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12月4日(月)に、REC講座「世界遺産 薬師寺のすべて」の第3回目に参加しました。この講座は薬師寺と龍谷大学の連携の初試みでした。学舎の教室で2回の座学の後、薬師寺境内で「座学+境内伽藍拝観」というものでした。座学は別にして、薬師寺境内を講座の一環として拝見した箇所と当日、講座の前後に薬師寺で探訪した箇所も含めて、まとめてみます。薬師寺伽藍のご紹介です。当日、堂内は撮影禁止でした。薬師寺境内の各所に、この「薬師寺伽藍図」が設置されています。掲載図自体は「現在地」が示すように、個人探訪の折に東回廊の傍で撮ったものです。(この地図は左辺が北、上辺が東という方位です)冒頭の山門は薬師寺の「與楽門」です。薬師寺境内は南北に二分され、真っ直ぐな東西の道路が通貫しています。 これがその道路です。これが元々から境内の通路だったのかどうかは確かめてはいません。輿楽門を入って南に広がる境内は「白鳳伽藍」と伽藍図に表記されています。 道路の北側に広がる境内の伽藍からご紹介します。その全体図を切り出して拡大してみました。地図の方位を大きな青字で追記しています。近鉄「西ノ京」駅を出て道沿いに東に歩めば、南北に延びる道路があり、その南端が冒頭の輿楽門です。逆に左折して道沿いに北に進めば、既にご紹介した唐招提寺の築地塀が北端となります。この道路を横断すると、「冠木門」があります。この門を通り抜けて正面を眺めたのがこの景色です。平石敷の参道を進んだ先に「本坊寺務所」が見えます。建物に近づくと、玄関に向かって右側に「伽藍復興事務局」、左側に「お写経道場」の大きな木札が掛けてあります。たしか高田好胤師の在世中に薬師寺の伽藍再興が発願されたとき、浄財を願う一環にこの写経道場が始められたと記憶します。講義の中でも少し触れておられました。「法相」の扁額が正面に掲げてあります。薬師寺は南都六宗の一つである「法相宗」の大本山です。法相宗は、「あらゆる存在・事象は、心の本体である<<識>>のはたらきによって仮に現し出されたものとする」説を基盤とし、唯識説に依る宗派と言われています。(資料1)講座の第二講では、薬師寺執事・大谷徹奘師が、唯識論を踏まえて、一般人に分かりやすい日常語で「心のしくみ」を図式化した枠組みに沿いつつ具体的に話されました。その内容を興味深く拝聴しました。脇道に逸れました。伽藍拝見に戻ります。振り返ると、北側の柱が大木の陰になっていますが、「冠木門」が見えます。本坊寺務所の南隣を見ると「地蔵院」の建物です。 同事務所前の参道を南に進めば、北側境内の出入口の「大門(おおもん)」です。今回の講座では、後にご紹介しますが、「まほろば会館」の大きな部屋で1時間ほど講義を聴講し、そのあとを受けた大谷徹奘師のご案内で「玄奘三蔵院伽藍」を拝観し、大門を通り抜け、輿楽門を経由して、白鳳伽藍の主要な御堂を巡り説明を伺いました。講座の始まる前に唐招提寺探訪を個人的に予定していて、先にこの境内域を少時訪れていました。その時、観光客が殆ど居ない中で撮れた景色なども交えて編集し、ご紹介します。 本坊事務所の前を左折し北に歩みます。正面に見えるのが、「玄奘三蔵院伽藍」(以下、伽藍と略す)です。手前で右折していくと、突き当たりに「まほろば会館」があります。この会館1階の大きな講堂で最初1時間ほど第3講としての話を聴講しました。会場の正面には、図像が掲げてあります。(ここは撮影の制限はありませんでした。) 右側には、小振りな蟠が壁面に掛けられていて、その前に平成22年に奉納された「新羅梵鐘」が置かれています。金箔黒漆青銅梵鐘と説明文が添えてあります。まほろば会館の北西側に、この「慈恩殿」と称される建物があります。 慈恩殿と伽藍の間は、生垣と砂利を主体に作庭されています。一種の枯山水庭園でしょうか。講義の後は、まず伽藍の東回廊にある南東端の扉から伽藍の内に入り拝見しました。ここでは伽藍全体のご紹介としてまとめます。 伽藍に南から近づくと、正面に「礼門」が見えます。 伽藍全体は木部が紅殻色に塗られています。壁の白色との対比が美しい。左右に開かれた扉の上、内法長押には「玄奘三蔵院」の扁額が掲げてあります。法相宗の始祖「玄奘三蔵」(600~664)を意味しています。玄奘法師をモデルとしている有名なお話があの「西遊記」です。中国の唐代に、玄奘は仏法とは何かを求めて旅することを願い出たのですが、許されないために密出国の形でインドへの旅を敢行されたと言います。シルクロードを経てインドへ、17年間にも及ぶ求法の旅を続けられたのです。中国に帰国したとき、玄奘は『大乗経』224部を含め総計520夾657部の経典を将来したそうです。帰国後は、経典類の翻訳に没頭されます。六大翻訳家の一人です。鳩摩羅什をはじめとして5人の翻訳家が合計で1,262巻(469部)の翻訳を行ったのに対し、玄奘は1335巻(74部)の翻訳を独力で実施したといいます。まさに、驚異的な働きをした玄奘はその時の旅行記を西暦646年に『大唐西域記』12巻として著しています。この旅行記から当時の状況がよく分かるそうです。また、その翻訳の中に、「唯識三十頌」(648年訳)や「成唯識論」十巻(659年訳)という法相宗の教学の原典が含まれているとか。(資料2)三蔵というのは、経蔵(経典)・律藏(戒律を記したもの)・論藏(経典の分析研究の書)を総称する普通名詞だそうです。この三蔵全般に通暁した人を三蔵と尊称するので、数多くの三蔵に値する人々が存在しています。玄奘を含め六大翻訳家はすべて鳩摩羅什を筆頭に三蔵と称されています。(資料2)薬師寺のホームページに、「玄奘三蔵の生涯」と題する伝記ページがあります。こちらからご覧ください。 礼門から伽藍の内を眺めると、東西に回廊が巡らされています。そして、中央に建つ六角形のお堂が「玄奘塔」です。「不東」の扁額が正面に掲げてあります。密出国までしてインドに求法の旅をした玄奘法師がその目的を達するまでは唐に戻らないという命懸けの旅を玄奘の「不東」の精神として掲げてあるそうです。(資料2,3)この玄奘塔には、玄奘法師の頂骨が祀られているそうです。「ご頂骨は昭和19年(1944)に当時の南京政府から全日本仏教協会が分骨を受けた中から再分骨を受けてお祀りしています」(資料3)とか。この頂骨を「真身舎利」として奉安されていて、須弥壇には玄奘三蔵訳経像も祀られています。(クリックで薬師寺のホームページ掲載画像に)(資料4) 玄奘塔の屋根の鬼板今回の講座では、伽藍の内に入り、玄奘塔内を参拝できました。上掲の東側面の入口から入り、玄奘塔の正面から堂内を拝見・参拝して、この東側の階段を下って、東回廊に戻ります。中央の玄奘塔を囲む東西の回廊は、玄奘塔の背後(北)の建物に繋がっています。西半分が写っていますが、「大唐西域壁画殿」です。ここには日本画家・平山郁夫画伯が玄奘三蔵求法の精神を、シルクロードの各地の風景に表象した壁画が柱間壁面に掲げられています。平山画伯はこれらの絵を30年の歳月をかけて完成されたそうです。このお堂では、これら壁画を「絵身舎利」として祀られています。(資料4)「大唐西域壁画殿」の内部を撮れなかったのが残念ですがしかたありません。この「大唐西域壁画殿」が落慶して、最初に一般公開されたときに一度拝見しています。それ以来、久しぶりに原画を間近に再度鑑賞できました。(補遺にネットで壁画を含めて公開されている案内などを拾っています。そちらをご覧ください。)尚、調べてみると、2001年3月に『薬師寺への道-大唐西域壁画』(平山郁夫)という大型本が出版されています。お近くの図書館の蔵書にあるかもしれませんね。今回は受講講座の一環として、壁画殿内を拝見しましたので、東回廊から出入りするだけでした。それでは、伽藍の外周に目を転じましょう。 左は東回廊を出て、北方向を眺めた景色です。突き当たりに見える建物は伽藍図を参照すると「経蔵」のようです。右は、東回廊側から眺めた礼門の側面。回廊には連子窓が設けられています。 礼門の屋根の鬼板。玄奘塔の鬼板とは意匠が異なります。 横木の先端に取り付けられた飾り金具 西回廊の先にも経蔵が設けられています。経蔵の西方向にある建物は不詳です。説明記載がありません。土塀までの空間がゆったりしています。再び、礼門前に戻ります。石段を降りると、両側に 亀像を基壇にした顕彰碑らしきものが建立されています。向かって右側は、玄奘法師が「大遍覚三蔵」とも称されるということを意味しているのでしょう。「大唐三蔵大遍覚」という呼び方もあるようです。(資料2)左側には、文末に「大唐皇帝述三蔵聖教序記」と記されています。実は、右側の石碑の頭部裏面には「大唐三蔵聖教之序」と刻され、その下部に「大唐 太宗文皇帝製三蔵聖教序」と題して始まる漢文の銘文が刻まれています。それが左側の表面の文に続いているようです。その文末が上記の文です。唐の皇帝が「三蔵聖教」の序について語ったことを記した序文と推測します。薬師寺を訪れられたら、この石碑の表裏両面をゆっくり観察してみてください。亀像を基壇にした形式は、「亀趺」(きふ)と称されています。密教や禅宗の宗派のお寺で見かけます。 右側の石碑の頭部には「大唐玄奘三蔵法師」、左側の石碑の頭部には「聖教序記大唐三蔵」と刻されているようです。その下にはそれぞれに諸仏がレリーフされています。黒色銘石板の嵌め込まれた下部には、天女像がレリーフされています。見応えがある亀趺です。北側の境内に「薄墨桜」が植えられていますので、春先は華やかな境内になるでしょう。この後、大門、輿楽門の東にある北受付所を通過して、白鳳伽藍に向かいました。つづく参照資料1) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房2) REC講座「世界遺 産薬師寺のすべて」 第3回の講義レジュメ「玄奘三蔵と不東の御精神」(薬師寺執事長・加藤朝胤師作成)3)『薬師寺』 発行 薬師寺 当日購入した写真集(A4サイズ)4) 「法相宗大本山 薬師寺」 拝観の折にいただいたリーフレット補遺玄奘三蔵院伽藍 大唐西域壁画殿 特別公開(薬師寺) :「巡る奈良」 玄奘三蔵坐像(訳経像)が載っています。期間限定公開!平山郁夫のシルクロード『大唐西域壁画』薬師寺・玄奘三蔵院 :「Travel.jp」三蔵法師と平山郁夫画伯★「薬師寺」で感じるシルクロード! :「@寺社」 描かれた玄奘三蔵の旅を象徴する壁画の構成を説明してあります。平山画伯の壁画前で平和祈願 奈良・薬師寺 :YouTube大唐三蔵聖教序 :「コトバンク」大唐三蔵聖教序 :「悠大な樹木」大慈恩寺 :ウィキペディア大雁塔 :「コトバンク」大雁塔(大慈恩寺)と玄奘三蔵 :「アジア写真帳」憬れの西安⑦:大慈恩寺の大雁塔に登りました :「4travel.jp」薬師寺・大唐西域壁画奉納15周年 三蔵法師と薬師寺の宝物 :「平山郁夫美術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 奈良 薬師寺細見 -2 白鳳伽藍(食堂・鐘楼・大講堂・金堂・西塔)へスポット探訪 奈良 薬師寺細見 -3 中門・境内社・東院堂ほか へスポット探訪 奈良 薬師寺から唐招提寺への道すがらに へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -1 南大門・記念碑・歌碑句碑・金堂 へ 5回のシリーズで探訪記をまとめています。
2017.12.31
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仏教の経典の中では「般若心経」と略称されるお経が最も広く知られているものの一つです。「色即是空、空即是色」というフレーズが出てくるお経です。全文を知らなくても、この語句を聞いた、あるいは読んだことがある人は多いでしょう。学生時代に仏教に関心を抱いたとき、この経典について知り、それ以来、断続的に幾人かの著者の解説本を読んできました。岩波の文庫本をはじめいくつか手許にあります。しかし、どの本も漢訳「仏説摩訶般若波羅密多心経」をベースとし、文字の内容を文字で説明する形式です。本だから当たり前ですが。テレビの媒体その他で、般若心経が唱えられるのを聞いたことも幾度かあります。それは勿論漢訳を棒読みで唱えるお経として、日本での通常の形式です。ところが、今日、別の項目でネット検索していて、偶然にもYouTubeで漢訳般若心経の音声に触れました。 ゴスペル風「般若心経」つのだ☆ひろ というもの。ちょっと聴いてみました。 一種のカルチャー・ショックです。だけど、考えて見ると、般若心経をこう唱えなさいという制約をつける必要はない。そこから何を感じ取り、その経が私たちに語りかけることの真理に一歩でも近づけるなら、良いことだと思います。まず関心をいだいて、一歩踏み込み始めることから始まるのですから・・・・。 そこで、脇道に入ってしまった次第。YouTubeに「般若心経」がどんな風にアップされているのか調べてみたのです。2013年時点です。それを掲載していたブログが閉鎖されまた。その時のリストをチェックして、さらに発見したものを加えて、更新版ということで、改めてここにご紹介します。興味を抱かれたら、まず聞き比べてみてください。同じ「般若心経」のイメージがあなたの心の中でどのように変化するかしないかを。 上記、ゴスペル風とは対極に位置するだろうものがこれら・・・・・・でしょうか。 大本山永平寺/雲水さんの般若心経 【意訳付き】般若心経・高野山奥の院 (真言宗) 清水寺、朝の般若心経 般若心経~六大響 2015 向源@増上寺 法楽太鼓「般若心経」~奉納太鼓 摩訶般若波羅蜜多心経 Prajna-paramita Hrdaya Sutram (The Heart Sutra) 日本の般若心経(黄檗宗・唐音)を聴く 次の2つは、英文表記のタイトルですが、同種の漢訳版の唱和です。 The Sutra of the Heart Buddhist Chant - Heart Sutra (Japanese) Hannya Shingyo 少し、雰囲気が変化していますね。 そこで、漢訳でないものは・・・と調べると、ありました。 チベット僧侶によるものや、サンスクリット語(梵語)による般若心経です。 チベットの般若心経を聴く(チベット語) チベット僧侶によるチベット般若心経(Tibetan The Heart Sutra) Heart Sutra (Sanskrit) Buddhist chanting Heart Sutra (Prajna Paramitha Hridaya Sutra) - lyrics Sanskrit and English サンスクリットの字幕に英文説明がついた動画も見つけました。 サンスクリット語による般若心経の詠唱はイメージがだいぶ変化します。 サンスクリットによるもので、次のものは特に惹かれるところを感じた次第です。 ヒーリング般若心経 Heart Sutra (サンスクリット/梵語/Sanskrit) by N.M.Todo お経の意味が字幕で出てきますので、その点でも雰囲気が感じ取れるものです。 多国籍語の併用で般若心経を詠唱している総合版動画もありました。 般若心経 Heart Sutra ~サンスクリット、チベット、アジア各国言語チャンティング まさに、仏教の地理的伝播、その広がりを示している動画です。 言語が変化しても、般若心経の説くところは一つという表象のような動画です。 そこで、がらりと雰囲気を変えてみましょう。こんな試みをしている方もいらっしゃるのですね。漢訳の詠唱ですが。 【初音ミク】般若心経グレゴリオ聖歌 【初音ミク】 般若心経ハードコア 【アレンジ】 【完成版PV】般若心経〜悦楽編〜【初音ミク】 【親戚の法事】般若心経メドレーお経を身近に感じてもらうためでしょうか。こんな試みもあるようです。 般若心経 コーラス ver. (heartsutra cho ver.) / 薬師寺寛邦(キッサコ) 坊主バンド「般若心経」/VOWZBAND「Hannya Singyou」釈迦の説いたという内容が、音声化するとこれだけの広がりが出てくるのですね。言語の違い、詠唱の仕方の違い、そして解釈の幅の広がりと深まり・・・・・捜せばまだまだ音声から般若心経に触れる動画がありそうですが、この辺で。それじゃ、「般若心経」が何を説いているのかが気になるでしょう。「ヒーリング般若心経」には、字幕説明が入っていました。別に、英文説明付も既にありました。しかし、このお経の内容そのものに焦点をあてた動画もアップされていました。私が見つけたものをご紹介して、とりあえずの終わりにしたいと思います。YouTubeで見つけた順番にリストにしてみました。 般若心経. 現代語訳 般若心経 「超訳」 瀬戸内寂聴 - 『般若心経』とは 12分で分かる!「般若心経」 般若心経の現代語訳がすごくいい!と話題に般若心経は経典としては、唐三蔵法師玄奘訳が紀元649年の訳出だそうです。それ以前に文字で書かれた経典として存在していたのでしょう。そして、今は西暦2013年。般若心経、古くて常に新しいもののようです。最初に、カルチャーショックを受けたゴスペル風も、幾度か聴いているとと、なぜか自然に耳になじんできます。一方で、こんな動画も載っています。「般若心経は根本的に間違っている」苫米地英人が語る般若心経のウソ!ネットに掲載された人々の作品のご紹介だけですが、それぞれにアクセスされ、何か感じられたら、いいですね。ご一読ありがとうございます。付録京都大晦日・除夜の鐘 New Year's Eve in Kyoto - ringing the bell in Chion-in Templeゆく年くる年2012-2013 京都清水寺の除夜の鐘 5.1ch サラウンド録音天龍寺 除夜の鐘と年越し二尊院・大覚寺 除夜の鐘永平寺除夜の鐘と初詣比叡山延暦寺 除夜の鐘善光寺の除夜の鐘 〜Zenkoji Temple Joya no Kane〜東大寺除夜の鐘 2012中尊寺の鐘の音「世界遺産登録決定」ちょっと見つけた範囲でリストにしてみました。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.31
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上徳寺2013年8月に、京都国立博物舘の特別展観「遊び」を鑑賞した後、ウォーキングを兼ねて、一度訪れてみたいと思っていた上徳寺(じょうとくじ)を訪ねてみました。このころたまたま中古書で入手したセット本に、探訪の主目的である堀内雲鼓の墓のことも記載されていたことが一つの動機でもあります。この時の探訪記を一部修正の上、再録しご紹介します。 (再録理由は付記にて)違う位置から山門付近を撮ると、「よつぎ地蔵 上徳寺」の標識が出ています 山門の左手に「上徳院殿 雲光院殿 阿茶の局墓所」、右手に「冠翁堀内雲鼓墓所」の石標があり、寺号表札の上部には「世継地蔵」と記されています。塩竈山(えんそうざん)という山号で、浄土宗のお寺です。この上徳寺は、京都市下京区の富小路通五条下ルにあります。本塩竈町(もとしおがまちょう)です。この町名から連想して見てください。このあたりはかつて平安時代、源氏物語のモデルにもなったと言われる源融の河原院があった敷地の一部だったのです。源融の河原院跡の碑は現在、五条通下がる高瀬川沿いに建てられています。こちらは既に拙ブログでご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。 (探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -4 京都大神宮、天野屋利兵衛、五条大橋、河原院跡 )この句碑がまず探訪第一目的でした。 日のめぐみ うれしからずや 夏木立山門を入ってすぐ右手の塀際に「堀内雲鼓(うんこ)の句碑」が建てられています(1937年5月建立)。冠句は「元禄6年、京都五条坂・迎光庵に住む貞門俳諧師、堀内雲皷の興した新詩型の作句法」(資料1)を源流とする文芸なのです。そのため、堀内雲鼓は冠句の唱道者とされています。冠句って? という疑問がまあすぐに浮かぶことでしょう。実は私も数年前までこの文芸の存在を知りませんでした。友人のブログを読み始め、その彼の知人のブログにもお邪魔するようになって、その人が冠句をブログに掲載されていることから、冠句なるものを知りました。そこで多少関心を抱き始めたのです。ネット検索していて、この句碑のことを知ったという次第です。句碑は、1927年(昭和2)に冠句研究普及をめざし機関誌「文芸塔」を創刊して、文芸塔社の主幹となった太田久佐太郎氏の筆によるものだとか。当日裏面の「句碑誌」を写真に撮りませんでした。文芸塔社のホームページに掲載の写真で頴原退蔵博士撰による文をご紹介しましょう。(資料2)「冠句は俳諧の大衆性を最も要約せる文芸たり。之を世に汎くせるは雲鼓翁の力による。其の編せる夏木立は実に冠句集の嚆矢とす。今や冠句が大衆文芸として新生面を拓かんとするに際し、久佐太郎氏等相謀って該集巻頭の一句を石に勒し、以て翁の業績を顕揚せんとす。寔(まこと)に機宜の挙たりと言うべし。茲(ここ)に其の由を誌して云爾(いわんのみ)」 (付記:ひらがな表記にし、句読点とルビは私が付したものです。間違いがあるかもしれません。)冠句については一鑑賞者にしか過ぎません。お邪魔しているブログで教えていただいたことと、多少調べたことから、理解したことを記しておきましょう。冠句は、俳句と同じで五・七・五の17文字で構成される短詩型です。ただし、上5の後に一文字の空白を置き、七・五を続けるという形です。つまり、 日のめぐみ うれしからずや夏木立という形式での表記にするそうです。この一文字の空白を置くこと、季語という概念をルールにしていない句作法です。そういう点では、かなり自由に作句できそうです。上五と七・五の照応が生み出す詩想の世界を大切にする文芸なのだと一鑑賞者として解釈しています。五・七・五の短詩型ですが、俳句とも川柳とも異なる17文字の文芸領域なのです。一歩深く知りたいと思ったのですが、大手の本屋さんには市販図書として棚に出ている出版物を見かけたことがありません。そういう意味では、短歌、俳句、川柳と比べると、一般的には未だ知られざる文芸領域と言えるのかもしれません。私が知る限りでは、京都新聞の文化欄だけが、俳句、川柳と併列に「冠壇」のスペースを設けています。当新聞では毎週、3つの文芸壇ごとに入選作や佳作が紹介され、寸評が付されています。話が、脇道にそれました。元に戻しましょう。 山門から入った正面に本堂があります。この寺も、天明・元治の兵火で類焼の憂き目に遭っています。現在の本堂は、明治44年に、永観堂の祖師堂を移築したものだとか。本堂の左手に手水舎があります。その奥、つまり西側に墓地への格子戸が見えます。お寺の方にお尋ねし、墓地に入ることができました。目についたお墓などを見て、ちょっと右往左往したのですが、コピーしていったページを見直すと、探訪のお墓は墓地中央にあるとか。 これが堀内雲鼓のお墓でした。墓碑の側面に「雲鼓親族達」と印刻されています。お墓の傍には、「冠翁提唱 正風冠句二百五十年祭記念」の石標が建てられていました。お墓は南面して建てられています。墓石の表面には「南無阿弥陀仏」の号だけです。何の変哲もない、凡凡たる墓碑です。仰々しさは一切なくどこにでもありそうな墓。嵯峨の落柿舎の背後にある「去来墓」、去来の文字が印刻されただけの小さな墓を思い浮かべました。飾りっ気無しの素っ気ない、凡たる墓碑。それがかえっていいなあ・・・と感じた次第です。雲鼓は大和吉野の人だったとか。享保13年(1728)5月2日没。年64。(資料1)元禄から享保にかけて京都で活躍していた雑俳点者で、冠句(かんく、かむりく)(笠付け、冠付けとも呼ばれる雑俳の一つ。点者が出す上五文字を課題として、中七、下五をつけて一句とする言葉あそび)を提唱して大いに流行させたと言われています。(資料3)墓地に入って、最初に目についたのがこの一角。 「上徳院殿 雲光院 阿茶局之墓」と記した駒札が傍に建てられています。「寺伝によれば、德川氏が家康の息女泰誉院とその生母上徳院の菩提を弔うため、伝誉蘇生上人を開山として創建したと伝えられる」とのこと(資料1)。また、「寺伝では德川家康創建というが、その年月は不明である。僧伝誉一阿が開創し、初め、霊光院といったが、家康の娘泰誉院が生母於古知の菩提を弔うために、土地を寄進し、寺域を拡張して堂宇を整備した。この時、於古知の号により寺名も上徳寺とされた」とも言います(資料3)。