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今日の人間が、精神について語るときは、せいぜい抽象的思考について語るだけだが、いまではその抽象的表明(思考)が、人間にとっての精神(霊)となっている。そして、人間にとって、これらの思考があまりに希薄になると、人間には言葉だけが残され、フリッツ・マウトナー(☆1)が行ったように『言語批判』を書くようなことになる。(☆1)フリッツ・マウトナー:Fritz Mauthner 1849ー1923 作家、哲学者。『言語批判論集』全3巻(シュトゥットガルト、1901)参照。 このような言語批判を通じて、それでなくても充分希薄になってしまった精神(霊)を、単なる抽象的思考へと完全に蒸発させてしまう可能性が出てくる。生まれつきの霊視(霊能力)に浸透された秘儀参入学は精神(霊)を抽象的思考のなかには見なかった。 秘儀参入学は精神(霊)を、形態のなかに見た。具象的で、具象の形態自身が語り、音を発するなかに見た。秘儀参入学は精神(霊)を、生きた活動のなかに見た。精神(霊)を、生きた活動のなかに見たことにより、物質や、骨、血液もまた精神(霊)において見ることができた。 この秘儀参入学においては、今日の骨格という考え、表象(イメージ)は存在しなかった。今日の骨格は、解剖学者、或いは生理学者や、計算を行う建築技師により、構築物のように見なされている。しかし、骨格は、本来そのようなものではない。この骨格というのは、いままで説明してきたように、鉱物質が熱エーテルにまで駆り立てられ、熱エーテルのなかに霊的ヒエラルキア(天使)の力が介入して、骨の形(フォルム)が構成されることにより、形成されるものである。 つまり、骨格を正しく見れる人に対しては、骨格は霊的な起源を、秘密糧に明かす。そして、実際、骨格を今日の形(フォルム)において、つまり今日の科学が観る形で、骨格を観る人は、「ここに印刷されたページがあり、そのページには、このような形の文字がある」、と言う人に似ている。 その人は、文字の形を書くが、その文字を読めないので読まない。その人は文字の形のなかに表現されている形態を、その根底にある意味に関係づけることなく、ただ文字の形を書くだけである。今日の解剖学者、自然研究者は、骨が示唆していることなど、あたかも何もないかのように、読めない骨を記述する。しかし、骨は、霊から発したその起源を仄めかしているのである。 物質の自然法則、エーテルの自然法則全てに関して、霊から発し、霊がその起源であるということが当てはまる。物質全ては、霊(精神)世界に関する文字のような存在なのである。物質全てを、霊界に由来する文字と解釈できてはじめて、上記のような事柄が理解できる。 けれども更に、人間の物質的な生体組織へと目を向けるとき、最初に知覚されるのは、あらゆる時代の秘儀参入者たちが(正に真の秘儀参入者であった人たちが)、霊界へと境界を越えて最初に知覚するもので、ゾッとするような、最初は容易に耐えられないようなものであると語ってきた領域に属するものである。 人間は大抵の場合、自分にとって努力する価値があると思われるものによって喜びを感じたいと思うものである。とはいえ、霊的現実、すなわち、真の現実に精通するなら、人は恐怖を通過して行く必要がある。 というのも、解剖学-生理学的に、眼前に置かれている人間の形姿に関して、この人間形姿は、霊界では、道徳的な冷酷さと憎悪である、2つの要素から構築されている、ということに気づくからである。 実際、我々人間は、魂のなかに、人間愛と熱、他の人間を理解しようとする、道徳熱への萌芽を有している。ところが、生体組織の固体の構成部分のなかには、道徳的な冷酷さを持っている。この冷酷さが、いわば霊界から、物質的な生体構成物を結びつけ、固める(造形)力となる。我々は、自らのなかに、憎悪への衝動を担っている。この憎悪への衝動が、霊界から血液の循環を引き起こすのである。 そして、我々人類は、非常に愛に満ちた魂、人間理解を切望する魂をもって、世界を進んでいく一方、他方で、魂は、潜在意識の底で、我々が肉体を担うことが可能な為に、身体のなかに流れ込み、衝動を与える冷酷さが潜んでいるのである。 始終、冷酷さについて語っているが、つまり、道徳的な冷酷さのことだが、ただし、この冷酷さは、熱エーテルという迂回路を経て、物質的な冷酷さに移行できる。我々人間の底深く、潜在意識には道徳的な冷酷さと憎悪が潜み、人間が、魂のなかに、体内に潜む冷酷さと憎悪を持ち込むのは容易で、その結果、人間の魂が、いわば人間無理解を感染させられるようになる。 人間無理解への感染は、道徳的な冷酷さと人間憎悪の帰結である。このようなわけで、人間は道徳熱、すなわち人間理解と愛を、元からまず、自分のなかに育成しなければならない。肉体からやってくる冷酷さと憎悪を克服しなければならないからである。
2008年01月31日
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冷凍食品で、殺人未遂まがいの事件が起きた! 残留とはいえ、充分な検査をせずに、食品を流通させるのは、食品に毒物を混入するのと同じで、テロリストといってもよい行為といえるだろう。このような事件は、食に対する不安を煽り、生活を危険に曝すので、二度とあってはならないものである。 思えば、昨年、日本の政府は、日本の高額米を、中国に輸出し、宣伝を行った。汚職バンソコウ農林大臣が、テレビで宣伝していたのが記憶に新しい。そのような見返りに、農薬の基準を緩め、中国産農作物を安く輸入するような裏取引でもあったのではないかと勘ぐってしまう。 しかし、最近の自民党はまるで、ネオナチを思わせる悪道ぶりである。 全く自民党は、けしからん、国民生活破壊党と堕してしまっているのである。もはや、国家の危機といわねばならないだろう。 さっさと、衆院解散しろ!! 政治をみれば、ムカつくことばかりで、もう生きているのが嫌になる!! ふざけるな、テロリストジミン! 改革といいながら、地方を破壊し、市場を急激に開放し、ハゲタカを招き、中小企業を破壊した。 改革といいながら、格差を助長し、賃金を抑制し、社員の福祉を削減し、職のないニートを増やし、社会は混乱し、若者のモラルを低下させ、学生は、勉強どころか、オレオレ詐欺や遊びに夢中で、カネさえあれば何でもできるというような錯覚を宣伝し、人格を破壊した。 三位一体改革とは、教育、経済、法律の破壊であった!! そして、海外派兵で、憲法までも破壊しようとした!!! 国民の貯蓄である郵政を、民営化で破壊し、今度は、国民の年金を破壊しようとしている。 テロリスト、ジミンの悪道ぶりは、枚挙に暇がない。 多くの自殺者を生み、命を奪ってきたテロリスト、ジミン!! マスコミを操って、我がもの顔で、好き勝手やるのはいい加減にして欲しい!! 国民はとうに愛想を尽かして、何も期待などしていない。政治家をテレビでみるのに、飽き飽きしているだけなのだ! だから、芸能人を政治家にしてしまうのだよ!!! 国民生活の敵、日本人の敵、人類の敵、ジミン、残留農薬の毒の如く、吐き気がするぞ!! 日本国民総一億皆、大坂を発症にして、食中毒に罹ってしまうのか?
2008年01月30日
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人体組織において、外界-自然のものが、いかに変化させられるか、例えば熱エーテルにまで変化する鉱物質の場合、非常に激しい変化だが、この事がわかると、自然のなかの人間、有機的に組織された人間のなかに生きているものが、いかに霊的(精神的)なものと、つながっているかも認められる。 例えば解剖学や生理学に関する一般的な教科書にある構図に従い、通常一般的に考えられているように、人間というのは固い(固体の)構築物であり、外界に在る自然成分を摂取し、体内では、摂取物をほとんど変化させないままに留めるように想定するなら、人体に対して、始終悩むことになるのは当然で、自然界のなかの、人間外のものから、人間が、本質的な魂に従い、結びつける人間内のものへと、架けるべき橋が欠けていることになる。 それでは、固い物体(固体)のようにみえる骨組織、筋肉組織と、例えば、道徳的な宇宙秩序との結びつきを見出すことはできない。人は次のようにいう、「一方は正しく自然であり、他方は自然とは全く異なるものである」、と。 しかし、人間のなかには、あらゆる種類の(霊)実質が存在し、筋肉と骨よりも、更に揮発的な種類の実質を経る必要がある、ということを明確に理解するなら、揮発的、エーテル的なものは、道徳的宇宙秩序の衝動と結びつくことができるということが認められるだろう。 既に、これまで行ってきた考察を、人間が上方に向かって有する結びつき、つまり、宇宙霊、高次ヒエラルキア(天使)存在たちと、みなせる存在たちに向かって有する結びつきにまで導くなら、以上のような考えを引き継ぐ必要がある。 そこで、今までの要約では、むしろ自然から出発したが、今度は、人間のなかで、精神(霊)-道徳的に作用するものを考察していく。 精神(霊)、道徳というのは、現代の文明にとっては実際、既に多少、慣習を表わす概念になってしまっている。人間の本質において、道徳-精神の根源的な基本的感情は次第に衰退していった。現代文明は例えば、その教育全てに従って、益々、次のような問いを行うように指示する、「一般に通用しているものは何か、慣習的に定着しているものは何か、掟とは何か、法とは何か」等々である。 現代文明は、人間から正に衝動として、例えば、よく漠然と、良心の赴くところに根付く衝動として発するものに向かうことが、少なくなっている。現代文明において、益々衰退していったものは、この内的な自己自身への方向付けと、目標設定である。なので、結局、精神-道徳は、今日多少なりとも慣習-伝統のなかに生きるものになってしまった。 古代の世界観、特にまだ生まれついての霊視(霊能力)に支えられていた世界観は、人間の内部から道徳的衝動を、成熟した道徳的衝動を引き出した。このような道徳的衝動は、いまでも存在しているが、今日では伝統的なものになってしまった。例えば、道徳が、非常に伝統的なものになってしまったことについて、明白に理解すべきである。 勿論、その事から、道徳に関する伝統に対して、異論を述べるわけではない。ただ、熟考すれば、十戒は、一体、どれ位、古いものなのかがわかる。十戒は古代から記録されてきたものだと教えられている。 根源的、基本的な人間本性から、かつてのデカローク(十戒)のように、湧き出てくるものが、今日でも普通に見られると、現代人は果たして言えるだろうか。そして、人間たちを社会的に結びつけ、人から人へと社会的な糸をつなぐ道徳-精神は、一体何から湧き出てくるのか。 人類における道徳-精神の本質的源泉として存在するものは、人間理解としてのみ呼べるもので、いわゆる相互の人間理解、そして、この人間の理解に基づく人間愛なのである。 社会生活において役割を果たしている、人間の道徳-精神的衝動が成立する際、猶もよく、見廻してみるとよい。このような道徳的衝動が基本的に人類から発した場所の至る所で、道徳が人間理解と人間愛から生じたということを見出すだろう。 後者、つまり人間理解と人間愛は本来、人類の内部で、社会的に精神-道徳を促進させるものである。そして根本において人間が、精神(霊)存在である限り、人間理解と人間愛を発達させることにより唯一、他の人間たちの間で生きることができる。 さて、いま意味深い問いを投げかけた。確かに、この問いが常に問われるわけではないが、正にいま問われた問いに対して、誰もが口先まで出かかる問い、つまり、「人間愛と人間理解が人間の共生の本来の衝動であるなら、一体、その反対の、人間無理解と人間憎悪が、どうして、我々の社会秩序の内部に生じることになったのか」、という問いが生まれるだろう。 この問いは、あらゆる人間のなかでも、正に秘儀参入者たちの最大関心事の問いである。秘儀参入学は、原初、あらゆる時代に、この問いを正に最重要の問いとみなしていた。しかし、秘儀参入学は、原初ではまだ、この問い解明の背後に到達できる、ある種の手段をもっていた。 今日通用している科学を眺めると、人間を観察するとき(神に創造された魂には、本来人間理解と人間愛の素質があるわけだから)、実際次のように問いかけることになる、「人間理解と人間愛が自明のものとして社会秩序の内部で働かないのは一体何故なのか、人間無理解と人間憎悪は一体何処からやってくるのか」、と。 そして、人間無理解と人間憎悪を、精神(霊)、魂のなかに捜すことができなければ、我々人間は、自ずと、これを物質-身体のなかに捜さなくてはならない。 とはいっても、今日通用している科学でも、人間の物質-身体、血液、神経、筋肉、骨とは本来、何であるのかを、答えているが、1つの骨をどんなに長いこと眺めることができても、今日の自然科学の目だけで見るなら、「骨が人間を憎悪へと誘惑するものの正体である」、と言うことはできないだろう。 或いは、今日調べられているような原理に従って、どんなに血液を調べることができても、その手法では、この血液が人間を人間無理解へと誘惑する正体であると確認することはできないだろう。 秘儀参入学が原初の状態であった時代においては、勿論、全く異なっていた。その頃、人間の物質-身体を眺めると、生まれつきの霊視(霊能力)によって、精神(霊)の対応像が得られたのである。
