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ああイエズスよ、我等の罪を赦し給え。我等を地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、殊に主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。知る人のみあす公演を迎える。キャパは500で150~200。40名以上の出演で。やはり中心者の結果でしょう。後日、報告したいと思います。今回の公演で、曲の質問を受けたのはゼロ。なんら疑問も興味もない。なんら。殉教をあつかった作品のアナリーゼ。ほんの音楽的知識があれば質問があっても不思議がないのに、メインキャストからコーラスまで何の不思議もない。哀れな話である。これが日本の音楽の現状だと思う。書く元気もありません。
2006年05月30日
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友人は小さくやれる範囲で活動をしている。けっして無理をしないで。み倣うことにする。どうせたいしたことができないのだから。野鳥にいつものようにエサをやる。この雨になか小さな鳥達が来ている。エサを求めて飛べる鳥は元気なのだろう。体に不自由を感じたら死しかないのだろう。自然はそうして流れてきたのかも。自然の流れに反する音の羅列は違和感を感じさせ、それが特徴となる。リズムの変化は安易だが旋律の変化は難しい。今回の「わらべ唄」では安易なリズムを採用したが、これはこれで結構難しかった。ただ奏者の理解には程遠い。旋律と歌詞の相互効果を当然のように狙ったが音楽の力だけでは無理があった。つまり音楽に力がないことを露呈した。じつに旋律を書くと言うことの難しさを実感することとなる。
2006年05月27日
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心配をかけています心配のとおりで、まずは、元気ですとはいえない状態にあることは確か。人は言います。もっと前に言ってくれたら良かったのに・・・。あきまへん、口車に乗せられては、それだけの人であることを忘れないこと。毒になっても薬にはならないから。台本も音楽もまずは合格点。つまるところ人材ですね。これにつきる。~~~~~~~~~~~~~~~~「わらべ唄」のあとにすぐに続く「オラトリオ」の稽古に参加した。同じように人が集まり、同じように音楽を愛する。しかし、違うんですね。分かったんです。主催者の人柄であることを。これで納得です。同じやるなら実りが多いにこしたことない。
2006年05月25日
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元和の大殉教は、1622年(元和8年)9月10日、長崎の西坂で、カトリック教徒55名が火刑と斬首によって処刑された。日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑さ、その後、幕府の弾圧は厳しくなる。等安の長子嫁マリアがここで斬首されている。~~~~~~~~~~~~~~~~~「元和の大殉教」拡大して見られると良いのですが。マリアもみとめることができます。モラレス神父も。
2006年05月24日
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あ ら す じ ---時 代---1590年代から1610年代。秀吉時代の全盛期から一気に徳川時代に傾斜する不安定な時代。場所は長崎。 ---あらすじ---打音と木遣りに始まるプロローグ。幕が上がり、どっと起こる哄笑・嬌声。戦乱と貧しい生活にあえぐ民衆とは対照的な極一部の人々の生活が表現される。 ライ病者に代弁される弱者に対する人々の差別が展開される。弱き人々の世話をする村山等安の娘マリアと神父となった息子フランシスコ。 かってはキリシタンであった末次平蔵の登場。カタリナという女性の登場。栄耀栄華は俺のものと平蔵の悪巧みが見え隠れする。父等安に無心するマリアの複雑な心中(貧しい人々を助けるための金が、ワイロなどによる金であること、その金をあてにしなければならないマリア)。 