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平塚らいてう (女性活動家) 「ひどく恥らうもののように、ひざを曲げ背をかがめて、いかにも不安定不均衡なかたちで立っている貧しげな、一人の異様な田舎婦人。下ばかり向いて、独り言のようになさる関西弁のお講義は学生にとってひどく退屈な時間であった。」窪田空穂 (歌人) 「大柄な身に思い切り派手な絞りの浴衣を着て、やや横っ尻に座り、片手を畳について、顔を伏せ気味にしてものをいう晶子の様子は、若い女性の羞恥とも、甘え気分の嬌態とも見えるのであった。・・・・・平塚雷鳥は野暮な田舎もののように書いていたが、私には、むしろ魅力的な、めずらしく厚みのある女性に感じられ印象は違うものだと感じた。」佐藤春夫 (作家) 「晶子さんは、要するに一種のヒステリー女性でしょう。ヒステリーと天才とは相通ずるところのあるものですね。ヒステリー女のやさしさと激しさを持った人です。」 与謝野光 (晶子の長男) 「貧しい家庭で玩具ひとつ買えない日常で、どうして子供を楽しまそうかと、私が幼児のころは枕辺で毎晩おとぎ話をしてくれたものです。西洋のおとぎ話もしてくれましたが、多くは母の創作になるものでした。美しい貝の中へ入っていく話しやお菓子の家の話は子供が何回も話して欲しいとねだったものです。話の筋を子供の望みで、どのようにも変えてくれました。」
May 31, 2005
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晶子の秀歌は、他人が秀歌と思うものと本人がそう思うものと違っている。岩波の自選歌集で晶子は、みだれ髪の時代を「嘘」の時代と言っており、「この嘘の時代の作を今日も人からとやかく言はれがちなのは迷惑至極である。」、「教科書などに質の著しく粗悪でしかない初期のものの中から採られた歌の多いことで私は常に悲しんで居る。」と書いている。従って、晶子は全体が2,963首からなる「自選歌集」のうち「みだれ髪」からは、わずか14首しか採らなかった。初期の官能的浪漫主義だけが持て囃されて、晩年の枯淡な叙景歌は無視されていることが心外だったのであろう。次に、わたしの自選、他選でいくつかを拾う。・清水(きよみづ)へ祇園をよぎる花(原著は桜)月夜こよひ逢ふ人みな美しき(みだれ髪)・やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君( 〃 )・何となく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな( 〃 )・鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな( 恋ごろも )・金色(こんじき)のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に( 〃 )・ゆるしたまへ二人を恋ふと君泣くや聖母にあらぬおのれのまえに( 舞姫 )・三千里わが恋人のかたはらに柳の絮(わた)の散る日に来る( 夏より秋へ )初期のものから拾い出した。私も結局、晶子から嫌われる選歌になってしまった。
May 29, 2005
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晶子は、明治44年8月7日、平塚らいてうを中心に女性だけで発刊し、女性運動をリードした雑誌「青鞜」の創刊号にこの有名な詩を書いた。ご存知のとおり。 山の動く日来る かく云へども人われを信ぜじ。 山は姑く眠りしのみ、 その昔に於いて 山は皆火に燃えて動きしものを。 されど、そは信ぜじともよし。 人よ、ああ、唯これを信ぜよ。 すべて眠りし女、今ぞ目覚めて動くなる。女性を山に譬えて、その動くときが来たというのだが、私は余り良い譬えとは思わない。山は、「社会」、「制度」そして、その山を動かす力、情熱を女性が持つときがきたという作りの方がよいと思う。常々母なるもの、女なるものは、大地とか海とかの方がぴったりと来ると思っているから・・・・。8歳上の先輩晶子に投稿してもらった、らいてうは大喜びだったが、その原稿を依頼に行ったとき、晶子が「女は所詮、男には敵わない」、イプセンの「人形の家」のノラの家出は、「女としての我慢が足りない」と言われたことにらいてうはひどく傷ついていた。らいてうは、晶子の「母性偏重を排す」(太陽)、「自重を知らない母」(太陽)、「女子の徹底した独立」(婦人公論)に対して徹底してかみついた。この論争は、要約すれば「女性への権利付与と母性保護、生活救済は国家と社会の責任である」とするらいてうと、「女性とていたずらに男子に寄食するばかりでなく経済力も身につけ、自己責任を負うべきである。」とする晶子の見解の相違である。私見を申し上げると、両者とも正しい。しかし、新しい時代を作ろうとするときの方向、流れとすれば、わが大好きな晶子には分がない。残念。しかし、姉のように相手をたしなめるように、受けて立ちながら反論する文章は、さすが晶子。