隣に安置された六地蔵石仏像の覆屋の柱に、「才知の局 阿茶様」としての説明が額入りで懸けられていました。家康の側室となった後、その才知により家康の懐刀として信任を得た女性なのです。大坂冬の陣、夏の陣で和睦の使者として活躍したのがこの阿茶局だったとか。家康死後も出家を許されず、三代の将軍に仕え、江戸幕府と京都の寺社、朝廷との間で手腕を発揮した人物のようです。寛永14年に83歳で京都にて逝去し、この上徳寺が京都での菩提寺となったのです。江戸では雲光院が菩提寺となっていて、こちらにはお墓として宝篋印塔が建てられているようです。(資料4)阿茶の局の戒名はウィキペディアによると雲光院殿正誉周栄大姉です。 六地蔵石仏像の前、つまり西側には大きな宝篋印塔が建てられています。特に説明板らしきものはありません。家康の息女・泰誉院のための石塔のようです。この墓地、境内から格子戸を開けて入ると階段で少し下りた窪地になっています。「生薑畠」というそうですが、河原院の池の跡だといわれているのです(資料3)。なんとなく納得できる説です。河原院のイメージが湧きやすくなりますね。『都名所図会』を見ると、巻之二・平安城尾に「塩竃社」という見出し項目があります。ここに、「塩竃社は本覚寺の西、上徳寺の鎮守なり。祭る所融大臣にして、即ち塩竈山(えんそうざん)と号す。本尊阿弥陀仏は八幡の作。開基は伝誉上人なり。」と記されています。江戸時代には「塩竈社」の方が注目されていたということでしょう。この「塩竃社」は、現在は近くに所在する本覚寺の境内に移転しているのです。(資料5)墓地から境内に戻って、境内の探訪をしました。といっても、こじんまりした敷地のお寺。東面する本堂の南側に「世継地蔵」のお堂があります。ここには「高さ2m余りの石の地蔵尊」(資料3)が祀られているそうです。「子なき人によき世継を授けるといわれ、参拝者が絶えない」(資料1)お地蔵様です。私が訪れた時は、その時間が遅かったせいか、境内はひっそりしていました。この地蔵堂の西側と南側にはたくさんのお地蔵様がいらっしゃいます。ご紹介しましょう。反時計回りに巡ってみました。 身代り地蔵尊 その小さなお堂の側面に、「歓喜地蔵」 童顔作りのお顔が何ともいえずカワイイ! 南側には小堂(延命地蔵尊)が並び、水子地蔵立像も建てられています。南側の東端には「はがため地蔵尊」の小堂があります。 世継地蔵堂の近くの建物の側壁に、いくつもの新聞記事の切り抜きが貼付されています。「世継地蔵」庶民信仰のお寺として結構新聞などで紹介されているようです。知らなかったのは私だけ・・・・ということでしょうか。貼付の新聞記事によれば、立春後初めて迎える2月の功徳日に合わせて地蔵尊大祭が厳修され(2011年の記事)、11月の上旬に世継地蔵と阿弥陀如来が特別公開される(2010年の記事)のだとか。関心を抱かれたかたはお寺にご確認を。雲鼓の句碑の実物を見てみたいという思いから、思わぬ出会いが広がりました。機会を見つけて、今度は、太田久佐太郎の句碑を探訪してみたいと思っています。さて、ちょっと付録を・・・・。博物館を出て、七条通から鴨川横の川端通を北、五条に向かう途中での発見史跡など。七条通の北には東西に通る「正面通」があります。もともとは秀吉が作った大仏殿(方広寺)の正面に向かう通りという意味だったと思います。確か、秀吉の時代には今の西本願寺のところから大仏殿まで、正面通が通っていたとか。それを断ち切ったのが德川家康で、今の東本願寺の建立を許したことの結果、そうなったのだとか。そんな話をどこかで読んだ記憶があります。それはさておき、 この正面通の鴨川に架かる橋(正面橋)を通り過ぎたところで、この石碑を発見!「元和キリシタン殉教の地」というもの。この川端通、何度か歩いているはずなのに、今回初めて気づいた次第。もう一つ、何の説明もない円柱断片のモニュメントに五条通手前で気づきました。円柱の一つに「天正・・・」という文字の印刻が。それが目にとまったのです。何の説明も付されていませんが、鴨川に架けられた橋に当時使われていた石部材の一部かな・・・と思った次第です。京都国立博物舘の庭にも橋に使われていた石部材の遺物が置かれています。そこからの連想です。探訪の足を伸ばせば、知らなかったことをいくつも発見します。それがまた、好奇心を広げるきっかけに・・・・。ご一読ありがとうございます。付記 現時点で私には未だ明瞭に理解できたとは言えない部分-解けない謎(?)-があります。本文が煩雑にならないように、付記とします。上記の通り、雲光院に葬られた阿茶の局の戒名は雲光院殿正誉周栄大姉とのこと。一方、上徳寺の石塔に供えられた塔婆に記された戒名は上徳院殿一位正誉周栄大清女です。石塔に印刻された文字が読みづらいのですが、写真の色調補正をして見ると、私には「上徳院殿正誉一位尼公法**」のように読めます。大姉と大清女は敬称として同じ意味合いでしょう。阿茶の局は家康の子を懐妊しますが、流産してしまい、子供が産めない体になったそうです。とすれば、家康の息女(娘)泰誉院というのは水子の戒名としての院号という事になります。雲光院の沿革を読むと、阿茶の局が生前に自らの菩提寺として江戸にお寺を開創(1611年)していたのです。それも家康の存命中(1616年家康没)であり、かつ、自ら生前に法号「雲光院」を受けていたことになります。出家を許されていなかった阿茶の局は、生前に戒名を受けていたということでしょうか。阿茶の局自身は、京都の金戒光明寺に葬られ、江戸と京都に菩提寺が作られたという結果になります。そう理解することが適切なのでしょうか。現時点での入手資料には、そのあたりを関連づけて明確に述べたものがありません。上徳院殿=雲光院=泰誉院の母・於知古ということなのでしょうか?ウィキペディアの「雲光院」によると、阿茶局の名は須和とのみ記されています。課題、謎が残りました参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p3572) 文芸塔のホームページより 文芸塔の沿革 冠翁 堀内雲鼓句碑 3)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p143-1444)浄土宗龍徳山雲光院ホームページ 雲光院由来・沿革 阿茶局開基 5)『都名所図会』上巻 竹村俊則校注 角川文庫 p140【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺上徳寺 :「京都通(京都観光・京都検定)百科事典」 上徳寺 世継地蔵尊大祭 :YouTube2011.2.8上徳寺 世継地蔵尊大祭4/5 :YouTube2011.2.8上徳寺 世継地蔵尊大祭5/5 :YouTube文芸塔 ホームページ冠句関連でネット検索していて知った結社のサイト 冠句 神戸港 このサイトの冒頭に「冠句の発祥を簡単に説明しています」のページが。 冠句の仲間 安富冠句会 冠句の仲間 姫路冠句会 冠句なごや 冠句とは :「維摩と語る」雲光院 :ウィキペディア阿茶の局 将軍の信頼度NO1側室 :「三河姫」阿茶の局の墓 雲光院 :「深川めし・丼学会」正面通 :ウィキペディア正面通 :「京都観光Navi」元和の大殉教 :ウィキペディア隠れ京都案内 元和キリシタン殉教の地 京のキリシタン :「甘春堂」隠れ京都案内 元和キリシタン殉教の地 橋本テクラと5人の子どもたち :「甘春堂」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.31
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これは今出川通に面した同志社女子大学・正門の右側にある「二條家邸跡」の石標と説明碑です。2015年2月14日に同志社女子大学で今出川講座「源氏物語に描かれる生活空間~六条院に示された理想の住宅像~」を聴講しました。追加の椅子が急遽準備される位に盛況な講演会で、大変興味深い話を聴くことができました。この時に時間のゆとりがあったあので、今まで歩いたことのない通りも加えて歩いてみようとふと思いました。その探訪記を一部加除修正し、再録しご紹介します。(再録理由は付記にて) この「二條家邸跡」は、拙ブログ記事「探訪 [再録] 京都・今出川通を歩く -- 出町柳から今出川大宮までをご紹介した折にも採録しています。重複はできるだけ避ける形でまとめていますので、こちらもご覧いただけるとうれしいです。今出川通と寺町通の交差点を横断後、少し後戻りし、京都御所のある京都御苑の東側沿いの通りを南に下ってみることから始めました。こちらの地図(Mapion)をご覧いただくと、わかりやすいかもしれません。まずあるのが「石薬師御門」です。 門を入ると、北側が「今出川広場」となっています。野球用のフェンスが設置されています。南側は「母と子の森」です。 「京都御苑は『森の博物館』」という説明板も設置されています。東側の通りを歩くのをやめ、通りとほぼ平行する御苑内の散策路を南に歩きました。ベージュ色の築地塀が見えて来ます。 少し歩むと、築地塀の傍に井戸が見えました。 「染殿井」です。傍に「『染殿第』跡」と説明する駒札があります。平安時代の最初の摂政となり、摂関政治の礎を築いた藤原良房の邸「染殿第」があった場所とされているのです。その染殿第にあった井戸の遺構なのだとか。近くには、こんな説明板も設置されています。「母と子の森」の一環なのでしょう。拙ブログ記事「探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -5 梨木神社、仙洞御所と御苑の門、新島襄旧邸、横井小楠殉節地ほか」 (こちらもご覧いただけるとうれしいです)の中で、「梨木神社」で境内には「染井」という名水があるのをご紹介しました。そのあたりが藤原良房の屋敷であり染殿と称されていたことと、「9世紀後半に栄えた藤原良房の娘明子(あきらけいこ清和天皇の御母染殿皇后)の里御所の趾」(駒札より)ということを知ったのですが、「染殿第」の規模をその折には深くは考えていなかったのです。それが、今回この「染殿井」を知り、邸の規模・広がりの一端を感じた次第。「梨木神社」を訪ねられたら、「染井」をご覧いただいたあと、御苑内に入って、この「染殿井」付近まで足を延ばしてみてください。地図(Mapion)であらためて確認すると、梨木神社の北西方向にあります。歩いてみると平安時代・藤原良房の邸の広がりを想像するきっかけになることでしょう。こんな表示もあって、おもしろい。 築地塀を南側から眺めると・・・・ここが「京都迎賓館」の敷地なのです。道理で厳重そうな雰囲気があります。 南に歩むと、「清和院御門」 この南側の築地塀のところが、「大宮御所・仙洞御所」です。清和院御門から河原町通に出るための「広小路通」は何度か歩いていますので、少し南下して、「荒神口通」を歩いてみることにしました。「荒神口」はかつて「京の七口」と言われた地方と京都を結ぶ出入口の一つです。 この通りにあるのが「天台宗清荒神護淨院」です。常施無畏(じょうせむい)寺という天台宗のお寺ですが、元禄10年に下賜された院号「護淨院」で知られ、地図にもこちらで記載されています。通称「清荒神(きよしこうじん)」の方が一般的によく知られていると思います。私自身もこの「清荒神」の通称でその所在は知っていましたが、訪れるのは初めてです。 山門を入って左側、南面するこの建物が本堂なのでしょう。前面に鳥居が立っています。まさに神仏習合のお寺という印象を受けます。本尊は清三宝大荒神。光仁天皇の皇子開成親王作と伝わるそうです。この地に遷されたのは慶長5年(1600)。後陽成天皇が望まれ、皇居守護のために移されたのだとか。御所巽(東南)の守護神として勅願寺になっていたお寺です。もともとは、仏門に帰依した開成親王が摂津國勝尾山(現在の大阪府箕面市)で「修行中感得され、自ら模刻し日本最初の荒神尊としてお祀りされました。」(資料1)開基は宝亀2年(772)だそうです。唐破風の屋根の軒瓦、鬼板と兎毛通には菊の紋章で飾られています。 「荒神」というのは「三宝荒神」の略。『日本語大辞典』(講談社)を引くと、「仏・法・僧の三宝の守護神。不浄をきらう神とされ、火は不浄を祓うとされるところから、かまどの神として信仰される」と説明されています。一方、『新・佛教辞典』(誠信書房)を引くと、「役行者が感得したと伝えるが、陰陽道で作ったらしく、平安末期には信仰されていた。神仏習合説によって≪荒びすさぶ神≫の意らしい。荒神は不浄をきらうから火の神を当て、家で火を扱う竃神(かまどのかみ)とし、火結(ほむすび)神を主とし、奥津比古・奥津比売神をあわせて三宝荒神とし、また神道家では、如来・麁乱・忿怒の荒神をも付会した」(資料2)と説明されています。仏教で「三宝」は仏・法・僧の3つをさしますので、三宝には2通りの解釈が重ねられているということでしょうか。後陽成天皇作の如来荒神尊七体が合わせて祀られているそうです。江戸時代・安永9年に上梓された『都名所図会』をみると、「清荒神社」という項目名称で記載されています。本文説明は次のとおりです。(資料3)「京極の東、荒神口にあり。祭る所八面八臂の荒神なり。初めは摂津勝尾山清に鎮座す。後陽成院勅し給ひて、文禄年中、五条坊門油小路の西にあり。その後、北闕び近からんためとてこの地に移さる。(古はこのほとりを近衛河原といふ。この宮勧請により荒神口と呼ぶ)」と。北闕とは皇居のことです。 山門を入った左側には、数多くの地蔵尊を祀った覆屋があります。延命地蔵尊です。南北に細長く、西側を正面とする建物(観音堂はこちらに)があります。「星供養道場」という表示が前にあります。こちらの建物に「准胝観音菩薩」が祀られています。「洛陽三十三所観音巡礼」の第3番札所でもあります。(資料4) あらたかや こうじんどうの じゅんていは いのらばりやく さづけたもうぞ 御詠歌尚、こちらの建物の北端(左)に、弁財天の扁額が掛けられています。そして、左から順に、弁財天、准胝観音、不動明王、大聖歓喜天、薬師如来が安置されているのです。建物の前に、道祖神も祀られています。夫婦円満・縁結び・・・。 山門を入ると右側に上掲本堂の側面が見えますが、側壁に大きな絵馬と「合掌の心」という詞文が掲げられています。清荒神を出た後、河原町通を横断し、三本木通に入り、南に進み、通りが2つになるところで、鴨川に近い方の東三本木通の方を歩きます。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。中之町にある鴨川グランドコーポの北側・道路沿いに地蔵堂と石碑、駒札が並んでいます。 ここが「立命館草創の地 京都法政学校設立」なのです。そして駒札によれば、幕末維新、桂小五郎はじめ長州藩の志士たちが密会を重ねたという料亭「吉田屋」がこのあたりにあったのです。桂小五郎、後の木戸孝允の夫人(松子)が幾松という名前で芸妓時代を過ごしたのがこの三本木界隈だったそうです。今はひっそりとした裏通り。中之町の南隣りが南町。ここには、「頼山陽山紫水明處」の石標が立つ建物があります。格子戸と細長い露地の奥がその場所です。「頼山陽が文政5年(1822)より亡くなるまでの十年間を過ごした水西荘の址で、母屋と離れの書斎からなっていた。今は母屋はなく、書斎だけが残っている。入母屋造り、茅葺、平屋建で、内部は四畳半と二畳の二室からなるきわめて質素な建物であるが、鴨川に面し、東山三十六峰をのぞむ景観から『山紫水明処』と名付けたという。山陽はここで『日本外史』や『日本政記』の執筆や推敲を行ない、天保3年(1832)9月、53歳で没した。墓は東山長楽寺にある。」(資料5) 現在は頼山陽旧跡保存会が管理されています。見学は予約制。西と東に分岐していた通りは、丸太町通に出る少し手前で再び合流して一本の通りになります。 丸太町通に出ると歩道の角にこの道標が立っています。 丸太町通の橋から鴨川の北方向の景色川端通にある京阪電車のホームへ下りる入口の南側に、小さな地蔵堂が南向きに3つ並んでいます。町のあちらこちら、たぶん多くは町内毎に祀られている地蔵堂。これもまた京都の風情の一つです。この後、川端通り沿いの散策路を三条大橋まで歩いてみました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 護淨院(清荒神) :「京都観光Navi」2) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p2113) 『都名所図会 上』竹村俊則校注 角川文庫 p684) 護淨院(清荒神) :「洛陽三十三所観音巡礼」5) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p39【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺佐京北辺四坊七町 染殿 :「源氏の部屋」火の守護神 清荒神を最初に祀った寺院 清荒神別當 護淨院 第184回 :「伊藤久右衛門」三宝荒神 :ウィキペディア勝尾寺 ホームページ勝尾寺 :ウィキペディア勝尾寺における三宝荒神 :「北摂みのおの春夏秋冬」吉田屋 :ウィキペディア木戸孝允 :ウィキペディア維新の三傑・木戸孝允 :「吉田松陰.com」幾松 → 木戸松子 :ウィキペディア8. 芸妓幾松と桂小五郎 - 命をかけた恋 :「木戸孝允館」頼山陽 :ウィキペディア山紫水明処(頼山陽書斎)の庭 :「京都市都市緑化協会」頼山陽記念文化財団 ホームページ頼山陽史跡資料館 :「ホットライン教育ひろしま」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.30
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2013年4月に、美術館・博物館をハシゴしたときに、普段通り過ぎながらやはり目に入っていなかったもの・ことがあることに気づきました。如何に意識せずに歩いているか・・・・ということです。また、同じ通り道から一筋ズラして歩いて見ると、これまた色々と発見があるものです。その辺りを少しまとめていたものを再録しご紹介します。行政区分をまたがりますので、煩わしさを避け、「京都を歩く」としました。 (再録理由は付記にて)冒頭の町家は、京都文化博物館から御池通に出て、右折し東に進んでいくと、御幸町通との東角にある瀟洒な町家です。真新しい建物の感じです。以前がどうだったか・・・昔から何度も傍を通る機会がありました。しかし、思い出せません。 この庇屋根に置かれた鍾馗さんがいいなあ・・・なかなか見られない景色です。御池大橋の手前で、今まで気にも掛けずに通り過ぎていた駒札をみて、あっ!と思いました。 車道と歩道の境目に置かれている句碑夏目漱石の句碑だったのです。 木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉 漱石 御多佳さんって、どんな人? また関心の波紋が広がります。後でゆっくり・・・・・・。取りあえずは先に進みました。後日、駒札をキッチリ読むと・・・ちゃんと解説がありました。そこから関心の波紋がさらに起こりました。夏目漱石は、お多佳さんのことをどこかに記しているだろうか?少し脇道に逸れ、補足します。「漱石全集」第26巻(岩波書店)の日記及び断片をチェックすると、漱石はやはり記しています。(p150~154)大正4年3月19日より4月9日までのところです。該当文の箇所だけ引用列挙してみます。漱石は19日(金)の朝、東京を発ち、当日京都に着いたのです。20日(土) 「晩食に御多佳さんを呼んで4人で11時迄話す。」22日(月) 「御多佳さん河村の菓子をくれる。」23日(火) この日漱石は「天気晴るれど腹工合なほらず」と記しています。24日(水) 「寒、暖なければ北野の梅を見に行かうと御多佳さんがいふから電話をかける。御多佳さんは遠方へ行つて今晩でなければ帰らないから夕方懸けてくれといふ夕方懸けたつて仕方がない。」25日(木) 「多佳さんと靑楓君と4人で話してゐるうちに腹工合少々よくなる。」27日(土) 「夕方から御君さんと金之助と御多佳さんがくる。・・・御多佳さん早く帰る。」29日(月) 「午後御多佳さんがくる。晩食後合作をやる。」[この日の後、4月8日まで日記は欠けています]9日(金) 「御多佳さんの一中節 大長寺と與次兵衛、河東節の熊野」また、この年の「断片」の記述の中に、〇御多佳へ手紙、アートと人格、人格の感化とは悪人が善人に降参する事 p158末尾の注解によると、磯田多佳(お多佳)さんは、大正6年2月号の『渋柿』に、この時の思い出を「洛にてお目にかかるの記」と題して文を記されているとか。 p245磯田多佳さんは、祇園白川にあったお茶屋「大友(だいとも)」の名物女将です。「文芸芸妓」ともいわれたそうです。夏目漱石は、大正5年12月9日に逝去(1867~1916)。俳号は愚陀仏。初めて意識したのですが、明治維新の前年・慶応3年1月5日に生まれているのですね。その後で、ウィキペディアの夏目漱石の項目を初めて検索してみました。なんとこの句碑が写真紹介されています。元に戻ります。橋を渡り、左折して川端通を少し北上し、仁王門通に入って、東に歩きます。東大路通を横断して、少し歩くとお寺があります。 このお寺の前を通る時、いつも「鬼子母善神」の石碑を見て通り過ぎてしまうのです。ふとその傍の石碑を見ると、「赤穂義士墓 當山ニアリ」と記されています。そして、山門の右手に「京都義士會」の表札が掲げてあります。この義士が赤穂義士を意味しているのですね。この表札は以前に見ていた記憶があるのですが、連想できていませんでした。再認識です。梅宮町の明智光秀の墓の探訪について既に再録しています。こちらは目的意識を持って当日予定に入れていたのです。そして、その先・・・・ 白川沿いに北の方向に戻ります。三条通を歩くのも代わり映えしないので、一筋南の通りを歩いてみようと決めました。この景色の小橋を渡るためです。橋の名前がおもしろい。「土居ノ内橋」帰宅後、地図を見ると、この橋を渡った西側が土居ノ内町なのです。土居→秀吉のお土居→鴨川の西側に築く・・・・とすると、ここって、鴨川の東、白川の西に位置する町なんです。なぜ「土居ノ内」なんだろう? 今、解決出来ない素朴な疑問です。ネットで何か分からないかと、ちょっと検索して見ましたが、手がかりをつかめていません。課題が残りました。三条通と平行な一筋南の通りを西に歩いて行き、東大路通を横断してさらに進むと南北の通りで突き当たりです。そこには、「大将軍神社」ありました。いつも三条通を往復するばかりでしたので、この神社があるなんて、意識していません。神社の境内は一つ西の通りとの間の全体が境内でした。つまり、こちらは東の鳥居です。鳥居の傍に、由緒の説明板があり、鳥居を潜って直ぐ右手にこの「大将軍神社記」という銘板が嵌め込まれた石碑があります。由緒とこの石碑の説明文の要点をご紹介しましょう。桓武天皇の平安遷都の際に、王城の四隅に大将軍を祀り、都を鎮護したのです。ここはその内の一つで、東南隅の大将軍(由緒)なのです。石碑には南大将軍と記されています。ここはスサノオノミコトの荒魂(あらたま)を大将軍と称し、当神社の祭神はスサノオノミコトです。一方、和魂(にぎたま)を天王と称し、平安城四方に祭ったとも記されています。丁度このあたりは、京七口と呼ばれた京への出入口の一つ、「粟田口」(=三条口:大津街道・東海道)への要地にあたります。外敵、邪霊の侵入阻止という意味で重要視されたのでしょう。由緒の説明で知ったのですが、このあたりは、藤原道長の父である藤原兼家が東三条殿を造営していたところだそうです。東三条殿は応仁の乱で荒廃したのだとか。子の道長は父・兼家の像を画かせ、ここに合祀したといいます。相殿に藤原兼家の神像が祀られているそうです。 南面している本殿 西の鳥居から入って来ると 本社殿の東側に蔵と小祠、神馬像 本社殿の建物正面の木鼻は真っ直ぐ正面を向いているものが多いのですが、ここのは左右が共に斜め内側を見ていておもしろい様式です。境内にはいくつか摂社が祀られています。東の鳥居側に「天満宮」、その傍に「東三条社」の石碑が建てられています。兼家の神像を合祀した証でしょうか。南隣に「白龍弁財天」の社が並んでいます。 西の鳥居側に荒熊稲荷社 西の鳥居それでは、四隅の大将軍神社とはどこなのか?少し、ネット検索をしてみると、 京都の西北・紙屋川 大将軍八神社 京都の北・紫野大徳寺門前 今宮神社の境内にある紫野大将軍社 上鴨社の対岸 西賀茂大将軍神社 京都の南 不明 現在藤森神社境内の摂社に大将軍社が所在するようです。区別するために、ここでご紹介した神社を東三条大将軍神社とも呼ぶようです。この辺り、かつての平安京の構造とのかかわりもあり、興味深いところです。各大将軍神社の祭神が異なるようでもあり、改めていつか大将軍神社の探訪をしてみたいと思っています。稲荷神社は京都・伏見区の稲荷大社を発祥の地にして全国に広がって行ったようです。「荒熊」稲荷社というこの名前に興味を抱いて、少しネット検索してみました。すると、荒熊稲荷神社としても同名の神社が西の方向に点々と所在しますね。検索でわかっただけでも、神戸市中央区、福岡県福岡市西区、佐賀県伊万里市にあります。他の神社名と併記で見つけたものには、忌宮神社/荒熊稲荷神社(山口県下関市)、住吉神社/白髭稲荷神社・荒熊稲荷神社(福岡市博多区)、鏡山稲荷神社/荒熊稲荷(佐賀県唐津市)などです。神社の分布は、人の移動と定着あるいは交流の深化でしょう。いつごろにどういう人々が西へ西へと活動範囲を広げて行ったのでしょうか。「荒熊」は何を意味するのでしょう・・・・。「大将軍」「荒熊」、歴史へのロマンがひそんでいます。今回は、ぶらり歩きでの京都再発見、そして感想のご紹介でした。ご一読ありがとうございます。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺鍾馗 :ウィキペディア鬼子母神 :ウィキペディア史跡 御土居 :「京都市情報館」 このページに京都七口の説明・表示もあります。夏目漱石の句碑(京都市中京区) :「京都風光」 この句碑に関連した詳細な説明が載せられています。鍾馗博物館 ホームページ 日本経済新聞(2013.3.29)の「文化」欄で、小沢正樹氏の寄稿文 「小屋根の鍾馗さん百面相 京の民家の守り神、今日も探して町歩き」で知ったサイトです。 ご本人が開設されているサイト。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.29
