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▼史劇のバラ15(ヘンリー8世パート3)シェイクスピアが二度目の后との結婚で『ヘンリー8世』の物語を終了させたのは、賢明な判断でした。ここで終わっておけば、ヘンリー8世は自分の恋を成就するためにローマ法王と戦った「断固たる王」「宗教改革を断行した王」のままで終われますからね。ところが、ここから王は「醜い欲望の王」「猟色王」へと変身し、物語は鮮血飛び散るホラー映画の様相を呈してきます。きっかけはやはり、男児の後継者がいなかったことでした。念願かなってアンを后に迎えることができたヘンリー8世は、これで王子が生まれるだろうと期待します。ところが、エリザベスを産んだ後、アンは男の子を流産してしまったんですね。またもや王子が誕生しなかったことに王は大いに落胆します。このとき40代半ばの王は、老いてますます盛ん。アンの侍女ジェーン・シーモア(ドクター・クイン!)が好きになり、肉体関係を持つようになります。今度は王后アンが邪魔者です。そこでアンに、反逆、姦通、近親姦及び魔術という罪を着せてロンドン塔に送り、処刑してしまうんですね。1536年のことです。こうして第二の結婚生活は3年で終止符が打たれました。新しい女と結婚するために妻を殺してしまうとは、極悪人の所業以外の何ものでもありません。アンはさぞ、無念だったのでしょう。噂では、死刑執行によりはねられたアンの首は、籠に収まった後もしばらくは唇が動いていたそうです。このときアンとともに、アンと関係が近い者が次々と姦通の罪で処刑されたそうですから、ロンドン塔には浮かばれない霊がたくさん漂っているはずですね。さらに驚いたことに、ヘンリー8世はアンを処刑した10日後にはジェーンと結婚します。恥も外聞もありません。ジェーンは翌37年、待望のエドワード王子(後のエドワード6世)を出産しますが、アンの祟りのせいでしょうか、産後の肥立ちが悪く12日後に亡くなります。1939年には、王は政略結婚としてドイツの新教国クレーフェから公女アン・オブ・クレーヴスを王妃に迎えます。しかし、愛し合うこともなく半年後には離婚します。でもご安心ください。彼女は幸いにも処刑されませんでした。ふ~、これで4人まで書きましたね。あとまだ2人います。ちょっと休憩。五番目の王妃はキャサリン・ハワードです。なんと不貞の濡れ衣(?)で処刑されたアン・ブリンの従妹に当たるんですね。結婚したのは1540年。王は49歳、キャサリンは19歳ぐらいでした。「愛」に年齢差は関係ありませんね。ところが年齢差は、思わぬ嫉妬や疑いの種にもなります。キャサリンは、元カレとの関係を王に疑われ、不義密通容疑で拘束されます。元カレは拷問の末、不義密通を認めてしまうんですね。キャサリンは密通を否定しますが、聞き入れられず、1542年に従姉と同じくロンドン塔で処刑されてしまいます。処刑される前、キャサリンはロンドン近郊にあるハンプトン・コート宮殿で王に直訴しようとします。しかしその直前、回廊で衛兵に捕まります。泣き叫ぶキャサリン。でも無情にも、王は面会を拒みます。そのため、今でもキャサリンの亡霊がこの回廊に出没するそうですから、ご興味のある方は、キャサリンの「無実の訴え」を聞いてあげてください。バラ園もあって、とても綺麗な宮殿だそうです。そして1543年、王は最後の王妃となるキャサリン・パーを迎えます。彼女は大変な才媛で、王からも厚く信頼されます。その信頼を背景に、彼女は私生児扱いにされていたメアリーとエリザベスを王女の地位へ戻すと、彼女たちとエドワード王子の教育に力を入れます。このころ王も50歳を越え、魚色家ぶりも収まりつつあったようです。1547年に王が持病であったリューマチか梅毒を悪化させて55歳で死ぬまで、比較的良好な夫婦関係を築いて、王の死を看取りました。これでヘンリー8世と6人の王妃の物語は終わりです。凄まじい話でしたね。ヘンリー8世と比較すれば、現皇太子チャールズの女遍歴などかわいいものです。拷問、謀殺、陰謀、裏切り、そして恐怖と怨念が渦巻いた英王室の歴史を振り返ると、元王妃ダイアナの謀殺説もさもありなんと思わずにいられませんね。明日は、ヘンリー8世の死後、チューダー朝がどうなったかを紹介しながら、シェイクスピアの「史劇のバラ」を終えようと思います。(続く)
2007.11.30
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▼史劇のバラ14(ヘンリー8世後半1)ヘンリー8世の最初の結婚は、スペインの王女キャサリンとの政略結婚でした。もともとは早世した兄アーサーの后だったのですが、スペインとの同盟を堅持しようという思惑があり、禁止されていた兄嫁との結婚にあえて踏み切ったんですね。時は1509年。ヘンリー8世は18歳、キャサリン24歳のときでした。キャサリンは6度妊娠しますが、5度が死産。唯一生まれた子が王女メアリーです。ところが王は、王子を授からなかったことに不満を持っていたようです。そのようなときに出会ったのが、侍女アン・ブリンでした。アンに魅了されたヘンリー8世は、20年以上連れ添ったキャサリンと離婚してアンを新しい王妃として迎えようとします。しかし、そのためには教皇に離婚を認めさせなければなりません。そこで、そもそもキャサリンとの結婚は兄嫁との結婚であったから無効であったと、今ごろになって主張するんですね。ひどい話です。というのも、キャサリンと結婚するとき、兄アーサーとキャサリンは形だけの結婚であり、実質的には夫婦関係はなかったなどという理由で教皇から兄嫁との結婚を許諾させていたからです。「そんなの関係ねえ」とばかりにヘンリー8世は、イギリス国内で結婚無効の裁判を開かせます。シェイクスピアの劇の中では、キャサリンは離婚には応じられないと悲痛なまでに訴え、採決を教皇にゆだねると言い残して、法廷を去ります。あとは欠席裁判です。ヘンリー8世はカンタベリー大司教に結婚は無効であったとの裁定を出させ、1533年にまんまとアンと結婚することに成功します。教皇はもちろん、そのような結婚を認めず、ヘンリー8世を破門します。これに反発したヘンリー8世は、1534年に国王至上法を発布して、自らは英国国教会の首長となると同時に、ローマ・カトリックと決別します。色恋のために宗教改革までしてしまうんですから、凄い執念ではあります。失意のどん底に突き落とされたのは、キャサリンでした。離婚後、事実上の幽閉状態になったまま、次第に衰弱していきます。臨終の床でキャサリンは、娘メアリーの幸福を祈りながら息絶えます。1536年のことでした。時は前後しますが、新女王アンに女の子が生まれます(1534年)。後のエリザベス女王の誕生です。国民は祝宴ムードで盛り上がります。シェイクスピアの劇は、生まれたばかりの王女がイギリスに繁栄をもたらすであろうと称えたところで幕となります。めでたし、めでたし・・・。しかし、本当に凄惨な劇はここからなんですけどね。何しろ、あと四回も強引に后を変えるのですから。さすがのシェイクスピアも、エリザベス女王の父親の所業をこれ以上描くのは、はばかられたのかもしれません。一体何が起きたのかは、明日のブログでお伝えします。(続く)
2007.11.29
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▼史劇のバラ13(ヘンリー8世前半)『ヘンリー6世』から始まったシェイクスピアの一連の劇作は、『ヘンリー8世』をもって終わったのではないかと考えられています。もしそうなら、史劇で始まって史劇で終わったことになりますね。ヘンリー8世は、バラ戦争でリチャード3世を破って王冠を手に入れたヘンリー7世の息子で、チューダー朝二代目の王です。そう、6人の后を次々と娶った、あの悪名高い「浮気(絶倫?)男」ですね。バラで始まった史劇ですから、最後の『ヘンリー8世』でもバラで終わるのかなと思ったら、この戯曲には花としてのバラは出てこないのですね。唯一出てくる箇所も、さりげなく「バラ」という単語に触れるだけで、おそらく観客はほとんど気づかないかもしれません。その台詞です。Surveyor Not long before your highness sped to France,The duke being at the Rose, within the parishSaint Lawrence Poultney, did of me demandWhat was the speech among the LondonersConcerning the French journey: I replied,Men fear'd the French would prove perfidious,To the king's danger.監査役陛下(ヘンリー8世)がフランスに行かれた少し前のことでございます。(バッキンガム)公爵がセント・ロレンスのプルトニー教区にある「ローズ」という荘園におりましたときに、此度のフランス行きについてロンドン市民は何と言っているかと私に尋ねました。そこで私は、彼らはフランス人が陛下に対して裏切り行為をするかもしれないので、王の身が危ないと申している、と答えました。バラが出てくるのは、これだけなんですね。ただの「ローズ」という荘園の名です。だけど、作者は意味もなく「ローズ」という名を使うはずはありませんから、何か意味があると考えなければいけませんね。その前に、この台詞の意味と背景を説明しましょう。この監査役というのは、バッキンガム公の使用人で、公爵の領地を監査している男です。この男が主人のバッキンガム公を裏切って、バッキンガム公が王の命を狙っていると讒訴する場面での台詞なんですね。監査役はこの台詞に続いて、バッキンガム公がマクベスよろしく、ある僧侶の予言を信じて、王座を奪うため王を亡き者にしようと画策していると証言します。ところが、これはでっち上げで、王の寵愛を受けているウルジー枢機卿が背後で糸を操っています。この讒訴を信じた王はバッキンガム公を裁判にかけ、処刑してしまいます。それではシェイクスピアはなぜ、バッキンガム公が滞在した場所を「ローズ」としたかですが、やはりバラ戦争を想起させる道具として使ったのではないかと思われます。ようやく30年間に及ぶバラ戦争が終わり、チューダー朝ができて間もない時に、再び血で血を洗う惨劇を引き起こすかもしれない内戦の象徴として「ローズ」とした可能性はありますね。その後の物語ですが、陰謀をめぐらし政敵を追い落としたウルジー枢機卿も悪巧みが王にばれて、失脚します。そしてここからが、女狂いの王とローマ教皇との争いになるのですが、長くなりますので、そのヘンリー8世と6人の后の物語は明日のブログでご紹介することにします。(続く)
2007.11.28
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▼史劇のバラ12(リチャード3世)チューダー朝のプロパガンダ的色彩の強い『リチャード3世』ですが、にもかかわらずシェイクスピアは、マキャベリズムの権化ともいえる主人公リチャード3世をとても人間臭く、ある意味で魅力的に描いています。そこが現代のアメリカ的プロパガンダと決定的に違うところでしょうか。9・11テロ後に始まる、いわゆる「テロとの戦い」でアメリカのメディアがこぞって加担したプロパガンダは、とにかく一方的なものでした。“正義の国”アメリカはすべて正しく、そのアメリカに楯突く者はすべて悪である、と。あのジョージ・W・ブッシュですら、“悪”に立ち向かう勇気ある大統領であるかのように報道していましたね。一番傑作だったのは、ブッシュとビン・ラディンの顔写真を並べて、この残忍なテロリストの目を見ろ、というキャプションが着いたニューズウィーク誌の記事でした。ブッシュと並べたのは大間違いでしたね。ブッシュの濁った目に比べて、ビン・ラディンの目のほうがはるかに澄んで綺麗な目をしていましたから。あのテロを是認しているわけでは決してありませんが、私利私欲にまみれた目と、私欲ではなく大儀を持つ目では、自ずと違いが出てくるわけです。ほかにもアメリカは、英雄をでっち上げるなど事実の捏造も朝飯前でした。シェイクスピアはそこまでひどくなかった。リチャード3世を悪の権化のように描きましたが、その人間のもつ本質にまで迫っているため、実に深遠な台詞を語らせているんですね。そのためリチャード3世は、マクベスと並び非常に人気があるキャラクターなっています。今日はバラの物語からは脱線してしまいますが、そのようなリチャード3世の名台詞をいくつか紹介しましょう。まずはもっとも有名な冒頭の台詞です。RICHARDNow is the winter of our discontentMade glorious summer by this sun of York;リチャードヨーク家の輝ける息子の天下になったおかげで、ようやく陰鬱な冬が去り、快活な夏がやってきた。受身の文になっていますが、Now this sun of York made the winter of discontent glorious summer.という文章と同じですね。this son of Yorikとはヨーク家の息子、すなわち兄のエドワード4世のことです。同時に同じ発音であるsun(太陽)をかけています。このような用法はpun(地口)といって、the sun of Yorkのように世間が普通に使っている成句をもとにして、語呂の似通っていて意味の違う別の句を作るシャレの一種です。『ロミオとジュリエット』では、ティボルトに刺されて死にそうになっているマキューシオが次のように言います。 Ask for me tomorrow, and you shall find me a grave man.(明日訪ねてきてくれ。そうすれば、墓の中で荘厳にしていよう)このa grave manも、「墓の人(死人)」と「まじめな人」の地口になっています。短歌の掛け言葉と同じですね。ところで、この台詞から始まるリチャード3世の独白は非常に格調が高く、いきなり劇の見せ場にもなっています。長いので全部は紹介しませんが、途中にもこのような、味わい深い表現が出てきます。RICHARDAnd therefore, since I cannot prove a lover, To entertain these fair well-spoken days, I am determined to prove a villain, And hate the idle pleasures of these days.リチャードとどのつまり俺は、上品な言葉遣いがもてはやされる時代を享受する色男になることはできないから、憎まれ役になると決めたのさ。そして、この時代のくだらない快楽を嫌悪してやることにしたのだ。リチャードは戯曲では容姿が醜いことになっていますから、優雅できらびやかな世界の色男とは無縁。それゆえに、だったら敵役になってやると宣言しています。リチャード3世の人間臭さがこの言葉に集約されていますね。それから、今まで解説してきませんでしたが、シェイクスピアの戯曲の台詞のほとんどが韻文(弱強5歩格)となっており、一行の音節数が10と決まっています。読み方は音節ごとに弱強弱強と読んでいきます。日本語で言うと五七調のリズムに相当する英語のリズム。格調の高い台詞は、このリズムを重視しています。リチャード3世の上の台詞も素晴らしい出来栄えになっているんですね。リチャード3世が単なる悪人を超えて、観客の心に訴えてくる理由がわかっていただけたでしょうか。今日のバラです。どのバラに焦点を与えるかによって、同じ風景でもまったく違う風に見えることがありますね。見方を変えれば、英雄もテロリストも、一枚の薄い紙の裏と表に過ぎないのではないでしょうか。明日は「史劇のバラ」の最後として、『ヘンリー8世』をご紹介しようと思います。
2007.11.27
