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それから、クリスマスが中間にある現在のような冬の季節が来た。この季節は、歳神によって霊感を授けられ、秘儀に参入した導師が、弟子に、水が芸術的な雪片の結晶形態となって大地を覆うとき、啓示される神秘を指摘する時期だった。 既に、秋に思考と観想になっていた判読(読解)は、今、魂の奥深くの領域で、内的生命になった。これまでの季節のなかで、外的、物質的活動とともに平行してきた魂の観察が、今、秋になって、内(精神)的、霊的活動になった。つまり、読解は神秘的な感化(深化)になった。 自らのなかの、「私」なる存在の最深の本質を、包括的に理解するには、宇宙言語や、宇宙的なロゴスにより、大地が雪のマントルに包まれたときや、大地の周辺と大地の上の生命が寒さによって収縮したときに、自然に生じる全ての存在に投影された秘密に傾聴するときだけであることを、古代の人々は知っていた。 (外界が白い雪の衣装を纏い、いわば外界が目隠しされた冬の季節こそが、魂の内奥にある、人類生誕の秘密をみつめるときであることを、古代人は理解していたという。) 歳神によって秘儀参入し、霊感を与えられた人々(導師)にとっては、歳神の書物を、冬の季節に与えられた指示(解釈)から理解できるようになることが責務だった。 大地の中に置かれた種子や、また様々な大地の収縮力の内部で冬眠する昆虫の生から、導師は、活動するプロセス(過程)を追跡できるように観察力を研ぎ澄ました。人間の眼差しは物質光を見ることで物質的な闇に導かれた。 (物質的な眼による視覚は、雪による白により閉ざされたという意味で、物質に囲まれると、人間は精神的問題に直面せざるを得なくなる。だから、金持ちは、冬の季節の象徴でもある。物質欲があればあるほど、益々、精神性が隠れるので、乏しくなり、冬のように、その精神的活動力、生命力を失う。金持ちは闇、つまり悪に直面せざるを得ない。) ある秘儀では、弟子は次のように導師が囁くのを聞いた。 「今、汝は真夜中の太陽を眺めなければならない! 汝は大地『を通して』太陽を眺めなければならない。大地の中の植物や下等動物にまで、魂の眼(心眼、霊眼)が到達できる浸透力をもつなら、そのとき大地が汝の最奥の魂によって、透明になるだろう。」 宇宙(天)に比べて、大地の様々な力が最も収縮するときこそ、人間は大地『を通して』太陽を、真夜中の太陽として眺めることができるようになる。そのとき地球は、内的に霊化される。 その冬とは逆に、夏至に、人々は、地球から宇宙(天)へと眼差しを向け、肉体の眼(視覚)で太陽を眺める。 しかし、深い冬の真夜中(クリスマス)に、太陽を眺めることが、歳神に導かれた秘儀参入者(導師)の弟子が学ぶべきことであった。 (古代人の宇宙言語を読み解く冬の秘儀、つまり読解儀式が、形式化してクリスマスになった。) そして、秘儀の忠実な信奉者だが、秘儀参入者(導師)にはなれなかったか、或いは導師の実際の弟子にはなれなかった人々に、真夜中の太陽が明かした秘密を伝えることが、秘儀参入者(導師)の責務だった。 (この儀式が形骸化してキリスト教のカトリックを生むことになる。本来は、高度な霊能力を有した秘儀参入者が宇宙言語、つまり神々のメッセージを読み解いて、人々に伝えたものだったという。やがて、時代が進むと、霊能者が減り、霊能力も衰えたので、神々を代表して、キリストが人間にメッセージを直接伝えるべく降臨したという。) そして益々次のような事態が古代に生じるようになった。冬の深みに、秘儀参入者が真夜中の太陽を指し示すとき、弟子たちに、地上の人間自らのなかの、「私」という存在が、ある意味、捨てられ、見捨てられたと感じることを、知らせざるを得なくなった。 当時、最も偉大な知識を保持する秘教集団にとって、冬至に行う祭は、地上という実存の中では、自らのなかの「私」という存在に到達する道を見つけることができない、という痛みと苦悩の祭へと次第になっていった。 その集団の人々は、冬至に、ロゴス(宇宙言語の言葉)によって大地に書かれた徴(しるし)から、読みとった意味から、自らの自我もろとも、宇宙に捨てられた様を学ぶしかなかった。 というのも、その秘教集団が感知したのは「大地」だけだったからである。「私」の存在が、最も渇望したもの、つまり太陽の力は大地に覆われていたからである。実際、太陽は真夜中に現れたが、当時の人間は、太陽存在に近づく力が弱まるのを感じた。 (この秘教集団とは、恐らく、ヒベルニアの秘儀を起こした密教団だと思う。ここでシュタイナーが述べていることは、人間のなかの魂の自我の力、つまり良心の力が弱まったことから、太陽の力の弱まりを感じ、つまり、神が死んだのではないかと思ったのである。これが、ゾロアスターの神は死んだという叫びで伝承される。 それと同時に、神が死んだのは、大地に覆われたせいで、それはつまり、大地の地球が、神の子を身篭ったということで、将来、太陽が失った霊力の分が、地球に到達し、降臨する予感を感じたという。この事が、キリスト降臨の預言となり、実際に人の子イエスに降臨し成就された。) しかしながら、同時に、人間の「私」という存在が、宇宙に捨てられたと覚ることは、将来、太陽存在が地球に到来する進化の行路で人間存在に浸透し、宇宙での孤立ゆえに苦しむ人間を癒すために現れるだろうという預言的な教えでもあった。 (人間は、神々から離れた神の子なので、必ず、神々が救いにくるという救世主到来の信仰を生むことになる。) この事実は、痛みと苦悩の冬の祭が、既に南の民族の間では、地上にキリストが出現する内(精神)的な喜びの祭に変わったという人間の進化の事実を指し示している。そして太陽存在として啓示された存在が、宇宙から地上存在(人間)に降下する事実は、その出来事の象徴で、それを告知した人々によって預言された。 預言者は、古代の苦悩の祭が歓喜の祭に変容したというメッセージを、地上全ての人に発せられたことを示した。羊飼いの心の最奥で、次のような言葉が鳴り響いた。 「宇宙の高みにおいて、神性は自らを啓示し、善意なる人間において、平和は地上で生まれるだろう」 そのような言葉が、羊飼いの素朴な心に告知された。 もう一方の対極において、宇宙的な霊性(太陽霊)の地球の物質への参入メッセージは、魔術的知識に最も深く浸透して集団に、古代の天体に関する叡智の残存の名残からもたらされた。 (こちらの魔術的秘教集団とは、エレウシスの秘儀を起こした集団か、エフェソスの秘儀を起こした集団だろうか?) 今日、クリスマスの神秘について語るとき、それによって経験する全てを、古代の苦悩の祭を背景にして考察しなければならない。人間の進化行路に、人間を重圧で押し潰し、大地に隷属させる全てから自由になるように闘う力が入った様を思い浮かべなければならない。例えば、次のように自らに言い聞かせられるように、クリスマスのイメージを定式化できなければならない。 「冬の深みに地球が宇宙から退き、自己観想の時に入ると、古の秘儀参入者に啓示した歳神の霊感は今でも真実となる。人間は、人間の「私」という存在、つまり自我の秘密が、1年のこの冬の秘密と関連していることを今でも理解できる。 そして、キリスト=イエスが、地球の人間の生に入るイメージに囲まれると、人間的洞察や識別をもたらす感情や心の叡智から、聖夜のイメージが、あらゆる深みにおいて経験できるようになる。」 (かつての太陽での神の死の生みの苦しみの祭が、いまや地球でのキリスト降臨による死からの再生への喜びの祭に変わる。) しかし、あらゆる時代に姿を現すキリストを追いかける意志を本当に持ったときにだけ、聖夜のイメージを真に経験できる。古代の秘儀参入学の秘儀参入者(導師)の課題は、1年の行路(季節)から人間性の神秘のヴェールを取り去ることだった。 (古代の神殿は、いわば、秘儀参入学を研究する場で、秘儀参入学が、神々の宇宙言語のロゴスを読解する研究であり、それを多くの人々に伝授するために、祭という儀式をつくったようである。)
2010年01月29日
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秋が近づくと、弟子は宇宙言語の文字が再び変化していく様子を目にした。 この頃、太陽の熱と光は退き、植物は夏の間に太陽が大地に伝えた存在(熱等)に頼らざるを得なくなる。その代わり、植物は夏の間に受け取った花咲く生命を吐き出すが、同時に、植物が内側に、様々な種子力を担っている限り、その植物の子宮内部に、生命周期を完了させ、熟した果実を発達させる。 (十干でいえば、辛、壬にあたる。) 古代人は、大地の表面の宇宙言語が刻まれた植物の果実から、その隠されたヴェールを取り去り、読解する。そして秋には、動物の生命が採る形態から、その奥にある存在の謎を明らかにし、解明した。秋が近づく頃に、渡り鳥や、下等動物と昆虫に生じる変化全てに、宇宙の最も深い秘密を読みとった。 (動物の形態から、宇宙言語を読み取る名残が、干支の支の十二支として残された。) 例えば、昆虫の世界が大地に避難所を求め、昆虫が被る形態の変化(変態)に対してや、死の沈黙に直面し大地自らが収縮し引き篭る様子に対して、宇宙言語を読みとった。また古代人は、宇宙のなかに大地が思いに沈む様を読みとった。 (昆虫の変態、つまり卵-幼虫-蛹-成虫の変態や、天候や火山活動の形態変化に、エーテル体の言語、つまり気孔の流れなどを読みとったようである。宇宙、つまり天体活動にも、エーテル体の言語や気孔の流れを読み取った名残が、星座や、占星術として残ったようである。) このような事は、9月後半の祝祭に非常に明確に表出され、今でも、田舎(欧州の田舎)では、ミカエル祭の姿で、その名残をとどめている。このような祭によって、人々(の魂)は宇宙へと出て行き、大地の全ての道が閉ざされたとき、自らを物質-エーテル界の出来事とは無関連な存在と結合しなければならないことを思い出した。 人々は、魂を宇宙の霊的な内実に向けなければならなかった。色褪せてしまったミカエル祭ですら、星々と太陽が、外(物質)的な指導力を失ったときに、霊的に導くヒエラルキアの霊(歳神=アルカイ=時間霊)に向かう人間性の追憶が今でも残っている。 (古代エジプトでは、歳神、つまり時間霊をトート、つまりヘルメス祭神を祀った。 トート http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%88 ) 上記のように人々が読みとる事実(観想のような判読)によって、人間のアストラル体の秘密に浸透した。秋は、歳神が人間の魂に参入し、霊感を与えられた人々が自然の存在から人間のアストラル性質の秘密を読みとり、歳神と共に観想した季節だった。 正に、この秋の季節に、秘儀参入者が弟子に次のように告げた。 「太陽の容貌(顔つき)の前に立つ存在に掴まれ! ミカエルという名で呼ばれる、太陽の容貌(顔つき)の前に立つ、この存在を考えてみなさい。というのも、汝が、超感覚的世界に入るための死の門をくぐり、新たな再生(転生)を行わなければならないとき、大地の実存(エキス、養分)から、汝のアストラル体に残りし太陽の存在の力を必要とするからである。」 (我々は、体内に精神の光、俗に霊光といわれる太陽光を担っている。ある霊能者にいわせれば、内在神「心」であり、哲学者風にいえば、良心や善意である。キリスト教でいえば、神の子や神の種である。 キリスト教風にいえば、神の種が、土壌という肉体に蒔かれたのが、人間の存在で、それを育てるのが人間の役目で、人生最後の死によって、それが収穫として、刈り取られ、果実は天秤に載せられ、天国に行く価値があるかと最後の審判として評価されるわけである。 この真実が、秋という収穫の季節により、歳神により、そのイメージを地球の環境のなかに体現させられているわけである。つまり、良心を育てた分だけ、天国の波動と共鳴するので、その魂は、天国に引き寄せられ、浮上するが、悪いことをして、良心を隠し、闇に殺してしまったりしたら、天国への扉を自らで閉ざしてしまうのである。 だから、自殺は悪と断言できる。天国に浮上できないと、植物の果実の種が次の世代を生むことなく食べられるのと同じで、悪霊や浮遊霊などにとりつかれ、巣窟となる。お互い同士で潰しあっているような魔界のゾンビや吸血鬼になる。) 人間のアストラル体の秘密は、このように実る植物、もしくは枯れる植物や、地中に潜り込む昆虫を通じて、ロゴス(宇宙言語)や、その「言葉」として自らを明かす存在から引き出された。 人々は、自らの存在を、真の人間性という領域に求めるなら、眼差しを霊界に向けなければならないことを既に知っていた。正に、この理由のために、秘儀参入の候補者である人間の魂は、ミカエルの名の下に祝うことが出来る霊的存在に向けられた。
2010年01月28日
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歳神の霊感の下で、このような古代の秘儀参入者が弟子に教えたことは次のように伝えることができる。 最初、弟子たちの注視は春に明かされる力に惹かれた。雪が溶け太陽が力を増してきた時である。植物の発芽が地球の様々な再生力から現れてくる。 弟子は、草原に生える植物と、森の木陰に生える植物が、宇宙の秘密について、これまでとは異なる事柄を語る様に気づかされる。弟子は、様々な植物において、太陽の熱と光が、円い葉やギザギザの葉となり、宇宙の広がりから、これまでとは異なる話し方をすることを自覚させられた。 そして、このように歳神の影響と霊感の下で明かされる事柄を通して、大地から(植物として)芽吹く文字によって、秘儀の導師は、弟子たちに、当時の手法(様式)で、人間の肉体(物質体)に関する秘密のヴェールを取り去った。 導師は大地の何が物質的存在を生み出すのかを指し示した。植物に飛び込む様々な大地の力を指し示した。弟子の注視が差し向ける大地の至る所に、様々に異なる「文字」があった。これらの文字は(生きた植物存在であり、生きた動物形態なのだが)、今日の人間が、個々の文字を組み合わせて言葉にするのと同じように、組み合わせられた。 (現代の文字は、土、つまり固体に書かれたものであるが、当時の文字は、水、つまり液体や空気、つまり気体に書かれた文字を意味したようである。人智学でいえば、エーテル体に記録された文字である。その名残が、気孔術になったようである。 例えば、「阿吽の呼吸」という格言があるが、ヨガによると、寒いとき、「あぁ、暑い」と言うように、「あぁ」といいながら、呼吸をすると、身体がアルカリ化し、冷たくなり、「うぅ、寒い」というように、「うぅ」といいながら、呼吸をすると、身体が酸性化し、温かくなり、気合を入れるときに、「んー」といいながら呼吸すると、身体が中性を保ち、適度なバランスがとれるようになるという。 つまり、エーテル体に記録された文字とは、「阿吽の呼吸」のような生きた文字のことを指しているのだろう。ちなみに、「あ、う、ん」という音からクラドニ図が生まれる「あ」が円、「う」が四角形、「ん」が三角形という話。「あ、う、ん」を「ア、ウ、ム」、またはアルファ「α」、オメガ「ω」と記すこともあり、「阿」は、はじめを表わし、人間が口を開けたときの音、「吽」は、終わりを表わし、人間が口を閉じたときの音でもある。 聖書のヨハネの黙示録には、キリストのことを、アルファでありオメガである存在としている。阿吽を、一字で現すと、はじめが「一」で、終わりが「了」なので、「子」となる。「子曰く」の子であるし、子供の子である。「子曰く」の子は、孔子のことで、「師匠や先生」という尊敬の意味があり、子供は、親を引き継ぐ存在であり、創造物である。 子となって生まれない人間はなく、成人すると、子を生む存在となるわけで、子は始まりであり終わりでもある。) クラドニ図 http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-05/531.htm http://www.iii.ne.jp/kikuchi/etc200608-2.html このように春の生に参与するとき、人間は自然のなかの力を読み解いた。歳神の賦与する秘儀参入は、この読書にあった。また、春の終わりが五月頃に来ると、人間は、次のような印象を抱いた。 「今、私は人間の肉体がどのように形作られ、宇宙の子宮から模られるのかを理解する。」 それから夏が来た。偉大な宇宙のロゴスと同じ文字と言葉が使われたが、この文字が形を変える様が弟子に指摘された。今、太陽光線は流れ方を変え、その光と熱が作用を変え、人間の肉体の秘密を語った新芽は、太陽に自らを開いて花となる。(干支でいえば、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚の庚あたりを指すのだろう。 十干(ウィキペディア) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%B9%B ) これらの彩り様々な花が、今、弟子の使う文字だった。太陽光線が、大地から上昇する植物の様々な力による花の一つ一つに、愛しいくちづけをする様を、弟子に感じさせた。花咲く植物となって、大地の様々な力の上方で織りなす様々な宇宙力の素晴らしく繊細で優しいプロセス(過程)に、弟子は、大地が宇宙の広がりの中へと出ていこうとする様を読みとった。 大地が自らを宇宙へと、遠い星々へと開くとき、弟子たちも大地と一体となって生き、無限の彼方で大地と共に生きた。 花咲く植物の文字を眺めるとき、この無限の彼方に隠されていた存在は、人間に自らを現した。人間は、霊界から地上の物質存在へと降下するとき、これらの文字から、自らのエーテル体を形成するために様々な天体のあらゆる方向から、エーテル実質が集まる様子を読みとった。 (このイメージを表わすのがヤントラで、聖なる象徴、つまり幾何学模様を表わすようです。科学的にいえば、マントラが音響のことで、特に物質波を超えた周波数のことで、ヤントラが、その音響を視覚化したものでクラドニ図形のことです。 『スーザン・ダージェスという人が、それをビデオ作品「ヘルメティカII」(1989)として残し、そこでは水銀粒子に低周波の振動をかけたときに生じる形態の出現と変化を映像化し、0ヘルツから3000ヘルツまでの振動が加えられるに応じて水銀が、円形から出発して、二角形、三角形、四角形、五角形、七角形、二十角形、四十角形という八つの形態をとるのが同時に見られ、しかも移行の動きがわかるように作られているという。』 特に、注目すべきことは、九ヘルツ前後で三角形が生じ、その三角形が四角形に移行する過程で、逆三角形と重なり、六芒星が現れることである。六芒星はアストラル界の象徴である。アストラル界は、エーテル界の一つ上の界で、霊界のことを表わす。つまり、端的にいえば、霊界とは、高周波数の領域といえる。 超音波検査で、人体内部を視覚化できるのは、人体内部が、高周波に共鳴するからでもある。) このように古代人は地球と宇宙の間で、やがて再び宇宙言語となって生じる全てから、このエーテル体に隠された秘密を読みとることができた。宇宙言語の徴(しるし)は、夏至の時に植物を開花させ、動物に特定の生命形態を与えることによって、地表に刻み込まれている。
