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確かゲレンデの名前は藤原スキー場だったと思います。 それほど難しいコースではなく、初、中級者用のゲレンデだったでしょうか。 伯父とはお昼を一緒に食べたとき以外は別行動で、お互い勝手にスキーをして、帰るときも自分で勝手に帰るという取り決めでした。本当に勝手気ままでマイペースな伯父です。 こうして一日中滑って、ふと気づくと、リフトがもうすぐ終わりになる夕方になっていました。ゲレンデを探しても伯父の姿はありません。きっと先に帰ったわけですね。 私もリフトで上まで上がって、記憶を頼りにゲレンデの途中からバックカントリーに入って宿泊先の温泉宿に向かうことにしました。 しかしながら、ここに大きな誤算がありました。来た時の道の感じと、帰る時の道の感じというのは結構異なるんですね。高速道路の下りと上りでは、感じがまったく違うのと同じです。来たときの道を思い出すために、何度も後ろを振り返らなければなりません。 それでも勘違いは起こります。 何本もの尾根がある中で、私はきっとこの道だろうと思って降りた尾根が実は一本下(谷側)の尾根だったんですね。 それに気づいたのは、谷に降りてからでした。 もう一本上(山側)の尾根に再び登らなければならなくなりました。 大幅なタイムロスと体力の消耗です。 多分20分くらい余計に歩くことになりました。この20分というのが、結構大きな意味を持っていました。 秋だけでなく冬の日もつるべ落としです。 アッという間に、夕闇が迫ってきました。 来たときと違って、暗くなってきたため、景色の感じがますます違ってきます。明るいときは見えた目標物も、暗くなると見つけづらくなります。 加えて、道に迷ったことによって生じた20分間のロスで、体力も消耗しました。 気温も急に寒くなってきます。するとかなり心細くなってきますね。 無事に宿屋に着けるのだろうかと心配にもなります。 再び、正しいと思われる道に戻っても、温泉宿までの道程はまだあります。 ひたすら寒さと孤独と焦燥と戦いながら、自分が信じる道に向かって疲れて重い足を前へ前へと動かします。そしてようやく、遠くに温泉宿の灯が見えてきたときの安堵とその喜びようといったらなかったです。遭難は免れました。 おそらく30分で帰れるはずだった道を1時間近くかけて戻ったのではないかと思われます。伯父が心配して宿の外まで出てきていました。私が「道を一本間違えた」と説明すると、「ちゃんと覚えなけりゃ駄目じゃないか」と怒られました。 まあ、結果オーライでしたね。 で、この時の心細さとか、疲れとか、焦りとか、灯を見つけた時の喜びを作品の中に取り入れて、「冬の花」という短編小説を書き上げたわけです。 この話のどこに「冬の花」があるのかと思われるかもしれませんが、答えは温泉宿の灯です。小説では、吹雪の中、疲れて倒れそうになったときに、淡いオレンジ色の花の幻影を遠くの雪景色の中に見つけます。最後の力を振り絞って、意識が朦朧としながらもそのオレンジの花畑に向かったら、温泉宿の灯であったというプロットです。単純なプロットですが、私は同時にロマンチスト(オカルティスト?)でもありますから、ただの宿の灯の幻影にはしませんでした。救出された主人公が小屋の中で温かいスープを飲んでホッとしているときに、外の吹雪の中では本当に目には見えない霊的な花が、見える人に見えていたのだとして結んでいます。 まあ、そのようなちょっとした6600字ほどの短編でした。 (続く)
2023.02.27
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物書きの人生を歩きだした私が1974年秋に短編小説を書きはじめたことはお話ししたと思いますが、残念ながらその処女作である「秋の話」が掲載された高校の文芸誌『梢』の「第20号」が見当たりません。第21号なら手元にありますが、どこかに紛れたようです。 ただ、どのような内容だったかは覚えています。紅葉した秋の葉っぱが枯れ落ちていくだけの話なのですが、それとはわからないように、葉っぱを擬人化して人生の哲学をさせて、人間的な独白をさせます。そして最後になってようやく読者が主人公がただの葉っぱであったのだと気づくように工夫して書いた短編小説です。たぶん、オー・ヘンリーの『最後の一葉』から着想を得て書いたと思います。5000字ほどの短編だったでしょうか。 いつか「第20号」が見つかったらご紹介しましょう。 私の短編小説の第二作が、一年生の冬に書いた「冬の花」です。工藤先生の現国の冬休みの宿題であったと思います。 元の原稿が返ってこなかったので、手元にはありませんが、16歳が書く短編小説の完成度としてはかなり高かったと記憶しています。何しろ、期末試験の現国の点数がそれほど良くなくても、全体では現国で5の評価をもらったくらいですからね。工藤先生も高く評価してくれたのだと思っています。 作品を簡単に説明すると、私が体験した実話をもとにして書いた小説で、冬山のスキー(今でいうバックカントリー・スキー)で遭難に近い体験をしたことを題材にして、フィクションに仕上げました。その体験とは次のようなものでした。 多分、中学2年生か3年生の冬休みのことでした。伯父と一緒に水上温泉にスキーをしに行ったときのことです。伯父の伯父は有名な社会学者の綿貫哲雄だということは以前、話したと思います。その伯父は自由放任主義で、甥っ子(私のこと)の面倒見がいいわけではありませんでした。 宿泊先の温泉からスキー場までは、いくつかの尾根を越えて歩いていかなければならないのですが、伯父はスキー場までは一緒に連れて行ってくれましたが、宿に帰る時には自分で今来た道を戻るようにとしか教えてくれません。記憶では20分以上歩くような距離だったと思います。問題は、標識も何もない、一度しか通ったことのない道なき道を、一人で勘を頼りに戻らなければならなくなったということです。 もっとも私も、方向音痴ではありませんでしたから、20分くらいの道のりなら問題ないと高を括っておりました。その思い上がりが遭難騒ぎにつながるわけです。次回はその顛末をお話ししましょう。 (続く)
