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小野智美編「女川一中生の句 あの日から」(はとり文庫) どこで知ったのかよく覚えていませんが、注文して届いた本をその場で広げて、読み始めて,絶句しました。落ち着いて読めば、2時間もあれば読み終えることができる内容ですが、なかなかそうはいきませんでした。小野智美編集「女川一中生の句 あの日から」(はとり文庫)です。 2012年、東北の震災の翌年だされた本です。ページを開くと目次の次のページにこんな言葉が載っています。 東日本大震災の後、女川町の女川第一中学校の全生徒約200人が俳句を作った。2011年5月と11月に行われた2回の授業。津波で家族を、家を、故郷の景色を失った生徒たちが、季語にこだわらず、五七五に心の内を織り込んだ。時と共に深まる思いをたどる。 小野智美という女性記者が、俳句を作った中学生一人一人と会って取材し、朝日新聞の宮城版に連載された記事を書籍化した本です。 ページを繰ると俳句のページがはじまります。○○○○さん(3年生)グランドに 光り輝く 笑顔と絆(5月) 3年生の友里さんが津波から2カ月後の5月の授業で詠んだ。被災の現実を感じさせない。学校ではソフトボール部の主将だ。「中総体に向けて燃えていた時なので」と笑いながら言った。 大会を終えた11月、こう書いた。空の上 見てくれたかな 中総体 あの日、友里さんは、山の上の中学校にいた。地震の後、高校から下校途中の姉が中学校に来た。やがて母も駆けつけてくれた。「お姉ちゃんと一緒にいなさいよ」。母は、山の下の自宅へ祖母を迎えに行った。それが最後の言葉ととなった。 あの日に限って朝、『行ってきます』を言わなかった。7月、葬儀を行った。父が手を尽くして集めた写真を袈裟に包んで荼毘に付した。その時だけ、父の前で涙を見せた。母と祖母に今ひと言だけ伝えられるなら、何を? そう問うと、笑顔をつくりながら、声にならない声で答えてくれた。その言葉は、11月に書いた句の中にある。今伝える 今まで本当に ありがとう(11月) いかがでしょうか、ボクが絶句したのは、例えばこの記事だと、父が手を尽くして集めた写真を袈裟に包んで荼毘に付した。その時だけ、父の前で涙を見せた。 というあたりです。7月になっても、友里さんのおかあさんとおばあちゃんは見つからなかったんですね。葬儀の場で声をあげて泣いている少女の姿が浮かびます。 そこから、ありがとうまでを思うと、ページを繰る手は止まってしまうのでした。 まあ、こういう俳句と、それを紹介する記事をまとめた本です。出版されて10年たって、ようやく読み終えましたが、ここに出てくる、この中学生たちはどうしているのだろう?、そんな気持ちになる本でした。乞う、ご一読ですね(笑)。 参考までに目次と著者のプロフィールを貼っておきます。[目次]はしがき003(生徒たち22名の句の紹介)*当サイトではお名前をふせています俳句で鍛え上げられた言葉083佐藤敏郎教諭「十五の心 国語科つぶやき通信」089大内俊吾校長の式辞093阿部航児さんの答辞103付記世界を駆けめぐった108最後の教材「レモン哀歌」116父と娘の15カ月1222度目の春 共振共鳴した日々を刻む135すべては五七五の中に 佐藤敏郎149編者あとがき小野智美(オノサトミ)朝日新聞記者。1965年名古屋市生まれ。88年、早稲田大学第一文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。静岡支局、長野支局、政治部、アエラ編集部などを経て、2005年に新潟総局、07年に佐渡支局。08年から東京本社。2011年9月から仙台総局。宮城県女川町などを担当
2023.11.12
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セルゲイ・ロズニツァ「破壊の自然史 戦争と正義Ⅰ」元町映画館 元町映画館がやっているセルゲイ・ロズニツァ特集、題して「戦争と正義Ⅰ・Ⅱ」、「破壊の自然史」と「キエフ裁判」を、Ⅱ,Ⅰの順番で続けてみました。堪えましたが、今回は「破壊の自然史」の感想です。 この「破壊の自然史」は、いわゆるロズニツァ流アーカイヴァル・ドキュメンタリーの手法で作られているドキュメンタリー映画でしたが、今までに見てきた彼の作品とは、「これは、ちょっと?」 と感じる、すこし違った手法が取り入れられていて唸りました。 ナレーションによる解説、あるいは、地名、歴史的時間を表示する字幕が、一切ないのがロズニツァ流です。彼が扱う映像は、撮影主体が誰なのか、ひょっとしたらどこかに表示されているのかもしれませんが、ボクのような観客にはわかりませんが、その時代、その事件を何者かが撮影し、「記録」として保管されてきた白黒で、おそらく無音のフィルムです。 その、音のないフィルムに映し出されている登場人物、例えば演説する人間や叫ぶ人、裁判であれば弁明する被告や木槌を打つ裁判官、ざわめく聴衆、戦争シーンであれば爆音や爆発音が、単なる効果音としてではなく、あたかも「歴史的事実」を描いていくため加えられていくというのがロズニツァの手法です。 当然ですが、そこには制作者による「映画的作為」が働いていて、表現の意図が込められているはずです。それは、ここまでに見てきた「粛清裁判」や「国葬」という作品を見ていて気付いたことでしたが、この作品では、新たに「色」が使われていました。ボクが「これは?」と思ったのはそこでした。 映画の途中から、カラー映像が使用されるのです。それだけなら気づかないのですが、冒頭のシーンで空に浮かぶ雲のシーンが出てくるのですが、後半に差し掛かったころ、そのシーンがもう一度出てきます。で、二度目には色が付いているのです。これは意図的ですね。しかし、その意図がボクには分からないのです。 この映画では第二次大戦末期の英独双方による空襲戦・空爆戦のありさまが繰り返し映し出されています。闇の中から浮かび上がるように襲われる都市の街灯りが映り、次々と落下していく爆弾の影、爆音、閃光、見ていて、何が起こっているのか分からないシーンが続き、瓦礫の山、横たえられた死体、そこを無言で通り過ぎる人々の姿、そういう悪い夢でも見ているようなシーンが重ねられていくのです。連合国による、ベルリン、ドレスデンに対する対ドイツ無差別爆撃だけではなく、ナチスによる対ロンドン空襲のシーンも出てきます。 しかし、まあ、ヨーロッパに限りませんが、明らかなランド・マークでもあれば別ですが、ヨーロッパの都市を上空からの暗い映像や、瓦礫の街並みの写真ではとても見分けられないボクには、それぞれの街が、いったいどこであるのかは、被災地を視察するのがチャーチルであったり、ナチスの将校ゲーリングであることでしかわかりません。 イギリスの将軍、たぶん、モンゴメリー元帥が爆弾工場を慰問して演説したり、なんと、あの、フルトヴェングラーが、多分、兵器工場でワグナーを指揮している、音楽付き映像があったりしますが、そういう、ボクでも知っている特徴的な人物が出てくれば、そこがどこなのかわかるのですが、映像がどんどん重ねられていくと、路上に並べられている死体がどちらの国の国民のものなのかはわかりません。その混乱のなかで、フト「破壊の自然史」という題名が浮かんできたのです。この編集の仕方にこそ、制作者、ロズニツァの意図が込められている違いありません。 そんなふうに、少し落ち着きを取り戻してみていると、カメラが廃墟の街に残った塔を映し出し、その先端に天使の像が現れるのを見てエッ?と思いました。ヴェンダースです。「ここは、ベルリン?」 何だか、突如の訝しさのまま、実はボンヤリしながら、映像に色が付き始めたことに気づきました。別に、映されていることが平和的に変わったわけではありません。相変わらず大量生産されていく爆弾が、今度はカラーになっただけです。瓦礫の山の向うの空が青空になっただけです。 ボクは、この作品を見終えてから1週間たった今、この映画のラストシーンを思い出すことができませんが、空中を落ちていく無数の爆弾が、あたかも水に落ちた石のように、微妙にカーブしながら落ちていく様子を上からとったシーンが繰り返し思い浮かぶばかりです。地上には人間がいるのですが、映画に降臨した天使はどこに行ったのでしょう。 見終えた会場で、渋谷哲也というドイツ映画の研究者のレクチャーを聴きました。ゼーバルトというドイツの作家の「空襲と文学」(白水社・ゼーバルトコレクション)という作品への応答としてこの作品を見るという、なかなか、刺激的なお話だったと思いますが、レクチャーの中で、ヴェンダース映画との関連も出てきたのですが、天使の行方については聴き洩らしたようです。 まあ、それにしても、ロズニツァの映画は疲れますね。今回は「戦争と正義」という組み合わせでしたが、「国家と正義」、「民族と正義」、「宗教と正義」、個人的には「教育と正義」あたりも浮かびますが、「正義」が問い直されるべき時代 そういう時代がすでに到来していることを、ロズニツァは叫び続けているとボクは思います。誰か、後に続く人つづく人を期待しますが、かなり無理そうですね。 まあ、ボクには、とりあえず、ゼーバルト再読が課題の作品でした。イヤ、それにしても、2本続けてロズニツァは草臥れますね(笑)。監督 セルゲイ・ロズニツァ製作 レギーナ・ブヘーリ グンナル・デディオ ウリヤナ・キム セルゲイ・ロズニツァ マリア・シュストバ編集 ダニエリュス・コカナウスキス2022年・105分・ドイツ・オランダ・リトアニア合作原題「The Natural History of Destruction」2023・11・04・no136・元町映画館no212!
2023.11.11
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四元康祐「日本語の虜囚」(思潮社) 洗面鏡の前のコギト 四元康祐眼を開けて鏡のなかの自分を見る眼を閉じてその自分を闇に流そう(マバタキは 慌しくも無言の舞台の暗転息殺す黒子らの汗の臭いよ)眼を開けると 自分はまだそこにいてだがその自分がさっき見たあの自分だという保証はあるのかしらん(あれはあれ これはこれただひたすらに流れるだけの3Dハイヴィジョン)どれだけ覗きこんでも睨みつけても笑いかけても眼は口どころか手ほどにも物を言わんねまるで塀の節穴の向うからきょろきょろとこっちを見ている赤の他人の目玉のよう沐浴するスザンナ もう何世紀にもわたって物陰に屈みこんでその裸身を視姦している二人組の老人たちお尻ふりふり逃げだす対象を視線はしつこく追いかけて景色はめくるめくメリーゴーラウンド意識は続くよどこまでも君はどっちだ 見る人それとも見られる人?目の前に我が手をかざして振ってみる(仰向けのザムザの視野の辺境で これが俺かよコガネムシ風にたなびく脚脚脚脚脚脚・・・・・)可哀相なグレゴール 部屋には鏡ひとつなかったのかねカフカが Die Verwandlung(変身)を書いていたちょうどそのころリルケはWendung(転向)という詩を書いたおなじプラハ生まれのふたりは題名同士の語根も同じ「もはや眼の仕事はなされた/いまや 心の仕事をするがいい・・・・・・内部の男よ 見るがいい お前の内部の少女を」ってリルケは言うけどどんなに眼を閉じたって内部なんか見えるもんか瞼の裏でも目玉親爺は直立不動 律儀に寝ずの番をしているからね夢現を問わず形なし色めくものを片っ端から指差してはあの甲高い声でものの名前を喚き続けるおかげで鬼太郎の大きすぎる頭のなかには名辞の卒塔婆がぎっしりだ虚空に浮かぶ閉鎖系としてのソラマメひと粒からだは殻だ からだは空だ(闇に薔薇 籠に虫の音 胸にひと・・・・・・我は悲しき卓上ビーマー)眼の穴 鼻の穴 耳の穴 そして皮膚のぽつぽつそこから奔流する感覚のことごとくをデカルトは虚空として退けたすえに「そう考えているこのわたし」がそこに存在することだけは揺るがしがたい真理として認めるに至ったがその瞬間の〈わたし〉に自画像を描かせたとしたら一体どんな姿が現れただろう彼は幾何学が好きだったそうだから単純明快な三角形でも描いてみせただろうかだが光学を研究し光の屈折や虹の論文まで書いている人にその頂点近くに丸い孔を描きこむ誘惑に抗うことができたかどうか?丸窓に額押し付けたままなすすべもなく冷たい炎に包まれてゆくアストロボーイラグビーボールひとつ小脇に抱えていろは坂駆け下りる首なし男の気楽な足取り操る者と操られる者の凭れ合い癒着の構造もの言わざれば腹膨るるというその腹をば切り裂いて覗いてみたいな未だ発せられざる言語なるものあえいうえあお「浮かべる脂の如くして水母なる漂へる」粥状なりしややゆぇいゆゆぇやよどこから湧いてくるのかわうぇうぃううぇうぁうぉ文字は干からびきった言葉の吐瀉物そこに己の唾を垂らしてオートミールのごとく素手で掻き混ぜ舌の先ぴんと尖らせて「こをろこをろに掻き鳴ら」す物書く人の姿こそおぞましけれ反吐が出そう「我思う」とは「我言語する」、いやもっと正確に訳すなら「我推敲す、故に我あり空高く我が脳髄を蹴り上げたまえこちら、カモメ」やまとうたは、人のこころをたねとして、よろずのことのはとぞなれりけるって貫之くんは言ったんだ、ならば言葉の蔓をザイルに縒って意識の深層へ降りてゆこうか か、 か、 かるた、たいよう、 うみ、 みる、 る、 る、 るーびっくきゅーぶ、 ぶんしこうぞううぞうむぞう、うくれれれもんみかんぽんかんちかんはあかん?歯ブラシ片手に鏡の前でぽっかり口を開ければ地獄岳暖簾くぐって喉ちんこ ちぎれて揺れる蜘蛛の糸その先どろりと澱む生あったかい闇の奥から立ち昇るのは匂えど無色響けど透明 あれぞ言霊?いいえ、あれはポエムのシャボン玉 星影に誑かされて宇宙を目指し脳天に当たって砕けて消えた 現代詩なんて、長いこと読んだことがなかったのですが、だから、四元康祐なんて言う詩人の名前も知りませんでした。知ったのは池澤夏樹「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)に載せられている2011年11月15日の読書日記「デカメロン、きだみのる、陰部(ほと)の紐」(池澤本P395) によってです。 池澤夏樹はこんなふうに紹介しています。×月×日 まいったな、と詩集を手に座り込む。いや、四元康祐の「日本語の虜囚」(思潮社)のことだ。テーマは日本語の歴史、主人公は日本語そのもの、比喩はすべて性交がらみ、 やったわな、やったわな、 大陸渡来の帰化人と 稲作欲しさにやったわな 仏像抱えた鑑真と 漢字貰ってやったわな って、この卑俗きわまる七五調が効き過ぎて痛いほど。 やったわな、やったわな どんな客とも寝てしまう 軽業並みの膠着語 融通無碍のてにをはは アメノウズメの陰部(ほと)の紐 なでしこジャパンの処女性は 万世一系不滅です」これだけのところに注を付ければ何十行になるだろう。こういう圧倒的表現の技術を詩というのだ。 いかがでしょうか、池澤本に引用されているのは「旅物語 日本語の娘」という詩の一節です。下に詩集の目次を写しました。参考にしていただければと思いますが、後ろの数字は所収ページです。一つ、一つの作品が、結構、長くて読みでがあります。若いのかと思っていたら、ボクが知らなかっただけで詩人は1959年生まれで、まあ、もう、お若いというお歳ではありません。長くミュンヘンに暮らした人のようです。詩は日本語で発表されているらしく、思潮社の現代詩文庫179に「四元康祐詩集」があります。いずれ読むことになりそうです。目次日本語の虜囚 009洗面鏡の前のコギト 017多言語話者のカント 025歌物語 他人の言葉 035旅物語 日本語の娘 045島への道順 063マダガスカル紀行 069新伊呂波歌 079ことばうた 109こえのぬけがら 113うたのなか 117 われはあわ 121うみへのららばい 125みずのれくいえむ 129虚無の歌 133日本語の虜囚―あとがきに代えて140
2023.11.10
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クリスチャン・カリオン「パリタクシー」パルシネマ パルシネマのタクシー映画二本立ての二本目でした。もう1本がジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラネット」で、それを見たあとに続けてみたものですから、なんとなく「つづき」というか、もう1本、パリを舞台にしたジャームッシュを見ているような、変な気分で見始めました。 何というか、見終えての比較でいえば、ジャームッシュの才気あふれる作品に並べられると、カリオンという監督が、いかにも素直というか、素朴なのですが、チョット見劣りする気がしました。しかし、才気や新しさは感じませんでしたが、とても後味のいい作品でした。一人ぼっちの老婦人とうだつの上がらない中年男の出会いと別れのお話でしたが、かなり好感を持ちました。 90歳をこえた一人暮らしのマドレーヌさん(リーヌ・ルノー)が、いよいよ一人暮らしをあきらめなければならない境遇になって、老人介護施設にお引っ越しという、その日、タクシーを呼びます。呼ばれてやって来たタクシーの運っちゃんシャルル(ダニー・ブーン)は、金欠と免停、ついでに家庭の危機のなかで、イライラの絶頂です。不機嫌な老婦人と、これまた、不機嫌な中年男との出合いで始まる映画でした。 まあ、どうなることか? で始めて、メデタシ!メデタシ! で終わる定型なのですが、結局、このお二人、リーヌ・ルノーという人も、ダニー・ブーンという人もフランスでは誰でも知っている歌い手さんとコメディアンらしいのですが、このお二人の雰囲気がいいのですね。とてもいい後味で見終えました。 90年という、波乱万丈とはいえ、堂々たるとはいえ、始まりから今日まで、文字通り孤独な人生を、文字通り一人で歩いてきた女性が、しがないタクシー運転手に心を開く機微が、パリ名所見物というべき風景を時間旅行の様に通り抜けながら、他人同士が背を向けて座っている狭い車内で、視線の演技として繰り広げられていく二人芝居でした。 人が人と出会うことの暖かさを、素直に描いていて、お二人に拍手!でした。 まあ、好き好きですが、こういう話、ボクは好きですね(笑)。監督 クリスチャン・カリオン脚本 シリル・ジェリー クリスチャン・カリオン撮影 ピエール・コットロー編集 ロイック・ラレマン音楽 フィリップ・ロンビキャストリーヌ・ルノー(マドレーヌ)ダニー・ブーン(シャルル)アリス・イザーズジェレミー・ラユルトグウェンドリーヌ・アモン2022年・91分・G・フランス原題「Une belle course」2023・11・07・no138・パルシネマno71!
2023.11.09
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ジム・ジャームッシュ「ナイト・オン・ザ・プラネット」パルシネマ パルシネマのタクシー映画二本立ての1本目はジム・ジャームッシュ監督の1991年の作品で「ナイト・オン・ザ・プラネット」でした。数年前にシネ・リーブルの特集で見て感想を書きました。今回、自分の書いた、その時の感想を読み直しましたがアホなことをやっていますね。というわけ、今回のお目当ては二本目の「パリタクシー」なのですが、せっかくなので、両方見ようとやって来ました。 映画館の前のポスターを見ていて、「なんか変だな?」と思いました。上のポスターですが、ハンドルのところに写っているのが運転手のコーキー役のウィノナ・ライダーなのですが、イメージと違って妙に老けて写っていて、往年の松岡きっこさんとかいうタレントさんのように見えたことにひっかかったんです。「こんな顔やったかなあ?」 と、しげしげと見入っていて、後ろの座席に座っている女性が、ジーナ・ローランズだと気付いてびっくりしました。実際のポースターもぼやけている野にです。昨年から、カサヴェテス映画の彼女を繰り返し見たせいですね。「へぇー、ジーナ・ローランズが出てたんや!」 で終わりでしたけど、こうやって映画館をウロウロしてると、ボクでもそういうことに気づくようになるんですね(笑)。 で、ウィノナ・ライダーの方は、映画を見ながら再確認しました。「な、やっぱり、もっと若いやんな。まあ、それにしてもようタバコ吸うなあ。」 ロサンゼルスからヘルシンキまで、それぞれ、バカバカしいっちゃあバカバカしいのですが、おもしろいですねえ。それにしても、ローマのジーノ君、あんなところに、神父さん、ほっぽらかしてしまって大丈夫なのですかね(笑)。いや、ホント、ようやるわ! ですね(笑)。それにしても、もう、30年以上も昔の映画なのですね。そのことが、一番不思議な気がしますね。いや、ホント。(笑)監督・脚本 ジム・ジャームッシュ撮影 フレデリック・エルムス編集 ジェイ・ラビノウィッツ音楽 トム・ウェイツキャストロサンゼルスウィノナ・ライダー(運転手コーキー)ジーナ・ローランズ(ヴィクトリア)ニューヨークアーミン・ミューラー=スタール(運転手ヘルムート・グロッケンバーガー)ジャンカルロ・エスポジート(ヨーヨー)ロージー・ペレス(アンジェラ)パリイザック・ド・バンコレ(運転手)ベアトリス・ダル(盲目の女性)ローマロベルト・ベニーニ(運転手ジーノ)パオロ・ボナチェリ(神父)ヘルシンキマッティ・ペロンパー(運転手ミカ)カリ・ヴァーナネン(客)サカリ・クオスマネン(客)トミ・サルミラジャンカルロ・エスポジート(客アキ)1991年・129分・アメリカ原題「Night on Earth」2023・11・07・no137・パルシネマno70!