2010年01月27日
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前回で、宇宙史ともいえるシュタイナーの講義は終わったので、今度は、地球紀、つまり今にも残っている「宇宙言語」というべき、アカシャ年代記から読み解かれるイメージについてのシュタイナーの講義を続けて、再度まとめていきたい。 その前に、四季のなかの宇宙言語についての講義をまとめたいが、その前に、シュタイナーの講義の性質を簡単にのべる。 シュタイナーの講義は、彼の霊能力により、俗にアカシックレコードと呼ばれるアカシャ年代記を読み解くことで、得られた真実を語っているようである。シュタイナー曰く、アカシャ年代記は、神界(デヴァチャン)にあるもので、俗にいわれるアカシックレコードはアストラル界のもので、厳密にいえば異なるらしい。 アカシックレコードは、アカシャ年代記が転写されたもので、その区別には、高度な霊能力を有するというから、霊能力が未開な我々からみれば一種の自慢にも聞こえるが、だから、それを語るのは非常に困難なのだという。 つまり、簡単にいえば、どの職業にも一流、二流、三流といるように、霊能者にもあるわけで、巷に秘密を語るような霊能者はほとんど三流以下だといえるだろう。だから中世では秘密を洩らした者は殺されたのである。 注意すべきことは、人の話に左右されず、たとえ一流の人物が言ったことでも盲信しないことである。問題は、その言ったことが理解できるだけの器に自分が到達しているかどうかである。知職や真実を授けられるに相応しい聖杯となっているかどうかなのである。 与えられたワインが毒にも薬にもなり、酔っ払って、杯を壊すことにもなりかねない。悪い血であっても、それを新鮮なものに改められるだけの本人の能力の問題といえる。 「そんなことは信じられない」というのは当然の防衛反応であり、それは自らが拒絶するということで、それだけの器でしかない証でもある。逆に鵜呑みにするのは、消化できずに酔っ払ってしまった証拠で、単なる宗教と化してしまう。 つまり、シュタイナー教、或いは人智学教の布教のために、ブログを書いているわけではなく、シュタイナーという代表的な現代思考とは真逆の存在の語ることも、現代人は理解できるかどうかを説いているのである。いわば、現代人の知に対する、古代人の知のアンチテーゼである。 だから、弁証法の正反合で、古代人の叡智を現代人の杯で蘇らして欲しいのが私の願いである。簡単にいえば、現代人の知の許容範囲を広げたいだけなのである。 ソクラテスを知らない者がソクラテスを語る。プラトンを知らない者がプラトンを語り、その結果、彼らは現代人より愚かだったと結論づける現代の風潮を改めないといけない。なぜなら、それは現代の立場という観点に囚われて賢者をみているからである。 では、講義をまとめたい。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 現代に相応しい形でイメージを深めたいなら、霊(精神)的な指導により、今日の人間の課題を認識するために、人間の進化過程を振り返って見るのが一番良いだろう。 勿論、見逃してはならないのが、クリスマスについてのイメージの最重要部分である、「初夜にキリストの光が人間性の進化に射し込んだことである」。この出来事の御蔭で、ゴルゴタの秘儀が地球の生に統合され、地上の人間の生と、同時に地球にも意味が与えられた。 ゴルゴタの秘儀以前には、夏至に秘儀として祝われた祭がどれほど重要な役割を果たしていたかを以前述べた。夏至に、人間は地球と共に自らの存在を宇宙へと開き、その魂と共に地球の彼方の様々な世界に帰属する力たちと結合できた。 (日本では、やや日付が遅くなるが、お盆に相当する。お盆に死んだ人が帰ってくるというのは、人間の魂が地球とともに、霊界へと開き、霊界の力を受けるからであるようだ。だから、「お盆」というのだろう。) 夏至の聖ヨハネの日に、ある民族では、人間の魂が神界や様々な霊界に導かれる道(法則)に従うことで、その感情に浸透されたイメージの世界を、神的、霊的存在たちに捧げる様子が、秘儀の指導者たちにより話された。 (神々や天使や祖先に対し、感謝の念を、自らの魂に浸透させることで、その感謝の意を、神々や天使や祖先に捧げることができることを、秘儀参入者は説いた。) その民族が、このような事実を説いたのは、魂が1年の行程で自らを現すが、夏至に地球が宇宙の広がりに向かって、翼を大きく広げるときに、クリスマスのようなイメージを神的、霊的存在達たちによって賦与された恩寵と感じない限り、ルシファー的勢力の誘惑に曝されることに気づいていたからである。 (この秘められた事実は非常に重要である。神社でも、クリスマスのような感謝の念を基本にしないで、御利益主義や、他力本願の依存心で、祈願すると、聖霊でなく、かえってルシファー的勢力、つまり悪霊をひきよせてしまい、下手すると魂を食われてしまう。ある霊能者によると、宇宙には魂を食する存在もいるという。) 更に、以前、人類の一部にとっては、冬至祭が、ごく自然に夏至祭に取って代わるという進化プロセス(過程)が生じる様を示した。現在の形骸化したクリスマスのイメージにすら、この冬至祭の名残りがある。 冬至の夜のキリストの誕生は、宗教的な霊能力をもつ共同体か、自らの心に平安を感じる人間たちによって祝われる。なぜなら、その人たちは、霊光への道を再び見つけなければならないと感じ、冬至の時期に、自らの魂の奥底に降りていくとき、自分が地球とその生に究めて似ていることを意識するからである。 (シュタイナーのクリスマス講義からわかることで、冬至、日本では大晦日は、人間の魂と地球が奥深く沈み込む時期であるからである。クリスマス講義は、1月6日のヨハネの洗礼によるキリストの降臨生誕が、人間の魂の奥深い参入により、12月25日のイエスの生誕日に結びついたことを述べたものである。) というのも、地球もまた、宇宙から閉ざされているからである。雪の衣に包まれて、地球は宇宙空間で、自ら内攻する存在として生きている。 ところが、クリスマスのイメージは主に夏至の祭を祝う時代に既にある役目を果たしていた。しかし、キリスト教以前の時代には、クリスマスのイメージの意味は現在の意味と同じではなかった。当時高貴な太陽霊はまだ宇宙(天界)に帰属し、地球に降りてきていなかった。 地球と共に人間が宇宙で孤立していると感じたとき、夏至の人間の魂の状態は現在とは異なっていた。そしてゴルゴタの秘儀よりも、ずっと以前、主に南で祝われた秘儀に注視するなら、この状況がどんなものだったかが分かるようになる。 太古、南で行われた秘儀参入学は、参入者に古い形で授けられた。また古代民族の中で、この秘儀参入学は、参入者がいわば宇宙の書を読めるようになることにあった。 この宇宙の書とは、紙に書かれた死んだ文字が伝える内容を意味するのではない。宇宙の存在たち自身が伝える内容を指している。宇宙の秘密の洞察者は、地球上で成長し繁茂する全てが、徹頭徹尾、宇宙に広がる星々から輝き降りてくるものの映像であると知っている。 (これと似たような話で、超弦理論におけるホロスコープ論がある。物質は、超弦という映像の単子から生まれるというようなものである。プロジェクターの仕組みに似たものである。) この宇宙的言語の読解習得者は、それよりも遥かに単純な現代の死んだ文字による読解を習得するのと同じように、植物の1つ1つに、宇宙の秘密の明かされた徴(シルシ)の一端を見なければならないことを知っている。植物や動物の世界に探究の眼差しを向けるとき、この探究自体が、読解であることを知っている。 このように、古代の秘儀参入者は、その弟子に、いわゆる宇宙言語を読み聞かせた。秘儀参入者は弟子に本を読んだのではなく、いわば年(歳)神(アルカイ)の霊感の下での、魂の1年の行路の秘密について、人間の生における、その意義について経験したことを伝えた。 年神(ウイキペディア) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E7%A5%9E (このような秘儀参入者の話の内容から、易経や陰陽五行説や干支などが生まれたのだろう) このように、古代の叡智は、宇宙における存在たちや、出来事における人間の生に関わるものを読み解いた。古の賢者が、そうしたことを弟子に伝えたとき、歳(年)神のような神的、霊的存在たちの霊感を授けられた。 どのような存在が、ヒエラルキアにおける原初の力、すなわちアルカイ(権天使)の位階に帰属する歳神だったのか。秘儀参入学に通暁した者が、心を高め、その存在に近づいた。 そのとき、春に芽吹く植物からは、春分の事柄を、初夏に実る果実からは、夏至の事柄を、秋に紅葉し果実が熟すときには、秋分の事柄を、木々が雪片の下で輝き、大地がその岩石もろとも雪のヴェールに覆われるときには、冬至の事柄を読み解くことを可能にする力と、内(精神)的な光を、歳神によって賦与された。 この「読書」は春夏秋冬を通じて丸一年続き、師弟間で、人間という存在自体の秘密が明かされた。そして、更にまた新たな循環が始まった。
2010年01月26日
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更に、この話を進めると、福音書の著作に携わった個人にとっても、ゴルゴダの秘儀という歴史的な出来事を、歴史的証拠に基づく歴史的事実として証明する可能性はなかった。何故なら、それは外(物質)的な観察によって知覚可能な痕跡を残すことなく生じたからである。 ヨハネ福音書の著者(直接的な目撃者だが)を除く福音書の著者たちが、どうやって、これらの出来事を確信するようになったのか? 福音の著者にとっては、伝承や秘儀に関する書物以上のものはなかったので、その歴史的出典から理解した、ということではない。この状況に関しては、「神秘的事実としてのキリスト教」(著書)の中で概説したが、福音の著者たちが「キリスト=イエス」の実在を確信したのは、天体の配置を通してだった。 というのも、福音の著者たちはまだ、大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)の関係について熟知し、もっていた知識(今日でも可能だが)により、天体の配置を通して、世界史における重要な分岐点を計算できたからである。 著者たちは、『このような星座の配置をとるとき、「キリスト」と言われる「存在」が「地上」に生きたはずである』と言えた。 マタイ、マルコ、そしてルカ福音書の著者たちが、このような方法から歴史的な出来事に関する確信を得た。福音の著者たちは、福音書の内容を、超感覚的能力により獲得し、地上で起こった様々な出来事の確信を宇宙における天体の配置から引き出した。 このような知識の持ち主は福音書の著者たちを信じることができるはずである。福音書の歴史性に関する反論が不正確である、という証明は無駄な仕事である。人智学者としては、それとは全く異なる基礎(人智学への洞察を通して得られる基礎)の上に立っている、ということを明確にすればよい。 この事実に関連して、今回の連続講義を通して確立した事柄に対する注意を促しておきたい。それは、人智学が語る事実を、その事実自体から派生した、自分が正しいと思うような反論により傷つけ、不正確にしようとしても不可能である、ということである。 人間は、自分たちの知識に従い、いくらでも正しいと思うことを言えるが、その反論により人智学が否定されることはない。例えば、「いかにして神智学の基礎を見いだすか」という講義の中で、次のような比喩を話した。 小さな少年が家族のために朝食用のロールパンを買いに、ある村に通っていた。さて、その村では、ロールパン1個が2クロイツァーだったが、その少年はいつも10クロイツァーをもらっていた。その少年はパン屋から沢山のパンを持ち帰ったが(ここで注意すべきなのは、彼が計算が得意ではなかったということである)、それ以上のことは考えていなかった。 あるとき、その家族に養子が来た。彼は最初の少年の代わりに、パン屋にパンを買いにいくように言われたが、その養子は計算が得意だったので、次のように思った。「10クロイツァー持ってロールパンを買いに行けば、パンは1つ2クロイツァーで、10÷2は5だから、家に持って帰るのは5個のはずだ。」 ところが、家に帰ってみると、6個のパンを持ち帰っているのが分かった。そこで、彼は思った。「おかしい!10クロイツァーでは、6個も買えるはずがない。計算は正しいから、明日は5個を持って帰るだろう。」 次の日も彼は10クロイツァーで6個のパンを持って帰った。計算は正しかったが、その計算は現実には対応していなかった。というのは、実際は、計算(論理)とは異なり、その村では、10クロイツァー分のパンを買う人には誰でも、おまけにもう1個のパンをもらえるので、5個ではなく、6個のパンを受け取る、という習慣になっていたからである。その少年の計算は正しかったが、現実には対応していなかった。 このように、人智学に対する批判的に考え抜かれた反論は、論理的には「正しい」が、全く異なる原則の上に立っているという現実とは無関係となる可能性がある。このような顕著な例は、数学的に正しい解答と実際の真実との間の違いを、論理的に示している。 以上のように、人智学徒の努力により、マーヤの世界は真実へと導かれ、回帰していく、ということを示した。この過程から、示される事実とは、火は「犠牲」であり、空気は、「流れ、与える徳」であり、水、つまり流体は「諦めと拒絶の結果」である、ということだった。 今回、この3つの真実に4つ目の真実を付け加えた。それは、土、或いは固体の元素の本性とは、「死」であり、「ある実体の宇宙的目的からの分離」である、ということだった。この分離の状態が始まったとき、「死」そのものが、マーヤあるいは幻想(物質)世界の中に、1つの現実として入ってきた。 (「鬼」という言葉が太古に物質、つまり土や「死」を意味するものであったということが、この話から理解できる。節分で、鬼に炒り豆を当てるのは、炒り豆が「生」の象徴であり、「死」に対して、「生」をぶつけるという意味があるのだろう。「鬼は外」というのは、鬼は物質で、「死」から生まれるという意味にも取れる。そこからいうと、神本来の「生」の目的から排除された「死」が、物質主義であることも理解できる。) 神々自身は、何らかの形で物質世界に下降し、マーヤあるいは幻想の世界である物質世界の中で、「死」を、その真の本性において理解しない限り、決して、「死」について知ることはなかった。 以上が、これまで、議論してきた概念に付け加えたいと思った事項である。また、これらの概念は、マルコ福音書に書かれていることを根本的に理解するのに、必須の概念であり、これらの概念から明晰さを獲得するには、規則正しい瞑想を通して、これらの概念を繰り返し自らの魂に作用させるしかない。というのも、マルコ福音書を理解できるのは、最も意義深い宇宙的な概念の中に礎石を置くときだけだからである。