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2013年2月に京都国立博物館での特別展観を鑑賞に行ったときにまとめたものを再録し、ご紹介します。再録にあたり、再編集して、特別展そのものの印象記は最後に覚書として残す形にしました。特別展観鑑賞後に今までは通過点に過ぎなかった箇所を見つめ直してみた部分をご覧いただければと思います。 (再録理由は付記にて)さて、2013年は、現在「平成知新館」と名づけられた新館の建設中でした。そのため特別展観だけが旧陳列館-現在「明治古都館」と称される-で、年数回開催されるだけだった時期です。それだからこそ、改めてこの旧館の外観部分を眺め直してみる機会になったのです。それまでは目にしていても通り過ぎる通過点として眺めているだけでした。改めて細部を眺めると、クラシックな外観がしっくりと落ち着いていてなかなか素敵なのです。機能美だけの建物ではない外観は見飽きることがありません。京博のある場所は、明治維新後寺院境内が収公されて、「恭明宮」(江戸から帰洛する和宮親子内親王のための御殿として造営)の敷地だったところで、そこにあった旧蓮華王院西門は移築されて東寺南門となっています。恭明宮の地が明治28年に京都国立博物館の建設地になったのです。この建物、1897年(明治30)年の竣工で、宮廷建築家片山東熊(とうくま)が設計し、フランス17世紀の華麗なバロック様式を取り入れたもののようです。片山氏の代表作は赤坂離宮だとか。 正面三角破風の彫刻も見事です。各部を拡大するとこんな感じ・・・ 上は仏教世界の美術工芸の神とされる毘首羯磨(びしゅかつま)、下は伎芸天です。 下部は玄関部分の両側が左右対称に彫刻されています。 建物名称の下部分の彫刻閉館間際の庭園を味わいました。 冬枯れの景色もスッキリとした冷ややかさを味わえます。博物館を出て、いつものように、蓮華王院(三十三間堂)の東側の道路を南に下ると、「法住寺」(天台宗)の門が閉まっていましたので、逆に山門扉の浮彫に目が止まりました。開門時に通過することが多く、意識になかったのです。山門の南側に龍宮門が並んでいます。そこで着目したのが、門前の石標です。 左の石標には「法住寺殿跡」と刻されています。 「法住寺殿跡」の石標の側面には、「四至」として、「東 東大路 西 大和大路 南 泉涌寺道 北 七條通」と示されています。 龍宮門の石橋手前の中央に、普段意識することのなかった「旧御陵正門」の石標が目立ちます。そして龍宮門前脇の石燈籠の竿(六角柱)前面に刻まれた「法住寺法華堂陵前」という文字と、「あそびをせんとやうまれけん」と刻まれた石碑。この門前も今までは博物館に行くとき幾度も通りながら、あまり意識せずに通り過ぎていたのです。これらを見て、おぼろげな知識を一度整理してみました。上掲画像中の言葉からピンと来た方はかなりこの周辺のこと、歴史をご存じの方でしょう。法住寺はまず、太政大臣藤原為光が、娘忯子(花山天皇女御)の死をいたんで988年に創建した寺なのですが、1032年末に焼失します。平安時代後期中葉、この地に法住寺堂や邸宅が藤原信西(藤原通憲)により造営されますが、平治の乱で再び焼亡。その後、後白河天皇が出家後、法住寺殿を後院として造営し、1161年4月13日にこの地に移ります。その時は、七条大路をはさんで南北約400m、大和大路以東約400mに及ぶ規模だったそうです。この法住寺殿西側に当たる現在地に平清盛が1164年、私財を投入し造進したのが千体観音堂です。この功によって、清盛は備前守に任じられています。ところが、1183(治承3)年、清盛は法住寺殿を襲わせ、院政を停止させ、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する挙に出ます。1183年11月に木曽義仲が南殿(正殿)を焼き打ちし、源頼朝が再興したそうです。しかし後白河法皇の死後に荒廃します。蓮華王院の本堂は1249年(建長元)年の京の大火で焼失。1266(文永3)年に再建・落慶法要されます。これが現在の蓮華王院であり、「三十三間堂」の通称の方がよく知られているお堂です。少し横道にそれますが、蓮華王院という名称が付けられたのは、平等寺縁起によると、後白河法皇の前生は熊野にあつて蓮華坊という人だったというお告げを貴僧から告げられたのだとか。法皇は頭痛持ちだったようですが、それはこの前生の髑髏が朽ちずに岩田河の水底にあり、その髑髏の頭より柳の樹が貫いて生えていて、風が吹くと動揺するからなのだという。そこで探させると髑髏があったので、その髑髏を得て、観音の頭中に籠めたとか。(『都名所図会』)三十三間堂では、1月9~15日には、頭痛封じや悪疫退散で知られる「柳のお加持」(楊枝浄水法)が行われています。法住寺の裏手つまり東側には、後白河天皇法住寺陵があります。宮内庁管轄ですが、法住寺の北側の通路から御陵の前までは行けます。かなり以前に訪れたことがありますが、この日道路に面した鉄柵の門がはや閉まっていました。後白河法皇が1192(建久3)年3月に生涯を終えたのは、六条西洞院にあった長講堂(現在は下京区富小路五条下ル)です。焼失した法住寺殿の敷地に、法華堂がつくられ後白河法皇の御陵とさだめられたのです。三十三間堂に対面した形で、後白河法皇の法華堂は、建礼門院の法華堂の南側に位置したようです。この法華堂建立ということで、石灯籠に記されたことの意味が理解できます。法華堂内には伝運慶作の上皇木像を祀っています。そして、法住寺は後白河法皇の御陵寺として続くことになります。江戸時代には法住寺が、妙法院門跡の「院家」として待遇されていたことが、古文書からわかるとか。明治になって、後白河天皇陵と妙法院門跡法親王の墓所が寺域から分離され、宮内省の管轄におかれます。そして、一時期「大興徳院」と称しますが、昭和30年以来、「法住寺」の名前を伝えるために、「法住寺」に復称されたとのことです。最後に石碑の章句「あそびをせんとやうまれけん」は、次の今様の一部です。「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」後白河法皇が好んだ今様の一つの頭の句が刻まれているのです。後白河法皇は『梁塵秘抄』として多様な今様歌謡を集成しています。政治の分野で権謀術数に明け暮れた人が、一方で、白拍子らを相手に歌っていとまなかったそうです。この歌は『梁塵秘抄』の第359番目で、巻第二・雑八十六首の中程に出てきます。後白河法皇の信条に通じる歌だったのではないかなあという気がします。 龍宮門の屋根の左右のデザインが違うのも興味深いものです。 蓮華王院の「南大門」を通り抜けて右折し、蓮華王院の築地塀を見上げて、軒丸瓦の文に初めて目が止まりました。法住寺の龍宮門の屋根瓦を見てきた直後でもあるからでしょう。そして、この文が豊臣秀吉の紋であることに気づいたのです。手許の本を参照したうえで、蓮華王院のホームページにアクセスして、「太閤秀吉と三十三間堂」という項目を知り、重ね合わせて理解が深まりました。1586(天正14)年に秀吉がこの三十三間堂の北隣に方広寺を建てたとき、千手堂として境内に包摂し土塀を築いたのです。その遺構が南大門とこの築地塀(太閤塀)だったとのこと。歴史的経緯を知ると面白いものです。京都タワーの上部にカバーが掛けられていました。こんな景色を見るのは初めてです。また目にする機会があるでしょうか・・・・・。意識的に観照してみると、興味が深まります。***** 覚書(印象記) *****2013年2月6日(水)の午後、京都国立博物館にて、「国宝 十二天像と密教法会の世界」(2013.1.8~2.11)を鑑賞しました。特別展観の案内ちらしに記された言葉は、「平安の祈り 乱世の無常」。「成立800年記念 方丈記」が同時開催でした。こちらにも関心がありました。国宝十二天像を一堂に鑑賞するのは初めてです。空海が唐から帰朝し、仁明天皇の許しを承和元年に得た後、承和二年(835)から宮中で「後七日御修法(ごしちにちのみしほ)」を始めたそうです。正月の宮中節会の後、8~14日の7日間行われる国家の鎮護を祈る修法(法会)なのです。この時に十二天像と五大尊像の仏画像が使用されます。かつては、大内裏の中に真言院という道場が特設されていて、そこで法会が営まれたのですが、現在は東寺の灌頂院で続けられているといいます。十二天というのは、日天・月天・水天・風天・閻魔天・羅刹天・帝釈天・火天・毘沙門天・伊舎那天・地天・梵天です。十二天がすべて揃っているものでの出展は、京博(国宝)、奈良博(重文)及び神護寺(重文)の所蔵品でした。神護寺のもは十二天屏風。それ以外に、全部が揃ってはいませんが、西大寺、仁和寺、京博(重文)、聖衆来迎寺、個人二家分蔵のものも展示されていました。これだけ十二天が一堂に鑑賞(観照)できると、見ごたえがあります。京博所蔵の国宝十二天の内の閻魔天のお顔が柔和だったのが、私にはすごく印象的でした。この修法にまつわる歴史や、「年中行事絵巻(模本)」に描かれた法会の場(環境設定)の詳細な図、そして修法をささえる密教法具(大壇具)-結界具と供養具-が整然と大壇に並べられた状態、法会に使用される山水屏風なども興味深いものでした。「方丈記」の特集陳列では、鴨長明自筆という伝承がある大福光寺本(重文)を全文拝見できました。これもまた、滅多にない機会でした。この特別展観の折には、次のチラシを各所で入手できました。 記録として引用しておきます。再録にあたり序でに補足です。特別展観の会場で鑑賞後に購入した図録の表紙もご紹介します。この表紙に十二天像から円形に切り出した図像部分がデザインとして配置されています。上段から、左、右の十二天図像の名称を記します。 日天 ・ 月天 水天 ・ 風天 羅刹天 ・ 焔魔天 帝釈天 ・ 火天裏表紙は上から順に、伊舍那天(いしゃなてん)、毘沙門天、梵天、地天です。図録の解説を参照しますと、密教の法会として「七日御修法」が行われた折に、十二天像は道場を守護するために掛けられたといいます。承和2年(835)、空海の奏請によって正月八日から宮中真言院で七日の修法が行われるようになった、というのがこの密教法会の始まりだとか。十二天の名称で私たちが良く目にする組み合わせは、「日・月」「風・火・水・地」「梵天・帝釈天」と単独で毘沙門天です。「日・月」は天部の像としてよりも、日光菩薩像・月光菩薩像の対として目にする方が多いように思います。「風・火・水・地」を良く目にするのは、五輪塔と呼ぶ石塔の構成に組み込まれている要素です。この石塔は下部から「地輪・水輪・火論・風輪・空輪」と称される5つの要素で構成されていますので五輪塔です。梵天・帝釈天は東大寺三月堂の本尊不空羂索観音像の脇侍像としてよく知られています。また帝釈天は常に阿修羅と戦う神としてご存知かもしれません。阿修羅と言えば、すぐに興福寺のあの阿修羅像を思い浮かべますよね。毘沙門天は単独で信仰されるときの名称ですが、多聞天という名前で「四天王像」の一つです。須弥壇の四隅、東西南北の方位で守護する天部像として欠かせない存在です。これもまた、東大寺の戒壇堂の四天王像が有名です。地獄絵図に登場する閻魔大王は、密教で形容が変わりますが「焔魔天」と称されるそうです。私にとりあまり馴染みのない名称が「羅刹天」「伊舍那天」です。羅刹天は「悪鬼で通力よく人を魅しまたは食うという。のち仏教の守護神となり羅刹天」(『新・佛教辞典』誠信書房)に位置づけられたそうです。「伊舍那天」は「欲界の第六天に住む天神」(同書)だとか。○○天と称される天部の像は、仏教に取り入れられて守護神となったものですが、その源流はインドの神々に由来するようです。**********ご一読ありがとうございます。参照資料 特別展観図録『国宝十二天像と密教法会の世界』 京都国立博物館 2013 『京都府の歴史散歩(上)』 山本四郎著・山川出版社 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 『京都史跡事典』 石田孝喜 新人物往来社 『新訂 梁塵秘抄』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫 「京都国立博物館庭園マップ」 法住寺(京都市):ウィキペディア 「法住寺殿の成立と展開」 上村和直氏 :「京都市埋蔵文化財研究所」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺法住寺 :「京都観光Navi」法住寺 :「HIGASHIYAMA」 後白河法皇の身代わりになった不動と四十七士の寺今様合(いまようあわせ)~のご案内 :「法住寺」今様合わせに会(法住寺) :「きょうの沙都」 蓮華王院三十三間堂 ホームページ 創建と歴史 → 「太閤秀吉と三十三間堂」 後白河天皇 :ウィキペディア妙法院梁塵秘抄 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)その後にまとめたこちらの方も併せてご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -2 明治古都館の外観細見 へスポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- へ
2017.12.29
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細部においてはどの道を利用したのか覚えていませんので、大凡の行程を最初にまとめておきます。地図で確認すると、広瀬神社の入口から南西方向に向かい、「城山古墳」をまず遠望します。そこから更に南西方向に位置する「川合大塚山古墳」を探訪。そして県道5号線に出て、道路を南進し大字穴闇(なぐら)にある「長林寺跡」を探訪して終了です。この後は、近鉄田原本線の池部駅まで歩き、現地解散です。この行程の位置関係を地図(Mapion)でこちらでご確認ください。川合大塚山古墳、城山古墳は、「川合大塚山古墳群」の中で大きさにおいて筆頭にくる2つの古墳です。川合大塚山古墳がここでは最大で、次に城山古墳です。ともに前方後円墳。この古墳群は、前方後円墳3基、円墳4基、方墳1基の合計8基からなるようです。前方後円墳のあと一つは城山古墳からは西方向、大塚山古墳からは北西方向に位置しています。(資料1)川合大塚山古墳は、1956年(昭和31年)12月28日、周辺の古墳7基を含め「大塚山古墳群」として国の史跡に指定されています。(資料2) 「大塚山古墳群位置図」(後掲の説明板の部分拡大)冒頭の景色は「城山古墳」の側面から遠望したものです。この古墳の周濠部分は現在農地(水田)として利用されている状況ですが、周濠の様相を未だとどめています。周濠の幅は後円部側で約18m、前方部側で約20mだとか。ただ、各所で周濠から拡張して水田をひろげていて、形は崩れています。墳丘はかなり開墾されているようで、古墳の一部が現在も利用されているように感じました。古墳側に建物らしいものも見えるのです。城山という地名から、中世にはこの古墳の場所が城館の場所として利用されていたのかもしれません。川合大塚山古墳に移動する時に、城山古墳を眺めた景色。城山古墳の全長は約110m、後円部径は約60m、前方部端の一辺は約73m、後円部の高さは約10m、前方部の高さは10m。埋葬施設は不明。葺石・円筒埴輪は存在したそうです。(資料1)大塚山古墳群で最後に造られた古墳で、5世紀末から6世紀初頭の築造と考えられ、また墳丘は3段築成と推測されています。(資料2) 川合大塚古墳の全景右側が後円部で、左側が前方部になります。古墳の東側面を眺めている状態です。墳丘長は197m、後円部径は約108m、前方部端の1辺は約110m、後円部の高さは15.8m、前方部の高さは16.4m。周濠は現在農地になっていますが、その幅は前方部北側で35m、後円部南側で39mという規模です。墳丘は3段築成だそうです。(資料1)「遺物は、円筒埴輪・朝顔形埴輪・家形埴輪の円柱部分に小型の盾を付けたもの・盾形埴輪・蓋形埴輪・須恵器模倣土師器など。」(資料2) 周濠の縁に鉄製角柱標識が立っていますが、古墳名を示す文字も見づらくなっています。この古墳を訪れるメリットは古墳に入り、墳丘の上を歩けることです。墳丘上までは道が作られています。 周濠を横断する畦道があり、畦道の中間に説明板が立っています。 説明板畦道から古墳の中へ。墳丘を登る坂道に続いていきます。中世には、この古墳の場所に、吉田山城守義長の河合城が築かれていたそうです。最初に前方部に登りました。現在は墳丘上に竹林と樹木が混在しています。 前方部の中央にはこの記念碑が建てられています。 この近辺で明治40年(1907)に大演習が行われ、この古墳の前方部が明治天皇の野立所が置かれたのだとか。当時は見張らしのよい丘があるという位の意識だったのでしょうね。中世には城として使われた場所ですので。 前方部から後円部に移動します。参加者が一列になって墳丘を下って行くところから、少しは高さを感じていただけるかもしれません。 後円部の中央には、画像にあるように、石仏一体と前面に文字「杉守龍王」と刻した角柱が立っています。なぜ、これらがあるのかは不詳です。竹林と樹木が茂っていて、墳丘上からの眺望は無理ですので、後は古墳を下るのみ。長林寺跡への移動で、前方部側を回り込んで撮った景色です。 現在はこの「素戔嗚(すさのお)神社」のある場所が「長林寺跡」なのです。長林寺は聖徳太子の建立と伝えられています。発掘調査により、斑鳩にある法起寺と同じ伽藍配置であることがわかったそうです。ここから「長倉寺瓦」銘のある瓦が出土したことから、古代には長倉寺と呼ばれていたことがわかったのです。そこで、現在の穴闇(なぐら)という地名は、長倉の転訛だと考えられているようです。(資料3) 鳥居をくぐって境内に入ったところの右側に「金堂跡」の標識があります。今は礎石らしい石が点在するだけです。 その傍に写真の説明板があります。 講堂側に点在する礎石神社の近くにある「長林寺」の山門。屋根の鬼瓦がおもしろい。門には、「聖徳太子御遺跡」と墨書された扁額が掛けられています。「現在の長林寺は正徳4年(1714)に矢田村(現・大和郡山市矢田)の古篆和尚(こてんおしょう)が再興したもので、本堂は文久元年(1861)ころの建造とみられる」ものだそうです。それも観音堂(本堂)が残るだけといいます。黄檗宗の寺。(資料4) 池部駅に向かう道の途中でみた地蔵石仏群この道路標識で距離感がおわかりいただけることでしょう。今回の探訪は池部駅に到着して終了となりました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) REC講座「奈良盆地の中央低地部の巨大古墳と寺院と神社」 当日配布のレジュメ (講師:龍谷大学名誉教授 岡﨑普明氏作成)2) 古墳 :「河合町)3) 河合町北東部の文化財案内 河合町4) 長林寺 :「ええ古都なら」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺「町を彩る数々の文化財」 河合町川合大塚山古墳群表採埴輪の検討 村瀬 陸氏 博物館紀要-第20号長林寺の軒丸瓦 手塚山大学 最初のページに「西日本の法隆寺式瓦の一様相」として写真・文での紹介あり。池部駅 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -1 筒井順慶五輪塔・額安寺五輪塔・額田部窯跡 へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -2 推古神社と古墳、額安寺ほか へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -3 島の山古墳・比売久波神社 へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -4 飛鳥川・曽我川・広瀬神社 へ
2017.12.28