2023.02.26
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昨日(24日)無事著者校正終了。後は出版社のほうで最終校正をして、印刷所に持っていくわけです。その際、最後の問い合わせが来ることが多いです。で、私が校正を終わらせた前日(23日)に何かあったかどうか、というシンクロの話ですが、今回は虹は出ませんでした。その代わり現れたのはこちら。UFO雲!?本当にそうかどうかはわかりませんが、今度の本にはUFO雲(UFOクラウド)の話もイラスト入りで出てきます。楽しいですよ!それから私の校正作業中に、我が家の梅が咲き始めたのでご紹介しておきましょう。白加賀。まだ小さい木ですが、もうすぐ満開です。お隣の枝垂れ梅もつぼみがほころびはじめ、一輪、二輪と咲き始めています。普段よりちょっと早めの開花です。
2023.02.25
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3月22日に発売予定の新刊『UFOと交信すればすべてが覚醒する』(河出書房新社)のカバー・デザインが決まりましたね。これに帯を付けたら出来上がりです。私も著者校正を明日までに終える予定です。
2023.02.23
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今日も写真ブログです。五日ほど前に東京に行ったら、桜が咲いておりました。この時期に咲いているから河津桜だと思いますが、ちょっと河津桜より白っぽい感じがしました。これから赤く染まっていくのでしょうか。いずれにしても、もう春が始まっていますね。著者校正も順調に進んでおります。
2023.02.22
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再校ゲラが到着。忙しくなるので、久しぶりにほぼ写真だけのブログです。久しぶりに新宿を訪れたら、こんなビルが建っていました。東急歌舞伎町タワー。4月14日開業だそうです。詳しくはこちら。
2023.02.21
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今日は、お昼を食べている最中に彩雲が出現。とても綺麗で驚きました。こちらです。太陽の周りも虹色になっていますね。実は、これも三月発売予定の『UFOと交信すればすべてが覚醒する』と関係しているのではないかと思っています。というのも、この本の取材で昨年12月秋山氏の事務所に取材しに行ったら、秋山氏が「前日に狐の嫁入りみたいに晴れているのに急に雨が降って虹が出た。『シュメールの最終予言』の時と同様に、この本を出すように促されているように感じる」と語っていたからです。で、明日(21日)この本の再校ゲラが午前中に届くことになっているんですね。私の所にも、「前日に虹(彩雲)」が現れたことになります。「前日に虹」でシンクロしたわけですね。最初は部分的に出ていた彩雲が、バーッと広がっていく様は本当に美しかったです。ということで、明日から最終著者校正が始まります。
2023.02.20
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「小さな家の中で思うこと」(『第二十三回作文集(昭和四十九年十月)』より) 練習に疲れて、夜家に帰るとき、誰もいない街灯だけの狭い小道のすぐ横に、小さな家を見つけることがある。その窓から発する淡いオレンジ色の光りに包み込まれるような、小さな家である。こんな寂しい道を歩いていると、その明るさが、三倍にも膨れ上がったように見えるものだ。私は、わざと歩調をゆるめ、聞こえてくる小さな笑い声を聞きながら、そっとのぞきこみ、その家の光った窓ガラスを見て、その色の妙におちついた輝きに心を触れるのである。そして、私は自分がその小さな家の一員にでもなったかのように、その家の家族の暖かそうな“幸せ”とでもいうのだろうか、それを――思い浮かべて見るのだ。私は時々、こんな出会いに魅せられると、家というものは、この世界で一番あたたかいものに見えて仕方がない。 私が家に帰り、その光の中で、疲れ切った足をテーブルの下になげだして、ゆっくりと食事をしていると、時々犬が吠え、家の外を誰かが歩いている足音を聞くことがある。そして、私は、そっと食べるのをやめ、犬がなきやむのを待つのである。やがてその足は、寂しい風が窓にあたり、はねかえって遠くへ行ってしまうかのように、ヒョウヒョウと誰も知らぬままに淡々と通り過ぎて行くのである。まるで何かのはかなさを教えているようでもある。果てることも知らずに、ずっと遠くへ行くのだろうか。 