2010年01月26日
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もし、今日の「キリスト」自身の進化の遂行と、同時に、人間の、ある能力の進化遂行を理解するなら(もし、その事実を人智学により理解するなら)、人間が死の門を通って行くときに遭遇する出来事や、パウロがダマスカスでの出来事に与るのを妨げるものは何もなくなる。 何故なら、その理解によって、「死」は人間世界に最初に輝き入る「キリスト」の顕現として現れるからである。 今日、肉体の中に居ながら、この出来事に備える人たちは、「死」と新たな生の間の生活においても、それを経験できる。 けれども、この出来事に備えない人たち、つまり今回の受肉において、キリストを全く理解しない人たちは、「死」と新たなる生の間の生活においても、「キリスト」に関して、今既に生じ、次の三千年を通して生じ継続する出来事について何も知ることができない。 (聖杯をつくろうと欲しない者は、キリストの血を受けることはできない。つまり、自らで努力しないものは、何事も成し遂げられない。天は自らを助けるものを助ける。つまり、生きることは、聖杯をつくることに他ならない。これが聖杯伝説となって伝わっている。) そのような人は再び受肉するまで待たなければならない。そのような人が再び地上に戻るときには、それに対する更なる準備が必要である。ゴルゴダでの「死」とその「死」から生じたもの(それは「キリスト」実質全体が地上で展開するために必要だった)を理解できるのは、肉体の中に居る間だけである。 (キリストの成し遂げた「死」からの復活は、いま生きている経験により成就される。それはキリストのように生き、キリストのように自己犠牲を行い、死ぬことでキリストと共鳴し、その光を受け入れ、復活できるということである。要するに、積善行為である。天国に富を積みなさい、ということである。) 高次生活にとって重要な唯一の事実とは、肉体の中にある間に把握する必要がある、ということである。肉体の中で一旦理解されたなら、それは高次世界の中でも更に働き続け、益々育成される。けれども、まず肉体の中で理解される必要がある。 (悪のなかで善ならば、善のなかで善であるが、善のなかで善であっても、悪のなかでは悪に染まってしまうからである。悪に染まらなければ、悪の誘惑に負けなければ、悪のなかであっても、不動の善を保てる。だから、この世は悪に満ちているともいえる。) ゴルゴダの秘儀は、高次世界の中では決して起こり得ない出来事で、高次世界の中に原型をもたない。それは、物質界の中に完全に限定される「死」を包括する出来事なのである。従って、それが理解できるのは物質的な文脈の中だけである。地上にいる人間の使命の1つとは、何度目かの受肉において、この理解を達成する、ということである。 (落第すれば、何度も転生する羽目になる。) だから、ここで、直接的な現実や真実を示すような重要なものを物質空間上に見つけた、と理解できる。 物質空間上にあり、現実的な存在とは何か? 物質空間上にあり、あからさまに現実であるため、立ち止まって、「ここに真実がある!」と言えるようなものとは何か? それは人間世界の中にある「死」であり、他の自然領域における「死」ではない。地球進化の過程の中で生じる歴史的出来事の理解のためには、それらの出来事から精神的原型へと上昇する必要がある。 けれども、ゴルゴダの出来事に関してはそうではない。ゴルゴダの秘儀に関しては、直ちに、そして直接、現実世界に属するものが、そこにある。 (あらゆる人類の罪を背負って、贖罪のために、自己の命を犠牲にするという無償の愛の体現こそが、真実の「死」であり、キリストが示した人類の復活のための死である。) また、今述べたことの別側面も明らかになる。それは途方もなく興味深いもので、今日では、ゴルゴダでの出来事は真実ではなく、外(物質世界)的な歴史において、この出来事を歴史的事実と認めるのは不可能である、と多くの人が噂するのを耳にすることで、それは非常に重要である。 大きな歴史的事実の中で、ゴルゴダの秘儀ほど、外(物質)的、もしくは歴史的に確認可能な方法での証明が困難なものはない。 これに比べれば、外(物質)的世界における人間の進歩にとって重要なソクラテス、プラトン、あるいはその他のギリシア人たちの存在に関する歴史上の議論がいかにも容易であることがわかる。 にもかかわらず、「ナザレのイエスが実際に生きていた」ということを、歴史を根拠にして、主張することはできないと(それはある程度で正当だが)、多くの人は言う。けれども、その否定的な歴史的証拠も存在していない。 いずれにしても、他の歴史的事実を取り扱うような形で、ゴルゴダの秘儀という事実を取り扱うことはできない、というのは確かである。 この外的、物質的空間上で生じた出来事が、超感覚的領域での事実と同じ特徴、つまり、いかなる外(物質)的な方法(物証)によっても証明され得ない、という特徴をもつことは特筆すべきことである。 そして、超感覚的世界を否定する人たちの多くが、同時に、この出来事を(超感覚的な出来事では全くないが)把握する能力を欠く人たちでもある。 その出来事が現実であることは、その出来事が与える影響によって確かめられるが、そのような人たちは、その現実の出来事自体が歴史的な意味において実際に起こらなくても、その影響が生じ得ると推測する。 そのような(唯物的な)人たちはその影響を社会学的な状況の結果として説明するが、宇宙的な創造の過程を知っている者にとっては、「キリスト教」の影響が、その背後に立つ力なしでも生じ得た、と考えるのは、畑に種を植えなくてもキャベツは育つ、と言うのと同じくらい愚かしい考えである。
2010年01月22日
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一見、鉱物が破壊されたように見えるとしても、それは、爪の一部が切り取られて、有機(肉)体から切り離されるのと同じように、(地球という)大いなる有機体から引き離されているに過ぎない。鉱物の破壊は死ではない。というのも、鉱物は、自身で生きているのではなく、むしろ、鉱物を1つの構成要素とする大きな有機体のうちに生きているからである。 もし、植物の本性に関する人智学の講義を思い出せば、植物もまた独立した存在ではない、ということが分かる。植物も地球有機体の構成要素だが、鉱物とは異なり、大きな有機体の一部というような形ではない(鉱物は、太陽系を含む大宇宙の一部だが、植物は、地球の一部という意味)。 人智学的観点から言えば、個々の植物の生について語ることに意味はなく、むしろ、地球有機体について語るべきだが、それは、植物が、地球有機体の至る処でその一部になっているからである。植物の「死」については、指の爪を切るときの状況に似ている。「指の爪が死んだ」、とは言わない。植物に関しても同様である。 何故なら、植物は地球全体に等しい大きな有機体に属しているからである。地球は1つの有機体である。それは春になると眠りにつき、器官である植物を、太陽に向けて送り出す。秋には、再び目覚めて、自らのなかに、植物を精神的に取り戻すが、それは、植物の種子を、(地球という)存在内部に受け入れることで行う。 植物を個別の存在として見るのは無意味である。それは、たとえ個々の植物が枯れても、総体としての地球有機体が死んだわけではないからである。人間の髪が白くなっても、人間が「死なない」のと同じである。たとえ、白髪を、何らかの自然な方法によって、黒くできなくても、「死ぬ」ことはない。 勿論、人間は植物とは異なる立場にある。しかし、地球は、白髪を黒髪に戻せる人間に喩えることができる。地球自体が死ぬことはない。萎れる植物の中に見てとれるのは地球の表面で生じている過程である。植物は萎れるが、それでも、植物が真の意味で「死ぬ」と言うことはない。 動物もまた、人間が「死ぬ」ような形で「死ぬ」とは言えない。というのも、個々の動物は真の意味では存在していないからである。動物の集合魂が超感覚的な世界(霊界)の内部に存在し、真に動物といえる存在は、アストラル空間上において、集合魂としてのみ存在している。個々の動物は、その集合魂から濃縮されて出てくる。そして、その動物が「死ぬ」と、それは集合魂の構成要素として置かれ、そして、(同種の)別の動物に置き換えられる。 だから、鉱物、植物、動物界において、「死」として遭遇するものは、見かけ上のもので「死」という幻想に過ぎない。現実には、人間だけが「死ぬ」。それは人間が個別性を発達させ、(自我が)肉体の中に下降するまでになっているからである。 人間は、その肉体の中で、地上的な存在性を担うことで、現実的存在になろうとしている。「死」に意味があるのは、地上に存在している間の人間だけである。 この事実を把握すると、「人間だけが実際に死を経験できる」ことがわかる。更に言えば、人智学的探求から学べるように、人間だけが真に「死」を克服できる。「死」に対する真の勝利が可能なのは、人間だけである。 というのも、他の全ての存在たちにとって、「死」は見かけ上のものに過ぎないからである。それは本当には存在していない。もし、人間性を越えて、高次のヒエラルキア存在たちにまで上昇するならば、高次の存在たちは、人間的な意味において「死」を知らない、ということが分かる。 (人間だけが、「死」を体験できる。) 真の「死」、すなわち物質的領域での「死」を経験できるのは、物質空間上での存在性から何かを引き出す必要のあるような存在たちだけである。人間は、物質的な文脈の中で、自我意識を達成する必要があるが、それを「死」なしには見つけることができない。 人間より下位のランクに位置する存在たちにとっても、上位に位置する存在たちにとっても、「死」について語ることに意味はない。 他方、人間が「キリスト存在」と呼ぶ存在の地上における最重要行為が無効になることはない。実際、「キリスト存在」に関しては、ゴルゴダの秘蹟(「死」に対する生の勝利)が、あらゆる出来事の中で最重要な出来事であったのを見てきた。 そして、死に対する、この勝利はどこで遂行されたのか? それは高次世界の中で行われ得るものか? そうではない! というのも、鉱物、植物、動物の領域での低次存在たちに関しては、「死」について語ることができないが、それは、これらの存在たちの真の存在(自我)が、感覚(物質)世界を超えた高次世界の中にあるからである。そして、高次の存在たちについて語ることができるのは、「死」ではなく、変容、変態に関するだけである。 (高次の存在たちは、物質性をもたないために、「死」がなく、永遠に変容する存在なのである。) 「死」と呼んでいる、生への切断が生じるのは人間だけである。そして、人間が「死」を経験できるのは、物質的な文脈の中だけである。もし、物質空間の中に入って行かなかったら、人間は「死」を知ることはなかった。 というのも、物質空間に入って行かない存在は、「死」について何も知ることはないからである。他の世界の中に、「死」と呼べるものは何もない、あるのは変容と変態だけである。 もし、「キリスト」が死を通過するなら、物質空間に降る以外なかった! 何故なら、キリストが「死」を経験できるのは、物質空間だけだからである。 (ニーチェの「神は死んだ」というのは、神は死なない存在なので、下降して、人間になり、「死を知った」という意味である。キリスト=イエスの十字架刑を、ゾロアスターが預言したことを記した。) このように人間の歴史的発展から、高次世界の現実(真実)が、マーヤの中で驚くべき形で働いているのを見てとれる。歴史的な出来事に関して正しく思考するなら、確かに、それは物質領域の中で生じているが、その源泉は精神世界の中にある、ということに気づくはずである。 (ゾロアスターは、太陽をみて、太陽の黒点に気づく、太陽の黒点は、キリストという太陽霊が降下したことを示す。キリストが、地上に降臨する予感を感じ、ゾロアスター自らが、その受け皿となるべき、つまり聖杯になるべく準備を行い、実際に、イエスという人間に転生したという。そして、ヨハネの洗礼により、イエスは、キリストを降臨させた。) この事実はあらゆる歴史的出来事について言える。ただし、唯一の出来事を除けば! というのも、ゴルゴダの出来事に関して、それは物質空間上で生じたが、その出来事に対応する何かが高次世界の中に存在している、とは言えないからである。確かに、「キリスト」自身は高次世界に属し、そして、物質空間へと降って来た。 しかし、他全ての歴史的出来事に関して存在しているような(精神的な)元型は、ゴルゴダで成し遂げられた事柄に関しては存在しない。ゴルゴダの秘儀は物質領域の中でのみ生じ得た出来事だった。 人智学はその証拠を提供することになるだろう。例えば、これからの三千年にわたって、ダマスカス(ゴルゴダ)で生じた出来事の新しい事例が多数見られるようになるだろう。 この事実について、しばしば言及してきたが、パウロがダマスカスで見たように、人間は、アストラル空間上で、エーテル形姿の「キリスト」を見る能力を発達させるだろう。 (高度の霊能者には地上で活動するキリストの存在を感じとれるという。) 高次の能力を通してキリストを知覚する経験は、これからの三千年期を通して益々発達するが、それは20世紀から始まる。現代(1911年)以降、これらの能力は徐々に現れ、次の三千年期を通して多数の人々が身につけるようになる。 それは、多くの人々が、「高次世界を覗き見ることで」、「キリスト」が現実であるということ(キリストが生きているということ)を知るようになる、ということである。多くの人々がキリストを知るようになるが、それは「キリストが現在も生きている」からである。 多くの人々が、キリストが現在生きていることを知るだけでなく、また、パウロのように「キリストは一度死に、そして復活した」、ということを確信するようになる。けれども、この事実の基礎を、高次世界ではなく、物質空間上に見つけないといけない。
2010年01月21日
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人生における「死」が具体的に発生するときにも、前回述べた「犠牲」の「拒絶」と同じ原則が当てはまる。 (人間の「死」も、宇宙の本来の霊的生から疎外されたもの。) 幻想(物質)の世界に取り残された死体を見れば、それは、「死」に際して、自我、アストラル体、エーテル体から引き離されることで、肉体としての唯一の真の意義を肉体に付与した、それら3つの(本質的な)体から疎外された実質のみから構成されているのが分かる。 というのも、人間の肉体は、エーテル体、アストラル体、自我なしには意味がないものだからである。「死」の瞬間に、肉体はその意味を失う。肉体は、その意味の源泉から疎外される。人間が死ぬとき、もはや感覚では知覚できない存在が大宇宙の中で自らを開示する。 高次領域での宇宙存在たちが、「犠牲」としてもたらされようとしたものを「拒絶」し、投げ返した為に、この「犠牲」実質は死を免れないものとなった。というのも、「死」とは宇宙的実質、あるいは宇宙存在が宇宙の真の目的から除外される、ということだからである。 このようにして、宇宙における第4の要素と呼ぶ存在へと到達した。もし、純粋な意味において「火」が「犠牲」であるなら、「火、もしくは熱」が生じる処では、その背後には「犠牲」が横たわっている。 もし、地球の周りに「空気」として広がる存在の背後に、「贈り物、あるいは徳の付与」を見つけるなら、もし、流れる「水」、すなわち「流体」の要素を、精神的な「諦め、あるいは拒絶」として特徴づけるなら、「土」の要素については、「死」を担うものとして、「拒絶」を通して、その本来の意味から「疎外」された存在として特徴づけなければならない。 (「死」とは、本来の宇宙的目的のトカゲの尻尾というべきものなのだろう。) 火、熱-犠牲 空気、大気-贈り物、徳の付与 水、流体-諦め、拒絶 土-死、疎外 もし、土の要素がなければ、「死」は存在しなかった。流体(液体)から固体が生じる事実を、具体的な形態において次に示し、それはまた、ある意味、精神的過程をも反映している。 例えば、池に氷が張ることで、水が固体(氷)になることを想像すればよい。 水が氷になるのは、実際、水に水としての意味を与えている存在から、水を引き離すことによって生じる。 (水を成しているエネルギーを奪えば、結晶化して氷となる。一般相対論では、空間が歪み、物質化される数式を用いる。) この過程(プロセス)の中には、固体(結晶)になる、という精神的な表現(土になるという精神的な表現)がある。