2023.11.08
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照井翠「龍宮」(コールサック社) 池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の1冊なのだ」(作品社)という書評集に教えられた1冊です。まあ、そうは言うものの、実はかなり以前から照井翠という方の「龍宮」という句集が存在し、次のような句が読まれていることは、何というか、風の便りで知っていました。喪へばうしなふほどに降る雪よ春の星こんなに人が死んだのかなぜ生きるこれだけ神に叱られて寒昴たれも誰かのただひとり いかがですか。下にも、もう少し引用しましたが、これらの句を紹介しながら、池澤夏樹はこの句集との出会いをこういいます。感情を揺すぶられてどうしようもなくなった。人はたった十七文字を前にして取り乱すこともあるのだと知った。(P207) ボクはボクで、そういう句集があると知りながら、なんとなく遠ざけていたのは、こんな句があることを知っていたからかもしれません。毛布被り孤島となりて泣きにけり もう、ボンヤリした記憶なのですが、1995年の神戸の、どこかの体育館で見たことのある光景だと思いました。アスファルトが陥没して地下鉄の線路が見えていたり、町全体が傾いていたり、石の鳥居が真ん中でおれていたりした光景が一緒に浮かんできて、なんとなく、しんどいなと思ったんですね。 でも、池澤夏樹の解説というか紹介を読みながら、まあ、そうはいっても読んでみるかとなったわけです。 文学に携わる者として、あのような出来事を文学はどうやって作品化するのかずっと考えてきた。自分も含めてたくさんの文学者が三・一一と格闘している。恐怖と戦慄・激情・喪失感、はたまた時を経た後でもまだ残る喪失感と悲哀の思いは文字にできるのか。協調の副詞ばかりをハデに立てても遠くの者には伝わらない。余る思いを容れるにはしかるべき器が要る。 それが、この人の場合は俳句だった。 ボクが手に入れたのは照井翠 句集 新装版「龍宮」(コールサック社)という文庫版で、2021年に出版された本です。池澤が紹介しているのは2012年の角川書店版のはずです。で、角川版にも載せられている、照井翠自身の「あとがき」に、こんな一節がありました。 てらてら光る津波泥や潮の腐乱臭。近所の知人の家の二階に車や舟が刺さっている、消防自動車が二台積み重なっている、泥塗れのグランドピアノが道を塞いでいる、赤ん坊の写真が泥に張り付いている、身長の三倍はある瓦礫の山をいくつか乗り越えるとそこが私のアパートだ。泥の中に玉葱がいくつか埋まっている。避難所にいる数百人のうな垂れた姿が頭をよぎる。その泥塗れの玉葱を拾う。避難所の今晩の汁に刻み入れよう。 戦争よりひどいと呟きながら歩き廻る老人。排水溝など様々な溝や穴から亡骸が引き上げられる。赤子を抱き胎児の形の母親、瓦礫から這い出ようともがく形の亡骸、木に刺さり折れ曲がった亡骸、泥人形のごとく運ばれていく亡骸、もはや人間の形をとどめていない亡骸。これは夢なのか?この世に神はいないのか?(P249~250) 照井翠自身が釜石で被災し、三日目の話です。句集にはその体験を彷彿とさせる句が並んでいます。池澤夏樹が「どうしようおなくなった」作品群です。 ボクは、ボクで、湧き上がってくるなんともいえないなにかと格闘する羽目になりました。某所に座り込みながら、文庫本の句集相手に涙をこらえるなんて、まあ、チョット想像できない事態です。冥途にて咲け泥中のしら梅よ脈うたぬ乳房を赤子含みをり双子なら同じ死顔桃の花卒業す泉下にはいと返事してひとりまたひとり加わる卒業歌初蛍やうやく逢ひに来てくれた灯を消して魂わだつみへ帰しけり柿ばかり灯れる村となりにけり廃校の校歌に海を讃えけり節分や生きて息濃き鬼の面半眼に雛を並べゆく狂女虹忽とうねり龍宮行きの舟朝の虹さうやつてまたゐなくなる 被災から、ほぼ1年半の間に詠まれた二百句ほどの句が載せられています。ある種の直接性というか、いきなり突き刺さってくるなにかを、何とか受け止めようと踏ん張りながらの読書(?)ですね。詠んでいるご本人も大変だったでしょうね。 ちなみに文庫版には、池澤夏樹の「いつだって・・・」の全文と、「照井さんは今、俳句によってかろうじて人間界とつながっているが、もはや鯛やヒラメは寄せ付けない、一匹の龍なのだ。」 と結んでいる玄侑宗久の解説も載っています。
2023.11.07
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セルゲイ・ロズニツァ「キエフ裁判 戦争と正義Ⅱ」元町映画館 歴史資料のフィルムを編集し、ソビエト・ロシアやウクライナの社会の歴史的事件の「実相」を描くドキュメンタリーを、立て続けに発表しているセルゲイ・ロズニツァという監督の新作「破壊の自然史」と「キエフ裁判」の2作が「戦争と正義Ⅰ・Ⅱ」と銘打ってセットで上映されています。もちろん、元町映画館です。 三連休の中日の11月4日の土曜日が初日でした。2週間の上映期間があるようですし、連休中で、人も多そうですから、まあ、昼過ぎ上映になる来・来週を待つのがいつものシマクマ君ですが、ロズニツァの新作というだけで、なんだか気が焦って、朝一番、10時開映4日に出かけました。先週、1週限定上映の「竜二」を見損じたこともあってでしょうね、とても、月曜まで待ちきれない気分でした。 1本目が「戦争と正義Ⅱ」、「キエフ裁判」でした。1946年、現在はウクライナ共和国の町ですが、当時はソビエト連邦の町だったキエフで行われたナチスの戦争犯罪者たちの裁判のドキュメンタリーでした。 ロズニツァのドキュメンタリーには、所謂ナレーションがありません。場所とか時間を指示する字幕も、ほぼ、ありません。現在の世相の真反対の、実にわかりにくい映像です。「あんたが見てどう思うかやで!」 まあ、そういう啖呵を切られているえいがですから、見る側も、それ相当の覚悟がいりますが、それがたまらなくいい! という感じ方もある訳です。 映像はモノクロで、所謂、人民裁判の光景が延々と続きます。裁判ですから罪状認否に始まり、証人喚問、被告の弁明まで延々とありますが、一方で、吊し上げ的糾弾会でもあることに対して、おそらくロズニツァは意識的です。 「粛清裁判」という、以前見た、ロズニツァの作品でソビエトロシアの裁判のドキュメンタリーと、ほぼ、同型の構成です。 映画は、キエフを占領していたナチスの軍人、まだ少年兵といっていい若い兵士もいますが、彼らが占領地の住民に対してやった所業が、一般に知られている絶滅収容所でのホロコーストにとどまらない、まあ、耳と目を疑うような「悪」であり、それに対して、告発する民衆の、素朴な「善」が対比されているかのように、裁判が物語られているとボクには見えましたが、とどのつまりは10数人の絞首刑が見世物化され、その、ありさまを、おそらく千人を超える群衆が喝采しながら見物しているというシーンで幕を閉じます。 裁判の始まりから、絞首刑の終わりまで記録として残されていたらしい映像が、みごとに編集され、実に、ロズニツァらしいドキュメンタリー映画になっていました。セリフや民衆のざわめきを音として加えることで、歴史的実況中継として、ドラマ化されているところが、この監督の手法です。実に、うまいものです。 しかし、見終えて、ほとほと、疲れました。個人的は思い込みかもしれませんが、この作品がボクの胸中に呼び起こしたのは、直接的には、ロープに吊るされた死体を、断末魔の引きつり姿まで丹念に映像化した1946年当時のカメラマンの胸中にある「善」=「正義」、あるいは、実直な「服務」を支えていた「勤勉」に対する疑いでした。 確かにナチスによる想像を絶する所業は「悪」でしょう。しかし、この日、この場所で、彼ら一人一人を、この形で処刑することは、はたして「善」=「正義」でしょうか。 まあ、そういう、問いかけです。殺すな! そんな言葉も浮かんできました。奴は「???」だ、「???」は殺せ! 人間の歴史の中で繰り返し使われてきた論理です。日常的な法の中にあっても、まだ、この論理を越えることができない社会にわれわれは生きています。世界に目を向ければ、複数の戦争を、起こったことは仕方がない、それぞれに、それぞれの「正義」があるかのような、中立的客観性を装ったかのニュースが公共の名によって蔓延しています。殺すな!」ただちに「戦争行為」をやめよ! おそらく、それをいうためにロズニツァはこの映画を作ったと思いました。彼は、ナチは悪だけど、人民裁判は正義だというような楽観主義者ではありません。これは「殺すな!」を貫くための映画でした。まあ。それが、ボクの実感でした。 監督・脚本 セルゲイ・ロズニツァ編集 セルゲイ・ロズニツァ トマシュ・ボルスキ ダニエリュス・コカナウスキス2022年・106分・オランダ・ウクライナ合作原題「The Kiev Trial」2023・11・04・no135・元町映画館no211
2023.11.06
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池澤夏樹「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社) 昔から、書評とかブックレビューいうのが好きだったんです。で、市民図書館の棚を見ていると、2019年の初版なのに、新入荷の棚に、デン!と座っていたのがこの本です。その分厚さと、何と言っても、この書名に惹かれました。 池澤夏樹「いつだって読むのは目の前の1冊なのだ」(作品社) 今は、書評というのか、レビューというのか、まあ、よくわからないのですが、小説家の池澤夏樹が「私の読書日記」と題して2003年から2019年までの16年間、週刊文春という週刊誌に連載していた444冊の書評、本に関するコラムを1冊にまとめた本だそうです。 腰巻の広告というか、キャッチ・コピーによるとそういうことなのですが、実際に手に取ってページを繰り始めてみると、小説、エッセイはもちろんですが、歴史書、科学書、絵本から児童文学、写真集まで、ほぼ、700ページ、表題になっている本は、たしかに444冊なのでしょうが、1冊について、多ければ数冊の関連本を話題にして語っているわけで、平均すれば、1ページに1冊、ほぼ、700冊を超える書名がこの本の中には出てくるのです。すごいでしょ(笑)。で、どんなほん? まあ、まず、そう思いますよね。で、ネット上の紹介記事を見ていて気付いたのですが、あまりの多さに、どんな本の紹介、書評が書かれているのかわからないのです。目次も、多分、あまりの多さののせいでしょう、掲載されていません。困りますよね。 そこで、調子乗りのシマクマ君の出番です。目次を写して読書案内すればいいじゃないか。 というわけで、目次を写しはじめたのです。 こんな感じです。目次を読むだけでも大変です(笑)が、お付き合いいただけるでしょうか。目次 : はじめに2003年001 伊良子清白、星野道夫、絵本など002 海賊船の子供、複言語の時代2004年003 ヒトの手と歯、数学の天才、詩人たち004 ハイチとアフガニスタン、今の日本語005恋と歴史と日露戦争006 兵役とアルファベットと住所、映像の力007 移住者、クレオール、日本史への挑発008 生理レベルの快感、消費生活、網野史学009 医師と銃、ルポルタージュの水準010 科学者の感情、パルテノン、赤いキリスト011 アボリジニの歴史観、野生の旅路、技巧の短歌2005年012 理科年表、四色問題、コンクリート 013 武装解除の技術と二重国籍014 カナダの作家、イタリア御作家、狂牛病015 アメリカの先住民、カタコトの響き、知識人016 チェーホフの恋、画家たちの恋017 家庭新聞とカレーソーセージ、等質性018 戦争の伝説化、沖縄戦、渓流の風景019 大西洋、烈女の大活躍、ブレスレット020 戦後の雰囲気、戦後の思想、好きな建物021 常識転覆、ロンドン便り、架空飛行2006年022 ロリータ、神話朗読、脱神話の小説023 母語と敵語、性の地獄、楽天的024 地球を測る、父の肖像、スローフード025 映画のサイード、地中海、スナネズミ026 バラ再び、こども哲学、小説の文体027 ロシアの森、人体の設計、卓抜な比喩028 クマムシ、昆虫の脳、キノコ図鑑029 爆撃機の幽霊、かわいい猿、情報と調理030 速い小説、幕末と維新、悪口2007年031 現代建築、漂流、フランス人032 旅する思想、肩すかし、宇宙論033 老いた作家、南仏、アフリカの神034 椅子と椅子、それに民家035 作家の自画像、器械、味覚のことば036 アメリカ文明、モスラ、海の中の旅037 イラク、「すばる」、火星を走る038 ナイジェリアとアメリカ、牛を飼う、豆腐039 ビルマ、シベリアの記憶、声の詩集2008年040 樺太の旅、私小説、宗教と科学041 火星の日没、岩壁を登る、アニ眼042 美しい骨格、幼年期、深海生物043 詩を読む、弔辞を読む、宇宙エレベーター044 地学論争、ホビットはいたか、北の自然045 核の廃墟、Uボート、冒険島046 責任の所在、ロンドン、博学の人047 ヴェトナムのカメラマン、女性軍医の日記048 モノの質感、サンパウロ、老作家の怒り2009年049 金魚、言葉のセンス、変な博物館050 万民のための南極文学入門051 アップダイクと自戒、幸福と喪失、ポスト戦後052 戦争とスパイと少年、ジュールヴェルヌ、遠い土地053 ブルターニュの死者たち、綱渡り、旅するアフリカ054 環境世界、トニ・モリスン、明治の函館055 ブタを飼う、詩の束、哈爾賓056 遠距離家族、木の戦略、怪力乱神2010年057 数学の天才、偶然という罠058 正しい医学、怪しい医学、緩やかな時間059 アフガニスタンという鋳型、祖父母の怪談060 大胆な歴史小説、進化と生命、ミクロの世界061 砂漠の絵、粘菌の問題解決、再編集された『今昔』062 凍死した兵士たち、野菜また野菜、雲の行き来063 写真は語る、夫婦バトル、子供向けの詩064 クマがたくさん、作家の人望、数字の読み方065 我が妬み、アフリカへの旅、空襲とスズメ2011年066 フランスのコミック、山田風太郎、植物図鑑。067 ホッキョクグマ三代記、動物の行動、樹皮068 牧畜少年小説、箱を作った男069 チェス、中国系、キューバへ行こう070 メキシコの壁、ルーヴルの地下、変人たち071 浸水範囲、「降れ降れ」、江戸の自由人072 灯台の少女と動く灯台073 ペンキを塗られた鳥、普天間、沖縄074 原発、普天間、沖縄075 アラブの春、炭坑、パスタの歴史2012年076 詩人のダイヤグラム、雪のダイヤグラム、宇宙077 デザインの思想、地史の証拠、詩と死078 津波、座談の達人、昔話の達人079 今どきの歎異抄、キノコ、密室トリック080 ヤンキー、うまい短編、気持ちのよい詩081 死の詩、古典あそび、津波の後082 地球と人間の歴史、生物の歴史、東京駅083 デカメロン、きだみのる、陰部(ほと)の紐084 震災句、シェークスピアの秘密、数学の秘密2013年085 北方の自伝の傑作、建築の最前線 086 「原発事故報告書」、地震を学ぶ、黒い羊087 現代の人種論、おっさん、おっきらい088 イラク戦争、ユージン・スミス、ピンチョンの冒険089 永続敗戦、文士のブログ、担ぐな、ひねるな090 長崎の負の遺産、半藤史学と戦争の評価091 アサギマダラ、ベートーヴェン、原発のコスト092 巧緻の小説、ミツバチの家探し、動く彫刻 093 意地悪な小説、優しい小説、コンピューター史2014年094 サーフィン、星に住む生き物、オオカミ095 汚れた写真、空港共和国、歪んだ言葉096 老いと病と死、柳田と折口、偽フェルメール097 「いか問」、化学遺伝学の発想、新幹線098 子供向けの詩の響き、文学賞、ねずみ099 話の中の話の中の…、墓を開いて、アンソロジスト100 馬の乱入、夢の恋人、内耳のサイズ101 あり得ない美術館、悲惨な二十世紀史、イグ・ノーベル賞102 進化論の見取り図、亡命ロシア料理2015年103 ヒョウタン、日本列島と料理、古典と奇譚104 本当のアイヌ史、原発は「漏れる」105 建築のスペクトル、木造建築、アホウドリ106 戦艦大和、「ふりだした雪」107 日本人の由来、二重螺旋秘話、元気な元素たち108 薬害エイズ、電柱のない風景、映画の検閲109 アロハで田植え、我らが祖先、山上憶良の年収110 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ、灯台のレンズ111 クリスマスだから(変な)短編を読もう2016年112 贋作、見事なインタヴュー、佐藤春夫 113 日本沈没、死都日本、亡国論114 東北の叛乱、変なエッセー、変な小説115 英国の桜、日本語の謎、日本語の遊び116 軌道上の雲、地図とマップ117 三冊の詩集118 田中小実昌、ナダール、巨大数119 キノコ、物理と計算、昭和なことば120 贋作者の告白、読書の歴史2017年121 難民の現実、このモノはなに? 122 ウニとバッタ、飛ぶ小鳥、一遍さん123 文学のトリエステ、震災の短歌と俳句、地球の中124 移住先の料理、地名の由来、ネズミの月旅行125 和邇一族、イスラムの文化遺産、数学ゲーム126 今様、日本人奴隷、十六世紀のイギリス127 全歌集と索引、泰斗の随筆、祝詞と神道128 恩寵の物語、犬の物語、愉快な病理学2018年129 ミステリと建築、自転車二人乗り、スパイたちの老後130 バテレンと変形菌131 民族、伝統、久保田万太郎132 ネコの野生、声のすべて、動物たちの応用物理133 展覧会二つ、書評家の偉業、市場の古書店134 核と共生、数学と宇宙135 日本語を学ぶ、旧字体・正字体、アラブ音楽136 宇宙に行くべきか、独楽とモノレール2019年137 おばあと化学、深い穴、2001年138 丁々発止の対談、体熱の収支、御嶽とグスク139 かがく、縞模様、日本語、季語140 中国のSF、南極紀行、南洋の科学者人名索引 書名索引 はい、これが目次です。ここまで、画面を読みながらスクロールした方に拍手!ですね。繰り返しですが、全部で444冊の書評に、140章の表題をつけて600ページを越える1冊の本に編集してあるわけです。目次だけで9ページもあります。 ところがです、こうして目次を写しても(まあ、ここまで読んでいただいても)、やっぱり、どんな本が話題にされているのかわからないのです。こまりましたね・・・💦💦 さて、どうしましょうかね。 もちろん、シマクマ君も写しながら気づいて、バカバカしいからやめようかなとも思ったのですが、まあ、始めてしまったことだしという気分で写しました。 で、これからどうするか。 あのですね、目次の表示で色が変わっているところをクリックしてみてください。そうすると、もう少し詳しい記事がわかるようになっているかと思うのです。こう書いている2023年の11月5日には色が変わっているところはまだありません。そのうち変わると思いますが、完成するのがいつになるか、飽きずに続けられるか、ちょっと自信がありません。 まあ、とりあえず、池澤夏樹が20年近くかけた仕事です。ちょっと、というわけにはいかないでしょうが、付き合ってみようかな、という思い付きです。というわけで、一緒に遊んでいただけるとうれしいかなということですね。じゃあ、よろしくね(笑)。
2023.11.05
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マーティン・スコセッシ「キラーズ・オブ・ザ・フラワー・ムーン」109シネマズハット マーティン・スコセッシという監督は、1942年生まれで、今年、80歳だそうです。まだ30代だった1970年代に「ミーン・ストリート」(1973年)、「アリスの恋」(1974年)、「タクシー・ドライバー」(1976年)という3作で、但馬の田舎から神戸に出てきて、大学には入ったものの、することがなくてボーっとしていた20歳になったばかりの青年を映画狂いの落第生に変貌させた監督、まあ、複数いますがその一人です。 あれから、50年ほどたちました。スコセッシは80歳、映画狂いで身を持ち崩しそうだった青年は69歳、監督が映画の世界に連れてきて、今や、世界的大スターになった名優ロバート・デ・二―ロは79歳です。で、69歳の老人はあのころ目を瞠った二人が映画を撮ったというわけですから、見に行かないわけにはいきません。三連休の初日ですが、109ハットの朝一番のプログラム(まあ、10時45分でしたが)(笑)をものともせず出かけましたよ。マーティン・スコセッシ監督の3時間を超える大作(?)「キラーズ・オブ・ザ・フラワー・ムーン」です。 2人は5年前だったかに「アイリッシュマン」という、アル・パチーノとデ・ニーロの老優共演で、なかなか渋い作品が公開されましたが、今回はアル・パチーノではなくて、レオナルド・ディカプリオが主役で、大根デカプリオと芸達者ロバート・デ・ニーロの演技合戦でした。 ことに、デカプリオ君は、汚名返上の百面相演技ともいうべき、気合の入り方で、こういう演技のお好きな方には見逃せないシーン満載ですし、齢79歳とは、とても思えないデ・ニーロは、期待通り、正体不明のお芝居が炸裂しているデニーロでした。というわけで、206分という長尺映画、なんのその! といいたいところですが、ちょっと空振りでしたね(笑)。見ながら、普段は決して見ない腕時計の灯りをこっそりつけて、3度も見ました。 1920年代のアメリカ西部です。ゴールド・ラッシュとか、インディアンとの戦いとかいう話の時代から、100年ほどたっています。第1次世界大戦が終わった直後、新しく降って湧いたように起こったオイル・ダラー騒ぎのオクラホマが舞台でした。 大雑把に言えば、偶然、棲んでいた土地から石油が湧き出して、大金持ちになったネイティヴ・アメリカンたちをいかに毟るか! と陰謀をめぐらす白人男と、渦中にあって、陰謀にも加担しながら、どこまでも「善き人」でしかありえない、もう一人の白人男の戦い(?)でしたが、長い映画の終盤に至って、映画が語ってきた、一連の迷宮入り殺人事件の解明が、あの、悪名高いフーヴァーのFBIの誕生秘話のテレビ番組として語られるという、まあ、1920年という時代、歴史を背景にした入れ子型の物語だったことが明かされるわけですが、そういう映画の構成も登場人物たちの演技も、面白いといえば面白いのですが、古いといば古いわけで、ボクの頭にわいてきた感想はただ一言「ああ、スコセッシも年をとったなあ・・・・。」 でした(笑)。 映画がFBIの手柄噺の宣伝のための映像だったということは、さすがにわかりませんでしたが、デ・ニーロとデカプリオの出会いのシーンから始まる物語の結末に至るまで、プロット、プロットで、次に何が起こるのか、なんとなく予想できてしまうという不思議な展開でした。だから、ギョッとしてすくむというか、アッと驚きの声を上げるというかがないのですよね。善人を演じているデ・ニーロなんて、はなから信用しない目で見ているからかもしれません。ひょっとすると、デ・ニーロがそういう演技をしていたんじゃないかとも思ったりもしながらなわけですからそうなったのかもしれませんが。 「タクシー・ドライバー」でギョッとしたあの時から、50年ですね。ますます年の功を感じさせるデ・ニーロを見ながら、なんとなくあきたらなく思うのはないものネダリなのでしょうかね(笑)。 でも、まあ、デカプリオ君とデ・ニーロさんには拍手!ですね。マーティン・スコセッシ監督も、これでオシマイとかいわず撮り続けてほしい気持ちを込めて拍手!でした(笑)。監督 マーティン・スコセッシ原作 デビッド・グラン脚本 エリック・ロス マーティン・スコセッシ撮影 ロドリゴ・プリエト美術 ジャック・フィスク衣装 ジャクリーン・ウェスト編集 セルマ・スクーンメイカー音楽 ロビー・ロバートソンキャストレオナルド・ディカプリオ(アーネスト・バークハート)リリー・グラッドストーン(モーリー・カイル)ジェシー・プレモンス(トム・ホワイト)ロバート・デ・ニーロ(ウィリアム・“キング”・ヘイル)タントゥー・カーディナル(リジー)カーラ・ジェイド・マイヤーズ(アンナ)ジャネー・コリンズ(レタ)ジリアン・ディオン(ミニー)2023年・206分・PG12・アメリカ原題「Killers of the Flower Moon」2023・11・03-no134・109シネマズハット34!
2023.11.04
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「ケーキやったら、何個でもダイジョウブよ!」 ベランダだより 2023年11月3日(金)ベランダあたり 今日は2023年の11月3日、金曜日です。チッチキ夫人のお誕生日! です。 いくつになったのかは謎にしておきたいようですが、戌年です(笑)。 実は、写真のケーキは11月4日のケーキです。元町ケーキのザクロと、もう一つの名前は覚えられませんでした。「ケーキやったら、何個でもダイジョウブよ!」 まあ、そんなふうに豪語する方ですから、一日遅れを理由に、まずはご自分の分を平らげて、その後は‥‥。 今年も平和な11月3日でよかったですね(笑)。 ベランダでは唐辛子が、こんな風に赤くなって、かなり辛そうです。 で、ちょっと、ちょっと! と大騒ぎしてご自分でお撮りになったちょうちょもいました。お祝いに駆け付けたようです。 玄関先にはこんな花も咲いていました。 実は、もう散りかけいるのですが、ホトトギスです。 で、日は違うのですがヤサイクンが訪ねてくれました。ゆかいな仲間の皆さんは、あれこれお祝いを届けてくれていて、チッチキ夫人はご満悦ですが、ヤサイクンが贈ってくれたのはモンゴル800の絵本「琉球愛歌」と彼らの絵葉書でした。で、今までヤサイクンの愛称で登場してもらっていたのですが、今後は、まあ、彼の愛車トラキチ号にちなんで、トラキチクンと改名したいと思います。もちろん、ブログの上での話で、本人の与り知らぬことですが、読書の皆様には、よろしくお願いいたします。 これがトラキチ号です。なかなかかっこいいのですが、トラキチむき出しなところが笑えますね。 というわけで、チッチキ夫人のお誕生日、あれこれありましたが、プレゼントについてはまたのご報告ということですね(笑)。それではまたね。ボタン押してね!
2023.11.03
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クリスティアン・ムンジウ「ヨーロッパ新世紀」元町映画館 夜の7時から始まる「裸のランチ」を見ようというのが、この日の目論見だったのですが、それまでの時間をどうつぶそうか?という時間つぶしで見たのがこの作品でしたが、あえなくノック・アウトされてしまいました(笑)。 クリスティアン・ムンジウというルーマニアの監督の「ヨーロッパ新世紀」という映画です。見終えてウーンと唸りながらノック・ダウン!でした。繰り出されるパンチが凄かったですね。 原題は「R.M.N」というらしいのですが、日本では「MRI」と呼ばれている医療機器、音波だかで脳とか内臓とかの断層写真を撮る、あの機械のことですが、映画は「21世紀ヨーロッパ」の断層写真とでもいうべき構成です。 しかし、この映画が俊逸なのは、R.M.Nというローマ字が「ルーマニア」という、EUの中では、東ヨーロッパのはずれの田舎国家の頭文字になっていて、その中でもトランシルヴァニアという、ボクなんかは吸血鬼がらみでしか知らない地域がMRIで検査されているにもかかわらず、21世紀のヨーロッパ全体の、まあ、もう少し大げさに言えば世界全体の断層写真を提示していたと感じさせるところにあったと思いました。 父親がドイツの食肉処理工場に出稼ぎに行っていて、母と二人暮らしの少年が、学校の帰り道の山の中で「なにか」を見ておびえるシーンから映画は始まりました。「なににおびえたのだろう?」 上のチラシの少年です。名前はルディ、いい顔しているでしょう。 場所はあのトランシルヴァニアの森のなかです。少年が見たのは吸血鬼だったのでしょうかね? 映画の最後のシーンに、もう一度、画面が暗くてよくわかりませんでしたが、クマのような何かが出てきます。舞台になっているこの地域は野生のヒグマの生息数がヨーロッパでも有数の地域なのだそうです。映画の中にフランスから来た野生動物の保護活動をしている青年も出てきます。 ネタバレのようですが、この映画が差し出した難問は、最初と最後のシーンに「なにが出てきたのだろう?」 でした。これからご覧になる方で、ファーストシーンとラストシーンに「なにが出てきたのか」おわかりになったら、教えていただきたいぐらいのものです(笑)。 ここまで、いかにも意味不明の映画のような感想を書いていますが、にもかかわらず、じつは、すごい作品だと思いました。この作品は、グローバリズムに翻弄されている現代社会の負の局面を見事に映し出していると思いました。しかし、にもかかわらず、イヤだからこそでしょうね、見終えて、ぐったりします。 たとえば、この作品の字幕は3通りに色分けされています。配給会社ではなく、映画の編集上の工夫だと思いますが、映像の中ではルーマニア語、ハンガリー語、外国語(ドイツ・フランス・英語)の3通りの言葉による会話が飛び交うからです。 舞台はヨーロッパの田舎の町ですが、もともと、複数の母語を使用する多民族地域なのです。ことばが通じ合わない、だから、おそらく、日常的習慣や宗教意識、常識も異なっている他者の寄り集まりの社会なのです。その社会に、外国語である英語を使う新しい他者が流入してきます。アジアからの移民労働者です。すると、今まで、多様だったことが当たり前だったはずの住民たちの中に、不満なのか不安なのか、判然としませんが、何かがくすぶり始めます。 で、SNSという、いかにも火の廻りが早く、火の持ちのよさそうな導火線に火がつきます。人々の心の奥の火薬庫には、数え上げればきりがなさそうですが、「貧困」、「格差」、「地域主義」、「人種」、「家族制度」、「宗教意識」、(映画にはみんな出てきますよ)という不満と不安を掻き立てていたいらだちの種が山積みされています。どれに火がついても社会全体の崩壊を予感させる爆発物ですよね。 映画のクライマックスの一つは、火がついてしまったおじさんやおばさんたちが、新しい他者に、「汚い!」「バイキン!」「帰れ!」と声に出して叫び始めるシーンを見事に描いた町民集会でした。 まあ、このシーンを見るだけでも、近代的な常識であるはずの「人間の平等」、「個人の尊厳」といった、本来、根源的であったはずのモラルが戯言でしかなくなりつつある現代を実感できると思います。 グローバリズムという現代社会を象徴する概念がありますが、ようするに地域や歴史を超えて重層化する資本主義の圧力が辺境に向かう時、閉鎖的な社会に残存する前近代的心情の不安が燃え上がり、なりふりかまわぬ他者排斥=ヘイトが心のつながりを作り出し、貧しくはあるけれども、穏やかな田舎生活をしていたはずのおじさん、おばさん、おじいさんや、おばあさんたちに拡散していく展開は、まあ、悪夢でしたね。 しかし、そのシーンを終わらせるのが、現実の悲劇でした。少年の祖父であり、羊飼いだった老人が森の、最初の、あのあたりの木を選んで縊死するのです。この老人の死から、映画のラストまで、ワクワク、ドキドキしっぱなしなのですが、何が起こっているのか全く分からなかったですね(笑)。多分、自分勝手に見間違えているのでしょうね。しようがありませんね。 結局、少年が、映画の始まりで何を見たのかに答えるシーンはありませんでしたが、少年には励ましの拍手を贈りたいですね。 彼はきっと、自分が、これかから生きていく、すぐそこにある、近未来の世界の悪夢を見たにちがいないのですからね。まあ、見間違えでしょうけどね(笑)。 この夏「福田村事件」という映画が評判になりましたが、あの映画を見ながら、思わず「日本人同士なのに」とハラハラされた方には、是非、見てほしいと思いました。 近代社会がようやくのことでたどり着いたはずの、人間という概念の普遍性が喪われつつある現代社会のMRI画像は、一見の価値があると思いますよ(笑)。 まあ、しかし、疲れますし、話のディテールはよくわからないですけどね。監督・脚本 クリスティアン・ムンジウ撮影 トゥドル・ブラディミール・パンドゥル編集 ミルチェア・オルテアヌキャストマリン・グリゴーレ(マティアス)マクリーナ・バルラデアヌ(アナ)マーク・ブレニッシ(ルディ)ユディット・スターテ(シーラ)オルソレヤ・モルドバン(デーネシュ夫人)アンドレイ・フィンティ(パパ・オットー)2022年・127分・G・ルーマニア・フランス・ベルギー合作原題「R.M.N.」2023・10・24・no129・元町映画館no208 !
