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昨夜の中秋の名月。いい感じで雲がたなびいておりました。真ん丸ですね。国旗のようでした。さて、ちょうど昨日、出版社からの何度目かの問い合わせにも答えて、ほぼ校正完了です。来週印刷所に持ち込まれ、早ければ10月10日ごろには見本ができるのではないかと話しておりました。ただし、書店で売り出されるのは、10月23日ごろです。新刊はこちらです。
2023.09.30
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今日は中秋の名月ですね。雲が出ているので、見えたり見えなかったりでしょうか。今日ご紹介するのは、四日前の9月25日のお月様。夕日に照らされた帯状の雲の上を優雅に舞っておりました。今日はどのような姿を見せてくれるのでしょうか。
2023.09.29
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どうせ話しても理解してくれないということがわかっていたので、小学生のころから大学まで「オカルト(神秘体験)は秘して語らないもの」という不文律を原則的に守ってきたわけですが、やがてそれはほころび始めます。 今から思うと、最初にほころび始めたのは、1980年の夏、英国に留学中の夏休みにブライトンのホストファミリーのご主人であるクリストファーが、一緒にBBC制作のダライ・ラマの番組を見ているときに「もしかしたら生まれ変わりはあるかもしれない」という発言を聞いてからでした。「袖振り合うも他生の縁」という諺がる日本人ならともかく、ある程度合理主義が浸透し、物質社会を謳歌している西洋人からそのような言葉を聞くとは、当時は思っていなかったからです。糸のほつれはここから始まったように思います。 そしてクリストファーの勧めもあって、大学の授業が始まるまでの10日間をスコットランドで旅したのが、次のほころびです。私はスコットランドの最果ての地ともいえるハイランドからオークニー諸島に渡り、オークニー本島の首都カークウォールのユースホステルでドイツ人二人とアメリカ人一人に出会い、人生で初めて「前世に出会ったことがある」という不思議な感じを体験するわけです。 それでもまだ私は「常識人」でしたから、なるべくオカルト的なことは話さないようにしていました。特に社会人になってからはなおさらですね。何かオカルト的なことを言おうものなら、「頭のおかしい人扱い」されることは、火を見るよりも明らかですからね。 かといって、私は既存、新興にかかわらず宗教の教え(教義)にはほとんど感化されないので、何かの団体に勧誘されひっかかることも、傾倒することもまったくありませんでした。ICUの必修基礎科目「キリスト教入門」でCを取るわけです。だけど不思議なことに聖書には興味があるんですね。人文科の必修科目だった「聖書入門」は「Ⅰ」「Ⅱ」ともAでした。経典は、文献としてはとても面白いと思うんですね。なぜそのようなことを書かなければならなかったかという、その背景がよくわかるからです。 さて、次回は社会人になってからの、「秘密にしていたオカルト」のほころびについて語っていきましょう。 (続く)
2023.09.28
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信じられないかもしれませんが、先ほど再校ゲラ校正が終わって、出版社にメールしようとした直前、窓から外を見たら虹が出ていました。朝から晴天で、雨などどこにも降っていなかったのに、空の一カ所だけ雨が降って夕日が当たったようです。こちらがその写真。信じられない偶然。「偶然は神」ですから、なかなか粋なことをするなと思いました。
2023.09.26
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来月23日発売予定の新著のカバーが完成したようです。こちらです。ただいま最終校正中。締め切りは明日迄。
2023.09.26
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テニス部を卒業したからといって、大学が卒業できるわけではありません。勉強の方も卒論制作に向けた追い込みをしなければなりませんからね。 4年生の秋学期から一年間留学することが決まっていましたから、新4年生になったこの春学期中に、決められた単位と必修科目をすべて履修しておく必要がありました。 もっとも、この時点で結構、単位を大方取っていたんですね。1980年春学期は緩やかに3教科だけ取りました。 その3教科は、人文科学の基礎教科である「聖書入門」と専門科目である「近代フランス文学Ⅰ」、それに自然科学科の基礎科目である「物理学の基礎概念」で、それぞれA、B、Aでした。つまり専門のフランス文学だけBだったわけですね。 これで必修科目を含む必要な単位は卒論以外すべて履修を完了。フランス文学の専門科目もすべて履修し終わりました。 結果は、フランス文学史がB、B、Aで、近代フランス文学がB、A、A、C、C、Cとなりました。綺麗にABCをそれぞれ3つずつ取ったことになります。副専攻科目の英文学はB、B、A、Bでした。 Aが秀で、Bが優、Cが良ですから、すべて「可(D)もなく不可(F)もない」というわけです。 私にCを3つも付けてくれたクリスティーヌ・小玉講師には、一年後に留学先から戻ってきたらフランス語で卒論を書くつもりなので卒論の担当教官になってほしい旨を伝えて、7月に英国に旅立ちました。ここからは「ザ・イヤー・オブ・1980~81」のブログに書いた通りです。イギリス留学の1年と、卒論執筆と就職活動、そして共同通信に入社が決まるまでのことが書いてあります。1982年に共同通信社に入った後の話は、既にブログで書いた「新聞記者の日常と憂鬱」にある程度まとめてあります。 その後共同通信社を辞めて、1996年に渡米、ハーバード大学のケネディ行政大学院で学ぶことになりますが、その辺りの話は「ハーバード経済日誌」にまとめたつもりです。ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(通称SAIS)時代の話は、幻の大作「ハーバードでもAが取れる英語論文ペーパー作成術」に少し書きましたが、これは未公開のままです。いつかご紹介する機会があるかもしれません。 これらの原稿を全部合わせると、おそらく本5~6冊分になります。すごい分量ですよね。 ところが、実はここまでは、かなり現実的かつ表層的な記述・記録が主になっており、私のオカルト人生を明かした本編「今そこにあるスピリチュアルワールド」の前振りにすぎないんですね。本編はこれからです。1999年に留学先のアメリカから日本に戻ってきた後から、私がそれまで秘していたオカルト的な人生がいよいよ幕を開けるわけです。 (本編へ続く)