2008年01月30日
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歳をとってからは、頭部以外の生体組織全体が形成力を放射しなくてはならない。そして、この頭部以外の生体組織にとっての形成諸力は、全く特殊に、頭部とは異なる作用の摂取により、推進性が促進される。 頭は丸く閉じられている。この頭のなかには身体形成のための子供の衝動がある。頭部以外の身体では、内部に骨があり、形成力は骨の外にある。骨の外では、形成力は、外から刺激される。人間にミルクを摂取させると、幼児のうちは、頭のなかの形成力が刺激されるが、幼児でなくなると、その形成力は無くなる。 では、この形成力を、外から刺激できる為には、一体何をすべきか? 頭が頭蓋冠により閉鎖されていることにより、頭が完全に内部で行うことを、外(界)的な形で持つことができるなら、つまり頭がその内部で行うことが、何処か外から(外界で)なされるならよい。 内部にある形成力は、ミルク摂取に対して良い。エーテルに変化したミルクが内部にあるとき、ミルクは、頭の力を発達させる為に、最適な基礎を与える。例えば、ミルクのような食物が必要だが、人間の内部で製造されず、外から製造される食物でなければならない。 自然のなかには、頭蓋冠のない頭が存在し、そこでは、頭の内部の作用と同じ力、つまりミルクを必要とし、ミルクを再び生み出す力、その再生力は、幼児が、ミルクをまず熱エーテルの状態に移行させ、熱エーテルから、またミルクを作り出すが、そのような内部作用と同じ力が、外界に作用している。 さて、実は、このあらゆる方向に開いている頭というのは、蜂の巣のことなのである。 蜂の営みは本質的には、人間の頭が内部で営んでいる事と同じことなのだが、ただし、それは外界にある。人間は、養蜂の際に、蜂の支えとして、せいぜい巣箱を与えることしかできないが、巣箱は閉じておらず、外から作用するものである。 更に蜂の巣の内部には、外的な霊の影響下に、人間の頭の中での霊の影響下にある作用と同じ作用がある。蜂の巣の内部には蜂蜜があり、人間が蜂蜜を摂取し、年配になってから蜂蜜を食べると、蜂蜜は、外から形成力を与える必要に応じて、幼児期には、頭の為に、ミルクが与えてくれた形成力と同じ力を与えてくれる。 つまり、幼児期には、ミルク摂取により、頭部の造形力を促進し、後の年齢にも猶、造形力が必要なときは、蜂蜜を食べればよい。とはいえ、蜂蜜を多量に食べる必要はなく、要は、蜂蜜から形成力をとれる分量だけとればよい。 このように、外なる自然を完全に理解すれば、人間の生命に、どうやって促進衝動を供給すべきか、外なる自然から見て取ることができる。 それでは、美しい幼児(子供)たちと、年老いた美しい人々のいる国を想像するなら、どんな国でなければならないか。 それは「乳と蜜の流れる」国(*1)でなくてはならない! 古い本能的な見力が、人々の憧れる、そのような国々について語ったのも不当なことではなく、それは「乳と蜜の流れる」国々なのである。 (*1)「乳と蜜の流れる」国:旧約聖書「出エジプト記」3-8など。モーゼがエジプトからイスラエルの民を導いていく土地についてこの表現が与えられている。 このような単純な言葉が、途方もなく深い叡智を含むことがあり、そして、まずは可能な限り、力を尽くして真実を探究し、「乳と蜜の流れる」国に関するような深い叡智の充溢した太古の聖なる真理の言葉を、見出すこと以上に素晴らしい体験はない。というのも、実に、美しい子供たちと美しい老人たちだけがいる国は類稀なる国だからである。 人間を理解するには、自然を理解することが前提となっている。自然の理解は、人間理解のための基礎を与える。そこでは常に、最下位の物質が、最高位の精神(霊)にまで通じ、自然界、鉱物界、動物界、植物界が一方の下位の極に、ヒエラルキア(天使)が他方の上位の極にある。
2008年01月29日
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ここで、魂で語る他はない問題が始まる。というのも、人智学は決して熱狂的に、ある事柄を支持するものではなく、正に真実を提示するものだからである。当人が自分の生活の為に、どんな結論を導き出すかは、当人の問題で、人智学は規定を与えるのではなく、真実を語るものだからである。 なので、決して、ファナティック(狂信的)な人の為に、植物を食することや、動物がもたらす食物から導かれる、いわば戒律を提示することはない。つまり、このような観点から、戒律的に菜食主義や、肉食他について述べるつもりはなく、このような事柄は徹頭徹尾、各自が考慮検討する領域に置かれなければならず、各自の体験領域に置かれるときだけ、本質的に価値があることだからである。 このように述べるのも、人智学とは、何らかの食餌法等を支持するものであるという意見が出てこないようにする為で、事実、人智学は、あらゆる種類の食餌法の理解を生じさせるだけに止まる。 しかし、いま正に示すべき事は、鉱物質が、霊性を受容できるには、人間は、鉱物を熱エーテルにまで駆り立てる必要がある、ということだった。そして、霊性の受容の後、鉱物質から人間が構築される。 人間が幼児のとき、以前述べたように、人間には、まだ全く鉱物質を、熱エーテルにまで駆り立てる力がない。人間は、幼児期には、ミルクを自分のなかに摂取する必要があるので、予めミルクの準備がなされ、ミルクには、既にその変化が起こり、その為、熱エーテルに変化する必要のあるものが容易に変化させられるので、幼児の場合、飲まれたミルクは、その力と共に、素早く頭へと注ぎ込み、幼児に必要な(霊的)フォルムの形成の衝動を、頭から発達させることができる。なぜなら幼児の生体組織形成全体は頭から発していくからである。 人間が、このフォルム形成の力を、後の年齢(特に老年期)においても保持しようとするなら、ミルク摂取を促進することは良くない。というのも、幼児の場合、(ミルクが)頭まで行って、歯の生え替わりまでに、存在する頭の力により、形成しながら全身に放射していくことが可能だが、その後の歳をとってからの人間には、この力がもはや存在しないからである。
2008年01月28日
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動物質に近づくとき、明白に理解すべきことは、動物質自身が、まず消化を行うということで、動物質がまず植物質を摂取するということである。草食動物を見てみる。動物質は、自らのうちに植物質を摂取する。 また、この事は非常に複雑なプロセスである。というのも、動物が植物質を自らのうちに摂取するだけでは、動物は、植物に(相反する)人間的形態を対置することができないからである。従って、動物のなかでは植物質のものは下から上へ、上から下へと転ずることができない。 動物の脊柱は地球の表面に平行である。そのため、消化の際に、生じるのは、動物のなかでは、全くの無秩序状態になることである。そこでは下のものが上へ、上のものが下へ行こうとするのだが、(脊柱が地と平行なので)停滞してしまい、自身のなかで停滞してしまい、だから、動物の消化は人間の消化とは本質的に異なったものになる。 動物の消化の場合、植物のなかに生きる植物質は停滞し、その帰結として、動物の場合、植物存在に対して、「お前は宇宙の彼方へのお前の憧れを満足させてもよい」、という約束がなされるが、動物には、この約束を守ることができないのである。だから、動物の場合、植物は再び地へと投げ返される。 しかし、上下の逆転が起こる人間の場合のように、上から宇宙霊たちが、その力と同時に進入する代わりに、動物の場合、動物の生体組織のなかで、植物が地に投げ返されることにより、すぐに、植物のなかに、ある元素霊たちが進入する。 これらの元素霊たちは、不安(恐れ)の霊たち、不安(恐れ)の担い手たちである。従って、霊観照において、この奇妙な事柄を追求する必要がある。 霊観照では、動物は自ら食物を取り、内的な心地良さのうちに食物を取るので、一方に食物の流れの方向があり、他方では、不安(恐れ)の元素霊たちの不安(恐れ)の流れが、食物の流れに向かっていく。つまり、消化の方向に絶えず動物の消化管を貫いて、食物摂取の満足感が流れ、この消化に相対して、不安(恐れ)の元素霊の恐ろしい流れがやってくるのである。 これらの流れの合流も、動物たちが死ぬときに、後に残していくものである。つまり、既に別様に述べた、進化の下層に属さない動物たち、更に例えば四つ足の哺乳動物に属する動物たちにも、この事はあてはまり、これらの動物が死ぬことで、その死において、もっぱら不安(恐れ)から構成された存在が、常に死ぬので、かえって、不安(恐れ)が「甦る」のである。 動物と共に不安(恐れ)は死ぬということは、すなわち不安(恐れ)が甦るということである。肉食獣の場合、既に不安(恐れ)を一緒に食べていることになる(草食動物の不安(恐れ)もろとも)。肉食獣は獲物を引き裂き、満足感をもって肉を食べる。肉食への満足感に対抗して、不安や、恐怖が流れ込み、この恐怖を、植物を食べる動物たちは死に際して、はじめて自分から発するが、肉食動物は生きているうちに既に流出させるのである。 従って、ライオン、トラといった動物たちは、アストラル体が不安(恐れ)に浸透され、この不安(恐れ)を、生きているうちには感じないが、死んだ後、正にその満足感に対抗して、不安(恐れ)がやってくるので、この不安と闘う。なので、肉食動物たちは、その集合魂において、猶も死後の生を、人間が死後経ていくものよりも、遙かに恐ろしいカマローカ(欲界)の死後生を送るが、それは肉食動物が、既に有する、この性質故である。 このような事柄を、別意識でも、体験できると想像するだろう。即座に、唯物論的に、(人間)自身を動物の立場に置くことにより、肉食動物がどんなことを体験せねばならないか、と考え始めるなら、また、このようなカマローカ(欲界)は、我々人間にとってどういうものかと考えるなら、また更に、このようなカマローカ(欲界)が、人間にとって、どのようなものであり得るかということに従い、肉食動物を判断し始めるなら、言うまでもなく、そのような思考こそが唯物論なので、実際、動物崇拝的になり、人間は、唯物論の思考から、動物の性質に身を置くことになる。 世界(宇宙)を理解するなら、上記のような事柄を理解すべきなのは確かだが、唯物論者が全宇宙に対して生命無き物質に感情移入するように、いわば、このような事柄に感情移入してはならない。
2008年01月24日