一日の道を歩いていると、いろいろな家に出会うことがある。朝の六時ごろだって、昼間だって、授業中だって――、私なんかはこうである。朝の掃除をしている隣のおばさんと和やかに挨拶するとき、ふとあの家で感じたようなあたたかさを感じることがあるし、昼休みの友だちとのなんでもない駄ベリの中からでも、ふとしたことから家を見つけることがあるのだ。その他にもいろいろある。そのうえ、それらはありとあらゆる家だったりする。健康な太陽が輝いているような家や、心の海の底深く、カギを沈めて、窓を開けさせないようにしている家・・・。こんな家を見たことがないだろうか。取られるものなんか、なんにもないはずなのに、固く錠をおろした家――自分だけのために、他人様がどうなろうとも考えずに、利益だけをむさぼろうとする人――こんな家は見たことがないだろうか。それでは、こんなのはどうだろう。やたらに強がりをして、自分の弱い所には、カギをかけ、友だちを高い所から見下ろそうなどと、いつも考えている家、自分の方が物知りだからと思って、それを鼻や耳や目に掛けて、“こんなものもわからん愚か者め”と、心でひそかに思いながら、他の人を教えて、自分の権力とかいうものを拡大でもしようかと考えている家、めったやたらに、星の勘定ばかりしていて、その数を書いた紙をカギのかかった引き出しの中に入れておくばかりで、全然、星のために何もしてやろうとしない家――こんな家はなかっただろうか。私はよく、そんな家に出会うのである。そして、悲しいことに自分でもそんな家になりかけてしまうことがあるのだから・・・。 だれもが持っているものの一つに家がある。家を持つことは、心の安らぎや平和という面から見ても良い事であるが、この世の中にその良い事が、いったい、いくつあるのだろうか。むしろ逆作用が多いのではないか。一人一人が心の中を見られまいと、熱心にも“見え”という壁をはり、人様がどうなろうともその壁は死の商人のように冷たい。家の中は確かにあたたかいが、家の外は、外壁だけの寂しい風のみが走る小道なのであるのだから、なんとも寂しいことではないか。 これが世界となると、数えきれない程の家があり、数えきれない程の塀がある。そして、その塀を乗り越えようとする人がいても、ずっと大変なことになり、結局それをこわすために、オーバーキルのあのどでかいものが必要になるのだから、いったい、いつになったら、この地球が、淡いオレンジ色のあたたかい家の中で、世界国民飲料でも飲みながら、ゆっくりとくつろげる日が来るのであろうか。少なくともそれが来るためには、まず、自分を見つめて、壁を築いてはいまいかと、人を傷つけていまいかと、もう一度、根本から考え直す必要があるように思うのだが、それは、われわれには無用のことだろうか。私は決してそうだとは思わない。なぜなら、大きな塀も元は小さな塀からできあがったものであるからだ。しかし、それに気付かない人もいるのである。例えば、道路に公園にほとんど無意識のうちにゴミを捨ててしまうことが――その考えが――あの大きな公害を作りだしてしまうんだというように、“ちりもつもれば山となる”ということを知らない人がいるのだ。だから早くそのまちかいに気付かないことには、小さな家々が互いに対立しあい、大きな塀や壁を築きあげ、一寸先も闇となるようになってしまう可能性も大なのである。家の中は明るくとも、家の外では、武器を売っている国もあることだし・・・。又、平和のためとやらで、次から次へと核実験を行い、もっともらしく、壁を築くための材料を集めている国々もあるのだ――こんな国々が氾濫しようとしている今なのである。 もっとも、人間というものが、壁を張りめぐらさねば生きていけない生物であるならば、私たちがいくらこんな事を言ったって、結局無駄であり、あのノストラダムスの小さな詩集が、私の思う最悪の所でヒットしようとも、まったく不思議はなく、むしろ、その方が道理に適っていると思うのだが・・・・・・。 (了) これが私の16歳になったばかりのころに書いた作文です。与えられたテーマは「家」でした。枚数は200字詰め原稿用紙10枚以上。つまり2000字以上ということですね。中学生のときには、このように長い作文を書いたことはありませんでした。初めての2000字作文。 では、この作文を見てゆきましょう。 第一段落では、家路を急ぐ私が外から家を観察する姿が描かれ、第二段落では、今度は家の中にいる私が家路を急ぐ人を家の中から想像する様子が描かれています。 第三段落では私たち一人一人を家に見立てて、論理を展開していきます。これまでに出会ったいろいろな家について語っています。これは多分、『星の王子様』に着想を得ている感じがしますね。確か星の数を数える天文学者がいたような記憶が・・・。 次の第四段落からは、そうした個々人単位の家のありさまが、実は国家や地球レベルにおいても同じ様なことが言えるのだと語り始めます。国家や地球を変えたければ、自分を見つめ直せと主張します。まずは自分の小さな家から始めよ、と。雛型論がここにもありますね。そして最後は、宇宙的な視点から見た地球のありさまが紹介されています。 文章自体はちょっと雑で荒っぽいし、改行すべきところでしていないし、文法上の誤りも多々ありますが、私が16歳で考えていたことは確かに伝わってきました。その考えは、三つ子の魂百までといいますが、基本的には、いまでもほとんど変わっていません。 工藤先生が「本当に考えていることが正確に書けている」と判断し、「好感が持てる」と評価してくれたことにも納得がいきました。今の文筆家としての私が生まれる「兆し」もしくは「雛型」がここにありますね。 (続く)
