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「私、これは行くわ。( キッパリ! )」 で、劇場公開が始まって二人で出かけました。
「なんで?」
「なんか、情けない顔してはるやん。この人。」
「 ホアキン・フェニクス やん、ほら、こないだ、 ナポレオン になってた、あんたは要ってへんけど。 マザコンのナポレオン いうて騒いでたやろ、ボクが。」
「ふーん、そうやったっけ。」
「あの子ら、面白かったんやろか?」見てすぐはかなりお怒りでしたが、家に帰ると質問攻めでした。
「あんたはどうやねん。」
「わたしは、最初のシーンから、もういい、出て行きたい、の繰り返しやんか。なんなん、この映画。」
「ふーん、ボクは、それでどうなるの?やったで(笑) ホアキン・フェニクス 、ずっと情けない顔してたやん。それが見たかったんちゃうの?」
「あんな 母親 出てくる思わへんやん。」
「最初、さあ、子供産んだばっかりの女の人が叫んでるこえきこえてくるやん。アンナン、できへんと思うねん。産んですぐやでぇ。」 と、まあ、あれこれ盛り上がったのですが、どうなんでしょうね。文字通り 素っ裸で走り回ったホアキン・フェニクスさん に、 ご苦労様でした の 拍手! ですね。いやはや、俳優というのも大変ですね(笑)。 ところで、上の会話の中で ホサカ と呼んでいるのは、作家の 保坂和志 です。で、引用は 「世界を肯定する哲学」 という新書の次の箇所です。
「 夢 やからできるねん。」
「誰の?」
「 主人公 。」
「どういうこと?」
「ボクはな、はじめから終わりまで、みんな、 ボー いう男の人の夢や思うねん。まあ、当てずっぽうやけど、きっと。」
「みんな、 夢 やったん?」
「ほら、この前から ホサカ がおもろいこというてるって騒いどったやろ。 夢 で起こることって、あり得へん事でも見てて疑わへんって、そういえばそうや、おもろいなぁって。」
「そやから、起こること、全部、どこか変やったん?」
「そうやん、ボクらには 夢 ちゃうもん。」
「 ボー にはホンマのこと?」
「まあ、そういいたいんやろうな。ボク、見始めて、すぐ、 ホサカの話 思い出したから、 ふーん、ソウナン?! って見てた。」
「ずっと?」
「うん。」
「最後、爆発すんのは?」
「 夢の終わり 。目覚めたら、また、あの 情けない顔 。」
「 おかーさん は?」
「映画の今、実在やとしたら、生きてる。知らんけど。ほんでな 、ボーのマザコンの様子の描き方 は、アメリカの人が好きらしい精神分析の発想の、まあ、映像化に見えた。」
「どいうこと?」
「あんな、人間ってな、大人になって、自分は、とか、私とか、主体とか、自己とか、思ってるけどな、それって、小さいころに母親とか父親の喜んだり怒ったりすること、まあそれを他者の欲望っていうねんけど、それを見て、それに合わせて自分って出来ていくいう理論。で、 ボーのおかん って シングル・マザー やろ。そやから、 父親 は、 人格のないチンチンのバケモン でしかないいうことになるわけ。なんか、そんなシーンもあったやん。」
「天井裏?」
「うん、父親がそれやったら、 男の自分はなんや? ってなるやろ。無意識を占拠してるのは全部 母親の欲望 で、なおかつ自分は男やで。困るやろ。」
「なんなん、それ。」
「途中、子ども部屋で目覚めるやろ。 ボー って、見るからにもう中年すぎてるやん、なんか、不気味やろ。」
「あの年になっても、始まりに支配されてるいううわけ?あかんわ、そんな話。あの子らどう思って見てたんかな?ちょっと、感想聞きたいわ。」
「さあなあ、若い人、どうなんかなあ。ボクのは当てずっぽうやか、あてにならんけど、そんな、フロイトとかについて知らんやろうからなあ。わけわからんホラーなんちゃう?ただ、ボクは、なんか、醒めて見てたいうことやん。この 監督 さん、たぶんそういうのン好きやねんきっと。」
「夢は無意識の発露である」というのがフロイト以降の定説となった定義だけれど、夢には忘れられがちなもっとずっと大きな特徴がある。それは「夢の中では何歳になっても与えられた状況を真に受ける」ということだ。(「世界を肯定する哲学」ちくま新書)(P152) それから、 ジャック・ラカン についての話は、まったく偶然だったのですが、ここのところ読んでいた 竹田青嗣 という批評家の 「新・哲学入門」 という新書の次のような記述を頭に浮かべています。
ラカン は、 フロイト の去勢複合の仮説を精神分析理論の核心として受け取り、 疎外された自己統合としての人間主体 、という独自の像を提示する。その力点を 「反―主体の形而上学」 と呼ぶことができる。 ゴシック体は、ボクなりです。論の真偽はともかくとしてですが、最近、面白がって読んでいる1冊です。 映画 にかぎらず、 小説、詩歌 とか 絵画、写真 とか、ボク自身が
《主体は、もともとは欲望のバラバラの寄せ集めです。これこそ 「寸断された身体」 という表現の本当の意味です。そして、 「エゴ」の最初の統合 は、本質的に 「他我(アルター・エゴ)」 であり、それは疎外されているのです。欲望する人間主体は、主体にまとまりを与えるものとしての他者を中心として、その周りに構成されます。そして、主体が最初に対象に接近するのは、他者の欲望の対象として体験された対象なのです》 (「精神病の問いへの序論」ジャック・ラカン「精神病」岩波書店)
幼児 は、 鏡像段階 以前(自我が統合される以前)では、自己身体を寸断された像としてもつため、このバラバラの身体としての自己を 統一された「主体」として形成する上で、「他我」、つまり「他者の欲望」を必要とする 。人間は、自分の欲望を自分で構成することはできず、他者の欲望によって自分の欲望を形成する。この意味で、人間の「主体」は本質的に「疎外」されたもの、いわば他我によって想像的に ”騙り取られたもの“ であるとされる。(竹田青嗣「新・哲学入門」現代新書)(P147)
何を見て、何に反応しているのか? を考え込むことが、最近よくあるのですが、そういうときの参考になります。 ラカン、ポンティ以降の人間理解 は、よくわからないなりにスリリングです(笑)。
なんだか、図式的だよなあ?! という感じなのでした。
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