチ工場の少女」だけでした。ザンネン! 映画はマッチ工場の製造ラインの丹念な映像から始まりました。ナルホド「プロレタリアート三部作」の 一作ですね(笑)。好き好きですが、こういう始まり方、ボクは好きです。 で、展開ですが、マッチ工場の労働者で、何故か帰宅しても家事一切を強制されているらしい、実に無愛想な働く若い女性のわびしい日常生活を淡々と写した作品でした。 なにしろ、登場人物たちが、ほとんどしゃべらないので、見ているこちらがわも「ふーん、そうなんか???」 という態度で見続けならが「それで、どうすんの?」 と思っていると、まあ、なんともいえない結末で映画は終わりました。 で、ボクの結論ですが「それでいいのだ!」 でしたね(笑)。ストーリーとしては悲劇という範疇らしいのですね。たしかに、現実的な事件として考えるなら悲劇以外のなにものでもないのかもしれませんが、ボクの中に残ったのは、主人公の終始一貫している行動原理に対する共感というか、肯定感でした。涙なんて出ませんね(笑)。「それでいいのだ!」 ですね。ほかにいうことはありません。 まあ、それにしても、これだけ淡々と描きながら、かなりクッキリとした印象を刻み付けるフィルムを撮るカウリスマキという監督はスゴイ!ですね。文句なく拍手!です。それから、なに考えているのかわからない無愛想な表情でやってくれるじゃないの! の少女イリスを演じたカティ・オウティネンという女優さんも印象に残りましたね。拍手!です。監督・脚本 アキ・カウリスマキ撮影 ティモ・サルミネンキャストカティ・オウティネン(イリス)エリナ・サロ(母)エスコ・ニッカリ(義父)ベサ・ビエリッコ(アールネ・行きずりの男)シル・セッパラ(兄)レイヨ・タイバレ1990年・70分・フィンランド原題「Tulitikkutehtaan tytto」2024・01・23・no008・パルシネマno80
2024.02.01
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ヨルゴス・ランティモス「哀れなるものたち」109ハット さて、2024年1月もあと1日です。もう1本くらい見ようかな・・・ まあ、そんな気分で選んだのがヨルゴス・ランティモス監督の「哀れなるものたち」でした。 この監督は「女王陛下のお気に入り」でポカーンとさせられた人ですが、この作品も同じエマ・ストーンという女優さんと組んでいるようで、まあ、どうせ、ポカーンだろう。 そう思ってやってきたのは109シネマズ・ハットです。で、やっぱり、ポカーンでした(笑) 顔中切り貼りだらけの、まあ、フランケンシュタインふうの怪人というべきのゴドウィン博士(ウィレム・デフォー)が登場して、人形のようなぎこちない動きのベラ(エマ・ストーン)という女性が屋敷の中をウロウロしています。 で、この、切り貼りだらけの男に見覚えがあります。「ライトハウス」という変な映画でいかつい顔の灯台守だか何だかでした。ただでさえいかついのに、今回は切り貼りだらけです(笑)。 実は、妊婦だった女性が橋の上から飛び降りて、いったん絶命するのですが、お腹の胎児の脳を移植して生き返ったのがベラで、もちろん、手術したのは怪人ゴドウィン博士です。 ね、笑うしかない始まりなのですが、この監督さんの描きかたって、女王陛下のときもそうだったのですが、妙にリアル(?)で、ノンビリ笑えないんですよね。まあ、何はともあれ、身体は成人、頭は胎児 という設定がドラマの起動装置というわけです。 イロイロ笑わせるつもりの出来事やシーンは山盛りなのですね。R18+指定 で公開されているわけですから、エマ・ストーンさん大熱演なのですが、見させていただいている老人はフーン・・・ でしたね。 設定が設定ですから、こちらの興味は、どのあたりで「私って誰?」に意識はたどり着くのか? なのですが、「性の目覚め」 で笑わせようという目論見のようでしたね(笑)。