ライ病者とキリシタンらの行列とそれを罵倒する宴会人たち。弱い者をいじめる姿は、いつの世も同じ。私はキリシタンと、自らを宣言するカタリナ。ライ病者らの心に等安も目覚め、ともに彼らの行列の人となる。待っているのはキリシタンとしての定め。平蔵の天下が見えてくる。平蔵は歓喜の叫びを「見たぞ聞いたぞ」と歌う。 奉行所にて取調べを受ける村山等安。キリシタンであることを認める等安。マリア、平蔵、カタリナのそれぞれの立場が展開する。 刑場にひかれる等安とマリ、それを見守る人々により最後のシーンをむかえる。初めから終わりまで、この舞台をナビゲートする童たちの歌声で舞台は閉じる。
2006年05月24日
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音楽劇「わらべ唄」のラストシーンで“マルチリヨ、マルチリヨ”と叫ばれる。音楽が流れる中で、木遣りの声が伝統的音律で歌われ、吟味役がキリシタン裁判の判決文?を再度唱える。メーアクルパ・メーアクルパ・メーアマキシマクルパ(これ我が過ちなり、我が過ちなり、我がいと大いなる過ちなり)とキリシタンが信仰を宣言できない心の弱さを音楽に溶け込ませて歌われる。死を覚悟したキリシタンが“マルチリヨ、マルチリヨ”と叫んで終わる。聴衆は何の意味か分からない。が、もしかして殉教?の意味だろうか。これで充分んなわけです。殉教だなんて、そう軽々しく口に出すものではないし、現在地球の裏側でも、殉教者として多くの人々が死んでいる。今回の演出家は宝塚OGだった方で、彼女はこのマルチリヨを子どもに言わせた。何の意味も分からない天使のような子どもに「殉教だ」と言わせた。その言葉を聞いて大人の信仰弱きキリシタン達は堅信の心を呼び起こすわけだ。この写真は「元和の大殉教」。等安の長男の嫁が殉教している。火あぶりは、木に水をかけいぶされ生焼けで殺された。殉教などとこちに出せないのを理解してもらえると思う。メーアクルパの音律をレ旋法にすべきか、ミ旋法にすべきか迷った。多分、ミ旋法で書くべきだろうが、僕にはどうしても書けなかった。レ旋法とした。
2006年05月22日
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『平安を求むる祈り』 主よ、願わくはこの住家をみそなわし、仇の謀計を遠ざけ給え。また主の御使いをこの住家に降し、我らを安らかに守らしめ、主の御祝福を常に我らの上にあらしめ給わんことを、我らの主キリストによりて願い奉る。アーメン。「この住家をみそなわし仇のはかりごとを遠ざけたまえ」 じつにそうですね。7、8年前になろうか。「青い鳥」の音楽劇に曲を書いたのは。そのとき小学生だった子どもが女子高生になっている。こんど一緒するのだが。稽古の最中の真剣さ謙虚さ、芸への真摯な態度は指導者の姿勢なのだろう。多くを学んだ。もう今の大人には無い姿がまだここにはあった。子ども達は、何にも分からない状況下で理窟ではなく体で覚える。創意工夫と仲間からの伝授でその方法論を身につける。我われとは違う方法なのだが、より正確にマスターしてゆく。子どもたちにより良い環境を作りたいものですね。それが我われの社会への恩返し。
2006年05月22日
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演奏会が近づき、今までがそうであった演奏会への追い込み。台風の後の生ぬるい無風のような、無気力でけが続く。これ悪魔の仕業なり。この作品は、脚本も音楽も傲慢かもしれないが良くできていると思う。もったいない話である。軽い障碍を持つ人と久しぶりの会話を楽しんだ。ほんの1時間ほどだったが、DTMの伴奏を聴いてもらい、へたな歌で歌って聞かせた。劇中さいごの場面で歌われる 『われら神の子』(トーアン・カタリナの二重唱) われら神の子 身は遠く離るとも われら神の子 永遠の命のよろこびを 心はひとつ心はひとつ アーメン(心はひとつ)アニュスデイに似ているね、とすぐに言う。そう、アニュスデイだよ。 『すべては愛』(トーアン・ソロ) 神よ人間の愚かな業をお赦しください 我らを・・・迫害している・・・ 人間の罪をも・・・お赦しください・・・ 信頼は希望 希望は信頼 全ては愛いつも祈っているという「信徳唱・望徳唱・愛徳唱」をうれしそうに唱えだした。