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放射線チェッカーRAT-1 (高森コーキ)埼玉県川越市日時・・・・・・・玄関、ベラ、居間、書斎 01.31.07:15/0.10、0.0?、0.11、0.10μSv/h01.30.22:30/0.0?、0.10、0.11、0.10μSv/h01.30.20:00/0.11、0.24、0.12、0.25μSv/h01.30.19:30/0.10、0.11、0.0?、0.11μSv/h01.30.18:00/0.32、0.31、0.33、0.32μSv/h01.30.17:15/0.11、0.18、0.12、0.12μSv/h01.30.15:10/0.11、0.10、0.10、0.0?μSv/h01.30.10:30/0.11、0.10、0.12、0.11μSv/h01.30.09:00/0.33、0.18、0.25、0.19μSv/h01.30.08:00/0.17、0.18、0.17、0.19μSv/h1月29日のワンコイン・コンサートには遠くは東京から、近くは歩いて1分。気楽に生演奏が聴け、月に一度の再会に花を咲かせる情報の場でもある。一時間の演奏のあとお茶会になり演奏家を囲んでのコミュニティーとなる。特に年配者には様々な意味で音楽以上に大切な場となることを実感している。クラシックよりもカラオケの人たちが多いわけだが、クラシック楽器の生の息き伝えが目の前で展開されることでクラシックと言う難し概念を無条件に克服している。クラシックは難しいものではないと言うことが少しずつでも理解されるようになった気がする。不自由な方、病者の方は送迎しなければならない。みなさん口コミでお互いさまで車便乗されて来る。10人集まると10人の物語があるわけで、中には音楽を聞く環境ではない人もいるでしょう。音楽を聞く心と耳があれば月に一度の1,2時間でも何も考えず無の心を得られる。それが音楽だと思います。キャンバスに描かれた一輪の花は誰が見てもどの角度から見ても一輪の花である。が、音楽は全員が同時に心を一つにすることなく、自己のおもむくままに一人して音楽の世界に入ることができる。これが音楽の特徴だと思う。その感動も人それぞれである。長い年月の修業を要する座禅。無の心境は修行を要する。音楽はなんの意識もなく瞬間ではあるが無の心境を得ることができるのである。これは同じ音楽でも世俗曲ではそうではないと思います。それは世俗曲の持つ共通性。万人に理解されようと、理解できるようなレヴェルで書かれているから。そこからは何も得るものが見当たらない。クラシックの持つ作風、音律、アルモニー、楽器法などを踏まえて初めて「天使の歌声」が、「主の変容」が聞こえてくるのだと思います。車で送迎する中、放射線測定器はある所では1.36mSv/hだった。マイクロシーベルトではなくミリシーベルトである。突風だったのが原因と素人判断をしたがそれにしても怖い数字である。同じ場所で再度計測すると0.13μSv/hに下がった。放射能が風に漂っているのか、遠くお隣の国にも影響を与えるのが想像できる。もう先がないから心配してもしょうがないと高齢者は言うが、自身の事ではなく次の世代の人たちのことをなぜ考えないのかな。個人を大切にする考えは大切なことだが、あまりにも利己的ではないだろうか。2ミリシーベルト(mSv/h)あると長居しないのが賢明と放射線測定器販売元から聞いた。日常0.20マイクロシーベルト(μSv/h)だと年間にすると同じになる計算なわけで、じつに怖い国になったものです。いや、なったのではなく、もともとこの国はそんな国なのだと思います。利益優先企業が経営が怪しくなると国に丸投げ。税金をあてにする。中小企業だったらどうなのであろうか。武士社会の鎖国時代のDNAがいまだに残る国は怖いですね。お上のやることは何でもアリで、貧乏くじを引くのはいつも庶民なのだから。
2012年01月31日
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放射線チェッカーRAT-1 (高森コーキ)埼玉県川越市日時・・・・・・・玄関、ベラ、居間、書斎 01.30.10:30/0.11、0.10、0.12、0.11μSv/h01.30.09:00/0.33、0.18、0.25、0.19μSv/h01.30.08:00/0.17、0.18、0.17、0.19μSv/h01.29.08:00/0.11、0.0?、0.10、0.11μSv/h01.29.07:10/0.11、0.25、0.12、0.18μSv/hワンコイン・コンサート月に一度の自宅でのコンサートが昨日で18回目を迎えた。参加費は5百円硬貨一枚だからワンコイン。毎月29日の2時から。東日本大震災募金箱を設置して8回目にあたる。参加者は50名くらい。寒い風の中お集まりくださる人たちに感謝です。そして裏方をなさる人たちの一生懸命さには頭が下がります。今回は「チェロとピアノ」だった。僕も少しは大人になったのか、音楽を楽しむことができるようなった気がする。仕事柄、作品のあら捜しをするのが常で、良くて当たり前、いかにどんな方法で醜美を表現しているかを聞き分ける。今までは、作品そのものだけではなく演奏をも厳しく聞いていたが、ここ最近は演奏を聞かずに作品を聞くようになった。兄弟子がそうである。僕は作品よりも演奏を重視する傾向にあったが、兄弟子は作品を聞き、演奏そのものには耳を傾けなかった。やっとそんな態度ができるようになった気がする。兄弟子と言っても80を超えた。僕らは演奏会に足を運ぶこともレコードを聞くこともほとんどない。机の上に楽譜を広げて音符から音楽を頭で聞くのが一般的だ。兄弟子と音楽を聞いた時の事。たいしてうまいとは思えない演奏ではらわたが煮えくり返る僕に対し、兄弟子は演奏の音ではなく作曲者の意図するところ、音楽形式、管弦楽法を聞いている。その態度は真似のできないことで、さすがと今でもそう思っている。今回の演奏会でフォーレ、ドビッシーを聞いていると、新しい作風の中につねに心底にはグレゴリオ旋法があることを強く感じた。枝葉の変化は作曲家の作風だが、根底にはグレゴリアンという根っ子があって初めて音楽が成り立つのかもしれない。主の変容が音楽で表現される、そんなことを再確認した演奏会だった。グレゴリオ聖歌やミサ曲がカトリック教会から離れ、いまはプロテスタント教会や演奏会でないと歌われ聞かれない昨今、なぜか複雑な思いです。カトリック教会では御ミサの根底であるグレゴリオ聖歌から歌いやすい安易な世俗音楽が中心になったように思える。サロンコンサートは30年前でしょうか一時ブームだった。音大を出た人たちが演奏家となって小さな演奏会をいたるところで開いたものだった。音大を出れば即演奏家と、恥ずかしくもなく演奏家気どりで音楽をばらまいたものである。人様の前で、僅かなお金でも頂く以上はそれなりの演奏をしなければならないのにである。音大では演奏の基礎を教えるだけで音大を出て演奏会になれるわけではない。法科を出て全員が弁護士や法律の仕事ができるわけではないのといっしょ。音楽大学はある所の特殊性か、音楽を学ぶのと演奏家になれるのとをはき違えているようだ。音大でて町場で音楽教室を開くのも同じで、プライベートレッスン指導法はまた違う分野であるのに。そんなサロンブームは大きな誤解を生み、音楽と演奏に疑心暗鬼、音楽を後退させたと思う。だが今の音大出の若い音楽家はその頃とは意識も技術も違う。嬉しい限りです。来月の29日は2本の「ライアー」の演奏です。
2012年01月30日