まあ「身体」が成人ですから、そちらの準備は出来上がっているわけですからね、で、素朴な「脳=意識」がそれを操るところが、チョット、ホラー気分の「笑い」 というわけでしょうかね。 お話は橋から飛び降りた女性の元亭主、こいつがまたとんでもないのです、の登場で「私って誰?」 の行く先もシッチャカメッチャカというしかない結末なのですが、「トンデモ亭主」をヒツジにしちゃった「この私って、いったい誰?」 なんでしょうね(笑)。ちょっと、それでいいの? っていう印象なのですが(笑)。 やっぱり、ヨルゴス・ランティモスって変ですね。でも、まあ、全てをお見せになったエマ・ストーンさんには、ご苦労様!の拍手!ですかね(笑)。 監督 ヨルゴス・ランティモス原作 アラスター・グレイ脚本 トニー・マクナマラ撮影 ロビー・ライアン美術 ジェームズ・プライス ショーナ・ヒース衣装 ホリー・ワディントン編集 ヨルゴス・モブロプサリディス音楽 イェルスキン・フェンドリックスキャストエマ・ストーン(ベラ・バクスター)ウィレム・デフォー(ゴドウィン・バクスター博士)ラミー・ユセフ(マックス・マッキャンドレス婚約者)マーク・ラファロ(ダンカン・ウェダバーン弁護士)ジェロッド・カーマイケル(ハリー・アストレー)クリストファー・アボット(アルフィー・ブレシントン)スージー・ベンバ(トワネット)キャサリン・ハンター(スワイニー)ビッキー・ペッパーダイン(プリム夫人)マーガレット・クアリー(フェリシティ)ハンナ・シグラ(マーサ・フォン・カーツロック)2023年・142分・R18+・イギリス原題「Poor Things」配給 ディズニー2024・01・30・no014・109ハットno38追記2024・03・12 主演のエマ・ストーンさんが、この映画で今年(2024年)のアメリカのアカデミー賞の主演女優賞なのだそうです。ふーん?ですね。不思議な評価ですね(笑)。
2024.01.31
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「ウメ、山茶花、夏ミカン、これ、何?」徘徊日記 2024年1月28日(日)王子公園あたり 今日は、2024年、1月最後の日曜日です。阪急の西灘駅、いや、王子公園駅を出て歩き始めると白いウメです。隣には山茶花です。 その先には夏ミカンです。グレープフルーツのような気もしましたが手の届くところに実はありません(笑)。まあ、手の届くところに実があればどうするか?もちろんシゲシゲと観察して写真を撮るに違いありません。間違っても、「どんな味やろう?」 ということを確かめようとするようなことは、ボクにかぎってはありませんが、手の届くところに実がないことは確かです(笑)。 ココは何処かというと、神戸市が売り飛ばすことにしたらしい競技場の向うに、これ売り飛ばすのかどうか、動物園の観覧車が見えます。歩いているのは王子公園の中の一番東側の歩道です。この少し先に登山研修所があります。 で、道にそって藤棚があったり、名前はよくわからない立ち木が聳えていたりします。梅の木がポツンポツンとあります。このあたりにあるのは白梅で咲き始めたところようです。 この間から思うのですが、こういう木の花の写真をスマホで撮るのは難しいですね。みんなピンボケになってしまうのです(笑)。 で、帰り道で気づいたのですが。「これって何?」 光の加減で、よく見えませんが、鈴懸でしょうかね。プラタナスという方が一般的ですかね。実だけたくさんなっているのですが、食べられたりはしないんでしょうかね。 家の近所の街路樹のなかにもあるのですが、チョット、イメージが違いますね。 2024年最初の王子公園でした。そういえば、動物園って長いことは言っていませんね。こんど久しぶりに行ってみようかな?いや、やっぱり、もう少し暖かくなってからですね(笑)ボタン押してね!
2024.01.30
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