2023.09.25
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新主将のA君は、残ったメンバーの中では一番強かったです。次に二年時に主務を務めていたK(金沢)君でしょうか。レギュラーメンバーでは、ダブルスで活躍した理学科のK(兼広)君、時々シングルスで試合に出たM君がいます。彼らが軸になってチームを作っていくことになりました。 新二年生にも有望な選手が何人かいました。体の大きなK君や元気のあるY君、それに人気者のO君やM君など逸材揃い。将来が楽しみな選手ばかりです。 最後にテニス仲間、先輩や後輩たちがICU卒業後どうなったのか、私の知る範囲でお伝えしておきましょう。長らくテニス部のOBOG会に参加していないので、情報が極めて限定的ですが、ある程度はわかります。 5年先輩の主将Kさんと4年先輩の主将Tさんは先日お話ししましたね。3年先輩の主将Kさんは、私のおぼろげな記憶が正しければヤマハに就職しています。人間味のある、非常に穏やかな主将で、後輩からも慕われておりました。Kさんの同期には私のテニスの師匠であるTさんがいます。卒業を一年遅らせたので、私と同時期に試合に出ることになったわけです。そのTさんはソニーに入っています。ほかにもUCLAに交換留学生として一年留学していたKさんがソニーに入社しました。この代では、確かOさんもソニーです。 二つ上の主将のHさんは、和歌山県出身のきりっとした、さわやかなスポーツマンタイプの主将でした。卒業後、三井物産に入りました。私の高校時代の同級生(女性)が短大を出て、Hさんの同期で三井物産に就職しましたが、「H君」と君付けで呼んでいることに、運動部畑が長い私としてはちょっとカルチャーショックを受けました。確かに二歳年が違っても三井物産では同期ですから君付けですね。主将のHさんの代にはキッコーマンに入ったNさんがいます。先日会った先輩のTさんによると、米国のキッコーマンで大活躍されたそうです。 一年上の主将のOさんは理学科の生物専攻でしたが、ソニーに入りました。ソニーには、ICUのテニス部閥が出来そうな雰囲気ですね。Oさんの同期のNさんは真珠のミキモトに就職。変わり種はYさんで、半ば5年上のKさんを追うようにして、テニスのコーチになりました。卒業した後の20代後半のころ、私はよくYさんとダブルスを組んでキダー杯(テニス部主催の現役OB入り交じってのトーナメント)に出場、一回か二回優勝した覚えがあります。当時は「まだまだ現役には負けない」と本気で思っていました。 私の同期では副将M君が、日本経営者団体連盟(後に日本経済団体連合会に統合)に就職。その後まもなく、たぶん社費留学で北アイルランド・ベルファーストのアルスター大学に学び、MBA(経営学修士)を取得しています。彼に関連するサイトがありましたので、ご参考までに記しておきます。 →記事現在は経団連労働法制本部参事としてILOの使用者側理事にもなっているようですね。任期は2024年までだそうです。 私の同期はほかにS君が教員免許を取得して理系の先生になっています。N君は大手石油会社に就職しました。 後輩では、主将のA君が三菱商事に入社。通算27年をイスラム圏(エジプト、イラク、サウジアラビア、インドネシア、マレーシア、パキスタン)で過ごし、特にパキスタンには通算14年在住し外国籍民間人に与えられる最高勲等「パキスタンの星」を受勲しているそうです。 彼の自己紹介したサイトはこちらです。 女子部員ですが、三菱商事の会長の娘Mさんは、私と同じジャーナリストの道を選び、タイム東京特派員になっています。夫はニューズウィーク東京支局長だったビル・パウエルさん。1995年に二人で本を書いています。→こちら。 パウエルさんには直接会った記憶はありませんが、私も2000年4月から2004年3月までニューズウィーク日本版の編集部におりましたから、少しだけ重なっていますね。Mさんは1994年にタイムを辞め、夫のパウエルさんはその後米タイム誌の記者をやっていると書かれています。 他にもたくさんユニークで優秀な方はおられると思いますが、とりあえず浮かんだ人たちをご紹介してみました。 (続く)
2023.09.24
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3月26日。 いよいよ、リーグ戦の最終戦です。 その結果です。 対芝浦工業大学 8勝1敗でICU勝利 ダブルス(3勝) NO3 松井・金沢 0-6、6-3、6-3 八木・吉家 NO2 布施・西河 6-0、6-3 山崎・中村 NO1 安藤・兼広 6-3、6-4 田中・鈴木 シングルス(5勝1敗) NO6 清水 0-6、0-6 中川 NO5 金沢 6-4、6-2 八木 NO4 松井 6-3、7-5 青木 NO3 布施 6-1,6-0 田中 NO2 安藤 6-2、6―1 山崎 NO1 西河 7-5、6-2 吉家 シングルスのNO6だけ落としましたが、他は快勝でした。有終の美を飾ったわけですね。 同期のS(清水)君は、切り込み隊長として本当によくやってくれました。 通算成績は3勝2敗。特に劣勢だった高千穂商科大学と、競った試合が多かった防衛医科大学に勝利してくれたのは、本当に助かりました。 私は、ダブルスで3勝2敗と思ったほどいい成績を残せませんでしたが、シングルスは一度も負けずに5戦全勝でした。 殊勲は何といっても副将のM君でしょうか。2年生のK君と組んだダブルスでは4勝1敗。シングルスも3勝2敗と勝ち越してくれました。特に防衛医大戦でシングルスNO3として相手のポイントゲッターにフルセットの末勝ったのが非常に大きかったです。 もう一人の同期N君もよくやってくれました。私と組んだダブルスで3勝2敗、シングルスでも3勝2敗とし、三年生4人はいずれも勝ち越しを果たしました。 リーグ戦の後半には二年生も勝てるようになって、ずいぶん自信になったと思います。 なおリーグ戦は、どこが優勝したかというと、私たちが5-4で勝った防衛医大でした。 防衛医大、山梨大、ICUと5勝1敗で並びましたが、当該大学同士の得失ポイント差で、防衛医大が優勝したんですね。結局、防衛医大は山梨大学に7対2か6対3で勝ったようです。大逆転勝ちですね。おめでとうございます。防衛医大は4月からの二次リーグに進みました。 これで我々三年生の代は、全日程を終了。4月からは新三年生に完全にバトンタッチします。 予想通り、主将にはA(安藤)君が就任しました。 (続く)