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ここで植物はある特殊なプロセスを経ていく。人間が植物質を食べるとき、以下のようなことが起こり、この事を図的に描いてみる。 「根があり、根から葉を経て、花に向かっていくものがあり、次いで、この植物のものが空気になる際に、内的に植物存在が完全に逆転するということが体験できる。」 根は、正しく地中で生き、地に繋がれていることにより、(人体内では)上昇を目指す、根は極めて強く上の霊的なものを目指し、花の努力を引き離す。事実、外界では、下へと展開していく植物(の根)を思い描くなら、人間は、この下方の根を、(人体内の)中へと摂取でき、その結果、上へと展開する花が下に、下へと展開する根が上になり、いわば[裏返されたハンカチ]となる。 外界の植物は(人体内とは)完全に逆転している。 植物は、(霊)自身のなかでは、下のものが上に、上のものが下になるように自らを形成する。既に開花までに成長した花は、いわば物質的な要求のなかで光を食し、物質を光にまで上昇させたといえる。 光を食し、物質を光まで上昇させたことによって、花は、天には行けずに、今も猶、下方の地に留まらなければならないという罰を受けている。根は地上の奴隷だったが、ゲーテの植物のメタモルフォーゼ論〈☆1〉からわかるように、根は同時に自らのうちに植物の全本性を担い、それ故、根は上方を目指すようになる。 (☆1)ゲーテの植物のメタモルフォーゼ論:ゲーテ『植物のメタモルフォーゼ(変態)』(J・W・ゲーテ『自然科学論文集』所収)参照のこと。 人間が頑固な罪人であるなら、人間は罪人のままでいることを続ける。 (人間は過ちを犯す存在が故に、人間は過ちを続けようとするというカルマ論を展開できる。) 植物の根は、地に繋がれている限り、太った銀行家の印象を与えるが、人間に食べられると即座に根は変化させられ、上を目指す、一方で、物質を光へと至らせたもの、つまり花は、下に留まらなければならない。 なので、植物における根には本来、(人間に)食べられると、根自身の性質に従って、人間の頭を目指していくが、他方、花に向かうものは、下位の領域に留まり、腹部の全新陳代謝に留まり、頭部形成まで上昇することはない。 このように、植物は、人間が逆さまになった存在であるという、奇妙で不思議な光景が得られ、人間が植物質を食べるとき(勿論、植物全体を食べる必要はなく、植物のどの個々の部分も植物全体を含んでいる)、つまり、人間が植物を食べるとき、植物は人間のなかで空気へと変化する、上から下へと植物的に進んでいき、上から下へ向かっていわば花を咲かせるような空気へと変化する光景となる。 古代人の生まれつきの霊視力により、このような事柄が知られていた時代には、植物はその外的性質に応じて、人間の頭にとって、植物の何が有用で、何が毒であるか、或いは霊への憧れを強く持つことを、その根が既に告げたかどうかが、吟味されていた。 そして、植物として食された植物質は、いわば完全な消化において人間の頭を訪れ、頭の中へと進入していき、そこで霊的(精神的)宇宙を求めて上昇し、宇宙との必要な結びつきに入っていく。 既にアストラルに強く浸透されている、例えば莢果{エンドウなどの豆科植物の実}のような植物の場合、その実さえも下(地)の領域に留まり、頭まで上昇しないので、睡眠を、ボンヤリとしたものにし、同時に人間が目覚めているときでも頭をボンヤリとさせる。ピュタゴラス学派の人々(☆2)は、純粋な思考者でいたかったので、頭部機能において、消化の助けを借りようとはしなかったので、豆を禁じていたのである。(☆2)ピュタゴラス学派の人々:ピュタゴラスによってクロトン(南イタリア)に組織された倫理的-宗教的生活形式のための教団。その閉鎖的な貴族的保守的立場のために迫害されたが、4世紀初頭まで存続した。アリストテレスは、ピュタゴラス派は数学と真剣に取り組んだ最初の人々だった、と伝えた。オルフェウス教徒にならってピュタゴラス学派の人々は、魂の輪廻と再来を教えた。 このように、自然のなかに存在するものと、人間的なものとの関連、人間において起こる事との関連を予感できる。本質的に、精神的(霊的)参入学を持てば、唯物論的科学が人間の消化の場合(確かに牛の消化の場合は人間とは異なるが、これは後述する)、植物質が単に摂取されるという考えだけで、矛盾なく説明できるのが、不思議に思えるだろう。 植物質は単に摂取されるだけでなく、残らず霊化される。植物質は自身のなかで、最も下のものが最も上へ、最も上のものが最も下へと転じられるように形成される。これ以上に大きな作り変えは考えられない。 そして人間は、最も下のものが最も上へと、最も上のものが最も下へと転じられていない植物(人体のなかで、下の根は上へと、上の花は下へと逆転すること)の僅かな少量でも食べるなら、直ぐに病気になるだろう。 このようなことから、人間は霊(精神)が作り出さないものは、何も自らのうちにもたない、ということがわかる。というのも、人間が物質として摂取するもの、人間は、これにまず1つの形(フォルム)を与えねばならず、その結果、霊(精神)が、それに影響を及ぼすことができる。
2008年01月23日
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ブッシュが景気対策を発表してから、失望売りが続いている。911後の株安よりも下落しているというのである。 米国発の世界同時株安不況が深刻化しているのである。 科学的にいうなら、ブッシュこそ、ビンラディンを上回る経済テロリストといわねばならないだろう。 「テロリストに死の報復を!」というのなら、ブッシュこそ、首を吊って自殺すべきであろうが、キリスト教信者であるらしいから、自殺は厳禁というだろうが、その前に、低能さと鈍感さが、救いになってくれるだろう。 勝海舟は、「すぐに効果が知れる(わかる)ような政策ほど、ダメなものはない」といっている。 だから、短気で、気の早い、せっかちな日本人に効果がすぐわかるような政策は、下策ともいってる。 そこいくと、出されたそのときは一見、馬鹿なのか、賢いのか、全くの見当のつかない政策ほど、100年立ってようやくわかるというような政策が、上策なんだというのである。 ブッシュの政策など、発せられる前から、市場原理で先へ先へと進んでしまっているから、何をやろうが、幻滅されるのがオチというとこなのだろう。 「慌てるブッシュは、もらいが少ない」わけなのである。 いやはや、このようなブッシュにオベッカ使って、追随してきたボンクラ日本人は、一体、何なのだろうか? キャッチボールまでして、喜んでた超鈍感売国政治家と、途中で投げ出して、病院に引き篭もったお坊ちゃん二世政治家やら、汚職がバレて、逃げ隠れする恥曝し大臣やら、この国の品格なんて、ちゃんちゃらおかしいぜ! まぁ、どうせ、株なんて、金持ちしかやってないんだから、損するだけ損しちまいなって! 問題は、生活苦にあるわけで、株なんて虚業は廃業しちまって、あくまで、実体経済本位に戻ることだと思うがね。 大体が、民営化、民営化で、なんでも、紙の株券にしちまうのが問題なんだよ! 民営化してよくなったというのは、宣伝にすぎないな。ただ、金持ちの懐を賑わすだけだね。近くのバス会社なんか、民間より、市営の方が時刻表に正確にくるからね。 民営化してしまうと、報酬が出ないと、仕事やる気が出なくなるんだね。報酬出ても、上前え、はねあげられるから、働いても貧乏から抜けられないわけだよ。 要するに、資本主義の首狩り族の横行になるわけだね。だから、皆、偽装に走るわけだよね。報酬が出ているように見せ掛けて、偽装するわけだよ。 真剣に考えてみれば、人間には限度ってもんがあるよ! そうそう、毎日、毎晩、成果を上げられるわけがないね。 しかし、市場には、首狩り族がウヨウヨしているわけだ! こいつら、生き血を吸う連中をなんとかしないといけないな。市場には吸血鬼が蔓延ってるからね。 ともかく、実体経済に戻ることだね。英米は手詰まりってことだと思う。 だから、ブッシュのような至上最大の経済テロリストが生まれてしまうんだね。
2008年01月22日
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地球の進化史において、植物の根の中に存在する素養は、常に、月がまだ地球と一緒だった時代に、素質を与えられたということに至れるなら、なぜそのような素養なのかの理解を学ぶ必要がある。月がまだ地球と共にあった時代には、地球体内部の月に固定された力が、非常に強く作用した為、植物を、ほとんど根だけにしてしまったのである。 月がまだ、地球のなかにあって、地球が、いまとは全く異なった実質をもっていたとき、植物の根は非常に力強く下方に向かって伸びていた。この事は、いわば次のように言うことができる、 「下へ向かって植物-根が力強く伸びていた。そして上に向かっては、植物は宇宙万有を仰ぎ見ていただけだった」と。 細かい繊毛のように、植物は宇宙万有への衝動を送り出していた。だから、次のように感じられる、 「月がまだ地球と共にある間、この月は、地球体のなかに含まれていた。この月の諸力は、植物を地上に繋ぎ止める」、と。 そして、当時植物のなかに移し入れられた素質が、その後も、植物の中に原基となって留まり続けた。 ところが、月が地球を去った時期以来、植物の以前の小さな僅かな衝動が、遥かな宇宙を伺い見る衝動のうちに、彼方への憧れ、宇宙万有の光の彼方への憧れが開き、そして、花が生まれた。だから、いわば、植物界にとって、月が出ていくことは一種の解放、正に解放だった。 とはいえ、この場合も、注目すべきことは、地上のものは全て、霊のなかに起源を持つということである。 古い土星の時代(著書『神秘学概論』での記述を参照)地球は完全に霊的で、ただ熱エーテル的な要素のなかにのみ生き、全くの霊体であった。地上は霊から形成されてきたというわけである。 さて植物を見れば、植物は、その形態のなかに、生き生きとした進化の記憶を携えている。植物はその根のなかに、地球になること、物質的-素材的になることを担っている。植物の根を見ると、更に気づく、 「霊性から、地上的-物質的なものが発生したことにより、植物は生成できた」と、植物は語っている。 けれど、地球が月の重荷から解放されるとすぐに、植物はまた光の彼方に戻ろうと努める。 さて、我々人間が植物質を、食物として摂取するとき、植物が外界の自然において、既に始めたことを正しく継続する機会、それは宇宙の光の彼方だけでなく、宇宙の霊の彼方にも戻ろうと努める機会が、植物に与えられる。 従って、我々人間は、以前述べたように、植物質を、空気の性質へ、ガス的なものにまで駆り立てなければならず、植物質が光-霊の彼方への憧れに従うことができるようにしなければならない。 人間は、草原に出かけ、草花、植物の花々から、それらが光を求めていることを見て取る。人間は植物を食べる。人間はその内部に、外の環境とは全く異なる世界をもっている。植物が外部で、花々のなかに憧れとして顕現させているものを、人間は自分のなかで成就させることができる。 (植物は、人間のなかで、消化され、光を含んだ空気になり、天の霊性と呼応して昇天する) 我々人間は、自然のなかに広がっている植物の憧れの世界を見る。我々人間は植物を食べ、この憧れを、人体のなかで精神的(霊的)世界に対峙させる。我々人間は、植物がより軽い空気界のなかで精神的(霊的)なものに向かっていく可能性が得られるように、植物を空気界へと高めなければならない。
2008年01月22日
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シュタイナーの著書「医学は霊学から何を得ることができるか」は、非常にお薦めの書籍です。人間がなぜ、病気に罹り、病気の治療には何が必要なのかを概括する総論みたいなものだからです。 人体は、肉体だけでなく、人智学用語でいう、自我(霊)、アストラル体(魂)、エーテル体、肉体の4つの構成体からなっているとし、霊、魂、肉体の三位一体の原理を説いています。エーテル体は、霊魂と肉体をつなぐ糊や接着剤のようなもので、東洋哲学でいう「気」にあたります。 霊、魂、肉体の三位一体の原理は、肉体の部分に、それぞれ特徴を形成し、大まかにいえば、主に、自我が血液、アストラル体が神経、エーテル体が腺全般を支配し、人間を、頭部の神経組織、胸部の律動(リズム)組織、腹部と四肢の新陳代謝組織に三分割していることがわかると説く。 同時に、肉体とエーテル体は、構築の働きを司り、アストラル体と自我は、破壊の働きを司り、人体の健康は、これらの構築と、破壊のバランス、つまり均衡が保たれることにより成立すると説く。 今日の生理学では、呼吸プロセスは、単なる酸素を吸い取り、炭酸を吐き出すプロセスとし、空気中の酸素を取り入れ、血液中の炭素と結びつけるものであるとしているが、実は、このプロセスは人間の主に下半身だけのもので、これには、別のプロセスが結びついており、そのプロセスとは、酸素を、二酸化珪素に化合し、珪酸をつくる働きだという。 つまり、代謝系にとっては炭酸の生産だが、神経にとっては、珪酸の生産が必要だというのである。珪酸は、感覚を得る為には、必須のものであるという。 この炭酸プロセスと珪酸プロセスの関係を、金属の作用から説いていくのが、中世の錬金術なのである。炭酸の炭素は、中世では、賢者の石と呼ばれた。 驚くべきことは、この錬金術が、実は治療法に結びついていることなのである。腫瘍と炎症の対極的な関係と、上部の炎症である、かつては枯れ草病といわれた、現在の花粉症は、果実の皮を、ホメオパシーを用いて適応することで、体質を改善させ、治療できるという。 いま、シュタイナー関連の医学書を漁り、要約中なので、そのうち、まとめて、このブログにて、紹介したいように思う。
2008年01月19日