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比売久波神社の大きな社名石標のところまで戻ると、唐院の集落を横切って西に向かい、唐院の交差点のところで飛鳥川に架かる橋を渡ります。橋の傍には、史跡案内の標識が整備されています。しばらく堤防上の道を北進し、川西町大字保田を西に横断して曽我川を渡ります。 曽我川をわたり、今度はこちらの堤防上の道を北進します。川を渡ると、河合町です。地図をみると、このあたりは大字川合です。佐保川が初瀬川と合流し、大和川となった後、東から順に寺川、飛鳥川が大和川に合流し、さらにこの曽我川が大和川に合流します。曽我川が大和川に合流するところ、大字川合の北端部に「広瀬神社」があります。まさに、川が合う交通の要衝地にこの神社が位置します。比売久波神社から広瀬大社への行程はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。 それでは、広瀬神社のご紹介です。こちらも正式には「廣瀬神社」です。この神社は、『延喜式』による「広瀬坐和加宇加売神社」に比定されています。(資料1)広瀬神社の杜の入口にある大きな朱の一の鳥居をくぐると、幅の広い参道を真っ直ぐに本殿まで向かうことになりますが、結構距離があります。参道に沿って、境内社が幾つも祀られています。参道に沿って眺めてみます。境内図は「廣瀬大社」ホームページに掲載のものをご覧いただくと、イメージしやすいでしょう。こちらからご覧ください。(資料2) 日の丸社(日の丸大明神の額が鳥居に)と日吉社日吉社からみて、参道を挟み、稲荷社があります。 参道の途中に配された狛犬像 参道を挟んで、祖霊社と祓戸社(はらへどしゃ) 祖霊社は、広瀬神社に歴代関係した方々お祀りする社。祓戸社は、諸人が知らず知らずの内に犯している罪穢を祓い清める神が祀られているそうです。 二の鳥居に行くまでに、参道の左手に古めいた大砲と砲弾が据えられています。砲弾の台にある銘板によれば、日露戦争における戦利兵器の奉納だとか。今回の探訪で、明治時代の歴史の一端が色濃く残る遺物を繰り返し見ることになりました。 二の鳥居の傍に、広瀬神社についてのかなり具体的な説明が記された案内板があります。 二の鳥居をくぐると、手水舎が左手にあり、その先に社務所があります。 社務所の先の境内に、火焚きの神事で使われると思われるスペースが見えます。 逆に、右手斜め前方には馬舎があります。 二の鳥居近くから見た「拝殿」とその左側手前にある「おみくじ結び所」の木。 拝殿 本殿 春日造主祭神は、若宇加能売命(わかうかのめのみこと)。相殿として、櫛玉命(くしたまのみこと)・穂雷命(ほのいかづちのみこと)若宇加能売命は、山谷の悪水を良水に変え、さらに河川の氾濫を防ぐ神であり、五穀豊穣の神でもあるそうです。奈良盆地において総ての河川が合流するこの地において、治水と五穀豊穣を祈り、農耕祭祀の原型である穀霊神として信仰されていた神社です。天武4年4月10日、天武天皇は「小柴美濃王・小錦下佐伯連広足を遣わして、風神(かぜのかみ)を竜田(たつた)の立野(たつの)に祭らせた。小錦中間人連大蓋・大山中曽禰連韓犬を遣わして、大忌神(おおいみのかみ)を広瀬の河原に祭らせた。」と『日本書紀』に記されています(資料3)。この「広瀬」がこの地であり、広瀬神社につながります。「大忌神とは朝廷に御饌を供する神」。若宇加能売命、広瀬大忌神ともいわれるのです。(資料1)古来、同じ神が様々な名称で信仰されてきているようです。つまり、広瀬神社の大忌祭が天武朝以降、五穀豊穣を祈念する国家祭祀に高められたといえます。4月と7月に祭事が行われてきました。大忌祭の中で行われていた行事が、現在は「砂かけ祭」として継承され、毎年2月に行われています。(資料2)現在の本殿は、春日大社若宮の用材によって、正徳2年(1711)に造営されたものです。社伝によると、 文永3年(1506) 兵火により社殿焼失 天文14年(1545) 復興 寛永4年(1627) 造り替え という経緯を経ているようです。(資料1)境内の西側に、「広瀬橋」が架けられています。 この反り橋の上から見た北方向の景色 南方向の景色この後、再び巨大古墳の探訪が続きます。つづく参照資料1) REC講座「奈良盆地の中央低地部の巨大古墳と寺院と神社」 当日配布のレジュメ (講師:龍谷大学名誉教授 岡﨑普明氏作成)2) 廣瀬大社 ホームページ3) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p268【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺廣瀬大社 :ウィキペディア大忌祭 おおいみのまつり :「コトバンク」広瀬大忌祭 ひろせおおいみのまつり :「コトバンク」延喜式祝詞(広瀬大忌祭) :「~新川の社務所から~」大忌祭・風神祭 :「神道・神社資料集成」砂かけ祭り 川の歳時記 :「奈良県」町指定文化財第5号 砂かけ祭り :「河合町」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -1 筒井順慶五輪塔・額安寺五輪塔・額田部窯跡 へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -2 推古神社と古墳、額安寺ほか へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -3 島の山古墳・比売久波神社 へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -5 城山古墳、川合大塚山古墳、長林寺跡 へ
2017.12.28
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境内略図の引用から始めます。新宝蔵の正面の道を西に進み、左側に「滄海池」を眺めながらそのまま歩めば、前方に「東室・礼堂」(ひがしむろ・らいどう)の建物があります。その手前左側に高床式校倉造の建物が見えます。「宝蔵」です。唐招提寺創建にあわせて建立されたといわれています。奈良時代(8世紀)の建立で、高床式校倉・寄棟造、本瓦葺の建物で国宝に指定されています。「経蔵」より一回り大きいそうです(資料1,2)。正倉院と同じ機能を果たしてきた建物なのでしょう。その建物の南には石造七重塔が立ち、さらにもう一基、石造笠の残欠を積み上げて石塔にしてあります。石塔を挟んで南側にもう一棟、少し小さい規模の高床式校倉・寄棟造本瓦葺の建物が建てられています。こちらは「経蔵」です。同様に国宝で奈良時代(8世紀)の建物です。「唐招提寺が創建されるより前にあった新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、日本最古の校倉」だそうです。(資料1,2)宝蔵と経蔵の区画が柵で囲われています。全景はこんな感じです。 南側に回り込み、南東側から眺めた景色。 経蔵の背後(東側)は林地です。 南の方向に売店・御朱印所の建物がありますが、その辺りも空地の先が雑木林になっています。売店に立ち寄ってから、境内の中央部に戻ることにしました。売店の傍で見かけたもの。これ、何でしょう? 不明・・・・・。 「礼堂」の南面を売店の近くから眺めた景色です。上掲の景色に写る左側の松の木の根元近くに見える物体がこの石像です。説明はどこにもありません。この像を見て邪鬼を連想しました。インターネットで別件を調べていて見つけた情報から、金堂の南西隅の隅木を支える「隅鬼」の形を模したものではないかと思うようになりました。(資料3)礼堂の東側に、宝蔵・石塔・経蔵が見えます。 礼堂の棟の鬼瓦 入母屋造屋根の妻降先端の鬼瓦です。左右の相貌が少し異なります。棟の鬼とも異なりますので、三者三様でおもしろい。手前が「礼堂」で北側が「東室」です。南北に長いこの建物は、長さが19間ある細長い一つの建物で、北に10間、1間の「馬道」(めどう)と呼ばれる通路が設けられ、南に8間となっているのです。元は僧侶の起居した僧坊として利用されたそうです。後に、馬道より南側部分が解脱上人貞慶(じょうけい)が始修された「釈迦念仏会」の会場に改められたそうです。そして、「鼓楼」に安置された仏舎利を礼拝するためのお堂となっています。つまり「礼堂」です。平素は、この礼堂に清凉寺式釈迦如来立像と(鎌倉時代・重文)と日供(にく)舎利塔が安置されているとのこと。こちらが北半分の「東室」と「馬道」の一部を撮った景色です。東室は特に説明はされていませんので、形は僧坊という位置づけなのでしょう。礼堂の西側に「鼓楼」があります。重層の楼造、入母屋造、本瓦葺の建物です。本来は経楼らしいのですが、鎌倉時代の仁治元年(1240)に再建されたのちに「鼓楼」と呼称されたことによるそうです。現在は1階に厨子が置かれ、そこに鑑真和上が将来された仏舎利3000粒を収めた金亀舎利塔(国宝)が安置されているので、「舎利殿」とも称されているとか。また、この鼓楼では毎年5月19日には「中興忌梵網会」の行事が行われます。そして鼓楼の上から「宝扇(ほうせん)」と称されるハート形のうちわをまく、「うちわまき」が行われることで有名です。”鎌倉時代の唐招提寺中興の祖・大悲菩薩覚盛(だいひぼさつ・かくじょう)上人が、修行中に蚊にさされているのを見て、それをたたこうとした弟子に、「自分の血を与えるのも菩薩行である」とおっしゃって戒めたという故事があります。戒行清廉なるその徳をたたえ、「せめて団扇で蚊を払って差し上げよう」と、上人が亡くなられたときに法華寺の尼僧がハート型うちわを供えたことが始まりです。”(資料2)とか。鼓楼を回り込み、北側に位置する講堂前の庭に入ります。 講堂前から東を眺めた景色です。鼓楼の背後に南北に細長い「東室・礼堂」、さらにその背後に「経蔵」が少し見えています。右側手前の軒先と風鐸・基壇は「金堂」です。「講堂」を南西側から眺めた景色この講堂は奈良時代(8世紀後半)に建立された入母屋造・本瓦葺で、当寺開創にあたり鑑真大和上が「平城宮東朝集殿を朝廷より賜り移築したもので、平城宮唯一の宮殿建築の遺構です」(資料1)。正面に5つの観音開きの扉があり、さらにその両側には連子窓が二間分ずつ設けられ、合わせて9間の規模の建物です。金堂より一回り大きい建物です。「現在の姿は鎌倉時代の改造によるところが大きいといわれています」(資料2)とか。講堂は内部を拝観できます。本尊に寄木造りで丈六の弥勒如来坐像(重文)が安置されています。高さ2.84m。鎌倉時代の作。金堂の盧舎那仏坐像・薬師如来立像・千手観音菩薩立像とこの講堂の弥勒如来坐像を合わせて、顕教四仏となる古式の配列に則っているそうです。(資料2)講堂には奈良時代(8世紀)の持国天と増長天の木造立像が配されています。他にも多くの仏像が安置されています。金堂には四天王立像が配されています。講堂が現在二天の立像ということは、多聞天・広目天がいずれの時にか損壊あるいは逸失したのでしょうか・・・・・。講堂内には、唐招提寺の関連寺物が展示されています。堂内では係の方が拝観者に本尊等の案内説明をされていました。講堂の南西側に「鐘楼」があります。鐘楼は東の鼓楼と対称的な位置にあります。この鐘を撮った角度では、東室と礼堂を二分しその間に設けられている馬道(通路)が見えています。鼓楼の廂の先端がわずか写っています。 位置を変えて梵鐘を撮ってみました。撞座の右上の池ノ間にはかすかにレリーフがあるような感じですが不鮮明です。それ以外には装飾がなさそうです。再訪した時に改めて梵鐘を観察してみる課題が残りました。この梵鐘は平安時代の作と紹介しているサイトがありますが、リーフレットにもホームページにも記載が無く不詳です。鐘楼もそれほど古い時代に遡らない時点で再建された印象を受けます。 そして、金堂の西側に戻ってきました。屋根には大きな鴟尾が載っています。これは平成大修理の際に忠実に復元制作された「平成の鴟尾」です。避雷針が備えてあります。金堂の旧鴟尾は平成の大修理後に改めて国宝に指定されています(資料3)。新宝蔵で保管されているそうです。旧鴟尾の西側は創建当時の天平時代の制作で、東側は鎌倉時代の作だといいます。この鴟尾が後の時代に鯱に変わっていく原型といえるのでしょう。この鴟尾を下からみると小さく見えます。しかし、実物は高さが約1.2mある大きなものだとか。(資料5)鴟尾は「魚形の装飾。古代の沓の形に似るため、沓形ともいう」(『日本語大辞典』講談社)と説明があります。一説として「鴟尾は鳳凰の羽の象徴であり瑞祥や辟邪であるという原田淑人説」を踏まえたうえで、「鴟尾の原義は風神である鳳凰の羽であったと考えられる」という説が金子典正氏により提起されているようです。(資料4)鴟尾について調べていて、歌人佐佐木信綱がこの鴟尾を眺めて、次の歌を詠んでいる(『新月』)のを知りました。(資料6) 秋さむき 唐招提寺の 鴟尾(しび)の上に 夕日は照りぬ 山鳩の鳴く金堂の南東側にはブロンズ製の蓮華形の天水鉢が置かれています。 売店・御朱印所の建物の南側には池があります。南大門から金堂への参道付近からはほぼ見えません。 池の南東寄りに「弁天社」が祀られています。 そろそろ予定時間が迫り遠くから撮るだけに留まりました。北方向を眺めると、樹林越しに金堂が見えます。南大門を入って、東側のかなり奧に寺務所が見えます。 最後に正面の参道に戻り、金堂を眺めて南大門を出ました。ご一読ありがとうございます。 (これでいよいよ午後の現地講座参加として薬師寺の探訪です。別稿としてまとめます)参照資料1) 拝観受付所でいただいたリーフレット 「唐招提寺」2) 伽藍と名宝 :「唐招提寺」3) 唐招提寺 金堂の鴟尾と隅鬼 2012 :「奈良大和路~悠~遊~」4) 鴟尾の原義について 金子典正(早稲田大学) pdfファイル5) 鴟尾清掃、さっぱり - 唐招提寺・金堂 2009.10.28 :「奈良新聞」 『唐招提寺金堂平成大修理記念 国宝 鑑真和上 展』 図録 TBS 6) #692 秋さむき 唐招提寺の 鴟尾の上に ・・・ :「万葉歳時記一日一葉」 唐招提寺の歌:佐佐木信綱の短歌 :「岩田亨の短歌工房」補遺 唐招提寺 :ウィキペディア世界遺産-唐招提寺- :YouTubevol.1_唐招提寺バーチャルツアー/鑑真和上に学ぶ異国への挑戦 :YouTubevol.2前半_天平時代とグローバルな現代を繋ぐ視点/鑑真和上に学ぶ異国への挑戦 :YouTubevol.2後半_天平時代とグローバルな現代を繋ぐ視点/鑑真和上に学ぶ異国への挑戦 :YouTubevol.3_「東征伝絵巻」のデジタル絵解き①/鑑真和上に学ぶ異国への挑戦 :YouTubevol.4_「東征伝絵巻」のデジタル絵解き②/鑑真和上に学ぶ異国への挑戦 :YouTubevol.5_「東征伝絵巻」のデジタル絵解き③/鑑真和上に学ぶ異国への挑戦 :YouTubeJAPAN GEOGRAPHIC 4K 奈良 唐招提寺Toshodaiji,Nara :YouTube唐招提寺 鑑真和上1250年御諱_開山忌法要 :YouTube唐招提寺で「うちわまき」 :YouTube唐招提寺 「うちわまき」 :YouTube2010年10月21日・唐招提寺の鐘の音 :YouTubeのべ83mの重要文化財絵巻を完全デジタル化!唐招提寺で特別公開 2015.10.25 :「exciteニュース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -1 南大門・記念碑・歌碑句碑・金堂 へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -2 戒壇 へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -3 醍醐井戸・本坊門前・中興堂門前ほかスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -4 開山堂・御影堂・三暁庵・鑑真和上御廟・新宝蔵 へスポット探訪 奈良 薬師寺から唐招提寺への道すがらに へスポット探訪 奈良 薬師寺細見 -1 玄奘三蔵院伽藍と北側境内域 へ 3回のシリーズで探訪記をまとめています。
2017.12.28
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額安寺から西に向かいます。途中で数多くの小石仏を納めたお堂を見ながら、県道108号線に向かいます。この県道は大和郡山市が開発した昭和工業団地への幹線道路です。その路線上に「額田部狐塚古墳」が存在していたのです。108号線の北方向を眺めてズームアップしたもの。道路が坂道となって高くなる辺りが古墳のある場所という説明でした。前回ご紹介した「額田寺伽藍並条理図」にはこの狐塚古墳が周濠を持つ前方後円墳状に描かれています。昭和41年(1966)1月~2月の発掘調査によると、古墳の周濠は空濠だったようです。(資料1)今回は108号線を昭和工業団地に向かって南下し、「板屋ヶ瀬橋」を渡ります。この橋付近で佐保川が初瀬川と合流し、地図に大和川と明記されることになります。堤防には「一級河川 大和川」の標識が建てられています。さらに結崎工業団地の交差点へと向かいます。盆地内の河川が徐々に合流していくこの辺りが、奈良盆地でも一番標高が低い地域だとか。今回のご紹介範囲は、こちらの地図(Mapion)をご覧ください。結崎工業団地の交差点を右折し、寺川に架かる橋を渡ります。この辺りは大字梅戸と大字唐院が隣り合うところです。梅戸は寺川に沿って南へ広がり、これから向かう「島の山古墳」の東側になります。梅戸と唐院の境界あたりをさらに南下します。梅戸体育館の近くでこの地域の案内地図(現在位置と表記あり)を目にしました。かなり傷みが出てている地図ですが、部分拡大して引用します。 「島の山古墳」 寺川と飛鳥川に挟まれた地域に位置し、ここは東南から西北にかけての微高地(標高約48m)になるそうです。古墳の主軸は河川の方向とほぼ同じ方向になる前方後円墳です。周濠(上段画像)の左側に沿った道路から回り込んで行きます。この景色の正面に見える家並みが次の画像です。 周濠のこの辺りで、興味深いことに周濠の中に建物が張り出した構造の家を見かけました。 周濠沿いの道を右折すると「薬師如来石仏」といくつかの石仏が祀られた小堂があります。この通りには、「島の山 唐院」と刻した自然石の石標もあります。梅戸地区から唐院地区に入ったということでしょう。 さらに「東口地蔵尊」の覆屋があります。ここには「征清従軍紀念碑」が建てられています。この銘文の碑も私は初めて見るものです。推古神社の「征露」との対比で考えると、こちらは日清戦争における清国という意味でしょうね。 道路を右折してさらに周濠を回り込む道が式内社「比売久波神社」への参道になっています。石の鳥居が道路から少し奥まって建てられています。 参道を歩きながら、右手に眺めた「島の山古墳」こちら側に、古墳の概略を説明する駒札があります。周濠の幅だけを見ると、35m~40mです。周濠の外形はほぼ馬蹄形です。当日の資料によると、1995~2000年に数次に及ぶ発掘調査が行われているそうです。調査の結果、埋葬施設は後円部と前方部の2基が存在しており、後円部の埋葬施設は竪穴式石室で、盗掘者の侵入と遺物の多くが持ち出された形跡があったようです。一方、前方部は墳頂部に粘土槨が設けられ、その槨の中央部にコウヤマキ製の割竹形木棺が納められていたそうです。島の山古墳は、飛鳥川と寺川に囲まれた地域に存在する「ミヤケ古墳群」の中に存在します。その中で最も古い古墳のようです。(資料1)関心の波紋を広げて、ネット検索をしてみると、平成15年度からの史跡整備に伴う調査の3年目の発掘調査結果概要の資料が公開されています。平成17年度における通算第10次発掘調査の公表資料と理解しました。ここでは、たとえば後円部葺石西側より、祭祀に関わる行為に使用された可能性が高い植物製の篭が出土したそうです。これは非常に希な例だとか。この第10次発掘調査で、墳丘の南限の確認、西側の墳丘裾ラインの解明がほぼできたと言われています。図版9として「墳丘裾ライン復元想定図」が発表されています。(資料2)周濠に沿った参道を進むと、「比売久波(ひめくわ)神社」の境内が見えます。「売」は「賣」という漢字が正式ですが、一般的には地図も含めて当用漢字で表記されているようです。 道路を挟んで周濠・古墳が隣り合っています。 拝殿前の狛犬 近年の奉献像ですね。阿吽形の口許紅く・・・・睨んでいます。 「本殿」 祭神は久波御魂(クバミタマ)神と天八千千(アマハチチ)姫。御神体は「桑の葉」であったと伝えられ、養蚕・絹織物と関わりのある神社とされています。社名は蚕桑(ヒメクワ)を意味するという説明もあります。大字結崎の糸井神社と関連する神社とも考えられているようです。「延喜式神名帳」に記載される式内社。一間社春日造り檜皮葺で、春日大社の摂社若宮神社の本殿を移築したとされています。江戸時代初期の特徴を持つ社殿建築のようです。奈良県指定文化財です。(説明板参照)拝殿と本殿の間に置かれた踏石この石が、なんと島の山古墳から持ち出された竜山石の天井石なのだそうです。竜山石とは兵庫県高砂市周辺で産出する凝灰岩。高砂市付近から運び込まれた石が後円部の竪穴式石室の天井石に使われていたことになります。一方で、石棺材として使われていたという見解もあるそうです。(資料1、説明板)境内で見た範囲をご紹介しておきましょう。 「百度石」と彫られた石柱が立っています。そこからすこし西方向に、石柱の玉垣を設けられた「遙拝所」(右)が設置されています。境内の一画に箕輪寺というこの神社の神宮寺があったようです。「平成9年の冬に強風によって本堂が倒壊し、現在は基壇と礎石が残るのみ」(資料3)となったようです。事後にネット検索して、そのことを知りました。当日はその場所まで境内を探訪する時間がありませんでしたので、後日に知った次第です。 神社の近くで、この説明板を見ました。大字「唐院」の名称の由来が考察されています。 *道陰の庄を音読みしたとみる説 *陶工 加藤藤四郎に因む陶院に由来するとみる説 *唐の国より渡来してきた人々が土着したことから唐院と呼ばれるのではという説など諸説あるようです。巨大古墳は築造技術を要するもの。その傍の神社の社名・比売久波(ひめくわ=蚕桑・ヒメクワ)が近くの糸井神社とも関連する可能性が高く、それらの祭神が養蚕・絹織物との関連を想起するなら、ここにもそれを可能にした技術力が絡んできます。さらにこの地が唐院と称されるということを重ねていけば、比売久波神社の存在から、「5~6世紀のミヤケ経営において、開発を担当した渡来人との関係で捉えようとする考えがある」(資料1)という説明も首肯できます。グーグルアースの写真で見ると、前方墳側に周濠を横切り外部と繋がる細い道がはっきりと見えます。墳丘が畑や果樹園に明治時代までは利用されていたことがあるようです。現在は発掘調査にだけ利用されているのでしょう。いずれにしても、被葬者について諸説あるのですが、謎のままに留まるようです。飛鳥川と寺川に挟まれた地にありそれらの川は大和川に繋がっています。また、島の山古墳の東側、寺川より南側に太子道が通っているのです。聖徳太子が飛鳥と斑鳩の往復に利用したといわれる太子道です。交通の要衝地に造られた巨大な古墳、被葬者はやはり相当な実力・勢力を持っていた人物だったのでしょう。古代へのロマンを抱かせる対象がこの地にも眠っています。 当日の講座資料からの引用図(資料1)島の山古墳のあるミヤケ古墳群。その中で島の山古墳の群を抜く巨大さ。周囲の河川と太子道。古代の交通の要衝地となる重要な場所の一つだったことが一目瞭然です。百聞よりも現場の一見。一度現地に足を運んでみてください。残念ながら古墳は周濠の外側から眺めるだけになりますが・・・・。つづく参照資料1) REC講座「奈良盆地の中央低地部の巨大古墳と寺院と神社」 当日配布のレジュメ (講師:龍谷大学名誉教授 岡﨑普明氏作成)2) 島の山古墳第10次発掘調査について 川西教育委員会3) 箕輪寺跡 :「奈良の名所・古跡」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺石の文化を創り続ける「竜山石」 :「兵庫の山々 山頂の岩石」「倭屯倉の古墳群」 案内 安原貴之氏 :「奈良県立橿原考古学研究所友史会」太子道 → 法隆寺街道 :ウィキペディア糸井神社 :「戸原のトップページ」糸井神社 :「神奈備にようこそ」陶祖 藤四郎 :「陶祖800年祭」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -1 筒井順慶五輪塔・額安寺五輪塔・額田部窯跡 へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -2 推古神社と古墳、額安寺ほか へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -4 飛鳥川・曽我川・広瀬神社 へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -5 城山古墳、川合大塚山古墳、長林寺跡 へ
2017.12.28