2023.09.23
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山梨大学に負けたことにより、優勝はかなり難しい状況になりました。 しかしながら、スケジュール上の朗報もありました。3月23日に予定されていた日本工業大学との試合は、向こうの理由で試合ができなくなりデフォ勝ち(不戦勝)になったからです。23,24日と連戦しなくてよくなったわけです。 結局、日本工業大学はこの年、全試合不戦敗となりました。 七部には時々、エントリーしたけれど試合ができる状況に至らなかったので出場できなくなる大学が出てきます。60校近い大学がひしめき合っていますからね。中にはそういう大学もあるわけです。 これによって、我々のスケジュールが少しだけ楽になりました。実際22,23の両日はゆっくり休めました。 残りの日程は、24日にホームで足利工業大学と、26日にアウェイで芝浦工業大学と試合するだけとなりました。 24日の結果は次の通りです。 対足利工業大学 6勝3敗でICUの勝利。 ダブルス(2勝1敗) NO3 松井・金沢 6-3、6-3 小高・長岐 NO2 布施・西河 6-4、3-6、5-7 樋口・野口 NO1 安藤・兼広 4-6、6-4、6-1 大西・山口 シングルス(4勝2敗) NO6 清水 6-4、6-0 長岐 NO5 松井 1-6、6-4、4-6 小高 NO4 金沢 4-6,7-5、1-6 野口 NO3 布施 6-4,6-2 樋口 NO2 安藤 6-1、6-0 大西 NO1 西河 6-4、3-6、3-3(相手が棄権) 本沢 二日休んだので復活したという感じですね。特記事項としては、二年生コンビの安藤・兼広組が初勝利を挙げたことでしょうか。 シングルスでも安藤君が初勝利を挙げましたね。金沢君のシングルスデビュー戦は、残念ながら黒星となりました。 なお「外れ」が多かったオーダーも少し変えました。 私がNO3で出場、ダブルスで敗れた相手にシングルスでは勝っています。 西河君の相手は、途中で足がつって走れなくなり、棄権しました。 (続く)
2023.09.22
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結果的に四連戦の最後になったことに加えて、長距離の遠征、そして遅れて着いたことによるドタバタ――。 慌ただしさの中、みんな平静ではなく、加えて体もへとへとになっているのは明らかでした。 私も体が重く感じられて、思うように動けません。 15分遅れくらいで始まった山梨大学とのダブルスの試合は、今まで二連勝で負けなしだった布施・西河組が相手の実力NO1とみられる上野・高橋組に敗れるという予想外の展開になってしまいました。 しかも私が思い切って打ったスマッシュをネットにかけてしまったミスがきっかけとなって、相手が調子に乗ってしまったことが痛かったです。 すべての歯車が狂いだして、ミスを重ねてしまいました。 それでも幸いだったのが、松井・金沢組が相手の実力NO2を破ってくれたことです。何とか1勝2敗でシングルス勝負に持ち込めました。 ダブルスの結果は以下の通りです。 NO3 松井・金沢 6-3、6-4 丹羽・相河 NO2 布施・西河 3-6、2-6 上野・高橋 NO1 安藤・兼広 3-6、2-6 山口・深沢 しかし、午後から始まったシングルスの試合も、スコアを見ると、みな絶不調だったことがわかります。 ICUのNO6、NO5ともに、ほとんど反撃できないままストレート負けしてしまいます。 完全に相手に呑まれていますね。このように圧倒されるほどの実力差はなかったと思います。 続くNO4は、ダブルスで初めて黒星を喫した私で、相手は山梨大学のキャプテン。つまりキャプテン同士の対決です。 私は確かに疲れていましたが、意地を見せなくてはなりません。厳しく攻めて、相手に隙を与えずに6-1、6-2と快勝しました。 本当なら相手の実力NO1か2と対戦して勝利するのが望ましいのですが、たぶん相手は、実力ランキングはNO4よりも低かったはずです。今回も見事にオーダーが外れて(あるいは外されて)しまいました。 残りのNO3、NO2、NO1も実力を発揮できずに惨敗。 何と2対7と完敗してしまいました。 シングルスのスコアは以下の通りです。 NO6 清水 1-6,0-6 高橋 NO5 宮城 1-6,2-6 丹羽 NO4 布施 6-1、6-2 相河 NO3 松井 1-6、2-6 上野 NO2 安藤 1-6、0-6 深沢 NO1 西河 0-6、5-7 矢野 疲労と敗戦で打ちひしがれてしまいました。 でもリーグ戦は続きます。前を向かなくてはなりません。 (続く)
2023.09.21
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再び1980年に話は戻ります。 3月21日は、甲府に遠征して山梨大学と対戦するリーグ戦第3戦目でした。 これまで二戦二勝。この調子で勝ち続けたいところです。 しかし、甲府遠征は予想以上に大変で疲れました。 予算に余裕のある大学だったら、前日に甲府に宿泊したり、バスを借りたりして遠征できるのかもしれませんが、ICUの学生にはそれほど余裕はありません。安上がりに済ませるしかないんですね。 甲府への行き方をめぐっても、部内で二つに割れました。 私は公共交通機関を利用して中央本線の特急で新宿駅発午前8時頃発の電車に乗り、午前9時半に甲府駅に到着する方法を提案したのですが、新宿駅まで時間がかかるという部員が大半で、否決されます。結局、何代かの車に分乗して自分たちで運転して、山梨大学に向かうことに決まりました。 午前7時ごろICUの正門に集合して、4台か5台くらいの車で山梨大学に向かいました。事前の取り決めで、交通渋滞などの事情も推定されることから試合開始予定時刻午前10時に遅れても、デフォ負けはなしということにしてありました。 案の定、運転に不慣れな部員もいて、本当なら9時半には付くはずの予定が10時になってしまいます。休む間もなく、慌ただしく着替えをするなどして、10~15分遅れて試合開始。前日の防衛医大への遠征を入れると、二日連続の遠征で、しかも4連戦となります。 このような状態で、果たしていい試合などできるのでしょうか。 (続く)