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外の世界にある全ては、本来、人間にとっての毒、正しく毒であり、人間が人間自身の力を通じて、それを占有することによりはじめて、人間にとって有用なものとなる。 というのも、ただ人間だけによって、諸々の力は人間的な形で、高次ヒエラルキア(天使)のところまで上昇していく一方で、外界では、力は元素霊(自然)存在たち、自然霊たちの下に留まるからである。 人間にあっては、自然霊たちが人体組織のなかで、その仕事を高次ヒエラルキア(天使)に委託することができる。この驚くべき変化が起こらなければならない。この事は、鉱物質が、完全に熱エーテルに変化させられるときにだけ、鉱物質にもあてはまる。 植物界を見る。植物界について、人間が霊眼で、地球の植物の覆いを観察すると、実際、人間を様々に魅了するものを持っていることに気づく。草原、もしくは、どこか森のなかに出かけ、ある植物を根ごと掘り起こす。このとき、掘り起こした植物を、霊眼で眺めると、実際、素晴らしく魅惑的な構成体であることに気づく。 植物の根は、本質的に、正しく地の中で膨らむようなものであることが判明する。植物の根は、我々人間の前に、その粗野な姿を見せるほど、実際、恐ろしく、何か地のもの(地の力)であることがわかる。というのも、植物の根、特に、カブの根は、実際、常に肥えた銀行家を思い起こさせるからである。 そう、植物のカブの根は、大きく太って、自分に満足している。根は地の塩を自らのなかに摂取し、地を自分のなかに取り込んだ、という感情のなかで、心地よく感じている。本来、あらゆる地のもののうちで、このカブの根ほど満足しているものはなく、カブは根的なものの代表である。 対照的に、花を見てみる。霊眼で花に向き合うとき、本質的に、花を最も柔和な希望を宿しているときの人間の魂のように感じる。汚れのない春の花をみれば、根本的に、春の花は希望の息吹で、春の花は憧れの化身である。そして事実、我々人間が、繊細な魂の感覚を充分にもてば、周囲の花々の世界には何か驚くべきものが溢れ出していることに気づく。 春にスミレや、或いは例えば水仙や鈴蘭や黄色い花を咲かせる小植物を見て、それに心を奪われると、これら春に花咲く植物たちが、皆、次のように語りかけるようにみえる、 「ああ、人間よ、あなたたちは、望みや希望を、本当は、純粋に穢れなく、精神(霊)に向けることができるのだ!」と。 精神的(霊的)な希望の本性、もしくは敬虔さに身を沈めた希望とでも呼べるものが、春の花々のどれからも芽吹き萌え出てくる。 次いで、より遅咲きの花々に移る(早速、極端な、イヌサフランを取り上げる)。例えば、軽い恥じらいの感情を持つことなく、魂の感覚(心眼)により、イヌサフランを眺めることはできない。我々の希望が、不純になり得ることを、我々の希望が極めて様々な不純さに浸透されうることを、イヌサフランは警告している。 イヌサフランはあらゆる方向から、我々人間に向かって語りかけている。 あたかも我々に、「あなたの希望の世界を御覧なさい、おお人間よ、あなたは、なんと容易く罪人になることができるのか」、と絶えず囁きかけようとするかのように。 さてこのように、本来植物界は人間の良心を映す、外なる自然鏡なのである。内部の一点から発してくるような、この良心の声が、極めて様々な植物の花の形へと分かち、与えられていると考えること以上に詩的なものは、考えられない。 この様々な花の形が四季を通じて、このように我々の魂に語りかけ、極めて様々な形で魂に語りかける。植物界を正しく眺める術を知っていれば、植物界は拡張された良心の鏡であることに気がつく。 この事に注目するなら、植物の花を眺め、いかに花が、本質的に、宇宙万有の光の彼方(広がり)への憧れの化身であるか、地球の希望を宇宙万有の光の彼方に向けて流出させるために、花は、いかに形態的に、上方へと成長していくか、そして他方で、いかに太った根が植物を地に繋ぎ止めているか、つまり、いかに、根が、植物から絶え間なく天への希望を取り去り、それを大地の安楽さに形成し直そうとするものであるか、照合することが、我々人間にとって、とりわけ重要になる。
2008年01月17日
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「田中宇の国際ニュース解説」をメルマガしているのだが、ついに、英米覇権の地位が陥落寸前にきていることが、地球環境問題と共に自然破壊的に立証されてきている。 そのタイトルは、「イギリスの凋落」だが、サブプライム問題は、実は米国の問題というより、米国を操った黒幕の英国の問題で、その証拠は、米国以上に、英国の金融界が危機に陥っていることでわかるというのである。 これが本当なら、もはや代名詞ともなった、お馬鹿ブッシュを大統領にした、英国の油断にあるというものである。ブッシュは、至上最低の大統領で、英米の世界覇権を台無しにした愚か者として、アングロサクソン種の人類に永遠に刻印されるだろう。 以前、ブログにも書いたが、米国は、植民地という名の英国の実験場で、元々は、エリザベス女王の西インド会社であったことが、バックミンスターフラーの書から明らかになっている。(この手法を、日本は、満州国に応用しようとしたが、英米に見透かされ、潰されたのである。日本側は、英米の手法をただ真似ただけという感覚があったが、英米には、差別的に、生意気と捉えたのだろう。この事は、原爆投下で表明されたともいえる。) 英国は、歴史をみれば、独、露、中を、まるで包囲でもするかのように、植民地を築いてきたのである。NATO連合とは、共産主義陣営包囲網だが、共産主義を悪の代名詞として、取り囲んできたわけである。つまり、世界戦略を、囲碁でも行うかのように喩えて、取り囲んできたともいえる。 独にはナチス、露にはソ連、中には中共である。いずれも革命政権なのである。同じ革命政権でも、仏は微妙な立場で、いわば両党使いともいえる。この事は、右翼、左翼の呼び名は、仏のジャコンバン党に由来していることからもわかる。 英国独特のこの包囲戦略は、英国が元々、ブリテン諸島のバイキングの侵略により制圧されたことと、ギリシャ時代のスコラ派移民の新興(侵略的)宗教を模範とすることに由来しているように思える。この事は、英語という語学が、誰でも話せるように、文法が簡便化されていることで、よくわかる。 誰でも話せるとは、つまり、最も、使い勝手のよいOS(オペレーションシステム)であり、普及しやすく、逆にいえば、土着的な母国語を奪う特性を持っているといえる。 しかも、米国では、本来、英語は植民地語なのに、母国語のように錯覚している人も多い、まるで、英語を話すことに引け目を感じていないのである。英語の歴史を調べれば、英語は、高度な仏語を話せない人たちから、はじまったことがわかる。 英国独特の自分に都合のよく、利己に甘い、侵略的宗教ともいえるイデオロギーは、キリスト教から、プロテスタントを生む土台をつくったことからもわかる。キリスト教のなかでも最も顕教的傾向を帯びたイエズス会の流れが、プロテスタントを呼び寄せたように思えてならないのである。 その傾向は、顕著に金融経済政策に現れ、マックスウェーバーは、この点を指摘し、資本主義とプロテスタンティズムを説いたことは誰もが知るところである。 それは、プロテスタントのやり方が、イエズス会の布教活動に非常に類似していることでわかる。この事は経済活動の為に、信長が、イエズス会を優遇したのと、幕末にも、官軍が、イギリスとのつながり、特にプロテスタントを通じて、フリーメーソンとの関係が濃厚であったことがいまではわかっている。 日本での、この構図がわかれば、その縮図として、英国の世界戦略上の戦争が、いかに英国に都合の良いように行われてきたかがわかるだろう。アラブの地に火薬庫を誘発するようなイスラエルを建国したのも、英国である。 独にナチス、露にソ連、中に共産党を生んだのも、実は、英国の世界戦略構想のようにもみえる。ヒトラーは、実は、非常に親英的だったことが、その言動の記録からも伺えるのである。 かつて、英国は7つの海を支配するといわれたが、その栄華もいまでは遙か昔のことで、英米の覇権が、たった1人の米国の御馬鹿大統領に、簡単に崩されるというのも滑稽という他ないだろう。英国至上、最大で最低のブラックジョークといわねばならないだろう。 露、中、仏、独の巻き返しの時代が、本当にくるのだろうか? そのとき、それこそ、21世紀の経済ポールシフトとなるだろう。 そして、ローマは1日にして成らずだが、イギリスは馬鹿なブッシュ1人に滅ぼされた、という格言が、アラブ人により話されるだろう。
2008年01月16日
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人体組織が、外界からの摂取物を熱エーテルに変換できなければ、鉱物質は人体組織のなかに沈殿し、熱へと移行させられる前に、重い地球物質になってしまい。そして、人体組織に疎遠なままの無機的物質として人間の組織に残ることになる。 このような事が起こるのは、例えば、鉱物化されて(これは元々は有機的だが)、糖として人間のなかに生じるものを、人間が熱エーテルの揮発性にまで至らせることができないときである。すると、それは、全生体組織全てに関与していれば、もたらされるはずの状態(熱エーテル)になる前に、体組織のなかに沈殿し、厄介な糖尿病が起こる。 つまり、どの物質の場合にも、無生命体は、例えば、食塩を食べるときのように既に物質を形成しているか、砂糖の場合のように、後に無生命となるかいずれかだが、この無生命体を人体組織がどの程度、熱質料にまで至らせることができるかに注目し、この無生命体が熱質料にまで至るとき、地上に根を下ろした生体組織のなかで、霊的宇宙との結びつきを見出す。 糖尿病の場合に生じているような、人間のなかの未加工なままに留まっている沈殿はいずれも、その人間が自分のなかにある物質の為に、宇宙の霊性との結びつきを見出せないでいる、ということを意味している。 この事は、外から人間のなかに入るものは、内部で人間によって完全に加工し尽くされる必要がある、という普遍的原則の個別的適用の1つにすぎない。ある人の健康に配慮するならば、特に、外界にあるような状態のままに留まるもの、最も僅かな原子に至るまで人体組織によって、加工され得ないものは、何1つ人間のなかに入っていかないように注意を払わなければならない。この事は単に物質だけに関わることではなく、例えば力にも関係している。 外界の熱、物を掴むときに感じる熱、空気の持つ外的な熱、これらの熱は、それが人体組織により取り入れられるとき、変化させられ、実際に人間のなかの熱が、外界とは別レベルにあるような、状態になる。外界の熱が持っている熱レベルは、人間の体内に取り入れられると、内的に幾分変化させられなければならず、外界の熱のなかの、まだ体内の熱になっていない部分はどこでも、生体組織が介入していく。どんな最小の熱量にも生体組織が介入していく必要がある。 例えば、次のような場合を考える、 「寒いなかを歩き、寒気があまりに大きい為、もしくは寒気が空気の流れ(動き)や風となって揺らぐ為に、(人体に)必要とされるほど迅速に宇宙の熱を、自身の熱に変化させることができない」、と。 この場合、(人体はいわば)外から暖められる一個の木材か、石のように宇宙の熱により暖められる、という危険に陥る。 外界の熱を単に客体のように、自らのなかに流入させるという危険に曝されてはならない。あらゆる瞬間毎に、皮膚の位置(内側)から、ただちに熱を捉え、自身の熱とする状態にならなければならない。それができないと、風邪をひくのである。 これが風邪の内的な経過である。風邪とは、生体組織によって占有されなかった外界の熱による中毒なのである。
2008年01月16日