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額田部窯跡から額安寺(かくあんじ)に向かいます。このあたりの地図(Mapion)で位置関係をイメージしてみてください。南に佐保川が流れ、その近くはかつては低湿地帯が広がっていて、北方向の額田部窯跡に近づいて行くにつれ緩やかな傾斜が増し額田部丘陵が広がっていたのです。途中で朱色の鳥居が立ち、朱色に塗られた小祠を見ました。何が祀られているのかはわかりません。その先に杜が見えます。 この画像の参道がどうも表参道のようですが、境内には裏手から入ったようです。 ここが「推古神社」でした。拝殿と会所を兼ねたような建物がまず見えます。その手前には手水舎があり、その傍には「征露紀念」と読める石碑があります。こういう名称の碑を初めて目にしました。日露戦争に関連する碑と想像するのですが・・・・・。 本殿白壁の築地塀を瑞垣とした小さな本殿です。懸魚はシンプルな形状ですが、屋根の千木の手間の鬼板部分には菊の紋章が付されています。 この推古神社のある境内の一画が、前方後円墳のある場所「推古神社古墳」と称される場所でした。「額田部古墳群」のなかの一つだそうです。独立墳であり、この地域の盟主墳と考えられているようです。(資料1)古墳跡の上に「正一位 年明大明神」という額が朱色鳥居の額束に掛けられた境内社が祀られています。推古神社古墳の北方には、額田部古墳群と総称される古墳として、狐塚古墳(前方後円墳)、船墓古墳、西嶋古墳、松山古墳などの中型円墳があり、西方には来迎墓の間古墳群という小円墳が分布しているのです。道に沿って、一旦南方向に進みます。目の前は佐保川の流れの広がる場所でした。この額安寺より上流側で佐保川が北東~東方向からの数河川と順次合流し、川幅が広がってきた箇所です。佐保川が大和川に名前が変化していくゾーンでもあります。この見渡せる地域に湿地帯が広がっていたそうです。 額安寺への途中にある現状の「明星池」 ズームアップしたのは池の中島です。この明星池は、近世の絵図によると額安寺の南門の門前に在り、中島には宝篋印塔が建てられていたそうです。これが現在は額安寺の境内に移築されています。現在の額安寺の南の門。これが表門なのでしょう。この門の前を左方向に回り込んで行きますと拝観受付所のある門です。西の門です。 本堂(講堂:現存する一宇)額安寺は標高60mの丘陵の縁辺に位置します。山号は熊凝山。「飛鳥の御代(621年)聖徳太子はここ熊凝の地に学問道場を創建され、釈尊の祇園精舎に倣って『熊凝(くまごり)の精舎』と名付けられました。これが額安寺の始まりであり、山号の由来でもあります。」(資料2)天平9年(747)の『大安寺伽藍縁起幷流記資材帳』(『寧楽遺文』)の中に、この熊凝精舎の話が記されているといいます。(資料1)本堂の中央には十一面観音菩薩像が厨子の中に安置されています。室町中期の造立像だとか。彩色がかなり残っていて美しいです。堂内は撮影禁止でしたので、額安寺のホームページをこちらからご覧ください。(メニューから「寺宝」のページへ) ホームページには、本尊は乾漆虚空像菩薩半跏像と記されています。この像を現在は奈良国立博物館に寄託されたそうで、拝見できませんでした。奈良国立博物館でいつか見仏したいと思っています。常設展示になるのかどうか・・・・。 本堂屋根の鬼瓦 本堂の背面と木鼻この地はもとは「額田寺」の伽藍が築かれていたところだそうです。「額田寺伽藍並条里図(麻布)」が国宝指定されています。こちらから(「文化遺産オンライン」)ご覧ください。そして、この麻布の絵図が研究されて、「額田寺伽藍並条理図」(暦博ギャラリーNo.3)として公開されています。こちらからご覧ください。この地域の現在の地形と上記条理図を対比して、復元条理図が3案提起されているのが現状です。残念ながら考古学的な観点からの伽藍配置は定かになっていないと言います。平端駅前の地蔵堂でその名に触れた律師、大安寺を造営した道慈(俗姓額田氏)が奈良時代に、唐より招来した虚空蔵菩薩を本尊として、この寺に住み、寺号を「額安寺」に改めたとされています。(資料1)お寺でいただいたリーフレットには寺号の由来が興味深く記載されています。「聖徳太子の叔母君に当られる推古天皇は額に傷を病まれたことがあり、その時熊凝の道場に平癒を祈願されたところ御感ふかく跡形もなくお治りになったので、額安(ひたいやすらかなる)寺「額安寺」の寺号を賜ったと伝えられています。」(資料2)その後衰退していた額田寺は、鎌倉時代に西大寺の叡尊とその弟子だった忍性によって再興されるのです。その忍性上人が前回ご紹介した大きな五輪塔に祀られた僧です。「仁治元年(1240)正月、叡尊は文殊菩薩像一体を安置し、額安寺の西の宿で戒律の普及に努めたとある」(資料1)そうです。額安寺は明応8年(1499)に兵火で堂宇が焼き払われてしまいます。慶長2年(1597)に豊臣秀吉から寺領12石を与えられて再建され、江戸時代もその朱印地が引き継がれることになったようです。(資料1,額安寺HP)昔日の堂宇再興はならず、寺運は衰退の途をたどることに。そして、昭和50年代に入り、再興が目指されて、現在の額安寺の現状にまで整備されてきたという歴史を経ているようです。お尋ねしたところ、現在は単立寺院であるとか。現状の境内をご紹介します。 境内にある二棟のお堂左奥のお堂は「虚空蔵堂」です。(今は文殊菩薩が安置されているようですが、拝見していません。) 仏舎利殿このお堂の入口傍の壁に掲げられた「仏舎利」の由来説明世界的に高名な宗教画家・杉本哲郎画伯は、インドのネール初代首相と親交が深く、ネール首相手渡しで「仏舎利」を贈られたそうです。画伯の没後、平成18年(2006)にご遺族が額安寺にその「仏舎利」を奉納されたことが機縁で、この仏舎利殿の建立に至ったといいます。 仏舎利殿の屋根上に 仏舎利殿の背面が道路側から見えます。丸軒瓦に瑞鳥の紋様。 仏舎利殿の右前に、移された明星池・中島の宝篋印塔この説明碑に記載されていますが、基礎の二区に分けられた格狭間には、「文応元年十月十五日願主永弘」「大工大蔵安清」と銘文が彫られているのです。 文永元年は1260年。「大工大蔵安清」は大蔵派と称される石工の一人。この銘文から関西では唯一の「大蔵」という銘をもつ貴重な史料であり、大蔵派の最古の遺品でもあるそうです。大蔵派を「西大寺派律宗の工匠集団として位置づける説もある。この大蔵派の宝篋印塔は関東地方に大きな影響を与えたとされている」(資料1)そうです。四面四角の塔身の各面の月輪に金剛界四仏の梵字が刻まれています。2つのお堂が写っている写真にある宝篋印塔とこの宝篋印塔を対比してみるのも興味深いものです。笠の部分の四隅にある隅飾りが直角に立つほど古い形式とされています。 火袋がなく、竿部分は基壇、笠・宝珠より新しそう。額安寺を出ると、いよいよ巨大古墳探訪となります。つづく参照資料1) REC講座「奈良盆地の中央低地部の巨大古墳と寺院と神社」 当日配布のレジュメ (講師:龍谷大学名誉教授 岡﨑普明氏作成)2) 「釈迦牟尼佛御守護 開運招福 額安寺」 拝観の当日にいただいたリーフレット 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺額安寺 :ウィキペディア額安寺文書 5巻 収蔵品データベース :「奈良国立博物館」杉本哲郎 :「コトバンク」杉本哲郎 :「東京文化財研究所」中世石造物に関する歴史考古学的研究 - 奈良大学リポジトリ pdfファイル中世職能民と渡来と海人2 大蔵派石工・伊派石工と律宗:「民族学伝承ひろいあげ辞典」銚子石の石塔文化-霞ヶ浦北岸地域の様相- 千葉隆司氏 筑波学院大学紀要第3集 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -1 筒井順慶五輪塔・額安寺五輪塔・額田部窯跡 へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -3 島の山古墳・比売久波神社 へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -4 飛鳥川・曽我川・広瀬神社 へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -5 城山古墳、川合大塚山古墳、長林寺跡 へ
2017.12.27
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2014.11.15(土)に、REC講座「奈良盆地の中央低地部の巨大古墳と寺院と神社」を受講しました。近鉄橿原線「平端」駅(9:30集合)を起点として、近鉄田原本線「池部」駅(17:00予定)を終着点とする史跡探訪です。池部駅は「河合町役場」の近くにある駅です。大和郡山市最南部・磯城郡川西町・北葛城郡河合町という地域の探訪をまとめたものを再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)平端駅前には「まちなか案内」板が設置されています。平端~池部の地域全体の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 平端駅前に立ちまず目にとまったのがこのお堂。近づいてみると、「会ヶ峯道慈地蔵」という地蔵堂です。お堂の正面に和讃の額が掛かっています。 お堂の格子扉越しに拝見すると、小ぶりな彩色木彫像、地蔵石仏、「會ヶ峯道慈律師長老位」と刻された五輪塔が安置されています。調べて見ると、道慈律師は、遣唐船で入唐し、長安の西明寺にて16年間学んだ後に帰国。西明寺に模して南都大安寺の伽藍の造営を勾当し、「続日本紀」の編纂にも携わった人だそうです。(資料1)「まちなか案内板」を部分拡大して見ました。現在位置が集合場所。ここから赤丸白数字の6番→4番→3番→5番→2番という形で巡って行くことになります。電柱には「里の道WALK4」として、「筒井順慶歴史公園」という案内標識が出ています。まずは、筒井順慶墓のあるところに向かいます。線路の反対側北西方向です。 筒井順慶歴史公園の全景と標識 道路から整備された公園の中のこの通路を歩み、左折してさらに通路を進むことになります。 筒井順慶の墓には「五輪塔覆堂(おおいどう)」という建物が建てられています。筒井順慶廟所です。 桁行1間、梁間1間の「宝形造」の建物で、1辺は10尺。四隅の柱は円柱で礎石の上に建てられいます。東側が正面となり、中央に引き違いの格子戸が付けられています。詳しくはまた、あとでふれましょう。覆堂の中に、筒井順慶の五輪塔の墓が安置されています。地覆石の上に、上部に蓮弁の彫られた切石が1段設けられ、五輪塔がのせられています。花崗岩製で高さは約152cm、内、五輪塔部分の高さは115cmだそうです。方形の地輪の側面・正面には中央に梵字(発心門)が刻され、その右側に「順慶陽舜房法印」「三十六歳」(右脇)「子時入滅」(左脇)、左側には「天正十二季甲申八月十一日」の銘文が彫られています。こちらは五輪塔の背面、つまり西側から見たところです。地輪の側面には、四門の残りである西の菩提門、南の修行門、北の般若門の梵字が彫られ、地輪の上、水輪・火輪・風輪・空輪に対応する梵字がそれぞれ薬研彫りで刻されています。上部の空・風輪は一石で造られています。水輪は円球ではなくて壺形で笠石(火輪)の一辺よりも少し大きいという特徴があります。五輪塔の位置は当初のままと推測されているのです。(資料2)順慶は羽柴秀吉と織田信雄との不和の折、秀吉方につき、天正12年3月近江に出陣し、4月には秀吉軍とともに伊勢松ヶ崎城を攻略。その後尾張、近江日野付近にも出陣したのですが、8月に郡山城で亡くなったそうです。遺骸はその夜の内に南都の円証寺に葬られます。しばらくその死は伏せられ、養子の定次が後を継ぎ、10月9日に大坂で秀吉にその旨報告して後に、葬儀が10月16日に行われるのです。そして遺骸は長安寺に改葬されたのです。母尊栄の願による葬儀ともいわれています。長安寺は今はこの地の町名に残るだけのようです。(資料2・3、説明板)五輪塔の右斜め後の灯籠には天正13年銘があり、順慶の1周忌に寄進されたもの。五輪塔の前、左右の灯籠は天保2年銘があり、順慶の250年忌に寄進されたもの。さて、五輪塔覆屋の構造のご紹介です。この建物は露盤銘から天正12年(1548)に建てられたことが判明しているそうです。(資料2) 柱の上部には頭貫が通され、先端の木鼻はシンプルな形です。桃山期の木鼻を見る一基準になりますね。頭貫とその下の内法長押(うちのりなげし)の間は各面すべてが連子窓になっています。そして各面の中央に斗束が入れられているのですが、正面だけに装飾的な彫刻が施された「簑束(みのつか)」の様式を取り入れています。これは鎌倉末期に現れる様式だとか。他の三面は装飾のない間斗束です。 四隅の柱が円柱です。上部に前記の内法長押、下部には正面を除き、腰長押が外側に回されています。長押は、柱面に釘付した横木のことです。この覆屋の連子は方形の木を45度に置いていることがお解りになるでしょう。鎌倉時代以降は、一般的には尖った頂点を外に出した三角形の木を用いる方向になるそうです。軒は疎垂木(まばらたるき)の配置をとっています。正面以外の側面は頭の間に2本の貫を横にわたして板塔婆の形の柵にしているという特徴があります。(資料2)この後、再び近鉄橿原線の西側に戻り、 慈雲山来迎寺(浄土宗) 船墓山融通寺(融通念佛宗)の前を通過して、 「額按寺墓地と石造五輪塔」を訪れます。ここは額安寺境内の北側の丘陵の一画で「額安寺墓地」があります。 墓地全景はこんな感じです。左側・南東の部分に代々の住職墓があり、その北方向つまり墓地の西辺にそって、5基の石造五輪塔が並び、北辺に回り込んで3基の五輪塔そして、東辺に回り込んで1基の五輪塔、小型地蔵菩薩像と大型地蔵菩薩像並んでいます。西辺の左端にある大型五輪塔は発掘調査の結果、「忍性上人の塔」と判明したのです。鎌倉時代に寺勢が衰えていた額安寺を再興したのが良観坊忍性上人だったそうです。この五輪塔がここにある8基の中で最大のものです。「忍性は建保5年(1217)に大和国城下郡屏風里(旧三宅村)に生まれ、16歳のとき額安寺で出家した。その翌年、東大寺戒壇院で受戒して、24歳で西大寺に入る。そして叡尊に師事し、師と一緒に律宗の復興、戒律復興に努める。一方では、貧者や病弱の人の社会事業にも尽力し、施薬、悲田院などの施設を造り、道路建設、架橋工事などの慈善事業に携わった。行基への崇敬を深めていた。この間、額安寺・西大寺・般若寺の諸寺で戒律復興に努めている。」(資料2)という上人です。忍性上人は布教のために関東に下り、鎌倉に極楽寺を開山し、嘉元元年(1303)に極楽寺で入寂。墓所は極楽寺の西方の山裾にあり五輪塔が建立されているのです。遺命によって、遺骨が大和生駒の竹林寺とこの額安寺に分葬されたのです。この額安寺の五輪塔の下から、上人の骨蔵容器が発掘により出土しています。石製外容器の中に銅鋳造瓶形骨蔵器が納められていたのだとか。その骨蔵器の胴部に忍性上人の舎利だと説明する銘文が刻まれていたのです。額安寺五輪塔の西側約30mのところに「額田部窯跡」があります。国指定史跡です。 発掘された3基のうち保存状況の良い西側の1基が、調査した状況で覆屋を設けて保存されているのです。あとの2基は埋め戻されたとか。覆屋の中を拝見しました。平窯の構造は、焚口、燃焼室、焼成室、煙り出しからなるもの。額田部窯跡は低い丘陵斜面を掘り下げた半地下式の平窯です。 当日のレジュメから、この平窯の説明を引用します。これを読み、理解を深めました。”ロストル式平窯は、燃焼室と焼成室の間に「隔壁」を設けることが特徴で、焚口・燃焼室は焼成室より一段低い位置で、床は緩やかな傾斜をもたせている。「隔壁」を隔てた反対側に焼成室がある。焼成室の床は緩やかな傾斜をもち、かつ数条の溝状の火道(ロストル)を設けている。隔壁の下方には3~4個の通炎孔を設けており、その孔とロストル(分焔柱・火道)が繋がる構造となっている。ロストルは焼成室の前後で20cm程の高低差がある。 燃焼室で燃える火炎は、隔壁の下方の狭い通炎孔を通り、燃焼室のロストル(分焔柱・火道)に勢いよく吹き出し、焼成室全体に火が回る構造となっている。 煙突は、焼成室の奥方の天井部分に設けることが多い。平瓦などの焼成物は3条の堤が設けられており、堤にかけて火道の上に重ねて置き、焼成する。”(資料2)この「額田部」で連想するのが「額田部皇女」(後の推古天皇)です。調べて見ると、やはりこの丘陵地一帯が在地中小豪族の額田部氏の拠点でした。額田部氏はこの「額田部丘陵を五世紀以来の本拠とし、六世紀頃に飼馬を以てヤマト王権に仕え、また額田部皇女の宮の運営・資養を担当する額田部の管理者として登場する」と論じられています。(資料4)額田部皇女は『日本書紀』を読むと、欽明天皇の子の一人です。欽明天皇は5人の妃を入れたと記されていて、その内の一人が蘇我大臣稲目宿禰の女(むすめ)・堅塩姫(きたしひめ)なのです。堅塩姫は七男六女を生み、4人目として生まれ、2番目の皇女が額田部皇女です。大和の額田部湯坐連(ぬかたべのゆえの・むらじ)に育てられたからこう称されたといわれています。(資料5)次に額安寺に向かいます。この額安寺は額田寺から寺号を改めたものだったようです。つづく参照資料1) 道慈律師 :「南都大安寺」2) REC講座「奈良盆地の中央低地部の巨大古墳と寺院と神社」当日配布のレジュメ (講師:龍谷大学名誉教授 岡﨑普明氏作成)3) 筒井順慶 :「大和郡山市」4) 額田部氏の研究 畿内中小豪族の歴史 [論文要旨] 森 公章氏 5) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟訳 講談社学術文庫 p12-13,p86 阿蘇凝灰岩製石棺と大和王権備考・額田部氏とは ②:「民俗学伝承ひろいあげ辞典」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺道慈 :ウィキペディア筒井順慶 :ウィキペディア筒井順慶 :「戦国武将 ゆかりの地を巡る」筒井順慶歴史公園 筒井城跡 :「ならリビング.com」筒井城 :「大和郡山市」郡山城 :「大和郡山市」大和郡山市額田部北町 浄土宗 慈雲山 来迎寺 :「View haloo」大和郡山市額田部北町 融通念仏宗 船墓山 融通寺 :「View haloo」額田部窯跡 :「大和郡山市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -2 推古神社と古墳、額安寺ほか へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -3 島の山古墳・比売久波神社 へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -4 飛鳥川・曽我川・広瀬神社 へ探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -5 城山古墳、川合大塚山古墳、長林寺跡 へ
2017.12.27
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「下永橋」を渡って、大和川の南側・下永に入ります。 橋上から大和川の上流側(東)を眺めると、京奈和道の高架の橋脚が川の中央に居座っています。反対の下流側(西)はゆったりとした川の流れが見える風景が広がっています。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 下永の集落の中の道を通り、大和川に近い位置にこの「八幡神社」があります。この神社の境内、一番大きな石灯籠の先にある建物、ここがめざす探訪地でした。併せてこの八幡神社が探訪地にもなります。 石鳥居の傍に立つのが、ここ「大字下永(東城:ひがしんじょう)」の説明板です。この地、古くは旧初瀬川の左岸にある「東城垣内(かいと)」だとか。「東城の地名は、西城(にしんじょう)とともに外敵を防ぐ砦が築かれていたことに由来する」記されています。この八幡神社は、かつては旧初瀬川右岸東方の小字高堂に神宮寺の白米密寺とともにあったと伝えられているそうです。右岸に白米密寺があったとすると、その附属寺院として、前回ご紹介した「教導寺」が近くにあったのだなとうなずけます。現在、地図(Mapion)に「白米寺」として記載されているのが、この地蔵堂(収蔵庫)です。白米寺は「はくまいじ」とも「くめじ」とも呼ばれているようです。ネット検索で調べた範囲では、二通りの読み方がされています。この建物は八幡神社の駒札によれば、昭和43年(1968)に建てられました。 今回は史跡見学教室ということで、地元の関係者のご厚意・ご協力で開扉していただけて、収蔵庫内を拝見できました。「飛行山白米寺」という簡易な扁額が正面にかけられています。普段は閉じられているのでしょう。 収蔵庫の左側に、祀られている主な仏像の写真入りの説明板「旧白米寺の諸佛」が立てられています。駒札もたてられています。地図を見て、興味深いと感じたのは地図上の表記です。現在は八幡神社の境内の一角にこの白米寺としての地蔵堂(収蔵庫)がある形なのに、八幡神社の名称記載がなく白米寺と記載されている点です。下永の八幡神社の神宮寺としての白米密寺は、江戸時代中頃には廃されているのです。(資料1)収蔵庫の中央に阿弥陀如来坐像そして、右斜め奥に地蔵菩薩立像がそれぞれ安置されています。 阿弥陀如来坐像(重文)は、定朝様の阿弥陀如来像です。檜材漆箔の寄木造で、像高は144.2cmだそうです。手は上品下生(じょうほんげしょう)の来迎印(らいごういん)の印相です。平安後期の造立と推定されているようです。「蓮台の蓮肉と華盤は本来のもの。東部は全体形に比べて大きく、特に肉髻をやや大きく高く古風な造り、螺髪も丁寧に造られています。目は彫眼です。大和的な作風といえるようです。(説明板、資料1,2 以下同じ)地蔵菩薩立像(重文)は、樟(くすのき)材の一木造で平安中期の造立とされています。像高161cm。当初は彩色が施されていたそうですが、間近に拝見しても剥落してしまっていてわかりません。 目は彫眼で、左手に宝珠を載せ、右手は下に垂らし、右肩にあずけた錫杖にそっと指を添えて支えている形です。よくある錫杖をしっかり握るタイプと異なりところを特徴的だと感じました。膝下のところは、翻波式衣文がみえます。部分写真を撮ったのですがピントが甘くて没です。残念! 阿弥陀如来坐像の左側には、壁際に沿ってL字形に諸仏が安置されています。 勢至菩薩立像・地蔵菩薩立像・毘沙門天立像・弘法大師空海像が並んでいます。一番端に安置されているのも、サイズは小さいですが弘法大師像でしょう。阿弥陀如来坐像から見ると、左斜め後方の壁際に安置されているのが、不動明王立像です。こちらは県指定文化財のようです。鎌倉時代初期の作だとか。像高51.5cm。檜材の寄せ木造で載金彩色が施されています。 小像の眷族(けんぞく)が並んでいます。向かって左は、制吒迦(せいたか)童子、右に矜羯羅(こんがら)童子です。 右の方の壁には、白米密寺と関係のある古文書のコピー類が説明文とともに展示されています。 拝殿と狛犬この拝殿前の狛犬は、大坂の石工・佐吉により造立されたものです。台座に銘文があり、安政6年(1859)に奉安されたことが判明しています。丹波生まれで、難波伊助のもとで修業したことから、丹波佐吉と名のった石工で、幕末期に大和・大坂を中心に活躍し、特に狛犬に優れた技量を発揮し、奈良県には多くの作例があるといいます。この八幡神社のものは佐吉の中期のものだそうです。「バランスのとれた姿態と、力強く躍動感ある表現、細部まで行き届いた繊細な彫りに特徴があり、とりわけ基台に刻まれた「奉献」の文字の彫りの深さに顕著な個性が認められます。」(資料2)探訪時間の余裕がなく、狛犬を仔細に観察し写真が撮れなかったのが残念! 拝殿と収蔵庫の間に、石の柵と扉があります。今回はこの扉の内側の境内に入り、社殿の全体を正面から拝見できました。 拝殿と本殿との間に、石鳥居が奉納されていて、一段高い境内に社殿があります。瑞垣の部分が白い築地塀となっていて、鉄製扉がいわゆる門の代わりに使われているのが特徴的です。私の神社の拝見経験からははめずらしいものです。神木と築地塀の間に様々な形の石灯籠が奉納され並んでいます。 本殿祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)及び足仲彦命(たらしなかつひこみこと、仲哀天皇)と息長帯姫(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)だそうです。 本殿の左右に配された境内社 熊野神社(祭神:伊邪那美命いざなみのみこと)と愛宕神社(祭神:加具津智命かぐつちのみこと)が祀られています。本殿への石段の左側に石燈籠が安置されています。四角い燈籠です。火袋の部分が木製になっています。この竿には慶長11年(1606)の銘が刻されています。 中台の縦の面は正面と側面では異なる文様で彫られています。境内にある手水舎の水盤側面には「八幡宮」と刻されています。現代の蛇口を注ぎ水の源にしてあるのが、ちょっとおもしろいところ。手水舎の左には「百度石」の石標が立っています。白米寺の収蔵庫で諸仏を拝見し、八幡神社を拝見したことで、今回の史跡見学教室の探訪が終了しました。 八幡神社の隣にある「融通念佛宗正念寺」このの門前を通って、ほぼ真っ直ぐに南に向うと探訪終点の近鉄橿原線「結崎駅」。駅までは徒歩10分位の距離です。こんな案内板も設置されています。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「関西史跡見学教室26~奈良・二階堂~」 龍谷大学REC講座 当日配布の講座資料 作成:龍谷大学非常勤講師・松波宏隆氏2) 川西町の文化財【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺佐吉狛犬 八幡神社 :「探訪 狛犬 発信 奈良から」下永八幡神社百味御供 :「マネジャーの休日余暇(ブログ版)」下永八幡神社 宵宮祭 :「巫女筋・日向家の日常」下永八幡神社 秋祭り 本宮 :「大和フォト歳時記」~~ 調べてみて、石工丹波佐吉とその作品にかなり着目されていることを知りました~~丹波佐吉と大和 長田満男氏 余禄と肩書された文 pdfファイル江戸末期の石工 丹波佐吉 :「趣味の部屋」(狛犬屋オヤジの裏サイト)丹波佐吉の狛犬~円丈師匠佐吉を語る丹波佐吉 狛犬・石造物と石仏制作年表 Coma-たんさく人 :「石仏巡り 散策」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良 二階堂、下永を歩く -1 前栽駅付近・弥勒堂・星塚古墳・下ツ道・杵築神社 へ探訪 [再録] 奈良 二階堂、下永を歩く -2 二階堂地蔵堂・教願寺ほか へ