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放射線チェッカーRAT-1 (高森コーキ)埼玉県川越市日時・・・・・・玄関、ベラ、居間、書斎 01.28.19:00/0.11、0.12、0.12、0.16μSv/h01.28.17:50/0.33、0.26、0.26、0.29μSv/h01.28.14:30/0.17、0.19、0.18、0..5μSv/h01.28.11:40/0.26、0.24、0.25、0.18μSv/h01.28.10:40/0.11、0.18、0.11、0.17μSv/h01.28.07:45/0.27、0.24、0.27、0.26μSv/h01.28.06:30/0.24、0.32、0.21、0.34μSv/h01.28.01:45/0.49、0.59、0.48、0.58μSv/h01.27.23:30/0.11、0.15、0.10、0.18μSv/h01.27.22:10/0.24、0.35、0.24、0.36μSv/h01.27.19:00/0.18、0.18、0.18、0.24μSv/h01.27.12:40/0.26、0.25、0.32、0.19μSv/h01.27.11:50/0.11、0.10、0.10、0.11μSv/h01.27.08:30/0.10、0.0?、0.0?、0.10μSv/h01.27.00:05/0.22、0.19、0.17、0.18μSv/h 「ルカによる福音書」8:5「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。 8:6ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。 8:7ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。 8:8ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。 8:9弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。 8:10そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。 8:11この譬はこういう意味である。種は神の言である。 8:12道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。 8:13岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。 8:14いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。 8:15良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。東日本大震災は日本人に多くを教えてくれたと思う。自然からの警鐘か、自然からの恵みか。それとも神仏からの警鐘なのか。日本全国津々浦々まで報道によって全ての日本人がこの災害をかたずをのんで注視した。阪神大震災で多くを学んだ日本人はその経験をふまえ迅速に対応するはずだった。ある種の人たちはそれ行けとがむしゃらに自己主張をすべき現地に踏み込む。全国のボランティア窓口は対応できない程の応募者が殺到し、あげくは観光会社やバスツアーまでして現地に乗り込んだ。会社を休みまでして何をしに行ったのだろうか。TV24時間チャリティーなどでは大勢の善意のカンパが集まる。お祭り騒ぎである。今回も日赤などに大変な募金が集まったようだ。なかには、万単位の金額を募金したと自ら話す光景を多く見た。芸能人は東北に行けばテレビに映る訳でしっかり自らの宣伝を忘れない。抜け目ない。「やもめの献金」を思い出す。まさに聖書の時代から同じことを繰り返す人間の哀れさを感じる。3月11日。もう一年になろうとしている。ボランティアを募集し参加クジにはずれた人、年齢制限ではねられた人・・・、みなさん今はどうしているのかなぁー。今なら、いつでも行ける環境が整っていますよ。「仕事があって、体調が悪くて・・・」と結局はそう言うことなんですね。ある宗教団体の上部の集まりでの話し。「今は寒い時期なので少し気候が穏やかになってから参加者を募集して行きましょう。」との意向方針だった。。。チョット待てよ!東北は寒いよ、雪も積もっているよ、厳寒だよ。今だから何かしないといけないのでは? 金も生活必要品も心の交流も、今こそすべきではないの? あったかくなってからなんて言っていられないのでは?宗教者にあってこうなのだから世俗人ではなおさらかも。「見ても見えず、聞いても悟らず」寄ってたかって人は大勢いるが、人はいないものです。
2012年01月28日
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簡易放射能測定器 埼玉県川越市 日時・・・・・・・/玄関、ベラ、居間、書斎 01.27.11:50/0.11、0.10、0.10、0.11μSv/h01.27.08:30/0.10、0.0?、0.0?、0.10μSv/h01.27.00:05/0.22、0.19、0.17、0.18μSv/h01.26.23:50/0.25、0.25、0.26、0.25μSv/h01.26.23:00/0.10、0.10、0.11、0.10μSv/h01.26.21:00/0.25、0.25、0.25、0.25μSv/h01.26.19:50/0.25、0.18、0.25、0.26μSv/h01.26.19:15/0.36、0.36、0.19、0.18μSv/h01.26.15:10/0.25、0.25、0.24、0.26μSv/h01.26.10:00/0.11、0.11、0.10、0.11μSv/h01.26.09:00/0.0?、0.10、0.0?、0.10μSv/h01.26.08:10/0.0?、0.0?、0.0?、0.0?μSv/h我が家の川越市HPで「放射線量」を見ようと思った。だがどうも大きくは公示されていないようだ。昨年、なんどか体裁程度に計量したらしい形跡があるだけ。メールにて問い合わせをしてみたが、なんら回答もない。市役所の職員は市民のために働いているのか、給料を得るためだけの職場なのだろうか。公僕という二文字をいまいち市職員は考えてもらいたいものです。僕に似てきつい性格の娘からプレゼントされた腕時計。世の中の流れとは無縁にチカチカと時を刻んでいる。時おり耳に近づけると、ときには2拍子、3拍子、ときには変拍子を刻む。人間の耳はいい加減である。朝起きるとゼンマイを巻かなければならない。孫や友人知人の今日一日の平安を願いながらひと巻きひと巻きネジを巻く。ただし30回ほどが限界なので、最近はひと巻きに何人かになってきた。それだけ病人や病んでいる人がいると言うこと。「祈り」なんといいう響きか。“祈ります”“祈ってます”と日常語として良く使うが、そう言われるとどれほど力を得るか。うれしい響きです。どんな方法でも、どんな自分流でも、人が祈ってくれると言うことはありがたいものです。ほんの数分でも自分のために時間をさいてくれると言うことはありがたいものです。自分が病症にあって、経済苦の中にあって、心に留め祈ってくれると言うことはありがたいものです。僕が中学生の頃は難しい日本語で意味も分からず丸暗記したものだった。ラテン語の受け答えとなると本当に丸暗記。ちょうどお経を聞くようだったが、時の流れと共にその難しい日本語もラテン語も理屈の上では理解できるようになった。「てんにまします(天に在す)」「しょせいじんのつうこう(諸聖人の通功)」「にくしんのよみがえり(肉身の蘇り)」「われらちくたくのみなるえわのこなれば(我ら逐謫の身なるエワの子なれば)」「逐謫の身」神に呪われ楽園から追放されて地上を苦しみながらあてみなくさまよい生きている人類のこと。“我らチクタク、チクタク”と時計の音のチクタクと子供遊びをしたのがつい昨今と思い出される。年齢と共にそれが多少は分かるようになった。文語体はいいですね。今は口語体にかわり、小さな子供でも分かるように、分かりやすい文章になり、あの重厚な重みのある深みのある梵語のような「祈り」は無くなってしまった。主要な祈り文は口語体になり、そのほとんどの祈りは昔のままの文語体。このアンバランスはどこから来ているのだろうか。少なくとも僕と周りの人は今も文語体を使っている。従って、おおやけな場では口をつぐむしかない。その場に入れなくなっている。主梼文、信仰宣言、栄唱、お告げ、天使祝詞くらいはラテン語で唱えたいものです。祈り。意味も分からず丸暗記していた祈り文が、その意味が理解できるようになり、祈りそのものが年齢と共に変わってくる。右から左に流れる如く、ただ口から発する祈り文は血に肉にあらずで、僕は最近やっと主梼文などがやっと自然に出るようになってきた気がする。運転中でも何かの作業中でも。