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じっくりと歴史分析をすれば、日本の明治時代以降は、実は、江戸期の貯蓄で食ってきたといえることがわかるだろう。 それは、勝海舟の「海舟座談」にある、次のやり取りからあきらかである。 西郷サンの法会のときは、吉井、税所、松方、宮島などで、徹夜の話しでした。 伏見鳥羽の戦のときの大将は、吉井サンでしたから、先ず、吉井サンからの尋ねに、「アノときの官軍は、極くわずかなことでしたが、ナゼ、あれが破れなかったのです、いかにも幕軍は腰抜けなことでして」と言った所が、 勝サンの答に、「官軍はただ一列(なら)びでしたろう、破るのに雑作はありませんが、破れた所が、西京へ追い込むだけです。軍艦は幕府にあるのですから、大坂から、打ち込んだら、どうです」と言われました。 スルト、吉井サンが、「その事です、大坂で色々評定がありました、海江田、広沢、品川、その他は、ミナそれを心配しました。それで、近畿の藩々をかためてから、ゆるゆる江戸へ上ろうという意見で、そのころ、海江田の言うことは、なかなか行われたものですが、西郷サンひとり承知しない。 『その勝安房守(海舟)があるから、心配はない、ひとり攻め上る』と言って、大津まで出かけたから、先生(西郷)が行ったというので、ワイワイ後から尾(つ)いて来て、それが官軍になったのだ」と言われました。 それで、ナゼ軍艦で勝サンが打込まなかったと問われましたら、「打ち込んで西京へ追払えば、天子を挟んで九州へ逃げる、スルト、徳川は外債を募ってやりくりをしても、五年より持たぬ。五年で倒れて、沢山の外債を残したら、松方サン、その時、大蔵をやれますか。少しも外債も残さず、コンナに安楽なのは、徳川のおかげだ、お礼を言いなさい」と言うことで、 松方サンは、ふとんから下りて、礼を言いました。 ソンナ時は、勝サンの勢いは、凛々たるもので、なかなか平生のジョウダン半分の様子とは違っていました。 それで、「お前方は、倒れる徳川を倒して、伯爵や子爵になってるのは、誰のお蔭だ、全く家康と天海とのお蔭だ」と言うお話しです。 それはどういうことでと、松方サンからのお尋ねでした。 それは、大坂落城(豊臣家滅亡)のとき、天海が家康に言いますには、「既に秀頼のモリとなったる人が、これを殺すというは、全く天下の為で、天下の為に殺すべからざる人を殺すに至った以上は、徳川も、他日の用意をせねばならぬ。 北条でも、その終りに多くの人を殺した、人を殺さぬようにして、他日政を失った時に、権を移すようにせねばならぬ。 それには島津が八十万石、加賀が百万石としても、その倒れる時には、士(さむらい)より町人に至るまで、守って多く死ぬに違いないから、徳川の所領は、全国に分とう」というので、御承知のごとく、大キナ所でも、十万石以上はない、その外は、所々に分けてありました。 「その倒れる徳川を倒して、お前方は功をたてたのだ」という話しで。 この話しからも、勝海舟の説く政治は「正心誠意」で、言行一致という意味がわかるだろう。家康は、幕府を開く以上は、閉じる幕引きも十分に考慮していたのである。つまり、先を見通していたわけで、また、戦場での金策の遣り繰りでも、平和な江戸期の方が、激動の昭和期よりも、現実的であったことがわかる。逆にいえば、明治政府のボンクラ連中の金銭感覚の無さが、明治から昭和までの無謀な戦をしたともいえる。 孫子の兵法にもあるように、無用な戦は出来るだけ避けよという基本事項も忘れる愚かさといえるだろう。 勝はまた、政治には、やはり経済が必要だと説く。 「経済では、己(おれ)の眼中には、細川頼之と太閤秀吉の他はない。細川あって、足利十三代はもった。太閤は一生戦をしながら、それで金があまって、桃山の遊びなどは大したものだ、この二人の外に、日本の経済家はない」という話しで。 勝が説く経済とは、阿吽の呼吸で、景気を良くするワザなのだという。とても口では語れないが、とにかく、始終歩き廻り、色々研究することだという。勝には、貨幣研究の書があるが、経済だけは、色々独自で勉強したようである。そして、よく勝が言うことは、学者が説くような経済は机上の空論で嘘八百というものである。 それでも、経済の要諦は、社会的に低い立場にいる人、景気が悪くなると途端に困る人に、本人に気がつかずに、怠けることなく、金をくれてやることだという。そこら辺の目利きが重要だという。 改革に関しても、同じように説いていて、改革というと、お題目を唱えるが、それには全く意味はない、要は倹約なのだから、日頃から、ケチな輩に、ケチをやらせないように、まず、上から倹約を実践するという風をみせ、改革に際しての混乱から、猟官運動はしっかり取り締まることだという。 この2点を要約すると、民衆への愛情だと思われる。 国会にも言及していて、あるとき、以下のような話があったという 伊藤サンが国会を開くという時です。やはり、ココデ、勝サンから、ひどく言われました。 「お前方は、どこまでうぬぼれているのか。国会は、大久保、木戸、西郷や、私の相談で、三十一年に開くつもりだった。明治政府は、初十年が乱暴で、中十年は利学をすすめ、あと十年に穴を埋めて、それから国会は私らには適さぬから、後の人才にやらせるつもりであった。それにお前方は、今から開いて、穴だらけの不始末を七、八百人に見せて、流言されて善いのか。ふだんオベッカを言うものの言葉ばかり聞いてると、ソウなるものだ」と、ひどく言われました。 伊藤サンは、「御もっともですが、もうこうしまして、致し方ありませんから」ということで。 この事は、官僚の穴だらけの不始末と普段からオベッカばかりをいう太鼓持ちのマスコミ連中に完全に骨抜きにされている現在の国会運営のことを既に見通されているといえる。大体、新聞屋と一緒に仲良しクラブの政治の八百長試合をやってどうするのだろう。しかも、これまで、日本は戦争で何度と無く負けてしまったのである。 全く日本の指導者は阿呆ばかりというしかないだろう。猟官連中の阿呆の連鎖ともいえる。しかも、汚職で、辞める勇気さえもないから、結局のところ、税金で食わせてもらうしか能のない腐った連中なのだろう。国民を騙して、一時期よい思いに浸ったからといって、心底では、軽蔑されるだけだろう。決して褒められたもんでなく、単なる自己満足に過ぎない。 当時の政府も、勝海舟は酷評しており、松方が、北岡と、国家政治を以下のように議論したという話がある、 松方サンが、どうも国家の政治をやるには、虎狼の心をもたねばならぬという論でしたから、私(北岡)は反対で、ソンナ虎狼になられるのなら、私は猟師になると言って、議論した所が、マケました。それを勝サンの所へ行って話スト、 「それは甘(うま)いことを言った、ダガ、こうだ」と言われて、巻紙にサラサラと書かれた、「虎狼の文」という文が出来ました。 「日本で虎狼というのは、家康、尊氏、信長、など屈指に足らぬほどだが、今の大臣らは、虎狼にあらずして、猫だ、猫だから、鼠輩といって、国の鼠が殖えて、アチラコチラをかじるのだ」という文で、ムイン禅師などに見せたら、大層よく出来たということでした。 さしずめ、いまの大臣は、鼠も捕らない猫以下の猫で、ついに自分も鼠のように、アチラコチラとかじりだして、国の所々が穴だらけで、外国の猫にビクビク震えてる鼠以下の連中といえるでしょうね。 選挙運動ばかりの自己保身ばかりしてないで、少しは、勝の書物でも読んで、薫陶を受け、政治の大志を抱けよ! 全く呆れた政治家たちである。 日露戦争を勝った、山本権兵衛も、初めて書生で出てきたときに、勝の世界の大勢の話を聞いて、それから志を立てて、海軍になったのだという。 政治家とは、結局、志の大きさだと思う。選挙運動なんてチンケな自己保身なんて、聞いただけで、呆れるな。そんなら、政治家でなく、他で身を立てる職があるだろ?!
2008年01月15日
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今までに述べたことから、人間の周囲の宇宙と、人間との関係は、今日の諸概念に従って描出される関係とは、やはり異なったものであることがわかるだろう。実際、安易に、次のように考えられている、 「人間の周囲の生物環境、いわゆる鉱物界、植物界、動物界に属し、人間に摂取される食物、いわば、その食物摂取のプロセスは、物理学者や化学者他が調査し提出したように、外(物質)的な新陳代謝プロセス(物理的変化や化学的変化の総体)として、人間のなかで継続されていく」、と。 ところが、この知見は全くの見当違いで、明白に理解すべきことは、人間の皮膚内部のプロセスでは、全てが、外界とは異なっているということで、この皮膚内部のプロセスには、外とは全く異なる世界があるのである。 人体の内と外の相違に気づかない限り、相も変わらず、レトルト(物質)のなかやその他を、何らかの形で研究し、様々な食物が、どうやって人体組織のなかで継続されていくのかを思案し続け、そして人体組織を、単にレトルト(物質)内のプロセスが、複雑に配置されたようにみなすだけである。 この誤解を避けるには、以前の考察で述べたこと、つまり鉱物質は全て、人間のなかで熱エーテルへと置き換えられる必要があるということを思い出せばよい。 すなわち、「鉱物質として、人体組織のなかに摂取される全ては、少なくとも、ある一定期間を通じて、純粋な熱の存在として、しかも人間が自身の熱として、周囲の熱を超えて、発達させる熱と1つになるように、変容させられ、変化させられなければならない」ということである。 生体組織のなかに、塩もしくは、他の鉱物質を摂取する場合でも、なんらかの形で、熱エーテルの形(フォルム)をとる必要があり、しかも人体組織のなかでの構築と形成に用いられる前に、その形(熱エーテルのフォルム)を取らなければならない。 つまり、人体組織の外に、何らかの鉱物(ミネラル)があり、この鉱物が、ただ、人体に摂取され、人体の骨、歯他の何らかの部分を形成するものと想像するなら、それは紛れもないナンセンスといえ、人間の形成において、再現されるものは、まず、その前提として、完全に揮発的な、熱エーテルの形(フォルム)へと移行させられている必要があり、次いで、また姿を変えて、人体組織のなかで、生命ある形成のなかに出現する存在に戻る必要がある。 しかも、この事には、更に全く別のプロセスも結びついており、つまり、例えば、堅い形(フォルム)をもつ食物なら、既に口中で水溶性のものに変化し、更に熱エーテルへと変化させられるわけで、まず、水の形(フォルム)に移行することで、人体のなかで、徐々に堅さ故の重さ(アルキメデスの原理を指す)を失い、地上と疎遠になることを通じて、熱エーテルの形(フォルム)に達し、上(天)から、宇宙の彼方から来る霊(精神)性を、自らのなかに受け入れる準備が完全になる。 つまり、鉱物質が人間のなかで、どのように用いられるかを描写するなら、次のように言える、 「鉱物質が人間のなかに摂取される。人間のなかで、鉱物は液体状を経て、熱エーテルへと変化する。この熱エーテルには、宇宙の彼方から、力として放射し、流れ込んでくるものを、自らのなかに受容しようとする、極めて大きな傾向がある。宇宙万有の諸力が、熱エーテル化された地球質料を貫いて、霊化する霊力として、今、自らを形成する」、と。 そして、宇宙諸力から、熱エーテル化された地球実質の助けを借りて、肉体がその形成のために用いるもの(霊力)が、はじめて肉体のなかに進入してくる。 なので、考えてみれば、古い意味で、熱を火と呼ぶとき、次のように言うことができる、 「鉱物として、人間により摂取される食物は、人間のなかで火の性質にまで高められる」、と。 火の性質は、高次のヒエラルキア(天使)の影響を、自らのなかに受容しようとする傾向にあり、この火が更にまた人間の内部領域全てに流出し、新たに硬化することにより、人間のなかで個々の器官の実質的な基礎を形成する。 人間が自らのうちに摂取するもので、そのままに止まっているものはなく、地上的なままに止まるものは何もない。全ては変化し、特に鉱物界からの鉱物は全て、それが霊的-宇宙的な作用を、自らのうちに受容し、霊的-宇宙的な作用の助けで、再び硬化して、地上的なものに戻るまで変化する。 なので、ある骨から燐酸石灰の一片を取るなら、この燐酸石灰は例えば、外部の自然のなかに見出す燐酸石灰や、例えば実験室のなかで調合するような燐酸石灰ではなく、外界から摂取された食物が、熱エーテルの状態に移行させられる間に、天(宇宙)から進入し、人間の形成に介入した(霊)力の助けを借りて、外界からの摂取から生み出された燐酸石灰である。 なので、人間は生涯にわたって極めて様々な実質を用い、年齢に従う組織化に応じて、無生命体(食物)を、熱エーテルに変化させることができる。一般に、幼児はまだ、無生命体を、熱エーテルに変化させることはできず、幼児の生体組織のなかにはまだ充分な力がない。 幼児は、人間の生体機構に近いミルクを摂取する必要があり、これを熱エーテルに至らしめ、その力を、真に拡張された造形へと変化させ、この造形力は肉体形成に関して、幼児期の間には不可欠で、この造形を成し遂げる為に、ミルクを用いることができる。 外から摂取された食物は全て徹底的に加工される必要がある、ということを知ってはじめて、人間の本性を覗き見ることができる。 なので、外界のある物質を取り、これが人間の生にとって価値があるかどうか調べるなら、通常の化学(分析)では全く調査することはできない。なぜなら、その知識とは、ある外界の鉱物質を熱エーテルの揮発性にまで至らせる為に、人体組織が、どれくらい多くの力を使わなければならないか、ということだからである。