『信徳唱』真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に、我は主が公教会に垂れて、我らに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。『望徳唱』恵みの源なる天主、主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、我に終りなき命と、これを得べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。『愛徳唱』愛の源なる天主、主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、我、心を尽し力を尽して、深く主を愛し奉る。また主を愛するが為に、人をも我が身の如く愛せんことを努め奉る。中学をあと一年で卒業。今後の不安の中での訪問だった。劇中で教会を表現する手段として使われる音楽にグレゴリアンの「Pangelingua」を使う。洗足式の時の歌だね、と嬉しそうに歌いだした。こうして一緒に歌う機会のないだけに本当に嬉しかったです。主の晩餐の、ウビカリタスを歌い、聖体奉還式のところのパンジェリングア。ふさわしいと決めた曲だけに、分かってもらえてうれしかった。
2006年05月21日
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報告まで仲間に連絡できない部分での報告です。まずは進んでいます。主催者となる別の見方があってご承知のとおり、いやそれ以上ですが。音楽劇「わらべ唄」長崎代官村山等安は知られるところではないが、カステラの元祖としてなら理解してもらえるでしょう。が、その生涯は波乱万丈だった。うらやましい限りであり、やっぱり凡人にはできない人生だった。 その家族はすべてキリスト教の信仰にいき、信仰ゆえに死の道を行き、キリストにならった。 いま長崎にあるカトリック教会は何度も立て替えられたのではあろうが、そのもととなる教会は等安の私財によるところ大である。信仰のために死の道を生きる姿をおもう存分に表現したかったが、まずはほとんど表現できないことの断腸の思い、人には理解できないだろうし、理解してもらおうとも思わない。まずは自分自身の問題だから。大きなことをやるときには、かならず3つの問題がある。つまり、それを失敗させようとする悪魔が忍び寄る。この悪魔の天使が我われをからかって喜ぶのだが、今回のように殉教をテーマとした物事をするときは、こ悪魔もだまっちゃいない、からかうだけではすまされない。本気で怒っている。おかげで、全ての行動が邪魔され、幾重にも壁がつくられ、動きが取れない状態にされた。これ悪魔の仕業なり。さぁ、やろう。がんばろう。などととうてい言えない中での出帆である。のらりくらり、無風の中をいくら帆をいっぱいにはっても船は進みはしない。のどは渇き、食物もなく空腹になり、思考力はなくなり悪魔の配下になるしかない。キリストにならい、日本の殉教者にならう。日本人の失った・・の初穂となるべくこの公演が頓挫する。この舞台にキリスト者が喜びを持って参加し、多くの人に種をまくことができないのが残念である。金と名誉が思うがままとなった人間。その根底にあるキリスト者としての心。ワイロなど不正でもうけた金(秀吉の時代にそんな罪悪感があったとは思えないが)。劇はライ病者の生き方に心をよみがえらせた村山等安は、最後には死の細道を行く。 脚本も音楽も満足できる。昨日の稽古でまずは一安心と言うところです。音楽は今回初めてDTMを使うことにしたことから、まだ何度かの曲の変更を多くの時間を費やすことになる。本来なら、指揮者と演奏者に譜面を渡すので、演奏会当日までゆっくり書くことができるが、DTMはそれ自体に大変な仕組みがあるので。個人的な思いは、祈りにはじまり、祈りに終わる。そんな当然なことができない現状を自分自身の中にしまい込むしかない。“主イエズス・キリスト、主は十字架の刑によりて、聖ペトロ・パプチスタ、聖パウロ三木及びその他の殉教者をして主の御鑑みに倣わしめ、日本国民の信仰の初穂として彼等の鮮血を納め給えり。願わくは二十六聖殉教者の御取次によりて、堅固なる信仰と迫害に堪うる勇気とを我らに得しめ給え。アーメン。”これは信者さんなら知っている祈りだが、まさに「堅固なる信仰と迫害にたうる勇気を得しめたまえ」ですね。(「日本二十六聖殉教者の信仰を求むる祈り」)「うたをわすれたカナリア」のメロディーを思い出します。