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▼史劇のバラ11(リチャード3世2)最初に兄のジョージを謀略にかけ抹殺、次に目障りな貴族たちを処刑し、さらには兄エドワード4世の死後、兄の息子二人と、妻のアンをも殺害したリチャード3世。そのあまりの惨たらしさに側近も離れていきます。その混乱に乗じて、ランカスター家の傍流であるチューダー家のリッチモンド伯が挙兵、リチャード3世に戦いを挑みます。その戦いの前夜、これまでに殺した亡霊たちがリチャード3世の夢枕に立ち、次々と呪いの言葉を投げかけます。その悪夢に動揺したリチャード3世は、戦場で激しく立ち回りますが、馬を失います。そして「馬と引き換えなら王国をくれてやる」と叫ぶ醜態を晒した後、戦死します。あれだけの残虐な行いをしてまで手に入れた王国が、最後は馬一頭と同じ価値になってしまうんですね。現代人にも通じる教訓がありそうです。これで「極悪人」の王が倒れ、めでたしめでたし、ですね。その際、リッチモンドが次のように語ります。Richmond: Inter their bodies as becomes their births: Proclaim a pardon to the soldiers fled That in submission will return to us: And then, as we have ta'en the sacrament, We will unite the white rose and the red: Smile heaven upon this fair conjunction, That long have frown'd upon their enmity! リッチモンド:戦死者を身分相応に埋葬してやれ。逃げた兵には、降参して出てくれば罪を許すと触れを出せ。さらには、誓約したように、白いバラと赤いバラを合体させよう。憎悪の応酬に顔をしかめていた天よ、このめでたい合体を祝福してください!1行目のinterはburyと同じで「埋葬する」。becomeは「~にふさわしい」という他動詞。 4行目のsacramentは、「神と人間の間の誓い」とか「神聖なシンボル」のことです。最後の行のthatはheavenにかかっています。frown uponで「~にしかめっ面をする」「~を苦々しく思う」です。これでようやく、バラ戦争に終止符が打たれましたね。リッチモンド伯は、ヘンリー7世として王位に就き、ヨーク家のエドワード4世の娘エリザベスと結婚します。赤バラと白バラを合体させたチューダー朝の誕生です。そして、ヘンリー7世の孫に当たるのが、一時代を築いた女王エリザベス一世です。シェイクスピアが『リチャード3世』を書いたときの女王でもあります。これでなんとなくわかってきましたね。リチャード3世が残虐非道な悪王として描かれた理由が。実際のリチャード3世はこれほどひどい王ではなかったという見方が通説になりつつあります。兄の息子二人を殺したという筋書きも、あくまでも噂を基にシェイクスピアが脚色したにすぎません。妻殺しも濡れ衣みたいです。さらにシェイクスピアはリチャード3世を、容姿が醜く、足が不自由で、背中が曲がっているかのように描写していますが、これも文字通り捻じ曲げられたリチャード3世像のようです。もっとも、真実のリチャード3世像がどうだったかは、今となっては推測するしかありません。ただし、シェイクスピアの戯曲を見てしまった後では、洗脳されてしまっていますから、なかなかそのイメージ像から抜け出ることは難しいのも事実です。チューダー朝のプロパガンダにまんまとしてやられました。これも現代に通じる教訓です。きっとリチャード3世は墓石の下から(その墓もシェイクスピアの時代にはすでに失われいたそうですが)、シェイクスピアを呪っていたでしょうね。さて、バラの写真ですが、赤いバラと白いバラの合体となると、こんな感じでしょか。(続く)
2007.11.26
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▼史劇のバラ10(リチャード3世1)残虐非道な王を描いた『リチャード3世』ですから、バラの台詞もやはり「この白バラを王の心臓の鮮血で赤く染めてやろう」といった表現がまた出てくると思ってしまいますね。ところが、これを読んでください。これが最初に出てくるバラの台詞です。Their lips were four red roses on a stalk,Which in their summer beauty kiss'd each other.彼らの唇は一本の茎に咲く四つの赤いバラだ。初夏のように初々しい美しさの中で、唇を寄せ合っている。ずいぶんロマンチックな台詞ですね。触れ合っている唇を四つのバラにたとえています。一行目のtheir lipsとは、すやすや寝ている二人の幼い王子の唇のことです。二行目のsummerはイギリスでは5,6,7月(北米では6,7,8月)のことを言う場合が多いので、日本では新緑の美しい初夏のころに相当します。そこで「初々しい美しさの中で」と訳しました。Whichはstalkにではなくrosesにかかっていますね。しかし、このほのぼのとする表現と、残忍なリチャード3世との接点は何でしょうか。実はシェイクスピアは、リチャード3世の残忍さを際立たせるために、わざとこのようなかわいらしい表現を使っているんですね。これは、リチャード3世の命令でエドワード4世の幼い息子二人を殺すことになった暗殺者が、二人の寝顔を見て思わず見入ってしまう場面の台詞なんですね。暗殺者は、そのいたいけな姿に暗殺を一瞬躊躇しますが、最後は首を絞めて殺してしまいます。このときすでにエドワード4世は亡くなっています。そのほかの邪魔者もことごとく片付けたリチャード3世はまんまと王位に就くことに成功しますが、その王位を揺るぎないものにするため、後継者になりうる二人の王子(史実では長男の王子は1483年4~6月の二ヶ月間王位に就き、エドワード5世となっている)を、刺客を使って殺害させたのでした。純真無垢の、バラのような王子たちと、無慈悲で冷酷なリチャード3世の対比が見事ですね。シェイクスピアは主人公に究極の二者択一を迫り、劇的効果を高めましたが、対照的な人物を描くことにより、より登場人物の性格を引き立たせる方法もよく使っています。リチャード3世は、利用するだけ利用した妻のアンも殺害します。なんとも王になるために、リチャード3世は親戚兄弟みな殺してしまうんですね。さすがマクベスと並び称される悪王です。その悪王がどうなるかは、明日のブログで紹介しますが、19~20世紀にかけて活躍した、絵本の挿絵で知られるウォルター・クレインは、今日紹介した台詞をモチーフにして「四つの赤いバラ」というイラストを描いています。いい意味でも悪い意味でも、シェイクスピアの言葉は、多くの芸術家にインスピレーションをもたらすようです。(続く)
2007.11.25
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▼史劇のバラ9(ヘンリー6世パート4)シェイクスピアの戯曲の中では、頼りない王ヘンリー6世とは対照的に、王后マーガレットは勝気で冷酷な人物として描かれています。マーガレットは王の代わりに軍を率いて戦い、捕虜を殺すことにも躊躇しません。ところが、第三部ではそれを上回るほど冷酷で腹黒い人物が登場するんですね。それがヨーク公の3男リチャード(後のリチャード3世)です。まずはリチャードの台詞の一部を見てみましょう。RICHARD :I cannot restUntil the white rose that I wear be dyedEven in the lukewarm blood of Henry's heart.リチャード:この胸に付けている白バラが、ヘンリーの心臓の生暖かい血によって赤く染まりでもしないかぎり、心休まることはない。これを聞いただけでも、残酷そうなリチャードの性格がわかりますね。血で赤く染まったバラとはこんな感じでしょうか。ロンドンにヘンリー6世を追い詰めたヨーク公は、王が亡くなった後に王位に就くことを認めさせます。ようするにランカスター朝からヨーク朝へと禅譲するという誓約を得たわけです。でもそれでは生ぬるいと、息子のリチャードは言います。上で紹介した台詞では、元々は王座を奪ったランカスター朝の王の誓約など意味がないので、あくまでも王を殺して王座を奪いましょうと父親のヨーク公に進言しているんですね。ヨーク公も息子リチャードに同意し、武力で攻め入ることを決めた矢先、王妃マーガレットが先手を打って挙兵します。その戦いでヨーク公は捕らえられ、王妃に紙の王冠をかぶらされたうえ、なぶり殺しにされてしまいます。しかし、逃げ延びたヨーク公の長男エドワードやリチャードらが盛り返し、バラ戦争は泥沼の状態になるんですね。劇の中では、ランカスター派の若者がヨーク派の父親を殺したり、逆にヨーク派の一老兵がランカスター派の息子を殺したりするという悲劇が繰り広げられます。そうした惨劇を目撃したヘンリー6世は、自分の不幸を嘆きます。その際の台詞にもバラが出てきます。KING HENRY VI Woe above woe! grief more than common grief!O that my death would stay these ruthful deeds!O pity, pity, gentle heaven, pity!The red rose and the white are on his face,The fatal colours of our striving houses:The one his purple blood right well resembles;The other his pale cheeks, methinks, presenteth:Wither one rose, and let the other flourish;If you contend, a thousand lives must wither.ヘンリー6世不幸の中の不幸! 通常の嘆き以上の悲嘆!ああ、私が死ぬことにより、こうした残酷なことがなくなるのならば!ああ、かわいそうに、優しい天よ、哀れんでください!彼の顔には赤いバラと白いバラが浮かんでいる。それは相争う両派の宿命の色。赤は真っ赤な鮮血のようであり、白は青ざめた頬のように思われる。一方のバラよ、しぼめ。そして、もう一方のバラを咲き誇らせてやれ。お前たちが争えば、何千もの命が枯れ果てなければならなくなる。英語的にはそれほど解説する箇所はありません。二行目のOh that~!は「~であればよいのに!」と訳す、感嘆文を導くthatですね。同じく二行目のstayはstop(止める、終わらせる)と同じ意味です。4行目のhis faceのhisは、身内を戦いで殺めてしまった兵士のことを指しています。6行目と7行目は動詞が後に付いていますが、それぞれthe oneとthe otherを主語としています。すなわちhis purple bloodと his pale cheeksは目的語になります。「ああ、羊飼いだったらどんなに幸せだろう!」と嘆くばかりの王とは関係なく、戦争は激しさを増します。やがてヨーク派が優勢になると、ヨーク公の長男エドワードが王位に就き、エドワード4世となります。その後も一進一退を繰り返し(史実でも王位が再びヘンリー6世へ移動したりします)、最後はエドワード4世がヘンリー6世、王妃マーガレットとその息子を捕らえ、王妃の目の前で息子を殺し、牢獄に入れられていたヘンリー6世も処刑して、ヨーク朝を確立させます。エドワード4世には跡継ぎの男の子が生まれ、ヨーク派が祝宴を開くさなか、兄の王位を虎視眈々と狙う野心家が冒頭で紹介した3男のリチャードです。そのリチャードがエドワード4世の嫡子に口づけしながら、「ユダもこのようにキリストに口づけしたのだ」と傍白して、この劇は終わります。そう、次の主役はどうやらリチャードのようですね。そのリチャードを描いた『リチャード3世』にもバラは登場します。(続く)
2007.11.24
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▼史劇のバラ8(ヘンリー6世パート3)第一部で決定的な亀裂が入ったランカスター派とヨーク派ですが、実際に戦争に突入するのは第二部からです。第一部では、王に対して外見上は従順な姿勢を見せていたヨーク公。ヘンリー6世がマーガレットを王妃に迎えるのと引き換えに、フランスの領地を次々と手放したことに不満を募らせ、とうとう牙を剥きます。そのとき、ヨーク公が独白する場面です。YorkTill Henry, surfeiting in joys of love, With his new bride and England's dear-bought queen, And Humphrey with the peers be fallen at jars. Then will I raise aloft the milk-white rose, With whose sweet smell the air shall be perfumed, And in my standard bear the arms of York To grapple with the house of Lancaster; And force perforce I'll make him yield the crown Whose bookish rule hath pulled fair England down. ヨ-クヘンリーのやつは、イングランドが高価な犠牲を払って手に入れた女王との恋に溺れて盲目状態。ハンフリーは貴族たちとの争いに巻き込まれて、てんてこ舞いだ。そのときおれは、香気を辺りに漂わせながら乳白色のバラを高々と掲げよう。そして、ヨークの紋章を旗になびかせて、ランカスター家との抗争の果てに、力ずくでヘンリーに王位を譲らせてみせよう。やつの頭でっかちな王政のせいで、前途洋々だったはずのイングランドは衰退してしまったのだ。独立分詞構文(absolute phrase)が出てきましたね。何かと言うと、分詞の意味上の主語と主文の主語が一致しない場合の分詞構文です。例を挙げましょう。The flower’s petals wilted. It looked pathetic. (その花の花弁は萎れてしまった。それは哀れに見える)。花弁、花という主語の異なる二つの文章を、独立分詞構文を使って繋げることができるんですね。その結果、こうなります。Its petals [having] wilted, the flower looked pathetic.英語の論文で独立分詞構文を使うと、非常に洗練された文章であるとみなされる傾向があるそうです。私もアメリカの大学院にいるときは、論文の中で頻繁に使わせてもらいました。洗練された文章であると思ってくれたかどうかは別問題ですけれどね。その独立分詞構文とtill thenを組み合わせたのが、最初の4行です。分詞構文の意味上の主語はHenryとHumphreyですが、 主文の主語は4行目のIです。2行目と3行目のwithの前にbeingを補って読むと、独立分詞構文であることがよくわかるはずです。2行目のdear-boughtのdearは「高価な犠牲を払って」という副詞です。3行目のat jarsは「不和で」とか「喧嘩して」と訳します。6行目のstandardは旗、armsは紋章。8行目のforce perforceは「力ずくで」「(法律などで)強制して」という副詞句扱いだと思います。今日は英語の解説が長くなってしまいましたが、こうしてヨーク公は王座を奪うべく、その計画を着々と実行に移していきます。そして1455年のセント・オルバンズの戦いで王軍を破ったヨーク軍は、逃げた王を追ってロンドンへ進軍します。ここで第二部の幕が下り、いよいよヨーク朝が誕生しますが、その第三部のバラの物語は明日ご紹介します。(続く)
2007.11.23