2017.12.27
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中興堂の山門を過ぎると、この建物が右側に見え、開口部があります。現在の「開山堂」です。この「境内略図」は「新宝蔵」前の掲示板に貼付されていたものです。これを見ると、前回引用していたリーフレットには明記されていませんでしたが、「西室跡」の北に元は「開山堂」が位置していたようです。そして、こちらの場所には「本願堂」と称される建物があったようです。資料を読み比べ、リーフレットの説明で理解できました。この建物は元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立された建物だったようです。鑑真大和上像(国宝)を安置するために、明治14年(1881)にこの場所に移築されたのです。後でご紹介する「御影堂」が設けられた時点で、そちらに鑑真大和上像が移されます。その後、覚盛上人・聖武天皇・徳川家康を安置する「本願堂」になったのです。御影堂の鑑真大和上像は例年「開山忌舎利会」の前後日を含める6月5~7日の3日間だけ、御影堂内が公開され参拝できるだけだったのです。鑑真大和上円寂から1250年になる平成25年(2013)に、奈良時代の脱活乾漆技法により御身代わり像が制作されました。御堂の老朽化による改修工事が行われた後、いつでも参拝が可能なように、改めて「鑑真大和上御身代わり像」を安置した「開山堂」として落慶されたという経緯になります。(資料1)唐招提寺のホームページには、「鑑真大和上の御影像制作」過程の記録画像が紹介されています。奈良時代の仏像製法を知る上でも、一見の価値があると思います。こちらから御覧ください。(唐招提寺 伽藍と名宝 開山堂)当時の彩色を復元した平成御影像を拝見できます。さて、探訪当日は結果的に裏口から正面に周り、御堂と室内に安置された平成御影像を拝見した事になります。開山堂の境内での撮影は禁止でした。お堂の正面から参拝した後、北の開口部から出て、更に通路を西に進みました。そのため、2つめの失敗です。開山堂の土塀を含めた全景を正面から眺めなかったのです。当日のリーフレットから引用します。正面石段の左側、ここに「松尾芭蕉句碑」が建立されているのです。残念! 次回に訪れる際の課題ができました。芭蕉は、「百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。」の一文から書き始めた『笈の小文』という紀行文を残しています。貞享4年(1687)10月25日江戸を出発し、翌5年4月23日までの旅に出たのです。この時3月19日に吉野の花見に赴き、4月8日には奈良に滞在しています。唐招提寺を訪れる前のとして、「灌仏の日は、奈良にて爰(ここ)かしこ詣侍るに、鹿の子を産を見て、此日におゐておかしければ、」と記し、 灌仏の日に生まれあふ鹿の子哉 と詠じているのです。(資料2)灌仏とは釈迦の誕生日で、旧暦4月8日です。この続きに、芭蕉は唐招提寺にて鑑真大和上像を拝したことを記していきます。 これは、平成21年(2009)に奈良国立博物館で、唐招提寺金堂平成大修理記念として企画された『国宝 鑑真和上 展』を鑑賞した折に購入した図録の表紙の引用です。(資料3)芭蕉は、「招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ御目のうち塩風吹き入て、終に御目盲(めしひ)させ給ふ尊像を拝して」と記し、 若葉して御めの雫(しずく)ぬぐはばやと詠みます。この前書きが俳聖松尾芭蕉の脳裡に映じた鑑真和上の渡航時の艱難辛苦の姿だったのでしょう。芭蕉は鑑真和上が6度目の渡航で来日されたという事実を知っていたのでしょうか。また、史実では鑑真は6度目の出航の753年以前に既に失明していたそうです。失明していたにも拘わらず、渡日して仏教・戒律を伝播するという鑑真の決意は不動だったのですね。やはりすごい人だった!(資料4) 開山堂の東側に、この歌碑があります。 水楢(みずなら)の柔(やは)き嫩葉(わかば)はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ傍に立つ駒札には、この歌と北原白秋の名前が記されています。この歌は白秋の生前に出版された最後の歌集『黒檜』に収録されているといいます。この他にも白秋が鑑真への共感を歌に託して、鑑真をしのび詠んだ歌がいくつかあるようです。孫引きになりますが、ご紹介します。(資料5) 目の盲ひて幽かに坐しし仏像(みすがた)に日なか風ありて触(さや)りつつありき 盲ひはててなほし柔らとます目見(まみ)に聖(ひじり)なにをか宿したまひし 唐寺の日なかの照りに物思(も)はず勢(きお)いし夏は眼も清(す)みにけり「白秋は晩年、糖尿病と腎臓病による眼底出血のために入退院をくり返していた。視力が落ちていき、ぼんやりした薄明の世界に投げだされて生きなければならなかったのである。」(資料5)そんな状況の白秋は1942年11月に没しますが、昭和11年(1936)に唐招提寺を訪れて、鑑真和上坐像と対面しているそうです。己の置かれた状況を鑑真和上に重ねて、鑑真の思いと行動に心振るわせたのでしょうか。その先には、南に降る緩やかな坂道が見えます。土塀の内側は境内略図をみると、東室・礼堂の屋根が連なっています。一方、北側には5本の定規筋が入った塀と表門が見えます。近づいてみると「御影堂」の入口です。手前に説明板が掲げてあります。「鑑真大和上御影堂 当寺、鑑真大和上の尊像(国宝)を奉安する為に一千二百年御諱を記念して昭和37年旧興福寺一乗院門跡の寝殿、殿上、公所、玄関等の建物を、移築復原したものである。この建造物は慶安年間(1647)の再建であるが、よく平安中期貴紳邸宅の系統を汲む塔頭建築として貴重な遺構である為、重要文化財に指定されている」(旧漢字の変換等の上で転記)この御影堂に、昭和50年(1975)、日本画家・東山魁夷画伯の障壁画が揮毫奉献されています。お寺にて購入した写真集(小冊子)を見ると、山雲(上段の間)、濤声(宸殿の間)、黄山暁雲(桜の間)、桂林月宵(梅の間)と題する障壁画が各間に描かれています。そして、鑑真和上像は「雍州薫風」と題する障壁画が描かれた「松の間」に置かれた基壇の上の厨子に安置されているようです。その厨子の内面には「瑞光」(厨子絵)と題する風景が描かれています。(資料6)上記のとおり、開山忌舎利会を含む期間には、御影堂で直接拝観できるそうです。門扉が開いていましたので、門前まで行くと、建物は修復工事中の様でした。御影堂の前を更に東に歩みます。御影堂の東は林地が広がり、少し離れた位置に 「三暁庵」があります。外観を眺めると茶席の建物のようです。この建物は、通路からは石垣積みで一段高い敷地の林間にあります。再び土塀が見えます。 表門に、「鑑真大和上御廟」の木札が掛けてあります。唐招提寺境内地の北東隅に位置します。中は広々とした御廟境内です。門を入るとほぼ北方向へ真っ直ぐの参道が延びています。西を眺めると三暁庵の屋根が見えます。 東を見れば樹木が林立しています。参道を進むと、御廟の前を囲むような形で池があり、平石橋が架けてあります。西側の池の景色東側の池の景色 橋を渡るとなだらかな坂道となります。振り返って眺めた景色です。 自然石を穿って作った手水が設けてあります。 金堂と同様に正面中央に立つ石灯籠 石灯籠を回り込んだ先に、「開山御廟」がありました。緩やかな円丘の上に宝篋印塔が建立されています。正面の右側に札が付けられた樹木が見えます。鑑真大和上の故郷である中国・雍州の名花を移植されたのです。御影堂の松の間に障壁画「雍州薫風」が描かれたというのも頷けます。木の傍にこの石標があります。中華人民共和国の趙紫陽首相が昔日来訪されて植樹されたことがこの石標でわかります。 正面左右の石垣には漢文が刻されています。詩文なのでしょうか。それとも銘文なのでしょうか。私には判読できません。円丘の裾が角形に石板の垣根で囲われています。周囲を巡ることができます。 右回りで巡ってみました。東側の池の畔に、「趙樸初居士之碑」が建立されています。(補遺をご参照ください)そして、この御廟地に、「天平の甍」と刻された碑が建立されています。井上靖の『天平の甍』という歴史小説が鑑真の存在を知らしめるのに大きく寄与しているといえるでしょう。歴史の授業で鑑真のことを学んだ以外では、やはりこの『天平の甍』を読んだことの影響を感じます。遣唐使とともに中国に渡った留学僧と鑑真の出会い、そしてそれがそれぞれのその後の運命に関わって行く。1957年に出版されたこの小説は芸術選奨受賞作にもなっています。映画化され、また舞台でも上演されてきています。井上靖はこの長編歴史小説第一作で、歴史小説の叙事的スタイルを確立したと言われています。(資料6)御廟を出て、通路を引き返し、直近の道を左折して境内を南方向に進みます。「新宝藏」の建物が見えました。探訪した時は展示期間が終わり、休館中でした。この傍の掲示板に上掲の境内略図が貼付してあったのです。その横に、こんな写真も貼付されていました。写真集を参照すると、左の仏像「衆宝王菩薩立像」は一木彫で丸彫りのままで内刳りがまったくない仕上げの像だそうです。もと講堂に安置されていた仏像で、背面に脇手を取り付けた工夫の跡が見られることから、多臂像だったことがわかるとか。天平時代の作。中央の仏像は「薬師如来立像」で、元は螺髪(らほつ)が漆で植え付けてあったそうです。檜材を使い、これもまったく内刳りの施されていない堅固な構造で、ほぼ等身大、重量のある仏像だとか。天平時代に造像されたものといいます。右の「如来形立像」も載っています。こちらは平安時代の作だそうです。これもほぼ等身で、榧(かや)材の一木彫成像で、内刳りが後頭部と背面にあるそうです。説明には、ギリシャ彫刻のトルソにように、この像をトルソとして眺めたときの美しさが際立つ点が具体的に説明され、強調されています。(資料7) 新宝蔵の正面から西方向に向かう道を振り返って撮った景色です。新宝蔵からみれば北西方向にこの池があります。境内略図をみると、「滄海池」と名づけられています。 この後、境内の中央部、金堂の背後に位置する諸堂を最後に巡ることになりました。つづく参照資料1) 拝観受付所でいただいたリーフレット 「唐招提寺」2) 『芭蕉紀行文集』 中村俊定校注 岩波文庫3) 『唐招提寺金堂平成大修理記念 国宝 鑑真和上 展』 図録 TBS 4) 鑑真 :ウィキペディア 鑑真 :「コトバンク」5) 『百寺巡礼 第一巻 奈良』 五木寛之著 講談社文庫 p106-1086) 天平の甍 :「コトバンク」7) 『天平の甍 唐招提寺』 唐招提寺 当日お寺で購入した小型本(写真集)補遺唐招提寺で趙樸初師三回忌 2002.5.21 :「立正佼成会」趙樸初 :ウィキペディア趙樸初記念館オープン :「中国通信社」「黄金の絆」の調和精神――趙樸初先生をしのぶ :「龍泉之聲」トルソ :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -1 南大門・記念碑・歌碑句碑・金堂 へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -2 戒壇 へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -3 醍醐井戸・本坊門前・中興堂門前ほかスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -5 宝蔵・経蔵・東室・礼堂・講堂・鐘楼ほか へスポット探訪 奈良 薬師寺から唐招提寺への道すがらに へスポット探訪 奈良 薬師寺細見 -1 玄奘三蔵院伽藍と北側境内域 へ 3回のシリーズで探訪記をまとめています。
2017.12.27
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杵築神社の石鳥居から境内を出て、参道を南に歩き、道路を右折して下ツ道に戻ると、南東角が「二階堂地蔵堂」です。 説明板によれば、この付近にかつては「膳夫寺(かしわでら)」があり、そのお堂に裳階が付いていたので二階造りに似ているところから「二階堂」と名づけられたと伝わるのです。この地名が小字名ともなり、明治になってこの地域が「二階堂」と名づけられる由来となったようです。「膳夫」という言葉をどこかで読んだような・・・・・と思っていると、説明板の内容・後半に記されています。聖徳太子の妃となった膳夫姫に由来するとか。「初め天香具山の北側に膳夫寺を造営したが、後にこの場所に移建したものという」(説明板より)。この寺がいつしか廃寺となり、その後に祀られたのが、現在の二階堂地蔵堂の起源だそうです。 建物の屋根が少し段違いになっています。向かって左側が地蔵堂で、右側が観音堂です。地蔵堂が造立された後に、観音堂が併設されたといいます。内部は繋がっています。正面の格子扉から堂内を拝見できましたので、写真を撮らせていただきました。 左側の地蔵堂には、石造の地蔵菩薩半伽像が祀られています。この仏像には天正9年(1581)、念仏結衆十八人の銘があるそうです。(説明板、資料1)右側の観音堂には、三十三観音像がひな壇状にずらりと並べて祀られています。説明板が立つ右傍に様々な石造物がまとめて安置され、中央には様々な石造部材を寄せ集めた石塔が祀られています。石塔の左には、石仏が彫られているとわかるものと、五輪塔や宝篋印塔を浮き彫りにした板碑もあります。同様に、右側にも石仏と五輪塔を彫り込んだ板碑が立っています。北東角には、隅切りをして多角形にした少しレトロな感じの民家の建物が目に止まりました。時代的な存在感のある建物です。再録にあたり、余談を加えます。元のブログにまとめを載せた時、友人からこの建物に似た感じの建物が大阪でも見られると教えてもらったのです。その場所に今年(2017)の9月に行ってきました。 この2つ建物です。どちらもお店が営まれていました。一つは入口が同様に位置しますので、ナルホド!!と感じた次第です。建物って、おもしろいですね。JR大阪駅から比較的近い場所でした。中崎西1丁目の北西角の交差路のところです。交差路の角地にあり、双方向の見通しからか角切りがされているので、結果的に同じタイプになったという結果でしょうか。東海道本線の西側にある新御堂筋の華やかなショッピング街とは対照的に、高架線路を挟んだ東側の中崎町辺りは、静かで鄙びた雰囲気が漂っていました。大都会の中の東西の商業エリアのコントラストも興味深く感じた次第です。二階堂地蔵堂の説明板によると、下ツ道は「中街道」とも呼ばれるようです。 下ツ道を南下していくと、昔の街道にマッチする風情の屋敷や民家もみかけます。こういう建物に出会うのが街道歩きの楽しみでもあります。歴史としての街道をイメージするのに役立ちます。県道109号線と交差する手前で通りすがりに見た地蔵堂交差点を横断すると、「二階堂小学校」が進行方向左側(東)に見え、その先の東西の道路を隔てた南側に「奈良健康ランド」があります。 この辺りから川が南北に流れていて、川の両側が道路になっています。川の東側の道路を南下します。この川の西方向に見えている高架は「京奈和道」です。この川のところがかつての下ツ道の側溝部分と重なる可能性が高いようです。かつては下ツ道の両側に2m幅の側溝があったということですので、歴史の連続性を身近に感じます。さらに進むと、川の中央を境界にして、東側は天理市嘉幡町、西側は川西町下永の最北端の地域に入って行きます。下永は天理市二階堂南菅田町と南北の関係で東西の道路中央線を境として接しています。余談ですが、地図を見ているとおもしろいことに気づきます。二階堂南菅田町の区域に、「下永北公園」という名称の境界道路に接した公園があるのです。かつての地域と現代の行政区画の元ができたときの線引きでこういう現象が生じたのでしょう。かつての下永村は初瀬川の両岸にわかれていますが、中世までは平群郡にあり、近世には式下(しきげ)郡にあった地域です。現在は上記のとおり川西町に属しています。この境界の道から三筋目の道路を右折して進むと、辻の南西角に「教願寺」が見えます。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 教願寺の山門今回このお寺は外観を拝見しただけですが、この山門の細部は見応えがあります。現在は浄土宗本願寺派のお寺です。ここは、この後に訪れる「白米密寺」の附属寺院だったところだそうです。宝永5年(1708)に転宗したとされています。「当初は村持ちの道場で、宝暦5年(1755)に本尊・寺号が本山から許可された」といいます。当寺には、14世紀前半のものと推定され、白米密寺から移されたと伝わる石塔残欠が残されているそうです。(資料1)前面控柱の頭貫上部の蟇股です。四脚門本柱の頭貫の上部全体に大きくダイナミックに龍が透かし彫りされています。 門の屋根を支える大瓶束の両側に菊花の装飾彫刻がしっかりと施され、一方木鼻も深い彫りで像や獅子が造形されています。 門扉の前、両側面には内側に獅子と草花文が彫り込まれています。 向かって左側面の外側は草花文が全体に彫られていて、内側とはまた趣が異なります。門扉に彫られた意匠です。中央に彫られていうのは、ここの寺紋でしょうか。 山門の左に二階建の建物、太鼓楼があります。二階部分に花頭窓が見えます。 右の画像に見えるように、獅子口や軒丸瓦にも門扉と同じ紋章で統一されています。太鼓楼や塀などを含めてまだ新しい感じを受けますが、これは昭和61年(1986)以降、順次修復や改築を重ねてこられた結果のようです。(資料2) 山門の右側の道路を少し進み、振り返った景色ですが、山門の右奧、ここからは左側に鐘楼があります。屋根の鬼瓦の造形がおもしろい。 鐘楼の木鼻も深い彫りで獅子が造形されています。本堂の建物を横に眺めながら、西方向に歩み、最後の探訪地に向かいます。 西に進めば、「大和川」の堤防に突き当たります。 堤防上の道の上を、「京奈和道」の高架が通っています。大和川の上流部は「初瀬川」と称されます。かつては初瀬川の名称が主に使われていたのでしょう。たとえば、こんな歌が『新古今和歌集』に収録されています。(資料3) すずしさは秋やかへりてはつせ川ふる川の辺の杉の下かげ 有家朝臣 261 いしばしる初瀬の川のなみ枕はやくも年の暮れになるかな 後徳大寺左大臣 703 『続後撰集』に ちきりきなまたわすれすよはつせかはふるかはのへのふたもとのすき 寂連 898 はつせかはなかるるみをのせをはやみゐてこすなみのおとそさやけき 読人不知 1019 『後拾遺集』に はつせかははなのみなわのきえかてにはるあらはるるせせのしらなみ 実氏 119現在は下流域と上流域の管理管轄が国土交通省と奈良県で区分されています。その管理境界地点から下流域が大和川、上流域が初瀬川と呼び名が変わるのです。(資料4,5)見えて来るのが「下永橋」です。この橋を渡り向かったのは最後の探訪地「白米密寺」です。つづく参照資料1) 「関西史跡見学教室26~奈良・二階堂~」 龍谷大学REC講座 当日配布の講座資料 作成:龍谷大学非常勤講師・松波宏隆氏2) 教願寺 3) 『新訂 新古今和歌集』 佐々木信綱校訂 岩波文庫 国際日本文化研究センター データベース 和歌 4) 大和川 :ウィキペディア5) 大和川中流 初瀬川から大和川へ :「大和川」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺式下郡 :ウィキペディア第1次府県統合後の国郡・府県(1871年12月末) 大和国 / 奈良県本願寺の紋は下がり藤? 天真寺通信 :「浄土真宗本願寺派天真寺」藤原有家 :「コトバンク」後徳大寺実定 :「コトバンク」寂連 :ウィキペディア西園寺実氏 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良 二階堂、下永を歩く -1 前栽駅付近・弥勒堂・星塚古墳・下ツ道・杵築神社 へ探訪 [再録] 奈良 二階堂、下永を歩く -3 八幡神社・白米寺(白米密寺)へ
2017.12.26
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2015年10月にREC講座「関西史跡見学教室26」を受講し、奈良・二階堂を巡りました。近鉄天理線の平端駅からは、二階堂-前栽-天理です。前栽駅前から一駅分西方向に歩き、二階堂駅の南方で下ツ道を通り、二階堂地区を探訪して、大和川を渡り近鉄橿原線の結崎駅を終点とする史跡見学でした。そのときのまとめを再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)冒頭画像は、集合地点となった近鉄天理線前栽(せんざい)駅のすぐ傍にある「雲井寺厄除地蔵尊」です。この史跡見学教室で中ツ道跡を歩いた時の最終探訪地がこのお堂でした「探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -4 岩室池古墳・雲井寺地蔵堂・前栽遺跡」という4回目のご紹介記事を併せてご覧いただけるとうれしいです。 集合時刻までに余裕を持って現地に着きましたので、待ち時間に近辺を歩いて見ました。駅に近かったので、まず「雲井寺厄除地蔵尊」に立ち寄りました。1年経つと変わるものです。境内の整備が進んでいました。2014年になかった覆屋がこの石仏二尊に設けられています。信仰心の篤い方々の寄進によるのでしょう。右の画像は上記でご紹介の記事に掲載している1年前です。 地蔵尊の前懸も新しいものに取り替えられています。覆屋の左には、側面に「雲井禅寺」と刻された手水があります。お堂の前の道から西方向を少し歩いてみると、集落の少し奥に神社があります。「春日神社」です。奈良・春日大社の分祀でしょうか。 境内の一段高いところに、春日造の様式の小祠が3社並んでいます。これら社殿に向かって左側の境内敷地に二枚の格子戸があるお堂も並んでいて、地蔵尊が安置されています。参加者全員が集合し、駅前で少し今回の講座の導入説明を受けた後、近鉄天理線の線路を北方向に横断して、線路沿いの道を西に進みます。最初の探訪先は「弥勒堂」です。この近辺の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 しばらく行くと方形の大きな溜め池が見えます。この付近の航空写真を見ますと、各所に方形の池が築かれていることがよくわかります。前栽駅を中心にしてgoogle mapで眺めるとこんな具合に現在では点在しています。条里制の中で、各所に方形の池が設けられたということなのでしょう。こちら上空からの写真をご覧ください。池の手前を右折して、池の北辺近くでもう一度右折してそのまま進見ます。 道路の右側には、「八幡神社」があります。境内を入ると手前に小祠があり、その並びの奧に、ここも一段高くなり瑞垣で囲まれた中に2つの春日造りの小祠が祀られています。 この神社で関心を惹かれたのは、2つの小祠の間に「石上神宮」と刻された石碑が立っているのです。石上神宮の影響下にあった土地なのでしょうか。少し調べてみましたが不詳です。神社前の道路の反対、北側にこの「弥勒堂」があります。かつては八幡神社の神宮寺だったそうです。現在は、地元の人々が維持管理されているお堂です。今回は見学教室ということで、堂内を拝見できました。本尊は石造弥勒菩菩薩立像が祀られています。光背の左側弥勒像の右手の横あたりに「小路庄」という文字が刻されているのが判読できました。このお堂のあるところの地名は小路町です。弥勒仏に向かって左傍に、三体の地蔵石仏が祀られています。また、その左側には、9世紀に造立されたと推定される地蔵菩薩立像も祀られていて、こちらは木心乾漆造による仏像です。 弥勒堂の左脇にある小祠。地蔵尊なのでしょうか。箱型の石に彫られた素朴な双体像が前に祀られ、背後に3体の石像が安置されています。屋根の鬼板に鶴が造形されているに興味を持ちました。