2023.11.02
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NTLive C・P・テイラー「善き人」シネ・リーブル神戸 ここの所、毎月、出かけているナショナルシアター・ライブです、今日はC・P・テイラーという人の戯曲、「善き人」です。 セシル・フィリップ・テイラー、1981年に42歳で亡くなった、イギリスのユダヤ系劇作家の遺作のようです。アウシュヴィッツ以後の世界、所謂、戦後演劇の世界では、今や古典的戯曲といっていい作品だと思います。映画にもなっています。原題は「GOOD」ですから「善い・・・」ですね。「GOD」ではないのですが、なんか、ちょっと引っ掛かります。 で、舞台に登場するのは3人の俳優だけでした。デヴィッド・テナントという男優が主役のハルダー教授だけを演じますが、エリオット・リーヴィー、シャロン・スモールというお二人は、リーヴィーが主人公が出会うすべての男性(ユダヤ人モーリス・アイヒマン・ナチスの将校・他)を、スモールが、同じくすべての女性(母・妻・愛人・他)を演じていました。舞台は壁で囲まれた空間で、壁際がベンチ、あるいはベッドになっています。 場面の転換は、照明に浮かび上がる人物の姿とセリフによるものだけで、映像も書割も使われていません。音響はクラシックの楽曲が、時折、背景的効果音として聞こえてきますが、ラストシーンでは収容所のユダヤ人たちの合唱が舞台全体を包み込むように演出されていました。 生真面目な文学研究者であるハルダー教授が、「安楽死」に関する論文によって、ヒトラーに見いだされ、ナチスの批判的協力者から、ホロコーストの推進者へと変貌していく経緯と、老いた母と長年連れ添った、しかし、わがままな妻を捨て、若き愛人との暮らしを選び取っていきながら、水晶の夜=クリスタルナハトを目前にして不安に苛まれるユダヤ人の友人モーリスを見捨てていく姿を重ねて演じていく舞台です。 同じ舞台に居続けている主人公ハルダー教授の「ことば」と「すがた」が「善き人」であり続けようととすることの欺瞞を浮き彫りにしていく、デヴィッド・テナントの静かな演技には目を瞠りました。「われわれの想像力はアウシュヴィッツを経験した。われわれはその地点から後戻りしてイノセントになるわけにはゆかぬ。」 今年、2023年に亡くなった、作家大江健三郎の若き日の発言ですが、彼がこの発言をしたのは1972年でした。C・P・テイラーがこの戯曲を書いたのが1981年だそうです。 今、目の前の社会には「イノセント」というようなことばでは、とても言い表せそうもない「無知蒙昧・夜郎自大」の「善き人」たちがあふれていると感じるのは、老人の勘違いでしょうか。 ヨーロッパの映画や演劇が繰り返しアウシュビッツをテーマにするのは、必ずしもユダヤ資本による自己正当化の結果ではないでしょう。しかし、一方にガザの現実もある訳で・・・・。 見終えて、納得した舞台でしたが、何となく不安が湧き上がってくる帰り道でした。世の中、どうなるのでしょうね。 まあ、何はともあれ、主演のデヴィッド・テナントは勿論ですが、エリオット・リーヴィー、シャロン・スモール、さすがのお芝居でした。拍手! シンプルな舞台構成で、役者の内面の表現をクローズアップした演出家ドミニク・クックにも拍手!でした(笑)。作 C・P・テイラー演出 ドミニク・クック出演デヴィッド・テナントエリオット・リーヴィーシャロン・スモール2023年・136分・G・イギリス原題National Theatre Live「Good」2023・10・29・no133・シネ・リーブル神戸no209!
2023.11.01
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夏目漱石「二百十日」(定本 漱石全集 第三巻)岩波書店 二月に一度集まっている本好きの会の課題図書ということで、久しぶりに夏目漱石の「二百十日」という作品を読みました。市民図書館で借りましたが、岩波書店の「定本 漱石全集」の第三巻に入っています。ああ、もちろん、文庫本にも入っていますよ。 明治39年(1906年)10月に中央公論という雑誌に発表された作品で、この全集では175ページから257ページですから、80ページくらいの量の中編小説です。 漱石が「吾輩は猫である」を「ホトトギス」という雑誌に連載したのは明治38年から39年の夏ごろまでで、「坊っちゃん」を発表したのが39年の4月です。で、朝日新聞社に入社するのは明治40年の4月で、最初の連載小説が「虞美人草」です。 まあ、せっかく久しぶりに読んだのだから、ついでに読書案内しようと漱石年譜とかを繰っていて、ちょっとおもしろいと思ったのは職業作家として書き始める直前に書かれた作品だということですね。 で、もうひとつ面白いと思ったことがあるのですが、それは、まあ、この書き出しをお読みなってからということで、ちょっと読んでみてください。 ぶらりと両手を垂(さ)げた儘、圭さんがどこからか帰って来る。「何処へ行ったね」「一寸、町を歩行いて来た」「何か観るものがあるかい」「寺が一軒あつた」「夫から」「銀杏の樹が一本、門前にあつた」「夫から」「銀杏の樹から本堂迄󠄀、一丁半許り、石が敷き詰めてあつた。非常に細長い寺だつた。」「這入つて見たかい」「やめて来た」「其外に何もないかね」「別段何もないな。一体、寺と云ふものは大概の村にはあるね、君」「さうさ、人間の死ぬ所には必ずある筈ぢやないか」「成程さうだね」と圭さん、首を捻る。圭さんは時々妙な事に感心する。(中略) かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。癇ばしった上に何だか心細い。「まだ馬の沓を打つている。何だか寒いね、君」と圭さんは白い浴衣の下で堅くなる。碌さんも同じく白地の単衣の襟をかき合わせて、だらしのない膝頭を行儀よく揃へる。やがて圭さんが云ふ。「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒の豆腐屋があってね」「豆腐屋があつて?」「豆腐屋があつて、其豆腐屋の角から一丁計り爪先上がりに上がると寒磐寺と云ふ御寺があつてね」「寒磐寺と云ふ御寺がある?」「ある。今でもあるだらう。門前から見ると只大竹藪ばかり見えて、本堂も庫裏もない様だ。其御寺で毎朝四時頃になると、誰だか鉦を敲く」「誰だか鉦を敲くつて、坊主が敲くんだらう」「坊主だか何だか分からない。只竹の中でかんかんと幽かに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜が強く降つて、布団のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮ぎつて聞いてゐると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分からない。僕は寺の前を通る度に、長い石甃と、倒れかかった山門と、山門を埋め尽くす程な大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかを覗いた事がない。只竹藪のなかで敲く鉦の音丈を聞いては、夜具の裏で海老のようになるのさ。」「海老の様になる?」「うん。海老の様になつて、口のうちで,かんかん、かんかんと云ふのさ」「妙だね」「すると、門前の豆腐屋が屹度起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼で挽く音がする。さあさあと豆腐の水を易へる音がする。」「君の家は全体どこにある訳だね」「僕のうちは、つまり、そんな音が聞こえる所にあるのさ」「だから、何処にある訳だね」「すぐ傍差」「豆腐屋の向か、隣かい」「なに二階さ」「へえへえ。そいつは・・・・・」と碌さんは驚いた。「僕は豆腐屋の子だよ」(P180) いかがでしょう、ボクが面白がったことが何だったか気づかれたでしょうか。引用文は作品の冒頭175ページから、180ページの、一部省略しましたが、引き写しです。 旧仮名遣いとか、漢字の使い方にも、一応、気を遣って写しました。 で、写しながら、笑ってしまいました。みんな会話文なのです。実は、この小説は、もちろん場面や、時間、登場人物は入れ替わりますが、最後の最後まで、主役はこの二人で、二人の会話文なのです。なんで、笑ったのかというと、明治の文学と考えたときに、最初に頭に浮かぶのは「言文一致」なのですね。だから、漱石の言文一致はどうなっているのか? という興味が、まあ、久しぶりに初期の作品を読むということもあって、浮かんでいたわけですが、この小説は、ご覧の様に、ほぼ、99%、会話文なのです。ですから、まあ、言文一致がどうのという興味は空振りですね。というのは、言文一致の要諦は「地の文」、あるいは、「客観描写」の文の口語化なわけですからね。 まあ、言文一致については、二葉亭が浮雲を書き、山田美妙が「です・ます」で苦労したのは明治20年代から30年代に終わって、この作品の時代には、もう、言文一致は完成していたんじゃないか、言文一致って、漱石とか関係あるの? とお考えの方もあるでしょうが、明治といえば、もう一人の大物、森鴎外が「言文一致」小説を初めて書いたのは、実は、明治40年なのですね。この年にスバルという雑誌に発表した「半日」という作品が、鴎外にとって初めての言文一致小説だったという事実もある訳で、明治39年の漱石がどんな気分で書いていたのだろうという興味が、まったくの見当違いというわけではない気もします。 で、読み直しながら、ふと、思ったのですが、この会話文、面白いと思いませんか? 実は、この会話は九州の阿蘇山の山麓の村の田舎宿で、「圭さん」という豆腐屋のせがれと「碌さん」という、なんとなく学のありそうな青年が、村の鍛冶屋の馬の蹄鉄を打つ槌音を聞きながら、東京のお寺の鉦の音を思い出して、どうでもいいような会話を延々と続けるのですが、その、二人の、だらけた部屋でのシーンが浮かんできませんかね。問題は、聞こえている音と、頭の中の音の重なり合いなのですが、ああ、それと、そこに重なっていく二人の声、それぞれの音が、その場のイメージを喚起していきませんかね? ボクは、それって、実は、近代を越えて、現代にも通じる小説そのものなんじゃないかって、まあ、そういうわけで、とりあえず読んでよかったという感想に落ち着いたわけでした(笑)。
2023.10.31
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山折哲雄「わが忘れえぬ人びと」(中央公論新社) 山折哲雄という人は1931年生まれの宗教学者です。90歳をこえておられる方です。90年代、だから30年くらい前に、宮沢賢治とか親鸞とかについて論じておられるのを読んだ記憶がありますが、市民図書館の棚に2023年5月の新刊本、「わが忘れえぬ人びと―縄文の鬼、都の妖怪に会いに行く」(中央公論新社)を見つけて借りてきました。 縄文の鬼が都の妖怪に会いに行くのかと思って借りたのですが、縄文の鬼や都の妖怪に会いに行く話 でした。 ボクなりに一言でまとめれば、ゴッホになるといった版画家、棟方志功、古寺巡礼の写真家、土門拳、ユング派の河合隼雄、梅原史学の巨人、梅原猛に、卒寿を越えた山折哲雄が会いに行った話、まあ。誰が鬼で、誰が妖怪なのかは読んでいただくとして、その4人をめぐる論考を集めた本ですが、目次に書きましたが、以前の論考に書き加える形でまとめられた文章です。ボクは、もともとの出展を読んでいるわけではないので面白く読みました。 個人的な理由ですが、なかでも面白かったのは河合隼雄の「無意識」をめぐる論考の結末に「ヨーガヴァ―シシュタ」という、インドの物語集のなかからラヴァナ王の話を語っているところです。 長くなるのではしょっていいますが、山折哲雄が例に引くのはラヴァナ王が一人の魔術師の杖の一振りによって不可触民(チャンラーダ)の世界をめぐる夢の世界に入りこみ、夢から覚めた王が現実と夢との境界を失うという話なのですが、その話をまとめるにあたってこういいます。 みてきたように、この物語では二つの現実が語られているように見える。一つは、いうまでもなく主人公ラヴァナ王が王として生きている現実である。廷臣にかこまれて、肥沃な国土を支配している国王の生活である。それにたいしてもう一つの現実が、夢の中で体験した不可触民に身を落とした生活である。(中略) この物語には、われわれが慣れ親しんでいる、夢の世界と現実の世界というあの二元論の枠組みが初めからとりはらわれているのではないだろうか。(中略) 私はいま、この物語には二つの現実が描かれているといったけれども、しかし考えてみればそれと同じような意味において、そこには二つの幻想世界、もしくは夢の世界が語られているともいえそうである。 そうなると、いったいどちらが本当の現実なのかといったような問いははじめから成り立たないことになるのではないか。物語の作者は、どうもそのように主張しているように私には思われるのである。 一つの夢物語を語りながら、その夢の世界がそのまま現実世界にすり替わったり、逆にまたわれわれの現実世界がそのまま夢物語に変貌してしまうという具合に話が展開していく。 その一種ねじれたような関係が奇妙な違和感を読む者の側にひきおこす。そういう語り口は、フロイトなんかの西洋人の考え方に慣れ親しんだ者の目にはやや異質なものに映るのではないだろうか。 この物語の作者は、夢(幻想)の世界が非現実であるように、夢や幻想をみるわれわれの現実の世界もまた、非現実の一様相であると主張しているようにみえる。 そしてそのようなものの見方の中にインド人が考えだした「空」の意味は隠されいるのであり、そのことにとりわけ晩年の河合さんは共感していたのだろうと私は想像しているのである。 ボクが、この部分を、この1冊の本の中で、とりわけ面白いと思ったのは、実は、今、村上春樹の最新作「街とその不確かな壁」(新潮社)読んでいる最中だということにジャスト・ミートする話題だからでした。 村上の作品は600ページを越える評判の大作ですが、ボクは100ページの手前の第1部で行き詰っています(笑)。壁にかこまれた町と、そこに登場する図書館勤めの青年の仕事が「夢読み!」であるという設定の意図に、なんとなく乗り切れないないまま、あっちの本、こっちの映画、という、まあ、得意の徘徊状態のままで、「そのうち、また、読み始めて、前に進むだろう…」という、ちょうど、その時、こっちの本の中に、この引用のインドの夢物語に対する結論部で、山折哲雄が「空」という、仏教的な哲学概念を持ち出してきたのに出会ったというわけでした。その上、山折哲雄が論じている相手が、村上春樹といえばの、あの河合隼雄です。 というわけで、途中で放り出し掛けていた村上君に会いに帰ることができそうな予感で、この本を閉じたというわけですね。 もっとも、この本で話題になっている棟方志功にしろ、土門拳にしろ、版画や写真はボクでも知っていますが、論じられている文章を読むのは初めてということもありましたが、「仏に逢うては仏を殺し、師に逢うては師を殺せ」 という臨済禅の言葉をカギにしての立論は刺激的でしたし、梅原猛について、もともと好きということもあって、面白く読みました。卒寿を迎えた著者があとがきでこう書いています。 米寿とか卒寿とかいわれると、かつての還暦とか古稀の場合とは打って変わり、むしろ銀河鉄道の各駅停車に乗って、ゆっくり周囲の景色を楽しみながら旅をしている気分になっていた。時間がゆるやかに流れ、過ていったはずの光景が何ともなつかしく蘇ってくる。梅原さんや河合さんの立ち居振舞いが棟方志功や土門拳のシルエットと重なり合い、たがいに対話している姿までみえてきた。それがまた私の心のうちに不思議な元気を誘い出し、思いもしなかった恍惚感に包まれるようになってきた。(P184) というわけで、乞う、ご一読ですね。一応、目次を載せておきますね。目次1 棟方志功 板を彫る(血噴きの仕事;「二菩薩釈迦十大弟子」 ほか)「教えること、裏切られること―師弟関係の本質」(講談社現代新書)加筆2 土門拳 闇を撮る(筑豊の子どもから奈良の古寺へ;肉眼はレンズを通して、レンズを超える ほか)「見上げられた聖地」(新潮社)加筆3 河合隼雄 夢を生きる(臨床心理士と宗教家;聴く人の背中 ほか)「夢とそら」(イマーゴ臨時増刊+書き下ろし)4 梅原猛 歴史を天翔ける(絶滅危惧種の王座に坐る;梅原さんとの出会い ほか)「梅原猛さんの世界」増補・加筆
2023.10.30
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キム・セイン「同じ下着を着るふたりの女」元町映画館 韓国映画に対して、近くでやっていたら見ようかなという程度ですが、興味があります。なじみの元町映画館のチラシで韓国の、若い女性監督という映画が出てきたので、興味を惹かれましたが、「同じ下着を着るふたりの女」という題名に、ちょっとなあ・・・??? と、躊躇していたのですが、とことんの母娘バトルですよ!という映画館の知人の言葉につられていつもは敬遠する土曜でしたが出かけました。こんな題名の映画、土曜の午後でも大丈夫! まあ、そういう気分です。 まあ、そう思って、やって来てみると、上映終了後、市内の女子大生さんたちの韓国文化紹介のイベント開催とかで盛り上がっていて、ちょっと、焦りましたが、今日の映画の観客は案外少なくて、のんびり見ました。 見たのはキム・セイン監督の「同じ下着を着るふたりの女」です。 母と娘は何故こじれるか、というような題の本もありますが、父と息子も、やっぱりこじれますね(笑)。まあ、父と息子のの場合は、フロイトの昔から言われているのですが、最近、斎藤環あたりが話題にしている、母と娘の話とは、また違うかもしれません。 母と娘が同じ下着を共有しているという、パンツをはいたり脱いだりするシーンの描写から、話が始まりました。なんとなく、昔のポルノ映画のシーンのようで、バカバカしい気分でしたが、世の中的には、結構、興味津々の関係なのかもしれません。 で、最後は、娘が自分の下着を買いに行くという、まあ、めでたいのか、あほらしいのかわからない結末でした。 20歳を越えて、働いている娘と、どう見ても50歳は越えていそうなのですが、妙に若作りの母親が同居していて、下着を共有していることに、互いに引っ掛かりがないということは何故なのか、多分、そのあたりをくどくど考え始めると、依存とかいう言葉の世界にいくことになりそうで、少々、めんどくさいのですが、それを考えるのすっぱりやめてみていると、二人とも、案外、普通なんじゃないかという気がしましたね。 下のチラシのシーンですが、母親が乗っている車が、事故なのか故意なのかわからないふうに暴走して、「死ね!」とかいいながら、アクセルを踏んだのか踏まなかったのかは不明ですが、娘をはねるシーンがありましたが、まあ、そんなもんだろうという気がしました。親の子どもに対する、その場で燃え上がる「殺意」って、そんなに異常なのでしょうか? 幼い子供をほったらかして、遊び惚ける親のネグレクトも、常識の世界の方からは声高に異常性が叫ばれますが、そうなのでしょうかねえ。誰にでも、あるかもしれないことだと、まあ、ボクは思いますが。 映画の作り手も、多分、気付いていることなんでしょうが、まあ、ホントは難しいことなのですが、母親は母親で、母親を卒業するほかないし、娘は娘で、娘を卒業するほかないわけで、そのあたりを、もっともらしく解説したり、批判したりする風潮には、まあ、できるだけついていかないようにしようと思っているわけで、ボーっと見ていると、パンツは自分で買いに行けよな! まあ、そう思っていた、こっちの気分通りの結末だったので、ハイ、そうですね(笑) と見終えました。 まあ、それにしても、原題を見ると、ハングルの方は読めませんが、英語の方は「The Apartment with Two Women」というわけで、母と娘だけじゃなくて、娘と職場で同僚になるもう一人の女性との関係も重ねているようで、ようするに人と人の関係の話で、そんなに楽しいわけではないのですが、悪くなかったですね。 日本の小説家で宇佐見りんという人がいますが、彼女も「かか」とか、最近の「くるまの娘」とかいう作品で、母と娘、家族と娘の関係を描いていますが、要するに、自分のパンツは自分で買いに行くという所に立って、初めて「ふたりの女」、あるいは、それぞれの女になるということなのでしょうね。 親も子供も、互いに他者なわけですからね。監督・脚本 キム・セインキャストイム・ジホ(イジョン 娘)ヤン・マルボク(スギョン 母)チョン・ボラム(ムン・ソヒ 娘の同僚)ヤン・フンジュ2021年・139分・G・韓国原題「The Apartment with Two Women」「같은 속옷을 입는 두 여자」2023・10・28・no132・元町映画館no210!
2023.10.29
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石井裕也「愛にイナズマ」 シネ・リーブル神戸 このところ、新しい日本映画に気をひかれるということがほとんどないのですが、この映画は、題名のバカバカしさに目が留まり、「ふーん石井裕也か?」 とチラシを見ていると白髪の佐藤浩市が写っているのに気づいてちょっと出かけてきたシネ・リーブルです。見たのは石井裕也監督の「愛にイナズマ」でした。 結局、なにが、どう、愛にイナズマなのかボクにはわかりませんでしたが、かえって、それも面白くて、納得の拍手!でした。 まあ、ボクから見れば少女にしか見えない折村花子(松岡茉優)さんが「きえた女」という自分の脚本を映画化したいと願っている、まあ、ウィキとか、なんとかには名前だけは出ている、セミプロ映画監督という設定で、手持ちのカメラをかかえて町をウロウロしているシーンから始まりました。 ビルの屋上から誰かが飛び降りようとしているという、ちょっと危ない現場に花子さんが遭遇し、周りの人たちがスマホのカメラを屋上の人物に向けて、決定的瞬間を期待して見上げています。花子さんは自分が持っているカメラをどうしていいかわからない様子で、ボーゼンとしていますが、屋上の人物は無事救出され、地上では落胆のため息が広がります。見事な「つかみ」でしたね。 今や、町を歩いているあらゆる人間のポケットにある、無数のカメラがなにを写す、いや、映す道具なのか、そういう問いかけから映画が始まったとボクは感じました。 映画の中には、ずっと、花子さんのカメラがあります。映画そのものと、花子さんの撮った映像とが入り乱れるので、少々めんどくさいのですが、「映画には、被写体の本当の姿が映る。」と元気に主張している花子さんのカメラです。しかたありません。 ですが、花子さん、見ているこっちがうんざりするようなプロデューサーと助監督とのコンビに軽く騙され、金もチャンスも失い、切羽詰まった末に、「きえた女」、つまりは幼い花子さんと兄二人(池松壮亮・若葉竜也)、そして父親を捨ててきえた母親の真実、つまりは、家族崩壊の真相を知るはずの父親のもとに帰ってきて、「本当のこと」を求めてカメラを向けるのですが、どうしようもないボンクラ演技を、真面目に演じようとする父(佐藤浩市)の姿に、主張とは裏腹に萎えてしまうあたりから、映画は家族の物語へと着地していきました。アー、そうなるか、ヤレヤレ… まあ、そこから先の筋立ては見ていただくよりほかにしようがありませんが、アーそうなるかの落胆をひっくり返したのは、佐藤浩市のぼんくら演技もさることながら、あんた、なんでここにおるねん? まあ、そういいたくなる不思議な青年、舘正夫君を演じた窪田正孝という俳優の存在感でした。「ある男」という、評判の作品で、安藤サクラの謎の夫、きえた男を演じていたような気がしますが、その時には印象に残らなかったのですが、今回、ブルー・ハーツ(古ッ!)の甲本ヒロトのようなしゃべり方で、人間界に間違って紛れ込んでしまった天使のような役回りを演じていて、これがハマリ! でしたね。 映画としては、花子さんの現実社会での敗北も、家族との葛藤も、まあ、ステロタイプのハンコみたいな、重ったるい話なわけですが、この男を配したことで、フッと浮き上がった気がしました。多分、監督のセンスなのでしょうね。 ま、そういうわけで、窪田正孝君と佐藤浩市さんに拍手!でした。それから、石井裕也という監督に拍手!ですね。「月」とかいう作品が話題ですが、見ようかなあ??暗いのイヤヤしなぁ。監督・脚本 石井裕也撮影 鍋島淳裕編集 早野亮音楽 渡邊崇主題歌 エレファントカシマシキャスト松岡茉優(映画監督志望の娘 折村花子)池松壮亮(長兄 折村誠一)若葉竜也(次兄 折村雄二)佐藤浩市(父 折村治)益岡徹(父の友人 則夫)窪田正孝(舘正夫)仲野太賀(舘の友人 落合)趣里(携帯ショップの女)MEGUMI(プロデューサー 原)三浦貴大(助監督 荒川)2023年・140分・G・日本配給 東京テアトル2023・10・27・no131・シネ・リーブル神戸no208!