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▼史劇のバラ7(ヘンリー6世パート2)今日は、『ヘンリー6世』第一部の台詞に出てくるバラをダイジェストでお届けします。PLANTAGENET And, by my soul, this pale and angry rose,As cognizance of my blood-drinking hate,Will I for ever and my faction wear,Until it wither with me to my graveOr flourish to the height of my degree.プランタジネットわが魂にかけて、この青白い怒りの白バラを、血を飲み干すほどの憎悪の旗印としてずっと、わが派のために身にまとうことにしよう。我とともに墓に入ってしぼむか、わが栄光の高みまで咲き誇るかのいずれかだ。一行目のthis pale and angry roseは三行目のwearの目的語ですね。三行目のfor ever and my factionは「永遠にわが派のために」とforはmy fancitonにもかかっています。4行目のuntil以下まで白バラを身につけようと、赤バラを身につけるというサマセットに対抗してプランタジネットは宣言しています。次はプランタジネット派のウォリックの台詞の一節です。WARWICK Meantime, in signal of my love to thee,Against proud Somerset and William Pole,Will I upon thy party wear this rose:And here I prophesy: this brawl to-day,Grown to this faction in the Temple-garden,Shall send between the red rose and the whiteA thousand souls to death and deadly night.ウォリック一方、あなたに対する私の敬愛の証として、高慢なサマセットとウィリアム・ポールに対抗して、この白バラをつけてあなたに加勢しましょう。そして私はこう予言します。今日この寺院の庭で発生した党派の争いは、赤バラと白バラの戦いとなって、幾千人もの魂を死と暗黒の世界へと送ることになるだろう、と。英語の解説は特に必要ないですね。何千人も死ぬことになると宣言するとは、勇ましいを通り越して、あきれ果ててしまいます。一度熱すると引き戻せなくなる人間の性を見るようで悲しくもなります。次にやっとイングランド王ヘンリー6世が登場します。今までどこへ行っていたのかと思うほど、王のいないところで重要な話が進んでいきます。それもそのはずです。幼くして王位に就いた若すぎるヘンリー6世には、事態の深刻さを理解することができないし、また事態を収拾する能力もほとんどないんですね。家臣に言われるままになっています。そして時々、言うことを聞かない家臣に対して困惑と狼狽の醜態を晒します。王はただただ、争いごとがなくなってくれればいいと祈ることしかできません。そのような王の台詞です。KingI see no reason, if I wear this rose,Putting on a red roseThat any one should therefore be suspiciousI more incline to Somerset than York:Both are my kinsmen, and I love them both:王それゆえに余がこのバラを付けても(そう言いながら赤いバラを付ける)だれも私がヨークよりもサマセットを贔屓しているなどとは疑うまい。どちらも余の親戚であり、余はどちらも愛しておるからな。これも英語の解説は必要ありませんね。王は赤いバラを付けてしまいました。それがどれだけの意味があるとも知らずに。王が事態の深刻さを理解していないことを示す、非常に象徴的な動作であり、台詞です。現状認識が甘いとしか言えませんね。これで赤と白に完全に分かれました。運命を暗示する心憎い演出です。『ヘンリー6世』三部作では、とにかくたくさんの登場人物が死んでいきます。しかもかなり残酷に殺されるんですね。第一部で処刑されるジャンヌ・ダルクもその一人です。第一部はヘンリー5世の葬式(1422年)の場面から始まります。時はまだフランスとの百年戦争(1337-1452年)の最中。ヘンリー5世の死後もしばらくはイギリス軍が優勢でしたが、フランスにジャンヌ・ダルクが登場すると、形勢は逆転します。まさにフランスにとっては救世主ですが、イギリスにとっては悪夢です。イギリス人はジャンヌ・ダルクを悪く言う傾向がありますね。シェイクスピアも、ジャンヌ・ダルクを悪魔に心を売ってイギリス軍に勝利した魔女のように描きます。劇では、妊娠しているので子供だけは助けてほしいと懇願するジャンヌ・ダルクを、ヨーク公は罵りながら火刑に処します。事実かどうかはさておき、妊娠は聖女(処女)ではなかったことを強調する脚色ですね。ジャンヌ・ダルクと同じようにイギリス軍に捕らえられたフランス・レーニエ(ロレーヌ)公の娘マーガレットはヘンリー6世の后になるのですから、対照的な運命が描かれています。第一部はそのマーガレットとヘンリー6世の婚約(1444年)までを描いて終わります。22年間分の歴史を駆け足で通り過ぎたような、目まぐるしい展開です。第二部に出てくるバラは明日のブログで紹介します。
2007.11.22
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▼史劇のバラ6(ヘンリー6世)赤いバラはランカスター派で、白いバラはヨーク派。お互い赤と白のどちらのバラを摘むかで立場を明らかにしようという場面はすでに紹介しました。文字通り、実に「劇的」なシーンでした。しかし実は、バラによる投票を終えた後のやりとりのほうが凄いんですね。本来なら少数派が多数派の意見を受け入れるはずの投票だったのですが、投票で負けた赤バラのサマセット伯(後のサマセット公)は引き下がりません。白バラのリチャード・プランタジネット(後のヨーク公)と再び言い合いになります。PLANTAGENET: Now, Somerset, where is your argument?プランタジネット:どうだ、サマセット、お前の持論はどこへ行った?SOMERSET: Here in my scabbard, meditating that Shall dye your white rose in a bloody red.サマセット:この刀の鞘の中にあるさ。お前の白いバラを血で赤く染めようと思ってな。PLANTAGENET: Meantime your cheeks do counterfeit our roses; For pale they look with fear, as witnessing The truth on our side.プランタジネット:そういえば、お前の頬はわれわれの白いバラを真似ているではないか。恐怖で顔が青白くなっているぞ。まるでわれわれの側の正当性を認めているようだ。SOMERSET: No, Plantagenet, 'Tis not for fear but anger that thy cheeks Blush for pure shame to counterfeit our roses, And yet thy tongue will not confess thy error.サマセット:違うぞ、プランタジネット。恐怖ではなく、これは怒りだ。お前の頬こそ、あまりの恥ずかしさにわれわれの赤いバラを真似するように赤くなっているではないか。それなのにお前の舌は、過ちを自白しようともしない。PLANTAGENET: Hath not thy rose a canker, Somerset?プランタジネット:お前のバラには悪い虫が付いているのではないか、サマセット?SOMERSET: Hath not thy rose a thorn, Plantagenet?サマセット:お前のバラのほうこそ、棘があるのではないか、プランタジネット?PLANTAGENET: Ay, sharp and piercing, to maintain his truth; Whiles thy consuming canker eats his falsehood.プランタジネット:あるさ、鋭敏にして鋭い、正当性を貫く棘がな。だがお前の悪い虫は、ウソ偽りを食べて膨らむばかりだ。SOMERSET: Well, I'll find friends to wear my bleeding roses, That shall maintain what I have said is true, Where false Plantagenet dare not be seen.サマセット:いいだろう。俺が言ったことが正しかったことを証明するため、我が赤き血のバラをまとう友を何人も見つけてみせる。偽りのプランタジネットなどお呼びではないわ。特に英語の解説はしませんが、迫力があって、かつ、ある意味非常に洒落たやりとりですね。お前の持論はどこへ行ったと揶揄するプランタジネットに対して、今は刀の鞘の中に収めてあるが、いつか血で白バラを赤く染めてやるぞと答えるサマセットの話術の巧みさ。顔色や主張の正当性をバラの色や棘などにたとえて当意即妙的に言い争う面白さ。どれも非常によくできた掛け合いだと思います。シェイクスピアがこの戯曲で一躍有名になるわけです。こうして赤いランカスター派と白いヨーク派によるバラ戦争が始まります。しかしどちらの公爵家も、もともとはプランタジネット王朝のエドワード3世から派生しています。違うのはエドワード3世の第四子ジョン・オブ・ゴーントの末裔(ランカスター公)か第五子エドムンド・ラングリーの末裔(ヨーク公)かというだけ。近親憎悪というやつですね。これで最後の行でサマセットがfalse Plantagenetと言ったわけがわかると思います。falseは、直接的にはリチャード・プランタジネットを嘘つきであると非難していることになりますが、もっと深い意味ではプランタジネット(朝の後継者)を偽っているだけだという意味も込められているわけです。まあ、これも五十歩百歩ですが。その後の血みどろの戦いについては、明日のブログでご紹介しましょう。(続く)
2007.11.21
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▼史劇のバラ5(イングランド王権史)バラ戦争という名前を歴史に刻むきっかけにもなった『ヘンリー6世』三部作は、シェイクスピアが劇作家として最初に書いた作品ではないかとされています。シェイクスピアはこの作品により、一流作家の仲間入りをしていますから、彼はまさに「バラ」によって生まれた詩人・劇作家であったと言えそうです。すでに紹介した『ヘンリー6世』ですが、この劇の中には紹介しきれないほどバラが登場します。そのうちのいくつかの表現を紹介したいと思います。その前に、シェイクスピアが史劇で取り上げたイングラン王権史をここで簡単におさらいしておきましょう。王がたくさん登場するので、わからなくなってきますよね。『ヘンリー6世』もこの複雑に入り組んだ王族の歴史を知っておかないと、理解できない作品です。最初はジョン王(在位:1199-1216年)でしたね。「土地なし王子」。プランタジネット朝(アンジュー朝)3代目のイングランド王です。フランス王との権力争いに明け暮れ、イギリスでも内乱を収めるのが精一杯。大陸の領土を失ったため「失地王」とも揶揄され、さらには教皇と諸侯の板ばさみになり、踏んだり蹴ったりの人生でした。マグナ・カルタで有名ですね。次はその五代後に王位に就いたリチャード2世(在位:1377-1399年)です。作品としての『リチャード2世』は紹介しませんでしたが、『ヘンリー4世』のホットスパーの台詞で「可憐でいじらしいバラ」と紹介されていましたね。なんとも気の毒な、ひ弱な王です。彼がプランタジネット朝最後の王となりました。その次は、ヘンリー4世(在位:1399-1413年)です。初代ランカスター朝の王ですね。つまりランカスター公がプランタジネット朝から王位を奪い取ったことになるわけです。これがバラ戦争の起きる遠因にもなっています。シェイクスピアは、次のランカスター朝第二代のヘンリー5世(在位:1413-1422年)も戯曲にしていますが、バラを使った台詞が見当たらないので取り上げません。百年戦争の最中、フランス軍に対してイングランド軍が勝利を収めたヘンリー5世の活躍を賛美する劇となっています。ただし最終的には、イングランドはフランスに敗北します。そして、ランカスター朝第三代のヘンリー6世(在位:1422年―1461年、1470年―1471年)です。在位が二度に分かれていますが、これは王位が別の王朝へ移っていた時期があったからです。それがヨーク朝なんですね。かつてランカスター公が王になったのなら、ヨーク公も王になれるはずだとして、ヨーク公リチャードがランカスター朝に戦いを挑みました。これがバラ戦争(1455-1485年)となるわけです。ランカスター派の赤バラとヨーク公派の白バラの戦いです。明日は、「バラ戦争」の項で紹介しなかった場面のバラを紹介します。(続く)
2007.11.20
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▼史劇のバラ4(ヘンリー4世第二部)『ヘンリー4世』には、まったく史実とは関係のない架空の人物も出てきます。それが好色で飲んだくれの太っちょ老騎士フォルスタッフです。ヘンリー4世の放蕩息子ハルの悪友でもあります。イタズラや乱暴狼藉は日常茶飯事。ただし、どこかの有名女優の息子と違って、覚せい剤はやっていなかったようなので、本人の名誉のために書き添えておきます。血なまぐさい陰謀渦巻く権力争いと異なり、フォルスタッフが活躍する場は、戦場ではなく酒場です。酒を飲むと威勢だけはいいが、戦場では臆病者に早変わり、最後尾で逃げ惑います。しかし、悪いやつだが憎めないフォルスタッフは、裏切りや陰謀、処刑といった残虐な物語の中では一服の清涼剤となっているんですね。このキャラクターがあまりにも人気を博し、時の女王エリザベス1世からもフォルスタッフの恋物語を観たいとの要望が出されたため、シェイクスピアはフォルスタッフを主人公とした『ウィンザーの陽気な女房たち』を書いたと言われています。王権争いの物語そっちのけで、フォルスタッフとドタバタ喜劇を演じる「仲間たち」も登場します。その一人が、次に紹介するイーストチープの居酒屋を切り盛りする女主人クィックリー(Quickly)なんですね。Quickly(すばやく)とは、名前からしてふざけています。クィックリーは、血の気が多く、すぐに啖呵を切る売春婦ドール・ティアシートに対して次のように言います。HOSTESS. I' faith, sweetheart, methinks now you are in an excellent good temperality: your pulsidge beats as extraordinarily as heart would desire; and your colour, I warrant you, is as red as any rose, in good truth, la! But, i' faith, you have drunk too much canaries; and that 's a marvellous searching wine, and it perfumes the blood ere one can say "What's this?" How do you now?女主人かわいいドールちゃん、本当にお前さんはもう、ご機嫌もすこぶるよろしくて、いい塩梅のようですね。お前さんの脈拍も、心臓の望むままに格別に脈打っているわよ。顔色もバラのように血色がいいわ。本当よ、保証するわ! だけど、ぶっちゃけ、お前さんはカナリー(葡萄酒の名)を飲みすぎたね。あれは驚くほど強烈なワインだよ。「何か変だな?」と気づく前に、血を酒色に染めちゃうんだからね。 で、調子はどうなの?I’faithはin faithで「本当に」「確かに」。methinkはこの時代よく使われる表現ですが、it seems to me(~と思われる)と同じ意味です。二行目のtemperalityという単語は存在しませんが、temper(気分、気性)を難しく言い間違えているんですね。本当はtemperament(気分、気性)と言いたかったんだと思います。同様にpulsidgeという単語も存在しません。pulse(脈拍、鼓動)を難しく言い間違えています。五行目のsearchingは「(刺すように)激しい、厳しい」という形容詞。次のit perfumes the bloodは「血を酒の芳香で満たす」というような意味でしょうか。ereはbeforeと同じでしたね。先ほども説明したように、この女主人の言動は、フォルスタッフの言動と同様、劇の大筋とはまったく関係ありません。この台詞に出てくるバラも、それほど重要な表現とは思えませんね。ところがこの表現、なんと1913年版のウェブスターの英語辞典に例文(Your colour, I warrant you, is as red as any rose.)として載っているんですね。辞書に載るほどの「名言」になっているわけです。この女主人のほかの台詞が語彙的にいい加減なことを考えると、一文だけでもまともな文章があると、目立つということでしょうか。こうしてフォルスタッフと女主人らによるドタバタは、深刻な権力争いのストーリーとは別の次元で、並行して進んでいきます。まるで並行宇宙(パラレルワールド)ですね。本来なら陰鬱な史劇になってしまうところを、彼らのおかげで救われているとも言えます。まさに影の主役ではないでしょうか。