というのも、4大元素としての特徴に関して言えば、氷は実際には土(固体)だからである。 つまり、液状のものが「水」である。自らの目的や意味から引き離されることは、「死」と呼ばれるものであり、「死」は土(固体)という要素の中で自らを開示する。 (イメ-ジでいえば、蛇(本体)の脱皮(固体)のようなものといえるだろう。脱皮の皮が、死んだ固体として蛇から切り離されるわけで、霊的な存在、例えば魂も同様に、肉体に宿り、肉体を死んだ状態として、死後、切り離していく。霊的にいえば、運動が止まった状態が、土という死になる。) これまでの地球紀の話は、幻想(マーヤ)の世界の中に、何か現実(真実)の存在があるのか? その内部に何か現実(真実)に対応する存在があるのか? という問いから始めた。 今、魂の前に置いた概念を注意深く考えてみる。最初述べたことは、地球紀の講義で取り上げる概念は、かなり複雑なものになる、ということだった。 だから、単に知的に受けとめるだけでなく、瞑想しなければならない。そうしたときに初めて、複雑な概念が明らかになるだろう。この「死」の概念、すなわち土に関する(精神的)存在に対する概念を取り上げてみる。 それは実に注目すべき側面を示している。これまで取り扱った他の概念(火、空気、水)については、周囲に広がるマーヤ(幻想)の世界の中には、いかなる現実(真実)も見つけられず、真実は、ただ根本的に精神的存在の中にだけ見つけられる。 けれども、地球紀で確認した事実は、マーヤの領域において、何らかの存在が、「死」として自らを特徴づける、ということだった。それは、その存在が、その目的から引き離され、本来なら精神的領域の中に存在すべきものであった、ということによる。 つまり、何らかの存在が切り離され、このマーヤの中に閉じこめられた。その存在は、本当はマーヤにあるべきものではなかった。マーヤと幻想の広大な領域全てを通して見つけられるのは偽りと幻想だけである。 しかし、マーヤの中で、唯一、真実に対応している存在があり、つまり、真実に対応する存在が、精神的存在の中で、その存在に意味を与える真実から切り離された瞬間、その存在は「破壊」と「死」を被るようになる、という事実を見つける。 ここに、大いなる真実と言えるような事実がある。つまり、『「死」はマーヤの世界の中で、ただ1つ、その現実(真実)において自らを現している』のである。他の全ての表現に関しては、それに対応する(精神的)現実(真実)へと辿らなければならない。 「死」以外のマーヤの中に生じる他全ての表現の背後には、現実(真実)に相当する(精神的)存在が横たわっているが、ただ、「死」に関してだけは、「死」を現実(真実)的な存在として見い出せるのは、マーヤの中だけである。つまり、マーヤの領域全体を通して、「死」だけが現実である。 だから、もし、普遍的なマーヤの中の至る処に広がっているものから偉大な宇宙の原則へと向かうならば、人智学にとって最重要で最適切な帰結とは次のような命題である、 マーヤの世界において、現実(真実)として存在するのは「死」だけである、ということが分かる。 ここで述べている事実は別の面からもアプローチできる。例えば、周囲を取り囲んでいる別の領域に属する存在たちについて考察でき、次のように問える。 例えば、鉱物は死ぬのか? 鉱物が死ぬ、と言うのは、人智学徒にとっては意味をなさない。というのも、(人体から)切り取られた爪が死んだ、と言うのと同じだからである。爪は、爪という存在に対して、それ自身で正当性をもつものではない。爪は、人間の一部で、爪を切れば、爪は共に生きていた生命から引き離される。 爪が死ぬのは、人間自身が死ぬときだけである。それと同じ意味で、人智学では、鉱物は死なない。というのも、鉱物は、ちょうど、爪が人間の有機(肉)体の構成要素であるように、大きな有機体の構成要素に過ぎないからである。
2010年01月20日
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もし、高次の存在たちを、象徴的に太陽としてイメージし、それより劣った低次の存在たちを、ある場所に集まった1つの惑星としてイメージするなら、前回述べた意味を明確にできる。低次の惑星の存在たちが、その犠牲を高次の惑星、つまり太陽に捧げることを欲すると仮定する。 (喩えが貧弱だが、つまり、太陽以外の惑星は、太陽の追っかけをやっていると思えばよい。) けれども、太陽は、その「犠牲」を「拒絶」し、戻された「犠牲」の実質は、「犠牲」を捧げた存在たちの下にとどまる。これらの存在たちは、その孤独と隔離の中で「憧れ」に満たされる。そして、運動霊が、この存在たちを、高次の存在たちのまわりを巡る周回へともたらす。 今や、「犠牲」を自身の中に保持する存在たちにとって、高次の存在たちに向けて直接、「犠牲」実質の流れを送り出す代わりに、そのまわりを巡る運動に変え、その周回運動により、その「犠牲」実質を、高次の存在たちとの(新しい)関係に変えることが可能になる。 それは、深い「憧れ」が、その「憧れ」への達成ではなく、続いて生じる部分的な満足の経験によって癒されるのと同じである。その人間の魂全体が、続いて生じる部分的な満足によって、運動へと変えられる。 以前、このような事実を非常に正確に記述した。高次の存在たちと内的に結ばれていると感じられない存在に、その代替として外から来るイメージが生じるのを見てきた。これら代替としての満足は、そのような存在がいかに部分的な充足を達成するか、ということを示している。 しかし、捧げられるように意図された「犠牲」は、拒絶されずに、受け取られていたら、高次存在たちの中では、低次存在たちの中にとどまった場合に取る形態とは、異なる形態を取った、ということは否定できない。というのも、実際、その意図された「犠牲」の形態が存在する必要条件は、高次存在たちの中にあるからである。 またここでも、この事実をイメージ的に想像できる。もし、ある惑星の実質全体が「太陽」の中に流れ込んでいたなら、そして、「太陽」がそれを拒絶しなかったら、この惑星存在たちは、「太陽」存在となり、「太陽」が拒絶し、その実質を、その惑星に戻したため、見つかる条件とは、異なる存在条件を見つけていたはずである。 この「犠牲」の内容と呼べる存在条件に対する疎外(それは、この「犠牲」実質の起源からの疎外である)は、「犠牲」の「拒絶」を通して生じる。 では、次の事実に関して考えてみる。 その存在たちが、喜んで捧げた「犠牲」が受け取られるという真の目的が達成されるのは、「犠牲」が捧げものとして差し出されたときだけである、と感じるような気持ちを、その存在たちは自身の内に保持せざるを得ない。 もし、そのような存在たちの経験を甦らせることができるなら、「宇宙存在たちの一部が、自らの本質的な意味から、そして、偉大な宇宙の目的から排除された出来事」と呼べる事象を、我々人間も経験するはずである。 そのような存在たちは(もし、イメージ的に語るなら)、実際には別の場所で達成できた目的の動機を自身の内に保持する。その結果、「拒絶」された「犠牲」の煙が、光から排除されたこと(そのような「犠牲」実質の排除)により、その「犠牲」実質は、宇宙進化の過程から排除される。 もし、いま表現していることを、知性ではなく(というのも、知性は、このような事柄に関しては機能しないからだが)、感情で把握するなら、普遍的な宇宙のプロセスから引き離される、ということがどういうことなのか、を経験するだろう。 「犠牲」を「拒絶」した存在たちにとっては、「犠牲」を自身から遠ざけた、ということに過ぎない。 けれども、別の存在たち、つまり、自分たちの中に「犠牲」実質がとどまる存在たちにとっては、その出来事は、起源からの疎外という刻印を担う。そのとき、そこにいるのは、「犠牲」実質が、自身の起源から疎外されたことを示すような存在たちである。 もし、この出来事を詳細に理解するなら(もし、自身の中に潜んでいる起源からの疎外について、上述のイメージを、詳細に魂の前に置くなら)、それは「死」に対するイメージである、ということが分かる。 (本来の「犠牲」の意図は、高次のなかに永遠に生きるという「生」に対するもので、そこから疎外されたということは、「死」を意味する。) 宇宙における「死」とは、自己「犠牲」が「拒絶」されたため、自身の内に保持せざるを得なかった存在たちの内部で生じたものに他ならない。このように進化における第3の段階で見つけた「諦め」と「拒絶」から、高次存在たちによって「拒絶」されたもの、すなわち「死」へと進んできた。 そして、「死」の真の意味とは、本来の場所に居るのではなく、本来の場所から排除された状態にある、ということに他ならない。
2010年01月19日
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では、「驚き」自体の起源とはどのような種類のものなのか? 「驚き」、すなわち、外界への「驚嘆」が魂の中に生じるのは何故なのか? 「驚き」や「驚愕」が生じるのは、何らかの存在、事物、或いは事実の前に人間が立ち、それによって不思議な喜びを感じるからである。この「不可思議さ」が、「驚き」や「驚異」に導く最初の要素である。けれども、人間は、人間にとって不思議なもの全てについて「驚き」や「驚愕」を感じるわけではない。 人間が何らかの不可思議なものに対する「驚き」を体験するのは、同時に、「驚き」の対象と関係していることが感じられるときだけである。この感情は次のように表現できる。 「この対象、あるいは存在の中には、まだ自分の一部にはなっていないが、将来、自分の一部になるかもしれないものがある」、と。 「驚き」や「驚愕」をもって何かを受け取るとき、それを不思議に感じると同時に、その対象と関係していることが感じられる。 「(不可思議なものに対する)驚き」という言葉は、「(雷に打たれたような)驚愕」という言葉と関係がある。知覚可能な関係を見つけ出せないような「驚き」という現象に、何かが付け加えられるが、その何かは単にその人の思い込みかもしれないが、少なくとも、その思い込みの責任は、その人にある。 そして、その人物が、その「不可思議な」何かが、自分に関係している「はずである」と結論づける限り、拒絶や反論の精神から、その対象、もしくは出来事にアプローチすることはない。 しかし、唯物論的な、或いは純粋に知的概念に基づいて行動する人たちが、例えば、他の人たちが「驚き」であると認識している存在を、それが、嘘、もしくは不真実であるという直接的証拠もないのに、何故、否定するのか? 今日では、哲学者でさえ、人間の眼前に広がっている世界の現象に基づくなら、ナザレのイエスの中に受肉したキリストが死者の中から甦らなかった、という否定さえ証明不可能であることを認めざるを得ない。 この主張に対する反論は可能だが、それらがどのような反論であれ、論理的な意味では成立しない。今日の啓蒙主義的な哲学者たちは既にそのことを認めている。 というのも、唯物主義の側から持ち出され得る反論、例えば、今まで、キリストが死者の中から甦ったように甦った人間を見た者はいない、というような反論は、魚しか見たことがない者が鳥は存在しない、というように、論理的に結論づけようとする主張と同レベルにあるからである。 (知識に囚われる者は、知識に現実を当てはめようとする論理を用いるが、それは間違いで、逆に、現実に、知識を当てはめなければいけないので、知職は常に変容しなければおかしい。まして、唯物的知職ならば、物質とともに消滅していくものなので、消えていくのが当然である。) ある存在がいることに基づいて、別の存在がいない、ということを導き出すのは、論理的に首尾一貫した方法では不可能である。同様に、物質世界の中での人間の経験に基づくのでは、ゴルゴダの出来事(それは「驚き」として記述すべき)について何も導き出せない。 とはいえ、もし、「奇跡」として記述すべき事柄について、誰かに語り、その人物が「私には理解できない」と言っても、この人物は、「驚き」の概念に対して反対しているのではない。何故なら、その人物にとっても、同じように真実であるような知識へと向かうなら、同じ出発点に立てることを示しているからである。 その人物は、人智学徒の記述が、自身の内部にコダマすることを求めている。ある意味で、その人は、自分に伝えられることを精神的、もしくは概念的に自分のものにしたいが、それが可能であるとは信じられず、自分に関係があることとも思えないため、その受け入れを拒否する。 確かに、自身の「驚き」の概念には到達できるが、実際に、「驚き」や「驚愕」が生じるには(古代ギリシア哲学の観点から言えば)人間が何か「不可思議な」存在に直面し、同時に、それと何か関係があり、よく知っているものが、そこにあることを認識できなければならない。 さて、ここで、以上の概念と、以前、魂の前に置いた概念との間に橋を架けることを試みる。 以前、示したのは、喜んで「犠牲」を捧げようとする存在たちがいること、そして、ある存在たちが、これらの捧げものの受け取りを拒み、その「犠牲」が捧げた存在たちに戻ってくることで、進化のなかに、ある一定の前進がもたらされた、ということだった。 そこでは、差し戻される「犠牲」の中に、古「月」進化期における重要な要素の1つを認めた。実際、ある存在たちが、高次の存在たちに「犠牲」を捧げ、そして、後者が、その「犠牲」を差し戻したということが、古「月」進化期における最重要な側面である。 このように月存在たちの「犠牲」の煙が、高次の存在たちに向かって立ち上るが、その存在たちは「犠牲」を受け取ろうとはせず、そのため、その煙は、その実質として、「犠牲」を捧げようとした存在たちの中に導かれ戻された。 「月」存在たちに関して最も特徴的なのは、高次の存在たちの元へと送り届けようとしたものが「犠牲」の実質として、自身の中へと突き返されるのを感じた、という点であることも見てきた。 確かに、これまで見てきたのは、高次の存在たちの一部になろうとしたが、それができずに残された実質が、それを送り出した存在たちの中に取り残され、そして、そのことで、拒絶された「犠牲」を差し出した存在たちの中に「憧れ」へと向かう能力が生じた、ということだった。 実際、魂の中で「憧れ」として経験する全ての中に、古「月」の上で生じた遺産(犠牲が受け入れられなかったことを知った存在たちの遺産)が今なお存在している。 古「月」の進化期の精神的雰囲気を精神的観点から理解すれば、それは、当時、「犠牲」を捧げようとしたが、高次の存在たちがその受け取りを差し控えたために、それが受け入れられなかったことを知った存在たちがいた、という事実によって特徴づけられる。 古「月」の特徴的な雰囲気の背後にあるのは、他に類を見ないような憂鬱な状況、つまり、拒絶された「犠牲」である。そしてまた、カインも自らの「犠牲」が受け取られなかったのを見たが、地球での人類進化の出発点を示す、このカインの「拒絶」された「犠牲」は、カインの魂をも捉えた古「月」進化の基本原則の繰り返しのように現れた。 古「月」状態における存在たちと同じように、そのような「拒絶」とは、「憧れ」を生じさせる悲しみや痛みを人間の中に生じさせる。 以前、古「月」上に運動霊が入ってきたことで、「犠牲」と、「犠牲」が「拒絶」されたことで、「月」の存在たちの中に生じた「憧れ」との間にバランス、或いは矯正が生じた、ということを見てきた。少なくとも、「犠牲」を「拒絶」された存在たちの中に生じた「憧れ」を、ある程度満足させる可能性が創出された。 例えば、生き生きとした方法で次のように想像する。 「犠牲」を捧げられるべき高次の存在たちがいるが、その「犠牲」の実質を送り返す。 犠牲行為を行おうとした存在たちの中に「憧れ」が生じ、次のように感じる。 「もし、私が犠牲を与えることができていたら、私の中の最良のものが、あの存在たちの中で生きることになっただろう。実際、私自身が、あの存在たちの中に生きていたことだろう。けれども、私は、この存在たちにより排除された。私はこちらにいて、高次の存在たちは向こうに立っている!」 しかし、今、これらの存在たち、そしてその中では「拒絶」された「犠牲」から来る「憧れ」が、高次の存在たちに向かって煌めくが、運動霊により(この事実を文字通りに理解すべき)、代わりに、多数の異なった側面から、高次の存在たちに近づけるような地点へともたらされる。 そして、「犠牲」を捧げ、「拒絶」された存在たちを取り巻く、高次の存在たちから受け取る豊かなイメージ(運動)により、「犠牲」を「拒絶」された存在たちの中に留まる「憧れ」に対して、均衡と補償がもたらされる。 こうして、「犠牲」を捧げようとした存在たちと、「犠牲」を「拒絶」した高次の存在たちとの間に1つの関係が創り出される。そして、その新たな関係により、「犠牲」が「拒絶」され、戻された為に満たされなかったものが、あたかも「犠牲」が受け取られたかのように、補償される。 (喩えが貧弱だが、有名人の代わりに、そのブロマイドをもらうようなものか? 有名人の追っかけを想像すればわかる。「憧れ」が運動に変わる。)
