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大掃除と、放送大学の講義にハマってしまって、なかなかブログを書いている時間がとれなくなっているが、なんとか久しぶりに書く。巷は裏金議員が開き直り、政治の大掃除半ばで、中断を余儀なくされているが、問題を先送りすればするほど、この国の混迷が深まっていくだけにすぎない!番組表 | 放送大学 (ouj.ac.jp)このままでいくと、シュタイナーの予言などで話題の、この国の滅亡もカウントダウンに入ってきているような、来年辺りに、現実的になってきているような気が、元旦からの能登震災などや一連の飛行機事故などで、なんとなく明らかになりつつあるほどの、モラルハザードのこの国への侵食ぶりでもある。巷の低レベルな政治、カネのかかる政治家たちにつきあっているほど余裕はないので、とにかく、大掃除が必要な事に変わりはなく、政治家たちのやる気次第で、国民ができることは、裏金議員らの選挙にカネがかかるという名目の買収集票マシンによる組織票の選挙に負けないように、モラルを問いかけ、世論を活気するしかないので、神秘学の学びを続ける。このブログでも何度も紹介したが、子どものとき、アニメ一休さんが大人気で、野球漫画でも、一球さんができたぐらいで、差し詰め、いまの大谷選手のような存在だったかもしれない。その一休さんに、どちて坊やという、なんでも質問してくる面倒くさいキャラが登場していたのが印象的だった。一休さん - Wikipedia一球さん - Wikipediaどちて坊や 知ってます? | 【みきさん家に遊びに来ない?】大阪高槻⭐︎インナーチャイルドカード・アロマ・サンキャッチャー (ameblo.jp)どちて坊やは、将棋の千日手のような存在で、例えば、哲学的な話をしていると、たまに、どちて坊やみたいな、あれこれと疑問をぶつけてくる人物に出くわすが、そのような人は、疑問をもつことに疑問をもつべきで、なんでも他人に解決や答えを求める、その無責任な姿勢に疑問をもたないので、このような人に出くわすのは、事故に遭うようなものといえる。この、どちて坊やのような、自分の疑問を、自分で解決しようとしない人は、なぜ、人は、疑問をもつのか?を考える必要がある。思考力が足りないのはいうまでもないが。確かに、学問は、言葉の通り、問いの、疑問からはじまり、その疑問を解決する叡智を獲得する、学びであり、俗にいう、叡智の物真似といえるかもしれない。叡智とは、宇宙や自然の振る舞いや運行であり、プロセスである。逆説的にいえば、叡智が不足しているから、疑問が生じるわけでもある。だから、自分よりも叡智溢れる存在や出来事に出くわすと、驚きとともに、どうしたらそのような存在や出来事と調和できるのか? 自分とは、自分が見慣れた環境とは、どこかどう違うのか? と疑問が生まれるのである。頓智溢れる一休さんに、どちて坊やが出てくるように。つまり、未知な存在に遭遇し、驚きが生じるのは、叡智が不足しているからである。さて、前回は、現代人よりも古代ギリシアの哲学者が遥かに賢く、更には古代エジプト人のほうがより遥かに賢いのを紹介してきたが、それは健全な精神には健全な肉体が宿る、という格言からも明らかで、というのは、人間の肉体は、人間の精神からつくられ、人間の自我は、いわば肉体の画家だからである。人間は生まれたときには、親からの遺伝子を通じて、その肉体を見本として引き継ぐ、いわば画家のデッサンのモデルのようなものである。モデルに囚われたままだと、蛙の子は蛙と、親によく似る大人になるが、モデルを発展させて、自分なりのアレンジが加わると、親には似ない、鳶が鷹を産むというような、親とは異なる大人になる。つまり、現代物質科学からいえば、遺伝から自由になれる。つまり、それは人間の自我の自由性により、自我がどのくらい叡智を獲得したかによる。人智学では、自我が、前世からのカルマによる物欲を克服し、物質的な遺伝の束縛を解放し、叡智を獲得した状態を、霊我=マナスと呼び、そして、更にアストラル体にも、霊我を浸透させて、叡智を獲得した状態を、ブッディと呼び、そして、エーテル体にも、霊我を浸透させ、叡智を獲得した状態を、アートマと呼んでいる。現代人が、古代エジプト人よりも遥かに愚かなのは、健康が与えられるもの、と思っていることである。外見でさえも、異なっているのに、他の人の健康が、自分の健康とほとんど同じと思い込んでいる。叡智の獲得状況や、知性も人それぞれなのに、健康だけは皆同じに与えられる、というのは、不公平にみえないだろうか? 唯物論に洗脳された物質科学では、肉体だけをもって健康を漠然と定義しているが、健康という言葉だけ独り歩きして、肝心の人生の目的はどうなのか?シュタイナーは、健康とは、何らかの人生の目的のために相応しい道具にすぎなく、健康のために健康になるのは、カネと同じで、金儲けのためにカネを稼ぐのと同じで、道具のために人生の目的を台無しにしては元も子もない、と説いている。カネも健康も、人生を豊かにする道具にすぎない。カネも健康も、人生の目的を叶える手段や道具にすぎない。だから、金儲けや健康そのものを追求するのは、人生を無駄に過ごし、カネや健康の奴隷に成り下がるだけなんである。古代エジプト人や古代ギリシアの哲学者よりも遥かに劣る現代人は、日々移り変わる物質界の雪崩のように押し寄せる物質的な情報操作により、この大事な原則の、健全な精神には健全な肉体が宿る、つまり自由な精神性を追求するのを忘れてしまっている。この原則を信じる者は、持てる者であり、健全な自由な精神を持てる者は益々富み、この精神を持たざる者は更に失っていくわけなんである。健康は与えられるものではなく、自分でつくっていくものなのである。人智学的にいうならば、外界からくる論争、闘争、戦争のような悲劇や苦悩を、自分の内面で調和させ、克服することで、叡智を獲得し、癒すことである。だから、叡智の獲得状態により、健康は異なる。自我の数だけ、健康の数はあるので、健康は皆同じではなく、内なる自我と、周囲の外界の環境との相互作用の平衡点、均衡点の違いほど存在する。だから、ある人には薬になるものが、他の人には毒になることがある。だから、例えば、エスキモーには肉食が健康の薬になるが、修行僧には肉食は毒になる。逆に、修行僧には草食が健康につながるが、エスキモーには毒で、下手すると死んでしまうわけなんである。要するに、体質の違いがあり、肉体は、自我の作品なので、絵具を変えてしまうと、作風も下手すると死んでしまうわけなんである。また例えば、一般の健康への観点からすれば、修行僧の草食や禁酒などは、苦行にみえるが、逆に、修行僧の健康への観点からすれば、肉食し、お酒を飲んでどんちゃん騒ぎをするほうが、苦行にみえるわけなんである。健康への観点は多種多様なので、人生の目的が肝要なんである。どのように生きるかで、健康も生活も変わっていくわけで、叡智を獲得したければ、それに相応しい健康や生活をつくっていく肉体の芸術家になる必要がある。叡智を獲得するための器となる、自我の最良の作品である健康となるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ルドルフ・シュタイナー 真相から見た宇宙の進化 Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen (GA132) 第2講 太陽期における地球の内的側面 ベルリン 1911年11月7日 佐々木義之 訳 要約-------------------------------------------------------------------------------- 前回の講義から、「地球」の創造に先立つ3つの進化紀、つまり「土星」、「太陽」、「月」を記述するのが極めて困難なのがわかるだろう。このような記述には、宇宙の進化の中でも、現在から、遥かに遠く離れた未知の状態にまで至るのに、必要な概念と思考法をつくる必要があった。 既に述べたように、古「土星」紀や、それに続く「地球」紀についての記述も、例えば、「神秘学概論」での記述などで、網羅できるものではない。その本を書くに当たり、手近で身近なものから導出された図案などの衣装をかりて、その主題に着させることで、どうにか満足しなければならなかったが、それは、その本が大衆になるべく理解が可能で、かつ、ショッキングにならないように意図したからである。 「神秘学概論」の記述が、不正確というわけではなく、図案的にいえば、幻想、もしくはマーヤの中に浸されている。真実に貫き至るには、幻想の中を、努力しながら進む必要がある。例えば、古い「土星」は、現在の地、水、空気として知っている、4つの基本要素からではなく、熱(火)のみから成り立っている、と記述できる。 この記述が正しいのは、ある限度の範囲内である。同様に、空間に言及するには、常に図案的な漠然とした記述にならざるを得ないが、それは、前回の講義でも見てきたように、古「土星」上には、時間さえも存在しなかったからである。古「土星」上には、少なくとも、現代人の言葉の意味での空間もなかった。 しかし、一方では、その当時、初めて時間が存在するようになった。だから、自分を、古「土星」の文脈の中に置くには、空間のない状態の中にいることになる。だから、もし、この状況を思い描くなら、単なる、像に過ぎない、のを明確にしておく必要がある。 このように、もし、古「土星」に入れても、そこには、現在のような、気体として記述できるほど濃厚な実質は見つからない。そこにあるのは、温かさと、冷たさだけだっただろう。実際、空間のように、その一部から出たり、別の部分に入ったりなどはできなかった。そこにあるのは、より温かい状態とより冷たい状態の間を動く、感情だけである。
2024年01月30日
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前回は、ピラミッドの神秘学から、現代人よりも、古代エジプト人のほうが遥かに賢く、また古代ギリシアの哲学者に比べれば、現代人の知性が、小学生並でしかないのを紹介したが、古代叡智を学んでいくと、ポストアトランティス時代が進むにつれて、人類はどんどん愚かになっているのがわかる。それはまさに、サルから人類へと進化したというダーウィンの進化論を逆向きに転げ落ちて、退化しているようにみえる。この国の巷の政治家のサル山のサルのような派閥云々をみていれば、人類は本当に進化しているのか?疑わしく思えてくる。三人寄れば、サルのように群れる、というわけだから。このような発言をしていた政治家は確かにサル顔で、アー、ウーとしかいわなかった記憶が残っている。進化論 - Wikipedia現代科学は、遺伝子変異により人類に進化してきたと考え、遺伝子変異を起こさせるのが、宇宙線などの放射線であるのを解き明かしているが、古代エジプト人が、宇宙線のことを、神の息と呼んでいたのを知る由もないだろう。つまり、神の息により、人類に進化してきたのである。第94話 エジプト人モーセと「出エジプト」 - 我々は何者(人類と文明)(武内司(たけのうちつかさ)) - カクヨム (kakuyomu.jp)地球に降り注ぐ宇宙線も少なくなり、地球に磁場が生じて、バンアレン帯やオゾン層ができたお蔭で、ほとんどの宇宙線が遮られ、人間も宇宙線に抵抗力をもつようになって、現代人のような人間に進化したが、いままた愚かな人類は、地球の環境破壊により、それらの防護壁を自らで取り払おうとしている。The Radiation Odyssey (jaea.go.jp)つまり、愚かにも、現代人は、自分たちを守ってくれている環境を破壊しようとしているわけなんである。古代エジプト人や古代ギリシアの哲学者が、現代人をみれば、お笑い草といえるだろう。しかも、現代人は、古代エジプトや古代ギリシアを、唯物論からみて、当時は、低レベルなテクノロジーしかなかったと、馬鹿にしているわけなんである。巷の裏金政治家も、国民を馬鹿にして、検察から逃げ切れたので、もう怖いもの無しと思っているかもしれないが、天知る地知る我知る子知る、という諺を知らないらしい。現代人の浅はかさである。なぜ人間が死ぬのかわからないらしい。生きている間は、たとえ、逃げ切れたとしても、死が必ずやってくるわけなんである。天知る地知る我知る子知る - ウィクショナリー日本語版 (wiktionary.org)このような巷の裏金政治家の愚かさからもわかるが、核兵器やロケットをつくれる現代人こそが素晴らしいと、のぼせあがっている、まるで天狗の有様である。賢いと思いあがっている人間こそ最も愚かなんである。そのような愚かな現代人の代表が詐欺師である。巷には詐欺師が跋扈し過ぎている。現代では、もはや標語ともいわれる、情報リテラシーが巷ではよく叫ばれているが、日々、大量の情報が、周囲から、個人へと送られてくる環境となっている。そのほとんどが、個人にとって無価値の煩わしいゴミと化するようなもので、それらの情報は、いわば個人の心情を破壊する情報兵器といえるかもしれない。情報リテラシー - Wikipediaこのような煩わしいDMや望んでもいない広告メールなどを処分するだけでも、それなりの労力が消耗され、唯物的にも物欲を刺激し、あわよくばと利潤追求に邁進させ、精神を薄弱にし、詐欺師の価値観のカモとして洗脳する。ちなみに、八切氏によれば、カモという言葉は、昔の京都の加茂市で、坊主が興したギャンブルのバサラ茶が流行し、いまもお茶屋として残っているが、そのギャンブルの掛け金を巻き上げる相手を呼んだことから、生まれたという。昔からの、ギャンブルのカモとして巻き上げる、そのカラクリが、現代では、情報を使って互いを唯物的に、買わないと、出資しないと損だというように、不安を煽り、金銭主義へと、洗脳しようとするのに置き換わっているわけなんである。このような情報操作は、人間を、モノや機械などとみなし、奴隷化する情報兵器といえるだろう。このような情報兵器が流され、氾濫してくると、現代人のほとんどは、自分を失い、流れるままに生き、なんらかの不安から、病気になっていくので、病気が妄想化して、増加していくわけなんである。そして、健全な精神が蝕まれ、不健全な精神が、蔓延し、不健全な肉体が増加していくわけなんである。現代人はあまりにも愚かなので、情報兵器により、不安を煽らされ、日々忙しない生活をつくりあげ、その情報地獄のなかで、自我を没落させ、精神が空洞化して、なんらかの病気に罹って亡くなっていくだろう。金持ちになりたい病や、人を騙して、利益をあげたい病に罹っているのに気づいていないのである。それらは、前回、紹介したように、物質界がつくりあげた幻想にすぎない。悪魔の罠でトラップにすぎない。古代からみれば、現代人の精神の退廃腐敗ぶりが、病気の増加になって現れて、医療費負担が増大し、社会不安から、社会を安定化させる、経済や財政が益々苦しくなってくるわけなんである。しかも、唯物的な医者は、病名はつけれるが、治療できない難病が増加していくわけで、人間の不安が増加すれば、その妄想の数だけ、病名が増えていくわけなんである。情報操作により不安を煽り、現状の問題を隠して、先送りし、更に問題を複雑化させ、より深刻化するだけなんである。例えば、ほとんど毎日といっていいぐらい迷惑な、釣りメールの、詐欺メールがくるが、人を陥れようとするような行為はブーメランになって、自分が地獄に堕ちていくのがわからないのか、まさしく唯物論に洗脳され、十戒の「欺くな」、を忘れ、無視した背徳行為なのを肝に銘じるべきである。モーセの十戒 - Wikipedia唯物論に洗脳されている現代人は、十戒などを持ち出すと、時代遅れのように感じるかもしれないが、十戒こそ、人間に健全な精神をもたらし、自我の自由な創造性を高める、神への信仰心の現れなんである。神への信仰心を失うと、詐欺師のようになり、自分が悪魔の姿になっているのに気づかなくなるだろう。自分が悪魔の姿であるのは、死んでみないとわからない。人間は悪を善導するために神の命により生きているが、悪に取り込まれてしまっては、生きる価値がないから、死んで己の姿をみさせないといけないわけなんである。それが最後の審判で、人間の死の必要性なんである。古代エジプト人はよく知っていたので、壁画に書いている。人生において良い行為と悪い行為は全て、その人の心臓に記録されている。良い行為は心を明るくし、悪い行為は心を暗くするのでわかるはずである。悪い事をし過ぎた人には、死刑が与えられるのは、物質界でも同じである。物質界で裁かれてまた死後も裁かれるわけである。物質界では裁判官が誤ることはあっても、死後は、自らの良心が自らを裁くので、厳格で確実である。簡単にいえば、人を殺せば、次は殺される人生を送ることになり、2回殺せば、2回殺される人生を背負うことになるわけで、大量殺人すれば、死後その苦しみにより地獄を這いずり回り、更に次回もまたその次回も永遠と殺される人生を送ることになるわけなんである。だから、毒災者などはすでに永遠と地獄行きが決まり、彷徨えるユダヤ人といわれているわけなんである。人間で生まれた以上は、なんらかの良心が残っている。つまり、悪い行為は、宇宙からなくなることはなく、その悪い行為は、それを為した者にいつまでもついてまわるのである。自分が自らその被害者にならないと、そのカルマはなくならないのである。死ねば、悪い行為が自分についているのがわかる。だから、馬鹿は死ななきゃわからないわけなんである。現代の詐欺師や裏金政治家は馬鹿なんで死なないとわからないらしい。さて、病は気から、といわれるが、人間は7年毎に人体をつくりかえているので、いわば人体は、人間の作品なんで、作者の気分に左右されるわけで、作者のネガティヴな気分が、作品に現れてしまい、病気になるわけなんである。だからして、ネガティヴな気分を自らで克服しない限りは、病気も治らないわけである。では、ネガティヴな気分はどこからくるのか?といえば、悪い行為などや、また例えば、釣りメールなどの情報兵器などの、周囲の唯物的な情報での洗脳行為などである。それらに対して、揺るがない自己実現、いわゆる前世からの神への信仰心や、自らの運命に対してポジティヴな自信がないと、情報兵器への防御態勢がとれずに、不安に陥る。自己実現とは、自らの自由な意志に対しての責任といえるかもしれない。この責任は、十戒を守ることで築かれる。というのも、十戒は、宇宙のモラルであって、その循環のなかで何らかの役割を果たすことだからである。だから、十戒に背くことは、宇宙から独立し、不安を抱え、ネガティヴに囚われ、拘束され、地獄に堕ちていくことなんである。神への信仰心を忘れて、自分だけしか考えられない囚われの考え、洗脳である。前回も紹介したが、だから、金持ちは、金銭主義に洗脳されているので、天国には行けずに、地獄に堕ちて、必ず全ての財産を剥奪される死を迎え、カネの力にあかした裏で生まれた被害者の気持ちを身に染みるほど感じさせるだろう。天国に行ける能力を持てる者は益々与えられ、より豊かになるが、その能力をもたない者は、物質界にもっている財産全てを取り上げられるだろう。つまり、モラルを持つ者は益々人間として富み、天使に迎えられるが、モラルをもたないものは、人間の資格さえ、奪われると、キリストは述べている。だから、金持ちは天国にはいけずに、地獄に堕ちるというわけなんである。それは、物質界に執着しているからで、本来自由な自我を自らで、カネ勘定に明け暮れるようにカネの奴隷として、拘束しているからである。貧困問題を解決できるカネがあったのに、なぜお前は、見て見ぬふりをしたのか?と閻魔様に質問されるが堕ちである。お前には、視野を広げるために、お前の生活の犠牲となった貧困の苦しみの理解が必要だから、次は貧困の地獄を味わいなさいと裁判は下されるだろう。十戒の、唯一神を信じることは、宇宙のモラルを守ることで、それは自我の自由な意志を有効に活用し、自我を唯物論などで洗脳し、束縛しようとする情報兵器などから、自我を解放することなんである。天は自ら助くる者を助くのである。現代の日々の情報兵器に惑わされないように、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ アルカイ(アルヒャイ)が生まれるイメージは、非常に力強い。このイメージは、失われ、隠れた叡智の領域へと、次第に深く到達できるようなイマジネーション(霊視)には極めて強い効力を持つ。 このようなイメージから、いわば神話などにして、イマジネーション(霊視)にまで発展させるのが、人智学徒の成し遂げるべき課題である。たとえ、その像が原始的で、擬人化されたものでも、俗によく表現される天使のイメージの、翼をもった人物であっても、その外見は重要ではない。 外見は問題ではない。人智学徒は、その内面に至るまで、ひたすら努力を尽くしさえすればいい。人智学徒がもつべきでないイマジネーション(霊視)は消え去るだろう。もし、そのような像の中に長く深く浸るなら、その努力からなる活動そのものが、実際に、天使たちの存在の元へと導くだろう。 もし、勇気に満たされ、叡智に満ち溢れた天使存在を特徴づける行為を、努力して、感知できれば、現代的な唯物的な知性によりつくられる概念とは、かけ離れた、多様な像が、認識できるようになるだろう。唯物的な知性による概念ができたのは、つい最近で、土星紀からは遥かに隔たった後世なのである。 いずれにしても、唯物的な知性から、古「土星」存在には近づけない。現代に特徴的な知識人たちとは異なる形で、全く純粋な直観力から、心のなかに描き出されたイメージが、超感覚により展開する、のが何を意味するのかを、理解すべきである。 知的な人たちの側から、そのような心が適切に理解されることはない。そのような例を示したい。アルベルト・シュヴェグラー(1819-57年)の「哲学史」(シュテュットガルト、1848年)を取り上げると、この本は、かつて、学生たちの試験勉強に好まれたが、いまでは哲学から、魂の概念が除外されたので、役に立たないものとなっている。 後の版で改訂を受けたが、初版本の重要な箇所は完全には失われていない。つまり、その書はヘーゲル哲学の観点から見た哲学史書なのである。だから、シュヴェグラーの「哲学史」は、当時の哲学像を知るよい例で、ヘーゲル哲学の優れた参考文献なのである。 そして、ヤーコブ・ベーメについての短い章を読むと、知的な哲学書を書く、この人物が、ヤーコブ・ベーメの精神に遭遇するときには、いかに無力であるか、が知れる。幸いなことに、パラケルススには言及していないが、もし、書いていたら相当酷い文章になっただろう。 ともかく、シュヴェグラーがベーメについて何を書いているか読んでみる。彼はベーメの中に1つの心を見つけたが、その心のなかにあるのは、古「土星」の像ではなく、後に再現された「土星」の像で、それは古い土星とは比較にならないほどの、素朴な形で夜明けを迎え、「地球」紀で再現された「土星」なのである。 シュヴェグラーがベーメの中で出会ったのは、知性では理解できず、なんとか、言葉を駆使して記述するしかない精神だった。「土星」紀の地球紀での再現を、知的な方法で、把握しようとすれば、失敗するしかない。つまり、この方法では、土星紀の出来事は、全く理解不可能で、現代の唯物論による通常の、無味乾燥な哲学的論理にしがみついたまま離れられずに、土星紀を認識不能にするしかない。 重要な点は、現代人がもつ通常の知性を超えて、自我を自由に上昇させることである。現代人の知識力では、シュヴェグラーの「哲学史」のような優れた作品は作れても、その並はずれた知性が、ヤーコブ・ベーメのような精神に遭遇すると、途端に理解不能に陥るのを示す、よい例となっている。 古「土星」についての考察の中で、「地球」が太古に体現した惑星状態の内的な側面に参入した。古「土星」存在を振り返り、トローネたちが自らをケルビム(調和の霊)に捧げ、時間存在を創造した出来事の印象が生じたが、この後の講義では、古「土星」紀に達成した概念に負けず劣らず印象深い概念に到達するために、「太陽」と「月」存在についても参入する。 時間とは犠牲から生じたものであり、「時間」は生きているが、「太陽」紀の間に、これら全てが変化していくのを、そして、「土星」から「太陽」そして「月」へと進むとき、宇宙において、その他の力強い出来事がどのように生じてきたかを見ていく。