2023.10.28
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デビッド・クローネンバーグ「裸のランチ」元町映画館 2022年の11月から観てきました。「12ヶ月のシネマリレー」、最終走者はデビッド・クローネンバーグ監督の「裸のランチ」でした。1991年の製作ですから、まあ、30年ほど前の映画です。いろんな評価があるのでしょうが、笑うしかありませんでしたね(笑)。 ウィリアム・バロウズの原作は、鮎川信夫訳で、たしか、早川文庫で読んだ記憶だけありますが、何も覚えていません。人間というのは、いや、ボクはかな、わからなかったことは忘れるのですね。 だいたい、主人公の仕事が害虫駆除業という、「なに、それ?」 に始まって、彼が仕事で使っている殺虫剤を「そんなこと、すんの?アカンで!」 としか言えないのですが、注射してラリッている女性、まあ、妻ですが、を、間違ってではあるのですが、撃ち殺してしまった結果、インターゾーンとかいう「どこ、そこ?」 に逃げていくのですが、男の本業は作家でしたといって意味わかります? 要するに、四六時中ラリッている作家が、ラリッているからこそ見えてくる、普通、妄想と呼ばれる真実を、小説として書いて、難解だからということで評判になって、日本語とかにも翻訳されたりして、そういうのってチョット興味あるとかいうタイプのもの好きが読んで、わかったふりするものだから、余計にうわさは広がってという作品を、妄想をそのまま、だって、そう書いてあるから、能う限り映像化して見せているという作品だなあという印象で、なんだか、妙に面白いのですが、結局、こちらは正気なわけですから、意味不明なんですよね(笑)。 荒唐無稽な展開の中で、上の写真のような、ギョッとするような登場人物(?)が現れたり、タイプライターがエイリアンのようなというか、まあ、そういうのは堪忍してほしいといいたいような、グロテスクな生き物に変身したり、一方で、ハッとするようなセリフ(もう、忘れちゃいましたけど)が飛び交ったり、まあ、大変でした(笑) 主役の作家役がピーター・ウェラーという、まあ、「ラリッている」からは程遠い、チョット「孤独のグルメ」のおニーさんに似ている顔立ちの人で笑えました。拍手! で、とどのつまりには、女性の体の中から(こう書いても意味不明でしょうが、知りたければ見ていただくほかありません)、一応、悪の親玉役のなんとか博士が出てきて、それが、あの、ロイ・シャイダーだったんで、これまた、大笑いでしたね。 好きだから作っているのか、好きなように作っているのか、意味不明もここまで行くと痛快ですが、「12ヶ月のシネマリレー」の企画の人も、まあ、勇気ありますね。これが映画だ! の、気合なのでしょうね(笑) 一応、12本、完走したシマクマ君に拍手!でした(笑)。監督・脚本 デビッド・クローネンバーグ原作 ウィリアム・S・バロウズ撮影 ピーター・サシツキー美術 キャロル・スピア衣装 デニース・クローネンバーグ編集 ロナルド・サンダース音楽 ハワード・ショアキャストピーター・ウェラージュディ・デイビスイアン・ホルムジュリアン・サンズロイ・シャイダー1991年・115分・PG12・イギリス・カナダ合作原題「Naked Lunch」2023・10・23-no130・元町映画館no209!
2023.10.27
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小島渉「カブトムシの謎をとく」(ちくまプリマ―新書) 市民図書館の新書の新刊の棚で見つけました。2023年の8月に出た本です。「カブトムシの謎をとく」小島渉という背表紙に目がとまって、手に取って表紙を眺めて、裏表紙裏の著者略歴を見ると、1985年生まれ、東大の大学院を出た博士さんで、山口大学の先生のようです。38歳のようです。わが家の愉快な仲間の誰かと同じくらいの年恰好で、まあ、それにしてもカブトムシです(笑)。 60年ほど昔、小学校3年生の時にファーブル昆虫記に夢中になったことが浮かんできました。覚えているのはセミとフンコロガシ(カナブン)の話です。もう一度パラパラやって借りてきました。 下に貼った目次をご覧になればわかりますが、第1章はカブトムシ研究者への道と題されていて、自己紹介です。かなりディープな昆虫少年だったようですが、この1節にウーンとなりました。 水生昆虫を探しに行くと、ヘビにもよく出会いました。よく目にしたのはシマヘビとヤマカガシです。そのうちヘビの美しさに魅了され、見るたびに捕獲し、写真として記録するようになりました。カエルもお気に入りの動物の一つでした。普段見かけるのはトノサマガエル、ヌマガエルやアマガエルなどの普通種でしたが、一度だけ大きなヒキガエルを捕まえたのをよく覚えています。(関東の人には信じられないかもしれませんが、奈良県の平野部ではヒキガエルはなかなか見られません)。ヒキガエルを捕まえたら確かめたいことが一つありました。それは、耳腺と呼ばれる目の上のふくらみから分泌される毒液の味です。耳腺を圧迫すると、図鑑に書いてある通り、乳白色の毒液がにじみ、少し舐めてみると強烈な苦みを感じ、天敵への防御効果を身をもって理解できました。私が幼少時に行った思い出深い“実験”の一つです。(P18) おいおい・・・ですね(笑)。だいたい、ヘビが美しいとかいう感覚についていけませんが、ヒキガエルの毒液を舐めるって、きみ! という感じです。イヤー、困った中学生ですね。 まっ、そういうわけで、すっかり引き込まれて、久しぶりの昆虫記体験でした。語り口はご覧のとおりで、まあ、理系の青年の作文ですが(エラそうでスミマセン)、カブトムシが何を食べていて、カブトムシを食べるのはいったい何者か(想像つきます?)ということに始まって、現代昆虫学の現場報告は、なかなか面白くて、一気読みでした。 後半ではアゲハ蝶やコガネムシの話に広がっていくのですが、高校生ぐらいを相手に「昆虫学の世界へ!」 という優しいお誘い(?)の気持ちが充満していてなかなかうれしい本です。 とはいうものの、誘われても、今更な69歳の老人は「ものしり・うんちくネタ」に出合うたびにポスト・イットを貼るのに夢中でしたが、語る相手がいないことに、ハタと気づいて、チョット落胆の読書でした。 折角なので、この場を借りて、ちょっとだけ、付け刃のうんちくです。カブトムシの食べ物は樹液だそうで、クヌギの木がメインですが、今、関東地方に広がっているナラ枯れの原因でもあるそうです。それから、カブトムシを食べるのはカラス、タヌキ!、ハクビシン、野生のネコだそうで、角とか頭の部分は食べ残して胴体を食べるのだそうです。 老人は、ナラの木を枯らしてしまうほどのカブトムシの群れがあることにカンドーでしたが、現代社会から見える虫たちの世界と、虫たちの世界から見える現代社会の姿の両方が、相変わらず昆虫少年を続けていらっしゃる、まあ、実に奇特な学者さんの視界には広がっているようで、ただのオタク・ブックでは終わっていませんね。 お若い方々が、こんな本があることに気づいて、面白がってくれるといいなと、いや、ホント、マジに思いました。 目次まえがき第1章 カブトムシ研究者への道/昆虫に夢中/思い出の池/魅惑の図鑑類/鳥への情熱/進化生態学との出会い/昆虫を研究対象に/山口の自然環境【コラム】台湾での生活第2章 カブトムシはどんな昆虫?/カブトムシの分類/カブトムシの種数/カブトムシは本当に1種類?/カブトムシの一生/成虫の短い寿命/幼虫の餌/オスの角と大きい体/ユニークな配偶行動/カブトムシと人間との深いつながり/都会派のカブトムシ/カブトムシは希少種だった?【コラム】ナラ枯れとカブトムシ第3章 幼虫のくらし/幼虫の餌の質が成虫の体の大きさを決める/発酵の進んだ餌の見つけ方/卵の大きさと成虫の大きさ/幼虫が成長するしくみ/幼虫はなぜつねに最大速度で成長しないのか/幼虫はいつ蛹になるのか【コラム】〝大きさ〟って何?第4章 カブトムシを食べたのは誰?/散らばる死体の謎/犯人はカラス?/もう一つの天敵/カブトムシはおいしい?/食べられたのはどんな個体?/大型の個体は食べられやすい/高い捕食圧【コラム】タヌキが捕まえたのは?第5章 活動時間をめぐる謎/小学生による大発見/1通のメール/面白い着眼点/「自由研究」から「学術論文」へ/You are never too young to be an ecologist/なぜ昼まで居残るのか/シマトネリコでは物足りない?/さらなる調査/オオスズメバチとカブトムシ/オオスズメバチを排除する/法則はシンプルだとは限らない【コラム】屋久島での大発見第6章 カブトムシの生態の地域変異/遺伝か環境か/謎多きオキナワカブト/ユニークな屋久島のカブトムシ/九州のカブトムシ調査/短い角の進化史に迫る/素早く成長する北日本のカブトムシ/カブトムシの成長を記録する/成長速度を解析する/北海道の外来集団は進化しているのか/素早く成長するためのメカニズム/卵の大きさの地域変異/大きい卵を産む理由【コラム】調査の間の楽しみ第7章 昆虫はどのように天敵から身を守るのか/石垣島のジャコウアゲハ/恐れ知らずな有毒種/警戒心の強さ比較/場所を変えて調査/甲虫の〝硬さ〟は鳥からの防御に役立つ?/ウズラ以外にも通用するのか/食べてもらう工夫/鳥からの捕食回避/【コラム】逃避開始距離で警戒心の強さは本当に測れる?【コラム】毒蝶は体温が低いあとがき 引用文献
2023.10.26
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渡辺一貴「岸部露伴 ルーヴルへ行く」パルシネマ パルシネマのマンガネタ2本立ての1本は「ピンポン」でしたが、もう1本は、2023年、今年の夏(?)だったと思いますが、封切り当時、結構、評判だった渡辺一貴「岸部露伴 ルーヴルへ行く」でした。 荒木飛呂彦という人のマンガは絵柄がついていけないので読んでいませんし、NHKだかで実写のテレビ・ドラマ化した、まあ、その続きらしいのですが、テレビは全く見ないので、これも知りません。ようするに、はじめてお目にかかったわけですが、マア、はっきりいって白けました(笑)。 「黒」という色をテーマにして、「絵画」とか「ルーヴル美術館」、「江戸の絵師」とかをくりだしての、まあ、ボクの目には、上から目線のうんちく映画だったのですが、模写による贋作作りとか、檜の樹液の黒い顔料だとか、マンガだから、まあ、仕方がないかなと思ってみていましたが、とどのつまりにフェルメールの謎の実作を登場させて、岸部露伴君(高橋一生)が、「真作だ!」とのたまうに至って、座席からずり落ちて(落ちてませんけど)しまいました(笑)。 持ち出したのがフェルメールというあざとさも「ちょっと、あんたらねえら・・・」 なのですが、「黒」という色の、他の色との違いのうんちくに始まって、映画に、見ている人の常識をこバカにした態度が漂っているのですよね。そういえば、似たような音楽映画を見たような気がしますが、「リアリティー」とかいうセリフを連呼するこけおどし的・超絶能力の主人公を造型する発想に、ある種の大衆蔑視を感じるのは、老人の僻みなのでしょうかね(笑)。マンガなら気にならないのですが、実写の映像には、そこに、たとえば、高橋一生の顔があるわけで、引っかかってしまうのですね。 もう、終わりかなと思っていると、あにはからんや、主人公のナレーション的な謎ときが延々と続いて、「ああ、テレビやな…」 という、まあ、勝手な偏見に浸っていると、エンドロールで、白石加代子の名前に気づいて「ああ、やっぱり、そうでしたか、お元気そうで何よりです(笑)」 と、こっそり手を叩いて、その後、音楽が菊地成孔だったことを発見して、まあ、ボクはこの人の音楽論(?)にはまったことがあるのですが、本でしか知らない人の音を初めて耳にしたのがうれしくて、「うん、あんたの音はよかったで!」 とか何とかつぶやいていると、場内が明るくなりました。 こてこて作り上げた、現代映画に辟易して、20年前の単純素朴にカンドーしちゃってるのは、やっぱり年のせいですかね。なんだか、さびしい新開地本通りの夕暮れでした。秋ですねえぇ!監督 渡辺一貴原作 荒木飛呂彦脚本 小林靖子撮影 山本周平 田島茂編集 鈴木翔音楽 菊地成孔 新音楽制作工房キャスト高橋一生(岸辺露伴)飯豊まりえ(泉京香)長尾謙杜(岸辺露伴・青年期)白石加代子(おばさん)木村文乃(奈々瀬)2023年・118分・G・日本2023・10・23・no128・パルシネマno69!
2023.10.25
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金子信久「長沢蘆雪 かわいいを描くこと」(東京美術) 明石の市民図書館の新入荷の棚に並んでいました。「おっ、蘆雪!」 まあ、そんな感じで手に取りました。金子信久という美術館にお勤めらしい方の「長沢蘆雪 かわいいを描くこと」(東京美術)という、大判の美術書(?)です。表紙からして「かわいい」でしょ(笑)。 長沢蘆雪という人は「かわいい」で人気なのだそうです。ページを繰ると、江戸のかわいいがあふれていました。 まあ、ボクにとっての江戸絵画との出会いは、この長沢蘆雪に限らずなのですが、40代の終わりごろだったでしょうか、橋本治の「ひらがな日本美術史(全7巻)」(新潮社)という、まあ、ものすごく面白い美術全集との出会いが始まりました。 その後、辻惟雄という、これまた、ものすごいセンスの人の「奇想の系譜」(ちくま学芸文庫)、「奇想の図譜」(ちくま学芸文庫)に夢中になり、ちょうどいい具合に職場の図書館の蔵書整理係だったこともあって、誰も来ない図書館で、そのころ出たばかりの「日本美術の歴史」(東京大学出版会)という新しい入門書の記述と、書庫でほこりをかぶっていた古い美術全集の1ページ、1ページの埃を拭いながら照らし合わせたりして、まあ、本人はそれなりに勉強しているつもりで面白がっていたのですが、定年退職がゴールで、図書館の住人でなくなったことが淋しかったこともあって、日本美術史総覧、完走、ゴールしたことに満足して、すっかり忘れていました(笑)。 まあ、そんなわけで、ようするに、実物、本物の絵なんて見たことはほとんどないのです。だから、面白がることはあるのですが、感動がないんですね(笑)。いかにも、参考書風の知識ばかり振りましたがる、安物の教員根性の興味なのですが、それでも、好きなのは好きなのでしょうね、図書館の新刊の棚に「長沢蘆雪」の名前と、彼の独特の子犬を見つけると、思わず手に取ることになるのでした(笑)。 長沢蘆雪という人は円山応挙のお弟子さんです。曽我蕭白という、これまた、奇想で評判の絵描きさんがいますが、ほぼ同時代の人といっていいでしょうね。有名なのは、和歌山県の串本にあるらしい無量寺というお寺にある「虎図」とかです。 この絵ですが、素人目にも絵に愛嬌があるんですね。辻惟雄が「奇想の系譜」で彼のことを「鳥獣悪戯―長沢蘆雪」と章立てして解説・紹介しています。そのななかで、この虎の絵についてこんなふうに書いています。 獲物に襲いかかろうとする虎の全身が、襖三面いっぱいの大きさにクローズアップされ、見る人をたまげさせる。少なくとも、こうした表現は、従来の動物画には類を見ない型破りなもので、師応挙の目から離れた蘆雪の開放感の所産ともいえるだろう。ただ気になるのは、この虎が、猛獣らしい凄みをさっぱり欠いていて、むしろ猫を思わせる無邪気さが感じられる点である。(P196)」 ねっ、ちょっと笑えるでしょ。「皮肉な蘆雪が胸中ひそかに戯気を描いて巨大な猫を描いたのではないか」 という山川武という人の説を同意しながら付け加えられていますから、決してバカにしているわけではありません。「鳥獣悪戯」と評している所以ですね。 まあ、そういうわけで、長沢蘆雪の持ち味の特徴は悪戯=いたずら、そして、かわいさなわけですが、ボクが図書館で見つけた金子信久「長沢蘆雪 かわいいを描くこと」(東京美術)は、そのかわいさに目をつけて編集されています。 「かわいい」というコンセプトで編集、紹介、解説しているところがミソですが、たとえば、上の写真「唐子図」のような子どもといい、表紙の子犬といい、まあ、虎といい、可愛さ花も並ではありません。楽しい本でしたよ。若い人が、このあたりから江戸の絵画、ひいては日本美術に興味をお持ちになるのもありだなあと、まあ、そんな気持ちで案内しました。 ちなみに、上の引用で貼った写真は辻惟雄「日本美術の歴史」と「奇想の系譜」からのコピーです。「かわいいを描く」にも所収されていますが、もっと美しい写真です。あしからず(笑)。
2023.10.24
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曽利文彦「ピンポン」パルシネマ パルシネマの2本立てです。もう1本は岸部露伴でした。マンガが原作の映画セットですね。松本大洋のマンガに、この年になってハマっていますが、彼のマンガに登場する独特なキャラクターとか、空間を超越したような動きが実写ではどんなふうになるのか、そこが見たくてやって来ました。見たのは曽利文彦監督の「ピンポン」です。20年前の作品です。「I Can Fly!」「You Can Fly!」 映画が始まって、おばかなK察官(松尾スズキ)に励まされて、窪塚洋介君がいきなり空を飛びました。 で、ボクは思わず泣いてしまいました。うれし泣きです(笑)。アホですね。でも、ヒーローは空を飛ぶのです。窪塚君、その後の実生活でも空を飛んだような気がしますが(笑)、元気なのでしょうかね。 松本大洋のマンガの登場人物たちは、時々空を飛んだりしますが、我々凡人は、残念ながら空は飛べません。ペコくん(窪塚洋介)が空を飛ぶシーンを見て、涙を流すことができるだけです。スマイルくん(井浦新)もドラゴンくん(中村獅童)も、ああ、それからチャイナくん(サム・リー)とかアクマくん(大倉孝二)とかも、空を飛べるペコくんが大好きで、見ている69歳の老人のように、思わず涙を流したりせずに、拍手するのです。だって、空を飛んでいるのはヒーローなんですから。 ヒーロー見参! シンプル、且つ、シンプル、あくまでも単純にヒーロー誕生の物語が繰り広げられ、少年たちはみんな拍手して(しませんけど)ヒーローを称えるのです。松本大洋の世界を飛び越えて映画の世界に飛び込むのです。そのあたりに、脚本を書いた宮藤勘九郎のセンスが光っているのです。それでいいのだぁ! まあ、ヒーローになるための石段上りとか、妙に現実的な鍛え方が、実写ならではで笑えますが、ドラ ゴンボールなら亀仙人かカリン様の役まわりのオババを演じる夏木マリが、エッというほどお若い(笑)とか、この人といえばという、毎度のクサイ演技炸裂の竹中直人とか、もう、なつかしいというか、なんというか笑うしかなかったですね(笑)。 ああ、そういえば、最近見た福田村事件で苦悩する中年男(?)だった井浦新が、まあ、若いのなんのって! なのに、キャラはおんなじ印象で、ルービック・キューブかなんかをいじりながらヒーローを待ち続ける、実は天才カットマンなのだをやっていたのも笑えました。 こんな時代があったなあ、と、まあ、しみじみ拍手!でした。 しかし、染谷將太と石野真子が出ていたようなのですが、どこにいたんですかね?染谷君、まさか、子役?気づかなかったですねえ(笑)。監督 曽利文彦原作 松本大洋脚本 宮藤官九郎窪塚洋介(星野裕ペコ)井浦新(月本誠スマイル)サム・リー(孔文革チャイナ)中村獅童(風間竜一ドラゴン)大倉孝二(佐久間学アクマ)荒川良々(太田キャプテン)松尾スズキ(警官)夏木マリオ(ババ)竹中直人(小泉丈)染谷将太石野真子2002年・114分・日本2023・10・23・no127・パルシネマno68!
2023.10.23
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深緑野分「ベルリンは晴れているか」(ちくま文庫) 深緑野分という、ぼくには新しい人の「ベルリンは晴れているか」(ちくま文庫)を読みました。2019年の本屋大賞第三位ですね。ツィッター文学賞とかいうのがあるらしいですが、それは一位ですし、直木賞の候補にもなっているようです。ようするに、巷の評判がすこぶるいい作品です。 読み終わって、ちょっとがっかりしました。ミステリーなのか、歴史小説なのか、あるいは、1945年のベルリンという都市小説なのか。どれも及第点とは言えなかったですね。 歴史や地理的事実について、とてもよく調べて書かれているようなのですが、細部に対するこだわりと、全体といいましょうか、釣り合いがとれていないんですね。ぼくにはベルリンの町が、全くリアルではなかったですね。もちろん行ったことも見たこともないわけですが、少なくとも、今読んでいる事件の現場としての立体感が描写できていないという印象ですね。どこで、何が起こっているのかわからないということですね。 たとえば、森鴎外に高校の教科書にも出てくる「舞姫」という有名な作品がありますが、主人公の太田豊太郎が彷徨うのが、ベルリンの裏町であると実感させてくれる何気ない地名の挿入や描写を思い浮かべながら、何が違うのか考えましたが、おそらく、書き手にとってのベルリンが具体的に想起されているか、いないか、というあたりに描写のイメージの差が出ているのでしょうね。ようするに、調べて書いている場所だということかもしれません。ミステリーとしては謎解きの安易さがまず、どうしようもないという感じです。ここまで引っ張ってこれですか? まあ、そういう感じでした。これで、直木賞はあり得ないでしょう。 しつこいようですが、「パリは燃えているか」という、たしかヒトラーの有名なセリフのモジリとして、「ベルリン陥落」の日を題名化したようですが、これも空振りでしたね。ヒトラーの言葉に宿っている歴史的アイロニーのかけらすら感られませんでした。なんで、こんな題になったの? そう考えたときに、客を呼ぶためのシャレたイメージを求める編集者の存在とかが浮かんでしまうのが率直な感想でした。 今回、新刊本を購入しましたが、腰巻のにぎにぎしさに加えて、大手の書店では平積みの棚に、積み上げられていました。図書館では数十人待ちです。なぜ、この小説がそんなに売れて、好評なのかポカンとしますが、やっぱり本屋大賞がらみなんでしょうか。 作品の良し悪しの判定はむずかしい問題ですが、本屋大賞の始まりにかかわった「本の雑誌」で書いていた目黒孝二、別名、北上次郎あたりの方がどうおっしゃるのか、ちょっと興味がありますが、とかなんとか思っていると「本の雑誌の目黒孝二・北上次郎・藤代三郎」(本の雑誌社)という、目黒孝二追悼特集本に偶然出合って、思わず、ため息をつきました。時は流れているのですね。 出版不況、本が売れない、そういう現場からアイデアが出て、本屋さんが「こんな本売りたい!」と差し出す本いうコンセプトから生まれた本屋大賞が空疎な「市場原理主義」を文学とかに持ち込んだとしたら、「本の雑誌」を愛していたぼくとしては、ちょっと寂しい、そんな感じですね。 なんか、話題がよれてしまいましたがおもしろい! を疑う時代がやってきているのではないでしょうか。そんな思いが頻りに浮かぶ今日この頃ですね(笑)。
2023.10.22
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宇佐見りん「くるまの娘」(河出書房新社) 「かか」(河出文庫)で2019年の文藝賞、2020年の三島由紀夫賞、「推し燃ゆ」(河出文庫)で2020年後期の芥川賞の宇佐見りんの最新作のようです。まあ、贔屓の作家ということもありますが、快調でした。 書き出しはこんな感じです。 かんこ、と呼ぶ声がする。台所から居間へ出てきた母が二階に向かってさけぶ声が聞こえてくる。かんこ、おひる、かんこ、お夕飯。しないはずの声だった。夢と現実のあいだを縫うように聞こえてきた。むかしは「にい。かんこ。ぽん」だったと思う。にい、かんこ、ぽん、ご飯。兄が家を出て「にい、かんこ、ぽん」は「かんこ、ぽん」になった。今年の春、弟のぽんが祖父母の家に住みはじめて「かんこ」になった。母が階下から呼ぶ。いつまでも聞こえてくる。にい、かんこ、ぽん。にい、かんこ、ぽん。かんこ、ぽん、かんこ、ぽん。かんこ。かんこ。・・・・。(P3) 階下から聞こえてくる母の声が響きます。外側から聞こえてくる音としての声と、それに連動して、頭の中に響く、自分だけに聞こえている音としての声が、ことばとしての意味の姿をまとわせて立ち上がらせながら、語り手である、高校生の「かんこ」の内面の物語が始まります。 小説のページに書きしるされているのは文字ですが、読み手の中には音が広がっていく、そんな印象を作り出す書き出しです。これが宇佐見りんだ! ボクは、チョット、ドキドキします。 父と母、今は家を出ている兄と弟、そして、かんこの家族の物語が、父方の祖母の葬儀に、行きは父、母、かんこの3人、帰りは弟のぽんちゃんを加えた4人の自動車旅行として語られます。「音」と「息」が充満して、読んでいるだけでも窒息しそうな狭い車内で、家族4人、死ぬか生きるかの七転八倒騒ぎが展開される中で、声にならない悲鳴のような叫びをあげながら、こんな結論にたどり着くのでした。 かんこはこの車に乗っていたかった。この車に乗って、どこまでも駆け抜けていきたかった。(P124) 「くるまの娘」という、この作品のけったいな題名の所以ですが、ようやくのことで帰り着いたにかんこは「くるま」から降りることができなくなって「くるまの娘」になってしまうところが、宇佐見りんですね(笑)。 あの時、日がのぼるのが苦しかった。日が沈むのも苦しかった。苦しみをなにかのせいにしないまま生きていくことすらできなかった。人が与え、与えられる苦しみをたどっていくと、どうしようもなかったことばかりだと気づく瞬間がある。すべての暴力は人からわきおこるものではなかった。天からの日が地に注ぎあらゆるものの源となるように、天から降ってきた暴力は血をめぐり受け継がれるのだ。苦しみは天から降る光のせいだった。あの旅から帰ってきて、自分が車から降りることができなくなってしまったと知ったとき、かんこはそう思うことにした。そしてかんこは、車に住んだ。毎朝母の運転で学校へ行った。(P140) はまってしまうと、一気に暴君化する父、今日の記憶を次々と失っていく母、通っていた学校に耐えきれなくて祖父母と暮らす弟、父親の世界から逃げ出した兄、そして、くるまから出られなくなったかんこ。 まあ、実際、どんな家族の物語なのかは、お読みいただくほかないのですが、かんこが、自分に浸るのではなくて明日を生きようとしていることだけは確かで、後味は悪くないのです。 宇佐見りん、快調に走っていますヨ(笑)。
2023.10.21
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アモス・ウィー「縁路はるばる」元町映画館 実は、今日は2023年の10月21日(土)です。で、この映画は2023年の8月に見たんです。映画はアモス・ウィー監督の「縁路はるばる」でした。原題が「Far Far Away」ですから、まあ、ラブ・コメディ風なニュアンスでつけた邦題ということのようです。最新の香港映画だそうです。 で、香港って、香港島だけじゃなくて、そのあたり一帯の地域を指すんですですよね。そこまではボクでも知っていました。中国本土(?)から海を渡ってやってきたとかいうエピソードが語られる映画も見たような気がします。でもね、具体的にどんな島や大陸と陸続きの地域が、所謂、香港なのか、実は全くイメージできないわけです。で、この映画を見るとちんぷんかんぷんなわけでした(笑)。 黒ぶちメガネかなんか掛けていて、とてもじゃないけどモテそうもない青年が、まあ、IT方面には強いらしいのですが、複数の、何というか、かなり、いいなという感じの女性、(だから、仕事とか、社会観とか、自己意識とか、まあ、容姿とかも)の住んでいるところを訪ねる話なのでした。その結果、地理的にはかなり奥が深いというか、幅が広く「香港」をウロウロするわけで、なんとなく、あの香港!(みんなが行きたがる観光地という意味ではないほうね(笑))という思い込みだけあって、土地感覚がゼロの、意識過剰の老人はポカーンとしてしまうのでした。 で、まあ、それなら香港の観光案内、あるいは、若者の恋愛事情紹介映画かというと、たぶん違うんですね。 意識過剰老人だから、そういう所に反応するのかなとも思いますが、登場人物たちに、ここ「香港」が終の棲家という感覚が、どうもないというか、希薄なんです。実際に、カナダだったかに移住するとかいう話題も出てきますが、ノンポリの彼らの言動に、明日もここで続く生活を感じない後味なのでした。 それは、多分、たとえば日本の、よく知りませんが、今の若者の恋愛事情と、ちょっと違いますよね。「美しい日本」とかが無意識に前提されて、言う方も、言われる方も平気で「うちの嫁」とか言っているらしいことを考えると、この映画は、やはりあの香港! を描いていると思ったのです。頼りなさそうな青年が、自転車とかに乗ってウロウロする美しい香港の風景が、どこかで失われていく時を求めているような、まあ、そんな錯覚に浸ってしまったんですね。 しかし、老人が、この映画のどこで、そう感じた理由が定かじゃないのですよね。だから、まあ、感想が書けなかったのですが、とりあえず、この監督は注目ですヨ! 的な備忘録として書いておこうというので書きました。 わけわかんない話で、申し訳ありませんでした(笑)。監督 アモス・ウィー脚本 アモス・ウィーキャストカーキ・サムクリスタル・チョンシシリア・ソーレイチェル・リョンハンナ・チャンジェニファー・ユー2021年・96分・G・香港原題「Far Far Away」2023・08・01・no100・元町映画館no192!