2008年01月15日
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環境問題が深刻になっている。環境破壊がこのまま進むと、水没する町や都市が現れてくるというのである。 水没といえば、秘教では、かつて、アトランティス大陸が水没したことがわかっている。アトランティス大陸は、いまの大体、大西洋辺りにあり、うろ覚えでは、アイルランドの西側に位置していたらしい。 アトランティス大陸の水没は、急激なものではなく、現在の環境問題で予想されているように、徐々に水位が増し、水没したのだという。現在と異なる点は、現在の水没は温暖化によるものだが、アトランティス時代の場合は、当時の大気であった水蒸気が、水と空気に分離することで起こったという。 だが、どちらも、ゆっくりと徐々に起こったという点では同じである。 だから、アトランティス人は、水没した大陸を捨てて、東へと避難の旅を続け、東の大陸に移り住んでいったという。アトランティス文化は、西から東へと受け継がれていったという。 ノアは、アトランティス時代の最も進化した人種、アーリア人の前身で、太陽神託所という神殿の祭祀であったようである。当時、7つの神託所があり、それぞれ、そのうちの優秀な弟子7人を引き連れて、西から東へと旅立ったという。 そして、いまのインドと中国の境界辺りに、7人の弟子と共に隠遁したという。そこから、7仙人の伝説が生まれ、7人の聖仙は、古代インド文化を興したという。その名残りがリグヴェーダ等の書物として残ったという。 アトランティス時代は、いまから約一万年前に終わったというので、古代インド文化は、約一万年前に始まったという。だから、我々はポスト(後)アトランティス時代に生きているという。 アトランティス時代は、約数百万年続いたというから、気の遠くなるような話ではある。アトランティス文化を一言でいうなら、「気」の文化であり、いまでは古代中国文化のなかに、その名残りをみてとれるという。 そのことはとりあえず置いておいて、昨今の環境問題をみると、人間は何度も同じ間違い、過ちを犯しているように思われるが、少しづつ、人類のうちの何割かは、進歩しているように思える。大部分は、相も変わらず同じ失敗を続けているが、それも、その大部分は、人類の上層部だから、間抜けもいいとこだが、その大部分のなかに、僅かな進歩、それはまるで、カオスのストレンジアトラクターのような進歩の軌跡なのだろう。 この事は、蟻の組織の観察からわかる。蟻の組織を観察していると、2割が忙しく働き、4割は、普通に働き、4割があまり働かないことがわかるという。そして、今度は、2割の忙しく働く蟻たちを除くと、また、同じように、残ったうちの2割が忙しく働きだすという。 つまり、8割は進歩しない繰り返しだが、2割は進歩しているわけなのである。 歴史の繰り返しのなかで、2割部分が常に進化し、神々によって救われていることがわかる。 我々のポストアトランティス時代は、インドからはじまり、今度は東から西へと伝わってきているという。 そのなかで、人類の約8割は繰り返して終わるが、常に約2割が、進化を遂げ、神々の一員に加わっているといえるのであろう。 ここからも、輪廻転生の意味が理解できるであろう。 人類の約2割が覚醒する為に、歴史は繰り返されているともいえる。繰り返しのなかで、約2割が、繰り返しに、はたと気がつき、確かな意識を覚醒させ、つまりカルマを成就させるのである。 そう、環境問題とは、個人個人の意識の問題、覚醒、気がつきに帰せられるのである。人間のなかにある環境を破壊するエゴ、欲望の抑制力にかかっているといえる。 機械のような繰り返しのオートマチックの世界から、飛び出し、自らの意志で、人間らしい独立した生き方を選択することにかかっている。人間のとりうる様々な立場にたち、エゴから、濁点をとり、エコにすることである。エコとは、自分の行為を外から眺め、理解することである。つまり、他者の視点に立つ事なのである。自分を他者として同等にみれるかにかかっている。 地球を空からみれば、国境がないように、人類を精神上から一緒くたにみれば、個人と他者という境界はないだろう。地球と人類を宇宙からみれば、一つの運命共同体、生命体に変わりはない。 環境破壊の結果の意味や要因を、自らの行為に求めることである。そして、自らの意志により、その行為を、忍耐をもって抑制することにかかっている。 勿論、蟻と、人間とでは大きく異なるのだから、約2割では寂しすぎるだろう。
2008年01月10日
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今日慣れ親しんでいる認識は、前回述べたこととは別のことで、可能な限り、自然から離れ、視線さえも自然から遮断してしまう観察機械が作り出されている。というのも、調査対象は、小さな机上のガラスの下に置かれるからで、目は(外界の)自然を眺めることはなく、ガラスの中を覗き込み、視線さえも自然から断ち切られている。人は、この機械を顕微鏡と呼ぶ。 この機械は、ある意味で顕無鏡と呼んでもよい。大いなる自然から、観察対象が、もはや(切片として)断ち切られているからである。それに、顕微鏡の下で、この観察対象を拡大しても、実際、精神的(霊的)認識では、その対象の現象が、自然のなかでの分離、切断のプロセスが生じたときに起こる現象と同じ行為であるということを、知らないといえる。 考えてみれば、人間の極小さな一部を、観察できるように、人間の小片を内部拡大することにより行われるプロセスは、実際、人間をバラバラに引きちぎり、引き裂いたりしたときと同じ行為に相当する! その行為は、プロクルステス(A)よりも、遙かにオゾマシイものとなり、もし人間をそのようにバラバラに引きちぎり引き裂いて、{顕微鏡の}円筒の下で、その小さな物体を拡大するように、人間を拡大するなら、プロクルステスの行為を超えたものといえる。(A)プロクルステス[Prokrustes]:ギリシア神話で別名ポリュペモン、あるいはエレウシスのダマステス。ポセイドンの息子で、客をベッドに寝かせ、ベッドが短すぎるとわかると、その客のはみ出た四肢を切り落とし、そうでないときは、客の手足を引き伸ばした。 ギリシア語では「引き伸ばす男」の意。エレウシスの宿屋の主人で、旅人を鉄のベッドに寝かせては、旅人がベッドより小さいとはみ出した部分を切ってしまい、長さが足りないと背丈を引っ張って伸ばして殺してしまう。英雄テセウスによって殺される。 それでも、その切片の中にまだ人間という存在がいるとでも思うのか? そこにまだ人間がいるなどと言えないのは勿論だろう。同様に顕微鏡の下に真実はない。拡大された真実は、もはや真実ではなく、見せかけの(偽装)形成物である。 人は自然から離れてはならず、自分自身だけに眼差しを閉じ込めてもいけない。 勿論、全てはそれなりに有益だろう。とはいえ、真の人間認識にとっては、何よりもまず、この自然から離れた観察は、真の人間認識から大いに逸脱していくものといえる。 真の人間認識は、これまで示唆してきたように求められる必要がある。それは栄養摂取プロセスから治癒プロセスを経て、最も広い意味での人間教育、世界教育に通じていく必要があり、栄養摂取から治癒を経て文明と文化へ進む、と言える。 というのも、真の人間認識とは、全て、人間における栄養摂取のなかに集約される物質的プロセスと、また常に(宇宙、天体の)回転(循環)に由来し、人間における律動的プロセスのなかに集約される治癒プロセスと、更に、上方からきて人間における神経-感覚プロセスを通じて集約される、以上、3つのプロセス下の基盤だからである。このように宇宙は三段階に打ち建てられている。 栄養摂取プロセス-物質的プロセス 律動的プロセス-治癒プロセス 神経-感覚プロセス-霊的プロセス この事を、まず一種の基礎として述べ、更に、この上に構築していく。実際、このような出発点から上昇して、いわば実際の生活における事柄の取扱い、更に、ヒエラルキア(高次;神々、天使)認識へと移行可能なものへと入っていけることを見ていく。
2008年01月10日
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一般に、呼吸リズムが血液のリズムとコントラストをなすだけでなく、循環する血液のなかには、血液から出ていくと炎症プロセスとなるような繊細なプロセスもある。呼吸が血液循環と一定の関係になる必要があるように、この繊細なプロセスも、隣接する神経のなかで生じることと、一定の関係になる必要がある。そして、血液リズムと神経リズムの間で、この一定の関係が妨げられる瞬間、また元の関係になるように、立て直す必要がある。 このように関係の再構築を行うことで、再び治療分野、治癒プロセスの分野に入っていける。人間のなかでは、この全存在の必要性が示され、つまり、最も頻繁に病むプロセスは、別の場所では、健康となるプロセスとして存在し、病気のプロセスとは、単に正しくないプロセスにより、間違った場所にもたらされただけなのである。 というのも、これらのプロセスが全く存在しなかったなら、人間は生きていけないからである。人間は炎症を患うことができなければ、生きていけない。なぜなら、炎症を呼び起こす力は、常に血液のなかに、存在しなければならないからである。 しばしば、「人間が本質的な認識において獲得する全ては、真の人間認識から生じる必要がある」、というのは、以上のように考えられるからである。 この事から、本来の教育学が、専門に向かってというか、抽象に走って、かなり無意味なものになっている理由が、どこにあるのかがわかる。本来、教育学というものは、人間のなかの、ある病理学的なプロセスと、その治癒の可能性を出発点とするように、発展すべきものである。 脳疾患と脳疾患の治癒の可能性を知るとき、粗雑なものから(別の用語法によるなら、繊細と呼べるのも確かだが、物質的プロセスという意味に関連して、「粗雑な」と表現する)、脳の治療法のなかに、教育芸術を用いて、正に厳密に実行すべきものがある。 注釈;『(粗雑な)というのは、波動が粗雑であることを意味し、量子論でいうなら、いわゆる量子場がフェルミ統計に従い、量子化されて、物質場となるという意味である』 従って、将来、真の教員養成機関を設立するなら、実際一方で、教師たちに病理学的-治療学的なものを教えるべきで、ここで教師たちは、まず思考を、より具象的なものを手懸かりに、訓練すべきで、なぜなら、教育学を理解するには、物質に根ざした基礎を手懸かりにすることが多いからで、そしてまた、教育芸術的治療処置において、事物がどのように作用するかを知ることほど、治療にとって、特に内(精神)的な病気の治療にとって有益なことはないからである。 というのも、物質への架け橋を見出せば、正に教育的に、治療方法を、薬から見つけることができるからである。 例えば、子供たちに見られる、消化システムの障害に起因する、ある怠惰な徴候に、教育的に対処する為に、正しい教育的手段が見つかるとき、全く奇妙な内(精神)的傾向が得られるだろう。最も、これは真剣に教育で生きていく場合であって、表面的に学んで、学校が終わって、夕方には「居酒屋」に座り込み、学校で習ったことなどは忘れてしまうというような場合でないのは尤もである。 そのとき、消化の障害からくる怠惰な傾向の子供に与える治療法から、頭部のプロセスの全作用、頭部のプロセスと下腹部のプロセスとの関係全体、とでも呼べる傾向が得られるだろう。 そして更に、鉱物学において、例えば、銅が土壌中で、物質(銅化合物)を形成するとき、銅に生じるプロセスを研究するなら、 「銅が、銅鉱石になるプロセス全てにおいて、つまり鉱石が銅鉱石、或いは他鉱石になる生成において、教育者である人間が、男女の子供たちと共に行う教育を、銅の力は土の中で行っている!」と言える傾向が得られる。 教育者自らが行う模像が、紛れも無く、銅プロセスのなかに見られる。 教育者の教育行為に関して、直観的感情と直感的本能に適った、霊的明解さを獲得し、自然に魅惑されながら、自然を眺め、本質的に、外界では、自然が大規模に教育的治療を行っていることを知るのは、極めて魅力的である。 つまり、自然の治療行為とは、何らかの石灰プロセスを通じて、大地の病ともいえる、悪しきことが起こる可能性のある至る場所に、何らかの方法で、銅プロセスが(その抑制として)組み込まれていることであり、その事を知るのは、魅力的で教育学的なことであろう。 宇宙言語;石灰プロセスの対極にあるのは銅プロセスである。 この銅プロセス、他地球プロセスの内部の、この銅の鉱石形成プロセスのなかにも、絶え間ない治癒がある。