2006年05月15日
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5月17 日(水)場所は、埼玉県深谷市の「アバ音楽の森」(090-1805-1805) 午前中からはじめて5時ごろまで。その間の来られる時間帯でOK今月31日の演奏会のときに開くバザーで展示したいキャンドルつくりをします。興味のある方、手伝ってくれる方。経験なくても協力してくれる方を大歓迎です。ただし、ボランティアですので交通費も出ません。 「アイス・キャンドル」だけにしようと思っています。あれもこれもとなると時間がないので。デパートで買うと1万円前後と聞きましたが。~~~~~人間は心にゆとりがないといけませんね。TVのチャンネルをひねると(押すと?)、家庭内事件が当然の如く受け止められている。身近な、庶民の家庭でのできごとで、暴力沙汰ていどではなく殺人事件がショッキングなできごとではなくなってしまった。 我われ団塊の世代もリタイヤしつつあり、戦後のドサクサに生まれ親に過保護で育ちそこそこの今日を身に付けさせてもらい社会人となり気がつくと定年なり。若いころのグループサウンズ、ビートルズ、ベンチャーズを懐かしがり音楽がはやっているとのこと。でもまてよ。この世代は個人主義、勝手気まま。グループで何かをやるなんて多分難しいかも。それに、小中学生のころに流行した「3分間待つんだよのチキンラーメン」がはやり、今に思うと、添加物も豊富に入っていたことだろう。それが蓄積され、いつあの世に行ってもおかしくない。 そして、この世代が社会に何をしたのか、きっと景気をあおり加担をし、残したのは「心の廃墟」だけかもしれない。 先日、ボランティアの助けを借りた。とても嬉しく感謝もしている。が、やってやっている、たすけてやった的気持ちがみえみえで、そんな人が多いのも残念なことです。 貧富の差が大きくなり大変な時代が到来することでしょう。 心を病む青少年がおおくなり、引きこもりフリーターと同じくらい心的病人が増えるのでしょうね。
2006年05月12日
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主よ、願わくはこの住家をみそなわし、仇の謀計を遠ざけ給え。また主の御使いをこの住家に降し、我らを安らかに守らしめ、主の御祝福を常に我らの上にあらしめ給わんことを、我らの主キリストによりて願い奉る。アーメン。「仇の謀計を遠ざけ給え」 実にいい言葉ですね。 「あらしめ給わんことを」と舌がまわらない。と言うのも去年の夏に歯が抜けかけた。もともとゆるくなっていたところを、やんちゃな孫のマシューがぶつかってきて、とうとう抜けそうになった。1週間前にハワイにいる孫が、マシューとその下のマイケルがしっかりと覚えている。グランパの歯が抜けた状況を自慢げに説明する。すごいですね、子どもの記憶力は。三つ子の魂とはよく言ったもの。それだけに、多くの子ども達の上に環境あれと祈るのみです。写真は「ファチマのマリア様」 ポルトガルから日本に贈られたマリアさまです。多くの信者さんが来て下さる。みなさん再訪を願って帰られるがご訪問された人はいるだろうか・・・ 信仰や宗教に縁のない人がマリア様のお姿に深い感銘を受ける光景と発言を聞いたことがある。マリア訪問。死語でしょうかね。
2006年05月11日
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主イエズス・キリスト、主は十字架の刑によりて、聖ペテロ・パプチスタ、聖パウロ三木及びその他の殉教者をして、主の御鑑みに倣わしめ、日本国民の信仰の初穂として、彼らの鮮血を収めたまえり。願わくは、26聖殉教者の御取次ぎによりて、堅固なる信仰と迫害にたうる勇気とを我らに得しめ給え。アーメン。
2006年05月08日