2023.10.20
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チャオ・スーシュエ「草原に抱かれて」元町映画館 チラシと予告編を見てこれは見なくっちゃ! でやって来ました。元町映画館、朝一番です。映画はチャオ・スーシュエという若い女性監督の「草原に抱かれて」という、内モンゴル映画でした。 世界地図を広げると中国の北方にモンゴル高原が広がっていて、モンゴル共和国の外モンゴルと中華人民共和国の内モンゴルに分かれます。この作品は内モンゴル出身の監督によって、おそらく、内モンゴルのどこかに旅する母と子の物語でした。 内モンゴルの草原の風景をもう一度見たい! 映画館に来たボクの望みはそれだけでした。で、納得でした。40代のころに縁があって内モンゴル自治区の州都フフホトに出かける機会が何度かありました。出かけるたびに、現地でお世話になった方に案内していただいて「草原」に出かけることができましたが、そこで、ボクは、今までの人生のなかで最も遠くまで見える地平線を見たのでした。草原には羊がいて、小高い丘があって、その丘を歩いて越えると、また、まったく同じような丘があって、その、ズット向うにロシアやヨーロッパが地続きであることに胸が躍りました。 映画には、ボクが見たことのない湖も出てきますし、まっすぐな地平線も出てきます。街で老いて「草原の、あの木のある家にかえりたい!」と叫ぶ母を車に乗せ、サイドカーに乗せて青年は「あの風景の中」を走ります。もう、それで十分でした。 映画の始まりに、我を失った老母が長男夫婦と住んでいるアパートを飛び出し、その後を、いい年をした息子が追い、狭いアパートの一室を鉄格子で締め切った部屋に連れ戻すシーンが映ります。 危うく声をあげて泣くところでした。50年前、中学生だったボクの心の底に焼き付いて、忘れることができない、あの頃のわが家の風景が浮かんできたのです。 映画は、その老いた母を、馬頭琴を演奏し草原の歌をうたって人気歌手になっている弟が兄夫婦のアパートから連れ出し、草原の家、母の記憶にあるあの木を探して旅するロードムービーでした。 老母を鉄格子の部屋に閉じこめていた兄・長男が、別れに際して、母にすがって泣くシーンが、実は、一番心に残りました。 原題は「臍帯」、「へその緒」です。旅に出ても、油断すると徘徊を繰り返す母に手を焼いた弟が、母と自分を1本のロープで結わえるところに、その題の所以があると思いますが、本当は、モンゴルの大地と自然が大いなる母であって、そこを「帰る」場所だと信じている老婆とモンゴルの大地の関係をあらわしていたのだということに、深く納得した作品でした。 老いた母を演じ、湖を背景に美しく待って見せたバドマという女優さんに拍手!でした。それから、何といっても拍手!は撮影したツァオ・ユーと監督のチャオ・スーシュエという人ですね。ストーリーはシンプルですが、一つ一つのシーンがいいなあと思いました。拍手!監督 チャオ・スーシュエ製作 リウ・フイ フー・ジン脚本 チャオ・スーシュエ撮影 ツァオ・ユー音楽 ウルナ イデル キャストバドマ(母)イダー(アルス)2022年・96分・中国原題「臍帯 The Cord of Life」2023・10・16・no125・元町映画館no207!
2023.10.19
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ヴィム・ヴェンダース「パリ、テキサス」その2 パルシネマ 2023年の9月にパルシネマで見ました。小津安二郎の「お早う」との2本立てで、SCC、シマクマシネマ倶楽部、第10回鑑賞作品として選んだのですが、2本立てなので11本目になります。映画はヴィム・ヴェンダース監督の「パリ、テキサス」です。 一緒に見たM氏は、まあ、やり取りは割愛しますが、これまた、今一で、納得がいかなかったようです。 で、ボクはどうだったか?通算すると三度目の鑑賞のような気がしますが、少なくとも、ここ一年で二度目の鑑賞でした。まだ、記憶が新しいですから、見ていて次のシーンが予想できます。その結果でしょうか、一つ一つのシーンの、新しい発見というか、気付きというか山盛りで、どんどんトリコになっていく感覚が自分の中に満ちてくる至福の映画体験でした。 上のチラシの写真のとおりで、赤い帽子をかぶって荒野を歩いている記憶喪失の男トラヴィス(ハリー・ディーン・スタントン)の前方には、町なんてどこにも見えなくて、アリゾナの禿山しかないこと。トラヴィスは無表情ですが意志的で、はっきり目的がわかっていること。しかし、なぜか、映画は線路を走る列車の音を映像の背後に響かせていること。 のぞき窓の部屋で「灯りを消せばこちらが見えるよ。」と語りかけたトラヴィスは、ジェーン(ナスターシャ・キンスキー)の視線に対して、暗がりで俯いていること。客がトラヴィスだと気づいたジェーンは、のぞき窓に背を向けて話を聞き、話をすること。 母ジェーンと息子のハンター(ハンター・カーソン)が感動的な再会を果たしたホテルの窓の下にしばらく佇むトラヴィスがいて、やがて、また、出発すること。 おそらく、行き先は「パリ、テキサス」で、そこはトラヴィスにとって母の生地であるとともに、トラヴィスと、ジェーン、ハンターの三人が家族だったころ購入した土地があること。 ボクには、この作品を30代のころに見た、なんとなくな記憶があります。昨年だったかの、この監督の特集で見直した時に「ベルリン・天使の詩」をはじめ、総敗北だったヴェンダースでしたが、やっとのことで、映画を構想するヴェンダースの場所までたどり着いたような気がしました。 テキサスにパリという地名を発見した時に、ヴェンダースに浮かんだのはなんだったのでしょうね。三度目を見終えて、ボンヤリと日々を暮らしながら、元町の高架ぞいの道を歩いていたある日、人が生きている限りそこを目指すほかない、しかし、ついにたどり着くことのできない荒涼とした夢の場所が思い浮かんできたのでした。そこにたどり着けば一息付けるんじゃないか。まあ、そういう場所ですね(笑)。 木偶の坊になりきって、あてのない旅人を演じ切ったハリー・ディーン・スタントンにはやっぱり拍手!でした。 いや、もちろん、そこに映っているのを見ているだけでため息が出てしまうナスターシャ・キンスキーの哀しくも美しい姿にも拍手!です。ボクにとっては生涯の記憶に残る傑作!ですね(笑)。監督 ヴィム・ベンダー脚本 サム・シェパード L・M・キット・カーソン撮影 ロビー・ミュラー美術 ケイト・アルトマン衣装 ビルギッタ・ビョルゲ編集 ペーター・プルツィゴッダ音楽 ライ・クーダーキャストハリー・ディーン・スタントン(トラヴィス)ナスターシャ・キンスキー(ジェーン)ディーン・ストックウェル(ウォルト)オーロール・クレマン(アンヌ)ハンター・カーソン(ハンター)ベルンハルト・ビッキ医師ベルンハルト・ビッキトム・ファレル叫ぶ男トム・ファレルジョン・ルーリージョン・ルーリー1984年・146分・G・西ドイツ・フランス合作原題「Paris, Texas」1985年9月7日(日本初公開)2023・09・25・no119・パルシネマno65・SCCno11!
2023.10.18
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吉野耕平「沈黙の艦隊」109シネマズ・ハット 見ちゃいましたよ(笑)。SCC第11回例会、12本目です。今回はM氏の提案です。映画は吉野耕平監督、かわぐちかいじ原作の「沈黙の艦隊」でした(笑)。 見終えて、道ばたの日陰に座って一服しながらの感想戦です(笑)。ああ、今時、一服するのはシマクマ君だけです。M氏はタバコなんて、もちろん、お吸いになりません。 「なんなんですかね、これって?」「えー?結構面白かったんですけど。」「特撮マニアの人たちって、やっぱり、こういうの面白いんでしょうかね?」「ボク、そういうとこ、まったく興味ないんです。でも好きな人は好きなんじゃないですか?いかにも東宝の映画っていう感じじゃないですか。ボクの、今回の興味は大沢たかおっていう人だったんです。キングダムという映画の王騎という役が、まあ、なんともいえずおかしかったんですが、服装が違うだけでおんなじで笑えましたね(笑)。」「続けてやるんですかね?」「やるでしょ。始まったばっかりじゃないですか。かわぐちかいじの沈黙の艦隊はお読みになりましたか?」「はい、昔、喫茶店かどこかで。」「あれって、というか、この映画のネタでもあるんですけど、アイデアというか面白いですよね。」「核兵器をチラつかせるとこですか。」「まあ、そうなんですけど、ぼくは、うったらうつぞというとうたないんだったら、はじめっから撃たない、持たないが可能なんじゃないかというのがかわぐちかいじのアイデアなんじゃないか、それって、まあ、マンガ的ではあるのですが、面白いなって思うのです。で、今日の映画もそこんところを強調してたんですが、問題は結論ですよね。」「というと?」「マンガが、まだ続いている気が、ボクはしているんですが、まあ、そんなわけはないのですが、海江田という主人公、最後、どうなるかご存知ですか?」「いや、忘れました。」「たしか、国連に行くんですけど、核所持がブラフだったことをばらして、撃たれて終わるんです。で、今日のところで、面白いなって思ったのは、乗組員たちはそのことを知っているんです。にもかかわらず海江田に付いてくるんです。そこはどうするのかな?それと、ボクはかわぐちかいじ自身が結論に困った結果、案外、凡庸なマンガになって終わったと思うんですが、そこをどう解釈するのかですね?」「ふーむ・・・、続編も、作られるとして、見ます?」「ああ、それはわからないですね。でも、見そうですけど(笑)」 M氏は今回も納得がいかなかったようですが、シマクマ君は案外面白かったですね。昨今の世相もあって、ある意味、鬱陶しい話なのですが世相に媚びるのかどうか、ちょっと興味ありますね。まあ、マンガの映画化というわけで、おおざっぱな印象は残ったんですけどね(笑)。監督 吉野耕平原作 かわぐちかいじ脚本 高井光撮影 小宮山充編集 今井剛音楽 池頼広主題歌 Adoキャスト大沢たかお(やまと艦長・海江田四郎)玉木宏(海自たつなみ艦長・深町洋)上戸彩(市谷裕美・記者)ユースケ・サンタマリア(たつなみソナーマン・南波栄一)中村倫也(入江兄弟・兄)中村蒼(やまと・副艦長・山中栄治)松岡広大(入江兄弟・弟)水川あさみ(海自たつなみ・副長・速水貴子)笹野高史(竹上総理大臣)アレクス・ポーノビッチ(第7艦隊司令官ローガン・スタイガー)リック・アムスバリー(米大統領ニコラス・ベネット)橋爪功(黒幕・海原大悟)夏川結衣(曽根崎防衛大臣)江口洋介(海原官房長官)2023年・113分・G・日本配給 東宝2023・10・16・no126・109シネマズ・ハットno33・SCCno12!
2023.10.17
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小池水音「息」(新潮社) 上の写真のこの本は若い作家の処女出版だそうです。1991年生まれの小池水音、みずねと読むようですが、という人の「息」(新潮社)という作品集でした。 収められた「わからないままで」という作品が2020年、第52回新潮新人賞をとったデビュー作だそうです。新潮社が新人の作家をたたえる賞には三島由紀夫文学賞という賞があって、有名ですが、新潮新人賞というのもあるのかと、初めて知りましたが、この人の受賞が第52回なわけですから、実は昔からあるのですね。ちなみに、その2020年の三島賞の受賞作は宇佐見りんの「かか」(河出文庫)でした。 で、本書の表題になっている「息」という作品は、2023年の三島賞の候補作だそうです。 とりあえず、表題作の「息」ですが、こんな書き出しでした。 わたしは暗い天井を見上げ、そこからなにかを読み取ろうとする。 ちょうど棺桶ほどの大きさの長方形を縦に横に組み合わせたような継ぎ目が、コンクリートの天井に走っている。読み取るというよりもむしろ、天井のほうから投げかけてくるものをきちんと受け止めなければならないのだとも感じて、継ぎ目の端から端まで、わたしは慎重に視線をたどらせる。 大学生のころ以来、十五年ぶりに起きた発作だった。けれど夜明けにふと目覚めて、自分の気管支がほんとうにひさびさに狭まっていると気がついたときすでに、わたしは無意識のうちに、幼いころの習慣を再現していた。(P9) 小説は「わたし」、大学を出て、15年ほどたった女性によって語られています。彼女は、今、イラストレーターとして暮らしていますが、夜明けの自室で、15年ぶりに起こった気管支が狭くなるという発作の中で「息」を求めて仰向けに横たわりっています。彼女が、どんなふうに「息」を求めているのか、その部屋でのリアルな描写が続きますが、一方で、その姿勢で見上げている「天井のほうから投げかけてくる」ものがなんであるのかを、静かに語りだし、語り続けた趣の小説でした。 日がすっかり昇ったら近所の内科へ行くことにしよう。そう思いながら、わたしはまた瞼を閉じてみる。そのときふと、目を覚ますまで見ていた夢の体感がよみがえった。それはこの十年のあいだ、くりかえし見てきた夢だった。夢にはいつも必ず、弟がいた。私はその夢のなかで、一歩、一歩と、弟のいるほうへ歩み寄ってゆく。その足取りを思い出す。(中略) ふたたび天井に目を向ける。さきほどからなにひとつ変化のない粗い継ぎ目が、コンクリートの天井には走っている。意味のあるなにかがそこには示されている。(P13) 父、母、そして、くりかえし夢に出てくる弟、主治医とその娘、彼女の脳裏に浮かぶ人々の姿、そして、子どもころから「空気のかたまり」求めて続けてきた彼女の、おそらく、三十数年にわたる生活が、静かに、しかし、誠実に語られていました。 おそらく、作家自身の体験が作品の底にあるのだろうと思いますが、この作品の面白さは「喘息」体験のリアルな描写によるのではなく、「空気のかたまり」を求める語り手の生を希求する姿の普遍性を描こうとしたことにあると感じました。 併収されている「わからないままで」という作品は、「息」という作品と、丁度、裏表の構成で、小池水音という作家の実体験と小説との関係を暗示していますが、二つの作品を読み終えて、驚いたのは作家が男性だったことでした。 作家の名前と「息」という作品が、女性の語りで書かれていたことで錯覚したのかもしれませんが、女性作家だと思い込んで読んでいました。まあ、ボクの迂闊さはともかく、この若い作家の力量がなせるワザでもあり訳で、なかなかやるな! という印象を持ちました。読んで損はないと思いますよ(笑)。
2023.10.16
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メーサーロシュ・マールタ「アダプション/ある母と娘の記録」元町映画館 2023年、7月の初旬、元町映画館でやっていた<メーサーロシュ・マールタ監督特集 女性たちのささやかな革命>というプログラムの初日に「アダプション/ある母と娘の記録」という1975年に作られたハンガリーの映画を見ました。 中年の女性と、高校生くらいの少女の出会いと別れが描かれていました。高校生くらいの少女の名前はアンナ、親に見捨てられているようで、日本でいえば教護施設でしょうか、寄宿学校で暮らしているようです。その少女が校外学習、放課後の外出だかの機会に、中年の女性を訪ねます。恋人との逢瀬のための場所を探してのことのようです。 一方、中年の女性ですが、名前はカタ、木工工場の労働者で、一人暮らしです。夫とは死に別れたようで、妻子のある男性と付き合っています。子どもはいません。 で、カタはアンナを受け入れます。友情というより、母と娘、あるいは、保護者と少女、ひょっとしたら、女の女の感覚のようです。 邦訳の題名にあるとおり、「ある母と娘」の、それぞれの女性の孤独の記録でした。題名のカタカナの方の「アダプション」というのはビジネス用語としては「採用」とからしいですが、「養子縁組」という意味もあるようで、この映画ではそちらでしょうか? 映画の中で、カタはアンナに養女になることを求めますが、アンナが断ります。親から捨てられたアンナは、自らの存在の在り方を、同性で年上の理解者としていたわり、許してくれるカタを信頼し愛しますが、「親子」になることは拒否します。 カタの思いを考えれば、切ない拒絶ですが、理解できる気がしました。一方、アンナに拒絶されたカタは、あくまでも、子どものいる生活を手に入れるべく「アダプション」、養子縁組の機会を求めて奔走しますが、そのカタの執着がこの映画のわからないところでした。 見終えて帰って来て知ったことですが、1975年のベルリン映画祭で金熊賞の作品だったそうです。で、その年のベルリンの主演女優賞が「サンダカン八番娼館 望郷」の田中絹代だったと知ってナルホド!と、膝を打つ気分でした。 「サンダカン八番娼館 望郷」という映画は、熊井啓という男性の監督の作品ですが、学生だったボクが映画を見始めたころの傑作で、高度経済成長で浮かれ始めた「戦後社会」が見捨てていた、イヤ、今も見捨て続けている女性の姿を描いていたと思いますが、ルポライター役の栗原小巻が手渡したタオルに頬ずりする田中絹代の歓びのシーンと、帰国した故郷で、壁越しに漏れ聞こえる「カラユキさん帰り」に対するうわさを聞いた高橋洋子が風呂で溺れ死のうとするシーンは、50年近くたった今でも忘れられない作品です。 で、その映画が作られた同じ年に、ハンガリーで暮らしていた女性監督が、共産主義社会を生きる二人の女性を描いていて、同じコンペティションで評価を争っていたというのも驚きでしたが、今日のスクリーンに映って二人の女性(べレク・カティとビーグ・ジェンジェベール)と、50年前に見た二人の女性(田中絹代と高橋洋子)が、どこかで重なり合う印象が心に残りました。 田中絹代と高橋洋子は、同一人物を演じていたわけで、この映画のべレク・カティとビーグ・ジェンジェベールとは設定そのものが異なりますが、それぞれ、社会の中で生きる女性という映画の視点は共通していると思いました。 69歳の老人は1975年という、ある時代があったことをしみじみと振り返るのですが、あの時芽生えた「性」、ひいては、「生」をめぐる問題意識の芽は育ったのでしょうか。まあ、そんなことをフト考える発見でした。 べレク・カティとビーグ・ジェンジェベールという二人の女優さんとメーサーロシュ・マールタという監督に拍手!でした。 実は、この特集では、日程を勘違いしていて、この1本だけしか見ることができなかったのが、かえすがえすも残念でした。ボケけてますね(笑)。監督 メーサーロシュ・マールタ脚本メーサーロシュ・マールタヘルナーディ・ジュラ グルンワルスキ・フェレンツ撮影 コルタイ・ラヨシュキャストべレク・カティビーグ・ジェンジェベールフリード・ペーテルサボー・ラースロー1975年・88分・PG12・ハンガリー原題「Orokbefogadas」2023・07・08・no86・元町映画館no182!