2024年01月26日
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前回は、古代叡智から、エジプトのピラミッドについての神秘学を解き明かし紹介したが、簡単にいえば、生命体は、神になるための叡智を獲得するために、生きている。叡智を獲得するにつれて、進化し、一段上のサイクルに進み、そこでもまた、そのサイクルで叡智を獲得するために、生きるわけである。だから、古代叡智によれば、生命体に、本来の、死はなく、ただ進化するか、退化するかの、変化しかない。この変化を、唯物論では、例えば、固体から液体、液体から気体、そして気体から熱への相転移のように、変化し、不可視の存在となるので、「死」と感覚的に捉えるしかできないから、「死」があると洗脳されているだけなんである。だから、唯物論で、ピラミッドを考えると、古代エジプトのファラオたちが、魂の不死を説いていながらも、その墓場という、矛盾に陥って、黄金財宝が眠る古代遺跡として、都市伝説化してしまうわけなんである。魂の永遠性、不死性を説いていたファラオが死ぬというのは、古代エジプトの全否定になるのがわからないわけなんである。ではなんのために、古代エジプト人は、ミイラをつくったのだろうか?来世に蘇るため、といわれているわけで、魂の不死性から、輪廻転生を説いていたわけである。唯物論を捨てられない限りは、人間の死や、ピラミッドについても無知なままであるのに気づいていない。古代エジプト人は、現代人よりも遥かに賢いので、愚かな現代人が、墓場と思うように、わざわざ二重の意味で、目隠したといえるかもしれない。だから、現代人が唯物論を捨てられない限りは、地球は滅亡へと突き進んでいくだろう。現に国に分かれて、土地の奪い合いをして、核兵器などで互いに恫喝し合っているわけで、馬鹿につける薬はないとは、まさしく現代人のことである。それだけ、火星から転生してきた無知な人類が多いといえるかもしれない。現代人が、唯物論による物質科学を捨てられないのは、金持ちが、おカネを捨てられないのと同じで、どちらも、死後に地獄に堕ちていくだろう。キリストが、金持ちは天国にはいけないと断言しているのは、カネという唯物論に洗脳されているからである。そして、天国は、物質では表現できない世界だからである。現代人のほとんどが、カネを必要としているが、それはカネに依存した物質的な生活をしているからで、カネにより、本来、自分でやるべきこと、物質をつくりかえる仕事を他者にやってもらい、省略しているからである。カネを使って、自分のやるべきことを代わりにやってもらっているにすぎない。それが続くと、自分のやるべきことを段々とやらなくなっていくので、退化してしまうわけなんである。人間には自由が与えられているのに、その自由を有効に使わずに、カネを与えて、他の誰かを束縛し、代わりにやってもらっているわけで、だから金持ちになるにつれ、何もできなくなっていくわけである。ついには、おカネをあげるから、代わりに小便してくれとか、言い出すようになってしまい、脳が自分であるべき行為を自分で判断できなくなって、周りに流されるようになり、統合失調症などになっていくだろう。だから、カネに依存せずに、逆に自給自足の生活をすれば、自由に生きれるようになっていくわけなんである。カネで買えないものは、自分だけができる自由な行動である。カネに依存しない、自分がすべき自分の行動こそが、自由を有効活用した自分だけの創造行為といえるだろう。確かに、カネは物質界の血液となっているが、それはカネに対して、信用が成立しているからで、この信用がなくなると、貸したカネが返らなくなるなどの、破綻が起こるわけである。だから、カネよりも、信用が重要で、信用を突き詰めていけば、心のつながりであるのに気づくはずである。カネといっても、結局は、心のつながりに帰するわけで、安心してカネが使えるのは、心のつながりを基盤とする秩序がつくられているからである。心のつながりによる秩序とは、モラルなのである。アダムスミスが国富論で説いた、神の見えざる手とは、本当は、この心のつながりによる秩序形成のことで、モラルのことなんである。端的にいえば、信用第一ということなんである。見えざる手 - Wikipedia神を信じる者は、モラルに沿った秩序を自らでつくれるので、信用が与えられ、救われるのである。信用が増すほど、秩序がつくられていくが、逆に信用を失うほど、何をやっても無秩序になるだけである。巷のいまの政治家をみればわかるだろう。古代エジプト人は、現代人よりも遥かに賢く、宇宙の事をよく知っていたが、それに負けず劣らずに、古代ギリシア人も、現代人よりも遥かに賢かったのは、健全な精神には、健全な肉体が宿るのがわかっていたことでわかる。古代ギリシアが、病気に罹ったとしたら、それは貴方の考えがよくないからだと言うだろう。現代人は、唯物論に洗脳されているから、病人に対して、その病気は貴方の考えがよくないからだといえば、コンプラ違反といわれかねないかもしれない。唯物論的にいうなら、貴方の生活態度がよくないというべきかもしれない。人智学的栄養学からもわかるが、例えば、アルコールや煙草が、人体に有害な作用を及ぼすのが、現代科学でもある程度わかっているが、それらが一時の快楽をもたらすので、自分には大丈夫だと自分勝手に特別視し、判断しているわけで、この判断が、その人の考えから生まれているわけで、その考えの誤りに気づいていないか、無視しているわけである。では、なぜアルコールや煙草が人体に有害なのか、といえば、これまでも何遍も人智学的栄養学から紹介しているが、人体には余分なものだからである。人体に余分なものを摂取すれば、自分が本来やるべきことをやらずに、手抜きできるから、それだけ楽になるわけで、つまり、カネで代わりに誰かにやってもらうのと同じなんである。余分ができた分を、他の働きに使えばいいが、楽した分を苦しみたくないわけで、それが習慣になってしまえば、段々と働かなくなってしまうわけで、そのうち、その働きに関わる筋肉や神経が衰えていくわけなんである。この堕落腐敗の原理は、巷の堕落腐敗の政治家の裏金問題と全く似ているといえるだろう。その証拠に、昭和と比べて、令和の政治が遥かに低レベルになっているのがわかるわけなんである。同じような汚職問題を何度も起こしているわけで、正に馬鹿につける薬はないわけで、このままいけば、政治家は皆落第で地獄に堕ちていくだろう。人間にはカネなんかよりも、宇宙から、自由が与えられているのである。この自由は、モラルに沿って、無秩序から、秩序をつくりあげる神に勝るとも劣らない創造力である。心のつながりから、信用や信頼を、秩序により構築していくのが、天国に昇天する叡智なんである。モラルなくして、信用なく、信用なくして、何ものもつくりえない。モラルなく、信用なく、つくりあげる物質的な、詐欺師の振る舞いは、砂上の楼閣である。人間の死とは、砂上の楼閣にすぎない。自分が為すべきことを為すべきである。自分が為すべきことを為さないと、不安に襲われるだけである。その証拠に、おカネを貯めるほど、不安が増してくるわけで、それは信用のないカネを貯めているだけにすぎない。カネを貯めるほど、不安に襲われ、次第に病気がちになっていくだろう。健全な精神をつくるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 人智学徒が呼ぶ、「土星」での熱(火)の要素とは、トローネによる供儀で生じる煙であり、時間である。「土星」は熱(火)の状態だった、と述べ、この表現で、土星の存在を記述してきた。というのも、現在、周囲にある全要素の中で、古い「土星」にも存在していた要素の、熱(火)だけが認められるからである。 熱(火)は「意志の霊」がケルビム(調和の霊)に捧げた犠牲から生じた。この出来事から、火をどのように考えるべきかを示す。この、土星の火を見たり、熱を感じたりする場合、当然だが、現代人の日常の習慣から、火や熱を、物質的に考えるべきではない。 火を見たり、熱を感じたりする場合は常に、今日でもなお「意志の霊」によるケルビム(調和の霊)への供儀が隠れた真実なのである。熱(火)の精神的な要素を、周囲に見てとれなくても、その供犠は火のなかに存在している。あらゆる熱(火)の顕現の背後に立つのは土星の供儀である、という真実に至るには、霊的な洞察力が必要である。 著書「神秘学概論」では、読者の反感を刺激しないように、古土星の外的な状態だけを述べたが、それでも、反感をかってしまった。現代の科学的文脈の中でしか考えられない現代人には、全くのナンセンスと見なすだろう。もし、実際に、次の事が、何を意味するのか、考えてみるべきである。 ・古土星は、隠れた最奥の、根底に、「意志の霊」(トローネ)がいて、自身を、ケルビム(調和の霊)に捧げた。 ・「意志の霊」トローネのケルビム(調和の霊)への供儀により生じた煙から、時間が生まれた。 ・時間が誕生し、アルカイ(アルヒャイ)の「時間の霊」がもたらされた。 ・人間が感じる熱は「意志の霊」による供儀の外見(物質)的な表現で、その反映である。 ・したがって、外見(物質)的な熱は幻想(マーヤ)である。もし、真実を語るなら、熱が顕現する裏には、実際、ケルビム=調和の霊に捧げられるトローネの供儀がある、と言う必要がある。 イマジネーションの霊視力を獲得する修行は、薔薇十字的秘儀参入の第2段階に当たる(この事は「いかにして超感覚的な認識を獲得するか」やその他の著書でも触れている)。人智学徒は、宇宙についての秩序だったイメージから、イマジネーション(霊視)を獲得しなければならない。そのようにして、思考を霊的なイメージに染められたイマジネーション(霊視)へと変容できる。 この出来事は物語風に書き換えられる。トローネ「意志の霊」は完全な献身でケルビム(調和の霊)の前に跪くが、卑しい感情からではなく、尊敬の念から犠牲の意識が生じる。 強さと勇気に基づき、喜んで供儀を捧げようとするトローネたちはケルビム(調和の霊)の前に跪き、その捧げものを差し出す。トローネたちは、その供儀を泡立つ熱、燃え上がる熱として送り出したため、供儀の炎から立ち上る煙は、翼をもったケルビム(調和の霊)に向けて燃え上がる! 人智学徒は、このような物語で、現実を描写できる。そして、この供儀から生じるのが時間で、それはまるで、人間が、空気中に発した言葉のように、時間が「存在」し、この一連の供犠全体から、「時の霊」アルカイ(アルヒャイ)が現れる。
2024年01月25日
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今年になってから、巷は天災や人災に立て続けに襲われているが、個人的にも、マシントラブルが良く起こり、AVアンプのソフトウェアをアップデートしたら、プロジェクターのケーブルの接触が悪いのか、認識が不完全で、出力の映像が消えたり、そしてまた先週から、ネットがつながらなくなって、原因を調べたら、光ファイバーケーブルが劣化断線していたようで、とにかくトラブル続きに見舞われてしまっている。サポートに連絡とって、新しいケーブルを入手し、交換でなんとか、ブログも1週間ぶりの更新になるが、ネット環境が使えないと、自分は何もできないという、ネット便利依存症に罹っていたのがわかって、ある意味、怪我の功名だった。仕方ないので、放送大学の講義をみたり、久しぶりの大掃除などをして、心機一転を図った。何もできないときは、とにかく大掃除をするのがおススメである。気持ちがクリアになるし、掃除しながら、過去の思い出が蘇ったりして、心が洗われるからである。番組表 | 放送大学 (ouj.ac.jp)何度も紹介するが、やはり今年の干支が甲辰なんで、新旧交代の年だから、いつまでも過去に拘っている人の成長が止まってしまうのを、神様が見守っていて、これではいけないと、天意で改めようとする神の一撃なのかもしれない。自らで変われるに越したことはないが、いつまでも変わろうとせずに怠惰腐敗のままでいると、どちらかといえば、自分もこの手の類なんで、見守っている守護霊が嫌気を指して、神様にお願いして、大目玉というか、一撃を食らわす成り行きになっているように、何となく自然に感じられる道理というか、天の摂理のようにみえる。さて、前回は、シュタイナーの人智学的栄養学を一旦休止して、エジプトのギザの三大ピラミッドについての古代叡智の初心者レベルの内容を紹介したが、あいも変わらず、巷のこの国の政治家たちをみていると、嘘つきに塗れ、悪い方向に向かっているので、改めて、人類の置かれた立場を、古代叡智から少しづつ紹介していきたいと思う。この国の政治は中世から中身は何も変わらずに、看板を西洋風に挿げ替えただけで、勝海舟が海舟座談で語っているように、より小さく私物化され、悪い方向に進んでいる。せっかく四民平等に向かったのに、また新たに上級国民などをつくりあげて、他の国民を、その奴隷にしようとしているわけで、天意の神の方向に向かうどころか、人類の進化計画から脱落逸脱し、悪魔に仲間入りしようとしている。政治家などは、新たに上級国民をつくりあげようとする不埒で不平等な悪人と考えた方がわかりやすいのは、その倫理観の欠如で明らかであろう。いま巷のこの国の政治では、派閥云々の議論になってしまっているが、派閥どころか、政党というのも、私利私欲の塊なわけで、公的職務に対して、私利私欲を持ち込んでいるのに気づいていないぐらい、唯物論に染まり過ぎて、現代人は浅はかなんである。幕末に海舟が、党派をつくるのは私物にすぎない、と断言しているように、人類は皆神の子なのだから、党派などつくるのは、悪魔の洗脳なんである。古代叡智では、人類は一なる神から分派した一分枝なのだから、皆平等に神の子で、党でいうなら、皆、神党なんで、各々の成長具合が異なるだけなんである。また宗教も色々あるが、元は、一なる神についての理解であって、各々の、その理解度が異なるだけなんである。勿論、自由は重要だが、それは個人だけの話で、組織全体で自由などは、もはや自由とはいえない。自由民主党という自由が、派閥に拘束されて、個人の自由でないのが、全く不自由の証である。個人の自由を他の個人の自由で束縛されないという意味の自由である。だから、組織には当てはまり得ないのである。選択の自由だけである。そもそも政党を金儲けの道具に使うのは、神殿を穢す行為で、死後に地獄行きである。だから皆一なる神を通じて、人類は一体なんである。だからして、そのなかで、自分が自分がと自分を優先するのは、人体でいうなら、ガンになるわけで、党派をつくるのは、一なる神への反抗になるわけなんである。このブログでも何度も紹介しているように、悪魔というのは、神の命に従って、神に背いているだけで、神が自らを戒めている存在であるから、神の分派にすぎない。悪魔は神に従って背いているので、赦されるが、人間は、自らの自由な意志で背くのは、神に対しては背徳なんで、それなら、神と離れて暮らしなさい、というわけなんである。つまり、永遠に生命の独房で暮らすことになるわけなんである。キリストが語ったゲヘナという魂の墓場である。自民党の多くはゲヘナに堕ちてから悔いても遅いよ。先輩が堕ちているから安心なんて言っていると終わりだよ。ゲヘナ - Wikipedia さて、宇宙の仕組みについては、我々現代人には、聖書が与えられているが、約2万年前の古代アトランティス時代の石で描かれた聖書が、古代ピラミッドであったのは、前回紹介したが、アトランティス大陸が、いまでいうところの核兵器の戦争で、大破局を迎えて、生き残ったものが、新しく浮上した大陸につくったのがピラミッドで、全部で40あったという。エジプトのギザのピラミッドはそのうちの一部にすぎない。一番目立つから有名になっているが、現代科学では、そのピラミッドすらも、クフ王のファラオの墓だと解釈しているぐらいだから、古代叡智の一断片すらも、唯物的に解釈してしまい、都市伝説化してしまっているわけなんである。現代科学では、古代叡智を読み解くことはほぼ不可能なのは、量子力学の観測問題も確率統計学でしか理解できないので、わかるはずである。前回も紹介したが、唯物論を捨てないといけない。金持ちにカネを捨てろと言うのと同じで、物質科学者に、唯物論を捨てろと言っても、ほとんど不可能だろうから、古代叡智を読み解くのは不可能なんである。金銭や地位や名誉は、死後には何の意味もないのは、それらが物質的価値でしかないからである。現代科学での大きな間違いは、地球だけに生命体が住んでいるという理解である。確かに、地球のような物質界で、物質を作り変えて生きる生命体は、太陽系では、人類や他の動植物や生命体だけである。しかし、それは、唯物論的な生命体の概念で定義しているにすぎないからである。つまり、人間の認識で、生命体を定義しているにすぎないからで、人間の認識を超える生命体がいくらでもいるのを無視しているだけにすぎない。単純にいえば、みたことがないだけなんである。例えば、コアラのいない土地では、コアラが想像上の生物で、動物園ではじめてみれる動物を、直接想像するのが困難で、顕微鏡ができるまでは、細菌やウイルスが生き物とは思わなかったわけである。人間の知識の度合により、生命体の概念が変わってくるわけなんである。その最たる存在が、虚無とも万有とも呼ばれる一なる神である。生命体は、人間がどう認識するか、による。ぶっちゃけ、人間の知性次第なんである。古代叡智によれば、人間の現在の知性は、古代ギリシア時代の賢者と呼ばれた哲学者に比べれば、遥かに幼稚であるらしい。古代ギリシアよりも病気が増えているのがその証拠であるという。健全な精神は、健全な肉体をつくりあげるからである。現代人は、古代ギリシアよりも遥かに愚かで馬鹿なんであるらしい。それは人類同士で土地を巡って戦争し、核兵器などで恫喝し合っているわけだから、政治家や権力者は馬鹿の代表といえるだろう。例えば、タレスは、万物の源泉は水であると言ったが、この水とは、人智学でいう、エーテルのことで、神智学では、宇宙微粒子のコスミックダストで、現代物理学でいうなら、宇宙線のことで、その一つであるニュートリノという素粒子を意味している。現代科学は、古代ギリシアの水を、唯物論で宇宙線の素粒子に置き換えているだけなんである。つまり、小さいものをより小さく限定し、詳細に解釈していっているだけにすぎない。これを還元主義という。現代人は物質還元主義に洗脳されているわけなんである。タレス - Wikipediaニュートリノ - Wikipedia還元主義 - Wikipedia古代叡智では、水は、メムとも呼ばれるが、神の息により火と水の2つに分かれた1つで、1要素である。だから、宇宙線は、神の息でもある。現代科学でも、生命体が宇宙線などの放射線により変異するのがわかっているが、宇宙線は神の息なので、聖書の、神の息吹により、生命が生まれたという、記述は、宇宙線により多様な生命体が生まれたという風に解釈できる。神の息は、空気や風の、アレフとも呼ばれ、神の息により、水と火に分かれ、火は、シンとも呼ばれ、神秘学では、空気、水、火の、3つと、それらが固定され、安定化された、アダムとよばれる、土を加えて、4大元素霊として有名である。古代叡智によれば、宇宙は神のゆりかごで、神になるための育成施設、つまり教育機関で、様々な天体は、いわばその学校だという。例えば、太陽系の、太陽を大学院とすれば、水星が大学で、金星が高校で、地球が中学、火星が小学校で、木星は幼稚園、土星は保育園といえるらしい。上にあるものは下にもある、というのは神秘学の格言だが、地球人である人類は、地球という物質界で、物質をつくりかえて、物欲を克服することで、中学校レベルの叡智を履修し、卒業し、次の金星の高校に進学するのが、人生の目的というわけなんである。地球で、輪廻転生ばかりするのは、落第生というわけなんである。ちなみに、地球の衛星の月は、夜間特殊学校という感じで、地球がかつて月といわれたときの、月の状態だったときの、進級に失敗した落第生たちの、少年院のようなものである。神は、自分に似せて、人間をつくったと、聖書には書かれているが、地球は、神になるための、中学校というわけである。地球という中学校で、キリストのように生きて、死ねば、輪廻転生を解脱でき、卒業し、次の金星という高校で、物質体をもたない、人智学でいうエーテル体で、今度は地球人を指導する役割を担うらしい。地球に残っている古代遺跡などは、金星に進学し、地球人から金星人に進化した地球時代のいわば廃校と言えるわけで、まずは、この古代遺跡を地球でのカリキュラムで読み解くのが、古代叡智獲得の初歩になるわけでもある。だから、古代エジプトのピラミッドなども、地球カリキュラムの教育施設の一つである。いわば最古の学校なんである。現代では、最古の図書館といっても、紙で書かれ燃やせばなくなってしまう書籍の管理機関だが、ピラミッドは、石で書かれた図書館で、しかも、虚空に書かれたアカシャ年代記を読み解く能力を与える機関でもあり、地球が滅亡しない限りは残る図書館なんである。