2023.02.18
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これが16歳のとき描いた初めての油絵です。 ただ色を塗りたくっている感じの絵ですね。かなり稚拙です。 でもまあ、構図はそんなに悪くないと思います。 1974年10月26日と書かれていますから、11月2~3日の文化祭用に突貫で描いた感がします。まさに、参加することに意義があるということでしょうか。 次に同じく16歳になったばかりの一年生の春学期に書いた作文「小さな家の中で思うこと」。作文集23に掲載されました。 これは長いので、K先生の講評だけをまず紹介しましょう。今度(多分次のブログで)全文をご紹介します。 <評> 日々の何気ない出会いの想念から、それらの“家”の内なる意味へ、そうして国や地球の問題へ――。急がず飾らずひとつひとつの感慨を踏みしめて書いている、この布施の文章を、私は今回の作文中いちばん好感をもって読んだ。もちろん成城風に優しすぎる心情の文章だし、野郎の知的好奇心からは、ここ一番哲学的に深められていいとはもちろん思うが、ほんとうに考えていることが正確に書けている息づかいがあって生きた文章として私は評価している。一層の読書を望む。 結構褒めてくれていてうれしいですね。でも評の最後で、漫画ばかり読んだりスポーツばかりやったりしていないで、少しは本を読めと戒めてくれています。 その後、大学では本を沢山読みましたよ。というか、やがて本をたくさん書くようにもなりました。 こうして文章力を伸ばすことができたのも、本当に小学校のO先生や中学のS先生、高校のK先生、O先生、Y先生をはじめとする成城学園の教育のお陰だと思っています。 ちなみにこのときの現国のK先生とは、『わが内なる樺太―外地であり内地であった「植民地」をめぐって』を2008年12月に上梓された工藤信彦先生です。 さらに言えば、私がオカルト的な能力をつぶされずに済んだのも成城の個性重視、自主性重視の教育方針があったからこそ、です。 個性や能力を思う存分伸ばすことが出来ました。 テニスのシングルスで7回クラブチャンピオン(ダブルスの優勝は確か2回)となり、日本語だけでなく英語でもフランス語でも論文を書き、ハーバード大学やジョンズ・ホプキンス大学の大学院でも「秀」や「優」をたくさん取り、本を34冊(間もなく35冊目が出版予定)書き、ある意味霊やUFOと交信までできるようになったわけですから、感謝してもしきれませんね。 実は、まさにこれが次の本『UFOと交信すればすべてが覚醒する』のテーマでもあるわけです。「能力の覚醒」がテーマの大きな柱となっています。 (続く)
2023.02.16
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今振り返ると、私の人生には4つの柱がありました。 スポーツマンの人生と勉強好きの人生でまず2つ。それに加えて物を書く執筆者としての人生、そして神秘的体験を楽しむオカルト探求者の人生の計4つの人生があります。 このうち、今回紹介するのは、三番目の物書き人生ですね。実は中学三年生のときに、クラスメートの女性のKさんがものすごくうまい小説風の作文を書いたのに触発されて、俄然ライバル心が生まれ、同時に作文の面白さに目覚めたんです。 以来、私も小説を書いてやろうと機会をうかがっていました。 作文は元々うまかったと思います。高校一年の春学期の現国の作文で課題の「家」をテーマにして書いた「小さな家で考えたこと」が評価され、各クラスで3人だけが選ばれる作文集に掲載されています。 それは随筆みたいな2000字ほどの作文だったのですが、選出されたことが高じて、秋学期には『梢』という学内の文芸誌に「秋の話」という私の処女作となる短編小説を書き上げました。これは5000字ほどの小編です。 そして次の冬学期。確か現国の冬休みの作文の宿題(課題のテーマは冬の花)として二作目の小説となる「冬の花」を提出しました。200字詰めの原稿用紙33枚6600字ほどの短編でした。 この「冬の花」はかなり高い評価を受けたのだと思います。というのも、K先生の現国の冬学期の期末試験の成績の点数はそれほど良くなかったのですが、成績が4から5に上がったんですね。おそらくこの作文のお陰であったと思われます。つまり、その成績の付け方から、K先生が私の短編小説を極めて高く評価したことが分かったわけです。 次回は私が当時完成させたこれらの作品について、詳しくみてゆきましょう。 (続く)
2023.02.15