2007.11.19
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▼小春日和と木枯らし1号今日の東京地方は朝から雲一つない快晴。ぽかぽか陽気に誘われて、楽天もちょうどメンテナンス中だったことを口実にして「薔薇シリーズ」をお休みし、朝から秋の風景を写真撮影に出かけました。出かけた場所は、いつもの神代植物公園。自転車で一時間ほどの調布市にあります。年間パス(2500円)を持っているので、何度訪れようと余計な出費をしなくて済みます。薔薇もまだ見事に咲いています。ずいぶん長く持たせていますね。手入れも大変だと思います。菊花展の最中でした。見事にアレンジされていますね。そばのテントでは、秋の実がずらりと並べられていました。これはアケビですね。次は栃の実。その後、芝生の広場に行くと、中央にあるパンパスグラスの穂がキラキラと光っていました。南米原産のススキとでも言っておきましょうか。まだまだ秋という感じがしますね。次の写真はコダチダリアです。メキシコ原産で、日照時間が短くなると花を咲かせるそうです。同じ芝生の広場に咲いています。別名皇帝ダリア。今日はこのダリアのそばでお昼寝です。寝てばかりいますね。それにしても暖かく、半袖でも十分なほど。おそらく気温は20度は超えています。太陽が気持ちよくて、たっぷり一時間は眠っておりました。この陽気で桜も狂い咲き?というのはウソで、これは十月桜・冬桜の種類で十月から十二月にかけて花を咲かせます。見事に咲いていますね。園内の「カエデ・モミジの森」へ紅葉を見に行きます。モミジはまだまだ緑が多いです。何かまだ、初夏の緑みたいですね。薄っすらと黄葉しているモミジもありました。赤くなるのはまだ先のようです。梅・椿園では山茶花(サザンカ)が咲いています。次の写真はサザンカと蜂さんのツーショットです。この後、まだ夕暮れまで時間があったので、中近東文化センター(三鷹市)へ見学に行きました。何か古代気球のヒントはないものかと、紀元前5000~4000年ごろの中近東の出土品をじっくりと見ます。上の土器は、紀元前4000年ごろのエジプトの土器です。フラミンゴのほかに、矢羽か凧のような絵が描かれています。見ようによっては、パラシュートにも見える模様もありますね。気球? まさかね。下の土器には船が描かれています。これもエジプトで出土した紀元前4000年の土器です。右には鹿(ガゼル?)、左には穂も見えます。ここにも、あの変な模様が描かれています。何のモチーフなんでしょうね。二時間ほど中近東文化センターを見学したら、もう4時になってしまいました。暗くなる前に帰らないと。午後4時50分ごろの夕日です。昼間の暖かさがウソのように冷え込んできました。それもそのはず、東京地方は木枯らし1号が吹いたんですね。冬がいよいよ始まったようです。明日は薔薇シリーズ。『ヘンリー4世』の後半をやる予定です。
2007.11.18
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▼史劇のバラ3(ヘンリー4世)男性をバラになぞらえたのは珍しいと書きましたが、ジョン王から200年ほど後の時代の史劇『ヘンリー4世』にも男性をバラにたとえた台詞が出てきます。なんと今度は、れっきとした王がバラなんです。何か理由がありそうですね。その台詞を見てみましょう。HOTSPUR Shall it for shame be spoken in these days,Or fill up chronicles in time to come,That men of your nobility and powerDid gage them both in an unjust behalf,As both of you--God pardon it!--have done,To put down Richard, that sweet lovely rose,And plant this thorn, this canker, Bolingbroke?ホットスパー高貴にして力のあるあなた方が、その名誉と権力を不正のために質に入れるなんてことは、現世(うつしよ)の恥として語られ、あるいは後世まで記録として残る恥辱となるのではないですか? あなた方がやったことは、ああ神よ、赦したまえ! あの可憐でいじらしいバラであるリチャードを引っこ抜き、あの棘でありイバラであるボリングブロクを植え付けてしまったことにほかならない。 1行目のfor shameは「恥として」というような意味でしょうか。fill up chronicleで歴史に刻む。いずれも3行目のthat以下のことを指して「恥辱」であると言っています。4行目のgageは「抵当に入れる」という動詞で、themはyour nobility and powerのことですね。6行目のput downは高い地位から引きずりおろすこと。ここでは次の行のplant(植える)caker(イバラ)など植物に対応させて、引っこ抜くと訳しました。 イバラにたとえられているボリングブロクとは、ヘンリー4世のことです。ちなみにこのように語るホットスパーとは、ノーサムバランド伯の息子ヘンリー・パーシーのあだ名で、「熱い拍車」つまり「激しやすい人」という意味です。現王のヘンリー4世をイバラにたとえるとは、尋常ではありませんね。それもそのはず、ホットスパーらパーシー一族は後に、反乱軍を率いて王に戦いを挑みます。なぜホットスパーがそれほど王を憎むかというと、ヘンリー4世がリチャード2世から王位を継承する際、ヘンリー4世を支持したにもかかわらず、パーシー一族を冷遇したからなんですね。かわいがっていたはずのバラに棘で刺されたようなものでしょうか。前王リチャード2世を可憐なバラにたとえたことにも理由があります。リチャード2世は若くして父や兄を失ったことなどから、なんと10歳で王位に就きました。ひ弱な王の誕生ですね。その幼い王に代わって政治の実権を実質的に握っていたのが、リチャード2世の叔父であるジョン・オブ・ゴーントでした。彼は王位にも野心を持っていたことから、リチャード2世は後に親政を行うことができるようになると、ジョン・オブ・ゴーントとの対決色を強めます。そしてジョン・オブ・ゴーントが死ぬと、その子であるヘンリー・ボリンブロクの追放と領地の没収を命じます。そう、このヘンリーこそ、後のヘンリー4世ですね。追放を命じられたヘンリーは反旗を翻し、挙兵。アイルランド遠征から帰る途中だったリチャード2世を捕らえ、ロンドン塔に幽閉、自らは王に即位します。王位を略奪された、あわれなリチャード2世は、身柄をあちこちに移された挙句、幽閉されたまま餓死させられたと言われています。33歳でした。いかにも華奢ではかないバラのような人生でしたね。実際にリチャード2世の肖像画を見ると、弱々しい、今にも折れてしまいそうなバラのように描かれていました。シェイクスピアの『ヘンリー4世』には、第一部と第二部がありますが、第二部にもバラが出てきます。それはまた、明日のブログでご紹介いたします。(続く)
2007.11.17
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▼史劇のバラ2(ジョン王2)『ジョン王』ではジョン王の存在感はあまりありませんが、私生児フィリップとアーサーの母コンスタンスは実に個性のある、ある意味魅力的な人物として描かれています。そのコンスタンスがまだ幼さの残るアーサーのことをバラにたとえる場面があるんですね。これまで女性をバラになぞらえるケースは多々ありましたが、まだ少年とはいえ男性がバラと形容されるのは非常に珍しいですね。その場面を見てみましょう。ARTHUR I do beseech you, madam, be content.アーサーお願いです、母上。堪(こら)えてください。beseechはpleaseと同じでしたね。contentは「満足して」という形容詞ですが、十分に欲望を満足させるというsatisfyと違って、十分とまではいかなくとも、我慢できるという点までもっていくという意味が込められています。ここでは「堪(こら)えて」と訳しました。何を「堪えてください」と言っているかというと、アーサーを王にしようと戦っていたはずのフランス王フィリップ2世がジョン王と和睦を結ぶという話を、母のコンスタンスが聞いて激怒しているからです。和睦を結ぶということは、ジョンをイングランドの王と認めるようなもの。アーサーの王の芽はなくなってしまいます。コンスタンスは半狂乱のようになって嘆きます。それを見かねたアーサーが「堪えてください」と、思わず母親に声をかけたんですね。これに対して母コンスタンスは次のように答えます(長いので二つに分けます)。CONSTANCE If thou, that bid'st me be content, wert grim,Ugly and slanderous to thy mother's womb,Full of unpleasing blots and sightless stains,Lame, foolish, crooked, swart, prodigious,Patch'd with foul moles and eye-offending marks,I would not care, I then would be content,For then I should not love thee, no, nor thouBecome thy great birth nor deserve a crown.コンスタンス私に堪えてくださいと言う、そのお前が、生んだ母親にとっても気持ち悪く、醜く、性悪であったならば。不快なしみや目に見えない汚ればかりで、手足が不自由で、頭が悪く、背中が曲がって、皮膚が黒く、馬鹿でかくて、汚いイボやひどいあざだらけであったならば、お前をこれほど愛することもないし、お前も高貴な生まれとは言えず、王にふさわしくないことになりますから、何も気にならないし、堪えることもできるでしょう。一行目のbid'st はbidの、 wertは wereの二人称単数形です。二行目のto thy mother's wombは直訳すると、「お前の母親の子宮にとって」ですが、「生んだ母親にとって」と訳しました。もし、お前が醜く、王になるべき器でなければ、こんなにも悩まないだろうとここでは言っていますね。But thou art fair, and at thy birth, dear boy,Nature and Fortune join'd to make thee great:Of Nature's gifts thou mayst with lilies boast,And with the half-blown rose. But Fortune, O,She is corrupted, changed and won from thee;She adulterates hourly with thine uncle John,And with her golden hand hath pluck'd on FranceTo tread down fair respect of sovereignty,And made his majesty the bawd to theirs.France is a bawd to Fortune and King John,That strumpet Fortune, that usurping John!しかしお前は美しく、生まれたときから「自然」と「運命」が合体して、お前を偉大にしたのです、かわいいわが子よ。咲き誇っているユリや咲きつつあるバラの美しさに匹敵するものを「自然」がお前に与えたのです。しかし「運命」は、ああ、運命の女神は腐敗し、心変わりし、お前から勝利を取り上げました。あの女は一時間ごとにお前の叔父のジョンと姦通し、金ぴかの手でフランスを引っこ抜き、国王が持つ統治権の威厳を踏みにじり、フランス王を売春宿の女将に貶(おとし)めました。フランスは「運命」とジョン王に売春宿を提供したのです。あの売春婦の女神と王権強奪者のジョンに。NatureとFortuneが擬人化され、それぞれが大文字になっていますね。三行目はmayst(mayの二人称単数形)の後にbeを補ってwithに繋げます。この場合のwithは「対抗して」の意味があると思います。その前のof nature’s giftsは「自然の贈り物によって」というような意味になります。五行目のsheはもちろんFortuneのことを指していますね。コンスタンスの言葉は激しいですね。このことからも、いかにアーサーを溺愛しているかわかります。しかし、バラの美しさにもたとえられる「わが子アーサー」は、その後ジョン王の囚われの身となり、城から逃げる途中の「不慮の事故」(ほとんど自殺のようなものですが)で亡くなります。このアーサーの死をめぐってイギリス側からフランス側への離反貴族が出て、戦況は一時フランス側の優勢で推移しますが、離反者が再びイギリス側に付くと今度はイギリスが優勢となります。その戦いの最中にジョン王は毒殺され、ジョン王の息子ヘンリー王子が次の王となることが決まり、劇は終わります。史実はデフォルメされ、単純化されていますが、イングランド王座をめぐる骨肉の争いを生々しく描いたという点では、うまくできているのではないでしょうか。領土の支配と身内の権力争いに明け暮れ、都合が悪くなると人のせいにするジョン王や、法王の顔色をうかがいながらコロッと態度を変えるフランス王フィリップ2世を見ていると、悲劇的色彩の強い史劇でありながら、喜劇のようにも思えてきます。史劇は喜劇よりも奇(喜)なり、ということでしょうか。
2007.11.16
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▼史劇のバラ1(ジョン王)ばら戦争で紹介した『ヘンリー6世』もそうですが、シェイクスピアは史劇も多く書いています。当然、『ヘンリー6世』の台詞にはバラがたくさん登場しますが、他の史劇にもそれに劣らずバラが出てきます。まずは『ジョン王』です。そう、世界史で勉強しましたね。マグナ・カルタという特許状を貴族・豪族たちに与えたことで知られる、12~13世紀に実在したイングランド王です。マグナ・カルタは、国王権の乱用に対する制限や人民の権利と自由の保証を規定した憲法のようなものです。貴族・豪族たちに強制されて署名させられたとはいえ、当時としては画期的なことでした。しかし、そのような“業績”にもかかわらず、ジョン王はイギリス史上最悪の国王と言われています。それはヨーロッパ大陸の領土をことごとく失ったり、教皇に屈服したり、国内諸侯の反乱を招いたりして、軍事、外交政策で数多くの失策をしたからです。シェイクスピアの『ジョン王』は史実を基にして書かれていますが、当然台詞は創作されており、史実も微妙に変更されています。それでも、ジョン王の本質を知るためには、貴重な劇でもあるわけです。ジョン王は、ヘンリー2世の末子で父親の寵愛を受けて育ちましたが、当時ヨーロッパ大陸にあったイングランドの領土はすべて兄たちに分け与えられていたため、ジョンは父から「Lackland」(今風に言うと「土地なし王子」)と呼ばれていました。本来なら「土地なし王子」が王になる可能性は少なかったのですが、兄のリチャード1世(獅子心王)が十字軍遠征の帰途、ドイツで捕虜になったと聞くと、フランス王フィリップ2世と組んで兄の領土の分割を企てるなど王位後継者として台頭します。そして1199年、リチャード1世が戦場で死ぬと、リチャード1世が後継者に指名していた甥のアーサーを押しのけて、王位に就きます。一度は手を組んだフランス王フィリップ2世は、ジョンではなくアーサーを支持していましたが、ジョンから金銭を献納されたことからいったんは矛先を収めます。ところがジョン王の結婚をめぐって再び対立が激化、両国は戦争に突入します。シェイクスピアの劇は、この戦争突入を決断する場面から始まります。劇中では、アーサーを正統な王として擁立したフランス王フィリップ2世がジョン王に王位を明け渡せと迫ったので、ジョン王がフランスへ進軍することになっています。結構、単純化していますね。さて、『ジョン王』のバラですが、獅子心王リチャード1世の落胤「私生児フィリップ」の台詞に出てきます。