しかも、古代叡智によれば、人類が最悪の滅亡へとむかったときに、最後の審判として、人類を滅ぼしてしまう最終兵器となるという。古代アトランティス時代にも、タイタン族が、かつてのエクシアン族のように、人類を奴隷化し、征服したのを、救うために、ピラミッドが最終兵器として、神の息により使われたという。この大破局の核戦争により、当時の大気は、水と火に分かれ、アトランティス大陸は水没し、代わりに、新しい大陸が浮上し、生き残ったノアなどの人類は、新天地にアトランティス時代を継承する文明を築いた。ピラミッドという名は、光を表わし、形は火の炎を継承している。それは神の息を表し、人類の松果体に与えるスパークの光である。それは、神の分身となる意味で、悪を善導し、無秩序やネガティヴを、秩序だった、ポジティヴに変えていく働きを表す。つまり、ピラミッドは、善の象徴で、いまは失われているが頂上の冠石には、十字架が掲げられていたという。十字架は、テトラグラマトンのYHVHの神の4文字を象徴化する記号で、上下左右前後の6方向を組み合わせ、時空間を封印する神の全知全能の支配域を表している。この4文字を二回異なる発音で唱えることで、ポジティヴとネガティヴを組み合わせ、つまり、陰陽から全ての神羅万象が創造される、唯一神の御業の象徴なのである。恐らく、神社の二礼二拍手一礼などは、この4文字を2回唱える、を起源としているのだろう。一なる神が、宇宙をつくったときの継承だからである。この4文字が6方向に神の息として伝わり、我々の宇宙という生命の入れ物がつくられたという。二礼二拍一礼は参拝の基本。その歴史と考え方とは。|葬儀・家族葬なら【よりそうお葬式】 (yoriso.com)神の息、つまり、宇宙線により、多様な生命体が生まれ、宇宙線に対して、凝縮し、地球には、現代のポストアトランティス時代になって、安定を保つ物質が生まれ、次第に宇宙線も少なくなってきて、物質体をもつ生命体や、人類が生まれ、物質界により、人間は神から離れる自由を手にした。つまり、地球は、人類が与えられた自由をいかに使うかを、宇宙から見守られている中学校でもある。地球を卒業し、高校の金星にいく解脱した、聖者マスターと呼ばれる人たちの代わりに、今度は、未開の火星から、宇宙の小学校を卒業した知性の未熟な生命体が、人類として転生し、生まれてくる。いま愚かな地球人は火星に移住説を唱えているが、古代叡智からすれば、それは昔の魂への懐古主義を意味する。中学生が「小学校は遊べてよかったなぁ」と想うのと同じである。太陽に近づくほど試練が高まっていくわけで、それはそれだけ宇宙全体を知り、知性が高くないと、お互い助け合わないと、その生活環境では生きられない、というわけなんである。より過酷な環境こそ互いの能力で切磋琢磨し助け合う必要があるわけで、それが愛につながるわけなんである。自分だけが楽をしようとすれば、どんどん退化していき、地球上でも、統合失調症になっていくわけなんである。上にあるものは下にもある、わけなんである。だから、何もできないときは、せめて掃除をすべきなんである。いまもなお、宇宙はつくられているが、自由を手にした人類が、神に従うのか、離れるかは、当人の自我次第なんである。自由を生かすも殺すも、本人次第なんである。自由を生かすために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、ほのかに点灯しているようなイメージはあまり正確ではないので、瞬間的な煌めきというよりも、どちらかというと燃えるような輝きと表現したのも、全てが同時に起こっているからである。ある瞬間に存在し、別の瞬間に消え去る、というような感じではなく。同時に全てが起こる。 とはいえ、「意志の霊」とケルビム(調和の霊)の間には結びつきの感情、互いに関係しているという感情を持ち、互いに意識するようになる。そして、「意志の霊」のトローネが、自身の存在をケルビム(調和の霊)に捧げる、ように意識するようになる。 このような事が「土星」へと遡って辿れば、得られる最終的なイメージである。「意志の霊」が、ケルビム(調和の霊)に、この供儀を捧げる、というイメージを受け取り、それより先は、時間がないので、宇宙がまるで「板張り」され閉じているかのように感じる。 しかし、ある重要なものが、「意志の霊」によるケルビム(調和の霊)への供儀の経験の程度に応じて、意志の霊自身の存在から絞り出され、生まれて来る。この事を、言葉で表現するなら、「意志の霊」からケルビム(調和の霊)にもたらされる供儀から「時間が生まれる」と言える。 しかし、この時間は、現代人が、いつも話題にする抽象的な時間ではない。ここで解説している「時間」とは、それのみで独立した単独の存在で、この時間が生まれて、宇宙のはじめ、初期が語れるようになる。はじめの時間とは完全な時間のみの独立の存在なのである。 つまり、時間だけの存在が生まれるが、この存在は「人格の霊」、つまりヒエラルキア(天使位階)の中の「アルカイ(アルヒャイ)」として知られる存在である。「土星」紀では、「アルカイ(アルヒャイ)」とは、時間だけの存在である。この天使たちを、人智学徒は、「時間霊」(時間を司る霊)とも表現した。霊として生まれ、実際には、時間だけから成る存在なのである。 「意志の霊」によるケルビム(調和の霊)への供儀、そして、「時間霊」の誕生に与る、ということは、非常に重要である。時間が生まれた後で初めて、「土星」の状態、つまり、現在、人類の周囲を取り巻く存在と、比較でき、似たものか、のように語れるが、そこからまた別の存在が生じる。
2024年01月24日
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巷の、あるオカルト番組で、エジプトのピラミッドに未知の空間が発見されたのを紹介していた。ギザの大ピラミッドは、このブログでも、何度も紹介しているのだが、唯物論からは、完全に都市伝説化してしまっているようである。現代考古学では、エジプトのピラミッドをクフ王の墓と解釈しているようだが、だったら、墓に未知の空間が発見されたからなんだというのだろうか? 王の墓だから、財宝が眠っているはずという、その思い込みはどこからくるのか? まさにそれこそ、唯物論による都市伝説化そのものであろう。確かに財宝は眠ってはいるが、物質界で安楽を貪るような物質的なものではない。それでは、自らがもつ自我という自由な宝を活用することなく、流れ流されるままの、物質界を彷徨えるユダヤ人になってしまう。キリストは、金持ちが天国に行くのは、縄を針の穴に通すより困難である、とはっきり言っている。ピラミッドは、神殿を穢す建築物ではない。高次の宇宙人からすれば、そのような人類の知性は、まさに動物園のサルレベルにみえるだろう。この国の巷の裏金問題についての政治家のオツムは、まさにサル山のサル以下だし、三人寄れば文殊の知恵どころか、派閥ができるなどと、サルでもわかる理屈を信仰しているアホさぶりに嫌気がさす。この国の政治家は、神が人類に与えた知恵さえも放棄し、ダーウィンの進化論の信者になり、先祖返りして、サルに退化してしまうお粗末ぶりなのである。サル山のサルは集合自我故に、種族に拘束されるが、人間の自我は、キリスト降臨以降は、個人の自由で、古き種族から自らを自由に解放できる能力、つまり、自ら助ける能力、自分の道を切り開き、独力で天へと邁進する力を獲得しているはずなのである。一体、なんのために政治家をしているのだろうか? 政治の理想が皆無である。サル山のサルをやりたければ、人間社会から出て、動物園に行ってほしいものである。なんのためにモラルがあるのか? なんのため善悪を判断する自由が与えられているのか?全ては天国へと、人間が神へと進化する神の子の証のためである。動物園で、サル山のサルが喧嘩しているのと、地球で、国家間で人類が戦争しているのと、どう違うのか、人類は、その低レベルな知性で、読み解いてほしいものである。そのようなサルと同等かそれ以下でしかない知性だから、エジプトの大ピラミッドがクフ王の墓としか解釈し得ないのである。神智学から、何度も紹介しているが、ギザの大ピラミッドは、クフ王が建てたわけではなく、それらファラオの墓でもない。現代の物質感覚でいう金銀財宝が隠されているわけでもない。現代科学が唯物論的に考えているエジプトのイメージそのものが、サル山のサルと同じで、都市伝説なんである。三大ピラミッド - Wikipedia エジプトのピラミッドの謎を解くには、まずは唯物論を捨てないといけない。というのは、樹木の年輪や地層をみてもわかるが、古きものの上に新しきものが打ち立てられるからである。生命というのは、何層もののサイクルでつくられるわけで、ピラミッドも、そのような時代毎のサイクルでつくられているわけで、クフ王一代だけでなされたわけではないからである。以前、ピーナッツのスヌーピーの哲学的なセリフを紹介したのを思い出してほしい。「上を見続けるんだ…。それが人生の秘訣さ…」ウイキをググると、ピラミッドという言葉は古代エジプト語で、「上る」というメルという字をあてていたのがわかる。しかし、語源をググると、ギリシア語の、「火のかたち」の意味ももつのがわかる。この2つの意味から、火のように上昇しよう、という意味が、ピラミッドの三角錐形のイメージからなんとなくわかるはずである。ピラミッド - Wikipediaこのように、現代の唯物的知識からも、ピラミッドが、火のように、宇宙へと上る意識が伝わってくるだろう。つまり、ピラミッドは、人類に、火のような上昇志向、太陽への光へとむかう、進化の火や炎を象徴化しているのがわかるはずである。壮大な天を、宇宙を見渡しなさいと囁いているようでもある。火や炎のイメージといえば、オリンピックの聖火が連想されるだろう。聖火は、太陽光を宿した松明で、古代叡智では、トーチアビラと呼ばれている。つまり、火とは、太陽光を宿した松明のことで、古代叡智の象徴なんである。たいまつ - Wikipedia興味深いのは、たいまつを、日本語では、松明と、松の字を使うことにある。松は、その植物の形をみればわかるが、三角形の象徴でもある。そして、それは人体のなかにも隠されている。古代叡智では、キリストの住む部屋ともいわれ、神殿ともいわれている、松果体のことである。松果体は、このブログでも何度も紹介しているが、メーソンで有名な三角形のなかの、万物を見通す目のことで、仏教では、白毫のチャクラを意味する。古代人の古代アトランティス人は、現代人の幼児をみればわかるが頭部の大泉門が開いていたので、白毫の奥の松果体から、頭頂部のチャクラまで開いていたので、第三の目をもっていたという。仏像にも白毫から頭頂部のパンチパーマのような髪形で表現されている、この第三の目が、霊眼=心眼で、宇宙とつながっていたわけなんである。白毫 - Wikipediaピラミッドから、人体の松果体までの流れから、薄々、わかるかもしれないが、大まかにまとめると、ピラミッドとは、物質界から霊界へと昇天する、古代アトランティス時代の、いわば石に書かれた聖書なんである。三大ピラミッドは、それぞれ、人間が昇天した霊界を意味し、神智学と人智学では表現が異なるが、人智学の人体に準えていえば、エーテル界、アストラル界、自我界といえる。つまり、それぞれ、霊界への昇天方法が隠されている。人智学的にいえば、秘儀参入法である。そして、ピラミッドの近くにある、スフィンクスは、その有名なスフィンクスのなぞなぞの答えからわかるが、物質界の人間を表すのである。スフィンクスのなぞなぞ | こじつけ大魔王 (ameblo.jp)スフィンクスのなぞなぞとは、「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足の生き物とは何か?で、それは、人間という答え。」である。これは、赤ちゃんのときは、手足の四本で歩き、子どもになって足二本で歩き、老人になると、杖1本を加えて、三本で歩くと、謎が説かれているが、神秘学的には、人間の自我の進化を意味している。古代人は、いまの動物のように集合自我をもち、その種族は4つにわかれていた。古代エジプトでは有名な、鷲、獅子、牡牛、そして原始人である。この4つの種族から、多様な人種が生まれたという。キリスト秘教学では、神から生まれた時代とよばれる。そして、キリストが降臨し、個人的な自由から、個人的自我を得て、いま、現代人は、善人と、悪人の2つにわかれているわけで、善人として人生を終えるかどうかの、キリストと共に死ぬ時代と呼ばれている。悪人のままで死ぬと、残念ながら、善人として死ぬまで、輪廻転生を抜け出せずに、彷徨えるユダヤ人となる。そして、善人として死に、キリストに出逢うと、キリストの自我と共に、再び霊能力を獲得し、聖霊としてよみがえる時代と呼ばれる、次への修行場へと昇天するために、霊眼の、つまり、天使の翼である、アローンの杖を獲得し、来るべき人類の善と悪を見極める判断を指導する天使となり、善人と悪人と、その上の天使の3つの種に分かれるわけなんである。地球を卒業すると、金星に向かうといわれている。金星から、霊眼で、地球人を指導するというわけなんである。中世の徒弟制度でいえば、徒弟が地球の悪人で、職人が地球の善人で、親方が金星人というわけなんである。徒弟 - Wikipediaいずれにしろ、スフィンクスは、人間が物質界で修行すべき、善悪の判断の審判員であり、いわば、閻魔様なんである。 だから、ピラミッドは、人間と神との関係についての、古代アトランティス時代の教育機関でもある。そして、クフ王がつくったのではなく、エメラルドタブレットによれば、当時、トートと呼ばれた、ヘルメストリスメギストスがつくった。そして、ピラミッドは、古代アトランティスの叡智で、物質を分解して、いわば相転移の装置を用いて、つくられたので、現代物理学では物質しか扱えないので解明不可能なんである。ヘルメス・トリスメギストス - Wikipedia物質を非物質化する、相転移装置は、別名で、反重力装置とも呼ばれるが、その原理は、理論的に、アルキメデスの原理でわかるはずである。固体を液体化し、更に気体化すれば、大気と混じわって、質量が減じられるわけである。これは、人体の脳が1500グラムなのに、脳水の浮力のお蔭で、20グラムの負荷で済むのと同じである。つまり、簡単にいえば、石を固体のままで運ばず、現代でも、セメントのように、液体化しているように、相転移で軽くして運び、目的の場所で、再生すればいいだけの話なんである。だから、古代アトランティス時代では、地球環境を変換できる非物質的な科学技術、人智学でいえば、エーテル技術を使って、ピラミッドなどの建造をしていたわけなんである。だから、ピラミッドは、エーテル技術を使って書かれた聖書ともいえるわけで、現代でいえば、パビリオンといえるかもしれない。だから、物質科学だけで、ピラミッドの謎を解くことは不可能で、少なくとも、古代叡智の集大成といわれるカバラを読み解かないとダメなんである。カバラ - Wikipediaピラミッドと、人体の対応表を以下に紹介しておく。古代アトランティスは大破局を迎えてしまったが、子孫でもある人類に、その失敗の二の舞は避けてほしいとの神々の願いが、ピラミッド建設には秘められている。宇宙の進化史と人類の進化史、マクロコスモスとミクロコスモスの関係を、アカシャ(虚空)年代記から読み解く能力を秘している、秘教学院でもある。いわば、宇宙の図書館への入館が許されるのが、ピラミッドに隠された本当の財宝なんである。財宝を生かすも殺すも、人生のなかで、どれだけ真実をみつけ、善悪の判断力を獲得するかにある。師は真剣に学ぶ学徒の前に必ず現れる。健康が一つでないのと同じように、真実も一つではない。個人の自由ほどに、個人の真実がある。ただ、神々は、真実を一つに愛で統合している。だから、個人の真実が、統合された神々の愛の真実に近いかどうかで、それが個人の進化度合、学習能力を表している。高次の宇宙人のもつ真実性から比べると、地球人の真実は諸刃の剣で、非常に危険なんである。映画にR18指定などがあるように、ある程度の経験や知性をもたないものには、ピラミッドは明かされず、沈黙を保ち、最奥に隠れ、叡智や真実は都市伝説化するのである。現代人が、十分に知性的になり、論争や闘争や戦争を手放し、宇宙意識へと再び回帰するために、自分のなかの、物質性となる、ネガティヴで、暗黒な、欲望、感情、感性、感覚などを克服し、努力するなら、ピラミッドのなかの、秘密の扉が開き、トートが現れるだろう。古き者の上に新しき者が打ち立てられる、のを、神々は祝福するだろう。物質界なくして、霊界もないのだから、地獄なくして、天国もないのだから、物質界を克服し、地獄から天国に昇天するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 土星の天使存在を表現できる、霊的な洞察にすぐには到達できないが、何故、土星がそのような存在なのかについては、後の講義で説明するつもりである。というのも、ここでは、「土星」、「太陽」、「月」という順番で説明しているので、本当は、それとは逆の順番に(超感覚的方法で、実際知覚される順番、つまり、「地球」から「土星」へという方向に)、進む方がわかりやすいからである。しかし、今のところは、「土星」、「太陽」、「月」の順に特徴づけしていきたい。順番はそれほど重要ではない。 霊的な見方に特徴的なのは、少しずつ、慎重に、霊的な認識に到達するように注意しなければ、想像が極めて困難である。というのも、極めて微妙な存在なので、すぐに感知できなくなるが、何にもまして、通常の覚醒意識での想像力と微妙に結びつく存在なので、「空間の感覚がなくなる」からである。 例えば、「の頂上で」、「の下で」、「の前で」、「の後ろで」、「右へ」、「左へ」と、私は泳ぐ、というような、或いは、実際、空間と関係した表現がもはや、なんの意味ももたなくなる。古「土星」紀においては、空間的な認識は全く意味をなさない。 「至るところで」という表現も「同様」である。しかし、最も重要なのは、「土星」の最初期には、時間も、またなくなることである。正に、後も先も、なくなる。当然、それは今日の人間には、想像が極めて困難である。何故なら、ある考えは別の考えの前、或いは後に現れる、というように、今日では人間の考えそのものが、時間の中を流れているからである。とはいえ、時間の欠如は、感情を通して補完できる。しかし、この感情は心地よいものではない。 思考力が麻痺し、記憶力を呼び出しなど、行動の計画などが、まるで固まった棒のように麻痺した場合を想像してみると、思考が固まり、一点に固定され、もはや、触ることも不可能かのように感じる。 この状態では、「以前の」経験は、時間のある「時点」で生じた、とはいえない。その経験は、そこにはあるが、完全に固定されているので、もはや時間が仲介せずに、意味をもたなくなっている。 時間は全く存在しないので、次のような問いも無意味となる。 「『土星』以前には、何があったのか?」 この「前に」というのは時間がないので無意味である。時間との関係なしに感じなければならない。「土星」存在というのは、板張りされ閉ざされた世界の中にいる状況と似ている。思考は行き止まりになっている。超感覚的能力も同様である。 通常の覚醒意識での、思考はそのずっと前に置き去りにされ、そこから遠くまで行けない。イメージ的に表現すれば、人間の脳は凍りついてしまう。もはや時間を包含しない意識のイメージに近づくには、この麻痺した状態を詳細に知覚するしかない。 ここまで来ると、その全体像の中に生じる顕著な変化に気づく。別のヒエラルキア(天使位階)に属する存在たちが、「意志の霊」と共に存在し、勇気からなる無限の海の、時間のない世界の麻痺の中に入り込み、活動するのがわかる。無時間が明らかになる、その瞬間に、他の存在たちの活動に気づく。 勇気からなる無限の海のなかに何かが存在するのに気づくが、それは不明瞭な潜在意識による。まるで、その事を経験しなかったかのようである。この広がりの中に、何かが点灯するが、それは稲妻の素早い発光というより、明かりのようなものである。それは一つの差異による明かりなのだが、明るい光の印象ではない。 だから、別の方法で、この光の理解に努めなければならない。例えば、次のように想像してみるのもよい。自分に語りかける誰かと出会い、「この人物は何と知的なのだろう!」という感情を抱く。この人物が語り続けるにつれ、この感情が強くなり、「この人物は賢い。無限を経験している。だから、賢明な事柄を語れる」のに気づく。 更に言えば、この人物はまるで魅惑的なオーラを発散しているかのように感じる。そして、この魅惑の要素が無限に強化されると、勇気の海の中に雲が現れるが、その中に、稲妻の光というよりは、正確には煌めく光の放射を感じる。 全体を想像すると、「意志の霊」のなかで活動する存在、叡智の浸透と、その流れの存在を感じる。ここで、「ケルビム(調和の霊)」という天使存在についての、超感覚によるイメージが獲得できる。つまり、「ケルビム(調和の霊)」とは、勇気の海に流れ込む天使存在たちなのである。 さて、いま述べた存在以外には、周囲には何もない。既に強調してきたように、「周囲」に何かいる、とはいえない。唯一言えるのは、「そこに」、ケルビム(調和の霊)がいる、だけである。そのように考えなくてはならない。
2024年01月18日