2012年01月27日
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日時・・・・・・玄関、ベラ、居間、書斎 01.25.09:00/0.0?、0.0?、0.0?、0.0?μSv/h01.25.10:00/0.11、0.10、0.10、0.10μSv/h01.25.18:40/0.11、0.11、0.17、0.10μSv/h01.25.20:30/0.10、0.10、0.0?、0.10μSv/h01.25.22:10/0.11、0.11、0.18、0.11μSv/h01.25.23:00/0.0?、0.0?、0.0?、0.10μSv/h01.26.08:10/0.0?、0.0?、0.0?、0.0?μSv/hここに書くことは敗戦後少しまで続いたこと。半世紀が過ぎた古い過去の話しのようでいて、今の日本を考えると本質的に何も変わっていないような気がする。その場しのぎの、責任は先延ばし。人としての営みも只々生きるため、食うためだけで時が流れているような気がする。その日その日を生きながらえ、そんな中にあって文学表現に生きる糧を見出し、指先で文字を読むこともできず、人間の最後の敏感な「舌先」に希望をかけ、大変な苦労の末に舌で点字を読むことができるようになったハンセン病者たちがいた。舌読は彼らが初めて試み成功した点字方法で、それは想像すら出来ない苦労の連続だった。この点字解読の方法を教えた人は「そんな方法もあるらしい」と軽い気持ちで発言したもので、誰もやったことも会得したことでもない話だった。それを、一部の希望があるならばとライ者数名が挑戦したのだった。詩をよみ、俳句をよみ、文学や聖書を読みたい、ただその一念だったと聞く。盲人が真っ暗闇の世界にあって、戦後の食糧難、人間の荒廃の中でこのような希望と情熱に燃えるライ者がいたことは奇跡かもしれない。ライ病は末端神経を侵され痛みを感じない。火鉢で暖をとりながらうたた寝して気が付けば手の指先から骨が見えてた。焼けた臭いも分からず、焼ける痛みも気が付かず、最後は指先をはさみで切ったとその指を見せてもらった。麻痺。舌は大変敏感なか所だから点字の訓練には敏感すぎる。舌先から血が出ていても本人には分からない。痛みもないし。目明きが気が付いて教えてくれるのを待つしかないのだ。そんな中で、詩をよみ、俳句をよみ、イエズスの御言葉を知る。健常者が黙読するのとはわけが違う。舌先でよだれを流しながらひと文字ひと文字を舌先で探し読みをするのだから。この耐え難い長い時間をかけて舌読する。そんな人たちの姿と過去の生活を時の流れだけで葬り去るのはたやすいこと。だがそうしてはいけないと思う。聖書をいつでも読むことができる。彼らの読み方を考えると、我々の聖書の読み方はどうなのだろうかと考えさせられる。点字がよだれで点字の姿が失せた点字本を手にすると、これらが信仰生活を送った先人信者らから学ぶべきことは多いと思う。そのためにも、これらの点字本を保存し展示すべき場所と環境を望みたいものです。
2012年01月26日
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簡易放射能測定器 埼玉県川越市 日時・・・・・・玄関、ベラ、居間、書斎 01.23.02:15/0.17、0.18、0.16、0.19μSv/h01.23.07:45/0.26、0.26、0.25、0.25μSv/h01.23.08:50/0.36、0.36、0.35、0.37μSv/h01.23.09:15/0.10、0.10、0.10、0.10μSv/h01.23.14:35/0.24、0.25、0.20、0.26μSv/h01.23.19:05/0.25、0.19、0.24、0.17μSv/h01.24.01:35/0.10、0.10、0.12、0.10μSv/h01.24.08:10/0.17、0.12、0.12、0.15μSv/h01.24.08:30/0.33、0.23、0.26、0.32μSv/h01.24.13:30/0.26、0.24、0.25、0.25μSv/h01.24.15:35/0.25、0.17、0.26、0.24μSv/h01.24.18:20/0.0?、0.10、0.10、0.12μSv/h01.24.21:00/0.32、0.33、0.35、0.25μSv/h01.24.23:30/0.17、0.18、0.23、0.24μSv/h01.24.23:55/0.0?、0.11、0.10、0.12μSv/h『点字舌読』ハンセン病は「三つの門」をくぐると言う。第一の門は、発病の宣告で病名を知った時、心底から打ちのめされ自殺を思い立ち、自殺者が出る深刻な難門をくぐるとき。第二の門は、失明。この時また自殺者が出る難門をくぐるとき。第三の門は、気管切開。のどの気管上部にまで結節ができて息ができなくなる最終的な難門をくぐるときである。この「三つの門」という表現は、ハンセン病者の苦しみを良く伝えていると思う。第二の門をくぐり新しい世界、生き方を模索する中、ある病者は文学に道を求めた。「知る・表現の世界」を求めながら失明のなか指先で文字を読む点字を知る。だがこの病気は末端の指先に麻痺を与える。指先で文字を読む術を失うのだ。最後に残された感覚は「舌の先」である。こうして舌を使っての点字舌読が存在した。時代とともに録音機によって舌読は無くなったが、それまでして「知ろう」とする人たちがいたことを我々は忘れてはいけないと思う。80を過ぎいま一人お元気でおられる。本を読み新聞を読み何不自由のない目明きにとって、目が見えないと言うことはどれ程の事であるか想像すら出来ない。僕は糖尿病から眼底出血で右目に突然鮮血を見、一瞬にして奈落の恐怖を肌で感じた経験を持つ。失明の恐怖がどんな世界なのか多少を経験した。失明をしてもなおかつ文芸に励む力はどこから来るのか、人間の神秘を感じられずにはいられない。舌読は点字本を唾液で点字そのものも失せ、回し読みをすることもできない。また点字本そのものも彼らの死後廃棄処分されるのが現実のようだ。我が家には、そんな点字本がわずかに残っている。遺品となる品々だ。これらは後世に残すべきものであると思う。盲人となり舌先で点字を読む方法を考え出し実行した最初の人が今もお一人だけ健在。その話をレーゼドラマ(朗読と音楽)として近々発表する予定です。朗読者がいないことで苦慮しています。なんせボランティアですので人探しは本当に難しいですね。僕の知る限りの周りには結構いるんですがね。いざとなると、いないんです。金のならないことには沈黙がこの世の常識なのでしょう。悲しい世の中です。
2012年01月25日