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公式戦初勝利の勢いに乗って、波に乗れたらよかったのですが、そうはいきませんでした。 次の田無工業との試合では、私が乱調で初回裏の攻撃で2点を取られます。二回表に2点を返し同点としますが、三回裏に1点、四回裏に2点を取られ、五回の裏には5点を取られる始末。味方打線はその後、無得点に抑えられ、結局2対12で6回コールド負けとなってしまいました。 私の成績は五回と三分の二を投げて12失点、8自責点、被安打6、奪三振3,与四球10という不甲斐ないものでした。ただし、打撃の方は好調だったらしく、三打数の二安打、二塁打一本と記されています。秋の新人戦だけでいえば、8打数5安打と当たりまくっていました。 二回戦で敗退したことにより、これで秋のシーズンは終わってしまい、野球部は長いオフに突入します。練習も毎日ではなく週三回ほどに減ったと記憶しています。ちょっと暇になりましたね。 ラグビー部のほうでは、おそらく秋冬のシーズンに私を引っ張りたかったと思いますが、たぶん先輩のMさんが「うちのエースは貸し出さない」とラグビー部に圧力をかけたと思います。私にはお呼びがかかりませんでした。まるで出番を待つ芸妓さんの心境でした(笑)。 ここで訂正があります。先日当時の野球部の主将を遊撃手のAさんであると書きましたが、新聞記事を読むと、一塁手のMさんが主将でした。練習で手を抜くようにアドバイスしてくれた先輩だったので、主将ではなかっただろうと思い込んでいたようです。前にも書きましたが、私に処世術を教えてくれた、いい先輩でした。 さて、練習時間が減って暇ができたので、野球部の猛練習のせいでできなかったことに着手することにしました。一つは美術部への復帰を果たしました。幽霊部員の汚名返上です。 11月の文化祭には、初めて描いた油絵を出展。七宝焼きにも挑戦して、いくつかの作品を発表しました。油絵は拙い絵でしたが、デッサン力はあると褒めてくれる人もいました。 わが家の倉庫に眠っているので、近いうちに写真を撮ってアップすることにいたしましょう。 芸術の秋になると、私の創作意欲が高まります。初めての短編小説を書いたのもこのころです。 (続く)
2023.02.14
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夏休みが明けて間もない9月上旬に秋の新人戦の一回戦があったと思います。 三年生はもう出ることはできませんから、これからはほぼ対等な条件での勝負となります。 対する相手は、創価高校。野球の強豪校ですね。 この日の私は、途中まではまあまあの投球でした。投げる瞬間に腰の回転を意識するというコツを少しつかんだんですね。すると、結構重たい球を投げられるようになったと記憶しています。四回に味方のエラーで一点を献上しましたが、四回か五回まで相手をノーヒットに抑えます。その間、味方は五回表に三点を入れて逆転し、六回表には一挙4点を取り7対1とリードします。 しかし、六回の裏に大きな落とし穴がありました。 私の制球が突如乱れて四球を連発、相手のヒットと味方のエラーも出て何と大量7点を失ってしまうんですね。8対7と逆転されます。おぼろげな記憶では、なおも満塁のピンチに三塁牽制球でランナーをタッチアウトにしたプレイがあったように思います。 幸いなことに、私が乱れたのはこの回だけ。再び7回、8回、9回と零点に抑え、味方も8回に3点を入れて、再逆転。あの強豪校に10対8で勝利しました。公式戦初勝利、というか練習試合を含めて初めての勝利です。 私は9回を投げて、失点8の自責点はゼロ。被安打5、奪三振6、与四球9という成績でした。この日も私が4番で、5打数3安打1二塁打だったと記録されています。 私としては六回に乱れて大量点を奪われたので不本意な成績だったのですが、キャッチャーのI君が初勝利に大喜び。試合終了と同時に私に駆け寄って飛びついてきました。あんなに喜んでくれたのには、本当にビックリしました。 こうして硬式野球を始めて四カ月ちょっとで、幸運にも初白星を挙げることができました。私は全く意識していませんでしたが、約3年ぶりの公式戦勝利だったようです。 (続く)
2023.02.13
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翌日(7月18日)の朝日新聞には私たちの試合の講評が短く載っていました。 「(第三試合)は緊迫した試合だった。結局、9盗塁と、足を生かした昭和一工がややまさった。」 25人もランナーを出して9盗塁されていたのでは、確かに勝てませんね。課題山積ということでしょうか。 さて、一年生主体のチームが大善戦したことによって、監督のYさんらの期待は高まります。わずか三か月ちょっとでここまで来たのですから、鍛えればもっと強くなると考えたに違いありません。夏休みの間も猛練習が続きます。 このとき、私にも大きな試練が待ち受けていました。 漫画(と教科書)の読みすぎで目が悪くなったことは既に述べた通りなのですが、いよいよキャッチャーのサインが見えなくなってきました。グーとパーだけのサインでは相手にも気づかれてしまいますしね。 そこで、とうとう近乱視用の眼鏡をつくることにしたんですね。 インテリ眼鏡投手の誕生です。 メガネはそのインテリ用の黒縁眼鏡と、スポーツ用の弾力のある銀縁眼鏡をつくりました。 眼鏡をすると、地面がちょっと歪んで近くに見えました。遠くは本当に明るくて、よく見えます。 これなら、指の数まで数えることができます。 その代わり、かなり違和感も覚えました。慣れなければいけませんね。 しかしながら、視力は矯正できましたが、制球力は調整できません。 夏休みの間に行われた練習試合では一試合平均8四球で三連敗を喫します。ただし最後の三試合目は、被安打4で失点8,自責点は0でした。 どちらかというと味方のエラーで負けたということでしょうか。投手としては、少しずつ硬球にも慣れてきたようです。 慣れるといえば、1974年は金属バットが解禁された年でもありました。 最初は木製バットを使うか金属バットを使うかは自由だったので、私を含めて夏の大会までは慣れ親しんだ木製バットを使う人も多かったのですが、金属バットは芯を外しても飛ぶことが分かったので、夏休み以降はほぼ全員金属バットに変えています。 何かおもちゃのバットのようでしたが、私も夏休みからは金属バットを使うようになりました。 そして迎えた、秋の新人戦。 夏休みの猛練習の成果が試される時がやってきました。 (続く)