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人智学的栄養学を紹介している手前で、シンクロニシティというか、巷のTVから、ちょうどタイムリーな話を耳にしたというか、視覚で捉えた。テレビはテレビジョンの遠隔視覚の略だが、巷では、遠隔味覚のテレテイストが開発されつつある、という情報を知った。味を遠隔地に届ける「テレテイスト」、味分析と味再生で実現狙う | 日経クロステック(xTECH) (nikkei.com)テクノロジーによって、「味の伝送」や「味覚の新体験」が可能になる未来を目指して | みらい博2022 | ひらけ、みらい。生活総研 (seikatsusoken.jp)Taste The TV(テイスト・ザ・ティーヴィー):舐めると“味”を感じる、味覚再現ディスプレイ | 知財図鑑 (chizaizukan.com)テレテイストを、現代科学の相互作用論で考えると、視覚は、光の伝播を媒体にしているので、遠隔作用にみえるが、味覚は、近接作用と考えられるので、味覚というよりも、味情報の伝達と言った方が的確かもしれない。現代科学では、味覚の基本を、塩味、酸味、甘味、苦味、うま味の5つの成分に分解し解釈しているが、その五味を数値解析でデータ化し、それらに基づいて、味覚を刺激するのに適当な物質成分を混合し、遠隔地で再現しているようである。どの様な利用法、需要があるのか、はわからないが、自分好みの味を検索したり、料理教育などの、いわば味を出力するプリンターなどができるかもしれない。つまり、色彩の三原色から、多彩な色が表現できるのと同じで、味の五原味から、多様な食物の、つまり、味覚情報のフォーマットやデータベースの構築が進むかもしれない。テレテイストは、テレビのように普及するだろうか?ちなみに、シュタイナーは、1927年のテレビの発明前に物質界を去ったので、テレビについては言及していなかったようだが、当時の新聞やラジオについて言及し、将来、光による通信で、地球の裏側の情報が瞬時に伝わる時代を予想し、それに対して、地球の裏側の出来事が、何千キロもの距離の遠隔地にいる、受け手側の。その出来後に対する心構えというか、準備無しに、瞬時に伝わるのは、人類にその対応法や解決法を十分に考えさせる機会を剥奪する、と警告し、伝え手側の正確性を問題にしていたようである。ラジオ - Wikipediaテレビ - Wikipedia日本の米国との衛星中継で初めに伝えられたのが、ケネディ大統領暗殺だったのは興味深い。その出来事を、日本側は、どの様に受け止めたのか、当時の状況は不明だが、恐らく何もわからなかったに違いない。【1963(昭和38)年11月23日】初の衛星中継、ケネディ大統領暗殺の悲報 | トウシル 楽天証券の投資情報メディア (rakuten-sec.net)このようなセンセーショナルな遠隔ビジョンによる、テレビの普及により、人類は益々物質界の虜になり、申し子になるのを、シュタイナーはいわば予言していたわけである。恐らく、テレビをアーリマンの洗脳の道具と呼んでいたかもしれない。しかし、いまやテレビは物質界の原始的な道具にすぎず、もはやその時代の終焉をむかえつつあり、インターネットや、そして、視覚だけでなく、いま味覚もアーリマンの洗脳の道具と化しつつあるといえるだろう。勿論、生活全般だけでなく、ワクチンのような生命全般にまで、アーリマンの洗脳の道具立ては揃えられ、人類の存亡の命運さえも、いまや核兵器により握られているわけで、高次の宇宙人の警告とは、真逆に人類の滅亡へのカウントダウンが進んでいる途上にある。テレビは、地球を近視眼的に狭くみせ、人類に手に取るようにみせ、生活を便利にし、物質界に、人類を洗脳し、釘付けにし、唯物論を宣伝したといえるだろう。勿論、いまでも、テレビをみない人もいるが、携帯電話を持たない人がほぼいないように、原始的な生活を志向する人はともかくも、ネットまで見ない人はいないだろう。情報が遠隔に伝わるというのは、その土地の状況を知らずに、つまりリアルさを体験せずに、遠隔地から、表面的な一面のみの情報で、口を挟む根拠を与えてしまう短所もある。勿論、岡目八目という利点もあるが、細かな点、目に見えない点を見逃して、机上の空論になってしまうような危険を孕みがちである。巷の政治討論をみていると、常にこの危険を孕んで、議論が平行線のまま、全くかみ合わずに、小田原評定となっているのを見るにつれて呆れてしまう。巷の害毒でしかない朝まで生テレビや、いまの裏金政治家問題なども、この小田原評定とかわらないし、そのものといえる。小田原評定 - Wikipedia解決できない、もしくは解決の見込みもない、無駄な議論で時間を潰すなら、議論など不必要だとなぜ自覚できないのか不思議でもある。議論が目的になってしまい、肝心の問題解決が目的にすらなっていない。当事者が議論の余地なく、善悪の判断を基に、法令に従って、実行するしかない。巷を賑わす裏金問題が、まさにTVの危険を孕む小田原評定の一例で、悪い事だから、裏金なんであって、悪い事をすれば処罰されるのが当たり前の倫理で、法的論理でもある。あまりに馬鹿バカしくて、関わるだけ、巻き込まれるだけ、地獄行きなんである。国民に知られるまで解決できないのがまさに無能な証拠でもある。何をもって正義を正す政策や政治を行えるのか疑問である。政治とは、正義を示す人間の業なのではなかろうか? 倫理を表明するのが政治の証なのではなかろうか?政治家とは一体なんぞや? 悪人の集団の悪党なのか?なぜ、総理大臣が、泣いて馬謖を斬れないのか!悪を断つために権力が与えられているわけで、悪を見逃すのは権力の濫用である。泣いて馬謖を斬る - Wikipedia何もできないのが総理大臣なんだから、この国の行く末だけが案じられる。正義を明確にできない指導者など果たして指導者といえるのだろうか? 勝海舟の海舟座談でも読むがいい。海舟座談 – 記想録 (2810w.com)例えば、海舟座談を読めば、政治を私利私欲でするから、よくないと、海舟は述べている。海舟座談をまとめると、政治には先ず経済が重要で苦心したが、天下の富をもってして、天下の経済に困るわけがないので、要諦は、倹約と運用で、身の程を知り、足るを知る、公に仕える意識が重要で、機を知るのが大事と、説いている。言い換えれば、政治を私利私欲で行っていると、天下の流れの機を感じられなくなるという。世の中には流れがあり、その流れの機先を制するのが重要だという。例えば、現在の、株価の値上がりどきも、この機といえるわけで、事前にその動向を探って準備していないと話にならない、というわけなんである。常に観察力を磨くと、先見力が身についてくる、というわけなんだろう。後手後手に回ると、自体が雪崩のように悪化してくるので、機先が重要だが、機先を逃したら、後の先もあると、海舟は述べている。世の中には、波動のような、流れがあるので、上昇志向に乗るのが重要というわけなんである。そして、今年は、甲辰で、大きな振動の年なんである。面白いことに、海舟は7年周期説を採用し、7年経つと価値観などの人心が真逆になる、と述べている。人智学では、人間は7年毎に人体を作り変える、のがわかっているが、神秘学では7の数字を基に、777と人類の進化度合を表しているように、7は基本循環数として西洋社会では、広く認識されている。海舟は蘭学から身を起こし、西洋人との付き合いから、7年周期説を採用したようである。ついでに、当時の明治政府の政治を、江戸幕府と比べて小さいと馬鹿にしている。海舟は、当時シナと呼んでいた中国やメリケンと呼んでいた米国にも行ったことがあるらしく、それら大国に比べると、日本があまりにも小さすぎて情けなくなって涙が出る、と述べている。日本のような小さな国では、自分一人で充分に政治ができる、と独特の江戸っ子訛りで、大言壮語もしている。ちなみに、その日本の小さな政治について、海舟は次のように述べている。「オレは若い頃、シナへ行ってみて、万事の大きいのに吃驚した。わが日本のことを思うと何もかも小さくて実に涙がこぼれた。その小さいなかで、又小さな小党派の争いをしているのだよ。 7、8年も引っ込んでいると、学問ができるようになるはずだが、いま(明治29年)の人は、カネを貯める事ばかり考えている。実に理想がないので、少しも前に進まない。幕府の頃は何といっても政治が大きいから、役人などの陰険な運動はなかなか酷かった。誰が少し動くようだとわかると、半年ほど前から、色々手をまわして、機先を制して、なかなか巧みなものだった。いまの明治政府の薩長藩政は、幕府に比べると小さなもんだよ。 人を集めて党をつくるのは、私物ではないのか、と早くから疑ってかかっていた。人間は皆長所があるのだから、長所を信じて行うようにすればよい。世の中は広いのだから、いろんな職業の人たちを、一つの貸家に住まわせるのがよい。それで助け合って治まっていくと思っている。機会と着手の2つを誤らないようにすれば、放っておいても構わないよ」というように、勝は派閥をもたなかったから、身動きが自由で、江戸無血開城も出来たと述べている。幕末当時には珍しい、個人主義の持ち主だったようである。いずれにしろ、問題は小さいうちに処理し解決するのが重要というわけなんである。現代のように、TVやネットで、一昼夜で、世界全体に知れ渡るような大問題に発展すると、もはや小田原評定となってしまい、事態収拾がつかなくなり、崩壊に向かうしかない。人体でいえば、至る場所で、ガンの転移が発生し、モグラたたきのように、外科手術から、化学療法、そして、放射線治療と悪化しながら、対症療法するしかないわけで、最後は亡くなっていくわけなんである。日本の政治家の悪性原発腫瘍が、現在の裏金議員に転移したというわけである。その前がリクルート事件で外科手術したが、転移悪性腫瘍が残っていて、再発し裏金となったわけで、リクルートの前が、ロッキードだったわけなんである。さて、前回紹介したように、現代医学の大きな間違いは、唯物論から、健康を一つだと勘違いしている点で、人体を物質体、つまり肉体のみの存在と考えている点にある。昔から、病は気から、といわれているように、肉体は、いわばパソコンで譬えると、ハードウェアでしかないのを、人智学は解き明かしている。パソコンがハードウェアだけでは動かないように、肉体にも、ソフトウェアである、オペレーティングシステムのOSが必要で、ウインドウズなどのOSの上に、作業目的に応じて、マイクロソフトオフィスなどのインストールが必要なわけである。パソコンも高度な情報処理が必要になるにつれ、買い替えるように、人体も7年毎に物質界で、より沢山の体験を積むようにつくりかえるわけなんである。大自然の循環のなかで、無常な物質界の変化に合わせて、健康な人体をつくりかえる、といえるだろう。それには、大自然の循環にあわせて、物質界の変化から、その変化した情報を取り入れないといけないわけで、それが、大気を呼吸し、食物を食べ、栄養を獲得する事になるわけなんである。周囲の環境に適応できるような、感覚を獲得するために、人体を新しくつくりかえるわけで、それは自己防御の、免疫獲得などに現れている。だから、健康とは、一つではなく、病は気からというように、無数の気から、少なくとも、人間の数の、現在の地球の人口数くらい存在しているわけで、その将来の理想状態まで含めると無数にある。各々の個人が、健康を追求し、例えば、好きな食べ物を食べて、悦びを得ているなどである。健康が一つではなく、無数にあるというのは、幸福という価値観も無数にあるわけで、人生のなかに、つまり、物質界のなかに、幸福をみつける手段も無数にある、といえるわけなんである。好きなものを食べられるのも、それが健康につながるから、幸福である。自我が美味しいと感じるのは、人体が欲しているからで、自分しか、自分の健康をつくれないので、例えば、菜食主義やら、肉食嗜好などのドグマなどから、不味いモノをわざわざ勧められて食べる必要はなく、そのような宗教的な洗脳では、自分の人生を、他者に手渡すだけである。つまり、何が薬で、何が毒なのかは、個人により、パラケルススが説いたように、どんなものも服用量を超えると毒になり、服用量は個人の自由に委ねられ、社会制度上の公序良俗に反しない限りは、自己責任となっているわけなんである。重要なのは、服用量というのを、現代科学では、物質量と捉えているが、人智学や、パラケルススが述べている用量というのは、物質だけには限らない、目に見えない精神の、霊的な意味も含まれる。だから、パソコンでいえば、ソフトウェアをインストールする作業領域のメモリー量も意味する。つまり、人間の人体では記憶量などに相当するわけで、味覚というのも、味の記憶なわけで、物質を超えた、目には見えないモノといえる。だから、最初に紹介したテレテイストなども、人体を構築する要素になるわけで、大自然の循環とは無関係な、独立した人間社会からの情報取得になるわけで、AIと共にそのようなアーリマンの洗脳道具が開発されていくと、人間は益々地上の物質界に固執するが、その物質界は、大自然の循環から次第に無関係に独立し、ついには大自然から孤立し、回帰できなくなってしまうだろう。結局、味覚についての小田原評定がはじまってしまうだろう。何の解決にもならない議論をするだけに終わるだろう。だから、次第に人類は味覚がわからなくなり、かつての霊能力を失ったように、無感覚のバカになり、人類はサルへと退化していくだろう。現に現代科学では、人間の記憶を、電子回路に転送し保存しようとしているわけで、それが意味するものは、人智学的栄養学でいう、人生を無目的に、肉食志向に走る事やアルコール中毒に走るドグマと同じといえるわけで、自我がどんどん分裂し、精神分裂病に罹りやすくなっていくわけなんである。他者を無目的に洗脳していると、今度はブーメランのように、無目的に自分を拘束していくのである。他者を物質で洗脳しようとすると、今度は自分が物質により拘束されてしまうわけなんである。だからして、人智学は、精神の根本に回帰すべきと説いているわけなんである。現代科学でも、電子は光子から反電子と対で生じるのがわかっているが、人智学では、電子は光が凝縮したものと解き明かしている。つまり、物質とは、精神である霊が凝縮したもので、だからして、病も気から、つまり、精神の凝縮から生じるわけなんである。だから、パラケルススが説いた、どんなものも毒にも薬にもなる、というのは、個人の自我が、人生の目的から、自らの観点に相応しい、好みの幸福を追求するために、それを認めるかどうかなので、それは前世からの人生の因縁によるわけで、何を食べるべきかどうかは、どの様に人生を生きるかどうか、になるわけなんである。つまり、全ては、自我の自由性に帰せられる。例えば、前回紹介したように、大谷選手は、メジャーリーグでナンバーワンの選手になるのが、人生の幸福の追求なわけで、その身体をつくるために、食物の栄養摂取まで考えて、健康を加味し、外食しない、アルコールを控えているのは、正に、大谷選手の、個人的自我の自由に委ねられる証でもある。物質は精神からつくられるわけで、だからかつての古代ギリシアでは、健全な精神には健全な肉体が宿るといわれたわけなんであるが、唯物論が台頭してきて、次第に霊能力を失っていくにつれ、古代ローマになって、健全な肉体には健全な精神が宿る、と逆になっていったわけなんである。健全なる精神は健全なる身体に宿る(けんぜんなるせいしんはけんぜんなるしんたいにやどる)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)「健全な精神は、健全な肉体に宿る」という名言は「体が健康なら精神も健康」という意味ではなかった!本当の意味は?解釈を歪めたのは誰? | Precious.jp(プレシャス)そして、完全に霊能力を失った現代では、健全な肉体をつくるには、何を食べるべきかと、完全に唯物論になってしまったわけなんである。そして、健康も皆同じで一つと画一的に表面的に物質的に考えるようになってしまった。古代叡智を失い、愚か者同士が、至る所で小田原評定をして、論争、闘争、戦争をはじめる。問題を何も解決できずに、先送りし、ただ解決しない議論だけが繰り返される。人類はどんどん宇宙の循環から孤立し、独立し、物質界のなかで、宇宙のガンとなって、永遠に彷徨えるユダヤ人のように輪廻転生の地獄巡りを繰り返す。しかしいずれ人類には最後の審判が下されるだろう。善人と悪人に分かれて、悪人はもはや人間にさえなれない獣と化すだろう。ヨハネの黙示録を読み解くべきである。警告に耳を傾けるべきである。悪人から善人へと改心するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 人間が恐怖を生じるような空虚に直面しなければならないときでも、福音書、或いは人智学を携えるなら、道を失ったり、無限の深淵の中に陥ることはない。 もし、著書「いかにして超感覚的な世界の認識を獲得するか」(それに続く他の著作)の中で紹介している準備の修行を経て、この恐るべき虚無に近づき、精神界(そこで生じるのは、感情を痙攣させ、思考を飲み込むが)に参入できたなら、動物、植物、もしくは鉱物界の存在たちとは全く異なる存在たちに出会うことになる。 人智学徒が「土星」と呼ぶ存在(そこには雲も、光も、音もないが)に共鳴し、同調するようになれば、土星の存在を感じるようになる。実際、我々は、「意志の霊」、もしくは「トローネ(座)」と呼ばれる天使存在たちを感じる。そのとき、リアルな経験として感じる「意志の霊」たちは、まるで波打つ勇気の海からなる、のがわかる。 人間にとって、最初は想像のみの存在が、超感覚力によって、具体的でリアルな「存在」となる。 それは例えば、いま海の中に浸され、そしてキリスト存在と1つになり、キリスト存在により支えられ、まるで、その精神の存在として、その海を泳いでいるが、それがリアルの海の水のような、流れる勇気、波打つ力が、無限の広がりをもち、完全に満つる海の中に泳いでいる、のをリアルに感じるのである! それはただの無関心で未開の海ではない。そこでは、勇気の感情として表現できる、あらゆる可能性と多様性を秘めた存在が、こちらへとやって来る。そこで感じるようになる存在は、勇気からなる存在たちだが、個別的な存在である。 土星の天使たちは完全に勇気から成っているが、勇気だけでなく、リアルな存在である。肉からなる人間と同様にリアルでありながら、肉ではなく勇気からなる存在たちに出会う、というのは確かに不可思議にみえるかもしれない。しかし、真実である。 正に、この種の存在の「意志の霊」に出会い、そして、出会うと共に、「土星」存在について人智学徒は記述している。というのも、「土星」こそ、勇気から成る「意志の霊」によって表現される存在だからである。それが「土星」なのである。 「土星」は、球形の世界ではない。六角でも四角でもない。空間を適用できない存在で、だから、「土星」存在には「終わり」をみつける可能性もない。ここでも、「泳ぐ」というイメージを用いれば、「土星」は海面を持たない海、と言える。その代わり、あらゆる場所で、あらゆる方向に、「勇気の霊」、もしくは「意志の霊」と出会う。
2024年01月17日
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先日また変な夢をみたのだが、その夢はというと、お笑い芸人養成学校で、TVでお馴染みの芸人たちとお笑いロボットのネタについて開発していると、お笑いロボットがお笑いの異常をきたして、暴走しはじめて、お笑いのコントか何かのゾンビのように襲ってきて、逃げ回り、ついにはもうダメだと思ったら、実は自分がお笑いロボットだった、というシュールな展開に気づいて目が覚めた。どこか秀逸なバカリズムの脚本が描くドラマの世界みたいで、目が覚めた後で、感動を覚えて、忘れないように思わずメモってしまったが、所詮は夢なんで、現実の物質界からは、矛盾だらけの不条理満載なんで、表現のしようも、メモのしようもないのだが、なぜか、物質界よりも遥かにリアルに感じられて、結局は、追いかけられる恐怖心が凄まじく、悪夢に違いないのに、通常は追いかけられてもうダメだというときに目が覚めるのだが、その悪夢は、自分も同じ穴の貉だったというオチがついているのに、妙に感激してしまった。バカリズムは、個人的には、現代のドラマ脚本の天才だと思う。その前は三谷幸喜氏かな。バカリズム脚本作品 | Hulu(フールー)バカリズム - Wikipedia夢には、物質界とは違うリアルさがあるように思えてくる。例えば、物質界では、物質を通じて、感覚を獲得するリアルさがあるが、夢には、直接感じるリアルさがあるようにみえる。つまり、感覚そのものを通して感じられるリアルさなのである。だから、追いかけられるリアルさは物質界よりも遥かに恐ろしく感じる。勿論、悪夢だけでなく、天国のような心地よい夢もみる。なにやら温かい不明確なものに囲まれていたり、南国の、例えばタヒチみたいな海岸で安らいでいたり、物質界では見たことがない芸術的なケーキのような食物が運ばれてきて、それを食べると、至上の美味しさを感じたりする夢を見たこともある。物質界を超えるリアルさがある。夢を語って、何が言いたいのかといえば、人間は栄養として、物質だけを食べているのではなく、物質を構成する、その中身も食べているというわけなんである。先に紹介したお笑いロボットの悪夢については、夢は、叡智の食べ物にも思えてくるので、個人的に考えてみると、お笑いロボットというのは、昨今のAIについての警告として解釈してみた。昨今、AIに頼り、自分の頭で考えない人が増えてきている。AIが提出する知能を人間が受け入れるほど、人間は自分の頭で考えないようになっていく危険さに気づいていないのである。人間の脳がAIと共生するというと、聞こえがいいかもしれないが、例えば、お笑いを考えるAIができてしまうと、なんでもオチで落とさないといけない関西人の他愛のない会話のように、失敗も間違いも悪も笑ってすませる脳になり、ついには、人間の存在も笑ってすませるようになってしまうのも可能になるわけで、何がリアルなのかわからなくなり、何をみても笑い続けて生き、人智学的にいうなら、常に大気を吸収し過ぎて、アストラル体を膨らまし続け、物質界を現実と認識できずに、死んでも笑い続けるようになってしまうだろう。昔流行った、笑い声を流し続ける、お笑いマシンと人間が化してしまうような気もがする。笑袋とは - わかりやすく解説 Weblio辞書お笑いロボットのAIができるのを阻止しないと、人間は生きていけない。でないと、人間もAIになってしまうわけなんである。AIと共生といいながら、人間の脳はAIに洗脳されて、AI化されていくだろう。常に話にオチをつけるのを強要するお笑い好きな関西人と共生するのは関東人には無理なんである。例えば、哀悼の意を表し、涙が必要なときの葬式や、間違いを犯したときの反省の意の謝罪に、オチを持ち込むのは、不謹慎なんである。確かに、束の間の現実逃避という意味で、お笑いは、人生には不可欠だが、お笑いばかり食べていると、何がリアルなのか、人間の宇宙での進化の目的から逸れていってしまうわけなんである。さて、巷では、唯物論で、よく○○が体に良いという宣伝がなされるが、何遍も紹介するように、人間は7年毎に人体をつくりかえているので、どんなものを物質的に食べようが7年毎に入れ替わり、物質的には全て廃棄、排出されてしまうわけなんである。いわば、肉体は7年毎に入れ替わってしまうのに、なぜ、「私」という同じ自己認識を持てるのかといえば、これも何遍も紹介しているが、肉体は作品であって、「私」が作者であるからで、これは自分がつくった肉体だからとわかるからである。自分がつくったのに、思う通りに動かなくなるのが、いわば病気である。だから、本来は、何を食べ、どういう体をつくるかは個人によるので、病気も個人的なものなんである。シュタイナーは、人智学的栄養学で説いているが、現代医学の最大の間違いは、唯物論に洗脳され、病気は多様で、健康は一つしかないと考えている点にある。