May 27, 2005
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晶子の超人的仕事・・・それは源氏物語の翻訳。翻訳というのはおかしい。現代語訳というべきであるが、しかし、同じ日本語なのに我々にとっては、異国のことばと思えるくらいなのに。晶子は25歳ころから「源氏物語」の講義や講演をしていた。31歳のとき小林政治(天眠)と出版契約を結び、本格的に訳を開始し、33歳から36歳にかけて新訳源氏物語抄訳3巻を発刊したが、残る大部分は、未発表のまま大正12年9月あの関東大震災の際、文化学院に預けてあった原稿をすべて焼失。14年間の努力は全て水泡に帰した。その後、しばらくは源氏を書き直す気力も失せていたが、昭和2年ころより再度執筆開始、ようやく3分の2くらいまで書いたとき、昭和10年、夫鉄幹の死に見舞われた。しかし、一念発起し、昭和13年10月から14年9月までかけて金尾文淵堂から1巻から6巻までを出し、完結した。この間、文化学院の授業、短歌作り、講演会、出産、子育てをやりながらの完成である。25歳から始めて61歳までなんと35年間余・・・・!この超人的な努力には頭がさがる。上野、精養軒で行われた盛大な祝賀会で、晶子は「出版社と夫のお陰と」涙ぐんだ。源氏の現代語訳には、谷崎潤一郎、円地文子、田辺聖子、瀬戸内寂聴・・などがあるが、晶子のものは、自分の文学的才能を発揮した大胆な意訳と巻頭毎の自分の短歌に特徴がある。正確な逐語訳や資料添付などとなれば瀬戸内寂聴にはかなわない。蛇足であるが、内村鑑三「後世への最大遺物」の中で、イギリスの歴史家カーライルが、友人の不注意で生涯をかけて書いてきた「フランス革命史」の原稿を焼失してしまったとき、自分の傲慢さに気づき、不屈の精神で再び書き直したことが、書かれている。とにかく晶子の精神力には感激を覚える。
May 22, 2005
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生涯に3度熱烈な恋をした女、与謝野晶子しかも相手は同じ亭主である与謝野鉄幹に・・・・。1 「明星」主宰の鉄幹を「星の子」と惚れ抜いて、大阪堺から東京の妻子ある鉄幹のもとへ出奔したときが第1回 「やは肌のあつき血潮に触れもみでさびしからずや道をとく君」2 亭主をフランスへ送り出した晶子は、心が空洞になってしまい、亭主が恋しくて、居ても立ってもいられず、フランスまで追いかけたのが第2回目 「君こひし寝ても醒めても黒髪を梳きても筆の柄をながめても」3 主人鉄幹が昭和10年3月26日、晶子を残して死んだあと晶子は放心状態になり、ほとんど毎日泣いていた。改めて自分が鉄幹を恋していたことを思い知ったのが第3回目 「人の世に君帰らずば耐へがたしかかる日すでに三十五日」 「一人出て一人帰りて夜の泣かる都の西の杉並の家」
May 21, 2005
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パリ滞在中、晶子は前から尊敬していた彫刻家アウギュスト・ロダンを訪問した。ロダンに学んだことのある有島武雄の弟生馬(信州新町に美術館がある)の紹介状が役に立った。アトリエで晶子を迎えたロダンは、晶子の着物がきれいだといって誉めた。晶子はロダンの声と話に聞きほれてしまった。話の中でロダンは、荻原守衛(碌山)(穂高に美術館がある)を激賞したという。晶子が帰るとき、ロダンは自分の写真にサインをしてくれ、晶子の右手に接吻をした。晶子は巨匠の自然で優雅な振る舞いに感動した。パリ滞在中に妊娠した晶子は、帰国後、4男を出産したが、このときの感激を忘れず、ロダンの名をとって、アウギュストと命名した。ロダンにそのことを知らせる手紙を書き、ロダンは祝福の返事をくれた。迷惑な名前をつけられたアウギュストは、大人になってから本人申請で改名し、「いく」(漢字で書くと日の下に立と書くが、この日記には、使用できない漢字らしい・・。エラーが出てしまった。)となった。
May 17, 2005
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明治44年11月8日、夫鉄幹は自分の行き詰まった仕事を打開し、新規一転するためフランスへ旅立った。船旅であった。夫の洋行を勧めた晶子も夫を思う気持ちが高揚し居ても立ってもいられず、翌年5月5日、7人の子供を夫の妹に預け、自分も敦賀から汽船で出発。ウラジオストック・ハルピン・バイカル湖・モスクワを経由して、19日朝パリ北駅で出迎えの夫の胸に飛び込んだ。盗難に遭い、体調を崩し過酷な鉄道の旅であった。モンマルトルの丘の南のアパルトマンでのまるで新婚のような生活。晶子にとっては夢のような世界であった。「物売りにわれもならまし初夏(はつなつ)のシャンゼリゼの青き木のもと」「ああ皐月(さつき)フランスの野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟」 晶子はツール郊外の丘陵に一面に咲く真紅のコクリコ(ひなげし)に心を 奪われていた。