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「わらべ唄」もいよいよ今月31日に向かっている。残念ながら盛り上がりには欠けるのが残念だ。なんといっても人手がない。仕方のないこと。昨日は二人の人にあった。一人は精神障害の若者君。一人は車椅子の女性さん。若者は一生懸命にやってくれる。一生懸命にやり過ぎないようにセーブさせることに心がけている、が、今の段階では、彼のフォローをする余裕がこちらにないのが気がかりだ。何人かの人が温かく見守る体勢があるといいのだが。女性が来てくれ、心配してくれる。噂に聞いたのだろう。開口一番に、私にできることを指示してください、と。彼女には充分に今までも手伝ってもらっているので、これ以上迷惑をかけられないし。「人のためにやれることは幸せです」と言う。車椅子の彼女が人のためにできる範囲でする。素晴らしいことですね。いつも人の手がないと生きていけない彼女ではあるが、それでも人のために生きるというスタンスをしっかり持っている。ボランティア。人に何かをしてやっている、というスタンスの多い中、人に何かをやらせてもらってありがとうのスタンスを忘れがちの中でボランティア精神が車椅子の彼女から見出すなんて情けない話である。「わらべ唄」を実際の音できいてみると、開幕の場面の「サンクトス」はしっかり生かされていることに、自慢げにその発想に成功を感じた。もともと吹奏楽のために書いたものだが、死ににいく人のお別れの音楽と言うより、再会を願っての音楽になったと自己満足の範ちゅうで満足している。まさにサンクトス、感謝の賛歌である。これには、三味線などの邦楽器、和太鼓などの邦楽打楽器群を使っている。まぁ、この邦楽の話は、いずれしたいと思うが、思い出しても不愉快になるのでやめておく。4拍子から3拍子に、8分の6拍子に複雑に変拍子させ、打楽器を思うように使えない制約の中で、まずは成功したと満足している。 サンクトス、ホザンナ・ホザンナと天群の天使達が心貧しき人心に歌いかけるわけだが、人の邪心を揺る動かすメロディーとしてはやっぱりグレゴリオ聖歌の旋律を頼らずには書けないことも実感した。しょせん人間の知恵では思いつかないメロディーだから。そう、あの天才、ベートーベンは第九を書くに際し、グレゴリオ聖歌を導入した。宗教音楽にたいした興味を示さなかった彼にして、最後はグレゴリオ聖歌だったことを思い出す。サンクトスのテーマの3拍子、4拍子、2拍子の普遍的な拍子は天使の戯れに似ていると思う。テーマが一度に、同時に3拍子と2拍子として表現できるのだから。まさにポリフォニー。この作品は、じつに、カトリックをまさに表現しているように自分としては感じている。本当は、このままそっと焼き捨てたい感じがしている。なぜなら、もうすでに書いた時点で、マリアさまもお喜びだろうし、殉教者たちも聞いてくださっているのだから。いまさら現世の地にて何をしようぞ、である。精神病や肢体に欠け、知恵がおくれていても、このサンクトスは彼らだから理解できると思う。それだけが救い、それだけが演奏する救いだろう。 また、幸いにして、この楽天をして友人となった家族との出会い、その家族がこの「わらべ唄」に理解を示し、上演に向けての遁走と努力をしてくださっている。実際に、この作品を見たわけでもなくしてである。 神様はそんな環境をおあたえくださるんですね。けっして無駄がない、理由がある。 だから自殺にも神様のご意思があるはず。
2006年05月08日
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DTMの編集をした。第一の感想はおどろき。作曲はコンポーザー、構築・組み立てみたいな意味だそうだが、たしかに作曲は形式や楽器性質や奏者の技量など総合的な組み立てで作られる。だがあくまでも頭の中で組み立てる作業なのだが、どうも現在では実音ありきで、それをコピー・ペーストの世界のような気がする。つまりは誰でも作曲できるということ。あるいみで、想像できない音楽が作り上げることができるかも。近い歴史?の中では、民族楽器を導入して一躍有名になった人が作曲家にいる。それにしても、世界もそうなのだろうが、「まがい物」に支配されている。食べ物もそうだろうが、これからの世代はどうなっていくのだろうか。