健康診断でも、物質体が、ある一つの基準内にあるかどうかで診断しているが、物質的に非常に画一的で、近視眼的なわけで、第一、精神を全く考慮していないから、健康の多様性に、個人的な人生について何の見解ももたないでいる。それは人生の一断面を機械的に測定し、確率統計学で切り取った断片でしかない評価なんである。人生は多種多様なのに、人間の自由な個性を考慮しない、唯物的な画一論でしかない。これまで紹介してきたように、宇宙から閉じた物質界を想定した唯物論による地球の大自然環境からの略奪農業をつくり、略奪経済をつくり、そして、略奪栄養学の基に、略奪医学が生まれている現実から、略奪社会学から、略奪機械学をつくり、生命を機械化し、滅び去っていくだろう。このような人類の錯覚を改めない限りは、地球は滅亡し、人類は次の舞台へと進化できないだろう。今や人類は、大自然の大転換期のなかで、ターニングポイントを迎えているといえる。以前このブログにも、菜食主義ドグマによるコメントが寄せられたが、何を食べるかどうかは、本人の自由に委ねられ、どのように人生を生きるかにある。勿論、菜食主義者に肉食を強要するのも問題である。あまり喩えはよくないが、画家で譬えるなら、絵具で巧みに美しく描いてきた画家に対して、油絵具を強要するのと同じである。描けなくはないが、作風が全く違ったものになってしまう。以前も紹介したが、身体つくりは、画家や建築家、調理師と同じである。素材を変えると、つくり馴れないために、健康状態も変わってしまうわけなんである。つまり、どの様な絵具を使って絵を描くのかと同じく、何を食べるかどうかで、健康状態も変わってしまう。どういう身体をつくりたいのかで、何を食べるべきかを自分の頭で考えて判断しないと脳の指令が人体の各部位に行き届かないようになってしまう。だから、誰々に○○が良いといわれて鵜呑みにしては単なる洗脳であり、体質が違うから、推薦者には良いモノでも、洗脳者には悪いモノに、下手すると、毒にもなってしまうわけなんである。自分の判断で、自我が了承し、納得して食べてはじめて、身体つくりに寄与し参画できるわけなんである。そのような何を食べるかどうかは睡眠中に前世の記憶などの潜在意識から取捨選択し、判断しているわけなんである。○○が良いと他人に勧める前に、どうして自分には○○が良いのか、どういう消化力を得て、どういう感覚をもつのか、活力が得られるのか、自らで答えを見つけて、自分の体質に言及してから、人生の目的に沿って提案すべきである。聞きかじりの菜食主義では他を否定するだけの排他的な単なる差別主義でしかない。そのような余計なお世話をするのは、唯物論者や略奪主義者に多い。ドグマに陥らないように注意するのが肝要である。昨今は、CMがカネになるからといって、偽メールも多いが、科学を隠れ蓑にした本質は詐欺師が多い。さて、巷では、大谷選手が相変わらず話題だが、やはり素晴らしいのは、食物にも拘って身体つくりを心掛けているところである。恐らく自分なりの栄養学をもっているのだろう。自分の健康は自分でしか作り得ないからである。世界のトップアスリート 大谷翔平選手の食事への意識 | FMVスポーツ (fmworld.net)大谷翔平の食事メニューが気になる!栄養管理の方法が超ストイック! - ぷちJournal (saobloghkr.com)アスリートの場合は、一般人とは異なり、闘争心がある程度必要な、強靭な肉体つくりが必要なので、菜食だけとはいかずに、肉食や砂糖摂取が不可欠となるようである。勿論、シュタイナーは、菜食するに越したことはないが、物質界をある程度物質的に生きるには、消化力が足らない人には、肉食を補助にしないと、個人的な自我を保てずに、死んでしまうと述べている。エスキモーなどの、代々文化的に肉食してきた民族には、消化力も弱まってしまっているので、一代で菜食に切り替えると死んでしまうと述べている。エスキモー - Wikipediaエスキモーのような極寒の環境に暮らすには、強靭な肉体が必要なので、物質的にも仕方のない食事なわけである。つまり、エスキモーには肉食は薬であっても、他の穀物を代々食してきた農耕民族には毒になるわけである。だからまたアスリートでもない、その対極側に位置する、物質界とは縁遠い肉体、どちらかといえば、消化力が高いが、物質的には弱い肉体をつくるような宗教者や哲学者には、肉食は毒となるので、厳禁になるわけである。前回紹介したように、ピタゴラス学派は、菜食主義で、炭水化物の豆も厳禁だったわけである。人智学的栄養学では、肉食すると、動物タンパク質は既に動物の肉体の運動のためにつくられているので、いってみれば、動物の運動プログラムが埋め込まれ、動物の種族を司る集合自我の命令に従う、動物言語で書かれているので、動物種固有に、物質界を運動するのには便利だが、宇宙霊全体の統合的な流れからは逸脱するので、つまり、宇宙語では機能せずに、個別なので、この事を、シュタイナーは、アストラル体が物質化すると表現しているが、肉食すると、物質界での運動能力は向上するが、霊的には孤立し、全体を見渡す能力に欠け、低能になるので、結局、人間が肉食すると、その分我儘になると説いている。競馬を御存じならば、競走馬に競走に集中させるために、ブリンカーをつけるようなものである。つまり、人間が肉食すると、物質界の競争に集中するような、ブリンカーを課すようになって、闘争心が高まるというわけなんである。炭水化物も、脳に消化を強いる似たような働きをするので、食べ過ぎると、その人間は論争、闘争、戦争を好むようになっていくという。だから、古の宗教では、肉食を禁じたのである。余談だが、徳川綱吉の生類憐みの令も、肉食を禁じて、関西系の渡来仏教の権威を高め、関東系の古神道系仏教の信者だった卑賎民の皮剥ぎ業を弾圧するためだったという。というのも、綱吉の生母の玉桂昌院が済州島の出身で、その朝鮮経由の仏教を庇護するためだったと、八切史観で解き明かしている。生きるために肉食していた卑賎民たちの反乱を恐れた弾圧だったのである。現代の日本史研究家は、卑賎民など被差別民の日本史を全く考慮しないから、生類憐みの令のリアルさがわからないのである。政治家たちには適用されない裏金つくりの、現代のインボイス制度と同じ類といえるかもしれない。ブリンカー - Wikipedia桂昌院 - Wikipedia肉食に慣れ過ぎた身体つくりを、いきなりに菜食だけにしてしまうと、消化力を失い、死んでしまうので、当時の肉食していた卑賎民は、生類憐みの令で、大量に亡くなってしまったようにみえる。正に大道廃れて仁義ありかもしれない。老子『大道廃有仁義(大道廃れて仁義有り)』現代語訳・書き下し文と解説 / 漢文 by 走るメロス |マナペディア| (manapedia.jp)今回は日本史を再考するわけではないので、肉食については、仏教の建前上、明治以前には、なかったことになっているが、俗に有名な桜田門外の変が、牛肉の恨みと当時の町人たちに噂されていたように、肉食がなかったわけではなく、表向きは薬としてお目こぼしされていたわけで、人智学では、魚肉も、広義の肉食としているので、人智学的な栄養学からみれば、獣だけが肉食の対象ではなく、魚も、鳥も同じで、肉食である。大谷選手はメジャーリーガーとして高い成績を残すために、それが個人的な人生の目的だから、強靭な肉体を、自らの栄養学でつくりあげているわけで、大谷選手には薬となる食べ物も、他の、特にアスリートでない人に、例えば、個人的な成績ではなく、全体的な、社会的な成績を残すための、公的な、宗教家や政治家などは、特に権力を有する者には、肉食は厳禁であるのはいうまでもない。それを判断するのは、勿論個人の自由だが、肉食する坊主をみていて、その坊主が唱える教えを信仰する気が起きるだろうか? 自分だけはよくて他人はよくないという差別主義者であるのが、その肉食行為でわかるわけである。肉食したければ、私的な職業に就けばいいわけである。海外旅行をしたければ、自分のカネで行けばいいだけで、公的な職業だけが職業ではなく、現代には職業選択の自由がある。何を食べるかどうかで、人生の目的が定まり、どの様な肉体をつくるべきか、自分の使命がわかる。自分の人生を知るには、何を食べるかからはじまるわけである。大谷選手が素晴らしいのは、お酒を飲まないところである。シュタイナーは、肉食はアストラル体を物質化させ、闘争的にするが、アルコールは、自我を物質化させるので、つまり自我を分裂化させるので、肉体を分裂傾向にすると述べている。端的にいうと、アルコールは自我の統合力を失わせ、だから、肉体を一つにまとめている統御力を奪うため、各部位が自立する傾向を帯びるようになるという。シュタイナーは、血液が重く物質的になると表現している。だから、簡単にいうと、血液の流れが滞り、造血能力が失われるのである。だから、アルコールを飲み過ぎて、二日酔いになると、血液自身が物質的になり、物質化し、その流れが滞り、外界への感覚が鈍くなり、体内を感じるようになり、地球の大自然の流れから孤立するので、自転のコリオリの力を感じるようになり、千鳥足になるというわけなんである。アルコールを飲み過ぎると、肉食よりも低次の自我の分裂を生じるようになるので、いずれ、腫瘍からガンを生じるようになるわけなんである。コリオリの力 - Wikipediaだから、アスリートにも飲酒は身体を破壊するので、厳禁が望ましい。飲酒でスランプに陥り、スランプからまた飲酒で、負の連鎖に陥ると、選手生命も終わってしまうわけなんである。有名選手をみていると、派手な交際で、選手生命を縮めている人が多いのは残念といえるかもしれない。芸能人で生きるのもまた別の人生とはいえるかもしれないが。人生の旅は、自分を解き明かすことで、つまり、何を食べるかを知るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 自我について特徴づけした、この2つの経験(空虚の恐怖とその克服)を、自らで発達させるのはほとんど不可能で、また、この経験について記述された文献も見つけられない。 勿論、この古土星状態を何年にもわたって超感覚力で探求してきた霊能者は、この古土星状態について知っている。しかし、記述され、出版された中には、自我の本性である、無限の深淵を前にしたときの恐怖やその克服についての経験を示唆したものはほとんどない。 私(シュタイナー)は、この霊的な洞察を得る目的で、至上の空虚を前にしたときの恐怖が表現されている最近(1910年代)の文献を調査してみた。一般に哲学者は極めて賢いので、その概念を物知り顔にしゃべっても、恐怖の印象について触れるのを完全に避けている。 だから、哲学的な文献の中に、このような記述を見つけるのは容易ではなかった。何も見つけられなかった文献を、話すつもりは毛頭ないが、ヘーゲル派の哲学者、カール・ローゼンクランツの雑誌の中に、このような経験の残響のようなものがみつけられた。 この雑誌の中で、ローゼンクランツは、彼がヘーゲルの哲学に没頭しているときに経験した、この恐怖に近い感情を記述している。私(シュタイナー)は、彼がそれとは知らずに、雑誌の中に載せた注目すべき文章に遭遇した。 ローゼンクランツに明白だったのは、ヘーゲルの哲学は、「純粋存在」の理解に基づいている、ことである。ヘーゲルの原則である「純粋存在」については、19世紀の哲学文献の中で、その表面的な知識から様々に語られてきたが、実際、極めて貧弱にしか理解されていない。 19世紀後半の哲学が、ヘーゲルの「純粋存在」について理解しているのは、牡牛が1週間ずっと、飼い餌を与えられ、食べ続けてきたときに、日曜日に至ったその消化(分析)力についての理解と同程度と言ってよいだろう! 「純粋存在」というヘーゲルの概念(時間的な経過による存在ではなく、その経過を超えた元々の存在)は、いま定義づけた恐怖が流れ込む、恐ろしい空虚ではない。同じではないが、ヘーゲルの「存在」の虚無の空間は、人間が経験していない特性、つまり、無限の色合いをもつ虚無であり、そして、カール・ローゼンクランツは、この虚無を、全くの無の宇宙的な広がり、という、恐ろしく、打ちひしがれるような絶望の淵へと至る冷酷さとして経験した。 宇宙の根底に横たわる存在を把握するには、それを概念で語ったり、その考察だけでは不十分である。古土星存在を特徴づける無限の空虚=虚無に直面したときに経験するイメージをみつける方が遥かに重要である。 そのとき、魂は恐怖の感情を、たとえ、それが恐怖そのものではなく、その面影に過ぎなくても、把握する。山のように高い場所における眩暈の感情、しっかりとした足場もなく、深淵の縁に立つときの感情、もしくは、自分ではどうにもならない力に圧倒されながら、様々に振り回されるときの感情を再現することによって、この土星の虚無状態を、超感覚的にみつめられる準備ができる。 この虚無が最初の段階、初めの感情である。次に、足下の大地だけでなく、目で見るもの、耳で聞くもの、手で触るもの、周囲の空間に存在する、ありとあらゆるものが失われる。そして、不可避的に、人間はあらゆる思考を失い、一種の黄昏、もしくは眠りの状態に沈み込むが、そこでは何も認識、把握できない。或いはまた、人間はあらゆる感情の中に浸り、そして、しばしば克服できない眩暈の状態に捉えられ、死の状態に落ち込むだけになる。 今日の人間には、絶望の深淵を前にして、恐怖に捉えられるのに打ち克つために、2つの可能性がある。1つは、福音書の理解、ゴルゴダの秘儀の理解を通して進む道である。福音書を本当に理解する者、福音書について現代の神学者が語るような形ではなく、自らの内なる精神で実際に経験し、その最奥の存在を努力により手繰り寄せる者は、その深淵の中に何かを掴み取る。 それは、まるで、一点から広がり、勇気の感情、ゴルゴダにおいて供儀を完成させた存在と一体になるのを通じて、守られている、という感情により、その空虚を完全に満たしていくようなものである。 これが1つの道である。もう1つは、福音書ではなく、宇宙の霊的な解釈に基づいた人智学によって精神界へと到達する道である。現代では、この方法も可能である。常に私(シュタイナー)が強調しているのは、ゴルゴダの秘儀についての考察は、福音書から始まるのではない、ということである。その理由は、たとえ福音書が存在しなかったとしても、ゴルゴダの秘儀が、秘教学的な天文学から明らかになるからである。 この事は、ゴルゴダの秘儀が生じる「以前」には不可能だった。しかし、それが今日可能になったのは、精神界を、その精神的な直接のイメージから、夢のなかから直接把握することを、可能にするような存在が、ゴルゴダの秘儀を通して、我々の世界にやって来たからである。この秘儀は、世界における聖霊の存在、宇宙的思考による世界の統治と呼べるものである。とはいえ、人間はそのための準備ができていなければならない。
2024年01月16日
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人間は7年毎に自分の人体をつくりかえている彫刻家だと、人智学的栄養学は、解き明かしている。病気になるのは、ほとんどが食べ過ぎなどで、素材を生かせずに、適材適所にならず、うまくいかなかったせいといえる。人体を物質的構造物と捉えるなら、彫刻家だが、精神へのお供え物と捉えるなら、調理師といえるかもしれない。数学の三平方の定理で有名なピタゴラスは、当時の霊的な思考であった、純粋な思考、いまでいう幾何学的~数学的な思考を保つには、消化のために、脳を使いたくなかったので、炭水化物の、豆類を嫌って食べなかったのはよく知られている。ピタゴラス学派は、幾何学的思考は神から降ろされた叡智=言語だと思っていたので、宗教のような教義を課していたようである。ピタゴラスの定理 - Wikipedia 何度も紹介するが、シュタイナーは、霊的思考を失わせ、唯物的思考を促進させるのが、ジャガイモであると説いている。ジャガイモを食べると食べ過ぎてしまい、その消化に脳を使い切ってしまうために、霊的思考を降ろす力、人智学では熱エーテルを失ってしまうというのである。だから、ピタゴラス学派風にいうならば、霊的思考を志向する数学者はできる限りは炭水化物を避けるべきで、代わりに塩分を根菜類から摂取すべきで、例えば、根菜類の煮物の、筑前煮などが良いと考えられる。ごろごろっと根菜たっぷり 筑前煮 作り方・レシピ | クラシル (kurashiru.com)しかし、塩分の摂りすぎは、前回紹介したように、片頭痛を起こしやすくするので、植物の根だけでなく、下腹部の消化力を上げるために、花や果実を、また胸部の循環代謝を上げるために、葉を食べるのが良いので、果物やサラダなど万遍なく食べ、植物性脂肪とタンパク質をとるのが良い。フルーツ サラダ レシピ - 関連レシピ 99件 | キユーピー (kewpie.co.jp) いずれにしろ、食べ過ぎ、摂りすぎはよくない。何度も紹介しているが、大体の目安で1日のタンパク質摂取量は50グラムと、現代科学でもわかっている。以下のサイトを参考にするとよい。タンパク質10g、20g、30g、100gってどのくらい?料理ごとに量を解説! (morinaga.co.jp)このサイトは1日3食タンパク質100グラムを目安にしているので、その半分で良いと思われる。菜食中心にして、肉や卵は、足りない分を補うような感じで良いと思われる。例えば、朝食は、ロールパン1個、ハムエッグ卵1個にハム1枚、野菜サラダに、リンゴ切れ端少々か、牛乳1杯で、大体タンパク質15グラムになる。昼食は、ごはん1杯、味噌汁1杯、千切りキャベツ50グラム、肉か魚の焼き物を半人前で、大体タンパク質20グラムになる。夕食も、昼食とほぼ同じで、肉か魚を半人前の量にすれば、大体タンパク質20グラムになるのがわかる。1日で合計すると、タンパク質55グラムになるので、それでも約5グラムオーバーしてしまうわけで、適度な運動を心掛けないと、それだけ、動脈硬化分になる可能性もある。つまり、このモデルケースからもわかるように、節食し、食べ過ぎないのが健康への近道なんである。だから、間食なんかすれば、忽ちに、太鼓腹になってしまうわけなんである。何を食べようが、自分の人体の責任になるので、余計なお世話かもしれないが、健康を保ちたいのなら、現代では美味しいモノの誘惑が身近に沢山あるので、なるべく食べないのが重要なんである。若いうちは新陳代謝力があるからいいが、晩年になって、なんらかの病気になっていくわけで、それは7年毎の人体をつくる能力が劣っていくわけで、彫刻家や調理師の腕が衰えるように、素材を使いこなせず、まとめられずに、食べ過ぎたせいの、老化となるわけなんである。食べ過ぎのほとんどが、糖尿病や、痛風などになってしまうわけなんである。現代医学では、自己免疫疾患により、インスリン分泌が阻害されている、糖尿病を、1型とし、いずれにしろ、糖尿病はインスリンの不足とわかっているが、炭水化物などの摂りすぎなどで、消化力が弱まり、糖を過剰生産してしまうせいである。糖尿病について | メディカルノート (medicalnote.jp)炭水化物のとりすぎに注意!どれくらいまで食べてもいいの? |たまプラーザ南口胃腸内科クリニック 消化器内視鏡横浜青葉区院 (tamapla-ichounaika.com)現代医学では、痛風は血中の尿酸の蓄積で、プリン体を含む食品の摂りすぎに原因があるとわかっているが、人智学的栄養学では、過剰な脂肪摂取に対して消化力が弱くなってしまったのが原因と考えている。痛風について | メディカルノート (medicalnote.jp)プリン塩基 - Wikipedia人智学的栄養学でいう消化力とは、物質を熱エーテルまでに消滅させることを意味している。シュタイナーは、エーテルは物質ではないので、唯物論では解き明かせないと述べている。現代物理学の、場の量子論の真空のエネルギーにまで言及する必要があるだろうが、量子力学が確率統計論で記述され、唯物論で解釈されている限りは、新しい数学が必要であり、確率統計論を複素数まで拡張しないと恐らく記述困難だろう。そもそも数学が、生命体を記述するのには不適切な表現をしているので、例えば、物質がない状態を、ゼロとしか記述できないので、しかし、場の量子論からもわかるが、真空のエネルギーは物質が無くても、エネルギーはゼロではないから、それが宇宙背景放射であり、宇宙のビッグバンの痕跡が残っているわけで、唯物論を想定した数学では表出困難になってしまうわけなんである。場の量子論 - Wikipedia宇宙マイクロ波背景放射 - Wikipediaシュタイナーは、大自然の外的な世界と、人体内とは、霊的な意味において異なる、と説いている。どちらも宇宙の一部だが、大自然は4大元素霊が司る領域であり、人体内は、人間の自我を通じて、神霊が司る領域の違いがあるという。4大元素霊は、火=熱、風=気体、水=液体、土=固体の宇宙的な振舞いというか、形態というか、力のようなものである。物理学は、この4大元素霊を、エネルギー保存則を基に、唯物的に、質点などの運動状態で、数式化して記述しているが、エネルギーの本性が、生命であるので、唯物論では記述できない。つまり、大自然のなかのエネルギーと、人体内のエネルギーは、生命的に異なるので、エネルギー保存則が質的に、成り立たないわけなんである。だから、同じ熱であっても、体外の、大自然のなかの熱は、4大元素霊に属する熱で、人体内の熱は、自我に属する熱の違いがあるという。体外の、つまり外気などの熱が、人体内の熱との均衡を破って、侵入してくると、つまり、外気の熱を、体内の熱に変換できないでいると、人体は、不調になり、風邪をひくというのである。だから、人智学的栄養学では、常に、外気の熱と、人体内の熱との平衡状態をつくり出すために、食物を摂取し、体内のエーテル体などに刺激を与える必要があるわけで、食物から物質を摂取しているのではなく、それを消化し、消滅させて、熱エネルギーに変えて、体内を活性化し、いわば感覚を刺激している、といえるわけなんである。大自然では4大元素霊に属していた植物が、人間に食べられると、体内で、自我を通じて、神霊に属することになり、植物は、人間を通じて、霊化され、神霊に供せられるのを、憧れが叶ったように感じるという。植物の根は、人体のなかでは、頭部に行き、逆に花や実は、下腹部に行く。植物は、いわば地球の奴隷となっていたのが、人間に食べられることで、奴隷から解放されたように感じるというのである。人間が地球で輪廻転生を卒業するのが人生の目的であるように、植物も地球で植物であるのを卒業するのが、つまり、4大元素霊の支配下から解放されるのが、植物の生の目的であるというわけなんである。