まだ新しそうな瓦の感じですが・・・・。小路町の西隣が二階堂上ノ庄町です。近鉄天理線を夾み南北にまたがる区域(町)です。近鉄天理線の北側に開発された住宅地区の西端で線路が間近に見える場所に「星塚古墳群」があります。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 現在は、住宅地区の西端に位置する緑地公園と共同墓地域 このあたりに、かつては2つの前方後円墳があったのです。推定では1号墳が全長37m、2号墳が全長40mほどのもの。発掘調査の出土品などから1号墳は6世紀初め、2号墳は6世紀前半の造営と判断されるそうです。また、近鉄天理線の南側には、2号墳に隣接して3号墳があったことも確認されているようです。そこは字「松塚」と称されていたところだとか。墳丘は鎌倉時代以前に既に削平されているのです。(資料1、説明板)上掲の周囲に木が植えられ、こんもりとしている部分は、現在は共同墓地域になっていますが、ここが2号墳の後円部にあたるそうです。 円墳部の中心にあたる場所に「星塚古墳」碑が建てられています。星塚古墳群跡の傍にある天理線の踏切を横断し、線路沿いに西に歩き国道24号線を横断します。そして県道193号線を南に向かうと「二階堂」です。明治の町村制によって、二階堂と称するようになったのです。 ここが、かつては飛鳥時代に、奈良盆地の主要な南北の交通路の一つだった「下ツ道」。道路を北方向に眺めた景色です。当時は、「道幅23mで両側に2m幅の側溝がつく。南部は藤原京西四条坊大路となり、北では平城京の朱雀大路となる」(資料1)幹線道路だったのです。今では4分の1くらいの道幅になっています。 「下ツ道(八条北遺跡)」の発掘調査現地説明会資料から古代の奈良盆地を南北に縦断した幹線道路の概念図を引用します。イメージが湧きやすいでしょう。(資料2)古代においてこの下ツ道は、東側が山辺郡星川郷、北西部の菅田は平群郡額田郷という形で両郡の郡界となっていたようです。また、引用した説明会資料の発掘場所で言えば、そこは天理市(六条町)と大和郡山市(八条町)の市境であり、道の東西が旧添上(そえがみ)・添下(そえじも)郡の郡界だったそうです。(資料1,2)この下ツ道は、『日本書紀』天武天皇元年(672)に、壬申の乱で大和が戦場となった記事の箇所に出て来ます。これが下ツ道の文献上の初出だとか。「これよりさき(7月1日)将軍吹負(ふけい)は奈良に向かって、稗田(ひえだ、大和郡山市稗田)にいたとき、ある人が『河内の方から軍勢が沢山やって来ます」といった。』・・・・将軍吹負は近江軍のため破られ、ただ一人、二人の騎馬兵をつれて逃げた。・・・・将軍が本営の飛鳥に帰ると、東国から本隊の軍が続々やってきた。そこで軍を分けて、それぞれ上道・中道・下道にあてて配置した。将軍吹負は自ら中道にあたった。・・・・二十二日、将軍吹負は、大和の地を完全に平定し、大坂を越えて難波に向かった。この他の別将らはそれぞれ三つの道(上道・中道・下道)から進んで、山崎(京都府大山崎町)に至り、河の南に集結した。・・・・・」(資料3)下ツ道は、南北方向の国道24号線・二階堂交差点に繋がる東西方向の道路との交差点までが、今は県道193号線と呼ばれ、ここがひとつの終端です。交差点を横断し、下ツ道をもう少し南下して、左折し、二階堂上ノ庄町にある「杵築(きつき)神社」に向かいます。神社境内の西側の横道から境内に入って行ったのですが、イメージしていただきやすいように、南側の正面からご紹介します。(直接そこに行くには、さらに一筋南下し、左折して東に少し行くことになります。) 本来の神社への参道は下ツ道の東側に平衡した南北の道です。奥まったところに、石鳥居が立っています。 手水舎 拝殿拝殿の屋根の棟に輝いているのは社紋でしょう。 本殿は石垣の上で一段高くなり瑞垣で囲われています。正面の門の左右が連子窓、側面が板塀です。門の笠木の上に屋根が設けられています。本殿は三間社流造。「春日神社の三十八所本殿を江戸中期以降に移築したもの」(資料1)と言います。隙間からは全体をうまく撮れません。本殿は紅色に彩色されています。布留社(=石上神宮)の記録では牛頭天王社となっている神社です。牛頭天王は神仏習合思想では、スサノオノミコトの本地とされています。牛頭天王はもともと古代インドの神で、仏教の天部に取り入れられた護法神です。また、「大己貴命(おおなむちのみこと、大黒主命おおくにぬしのみこと)の荒魂(あらたま)が牛頭天王だとする『先代旧事本紀』の説」(資料4)もあるようです。牛頭天王で有名なのは京都の八坂神社です。ここも明治維新の神仏分離令以降は須佐之男命を祀る神社となっています。スサノオノミコトは平安時代中期から江戸時代初期までは、杵築大社と呼ばれていた現在の出雲大社と関係があります。杵築大社はスサノオノミコトを祀る総本社でした。出雲大社(杵築大社)は島根県出雲市大社町杵築東に所在します。出雲地方は出雲神話の国、大国主命に関係する土地です。明治4年に杵築大社は出雲大社に改称され、祭神も大国主命になりました。牛頭天王=スサノオオノミコト→杵築大社→杵築神社という形で繋がって行くようです。それは、スサノオノミコト→大国主命→出雲地方(出雲神話)→出雲大社ということにも結びつくのでしょう。大和の勢力が大国主命を祭り上げたことと関係する局面があるのかもしれません。(資料1,5,6)脇道にそれますが、少し調べてみると、奈良県には、杵築神社が25社、杵都岐神社が1社あるようです。例えば奈良市二名平野町には「二名杵築神社」があります。ここの祭神は素盞鳴命(主祭神)、大国主命、市杵島姫命です。また、たとえば大阪府八尾市にも。(資料7) 境内の一隅に、覆屋があり板塀と扉が付いた小祠が祀られています。祭神は不詳です赤い鳥居の前の置物から推測すると稲荷神社の勧請でしょう。杵築神社の北東には融通念仏宗の「善照寺」があり、本尊に阿弥陀如来坐像を祀るお寺ですが、杵築神社神宮寺だった蔵之坊(真言宗)の本尊と伝わる薬師如来坐像も安置されているそうです。(資料1) 今回拝観できませんでしたが・・・・。この後、「二階堂」という地名の由来になった「二階堂地蔵堂」を訪れます。杵築神社に近いところで、下ツ道に面したお堂でした。つづく参照資料1) 「関西史跡見学教室26~奈良・二階堂~」 龍谷大学REC講座 当日配布の講座資料 作成:龍谷大学非常勤講師・松波宏隆氏2) 「下ツ道(八条北遺跡) 発掘調査現地説明会資料」 奈良県立橿原考古学研究所3) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p256-2604) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房 p3335) 杵築大社 出雲大社 :「伊萬太千 はやみね」6) 三宅町・杵築神社の牛頭天王信仰(産経新聞「なら再発見」第98回) :「tetsudaブログ『どっぷり!奈良漬』」7) 杵築神社・スサノオ系神社:奈良・Google 杵築神社 :「のりちゃんず」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺過去最長の「下ツ道」 - 東西側溝、南北に180メートル/天理・八条北遺跡 :「奈良新聞」大和郡山市で下ツ道180m発掘 :「大和&伊勢志摩散歩」藤原京と平城京をつなぐ下ツ道 表紙 企画・制作 奈良県土木部まちづくり推進局 下ツ道沿線ガイドマップ 北半部 下ツ道沿線ガイドマップ 南半部 春日大社 公式ホームページ石上神宮 公式サイト出雲大社 ホームページ八坂神社 ホームページ物部氏 :ウィキペディア牛頭天王 :ウィキペディア牛頭天王 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良 二階堂、下永を歩く -2 二階堂地蔵堂・教願寺ほか へ探訪 [再録] 奈良 二階堂、下永を歩く -3 八幡神社・白米寺(白米密寺)へ
2017.12.25
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金堂の西側面を東に眺めながら蓮池傍の道沿いに北に歩みます。この画像の手前の林辺りが「西室跡」の一部なのでしょう。西方向には、蓮池の向こうに戒壇土塀の北東隅が見えます。やはり角の所に石標が立っています。こちらの方も竹垣が設けられ周回できない形になっています。振り返り、蓮池と戒壇の東側土塀を眺めると、紅葉が映えていました。 戒壇の北側に少し離れたところから、瓦の挟まれていない通常の土塀が別の区画として連なっています。このあたりでは、濃緑の竹林と山吹色に近い土塀を背景に紅葉した木々とのコラボレーションを一人静かに堪能できました。境内略図には名称の記載がありませんが、唐招提寺の塔頭になるのでしょうか。門は閉じられていますが、その北側は土塀が途切れ開放的な空間になっています。 こちらが日常の出入口になっている感じです。 通路の突き当たりには、左寄りにこの覆屋があります。 傍まで行くと、覆屋の中にあるのは大きな井戸!境内略図を見ると、境内地の北東角に位置する「醍醐井戸」です。(資料1)背後の建物群が「本坊」のようです。唐招提寺の居住区、日常の生活空間になるのでしょう。 覆屋の棟の鬼板はちょっとおもしろい造形です。異色の鬼瓦というべきなのかもしれません。出目!ギョロ目!という印象・・・・・・。これだけで鬼を連想しているんです。その斜め右後の建物の屋根には割合オーソドックスな鬼瓦です。 覆屋の柱には、花を活けた竹筒が掛けてあります。また、柱の上部には小さな厨子が置かれています。井戸神が水神として祀られているのかもしれません。(資料2)連想したのは、大きな寺院の台所や食堂に大黒天が祀られていることです。ここも同様に・・・・かと。 覆屋の屋根裏を見上げると、頭貫の先端部に空蝉を見つけました。夏の痕跡が残っています。 井戸の傍に礎石が置かれています。井戸の東側にも四角い石組みの井戸と思えるものが設けてあります。その傍にも、一回り大きな礎石がいくつも置かれています。これらは西室跡のところで使われていたものだろうかと、想像したくなります。この醍醐井戸のところで右折して、東に進みます。 この門が境内略図と対比すると、「本坊」の表門のようです。 門前から眺めた景色。右側の奧に見える建物に上半円形の窓が作られていておもしろいと感じました。 戒壇の土塀とはまた趣の違う土塀が続きます。境内の南側に目を向けると、この辺りは「食堂跡」のようです。 土塀はまた一般的な土塀に連なって行きます。こちらの門には「法花院」と記された表札が掛けてあります。門の屋根に惹かれました。鬼瓦に欠損がありますが、あまり気にならないくらいです。目と鼻に引き寄せられます。 龍の飾り瓦がちょっとユニーク。龍の顔の表情がいいですね。 北側に少し奥まって門があります。「中興堂」の表門です。門が閉じられ、その前に柵もあるので、通路から眺めるに留めました。 ホームページを参照すると、中興堂は平成11年(1999)に完成した寄棟造。本瓦葺のお堂だそうです。「鑑真大和上の再来と謳われた大悲菩薩覚盛上人(1193~1249)の750年御諱(没後750回忌)を記念して建てられた祖師堂」だとか。(資料3)つづく参照資料1) 拝観受付所でいただいたリーフレット 「唐招提寺」2) 神さまのお話 一、日本の神さま :「福島県神社庁」3) 伽藍と名宝 :「唐招提寺」ホームページ補遺水神 :ウィキペディア水神 :「コトバンク」大黒天が僧侶の妻?台所の神となった大黒天 :「七福神の名前と意味を知る」七福神(大黒天) :「寺社関連の豆知識」覚盛 :「コトバンク」覚盛の律宗復興について 石田瑞麿氏 論文 :「INBUDS」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -1 南大門・記念碑・歌碑句碑・金堂 へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -2 戒壇 へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -4 開山堂・御影堂・三暁庵・鑑真和上御廟・新宝蔵 へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -5 宝蔵・経蔵・東室・礼堂・講堂・鐘楼ほか へスポット探訪 奈良 薬師寺から唐招提寺への道すがらに へスポット探訪 奈良 薬師寺細見 -1 玄奘三蔵院伽藍と北側境内域 へ 3回のシリーズで探訪記をまとめています。
2017.12.25
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富堂町交差点で左折し、国道25号線を少し西に歩きます。このあたりは「平等坊・岩室遺跡」が広がっているところです。現在の地名が岩室町。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。交差点から北西方向に位置する「ヒライ池」の西端から池の北辺に回り込みます。かなり大きな池。灌漑池として作られたものでしょうね。 池の西端を北に進むと、池の北辺に墓地が見えます。この墓地の池傍の道を東に回り込んで行きます。 墓地からその東端あたりが「岩室池古墳」の跡でした。このあたりが後円墳のあったあたりだとか。かつての古墳は「ヒライ池」の西北部の堤となっているのです。もとは、ここに「全長50mほどの前方後円墳で後円部径は31m」(資料1)という古墳があったのです。 古墳は6世紀前半の造営と推定されています。現地説明板に記載されていますが、「埴輪列が検出され、盾型埴輪や人物埴輪も出土」(資料1)しています。墓地の端には、六地蔵石仏が安置されています。ヒライ池から方向を北に転じ、近鉄天理線前栽駅の方向に進みます。 途中、道路脇で見た万葉歌碑「寄稲:稲(いね)に寄(よ)する」は歌の詞書です。説明板によると、1999年3月に「天理市に万葉歌碑を建てる会」が建立されたもの。お茶の水図書館蔵の「西本願寺本萬葉集」の書で万葉仮名の歌が刻されているのです。 歌は『万葉集』巻七の1353番。(資料2) 石上(いそのかみ)布留の早田(わさだ)を秀(ひ)でずとも 縄(なは)だに延(は)へよ守(も)りつつをらむ巻七の譬喩歌の部に収載されています。譬喩歌は、衣に寄する、玉に寄する、木に寄する、花に寄する、川に寄する・・・などと連ねてあります。「寄稲」はこの1353番の歌だけです。折口信夫は『口譯萬葉集(上)』では、「わさだ」の語句には説明板と同様に「早稲田」という言葉をあて、「はへよ」について説明板・上掲引用の「延へよ」に対して「曳へよ」としています。そして、次のように口譯します。「石上の布留の里の早稲田に縄張をする様に、未穂の出ない子どもでも、今から、占有の標(シルシ)の縄だけは、曳いておいてくれ。大きくなる迄、ぢつと監督して居よう。(女の親が男に輿へた歌。)」(中公文庫版 p371)説明板の方は、次のように解釈しています。(写真が読みづらいかも知れませんので。)「石上の布留にある早稲の田を、まだ稲穂が出揃っていなくても、せめて標縄(しめなわ)だけでも張りめぐらしてください。そうしたら私が見守っていましょう。」譬喩歌をどうとらえるか。これも興味深いですね。探訪とは無関係ですが、街中の一角でこんなおもしろい建物・多面体の半円球構造物です。 「大堀池」の傍を通ります。探訪対象ではありませんが、この池の西方向には「平等坊環濠跡」や「杉本環濠跡」があるようです。 雲井寺地蔵堂雲井寺は黄檗宗のお寺で、山号は竜池山。この厄除け地蔵堂は境外地になるそうです。REC講座の史跡見学教室のために、開扉していただけたようです。感謝。この地蔵堂は中ツ道跡の東に位置し、現在の橘街道沿いにあります。前栽駅の南東に位置し、地蔵堂から駅まではわずかの距離です。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 お堂の正面奥には薬師如来坐像、十一面観音菩薩立像、地蔵尊石像と厨子に入った小仏像が安置されています。小ぶりな薬師如来坐像は雲井寺の本尊を近年移座されたもの。檜寄木造。穏やかな顔相で衣紋が平行なところなどに平安時代後期の特徴が見られるそうです。手先や脚部は後補されているようですが、16世紀の宿院仏師による造立と考えられているものだとか。十一面観音菩薩立像も雲井寺惣堂の本尊を同様に近年移座されたとか。一木造で内刳りなし。顔相は丁寧に彫刻されていますが、衣紋線などは刻まれていません。11世紀に造立された仏像と推定されているそうです。(資料1) 地蔵尊石仏もズームアップしてみました。 お堂前境内の左側に二躰の地蔵石仏が祀られています。 右側の地蔵尊には、像の足許の右に「秋月妙圓禅定尼」、左側に「天正八年七月九日」と刻されています。天正8年は1580年。安山岩製の石仏だそうです。雲井寺は前栽町77に所在し、開基は不詳で、正徳2年(1712)に再建されたと伝わるお寺です。戦後は無住寺となっているようです(資料1,3)。前栽駅の北東方向にある池の南側に位置します。道を挟んで地蔵堂の近くにある大きな一木と小石仏を祀った小祠この地蔵堂の南の地域は、「前栽遺跡」として発掘調査が行われているようです。「縄文晩期から弥生初期への過渡期の生活遺跡」。そして「古墳時代から鎌倉時代の集落遺跡」が発掘され、「奈良時代の井戸から新羅製金属匙を模倣した木製の匙が出土している」とのことです。(資料1)雲井寺地蔵堂から前栽駅まではほんのわずかです。駅前で講座は終了です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室24 ~天理・中ツ道」 当日配布のレジュメ (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2)『新訓 万葉集』 佐佐木信綱編 岩波文庫3) 雲井寺 :「ナーム」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺平等坊・岩室遺跡 :「全国遺跡報告総覧」平等坊・岩室遺跡(第21次) :「全国遺跡報告総覧」前栽遺跡 :「全国遺跡報告総覧」前栽遺跡(第2次) :「全国遺跡報告総覧」発掘調査報告書 研究所出版物 :「奈良県立橿原考古学研究所」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -1 長柄環濠跡、中ツ道跡、天皇神社 へ探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -2 中ツ道跡・山辺御縣坐神社・妙観寺(観音堂)へ探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -3 合場遺跡・八十三社神社・(廃)教恩寺 へ
2017.12.25
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天理市立井戸堂小学校の傍を通り、集落の一角から、現在合場町のこの辺りで合場遺跡の調査がなされたという説明を聞きました。ここには、古墳時代前期から中期の集落遺跡が確認されたそうです。今は田畑として利用されている景色です。大凡の位置関係はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。「合場」は「愛波・阿波」とも書き、中世は興福寺領、近世は旗本山口家領だったそうです。(資料1)向かった先は「三十八社神社」です。マピオンやグーグルで拡大地図を参照しましたが、記載のない小さな神社です。所在地は天理市合場町259番地。集落の南東の杜に鎮座します。ここにかつては真言宗の教恩寺というお寺があったそうです。このお寺は布留社の神宮寺(中筋寺三十二箇寺)とされています。明治の神仏分離令の影響でしょうか、明治2年に廃寺となりました。(資料1)「布留社」とは石神神宮の別称の一つのようです。「中世には、布留社を中心にして52ヶ村からなる布留郷が成立していた。布留郷には32ヶ寺からなる中筋寺があり、明治の神仏分離の処置までは、中筋寺と内山永久寺及び桃尾竜福寺は、輪番で布留社の社僧を務めていたという。」(資料2)三十八社神社の境内の一角にある建物(会所)に、この薬師如来坐像が祀られ、維持管理されているのです。まず廃教恩寺の仏像を拝見しました。天理市内の丹波市町迎乗寺から移座された仏像と伝わるものです。(資料1)欅一木造で脚部は別材の矧付で、手先は後補されているとか。「一木造りの構造にふさわしく両肩が張り、体躯の奥行きを十分とって両脚で厚みがあり、ねばりのある肉づけなどが加わって重量感に溢れた偉容を示している。殊に本像の特色は律動的な衣文の表現にある。」(資料2)というもので、平安前期の特徴が濃く出ている仏像だという説明でした。衣紋には翻波の名残があり鎬立った彫りがみられるものです。10世紀初に造立されたと推定されています。穏やかな顔相ですが、鼻先の後補や一部彫り直しの痕跡もあると云います。(資料1,3)見仏の後、神社の拝見です。境内の一端に石灯籠と「御百度」石が一列に並んでいます。 御百度石の左隣りの石灯籠この石灯籠の竿部分に「三十八社」と陰刻されているので、この神社が三十八社神社だとわかります。私が見た範囲では、神社の由緒説明などは見かけませんでした。「御百度」石の左側面には「安政六巳未年正月吉日」と建立日付が刻されています。安政6年は江戸時代で、1859年です。その右隣りの石灯籠の竿には、正面に「大神宮」、側面に「文政」という年号が刻まれています。文政の下の文字は私には判読不可。文政年間は1818~1830年です。 拝殿に近いところの建物の傍で見た角柱の灯籠こちらには「愛宕山大権現」と刻されています。側面には文政4年云々と刻されています。 拝殿 本殿拝殿を回り込むと朱色の鳥居と腰板部分が朱色に塗られた屋根付きの瑞垣で囲まれた本殿があります。祭神は和加宇賀売神(わかうかめのかみ)。(資料4)和加宇賀売神が「若宇迦之売命(わかうかのめのみこと)」と同じと考えると、この名称は「宇迦之御魂神」の別称であり、古代社会の農神の稲魂で、農業・田の守護神ということになります。(資料5)この三十八社神社は石上神宮の境外社とされているそうです。また、この神社は愛宕神社とも称されるようです。境内に「愛宕山大権現」と陰刻された角柱灯籠があることが納得できます。 石段前の狛犬像それでは本殿の拝見です。 近年に補修されたのか、本殿の彩色が鮮やかです。 一間春日造。後補材が多いとのことですが、柱や斗、虹梁、蟇股、木鼻に室町中期の特徴が残る建物だとか。(資料1)木鼻はごくシンプルな表現になっています。建立年代を室町後期と記す資料もネット検索してみて見かけました(資料6)。中期の特徴を備えて後期に建立されたとみることもできますね。 本殿の側面で面白いことに気づきました。壁に描かれている鶴が両面とも本殿の正面には尾の方を向けているのです。神様が本殿の奥側に鎮座するということで、そういう向きで描かれているということでしょうか。この神社は三十八社神社ですが、「三十八神社」という名称の神社が結構あります。この「三十八」が何に由来するのかという関心が出て来て、ネット検索していて興味深い説明を見出しました。起源は吉野の金峯山に求めることができるそうです。こちらのサイトにアクセスしてみてください。 (「三十八社神社」御所市今住字堂垣内 :「御所市観光HP」)神社を後にして、次の探訪地に向かいます。 集落の民家の軒屋根上で見つけた鍾馗像 再び山辺御縣坐神社の石鳥居前にもどり、境内地を東方向に回り込んで北に向かいます。 道の途中でふと見上げたNTTのコンクリート製電信柱の表示ラベルが「イドンド」と記されています。境内を回り込み、川を渡る折に見た橋名は「いどうどうはし」という銘板が付けられています。たぶんどちらも「井戸堂」という地名の呼び方なのでしょうね。「イドンド」という方が、昔からの地元の人が呼びそうな感じ・・・・事実は確かめていませんが・・・・。 「富堂西」というコミュニティバスのバス停のそばを通ります。川が南北に流れています。このあたりは、中ツ道跡そのものを使った現在の道路を北上しているようです。この布留川北々流がかつての中ツ道の側溝の利用なのかどうかは、確認をし忘れました。さらに北上すると、現在は田畑が広がっている一角に「岩室阿弥陀堂」跡に至ります。現在は土壇が残るだけです。そこに集落にあった石仏が移されています。 土壇の上に立って眺めた石仏群個別に見仏してみましょう。 こんな感じの石仏です。中央の地蔵石仏は高さ120cm。私は確認できませんでしたが、天文14年(1545)の銘があるそうです。光背頂部には地蔵の種子(梵字)が刻まれています。次は、岩室池古墳です。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室24 ~天理・中ツ道」 当日配布のレジュメ (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2) 大和内山永久寺多宝塔・西谷薬師院三重塔 :「がらくた置き場」 附録:石神神宮(布留社)を参照3) 「合場町 廃教恩寺 木造薬師如来座像」 当日拝見時にいただいた説明資料4) 合場町・愛宕神社 :「奈良の寺社」 ⇒ 2017.12.24時点でアクセス不可5)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p261 宇迦之御魂神 :「玄松子の記憶」6) 奈良県天理市・桜井市の建築 :「奈良県の古建築」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺島田三尊種子板碑の紹介 地蔵の種子がわかります。野間中 地蔵一尊種子板碑 :「板碑」総本宮 京都 愛宕神社 ホームページ地蔵種字板碑 :「文化遺産オンライン」梵字と種字の一覧 :「古文書ナビ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -1 長柄環濠跡、中ツ道跡、天皇神社 へ探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -2 中ツ道跡・山辺御縣坐神社・妙観寺(観音堂)へ探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -4 岩室池古墳・雲井寺地蔵堂・前栽遺跡 へ
