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5月29日は最終日。エジンバラ空港のレンタカー会社に車を返して、精算を済ませます。そして、空港そばのホテルにチェックイン。空港そばのロータリーには、いつものようにウサギがいます。翌日の出発が早いので、いつも空港のそばに泊まるようにしています。5月30日。エディンバラ空港から、ヒースロー空港乗り換えで、日本に戻ります。窓から外を撮影。黒海のそばを通る南周りでした。これで5月17日から31日までの現地2週間の旅は終わりです。この後すぐに、『万物の霊性と共鳴する日本人の呪力』の著者校正作業が待っていたわけです。(終わり)
2024.09.01
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ジャックもマギーも、私たちも、いつまでも若いわけではありませんから、いつかは農場に来れなくなる日も来るわけです。その日がいつになるかはわかりませんが、記念の意味を込めて、農場の写真をご紹介しておきましょう。ラウンジ。食卓としても使いましたね。特等席です。庭。いつも本当に綺麗にしていますね。ちょっとした散歩の小径もあります。その庭とゲストハウス。お世話になりました。さて、旅も終わりに近づきました。エジンバラに向けて出発です。(続く)
2024.08.31
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5月27日。 久しぶりの晴れです。この日は、ダンディーからスコットランドの南へと車を走らせました。立ち寄ったのは、こちら。グレトナ・グリーン。イングランドとの国境に近い観光施設です。グレトナ不動産を持つ地元の一族が何世代にもわたって引き継いできたファミリービジネスの歴史が書かれています。今では一大観光名所に。元々グレトナ・グリーンが有名になったのは、1753年、ハードウィック卿の婚姻法がイングランドで可決して以来、イングランドでは両親の承諾を得た21歳以上の男女のみに結婚が制限されるようになったことが背景にあります。この法律はスコットランドには適用されず、しかもスコットランドでは非正規結婚が認められていたこと(二人証人がいれば誰でも結婚できた)から、わずらわしさを避けるため、多くの駆け落ちカップルがイングランドを逃れてスコットランドに入ってきた最初の町であるグレトナ・グリーンの鍛冶屋で結婚式を挙げるようになったわけです。で、その後、スコットランドでも非正規結婚は認められなくなったので、グレトナ・グリーンは今では駆け落ち鍛冶屋があった場所として、観光地もしくは実際の結婚式場に変身したわけですね。近くにはモールもあります。(続く)
2024.08.26
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この日はずっと雨模様。バルモラル城の後は、ハウス・オブ・ブルアでショッピング。その後、以前立ち寄ったクロフトモライグのストーンサークルを再訪しました。これがそのストーンサークル。そして、この日の宿泊地であるダンディーに。宿泊したダンディーのホテル。部屋から見た駐車場。まずまずのホテルでした。(続く)
2024.08.25
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5月26日。雨模様でしたが、せっかく王室の避暑地に来たので、英王室が夏の休暇を過ごす城として有名なバルモラル城まで来てみました。この橋の向こうにお城の敷地があります。ディー川。ディーというと、エリザベス女王(一世)お抱えの占星術師ジョン・ディーを思い起こしますが、この川の名前との関係はわかりませんでした。このディー川に沿った緑深き谷は、ディーサイドとよばれ、多くの人がトレッキングなどで訪れるようです。お城の管理棟。朝早くて閉まっていたため、中までは入りませんでした。再びディー川に架かる橋を渡って、次の目的地に向かうことにしました。(続く)
2024.08.24
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バラターでは、1860年代に教会として建てられた建物を改築してに宿泊施設に改造したベッド・アンド・ブレックファストに泊まりました。受付。ケント大学時代に出会った友人のジョイスに似た女主人でした。階段を上って、部屋へ。まさに教会という感じです。廊下。部屋からの風景。翌日の朝食。(続く)
2024.08.23
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5月25日。この日は、エルギン経由でスコットランドを南下し、英王室の避暑地として有名なディー川のそばにあるバラターまで進みました。ヴィクトリア女王時代から王室が利用していたバラターの駅は、今は博物館兼喫茶店のようになっています。内部には王室が利用したティールームがあります。中はこんな感じ。駅舎は改造されて、今はカフェレストランに。壁には、19世紀の写真などの資料が展示されていました。(続く)
2024.08.22
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桟橋に着いたフェリー。午後2時ごろ、予定通り出航。フェリーの中から窓を通した風景。島々を抜けて、スコットランド本土に向かいます。1時間半くらい乗ると、本土の山々が見えてきます。午後4時40分ごろ、対岸のアラプール港に到着。ここからその日の宿泊地に向けて車を走らせます。(続く)