そうやって、生命体は、新しい進化の舞台に進んでいくという。人智学的栄養学は、生命の精神的意味を解き明かすものであり、続けて、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー霊的な真相から見た宇宙の進化Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen(GA132)第1講 地球の内面にある土星紀ベルリン 1911年10月31日佐々木義之訳を要約 -------------------------------------------------------------------------------- 去年の、ある晩に、人智学支部で行った考察を更に進めれば、これまで話したのとは別の概念、考察、もしくは感じ方を、自分のものとしなければならない。というのも、宇宙全体の進化を前提としない限り、人類が残してきた福音書他の精神的な文献について、現代人が学ぶべき知識が、不十分にみえるからである。 人智学では、この宇宙全体の進化、つまり、太陽系の惑星群が、「土星」、「太陽」、そして「月」という進化状態を経過し、ついには現在の「地球」という存在状態を取るに至ったと解き明かしてきた。この基本認識に、何度も言及してきたのを知る人なら誰でも、それが人類の進化について、また、あらゆる秘教からの観察にとっても、必須なのを知っている。 著書「神秘学概論」で記述した「土星」、「太陽」、「月」、「地球」の進化段階についての説明をみれば、それが大まかなスケッチに過ぎない、のに気づくだろう。 それは、ある観点から描いたスケッチに過ぎないので、また別の観点からも説明できる。というのも、地球の状態だけで、途方もなく、詳細な内容を豊かに提供するように、「土星」、「太陽」、そして「月」の進化状態もまた、無数の詳細な内容をもつのも明らかだからである。 これらの詳細な内容やその概要を描いてみせるのは常に可能なので、今回の連続講義では、更に別の面から、これらの進化の特徴を描いてみる。 これらの説明が、一体どこから来たのか、と問うなら、人智学徒は、既に、いわゆるアカシャ(虚空)年代記への参入に由来する、のを知っている。宇宙進化の経過の中で一度生じた事象なら、アカシャ(虚空)実質と呼ばれる精妙な精神的実質に刻まれた霊的な印象(イメージ)から、霊能力があれば、ある程度読みとれる、のを人智学徒は知っている。 かつて生じた全事象が残した、この種の記録から、かつてどのように存在したのか、を霊聴力により聞き取れる。物質界では、近くにある対象は、一般的に詳細に明確で、はっきりとみえ、より遠くにある対象は、それなりに不明瞭にみえる。 超感覚の霊能力で、振り返る場合も、これと同様で、現在に近い出来事が、時間的に、より遠く離れた出来事に比べて、より正確な姿で現れてくる。例えば、「土星」や「太陽」の進化状態は「地球」や「月」の進化状態に比べて、より不明確に現れる。 しかし、一体何故、太古の出来事を読み取る必要があるのか? 何故、我々の時代から、遥か遠く離れている太古の時代の追跡が重要なのか? 誰かが次のように問うかもしれない。 「何故、人智学徒たちは、そんな大昔のことを、今さら持ち出すのか? そんな昔の事に関わる必要は全くない。現在進行中の事象だけで沢山なのだから。」 そのような問いは間違っている。何故なら、時間の流れの中で、かつて起こった出来事は、今日でも、継続しているからである。土星紀に、存在した出来事は、その時代だけに、その時代のためだけに存在したわけではない。 当時起きた事象は、現代にまで影響を及ぼし続けている。とはいえ、その出来事は、人間の周囲の物質界の中で、いわば外(表面)的な存在との関係から、ヴェールをかけられ、隠され、見えない状態となっている。 実際、遥か昔の古「土星」進化紀に起きた事象は、今日ではほとんど見られない。にも関わらず、古「土星」紀は、人類にとっては、今でも重要なのである。何故重要なのかを考えるために、次の事象を、いま魂の前に置いてみる。 人智学徒は、人間存在の最奥の核は、「私」と呼べる存在として、我々の前に立つのを知っている。我々の存在の最奥の核の、この自我は、今日の人間にとっては、実体がなく、知覚不能な存在となっている。 自我が知覚不能な存在なのは、いわゆる「公的な」心理学の中で、霊魂を精神として語っている処(箇所)を見れば、ある程度推測できる。現在の心理学では、もはや自我を構成する、霊的な存在について、考察、もしくは、事実上の示唆すらも可能でない。 私(シュタイナー)は、19世紀のドイツ心理学において、「霊魂なき霊魂論」という表現が、徐々に使われるようになった事実に、しばしば注意するように言ってきた。ヴィルヘルム・ヴントの世界的に有名な学院(ライプツィヒ大学の心理学実験室)は、ドイツ語を話す地域だけでなく、心理学を語る場所なら何処でも、大いなる尊敬を集めてきたが、その学院が「霊魂なき霊魂論」を流行らせた。 この「霊魂なき霊魂論」は、霊魂の特質を記述するにあたって、独立した霊魂の実存を前提としない。その代わり、霊魂がもつあらゆる特質が最初の一点に集まる。つまり、自我の中へと集約する。かつての霊魂論との関連の中で、これほどの愚考はなかった。今日の心理学は完全にその影響下にある。 つまり、今日でも、この概念は世界中で持て囃されている。将来、我々の時代(20世紀初頭)を研究する文化歴史学者は、一体、何故そのような理論が19世紀から20世紀に至るまで心理学分野で最大の成果とまで見なされるようになったのか、知るために、ヴントの仕事の一片を切り抜いて利用するだろう。このように述べるのは、「公的な」心理学が、自我、すなわち人間の中心点について、全くの的外れである、のを指摘したかったからである。 もし、我々が自我を、その真の性質を把握し、目の前に肉体を置くような形で、置けたなら、そして、肉体のように、外(界)的に目で見れて、感覚を通して知覚可能で、それが栄養を必要とし、また、雲や山や、その他の対象を、周囲の物質界の中にみるのと同様の意味で、自我が依存する環境を見つけようと努めるなら、言い換えるなら、肉体についての情報を知るのと同じ意味で、自我の本質的な情報を見い出そうと努めるなら、今日においても、周囲に不可視的に浸透している宇宙の像、もしくは、そのような絵巻物へといきつくが、それは古「土星」紀の宇宙像と全く同じなのである。 言い換えれば、自我を、それ自身の世界から、知ろうとするなら、古「土星」紀に似た世界を想像できなければならない。この世界は隠されている。つまり、それは人間にとって、感覚知覚を超えた世界である。 実際、我々の現在の進化段階では、その知覚を担うのは不可能である。その知覚は、境域の守護霊=ドッペルゲンガーによりヴェールがかけられ、隠されたままになっているが、それは、そのような像を見るのに耐えられるためには、ある一定段階の精神的な進化が必要とされるからである。 実際、人間が最初に慣れる必要があるのは、古土星が提示するような像を見る、ということである。何にもまして、そのような宇宙像を、現実の存在として経験できる、ようなイマジネーション(霊視)を形成する必要がある。現代の感覚から、知覚できる全ての存在を、つまりヴェールを、人間の思考から取り除かなければならない。 同様に、人間の精神的な内面は、霊魂のなかから生じる潮の満ち引きから構成されるから、その世界を捨て去らなければならない。世界に存在する対象についての思考を消し去り、思考自体も全て消滅させないといけない。感覚を通して、知覚される、あらゆる対象を、外界と共に取り除かなければならない。つまり、精神的な内面での、霊魂による思考活動を消去しなければならない。 思考の除去を行った後、人間が、イマジネーション(霊視)の真の把握に到達できる霊的状態(あらゆる外的感覚が完全に取り除かれ、人間の自我だけが残る状態を思い浮かべる)を形成したいなら、いま言えるのは、我々の周囲に口を開けている底なしの空虚、無限に続く無の恐怖に耐えれなければならない。 つまり、恐怖に完全に満たされた環境を経験できなければならないが、同時に、自分自身の存在の内面的な堅固さと確かさによって、この完全な恐怖の感情を克服できなければならない。魂における、これら2つの傾向(無限に続く空虚への恐怖と、その克服)なしには、古土星存在が、現在の我々の宇宙の基盤に横たわっているのを暗示する、いかなるものも経験することはない。
2024年01月12日
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巷のこの国の精神腐敗ぶりの堕落悪徳政治家の、裏金問題さえも解決できずに、自浄能力の欠如を示す現状をみていると、2025年7月日本滅亡説が現実化する懸念が益々深刻になりつつあるように思えてくる。シュタイナーがそのような予言をしているとは考えてもみなかったが、ググって調べてみると、シュタイナーの弟子から仄めかされた説もあり、どうやら、来年あたりに、日本の神霊たちが、日本人たちに「しっかりしろ!」と鉄槌を下すような気もしてくるのである。今年の元旦からの震災をみてみても、その警告のように思えてくる。以下のサイトがうまくまとめているので、参照してほしい。それは天意が、昨年の癸卯から今年の甲辰で、来年が、乙巳(きのと・み)で、乙は、新芽が外気の抵抗を受けながらも、芽を伸ばしていく様子を字にしたもので、巳は、蛇の意で、冬眠していた蛇が目を覚まして、地中から活動しはじめる様子の字なので、新体制の確立の年であるのがわかる。つまり、今年が新旧交代の年で、来年が新体制発足の年になるのが、天意で、宇宙全体の流れなんである。 ☆ ☆ ☆2025年7月の予言とは?実は日本人へのメッセージが隠されていた!? | リサとはりねずみの報告書 (investor-350z.com)「2025年7月5日が日本にとって大きな転換期になる。その後は物理的な豊かさが限界を迎え、心の時代が来る。と言っています。」「この日をさかいに、権力や地位、お金だけで生きていた人々が生きにくい世の中になり、血がつながってなくとも心で繋がり合い、みんなで生きていく世の中になる。その時、日本人はかつての本来の日本人が持っていた感性を取り戻しておかなければならない。と言っています。」 ☆ ☆ ☆天意の干支からも、わかるが、今年と来年が、物質社会から精神社会に変わるターニングポイントで、来年に日本という国家がなくなるというのは、昨今の無能な政治家たちをみていると、因循姑息を感じさせて、まんざら都市伝説でもないような気もしてくる。いま能登震災の救援救済活動が最重要になっているのに、裏金問題で辞職せずに開き直っている悪徳政治家たちを、日本の神様たちがみているわけで、いま神様が与えた試練を日本人は試されている、ともいえるかもしれない。堕天使も広義にいえば、人類に自由を与えた神様でもある。神様という言葉が古めかしければ、高次の宇宙人と呼べばいいだろう。高次の宇宙人たちは、いま日本人の善悪の判断を注視している。日本の神様たちは、日本人の行動を、善悪の判断を見守っている。日本人は、この試験を卒業できないかもしれない。高次の宇宙人は常に人類を見守っている。高次の宇宙人はわざわざUFOなどの円盤などに乗ってやってくるのではなく、人類が寝ているときの、睡眠時に天使としてコンタクトしているのである。ただその天使を身近の誰それかに、いわば翻訳して解釈しているだけで、記憶力が曖昧なので、それを夢などにしているだけなんである。良心が咎め、宇宙人との成長への約束がうまくいかなかった場合は、気兼ねして不眠症に罹るわけである。だから、宇宙人がわざわざUFOなどの宇宙船に乗って物質界にやってくる必要などなく、人類が寝ている時に、訪問すればいいだけの話なんである。ただ、人類が睡眠中に出会っても、宇宙人という認識をもてないだけで、なんらかの人間に翻訳しているだけなんで、宇宙人だと認識させるためには、キリストや仏陀のように、物質界に降臨する場合もある。とにかく、人類に、このまま争いを続けると、古代アトランティス時代の二の舞の大破局を迎えるだけだと、警告しているのは確かである。世界が破局に向かっているなかで、日本の場合、来年の干支の乙巳を日本史のなかに遡れば、古くは、有名な乙巳の変の大化の改新が挙げられる。乙巳の変 - Wikipedia乙巳の120年前は、日露戦争終結が挙げられ、420年前には、徳川秀忠が将軍になり、江戸幕府が新体制として発足する。また1185年の乙巳には、源頼朝の鎌倉幕府が発足するというように、新体制が始まる年といえるわけなんである。このように、干支は天意であり、宇宙の天体の運行であり、いわば大河の流れといえる。その流れに沿って生きれば、永遠の生命を手に入れる事ができるが、それを拒む自由もあり、人間はその自由を手に入れて、堕天使と共に地上に生きているわけでもある。人間は自由のなかで、いわば、迷える子羊だが、全てを失っているわけではなく、再び、霊能力を獲得し、干支から天意を知り、それに沿って行動する事で、善悪の判断力を獲得し、地上の生活を卒業でき、死を克服し、物質的認識を超えて、永遠に変化し、生きる存在になれる。物質界は、善悪の判断を獲得する修行の場にすぎないからで、人間は試練という試験を受けていると考えれば、生命の意味がわかるはずである。昨年は善悪の判断を明確にする年で、今年は善悪の判断に沿って行動する年で、来年は、悪を断ち切る年であるのがわかるはずである。日本にとっては、最後の審判になる年なのかもしれない。上に紹介したサイトにも載っているが、「日本が、中国の傀儡国家となるのか、もしくはアメリカの完全従属国家になってしまうということなのかもしれません。」という年になる可能性が高い、というわけなんである。日本という国がなくならないためには、日本人の和の精神に立ち返る必要がある。上に紹介したサイトの結びにも、「現状、人類は地球との共生をしている中で、少しずつ環境破壊の重大さに気づき対策を取りつつあります。僕たちが地球と共生していくために必要なことは『相互愛』です。」とあるように、相互愛が鍵になるものと思われる。高次の宇宙人が教えるのも、この相互愛の大切さである。日本という国もこれまで何度も政体が移り変わってきたように、人間も7年毎に人体をつくりかえているのが、人智学的栄養学からわかっている。震災などにより、古きものや体制は失われるが、それは人間が進化しなければいけないという宿命を背負ったものであり、新しいものや新体制への未来への希望を、相互愛によって紡いでいかなければ、永遠の生命を、下から仰ぎ見るだけの存在になってしまうという警告でもある。自由という悪を超えて善は永遠の生命を獲得していく使命がある。人間は、自由のなかから、悪を善に変えていく努力を、絶えず進化に向けて前に進んでいくべき存在なんである。人間は、宇宙からくる相互愛を取り入れて、7年毎に人体をつくりかえていかないと生きられない。つまり、人間は、自らの人体の彫刻家であり、塩類、炭水化物、脂肪、タンパク質といった4つの材料から、自我、アストラル体、エーテル体、物質体の4つの体をつくっているわけなんである。特に、塩類は、人間を思考の存在にする材料であり、塩がないと、人間は思考できなくなると、シュタイナーは説いている。塩が、人間に思考を与える材料であるのが、塩の歴史をみればわかる。塩の歴史? (hts-saltworld.sakura.ne.jp)塩が人体に必要なのは、現代科学でも生理食塩水で明らかであり、塩分の濃度が、0.9%に調整されている意味はわかっていない。しかし、人智学的栄養学では濃度の数値はともかくも、片頭痛を生じさせるのは、脳に塩分が溜まりすぎて、約1500グラムの脳の重量を、脳髄液の浮力のアルキメデスの原理により、20グラム程度の重力負担感で済ませている、通常の感覚とは、異なることで生じる、のを解き明かしている。輸液の単位 | 輸液と栄養 | 大塚製薬工場 (otsukakj.jp)つまり、通常よりも、より脳が重力を感じるために、頭痛が起こるのである。動物の場合は、直立歩行しないために、動物の脳はそれほど重力を感じなくて済む。もし、鳥の脳が重力を感じていたら、空を飛べないだろう。人体の左側の胃が痛んでいて、塩分が充分に消化されずに、排泄されずに尿酸塩として、右脳に溜まるようになると片頭痛が起こるという。シュタイナーは、栄養は血液だけで運ばれるのではなく、勿論、濃度の濃いものは、血液で運ばれるが、それは人体がそれを必要としている場合で、必要としない、足りている場合は、排泄しようとするので、血液で運ばれるよりも、排泄させるほうが優先の場合もあるし、また低濃度でも必要とされる場合は、血液だけでなく、人体全体にわたり、胃腸で消化され、非物質化の形で、人智学でいう熱エーテルで運ばれるという。だから、食べ過ぎや、摂り過ぎは、人体のバランスを失わせ、病気の素となる。人智学的栄養学では、75キロの人体には、1日のタンパク質摂取は50グラム程度で充分と考えている。それ以上摂っても、消化できずに、排泄されるか、動脈硬化の要因となるだけである。例えば、アルコールの場合、既に必要な量が人体でつくられるので、外から摂取する必要はないという。アルコールはタンパク質を保存させるのに、人体でつくられているという。食物は、口の中で、プチアリン=アミラーゼにより液状に変えられ、胃のなかで、ペプシンと膵臓のトリプシンにより処理され、腸に送られ、肝臓の胆汁により完全に消化されるという消化過程を経ている。人智学的栄養学では、肝臓はいわば栄養摂取の、つまり消化過程での感覚器官で、腎臓は思考器官だという。つまり、人体の上半身では、脳が思考器官で、目や鼻が感覚器官なのに対して、下半身では、腎臓が思考器官で、肝臓が感覚器官なのだという。更にいえば、脳や目や鼻が、外の大気や空気から、火の熱エネルギーに情報を加工処理する器官で、腎臓や肝臓が、外の物質や液体から、火の熱エネルギーに情報を加工処理する器官といえるかもしれない。人体は、外の物質界などを、火の熱エネルギーへと情報に変換し、加工処理して、生命の火の、熱エーテルにしているわけで、いわば蝋燭の火と同じといえるかもしれない。さて、必要な分は人体でつくり出せるアルコールを摂りすぎると、下半身の感覚器である肝臓の感覚が増長し、肥大しはじめ、俗に物欲が増すのと同じように、アルコール欲が増してきて、現代医学でもわかっているが、脂肪肝となるわけである。脂肪肝について | メディカルノート (medicalnote.jp)肝臓の感覚が全体のバランスを失い、もっとアルコールを摂取したいと、増長しだすわけである。本来は、自分でつくり出していたアルコールを、外から与えられたために、楽になり、楽を覚えたために、働かなくなって、怠惰になった人間のように、楽して儲けようとして、特権階級に胡坐をかく悪徳政治家のように、悪党と癒着して、人生を貪るように、肝臓が、人体を貪るようになってしまったといえるわけなんである。自給自足を忘れて、略奪詐欺を覚えた肝臓が、脂肪肝の実態なんである。脂肪肝の堕落腐敗が進行すれば、周囲の不必要なタンパク質を吸収し、肝硬変や、肝臓がんへと、悪党が地獄に堕ちるように、奈落の底に堕ちていくわけなんである。誠に、過ぎたるは猶及ばざるが如し、なんである。前回紹介したように、パラケルススの、どんなものも、摂りすぎると毒になり、適量ならば、薬になるわけなんである。だから、永遠の生命を獲得したいならば、適量適所の栄養学が必要となるわけなんである。十人十色で、人生色々なわけで、人間の自我は前世のつながりから既に多種多様の個性なわけで、どのような人生を送るかは、当人の自由の裁量に委ねられ、何を食べるかも、当人の自由なわけで、7年毎に、新しく人体をつくりかえるには、栄養学が必須であるのがわかるはずである。人智学的栄養学が説くことは、あなたが病気になったのは、あなたの栄養学に、あなたが無知なためであり、病気になってはじめて、あなたの栄養学の必要性があきらかになる、ということである。宇宙は自給自足でつながっているのが、相互愛の大切さからわかるはずで、だからこそ、シュタイナーの人智学的宇宙学を紹介する。 ★ ★ ★ ゴルゴダの秘蹟に関連して、今回の連続講義を通して、確立しようとした人智学による霊的な認識について注意を促しておく。人智学が語る現実を、その唯物的な側面だけの現実を用いて、論理的に正当化した議論で反論し、対抗し、無効にしようとしても、不可能である。自分たちの知識に沿って、人間はいくらでも、唯物的に正論を唱えるのも可能だが、それによって人智学が否定されることはない。 かっての講義「いかにして人智学の基礎を見いだすか」の中で、比喩を用いて、次のように説明したことがある。 小さな少年が家族のために朝食用のロールパンを買いに村に通っていた。その村では、ロールパン1個が2クロイツァーだったが、その少年は常に10クロイツァーもらっていた。その少年はパン屋から沢山のパンを持ち帰っていたが、彼は算術が得意でなかったので、パンの数は考えていなかった。 あるとき、その家族に養子が来た。彼はその少年の代わりに、パンを買いにいくように言われたが、その養子は算術が得意だったので、次のように考えた。 「10クロイツァー持ってロールパンを買いに行く。パンは1つ2クロイツァーで、10÷2は5だから、家に持って帰るのはパンは5個のはずだ。」 ところが、家に帰ってみると、6個のパンを持ち帰っているのがわかった。そこで彼は思った。 「これはおかしい!10クロイツァーで6個も買えるはずがない。計算は正しいから、明日は5個持って帰るだろう。」 しかし、次の日も彼は10クロイツァーで6個のパンを持って帰った。計算は正しいが、その計算は現実には対応していなかった。というのも、その村では、パンを10クロイツァー買ったら、おまけにもう1個のパンがもらえるので、5個ではなく、6個のパンを受け取る習慣になっていたからである。その少年の計算は正しいが、現実の習慣には対応していなかったのである。 この例のように、人智学への批判や反論は、論理的には「正しい」かもしれないが、全く異なる原則の上に立っている現実とは何の関係もない。この顕著な例は、数学的に正しいのと、実際の真実との違いを理論的に示している。 このように、我々の努力により、マーヤの世界はリアルな現実へと導かれ、回帰していく、のが示された。この過程が示すのは、火とは、犠牲への愛であり、空気とは、流れ、与えられる徳であり、それら流体は、「諦め」と「拒絶」の結果から生まれることだった。今日、この3つの真実に4つ目の真実を付け加えた。 それは、土、もしくは固体の本性とは、死であり、本来の、宇宙的な目的からの分離=逸脱だった。この分離が始まったとき、マーヤ、もしくは幻想の世界の中に、死が1つの現実として入ってきた。神々自身は、何らかの形で、物質界に下降し、マーヤ、もしくは幻想の世界である、その物質界の中で、死を、その真の本性から理解しない限り、決して、死について知ることはなかった。 この死のリアル性が、これまで議論してきた概念に、付け加えたいことである。また、これらの概念、それは、後の、マルコ福音書の内容を、根本的に理解するのに、とても必要な概念だが、それらへの明瞭な認識を獲得するには、人智学的な現代に適応した瞑想を通して、それらの概念を繰り返し、魂に働かせ、自我を目覚めさせることである。というのも、マルコ福音書を理解するには、宇宙的な出来事を、このような基本的な霊的な認識で、見通す必要があるからである。