なので、どこかで黄鉄鉱、或いは他鉱石を見つけ、これは正に正しい方法で人間を治療するときと同じプロセスである、というのは素晴らしいことである。 このように自然霊たちは、ヒエラルキア(天使)以下、以前に述べた、あの元素霊たちに至るまで、他ならぬ生命のなかにも、病気をもたらすものを、阻害するプロセスとして登場の可能性のあるものを、癒し手として送り込み、治療を行っている。 こうなると実に、もはや、治療法とは、(自然からの)読み取り以外の何ものでもない。 というのも、外界で起こることを観察するとき、そして、種々の物質を薬剤とみなしたり、或いは薬剤として加工するとき、人は次のように問いかけるからである、 「鉄はどこに現われているか、鉱脈のなかの、種々の金属はどこに現われているか」、と。 このときの外界の環境を研究するなら、何らかの金属が、自然により種々の加工をうけて、様々に現われるとき、常に、その内部に治癒プロセスがある、ということがわかる。つまり、その金属を取り、人間の生体組織のなかへと、(プロセスを)継続させれば、外なる自然が人間の前に示してくれた治療法を生み出すことができるのである。 注釈;『この「自然の形成から、治療法を見い出せ」といったのがパラケルススの説く有名な格言の真の意味なのである。なぜなら、自然の常なる変化、無常の変化のなかに、神々の(精神的)治癒力が働いているからである。これは自然治癒力という言葉の真の意味である。自然治癒力とは神々の真の行為なのである。 無常のなかに常在するものこそ、健康であり、神々が永遠に成り立たせている真実という自然の法則なのである。だから、健康は、真なる宇宙のバランスの働きといえる。』 実際、宇宙(世界)を貫いていくべき全ては、栄養摂取や、癒し、精神(霊)を正しく研究することである。 というのも、自然においては、絶えず病がもたらされ、絶えず癒されているからである。外界における自然は、偉大な宇宙的治癒プロセスである。ただ自然を人間に応用する必要がある。これはマクロコスモスとミクロコスモスの驚くべき関連であり、これまでの形式で述べてきたことは、実際、深い真実である、 お前自身を認識しようとするなら あらゆる方向に向かって宇宙を見るがよい。 宇宙を認識しようとするなら お前自身のあらゆる深みを覗き見るがよい。 これはあらゆることに応用できる、 「人間を治療するなら、宇宙をあらゆる方向に向かって見よ。宇宙がいかにあらゆる方向に癒しを繰り広げているかに目を向けよ。宇宙の秘密を、病気と治癒のプロセスとして認識しようとするなら、人間の本性のあらゆる深みを見下ろせ。」 この事を、人間存在全てに応用できる。そして大いなる自然に眼差しを向け、人間を、この大いなる自然との生き生きとした関係のなかで見なければならない。
2008年01月09日
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栄養摂取プロセス、治癒プロセス、精神的プロセスのこれら全てが、人間のなかで互いに入り交じって移行し合い、人間の全生体機構が、1つの驚くべき変容となる。例えば、人間の血液の、素晴らしい循環全体のなかに見られるプロセスを取り上げると、これは一体どんなプロセスといえるのか? さて、最初に、血管のなかを流れる血液を、他の全人体組織から、切り離されたものとして把握し、人間の形姿の血管組織が、筋肉組織に繋がり、骨組織他の固体形成を貫いて、その血管内を液体状に流れている血液を把握する。 液体の状態の血液に着目すると、勿論、血液とは別の液体も存在するが、血液状態になっているものを考える。この流れる液体のなかで、この内部で絶え間なく生じているプロセスは、一体どんなプロセスだろうか? 液体状の血液のなかで生じる同じプロセスが、なんらかの方向に、人体のなかの壁状組織、或いは骨格、或いは堅固に形作られた組織、固体形成物に襲いかかることもあり、本来、血液のなかで起こるプロセスが、血管壁、或いは筋肉、或いは骨内部の何処か、或いは被覆器官のなかの、異種的部位に存在することになる。 すると一体どういうことになるのだろうか? このとき、この異所のプロセスは、炎症徴候への衝動となる。炎症徴候の衝動として、見出されるプロセスは、常に液体状の血液のなかでは、正常なプロセスとして見出されるが、このとき、炎症として出現するプロセスは、本来、常に流れる液体状の血液のなかで起こるはずなのに、正しくない場所の、すなわち固体形成化された場所に押しやられたプロセスとなる(血栓のような感じ)。 正常で、健康なプロセスが、別の相応しくない場所に配属され、置かれるのは、病気をもたらすプロセスとなる。そして、ある神経組織の病気は、人体組織全体のなかでは、血液組織の反対の対極として置かれている神経組織が、本来、血液中では正常プロセスへと移行する体験(プロセス)を、無理に強いられているということなのである(血液中の正常プロセスが、神経組織へと移行するので、神経疾患となる;血管壁硬化症→老人斑からアルツハイマー病などの感じ)。 血管の通路では正常なプロセスが、神経の通路へと侵入していくと、神経の通路では、極めて僅かな侵入の場合でも起こり、正しく炎症の発端に捉えられ、病んだ神経組織の様々な形態を獲得する。 神経のなかには、血液のなかとは全く異なるプロセスが、いわば反対のプロセスがある、と述べた。 血液のなかには、燐に向かっていくプロセスがあり、この燐的プロセスとして、血液の周囲、或いは血液に隣接する組織を捉えるとき、正に炎症に至るプロセスとなる。 また、神経の通路でのプロセスを追求し、このプロセスが別の隣接する器官や血液のなかにも入り込み、移動していくとき、人間には、あらゆる腫瘍形成への衝動が生じ、これが血液のなかへともたらされ、その結果、血液が不健康な形で他の器官を養うと、腫瘍形成が起こる。 従って、次のように言える、 「いかなる腫瘍形成も人体組織における正しくない場所で変容させられた神経プロセスである」、と。 腫瘍形成;異所の神経プロセス 炎症形成;異所の血液プロセス(燐プロセス) この事からわかるように、神経のなかで進行することは神経のなかに止まるべきで、血液のなかで進行することは血液のなかに止まる必要がある。血液に所属するプロセスが、隣接する組織へと移動すれば、炎症が起こる。 神経に所属するプロセスが隣接する組織に移動すれば、腫瘍形成という通俗名のもとに総称され得る、ありとあらゆる形成が起こる。なので、正に神経組織のなかの諸経過(プロセス)と血液組織のなかの諸経過(プロセス)の間に、正しいリズムが生じる必要がある。 正しいリズム(バランス)が、血液プロセスを血液に止め、神経プロセスを神経に止めている。これが治癒プロセスの意味である。
2008年01月08日
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ヒエラルキア存在(天使)の御満悦が、宇宙万有の力となる。高次ヒエラルキアの満悦が、人間の神経-感覚組織を貫いて流れ、その内部に、人間の精神的(霊的)進化の力を形成する。この力がいわば、人間のなかで、絶え間なく生じる治癒から、開花する力である。従って、第三に、精神的(霊的)進化が得られる。 1.新陳代謝 栄養摂取 2.循環 治癒 3.神経-感覚機構 精神的(霊的)進化 人間を、土星時代、太陽時代、月時代を通じて記述すると、次のように言える、 「人間は、最初宇宙から生み出された精神(霊)であり、この精神が自らのうちに癒す者を生じさせ、癒す者によって、宇宙的な患者を受け容れることが可能になる」、と。 そして、これら全ての共同作用を通じて、地球上に、自らの意志により運動を行う人間が作り出される。 人間認識の個々の部分はどれも、以上に述べた根底により、霊聴力(霊視力より上位の霊能力)が与えられなければならない。誰かが治療学の体系、真に合理的な治療学の体系を確立することを考えてみる。 この体系は一体何を内包すべきか? この体系は、新陳代謝プロセスから、はじめるべきで、その他は、精々、前提となるだけで、この他の事に関しては、更に述べるべきであるが、例えば、精密な解剖学であっても、それは固体として形成された対象を扱うものなので、精々、(その固体形成の最終点が)出発点となるにすぎない。解剖学は既に人間として完成しているものを対象とするものだからである。 しかし、新陳代謝プロセスにおいては、常に病気をもたらす要因への移行傾向が知覚できるように、合理的な医学体系により、研究されるべきものである。従って、今日確立できる医学体系は、全くもって、新陳代謝組織、すなわち、最初に正常な新陳代謝プロセスから始めるべきで、そして、そこから、内部の病気が最も広い意味での新陳代謝から生じてくるという可能性が認識されるようにならなければいけない。 注釈;『少々ブームがおさまったが、昨今のメタボリックシンドロームなどは、この病気発生を新陳代謝に求めている点で、古代の医学に通じる処があるといえる。メタボ仮説は、温故知新の学問ともいえる。しかし、メタボ仮説が、あくまで唯物論である限り、次の治癒である律動仮説までに発展することはない。律動仮説まで発展するには、呼吸という天の力、何より天体力を加味しなければ、合理的に解明できないからである。ここに、かつて、パラケルススが説いた「自然のなかに治癒力を発見すべき」という格言の意味が解かれる。』 更にそこから、律動プロセスが作り出すものに関して詳細に認識することにより、本来の治療学も生じる必要がある。従って、今日の医学体系においては、新陳代謝プロセスの研究から開始すべきで、次いで、人間の律動プロセスの領域で生じる全てへの移行がなされる必要がある。 そしてそのとき、人間の精神的(霊的)な原基の健康な発達(進化)の前提となるのは、治癒諸力から発する認識である、ということが示されることで、人間全体の一種の戴冠とでも呼べるものが達成される。 いま、治癒プロセスから出発しなければ、いかなる教育も見出すことはできず、つまり、人間の精神の本性を健全に発達させる、いかなる芸術も全く見出せない。というのも、治癒プロセスとは、人間の精神的(霊的)プロセスを育成する場合に、純粋に、思考のなかで用いるべきものを、人間の中心的性質に適用することに他ならないからである。 教育芸術家は、物質や、エーテルに凝縮した治癒プロセスの力を用いて、精神的(霊的)な手法で、最初から最後まで活動する必要がある。教育芸術において、ある子供に何かを行うなら、それは精神的(霊的)なものを根底に持つプロセスである。 いま、このプロセスを移行させ、精神的(霊的)なものから、何らかの物質、或いは、あるプロセスを適用することで実行するとき、このプロセス、或いはこの物質が、薬剤(治療手段)となる。 次のように言うこともできる、 「医学とは人間の精神的(霊的)な治療処方を、下方の物質へと変容させることである」、と。 当時(1920年)イギリスの聴衆のために行った教員講座において、示唆した事柄を思い出せば、教師の実践において、一種の普遍的な人間の療法が、開始されているということや、なんらかの適切でない教育上の措置が、後の年齢になって、不健康な新陳代謝の沈殿、或いは不規則な新陳代謝の吸収を引き起こすことになるということを、何度となく繰り返し、注意の喚起を促しながら、指摘してきたことがわかる。 つまり、教育者が(精神的に、霊的に)行うことが、下方に継続されて、治療をもたらすのである。そして治療のもう一方の対極である、下方から上方を目指すものが新陳代謝プロセスなのである。 つまり、今日、全体的な人間認識から1つの医学体系が生み出される必要があることもわかるだろう。人間認識からの医学体系ができうるように感じている人もいる。とは言え、このような医学体系が事実上形成されて、はじめて(精神的、霊的、魂的)治癒の何かが達成される。現在、これは最大の急務の1つである。 今日、治療学の手引き書をみると、大抵の場合、新陳代謝組織から開始されていることはなく、或いはあっても極めて稀ということがわかる。しかし、新陳代謝から開始されるべきで、さもないと、そもそも病気の本性がどこにあるのか、診断する術を学べない。 以上のことはやはり全て、事実上、栄養摂取プロセスが治癒プロセスに、治癒プロセスが精神的(霊的)プロセスに、そして再び精神的(霊的)プロセスが治癒プロセスに移行しうること、或いは、精神的(霊的)プロセスが直接、新陳代謝障害を引き起こすなら、精神的(霊的)プロセスもまた、人間の生体の中間組織により、癒される必要のある段階に移行しているといえる。
2008年01月07日