2023.09.20
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丘の上に何か見えていますね。段々はっきりしてきました。雲です。しかも巨大な入道雲。手招きをしているような入道さんでした。今日で初校ゲラ校正を終了。図表を付けた再校ゲラの校正は、来週早々になる見込みです。
2023.09.19
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ただいま、ゲラ校正中です。締め切りは火曜日。しばらくお待ちください。
2023.09.17
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翌3月20日。たぶん午前10時ごろだと思いますが、埼玉県所沢市にある防衛医大を訪れました。 防衛医大は、医師である幹部自衛官の養成や、自衛隊の医官(旧軍の軍医に相当)の教育訓練を目的に1974年に開設された省庁大学校です。 新しい大学だったので、広い敷地に綺麗に整備された施設が並んでおりました。1980年に一期生が卒業したと書かれていますから、私たちが相手したのは、二期生や三期生たちだったと思われます。 テニスコートはクレイではなく、ハードコートでした。 実は当時の大学テニスはクレイコート全盛の時代で、基本的に公式の試合はクレイコートでしかやりませんでした。ただし例外的にハードコートも認められていたと記憶しています。 普段はクレイでしかやっていない私たちにとっては不利でしたね。 全員で軽く練習した後、NO1の試合が再開されました。第二セット4-4からです。 続く2ゲームはお互いゲームを分け合い、5-5となります。 ここから向こうの選手が本領を発揮して、一気に押し切り7-5で勝利。 A君はあえなく敗退となりました。試合自体は5-4でICUが勝利しました。 結局、この4ゲームのために、はるばる所沢まで皆で足を運んだことになりましたが、A君は相手チームのNO1か2と目される5年生と第二セットで競ることができた経験が大きな自信につながったと後日語っておりました。 翌21日は甲府へ遠征します。試合の反省会と明日の集合場所や段取りなど予定の確認をして現地で解散しました。 (続く)
2023.09.16
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連戦となった防衛医大との試合は、大接戦となりました。 その中でICUにとって幸運だったのは、ダブルスで2勝を挙げられたことです。前回同様、その公式記録を掲載しましょう。左がICU。 ダブルス NO3 松井・金沢 6-1、4-6、6-0 横山・都原 NO2 布施・西河 2-6、6-1、6-4 関・池脇 NO1 安藤・兼広 1-6、1-6 吉田・荻原 スコアから類推すると、実力NO3の安藤・兼広組が相手の実力NO1に当たって粉砕されています。実力NO1の布施・西河組が相手の実力NO2を接戦で制し、実力NO2の松井・金沢組が相手の実力NO3に競り勝ったというところでしょうか。ラッキーな組み合わせだったといえるでしょう。 ダブルスで2勝1敗のアドバンテージをもらって、午後からはシングルスで真っ向勝負です。面白いのは、相手が医科大であるため、向こうの主力選手が4年生、5年生であることです。こちらは2年生、3年生が主体ですから、経験値では二年ほど向こうが上回っているんですね。 まずNO6の試合では、切り込み隊長のS君が五年生相手に大奮闘、2セット連取で一勝を挙げます。 続くNO5は、向こうの5年生に完敗します。 この日もNO4となった私は、ダブルスと同じ対戦相手となった同学年の選手と比較的競った試合をしましたが、2セットを連取して危なげなく勝利、4勝2敗とします。あと一勝すればICUの勝ちが決まります。 ところが、NO3の試合は苦しい戦いとなります。副将のM君が接戦のうえ相手の4年生に第一セットを落としてしまったんですね。同じころ始まったNO2の試合は、何とN君が相手の実力NO1か2とみられる4年生に対して、試合前から足がつっていたこともあり、まったく歯が立たず、あっさりと完敗。逆転負けの芽も出てきました。しかし、ここから副将のM君が踏ん張って攻めに転じます。ほとんどミスをしない相手選手に対して、あの手この手で粘ってポイントが取れるようになったんですね。そしてとうとう、続く2セットを6-2、6-2で逆転勝ちをする大殊勲。NO1の試合結果を待たずして、ICUが5勝3敗と辛うじて勝利を手に入れました。 とにかく接戦が多かったので、すっかり日が暮れてしまいました。最後のNO1の試合は相手の5年生が終始リードして第一セットをとると、第二セットは一転して接戦に。4-4となったところで、日没となり、試合は中断します。 皆の疲れ具合を考えると、勝敗は決していたわけですからポイント獲得は諦めて、NO1の試合をデフォ負けとする手もありました。しかし、せっかく追い上げて4-4にしたのにそこで終わらせるのはもったいないという気持ちも強くありました。後々ポイント数がリーグ戦の勝敗を決めないとも限りません。 そこで双方の主将と主務が話し合った結果、連戦を理由にこの日のICUのホームでの開催を認めてくれたといういきさつもあり、今度は、残りのNO1戦の続きは防衛医大のテニスコートで明日午前中に、第二セット4-4から再開することに決まりました。 この日のシングルスの結果は次の通りでした。 NO6 清水 6-1、7-5 横山 NO5 宮城 4-6、3-6 関 NO4 布施 6-4、6-3 池脇 NO3 松井 4-6、6-2、6-2 新行内 NO2 西河 2-6、1-6 吉田 NO1 安藤 2-6、4-4(日没で順延) 荻原 他校との試合結果を踏まえると、防衛医大は吉田、荻原、新行内、池脇あたりがポイントゲッターだったのだと思われます。実力伯仲の相手でした。 (続く)
2023.09.15