もちろんDNA検査などできない時代のことですから、あくまでも「申告制」なのですが、獅子心王そっくりなのでジョン王らは「間違いない」と断定します。しかし、私生児であると認めたら、「育ての親」であるサー・ロバートが残してくれた土地の相続をあきらめ、弟に譲らなければなりません。土地持ちの領主を選ぶか、それとも獅子心王の落胤として、領地は無くとも貴族として尊敬されたいか、とジョン王の母后に問われたときに私生児フィリップは答えます。BASTARD Madam, an if my brother had my shape,And I had his, sir Robert's his, like him;And if my legs were two such riding-rods,My arms such eel-skins stuff'd, my face so thinThat in mine ear I durst not stick a roseLest men should say 'Look, where three-farthings goes!'And, to his shape, were heir to all this land,Would I might never stir from off this place,I would give it every foot to have this face;I would not be sir Nob in any case.私生児(フィリップ)御母后さま、弟がもし私の背格好で、私が弟の背格好、つまりサー・ロバートの背格好であったとしても。そして、私の足があのような乗馬用の鞭みたいで、腕があのようにウナギの皮で詰め物をしたようになっていたとしても。それから私の頬があのようにやせこけていて、「見ろ、あそこに三文銅貨がいるぞ!」と言われないかと心配して、耳の穴にバラをあえて突っ込みたくなったとしても。さらには、弟の背格好であれば、すべての領地を相続することができるとしてもです。私はこの場所から決して動かないでしょう。この私の顔を手放さないために、立ち往生したっていいぐらいです。いずれにせよ、サー・ロバートになるなんて、真っ平ごめんです。1行目のan ifはifと同じで、とくにanに意味はありません。anをつけたほうが語呂がいいのでしょうね。shapeは容姿とも訳せますが、ここでは顔の形を除いた姿、つまり背格好のことを言っています。5行目のdurstはdare(あえて~する)の過去形。6行目のfarthingsは英国貨幣の中で最低額の青銅貨です。三文銅貨のようにみすぼらしい、ということを言っているのでしょう。耳にバラを突っ込みたくなるとは、ずいぶん変わった表現をしますね。8行目のwould I mightのwouldは願望を表すwouldで「~だったらと思う」とか「~と欲する」と訳します。最後の行のsir Nobのnobには、家長という意味もあります。大文字なっているということは、ロバート家の家長を指しますね。こうして私生児フィリップは財産を捨てて弟に領地を譲り、ジョン王に忠誠を誓った家来となります。この場面でのバラには、それほど意味はありませんが、この台詞からもわかるように私生児フィリップの言葉使いは巧みで、その道化のようなキャラクターと相まって、すぐに観客を魅了します。一方、主人公のはずのジョン王は、パッとしません。大事が起こるたびに、あたふたと右往左往するばかり。キャラクター的にはむしろ、アーサーの母コンスタンスのほうが印象的に描かれています。そのコンスタンスの台詞にもバラが登場するのですが、それは明日のブログで紹介します。
2007.11.15
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▼高尾山の紅葉昨日は天気も良かったでの、今シーズン初めての紅葉狩りに行きました。今日はその写真を紹介します。ということで、薔薇シリーズは一回お休みです。出かけたのは、いつもの奥高尾。まだそれほど紅葉が進んでいません。緑のモミジ。紅葉でなくても、美しいですね。オレンジ色になったモミジもあります。どちらもイロハモミジだと思いますが、日当たりのいい場所にあるモミジのほうが紅葉が進んでいます。イロハモミジの謂れはご存知だと思いますが、5~7つある裂片(葉が分かれて人の指のようになった部分の一つ一つ)を「いろはにほへと」と数えたことに由来しますね。真っ赤になったもみじもチラホラ見られます。奥高尾の紅葉台です。紅葉の名所ですね。ここから見る富士山も綺麗です。昨日は澄み切っていたおかげで、富士山が大きく見えました。紅葉台近くのススキ。さすがに穂が少なくなっていますね。高尾登山口から6キロ強。ようやく小仏城山(670メートル)に到着しました。私の足でも上りは1時間40分ほどかかります。下りは1時間20分ほどですから、平均時速4キロです。上の写真は、城山山頂付近の芝生の広場です。そこから見た富士山方面の風景。いつものように、この広場でお弁当を食べた後、お昼寝します。そのときに見た空。空を眺めるのが、私の仕事のようなものです。これは冗談で撮影した私の靴。靴を脱いで、すっかりリラックスしています。8月に紅葉していたモミジ君も再び紅葉しておりました。これも早々と一度紅葉してしまったせいでしょうか、葉が少ないように思えました。昨日は紅葉台から一丁平にかけて、森林整備の一環で間伐した杉をヘリコプターで下ろす作業をしていました。そのヘリコプターです。かなりうるさかったです。稲荷山から見た八王子方面の景色。最後は麓で見つけた、グラデーションが綺麗だった紅葉です。明日は薔薇シリーズに戻ります。
2007.11.14
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▼喜劇のバラ9(ウィンザーの陽気な女房たち)シェイクスピアの「喜劇のバラ」も今日が最後。その最後に私が選んだのは『ウィンザーの陽気な女房たち』です。この作品はシェイクスピアが書いた喜劇の中でも傑作であるとされています。ただし、バラは一箇所だけ。物語の主流とはほとんど関係のない場面で、ウェールズ人の牧師エヴァンズが歌う詩の中で出てきます。ひょんなことから医者のキーズと決闘することになったエヴァンズが、決闘前の緊張を紛らわすために歌うんですね。To shallow rivers, to whose falls Melodious birds sing madrigals; There will we make our peds of roses, And a thousand fragrant posies.川の浅瀬へ、その流れに向かって、美しい声の鳥が恋歌をさえずるそこで私たちは、バラの花壇と香りのよい千の花咲く園を作ろう1行目のfalls(滝)は「落差」という意味から流れと訳しました。2行目のmadrigalsは恋歌を歌った叙情短詩のこと。三行目のpedsはbeds(花壇)の間違いです。実はエヴァンズ牧師はものすごく訛っているんですね。だからbedsがpedsになってしまいます。最初に登場した時から、発音の違いから、トンチンカンなことばかり言っています。さらに、うろ覚えで歌っているためか、オリジナルな歌とは微妙に違っています。オリジナルは次のようになっています。By shallow rivers, to whose fallsMelodious birds sing madrigals.And I will make thee beds of roses,And a thousand fragrant posies;一行目は「川の浅瀬へ」ではなく「川の浅瀬のそば」になっています。三行目は「私たちが花壇を作る」ではなく「私があなたのために花壇を作る」が正しいんですね。まあ、あとは大体同じですね。この詩はクリストファ・マーロウの『情熱的な羊飼いの恋の歌』の一節です。マーロウはエリザベス朝演劇の基礎を築いた劇作家の一人。シェイクスピアと同年(1564年)の生まれですが、シェイクスピアよりも若くして人気作家となり、シェイクスピアが劇作を始めた年(1593年)に死んでいます。この「偶然の一致」と、語彙や用語の使い方が似ているなどの理由から、マーロウは実は死んでおらず、何か理由があってシェイクスピアと名前を変えなければならなかったのだ、という説もあるんですね。確かにマーロウの最期には、謎があります。1593年5月30日、マーロウはロンドン近郊の居酒屋で起きた喧嘩に巻き込まれてナイフが刺さり、不慮の死を遂げたとされています。当局はこれを単なる事故(過失)として処理しましたが、どうやら今では、謀殺だったのではないかとの見方が有力になっているそうです。なぜ、マーロウの口を封じなければならなかったか。それが謎なんですね。政治活動や諜報活動にかかわっていたため、殺されたのかもしれません。無神論者のグループとのかかわりから殺されたとの見方もあるようです。しかし、シェイクスピア=マーロウ説を唱える人たちは、居酒屋でのマーロウの死は偽装であったと信じています。無神論者の嫌疑をかけられたマーロウが偽装喧嘩殺人事件をでっち上げ、自分が死んだことにして当局の追及を逃れ、シェイクスピアという別人に成りすまして、創作活動を続けたというんですね。もっとも、シェイクスピア別人説はほかにもあり、その候補として哲学者のフランシス・ベーコン、第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア、外交官ヘンリー・ネヴィルらの名前が挙げられています。複数作家説もありますね。マーロウがシェイクスピアでないにしても、彼の作品がシェイクスピアに大きな影響を与えたことは確かなことのようです。ところで、ウェールズ訛りの愛すべき牧師エヴァンズの運命ですが、それは喜劇ですから、決闘で死ぬなんてはずはありませんね。物語の最後まで、cheeseをseese、butterをputterと発音するなど、その訛りを武器にして、喜劇を盛り上げておりました。
2007.11.13
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▼喜劇のバラ8(終わりよければすべてよし3)ベッド・トリックでまんまとバートラムをだまして、同衾することに成功したヘレナ。その場面は、残念ながら映倫に引っかかるので(笑)、さすがのシェイクスピアも描写しておりません。だけど次のヘレナの会話により、計画が首尾よく進んだことがわかるんですね。HELENABut, O strange men!That can such sweet use make of what they hate,When saucy trusting of the cozen'd thoughtsDefiles the pitchy night: so lust doth playWith what it loathes for that which is away.ヘレナしかし、男とはなんと不思議な生き物でしょう!あんなに憎んでいた者を、こんなにかわいがることができるんですから。だまされた頭のいかがわしい思い込みが真っ暗な闇夜をさらに暗くしているときは、とくにそうね。欲望はそのように、いないと思っている者の代わりに、もっとも嫌いなものと戯れるのです。一行目のO strange men!は、シェイクスピアのロマンス劇『テンペスト(大嵐)』で、生まれてからずっと孤島で父や精霊と暮らしていたミランダが初めて大勢の人間を見たときに発する「O brave new world(素晴らしき新世界!)」を想起させる言葉ですね。二行目は順番が入れ替わっていますが、(men) that can make sweet use of what they hateとなります。直訳すると、「憎んでいるものを甘美に利用する(男たち)」でしょうか。結構、きわどい表現です。三行目のsaucyはずうずうしいで、cozenedはだまされた。「だまされた思考のずうずうしい思い込み」となりますが、ここでは意訳しています。4行目のdefileは「よごす」「汚くする」で、「純潔を奪う」という意味もあります。次のpitchyは真っ暗な。真っ暗な闇夜を汚すとどうなるんでしょうね。一応、「真っ暗闇をさらに暗くする」と訳しました。男はかくも単純に、欲望に屈するのでしょうね。男をだますには、少しの闇夜があれば十分かもしれません。この台詞のすぐ後に、ヘレナはバラに言及します。直接、roseという言葉は出てきませんが、brier(野バラ、いばら)という語が出てきます。これが、ダイアナが先に言及したバラと呼応していることはすぐにわかります。ヘレナはダイアナにこう言います。HELENA But with the word the time will bring on summer,When briers shall have leaves as well as thorns,And be as sweet as sharp. We must away;Our wagon is prepared, and time revives us:All's well that ends well; still the fine's the crown;Whate'er the course, the end is the renown.しかし、こう言っているうちに、時は夏になるでしょう。野バラは棘のほかに青々とした葉を茂らせて、痛いだけでなく、美しくもなるのです。さあ、行かなければ。馬車の用意はできています。時が私たちを生まれ変わらせます。終わりよければすべてよし。終わりこそ、勝利の王冠。どのような道をたどろうとも、終わりが名声を決めるのです。ここでタイトル「終わりよければすべてよし」が台詞の中に出てきますね。一行目のbring onはもたらす。三行目のI must awayはmustの後のgoが省略されています。四行目のfineは「終わり」を意味します。ヘレナはたくましいですね。敵(?)ながら天晴れです。花を手折られて棘だけ(傷だらけ)になったバラも、夏になれば青々とした葉を茂らせてよみがえると、高らかに復活を宣言しています。「棘だけになったバラを見て、あざけるでしょ」と、先にダイアナがバートラムに言った台詞を受けていますね。指輪と妊娠の可能性は手に入れましたが、へレナにはまだやるべきことは残っています。ヘレナはすでに、自分が旅先で死んだといううわさを流して、みなをだましています。バートラムを油断させ、フランスに帰らせるためですね。嫌いな妻が死んだとわかれば、バートラムの好き放題です。フランスに戻ったバートラムは、貴族の娘との結婚を王に認めてもらおうとします。イタリアでダイアナを口説いておきながら、どうしようもない女たらしです。しかし、ヘレナのもう一つの仕掛けがここで威力を発揮します。バートラムと同衾した際、王からもらった指輪をバートラムに渡していたんですね。バートラムがその指輪を持っているのを見つけた王は、バートラムがヘレナを殺して、指輪を奪ったのではないかと疑い、バートラムを投獄します。そこへ登場するのが、ヘレナの作戦に協力して、「かわいそうな女」を演じるダイアナです。ダイアナはバートラムを婚約不履行で訴えます。婚約不履行! ああ、ここでも富山支局時代のある先輩記者の記憶がよみがえりますが、もう脱線いたしません。事情聴取のため再び王の前に呼び出されたバートラムは、ダイアナのことを「駐屯地に出入りする売春婦」だと侮辱したうえで、問題の指輪はダイアナからもらったものであると主張します。これに対してダイアナは、怒りをこらえながら、逆にバートラムからもらった先祖伝来の指輪を証拠に突き出します。窮地に立たされるバートラム。ところが、ダイアナが「ヘレナの指輪」を自分がバートラムに渡したものであると証言したことから、今度はダイアナに指輪を強奪した疑いがかけられ、投獄されそうになります。さあ、大変! でも大丈夫です。ここで、死んだはずのヘレナが妊婦姿で登場、みなが驚く中、すべてのトリックを明かします。その話を聞いて“改悛”したバートラムは、今後はヘレナを妻として永久に愛しますと誓約して、物語は終わります。ふ~、やれやれですね。これまで散々誓約を破ってきたバートラムがそのような約束を守れるとは到底思えません。王による「終わりよければすべてよし」の口上とは裏腹に、執念深いヘレナと浮気もののバートラムの波乱の、そして泥沼の結婚生活は、終わりどころかまだ始まってもいないのではないでしょうか。まあ、これも「若気の至り」というやつですかね。そんな二人のために、今日の写真は「いばらの道」です。
2007.11.12