2010年01月18日
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これまでの連続講義の中で、魂の前に示してきた事実は、マーヤ或いは大いなる幻想と呼べる、あらゆる物質の背後には精神的存在が立っている、ということを示す一連の観察結果だった。 再度、自身に問いかけてみる。 「人間を取り巻く全存在の背後には精神的存在が認められる、ということや、人間の物質的身体(肉体)を通してもたらされるような感覚や、宇宙に関する理解という観点から、そのような存在をどうすれば知るようになるのか?」 これまでの探求の過程で、この世界の直接的、外(物質)的な現象とは別に、真の存在に関する特徴へと参入するように努めることで、精神的存在を特徴づけることができた。 そして、その特徴は、喜んで「犠牲」を捧げることや、例えば、「与える徳」や、「諦め」、もしくは「拒絶」(それらは、自身の魂の中を覗きこむときにだけわかる特徴である)であることと見なした。 実際、その特徴は、人間自身の魂の文脈においてのみ理解され、受け取れるものである。言い換えれば、もし、幻想世界の背後で、現実かつ真実なる存在を体現するようにみえる特徴を理解するなら、そして、それらを真の本性において理解したいなら、次のようにいえる。 「真の存在や実在から成る真実の世界は、いまも現実として生きている特徴、もしくは性質を含んでいる。しかし、それは、人間自身の魂の中で知覚できる特徴とだけ比べられるような存在である」、と。 例えば、もし、外界に「熱」として自らを顕現している存在を(精神的に)特徴づけたいなら(それを「捧げられる犠牲」、「世界の中に流れ出す犠牲」というような、真の本性との関連で特徴づけようとするなら)、「熱」の要素を精神的存在にまで辿ると同時に、外的存在のヴェールを取り払うことで、外界の中の、この特徴が、人間自身の精神的本性と同じものであることが分かる、ということを示す必要がある。 観察を続ける前に、もう一つ別の考えについて考察する必要がある。それは、幻想の世界の中に見つけられる全ては本当に一種の無の中に消え去るのか? という問いについてである。 感覚知覚と外的(物質)世界の理解のなかには、いわゆる真実、或いは現実に対応するものは何もないのか? 次のような比較をしてみるとよい。水の塊(或いは、大海)の中に、内的な流れの力が隠されているのと同じように、真実、或いは現実の世界には、表に出ない隠された作用がある。だから、マーヤの世界は水(大海)の表面の波の働きと比べることができる。 それは、実際、何らかの内力が、大海の底から湧き上がって来て、表面に、さざ波を生じさせる現象を示す。だから、この水との比較は正しい比較であり、また、この何らかの内力とは水の実質であり、水の力による、ある作用である。 けれども、そのような比較を行うことが重要なのではない。更に、広大なマーヤの領域内には「本当に」存在しているものがあるのか? と問わなければならない。 これまでの講義のように話を進めて行きたい。ここで、魂の経験を出発点として、魂の前に提示すべき存在へと徐々に近づいていく。「土星」、「太陽」、「月」存在の進化を、精神的に辿った後、「地球」存在へとやって来た。 だから、前回までの月紀に比べると、地球紀は、より親しみのある(より一般的ともいえる)魂の経験から始めることになる。 月紀は、魂生活のなかの隠れた深み、すなわち、人智学では、アストラル体と呼べる存在の中に生じるものを見てきた。そこでは、「憧れ」がざわめくのを感じると同時に、ある存在の内部で(この場合、人間だが)「憧れ」がいかに作用するか、を見てきた。 また、魂生活における、そのような「憧れ」が、イメージの世界でのみ和らげられるのを見てきた。そして、イメージの世界を、魂生活での内的な運動として理解するようになった。それにより、個々の魂の小宇宙(ミクロコスモス)から、創造世界の大宇宙(マクロコスモス;それを運動霊に帰属させた)へと続く道を見つけた。 だから、今日、よく知られた魂の経験、そして、それは古代ギリシア人に示唆され、よく知られていたと同時に、今日でも、その真実性において究めて意味深いが、そのような経験を出発点としたい。この経験は次のような言葉によって暗示される。 『全ての哲学は、つまり、人間の知へと向かう全ての努力は、「驚き」から生じる。』 実際、この言葉は正しい。多少なりとも、モノを考え、何らかを学ぼうとするとき、自分の魂の中で生じるプロセスに注意を払うなら、認識への健全なる道の起源は、「驚き」、或いは、「不可思議さ」にあるという事実を見つけるだろう。 「驚き」と「不思議」(そこから、全ての学習過程が生じる)は、あらゆる単調で、空虚で、無味乾燥なものを高揚させ、それに生命を吹き込む。というのも、魂の中に生じた知識のなかで、「驚き」から生じなかった知識とはどんな種類のものか? それは空虚と、学者的趣味に浸かった知識に相違ない。「驚き」から生じ、謎を解く中で経験する無上の喜びへと導く魂の過程だけ(その過程は「驚き」を越えた場所へと上昇する)、つまり「驚き」に始まる魂の過程だけが、学びを高貴なものにし、内的に活力あるものにする。 実際、内的な感情に満たされていない知識が、いかに無味乾燥なものか、を感じ取れるようになるべきである。真の健全な知識は、「驚き」と、謎を解く喜びという文脈から生じる。他の種類の知識は、外界から獲得され、様々な基盤の上に適用される。 しかし、「驚き」と「不可思議さ」の2つの感情に包み込まれていない知識は、それが真剣でも、人間の魂から、真にわき上がって来るものではない。知識の中の生きた要素が醸し出す雰囲気によって生じる知識の「アロマ(芳香)」は全て、この2つの事柄(驚き、不思議を解く喜び)から生じる。
2010年01月18日
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前回、クライストが表現した事柄について、いまここで述べることができるのは特筆すべき天啓の御蔭である。それは、カルマの行為と言ってもよい。 それは、差し止められた「犠牲」への意志が「憧れ」へと変化させられたことに関して、今まで述べてきた事柄(運動霊による「憧れ」の緩和、その最終的な充足に向けた衝動、そして、それが「贖いの惑星」上で達成されるということ)を最もよく記述している。 この焦点の定まらない「憧れ」を、気高い言葉での表現へともたらし、そして、この切なる望みを、それが体現し得る最も悲劇的な行為へと注ぎだした魂を髣髴とさせる彼の行為について、考えられる事実とは、特筆すべきカルマの解消であろう。 その事実に気づくなら、その事実が眼前に立つとき、この男の精神の全体性において、この男は、魂の奥深くに生き、地上的存在以外の存在へと連れ戻す存在の生きた体現である、ということに気づくはずである。 クライストが最も意義深い形で記述しているのは、自分を越えたところに横たわっている存在を探し求めるように強いる存在に対して、人間が経験できるもの(それは、もし、彼自身で生命の糸を未成熟なまま断ち切らなければ、後になって理解できたもの)ではないだろうか? クライストは、「個人及び人類の精神的な導き」にある最初のページの記述を、見つける経験をしたのではないか? フォン・クライストの「ペンテシリア」(ギリシャの伝承に基づいて、アマゾンの女王ペンテシリアとアキレスの血みどろの戦いについて書かれた凄惨な悲劇)について考察する。ペンテシリアの中には、自身の地上的な意識をもって推し量れるものよりも遙かに多くの存在があった! もし、彼女の魂が(偉大な魂だが)、地上的意識をもって包含できるよりも遥かに無限の広がりを持っているということを仮定しなければ、彼女を、その魂の特殊性において理解することは不可能である。だから、そのような無意識的状況を、ドラマの中に芸術的な形で引き込む場面が劇中で生じなければならない。 こうして、一連の出来事(クライストがアキレスのために設定するような出来事)が、高次の意識をもって検分される可能性が阻止される必要がある。もし阻止されなければ、その悲劇の重大さを経験できないだろう。 ペンテシリアは、アキレスによって囚われの身となるが、アキレスの方が彼女の囚人である、と思い込まされる。そのために、「彼女の」アキレス、という言い方がなされる。意識的な覚醒の中に生きる存在が、無意識の中へと投げ入れられる必要がある。 そして、ハイルブロンのカティーの中で表現されているような状況では、特に、カティーと、シュトラールのヴェッターとの間の特筆すべき関係(それは十全たる潜在意識の中で遂行され、人間に気づかれることなく、その間を行き渡る力が潜む魂の奥深いレベルにおいて遂行される)においては、低次の意識はどのような役割を果たすのか? この状況を目の当たりにするとき、世の中の重力や引力といった普遍力の内部に横たわる存在の精神的本性や、世界力の内部に横たわる存在を感じ取る。 例えば、カティーが、愛人の前に立つ場面で、意識下に何が生きているか、そして、それが、外的(物質)世界の中に生きる存在や、諸惑星の引力として、無味乾燥に言及される存在と、どのように関連しているのか、を見る。 1世紀前では、透徹し、苦闘する魂でさえ、この意識の深いレベルにまで潜入できなかった。今日(1911年)、それが可能になっている。 悲劇「ホンブルグの王子」(1810年に書かれたクライストの最後で偉大な作品)もまた、今日(1911年)では、1世紀前とは異なる形で感銘を与える。 人間が達成する事象を理性に帰属させようとする現代の抽象的な思想家たちが、ホンブルグの王子のような人物、すなわち、最終的勝利へと導いた偉大な行為さえも夢のような状態で成し遂げた人物を、どのように説明するのかを知りたい。 実際、クライストは、王子が意識的覚醒から勝利を達成したのでもなく、高次意識という意味においても特に秀でた人物でもなかった、ということを(というのも、彼は後に、死に直面して、メソメソと泣いたからだが)はっきりと示している。 王子が力を発揮できたのは、魂の奥深くに生きていた存在を途方もない意志の努力によって引っ張り出してきたときだけだった。 人類にとって、「月」の意識から遺産として残ったものは、抽象的科学によっては解明できない。それは、繊細な多くの側面をもつ概念、また柔軟な枠組みを持った精神的事象を把握できる概念(人智学によってもたらされるような概念)から導かれるものである。最も偉大な諸概念は、中庸的存在で、通常の諸概念に自らを結びつける。 こうして、今日の魂の中で経験する状態は、宇宙と宇宙の総体とに結びつけられた関係であることを人智学が示すことが分かる。また、魂の中で経験できることだけが事象の精神的根拠に関する概念を形成できる、ということも理解する。 更に、地球の時代になって、地球の時代に先立つ時代に「憧れた」けれども、地球の時代にのみ与えることができるものを達成できるようになった、ということも理解するようになるだろう。こうして、過去の時代の人間たちに対する、つまり、「憧れ」の存在へとつながる道を見つけられなかった心をもつ人間たち(宇宙が、与えることができなかった人間)に対する賞賛のようなものが生じる。 (つまり、人間の魂は未来へと「憧れ」の存在を探しにくるタイムマシンでもある。) 全ての人生は1つの総体であるということ、そして、今日の人間は人類が既に遥か昔に必要としていたような(古代人の運命は真にそのことを現代人に示している)精神的運動に、人生を捧げることができるということを思い出すとき、確かに、そのような人物たちに対する賞賛のようなものが生じて来る。 (過去において精神的活動が未完成なために、未来において、その状況が整ったときに、人間の魂は、その憧れを満たすために、転生しにくる。例えば、「天才」というのは、そのような最たる存在だという。過去においては、なんらかの事情により、未完成に終わった精神的活動を埋め合わせるために、それが可能な家系の遺伝子を選んで転生してくるという。天才的音楽家ならば、音楽的才能を発揮できる家系を選んで生まれてくる。) だから、人智学を人類の「憧れ」に対する救済を担うものとして指し示せるだろう。「荒れ狂うと同時に悲惨に満ちた人間たちが長い間探し求めてきたものを人智学は今、与えることができる」、ということを思い出すのに適した日に、思い出される。 (シュタイナーは、過去においては、人間を超えるような存在、つまり神々や天使の存在を記述できなかったが、人智学は、いまそれを達成できるに足る表現力をもつといいたいようである。) というのも、クライストのような「憧れ」に満ちた人物が悲劇的な死を遂げてから約1世紀経つが、このような人物を思うような日に特に思い出すことができるだろう。このような考え(人智学的考察)を、胸に抱けるのは、ドイツの最も偉大な詩人の1人が亡くなって百年経った、この記念日においてだろう。
2010年01月15日
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通常の自我意識の表層下には、将来、その表面へと押し寄せる可能性のある魂に深く根ざした過去の経験からなる生活がある。 では、この魂生活が表に現れて来たとき、何を語るのか? この無意識的な魂生活の宇宙的根拠を理解できたなら、魂の奥底から生じるように感じられる魂生活とは、「月」紀の進化期に設定されたが、「地球」紀になって初めて人間に浸透した存在を打破する存在である、とわかる。 そして、「月」の本性と「地球」の本性との相互作用を把握するとき、古「月」から「地球」の存在状態へと精神的にもたらされた存在とは何かを説明できるようになる。 覚えておくべきことは、今述べたように、荒廃の緩和のためには、絶えず(新しい)像(イメージ)が浮かび上がる必要があった、ということである。この事実を理解すれば、非常に重要で意義深い概念に至る。 つまり、渇望と空虚の苦しみの中で、「憧れる」魂は、次から次へと生じる一連の像(イメージ)により満足させられ、この「憧れ」を調和の中に保つ、という概念に至るだろう。 (人間は退屈という苦痛から逃れるために、憧れを絶えず新しい像から生みださざるをえない) そして、像(イメージ)がいくつか生じ、しばらく留まるが、その後、魂の奥底で再び古い「憧れ」が目覚め、運動霊が新しい像(イメージ)を呼び起こす。すると、新鮮な像がまたしばらく存在するようになるが、結局、更に別の像(イメージ)への憧れが新しく生じてくる。 この魂生活の側面について、重要なことは、絶えず新しい像によって「憧れ」が満足させられたとしても、この際限なく続く流れに終わりはない、ということである。 この過程への唯一の介入方法は、この際限なく続く像の流れの中に何かが参入する、ということだが、それは像以外のもの、すなわち、「憧れ」を購うことができる「現実的な何か」である。 言い換えれば、「地球」として惑星的に体現した相状態であり、そして、そこでは運動霊の活動により導かれる像が憧れを満足させるが、そのような相状態は、つまり、「救済」の相と呼ぶべき状態によって置き換えられる必要がある。 実際、これから見ていくように、以前の「地球」の体現である「月」紀存在が「憧れの惑星」と呼ばれ、そして、それは無限に続き、決して終わらないプロセス(経過)を通して満たされる「憧れ」だが、それと同じように、「地球」は「贖いの惑星」と呼べる。 人間が人生を通して地上的な意識の中で生きるとき(その意識は既に見てきたように、ゴルゴダの秘儀による「贖い」の行為を眼前にもたらす)、「贖い」への「憧れ」を絶えず生じさせる存在が、魂の奥底から生じてくる。 それは意識の表面には通常意識の波があり、その下の魂生活という海の底から押し寄せ、まるで魂の岩盤(防波堤)が「憧れ」の形を取って生きているかのようである。 そして、この「憧れ」は、それを満足させてくれる宇宙的存在への(それは無限に続く像の連なりにより慰めるだけでなく、最終的に満足させてくれる存在でもある)「供犠」を遂行しようと飽くことなく熱望しているかのようである。 地上に生きる人間として、「贖い」に対する「憧れ」の雰囲気を、実際に感じ取ることができる。そして、これらの雰囲気は人間が経験できる最良のものである。実際、地上に生きる人間の中で、今日、この「憧れ」を感じる人たちが(特に、現代「1910年」において)、人智学的な運動に参加している。 外的(物質)世界においては、通常の表面的意識を満足させる、あらゆる全ての認識を学ぶ。しかし、無意識から波として脈打って来るのは、外的な事情によっては決して満足させられることのない人生の中心的な根拠(基盤)を切望する何かである。 けれども、この中心的根拠(基盤)を獲得可能にするのは人生における特別な出来事だけでなく、その全体に関与する普遍的な科学(叡智)を手に入れたときだけである。 