2024.08.19
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ストーノウエイの港町でほかに撮影した写真です。町の繁華街。ちょっとした広場。案内板。喫茶店にも立ち寄りました。町の郊外にあるルース城。シティホールで開かれていたマーケットでは、ハリス島で2023年9月に撮影されたオーロラの写真を購入。その人によると、一週間前の5月14日にもオーロラを観測したそうです。来るのがちょっとおそかったですね。(続く)
2024.08.17
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5月24日。この日も曇りでした。移動の日で、ルイス島のストーノウエイ港からスコットランド本島のアラプール港に渡ります。午後2時出航のフェリーですから、それまでは港町ストーノウエイを散策することにしました。タウンホール。レストラン。約100年前の1923年にスコットランドの人たちの大移動があったようですね。その百周年を記念したイベントがあったことがわかります。スコットランドから北米などに向けて大勢の人たちが移住していきました。ちなみに私の祖父もこの数年前に日本からアメリカに移住した一人でした。世界中で民族の大移動が起きた時期でもありました。ストーノウエイのメインストリート。何軒か面白そうなお店が並んでおりました。(続く)
2024.08.16
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引き続きカラニッシュの写真。いろいろな角度から撮できるので、ここは面白いです。近くには丘があり、月はこの丘の上を渡ってゆくわけです。案内所兼お土産屋さんの窓からの風景。この日の探索はこれでお仕舞。ゲストハウスに戻りました。(続く)
2024.08.15
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ハリス島を一周した後に立ち寄ったのは、ルイス島のカラニッシュ・ストーンサークルです。北のストーンヘンジとも、月の神殿とも呼ばれています。もう、かれこれ5回か6回訪れているでしょうか。拙著『巨石文明ーー超テクノロジーの謎』(河出書房新社)でもカバー写真で使っています。もし一か月くらい滞在できるなら、夜オーロラとともに撮影してみたいです。天気がよくないと撮影できませんが、その価値はあると思います。オーロラは、運がよければ10月~3月に出現することもあるそうです。今年は当たり年で、5月中旬でも一度だけ見えたと地元の人が言っておりました。(続く)
2024.08.14
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ツイード博物館の中の展示物を見てみましょう。ツイードの切れ端をパッチワークにした木ですね。窓の外には海が見えます。こちらはおシャレな帽子。洋服。ツイード製作者をインタビューしたビデオも流されておりました。前に一度取材させてもらった人も出ておりました。(続く)
2024.08.08
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ヒルタ島の南端部。その先端の崖。で、これはその先端の先にあるダン島。左奥の水平線にも別の海食柱が見えていますね。スタック・レヴェニッシュ(Stac Levenish)です。さあ、そろそろ帰る時間です。船はスカイ島へと目指して帰路に就きます。さようなら、セント・キルダ。(続く)
2024.07.31
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余りにも暑くて、ちょっとお休みしておりました。さて、セント・キルダ の滞在時間も残り少なくなってきましたが、ちょうどナショナルトラストの現地ガイドで働く人の中で、親戚がセント¥・キルダに暮らしていたという地元の女性がおりました。時間もまだあったので、ちょっと話を聞いてみました。彼女自身はセント・キルダの生まれではありませんが、彼女の祖父母が最後の住民としてこの島に残っていたそうです。ながらくセント・キルダとは無縁の生活をしていましたが、定年退職した後、ガイドを募集していることを知って応募したところ、採用されたのだといいます。ですから、博物館の資料写真を見ると、当時暮らしていた多くの人と面識があり、懐かしく思い出されたと話していました。また、彼女の旦那さんがマールボロ大学出身らしく、キャンパス内にあるマーリンの丘について話が盛り上がりました。コナチェアの山頂に雲がかかっていますね。それにしても本当によく晴れています。後はゆっくりと、ボートの出港時間を待つことにしました。(続く)
2024.07.29