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初戦の対戦相手の高千穂商科大学は、すでに三戦ほど試合をこなしていましたが全敗しており、こちらとしては負けられない相手です。 ところが、初戦で硬くなってしまったためか、強化したはずのダブルスで二つ落としてしまいます。(公式記録なので実名で記します。左がICU) ダブルス NO3 松井・金沢 4-6、1-6 大橋・寺井 NO2 布施・西河 6-0、6-1 船田・田中 NO1 安藤・兼広 2-6、6-3、2-6 江原・寺尾 結果およびスコアを見ると、オーダーが見事に外れたことがわかります。実力NO1の布施・西河組が多分相手の実力NO3と対戦させられています。ところが、実力NO2の松井・金沢組は多分相手の実力NO1と当たって敗れ、実力NO3の安藤・兼広組は相手の実力NO2に接戦の末に敗れたようです。 いきなり初戦からピンチです。 どうなることかとちょっと気が気ではありませんでしたが、そんなことは言っていられませんね。私はNO4で出場しますから、間もなく試合に入らなければなりません。ちなみに試合は一番ランキングの低いNO6同士の対戦から始まって、ランキング順にNO1同士の試合へとコートが空き次第入っていきます。 NO6から始まったシングルスの試合でも苦戦が続きました。NO6、NO5とも接戦の末第一セットを落としてしまいます。 絶体絶命――と思ったら、NO6のS君が第二セットを7-5と取ると、ファイナルセットも6-1で取って逆転勝ちします。NO5も第二セットを6-4で取り返し、反撃を開始。 NO6の試合が終わったので、NO5の試合結果を見届けられないまま、自分が出るNO4の試合に入ります。もちろん、NO5の試合は隣のコートでやっているので、試合経過はわかるわけです。副将のM君がNO5のコートに付きっきりでコートサイドから応援してくれているのがわかります。 で、私の試合は、見事にオーダーを外されて(というか、ある意味ランキング通りのNO4くらいの選手が出てきた)、6-1、6-1とあっという間に勝ってしまいました。その間、NO5のM君もファイナルセットを6-3で取って辛勝。これによってシングルスで3連勝となり、対戦成績を4勝2敗とします。 ダブルス3ポイント、シングルス6ポイントの9ポイント制ですから、残り三試合のうちあと一勝すれば勝ちですね。 その後、NO3のM君が貫録勝ちしてICUの勝利が確定しました。他の試合はNO2のN君が圧勝したものの、NO1のA君はたぶん相手校の実力NO1か2に当たって完敗しました。結果は6勝3敗(ダブルス1勝2敗、シングルス5勝1敗)で、見事初戦を飾りました。同様に記録を記しておきましょう。 NO6 清水 4-6、7-5、6-1 船田 NO5 宮城 6-8、6-4、6-3 田中 NO4 布施 6-1,6-1 水谷 NO3 松井 6-3、6-4 寺井 NO2 西河 6-0、6-1 松尾 NO1 安藤 3-6,2-6 大橋 上の結果とスコアからわかることは、実力NO1の布施(私)と実力NO2の西河がオーダーを見事に外されていることがわかります。ほかは結構僅差でしたから、いい勝負でした。 6-8というスコアがあることからわかるように、当時はタイブレークなしのロングゲーム(6-6の場合はどちらかが先に二ゲームを連取するまで続く試合)でした。 結果的に快勝したので、主将としてはホッと胸をなでおろしました。 遅くなったので反省会もソコソコにして、各自帰宅します。 というのも翌日も朝から試合があるからですね。 翌19日は防衛医科大学校との試合でした。他校ではありえないような過酷な日程です。 (続く)
2023.09.14
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当時のテニス・ノートが手元にありますから、1980年三月以降のテニス部の活動記録を順に追ってゆきましょう。レポート提出期限などすべての期末試験が終わったのは、3月15日のようです。16日は休みで、17日は卒業式があったと記されています。 おそらく試験期間中は自主練習で、その期間中でも試験が終わった部員から徐々に本練習に入ったと記憶しています。 すでに二月には、リーグ戦の抽選があり、私は二年生主務のK君と一緒に渋谷の岸記念体育館の抽選会兼試合日程調整会に出席しました。 その結果、我々のリーグ戦ブロックは、シード校が山梨大学で、ほかに防衛医科大学、足利工業大学、高千穂商科大学、芝浦工業大学、日本工業大学とわが校の7校によるリーグ戦となりました。 日程調整は難しく、期末試験で2週間試合を組めないICUは、いつものように強行日程となります。それでも相手校は事情をある程度考慮してくれて、ホームで4試合、アウェイで2試合と、ホームで2試合多い、日程を組ませてもらいました。 その結果、決まったのは次の通りです。 3月18日 対高千穂商科大学(at ICU) 3月19日 防衛医科大学(at ICU) 3月21日 山梨大学(at 山梨大学) 3月23日 日本工業大学(at ICU) 3月24日 足利工業大学(at ICU) 3月26日 芝浦工業大学(at 芝浦工業大学) 9日間で6試合という超ハードスケジュールです。関東大学リーグですから、参加校も関東地方の広範囲に及び、山梨県甲府市に遠征しなければならなくなりました。 他校は、大体一週間に二試合くらいしか組まないのですが、勉学を徹底的に優先させるICUでは、1週間で5試合と倍以上の過密さで試合をこなさなければならないわけです。 さて、3月18日、いよいよリーグ戦が始まりました。 オーダーは、練習試合と違って、「関東学生」「インカレ」などの資格(本戦出場者)を持っていない限り、必ずしも実力通りの順番にする必要がないことは既にお話ししたとおりです。 本当の実力順だと、私がNO1で、NO2が同期のN君、NO3が同じく同期で副将のM君、NO4が同期のS君、そしてNO5が一年下(二年生)のA君、NO6も二年生のM君ですが、リーグ戦の順番はガラッと変えて、NO1は二年生のA君(実力はNO5)、NO2は同期のN君(実力と同じ)、NO3 同期のM君(実力と同じ)、 NO4が私(実力はNO1)で、NO5に二年生のM君(実力はNO6)、NO6に同期のS君(実力はNO4)が入ることになりました。 つまり私がNO4に紛れて暴れまわるオーダーになっているわけです。 各校とも戦術は大体同じで、NO2、3、4、5辺りに実力NO1~3を持ってきます。 第一戦は高千穂商科大学(現高千穂大学)でした。 (続く)
2023.09.13