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簡易放射能測定器 埼玉県川越市日時 玄関、ベラ、居間、書斎 01.21.09:30、0.26、0.25、0.25、0.25μSv/h01.21.13:00、0.10、0.0?、0.11、0.10μSv/h01.21.16:00、0.10、0.11、0.11、0.12μSv/h01.22.08:00、0.0?、0.0?、0.10、0.10μSv/h01.22.14:00、0.10、0.0?、0.10、0.11μSv/h01.22.23:45、0.10、0.10、0.11、0.13μSv/h01.23.02:15、0.17、0.18、0.16、0.19μSv/h01.23.07:45、0.26、0.26、0.25、0.25μSv/h「ふくしま集団疎開裁判」見てください!http://www.youtube.com/watch?v=bqVTYiDLOD4http://www.ustream.tv/recorded/19753515法律では年間1ミリシーベルト(mSv/h)以上の被爆をさせてはならないらしいが、文科省は20ミリシーベルトは許容範囲だそうだ。チェルノブイリ原発と比較すると世界唯一原爆被爆国民としておとなしくしていて良いのだろうか。ここは大人になってジッと我慢すべき。あんまり騒ぐと結局は増税となって庶民にのしかかって来るからと。なんて「我慢強い国民」なのか。放射能は風に乗って国外にも飛んでいくのに。子供にまで、我が子の将来がかかった事件なのに。何という国民なのか。年間1ミリシーベルト(mSv/h)とは、一日0.20μSv/hとなる。我が家の安物の放射能測定器でも0.10~0.20μSv/h、多い時は0.30μSv/h代になる。と言うことは、我が家の埼玉県川越市でも危ない話ではないのだろうか。我が家の近くの小学校では、幼稚園では、どんな対応をしているのだろうか、先生たちは。先月、草津に行ったときは、我妻渓谷あたりの新しい道路(山の上の)にある2・3キロの長いトンネルの中で「7.60μSv/h」だった。驚く数値だった(やっぱりこの測定器は故障していると思った)。草津町では1.32μSv/h前後。3日後の帰路のさいには0.10μSv/hだったので。測定器が正常なのかどうなのか分からない。測定してものの10分後には変わったりするので、メーカーに問い合わせてみます。学校や幼稚園ではどのように子供たちを指導しているのだろうか。人様の子供をあずかり教育している教師は、事実を知っていて、正しく子供たちに教えているのだろうか。アメリカに連戦連勝と政府も教育現場もマスコミも教えていたあの時代を連想する。あの時代の教師のことを我々は思い返さなければいけない。同じ過ちを犯してはいけない。子供たちの未来のために。「放射能値の高い地域の教師は自分の子供と家族は避難していると言う事実はないでしょうね。」教師が一丸となって子供の安全を戦わないと。・・・そんな根性とポリシーは持ち合わせていないかも・・・ネットで放射能情報を共有したいものです。Ps.ある宗教団体で聞いた話。要約『福島へのボランティアを募っています。被害者の方たちお話のお相手でも何でもけっこうです。用紙に書いて申し込んでください。応募者の現状は、今は寒い時期なので不足しています。気候が良くなると希望者は増えると思いますが。』と。寒いからこそ苦しみを共有すべきではないでしょうか。これで何が宗教だと言いたいですね。
2012年01月23日
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簡易放射能測定器 「埼玉県川越市」日時 玄関 ベラ 居間 書斎01.19.09:45、0.18、0.12、0.18、0.18μSv/h01.19.13:15、0.0?、0.10、0.10、0.10μSv/h01.19.20:20、0.31、0.32、0.32、0.32μSv/h01.19.20:35、0.10、0.10、0.10、0.10μSv/h01.20.04:15、0.30、0.31、0.32、0.32μSv/h01.20.09:30、0.11、0.12、0.12、0.17μSv/h安い放射能測定器だからいい加減かも知れません。01.20.10:40、0.0?、0.0?、0.0?、0.0?μSv/h雨が降っていることが関係しているのかも。見てください!http://www.youtube.com/watch?v=y-oG4PEPeGo我が国の「総理大臣」は、総理になる前はこんなことを言っているようです。庶民が居酒屋で酒の勢いを借りて大風呂敷を広げるのとはわけが違う。街頭演説なら何でもアリなのかな。野党のときは与党の反対を言う。与党になったら同じことをするのなら、何のために与野党なのだろうか。こんな算数は小学生でも分かる。恥ずかしくないのだろうか。総理になる前と総理になってからでは「消費税反対」「マニフィストは公言実行」と言っているようですが。「マニフィスト」ではなく、公僕者たちは「マニーフィスト」なだけ。庶民にはカメラ・ビデオ・録音機能付きの「携帯電話」があるのを知らないのかな?あとに言った言わないなんて言わせない。皆さん見てください。そして知り合いに発信してください。
2012年01月20日
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簡易放射能測定器 日時 玄関 ベラ 居間 書斎 01.19.09:45、0.18、0.12、0.18、0.18μSv/h01.19.13:15、0.0?、0.10、0.10、0.10μSv/h東日本大震災被害者の楽友から手紙を戴いた。僕より15ほど下だから45才ぐらい。優秀な人で地方にも音楽文化をと言うポリシーで頑張っていた。見た目は華やかな都会での活動ではなく地方に根差すと言うことだった。何カ月に一度かは上京しレッスンを続け、小さな演奏会を続けてきた。そんな楽友には編曲などのお手伝いをしてきたし、新曲を一昨年に書いた。仮設住宅住まいとは人伝えに聞いてはいたし心配もしていた。女文字の差出人は奥さんからのようで、不安が的中した。やっぱりか・・・。日ごろ話ししていることが現実のものだった。これで芸術関係の仲間が何人目になるだろうか。思い起こせば阪神大震災の時もそうだった。指先を大事にし、重いものを極力避ける生活をしている者が、全てを失い、お金のためにどんな仕事ができるであろうか。家族を抱え、奥さんも同じ職業の場合は特に厳しい職業選択肢を迫られる。幸いに土地はあると言っても全てをなくして。日ごろ我々芸をなりあいとする者は人様の余りで生活するのを覚悟しなければならない、と。人ごとではないこの現実。芸の厳しさを実感した朝を迎えた。僕の書いた曲は音に出来なかったが練習をしっかりし昨年夏の舞台に乗せる計画だったと言う。いまは彼と一緒に楽譜は空に舞ったと書いてあった。これで何人になるだろうか。ノヴェナを今日から祈ります。長い一党政治から新しい政党に希望が高かっただけに、政治への関心が以前に増して無関心と絶望感が感じる。お上が頼りにならなければ我が身は我が身で守ると箪笥預金しかない。お金は眠ってしまう。原発の原因究明もうやむやに電力料金を値上げしようとしている。ついでに消費税でなんとか帳尻を合わせようとしている。その場その場の政治力はその国民をあらわすわけで、徳川時代からのDNA。これでいいのだろうか。演奏会での募金集めは下降線気味。もう東日本大震災は過去のものとなりつつある。阪神大震災の後遺症は今も続いていると聞く。力ある者は発展しビルも産業も動いているが弱い者はいまだに大震災から時計が止まっていると聞く。東日本大震災も結局は弱い者だけが被害者になる訳で、国も国民もそっぽを向いてはいけないのでしょうが。
2012年01月19日