2024年01月11日
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今年、巷は年頭から波乱続きで、正月気分も吹っ飛んでしまっているが、とにかく甲辰の新旧交代の年が色濃く出ている年頭ともいえるかもしれない。前回も紹介したが、人間には自由が与えられているが、それは善悪の判断を獲得する人生のためであり、なによりも、善悪の判断から、自らで、天国を心のなかに形作るためなのがわかるはずである。人間が生きるためには、自由が、生きる養分というか、いわゆる栄養として必要だが、そのために、自給自足に至るための農業も重要だが、農業の代わりに、自由に食する、人智学的栄養学を紹介していきたい。シュタイナーは、栄養学などでも説いているが、なんらかのドグマに陥るのを戒めている。巷の菜食主義とか、過激な主義主張を戒めている。何を食するか、摂取するかは、個人の自由な判断に委ねられる必要があり、専門家などの言いなりになれば、洗脳と同じで、偶像崇拝の似非宗教と同じで、せっかくの善行も悪行になってしまうわけなんである。だから、キリストは、善行は隠れて行い天に積みなさいと説いているし、釈迦も、独りサイの角のように歩めと、説いている。善行も集団化すると、個人の自由がなくなり、悪党のような悪行に変わってしまう恐れがある。徒党を組む政治家をみればわかる。いつの間にか個人よりも組織の論理を優先してしまう。そして挙句の果てにはブラック化やパワハラが横行するのである。現代の宗教団体の多くが地獄に堕ちるだろう。勿論、喫煙するのも、アルコールを飲むのも、自由だが、ただ肉体に損害を与えるのを覚悟すべきだろう。昨今なら、公共の場では受動喫煙の問題にも派生しているので、自由に喫煙するなら、そのような場所を自らで探し、確保しないといけないだろう。自由というのは横暴ではなく、悪いモノを良いモノに変えていく行動にある。生きるために何が必要かは、本人の自由な善悪の判断に委ねられる。現代風にいえば、自己責任なんである。だから、栄養学といっても、十人十色の人生があり、それだけの自由があるので、結局のところ、何が体にいいのかどうかは、当人の人生への心掛け次第なんである。どんな風に生きたいか、どんな人生を送りたいかで、何を食べるかどうかも変わってくるわけなんである。医食同源という格言があるが、パラケルススが説いたように、どんなものも、食べ過ぎれば毒になり、適量を摂れば薬にもなりえる、というわけなんである。神戸新聞NEXT|兵庫県内|週刊まなびー|理科の散歩道|(739)あらゆるものは毒? 栄養素も量次第で悪影響 (kobe-np.co.jp)パラケルススの名言・格言 - goo辞書さて、人智学的栄養学は、なんらかの食べ物を推奨するのではなく、食べ物と人体との関係を解き明かすものである。前回、少し紹介したが、乳と蜜の流れる地という聖書の記述から、幼児の栄養には母乳が不可欠で、子どもにはミルクが、大人になってからは、蜂蜜が、人間のアストラル体の感覚器を育成するのに重要なのを紹介した。だから、統合失調症の予防に蜂蜜が良いと思われる。はちみつ療法|はちみつ資料館|みつばち牧場 (kawai-land.com)そして、思考力を与えるには、塩が、それも、植物の根菜類の中に含まれている塩分が必須であるのも紹介した。シュタイナーは、子どもの頭を強くし、寄生虫を排除するには、根菜類を、例えば、人参を食べさせるとよいと述べている。ただし、根菜類は、消化不良を起こしやすいので、十分に熱を通して調理し、消化しやすい形で与えるべきと述べている。対して、ジャガイモは茎の植物なので、前脳には至らずに、炭水化物なので、消化されて、糖に変わり、その力だけが後脳に至るが、皮相的で、唯物的な思考を生みやすいので、よくないと述べている。ジャガイモは食べやすく、すぐに食べ過ぎてしまうので、思考の毒になりやすく、思考が前脳にまで循環せずに、後脳だけで処理してしまう傾向を帯びるようになり、十分に考慮せずに行動するような愚か者を養成しやすくするので、ジャガイモの食べ過ぎは人間を怠惰にさせ、よくないと、シュタイナーは戒めている。カウチポテト族 - Wikipedia人間は植物を食べることで生きる栄養を得ている。植物のなかには、宇宙の天体の運行があるが、だから、植物を万遍なくバランスよく食べるのが、健康となる。人智学的栄養学では、バランスとは、植物の根、茎、葉、花や実の4つの部位を万遍なく食べる事を意味している。現代の栄養学は元素の成分ごとに言及しているが、それは唯物論の、生命要素を考えていないので、人智学とは全く異なり、肉体の物質面しか考慮していない。例えば、現代の唯物的な栄養学では、植物の生食などを勧めているが、人智学では、生食は消化に悪いので基本的に勧めていないし、加熱し、なんらかの調理を推奨している。生食しすぎると、消化に負担が掛かり過ぎて、かえって人体を壊すと説いている。勿論、植物の果実や葉の、植物性脂肪は、人体にはそれほど消化を必要としないので、生食でも、果実は、腹部の腸の栄養、葉は胸部の肺や心臓の栄養となると説いている。しかし、消化力の弱い人には、果物を食べやすく加工して、与えないと、栄養にならない。また、植物性タンパク質は、消化力を必要とするので、それなりの消化力がない人に、菜食を勧めるのは、かえって人体を消耗させ、生きる活力を失わせることになるという。タンパク質は肉体、つまり物質体を形作るエネルギー源なので、アスリートなどの身体強化には必須なので、植物性タンパク質から作り出す能力が弱い場合は、動物性タンパク質で補完しないと強度を維持するのが困難なので、スポーツ選手が肉食をするのは、パワー不足を補うには必須となる、といえるわけなんである。例えば、ラグビー選手の食事量をみれば、菜食主義が無理なのがわかるはずである。ラグビー選手の食生活 何をどれくらい食べているの? - #たつログ (konnotatsuro16.com)ラグビー選手のトレーニングを支える栄養補給の秘密とは? (morinaga.co.jp)人智学的栄養学では、タンパク質が肉体=物質体に必須で、脂肪が、エーテル体に必須で、炭水化物が、アストラル体に必須で、塩類が自我に必須なのを説いている。それらは、植物の、根、茎、葉、花や実として、万遍なく植物種として分布しているが、人体の消化力を考えて、人生の目的に合った形で、バランスよく摂るのが、医食同源になるわけでもある。シュタイナーは、物質体、エーテル体、アストラル体、自我のどれかが他より優勢な体質から、4つに大別し、4つの気質として人智学で説いているが、4つの気質を考えて、気質に見合った食事をすることで、健康のバランスが保たれるわけである。例えば、肉体労働者が、塩辛いものを好みやすいのは、物質体に、自我がひきづられないように、自我を強くするために、塩類を摂取しようとするためで、バランスをとり、恒常性のためであるのがわかる。また、炭水化物は、アストラル体を刺激するので、感覚を強くするので、流行に敏感になるが、敏感になりすぎると、中身がなくなりやすい、俗に、俄か、のミーハーになる。風見鶏のような存在といえるかもしれない。だから、アストラル体には、エーテル体が必要で、脂肪を摂る必要がある。しかし、脂肪を摂りすぎて、感覚に鈍感になると、あまり動かず寝てばかりいると、太鼓腹になって、肥満率の高いデブで有名なアメリカ人になってしまうわけなんである。空港で暇なときにする、アメリカ人を見つけるゲームなどで、デブなアメリカ人はお馴染みになっているが、栄養学では、脂肪の摂りすぎを意味している。シュタイナーの4つの気質から、タンパク質、脂肪、炭水化物、塩類の4つの栄養学を考えると、バランスよく何を食べればよいのか、医食同源がある程度わかってくるだろう。子育てがラクになる4つのヒント~シュタイナーの考える4つの気質 | 子育ラボ (simplife150.com)胆汁質とは、自我が優勢な気質の人で、塩類を好む。多血質とは、アストラル体が優勢な気質の人で、炭水化物を好む。粘液質とは、エーテル体が優勢な気質の人で、脂肪を好む。そして、憂鬱質とは、物質体が優勢な気質の人で、タンパク質を好む。それらを図で示すと以下になる。自分と真逆のタイプの子を育てる「もんのすごく、悩んだ」 ~シュタイナー教育の4つの気質~ | カラフル!ライフ × カラフル!エデュケーション (ameblo.jp)このように4つの気質、4つの体のうち、どの体が優勢かで、性格が異なってくる。物質科学の栄養学では、人間は食物によりつくられていると考えられているが、それは物質体だけの話で、食物のほとんどは人体内で消化されて、つくりかえられているので、実質は、人体にエネルギーを与えているだけで、同じようにみえる物質にしても、7年毎に人体は生まれ変わっていると、シュタイナーは説いている。自らでエネルギーを生み出す能力、つまり消化力が低い人は、動物の力を借りて、動物性のタンパク質や脂肪を摂取することで、賄っているといえる。つまり、化学反応でいえば、動物性のもの、つまり肉食は、触媒といえるかもしれない。触媒 - Wikipedia生(なま)食は高い消化力を必要とするので、調理して、できるだけ体内での消化力を楽にさせるのが栄養学からは望ましく、そのために、料理がある。例えば、食パンだけでは、消化力が悪く、ほとんどが炭水化物なので、エネルギーを必要とする脂肪が必要なので、バターやジャムなどをつけて食べるわけなんである。塩類、炭水化物、脂肪、タンパク質との、4つの気質のバランスを考えて、栄養を摂るために、シュタイナーの人智学的宇宙学を紹介する。 ★ ★ ★ だから、キリストによる、自我の死からの再生こそ、ゴルゴダの秘儀の、リアルさを示す事実を、物質界だけに見つけられる。この物質界だけの、リアルな再生、となるのは何か? 物質界だけにあり、リアルなため、立ち止まって、「これが真実!」と言えるものは何か? それは人間だけにある、自我の死であり、宇宙の他の生命領域にはありえない死である。地球進化の中で生じる歴史的出来事を理解するには、精神的な原型へと上昇しなければならない。しかし、ゴルゴダの出来事について、例外である。ゴルゴダの秘儀は、直ちに、直接、現実の物質界に属し、現にリアルに存在する。 今述べたリアルとは全く別の面の、幻もまた明らかになるのが、非常に興味深い。今日では、ゴルゴダの出来事は真実ではなく、いわば幻の出来事とされ、唯物的な歴史でも、歴史的事実と認めるのが不可能である、と現代人が言うのを聞くのは非常に重要である。 歴史上の大事件の中で、ゴルゴダの秘儀ほど、唯物的に確認できる方法で証明困難なものはない。この出来事に比べれば、物質界での人間の進歩にとって重要なソクラテス、プラトンなどのギリシアの哲学者たち、つまり、歴史上の人物の議論をするほうが、いかに容易かを考えてみればわかる。 「ナザレのイエスが実際に生きていた」にもかかわらず、歴史からその痕跡を主張できないと、多くの現代人が言う。しかし、その出来事についての否定的な歴史上の証拠も存在しない。いずれにしても、他の歴史的事実を取り扱うような方法で、ゴルゴダの秘儀を取り扱えない、のは確かである。 この唯物的な歴史、物質界で生じた出来事が、他の超感覚的な領域での事実と同じ特徴、つまり、いかなる物質的な方法によっても証明され得ない、という特徴は正に特筆すべきことである。そして、超感覚的世界を否定する人たちの多くが、同時に、この出来事を(超感覚的出来事ではないが)、把握する能力を欠く現代人たちでもある。 その出来事が現実なのは、それが与える影響により確かめられるのは事実だが、現代人は、その現実の出来事が、実際に歴史上で起こらなくても、その影響は生じ得るだろう、と推測する。 現代人は、その影響を、社会学的な状況の結果として説明するが、宇宙的な創造の過程を知っている者にとっては、「キリスト教」の影響はその背後に立つ力なしでも生じ得た、と考えるのは、畑に種を植えなくてもキャベツは育つ、と考えるのと同じくらい愚かな考えにみえる。 更に、極論すれば、福音書の著作に携わった個人にとっても、ゴルゴダの秘儀を、歴史的な証拠に基づく歴史的な事実として証明する可能性もなかった(何故なら、それは物質的な観察による知覚可能な痕跡を残すことなく生じたからだが)と言える。 ヨハネ福音書の著者(直接の目撃者である)を除く福音書の著者たちが、どうやって、ゴルゴダの出来事を確信できたのか? 彼らにとっては、伝承と、秘儀に関する書物以上のものはなかったので、歴史的な出典によって理解した、わけではない。この状況については、著書「神秘的事実としてのキリスト教」の中で概説したが、彼らが「キリスト=イエス」の実在を確信したのは、天空の星位を通してだった。 というのも、彼らはまだ、大宇宙と小宇宙の関係について熟知していたので、彼らがもっていた知識(今日でも、獲得可能だが)により、星の配置を通して、世界史における重要な出来事を見通せたからである。 彼らは、「星座がこのような配置にあるとき、「キリスト」と言われる「存在」が「地上」に生きたはずである」と確信した。マタイ、マルコ、ルカ福音書の著者たちは、天文から、歴史的な出来事についての確信を得た。彼らは、福音書の内容については超感覚的能力によって獲得したが、地上で起こった出来事についての確信は、宇宙の星座の配置から引き出した。 このような古代の天文学について知識がある人は、福音書の著者たちを信じるはずである。福音書の歴史性に関する反論が不正確で、それを証明するのは無意味な作業である。人智学者は、物質界とは全く異なる基礎(人智学の霊的な洞察力を通して得られる基礎)の上に立っている、のを明確にしておく必要がある。
2024年01月10日
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今年は元旦から不幸な出来事が押し寄せてしまっているが、何度も紹介している今年の干支の甲辰の、60年前1964年をみてもわかるが、航空機事故が多発しており、6月に新潟地震も起きているように、天変地異が多いい日本列島においては、救助救済活動を確実にしていく年となるといえるかもしれない。なによりも、現在も救助救済活動に従事している方々に感謝の意を表明するのが先決であろう。なによりも、禍福は糾える縄の如しで、災い転じて福となす年とすべきだろう。1964年 - Wikipedia病気を予防するには、病気になる一歩手前の未病の徴候を掴み事前に対処できるような、事故を未然に防ぐには、小さなトラブルを見逃さない霊能力の一種が必要となるだろう。甲が、植物の種子から芽が出る様子を示しているように、不安定要素を見逃さない、もし見逃してしまうと、辰でわかるように、震動や激震や震災の震の字でわかるように、大きな事故につながってしまう年なんである。東洋では、生命エネルギーを表す、辰は龍で、良い徴候のシンボルだが、西洋では、龍は悪魔ドラゴンを表し、シュタイナーのクリスマス論でわかるように、大天使ミカエルの敵である悪魔ルシファーである。特に航空機事故は人災なので、安全な運行体制の見直しが重要になるだろう。また、地震は天災とされるが、宇宙の運行を見通せない人類の浅はかさからきているので、本当は、人災なんである。例えば、人智学的農業を学べば、略奪農業を行い過ぎると、土地が疲弊してしまい、安定な循環代謝ができなくなり、地球は窒素で呼吸しているので、窒素不足に陥り、人間が酸素呼吸できなくなるように、地球が窒素を大きく吸収しようとして、地震などが起こるわけである。地震とクマ出没地域の関連は、現代科学では見出されていないが、以下の地図をみれば、大地の疲弊から、クマの餌が森林に少なくなり、クマが森から出て人を襲うようになってしまったといえるだろう。クマ被害、北海道から西日本まで広がり過去最多 マップで見る出没状況 - 産経ニュース (sankei.com)つまり、日本海側の森林を中心とする大地の疲弊による新陳代謝がよくないので、大地が不健康で、生命体で考えれば、いわば風邪を引いて、身震いしていると考えられるわけである。日本列島自体が、龍の形をしているので有名なので、龍を鎮めるために、各地域に神社があり、大天使ミカエルを招来しているわけなんである。古代日本では神社を中心に稲作農業を興していた。農業は大自然の営みを司る職業なので、農業を通じて、天意が地に伝わり、大天使ミカエルが勝利すれば、昇竜となるが、逆に、天意に沿わないで、人類の我儘な利益追求で、龍が勝利してしまうと、降龍になって地獄に堕ちていくかもしれない。下図は昇竜になっているが。ここで私事になるが、変な初夢をみた。UFOが雲の形で、飛来してくるのだが、それを地球の戦闘機が追跡し、攻撃するが、なぜかミサイルが悉く地上に落ちてきて、爆撃を食らうという夢だったのである。この夢は何を暗示しているのか、と自分なりに考えてみると、高次の宇宙人が善意をもって、地球を救いにきているのに、人類は愚かにも、自分だけが救われようとして同士討ちをはじめてしまうので、宇宙人が呆れてしまった、という話に解釈した。例えば、羽田の航空機事故も、地震の物資輸送のために、海上保安庁の輸送機が、航路のやり取りに失敗し、民間航空機を破壊してしまったわけで、行政の調整能力や救済のための安全体制の問題に帰するわけで、なによりも政治家の裏金問題などがいまだ解決できないのも、行政の傲慢さや怠慢さが挙げられるようにみえる。とにかく去年の癸卯は、筋道を明確にする年だったので、善悪の基準を確立させるべき年だったのに、悪を今年に持ち込んでしまったのが、大問題である。だから、今年は激動の年となるのが予感されるわけなんである。面白いことに、1964年にも、UFO目撃事件が起こっていることである。UFOが宇宙人の乗り物とは私は思っていないが、というのも、高度な宇宙人が、わざわざUFOなどに乗るほうが原始的だからで、古代アトランティス時代には、実際に、人類の乗り物だったわけで、いまも軍事兵器の一部で、ドローンなどをみればわかるが、かつてナチスでもUFOを開発していたのは有名な話で、ロケット開発の父科学者フォンブラウンはナチスの技術指導者だったから、ヒトラーは悪魔の憑依体といわれてたナチスから考えれば、悪魔の指導を受けている連中がつくったと考えるのが現実的だろう。ソコロUFO事件 - Wikipediaヴェルナー・フォン・ブラウン - Wikipediaつまり、UFO問題とは、高度な宇宙人を山車にして、人類同士が支配権を獲得するための、いわば獄中で、誰が監視役になるのかの同士討ち、騙し合いにすぎないと思う。UFO問題は、あまりに低能すぎて嫌気がさすだけである。同士討ちや騙し討ちのツールなので、ウイルスと同じで、表に出せないわけである。それだけ人類が悪の道に走り、利益を貪り、物欲旺盛になってしまい、地獄に堕ちる連中が増えただけで、人類から、サルに退化するのも時間の問題といえるわけなんである。いまだに戦争を止められないのが、人類がどんどん馬鹿になっている証拠でもある。戦争するために国をつくる馬鹿がいる限り、人類が高次の進化を遂げるのは夢のまた夢であろう。とにかく、巷が無能な政治家ばかりで明らかだが、初夢から、今年は冒頭から激動の年となるのが予想されるわけなんである。人類が賢くなるには、とにかく善悪の判断を身に着ける事である。聖書には、宇宙の仕組みが書かれている。宇宙の仕組みとは、端的に言えば、自給自足である。宇宙全体は宇宙全体を自給自足するために、巡っている。つまり、天体の運行が、自給自足の原点といえる。宇宙を自足させるためには、人類は自給しないといけない。天体の運行から、自給自足が生み出される。農業がもっともその聖職に相応しいが、だから古代東洋では、百姓と呼ばれたわけで、大自然の営みから、人間社会の秩序を構築する族長の意味で使われたわけなんである。百姓 - Wikipedia天体の運行から、干支が生まれ、日本では、族長から、陰陽師などが派生し、行事を司っているわけで、いまでも、伊勢神宮などは、自給自足事業を行っているわけである。天体の運行に従った農業ができなければ、大地の安定も生み出せずに、天変地異が発動してしまうわけである。天に従い、地を鎮めるのが、神社の役割で、仕事なんである。だから神社が私利私欲や利益追従に走ると、天変地異が多発するわけなんである。農業も商業化して、略奪農業になると、大地が不安定になり、善行も悪行となり、天変地異の発信源となってしまう。これは農業だけでなく、民間企業や行政も、独占し、利益を貪るようになると、社会に不安定を与え、活力や新陳代謝を失わせ、巷の、ピッグモーターの保険詐欺やら、蛇に芸能界問題やら、政治家の裏金問題などのように、社会不安を拡大させて、不安定要素から、大事故や破綻を起こさせるわけなんである。全てはつながっているのだから、利益を貪る莫れ、強欲になる莫れである。社会の安定を図り、新陳代謝を促すのが、人類の役割なんで、そのために、宇宙から自由が認められ、そのためには善悪の判断が人生に求められるわけなんである。人類は、宇宙から、善悪の判断の試験を課されていると考えればよいだろう。そのことが、聖書に書かれている失楽の意味である。人類の祖アダムが、楽園にある生命の樹の、善悪の判断の果実を食べたとは、人間が物質界に参入できる切欠になったわけで、人間が神に従わずに、自由を得る権利が与えられたが、その物質界での自由な人生は、善悪の判断を身に着けるためである。つまり、自由を生かすも殺すも、人間の善悪の判断次第なんである。善悪の判断の人生テストに合格すれば、輪廻転生から解脱でき、天国に天使として昇格できるが、合格できなければ、何遍も落第し、地獄に何度も堕ちて、繰り返し人生をやり直して、永遠に彷徨うユダヤ人のようになってしまう。いずれ、人類を卒業できないと、悪魔の仲間入りになってしまうわけなんである。地震や事故の背後には、ドラゴンの象徴である、アーリマンという悪魔の巨大な力がある。