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▼喜劇のバラ7(終わりよければすべてよし2)バートラムを追ってパリに旅立ったヘレナは、とにかく破天荒な“活躍”を見せます。病気で死にそうだった王を秘伝の薬で救ったヘレナは、バートラムと結婚することを王に認めさせます。思いを遂げるためには、最高権力すら利用しようというのですから、凄い執念です。王の命令とあってはボートラムも断れません。しぶしぶ結婚を承諾するのですが、納得できないバートラムはヘレナとの同衾を拒んだうえに「私がはめている指輪を手に入れ、私の子供を宿したら、私を夫と呼ぶがいい。ただし、そのようなことは絶対に起きないと言っておく」という書き置きを残して、イタリアの戦場へと赴いてしまいます。嫌いな妻と一緒に暮らすぐらいなら、外国の戦場で戦ったほうがましだというのです。これもひどい話です。一緒に寝ようとしない男の子供を宿すって、どうやって? ありえないですよね。そもそもバートラムがヘレナを好きになれない理由は、ヘレナが貴族の生まれではなく、貧乏医師の娘だったから。つまりバートラムは、偏屈な身分差別主義者です。そんな男を好きになったほうも好きになったほうですが、これも若さゆえなんでしょうか。あばたもえくぼになってしまうんですね。それでも、ヘレナはへこたれません。夫のバートラムをイタリアへと追っていきます。そのイタリアで知ったのは、バートラムが地元の娘に言い寄って、その娘の処女を奪おうとしているという現実でした。「私という妻がありながら、なんという破廉恥」。ヘレナは一計を案じます。その娘に成り代わって、バートラムが拒む同衾を成し遂げてしまおうというんですね。いわゆる「ベッド・トリック」というやつです。ヘレナはそのダイアナという娘に、バートラムの求愛を受け入れる返事をさせます。そのときのバートラムとダイアナのやりとりの中で、バラと棘の話が出てきます。BERTRAM No more o' that;I prithee, do not strive against my vows:I was compell'd to her; but I love theeBy love's own sweet constraint, and will for everDo thee all rights of service.バートラムその話はもうよしてくれ。どうか、私に誓いを破らせるようなことは言わないでおくれ。私は無理やりあの女と結婚をさせられたんだ。だけどあなたは違う。愛さずにいられないから、あなたを愛するんだ。いつまでも、あなたのためなら、どんなことでもいたしましょう。DIANA Ay, so you serve usTill we serve you; but when you have our roses,You barely leave our thorns to prick ourselvesAnd mock us with our bareness.ダイアナそうでしょうとも。私たちがあなたの役に立っている間は、何でもしてくれるのでしょうね。だけど、私たちのバラの花を摘んでしまうと、わが身を刺す棘だけとなったバラを見て、色香のなくなった私たちをあなたはあざけるのです。バートラムの台詞の一行目のo’はofの略でno more of that、「それはもう十分だ」となります。二行目のpritheeはpleaseと同じことです。strive agasinst~は、「~に逆らって争う」という意味です。「誓いを破らせるようなことを言う(言わない)」と意訳しました。4行目のBy love's own sweet constraintは、直訳すると「愛自身の甘い束縛によって」、意訳すると「愛さずにいられないから」愛するとなるでしょうか。よく言いますよね。ダイアナの台詞の一行目のayはyesと同じ。ここでは皮肉っぽく、「そうでしょうね」と言っています。二行目のhave our rosesは、婉曲な言い方をしていますが、直接的に言うと、処女を奪うことを指していますね。きわどい話をうまくバラにたとえています。このような会話を交わした後、ダイアナはヘレナの作戦通り、バートラムの指輪と引き換えに夜の逢瀬を約束します。バートラムはダイアナをものにしたいばっかりに、先祖伝来の大事な指輪をダイアナに渡します。「弱きもの、汝の名は男」ですね。ヘレナにしてみれば、あとは夜陰にまぎれてダイアナのベッドに身代わりとして入り込み、バートラムの子を宿すだけ。しかし、一夜の契りで、妊娠しなければなりません。一か八かの大勝負。現代のできちゃった婚を想像してしまいますが、男性としては女性の大博打にドキッとするでしょうね。別に身に覚えがあるわけではありませんよ。あれは私の新人記者時代、つまり富山支局時代の話です。イニシャルすら明かすことはできませんが、他社の新人記者で同じような境遇に立たされた男性がおりました。別れ話を切り出したら、どういうわけか交わってしまい、責任を取ってと迫られたそうです。幸か不幸か妊娠しなかったので結婚しなかったとか。他人が聞けば笑い話でも、当事者にしては大問題。顔が真っ青になっておりました。シェイクスピアの毒のせいでずいぶん脱線しましたが、結論を先に言うとヘレナの作戦は成功し、できちゃいます。でも、その前にヘレナがバラの話を持ち出す場面がありますので、明日はそれを説明して、『終わりよければすべてよし』を終わらせようと思います。(続く)
2007.11.11
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▼喜劇のバラ6(終わりよければすべてよし)一応ハッピーエンドらしいので喜劇に分類されますが、でもちょっと違うよなと思ってしまうシェイクスピアの劇に「ダーク・コメディー」、もしくは問題劇といわれる作品があります。その一つが『終わりよければすべてよし』です。終わりがすべてよくても、喜劇とは言えないんですね。主人公のヘレナにとっては、、数々の困難を乗り越え、思いを寄せる貴族バートラムとの結婚という希望がかなって、めでたしめでたしです。ところが、好きでもないヘレナと無理やり結婚させられ、逃げても逃げても後をつけられるバートラムにとっては、恐怖のストーカー事件みたいなものでしょうか。バートラムは執拗に追跡するヘレナの策略にかかり、最後は王の前でヘレナを妻として愛することを誓わされます。そこで王が「終わりよければすべてよし」みたいな口上を述べ、観客に拍手を求めながら幕が下ります。ちょっと強引ですよね。この中途半端な、割り切れない結末と、身分差別や女性差別、戦争といった社会問題を取り上げていることから、問題劇とも分類されるわけです。問題劇ですから、出てくるバラにも棘があります。バートラムの母であるロシリオン伯爵夫人が、養子にもらったヘレナが自分の息子に恋をしていると知って漏らす台詞です。COUNTESS: Even so it was with me when I was young: If ever we are nature's, these are ours; this thorn Doth to our rose of youth rightly belong; Our blood to us, this to our blood is born; It is the show and seal of nature's truth, Where love's strong passion is impress'd in youth: By our remembrances of days foregone, Such were our faults, or then we thought them none.伯爵夫人:私も若いころはそうでした。人間ならば、誰もがそうなります。この恋という苦い棘は、若いバラには付き物なのです。私たちの血のようなもの。血があれば、この棘も生まれます。恋の激しい情熱が若い心に芽生えたときは、棘は自然の理の現れであり、証拠でもあります。昔を思い出すと、そのような過ちはいくつもありました。そのときは過ちであるとも思っていませんでした。二行目のnature’sは「自然の(子)」ですが、「人間として生まれたならば」というように訳しました。this thornには恋という意味はありません。でも、前後の文脈から恋の苦さや苦しさを指していることは明白ですね。dothはdoの三人称単数現在。二行目から三行目を普通の文章に直すと、This thorn rightly belongs to our rose of youth.となります。五行目のsealは「印」、「証明」「証拠」と同じ意味です。6行目のimpressedは「刻印された」、つまり「生じた」と訳せます。伯爵夫人は、恋の苦悩をバラの棘にたとえ、若い恋は過ちであると言い切っていますね。若気の過ちということでしょうか。過ちなら諭すはずですが、伯爵夫人はヘレナの「過ち」を逆に応援します。息子の気持ちを考えもせずに、息子を追ってパリへ行くことを許します。これが「恐怖のストーカー事件」、失礼間違えました、「恋の大冒険」の始まりとなるわけです。その話はバラの棘の話とともに、明日ご紹介いたします。(続く)
2007.11.10
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▼喜劇のバラ5現代のフェミニストの観点からは到底受け入れることができない問題喜劇『じゃじゃ馬馴らし』の中にもバラは登場します。She looks as clear as morning roses newly washed with dew.彼女は朝露に洗われたバラのように輝いている。これだけ読むと、甘い愛の告白のような台詞ですが、実はそうではないんですね。これには裏があります。持参金目当てで、じゃじゃ馬娘カタリーナとの結婚をもくろむペトルーキオが、力ずくならぬ「口ずく」で強引に結婚を決めてしまう作戦を独白する場面なんですね。前後の台詞を紹介するとこうなります。Say that she rail; why then I'll tell her plainShe sings as sweetly as a nightingale:Say that she frown, I'll say she looks as clearAs morning roses newly wash'd with dew:Say she be mute and will not speak a word;Then I'll commend her volubility,彼女がののしり始めたとしよう。ならば私は率直にこう言おう。ナイチンゲールのように美しく歌いますね、と。彼女がしかめ面をしたならば、朝露に洗われたバラのように輝いていますね、と言おう。彼女が黙り、口をきかなくなったら、私は彼女の雄弁を褒め称えよう。ここに出てくるsay that~は「たとえば~だったら」というような意味になります。一行目のwhyは、「まあ」などと訳す間投詞。最後の行のcommendは「たたえる」、volubilityは「多弁」「おしゃべり」ですね。ペトルーキオの作戦はどうやら、カタリーナが何を言おうと、それと正反対のことを言って、強引に結婚を決めてしまおうということのようです。実際、その作戦は功を奏し、ペトルーキオはまんまとカタリーナと結婚することに成功します。ここからペトルーキオによる「じゃじゃ馬馴らし」が始まるのですが、その内容がひどいんですね。フェミニストならずとも怒りだしたくなるやり方です。食べさせない、眠らせない、着飾らせないの「3ナイ作戦」です。完全なドメスティック・バイオレンス。肉体的、精神的苦痛と同時に、夫が「黒と言ったら白でも黒」といったような洗脳も始まります。統一教会も真っ青です。そしてとうとう劇の最後には、カタリーナは「妻は常に夫に従うべきである」と演説をぶち上げるほどになってしまいます。まさに男尊女卑を掲げる、世の男どもの思う壺です。どうです、ひどい劇でしょう。この内容ではとても現代の劇場で演じることはできませんね。ところが、この一見、男尊女卑に思える「ひどい劇」も、シェイクスピアの罠かもしれないんですね。この劇の構成は実に面白く、ほとんどが劇中劇になっています。しかも「本当の劇」の部分は、最初しか出てきません。その「本当の劇」とは、次のような内容です。飲み屋の女将に追い出され、道端で寝転がっていた飲んだくれの職人スライ。そこへ領主が通りかかり、スライに悪戯をすることを思いつきます。スライが本当は領主で、これまで「眠り病」にかかって悪い夢を見ていたにすぎないのだと、だますのです。酔いから醒めたスライは、豪邸の豪華なベッドの上におり、召使にかしずかれます。目の前にあるご馳走や、召使の言葉にスライはだんだん、自分が領主である気がしてきます。もう有頂天。そこへ旅芸人の一座がやってきて、スライは初めて劇を観ることになるのですが、それがペトルーキオとカタリーナが出てくる「じゃじゃ馬馴らし」なんですね。しかし問題は、本来なら劇中劇「じゃじゃ馬馴らし」が終わったところで、再びスライが出てくる「本来の劇」に戻るはずなのですが、劇中劇の終わりがこの劇の終わりになってしまいます。スライのその後がどうなったか、観客は知らされません。もっとも劇が終わるころには、スライのことをすっかり忘れている観客も多いのではないでしょうか。ここにシェイクスピアの巧妙な仕掛けがあるのではないかと、私は思います。つまり、男尊女卑の「じゃじゃ馬馴らし」のストーリーは、腕っ節の太い(?)飲み屋の女将に放り出された、か弱きスライが見る「つかの間の夢」、つまりさえない男のファンタジーのようなものなわけです。シェイクスピアはあえて、スライの物語を完結させないことで、スライと観客を「夢」の余韻に浸らせたことになります。酔っ払いがいきなり領主になるのがありえないのと同様に、尻に敷かれている夫が妻を尻に敷くことなどありえない、ということをシェイクスピアは言っているのかもしれませんね。今日はバラに、つかの間の夢でもご覧ください。
2007.11.09
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▼喜劇のバラ4-1オーランドが恋の熱病に侵されて詩を書くようになる少し前に話は戻ります。兄の謀略から逃れて、アーデンの森に迷い込んだオーランドは、空腹と疲労で死にそうな目に遭います。そのとき出会ったのが、まさに食事をしようとしていたロザリンドの父親とその仲間たちでした。このロザリンドの父こそ、現公爵に追放された前公爵で、重臣たちと一緒に森で隠居生活を送っていたのです。しかし、そんなことをオーランドは知りません。あまりのひもじさから、オーランドは彼らから食べ物を奪おうと、腰の剣を抜いて啖呵を切ります。ひもじさゆえに罪を犯す――『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンを思い起こしますね。しかし、オーランドが犯そうとしたのは強盗であり、ジャン・バルジャンの窃盗よりも重い罪です。これは大変。どちらかの側に死人が出てもおかしくないような状況です。でも、ご安心ください。これは喜劇なので、そのような血なまぐさい話にはなりません。間の抜けた善意の人たちがたくさん出てくるんですね。そうでなければ、喜劇は成り立ちません。このロザリンドの父親たちもそうでした。そんなにお腹がすいているなら、お食べなさいと、強盗に対して優しい態度で臨みます。その際、前公爵らがオーランドの境遇に同情して交わす会話に、「世界は舞台である」の有名なセリフが登場します。DUKE SENIOR Thou seest we are not all alone unhappy:This wide and universal theatrePresents more woeful pageants than the sceneWherein we play in.前公爵われわれだけが不幸であるというわけでもないようだな。この広大無辺の世界の劇場では、われわれが演じている舞台よりも悲惨なシーンが進行している。thou seeestはyou seeと同じですね。