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簡易放射能測定器 日時 玄関 ベラ 居間 書斎 01.16.08:50、0.10、0.12、0.12、0.16μSv/h01.16.12:00、0.11、0.12、0.18、0.23μSv/h01.17.07:00、0.0?、0.0?、0.10、0.11μSv/h01.17.09:15、0.32、0.33、0.36、0.36μSv/h01.17.10:35、0.10、0.0?、0.10、0.10μSv/h01.17.18:20、0.0?、0.10、0.12、0.10μSv/h01.18.08:30、0.12、0.11、0.11、0.10μSv/hブログを始めたのは2004年1月から。自分だけが知りうる自分の記録を公開し、全く不特定少数の人に発信しているかのようで実は自己批判自己評価自己満足をしているに過ぎない、と言う部分もあるのがブログでの感想。これが癖になり、ブログが人生の中心となって、いつの間にか本来の日記が日記ではなく尾びれが付き空想が付いて、自分を失った世界・バーチャルな時を過ごすようになる危険性を秘めている。誰も見ているわけでもなく、だから好き勝手に装飾された話によって傷つく人も出てくるし、誤解トラブルが起こる可能性も含んでいる。「Aさんが・・・」と言う仮名とそのストーリーに覚えのあるAさんが気が付くこともある訳だ。何が原因か分からないが楽天ブログからアクセス記録が削除された。アクセス記録削除によって誰が見てくれているのか分からなくなった時点で、日記ブログの価値が亡くなった。あとはお知らせ情報の交換だけ。ブログがどんな変化をもたらすのか注目するところです。個人的にはこれで平安な生活に戻れるような気がする。今までは、アクセス記録を見て訪問者ブログを開くと「裸のオンパレード」。不特定多数に問答無用で送り続けるのだろうか、やりたい放題、常識も恥じらいの欠片すらない。犯罪にはならないのだろうが、やる方は面白いのだろうね。一種の快感を感じるのかもしれない。それにしても気になるのは出演者の若い女性たち。顔も出てるしそれも裸で。大丈夫なのかな?世間は広いようで狭いから。肖像権はどうなっているのかなぁー。ブログは大人から子供まで誰もが自由に楽しめ利用している。今の世の中、タバコを買うにもチェックされる世の中だと言うのに、エログロ・ブログの対応が遅すぎたのではないだろうか。結果的にアクセス記録削除につながったことは楽天ブログ主宰者の問題かもしれない。
2012年01月18日
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簡易放射能測定器 日時、玄関、ベランダ、居間、書斎 01.16.08:50、0.10、0.12、0.12、0.16μSv/h01.16.12:00、0.11、0.12、0.18、0.23μSv/h01.17.07:00、0.0?、0.0?、0.10、0.11μSv/h01.17.09:15、0.32、0.33、0.36、0.36μSv/h01.17.10:35、0.10、0.0?、0.10、0.10μSv/hある教会で主日ミサに与った。15日きょうは「主日の集会祭儀」(司祭不在の)だった。教会で長く活動してきたであろう長老らしき高齢信者が祭壇に立つ。その仕草は司祭と同じよう。聖櫃から御聖体を取り出す。何やら司祭のように祈り?を唱えている。カリスの中から白い物を取り出すとき高齢者の言い訳かその白い物達をコルポラーレに落とした。その慌てさに同情とその他の感情を誘う。御聖体を信者に示し、聖体拝領の列が続く。僕は遠慮した(同じように不快感をあらわした信者も見かけた)。聖体拝領後の沈黙の中で素人フルーティストの奏楽が流れる。お世辞にも習いたてのフルートの音色に、この人は何を言いたいのだろうかとその仕草を凝視。祭壇下手の人の目が集中する場所で。練習はご自宅でどうぞ、十年早過ぎはしませんか、と。その間にまたしてもサプライズ! 聖櫃にカリスを安置しカギをかけようとしてまたしてもカギを落とす。緊張しているのでしょうねと、同情を超えて怒りかな。こんなことを何度も続けて人間は成長するのでしょう。良い意味での成長なら良いのですが、しかし、こと教会内では如何なものであろうか。さんざん社会の悪につかった手と心の社会人のやるべき行為なのだろうか。この行為が通常化常識化しステータス化し信者間に階級を作る。もう出来ているのでしょうね。「コルポラーレ」(聖体布)。司祭はミサ中、この布を祭壇の上に広げてパンを置き、そして祈りによってそのパンをキリストの御体に聖変化させる。同じように「プリフィカトリウム」という布は、イエズス(今は「イエス」という)の御血を飲んだ司祭が口を拭いたり、また飲み終わった後のカリスを清めたりする布。ミサ後、これらの布にはイエズスの御体や御血が微量に残っている。これらの布は司祭の手によって洗われる事になっている。その後、洗浄に使った水は人が絶対に踏まない場所に流されるそうです。だが、そうも言えない光景を目にすることがある。ごミサの直後、そのコルポラーレとプリフィカトリウムを信者のご婦人が洗濯機の中にポイ・・・。恐ろしい話です。
2012年01月17日
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頼まれていた「越後獅子」がいまやっと完成。12パートと打楽器の編成。以前にも書いた曲なのだが日本の旋律は難しい。アルモニーは西洋音楽の為で日本音楽にはめ込むのがそもそも無理な話なのだから。何度か試してみた音楽ソフトでデッサンなくいきなり音を出しながら書いてみました。しばらく入力してみましたが音を聞きながらだと迷います。しばらく時間を空けてみ見ますとどうしても気に入らないし、誰もが分かるような音楽の流れになってしまう。結局、五線譜に手書きで書くのが一番ですね。パソコンは浄書楽譜の制作には便利だがそれ以上のものではないと言うことです。あとで昨日の御ミサのことを書き足します。
2012年01月16日
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簡易放射能測定器01.13.am.7:24、玄関前0.0?、ベランダ0.10、居間0.10、書斎0.10μSv/h心配したチェーンは不要だったが草津はすっかり冬の顔を見せていた。高速道路は政党が代わり料金が安くなって喜んだのもつかの間、いつのまにか元に戻ったようで、何にも変らない。むしろ地震原発沖縄等々と政治への失望感は増すのみ。草津の来訪者の宿泊施設は利用者は誰もいなく、不気味な不安のよぎる空間である。この療養所の歴史を多少は知っているので。夢を見た。秩父の温泉で「音響」の講義を受けた30年前の復元だった。あのころは先生がお元気で、犬がこけても、一輪の花を見てもそれがテーマとなり先生からお話を多くを学んだ。お風呂で声を出すと当然のことながら音は響くが、それがどのようにして反響するのか。風呂の水面に向かって発声するとどうなるのか。水面を揺らすとまた違った結果が出る。人声でなく楽器ならどうなのか。先生と秩父にご一緒した時、このことでお寺に足を運んだ。鐘楼を見、鐘の下をのぞいた。そういいうことですか、先人の知恵。音響と倍音をそらんじる先生の頭の中はどうなっているのかと。久しぶりに先生が話された倍音を温泉につかりながら思い出した。いまなぜ音響と倍音を考えなければならないのか。きっと近いうちに必要になる事項なのだろうと。お風呂は僕一人なので「ロザリオ」を唱える。四隅に向かって、天井に向かって、水面に向かってと色々工夫をしてみる。草津の早朝は厳しく、昭和20年前後にあって特別病室に入れられた人を思い出した。氷点下10何度、電灯も暖房も人もいない個室に。朝のお御堂は小さな赤いランプだけがまぶしく点灯していた。自分の意志で朝の6時に訪ねたこの空間は貴重な体験だった。ステイタスな信仰の身にはこたえる寒さ。ステイタスな祈りには耐えられない寒さ。ステイタスな祈りの姿は誰かが見ていないと落ち着かない。「祈り」の必要性。祈りが人の「糧」となることを多少感じることができた。キリストを知って50年。ステイタスな信者、ステイタス・クリスチャンにとって今回の草津行は原点に戻る、そんな旅だった気がする。13才のあの多感で燃えていたころを。楽天ブログの一連の削除は、人に見せるもではなくまことに自我日記の方向性を示しているのかもしれない。ハンドルネームとか源氏名ではなく夢の世界自己顕示から「実名」が望まれた結果でしょう。
2012年01月13日