今日、魂の奥深くで生じるもの(波や「憧れ」)は(それは高次意識へと上昇することを求める)、世界の中に生きる普遍的事象と交わるように、させられる必要がある。もし、 この接触がなされなければ、達成不可能な何らかの「憧れ」が魂の奥底から生じてくるだろう。 この意味で、人智学は魂の奥底に生きる「憧れ」への1つの回答でもある。 そして、世界の中で生起している事象の序章は、過去の時代にあった、ということを考えると、今日生きている人々が、自身の魂の中にある「憧れ」の力を、人智学により和らげようとしていること(特に、そのような魂の力が意識的な気づき(認識)を越えた領域にあり、そのような「憧れ」が脅威となり、人間を消耗させようとしているということ)は、人智学徒にとって驚くべきことではない。 もし、魂の奥底に存在する憧れに悩まされるような人物が、人智学のような精神的叡智が存在せず、従って、このような叡智を手に入れることができなかった時代に生きていたなら、その人は(「偉大な精神」であるが故に)精神的叡智に対する絶えざる「憧れ」に苛まれ、人生の意味を把握する可能性から疎外されて来たはずである。 他方、今日では、像への憧れを和らげ、絶望を沈黙させ、それを退治するようなものが、その魂の中に滴り落ちている。過去においては、 この一連の像の行進が止むのを待ち望み、そして、その像が益々大群となって居座れば居座るほど、それが止むのを更に待ち望むことしかできなかった。 例えば、ハインリッヒ・フォン・クライスト(1)が友人に宛てて次のように書き送っている記述を見ると、彼が、魂の「憧れ」の中に、香油のように自らを注ぎ出す精神的叡智を手に入れることができなかった時代に生きていたことを、次のような言葉で表現していることがわかる。 1)ハインリッヒ・フォン・クライストhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%88 「この地球上で幸せになりたいって? そんなことを言う奴がいたら、恥を知れ!とでも言いたい。全てが死で終わるところで、そんな目的に向かって努力するなんて、いかにも先が読めない、ご立派な人間がすることだね。 人は出会い、三度の春をお互いに愛し合い、そして、永久にお互いから逃げ出す。愛がないのに、その努力にどんな価値があるというのか。ああ、何か愛以上の、幸せ以上の、名声以上の、xyz以上の、何か、人の魂が夢想さえもできないようなものはないのか!」 「世界の頂点にいるのが悪い精神の持ち主なんてあり得ない。それは何か不可解なものに過ぎない。人間だって、子供が泣いているときに、笑わないか? この無限の広がりについて少し考えてみたまえ!無数の時間領域、それぞれが1つの生命、それぞれがこの人間の世界のように顕現した存在なのだ!」 「ああ、静止した瞬間よ、教えてくれ、これは夢なのか? 夜、仰向けになって見る二枚の菩提樹の葉のなかには、その先見性において、思考が捉え、言葉が表現できるよりも、遥かに豊かな見通しが広がっているではないか。よし、何か善い行いをしよう。そして、それをしながら死のう!」 「人間は既に無数の死の1つを死に、そして、未来にもまた死ななければならない。まるで、1つの部屋から別の部屋に行くようなものだ。ほら見てごらん、僕には世界が大も小もなく一緒くたに箱詰めにされているように見える。」 これらの言葉で表現された「憧れ」は、この人物を促し、その友人に宛てた、この手紙を書かせた。けれども、この精神(クライスト)は、現代の魂が精力的な理解力をもって人智学に近づくような形では、まだその「憧れ」に対する充足を見つけだせなかった。 というのも、この精神は、百年前に、まず友人のヘンリエッテ・フォーゲルを撃ち、次に 自分を撃って、その生涯を閉じ、いまから1世紀前に、彼の亡骸は最初に葬られたヴァンシー河岸にある寂しい墓の下に眠っているからである。
2010年01月14日
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供犠を許された存在について想像してみる。この存在は別の存在の中に生きる。「犠牲」を与えた存在の中に永久に生きる。供犠を許されなかった存在は、自身の存在の中に生きることができる。だから、そのような存在は、他の存在の中で(この場合、高次存在だが)経験できた全てから排除される。 (高次存在に拒絶された存在は「死」を知る。) そのとき、実際、もし、その一面性を取り除く為に、進化の過程に介入しようとするような存在が生じなかったら、その問題の存在たちは、進化の過程から排除され、一面性へと突き落とされ、消えてしまっただろう。 この進化過程に介入するような「存在」とは、一面性への宣告と追放を阻止するような介入を行う新しい存在たちである。「土星」上における意志存在(トローネ)や、「太陽」上における叡智存在(キュリオテテス)の場合と丁度同じように、「月」上では運動霊(デュナメイス)(1)が現れて来るのが見える。 1)力天使(デュナメイス、運動霊) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E5%A4%A9%E4%BD%BF 「運動」という言葉によって、空間中での運動だけをイメージするのではなく、思考過程に関連した存在にも言及すべきである。 「思考の運動」という表現は、その人自身の思考の流れや流動性を表し、その表現は誰でも知っているが、この表現だけからでも、もし、運動を包括的に把握するなら、運動は空間中における単なる位置の変化(それは運動の1つの側面に過ぎない)以上のものであるということを理解しなければならないことが分かる。 もし、ある高次存在に対して、多数の人間たちが自らを捧げるなら、それらの人間たちは(そのとき、その存在は、その人間たちの中にある全てを表現することになるが、それは、その存在が犠牲として差し出された全てを受け入れているからである)、その1つの存在の中に生き、その中で充足する。 (聖書の「アベル」で表わされる事象) しかし、もし、自らの犠牲が拒絶されたなら、自身の中で生きざるを得ず、決して充足できなくなる。そうなったとき、運動霊がやって来て、自身に頼って生きなければならなかったはずの存在たちを、他の全ての存在との関係へと導いた。運動霊を単なる位置の変化を生じさせる存在として考えるべきではない。位置変化だけでなく、ある存在を、絶えず別の存在との新しい関係に導くような事象を生じさせる存在なのである。 (聖書の「カイン」で表わされる事象) ここでも、魂に対応する雰囲気を考察することで、宇宙進化の、この段階で達成されたものに対する考えを形成できる。「憧れ」が停止させられ、行き詰まったとき、そして、いかなる種類の変化も経験できなくなったとき、それがいかに苦痛に満ちたものであるかを知らない人がいるか? (「退屈」という苦痛を知らない者はない。) それによって人間は耐え難い状態、退屈と呼べる状態に陥る。通常、退屈を、それが表面的にみえる人々にだけ適応させるが、退屈には様々な段階がある。 偉大で高貴な本性の中にも、外的(物質)世界の中では満足できないような「憧れ」として、その本性自身の本質が表現するものが生きているが、退屈の中には、そのような「憧れ」の本性に影響を及ぼすようなレベルの退屈もある。 そして、この「憧れ」を満足させる方法として、変化以上に良いものがあるだろうか? それは、この「憧れ」を感じる存在たちが絶えず新しい存在たちとの関係を求め続けていることからも分かる。「憧れ」の耐え難い苦しみは、絶えず変化する新しい存在たちの集団との関係によって、しばしば克服へともたらされる。 (「憧れ」に埋没しないために、新しい関係をもたらす運動霊が救いに訪れた。) こうして、「地球」が「月」紀の相状態を通過する間、運動霊が現れなければ、荒廃状態に陥ったはずの「憧れ」に満たされた存在たち(というのも、退屈とは一種の荒廃であるからだが)の生活の中に、変化、動き、新しい存在たちや状況と、絶えず更新される関係がもたらされるのを見ることになる。 (人間が恋をするのは、「憧れ」を自らで充足できず、新しい関係を求めるからであろう。人間は、「憧れ」に埋没しないため、「退屈」を紛らわすために、新しい変化を求めるのである。「憧れ」を埋没させると、退屈となって消滅してしまう恐れを感じるからである。) ある場所から別の場所への空間中での移動というのは、いま述べている運動に関する幅広いスペクトルの内の1つの側面に過ぎない。別種の運動を経験するには、朝起きたとき、魂の中にある思考内容を自分の中だけに留めず、他の人に話すときである。 (特に女性が話したがりなのは、退屈を避けるためであろう。) こうして、多様性、変化、そして、経験の中での運動を通して、「憧れ」の中にある一面性を克服する。外(物質)的な空間中に存在する運動は、変化に対する、ある特殊能力に過ぎない。 (魂のなかの運動が本質であるという。他者からみれば、エゴイズムのように映る運動である。恋を例にとるとわかりやすい。恋が、ある面で我儘なのは、自由という概念とともに、悪が生み出され、憧れが生じたためである。) では、太陽に面している惑星について考えてみる。もし、その惑星が、太陽との関係で、いつも同じ位置にあるなら、もし、その惑星が静止したままだとしたら、一面性の中に固定されてしまうだろう。その惑星は常に同じ面を太陽に向けることになる。 しかし、運動霊がやって来て、その惑星が太陽の周りを回転するように導き、その位置に変化をもたらす。位置の変化は、変化の一種に過ぎない。そして、運動霊が、宇宙における位置の変化を生じさせるとき、運動という一般的現象の中の特殊な例を生じさせている。 運動霊が運動と変化を宇宙に導入したことで、同時に別の何かが、やって来た。人間の進化の中に、つまり、運動霊、人格霊(形態霊、エクシスアイ、能天使)、叡智霊、意志霊等々の形で進化する全宇宙の多様性の中に見てきたのは、空気や気体を形成するように、精神的な基礎から、浸透する叡智が流れ、「与える徳」の形態の中に、物質が生じる、という事実だった。 2)能天使(エクシスアイ、形態霊) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%A4%A9%E4%BD%BF 「聖書のエロヒムは、つまり神々はこのヒエラルキーに属したという。人類に火、つまり自我をもたらした霊なので、人格霊ともいわれ、仏典では阿修羅ともいわれる。善神と悪神がいて、ゾロアスターは、善神がアフラマズダ(巨大なオーラという意味)で、悪神がアーリマンと呼んで区別した。人間が堕落しすぎると、アーリマンに憑依され、アスラという人格分裂の獣になると預言されている。その獣が「666」の太陽悪魔「ソラト」とヨハネの黙示録には表現されている。「ソラト」という名は666を古代の数字と文字の換算から出るという。」 この多様性は、いま「憧れ」へと変容した「意志」と共に魂のなかに流れ、そして、これらの存在の中で、人間が「像」として知る存在になるが、まだ思考としては知られていない段階であった。これらの「像」は、人間が夢を見るときに持つイメージによって、いまも視覚化できる。 流動的で、過ぎ去るような夢の像は、その中に「憧れ」としての意志が生きている存在や、運動霊により、他の存在との関連へともたらされる存在や、そのような存在の中で生じるイメージを呼び起こすことができる。ある存在が別の存在の前に立たされるとき、前者が後者に完全に帰依することは不可能だが、それは、その存在の中にそれ自身の自我が生きているからである。 しかし、その問題の存在は、別の存在の過ぎ去る像(夢の像のように生きている像)を受け取ることはできる。こうして、イメージの潮流とでも呼べる存在が魂の中に生じる。言い換えれば、この進化期の間に、像の意識(形象意識)が存在するようになった。 そして、そのときの人間は、現在の地上的な自我意識なしに、この進化期を通過したことから、自身を、今日、自我を通して地上で達成する行為を欠いていた存在として想像する必要がある。当時の人間は、統合的な宇宙の中に存在し織り込まれていたが、一方で、現代人の「憧れ」の経験に比較できるような存在が、当時の人間の中に生きていた。 ある意味で、苦悩とは(地球上に現れる苦悩の条件を度外視すれば)詩人が述べているように「憧れを知る者だけが、苦悩を知りえる」というようなものに他ならない、と想像できる。 魂の表現としての苦悩や痛みが人間の本性の中に、そして、人間の進化に結びついた他の存在たちの本性の中に入り込んで来たのは、「月」紀の進化期だった。 それ以降、運動霊が現れなければ、空虚であったであろう内的な自我が(憧れに苛まれる内的な自我)、治癒的な慰めに満たされることになったが、それは運動霊の活動を通して、憧れに苛まれる本性たちの中に注ぎ込まれた像の意識の形でなされた。 もし、このような事実が生じなかったら、これらの「月」存在たちは(「月」の本性たち)、その魂の中に 「憧れ」以外の何も存在しない空虚な存在となっただろう。けれども、像という慰めが、その孤独と空虚の中に滴り落ち、多様性で満たし、空虚な存在たちを、追放と非難から解放した。 (力天使が、カインを救ったと表現される。) そのような事実を真剣に受け止めるとき、地球が「月」紀の相状態にあったときに進化した存在の根底に精神的存在として横たわる存在と、意識の奥深くに、「地球」の相状態の下に層を成して横たわる存在との両方を把握できる。 しかし、その存在は、あまりにも魂の奥深くに横たわるために(この事については、後の公開講演(GA61)で、分かりやすく示す)、海底に押し寄せる水流が海面に波を生じさせるのと同じように、気づかれることなく活動を始め、そして、意識の中へと現れてくる。
2010年01月12日
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けれども、魂が地上的な身体の中に挿入されることで、人間の魂生活全体は、その表面下深くに流れる隠れた魂生活の上の最上層に横たわる、ということを明確にする必要がある。 では、なぜ、隠れた魂生活がある、ということに気づかない人がいるのか? 人生は、そのような魂生活が存在している、ということを十分に教えてくれる。 この隠れた魂生活を明らかにするために、例えば、ある子供が(7才か8才、もしくはその辺りの子供とする)様々な出来事を経験することを仮定してみる。実際には、「していないこと」で責められ、ある道理を経験する場合である。 子供はよくこのような出来事に対して特別に敏感だが、「してもいないことをした」ということで、その子を責め、丸く納めるのが、その子の周囲の人間たちにとっては都合のよいことだった。実際、子供たちはこのような形で道理に苦しめられることに対して非常に敏感である。 しかし、人生とは、このような経験が、この若い生命の中に深く食い込んだ後、年を経るに従い、その経験の上に更なる層が、魂に付け加えられ、その子は、少なくとも日常生活の意味では、そのような経験を忘れてしまう、ものである。多分、そのようなことは二度と再び生じないだろう。 しかし、その子供が成長し、15才か16才の若者のとき、例えば学校で、また新たな道理を経験することを仮定してみる。すると、今や、そのような新たな道理を経験しなければ、波打つ魂の奥深くに眠っていたはずの経験が再起することがある。 問題の若者は、子供のときに経験した思い出が作用していることを知らず、実際、全然別の考えや概念を形成するかもしれないが、もし、以前の出来事が起こっていなかったら(例えば、若い男だったら)、ただ家に帰り、涙を流し、恐らく多少の不満を言うかもしれないが、それでも、立ち直ることができるだろう。 ところが、子供のときの出来事が生じていた為に(ここで、何が起きているかに関して、この若者が知っている必要はない、ということを特に強調するが)、静かに見える海面の下に、波が打ち寄せるように、以前の出来事が、魂生活の表面下で働きかける。 そして、子供のときの出来事がなければ、涙と不平、そして多少の愚痴だけで終わったものが、その学生の自殺という結果をもたらすこともある! このように魂生活の隠れた深みは、最深のレベルから表面へと上昇し、その役割を果たすことになる。そして、これら魂の深みで支配する最重要な力とは(その力は、その本来の姿で上方へと押し進むとき、意義深いものになるにも関わらず、その力に対しては無意識のままにとどまる)「憧れ」である。 この力が外的(物質)世界の中でもつ名前が幾つか知られているが、それらは漠然としていて比喩的である。何故なら、それらの名前は複雑な関連を表現するので、意識の中まで入ってこないからである。 では、よく知られた現象を取りあげてみる(都市に住む人には、あまり影響されないが、それでも、田舎の人をみて、認めるかもしれない)。それはつまり、「ホームシック」と呼ばれる感情のことである。