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取った科目が悪かったのか、それともただ勉強をしなかったからか、1979年冬学期(12月から翌80年3月まで)は最も惨憺たる成績でした。Cが2個に、Bが2個、Aが1個で、GPAが2・80。学期の成績でGPAが3を下回るのは初めて(最初にして最後)でした。 小玉先生の「近代フランス文学Ⅵ」はフランス語の実力不足で仕方がないにしても、フランス語力を付けようとして履修した語学科の「フランス語翻訳研究」でもCを取ってしまいました。救いは早稲田大学のフランス文学講師がくれた「近代フランス文学Ⅲ」のAだけ。専門科目の「英文学史Ⅱ」と基礎教養科目の「古典の世界」はBでした。 ICU在学中に取ったC6個のうち、この学期にその三分の一の2個を取った計算になります。 まあ、それだけテニスに打ち込んでいたとも解釈できますけどね。 前にも話したと思いますが、テニス部としての活動は、三年生の冬学期に始まるリーグ戦の終了で最後となります。四年生となる4月からは個人でテニスをすることはあるかもしれませんが、事実上引退して、卒論や就職活動に集中するわけです。 いつものように冬学期の期末試験が三月中旬に終わり、すぐにテニスの大学対抗リーグ戦モードに突入しました。 (続く)
2023.09.12
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卒論や就職活動の準備、テニス部の部活のほかに、当時の私の計画としてあったのは、留学です。高校生のとき、両親と私の間には、実家から通える大学で、現役で大学入試に合格したら、留学に行かせてくれるという暗黙の了解がありました。これは当初からクリアしていましたね。 でも当然、留学先は自分で決めなければなりませんし、留学できるだけの実力も自分で培わなければいけないわけです。 GPA(成績の平均天点)やTOEFL(学国語としての英語テスト)などの基準はクリアしていたのでICUの留学制度を利用する手もあったのですが、三年時にはあえてその制度には申し込みませんでした。ICUの留学制度の提携先として決まっていたイギリスのサセックス大学が、あまり自分向きではないように思えたからです。 そこで自分で選んだ大学に留学できる制度がないかどうか探したところ、文化放送が英国の大学への派遣留学生を募集していたことが分かったんですね。早速、英国の大学を調べて、探し当てたのが英国ケント州カンタベリーにあるケント大学でした。そこでケント大学でヨーロッパ演劇の研究をしたい旨のエッセイを書いて、TOEFLの成績とともに願書を提出。面接を受けたところ合格して、ケント大学への留学が決まったという次第です。面接を受けたのは晩秋か初冬だったのではないかと思われます。この制度に選ばれたのは10人で、大学の学部生は私を含めて二人だけ、後は社会人やそれに準ずる留学生でした。 ケント大学は非常に私に合った留学先でした。比較的新しい大学でしたが、結果的に私が論文を書きたいと思っていたサミュエル・ベケットについて、後に有名なベケット研究家になるデイヴィッド・ブラドビー講師が在籍していたからです。大学の綱要を読んでも、近代欧州演劇の研究に力を入れていることがわかりました。 こうして3年生最後の学期となる冬学期が始まる1979年12月ころには、留学先も決まりました。一年留年することになりますが、自分には必要な一年であることは明白でした。 年が明けて1980年。テニスの部活の集大成となる大学対抗リーグ戦が迫ってきました。 (続く)
2023.09.11
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専門科目では、英文学も多く履修しました。 前年冬学期の「英文詩と散文」、春学期の「19世紀英文学」に続いて、この秋学期に取ったのは「現代英文学」。小玉先生の「近代フランス文学」と違って、何と優秀なことに成績は「A」でした。こうした科目を履修することで、英文学の根底を流れる表現の面白さを学びました。言葉遊びやパロディーの要素が強いんですね。 そのため、過去の偉人や詩人たちが残してきた言葉を知っておく必要があるわけです。ウィリアム・ブレイクといったロマン主義の先駆的詩人から米国最大の詩人と称されるウォルト・ホイットマンまで、随分暗唱しました。 今でもハムレットやマクベスなどの有名な台詞はスラスラと出てきます。日本では言えば、鴨長明『方丈記』の「行ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とか『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」のようなモノですかね。こうした有名な詩編を暗唱しておくと、非常に役に立ちます。 そのほかに秋学期に履修したのは、基礎教養科目の「歴史学」。これもどういうわけかAでした。 面白い所では、体育の授業の「チームスポーツ」でBを取っています。 初めてそこで習ったのは、アメリカンフットボールを安全かつ簡略化したタッチ・フットボール。タックルの代わりに、地面にどちらかの足を付けたまま相手の体にタッチすればタックル成立とみなして、ミニアメリカンフットボールのようなゲームをします。これなら「密集で乱闘」みたいなことになりませんから、眼鏡をかけていても安心してプレイすることができます。なにしろラグビーから身を引いたのは、勉強のしすぎで、あるいは漫画の読みすぎで目が悪くなったからですからね。本当は、広いグラウンドを走り回るのが好きな性格なのです。 「花のクォーターバック」をやらせてもらって、パスやランをドンドン決めました。 グラウンドを使った、久しぶりの団体スポーツだったので、本当に楽しかったです。 それ以前に履修した「個人スポーツ」(同じく成績はB)では、水泳が上手くなりました。力の抜き方を覚えたので、クロールの息継ぎが楽にできるようになったんですね。それ以来、よく泳ぐようになりました。社会人になってからも水泳を続け、30~40代でも平気で休まずに1キロ~3キロくらいプールで泳いでおりました。 この学期のGPAは、3・38とまずまずでした。 (続く)
2023.09.10