2023.02.12
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私は記録マニアでもありましたから、当時の新聞記事を今でも持っています。 八王子球場の第三試合でした。相手は昭和一工。 懐かしいですね。一番バッターは、私に処世術を教えてくれたMさん。ファーストを守っていて、私によく声をかけてくれました。左バッターです。 二番はセカンドのS君。後に世田谷区議を一期か二期務めたと記憶しています。調べたら、大学は慶応の法学部に行ったんですね。クラスが違ったのでよく知りませんでした。中学の野球部ではキャプテンでした。 三番がショートのAさん。主将です。なかなか渋くて、いいキャプテンでした。この三番のAさんと一番のMさんが二年生で、後は皆一年生です。 そして四番が私です。いわゆるエースで四番というやつですね。よくあるパターンです。 五番がセンターのF君。中学時代の同級生です。左投げでした。 六番はキャッチャーのI君。ピッチャーからキャッチャーへ転身したわけです。明大の野球部に行ったことは既に述べた通りです。 七番がサードM君。小学校と高校で同級生です。 八番はレフトのK君。高校の同級生。 九番はライトのH君。小学校と高校の同級生。プロ野球セ・リーグの球団の監督の息子です。二軍で使用した硬球を練習用に私たちに回してくれました。硬球は高いので助かりました。 このほかに、小学校から高校までずっと同級生だったT君がいましたが、先発メンバーからは外れていたようです。T君は後に語学出版社の社長になりました。 で、結果は2対4で惜敗。私は9回を投げ切って完投しましたが、12安打打たれ、8四球を出したと記録されていますね。奪三振はたったの2つ。味方の失策数は5です。 25人もランナーを出して、よく4点に抑えたと思います。 硬球を握って二カ月半で、しかも期末試験と練習で疲れているのに、よくここまで投げたとも言えますね。 特に一か月前の練習試合で19点取られてぼろ負けをしたことを思えば、2対4は上出来でした。 こうしてこの年の甲子園の夢は、あっけなく終わりました。 (続く)
2023.02.11
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本当に運動部というのは理不尽な社会を象徴する場です。 しかし、その理不尽さを経験することにより、いろいろな知恵を身に付ける場でもあるんですね。その点、先輩のMさんは処世術をよく教えてくれました。 私は言われてことを何でもこなして、手を抜かないので、よく練習中にMさんがそばに来て、「おい、そんなに頑張るな」「疲れた顔をして、さぼれ」とよくアドバイスしてくれました。 そうでも言わないと、また頑張り過ぎて倒れてしまいますからね。 もう一度、私が過労で倒れたりしたら、責任問題に発展しかねません。 私も過労で倒れることのないように、期末試験の勉強と毎日の練習を適度にこなしてゆくことにしました。一度過労で倒れることを体験したので、どこまでやったらどうなるかという限界を知ったことは、非常にいい勉強になりました。 期末試験中も練習に明け暮れたこともあり、この学期は結局、勉強はやや成績が落ちました。それでも数学と英語と体育など5教科で5を取り、あとの7~8教科は全部4に収めたのは上出来だったと思います。 そして、期末試験が終わって二日後の7月17日、甲子園を目指す夏の大会(西東京)の一回戦が行われました。 (続く)
2023.02.10
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そもそも、がり勉とスポーツマンというのは両立しえないものなのです。 甲子園を目指すことは私の青春である一方、勉強も好きでしたから常に試験でいい点を取りたいと思うわけです。しかも私は全教科すべてが面白いと思って勉強しますから、ほとんど好き嫌いがないんですね。 強いて挙げれば、歴史や化学などの暗記物が苦手といえば苦手です。それでも4か5は取ってしまいますから、普通の学生からしてみれば苦手というほどでもありません。得意な科目は英語と数学。授業中にほぼ完全に理解して覚えてしまいますから、試験直前にちょっと勉強するだけでそれほど苦も無く5をとっていました。ですから、期末試験対策といえば、いかに歴史や化学などの暗記物の教科を効率よく覚えるか、ということに尽きます。とても一夜漬けでは太刀打ちできないのが、私にとっては社会科系の科目だったわけです。 期末試験一週間前もそうでした。野球部の練習を暗くなるまでやって、家に帰ったら夜遅くまで、社会科系の対策を練って勉強する毎日が続きました。 その時がやってきたのは、期末試験三日前くらいだったでしょうか。 守備練習のノックを受けているときに、何とその場に崩れ落ちてしまったんですね。 何があったのかと、皆は私の所に駆け寄ってきます。私は、意識はありましたが、完全に立てなくなっていました。体が悲鳴を上げて、言うことを聞かなくなったんですね。こんなことは初めての体験でした。 すぐにグラウンドに救急車が呼ばれます。 救急車が到着したころには、私は既に元気になって立ち上がることもできたのですが、用心のため、その場で座ってじっとしていました。 このとき生まれて初めて、救急車で病院に運ばれるという経験をします。 診察の結果、過労との診断が下りました。 確かに期末試験前のがり勉による寝不足と、連日遅くまで行われる野球部の練習が重なって、心身共に疲れていました。医者からは睡眠と食事をよくとるように言われます。 先輩やコーチ陣も大事にならずにホッとしたと思います。彼らからは「勉強はほどほどにするように」と言われました。もちろん、勉強を第一義に考える私には、そのようなアドバイスに従うつもりは毛頭ありませんでした。 (続く)