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羊の王国には若い世代が育っています。王国ですから、誰か人間が管理して育てているわけではなく、羊は野生のまま育っています。そして、こちらには・・・左奥に大砲があるのが見えます。第一次世界大戦の際に、島がドイツの潜水艦に攻撃されたことから設置されたと書かれていました。ダン島のほうに砲身が向けられていますが、一度も軍事利用されたことはなかったそうです。第一次世界大戦後、よりよい暮らしを求めて若い男性のほとんどが島を去り、残った男性も4名が1926年にインフルエンザで亡くなるなど、島民は1928年には37人に激減します。そして、先に紹介したメアリー・キリーズさんが1930年に病死したことをきっかけにして、残された36人も1930年8月29日にスコットランド本島に避難することになったとのことです。村の全景。現在は、ミサイルレーダー基地を維持するために、軍事関係者が常駐している以外は、この島を寄贈されたナショナルトラストのガイドら自然保護関係者が春から秋にかけて暮らしているだけとなっています。(続く)
2024.07.27
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ヒルタ島の人間の居住区の風景。こうして並んだ一軒一軒にそれぞれの歴史が刻まれているわけですね。そのうち一軒が博物館に改装され、村の歴史を知る貴重な資料を展示しておりました。こちらは人間の居住区から見た羊の王国の風景。19世紀に観光と宗教で脚光を浴びるようになったセント・キルダは、第一次世界s大戦中にイギリス海軍の信号所が設置されました。上の写真は、現在の島で働く人たちの居住棟です。(続く)
2024.07.26
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それにしても、見事に晴れ渡りました。この辺りでこれほど晴れ渡るのは、本当に珍しいことです。上の写真の説明をすると、中央をくの字型に走っている構造物は、人間の居住区と羊の王国の境となる石壁です。そしてその石壁に平行して右にくの字型に並んでいるのが、人間の居住区の住居跡です。まだ1時間半くらい時間があったので、住居跡や村の博物館を見学することにしました。住居跡の一軒一軒には表札が立っております。「No.15」 「Anne Cillies(アン・キリーズ)」「+son John(息子ジョン)」「+grandson Norman(孫ノーマン)」番「From No.10(10番から)」「1930」と書かれています。「アン・キリーズが10番から引っ越してきた息子ジョンと孫のノーマンと共に1930年まで暮らしてい」という意味だということが後でわかります。その住居跡の日陰でのんびりしている現在の居住者。こちらはNo.11の住居跡。クリスティーン・マックイーンさんが1930年まで暮らしていたと書かれています。次はアン・キリーズさんの息子ジョンが引っ越す前に暮らしていた10番。1930年当時はだれも住んでいなかった。ジョンとメアリー(1930年に死去)・キリーズが息子ノーマンと暮らしていた。メアリーが亡くなった後、15番へ引っ越した。と書いてあります。家の一つ一つに歴史があるわけですね。セント・キルダには約2000年間にわたって人が住み続け、多いときは200人近くの人が暮らしていたとされていますが、1851 年以降は人口も100人を切り、1930年には4島(ヒルタ、ソアイ、ダン、ボアレイ)のうち唯一の有人島であったヒルタから住民全体が避難しました。どうしてそうなったかいついては、次回以降に説明します。(続く)
2024.07.24
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遅れましたが、これがヒルタ島の全景地図写真です。①The Village(村)のそばのJetty(船着き場)から上陸して、右上の②Th Gapに行って村に戻ってきたわけです。それで大体2時間。あとの2時間は村を探索することにしました。人間の居住区の建物の影で休む羊たち。そしてこちらは・・・私たちが乗ってきたボートを見張ってくれている羊。・・・ではなくて、ただ草を食べている羊ですね。親子の羊でした。(続く)
2024.07.20
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ギャップから見た風景です。ちょっと右へ回り込んだら、ボアレイ島だけでなく、海食柱もよく見えてきました。手前にスタック・リー、左奥にスタック・アン・アーミンが見えています。右手方向にはオイスヴァルの崖。米粒のような大きさですが、崖のそばを歩いている人がいますね。しばらく豪快な景色を楽しんだ後、再び今来た道を戻って、人間の居住区に戻ることにしました。今度はひたすら下りです。居住区が見えてきました。ここまでが、お昼の休憩時間を入れて上陸してから2時間弱くらいでしょうか。多分午後1時頃になっていたと思います。(続く)
2024.07.17
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羊の居住区をさらに上へと進みます。羊の王国にお邪魔している感じです。人間の居住区を見下ろすと・・・下々の人間が暮らす村がはるか下の方に見えますね。「羊の王宮跡」に到着。開けた場所にありますね。正面が、コナチェアとオイスヴァルに挟まれたギャップ(裂け目)という場所です。その場所を目指します。まだまだ遠くの方にあります。振り向くと・・・台地の奥まで来ていたので、人間の居住区が見えなくなっておりました。湾とダン島が辛うじて見えています。(続く)
2024.07.14