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我が家の放射線簡易測定。朝7時半、0,10以下。空も晴れ程よい風は冷たくとても快適な冬の朝。朝8時半、書斎0.19μSv/h。もう高くなってきた。この測定器安いだけあっていい加減かも。いつものことながら、どっと何かに熱中しいつのまにか冷めている。そして次の何かをじっと待っている。放射線測定器。本来は十万単位なのだろうが数万に、それが5千円程度に、今はホームセンターでも吊るされてお客を待っている。もう必要のない商品になろうとしているのかもしれない。東日本大震災被災地は遠いしTVの画策で安心できそうだし。いつのまにか消費税増税は国民の合意事項だし、年金も医療も国にお金がないのだから仕方がない。いつのまにか冷めて、お上の言いなりのシナリオ通りに右を向き左を向く国民。イラクの自衛隊派遣から始まり自衛隊は今回の東日本でも大活躍。国民のために我々は犠牲を覚悟に働いていますとTVインタビューをしていた。その姿に感動し、自衛隊の存在を頼もしくも思え、若者の軟弱さと自衛隊とがダブる。そしてまた海外派遣がこんどはスムーズに国民も理解するだろう。原発の廃止は大変な負担であることも、国民は充分にすりこまれ理解した。怒らない国民は怒らない分だけ負担をしなければならないと言うことでしょうかね。これから草津に行きます。月に一度の、今年初めてのミサがあります。草津は寒いでしょうね。零下10度以下にもなるところに何の理由にもならない理由で監禁されて凍死餓死したハンセン病者がいたのを、知らない人もいるし、もう忘れた人もいる。嫌なことはタブーにね。先日知ったのだが、病者の絵を知った。これを今回持参しようとプリントアウトすると、何度やってもうまくプリントできない。やっちゃいけないことをしているからなのか嫌な予感、気分になっている。メーアクルパ、メーアクルパ、メーアマクシマクルパ。これ我が過ちなり、我が過ちなり、我がいとおいなる過ちなり。
2012年01月10日
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簡易放射線測定器01.09.am.8:00 玄関前0.17、居間0.19、ベランダ0.17、書斎0.16μSv/hあと数日で足跡が無くなるようで、良いような悪いような複雑です。アクセスくださる方のブログを開くといきなり裸のオンパレード。タバコのように大人であることが証明されてのブログと違い、誰もが子供も見ているわけで、ブログ主宰者はどう考えていることやら。だんだんと質が落ちてきているのかも。一方的に日記の書き込みもなく、ただ「エロや商品紹介」を送りつけてくる。ブログの方向が迷路でさまよっているのか。楽天ブログから始まり、楽天ブログしか知らない者にとっては残念でならない。1月9日は「主の洗礼」ヨハネは自分の方へイエズスが来られるのを見て言った。“見よ、世の罪を取り除く紙の小羊”アレルヤ、アレルヤ1月11日(水)1時から、草津カトリック教会「年間第2主日」の御ミサ。今年初めての御ミサです。ここの信徒委員長ご夫妻ともに1月生まれですので、新年と誕生日をともに祝います。今年8月でこの教会は献堂50年になります。この教会は多くの人の善意で建てられ、この施設から一生出られない生活の中で信仰生活をした先人信者さんらの霊魂の宿る教会です。お出かけください。車の方はチェーンの用意が必要です。念のために。宿泊はこちらに連絡ください(シーツ代350円のみ)。
2012年01月09日
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簡易放射能測定器01.08.am.7:00、玄関前0.31、居間0.28、ベランダ0.36、0.書斎32μSv/h寒くなってきました。東北の被災地はどうなっているのでしょうか。ただそう思うだけでまた一日が過ぎてゆくだけのこと。ほんの少しでも、被災者の苦しみを共有できる瞬間があったと自我満足をするだけのこと。被災地に関してはとても楽観的には考えられないでしょう。何しろ広島に落とされた原爆の29倍の核燃料が放出されたと言うのですから。“風に乗って飛んでいきたい!”とどこかの歌詞にありそうだが、現実に風に乗って飛んでくるのだから恐ろしい話。「5年後の日本は?」生まれた子供が小学生になるころにはどれほどの幼児被爆問題が世間を騒がさるのだろうか。第1:先の大戦を仕掛けた日本は「原爆」を落とされ「政府の無能さと国民の低い意識」が露呈した。世界でわが国だけと原爆の恐ろしさを世界にその被害の恐ろしさを訴える。だから原爆をなくそうと。第2:こんどの東日本大震災では「原発」の安全は神話に過ぎないことを世界に身を持って訴えている。広島原爆の29倍とも言われる放射能が目に見えず風に乗って漂っている光景を、ただ、あぁそうですかですむのでしょうかね。日本人の無関心さは異常ですね。あんまりさわぐなよ・・・。世間体もあるし・・・。心の指導者である宗教人は沈黙を守り何も言わず、政教分離を盾にそっぽを向いている。原発は安全ではないのだと。その快適な生活をするには大きなリスクを伴うことを世界に教えたとともに、日本の無能政策と国民の政治への意識の低さ無関心さが世界に知られた。大学出の学士さまが多い国にあって。第3:今度はそうはそうはいきませんよ。二度あることは三度あると言いますから。日本各地の原子炉が地震で爆発するような気がします。二度あることは三度あるから。そうなる前に、高学歴の国民には大きな武器がいまある。いたるところで庶民のただ普通の市民による「ミニ・テロ」「プチ・テロ」が続出するでしょうね。その一番槍が「インターネット」でしょう。僕はこの「ネット・テロ」には注目してます。子供を持つ母親がもっと真剣に全国各地で抗議を起こすかと思っていたら、せいぜいクリスマスのイルミネーションの自粛ていど。あなたの子供が放射能に狙われているのですよ! みんなで渡れば怖くない。観光ツアーで同一行動の国民には個人の意思意見がないのかな・・・。いま日本で注目されるのは世間を充分知った社会人の男女ではない。小さな子供の母親。若い母親らが立ち上がらないと日本は滅亡の奈落の底に落ちてゆくと思います。福島原発から埼玉県川越はどれほど離れているのだろうか。対岸の火事どころか対岸も見えないはずが、朝起きて簡易放射線測定器は0.30μSv/hを表示している。一時間前の書斎0.32が今は0.26μSv/h。放射能は見えないだけに怖い。
2012年01月08日
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簡易放射能測定器01.07.am.8:30 玄関前0.33、リビング0.32、ベランダ0.33、書斎0.32μSv/h0.10が急に0.30位に変わる。簡易なだけに壊れているのかなぁー。そうであってほしい。楽天ブログもエロブログに占拠変身。ブログの進化がこんなものだったのだろうか。12日でアクセス記録が無くなるようで、これで良いのかもしれない。ブログを覗いてエログロのオンパレードは子供の教育には良くないだろうし、一方的に配信されるのだからどうにもならない。まるで旧約聖書の物語が起こっているようだ。目に見えないだけにストーカー。やりたい放題。そのうち規制がされ規制が強化され自由を奪われる。それが怖いですね。「聖母の初土曜日」
2012年01月07日