JAQUES All the world's a stage,And all the men and women merely players:They have their exits and their entrances;And one man in his time plays many parts,His acts being seven ages. At first the infant,Mewling and puking in the nurse's arms.And then the whining school-boy, with his satchelAnd shining morning face, creeping like snailUnwillingly to school. And then the lover,Sighing like furnace, with a woeful balladMade to his mistress' eyebrow. Then a soldier,Full of strange oaths and bearded like the pard,Jealous in honour, sudden and quick in quarrel,Seeking the bubble reputationEven in the cannon's mouth. And then the justice,In fair round belly with good capon lined,With eyes severe and beard of formal cut,Full of wise saws and modern instances;And so he plays his part. The sixth age shiftsInto the lean and slipper'd pantaloon,With spectacles on nose and pouch on side,His youthful hose, well saved, a world too wideFor his shrunk shank; and his big manly voice,Turning again toward childish treble, pipesAnd whistles in his sound. Last scene of all,That ends this strange eventful history,Is second childishness and mere oblivion,Sans teeth, sans eyes, sans taste, sans everything.ジェイキーズこの世界はすべて舞台である。男も女もみな、ただの役者。舞台に出たり入ったりして、出番が来ると、いくつもの役を演じる。その人生という舞台には7幕ある。第一幕は幼児。乳母の腕の中で泣いたり、ミルクを戻したり。次は駄々をこねる小学生。かばんを持って、朝日に顔を輝かせてはいるが、学校への足取りは鈍く、カタツムリのようにのろのろと歩く。第三幕は恋人役。かまどのようにため息をつき、相手の女性の眉毛がどうたらこうたらという哀れなバラードを歌う。その次は兵士だ。奇妙な雄たけびを上げ、ヒョウのような口髭を生やし、面子を気にして、喧嘩っ早い。あぶくのような名誉のためなら、大砲の筒口へも突っ込んでいく。次に登場するのは、裁判官である。賄賂に鶏をたんまりもらったおかげで、腹はでっぷりと膨れ、目つきは鋭い。髭は普通に刈り込んでおり、格言や判例に詳しく、その役割を演じきる。第六幕になると、スリッパを履いてとぼとぼ歩くやせこけた道化に変身する。鼻にはめがね、腰には皮袋。若いころ穿いていたタイツは、いくら保存状態がよくても、縮んだ脛には太すぎる。太くて男らしかった声も、子供のように甲高い、かすれ声に逆戻り。口笛のようにヒューヒュー鳴るばかりだ。最終幕において、この奇妙な波乱に満ちた人生を締めくくるのは、再度の幼児役と、完全なる忘却。歯も無く、目もなく、味覚もなく、すべてを忘れ去る。詳しい英語の解説はいたしません。最初の一行と最後の一行は特に有名ですね。sansはフランス語から来ていますが、withoutと同じ意味です。この冷めた見方をする、前公爵の家来であるジェイキーズは、『お気に召すまま』では、かなり超越した人物として描かれています。道化のようですが、その哲学や思考は深く、ほかの誰もかないません。人間の狩りの矢で負傷した瀕死の鹿を目の前にして、「人間はどいつもこいつも強奪者であり、暴君だ。天から与えられた場所で暮らしている動物を脅かして殺しまくる人間は最悪だ」と罵って、さめざめと泣いたりもします。権力者の側から離れて、常に弱者の側に立ち、俗世界を高みから眺めるジェイキーズ。彼が前公爵に別れを告げて退場する場面では、喜劇なのに、悲劇的な余韻すら漂ってしまうんですよね。果たして、現代においても、ジェイキーズのような判断ができる人物がどのくらいいるのかな、と考えてしまいます。
2007.11.08
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▼喜劇のバラ4今日は『お気に召すまま』に出てくるバラです。He that sweetest rose will find, must find love's prick and Rosalind.that以下は順序が逆になっていますが、sweetest rose がfindの目的格。「最愛のバラを見つける者は」という意味になりますね。prickは棘。訳はこうなります。最愛のバラを見つける者は、愛の棘とロザリンドに出会わなければならない。これだけ読んでも何のことかさっぱりわかりませんね。でも、わからなくて正解なんです。恋の熱に浮かされたオーランドのうわ言のようなものだからです。上の詩は一節にすぎませんが、このような表現が永延と続きます。ロザリンドに恋をしたオーランドにとっては、すべてがロザリンドになってしまいます。花も果実も動物も風も、あらゆる事象がロザリンドに重なってしまうんですね。一方のロザリンドは、この「熱病患者」の詩が書かれた紙がアーデンの森の木に貼り付けられていたのを見つけ、持ち帰ります。それを目ざとく見つけた道化が、その詩を読んであきれ果てます。しかも、詩の書かれた紙は森のいたる所の木に貼り付けられていたんですね。ロザリンドはやがて、その詩が自分の恋するオーランドのものであると知って、慌てます。というのも、ロザリンドはその森で、男になりきり男装して暮らしていたからです。このように男装している姿を見たらオーランドはなんと思うか、ロザリンドは心配でなりません。そして、少しでもオーランドのことを知りたくて、従妹のシーリアに彼の様子を根掘り葉掘りたずねるロザリンドの有様は、彼女もまた恋の熱病に浮かされていることを教えてくれます。バラはそのような熱病にはもってこいの道具であるかもしれません。恋の熱病に苦しむ心は、バラの棘にさされたようなもの。恋にはバラと同様に棘があるようです。感染性があるので、この二人の恋にはこれ以上触れませんが、『お気に召すまま』には、すでに紹介したように、シェイクスピアの人生観・哲学ともいえる「世界は舞台である」の名台詞が出てきますね。明日は、その場面を詳しく見ていきたいと思います。(続く)
2007.11.07
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▼喜劇のバラ3(恋の骨折り損2)ビロンに盗み聞きされているとも知らずに、王女に恋する心情を切々と詩に読む王。そこへ王の侍従ロンガビルがやってきます。王は物陰に隠れ、今度はロンガビルの恋の短歌(ソネット)を盗み聞きします。さらにそこへ、もう一人の王の侍従デュメンが登場。ロンガビルも物陰に隠れ、デュメンが恋をしていることを知ることになります。見事な4層構造をなしていますね。物陰に隠れている観察者が3人。それを見ている観客もいますから、劇場では5層構造で物語が進行するわけです。意外と宇宙の構造もこのようになっているかもしれませんね。「破約者」である王たちの恋の告白は出そろいました。そこでまず、ロンガビルがデュメンの前に現れて、「お前は誓約を破って恋をしている」となじります。そこへ王が現れ、「お前も誓約を破った」とロンガビルが恋をしていることをばらします。最後にビロンが現れ、王も恋していることを明かして得意気になります。ところがそこへビロンの恋文を持った者が現れ、4人とも恋に落ちて誓約を破ったことが判明します。でも、誓約を破った言い訳が必要ですね。そのときビロンが持ち出した言い訳は「女性の美しい目があるから詩が生まれる」「女性の目は本であり、芸術」「女性こそ学問」などとした「こじつけ」でした。ビロンの言い訳で居直った4人は、今度は協力して自分たちの恋を成就させようと、ロシア人に扮して王女らの様子を探りに行きます。しかし、その計画は筒抜けとなっており、王女たちは自分たちも仮面をして誰が誰だかわからなくした上で、王たちを軽くあしらって追い返します。そのとき、王女の側の会話の中にもバラが出てきます。王女に仕える貴族のボワイエが、王女から王たちが戻ってくるかと問われて答えます。BOYET: They will, they will, God knows, And leap for joy, though they are lame with blows: Therefore change favours; and, when they repair, Blow like sweet roses in this summer air.ボワイエ:戻ってきますとも、必ず。打撲で足を引きずっていても喜び勇んで来るでしょう。だから贈り物をお替えなさい。そして彼らが来たら、夏の風に香る甘いバラのごとく花を咲かせてあげなさい。「change favours(贈り物をお替えなさい)」とは、4人それぞれがもらっていた贈り物を取り替えて王側の4人を混乱させていたものを、元に戻すことを言っています。三行目のrepairは、ここでは「大勢で戻ってくる」という意味。最後の行のblowは二行目のblow(打撲)の駄洒落ですが、「花が咲く」と掛けています。knowsと blows、repairとairで脚韻を踏んでいますね。PRINCESS: How blow? how blow? speak to be understood.王女:花を咲かせる? 咲かせるって何を? わかるように言いなさい。BOYET: Fair ladies mask'd are roses in their bud; Dismask'd, their damask sweet commixture shown, Are angels vailing clouds, or roses blown.ボワイエ:お美しい方々が仮面を付ければ、それはまだ中身を隠したつぼみのバラのようなもの。その仮面をお外しになり、ダマスク・ローズの美しい色合いをお見せになれば、雲を分けて天から現れた天使、今を盛りと開花したバラになりましょう。それほど解説は必要ないと思いますが、三行目のvailは「下げる」「引きおろす」で、「雲を下げる」、つまり雲を分けて現れるというような意味になります。shownとblownで韻を踏んでいますね。さて、この喜劇の結末ですが、数々の誤解も解け、劇中劇を観てくつろいでいるところへ、フランス王が死去したとの報が飛び込んできます。そのため4組のカップルの結婚はお預けとなり、王女たちは求婚者に対し、喪に服している一年の間、禁欲生活を送ることを約束させてナバール国を去っていきます。今風に言うと、一年間の遠距離恋愛の始まりですね。そのときにビロンが言う台詞がこれです。That’s too long for a play.それ(一年間)は、一芝居としては長すぎる。前途多難な一年となることを暗示していますね。『恋の骨折り損』には種本はないとされていますが、登場人物のモデルは存在しました。ナバール国王アンリで、1589年にフランス国王アンリ4世になっています。実際の歴史では、王と王女のモデルと見られる女性は結婚したものの、仲たがいして別居状態が続いていたそうです。これも今流行(?)の別居結婚の走りでしょうか。最後は結婚無効の判断が下り、王は別の女性と結婚します。まあ、物語は物語、史実は史実。劇の中では幸福な未来を夢見ながら、喜劇のまま終わらせることにいたしましょう。
2007.11.06
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▼喜劇のバラ2喜劇『恋の骨折り損』にも、バラが何箇所かに出てきます。この喜劇は言葉遊びに満ちていて、ほとんどが洒落の劇のようなものです。ただひたすら言葉の面白さを楽しむ劇だとも言えるでしょう。最初にバラが出てくるのは、西南フランスの王国ナバールの王に仕える貴族ビロンが、王と言い合う場面です。なぜ言い合うかというと、学問に専念するため、三年間女性を近づけず(!)、週に一度は断食をし(!)、睡眠時間は3時間に抑える(!)とという極端な禁欲生活をすることを王が勝手に決めてしまったからなんですね。これに対して、ビロンは次のように応じます。BIRON. At Christmas I no more desire a roseThan wish a snow in May's newfangled mirth;But like of each thing that in season grows.no more~than~で「~でないのは~も同じである」というイディオムですね。mirthは浮かれ楽しむこと。五月の花を愛でる祭りの騒ぎのことを指しているのではないでしょうか。日本でいう桜の季節の花見みたいなものですね。最後の行で、each thingの前にofが付いていますが、文法的には無いほうがすっきりします。おそらくリズムの関係でofを付けたのではないかと思います。ビロン五月の花祭りの騒ぎの最中に雪が降って欲しくないように、クリスマスにバラが欲しいとは思いませんよ。私は、季節ごとに旬なものが好きなんです。学業のために三年間も「旬なもの」を手放すのはおかしいと、王に対して反論していますね。この後ビロンは、いまさら学問に専念したいと言っても手遅れだと、皮肉を込めた議論を展開します。それでも王は譲らず、三年間の禁欲をビロンら侍従にも誓約させます。ところがフランスの王女がナバール国を訪問する予定だったことをすっかり忘れていたため、大慌て。せめて宮殿には女性を近づけまいと、苦肉の策として郊外に天幕を張り、そこで王女の一行と面会することになりました。もう後はお分かりだと思いますが、王女と三人の女性侍従それぞれに、王と三人の男性侍従それぞれが恋をしてしまい、誓約そっちのけで恋の駆け引きが始まるという筋立てです。王女を恋した王が読む自作の詩にもバラが登場します。KING. [Reads] 'So sweet a kiss the golden sun gives not To those fresh morning drops upon the rose, As thy eye-beams, when their fresh rays have smote The night of dew that on my cheeks down flows; 王:(自作の詩を読む)バラの上の新鮮な朝露に黄金色の太陽がどんなに甘美な口づけをしようとも、私の頬を伝う涙のしずくの暗闇を射すあなたの目の輝きの光の心地よさにはかなわないでしょう。3年間女性を近づけまいと誓ったその舌の根が乾かぬうちに、王自らがこのていたらく。もうメロメロですね。この詩を盗み聞きしていたビロンは「それ、言ったことか」とほくそえみます。もっともそのビロンも、王女に仕えるロザラインにくびったけです。この4組の恋の行方がどうなるかは、明日に続きます。(続く)
2007.11.05