2023.10.15
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角幡唯介「裸の大地 第一部 狩りと漂泊」(集英社) 角幡唯介という冒険家の「裸の大地第二部 犬橇事始」(集英社)という本を、偶然、読んで、40歳をこえた、いい大人がグリーンランドとかの果てで十数頭の犬と戯れて(?)いる話があまりに面白かったので、やっぱり、ここは第1部もというので、この本を読み始めました。 「裸の大地第一部 狩りと漂泊」(集英社)です。表紙を飾っているのは、第二部で主役の一頭だった迷犬(?)ウヤミリックと、今回は犬橇ではなくて人が引いて荷物を運ぶ橇の写真でした。 犬一頭に手伝わせて、角幡自身が自力で橇をひき、グリーンランドの北の果てで「もっと北へ!」 というわけで、ただ、ひたすら歩く話でした。 著者の角幡唯介は1976年生まれらしいですが、2018年ですから、43歳だかの時の行動と思索の記録でした。 先だって読んだ第二部は犬とか橇とかの写真が巻頭を飾っていましたが、本書はこんな書き出しで始まります。 村に来て何日かたったころだった。降りつもる雪を踏みしめて、イラングアが私の家にやってきた。 グリーンランド最北の村シオラパルクには今、四十人ほどしか住んでいない。二十代の男はわずか数人で、ほかの連中は隣のカナックや南部の都市にうつってゆき、日本の山村と同じように過疎化が進んでいる。イラングアは、わずか数人しかいない村の若い男連中のひとりだ。 彼が私の家に来るのは、めずらしいことではない。イヌイット社会には伝統的にプラットという、文字通りぷらっと他人の家を訪問してコーヒーを飲んだり、ぺちゃくちゃ喋ったり、賭け事に興じたりする交流、暇つぶしの習慣がある。私は片言の現地語しか話せないし、客人をうまくもてなせるタイプでもないのでプラットにやってくる人は少ないのだが、人づきあいのいい彼は毎日のようにやってくる。そして誰それが猟に出て海豹を二頭獲ったとか、今日は天気が悪いからヘリは来ないよ、といった生活情報を教えてくれる。愛想がよくていつもケタケタ笑い声をあげ、冗談ばかり言って私をかつぐ、気のいい若者である。(P6) で、そのイラングア君がこんな事を云ったところから、角幡流「冒険論」が始まります。 カクハタ、あんた今四十二歳だろ。日本人は皆四十二歳で死ぬから、今年は旅をしないほうがいい。行ったら、あんた、死ぬよ。 四十二歳は日本人にとって不吉な年なんだろ。ナオミだって死んだ、カナダで氷に落ちて死んだのもいただろ。(後略) ナオミというのはグリーンランドで英雄視されている冒険家植村直己のことであり、〈カナダで氷に落ちて死んだ〉というのは河野兵市である。植村直己が厳冬期のアラスカ・デナリで消息を絶ったのは一九八四年、一方河野兵市は二〇〇一年に北極点から故郷愛媛をめざす壮大なプロジェクトの途上で氷の割れ目から海に落ちた。いずれもなくなった時の年齢は同じだ。(P7) 第1章は「四十三歳の落とし穴」と題されていますが、ここから本書は「冒険」にとっての体力、精神力、そして、経験の意味について論じ始めます。 長くなるので名前だけ上げますが、長谷川恒男(アルプス三大北壁登記単独登頂)、星野道夫(写真家)、谷口けい(ピオレドール賞)といった、著名な人たち名前があげられ、四十二歳というのは、イラングアの間違いで、四十三歳という年齢について話はすすめられます。 結論は、誰にとっても、例外なく「危険な年齢」というわけで、角幡自身、そのことに無頓着なわけではありません。にもかかわらず、彼は「性懲りもなく」、また、旅をはじめようとしています。なぜでしょう。 四十三歳で多くの冒険家が死亡するのは、多分、体力が経験に追い付かなくなることより、むしろのこされた時間が少ないと感じて行動に無理が出るからだ。(P17) これが、角幡が、旅に出かける前に下した結論です。で、読み始めて、ほぼ、20ページ、この個所に逢着して、後はノンストップでした。69歳になった老人が、角幡唯介などという、まあ、縁もゆかりもない、40代の冒険家の話に、どうして引き付けられるのか、答えがこれですね(笑)。 さて、もう一つの読みどころというか、気に掛かるのは、「狩りと漂泊」という言い回しですね。 誰かが作った、すでにある地図に頼ることなく、とにかく、行きあたりばったりで、たとえば「北へ」という目的を貫くことで、自分自身の地図を作りたい。 まあ、要約すればそういうことのようです。「生」を生のまま自然に晒すにはどうしたらいいか。 そんなふうにも読めました。冒険でしょ(笑)。まあ、人生論でもあるかもしれませんね。で、生きるためには食うことはやめられませんから「狩り」です。「狩りと漂泊」という本書の題名の由来です。 そういうわけで、彼は出発します。 準備をひととおり終え、いつも行動をともにしている一頭の犬とともに、第一回ノック奥狩猟漂泊の旅に出たのは三月十六日のことだった。(P60) 最後はイキナ氷河を下って、五月二十九日に私は村にもどることができた。旅をはじめて七十五日目のことだった。氷河から村までの十五キロはスキーさえ重たくなり、橇にのせて犬に運んでもらった。(P276) こうして、犬とともに橇をひいて1000キロを歩く200頁の旅が終わったのですが、現場の描写は「いったい、いつ、獲物が現れるのか?いつ、食料は手に入るのか?」 という、まあ、帰ってきて、こうして本を書いているのですから、大丈夫なのですが、ハラハラ、ドキドキで次のページ、次のページへと引きずられていく調子で、実に疲れる読書でした。 まあ、それにしても、雪と氷以外、ほぼ、なにもない話が、どうしてこんなに面白いのか、ホント不思議ですね。あと何年…💦 とかいう焦りに、フト、とらわれるお年の方にも、案外、おすすめなのではないでしょうか(笑)。ホント、命がけで、ようやるわという人の話って面白いですね(笑)まあ、何はともあれ、こちらは老人なわけで、生きて帰ってこられてよかったね! と、ホッと一息つくのでした。一応、目次、載せておきますね。 目次四十三歳の落とし穴裸の山狩りを前提とした旅オールドルートいい土地の発見見えない一線最後の獲物新しい旅のはじまり*付録 私の地図
2023.10.14
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NTLiveジェレミー・ヘリン演出「ベスト・オブ・エネミーズ」シネ・リーブル神戸 久しぶりのナショナルシアター・ライヴでした。お友達の入口君と見ました。ジェレミー・へリンという人が演出した「ベスト オブ エネミーズ」です。 たぶん、原題には「ザ」がついていそうなものですが、「好敵手」とでもいう意味でしょうかね。同名の映画だか、テレビドラマだかがあるようですが、それとは関係ないドラマのようでした。 1960年代のアメリカが舞台のお芝居で、今では、日本でも当たり前のように放映される、所謂、国政選挙をネタに視聴率を稼ごうとする、まあ、ボクにいわせれば軽佻浮薄の極みにしか思えないようなテレビの討論番組のお話でした。 アメリカですから大統領選挙ネタですね。ケネディ兄弟の暗殺とか、ニクソン、レーガンという、超保守派の登場とか、まあ、他所事ながら、懐かしい話題で展開します。 舞台に登場するのは、たぶん実名だと思いますが、共和党支持の保守派ウィリアム・F・バックリーJrという人と、民主党のリベラル派ゴア・ヴィダルという人です。ゴア・ヴィダルという人は、なんとなく聞き覚えがありました、フェリーニの映画に出たり、政治がらみの毒舌が有名な小説家だったと思いますが、小説作品は知りません。 舞台は、全体がテレビ局のセットでした。二人の討論が、いかに劇的効果を狙った「やらせ」の「テレビ番組」としてつくられていくかということが演じられ、二人の私生活が重ねられていきますが、テーマというか、芝居の眼目は「テレビ」というメディアの作り出す虚構の暴露ということのようです。ニュースは嘘である! というわけのようですが、ボクの印象では、今更、そんなこといわれてもなあ・・・・? というか、ちょっと古いんですね。「なあ、この戯曲、最近書かれたん。」「そうやなあ、演出家も若手やな。」「あの二人が、テレビで評判になったことで、テレビが、出来事の事実性をではなくて、受けるための伝え方を見せるメディアになったというのは、まあ、劇的なんだろうけど、古くね?」「うん、チョット、空振りやな。」 まあ、見終えて、そんなことを喋りながら、枝豆とかハゲ(お魚の名前ね)の煮つけとかつつきながら秋の夕暮れの楽しいひと時を過ごしました。 入口君は学生時代からの付き合いで、今では、どこかの大学生に舞台のビデオかなんか見せて、お芝居を論じている、まあ、そっち方面のプロですが、昔から、シマクマ君を観劇に誘ってくれるやさしい人で、この日もシマクマ君が乗る高速バスの乗り場まで送ってくれて、手を振りながらいうのでした。「今日は、つまらん芝居を誘ってすまんかったね(笑)。」「いや、見るだけの価値はあったよ。ありがとう(笑)。」「じゃあ、またね。」 そうはいってもイギリスのナショナルシアターで演じられ、映画にまでして見せている芝居ですからねえ。今、何が受けているのかを知るだけでも見る価値はあるわけです。 でもね、なんというか、この芝居の展開や、セリフからボクが受け取った世界認識というのでしょうか、問題意識というのが、ちょっと図式に見えてしまったことも事実ですね。 テレビというメディアの問題は、今や、ネット的なメディアの問題を前提にしないのであれば、まあ、「ただの時代劇?」 ということになってしまうんじゃあないかということを、かなり痛切に感じたお芝居でしたね。何といっても、元だか、現だかの、大統領とか、総理大臣とかいう人が、個人的に配信できるメディアで大衆扇動はする時代ですからね。その上、陰にまわれば言論弾圧だって、平気でやってるんじゃないかという時代のようですからね。いや、ホント、何をかいわんや! ですね。やれやれ、トホホですね(笑)。演出 ジェレミー・ヘリン原作 ジェームズ・グレアムキャストデビッド・ヘアウッド(ウィリアム・F・バックリー・Jr)ザッカリー・クイント(ゴア・ビダル)2023年・160分・G・イギリス原題National Theatre Live「 Best of Enemies」2023・10・11・no123シネリーブル神戸no207 ・NTLive!
2023.10.13
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「ちょっとぉー、おかあさんが来てるよぉー!」 ベランダだより 2023年10月11日(水) ベランダあたり 朝からベランダでいつものように叫んでいる人がいます。「チョット、チョット、写真、写真!」「ハイ、ハイ、なにごとでしょうか?」「ほら、ほら、アッコ、おかあさんが来てるやん。」 彼岸花に、アゲハ蝶が舞っています。わが家のミカン畑から巣立ち、時々帰って来て卵を産んでいるアゲハです。先日、サナギなったモスラ君たちのおかあさんです! (もちろん確証があるわけではありません(笑)) 今年、2023年は、間違いなく歴史的猛暑でした。同居人と二人で暮らしている住宅は、築後50年を迎えようとしている、5階建てでエレベーターもない老朽集合住宅ですが、住人の高齢化も半端ではありません。 猛暑が叫ばれる真夏の真昼、救急車のサイレンが鳴り響き、数日を経過して訃報が聞こえてくる、痛ましいというか、文字通り「いと、すさまじ」というべき出来事が相次ぎました。 もちろん、我が家の二人にとっても他人ごとではありません。なにしろ、我が家には、まあ、これを言うと、笑うというよりも絶句されるのですが、クーラーがありません。扇風機という「昭和」で30数年にわたる同居生活を暮らしてきたからです。 まあ、そうはいっても、何とか生き延びてきたわけで、今更、扇風機生活を変える気は毛頭ありません(笑)が、暑かったことを実感させるもう一つは、ヒガンバナでした。10月の風を感じて、暑さに一息ついたころにああ、今年もヒガンバナの季節やなぁ・・・ まあ、そんなふうに思って、住宅の周辺を尋ねてみると、みんな終わっていました。不思議ですね。写真はベランダの前に毎年咲く花ですが、あんまり元気がありません。 ヒガンバナにちょうちょなんて、なんとなく取り合わせも珍しいので、2023年の記録のつもりでベランダから撮りました。ピンボケですね(笑)。 まあ、秋ですね。かりんの実も色づき始めました。お愛想で載せておきます。じゃあ、またね(笑)。ボタン押してね!
2023.10.12
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「50歳やってぇ、ちょっと待ってよ!」 徘徊日記 2023年10月7日(土)ホテルオークラあたり 2023年の10月です。秋風が吹き始めています。写真はJR神戸駅の南にそびえる神戸クリスタルタワーです。青い壁面に青空と白い雲が映って、なかなか壮観(?)です。見上げていると、いろんなことが思い出される気がします。 シマクマ君はこの前を通りかかると写真を撮ることになります。今日は10月7日、土曜日です。 そのまま、ハーバーランドの方に抜けて、海沿いを東に向かって歩きました。工事中のポート・タワーが見えてきましたが、今日の目的地はその向こうにそびえているホテル・オークラです。 32年前に別れたお友達、教室とかテニスコート(なぜかソフトテニス部の顧問でした)とかで、まあ、あれこれお付き合いした方たちですが、が、100人を越えてお集りになっていて、「おまえも来い!」 とおっしゃていただいたのがうれしくてこうやって歩いていているわけです。 で、ここから写真がありません(笑)。 会場になっていたホテル・オークラの大広間に入ると、まあ、100人を越えて集まっていらっしゃるわけですから、オッサン、オバはんたちがガヤガヤいらっしゃって、ちらちら、オドオド、お顔を盗み見しながら会場の真ん中の方へあるくのですが、どこかから「あっ、シマクマせんせー!」 と声をかけてくれて、そっちを見ると、なんと16歳の少年が立っているのでした。 すると、あっち、こっちから、「あ、センセー!」「私、誰かわかる?」「やー、ナツカシー!」 声につられて、何というか、夢だか記憶だかの水槽があふれるかのように、16歳、17歳の少女や少年たちが、次々に登場してくるかのようであせりました💦 そこいる人たちは、無事、50歳になったことを祝い合おうとお集りなわけですが、なぜだか、みんな高校生に変身していて、ホント、こういうことって、あるのですね(笑) うれしいことに、大きな花束とかいただいて、無事、帰宅したわけですが、次の日からのわが家は花いっぱいで、思い出にひたる日々です。 でも、まあ、なんといっても、岐阜とかに嫁いだといいながら「センセーが来るっていうから岐阜からかけつけんよ。ハイ、これ、御みやげね(笑)」 というかなえちゃんからいただいた栗きんとんはうれしかったですね(笑)。実は大好物だったのです。 ひさしぶりの栗きんとんを味わいながら、便利な時代ですね、ラインとかフェイスブックとか、古くて、新しい、お友達が送ってくれるメッセージを読んだりしていますが、やっぱり、30年たったんですね。イノちゃんとか リエちゃんにも30年の月日がたったようです。もちろん、こっちにもですね。いやはや、とりあえず、感無量の一日でした。いろいろ、お気遣い、ありがとう! でしたね。ボタン押してね!
2023.10.11
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「あっ、かとうなってきたで!」 ベランダだより 2023年10月8日(日)ベランダあたり 今日は10月8日、日曜日です。3連休の中日ですが、まあ、我が家の二人にはカンケーありません。人が大勢の繁華街には近ずかんとこの日です。というわけで、朝からベランダをウロウロしています。「昨日のモスラ君なあ、色変わってきたで?」「もう、そこにきめたん?」「うん、つついたら悪いからわからんけど、かとうなってきたみたいや」「触ったり、つついたりしたらあかんよ!」 写真に写っているのはこんな所です。 ベランダのガラス戸とコンクリートの間の溝のような部分です。モスラ君が食事していた、鉢植えのミカン畑からは5メートル以上離れた場所です。よくぞここまで歩いて(?)きた! まあ、昨年は物干しざおに登っていましたから、これくらいなんでもないのでしょうかね。 近所には、すでにサナギになって、壁に張り付いていらっしゃるかたもいらっしゃいます。 こちらが元のミカン畑。写っているのは昨日の「ご兄弟?」ではありません。彼の姿はいくら探しても見つからないところを見ると、彼もまた、チョット、サナギになろうかなの旅に出発したのかもしれません。 ミカン畑には、お先にアゲハになりました!の抜け殻も残っていました。ここでサナギになるのは、なんとなく、そういうものだと思うのですが、ここから出発してしまうのは何故なのでしょうね。 デカくなった二匹が去った、今のミカン畑です。実はチビラ状態のモスラ君が、まあ、数えきれない(ちょっと大げさですが)ほどいらっしゃって、食事に余念がない状態です。ほとんどの葉っぱは食べつくされて、すでに枯れ山になっていて、今後の食料不足が懸念されている2023年10月8日でした。 じゃあ、またね。ボタン押してね!
2023.10.10
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桜庭一樹「東京ディストピア日記」(河出書房新社) 中国の方方 (ファンファン)という女性作家の「武漢日記」(河出書房新社)を読んで案内しました。で、その日記の英訳者のマイケル・ベリーというカリフォルニア大学の中国研究者が書いた「『武漢日記』が消された日」(河出書房新社)を、ついでというか、成り行きで案内したのですが、日本国内でも同じ河出書房新社から「東京ディストピア日記」という、コロナ日記が出ていることに気づいて読みました。 書いているのは桜庭一樹という、15年ほど前に「私の男」(文春文庫)という暗い話で直木賞をとった、東京暮らしの「女性作家」です。直木賞作品は、その当時読みましたが、どうも、女性作家であるようなのに、桜庭一樹というペン・ネームを不思議だと思った以外、何の記憶もない人でした。目次は後ろに載せますが、2020年1月から2021年の1月までの1年間、東京での暮らし綴られた日記です。 最初が2020年の1月26日です。おそらく彼女の住まいから見えるのでしょうね、東京スカイツリーの電飾と隅田川の屋台船の話です。コロナの話は、まだ始まりません。 日記としては三日目の記事で、2月8日に「中国で猛威を振るう新型コロナウィルスのニュースが毎日流れるようになった。」 という記述が出てきて、そこからが、日本版「コロナ日記」の始まりです。 今、シマクマ君がこの記事を書いているのは、2023年の10月9日です。桜庭一樹のこの日記が始められて、3年と10カ月が過ぎたわけです。個人的な年月の経過の思い出は、とりあえず後回しにして、彼女の日記に繰り返し登場する固有名詞は、アベ、コイケ、トランプ、付け加えるなら、スガ、モリ、あたりです。みんな、インチキをさらしたで政治家たちですが、何といっても、アベという人が、すでにこの世の人ではないという時間間隔は圧倒的ですね。 2020年のアベは、わけのわからないマスクを、国家事業として配布した当事者で、秋には辞職して、スガという名前が「ガースーです。」とかなんとか笑いながら登場したのですが、覚えていらっしゃるでしょうか? どうでしょう、アベという名前の、あの人物は、すでにこの世にはいないということが、この3年間の、不思議な時間間隔を加速させるとお感じになりませんか?。「歴史事実」ということが、やたらと話題になる今日この頃ですが、日常的な備忘録として、妙に迫ってくるのが、この「東京ディストピア日記」でした。 桜庭一樹自身が、コロナが蔓延し、後先が見えない日常の中に生きる一人の人間として、自分自身の感受性の変化を真摯に記録しようという意思で、日記を書き続けていることは目次の表題にも表れているのですが、とりあえずシマクマ君が目を止めたのはここでした。 コロナ騒動が、他人ごとではなくなり始めた、2020年の3月の末、29日(火)のこんな一節です。 昨日、国内の一日の感染者数が二百人を超えた。 大学生たちに対し、感染拡大を避けるため、都会から地方に帰省しないようにとの声が強まっている。 関西の大学では、学生八名の集団感染が起こった。欧州に卒業旅行に出かけた四名と、彼らと卒業祝賀会で同席した四名だ。これにも「感染爆発の時期に欧州に行くなんて」と非難の声が飛び交っているが、大学の講師の知人が「学生がかわいそうだよ!今どんなに責任を感じていることか!だいたい、あの時期は欧州でまだ感染爆発してなかったのに!」と強い口調で言うので、はっとした。世界中のいろんなニュースが絶え間なく流れ、私も、出来事の順番がわからなくなっているのだ。(P46) なぜ、この記事が目に留まったのか。実は、この事件の当事者である大学の教員が古からの友人で、なおかつその教員は、自らも、この時コロナに感染し、生死が危ぶまれる体験をしたことを、本人から直接聞いたということもあって、本書の記述に出合った瞬間から、異様にリアルに「あの時」が浮かび上がって来て、まあ、後は一気読みでした。 2020年12月31日 寝転んで『モモ』を読み終わり、『武漢日記』(方方著)を読み、紅白を眺め、なんだか、夢から覚めた後もじつはべつな変な夢の中に閉じこめられているようななんともいえない気分で、あと数分でとうとう終わる、パンデミックでディストピアな二〇二〇年の端っこにくっついている。(P242) 2020年の大みそかの記述です。桜庭一樹は、コロナ騒動の秋、突如、ミヒャエル・エンデの「モモ」が読みたくなり、第8章の「時間どろぼう」では、まあ、読んでいる物語に促されて時間をさまよったりするのですが、その標題なのですが、大みそかに読み終えたらしいですね。 今となっては、まあ、誰もが知っていることですが、ここを書き終えて新年を迎えても、残念ながら、ユートピアにはなりませんでしたが、生活は続きましたよね。後遺症が怪しいのはコロナ感染だけではありません、ワクチンだって、かなり怪しいですね。被害者はすでに出ていると思いますが。 アフター・コロナという流行言葉も、もう、廃れつつあります。喉元過ぎれば…。 ここ3年間、いったい、なにがあったのか、「歴史的事件」を生きた人間の一人として、自分を見直していくためのよすがとして格好の1冊ではないでしょうか。 最後に目次をあげておきます。 目次プロローグ一 桜咲く 二〇二〇年一月二十六日(日)~二〇二〇年三月八日(日)二 日常の終わり 三月九日(月)~四月七日(火)三 ステイ・ホーム? 四月八日(水)~五月六日(水)四 新しい生活 五月七日(木)~五月二十九日(金)五 わたしは何者か? 六月二日(火)~七月十八日(土)六 ディストピア 八月四日(火)~九月六日(日)七 ガールクラッシュ 九月十三日(日)~十月二十五日(日)八 時間どろぼう 十一月十五日(日)~十二月三十一日(木)九 分断と融和二〇二一年一月七日(木)~一月九日(土)エピローグそれではまたね(笑)。
2023.10.09
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「さむなってきたし、ちょっと、 サナギになろうかな?!」 ベランダだより 2023年10月7日(土)ベランダあたり さすがの猛暑も、10月の声を聞くと収まったようで布団の中でゴロついているとチッチキ夫人がベランダで騒いでいます。「チョット、チョット、えらい旅してんねん。」「ちょっと、カメラどこ?」「あっちの机の横。」「これ、どうしたらカメラになんの?」「えーっと・・・」 スマホとかをとりだしてきて、いじり始めたので、シマクマ君も起きだしました。「ここ、こうすんの。ホレ!」「あっ、もう、じっとしてる。」「さむなって来たから、サナギになろうかなって、きっとそうやんな。」「えっ?ボーカン?」「こっちに残ってんのが、お兄ちゃんやんな。」「なんで、ニーチャンやってわかるねん。」「きのうから、ここで、一緒やってん。」「そやから、なんで、ニーチャンやねん!?」「あっ、ホラ、ピントおうてるやん!」 今日は朝から大騒ぎのベランダでした。10月最初の土曜日です。秋ですね。ボタン押してね!
2023.10.08
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マイケル・モリス「トゥ・レスリー」パルシネマ 「アフターサン」との2本立ての、もう1本はマイケル・モリスという監督の「トゥ・レスリー」という作品でした。 ロトという宝くじが、日本にもありますが、子持ちのシングル・マザーだったレスリー(アンドレア・ライズボロー)という女性が大当たりをひいたというのが、映画の前提で、くじで手に入れた19万ドルというあぶく銭のせいで、酒浸りの生活で、無一文、とうとう、住んでいたアパートから追い出されるシーンから映画は始まりました。 すべてを失ったらしいレスリーが頼るのは、息子のジェームズですが、彼はレスリーが生活を失っていく過程で捨てられた息子です。ジェームス自身は、まだ10代のようですが、建築現場の作業員として自活しています。ジェームスは、まあ、息子ですから、行き場を失って転がり込んできた母親レスリーを受け入れようとしますが、息子と暮らし始めても、息子にも禁じられた酒が、やはり、やめられない母親を、結局、追い出さざるを得ないのが、見ているこっちにもよくわかる展開で追い出します。 で、レスリーは住んでいた町にUターンするのですが、このままではうまくいかないでしょうね。見ているこっちも疲れるのですが、レスリー役のアンドレア・ライズボローの演技は、まあ、チラシの写真にも写っていますが一見の価値があります。自暴自棄とか、下品とか、だらしがないとか、その境遇に陥って、酒にすがるほか生きていくすべを思いつかない人間、それも女性の顔や姿態の醜態を、これでもかといわんばかりに演じています。見ていて、正直、うんざりします(笑) ウンザリしながらですが、彼女が身を持ち崩すことになった19万ドルという金額が、日本円に換算すると、2000万円くらいだと気づいて、唖然としました。なんという貧しさでしょう! もちろん、ボク自身にとって、2000万円という金額は大金です。そんな金はどこにもありません。あれば、うれしいに決まっています。しかし、何とか生き延びていく生活の未来を見失う額だとはとても思えません。にもかかわらず、現代アメリカを生きている一人の女性が何とか生き延びていく道を見失っている姿が、かなりなリアリティーで、目の前に描かれているのです。これを、貧しさといわずに、何といえばいいのでしょう。他人ごとではありません。おそらく、現代日本だって、この貧しさを共有しているに違いありません。 映画は、スウィーニーとロイヤルという二人の人間との出会いによって、レスリー自身の自己肯定の意思、すなわち、酒をやめる意思が芽生えてくることで、ホッとする結末を迎えます。見ている誰かを励ますに違いないヒューマン・ドラマの結末というわけです。 しかし、ボクは納得がいきませんでした。レスリーが酒におぼれたのは彼女の個人的な問題でしょうか。レスリーが生きている、イヤ、ボクもそこで生きている、現代社会に充満している「貧しさ」について、この映画はどうして問いかけないのでしょう。 レスリーの回復の過程でクローズアップされるのは「自己決定」の意思の芽生えだったといっていいと思いますが、その、心温まるシーンでの、アンドレア・ライズボローが初めて見せる美しい表情を見ながら、「自己責任」という嘘くさい流行言葉が浮かんできてしまったのですが、どうしたらいいのでしょうね(笑)。 ぶつくさ文句を言っていますが、何度もいうようにアンドレア・ライズボローという女優さんは、なかなかでした。拍手!ですね。しかし、マイケル・モリスという監督さんには???でした。やはり、チョット、突っ込み不足で、納得がいきませんね(笑)。監督 マイケル・モリス脚本 ライアン・ビナコ撮影 ラーキン・サイプル美術 エマ・ローズ・ミード衣装 ナンシー・セオ編集 クリス・マケイレブ音楽 リンダ・ペリー音楽監修 バック・デイモンキャストアンドレア・ライズボロー(レスリー 母)オーウェン・ティーグ(ジェームズ 息子)スティーブン・ルート(ダッチ)アリソン・ジャネイ(ナンシー)マーク・マロン(スウィーニー)アンドレ・ロヨ(ロイヤル)2022年・119分・G・アメリカ原題「To Leslie」2023・10・03・no122・パルシネマno67 !
2023.10.07
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シャーロット・ウェルズ「アフターサン」パルシネマ パルシネマが今週(2023年・10月・第1週)「アフターサン」と「トゥ・レスリー」という二本立てのプログラムを組んでいました。2本とも封切で見損ねていたので、何の気なしにやって来ました。 見ていて、プログラムの意図に気づいて笑いました。共通する鍵言葉は「親子」だったんです。もっとも、それに気づいたのは2本目の「トゥ・レスリー」を見終えようとするあたりでしたから、自慢になるわけではありません。 で、1本目が「アフターサン」です。「アフター」と「サン」のあいだがあいている二つの言葉かなとか、もの知らずなシマクマ君はそんなことをを考えながら見ていたのですが、日焼け止めという意味なのですね。「あのね、アフターシェーブローションをアフターシェーブというようなものよ。」「ああ、そう?」「で、おもしろかったの?」「うーん、微妙。」 帰宅して、同居人に教えられて納得しました。さて、面白かったんでしょうか? 館内が暗くなると、画面には「ビデオを再生してますよ」的なごちゃごちゃした映像が映り、やがてノーマルな画面になって、父カラム(ポール・メスカル)と娘のソフィ(フランキー・コリオ)という二人が、トルコか、そのあたりらしいリゾート・ホテルにやって来て、最初は、部屋にベッドがないという苦情のシーンで始まりますが、やがて、プールの傍に寝転がっている娘の背中に、父親が「アフターサン」を塗るシーンとかがあって、なんで、日焼け止めクリームを塗るシーンがわざわざ、それも繰り返し映るのかわからないシマクマ君はポカーン! 父親と母親は離婚しているようで、いつもは母親と暮らしているらしい、で、11歳ですから、小学生の娘が、まあ、夏休みを利用して、父親とすごすためにリゾートにやって来て、数日過ごすという話のようです。だから、まあ、父親がスキン・シップしたがっているのであろうか、と見ていると、今度はハンディのビデオカメラをとりだして、娘の様子を写したり、娘がそれで父親を写したりします。で、その映像の再生画面を誰かが見ているというお話の仕組みのようです。フーンそうか。 まあ、そんな感じ見ていると、ビデオを見ているのが、実は、ビデオの中で父親と一緒にいるソフィ自身で、あの時から20年の歳月が流れていて、ビデオのなかの父親と同じ年になっていることが、まあ、わかっていきます。 ビデオを見ている31歳のソフィには、赤ん坊がいるらしいのですが、同じベッドで寝ているのは女性です。再生している部屋には、あの時、金のない父親カラムがためらいながら買った、かなり高額な絨毯が敷かれています。なぜ、あの絨毯がそこにあるのでしょうね。だいたい、ビデオカメラは、バカンスが終わって二人が別れるときに父親が持っていたはずですから、ビデオを再生しているという、「映画の現在」に、ソフィがそれを見ているということにも、絨毯が彼女の部屋にあることと共通した、何かわけがあるはずです。 そのあたりが、一切説明されないのが、この映画の特徴ですね。で、ソフィが見ているビデオの画像が「映画」なのかというと、実は、それも曖昧で、映画館でボクが見ているのは、二人以外によってしか撮ることが出来ないシーンが、実は、ほとんどなのです。 今、31歳のソフィが見ているのは、父親か、彼女自身によって撮られた、互いの姿以外ではありえません。それに対して、観客のボクは、今、ビデオを見ている31歳のソフィの不機嫌な表情と、11歳だった彼女の前では明るかった31歳の父親カラムが、実は、かなり深刻な精神状態であることを暗示する複数のシーンを見ているわけです。 いったい、何を見ればいいのでしょう?💦💦 だから、まあ、受け取ればいいんですかねという困惑のなかで、やっぱりポカーン! なのでした(笑)。 おそらくヒントの一つは、31歳のソフィのベッドにいる、もう一人が女性であることと、時折、フラッシュバックの映像のように挿入された、父親カラムが踊っているらしいダンスホールのシーンで流れるUnder Pressureという曲ですね。フレディ・マーキュリーとデヴィッド・ボウイの歌です。 空港でソフィと別れて、ビデオ・カメラをリュックに仕舞って、向こうのドアに向かって廊下を歩くカラムの後姿が消えてゆくドアの向こうに暗いダンスホールが、ほんの一瞬ですが映るんです。でも、こんなの、ふつう気づきませんよね。 まあ、気付こうが気付かなかろうが、ボクにはそのあたりにビビッド(笑)に感応できる下地がありませんから、やっぱりポカーン! でした。 ただ、ほかのシーンですが、二人が眺めていた海面に水中の魚影か!? まあ、そんなふうに勘違いするような、空中のハングライダーの影が映っていたシーンなんかを思い出して「父と娘」の、届かない「愛(?)」の幻影に思いをはせるばかりでしたね。 題名の「アフターサン」=「日焼け止め」もそうですが、少々、思いれ過剰で、めんどくさいと思いましたが、シャーロット・ウェルズという監督の名前は覚えそうです。拍手! それから、11歳の少女を演じたフランキー・コリオちゃんですね。よく頑張りました(笑)。拍手!監督 シャーロット・ウェルズ脚本 シャーロット・ウェルズ撮影 グレゴリー・オーク編集 ブレア・マクレンドン音楽 オリバー・コーツキャストポール・メスカル(カラム 父)フランキー・コリオ(ソフィー 娘)セリア・ローソン=ホール(20年後のソフィー)2022年・101分・G・アメリカ原題「Aftersun」2023・10・03・no121・パルシネマno66!