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三年生の秋学期は、いよいよフランス文学を専攻する学生にとっても勝負の時です。 そもそも、当時はフランス文学を専攻する学生の担当教諭は荒木亨教授しかいませんでしたが、そこにクリスティーヌ・小玉先生という新進気鋭のフランス人女性講師が入ってきて、フランス語で授業をするようになったわけです。ICUには英語で講義をする先生は大勢いましたが、語学のクラス以外で、フランス語で講義をする先生は多分初めてのケースだったと思われます。 当然、フランス語ができることが前提になりますから、履修できる学生も限られてしまいます。私に関して言えば、フランス語を始めて一年程度で、大学レベルの文学の講義をフランス語で受けるのですから、本当に大変でした。 私は三年生のときに近代フランス文学Ⅳ、Ⅴ、Ⅵと一年間(三学期間)ずっと小玉先生の授業を取りましたが、生徒は私のほかに同級生が1人と、一年先輩が1人、それに聴講生として参加した大学院生1~2名だけの少人数ゼミのような授業でした。 履修した3人の学部生の中で一番出来が悪かったのが、私です。逆に一番優秀だったのは、先輩のKさん。Kさんの専攻は英文学だったように思いますが、フランス語もうまく、時々先生を深く感心させるような解釈や分析を披露するなど非常に優秀な学生でした。Kさんは実はテニス部の先輩(ただし女子)でもあり、ICU卒業後は東大の大学院に進学しています。 フランス文学を含めた専門科目の中では、小玉先生の授業こそ三学期ともCでしたが、ほかの先生の授業の成績はまずまずでした。1979年は確か荒木先生が一年間のリーブ(研究休暇)を取っていたため、クラスを持っていなかったように記憶しています。そのため、近代フランス文学Ⅳ、Ⅴ、Ⅵとほぼ同時に取った近代フランス文学Ⅰ、Ⅱ、Ⅲでは、早稲田大学から専門講師が来て、私たちにフランス文学を教えてくれました。私はスケジュールの関係で、春学期にⅠを取ることができず、秋学期からⅡ、Ⅲ、Ⅰの順番で履行したのですが、成績はA、A、Bでした。 しかしながら、この成績の良さにはからくりがあります。 秋学期にⅡを取ったときの学生が私一人だけだったんですね。本当はもう一人登録をした学生がいたのですが、出てこなかったために、秋学期はマンツーマンの授業となりました。受講生が1人だけでは、いくら何でも悪い点は付けられないわけです。ただし予習をやらないと授業になりませんから、毎回の出席と予習はmust、絶対やらないわけにはいかないわけです。 その近代フランス文学Ⅱでは、フランスの近代詩を劇的に変えたとされるギヨーム・アポリネールの詩集『アルコール』を中心に勉強しました。面白かったですよ。私の卒論で取り上げた不条理劇作家のベケットとも通じるところがありますから、非常にためになりました。アポリネールが書いた有名な詩「ミラボー橋」くらいなら、40年以上経った今でも暗唱することができます。 (続く) ご参考: Le pont Mirabeau by Guillaume Apollinaire Sous le pont Mirabeau coule la Seine Et nos amours Faut-il qu'il m'en souvienne La joie venait toujours après la peine Vienne la nuit sonne l'heure Les jours s'en vont je demeure Les mains dans les mains restons face à face Tandis que sous Le pont de nos bras passe Des éternels regards l'onde si lasse Vienne la nuit sonne l'heure Les jours s'en vont je demeure L'amour s'en va comme cette eau courante L'amour s'en va Comme la vie est lente Et comme l'Espérance est violente Vienne la nuit sonne l'heure Les jours s'en vont je demeure Passent les jours et passent les semaines Ni temps passé Ni les amours reviennent Sous le pont Mirabeau coule la Seine Vienne la nuit sonne l'heure Les jours s'en vont je demeure
2023.09.09
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大学の三年目は、大忙しの一年となりました。 まず必修科目の単位取得を基本にして、必要な専攻科目(私の場合はフランス文学)をしっかりと履修しなければなりません。 テニスはキャプテンとしての責任が増し、忙しくなりました。一年間にわたる練習カリキュラムを作って、部員全員の体力や実践・技術の向上を目指さなければなりませんからね。 同時に、そろそろ就職活動も視野に入れて、この時代多くの学生がやっていましたが、自動車の運転免許を取得する必要がありました。勉学や部活をしながら自動車免許を取るのは、結構大変でした。ICUの多くの学生は、自転車で通える尾久自動車学校で免許を取得します。私も友だちに自転車を借りて、暇な時間を見つけては自転車をこいで教習所に通いました。たぶん夏までには免許を取得したと思います。 勉強のほうは、以前にも話したと思いますが、フランス人のクリスティーヌ・小玉講師のフランス語の授業による厳しい指導に鍛えられながら(耐えながら)、卒論の構想を練る時期に入っておりました。小玉講師に付けば、卒論は当然、フランス語で書くことになります。 79年春学期の成績表を見ると、専門科目でイギリス人の教授が英語で授業する「19世紀英文学」がB(優に相当)、専攻学科「フランス文学史」もB、私の卒論指導教官となる小玉講師の近代フランス文学はC(良に相当)、必修科目の「聖書入門Ⅱ」がA(秀に相当)、教養基礎科目の「経済・経営学」もAで、結局GPAは3・21でした。前学期の3・40よりは落ちますが、まずまずの成績でした。 テニスは、一学期目(春学期)は全体的に部員の技術や体力の底上げに力を注ぎました。 ダブルスを組む場合も、上級生同士で組むのではなく、上級生と下級生でペアを組ませました。上級生が下級生にいろいろ教えて、試合の駆け引きなどを学ばせるわけです。一年前は、私もそうしてもらいました。 夏以降はいよいよ実践編です。 夏は、自由学園との定期戦を合宿先の山中湖で実施。 自由学園のナンバー1のO選手は、関東学生本戦出場者(いわゆる関東学生)ではありませんでしたが、それに匹敵するくらいのかなりの強敵です。 私はICUのナンバー1として対戦しましたが、一進一退を繰り返す大接戦。結局、私は第一セットを6-8くらいで落としてしまいました。第二セットも接戦で4-4になったところで日没。何とか引き分けに持ち込むことができました。 この試合で相手の強敵ナンバー1と接戦を演じることができたことが結構自信につながりました。テニスが上達するのは、結局強い相手と試合をするに限ります。 そこで秋以降は、関東学生がいる大学との練習試合を意図的に組むようにしました。 一度も現役関東学生を破ることができませんでしたが、専修大学の関東学生とは一セットはタイブレークに持ち込み、かなり競ることができました。駒大の関東学生からは6-2で第1セットを取る健闘。 武蔵の関東学生とも6-8で競るなど勝ちはしませんでしたが、いい勝負をすることができるようになりました。 四年生の元関東学生の前主将のOさんにもキダー杯の決勝戦で初めて勝ちました。 この時期、私自身随分強くなったように実感しました。 (続く)