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気配を感じたのか、写真を撮っていたらこちらを向いてくれました。コアラ顔の羊君。この石垣は、人の居住区と羊の居住区をわけているようです。もちろん、手前が羊の居住区。左奥がダン島。ここまで登ると、ヒルタ島との間に隙間があることがわかりますね。上の写真では、右側が羊の居住区です。羊の居住区の写真がこちら。羊小屋。雨風をしのぐ避難小屋みたいなものですね。(続く)
2024.07.13
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5月21日早朝。集合時間より10分早い午前6時40分には集合場所に到着しましたが、すでに7人ほど先着者がおり、説明を受けておりました。ここで、このツアーについて説明しておきましょう。スカイ島のステインから出航するツアーで、定員はわずか12名です。ほかに船の操縦士とガイドがいて、総勢14人がすでにご紹介した船に乗り込みます。ハリス島とユーイスト島のi間を通り抜けて片道4時間。セント・キルダに到着して、島い4時間滞在して、その後、周りの島々をめぐりながら、4時間かけてスカイ島に戻ってきます。つまり12時間のツアーです。もらったパンフレットの一部をご紹介しましょう。赤い点線がボートの航路。右の島がスカイ島で、ハリス島のそばを通って、その西のかなたにあるセント・キルダへのルートが描かれています。全員ライフジャケットを着用して乗船。船の簡単な説明を受けて、午前7時には出航しました。スカイ島に朝日が当たって綺麗です。水しぶきに虹が架かっていますね。スカイ島を後にします。船の中からの風景。左の方がガイドさんですね。いろいろ丁寧に教えてくれました。操縦しているのは、地元スカイ島出身だと話しておりました。 甥っ子にちょっと似ておりました。(続く)
2024.06.28
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翌日のセント・キルダへの一日冒険旅行の前に、もう一カ所だけ行くところがありました。何しろ、食料は自分で調達しなければならないうえ、午後7時ごろに戻ってきた後の夕食のことも考えておかなければならないからです。そこで、ステインの船着き場からもっとも近い町であるダンベガンで、翌日夕飯がとることができるかどうかをチェックしに行きました。ここがダンベガンの町の入り口。ダンベガン城で有名な町です。スカイ島を支配していた一族であるマクラウド家の居城として13世紀ごろに建造されたお城です。そのお城へは、初めてスカイ島を訪れた2010年に一度だけ訪れた記憶があります。ジーパンを履いて入場したら、「なんでそのような労働者の作業着を着ているのか」と、目に見えないおばあちゃんに怒られたことを覚えています。マクラウド家とは前世で関係があった可能性があるようです。このような入り江のある町です。駐車した車には、猫が涼みにきておりました。レストランが何軒かあり、午後9時くらいまでやっていることを確認。翌日はここで夕食をとることに決めました。(続く)
2024.06.27
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再びスコットランドの旅ログです。5月21日に訪れた絶海の孤島とはこちらです。セント・キルダ。イギリスの世界遺産になっている島ですね。上の写真は前日(20日)、ポートレーの町の本屋で購入した島のガイドブックの表紙です。まさに絶海の孤島。その本屋の店主も昨年、セント・キルダに行ったと話していました。21日は、スカイ島のステインという波止場から、片道4時間かけてこの島に上陸することになっています。集合時間が午前6時50分と早いので、道を間違えないように前日に下見に行くことにしました。ここがそのステイン。宿屋も並んでいます。ここがボートの発着場である桟橋。 沖合に泊めてあるボートに乗ってゆくわけです。これがそのボート。果たしてどのような冒険の旅が待ち受けているのでしょうか。(続く)
2024.06.26
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5月20日。この日は、オーバンから北上し、カイル・オブ・ロハルシュ(Kyle of Lochash)の大橋を渡って、スカイ島に上陸。この島には二泊します。スカイ島では、北東部にあるポートリ(Portree))という町で、食料を調達します。これがポートリーの街中。港に近い町で、高台からは海が見えます。ここで食料を調達したのは、実は翌日の「絶海の孤島ツアー」のためのお弁当の材料を買い込むためでした。孤島では飲料水を含め食料品は手に入らないからです。宿泊先のチェックイン時間にはまだ時間があったので、二日後にフェリーに乗る予定の港まで足を伸ばします。岬の中ほどに見えるのが、スカイ島の北の港ユーイグ(Uig)です。綺麗な緑と青ですね。右端に見えているのが、港です。(続く)
2024.06.22
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オーバンは大きな港町で、面白いお店がたくさん並んでいます。そこで2時間くらいショッピングを楽しんでいたら、結構つかれてしまい、ゲストハウスに戻ってからは部屋でのんびりすることにしました。窓から見える風景を観賞。上の写真はたぶん午後5時半ごろです。次は午後9時15分ごろ。ようやく日が陰ってきましたね。午後9時45分。ようやく夕暮れ時になりました。そして、朝です。午前5時半ごろですね。それから1時間たった午前6時半ごろ。もうすっかり昼間のように明るくなっておりました。5月のイギリスは、いつもこのように昼間が長いわけです。(続く)