2023.10.06
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小津安二郎「お早う」パルシネマ パルシネマが小津安二郎の「お早う」とヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」という2本立てをやっていました。 なんか、笑いだしそうなプログラムですが、笑っている場合ではありません。SCC、シマクマシネマクラブの第10回例会です。 「覇王別姫」を見た前回の第9回では「監督の人間性を疑わせる悲惨なシーンが見るに堪えない!」と否定されてしまったわけで、一応、案内人のシマクマ君はかなりうろたえています。「なかなか、あたり!の作品には出逢えないものですね(笑)」とかともおっしゃっるのですが、それを聞いているシマクマ君は、満塁のピンチに、どこに投げたらストライクなのか、マウンド上で立ちすくむノーコン投手の気分です(笑)。 で、お誘いしたのが「お早う」と「パリ、テキサス」でした。どうだ、文句あるか! なかなかないセットのプログラムで、パルシネマもやってくれるじゃないかと思ったんですが・・・。 というわけで、今回は、まず、「お早う」編です。「いかが、でしたか?」「うーん、これって、いい映画なのですか?」「ははは、吉本新喜劇ばりの小津ダイコン劇場だったでしょ。」「そうですね。これって吉本新喜劇なんですか。」「さあ、新喜劇かどうか、それはわかりません。でも、例えば、笠智衆って、見た目、何にも演技しない、あるいはできないんですが、寅さん映画の時の御前さまの役だって『トラはいるか?』とか何とか、彼にしか言えないイントネーションというかでしゃべるだけでしょ。そのあたりどう思われます?」「小津のロー・アングルとか、見てて分かりましたけど。場面は作り物にしか見えないし、俳優たちの所作は、おっしゃる通り、ダイコンというか、なんだかわざとらしいし、セリフの口調は教科書みたいだし。なんだかなあですね。」 どうも、またもやハズレだったようで、会話が途切れてしまいました。 というわけで、ここからは、やっぱり独り言ですね。まあ、誰に語り掛けているのかわからない語りですがご容赦いただいて、喋ります。 何というか、小津というと、という感じでアングルの話とか出てましたけど、カメラの位置や角度が映画のシーンを見る人間にどんな印象を与えて、どういう表現を受け取るのかなんてことは、正直なところボクにはよくわかっていません(笑)。まあ、そういう所に小津なら小津の作品の特質を見たいのであれば、彼の作品を10本くらいご覧になって、共通するものが何かということに納得されての話じゃないでしょうか。 ダイコン劇場って揶揄したようなことをボクはいいましたが、構図へのこだわりがこの監督の特徴の一つで、登場人物たちがとまってしまうような印象をボクは持つのわけですが、ビビッドな動きが印象的な黒沢明の画面なんかと比べて、ダイコン畑のようになるんですね。もちろん黒沢の画面だって構図ですよね、映画なのですから。でも、、何というのでしょうか、登場人物がはみださない印象の小津の画面って、やっぱり独特なんですね。演出風景を想像するとこんな感じですね(もちろん、ボクの思いつきのデタラメですよ(笑))。「あのーここに座っていればいいんですか?」「そう、顔上げて。」「このシーンで顔をあげるのは?」「いいの、で、チョット、カメラと反対の遠くを見て。」「えっ?相手じゃなくて?」「そう、それでいい。」 だから、この映画でも、子役たちはともかく、杉村春子とか三宅邦子とか、名うての芸達者なはずなのですが、突っ立っている印象で、眼と口の動きだけのように見えるのですね。とても、中学生の母親には見えません。 登場人物たちの暮らす住宅の様子や、まあ、堤防の上を歩く子供たちのやりとりのパターン化の印象も、多分その「構図」の強調あたりに原因がある気がします。 しかし、だから、つまらないのかというと、なかなか簡単にはいえないところが、小津映画なのですね(笑)。 あの日、ボクは家に帰って、まあ、いつものように同居人に「お早う」という映画の様子を説明し始めて、驚きました。次から次へとシーンが浮かんでくるんです。 たとえば、兄弟二人がお櫃を持ち出して、近所の土手に、並んで座って、手づかみでご飯を食べながら「おいしいね」といったり、薬缶のふたでお茶を飲みながら、「おかずを持ってくればよかったね」とか何とかいい合うシーンだけでも、ボク自身の子ども時代の体験や、我が家の愉快な仲間たちの子ども時代の思い出まで引き合いに出して、どんどんおしゃべりになっていって、聞いてる同居人をあきれさせたのですが、その、ボクのなかに勝手に湧いてくる「豊かさ」はどこからくるのでしょうね。 漱石だったかが「I LOVE YOU」というセリフは「月がキレイですね」と訳すんだといったという話をどこかで聞いたか、読んだかしたことがありますが、この映画の最後のプラット・ホームでのシーンで佐田啓二が久我美子に「天気がいいですね。」とか何とか、陳腐なセリフをいいますが、漱石の指摘した含意が、あのシーンのセリフだけじゃなくて、映像全体に充満しているといってもいいかもしれませんね。 見ているこっちが、勝手に、しかし、いつの間にか、受け取っているんですね。そう考えてみれば「お早う」という題名も、「男はいらんことをいうな」という父親のセリフも、中学生の実君の「大人はいらんことばかりいっている」というセリフも、小津映画的には、相当、意味深ということになりそうですね。 同じ日の2本立てで「パリ、テキサス」を見たヴェンダースが笠智衆を撮った「東京画」というドキュメンタリーを見たときに驚いたのですが、笠智衆って、口調とか抑揚とか、普通の老人として話せるのですね。その笠智衆が、小津映画ではワン・パターンの置物化するのは何故かということですね。ねっ、深いでしょ? 今日見た「お早う」なんて、小津の作品群では、それほど評価の高い作品ではないと思いますが、思いがけなく面白かったというか、ボクは納得でしたね。映画の感想では、きいたふうなことはいわないでおくというのが、ボクなりの心構え(?)のつもりなのですが、なんか、調子に乗ってしゃべってしまいましたね(笑)。まあ、ということで、独り言を終えたいと思います(笑)。 監督 小津安二郎 脚本 野田高梧 小津安二郎撮影 厚田雄春美術 浜田辰雄音楽 黛敏郎編集 浜村義康キャスト笠智衆(林啓太郎・民子の夫)三宅邦子(林民子・啓太郎の妻)設楽幸嗣(林実・兄・中学生)島津雅彦(林勇・弟・小学生)久我美子(有田節子・林家同居・民子の妹)三好栄子(原田みつ江・きく江の母)田中春男(原田辰造・夫)杉村春子(原田きく江・妻)白田肇(原田幸造・中学生)竹田浩一(大久保善之助・夫)高橋とよ(大久保しげ・妻)藤木満寿夫(大久保善一)東野英治郎(富沢汎・職探しの夫)長岡輝子(富沢とよ子・妻)大泉滉(丸山明・テレビを持っている近所の人)泉京子(丸山みどり・明の妻)佐田啓二(福井平一郎・失業中)沢村貞子(福井加代子・自動車のセールスウーマン)殿山泰司(押売りの男)佐竹明夫(防犯ベルの男)桜むつ子(おでん屋の女房)1959年・94分・日本配給 松竹劇場公開日:1959年5月12日2023・09・25・no118・パルシネマno64・SCC第10回!
2023.10.05
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小林まこと「JJM女子柔道部物語15」(EVENING KC 講談社) 2023年10月のマンガ便です。小林まことのおバカ柔道マンガ「女子柔道部物語」(講談社)15巻です。ボクには小林まことのマンガは、こうして表紙を見ているだけで楽しいのですが、この15巻は「高校柔道編」完結編で、表紙にはカムイ南高校の女子柔道部で活躍したおバカ少女たちが全員集合!しています。 本巻では、カムイ南高校が極大高校と、インターハイ北海道予選の決勝戦を戦います。主人公、神楽えもチャンは、高校3年生です。で、最後の夏の戦いは、カムイ南高校の中堅です。 よく知りませんが、柔道では高校女子の団体戦は先鋒、中堅、大将の3人で戦うようです。カムイ南高校チームは先鋒が有本直美サン、中堅が神楽えもさん、彼女は61Kg以下級の全日本ジュニア強化選手とかになっています。で、大将が藤堂美穂さん、えもチャンと同じく72kg以下級の全日本ジュニア強化選手です。3人とも3年生です。 相手の極大高校は、先鋒が高梨さん、どうも、1年生の新鋭選手のようです。えもチャンの相手の中堅が笹沢千津さん、66kg以下級ですが、無差別級の北海道チャンピオンで、だから、この時、北海道で一番強い高校生なわけですから、極大高校の絶対的ポイント・ゲッターです。えもチャン、どうするのでしょうかね(笑)? で、大将は岩崎加代子さんです。72kg超級で、女性にこういっていいのかどうかですが、巨漢です。2年生です。 試合経過はお読みいただくほかありませんが、これが神楽えもチャン、高校時代最後の雄姿です。実力に勝る笹沢千津さんとの死闘の始まりです。「うおおおお~っ」 まあ、こういうノリの描き方をする小林まことが好きなのですが、えもチャンの顔が昭和の初年マンガのキャラクターな感じがして笑いました。 結局、まあ、ネタバレですが、北海道を制覇して、全国3位という好成績を残し、神楽えもちゃんの「高校柔道編」は終わります。 で、柔道が終わるとこうなります。 アイスキャンデーを舐めながら石狩川の河川敷を歩いています。何の悩みもないようです。青空と白い雲です。いいですねえ(笑)。左のページには、旭川南高校や、旭川大学高校(今は高名が変わって、旭川志峯高等学校、マンガで昔のまま)の関係者をはじめ、お好み焼き関東、スナック雪女とかの名前が取材協力者一覧で並んでいて、妙に可笑しい。実名なんですね(笑)。 で、完結です。「女子柔道部物語・社会人編」がもう始まっているようですね。たのしみです。追記2023・10・06過去の記事です。クリックしてみてくださいね(笑)。第1巻 第7巻 第8巻 第10巻
2023.10.04
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森達也「福田村事件」シネ・リーブル神戸 評判の映画、森達也監督の「福田村事件」をようやく見てきました。神戸での上映は夏休みがあけた9月上旬から元町映画館とシネ・リーブル神戸が同時に上映するという、快挙!(?)で、ちょっと驚きましたが、様子をうかがっているとどちらの映画館も、毎回、ほぼ、満席の盛況らしくて、腰が引けてしまいました。 隣に知らない人が座るのが映画館というものなのだということは承知しています。ところが、映画館を徘徊し始めて5年ほどたちますが、まあ、見たがる映画にもよるのですが、そこにコロナ騒動が始まったせいがやっぱり大きくて100人ほど収容のホールに10数人、場合によっては片手以下、1人で見る社長試写会(?)状態も何度か経験したこともあって、隣近所に知らない人が座っている映画館に耐えられなくいという「映画館の敵!」になってしまったんですよね(笑)。 まあ、その、億劫気分に拍車をかけたのが、はしゃいだ夏の揺り戻し、夏バテ襲来でした。ゴジラの撹乱ですね(笑)。「なあ、毎日、満員らしいで、森達也。」「ええやん、ちょうど体もおかしいし。」「夏バテかなあ?」「映画館やなくて、お医者さん行っといでって。」「うん、もうちょっと、じっとしててアカンかったらな。」 まあ、そういう状態だったこともあったのですが、元町映画館の最終日に、何とか起きだして出かけたのですが、受付で場内を覗くと満席状態で、萎えました。「こら、あかんわ。また、来るわ。」「お大事になさってくださいね。また待ってますよ。」 トホホ… それから1週間がたって、今度はシネリーブルです。「行ってくるわ。」「お客さんは?」「ネットで予約見たら3人くらいやから、大丈夫!」 で、現地の実態は20人でした。評判の大波も収まったようです(笑)。 見終えて、いつものように歩きました。途中、元町映画館の受付のおニーさんに挨拶して、中秋の名月を背にしてJR神戸までヨタヨタ歩けました。復活!ですね(笑)。「大丈夫やった?」「うん、神戸まで歩いた。」「で、おもしろかったん?」「うん。ほかの人にはすすめんけど、あんた、見てきたらええと思うで。」「罪もない人が殺されるんやろ。」「うん、何の罪もないのに差別されてる人らが、普通の人によってたかって殺されんねん。」「やろ。」「でもな、その、殺される行商の人らの大将してる瑛太っていう人がな「朝鮮人やったら殺してもええんか!」って、実に見事な啖呵切んねん。絶対泣くで!」「あの子、最近、ええ感じになってるやろ。」「うん、でもな、森達也な、今の世間に向かって啖呵切りたかったんやと思うねん。」「ふーん」「他のセリフやシーンは、なんやかったるいねん。」「どういうこと?」「今、ボクな、大江の同時代ゲーム読んでるやろ、「村」、「国家」、「小宇宙」と並べて、壊す人いう太字のインテリを登場させんねんけどな、この映画もな、シベリア出兵、大正デモクラシー、在郷軍人会、日清・日露の英雄噺、出征後家の浮気や留守居の嫁、舅の姦通噺を出してきて、そこに朝鮮帰りのインテリとデモクラシー・ボケの若い村長持ってきて、あの時代の「村」の実態とか描いてていくねんけど、かったるいねん。図式やねんな、どっか。まあ、今の時代に村を描くとそうなんねやろうけどな。」「朝鮮帰りって?」「うん、多分、高等師範学校出て、朝鮮で先生して、向こうの大きな会社、あの当時屋から国策やな、その重役令嬢と一緒なって暮らしてたんやけど、実際あった朝鮮人の虐殺事件にかかわって、壊れた人になって帰ってきた役を井浦新いう人がやってんねん。令嬢は田中麗奈いう人らしいけど、ほら、浮気して話題になった、誰やったっけ、男前。」「東出君か?」「そうそう、その東出君が、その女の人と、夫がシベリアで戦死した女の人と二股する役で出てた(笑)。」「なんやそれ?」「瑛太はカッコええねんけど、東出いう人は、まあ、利根川の渡し守には見えへんかったな。で、先生やめて百姓するというってる人はな。」「井浦?」「そう。で、虐殺にかかわって、不能になってんねん。どんくさいやろ。」「なんともよういわんわ。」「でも、やつがインポになった理由を、離婚して出ていくいう田中麗奈にいうねんけど、その時、『日本人は朝鮮人に日本語押し付けて、自分は朝鮮語なんて何も知らへん。ぼくは、それが嫌やったから朝鮮語勉強した。』そういうて、いきなり、虐殺の現場で通訳させられた朝鮮語を大声で暗唱するねん。そのセリフな、画面見てても、何にもわからへんねん。わざと字幕つけへんねん。あっこも森達也やな。見てる人にな、まあ、ボクも含めてやけど、『あんたら朝鮮語なんか何にも知らんくせに、勝手なこと言うてるやろ!』って、ここでも、やっぱり、啖呵切ってんねん。」「ふーん。」「『あん時と、なんにも変わってへんやんけ。』やな。で、あいかわらず、『朝鮮人やったら殺してもええんか!』やねん。な、森達也やろ。」「ちょっとわかってきた。」「な、見といて悪ないで。チラシの絵もそうやけど、なんか竹久夢二みたいなシーンでHするのは、まあ、だるいけどな(笑)」 というわけで、みんなしゃべってスッとしました(笑)。完全復活です!(笑)監督 森達也脚本 佐伯俊道 井上淳一 荒井晴彦企画 荒井晴彦撮影 桑原正照明 豊見山明長編集 洲崎千恵子音楽 鈴木慶一メイキング 綿井健陽キャスト井浦新(澤田智一)田中麗奈(澤田静子)永山瑛太(沼部新助)東出昌大(田中倉蔵)コムアイ(島村咲江)松浦祐也(井草茂次)向里祐香(井草マス)柄本明(井草貞次)杉田雷麟(藤岡敬一)カトウシンスケ(平澤計七)木竜麻生(恩田楓)ピエール瀧(砂田伸次朗)水道橋博士(長谷川秀吉)豊原功補(田向龍一)2023年・137分・PG12・日本2023・09・29・no119・シネ・リーブル神戸no206!
2023.10.03
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鈴ノ木ユウ「竜馬がゆく 5 」(文藝春秋社) 2023年、10月のマンガ便です。司馬遼太郎の原作を鈴ノ木ユウがマンガ化している「竜馬がゆく」(文藝春秋社)、第5巻です。2023年8月30日の新刊です。ヤサイクンもはまっているようですね。そりゃあそうですね、マンガの展開も面白いのですが、原作が面白いのは、今更いうまでもないわけですからね。 今回の山場は二つ、一つは土佐、井口村の地下浪人、岩崎弥太郎との出逢いです。地下浪人というのは士分を売ってしまって、一応、身分は武士なのですが、藩士ではないというか、そういう最下層の武士ですね。 この方ですね。明治の政商、三菱の創始者になる人で、ここで坂本龍馬と出会ったことは歴史的事件でした。「すべては金じゃ」「物も人間も政ですら金で動かんもんはないき」 司馬遼太郎が作ったセリフなのか、実話なのかわかりませんが、なかなか味わい深い(笑)セリフですね。もっとも、彼は、この時、獄中の人ですけどね。このあたりで、とりあえず、登場することは、もちろん知っていましたが、さて、どんな顔の人物にするのか、興味津々でしたが、まあ、悪人面もいい所で、笑ってしまいました。 さて、第5巻のもう一つ読みどころというか、見所は、江戸の剣術大会ですね。幕末の江戸には、神道無念流の斎藤道場、桃井道場の鏡心明智流、千葉周作、千葉定吉兄弟の北辰一刀流、というのが、まあ、三大剣術指南所というわけで、そこで名を挙げた幕末の有名人では、4巻で龍馬が出会った、長州の桂小五郎が斎藤道場の、竜馬の同郷の先輩武市半平太が桃井道場の、それぞれ塾頭、そして、主人公龍馬が、当時、実力の小千葉と呼ばれていたらしい、北辰一刀流の千葉定吉道場の免許皆伝ですね。 戦いの描写はこんな感じで、剣術マンガですね。結構な迫力で、面白いですよ。こういう場面は、原作を読んだ記憶には全く残っていませんが、上に書いた千葉定吉道場の話とかは、原作からの知識以外にあり得ませんから、原作も、そういう剣術小説の面があったのでしょうかね。 今回の剣術大会に武市半平太は出場しませんが、桂小五郎と坂本龍馬の決戦は第5巻後半の山場ですね。まあ、お読みください。鈴ノ木ユウ君、絶好調! まあ、そういう感じですよ。
2023.10.02
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「大残暑! お名残りおしや 狸君!」 徘徊日記 2023年9月10日(日)松山あたり 9月10日なのですから、もう、秋です。意気揚々(?)とJR舞子で電車に乗ったのは昨日で、高松で旧友と再会し、「讃岐うどん」ならぬ讃岐中華麺で讃岐を堪能し、青春18も挫折して高速バスでたどり着いたのは道後松山だったのに、温泉にも入らないで、調子に乗って浮かれ飲みして、その挙句、二日酔いをするでもなく、元気に目覚めたはず徘徊老人、みごとに道に迷って大汗かいて、たどり着いてみると待っていたのはタヌキ君でした(笑)。タヌキの前で待っててね。 そう命じられて道ばたにしゃがみこんでお茶など飲んだのですが、やってくるのはホントにさかなクンなのでしょうか? 場所は、大街道の西の出口です。ここに来る前に通ったのが「銀天街」とかで、このアーケードの向うに松山城を見つけたときは、やっぱりちょっとホッとしました。 朝から迷ってたどり着いた、石手川公園、その近所の県立病院から東に向かって引き返しただけですが、繁華街のアーケードにたどり着いてホッとしました。 県立病院からここまでの途中には赤穂の浪人大高源吾のお墓のお寺があったりしたんですが、その境内にこんな句碑というか、石碑があって、こんな句が彫られていて、思わず座り込んでしまいまいました。こころざし 富貴にあらず 老いの春 柳原極堂 まあ、今は秋なわけで、老いの秋とかつぶやき直すと、妙にしみてしまいました。もう、終わりかけやん、まあ、富貴を望んだことは一度たりともないけど。 そばにあったお地蔵さんがやさしくてよかったりしたんですが、そうはいっても、もう子供じゃないし、まあ、たどり着いたタヌキ君の前で座り込んで、何といっても俳句の町なんだからと、なんとか五、七、五に語呂合わせしようとなれない頭でひねり出しました。大残暑 お名残りおしや タヌキ君 熊掌 半日、化かされたように松山の街を徘徊したのも、まあ、暑かったのですが、いい思い出です。チッチキ夫人への御みやげは定番の「山田屋饅頭」で、神戸まで送ってくれるというさかなくんの思いもかけない優しさも身に染みたのですが、お土産を買ったドライブイ石鎚で見事に老眼鏡を落とすという失敗で締めくくった老いの秋の旅でした。 ここまで、読んでくださった皆様、どうもありがとう。2023年の夏が終わりました。じゃあね。ボタン押してね!
2023.10.01
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「やっぱり帰りはこわかった!」 徘徊日記 2023年8月25日 その6 灘・上野道あたり 天上寺跡の廃墟でノンビリ思い出にひたった後は、いよいよ本格的な下り坂でした。ますは、延々と続く石段でした。 下りはじめた当初は、何段あるのか数えていましたが、膝がふるえはじめたあたりから余裕を失って、一人で歩いていることが不安になってきました。徘徊老人とか自称してうろつき始めて5年、初めて味わう不安です。 まだ 境内のなかです。下り続ける石段の途中に「摩耶の大杉」という矢印が出ていました。石段をそれて西に向かって数十メートル、誰も来る人がいないのでしょうか、うっそうと茂った藪が覆いかぶさって獣道のようになっている小道づたいに歩くと大木が立っていました。 摩耶の大杉だそうです。看板もありました。株本から十数メートルの樹影が木立年に光に浮かびますが、そこから先は折れてしまっているのでしょうか、樹齢も、全体の姿もわかりません。 石段に戻って下り続けると、仁王門跡にたどり着きました。少なくとも漆かなんかが塗られていたに違いないのですが、白木のまま朽ちてきたように見えるのが不思議でした。 もちろん、仁王さんはいらっしゃいません。石段の上だった本堂あたりは焼けてしまって建物は何も残っていませんでしたが、あるじを失った仁王門は残ったのですね。空き家になって50年です。 50年前、このお寺の住職さんは大阪大学の基礎工学部の先生だったはずです。高校時代からの友人が門下生でゼミの集まりとかでやってくることがあって、この下に住んでいたシマクマ君を訪ねてくれたこともありました。まだ、本堂が焼ける前です。 門の下にあった馬つなぎ、下乗の石柱です。参詣の人はここまでたどり着いたら馬を下りるわけですが、ここまで馬でくるなんてできたのでしょうかね。今なら、ケーブルの駅がすぐそこあたりのはずですが。 50年、火が入らなかった石灯篭です。昔は仁王門前の道灯りだったのでしょうね。と、まあ、しみじみと写真を撮ったりお茶を飲んだりしているとどなたか下から登っていらっしゃいました。 ボクより、少しお年を召していらっしゃるご様子の女性と、息子さんでしょうか、50歳くらいに見える男性の二人連れでした。一人歩きに不安を感じ始めていたシマクマ君には地獄(?)で仏(笑)でした。「こんにちは、登っていらっしゃったんですか?お元気ですね。」「はい、こんにちは、上からですか?」「はい。もう、足ががくがくで(笑)。上に行かれるのですか?」「はい、ちょっとそこの摩耶山まで。」「お寺の石段が結構ありますね。ぼくは下りでもへばりそうでした。頑張ってくださいね。」「お一人ですか。気を付けてくださいね(笑)。」「ありがとうございます。でも、まあ、下りですから。」 山歩きのシューズでストックもお持ちのお二人を見送りながら、ただの思い付きの自分が、ちょっと危ないなと自省することしきりでしたが、歩き始めました。 ケーブルの誘惑には打ち勝ちましたが、足腰はよろよろです。休憩所に着くたびに座り込んで、お茶を飲んで一服です。こんなところで熱中症はマジ、ヤバイですからね。 山道ですが、お地蔵さんが祀ってあります。つい先日が地蔵盆だったこともありますが、お花もお供えも新しくて、胸打たれます。ここまで、お地蔵さんのお世話に歩いてこられる人がいらっしゃるんですよね。 もう、そろそろ下界ですね。 たどり着きました。上野道の登山口です。いや、摂州八十八ケ所、四十六番札所、摩耶山天上寺の登り口ですね。 隣に地図の看板があって、見ていると楽しそうですが、この道を登って行くのは「ボクには無理!」 だということがよくわかりました。摩耶山の広場を出発して2時間余りの下り道でしたが、こんなにへこたれるとは想像していませんでした。行きはヨイヨイ、帰りはホントにコワカッタ!💦💦 看板の下は、写真を撮り忘れましたが、そこらあたり一帯、地面をかきまぜたようになっていて「なんだこれは?」なのですがイノシシくんの仕業ですね。 まあ、何はともあれ、無事下山でした。メデタシ、メデタシでした(笑)。じゃあ、またね。ボタン押してね!