May 15, 2005
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大変失礼ですが、晶子のこの有名な短詩「あヽ弟よ君を泣く・君死に給うことなかれ・親は刃を握らせて・人を殺せと教えしや・人を殺して死ねよとて二十四まで育てしや・旅順の城は滅ぶとも滅びずとてもなにごとか・・・」を読んだことがありますか?「君死に給う・・」のタイトルだけは大変有名なので言葉は聴いたことがおありでしょう。日露戦争が2月10日に開戦した明治37年9月号の「明星」に掲載されたものです。晶子は純粋な気持ちで堺の旧家を継ぐ弟が無事で帰ってきてくれと歌ったのですが、そのあと、東大出の文学博士、大町桂月などから一斉に「不忠、危険思想、国家罪人」などと非難を浴びました。晶子は直ちに、「明星」11月号で「ひらきぶみ」という形で堂々と批判に答え反論をしました。「あなたのような大家ともあろう方が、このちっぽけな女の純粋な気持ちを踏みにじるのですか。」と皮肉たっぷりに反論しています。この反駁の影に夫・鉄幹の支援があったことは言うまでもありません。
May 14, 2005
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晶子が美男子が好きだったというのは、推測の域を出ないが、東京から大阪へやってきた与謝野鉄幹は、背が高く面長の男らしい顔をしていて、一見無骨そうだが、女の人には、誰に対してもやさしかった。晶子は自分だけに好意を示してくれていると思って勘違いをしてすっかり鉄幹を好きになってしまった。あとから鉄幹を巡る女性たちの状況が分かってくるが、それでも一途に彼を思い慕って死ぬまで夫に恋をし続けた。立派である。しかし、晶子は、関西文学の河野鉄南、北原白秋、平野万里、水野葉舟など美男子と言われる人たちには、とても親切であったといわれている。ところで、有名な「やは肌のあつき血潮にふれもみでさびしからずや道を説く君」(みだれ髪所載)というのは、鉄幹のことを歌ったのではなく、関西文学の河野鉄南のことだという説がある。鉄幹に会うまでは、晶子は、鉄南に恋心を持ち何通も恋文を書いていたからである。しかし、鉄幹の登場は晶子の考え方と人生を全く変えてしまった。この歌が鉄幹と会ってのち「明星」に発表されたことを考えると、「君」は鉄幹説が有力である。
May 12, 2005
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1901(明治34)年1月9日のことであった。京都粟田山の辻野旅館で晶子は、妻子ある与謝野鉄幹と結ばれた。歴史的な事件である。俵万智は、「栗田山」と書いていたが、間違い!くりでなく、あわである。鉄幹はしばしば「新詩社」発行の「明星」の宣伝のため、関西文学界の会合に顔を出し、投稿等を呼びかけていたが、本当は、彼は山川登美子の方に関心を持っていたが、彼女は若狭の小浜の出で士族の家柄ゆえ簡単に誘いにのるような人ではなかった。一方、晶子は商家で忙しかったが、自分で判断できる環境にあった。鉄幹は、次善の策で、晶子に声をかけた。晶子は、天にも上る思いではせ参じた。粟田山へ・・。「ふるさとを恋ふるそれよりややあつき涙ながれきその初めの日」(晶子)。鉄幹27歳、晶子22歳。鉄幹にはそのとき、東京の自宅に妻、滝野と子がいた・・・・。
May 7, 2005
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歌人与謝野晶子は、1878年大阪府堺市甲斐町の菓子の老舗、駿河屋、鳳(ほう)家の娘として生まれた。実兄鳳秀太郎は、東大工学部教授で電気工学の権威、雷の研究家。与謝野鉄幹と結婚し、11人の子供がある。長男の光は慶応大学医学部卒、東京都衛生局長などを歴任。二男秀(しげる)は外交官、イタリア大使等を歴任、東京オリンピック組織委員会事務総長をつとめた。秀の長男、馨は、政治家。小渕内閣の通商産業大臣、現在の小泉政権では、自民党政務調査会長として郵政改革問題の真っ只中にいる。晶子と鉄幹の子供たちの結婚により作家有島武雄、作曲家山本直純などと姻戚関係にある。ほかに色々あるが、細かいことを書いても仕方ない。以上どうでもいいことを書いてしまった。
May 5, 2005
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