2023.02.09
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昨日、444万4444アクセス達成。4(震、人間関係力)が注目される年ということでしょうか。とりあえず4月4日に注目してみます。
2023.02.09
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慣れない硬式球で四苦八苦する以外に、私は大きな問題も抱えていました。実はこのころから、近視と乱視で裸眼ではキャッチャーの出すサインが見えなくなってきていたんですね。サインで指を一本出したのか二本出したのかわからない有様。私にはカーブと直球しかありませんでしたから、グーとパーだけでサインを出してもらいました。 黒板の文字も見づらくなってきたのも、高校一年の時です。黒板のそばだと見えますが、後ろの席では見えません。確かこのころ黒縁眼鏡をかけるようになったと思います。 目が悪くなったのは、何といっても子供のころから漫画を読みすぎていたせいかもしれません。漫画大好き少年でした。テレビの見過ぎという説も否定できません。でも一応「本人の名誉」のために言っておきますが、勉強のしすぎという面もあったとしておきます(笑)。 その勉強に関しても、高校生になってからは結構大変になってきました。中学までは部活も週三回までと決められていましたから、それほど勉強に支障は出ませんでしたが、高校の野球部は毎日練習です。日没後の暗くなるまでびしっと練習をするので、家に帰って食事をすると、かなりへとへとに疲れていました。そうした環境の中で予習や復習をするのは、しんどい作業でした。 そして一番の問題は、夏の大会の東京都予選が期末試験とほぼ重なってしまうことです。下手をすると、試験中に試合ということになりかねません。幸いなことに、抽選の結果、期末試験の翌々日が試合となったので最悪の事態は避けられましたが、それでも試験期間中もずっと練習をやることになりました。 これは勉強を最優先にする私にとっては、かなりの負荷がかかります。 普通の部活では、期末試験期間の一週間前から部活は休止になるのですが、大会が近い場合は例外として部活を続けていいことになっていたんですね。それだけでなく試験期間中も練習をやるとなると、ほぼ徹夜明けの状態で試験と練習をこなさなければならなくなります。 親に授業料を払ってもらっている以上、私としては勉強で妥協することはありえませんから、当然、肉体が悲鳴を上げることになるわけです。 そして、それは現実のものとなります。(続く)
2023.02.08
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硬式ボールを握ったばかりなのに、残り二カ月ちょっとで、果たして夏の大会に投手として間に合うのか、という話でしたね。 その杞憂は現実のものとなりました。 練習を初めて一か月半くらい経った六月の中旬ごろ、他校との練習試合を組むことになったんですね。 私が先発投手で、キャッチャーは、後に明大野球部に進む同期生のI君です。I君は中学時代、背番号1を付けていたエースだったのですが、私が途中から背番号5でエースになったことは先述したとおりです。明大野球部に入る位ですから、本当に野球大好き少年だったんですね。 で、私とI君のバッテリーで臨んだ最初の硬式野球の試合は、惨憺たる結果に終わりました。 都立A高校を相手にした試合のスコアをいうと、4対19の大敗でした。 私は完投しましたが、与えた四球は何と17。三振は一個も奪えず、被安打6,自責点は9でした。まるで草野球レベルです。しかも今では考えることもできないでしょうが、私の投球数は250球くらいでした。つまり、普通なら二試合完投したくらいの投球数です。 とにかく私以外に投手をやる選手はいませんから、制球が悪くても、打たれても、エラーでランナーが出ても、ひたすら投げ続けたわけです。 その結果が19対4でした。投手としては、制球も球威も「下の下」の出来です。 残り一か月で公式戦を迎えなければなりません。 まさに大ピンチです。 (続く)
2023.02.07
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今日は富士山が朝から晩まで一日中よく見えました。雪山の富士山ですが、登山道もはっきりと見えていました。そして今日は満月。スノームーンとも呼ばれています。満月ではありませんが、二日前の月です。左下がやや欠けていますが、ほぼ丸くなっていました。次は昨日の月。ほぼ満月ですね。同じ場所を撮影していますから、段々と月の出が遅くなっていることがわかります。一日約49分ずつ月の出は遅くなります。今日は富士山と月の話題でした。