もし、ホームシックの正体を探求するなら、基本的には、それぞれの人間によって異なるものであることが分かるだろう。 ホームシックは、ある人にとっては、ある特徴をもち、別の人にとってはまた別の特徴をもつものである。ある人は、家で聴いた親しみのある物語に憧れるが、本当は家を恋しがっている可能性もある。個人個人の中に生きているのは、とりとめのない憧れであり、方向性のない望みである。 別の人は故郷の山、或いは、さざ波を見るときに、よく遊んだ川に憧れる。これら異なる性質全ては、魂の中で、しばしば無意識に働いているが、「ホームシック」という言葉で括ることができる。そして、それは何千もの異なった形で演じられるが、それでも、一種の「憧れ」として記述できるような存在を表現している。 更に漠然としているのが「切望」だが、それは多分、人生において人間を苦しめる存在として生じる。人間は、そのような関連に気づかないが、それは「憧れ」なのである。 とはいっても、この「憧れ」とは何なのか? 犠牲を捧げることを望みながら、諦めなければならなかった存在たちの雰囲気に、「憧れ」を関連づけることで、それが一種の「意志」であることを以前示唆した。そして、この「憧れ」を検証するとき、それはある種の「意志」である、ということが分かる。 では、それはどういうタイプの「意志」なのか? それは成就されない「意志」、或いは「意図」なのである。というのも、もし、それが成就されたなら、「憧れ」でなくなってしまうからである。それは実現され得ない意志なのである。「憧れ」をこのように定義しなければならない。 だから、「犠牲」が拒絶された存在たちの雰囲気について、次のように要約すれば、多少とも特徴づけられるかもしれない。人間の魂の深部において、「憧れ」として感じ取れるものは、今述べている、太古の時代から受け継がれてきたものとして、人間の中に留まっているものである。 ちょうど、人間が、月の性質とは別の性質を、別の太古の進化段階(土星、太陽)からの遺産として受け取るのと同じように、「月」紀の進化段階から 受け取るのは、魂の深層に見つけられる、あらゆる形態の「憧れ」、あらゆる形態の「成就されない意志、阻止された意志」である。 この進化期の間に捧げられた「犠牲」が差し戻されることで、「抑制され、阻止された意志」を持つ存在たちが創造された。その存在たちは、この意志を抑制し、自身で保持しなければならなかった為に、非常に特別な状況に置かれた。 そして、もし、これらの出来事を感じ取り、経験したいのなら、自身の魂の状態の中に身を置かなければならない。というのも、思考だけでは、これらの状態に沈潜するには十分ではないからである。 意志を捧げることができた存在は、ある意味で、その犠牲が生じた相手の存在と1つに結ばれることになる。その出来事についても(つまり、犠牲を捧げる存在の中に、自身が生き、いかに自身を織りなすかということ、すなわち、その存在がいることで、いかに充足感と幸福を感じるかということについても)、人生の中で感じ取ることができる。 (聖書のアベルのことであろう。) ここで述べているのは、宇宙的存在を含む高次存在への「犠牲」である。「犠牲」を捧げる存在たちは、喜びの中で上方を見るが、そのため、「阻止された意志」の「憧れ」として、自らに差し戻され、その「犠牲」が完遂されたら、成就したような状態とは、内的な雰囲気において(内的な魂の内容において)、同じものではなくなる。(聖書のカインのことであろう。) というのも、もし、「犠牲」を捧げる存在たちが、犠牲行為を許されていたら、犠牲を与えた別の存在の一部となっていたからである。 だから、比喩で語るなら、もし、地球やその他の惑星存在たちが太陽への供犠を許されていたら、他の惑星は太陽と1つに結ばれていた、と言える。しかし、太陽への供犠を許されず、捧げた「犠牲」を自らに保持せざるを得なかったので、捧げた存在の太陽とは離れたままで、その「犠牲」を自分たちの中へと引き戻すことになった。 もし、今述べた事実を一言で把握するなら、宇宙という総体の中に何か新しい存在が入って来る、ということに気づく。それは何か別の方法では表現できないものである、ということをはっきりと理解すべきである。 つまり、自分の中に生きている全てを、別の存在に捧げようとする存在たち、宇宙的存在に自分を捧げようとする存在たちは、その供犠が受け入れられなかったとき、その犠牲を自身の内に担うように導かれる。 ここで、「エゴ(自我)」、或いは「自我性」と呼ぶような存在、そして、それは後に「エゴイズム」として全形態において現れるが、そのような存在が煌めくのを感じるはずである。 こうして、進化の中に流れ込んだものが、あの存在たち(進化から遅れた存在)の内部で、遺産として生き続けるのを感じ取れる。人間は、憧れの内部に、たとえそれが最も弱められた形であるとはいっても、エゴイズムが稲妻のように光るのを、そしてまた、憧れが宇宙進化の中に忍び込んで来るのを見る。 こうして、「憧れ」に身を任せる存在たち、つまり、自分のエゴイズムに屈服する存在たちが(もし、別の何かが介入しなかったら)、ある意味、自らの一面性の中に突き落とされ、 自らの中だけに生きるようにさせられるのを見ることになる。
2010年01月12日
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世界(宇宙)観のなかの非常に困難な側面に関して、ある程度だが、外的、感覚的(物質)世界の顕現の背後に横たわる精神的存在を見るように学ぶことを追求してきた。 とは言っても、感覚的世界の中で、目に映る背後には精神的存在に特徴的な形態が実際に存在しているという事実は外見からはよく分からない、ということを魂生活の中で経験する。 しかし、人智学徒はそのような外観の背後には、精神的活動、精神的性質の特徴をもつ存在が実際に立っている、ということを認識できるようになった。例えば、通常生活においては「温度、熱、火の性質」として現れる存在は、「犠牲」の精神的表現である、ということを知っている。 そして、「空気(大気)」として遭遇する存在(それが精神的存在であるということは、現代人の概念の中では、明らかにはならない)の中には、ある宇宙的存在(キュリオテテス、叡智霊)による「与える徳」と呼べる存在が認められる。また「水」の中に認められる存在は、「諦め、拒絶」と呼べる存在である。 太古の世界(宇宙)観(簡単に触れるだけにする)では、当然、外的、物質的な存在の内にある精神的存在は、現代以上にすみやかに直感され、認識された。この証拠は、現代人が日常的に使うスピリット(エキス)という言葉(今日では、スピリットは特別に揮発性の高い物質を示す場合の特別な用語として用いるが)にも見られる。 人智学徒は、「スピリット」という言葉よりも、むしろ「スピリチュアル(精神的なもの)」とよく使う。しかし、外的(物質)世界では、「スピリチュアル」という言葉を必ずしも、真に精神的存在、或いは感覚を超えた存在には適用しない。 (最近は霊能者の広報活動で、「スピリチュアル」に精神的存在、霊的存在という意味があることが知られてきた。) 人智学徒のなかには、かつてミュンヘン精神(スピリチュアル)主義者協会に宛てられた手紙が、精神主義者協会という存在があまり知られていなかったために、「スピリット」つまりアルコール飲料協会本部に届けられたことがあったのを知っている。 (1911年の講義の時点では、「スピリチュアル」は大半が「アルコール」のことだと思われていた。) 本題に戻り、次は地球惑星の進化が、「太陽」紀から「月」紀にまで進展したときに生じた重要な移行について見ていく。そうすることで、別種の精神的進化について考察することになるだろう。 太陽紀の講義で取り上げた「拒絶」という行為から始める。以前、精神的存在たちが、この「拒絶」、或いは「差し控える」という行為の中で、「犠牲」(この犠牲を、意志、或いは意志の実質を捧げる行為として認識した)を受け取る機会を「諦める」のを見てきた。 ある存在たち(トローネ)が、意志を捧げたいと望む一方で、高次存在たち(ケルビム)が、その受け取りを「差し控える」という行為によって、この意志の受け取りを拒む場面を見るとき、この意志は(この存在たちは、それを高次の精神的存在たちに捧げたいと望んだが)、受け取りを許されず、捧げたいと望んだ存在たちと共に留まらざるを得なかった、という概念に上昇できる。 だから、宇宙的な文脈の中には、「犠牲」を捧げる準備、つまり自らの最奥の存在の中に安んじている存在(意志)を、献身的に捧げる準備ができているにも関わらず、許されず、そのため、自らの内に、それを留めなければならない存在たちがいる。 あるいは、別の言い方をすれば、これらの存在たちは、その犠牲が拒絶されたことで、もし犠牲を捧げることが許されていたら生じたような高次存在たちとのある結びつきを確立できなかった。 聖書の中での、カインがアベルに立ち向かう場面は、この「拒絶された犠牲」の意味を幾分強調した形だが、擬人化し、歴史的な象徴となっている。 カインもまたその「犠牲」を神に捧げたかったのだが、その「犠牲」は神の喜ぶものとはならず、神はそれを受け取ろうとはしない。一方、アベルの「犠牲」は神によって受け取られた。ここで注意したいのは、その「犠牲」が「拒絶」されたことを知ったときのカインの内的な経験である。 この出来事に対する最高度の理解へと至るには、通常の生活の中でだけ意味を持つ考えを、いま述べている高次領域に持ち込むべきではない、ということを明白にさせておかなければならない。「犠牲」の「拒絶」は、なにかしらの欠陥や悪行によって生じた、と言うなら、それは間違いである。 これらの領域では、通常の生活で知っているような罪や贖いに言及することはできない。通常の意味ではなく、「犠牲」を「拒絶」した高次存在たちの観点から、これらの存在たちを見なければならない。言い換えれば、高次存在たちは、単に、犠牲の受け取りを差し控え、それを譲り渡したに過ぎない。 以前、特徴づけた魂の雰囲気の中には、欠陥や失敗を示すような存在は何もなく、むしろ「諦め」や「拒絶」行為は、あらゆる偉大で意味深いものを包含していた。とはいっても、「犠牲」を「差し出そう」とした存在たちの中に(たとえ、それが極めて微かな反対であっても)、「犠牲」を拒否した存在たちに対する何か反対のようなものを始める雰囲気が生じるのを確かに感じ取ることができる。 なので、この反対の雰囲気が、例えば、カインの場合のように、後の時代になって、人間の前に提示されるときは、増幅された形で提示される。カインの中に見つけられる雰囲気と同じ雰囲気を、「太陽」から「月」への移行期に進化した存在たちの中に見つけることはない。 (高次元の天界で起こった事象が、低次元にいくに従い繰り返され、地上に起こるときは増幅された形をとるという。雪崩れのようなものである。) この存在たちの間に反対の雰囲気が生じる、といっても、少々異なるといった程度の相違である。また、信頼可能な形で、この雰囲気を理解できるようになるには、以前の講義でも述べたように自身の魂の中を覗き込み、自分の魂の中のどこに、そのような雰囲気を見つけることができるか、または、どのような魂の状態が、そのような雰囲気、つまり、「犠牲」の捧げものが「拒絶」された者たちの中に醸し出されたであろうか、と問うときだけである。 魂の中にある、この雰囲気(地上の人間の生に近づいてきたもの)は、実際、その不確かさにおいて、また同時に、その苦しみ、あるいは苦痛において、どの魂にも馴染みのあるものだが、それについては次の公開講演「魂生活のなかの隠れた深み」(GA61)の中で十分に取り上げるつもりである。 どの魂にも馴染みがある、この雰囲気、或いは態度は、魂生活のなかの隠れた深みを支配し、恐らく、その雰囲気が、あまり苦しみを生じさせないときには、表面に向かって押し寄せてくる。しかし、人間はしばしば、この雰囲気の周囲を巡っているだけである。高次の意識の中では、その深みをそれと気づくことなく担っている。 これは「憧れを知っている者だけが、自らの苦しみを知る」という、ある詩人(ゲーテ「ウィルヘルム・マイスター」)の言葉を髣髴とさせる。この言葉は、漠然としているが、しつこい魂の苦痛、同時に苦しみの感情を伴う悩みをよく捉えている。 この言葉は、魂の雰囲気としての「憧れ」を意味している。それは、魂が様々なことを熱望したり、それに向かって苦闘するときだけでなく、人間の魂の中に(魂の雰囲気として)絶えず生きているような「憧れ」である。 「土星」紀と「太陽」紀の進化期において、精神的に生じた出来事の中に身を置くのなら、自らの眼差しを魂の特別な状態、つまり、人間の魂が高次の努力に向けて舵を取り、苦闘し始めるときに現れる魂の状態に着目する必要がある。以前の講義の中で、「諦め」や「犠牲」の本性を、自身の魂の生活から描くことで明らかにした。 「喜んで与えること」、或いは「自我自らが自主的に諦めること」といえるような状態へと魂の感性が滴り落ち、そして、そこから生じるものを読み取れるような叡智から人間が達成できるものを見てきた。太古の状態から進化してきた地球の状況に近づくほど、人間でも経験できるような魂の状態に似た状態に遭遇するようになる。
2010年01月07日
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さて、誰かが次のように反論することも十分考えられる。 「今まで私は神について、これよりももっとましな意見、つまり、神々は必ずしも悪を創造しなくても人間の自由の舞台をセットできると考えていたが、どうして、神々は、悪なしに人間の自由を世界の中にもたらせなかったのか?」と。 そこで、世界があまりにも複雑すぎると考えた、このスペインの王様の次の言葉、 「もし、神様が世界の創造を自分に任せてくれたら、もっとずっと簡単にしていた」 を思い出して欲しい。 人間たちは弱さ故に、世界はもっとシンプルにできたはずだ、と考える。しかし、賢明な神々は世界の創造を人間たちには任せなかった。 人智学の観点から見ると、この状況を遥かに正確に特徴づけられる。 「台を必要とする人に、柱を立てれば、その上に台として物を置けるよ」、というような指摘を仮定する。そのように言われた人は、「それでもいいだろうが、まだ別の方法もある! どうしてもっと簡単な別の方法でやらないのか?」と言うかもしれない。 あるいはまた、建設中に三角定規を使いながら、「どうしてこの三角定規には三つの角しかないのか?多分、神様は三つの角を持たない三角定規を作れたはずだ!」と言うかもしれない。 しかし、神様は悪や苦の可能性なしに自由を創造できたはずだ、と言うのは、三角定規は三つの角を持つべきではない、と言うのと同じくらいナンセンスなのである。 三つの角が三角形に属しているのと同じように、自由は、精神的存在の側でなされた「諦め」によりもたらされた悪の可能性に属する。 これまで述べてきた全ては、神の「諦め」に属している。というのも、神々は、犠牲を受け取ることを諦めることで、不死のレベルに上昇した後、悪を導き、善に戻すために、不死から進化を創造したからである。それは、この「諦め」という手段を用いてなされた。 神々は、自由の可能性を与えることができる悪を回避しなかった。もし、神々が悪を抑え込んでいたら、世界は貧弱で単調なものになっただろう。 神々は、自由のために、悪が世界の中に入り込むのを許さなければならず、そのために、悪を善へと導くのに必要な力を同時に獲得する必要があった。そして、この能力は「拒絶」と「諦め」の結果として、訪れるようなものだった。 「諦め」は、偉大な宇宙の神秘を表出するために、常に像やイマジネーションとして存在している。いま太古の進化段階に言及し、「犠牲」や「与える徳」の概念に、「諦め」の概念を付け加えることで、マーヤや幻想に対峙する真実に到達するための更なる一歩を踏み出した。 宗教はそのようなイメージや概念を提供する。だから、聖書を基にする宗教でもまた、「犠牲」や「諦め」、あるいは「犠牲の拒否」といった概念に近づける。 例えば、アブラハムの物語では、自分の息子を「神」に犠牲として捧げようとするが、「神」は 父祖の犠牲を受け取るのを差し控える。 もし、この「差し控える」という概念を、魂の中に取り入れるなら、既に述べた瞑想のイメージもまた、自分の元にやって来る。かつて、アブラハムの犠牲が神に受け入れられ、イサクが犠牲になっていたら、という仮定について示唆した。 もし、「神」がこの犠牲を受け取っていたら、イサクに発する古代ヘブライ民族全体が地球から消滅していただろう。「神」は、ヘブライ民族の(支配)領域を諦めることで、つまり、自分の影響が及ぶ範囲から締め出し、自分の外にあるようにすることで、アブラハムに由来する全てを贈り物として与えた。 もし、「神」がアブラハムの犠牲を受け入れていたら、「神」は古代ヘブライ民族の活動領域全体を自身の中に取り込んでいただろう。