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簡易放射の測定器01.06.am.9:00 玄関前0.19,リビング0.18,ベランダ0.19,書斎0.18μSv/h千葉県野田市の放射線量の話しは以下を見てください。http://plaza.rakuten.co.jp/bethesda/diary/201201060000/ハンセン病元患者を描いた絵を見た。プロの画家によるもので展覧会や画集となっていると聞く。我々は画像彫刻や書籍朗読で見聞するが、そこには作者の心に委ねる柔らかさがある。写真にしても映像にしても作者の配慮、心と言うものがある。が、今回見た絵には直接的で誇張され見るに堪えないものであった。何のために描かれたのか、作者の意図はどこにあったのか、絵を描くことで何を言いたかったのだろうか、そんなことを感じた。以前に聖ダミアン神父の彫刻で人の眼から遠ざけられた時があった。聖ダミアン神父その顔があまりにもリアルだったからだと聞いているが、今は何も言う人も団体もいないと言うことなのだろうか。それにしても創作者には創作の決まりごとが存在すると思うのは僕だけなのだろうか。僕もハンセン病朗読劇を何作品も書いている。今回の絵を見て、ハンセン病で商売をしている「同じ穴のムジナ」にすぎないのかもと、そんな弱気になっている。多くの人の助言を得て今後を決めなければと思っています。桜井哲夫さんの死にあずかり、彼の最後のお顔を拝顔し、お疲れ様の一語だった。昨日は、あの絵と重なり、言い残したことやり残したことがあったのかと、そう思うと昨夜は寝られず今になった。彼の霊魂が安らかでありますように。きょうは2012年初めての『初金曜日』 至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え!【ミサにあずかるを得ざる時の祈】 救世主イエズス・キリスト、主はこの世に天降りて人となり33年の間、清貧、けんそん、忍耐などの徳を行い、御みずから模範となりて天への道を教え、また世の罪を償わんために無量の苦難を忍び、十字架の上に御命を棄て給えり。主の御慈しみは厚く、御あわれみは深きかな。 主はこの世を去らんとする前の日に、12使徒と夕食を共にし、御みずからパンを取り、全能の聖父を仰ぎ、これを祝して裂き、使徒たちに与えて宣わく、“汝ら受けてこれを食せよ。これ汝らのためにわたさるる我が体なり”と。次に杯を取り、これを祝し使徒たちに与えて宣わく、“汝ら皆受けてこれを飲め。これ汝らと人々との罪の赦しのために流さるる新約の我が血なり。汝ら我が記念としてこれを行え”と。かくてパンとぶどう酒との形色のもとに、主の御体、御血、御霊魂、及び天主の尊き本性を我らに遺して御みずからミサ聖祭を定め給えり。主は聖祭のうちに天降りて尊き生贄となり、天主なる御父に献ぐべき、礼拝、感謝などを我らのために尽し、御苦難御死去の御功徳を、あまねく施し、またこの聖祭により、主は我らと共にましまし、我らの主は霊魂の糧となり給う。 ミサ聖祭に与る者は、かくの如き御恵みを受く。我今この幸いを望みて限りなき御恵みを求め奉る。聖マリア、使徒聖ヨハネ、聖マリア・マグダレナがカルワリオにて主の御死去を仰ぎ見、御功徳をこうむりし如く、ミサ聖祭に与る者はまた主の御苦難、御死去を記念し、等しくその御功徳をこうむるを得るなり。我今聖祭に与るを能わざれば、深くこれを望み、謹みて主の御苦難と御死去とを追懐し、その御功徳を与えられんことをひとえに乞い願い奉る。 我また聖体を受くるを得ざれども、聖寵を賜い、我をして再び罪を犯して主を離るることなく、主に倣いて、謙遜、潔白、忍耐、仁愛などの徳を修めしめ給え。また悪魔の誘いを避け、情欲に勝ち、主の平安を保ち、地獄の終りなき苦しみを恐れ、天国の限りなき楽しみを求め、心を尽くし、力を尽くし、専ら主を愛し奉ることを得しめ給え。アーメン。
2012年01月06日
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簡易放射線測定器: 5:00 玄関前0.10、リビング0.11、ベランダ0.10、書斎0.11 17:00 玄関前0.23、リビング0.19、ベランダ0.26、書斎0.17桜井哲夫さんが帰天し、群馬県は草津にあるハンセン病国立療養所栗生楽泉園内の草津カトリック教会の信者さんは3人となった。どこの療養所も信者さんが少なくなり、その信仰生活を知る足跡がなくなろうとしている。今まで、そして今も、信者さんが亡くなると遺品はそのまま廃棄処分される傾向にある。信仰の証、信仰の足跡が全て亡くなる。ここハンセン病療養所は、世間から隔離され、患者の絶滅、患者の遺伝子を絶えるのが政策だったから。このゲットーのなかでは熱心に信仰生活が修道士のように送られたと聞く。われわれ世俗信者は信者であることが・・であるかのように、うわべの信仰がまかり通るのが実情のような気がする。彼らの信仰生活はそんな信者への警鐘を鳴らしているように感じる。ごミサで「今週の永眠者」として命日、洗礼名、指名が読まれその過酷な時代を生き抜いたハンセン病信者さんらの平安を祈る瞬間は、世間の教会では体験できない祈りの空間が存在する。点字の聖書や公共要理などの大切な遺品がほとんど失われている。中には指先で点字を読むのではなく、舌さきで読む舌読(ぜつどく)跡のある資料もある。血と汗のにじむ遺品である。政治経済と人心の心の乱れるこの時代にあって、ハンセン病歴史は大きな福音書であろう。桜井さんの絵をHPで見た。とても考えさせられた。自分も同じことをしているようで、「朗読と音楽」による活動を中止すべきか悩むところである。桜井さんお霊名は「京都のラザリオ」。彼の祈りは「生ける人と死せる人への祈り」だった。声にならない声で、手を合わせることもできない手で祈る姿はもう見られなくなった。
2012年01月05日
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簡易放射線測定:埼玉県川越市。Ap8:00 玄関前0.11、ベランダ0.11、リビング0.11、書斎0.12政治、経済、学者、マスコミもそろって広島原発を過小評価しているとしか見えない。復興のための常識評価をすると大変な金額になるからなのだと素人目でも考えられる。今までの疑惑汚職などは、闇に葬るべく方法として自殺者が出て責任をとる形だったが、今回はそんなきざしもない。みんな知らん顔を決め込んでいるのか、ずうずうしいというか他人事を決め込んでいる。民間企業の負債は経営責任者と株主とで負債を抱えるのだろうが、東電の経営陣はどれほどの金銭的責任を考えているのだろうか。家を売却して、別荘も当然売却して、退職金も返還して・・・。そんな気持ちはないだろうなぁ。株主もみんな株をたたき売りして大損して責任を負うべきだろうし、株の売買が混乱し株市場も大混乱するだろう。そうならないと痛い目に合わないと復興の出発ができないと思う。銀行に預金する庶民から見ると、そんな利子にもならない銀行よりも株でと、それも電力会社と言う優良株は利子を生む。金があるからできることだが株にはリスクが伴い、それを承知で金もうけしようと言うスケベ根性が招いた結果なのだから東電株主はやはり痛みを分け合うべきだろうね。東電もお上も賠償と除染のために800兆円とも試算されるお金をどこから工面するのだろうね。結局は人のいい、人にやさしい国民、人情に弱い判官びいきの貧しい庶民に付けが回ってくる。これで全てがハッピーエンド。だれも傷つかない。貧乏くじを引くのは庶民だけで、絞れるところから絞り取りましょうよ、というシナリオに落ち着くのでしょうね。どこかで見たような話ではないでしょうか。そうTV番組の水戸黄門に出てきそうなシナリオです。こんどの選挙が楽しみです。
2012年01月04日