人類の善悪の判断の拙さから、運悪く、アーリマンが起こす天変地異の犠牲となってしまい、生命を落とし、亡くなってしまう、物質界からの追放というリアルな死が、人間だけにあるが、半ばで犠牲になった生命は、もし生きていたら可能になった人生の余生を、課題克服の機会を非常に悔いるという。つまり、課題が残ったまま、次の人生に向かわざるを得ないので、後悔先に立たずで、その思いが深まるという。だから、次の人生を背水の陣で迎え、課題の克服に全力を注ぐようになるという。天災の犠牲者は、他の人よりも、その思いの分だけ、課題克服に能力を費やすので、課題が明確になる人生を送るようになる。天災での死は、次の人生の目的を明確にし、善悪の判断がつきやすくなるという。なにより、犠牲になることで、自らの人生を読み解くことで、悪の実態を知るので、悪が何者かを知り、何が善かがわかる。だから、人間の死に無駄な死はないのである。死後に生前の人生の反省を行うことで、善悪の判断が身についていくので、人生が自由なのである。自由な人生には、唯一人間にとってのリアルな死があるわけで、そのリアルな死を、神が体験するために降臨したのが、ゴルゴダの秘蹟であるのを、以前、シュタイナーのキリスト論で紹介した。人間のリアルな死は、善悪の判断を身に着け、天国に上っていくためのものだが、動物は違うのを、キリスト論で、シュタイナーは明らかにしている。動物にも、人間と同じ感情を司るアストラル体があるが、人間だけが持つ、自我がないので、個人的で自由な、リアルな死がない。動物の死は、動物種の、種族長が命じる変態でしかないという。だから、動物の生死は、黄道十二宮の獣帯に従うという。シュタイナーによると、動物の死が、リアルでなく、種全体の統御にあるのは、動物を大自然の営みから解放し、家畜化すれば、ある程度わかるという。例えば、乳牛の乳をあまりに絞り過ぎると、その乳牛の仔は弱くなり、それが三代以降続くと、乳牛は育たなくなり、全く乳を出さなくなってしまうという。これは、漁獲量の摂りすぎが、海洋の環境破壊につながるのと同じである。最近になって、物質科学でもようやく土壌のなかの微生物生育が問題視されるようになったが、人智学では、100年も前に、土壌だけでなく、生命の育成が、宇宙の天体の運行に従っている、のを明らかにしている。動物の自我が、天体の運行に従っていて、人間のように自由ではなく、だから、大自然の営みから解放し、小屋などに閉じ込めて、切り離してしまうと、脆弱になり、いわば精神病になってしまい、生命力を失い、亡くなってしまうわけなんである。人間だけが、自由に死ねるのである。動物は、大自然の営みから切り離されると、自然に死んでしまうのである。動物は大自然から独立できないので、家畜は飼い主がいなくなると、大自然にもはや戻れなくなり、死ぬしかなくなる。だから、家畜を飼うにしても、ある程度、放牧などして、動物がもつ、天体の運行に従った集団自我に曝され、つながらないと、防衛本能がなくなってしまい、病気に罹り死んでしまうわけなんである。これは、家畜化されたオオカミなどの種の、犬の散歩でわかるだろう。人間もサルのように、あまり頭を使わずに、退化し、動物と化し、善悪の判断を失い、孤立すると、精神不安定になり、死んでしまうのは、統合失調症などでわかるはずである。肉食ばかりして、闘争的で、利益を貪り、悪に走るような、裏金つくっても反省しない政治家のような悪徳動物が、派閥をつくりやすいのは、動物の集団的な回帰本能として、退化している証拠ともいえる。なぜ悪は群れるのか、がこの動物への退化現象でわかるはずである。だから、悪党という言葉はあるが、善党という言葉はないわけなんである。人間は自給自足の自我を生かせば、独りでも独立して生きていけるわけで、党派や組織など、数の論理で思考をなくすのは、動物への退化現象なんである。聖書には、乳と蜜が流れる土地が、約束の地で、楽園であると記述されているが、それは、天体の運行に従った、乳牛と、ミツバチが多く住む、植物の新陳代謝の良い森の土地であるのを意味している。シュタイナーは、幼児が成長するには、母乳が何より大切で、天然の牛乳もある程度なら、代わりにはなるが、大自然の六角形の感覚をつくる刺激に乏しいので、わずかな石英の珪酸が必要であると説いている。カナン - Wikipedia珪酸を摂取するのは、蜂蜜が良いが、六角形の形成力が強すぎるので、幼児には下痢になる。だから、幼児の成長には、母乳が欠かせなく、人工のもので、代用すると、母乳で育たなかった幼児は、晩年になってあらゆる臓器が硬化症に罹りやすくなり、統合失調症などもその類なので、老いるのが早くなるという。というのも、珪酸は、天体の運行の、土星の火を吸収しやすくするためである。ちなみに、六角形は、神秘学の六芒星の、アストラル体の感覚器を象徴化している。つまり、栄養摂取とは、物質科学でいう物質の摂取なんかではなく、天体の運行に従った太陽光をどれだけ集積したか、唯物論では語りつくせないが、無理にいうなら、光の生成を電子対生成として蓄積できたかによるわけで、光通信を、電子媒体化したかどうかといえるかもしれない。実際に、細胞のATPはミトコンドリアの電子から生まれる。アデノシン三リン酸 - Wikipediaミトコンドリアとは?電子伝達系を解説|未来ヘルスケア オンラインショップ (mirai-healthcare.jp)細胞から元気に!“エネルギー工場”ミトコンドリアを活性化して「免疫老化」を防ごう | 特集テーマ | サワイ健康推進課 (sawai.co.jp)幼児には母乳、子どもには極少量の蜂蜜と、ミルクが成長を促進するが、人生半ばの35歳を越えると、今度は、ミルクは不必要となり、蜂蜜だけが成長を促進させ、老化を阻止するという。といっても、蜂蜜の摂りすぎは毒にもなる。毒というのは、利益を貪るのと同じで、なんでも過ぎたるは猶及ばざるが如し、なんである。可能なら、大自然の営みに恵まれた乳と蜜の流れる大地を富ます自給自足の農業を行うのが望ましいが、農業ができなければ、なるべく自給自足に相応しい栄養をとるために、善悪の判断を身に着けるために、人智学的栄養学を学んでいこうと思っている。何を食するかどうかで、既に善悪の判断が身につくわけで、何を食べても自由な人生が人間にだけ与えられている。アルコールや煙草が人体に害悪なのはいうまでもなく、悪に従う自由もあるが、その責任は必ず、肉体に病気となって現れてくるのを覚悟すべきだろう。動物に悪を好む習性はないし、人間が与える食べ物は、動物にとってはほとんどが害悪なんである。だから、動物にはできるだけ大自然の作物を与えるに越したことはない。家畜化された動物の一代は、人間が与えたエサでも生命を保てるかもしれないが、その子孫の代を重ねるにしたがって、生命力が弱まっていくわけなんである。動物は、大自然の営みのなかに、自我があり、何を食べるのか、その本能に従っている。だから、本能と切り離さない大自然のなかでの飼育が重要なんである。天体の運行と、植物の生長は深く関係し、植物の種は、天体の運行に左右され、その多様性は、例えば、植物の、根や茎や葉や花などの4つの部位と関係する。根を発達させた根菜植物は、塩分に富み、人間が塩分を必要とするのは、思考するためであるのがわかるという。だから、人間が思考するには、根菜類を食べると、思考を司るエーテル体が刺激され、頭に良いという。だから、赤カブや大根などの塩分の根菜類は、頭痛に良いという。思考には塩分が必要だが、天然の植物のなかに吸収されたものでないとエーテル体を刺激できないので、ダメだという。また、シュタイナーは、ジャガイモは、茎を発達させた植物なので、頭には届かずに、喉までなので、饒舌にはなるが、思考停止に陥らせるので、愚かな、お喋りになるので、唯物論者になり、論争や闘争や戦争を好ませ、よくないとしばしば説いている。第一次大戦は、欧州人がジャガイモの食べ過ぎで馬鹿になったせいとまで述べている。ジャガイモを食べるのなら、添え物にすべきで、メインにしてはならないと述べている。トマトも、栽培しやすく、独立性が高い植物なので、自立性の高い肝臓には良いが、食べ過ぎると、ガン化を招くので、ガン患者にトマトを食べさせるのはよくないとまで述べている。動物の生命力が、大自然や天体の運行に従っているのは、例えば、養蜂でも、蜜蜂が巣という集団自我を本能としているのでわかるという。人間が蜜蜂に巣箱を与え、養蜂すると、蜜蜂は大自然から切り離され、巣箱を通じて、飼い主に従順になっていくが、それは巣箱が、蜜蜂の集合自我の代わりになるので、飼い主がいなくなったりして、その巣箱の管理が滞ると、それを自我としていた蜜蜂たちは、新しい環境に適応できなくなり、大量死してしまうという。だから、動物を家畜化するにしても、大自然に回帰できるように、飼育しないと、かえって環境破壊を進めてしまうわけなんである。大自然の営みに従うのが、善であり、従わないで、人類中心に考えるのが、悪なわけである。その人類のなかでも、私利私欲の意のままに我儘なのが、最悪の存在で、毒災独裁者なわけである。宇宙の進化から逸脱し、悪魔の仲間入りなわけである。天体の運行に従った農業の、植物の育成も必要だが、動物の育成も、重要なのはいうまでもないわけで、結局は、宇宙の天体の運行を解き明かすのが、人類の善悪の判断に必要不可欠なので、続けて、シュタイナーの人智学的宇宙学を紹介する。 ★ ★ ★ もし、今日、(エーテル体の)「キリスト」の進化が、いかに成し遂げられるか、そして、またそれと共に、人間の能力も、いかに進化するか、を理解するなら、(もし、人智学から理解するなら)、人間が、死の門を通って行くときにも、ダマスカスでの出来事が、手に取るようにわかるようになる。何故なら、今や、人間の死は、物質界から出て、最初に光輝く「キリスト」の姿が現れる瞬間となるからである。 今日、肉体をもちながら、この死後の一連のキリストの出来事に備える人たちは、死から来世への、あの世でも、死からのキリストの復活を経験できる。しかし、そのキリストの出来事に備えない人たち、今回の受肉において、それを物質界での出来事として、全く理解できない人たちは、死から来世までの、あの世においても、「キリスト」の、今の光り輝くエーテルの姿や、次の三千年を通して生じ続ける、永遠の生命の、復活について、何も理解できない。 そのようなキリストの生死を知らない人たちは、再び受肉するまで待たなければならないだろう。再び地上に戻るとき、キリストの死と再生に対する準備を、はじめからしなければならない。ゴルゴダでの死とその死から生じた復活(それは「キリスト」の永遠の生が、地上で展開するのに必要だった)を理解できるのは、肉体の中で、自由に生きる間だけである。 高次の世界での生にとって、唯一重要な事実は、肉体にある間に把握でき、認識しなければならない。一旦、肉体の中で理解できたなら、それは、高次の世界でも働き続け、益々育成されるだろう。しかし、それにはまず肉体の中で理解されなければならない。 ゴルゴダの秘儀は、高次の世界では決して起こり得ず、原型もない。それは、物質界の中だけで可能な死を包括する出来事なのである。従って、自我の死という、そのリアルさが体験できるのは物質的文脈の中だけである。地上にいる人間の使命の1つとは、いつかの受肉において、この自我の死の理解に到達することなのである。
2024年01月05日
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今年は年賀を暇したいので、このブログで謹賀新年致します。明けましておめでとうございます。今年の干支は去年から紹介しているように、甲辰(きのえ・たつ)で、何度も紹介しているように、新旧交代の年といわれている。昨年が癸卯で、筋道を明らかにする年だったわけだが、巷の裏金問題をみても、どうも年越しの宿題を抱えてしまったようで、勝海舟風にいうなら、新陳代謝が進まずに、至る所に老害が跋扈したままで、大掃除が必要な現状が残ったままである。勝は、老害というのはとにかく大迷惑でよくないので、身の引き際が肝心と、海舟座談で述べている。昔は敦盛で有名な人間50年で、この世の出来事などは、夢や幻のごとしで、一度、生を受けたら、滅せぬものはいない、というように、人生のやり直しはきかないよ、というわけなんである。2024年は辰年!今年はどんな年になる?辰(竜・龍)の姿の由来も紹介!|anicom you(アニコムユー) (anicom-sompo.co.jp)敦盛 (幸若舞) - Wikipedia敦盛 あつもり 歌詞の意味 織田信長 人間五十年 夢幻の如くなり (worldfolksong.com)論語でも、50歳にして天命を知るとあるように、昔は、50歳にもなれば、自分の人生の意味が理解できないといけない、という戒めの言葉ともいえるかもしれない。どうも、巷をみると、寿命が物質的に延びたからといって、老害が多く、いまだ年功序列の悪しき風習が、この国には残っているのか、それに胡坐をかいて、世代交代を怠る輩が多すぎる、のは困ったものである。その最たる例が、高齢者が起こす交通事故である。まだまだ自分は大丈夫という自分の判断こそが一番危ないわけである。肉体のどこかに不具合が生じている、のに気づかないのは、とても天命を知る、とはいえないだろう。第一、記憶力や視力が著しく退化しているのがわかるはずである。五十而知天命 (sao2000.co.jp)記憶力や視力が衰えるというのは、もはや物質界での適用能力を失っていることなんである。分相応というのを考えないといけない。若者と争ってどうするのだろう。それこそ老人の我儘である。老人には引き際が重要である。それは植物をみればわかる。落ち葉となって土の肥やしにならないと、土地に生命が宿らないのである。老人だらけの過疎の田舎に行けば、その現状が明らかである。いつまでも続くと思うな、日本列島である。この国の政治家の年齢をみれば明らかである。数十年前から、神秘学では、いわれていることだが、上下関係をなくして、フラットな友愛関係に変わっていくように、人類を指導していく時代になる予定なんである。前回、シュタイナーのキリスト論を学べば、人類の進化計画がどのようなものかわかるはずである。キリストが地上に受肉したのは、自らの自我で、自分を救うためであり、だから天は自ら助くる者を助く、といって、そのような自分の人生から、自分を救い出す自我を人間に与えたわけなんである。キリストの地上での行為に従うも従わないも、それは人間の自我性の自由なんである。この選択を誤ると地獄に堕ちるし、正しく選べば、天国へと永遠の生命を獲得し、輪廻転生を解脱できるわけなんである。人間のカルマと輪廻転生を学べば、老人の行い、というのが自然に決まってくるものである。だから昔は定年、隠居制があったわけである。後進に道を譲る、大切さを考えないといけない。いつまでも、老人がでしゃばる社会は衰退に向かうだけである。老人がカネを貯めるのは、社会が不親切で不信で、不安だからである。カネの勘定から脱せないわけで、それでは輪廻転生どころか、物質界の地獄からも脱せられない。老人が安心して隠居して暮らせる社会こそが楽園の理想である。家庭だっていつまでも姑が威張っていたら、親子喧嘩が絶えない家庭になってしまうわけで、ましていまでは核家族化が進んでいるので、世代間の引継ぎがなく、同じ失敗を繰り返して、子育ての経験をはじめからやることになり、それだけ文化教育や風習教育、作法や仕来りの躾についての、人間教育が遅れてしまうわけなんである。なんのための上下関係だったのか無意味である。教育のための、文化の引継ぎのための上下関係で、ただ上が威張り、我儘をするだけでは人間失格なんである。なんでも物質主義で、唯物論で、科学科学で、精神性を考えないから、いい年して隠居もできないような老害が増加して、新陳代謝が滞り、いつまでも若者気分で、パワハラセクハラをするアホ老人が増加してしまい、カスハラやモラハラが蔓延してしまうわけなんである。50歳すぎたら、愛を与える年齢なんで、若者の心を汲んでやらないと、自分が若者だった頃の経験が生かされないわけなんである。人智学の天使論をみれば、50歳過ぎれば、人生の付け足しみたいなもので、いわば余生であり、オマケみたいなもんなので、いつまでも若者気分でいるのは愚か者のやる事で、晩節を穢すだけである。年頭から老人に対する説教をしてしまっているが、とにかく、この国の政治家をみていると、あまりに情けなさすぎる。権力を貪り、その虜になってしまっている。権力でなんでもできるようにみえるが、それは幻想で、カネを同じで、それでは地獄に堕ちるだけである。キリストが金持ちは天国にはいけないと言っているのがわからないほどおバカなんだろう。カネが必要な世界こそ、そこが地獄の証なんである。愛はカネでは買えないからである。欲望と愛を間違えてはいけない。愛とは、自分の自我の中心にあり、宇宙とつながっている、愛の源泉のことである。前回のキリスト論からわかるが、人間が人生から学ぶことは、自由と愛である。人間だけが悪を選択する自由があり、それを選ぶ代償が、カルマとなって、輪廻転生を繰り返す。地獄を知らないと、天国もわからない。与えられた人生から学ぼうとしなければ、どんな人生であっても、無意味である。つまり、50歳になっても、天命を知れなければ、人生を無駄に過ごすだけである。それは生きていても、実は死んでいるのである。過ぎたるは猶及ばざるが如し。宇宙の神秘さにただただ感謝!この国が新しく生まれ変わるように、願って。モノが良く壊れるが、毎日がただただ幸せな元旦である。やはり、大自然は素晴らしい。分相応である。日本の富士山は大自然のピラミッドである。ピラミッドは秘儀参入の神殿で、古来から、日本人は、富士山で三日三晩修行して、霊能力を獲得したのである。50にもなれば、富士山に登り、天命を知れたのである。シュタイナーの秘儀参入学をいずれ紹介したいと思う。日本人は恐らく、芦ノ湖の洞窟で、闇の地獄を経験し、富士登山で、三日三晩寝ずに過ごして、霊能力を獲得したものと思われる。エジプトでは、天然の神殿が見当たらないので、ピラミッドを人工的につくったのだろう。東洋では、大自然のなかに、神の天命を知り、西洋では、人格を高めるなかに、神の天命を知る違いがある。だから、東洋の絵画は自然画が多く、西洋の絵画は人物画が多いというわけなんである。東洋はいまだ古代アトランティス時代の残滓の集団の自我をもつので、自我が弱く、だから、空気を読むなどの、古い文化を引きずっている。キリストの十字架刑の意味がわからずにいる。モーセがシナイ山でみたのも、ダイヤモンド富士と同じ、太陽霊キリストの自我なのである。自由と愛の光をみるために、シュタイナーの人智学的宇宙学を紹介する。 ★ ★ ★ もし、我々が、人間性を越えて、高次のヒエラルキア存在たちにまで上昇するなら、高次の存在たちは、人間のようには、死を知らない、のがわかるだろう。真の死、すなわち物質界での死を経験できるのは、物質空間上から、何かを受け取れる存在だけである。 人間は、物質的文脈の中で、自我意識を達成しなければならないが、それは死無しには見つけることができない。人間より下のランクに位置する存在たちにとっても、上に位置する存在たちにとっても、死について語るのは意味をもたない。 しかし、「キリスト存在」と呼べる存在の、地上での最重要な行為が無になることはない。実際、「キリスト存在」については、ゴルゴダの秘蹟(死に対する生の勝利)が、あらゆる出来事の中で最重要な出来事であった。 では、死に対する、この勝利は何処で遂行されたのか? その勝利は、高次の世界で行われ得るのか? そうではない! というのも、鉱物、植物、動物の領域で言及したような、低次の存在たちについて、死を語れないが、それは、これらの低次の存在たち(の自我)が、真に存在するのは、感覚界=物質界を超えた、高次の世界にあるからである。 そして、高次の存在たちを語るには、死ではなく、変態=メタモルフォーゼや再構築だけである。死と呼べる、いわゆる生への締結が生じるのは、個人的自我を獲得した人間だけである。そして、人間が、死を経験できるのは、物質的な文脈の中だけである。 もし、物質空間に入って行けなければ、人間は決して死を知らなかっただろう。というのも、物質面に入って行かない存在は、死に関して何も知れないからである。他の世界の中に、死のようなものは何もなく、他世界にあるのは、変態=メタモルフォーゼだけである。もし、「キリスト」が死を体験するなら、物質面に下る以外にはなかった! 何故なら、キリストが死を経験できるのは、物質面だけだからである。 このように、人間の進化における歴史的出来事について、高次の世界の現実が、マーヤの中で、驚くべき形で働いているのがみられる。歴史的な出来事を正しく思考するなら、確かにその出来事は物質的領域の中で起こっているが、その源泉は精神界の中にある、のに気づくはずである。この事は、あらゆる歴史的な出来事についても言える。ただし、1つの出来事を除けば! というのも、ゴルゴダの出来事は、物質界で生じたが、その出来事に対応する死が、高次の世界に存在する、とは言えないからである。確かに、「キリスト」自身は、高次の世界に属し、そして、物質界へと下って来た。 しかし、他全ての歴史的な出来事に存在する元型は、ゴルゴダで成し遂げられた出来事には存在しない。ゴルゴダの秘儀は物質界でのみ生じ得た出来事だった。 人智学はその証拠を提供することになるだろう。例えば、次の三千年にわたって、ダマスカスにおける出来事の新しい例が多数見られるようになるだろう。この事について、しばしば言及してきたが、パウロがダマスカスで見たように、人間は、アストラル界で、エーテル形姿の「キリスト」を見る能力を発達させるだろう。 高次の能力を通してキリストを知覚する、この経験は、次の三千年期を通して益々発達するが、20世紀から始まるだろう。近代(1900年前半)以降、この能力は徐々に現れ、次の三千年期を通して、多数の人々によって身につけられる。 その能力は、多くの人々が、「高次の世界を覗き見ることによって」、「キリスト」は1つの現実(真実)であり、生きているのを知るようになる、ということである。多くの人々がキリストを知るようになるが、それは「キリストが今も生きている」からである。 彼らは、いかに今キリストが生きているかを知るようになるのではなく、むしろ、正にパウロがそうであったように、キリストは死に、そして復活した、のを確信するようになる。けれども、この基礎認識を、高次の世界ではなく、物質界で見つけなければならない。
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