2024.06.21
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キンタイア半島に到着。この半島の先端にあるキンタイア岬(Mull of kintyre)は、1977年にウィングス名義でリリースされたポール・マッカートニーの曲「Mull of kintyre (夢の旅人)」でよく知られていますね。Mull of kintyre Oh mist rolling in from the sea, My desire is always to be here Oh mull of kintyre当時ポールの農場があったそうです。旅に疲れたら、いつでも帰りたくなるような魂の故郷というような意味でしょうか。スコティッシュ・ワルツ風で、バグパイプも登場します。今回もそちらの方に寄っている時間はなくて、ひたすらこの日の目的地であるオーバンに車を走らせました。島から半島に渡ったのは、そのほうがアードロサンに戻るより、時間を大幅に節約できるからです。90分ほどのドライブで、目的地のオーバンに到着。オーバンの街中です。港の風景。 以前、ここからマル島にわたったこともありました。地図の右側側にある赤い点がオーバン港。中央の大きな島がマル島です。これは以前オーバンで泊まったホテル。海に面したホテルでなかなかした。しかし今回は、高台のゲストハウスに宿泊しました。そこからのオーバン港の風景がこちら。見晴らしのいいゲストハウスでした。(続く)
2024.06.20
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そうこうしているうちに、フェリーがロクランザの港に入ってきました。最初のころは緊張しましたが、しょっちゅうフェリーに乗り込んでいますから、ずいぶん慣れてきました。乗り込むとすぐに出航。といっても対岸のキンタイア半島は見えています。すぐそこですね。30分で対岸に到着します。上の写真では、左がアラン島で、右がキンタイア半島です。船から南を見ています。海峡の名は、キルブラナン海峡(Kilbrannan Sound)。間もなくキンタイア半島に上陸します。(続く)
2024.06.19
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向かった港は、アラン島に来るときに使ったブロディックの港ではなく、北のはずれにあるロクランザの港です。アラン島の北側は初めてだったのですが、自然が豊かできれいなところでした。45分ほどのドライブで、ロクランザに到着。フェリーの出発時間(午前10時45分)までにはまだ一時間以上あります。すでに先着の車が4台ほどあったので、その後ろに駐車します。時間があるので、車を置いてロクランザを散策。のんびりした小さな港町です。ロクランザ城。元々は13世紀に建造されたお城で、王家の狩りのための宿泊所だったとか。残存している建物は16世紀のものだと書かれています。港には小さいボート用の桟橋もあります。湾の対岸から来た老夫婦が、ボートで戻って行きます。「スコットランはいつもこんな天気だよ」と冗談を言っておりました。すぐそばには、マガモ君が泳いでおりました。(続く)
2024.06.18
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5月19日。窓から見た朝の風景。海岸には犬の散歩をしている人が見えます。曇っていますが、まずまずの天気ですね。雲間から日が差し込んできました。出発する前にちょっと散歩をします。すると、すっかり晴れてきました。 赤い縁取りの屋根の建物が、宿泊したゲストハウスです。白い車が借りたレンタカー。田舎では路上に駐車します。この日は移動日です。アラン島からキンタイア半島にフェリーでわたり、北のオーバンという港町を目指します。(続く)
2024.06.17
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アラン島に着いたのが午後1時半で、オウケンカールの立石とマクリー・ムーアの巨石群を見たら、もう午後3時半か4時ごろになっていたと思います。この時間から次にどこの遺跡に向かうかです。事前に下調べしてあった巨石群は、次のように地図に書き込んでおきました。本当は、最近ほぼ完ぺきな形で見つかった、西海岸のドラマドゥーンの遺跡群もみたかったのですが、この時間からでは行っている余裕はなさそうです。大幅に割愛して、島の南東の遺跡群を目指しました。その途中で立ち寄ったのが、この立石。キルドナンの立石(Kildonan standing stone)です。お結びというか、三角形の立石ですね。なぜこのような形になっているかというと、その答えは、上の写真の中央の水平線にあります。三角形の島が見えますよね。おそらくこの島の形を模したのだと思われます。富士山を模した富士塚のようなものですね。アルサクレイグ島(Ailsa Craig)という名前の、自動灯台のある無人島で、カーリングで使用されるストーンの原材料・ブルーホーン花崗岩は、この島で採石されるそうです。再び東海岸に戻ってくると、ホーリー島が現れます。この日はこの島が見える海岸のゲストハウスに宿泊しました。部屋からは目の前に海が見えます。(続く)
2024.06.16