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▼喜劇のバラ1シェイクスピアの悲劇に出てくるバラは少ないですが、喜劇にはバラはたくさん登場します。その全部を取り上げることはできませんが、代表的な喜劇からいくつかのバラを紹介しようと思います。まずは『空騒ぎ』から。腹違いの兄ドン・ペドロとの争いに負けたドン・ジョンが、家来のコンラッドに愚痴る場面です。DON JOHN I had rather be a canker in a hedge thana rose in his grace, and it better fitsmy blood to be disdained of all than tofashion a carriage to rob love from any: in this, though I cannot be said to bea flattering honest man, it must not bedenied but I am a plain-dealing villain. I am trusted with a muzzle andenfranchised with a clog; thereforeI have decreed not to sing in my cage. If I had my mouth, I would bite;if I had my liberty, I would domy liking: in the meantime let me bethat I am and seek not to alter me.最初のhad ratherはよく出てくるイディオムですね。「むしろ~したいと思う」という意味です。cankerは「シャクトリムシ」あるいは「樹皮や幹を腐らせるガン腫病」。in his graceは「彼のおかげで」の意。「彼」とは腹違いの兄ドン・ペドロのことを指しています。兄に負けたジョンは半ばやけになり、バラよりも害虫のほうがいいとうそぶきます。3行目のfit my blood to~は、「~が性に合っている」ぐらいの訳でしょうか。4行目のcarriageは通常、運搬とか馬車ですが、ここでは道徳的な態度とか身のこなしという意味です。fashonは「作る」とか「こしらえる」という動詞です。4行目のrob love from~は「~から愛を奪う」。ここでは「強いて~から愛される」といった意味でしょう。8行目のmuzzleは口かせで、clogは足かせ。口かせがあるから信頼されて、足かせ付きで自由になっている、とドン・ジョンは皮肉っぽく言っていますね。10行目のdecreeは布告する。ドン・ジョンによる高らかな悪党(villain)宣言です。訳はこうなります。ドン・ジョン兄のおかげで、バラよりも生垣の害虫になりたい気分だ。無理に愛されようと体裁を繕うより、皆から蔑まれるほうが性に合っている。つまり、おべっか使いの正直者より、腹蔵のない悪人には確実になれるわけだ。口かせ付きで信用されて、足かせ付きで自由だという。ならば、かごの中では歌うまい。口かせがなければ、噛み付くぞ。自由になったら、好き放題。それはそうと、俺にかまうな、ほっておいてくれ。ドン・ジョンはこうして、改心などせず、勝手気ままな悪人のままでいると宣言をするわけですね。ところで、ドン・ジョンが使っているような「おべっか使いの正直者(善人)」「腹蔵のない悪人」のように、本来なら相矛盾する言葉を並べる表現をオクシモロン(oxymoron=矛盾語法)といいます。ギリシャ語のoxy(賢い、鋭い)と moron(愚かな、鈍い)を合成した言葉で、cruel kindness(残酷な優しさ)、sweet sorrow(甘美な悲しみ)のような表現です。『空騒ぎ』では、ほかにもpure impiety(清らかな不信仰)impious purity(よこしまな清らかさ)など多く出てきます。矛盾すると考えられるものも、実は表裏一体であることがあるんですね。さて、詳しいあらすじは省略しますが、この喜劇の中にはふたつのウソが出てきます。善意のウソと悪意のウソ。当然のことですが、ドン・ジョンがこの悪意のウソの仕掛け人です。結婚を約束したカップルであるクローディオとヒーローの仲を引き裂くため、ヒーローが浮気者であるかのように状況をでっち上げ、クローディオをまんまとだますことに成功します。善人であるがゆえに、簡単にだまされ、運命に翻弄されるひ弱なクローディオに対し、ドン・ジョンは登場場面こそ少ないですが、負けてもしたたかな「悪人」としていい味を出しています。得てして毒のないドタバタになりかねない喜劇に、実にいいスパイスを加えているんですね。ドン・ジョンなしには、いい喜劇にはなりえなかったでしょう。そう考えると、「善である悪」「悪である善」というオクシモロンが浮かんできます。善人ばかりがそろって人生というドラマが進むより、悪や障害があったほうが学びの多い良き人生になるというこの世界の法則をシェイクスピアが伝えているのではないか、とも思えてきますね。
2007.11.04
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▼麝香(じゃこう)薔薇ダマスク・ローズ(damask rose)は、『お気に召すまま』『十二夜』『冬の夜話』にも登場しますが、いずれも物語の本筋とは離れた、他愛もない掛け合いの中などで出てきますので、ここでは割愛します。やはりそれほど本筋とは関係ないのですが、『真夏の夜の夢』にはマスク・ローズ(musk rose)というバラが出てきます。muskとは麝香(ジャコウ)のこと。ジャコウバラというバラがあるんですね。調べましたが、地中海地方原産のバラの品種だということぐらいしかわかりません。ジャコウに似た濃厚な香りがするのでしょうか。そのジャコウバラ、妖精の女王タイターニアのベッドの天蓋に使われているんですね。さすがは妖精の女王様。そのタイターニアに魔法の恋薬を塗る計画を、妖精の王オーベロンが妖精のパックに語るときの台詞です。I know a bank where the wild thyme blows,Where oxlips and the nodding violet grows,Quite over-canopied with luscious woodbine,With sweet musk-roses, and with eglantine;There sleeps Titania sometime of the night,野生のタイムが咲き、桜草が咲き乱れ、スミレが風になびいている堤があるのを私は知っている。そこには甘い香りのスイカズラ、甘美なマスク・ローズ、そして野生のバラが絡み合って、まったく天蓋のようになっている場所がある。そこでタイターニアは、夜のひと時を眠るのだ。特に解説はいらないと思います。二行目のnoddingは「うなずいて」。風に吹かれてお辞儀をした様子を描写していますね。ところでこのmusk-roseですが、イギリスのバラの専門家に言わせると、シェイクスピアはバラのことをよくわかっておらず、マスク・ローズではなく、Rosa arvensisという英国原産のバラの可能性が強いという議論があるそうです。別に妖精の国の話だからいいではないかと思うのですが、専門家さんにはそうはいかないようです。blowsと grows、 woodbineと eglantineで韻を踏んでいますね。目を覚まして最初に見た者に恋をしてしまうという魔法の恋薬。目を覚ましたタイターニアは、魔法で頭をロバに変えられた職人のボトムを見て、惚れてしまいます。結局、タイターニアのことを不憫に思ったオーベロンが魔法を解き、喧嘩をしていた二人は仲直り。これに呼応して、人間界の諍いも解決して、ハッピーエンドとなることはすでに述べましたね。ジャコウバラの花言葉は、「機知に富む美しさ」と「気まぐれな愛」。魔法の薬で行き当たりばったりで恋に落ちるという美しい妖精の女王の物語に、ふさわしいといえばふさわしいバラのように思えます。
2007.11.03
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▼ダマスク・ローズシェイクスピアが書いた最後の悲劇とされる『コリオレイナス』(コリオレイナスは、プルターク『英雄伝』などに登場する紀元前のローマの武将)には、ダマスク・ローズというバラも登場します。ダマスク・ローズは、香りの強い淡紅色系のバラで、香料としてよく使われます。中東シリアの首都ダマスカスの原産で、12~13世紀の十字軍の遠征で知られるようになり、ヨーロッパ各地にもたらされました。シェイクスピアの時代には、イギリスにも定着していたことがわかりますね。劇中のダマスク・ローズは、言葉としてそれほど重要な役割を演じているわけではありませんが、表現として面白さを加味しています。(our veil'd dames)Commit the war of white and damask inTheir nicely-gawded cheeks to the wanton spoilOf Phoebus' burning kisses:(普段はベールで顔を覆っている貴婦人も)太陽の焦げ付くようなキスの気まぐれな餌食になって、その美しく紅潮した頬の白と淡紅色をごちゃごちゃにさせている。commit the warは戦争をする。何の戦争がというと、ほっぺたの白色とダマスク・ローズ色のけんかであると言います。面白い表現ですね。Nicely-gawdedはシェイクスピアの造語だと思いますが、同じ発音のgaud(けばけばしい装飾品、お祭り騒ぎ)という名詞から連想して、「美しく紅潮した」と訳しました。wantonは気まぐれな、spoilは餌食とか強奪という意味です。最後の行のPhoebusは擬人化された太陽のことですね。この言葉は、ローマの護民官ブルータス(シーザーを殺したブルータスとは違います)が、戦争で英雄となりローマ市民から熱烈に歓迎された貴族のコリオレイナスを妬んで発せられます。引用した部分は、一目でもコリオレイナスを見ようと熱狂している市民の様子を描写したものです。武功で人気が高まったコリオレイナスですが、平民を愚弄する貴族特有の傲慢な態度が災いして市民の反感を買い、英雄扱いから一転してローマからの追放処分となります。その仕打ちに対して復讐を誓ったコリオレイナスは、かつての宿敵オフィーディアスと手を組んで、ローマを攻めることを決意。ローマ市民はパニック状態に陥りますが、コリオレイナスの母親らの説得でローマとの和睦に応じます。しかし、それを裏切り行為であるとみなしたオフィーディアスの策略により、コリオレイナスが暗殺されて劇は終わります。この悲劇は、他のシェイクスピアの悲劇と比べて評価が低く、日本でもあまり上演されませんでした。ところが今年になって、蜷川幸雄演出で上演され、注目されましたね。唐沢寿明がコリオレイナスを、白石加代子がコリオレイナスの母親を演じています。シェイクスピアの作品では、コリオレイナスは母親に対する異常なほどの愛情を示す人物として描かれています。つまりマザコンですね。母親の存在なくして、息子のことは語れません。白石加代子の配役に、つい納得してしまったのは、私だけでしょうか。
2007.11.02
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▼漆黒のバラシェイクスピア悲劇に出てくるバラを続けて取り上げようと思ったのですが、実は4大悲劇にはほとんどバラは出てきません。すでに紹介しましたが、『オセロ』と『ハムレット』に1,2箇所出てきますが、私が調べたかぎり、『マクベス』と『リア王』にはまったくバラは登場しないのですね。悲劇の緊張感の中にはバラという小道具すら不要だということでしょうか。今日は薔薇シリーズからは少し脱線しますが、物語自体が血塗られた漆黒のバラのようなものであるということで(かなりこじつけですが)、ハムレットの独白「生きるべきか死ぬべきか」と同じくらい有名な、マクベスのニヒリスティックな独白を紹介しましょう。これがそのマクベスの台詞です。妻の訃報を知り、いよいよ追い詰められたマクベスが語ります。Macbeth:To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,Creeps in this petty pace from day to day,To the last syllable of recorded time;And all our yesterdays have lighted foolsThe way to dusty death. Out, out, brief candle!Life's but a walking shadow, a poor player,That struts and frets his hour upon the stage,And then is heard no more. It is a taleTold by an idiot, full of sound and fury,Signifying nothing.マクベス:明日が来て、また明日が来て、そして再び明日が来る。時はこのようにのろのろと、来る日も来る日も這うように行進を続ける。それは運命に記された時の最後の瞬間まで続く。昨日という昨日はすべて、塵にまみれた死への道を愚か者たちのために照らしていたのだ。消えろ、消えてしまえ、束の間のろうそくの炎よ!人の命は歩き回る影法師、哀れな役者だ。舞台の上では大見得を切って出番をまっとうするが、終わればそれっきりで、見向きもされない。人生は白痴が語る物語。叫び声と怒りばかりで、意味など何もありはしない。今回は訳を先に紹介しましたが、原文を詳しく見ていきましょう。creeps(這うように進む)の主語はto-morrowですね。ここでは一つ一つの擬人化された「明日」が、行進をするように毎日やってくる様子をイメージさせています。in this petty paceとは「この狭い歩幅で」という意味ですが、thisと特定しているわけですから、1行目が示している「明日」がやってくるペースで、ということになるでしょうか。私はマクベスの口調から、のろのろとしたペースであると解釈しました。3行目のto the last syllableは「最後の一句まで」。recorded timeは「記録された時」ですが、あらかじめ刻まれた運命(歴史)というような意味ではないでしょうか。4行目のlight someone ~で、「だれだれのために~を照らす」となります。ろうそくは生命の比喩ですね。『オセロ』にも出てきました。6行目のbutはonlyと同じで「~に過ぎない」と訳します。7行目strutは「気取って歩く」。fret his hourは(舞台での)出番の時間をすり減らすとか乱すという意味になります。9行目のsound and furyは「響きと怒り」ですが、ノーベル文学賞受賞米作家ウィリアム・フォークナーが書いた斬新な小説のタイトル『響きと怒り』(The Sound and The Fury)にも採用されています。いかがでしたが、マクベスの独白。残虐非道な行為をしたマクベスですが、ここまで人生を達観されると、つい感情移入してしまいます。見事としか言いようがありません。私は大学の卒業論文で、不条理演劇作家のサミュエル・ベケットについて書いたのですが、その論文にもこのマクベスの独白を引用させてもらいました。一見、何の関係もないように思われるかもしれませんが、不条理劇を突き詰めていくと、結局は「世界はすべて舞台である」というシェイクスピアの世界観にたどり着いてしまうんですね。20世紀に開花した不条理劇の源流は、このマクベスの独白から始まったと言っても過言ではないように思われます。もっとも、人生は舞台であるという思想は古くからありました。古代ローマの詩人ペトロニウス(皇帝ネロの時代に活躍した文人)の作と伝えられる次の言葉がそれです。Totus mundus agit histrionem.(世界はすべて劇場である) この言葉はシェイクスピアの劇を数多く上演してきたグローブ座の正面玄関にモットーとして掲げられているそうです。そしてシェイクスピア自身も、この言葉を彼流にアレンジした台詞を『お気に召すまま』で紹介しています。All the world's a stage,And all the men and women merely players.世界はすべて舞台である。男も女もみな、役者にすぎない。当然、これも私の卒論で引用させてもらいました。『マクベス』には、ほろ苦い思い出もあります。英国留学時代の1980年、ロンドンの劇場(オールド・ビック座)でピーター・オトゥール演じる『マクベス』の舞台を観ました。ところが、台詞と台詞の間が間延びしていて、テンポも遅く、なんとも締まらない出来栄えでした。当時の私は、ロマン・ポランスキー監督による映画『マクベス』の鬼気迫るような緊張感を期待していたので、あまりの迫力のなさにがっかりした記憶があります。実際、オトゥールの『マクベス』は新聞などでも酷評され、後で知ったのですが、「史上最悪のシェイクスピア劇」という烙印を押されたそうです。ずいぶんな言い方ですね。さて今日の薔薇ですが、黒い薔薇など存在しませんね。そこで夕闇を背景に深紅の薔薇を下から撮影して、何とかマクベスの運命を暗示する、暗い薔薇に見えるように苦心しました。なんとなく雰囲気が出ましたよね?
2007.11.01
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