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では、神経-感覚組織のなかに、どんな力を見出すのか。 神経-感覚組織のなかに、いわば医者が残していった(治癒)力を見出す。この医者は、下方の新陳代謝プロセスを健康にするように作用する。しかし、新陳代謝組織を健康にするような作用を行うことで、その医者が、全宇宙のなかでの、ある定められた評価に達する。 この事は何ら空想ではなく、徹頭徹尾、事実を述べているが、このプロセス、つまり人体のなかで、絶え間なく、下方に向かって健康にするプロセスが生じることは、高次ヒエラルキア(天使)の満悦を呼び起こす。この事は地上世界に対する高次ヒエラルキア(天使)の歓びである。 ヒエラルキア(天使)存在たちは下方を見下ろし、地上から人間のなかへと流入していくもの、地上の物質特性により、地に止まっているものから、病気が上昇してくるのを感じる。高次ヒエラルキア(天使)たちは、地上から作用する諸力や、循環する空気他のなかにある諸力の衝動が、絶え間なく健康にするプロセス(治癒プロセス)に変わる様子を見る。この事が高次のヒエラルキア(天使)の満悦を呼び起こす。 さて、いわば最も威厳に満ちた精神的(霊的な)研究対象として、太陽系の境界に置かれた天体(土星)を手懸かりにして、何が研究できるかを、考えてみる。この天体(土星)の中心にあるものが、地球上に作用し、集中されていると考えると、地球上の病ませる諸力を、自らの内に秘めるものが、その天体(土星)のなかにあり、その天体(土星)の周囲には、健康をもたらし、回転する諸力が示される。 そして、このような事柄に感性のある人には、土星の環に関して、人間は地球の内部(地上)にいるので、地球を囲むもののなかに、土星の輪のような(治癒の)刻印を知覚できないが、いわゆる地球の輪は本来、回転し健やかさである存在である(この見えない地球の輪が、生命力を人類に与えているという)。 この土星の環は、天文学者たちが語るものとは本質的に異なるもので、この土星環は回転する健やかさであり、土星の内部は、最も純粋な集約において見れば、病んでいくもの、病気にさせる存在である。 このように、この太陽系の最も外側の端に置かれている土星(天王星、海王星、冥王星は、秘教では、他の天体系)では、絶えず新陳代謝と循環組織を通じて、人体のなかに、もたらしている生命力と同じプロセスが生じているのが見られる(土星は、霊的器官の脾臓の象徴)。 注釈;『五行説でも、土星は脾臓を示すが、秘教では、土星は、人体に霊的な熱を送る器官とされている。だから、古代人は、脾臓を冷やす事を極力避けた。脾臓を冷やすと、人体の熱や、リズムを狂わし、たちまち、不健康になるからである。脾臓は、高度に霊的器官なので、喩え、物質的な脾臓、つまり脾臓臓器を除去しても、人体にはあまり影響しないという。 ちなみに、現代医学では、盲腸をそのような器官と考えているが、秘教では、盲腸は、忍耐力の思考には不可欠の器官だという。盲腸を取ると、思考を長く続けることが困難になるという。逆にいえば、悪い思考を長く続けると、盲腸が病み、そのような思考を続けないように、代替的に、盲腸が人体からいらなくなるようになるともいえる。盲腸を病んでいる人は、思考の転換が必要である。』 しかも、この事を遥かに見るとき、霊視では、特に第二ヒエラルキア(天使の位階で、中級天使)と第一ヒエラルキア(天使の位階で、上級天使)の世界に導かれることもわかり、第二ヒエラルキアの、キュリオテテス(主天使)、デュナメイス(力天使)、エクスシアイ(能天使)の世界、第一ヒエラルキアの、セラフィム(熾天使)、ケルビム(智天使)、トローネ(座天使)の世界であることがわかる。 霊眼をもって、土星と土星環に注意を向けるとき、御満悦とでも呼べる様子で、この病むことと健やかにすることを見張っている、この上位のヒエラルキア(天使群)に導かれる。 注釈;『ここでは、ヒエラルキア存在を「天使」としているが、本質的には、人間存在の進化形態を既に完了した存在で、つまり、人間としての全経験を積んだ神的存在をいう。だから、天使の位階が示されている宗教継体は、全ていわゆる多神教なのである。一神教という概念は、唯物的感性が作り出したもので、人間に善人もいれば、悪人もいるように、天使のなかにも、悪の天使がいるのである。 十戒における、「我以外に神はなし」の意味は、「我」という自我をもつものだけが神的存在で、「我」という自我をもたないのは神的存在ではないということである。だから、人間も、本来、神的存在なのだが、真の「我」を知っている存在でない点で、曇っているから、神的存在だが未熟な段階にあるわけで、いわゆる神の子と呼ばれるのである。だから、一神教とは何の関わりもない。 悪の天使、つまり悪魔はこの事を利用して、自分が善の神で、他はゴイム(獣)のような存在だと強調するが、それは全て偽りなのである。我々は、善にもなりえるし、悪にもなりえるという「我」をもつ神の子、つまり天使の子なのである。 この事を、十戒の「神の名を唱えるな」ということで禁じているのである。つまり、我を神ということで、神的存在の可能性があるだけで、いまだ未熟な存在なのであり、虚偽になるからである。 我々人間存在の上に、進化した神的存在の神々たちが常に見守り、宇宙の進化を誘導していることを忘れてはならない。 ちなみに、ここでは、第1位階の天使群が、神経-感覚組織に治癒力を与え、第2位階の天使群が、呼吸-律動組織を、新陳代謝から持ち込んだ悪から善へとバランスよく調整していることを述べている。新陳代謝系は、第3位階の天使群が指導している。だから、人体と同じように、第2位階の呼吸-律動組織までは、善と悪が存在するのである。悪魔は、第2位階まで存在し、ちなみに、聖書のエロヒムの位階も第2位階で、これら悪魔と戦っているのである。』
2008年01月06日
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易を秘教的に捉えると、易が、秘教でいうエーテルの流れを表わすことがわかる。エーテルとは、東洋哲学でいう「気」のことで、だから、易は、気の流れを表わす古代の学問といえる。 古代人は、全ての物質は、「気」の流れから生まれ、気の流れが、川の流れのように、滞留、もしくは、停滞したり、流れが互いにぶつかり合う処に、物質が形成されるように考えていたことが、易を学べばわかる。 気の流れを、川の流れに喩えると、イメージしやすい。川の流れは、川のなかに測定するものを、物体として浮かべてみなければ、明確にはわからないが、気の流れも、物質化されないと、人間(肉体)の感覚では捉える事が困難なのである。 宇宙は、気に溢れ、このような気の流れが結集した処に、いわば、物質の結晶構造が顕れるのである。 例えば、クリスタルが、ハチの巣のような結晶構造をとるのも、気の流れの結果である。古代人は、この気の流れを読む能力を身につけていたので、気を、霊や神々の力と表現したのである。この事は、古代遺跡をみればわかる。なにより、古代人の使う文字が、どこか気の流れを表わすことから、生まれた名残りのようにみえることからわかる。 古代人といっても、秘教でいうアトランティス時代の、古代人は、気を満遍なく操り、いまでいうUFOのような乗り物を駆使していたという。それは、いまでいう、植物の発芽力を用いた気のエネルギーで、動いていたという。だから、彼らの文字は、気の言語というより、設計図といった方が適切で、結果として、このような構造がとれるという意味で、文字を表わしたといえるのである。 易は、このような、かつてアトランティス時代の古代人がもっていた、気の制御の知識を体系化した名残りであるが、いまでは形骸化したとはいえ、通用しないものでもない。なにしろ、古代中国人とは、アトランティス時代に最も高度に発展した人種の末裔で、それが故に、完成度が高い分、もはや、新たなる自由という概念を受け入れることが困難であるというからである。だから、中国では、「老」が重んじられるのである。 脱線したが、易は、秘教でいうエーテル学の初歩で、エーテルを制御し、応用するには、今度は、宇宙の力、つまり、宇宙の心を知らないといけないわけで、これは秘教でいう、アストラルというものである。東洋哲学では、そのまま「心」となる。西洋では、アストラル、つまり星の力で、天体であり、天文学になる。 エーテルは、天の力と地の力に大別できる。 人間は、物質化した物質力を用いて、エーテル力を制御しようとするが、これは現代人の特徴だが、これはほとんどが、地の力といえるものである。 この事を易の「干支」を用いて示せば、十二支にあたる。十二支に動物を当てるのは、この地のエーテルの力の顕れが、動物のアストラル、つまり心に類似しているからである。西洋では、十二星座になる。干支の支は、十二という数からわかるように、どちらかというと、時間を表現するものである。対して、干は空間を表現する。 ここに、アトランティス人の文明、つまり古代中国人が、用いた運気の作用、十二支の力が、秘められているのである。本来の占いとは、気を読んで、運用することなのである。 だから、十二支の作用、つまり基本を知らないと上手く利用できないわけである。しかし、十二支だけでは、地の力しか捉えることができない。だから、干の力も加味しないといけないわけである。 十二支は、物質力から身近だが、十干となると想像が難しいが、これは易を研究すれば、陰陽五行からきていることがわかる。つまり、日と月が抜けた、火、水、木、金、土のことである。日と月は、太陽と月で、これは陽と陰で、五行を陰と陽にわけ、十干の兄弟に表現し、つまり、太陽の陽を兄、月の陰を弟にして、火兄、火弟と、2つに表わせば、五行から十干になるわけである。 つまり、十干は、古代人の天文学の基本なのである。古代人は、地の力だけでなく、天の力が働いていることを知っていたので、天体の配置は、天の力を上手く捉える為に必須の知識だったので、暦の制定は、国家、民族の第一の一大事業だったのである。 暦を変えることとは、人類の生活だけでなく、生命や精神、しいては、神々に対する態度を変える大事業なのである。だから、古代遺跡の多くが、永続するように、天文の配置を誰でもわかるような設計になって、現存していることからわかるだろう。現代人は、あまりに馬鹿になってしまったので、もはや、天文の配置をそこから導き出すことはないばかりか、天の配置、力さえも、いわゆる天の配剤という形だけの言葉だけしか残っていないわけである。 さて、今年の干支は、「戊子」である。 十干の、戊は、土の兄(つちのえ)である。秘教でいえば、土星の陽の力である。易では、「戊」という「茂」の字をあてている。つまり、エネルギーでいえば旺盛な繁殖力である。 秘教でいう、土星の陽の力というのは、地球は、土星紀からはじまったので、正に、始まりの力といえる。土星紀には、人間は、熱の身体しかなく、神々と共に、命じられるままに天から、地に、熱を送っていたという。おそらく、熱を送る力、熱を与える命のことが、土星の陽の力といえるだろう。それは、生命を育む力ともいえる。 是に対して、土星の陰の力は、地から、天に熱が反射される力といえるだろう。熱に応じる命ともいえる。易では、「己」の字にあてているが、これは自己の己であるから、熱に応じる命は、己の態度いかんにかかっているといえ、非常によい当て字であることがわかる。天に熱をそのまま反射するか否か、或いは、熱を己のものにするかをよく表現しているわけである。しかし、土星の陰、つまり土の弟は、来年である。 だから、今年の天の力は、生命を育む力ということがわかる。では、地の力である、「子」の考察にうつる。 「子」は、民間では鼠の意味で伝承されている。つまり、子は、鼠のある性質、つまり、アストラル体を表現しているわけである。それは子沢山ということである。子は兎に角、繁殖力旺盛の象徴である。だから、今年は、子供の年になるように予想される。 巷では、経済が最悪の年と既に予想されているが、確かに、経済は悪いかもしれないが、鼠が、子沢山なのは、経済とは何の関わり合いもないことで、むしろ、鼠が、子沢山なのは、地を斬新させることともいえる。つまり、鼠が増えることで、田畑は荒れ、つまり経済破壊が進むことになるが、反面、地は斬新され、新たな生命を育んでいくことを意味するわけである。 戊も子も、共に、繁殖力が旺盛になる年を意味しているので、去年の傾向が、益々進んでいくことが予想される。そして、これまでの既存の体系の地は荒らされ、新たなる生命力旺盛な新規事業の多くがはじまるだろう。
2008年01月06日
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