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駐車場への帰り道。違った角度から写真を撮ります。他の訪問客が寝そべってくつろいでいる様子と巨石。こちらは立石の前で調べている観光客。そしてこちらは、行きには気づかなかった、道標としての立石。r写真中央、丘の上に立っています。おそらくこれが7号基と呼ばれている立石で、5号基と10号基を結ぶ線の中間に立っています。最後に、行くときには気づかなかった8号基。ちょっと南に外れたところにありますが、5号基や7号基とセットになっているように思われました。駐車場から、最東部にあるマクリー・ムーア巨石群の11号基までが約2キロ。ですから往復4キロとなり、ゆっくり歩くと1時間かかる計算ですね。もちろん途中、写真をとったり、調べたりしながら歩くわけですから、90分以上歩き回っていたことになります。ここだけで約1万歩は歩いたように思われます。この日はほかいも歩き回ったので、後で歩数計を見ると2万歩を超えておりました。(続く)
2024.06.15
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この日は本当によく晴れて、空はすごく青く見えました。この遺跡から見える場所にも、別のストーンサークルがあります。マクリー・ムーア1号です。で、この1号基の左奥に見えるのが、11号です。これがその11号基。遠くの山もよく見えますね。世界中、どこでも同じですが、高い山と山を結んだ場所には宇宙のパワーが宿ります。つまりパワースポットができるわけです。こうしたストーンサークルは、そのパワーの増幅器のようなものです。もちろんカレンダーの役割も果たし、同時に季節ごとの祭祀場として使われていたと思われます。そして、どの方角にどの山があり、どのように進めばいいかを示す地図および道路標識でもあったわけですね。ストーンサークルは、非常に役に立つ世界共通の多目的巨石建造物といえるのではないでしょうか。(続く)
2024.06.14
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マクリー・ムーアの5番から見えた立石はこちらです。マクリー・ムーア3番の立石です。高さは高さは4・3メートルもあります。元々は9つの立石からなるストーンサークルだったのですが、立っているのはこの一本だけ。幾筋もの縦の溝が彫られていることがわかりますね。この溝に水を流すことによって、大地に雷を誘導したのではないかとの説もあります。この場所からも次の巨石遺構を見渡すことができます。こちらは、マクリー・ムーア2番のストーンサークル。元々は7本か8本からなるストーンサークルだったとされていますが、現在は三本の立石しか残っていません。三本以外は、上の写真のように、根元の残骸だけが残っています。(続く)
2024.06.13
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駐車場のある場所から1キロ弱ほど歩くと、目の前に現れるのがこちらのストーンサークルです。マクリー・ムーアの5番のストーンサークルです。遠くに見える山が、標高512メートルの「Ard Bheinn(アルド・ベイン)」。ほぼ真東にある山です。春分や秋分の日にはここから太陽が昇るわけです。しかも、あの山の向こうにホーリー島があります。このサークルにはいくつか面白い石があります。自然に十字にひびが入ったのかもしれませんが、もしかしたら春分・秋分の日の出方向を示した「方位石」あるいは「カレンダー石」です。上の写真の「方位石」の右手前の石は、伝説の巨人戦士フィンガルが巨大な愛犬ブランを繋いでいたといわれる穴が彫られた石とされ、このストーンサークルの別名「フィンガルの大かまど台座石」の由来となとなっています。アラン島の名物ウィスキー「マクリー・ムーア シングルモルト」のデザインには愛犬ブランが描かれているとか。このサークルからは、他の巨石群を見渡せるようになっています。こちらの方角(北東)には、立石の間から遠くに別の立石が見えています。そちらに向かってゆきましょう。(続く)
2024.06.12
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マクリー・ムーアの巨石群の散策コースで、最初に出てくる遺跡はこちらの遺跡です。Moss Farm Road (モス・ファーム・ロード)と書かれています。ここにはかつて直径23メートルほどのストーンサークルに囲まれた墳墓(ケアン)がありました。4000年前の墳墓とみられていますが、石を利用するため破壊されてしまったようです。その後再建されて、辛うじてストーンサークルの痕跡が再現されました。「マクリー・ムーアのサークル10」とも呼ばれています。それではメインの巨石群に向かいましょう。まだまだ先にあります。黄色く甘い香りのするゴースがきれいに咲いておりました。(続く)
2024.06.11
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オウケンカールの立石の後は、以前にも立ち寄ったマクリー・ムーアの巨石群を見に行きました。車を駐車場に止めて、ゲートを超えて「羊の王国」に入っていきます。どこまでも羊の牧草地。そこを永延と歩きます。振り返ると、遠くにキンタイア半島が見えています。アップダウンが比較的少ないので、ハイキングや犬の散歩コースになっています。(続く)
