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晶子の写真を見たことがあるだろうか?身体と首が右へ傾き、猫背でややうつむき加減の、しかし目だけはぎょろっと前を見つめている、そんなものばかりである。しかし、黒髪だけは自慢だったようで、髪の毛を頭の上に高く結いあげたものや髪を梳いて長く伸ばした写真も多い。その中で、広いつばとその上に花を飾った大きな帽子を被った写真があるが、これはフランス滞在中の影響が大きい。一方、和服をややはだけて着ている姿も多い。これには、理由があり、長時間の原稿執筆に楽なように自然に緩めるようになったといわれている。晶子がパリを初めて散策した日、晶子はこの日のために、日本から誂えていった友禅の振袖を着た。それに白地の帽子を被り、足袋と草履をはいた。なんともちぐはぐなスタイルであった。しかし、晶子は「日本の伝統美をパリジェンヌに教えてやる」という気構えであった。一緒にいた夫・鉄幹はそんな服装はよせとは言わない。かえって晶子の大胆さに感激したようである。しかし、その後は、注目され過ぎたのか、フランス滞在中の晶子は、通常のドレスと大きな帽子のスタイルになった。感想・・・1 晶子の物怖じしない性格に感服。 2 鉄幹の妻を指図しない寛容さに感服。
July 30, 2005
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西村伊作は、明治17年和歌山県生まれ。父がキリスト教徒であったため、旧約聖書の中の信仰の祖アブラハムの子であるイサク(Isaac、英語読みならアイザック)の名をとって付けられた。大山林地主で、画家、陶芸家、洋式住宅の設計家。東京と関西に設計事務所を持ち、教会設計などを手掛けた。倉敷教会の設計が有名である。彼の長女アヤが小学校を卒え女学校へ進学することになったが、彼には、自分の娘に合った学校が見当たらなかった。そこで、大正9年夏、伊作は、神田駿河台に新しい女学校を作るため、与謝野鉄幹夫妻、画家の石井伯亭、木版画の伊上凡骨らを軽井沢へ招いて相談をした。大正10年開校。文学、美術、音楽に重点を置いた学校となった。晶子と鉄幹は、最初から学監(教授)として参加、学校の規約づくりに携わった。晶子は、「文化学院の設立について」という趣意書の中で「個人個人の想像力の発揮」を強調している。学院では、晶子は主に和歌、平家物語、徒然草などの講義を中心に授業を行った。当時教鞭をとったのは、与謝野晶子夫妻、山田耕筰、石井伯亭、高浜虚子、有島生馬などであった。「学院のテラスの薔薇の花咲けば鵠の羽かげにあるここちする」(晶子)
July 18, 2005
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石川啄木に関しては、文学的業績は認めるものの、私生活が女性問題や借金などあまりにだらしなさ過ぎたという批判をよく聞く。たしかに、そのような、面はあったようだが、彼があまりにでたらめだというなら、啄木の最後を看取った若山牧水のような友人も、また、啄木の死後「悲しき玩具」を発刊してくれた土岐哀果のような友人も持てなかったであろう。性格破綻者のように言うのもよくない。明治35年10月27日、盛岡中学を退学した啄木は、11月9日新詩社の集会に出席、これが鉄幹との出会いであった。翌10日、啄木は鉄幹宅を訪問し、この青年を鉄幹夫妻は快く受け入れた。鉄幹はこの日の啄木について、「初対面の印象は、率直で、快活で、上品で、敏慧で、明るいところのある気質とともに、豊麗な顔、・・・・全体に颯爽とした少年であった。」という好印象を持ち、啄木は、社友に加わることになった。鉄幹は後日啄木に、短歌より詩を書いたらどうかと勧めた。また、それまでの啄木の雅号「白蘋」では寂しいので、啄木の詩の中からとった「啄木」という名でどうかと明星に発表した。晶子も自分が赤貧洗うがごとき生活の中で、啄木のため浴衣をこしらえてやったり、何日も泊めてやって世話をした。しかし、啄木は、晶子は姉のように慕ったが、彼の日誌によると鉄幹には、批判的で殆ど評価をしていなかった。むしろ敵対心を持っていたことが分かる。啄木は、桜のはらはらと散る明治44年4月13日に肋膜炎のため死去。当時彼は東京朝日新聞校正係に籍を置いていたので、朝日新聞が多少大きく記事を載せたが、ほとんど世間からは注目されることがなかった。このとき晶子は、5月5日に、鉄幹を追ってフランスへ行く間際であったにもかかわらず、東京朝日新聞、萬朝報、東京日々新聞へ多くの追悼歌を載せた。 「しら玉はくろき袋にかくれたりわが啄木はあらずこの世に」 「近き日に旅に行くべき心よりはかなごとにも涙こぼるる」
July 10, 2005
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私は、少年の頃から有島武郎の情死事件には少なからずショックを受け、そのこともあって、彼の作品を読もうという気にはなれなかった。加えて彼がクリスチャンであることを知ってからは何か割り切れないものが募った。与謝野寛は、第一次「明星」時代、武郎の弟、画家有島生馬を通じて彼と知り合いになったが、学習院出の地主の息子と肌が合わず、深い付き合いはなかった。一方晶子は、生馬に絵を習っていた時期に武郎と親しくなり、お互いの本や手紙を交換するようになった。当時文壇の寵児であった武郎は、妻を亡くして以来独身であったので、女性の人気は凄まじく、晶子は「まるで光源氏のようですね。」と冗談を言ったほどであった。晶子は武郎から四、五十通の手紙を受け、中には殆ど恋文のようなものまであったという。婦人公論の女性記者、波多野秋子は、美貌と聡明さで鳴らしていたが、彼女が武郎に近づいてからは、武郎は秋子の虜となり、晶子への情熱は薄れていった。大正12年6月6日、武郎と秋子は突然失踪し、軽井沢にある武郎の義兄の別荘で、1ヶ月後の7月7日、心中しているのが発見された。晶子は、武郎とのやり取りの中で、本当に心をゆるしていたのは、秋子ではなく自分だと思っていたようである。鉄幹の目や大量の仕事、子供の世話等がなければ、武郎へ走っていたかもしれない・・・。晶子生涯唯一の危機であった。「君(武郎)亡くて悲しというをすこし超え苦しといはば人怪しまん」(晶子)関東大震災の2ヶ月前である。
July 3, 2005
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