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桜井哲夫さんに会ったのは6年前のクリスマスイブだった。僕は20数年カトリック教会の聖歌隊などを指導し、気力と体力と金銭的に疲れを感じたその年、多磨全生園の入所者で園のカトリック教会信徒委員長だった馬場さんの紹介でワイフと草津を訪れた。雪の降る夜でスキー客の楽しそうな雰囲気が印象的だった。我々は20数年間、ゆっくり降誕ミサを与ったこともないしいつも別々の行動だったから本当に久しぶりの時間を過ごした。桜井さんと初めて逢った時の印象は衝撃的なものがあった。が、とても親切に迎え入れてくれた。目が見えず、眼球もないのだろう。鼻もなく、耳も不自由、声もかすかで聞き取れない。顔を近づけないと聞こえない。不自由な手で口元にガーゼをあてている。ときにガーゼはよだれであふれ、それを絞ってあげる。10数年前の裁判を境に世間から様々な分野の人たちがハンセン病療養所を訪れるようになった。国立療養所とは世間体は良いが、いわゆる世間から隔離絶滅政策の施設であった。これが世間に知れるところとなり、「うつらない」のだから安心して取材に、好奇心を満足させられる、そんな人たちが押し寄せるようになった。いわゆる「土足で家に入る」ようなもの。その多くの人が、相手を気遣うのではなく、こちらの満足を満たしてもらうだけの「素材」に過ぎないと感じたのは僕だけではないはず。桜井さんの所にも大勢の人が押し寄せた。取材には格好のターゲットだった。が、彼はその一枚も二枚も上手であった。「どうぞ利用してください、使ってください」と。「これでライ(ハンセン病)が世間に知れることが大切」と。世間から隔離され一生出ることのできない身にとっては、信仰と詩の世界が生きる喜びであったのでしょう。耳をすませて詩を描き、訪れる紳士淑女に信仰の話をする。「俺を見て人生を考えなさいよ」と。多くの詩の中からいくつかをピックアップ。いざ書こうとすると書きようがなく二年が経過した。月に一度草津を訪れてはいたが、僕の足は自然と遠のいた。彼を多くの人が訪れ、様々な企画が持ち込まれるからだった。それに草津教会を考えなければならないことが一番の原因であった。 =Meditazione= 桜井哲夫詩 高橋如安詩補作曲 ソプラノ・朗読:高橋久子、ヴァイオリン:福本 牧、チェロ:高橋義人、ピアノ:江成麻由 (2008年5月1日、プライベート録音、録音:毛利忠晴) 『ロザリオ』 音もなく雪は降り続いている 消灯を終えた病室の一隅 合わせた手を胸に置き跪く 昨夜は神経痛で眠れなかった僚友。 膝の痛みを訴える老人。 すっかり耳の遠くなってしまった老人。 いつも車椅子で治療棟に通う僚友。 お母様あなたの懐の中で 眠らせて下さい 幼子のように安らかに 安らかに 癌の手術を受けた婦人に恢復と平安。 盲人会の若い書記さんに、健やかな赤ちゃんが生まれますように。 おかあさまあなたの懐の中で ねむらせてください 幼子のようにやすらかに やすらかに ねむらせて ねむらせてください 『おじぎ草』 夏空を震わせて 白樺の幹に鳴く蝉に おじぎ草がおじぎする おじぎ草がおじぎする 包帯を巻いた指で おじぎ草に触れると おじぎ草がおじぎする おじぎ草がおじぎする ゆび指をライに 指のない手を合わせて おじぎ草におじぎする おじぎ草のようにおじぎした 『オモニの子守唄』 幼い男の子を背中に オモニは国立療養所の門を潜った 子供は 所内の保育所に預けられた 授産施設で仕事を覚え 社会へ出た オモニは 息子の帰る日を待って 子守唄を歌い続けた オモニは死んだ オモニが死んだ オモニの息子は 帰って来なかった チマチョゴリのオモニはオモニは 柩に 柩に収まった 雪が窓を打つ 今夜も聞こえてくるよ オモニの子守唄が オモニの子守唄 『ダンブリとまれ』 延命地蔵と名前をつけたのは園長先生。 お地蔵さんが泣いている。 青い瞳、赤いドレスのダンブリは、空の舞姫。お地蔵さんの恋人。 入院したばかりの俺の涙を拭いてくれたのは、真っ赤なダンブリ。 どこに消えたのか赤いダンブリの群れ。 店先に腰の曲がった胡瓜が消えた。 見舞いに来た兄が、林檎園から雪の下やせんなりが消えたと嘆いた。 その頃から、空からダンブリが消えた。 言語障害のおばあちゃんに。痴呆症のおじいちゃんに。 赤いダンブリを飛ばしたい。 ダンブリよ飛んでこい、この手にとまれ、この手にとまれ。 空にダンブリの舞うのを見たら丘の地蔵さんもきっと笑うだろう ダンブリ飛んでこい、指のないこの手に、ダンブリとまれ。 この手にこの手に、指がなくても、ダンブリとまれ。 『枯葉』 枯葉を手の平に乗せ 日溜りの枯葉に ゆっくりと座る 手の平の枯葉を舌先に当て 点字舌読者のように 細い葉脈の行間を静かに探る 浅黄色の春の若葉が 燃える夏の太陽に輝く青葉が 鮮やかに行間に描かれていた 始めと終りの阿吽の文字が・・・ 日溜りの枯葉に ゆっくりと座る ゆっくりと座る(転載厳禁)=ENDE=
2012年01月03日
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新しい年を迎え朝起きると2012年、新しい年を迎えた。昨年の大惨事を忘れて新しい年になりますようにと願う人が多いでしょう。昨年は多くの友人知人の死に臨み、生前の顔と同じように、また生前と変わったお顔を拝顔しました。まさに形相の変化。死に顔は人生を語ると言われますがはたしてそう言い切れるのだろうか。東日本大震災ではそれ以上のお顔と霊魂が存在したと想像できます。新しい年をどのように迎えたら良いのか。対岸(東日本大震災)の火事は、それはそれとして、自分の幸せを念じるべきなのだろうか。明日は我が身。身辺整理を急がねばと僕は強く感じる新年であります。ある友人は僕と同じ考えで、遺族に迷惑をかけないように身辺整理を整えて逝った。いっさい何の心配も書けないように整理されていた。ある知人(あえてそう言いたい)は残される家族のためと自我名声のために著作をしっかり変えて逝った。ある楽友は全くの無名のままで芸術を真摯に真向い、貧困のどん底の中で人を頼らず孤高の壮絶な死を迎えた。彼の死に顔からは大変な怒りを発し、天に向かって叫ぶかのようだった。ある楽友は大震災を迎え、今の生活がままならず、楽器を奏でる手には重労働もできず、家族を養うこともできず、地方の芸術家のこれからの道の険しさと家族のために自らの命を絶った。新しい年2012年は東日本大震災の被害者と共有する苦しみの年でありたいと願っています。僅かな希望の光は、草津カトリック教会が今年の8月で献堂50周年と言うことです。この記念として、願わくは幾つかの願いが実現できればと思っています。A、献堂記念ミサが我々の願う歌ミサが実現すること。B、ハンセン病元患者の両手のブロンズ像を捧げること。C、草津カトリック教会のビデオ制作。D、資料展示が実現すること。(ハンセン病信者の信仰生活資料、点字資料、草津ライ・キリシタン資料、草津教会保存活動など)E、草津カトリック教会が巡礼教会になること。A:信仰が生活の中心であった時代、ここから我々が失ったものを教えてくれる。故人をしのび信仰に立ち返らせる力ともなる物故信者たち。あのフォーク調の主梼文をはじめとする音楽。B:指が無く指が曲がり、指の機能を持たない両手で器用に日々こなす。石膏原型は出来ているのであとはブロンズ制作をするだけ。右手は草津教会、左手はハワイのライ病施設に捧げる計画。制作費30万円なり。C:草津カトリック教会が献堂して今年で50年。その歴史と現状をドキュメントタッチで作りたい。制作にあたりカメラマン、脚本、編集、朗読、演奏、作曲とプロの無償活動と言ってもせめて実費は。 BとC合わせて50万円。これが難問です。一人1万円で50人。結局は言い出し人が銀行から融資を受けての、いつものパターンになるでしょうが。D:ハンセン病信者の資料はほとんど焼却処分されているのが実情。ライ者と信仰をつづる日記や写真や資料など、現在生存する元ライ者の信者さんの提供を受け収集するしかない。これは本来、教会がするべき事業なのだが、現実はほぼ全く希望に値しない。目の不自由な信者が指先から福音を受ける。その指先から読めなくなって人間の最後に残された舌先の感触、つまり舌読(ぜつどく)で聖書を読む。こんな時代がつい最近まであった事実を教会は聖職者は残そうとは思わないのだろうか。E:世界各地にある巡礼路をここ草津に定着させたいものです。避暑地で有名な軽井沢か草津までの距離60キロ。敗戦後も続いた乗車拒否。軽井沢から草津まで電気鉄道をライ者であることから乗車を拒否され60キロを歩いた話は涙も出ないでしょう。この苦難の道のりは十字架の道であります。若い世代に、子供たちと共に10キロでも20キロでも祈りながら歩みたいものです。僕の個人的な願いは、恩師菅原明朗先生の作品展をすることです。そして作品の一部を楽譜化することです。東日本大震災で亡くなられた人々の霊魂の平安を願いつつ
2012年01月01日
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