本物を知らない子どもが大人になるということは。生の演奏家には辛い生活があるが、じっとやすしかないですね。まがい物だけが残るのは忍びない。と言いつつ、じゃぁ、どうして生きていけるか?厳しい世の中ですね。昨日、楽天仲間のベテスダさんがご家族で3時間かけて来訪。持参くださったホタテなどなど、野外バーベキュー。夜が暗くなるまで、外で満喫。友人の美術鋳造家も同じく千葉から助けに来てくれた。みんな時間をやりくりして来てくれることを感謝してる。観光地や温泉や海外旅行に毒されるのではなく、自然と友人と過ごす時間の至福を味わった。早速、写真を送信してくれた、たぶん、ベテスダさんが日本タンポポの写真を載せてくれていると思う。まだまだ日本タンポポとシロバナタンポポが群生までいかないが生きています。彼らが帰った翌朝にはいたる所で花を咲かせていた。皆さんに心配かけています。ここ数日、DTM編集に終われ、やっと終えることができました。それにしても、みなさん情熱がありますね。ほんとうに一生懸命にやってくれる。妥協は最小限。こうして舞台が作られるのを実感してます。それにしても、殉教物は怖いです。魔物が住んでいるというか、悪魔がまん延して人心を惑わしもてあそばれている。救いは、極一部の善意あるのみ。 聞くところによると、怪談物や赤穂浪士などの公演にさいし墓参りや厄払いお寺参りなどと、笑ってしまいそうな話だが、そうはいえないような気がしている。やはり、悪魔がまん延しているのではないだろうか。今回、「わらべ唄」を初演するのだが、この大きなテーマと意義には自信があるし作品として耐えられるだけのものがあると思う。世界にも知られる超資産家で、全てを手中にした者がそれ以上に欲する物は何であったか。行き着くところは「人の愛」であること。これほど簡単で手に入れられそうなものが、実は手に入らないことを。人に愛してもらいたいが人を愛せない。人の本質がここにある。この「わらべ唄」に関係してここに全てを感じます。昨日、はじめて自分の作った音楽を耳にした。少ない楽器編成で、少ない楽器技量を考慮し、少ない音楽解釈を考慮して曲を書き上げることの難しさと妥協。補うべき技量のない音空間は空しく虚無の空間をかもしだす。それが書き上げた者の力だということを。15年前を思い出し、いかに迎合しているか。いかに音楽への真摯な尊敬と敬愛が失ったか。どうしてそうなったのか。すべて悪魔のささやきだったと感じている。 わずかな朗報は、書いた音符が思っていたとおりに音として出てきたことである。ほぼ80%いや90%かもしれない。これも恩師の教えと感謝を肌で感じている。だが、音楽表現するには程遠いものである。なんと言ってもハープが書けないこと。ハーピストは近くにいるのに、なぜ書けないのか。それと移調楽器の理解が劣り、その謙虚さ真摯さのなさから積極的音表現ができないこと。今一度、バッハに帰りたいものです。ある人から言われたこと。それは殉教物ができる幸せを。それを表現できる人のうらやましさを。行き着くところは「ねたみ・中傷」などに過ぎないことを。僕は言いたかったね、殉教なんぞと口に出すことすらはばかるべしと。われわれエセ信者には信仰なんぞと、殉教なんぞと軽々しく口にすべきでないことを。世界でも類のない大殉教が日本で何度も繰り返された。棒で殴られる程度ではない拷問を想像するするとき、とても、「私はイエズスを愛してる」などと口からもれる余地すらない。信仰のためにどれほどの試練に耐えられるか。この3年間、大事な手帳の中に収めている磔刑の写真を見ると、17歳の若者が槍で30数回左右から突き刺される。死んでいるにもかかわらず、規則にのっとって続けられる。「わらべ唄」のわらべ達の純粋な目にはどんな社会が写っているのだろうか。キリスト者のいないキリシタン劇には一筋の明かりと希望がのぞかせる。そんな思いを知ってかどうか、興味本位な若者にせがまれて教えた「ロザリオの祈り」。それに「しんぼうあい」の「信徳唱」「望徳唱」「愛徳唱」。唱えることも少なくなったこのごろにあって、深く理解しようとする若者の姿には頭が垂れた。真っ暗闇の中での本当の一筋の光りを感じた瞬間である。
2006年05月07日
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