2023.09.08
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さて、たぶんお待たせしていることはないと思いますが、私がICUの3年生だった1979年の時代に話を戻しましょう。 と、その前に、最近(2023年8月24日)、本当に久しぶりにICUテニス部の先輩に再会しました。私の4学年上の主将だったTさんです。ちょうど私が入学した年に卒業して、神戸製鋼に就職した大先輩です。 ちょうどすれ違いで普通なら会うこともなかったのですが、ICUのテニス部は卒業してからも現役部員とOBが集まって試合をするキダー杯というテニス大会が年二回あるので、何度かテニスコートで会っています。ちなみにキダー杯の名前は、当時テニス部の顧問だった考古学のキダー教授の名前を冠しております。 Tさんと会うのはおそらく40年ぶりであるうえ、お互い年を取ったので、最初は気づきませんでしたが、私はTさんの歩く姿を見て、Tさんだと確信しました。顔や身なりは変わっても、意外と動作や歩き方はずっと同じなんですよね。 テニス部の先輩でいうと、Tさんの一つ上にKさんというテニス一筋という感じの大先輩がいます。Kさんとは、3年生か4年生のときにキダー杯の決勝で一度対戦したことがありましたが、全く歯が立たなかったことを覚えています。 Kさんは関東学生本戦出場者で、大学卒業後はある大手印刷会社に就職しましたが、会社に直談判してテニススクール(ルネサンス・テニスアカデミー)を開設。そこの運営を任され、テニス選手の育成に尽力し、長塚京子(WTAランキング最高28位)らを育て、一躍コーチとして有名になった方です。今でもコーチ業をされていますから、人生をテニスに捧げたような方です。 ご興味のある方はこちら→ルネサンス鷹の台(https://lp.s-re.jp/especiallyschool)。 そのKさんと学生時代ダブルスを組んでいたのが一年下のTさんで、その四代下のキャプテンが私だったというわけです。 ということで、次回からは1979年にタイムトリップします。 (続く)
2023.09.07
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朝から富士山が見えなくても、夕方になってようやく富士山が見えることもあります。木立の間から山頂だけが雲の中に見えておりました。
2023.09.06
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ウォーリーを探せではありませんが、睡蓮の池に何かいます。睡蓮に溶け込んでいて、わかりづらいかもしれませんが、中央にいます。拡大すると・・・前にも紹介したことがあるカイツブリです。潜水の名手ですね。この日も何か音がしたので、カエルかと思って振り向いたら、カエルではなく(カエルも跳ねていましたが)、カイツブリが潜水を終えて顔を出したところでした。睡蓮の池は、かなりのお気に入りの場所のようです。さて、10月下旬に発売予定の新刊『前世は自分で診断できる: 迷いが吹っ切れ、不安が消える本』(河出書房新社)の著者校正は、来週半ば以降に始まる予定だそうです。カバーももうすぐ決まりそうです。決まりましたら、ご紹介いたします。
2023.09.05
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昨日紹介した9月2日の雲の続きです。本当に個性的な雲がたくさん出ておりました。中央の雲は翼を広げたような雲ですよね。Yの字にも見えます。夕日の下には富士山があるはずですが、この日は見えませんでした。そして、こちらも変わった雲です。巨大な戦艦にも、翁の顔にも見えます。最後は変わった図形?舟形と目の形が浮かんでいるように見えます。シンボル色に満ちた空の雲たちでした。
2023.09.04
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昨日はダイヤモンド富士を撮影しようと思ったら、この通り。すっかり低層の雲に覆われて、富士山は見えませんでした。それにしても、凄い雲のパレードです。上の写真を見てもわかるように、海面のそばを流れる低層の雲。龍のように細くたなびく中層の雲。そして上層は精乱雲のような雲が出ておりました。雲のオンパレード。富士山の前を幾層にも行進しているようです。迫力のある雲たちでした。
2023.09.03
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この地域のダイヤモンド富士の季節がやってきました。この時期、観察地点を微妙に変えるだけで、ダイヤモンド富士の撮影ができるわけです。昨日の成果はこちらです。ちょうど富士山の真上に太陽が着陸したように見えますね。久しぶりのダイヤモンド富士でした。
2023.09.02
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昨日(8月31日)は13年ぶりというスーパーブルームーンが各地で観測されましたね。私が撮影した午後7時7分ごろの写真。私のもっているコンパクトデジカメではこれが精一杯でした。ところで、その約4時間半前の8月31日午後2時半ごろ、再び日暈を観測しました。ただし完全な輪ではなく、半分ほどの輪。やはり何か宇宙界ではいろいろ動いているようです。
2023.09.01
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