2023.09.30
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チェン・カイコー「さらば、わが愛 覇王別姫」(2)シネリーブル神戸 SCC、シマクマシネマクラブの第9回例会です。前回の第8回「薔薇の名前」を「暗いですねえ!」と一蹴されたシマクマ君、かなり焦って💦提案したのがこの映画です。こんどこそ大丈夫! まあ、チョット気合入ってましたね。何といっても、シマクマ君のここのところ数年の映画体験のなかではベスト10に入りそうな作品ですからね(笑)。 見たのはチェン・カイコー監督の傑作、「さらば、わが愛 覇王別姫」でした。 で、結果はいかに? 「あのー、紅衛兵が主人公の二人と、覇王役の妻の三人をつるし上げるシーンを見ていて、この監督には、どこか、非人間的な残忍さというか、見るに堪えない精神的な暗さがあるんじゃないかという気がして、しんどかったですね。」「あわわわわ・・・・」 しばし、絶句!です(笑)。「非人間的というのは?」「いわゆる、人間性の否定ですね。ああいう、表現というか、映像にも、もう、気分的についていけませんね。」「うーん、あのシーンは、一応、史実なんですよね。文革での糾弾闘争という形式は、たとえば、著者は鄭 義という人だったと思いますが、「食人宴席」(光文社)という本があります。その後、中国が買い占めて市場から消えたといういわくつきの本ですが、カッパノベルです。そこで暴露していますが、凄惨極まりなかったということですね。まあ、事実かどうか、よくわかりませんが、ボクは、四方田犬彦がどこかで紹介しているのに促されて読んだことがあります。反革命だと糾弾された人を、最終的には殺してしまい、その肉を食らうという、まあ、中国ヘイトの人が喜びそうな、ほとんど猟奇的な記述がありましたよ。ついでに言えば、日本のなかでも、その闘争形式は、70年代後半の反差別闘争の中で模倣されたようで、もちろん殺すなんてことはしていませんが、批判の対象になる「差別者」のつるし上げは、公開というか、その人の住居を取り囲んでやってました。普段の生活での発言や生活信条に焦点を当てて糾弾し、人格の否定に至るという闘争(?)を、その人間が暮らす町や村の人々を「参加しなければ差別者だ。」という、暗黙の脅しで動員して大衆的(?)にやっていましたよ。村の有線放送で、糾弾会の動員指令が流されたりしていましたから。文革でもそうですが、その後、その闘争団体が自己批判した話は聞きませんから、50年という時間とともに忘れられるに任されているわけですが、正義を標榜したときに、人間というのは酷いことをするものだというのが、当時20歳だったボクに刷り込まれた人間認識ですね。人間性なんて信用できるんですかね?」「芸術表現とヒューマニズムの関係はどうなんですか?」「うーん、ボクはこの作品は主人公、小豆子・蝶衣(レスリー・チャン)と石頭・小樓(チャン・フォンイー)の、究極の愛の物語、だから、実に人間的な作品だと思うのですがねえ。」 というわけで、シマクマ君、チョット、口調がやけくそ気味ですが、人の好みというのものは難しいですね。仕方がないので、ここからは独り言です。 最初に断っておくと、この映画では、多指症の少年の指が切り落とされるシーンから始まりますが、京劇の修行シーンは、ひたすら、虐待まがい、イヤ、虐待かな、の暴力の繰り返しですし、主人公二人の生きた時間は、近代中国が直面した政治的暴力(戦争・革命)の最中です。しかし、そのシーンが映画に描かれることが、映画制作者や監督自身の暴力的な志向の直接的に表現されていたとはボクは思いません。 で、映画ですが、この映画の題名には史記の項羽本紀にある「垓下の戦い」の覇王=項羽と姫=虞美人の別れを、「覇王別姫」(覇王、姫ト別ル)として京劇にしたお芝居の題名が使われています。 映画で、二人が演じる劇中のセリフは、史記ではこの詩です。高校の教科書に出てきます。力拔山兮氣蓋世 力は山を抜き 気は世を蓋う時不利兮騅不逝 時利あらずして 騅逝かず騅不逝兮可奈何 騅の逝かざる 如何すべき虞兮虞兮奈若何 虞や虞や 若(なんぢ)を如何せん 項羽のこの詩に答える虞美人の返歌はこうです。これは教科書にはありません。漢兵已略地 漢兵、已に地を略す四方楚歌聲 四方は楚の歌聲大王意氣盡 大王の意気は盡く賤妾何聊生 賤妾(せんしょう)、何くんぞ生を聊(やす)んぜん 史記には、虞美人の最期は書かれていませんが、京劇では項羽の刀で自刃するようです。映画の中に小豆子が「われは男にして、」と、繰り返し間違えるセリフがあります。「われは女にして、男にあらず」が正しいのですが、そのセリフは虞美人の返歌の賤妾何聊生と響き合っていて、哀切です。 史実、芝居、現実、という三重に重ねられた世界で、父親を知らず、母親に捨てられた小豆子は、生まれつきあった6本目の指を役者になるために切り落とされ、「われは男にして」というセリフの間違いを、相方の兄弟子・石頭によって暴力的に矯正されることで、一人前の役者として成人します。 その結果、史実でも、現実でもない、虚構の芝居の世界に閉じ込められて成人した小豆子・蝶衣(レスリー・チャン)が、「お前は女だ」としつけてくれた覇王役の兄弟子・石頭・小樓(チャン・フォンイー)の賤妾になることは必然というほかありません。 まず、現実の社会と古典芸能の相克を近代中国史を背景に描きながら、その世界で、演じるという「人間的なワザ」を奪われて、人形にすぎない役者の人生を生きるよりほかの方法を知らない、世間から見れば天才役者の悲劇でしかありえない人間の孤独な一生を描いた傑作だと思います。 映画は、薄暗い舞台で、覇王と虞美人の扮装で再会した二人のシーンで始まりましたが、次のシーンでどんな結末を迎えることになるのかを、始まりからの50年をたどるために3時間に及ぼうかという熱演で描いているのですが、じつは、その結末は、1000年以上も前に予告されていたのでした。 四面楚歌の中、大王の意気が儘きた時、姫は死ぬほかなかったのでした。賤妾(せんしょう)、何くんぞ生を聊(やす)んぜん これを小豆子・蝶衣(レスリー・チャン)の人間的悲劇といわずして、何といえばいいのでしょうか?役者でしかない命を舞台の上で絶つシーンに至るまで、悲劇を悲劇として演じ切った、レスリー・チャンの妖艶さに拍手を忘れて目を瞠りました。 ボクは傑作だと思うのですがねえ(笑) この作品で、役者としての頂点に立ったレスリー・チャンが、2003年、自ら命を絶って、この世を去ったことを思うと、やはり、胸が痛みます。 監督 チェン・カイコー陳凱歌原作 リー・ピクワー脚本 チェン・カイコー リー・ピクワー撮影 クー・チャンウェイ音楽 チャオ・チーピンキャストレスリー・チャンチャン・フォンイーコン・リーフェイ・カンチー・イートンマー・ミンウェイイン・チーフェイ・ヤン チャオ・ハイロン1993年・172分・中国・香港・台湾合作原題「覇王別姫」「Farewell My Concubine」日本初公開 1994年2月11日2023・07・31・no99・シネリーブル神戸no203 ・SCCno9!
2023.09.29
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ヴィム・ヴェンダース「パリ、テキサス」シネ・リーブル神戸 2022年1月にシネリーブル神戸でやっていた「ヴィム・ヴェンダース レトロスペクティブ ROAD MOVIES 夢の涯てまでも」という特集の1本として見ました。で、その時に感想を書くのに困ってほったらかしにしていました。で、今ごろ書いてます。 2023年の9月にパルシネマが、なんと、まあ、小津安二郎の「お早う」と二本立てで企画して上映しています。で、そのプログラムを見つけてチッチキ夫人がいいました。「ねえ、この『パリ、テキサス』って見たんでしょ?」「うん、見た、見た。」「見たいねんけど、どうなん?」「ええで、鏡に自分の姿が映ってるとするやろ、それをいきなり粉々に割るような印象やな。」「そんなシーンがあるの?」「いや、ない。ボクがそう感じただけや。」「どういうこと?」「アリゾナ砂漠ってあるやろ、グランドキャニオンみたいなとこ。そこを歩いてんねん。あの、ほら、『ラッキー』やったかの老人な。なんとかスタントン。」「カメ出てくるの映画やんな」「うん、若い頃のあの人が主役。で、ナスターシャ・キンスキーいう、きれいな人が奥さん。」「フーン。」「で、あのジイさんが、記憶喪失で、4年間、パリに行こうって思い込んで、砂漠を歩いてる、まあ、中年のオッサンやねん。」「歩いてパリなんか行けんの?」「うん、行けんねん。見たらわかる。」「その奥さんは?」「うん、子どもおるねんけど、男の子。その奥さんも子供も捨てたらしいんやけど、忘れてんねん。」「忘れたん?」「いや、そのオッサンがや。」「ああ、そうなん。」「ホンで、まあ、砂漠のガソリンスタンドで倒れて、あれこれあって、奥さんと再会するねん。それが、あの赤い服着た女の人のシーン。」「ナスターシャ・キンスキーいう人やんな。」「そう。で、あのシーンでボクの鏡がぶち割れねん。」「鏡のシーンとかないんやろ。」「うん、でも、覗き部屋いうの?あっちで女の人がいるのが見えて、こっちはみえへんみたいな窓のシーンはある。」「そのガラスが割れるん?」「いや、割れへん。」「意味わからんわ。」「うん、ボクも意味わからん(笑)、でも、音楽はエエで。ライ・クーダ―のスライドギターや。ずーっと乾いていて切ない(笑)。」「パリはどうなってるの?」「そやから、見たらわかるって(笑)。」 主人公はトラビス(ハリー・ディーン・スタントン)というのですが、彼が覗き部屋の女で稼いでいる妻のジェーン(ナスタ―シャ・キンスキー)を見て、そっと、その場を去るところまでは確かに覚えているのですが、後は、やっぱり、砂漠を歩いているイメージしか覚えていません。 そのシーンで、涙が出てきて止まらなくなったような、それだけで映画の記憶は止まっています。でチッチキ夫人はまだ見に行ってませんが、ボクは、SCC(シマクマシネマクラブ)のM氏をお誘いしてお先に見に行きました。その感想は、別に書きます。監督 ヴィム・ヴェンダース脚本 サム・シェパード L・M・キット・カーソン撮影 ロビー・ミュラー美術 ケイト・アルトマン衣装 ビルギッタ・ビョルゲ編集 ペーター・プルツィゴッダ音楽 ライ・クーダーキャストハリー・ディーン・スタントン(トラヴィス)ナスターシャ・キンスキー(ジェーン)ディーン・ストックウェル(ウォルト)オーロール・クレマン(アンヌ)ハンター・カーソン(ハンター)ベルンハルト・ビッキ(医師)1984年・146分・G・西ドイツ・フランス合作原題「Paris, Texas」配給:東北新社日本初公開:1985年9月7日2022・01・08-no3・シネ・リーブル神戸no207!
2023.09.28
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セドリック・クラピッシュ「ダンサー イン Paris」シネ・リーブル神戸 シネリーブルの予告編を見てからチッチキ夫人が騒いでいましたが、見てきたようです。セドリック・クラピッシュ監督の「ダンサー イン Paris」です。「少女マンガやったらどうしようって思っていたけど、まあ、大丈夫やったわ。」「なによ、少女マンガて?」「だから、アラベスクとか知らん?山岸涼子。ガンバルやつやん。」「ふーん、ガンバルやつでも嫌いちゃうで。」「まあ、とにかく見といでよ。悪ないから(笑)。」「なに、その笑い?」「それに、出てる人、多分、あれ、みんな、本物のプロよ。」 というわけで、一日遅れでシネリーブルにやって来ました。 本物のプロのなせる業にくぎ付けでした。バレエです!ダンスです! クラシックとかコンテンポラリーとかいわれても皆目わからない素人のジジイが目を瞠りました。パリのオペラ座とからしいですが、クラシック・バレエの、チラシによれば「ラ・バヤデール」という演目の舞台が、練習風景や舞台裏を絡めながら延々と上映されて、まあ、とどのつまりに、映画のドラマのため(?)の事故が起こるのですが、「まあ、そっちの筋書きはいいから、このまま、最後まで映してよ。」といいたくなる迫力でした。 三浦雅士という、昔、「ユリイカ」という雑誌の編集長だった、贔屓の文芸批評家が、90年代に、突如「バレエ評論家」になった時に困惑したことを思い出しました。で、目の前に繰り広げられるシーンに目を奪われながら、「なるほどなあ!」 と、不思議な納得に浸りました。 ところが、後半になって、コンテンポラリー・ダンスの練習風景や舞台の様子が映り始めると、また、少し違ったカンドーに浸りました。ダンスって、スゴイ! まあ、そんな、ありきたりな言葉でしか言えませんが、頭の先から足のつま先まで「美しい」の方へむかって、自由自在に、それも集団で、にもからわらず一糸乱れぬではなくて、優雅で繊細に動いていることが驚きでした。 舞台で着地に失敗し足を折ってしまったバレリーナ、エリーズを演じたマリオン・バルボーをはじめ、登場するすべてのダンサーたちに拍手!でした。 バレエとかダンスとかのドキュメンタリーでも見たかのように感想を書いていますが、映画はもちろん「ドラマ」でした。印象的なセリフや楽しいシーンもあるのですが、やっぱりダンス、バレエのドキュメンタリーなシーンが圧巻!でした。拍手! 見終えて、映画館を出て、チッチキ夫人に電話しました。「オーイ、もう一つ元町回って見るから遅くなるね。」「わかりました。で、ダンサーはどうやった?」「( ̄∇ ̄😉ハッハッハ、笑った意味わかったで。父娘ものやないか。」「ふふふふ。」 監督 セドリック・クラピッシュ脚本 セドリック・クラピッシュ サンティアゴ・アミゴレーナ撮影 アレクシ・カビルシーヌ美術 マリー・シェミナル衣装 アン・ショット編集 アン=ソフィー・ビオン音楽 ホフェッシュ・シェクター振付 フローレンス・クラーク ホフェッシュ・シェクターキャストマリオン・バルボー(エリーズ)ホフェッシュ・シェクター(ホフェッシュ・シェクター本人)ドゥニ・ポダリデス(アンリ)ミュリエル・ロバン(ジョジアーヌ)ピオ・マルマイ(ロイック)フランソワ・シビル(ヤン)スエリア・ヤクーブ(サブリナ)メディ・バキ(メディ・バキ本人)アレクシア・ジョルダーノ(アレクシア・ジョルダーノ本人)ロバンソン・カサリーノ(ロバンソン・カサリーノ本人)2022年・118分・G・フランス・ベルギー合作原題「En corps」2023・09・23・no116・シネ・リーブル神戸no205 !
2023.09.27
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ヴィム・ヴェンダース「ことの次第」元町映画館 12ヶ月のシネマリレーの11本目はヴィム・ヴェンダース監督の「ことの次第」でした。1982年ですから、ほぼ40年前の白黒映画でした。「ハメット」が1982年の製作で、「パリ、テキサス」が1984年ですから、まあ、そのころの作品ですね。 ボクは、昨年だったかに見なおした「ベルリン天使の詩」で爆睡したのをチッチキ夫人に糾弾される失態を犯して以来、この監督の映画は敬して遠ざけさせていただいているのですが、今回は「12ヶ月のシネマリレー」のライン・アップの1本ということで、やって来ました。はい、完敗でした!40年前に見ていたらなぁ・・・。 まあ、そういう負け惜しみに満ちた感想でした(笑)。 ポルトガルの海岸でアメリカのSF映画を撮っている映画撮影隊がいて、まず、意味不明のSFシーンが流れます。それから、撮影隊の話になって、実は、もう、フィルム代もないくらいに資金が底をついていて、金策しているはずのプロデューサーは逃げ出しているらしくて、音信不通で、チームを支えている老カメラマンは妻が危篤で、俳優の誰かと誰かはできていて、苦悩の監督は妻と愛し合っていて、隣の部屋では子役たちが聞き耳を立てていて、主演女優は西部劇論の本なんか読んでいて、俳優たちは夜昼なく飲んだくれ始めて、という、あれやこれやの現場の様子が約1時間続きます。 見ていて、かなり疲れます(笑)。 カット、カットのディテールは興味深いのですが、何が起こっていて、これから「映画」はどうなるのかわかりません。わからなさの中で、眠り込みもしないで座っいるとこんなセリフが聞こえてきました。「本当は物語なんてどこにもないのだ。」 まあ、本当はも少しシャレたセリフだったように思います。正確な記憶ではありませんが、登場人物の誰かが、そんなことを口走るのをきいて、ハッとしました。 思い浮かんだのは、まだ生きていた中上健二とかが、しきりに口にしていた「物語喪失論」、あるいは、「物語解体論」です。1980年代のブームです。 まあ、ボクなりの、多分、デタラメで勝ってな理解ですが、小説であろうが映画であろうが、一つ一つのプロットの連鎖を「物語」として文脈化、全体化するのは人間の勝手な妄想であって、「自然」の時間に「物語」なんてものは、もともとないのである、というわけですが、なぜか、一つのまとまりとして作品が出来上がってしまうと「物語」になってしまうのですね。で、見ている人は、それぞれの「物語」を読み取って納得するんです。要するに、自己満足に過ぎないということです。 この映画の後半は、金策のためにロサンゼルスにやって来た監督が、ようやくのことで、マフィアから逃げているプロデューサを探し出し、行き詰まりの解決法を互いに失っていることを確認し、別れる場面で、何者かに射殺されてしまいます。面白いのは二人共、誰が撃ったのかわらない銃弾で殺されるところですね。 映画製作費をめぐる、マフィアとの確執の「物語」をこの映画が描きたかったのであれば、このラストシーンは丸投げなのです。観客は延々と2時間、何を見ていたのか? 当時のシマクマ君は「物語論」の流行に夢中でしたが、もう忘れてしまいましたね。「あの頃見ていればなあ・・・」 まあ、そんなことを思いながら、完敗でいいや! という帰り道でした。最後まで負け惜しみですね(笑) 監督 ヴィム・ヴェンダース製作 クリス・ジーバニッヒ脚本 ビム・ベンダース撮影 アンリ・アルカン フレッド・マーフィ音楽 ルゲン・クニーパーキャストパトリック・ボーショー(フリッツ・監督)イザベル・ベンガルテン(アンナ・読書する女優)アレン・ガーフィールド(ゴードン・プロデューサー)サミュエル・フラー(ジョー)ロジャー・コーマン(弁護士)1982年・127分・PG12・/西ドイツ原題「Der Stand der Dinge」日本公開1983年11月2023・09・23・no117・元町映画館no205
2023.09.26
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ジョナサン・デミ「メルビンとハワード」元町映画館 ジョナサン・デミという監督の「メルビンとハワード」という作品を見ました。ジョン・カサヴェテスとセットの特集です。 スクリーンが暗くなると、いきなりオートバイで、砂漠ですかねえ、スクリーン全体も暗くてよくわからないんですが、道ではない薄暗い荒野を突っ走って、土手かなんかでジャンプして、二度目にはひっくり返るというシーンが映し出されました。なに?これ? 最後まで、このシーンの意味はわかりませんでしたが、オートバイで疾走していたのがハワード・ヒューズ(ジェイソン・ロバーツ)という、実在の大金持ちだったようです。 で、続いて画面に登場するのが牛乳配達のお兄さん、メルビン(ポール・ル・マット)くんで、彼が仕事帰りの軽トラックで、わき道に入って立ちションします。ことをすませて、車に帰ろうとして、道ばたにひっくり返っている瀕死の老人を見つけて、慌てて介抱して、車に乗せて、あれこれやり取りしながら家まで送るのですが、このシーンがいいですね。 なんだか、見るからに怪しげな老人の相手をしながら、突如、自作のフォークソングを歌いだす、まあ、こっちもかなり怪しげですが、明るい。そのお人好しでトンチキなメルビン君と、助けてくれたものの、その若者の、まあ、親切なんだか厚かましいんだかわからない、トンチキさに辟易しながらも、最後は一緒に歌ったり、運転させてくれと頼む、まあ、謎としかいいようのない、自称ハワード・ヒューズ老人との出会いと別れです。 で、この謎の老人は、映画には二度と現れません。あとは、金が入ったらはしゃぎたい、まあ、いわゆる単細胞で、おバカなメルビンくんの、妻には逃げられるわ、仕事は首になるわの波乱の日常生活映画でした。 とんちき夫のメルビンを捨てて、ストリッパーで稼ぐ妻リンダ(メアリー・スティーンバージェン)も、まあ、「チョットあんたねえ???」というタイプですが、ストリップ小屋までやって来て連れて帰ろうとするメルビンにほだされていったんは帰るのですが、やっぱりおバカな、なんというか、「愛」とか「やる気」とかはあるけれど「生活」がわかっていないメルビンに呆れて、再び出て行ってしまいます。 今はどうだか知りませんが、半世紀前の、映画とかでよく見かけた夢見る貧しいアメリカ! まあ、そういう感じです。80年代の空気です。 で、ダメ男のメルビンですが、妻のリンダに連れられて、一緒に出て行った娘が「ホントはパパと一緒がいい!」 といってくれるのが、ある意味、たった一つの救いのような人物です。「はい、いいやつなんです。ホント!」 とどのつまりは、最初に救った謎の老人が、まあ、ボクでも名前は知っている本物のハワード・ヒューズという大金持ちだったという展開で、彼の遺産相続人として、このおバカなメルビンが指名されていて、大騒ぎになるっていうオチなんです。裁判所とかに引っ張り出されて大変なんですが、実話ネタなのだそうです。 ええ、もちろん、遺産はもらえないんですよね(笑)。 考えてみれば、異様なまでに、もの哀しい話なのですが、なぜか後味はよかったですね。で、やっぱり、ボクはメルビンと娘に拍手!でした(笑)。監督 ジョナサン・デミ脚本 ボー・ゴールドマン製作 アート・リンソン ドン・フィリップスキャストジェイソン・ロバーズ(ハワード・ヒューズ:富豪)ポール・ル・マット(メルビン・デュマー:牛乳配達)メアリー・スティーンバージェン(リンダ:メルビンの妻)1980年・95分・アメリカ原題「Melvin and Howard」2023・09・12・no113・元町映画館no203
2023.09.25
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「おお、伊吹山!」 徘徊日記 2023年9月4日(月) 湖東・湖北あたり 朝起きて、ちょっと琵琶湖あたり行ってみようと思いついて電車に乗ったんです。まあ、新快速、乗ればいいだけだし、青春18きっぷも余っているし。 須磨の海をボンヤリ見ながら、草津から関西本線乗ってみようか、とか何とか考えていたのですね。で、神戸で事故で出遅れていた新快速に乗り換えて、いつの間にか米原です。この新快速、近江塩津行なんですよね。近江塩津ってどこか、ご存知? 北陸本線の特急のようですね。ちょっと乗ってみたいですね。あてもなく新快速に乗るんじゃなくて、特急に乗って温泉に泊まって、金沢文学散歩とか思いつけないんですかね(笑)。 で、車窓に田んぼです。湖北の水田です。稲刈りにはまだ早いようです。向うは琵琶湖です。伊吹山が見えてきました。なんでかわかりませんが、この山が見えてくるとワクワクします。 近江塩津の手前、長浜駅でおりました。琵琶湖に近いかなという気分です。何の下調べもしていませんからわかりませんが、お城があるようです。垂水から、2時間30分ほど電車に乗っていました。 駅の様子です。東出口、琵琶湖口の方からの全景です。 反対の出口、伊吹山口の方に駅の表札がありました。ステンドグラスふうガラスの細工です。 こんな置物(モニュメント?)もありました。葉っぱがガラス細工です。特産品か何かなのでしょうかね?いろんな駅に、それぞれいろんなものがありますね(笑)。 伊吹山が街並みの向うに見えます。今日は、暑くて歩く気になれませんが、冬は寒いんでしょうね。伊吹おろしとかありそうですし。 駅の近所のショッピングモール(?)のガラス窓にこんなお習字、伊吹高校書道部だそうです。書道のことなんて何もわかりませんが、なんとなく元気がいいのでパチリ!でした。 実は改装中で、左側にも何か書かれていたのかもしれませんが、わかりません。暑くて、お腹もすいてきたのでソフトクリームを食べました。まあ、写真を撮るのは忘れましたけど(笑)。結局、お城と琵琶湖には行きましたが、町の方へは歩きませんでした。また来ます。ボタン押してね!
2023.09.24
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