2023.02.06
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昨日、ドクターストップ明けは五月の連休直後くらいと書きましたが、もしかしたら連休直前だったかもしれないので、連休前後と訂正しておきますね。いずれにしても、待ちに待った運動再開解解禁日です。 その解禁日が10キロマラソン大会だったわけです。もちろん練習など一切しておりません。いきなりマラソン大会に出場することを知った体育の先生からは「大丈夫か」と聞かれますが、「二か月間の静養が明けたので大丈夫です」と答えます。後から考えるとかなり無謀ですが、そのときは当たり前という感覚でした。 しかしながら、その無謀さはすぐに思い知らされることになります。 最初こそ先頭集団について走っていましたが、脇腹が痛くなるは、息が上がってしまうはで、ほどなく先頭集団から脱落。休んでいた二か月間で心肺機能や体力が激落ちしていたことを痛感させられます。 先頭集団からはドンドン距離を引き離され、何と学年100人中30~40位という惨憺たる結果に終わってしまいました。苦手な長距離とはいえ、運動関係の競技でこのような結果に終わったことは初めての経験でした。事前にある程度準備しておかないと失敗するという、いい教訓となりました。 このマラソン大会を皮切りにして、再び運動部生活に復帰しました。翌日からは野球部の練習に加わります。野球部といっても、中学までは軟式野球で高校から硬式ですから、ほとんど違うスポーツです。早く硬式球に慣れなくてはなりません。 最初の一か月間、練習に出られなかったわけですから、既に硬式球で練習をしていた同期生とはスタート時点で差があります。それでもそれまでの実績から、私はピッチャーとしてのポジションが用意されていました。というのも、野球部の部員が私を入れても、10人だったからです。しかも三年生がまったくいなくて、二年生が2人、後の8人は硬式野球の経験がまったくない一年生という弱小チームでした。男子の人数(一学年100人程度)がそもそも少ないので、ときどきこのようないびつな部員数になってしまうわけです。中学でのラグビー部がそうでしたね。 ですから私の役目は、夏の大会までに硬式ボールでも投げられる投手になることでした。ところが、硬式のボールは軟式のボールと違ってよく滑るんですね。うまく指に引っかかりません。しかも軟式のボールよりも重いです。制球も定まらず、早い球も投げられません。夏の大会は7月中旬には始まりますから、残り二か月ちょっと。本当に大丈夫なのでしょうか???? (続く)
2023.02.05
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かくして1974年4月に高校生になりました。しかしながら、当時はまだ「ドクターストップ」による運動禁止期間(3月上旬から5月上旬までの2か月間)でしたから、一番好きな体育の時間も出席できずに見学しなければならないという、私にとってはつまらない高校生活のスタートでした。当然、野球部の練習にも参加できません。 ただし私は、転んでもただでは起きません。実はそのとき、美術部に入部したんですね。その後、野球部の練習が毎日になってしまったので、美術部の部活には出られない幽霊部員でしたが、その年の秋の文化祭にはちゃんと油絵と七宝焼きの作品を出展しております。だからデッサンくらいならある程度は、描けるわけです。大した腕前ではありませんでしたが、絵を描くのは昔から好きでした。小学校のころは、横山光輝の『忍者影丸』や、石森章太郎の『サイボーグ009』などにあこがれて、漫画家を目指そうと思ったこともあったんですよ。そうしたら私の母親に「手塚治虫みたいに医学部を卒業したら、いくらでも漫画家になってもいいわよ」と言われたので、事実上断念しました(笑)。 そうこうしているうちに、待ちに待ったドクターストップ明けの期日がやってきました。確か五月の連休明け直後だったと思いますが、ちょうどその日が学校の競歩大会だったんですね。距離は確か10キロくらいだったと思います。 (続く)
2023.02.04
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秋山氏のイラストを基に、私が想像して描いたラフスケッチです。これから手を入れるので、まだ完成形ではありません。でも、本当の母船内部によく似ているとのことです。イラストは私の担当ではありませんが、もうちょっと本物に近づけていければと思っています。
2023.02.03
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次のUFO本のタイトルがほぼ決まりました。UFOと交信すればすべてが覚醒するフォースの覚醒みたいで、面白いタイトルだと思います。3月22日の発売予定。アマゾンなどで予約受付中です。
2023.02.02
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現在、UFOの本に併用するイラストや写真で奮闘中。 ということで、今日ご紹介するのはこちらです。スノードロップです。春を告げる花ですね。
2023.02.01
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