2024.06.10
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ホーリー島の話でしたね。この島は長らく、癒しの泉が湧き出る聖なる場所であるとみなされてきたそうです。6~7世紀にこの島で暮らしていたとされる聖モレーズの洞窟もあり、13世紀の修道院の跡もあります。16世以降、何度か所有者が変わりましたが、1992年に熱心なカトリック教徒だったケイ・モリスが夢のお告げで、チベット仏教徒(ラマ教徒)に譲るように促され、比較的安値で売却したとのことです。今では観光客が訪れる人口30人ほどの島として知られています。同じラマ教徒で知られるリチャード・ギアも時々、島を訪問するのだと、アラン島の人が話していました。アラン島に到着して最初に向かったのは、港の反対側の西海岸。車を止めます。今回は白のアウディでした。アラン島の西海岸。遠くにキンタイヤ―半島が見えます。のどかな風景が広がっております。最初の目的地はこちら。オウケンカールの立石です。日差しが強いので立石の日陰で羊が休んでいますね。のんびりしていいい感じです。(続く)
2024.06.09
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北緯55度ーーこの緯度上には、面白いことに二つのホーリー・アイランド(聖なる島)があります。一つは巡礼地として観光名所になっているイングランド北部の東海岸二キロ沖にある島。別名リンディスファーン島で北緯55度40分にあります。もう一つは、スコットランドの西海岸クライド湾にあるアラン島のラムラッシュ湾の中にある島で、北緯55度32分にあります。イギリス北部の東と西をまるで門番のように、二つの聖なる島でガードしているわけですね。その西の聖なる島が、昨日紹介した、アラン島にのそばのホーリー島というわけです。二つの聖なる島を配置したことは、単なる偶然と思われるかもしれませんが、霊的には非常に大きな意味を持つように思われます。それを象徴するように、このホーリー・アイランドはアラン島を人の頭と見立てたときに、口の先にあります。右端やや下方にある島がそうです。今にも食べようと口を開けている横顔の口の先にある食べ物のように見えますね。これにも象徴的な意味があるように思われます。 (続く)
2024.06.06
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1時間ほど散策などをして暇をつぶしたでしょうか。ようやくフェリーがやってきました。接岸。中から車が次々と出てきます。全部出払ったら、我々の番。次々にフェリーに乗り込みます。アラン島までは1時間弱の所要時間です。 アラン島が見えてきました。綺麗な島ですね。アラン島は二度目です。アイルランドにもアラン島がありますから、間違われやすいです。アラン島の沖合に浮かぶ「ホーリー島」も見えていますね。次回はこのホーリー島について語りましょう。(続く)
2024.06.05
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ホテル空港から車で20~30分ほどのところにありましたから、おそらくホテルに到着したのは、17日の午後10時過ぎごろだったのではないかと思います。イギリスの夏時間は夜でも結構明るいのですが、薄暗くなっておりました。そのときホテルのロビーで出迎えてくれたのが、この子。と言っても、このワンちゃんは本物ではなく、オブジェなんですけどね。長旅で疲れていたので、すぐに休みます。ちなみに夕食はヒースロー空港で済ませておりました。翌18日。快晴です。例によって、時差の関係から早く起きたので、午前8時台にはチェックアウトを済ませて、目的地の西海岸の港に向かいます。港の名前は、アードロサン。ここからアラン島行きのフェリーに乗ります。港まではグラスゴーを経由して車で2時間弱。途中、軽く朝食を取っても、午前10時半には港に到着しておりました。10午前11時ごろチェックインを済ませても、午後12時半の出発時間までには時間があったので、港を散策することにします。待合室の建物の上にいたカモメを撮影。ここでスコットランド人の年配の旅行者夫妻と15分ほど話をして顔見知りに。後にフェリーの中でも一緒になったので、いろいろお話を伺いました。何でも妹がアラン島に住んでいて、これから訪ねに行くところだとか。毎年、家族が集まって、賑やかに過ごすようでした。お孫さんの写真などを見せてもらいました。まだ時間が余っていたので、すぐそこの灯台まで足を伸ばします。海鳥がプカプカ浮いていますね。ダウンの羽毛として使われるEider Duck(アイダ―・ダック)と呼ばれる海アヒルのオスです。名前はわかりませんが、草地には小さな花々が咲き誇っておりました。(続く)
2024.06.04
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搭乗した飛行機は英国航空。翼の先端が上に曲がった最新のエアバスでした。窓から富士山が見えます。富士山ともしばらくお別れですね。今回もアラスカ、グリーンランド、アイスランドの上空を経由する英国ヒースロー空港行きでした。片道14時間のフライト。ヒースローには現地時間で午後3時45分ごろ到着。自動入国審査の機械が私のパスポートをうまく読み取れなかったため、仕方なく普通の入国審査の列に並びます。こちらの機械はちゃんと読み取ったようです。ヒースロー空港内で少しのんびりした後、エディンバラ空港へ乗り継ぎましたが、出発が1時間遅れて午後7時45分に変更されます。結局、エディンバラ空港に着いたのは、一時間遅れて午後9時に。羽田を発ってから約20時間経過した計算です。すぐに予約したレンタカー会社で車を借りて、夕闇が迫る中、この日の宿泊先に向かいました。(続く)