というのも、犠牲になったイサクは「神」と共にいることになったからである。 しかし、「神」はイサクを放棄し、それによって、この進化の流れ全体が地球上に発散するに任せた。太古の父祖によって提供された意味深い「犠牲」のイメージを通して、全ての「諦め」や「犠牲」の概念が呼び起こされる。 また、高次存在による「諦め」、あるいは「犠牲」のもう1つ別の例を地球の歴史の中に見つけることができる。ここでもまた、既に前回触れた、つまり、レオナルドダビンチの絵、「最後の晩餐」に言及することになる。 「地球」と「キリスト」双方の本質的な意味を同時に眼前にする場面を思い描いてみる。その絵の持つ完全な意味の中に参入するように試みる。 また「もし、死の供犠を避けたいと欲したなら、天使の大群を呼び出すことができないということがあろうか?」(マタイ二六章五三節)という福音書の中のキリストの言葉を思い出してみる。 「諦め」と「拒絶」によって、「キリスト」は行使できた、この明確で安易な解決法を拒否した。キリスト=イエスが、眼前にもたらす「拒絶」の最大の例が生じたのは、キリストを裏切るイスカリオテのユダが、キリストの領域に入って来ることを許したときである。 もし、キリスト=イエスの中に見れるものを真に見るなら、キリストの中に、「犠牲」を諦めた(拒絶した)存在たち(ケルビム)と、その本性自体が「諦め」である存在たち(トローネ)の作用を見なければならない。 神々自身が、古「太陽」紀の間に、反対者たちを、「拒絶」行為を通して呼び出したように、もし「キリスト」が、キリストの反対者としてのユダの裏切り行為を許さなかったとしたら生じたことを、キリストは「拒否(拒絶)」した。 この「キリスト」の(敵対者への)赦しから、この出来事(宇宙の力に対する反対者たちの出現)が「地球」上において絵画的に繰り返されるのを見ることができる。 (もし、キリストが、ユダの裏切りを赦さなかったら、人間に自由はなかったといいたいのだろう。この宇宙に神から離れる自由を与えるために、神は悪を創造した。) 十二人の真ん中にいる「キリスト」が、裏切り者として立つユダと共にいるのを最後の晩餐に見る。人類にとって計りがたい価値をもつ存在が進化過程に介入するために、「キリスト」自身が反対者を、自身に対立する位置に置く必要があった。 この絵画が、人間の魂に深い印象を与えるのは、「最後の晩餐」を見つめることで、力強い、宇宙的な瞬間を思い出させるからである。 「私とともにその手を皿に浸した者が私を裏切る」(マタイ二十六章二十三節)という「キリスト」の言葉を眼前に掲げるとき、神々自身によって、神々に反対する位置に置かれた反対者たちの地上的な反映を見ることができる。 もし、火星の住人が地球に降りてきたなら、地球で遭遇する全ては、たとえ、それを十分に理解できなかったとしても、多少とも、興味深いものとはなるだろう。 けれども、そのような火星人たちが、このレオナルドダビンチの絵を見たなら、宇宙的観点から見て、地球だけでなく、火星にも密接に関連し、そして、実際には、中心に位置する「キリスト」が、太陽系全体に関連した存在であることを見つけるだろう。 そして、そこから、「地球」の意義を認識できるだろう。「最後の晩餐」の中に、地上的な形式において示されている出来事は全宇宙にとっても意味があることなのである。つまり、不死の神的な力に対抗する者として、ある力が、それと対立する位置に置かれた、ということが示されている。 そして、死を克服し、地上における不死の勝利を具体的に示した「キリスト」が証しているのは、神々が時間に囚われた存在たちから、自らを区別し、時間に対する勝利(永遠)を達成した事実であり、つまり、不死になったときに生じた意義深い宇宙的な瞬間である。 レオナルドダビンチによる「最後の晩餐」を見るとき、この全てが心の中で感じられるかもしれない。 どうか、「最後の晩餐」を見て、素朴で単純な感受性の持ち主には、いま述べたような事実は理解できない、とは言わないで欲しい。そのような人がこれらの事実を知る必要はないからである。というのも、人間の魂の神秘的な深み(潜在意識領域)では、人間の魂の中で感じられる事柄を、知的に知る必要はないからである。 花は、自らが育つ法則を知っているのか? 否、知職で理解できなくても、花は育つ。 花が自然法則を知る必要があるのだろうか? もし、人間の眼前で、神とその敵対者が繰り広げる出来事を見るとき、いわゆるそれは人間の表現可能の最高貴な出来事であり、また不死と死の差別化でもある出来事がもたらされるとき、眼前の存在の圧倒的な重要性さえ感じることができれば、人間の魂は、いかなる理性(知性)の必要性を有するだろうか? そのような出来事を理性をもって、知的に知る必要はないであろう。 世界の意味を写し出す、最後の晩餐の絵の前に、人間が立つとき、かつての宇宙の進化の経験が、不思議な力によって、人間の魂の中へと浸透する。その絵を描くのに、画家が神秘家である必要もない。画家は神秘家でなくても、レオナルドの魂の中には、この最高の、最も意義深い出来事を表現できる力が存在していた。 偉大な芸術作品が、それほどまでに力強い効果を示しているのはそのためである。つまり、それは、絵画に表現された最後の晩餐が、宇宙的な秩序の意味に密接に結びついているからである。当時とそれ以前の芸術家たちは、その事実を知ることなく、ボンヤリとした(潜在)意識の中で、宇宙的な秩序の意義を結びつけていた。 しかし、将来、もし、人智学が、新しい知の形として、芸術に対する新しい基礎をもたらさなかったら、芸術は存続できないだろう。 無意識の芸術はもはや過去のものとなった。人智学により息を吹き込まれるのを、自発的に許容する芸術は、その進化の初期段階に立つ。過去の芸術家は、芸術の根底に存在するものを知る必要はなかった。しかし、未来の芸術家は、それを知らなければならず、それも、もう一度不死を描き出せる力(それは魂の内容全体から何かを提示できる力)によって、知らなければならない。 人智学を知的な科学、いわゆる数式や範例等で表現する知的な科学にしようとする人は、この事を理解していないが、これまで展開してきた、あらゆる概念(犠牲、与える徳性、そして拒絶のような概念)により、言葉の一つ一つにおいて、その言葉から湧き出てくるものや、その考え方そのものを(そのイメージの多様性から流れ出て来るものを)経験するような人は、人智学を理解できる人である。 もし、世界の進化は、抽象的概念の中で成し遂げられる、と人間が信じるなら、そのような図式等を提示することもできる。しかし、もし、「犠牲」、「与える徳性」、そして、「諦め」のような生きた概念を提示するのなら、図式等はもはや十分ではない。 これら三つの言葉は、この言葉の文字の向こうにある存在を、全く考慮しなければ、図式等で提示できる。しかしもし、これらの概念(犠牲、与える徳性、拒絶)について、熟考するのなら、以前、記述したようなイメージを、つまり、犠牲を捧げるトローネ、ケルビムに供犠を送る存在たち、犠牲の煙をまき散らす存在たち、大天使から反射される光を受け取る存在たちの絵画等を自ら描かなければならない。 そして、次回の講義で「月」存在の考察へと進むとき、いかに、そのイメージがより豊かになるかを見ることになる。集まる雲の塊が液体となり、「月」の塊として、さざ波を立てる出来事を、そして、セラフィムの魅了する光が、そこに付け加わる出来事を見ることになる。 そのとき、完全な理解に達するように努めなければならない。この事実については、次のように言いたい。 「将来、人類は外的(物質)世界において、外的世界に対する完全な理解に到達しなければ、アカシャ年代記の中に読みとれる出来事を、表現へともたらす可能性、いわゆる芸術的才能や芸術的手法を創り出す方法が失われるだろう」、と。
2010年01月06日
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今年の干支は「庚寅(かのえ・とら)」です。 庚(かのえ)は、陰陽五行でいえば、金の兄にあたり、金の陽の状態を表すようです。金は、五行の木、火、土、金、水のなかの後半初期にあたり、西洋の魔術でいうなら、金星の役割に相当するようです。 西洋では、五行は、太陽(陽)と月(陰)を除いた天体、つまり木星、火星、土星、金星、水星を意味するようで、五行に陰陽をあわせて占星術となり、7進数を基本にします。 東洋では、占星術というより、生命数的な意味があり、人智学でいうなら、エーテル体の状態を表し、東洋の魔術でいうなら、気孔術になるようです。 だから、五行は、五芒星を使い、生命数を表記するわけで、人智学でいうなら、人体のエーテル体の主要な5つの流れを意味します。 東洋と西洋の大まかな違いは、東洋は悪霊をも神として祭る伝統があり、5×2で10進数なのに対し、西洋では悪魔を嫌い排除するので7進数となるところのようです。 特に、悪霊や怨霊を鎮めることで、生かす技術に優れているところが東洋にはありますが、逆に御利益主義に走る災いもあるのが特徴です。 シュタイナーの講義をまとめることで、わかるのは、物質界の背後には、精神的存在、つまり精神的意味が隠されているということです。 だから、五行の本質は、精神的意味にあり、5つの象徴には、本来、それぞれ精神的意味が隠されているわけで、それが、例えば、「庚」という漢字を用いて示されるわけで、西洋の占星術では、例えば、火星は、「闘争や自己主張」というような意味をもちます。 ちなみに「庚」の意味は、「継承、更新」というもので、ウイキペディアをみればわかりますが、植物の生長でいえば、生長が次第に緩やかに停止しながら、新たな展開を示す状態になります。 つまり植物の生長は太陽光に由来するので、太陽光の状態を植物の生長で表わしたのが干支の干です。対して干支の支は、動物の気性で表現しているわけです。動物も植物も太陽光がないと生きていけないわけで、人間は太陽を拝むことで、地面から立ち、両手を解放し、自由な活動ができるわけです。 要するに、東洋も、西洋も、この宇宙の創造活動の精神的意味を、太陽と月と5つの天体の軌道構成に求めているのです。 だから、地球上の事象も、この7つの天体の軌道から生まれるものとしているわけで、勿論、地球自体も、7つの天体の特性を秘めているわけです。 更にいうなら、太陽の光が生命の根源で、太陽光が、他の天体や、特に月に反射され、地球に届く色合いにより、地球上の全事象が誘発されるという理論なわけです。 それに黄道を加えると西洋は12星座となり、東洋では、アトランティス時代の影響が濃く、月の影響を過大視している特徴があります。 干支の干(幹)の説明が長くなりましたが、今度は12支、つまり「寅」の解説にうつります。 「寅」は掌を合わせた形から生まれた文字だそうで、「畏れつつしむ」という畏敬の念を現すようです。 「触らぬ神に祟りなし」というように、畏れつつしんで、感謝の敬意を表している間は「寅」ですが、蔑ろにしたり、利用しようとしたり、不敬を行うと、「虎」という獰猛な獣に変わります。 つまり、「寅」というのは、強烈な変化のエネルギーのような存在を表わすようです。だから人間でいうなら、善に転化するなら聖人ですが、悪に転化するなら極悪人になるわけです。 だから、今年は非常に重要なターニングポイントとなる年といえそうです。 特に、中国で、眠れる獅子を目覚めさせるかどうか、良き方向に目覚めさせることが世界の平和にとって重要になるでしょう。 さて東洋の十二支は、西洋では十二星座に相当するものでしょう。東洋も西洋も、太陽の黄道に由来するようです。 西洋では、黄道の一周をプラトン年の25800年とし、これは人間の心拍数(脈拍)と関係がある数ですが、12で割ると、つまり1星座あたり、約2000年になるわけで、2000年毎に星座が交代し、更に7分割すると、約300年となるが、300年毎に天使長(天使長)が交代するといわれています。 シュタイナーによると、 BC200- 150年 オリフィエル 土星 150- 500年 アナエル 金星 500- 850年 ザカリエル 木星 850-1190年 ラファエル 水星 1190-1510年 サマエル 火星 1510-1879年 ガブリエル 月 1879-2233或いは2300 ミカエル 太陽 で、2233もしくは2300年頃に再び、オリフィエルの統治となるといいます。 大天使というのは、シュタイナーの講義のまとめからわかるように、光を司る精神的存在で、太陽光の趣が変わるのではないかと思います。 人智学によると、これまで2度の破局があったようです。1度目は、火の破局と呼ばれる。いまでいう火山の噴火で、レムリア期の終末にあったようです。2度目は、聖書のノアの箱舟で有名な大洪水で、アトランティス期の終末にあったようです。 そして、3度目は諸説ありますが、地球の物質的部分が消滅するような破局のようです。火の破局により、水が生まれ、水の破局により、土、つまり固体や金属の物質が生まれたわけで、今度は、土の破局、つまり物質崩壊がはじまりつつあります。そして、土の叡智を保ちつつ、水、つまり液体に帰していくわけです。 西洋の錬金術では、水とは水銀のことを意味し、マーキュリーなので水星です。メリクリウスでもあり、治癒力をも表わします。水銀といっても、液体金属の水銀だけを表わすのではなく、金属が溶けた状態、液体全般を意味します。つまり、土が崩壊し、液状の水になるということでしょう。 ちなみに、土とは固体であり、錬金術でいうなら、固体となった金属で、石でもあります。有名な「賢者の石」とか、「哲学の石」といわれる存在は、炭素のことだそうです。炭素は有機体の代表ですから、生命の根源であり、呼吸と深く関わっています。 呼吸活動を失い、つまり炭素を失うと、生命は死の状態、つまり無機になります。炭素を「賢者の石」とか、「哲学の石」とか呼ぶのは、つまり、炭素を失うと、生命でなくなり、かつ呼吸から、体内に、大気(霊)を取り入れることができなくなるので、思考能力を失うことになるからでしょう。 炭素化の反対が、燐化で、錬金術では、炭素化、つまり固体化と、燐化、つまり気化のバランスをとることが、液化、つまり、水銀をもたらすという表現で語られるようです。炭素は光合成と深く関わり、燐化は、人間の思考、つまり霊化と深く関わっています。 燐酸から燐酸塩鉱物のクリスタル、もしくは水晶(珪酸だが)が尊ばれるのは、思考の原点が霊化、つまり燐化にあるからでしょう。だから、クリスタルの水晶を、本当の「哲学の石」と呼ぶべきでしょう。 地球の物質崩壊が進むと、土から水になっていくわけで、人類はそのプロセスから叡智を発見することになるでしょう。 ある霊能者にいわせると、現在の太陽光の電磁波のエネルギーが次第に高まっていくようです。なので、電波障害がこれから頻発するようで、人体に対しては心筋梗塞が多発していくようです。勿論、それに伴って宇宙線等の放射線も地上に到来しやすくなるでしょう。放射線とは、物質崩壊の副産物ですから、放射能が高まりつつあることになります。 原子爆弾は物質崩壊を数秒間に凝縮させたものですが、それがアトランティス期の大洪水と同じように、徐々に次第に起こっていくわけです。 すでにその予兆は経済崩壊とともに現れてきています。 新年早々から、驚かせるような話をしても迷惑千番でしょうが、物質志向から、再び精神志向、精神主義を取り戻す指標となればよいと思います。 周知のように、遺伝子は核酸を用いた一種の記号です。記号は言語と同じように、特性や個性、つまり精神的内容を表現するものです。 遺伝子が、人間というミクロコスモスを記述する言語であるなら、陰陽五行や西洋占星術は、マクロコスモスである太陽系を記述する遺伝子ともいえるものでしょう。 つまり、人体を記述する遺伝子記号が、肉体であるなら、太陽系を記述する天体記号が、霊魂となるわけです。 キリスト教では、土から水に移るプロセスを、キリストの復活として表現しています。人智学によれば、キリストとは、太陽霊のことで、霊魂の存在ですから、イエスとは別です。イエスは聖杯で、最も完成された肉体のことで、ヨハネのヨルダン川の水による洗礼により、イエスの肉体に、キリストの太陽霊が降臨したのが、イエス=キリストの誕生となり、それが1月6日だったわけです。 ヨルダン川は、アトランティスの大洪水に模され、水により救世主が生まれ、土に帰したが、人類の贖罪により、十字架刑による死を得て、再び水というエーテル体で蘇るわけです。聖書では、白い衣を纏うと表現します。肉体は失うが、高度な精神性、物質から得た死という叡智により光り輝くのです。 この象徴がクリスタルスカル、聖なる骸骨の意味、つまり死を克服した不死なる叡智に思います。 だから、物質崩壊は、人類を進化させるためには必要な出来事といえるでしょう。 汝、死を嘆くなかれ、死から学べ
2010年01月05日
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