2024.06.03
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日本を発ったのは5月17日午前でしたが、我が家から空港までは遠いので前夜は羽田空港に隣接するホテルに宿泊しました。そこから見える風景。夕食は羽田空港で。英国風パブを堪能。そして17日朝。快晴でした。(続く)
2024.06.02
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富士山といえば・・・・i恐竜・・・・!?久しぶりに訪れたら恐竜のオブジェが歓迎してくれました。奥に見えるのが富士山です。あと三日。ようやく目途が立ってきました。
2024.04.29
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静かで綺麗な砂浜ですね。さて、須崎半島に別れを告げて、西伊豆方面へと向かいます。途中立ち寄った山神社。いい感じの社ですね。こちらは山神社の力石と書かれています。右の石は88・6キロ、左の石は123・2キロもあるそうです。この石を背負って、拝殿脇の階段を上り下りしたという記録があるとか。何かご利益があったのでしょうか。それとも「シジフォスの石」?立石もあります。こちらはご神体石のようですね。明治28年建立とあります。不思議な神社でした。(続く)
2023.12.29
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12月19日は、本当に久しぶりに伊豆半島の下田へ。途中、あたみ桜の開花に驚きつつ、午後3時ごろには伊豆・下田の宿泊先に到着しておりました。白浜海岸です。子供のころは、夏休みにはよく下田近辺で海水浴をしておりました。夏の海の定番ですね。遠くには大島が見えます。その後、八丈島や奄美大島、徳之島などにも行くようになりましたが、夏の海水浴の原点がここ下田にあります。ふと、空を見ると・・・おお、UFO雲が出ていますね。UFOといえば、前日18日の夜、秋山事務所で取材した後、外に出たら秋山氏が「UFOだ」と言ったので撮影した「遠くのオレンジ色の光」を拡大すると、次のように写り込んでいました。何か構造を持った発光体に見えますから、UFOの可能性がありますね。話は再び下田に戻ります。こちらは南国のクリスマスという感じでした。(続く)
2023.12.24
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大イチョウのすぐ隣には、小さな社があったのでお参りします。それにしても、辺り一面銀杏の世界です。イチョウのカーペットも半端ではありませんね。遠くの山々も紅葉しております。そばにある柿もたわわに実っております。右側が柿の木です。旅館に帰る途中、虹が見えました。運転していたのですぐには車を止められず、写真は撮れませんでしたが、道の駅の駐車場に着いたときもまだ虹が架かっておりました。ただし、肉眼ではまだはっきりと見えたのですが、写真に撮ると・・・既に薄くなっていてほとんど写っていませんでしたが、ちょうど中央の並木の切れ目のところがうっすらと虹色になっておりました(心眼で見ると、少しだけ他よりも紫やピンクがかって見えます)。大イチョウを見たすぐ後に架かった虹。非常に素晴らしい光景を見させていただきました。(続く)
2023.12.17
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野沢温泉の湯沢神社の境内には、巨木が鎮座しております。それがこちら。湯沢神社の神木である大杉です。天にも届かんばかりの巨木ですね。私のコンパクトデジカメでは全貌を捉えることができませんでした。野沢温泉の隣の飯山市瑞穂の神戸(ごうど)集落にも巨木があります。それがこちら。神戸(ごうど)の大イチョウです。こちらも見上げるばかりの巨木。樹齢は500年を軽く超えるとか。黄葉の真っ最中。しばし見入ってしまいました。(続く)
2023.12.16
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泊まった旅館。いかにも温泉宿という感じですね。翌日はスキー場まで散歩。結構、雪が積もっていました。スキー場のリフトとロープウェイの試運転が始まろうとしているところでした。待ちきれない外国人スキー客の中には、歩いて登って、スキーやスノーボードを楽しんでいる人もいました。上の写真の標識を見るとわかりますが、ここには日本スキー博物館があります。私は子供のころからスキーをしていたので、懐かしいスキーが展示されておりました。このような金具がついたスキーを使っていました。竹のスキーを履いていたこともあります。始めたのが5歳くらいだったので、最初は大人についていくのが大変でしたが、8歳くらいになったら、もうかなり自由に滑れるようになっておりました。(続く)
2023.12.15
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