2017.12.24
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これは南大門の左扉の前にある拝観受付所でいただいたリーフレットの表紙です。天平時代の「孝謙天皇勅額」(重文)に陽刻された文字がこの表紙に写されています。南大門に複製扁額として掲げられているのがこの書体です。 紅葉する木々や落葉があたかも敷き詰められたかのように広がる林間を眺めて、まずは西方向に歩いてみました。道沿いに進むと、瓦を帯状に挟み込んだ土塀で囲まれた一画が見えて来ます。 表門に近づきます。門から境内を眺めた全景です。土塀で囲まれた境内にあるのは3段になった基壇とその上にストゥーパが中央に設けてあります。第一印象は、アレッ!という感じでした。リーフレットの「境内略図」を引用します。境内略図によると、ここは「戒壇」と記されています。東大寺で言えば「戒壇堂」として存在する「戒壇」と同じ機能なのでしょう。この時はその推測だけで写真を撮って境内探訪を続けました。なぜ、この形? と言う疑念は一旦思考停止にして・・・・。購入した小冊子で後日理解できました。この場所「戒壇」は、「鑑真和上に由来する三師七証によって僧の受戒が行われる場所」でした。創建時に築かれたが、中世に廃されて弘安7年(1284)に戒壇堂が再興されたといいます。ところが、文禄5年(1596)の大地震で倒壊、再建後に今度は嘉永元年(1848)の火災で焼失したそうです。この時に、石造戒壇の周囲に門と土塀が復興されたのです。130年後の昭和53年(1978)に、最上段の中央に石造のストゥーパが築かれたそうです。疑念、氷解です。(資料1)鑑真和上が来日されて、東大寺に正式な受戒のできる戒壇が設けられ、日本には東大寺を含め3箇所に公式の戒壇が設置されたということは知っていました。唐招提寺にも戒壇が築かれていたというのは、この探訪時まで知りませんでした。不勉強!手許の本で再確認してみたところ、当初、東大寺大仏殿前に築かれた戒壇が、のちに改めて大仏殿の北西に「戒壇堂」という形でつくられます。この戒壇堂は幾度も災火に遭遇し、現在の建物は江戸時代、1733年に再興されたものです。一方、関東の下野の薬師寺と九州・筑紫の観音寺にも戒壇が設置され、「天下三戒壇」と称されたのです。鑑真が授けたのは「具足戒」と称するそうです。詳細は補遺をご参照ください。(資料2)尚、鑑真が最初に聖武上皇に授けたのは、『梵網経』に基づく「梵網戒」だといいます。(追記:資料5)延暦寺と三井寺を探訪した折に知ったことですが、最澄が創唱した円戒を受ける為の円頓戒壇の設置を長年朝廷に願います。最澄没年の弘仁13年(822)、最澄没後に同年それが勅許されます。後に、延暦寺から分立した三井寺は、白河天皇の宣旨をえて、三摩耶戒壇を設けます。(資料2)私にとって戒壇のイメージは東大寺の戒壇堂を拝見したときにできたものです。調べてみて知ったのは、「日本では壇は三重で、壇上には多宝塔を安置したが、中国では舎利か舎利塔を安置した。主として出家のための受戒の場として用いられる」(資料2)という説明もあります。舎利塔はストゥーパのことですので、インドで釈迦没後に各地に築かれたストゥーパの形が中央に築かれるというのが、源流に近いことになります。ナルホド!それでストゥーパなのか・・・と納得できました。ストゥーパ自体で有名なのはインドのサーンチーに築かれたものです。インドのストゥーパの形が、中国を経て日本に渡来して、五重塔、三重塔、多宝塔のような建造物の形に姿を変えてきたのですから。戒壇上の石造ストゥーパをズームアップしてみました。こちらはウィキペディアから引用したサーンチーのストゥーパです。お椀を伏せたようなドーム形上の覆鉢の頂上に、箱状の平頭と呼ばれる要素があり、その上に傘竿が立っています。その竿に三重になった傘蓋が付いています。竿は高貴さを表すそうです。 覆鉢の下部は欄楯(らんじゅん)の要素が装飾されています。本来のストゥーパには覆鉢の周りに右回りで礼拝して歩く通路が設けられ、聖域を守る囲い(欄楯)が設けられているのです。欄楯は2段になっているようです。(資料4)門から眺めると、東側の土塀にも門が見えます。それでは、表門を細見してみましょう。 屋根の鬼瓦と足元の装飾 頭貫の上の蟇股の彫刻がなかなかいいですね。大魚に跨がり、巻物を開いて読みふける人物が彫られています。頭髪状の彫りが見えますので、僧侶ではなさそう。波の彫りもダイナミック。もう一つの蟇股には、龍が彫られています。上部の笈形には、右側には葵の紋が識別できます。左側は不詳です。 左右相称の木組の均斉美がみられます。シンプルな意匠の板蟇股が屋根の棟木を支えています。蟇股の彫刻に比し、木鼻は至ってシンプルです。土塀の屋根の側面部分もシンプルな雲形と線刻で仕上げています。 南面するこの正面の門は四脚門です。扉は桟唐戸の形式で上部に連子を入れています。西側の土塀の先が境内の東端です。南側は柴垣で風情があります。西側は土塀の外側に通路部分がありますが、残念ながら立入禁止です。土塀の南西隅に石標があり「大界西南内相」と判読できそうな文字が刻されています。 西側土塀にも通用門的な出入口が設けられているようです。 南西隅と同様に、南東隅にも「大界東南内相」と刻された石標が立っています。ということは北側にもそれぞれ石標が立っていて、これらのポイントが戒壇の結界となっているということなのでしょう。土塀の屋根を見ると、降棟の先端の鬼板に、表門の笈形に見られたのと同じ紋が陽刻されています。紋章の並九曜なら中央に点(凹み)はありませんので、やはり不詳・・・・。 東側土塀のさらに東側には、土塀と平行に長方形の「蓮池」があります。この蓮池の東の通路を挟んで、東側は境内略図には「西室跡」と記されています。 西室跡や蓮池でこんな鳥を見ました。烏でしょうか。 戒壇の東門 東門から眺めた戒壇 東門は唐破破風ですが、蟇股や大瓶束などは簡素な形式です。蓮池に沿って、通路を北に歩みます。つづく参照資料1) 『天平の甍 唐招提寺』 唐招提寺 当日お寺で購入した小型本(写真集)2) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房3) サーンチー :ウィキペディア4) 古代インドの仏教建築 野々垣篤氏(愛知工業大学工学部助教授)5) 『唐招提寺金堂平成大修理記念 国宝 鑑真和上 展』 図録 TBS p38補遺戒壇 :ウィキペディア東大寺 戒壇堂 :「東大寺」戒壇院 (福岡県太宰府) :ウィキペディア戒壇院 :「CANDEO TIMES」下野薬師寺跡 :ウィキペディアサーンチーの仏教遺跡 神谷武夫氏 :「インドのユネスコ世界遺産」まとめ:インド各地の仏塔(ストゥーパ) :「インド号」多宝塔 :「Flying Deity Tobifudo」具足戒 :「コトバンク」具足戒の種類と名称 pdfファイル:「中央学術研究所 原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」円頓戒 :「WikiDharma」円頓戒 :「コトバンク」鑑真の戒律と授戒制度を無効化した天台宗・最澄の“円戒の思想”:古代日本の怨霊信仰と宗教観 :「カウンセリングルーム:Discovery」三昧耶戒 :ウィキペディア三昧耶戒 :「法楽寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -1 南大門・記念碑・歌碑句碑・金堂 へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -3 醍醐井戸・本坊門前・中興堂門前ほかスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -4 開山堂・御影堂・三暁庵・鑑真和上御廟・新宝蔵 へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -5 宝蔵・経蔵・東室・礼堂・講堂・鐘楼ほか へスポット探訪 奈良 薬師寺から唐招提寺への道すがらに へスポット探訪 奈良 薬師寺細見 -1 玄奘三蔵院伽藍と北側境内域 へ 3回のシリーズで探訪記をまとめています。
2017.12.24
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布留川から別れて、さらにこの景色、「中ツ道跡」を眺めつつ北上し西井戸堂町に入ります。そして「山辺御縣坐神社(やまべのみあがたいますじんじゃ)」と今は廃寺となった「妙観寺」の「観音堂」を訪れました。「山辺御縣坐神社」の北側に「妙観寺」があります。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 石鳥居の傍にある説明板上掲案内板の右隣りに、万葉仮名で刻された歌碑が建てられています。案内板の最初の「万葉遺跡」の説明に該当します。 飛鳥(とぶとり)の明日香の里を置きていなば 君が邊(あたり)は見えずかもあらむ 万葉集巻一、78 (資料1)この歌には次の詞書が付されています。「和銅三年庚戌春二月、藤原宮より寧楽(ならの)宮に遷りましし時、御輿を長屋原に停(とど)め、古鄕(ふるさと)を廻望(かえりみ)て作りませる御歌」この歌から、元明天皇が中ツ道を利用したということがわかるのです。つまり、当時の長屋原は現在の天理市西井戸堂町、合場町付近の平野をさしたようです。このあたりはその一部だったのでしょう。この神社は当時中ツ道に面していたそうです。(資料2,3) 拝殿説明板によれば、祭神は建麻利根命。この神社は、江戸時代には白山大権現と称し、東および西井戸堂村の氏社となっていたようです。この近くに「アカタ」「ミクリ」の小字があることから、『延喜式』所載の式内社・山辺御縣神社に比定されたそうです。なお、別所にも山辺御縣坐神社があります。(資料2,4) 唐破風屋根の鬼板と兎毛通のところに、内藤藤の紋章が付されています。これが神紋でしょうか。瑞鳥の透かし彫りもいい形です。社殿は西に面しています。 社殿前の狛犬はまだ比較的近い時代に奉納されたものの感じです。 境内の奥に進むと、つまり北側に「植福山妙観寺」の石標や「十一面観世音」碑が立っていて、 観音堂があります。妙観寺は、かつては山辺御縣坐神社の別当寺(神宮寺)だったそうです。前回触れました藤原道長が井外堂(井戸堂)に泊まったと『御堂関白記』に記す場所に比定されているところです。明治の神仏分離で廃寺になりました。この観音堂の下には井戸があるとされています。(資料4)明治に廃寺となったあと、集会所に本尊が秘かに祀られてきたのだとか。昭和11年(1936)に仏像が本格修理されるのを機会に、集会所があったこの地に現在の観音堂が建てられて、修理が完了したあと、ここに本尊として改めて安置されたそうです。(資料2) 観音堂の屋根の鯱と飾り瓦 木鼻はシンプルな形で作られています。 観音堂の中央の厨子に安置されているのは、本尊十一面観音菩薩立像です。檜寄木造で、穏やかな顔相、平行な衣紋の形状などに平安時代後期の特徴がみられる仏像です。天衣や頭上仏は後補されている模様です。両手首以下は昭和11年の修理時に補足されたといいます。入手資料ではこう説明されています。(資料2)「本像は、いわゆる平安後期の菩薩像の表現であり、目鼻立ちの整った優しい、穏やかな表情はこの時代の特色を示しています。目鼻や口唇の彫り口は鋭さを残して、仏師の優れた技量がうかがわれます。なだらかな肩、胸・腹部の丸みのある肉取り、腰高の安定したプロポーションに特色があります。」 この仏像の興味深い点は、奈良時代のものと考えられる塑像の心木がこの十一面観音像の像内に納められていて、その心木と共木で円筒形の台と共彫りになっているのです。元像の霊験性が新像に継承されることを意図し、鞘仏(さやぼとけ)というめずらしい形での像の再興がなされているのです。そのため、通常の蓮華の台座ではなく円筒形の台座に立たれている仏像です。東大寺の日光・月光菩薩とほぼ同じ大きさで、高さは229cm。REC講座という学外講座で拝観させていただいたおかげで、本尊の背面に回り込み、菩薩立像の台座の部分も拝見することができました。廃寺となり、この観音堂は東・西井戸堂町の所蔵となっていて、地元の人々により篤く維持管理されています。講座の探訪先として拝見しましたので、地元関係者の方々がお堂を開き、対応してくださいました。ありがたいことでした。(普段はお堂が閉まっているのかも知れません。その点は事前にご確認されるといいのではないかと思います。) 本尊の左右には本尊に向かって左側に「難陀竜王立像」、右側に「雨宝童子立像」が安置されています。十一面観音像を中心に三尊構成となっています。これは初瀬の長谷寺十一面観音の三尊形式の伝統を引くものだそうで、奈良盆地一円に流行している構成だそうです。(資料2)難陀竜王は八大竜王のひとりで、春日明神としてもも信仰されているようです。また、雨宝童子は初瀬山を守護する八大童子のひとりであり、天照大神としても信仰されているといいます。(資料5) 雨宝童子の厨子の右側には、観音菩薩像が厨子に32躰安置されています。境内を眺めてみると、いろいろなものが目にとまります。一つは、「丁石」2つです。内山永久寺への丁石で寬文9年(1669)銘が入っているそうです。他所から移されたものだとか。(資料4)その右側には、板碑の断片が祀られています。観音堂の背後、北西側には宝篋印塔があり、 西側には庚申塔や地蔵尊などが祀られています。 境内の一隅で出会った石仏このあと、山辺御縣坐神社の西側、合場遺跡に向かいます。つづく参照資料1) 『新訓 万葉集 上巻』 佐佐木信綱編 岩波文庫 p612) 当日、観音堂拝観時にいただいたパンフレット「井戸堂十一面観音像」3) 長屋原(ながやのはら):「山辺の道関連万葉歌」4) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室24 ~天理・中ツ道」 当日配布のレジュメ (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)5) 寺宝(像) :「大和国 長谷寺」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺山辺御県坐神社(井戸堂):「大和の神社」山辺御県坐神社 :「戸原のページ」八大竜王とは :「八大竜王豆知識」八大竜王 :「コトバンク」八大童子(国宝):「南海高野」西国三十三所 草創1300年 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -1 長柄環濠跡、中ツ道跡、天皇神社 へ探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -3 合場遺跡・八十三社神社・(廃)教恩寺 へ探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -4 岩室池古墳・雲井寺地蔵堂・前栽遺跡 へ
2017.12.24
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奈良・天理で探訪といえば「山の辺の道」を歩くというのがまず頭に浮かびます。集合場所だったJR長柄(ながら)駅前にある案内板もJR桜井線の線路より東側に位置する「山の辺の道」中心の案内になっています。そのため、今回の探訪の役にはたちません。2014年11月に、REC講座「関西史跡見学教室24 ~天理・中ツ道」を受講しました。飛鳥時代に奈良盆地の南北方向に敷設された主要な3つの交通路があります。その一つ、中ツ道を軸にした周辺史跡探訪が目的でした。このときにまとめたものを再録しご紹介します。 (再録理由は付記にて)飛鳥時代に、南北の交通路として上ツ道、中ツ道、下ツ道が真っ直ぐの道として政策的に作られていたということは、歴史として学んだもののそれがどういうスケールのものだったかは知りませんでした。この講座はそれを体験する良い機会になりました。中ツ道は、道幅23mで両側に2m幅の側溝が付くというもので、南部は藤原京東四坊大路、北は平城京の東京極となり、この間を結ぶ一直線の幹線道路だったのです。中ツ道の東方2.1kmに上ツ道、西方2.1kmに下ツ道が並行して延びていたといいます。その広がりをご想像ください。これらの道は壬申の乱(672年)までには敷設されていた官道でした。「壬申の乱では、大海人皇子軍の大伴吹負が守屋(旧磯城郡川東村守屋)で、中ッ道を攻め下った大友皇子軍と闘っています。」和銅3年(710)平城京への遷都の折に、元明天皇は輿で移動し、長屋の地で休憩したそうです。そのため中ツ道を北上したと考えられています。また寬弘4年(1007)、藤原道長が吉野参詣をしたときにもこの中ツ道を利用したのです。(資料1,2)藤原道長は『御堂関白記』の寬弘4年8月2日、乙巳の条に金峯山(きんぶせん)詣に出立したと記し、4日、丁酉の条に「井外堂(いどどう)に宿した。雨が、日を尽くして降った。御燈明料と諷誦のために信濃布十端を納めた」と記しています。(資料3)井外堂は井戸堂のこと。現在の西井戸堂町に山辺御縣神社があり、この神社は中ツ道の傍にあるのです。この神社には当時、神宮寺である妙観寺があったので、道長はそこに泊まったと推定されているそうです。中ツ道について、グーグルで見つけたのがこの地図です:ここをクリックしてみてください。JR長柄駅から、まずは西の方向に進みます。地図では兵庫町、長柄町、西長柄町と続きます。今回ご紹介する行程は、こちらの地図(Mapion)をご覧ください。長柄は、「室町時代後半の環濠集落であり、城郭と考えられる。中世には興福寺領の長柄荘があり、室町時代には大乗院方の十市氏配下に長柄氏がいた。」(資料1)そうです。また、<ながら>という言葉について、「アイヌ語では、川から丘地へゆく途中の土地、または、よく見える眺望のよい所をさすようです。」(資料4)地名としてアイヌ語が関わっているとしたら、興味深いですね。序でに、長柄町の手前の兵庫町ですが、兵庫というのは「大和(おおやまと)神社の兵庫があった所」だとか。「古代は大社や豪族たちは弓矢槍刀などの武器を納める兵庫を持っていました。」(資料4) 長福寺から少し西に行った辺りの、現在の南北と東西の道路部分がかつては濠であり、「長柄環濠跡」になるそうです。天理市には現在も、たとえば竹之内・萱生(かよう)には環濠がそのまま残っていますが、長柄やさらにここから西に位置する備前(備前町)は環濠が埋め立てられていて、環濠跡となっています。「備前環濠跡」も室町時代後半の環濠集落と考えられているようですが、近世のものという可能性もあるとか。「備前は興福寺領長柄荘に含まれ、室町時代には十市氏配下に備前氏が属していた」(資料1)とのことです。備前は荘園領主の備前氏からきた名称という考えの他に、備前国からきた名であろうという見方もあるようです。(資料5) 長柄の道路沿いの町家の軒に「うだち」を見かけました。長柄の集落を進むと、「大字長柄中央標」の石標が鉄塔の傍に立っています。里程表作成の元標として用いられた基準点のようです。 更に西進して東方向を振り返ると(左)、赤い火の見櫓の鉄塔が見えます。この傍に上掲の中央標があったのです。また、右写真の南への道が濠跡部分になるそうです。 長柄環濠跡の道路を西進すると、長柄運動公園・総合体育館が道路の北側にあり、その先の交差点あたりが中ツ道の敷設されていた位置です。中ツ道跡は、ほぼ現在も南北の幹線鋪装道路としてその一部が利用されています。交差点の北東角に小さな石仏をはさむ形で道路標識が立っています。上段の画像は長柄から西に歩んできて眺めた石仏と道標。中段の画像はかつて中ツ道が敷設された場所、下段の写真が道路を横断して中ツ道跡の西側から眺めた石仏と道標です。ここから中ツ道跡を北上します。交差点から北方向に見える杜が「天皇神社」のある所で備前町にあります。 神社の傍に、左の頌徳碑があり、神社の手前には小さな石の反り橋が形として架けられています。頼秀師とは、説明板によれば周防国上野寺の住侶頼秀という人で、諸国巡歴中に、この天皇神社の社殿の荒廃を見て、自らが応永3年(1396)に願主となり、現在の本殿を造立したそうです。 その先に石の鳥居が立っています。鳥居の傍に説明板があります。 鳥居をくぐると、拝殿の先に本殿があり、境内の右側に「塞神神社」の小祠があります。 本殿 一間社春日造で檜皮葺。本殿棟札に文永9年(1272)創祀とあるそうです。説明板に記載されていますが、この「天皇神社」は旧備前庄の鎮守で、「天皇」は「牛頭天王」を意味し、素戔嗚尊のことなのです。「中央に大梵天王と婆梨采女、左右に牛頭天王と天満天神を祀るとする」(資料1)といいます。 阿吽形の狛犬の相貌がおもしろい。よくあるのとはちょっと違う表情です。 蟇股や木鼻の時代的特色が見られ、扉の脇板の彫刻も独特なものだとか。 社殿の縁を支える腰組も独特なものだと言います。社殿の周囲の石造の玉垣は、正面の部分とその他の側面の作りが異なり、これも興味深いところです。この形式のものを見るのは初めてでした。正面の左端角には玉垣が明治41年10月に改築されたという碑がありました。 社殿に向かって左隣りに「菅原神社」の小祠が祀られています。 この後、布留川南流にかかる橋を渡って、中ツ道跡付近を北上します。 集落に入ると地蔵尊が出迎えてくれます。集落に残された空地が中ツ道に当たるところでした。さらに、今は田畑として利用されている中ツ道跡の傍を北上します。 途中、大樹の下に、宝篋印塔や石仏が祀られています。付近に説明は何もありません。この景色の右側は堤防で、布留川の一部がちょうど南北方向に流れているところです。南の方を眺めていますので、川の東側にあるこの田畑の部分とその東の道路幅を併せて、中ツ道が敷設されていた道幅(側溝幅を含め)になるそうです。飛鳥時代に敷設された官道のスケールの雄大さが感じ取れます。交通路の必要性を超えて官道の道幅の広さは権威の象徴でもあったのでしょうね。 布留川布留川の源流は? 布留川は万葉の時代に歌に詠み込まれているのだろうか?ブログ記事を掲載してから、こんな関心が湧きました。調べてみて理解できたことを再録にあたりここにまとめてご紹介します。布留川は、かつては古川、振川とも記されたようです。そして川の源は竜王山(りゅうおうざん)でした。地図を見ると、竜王山の山頂はJR長柄駅の南東方向です。竜王山の北を源流とする川は、現在の天理ダムに注ぎ込み、そこから石上(いそのかみ)神宮の北側を流れ、さらに西から南西方向に流れ、大和川に合流するのです。石上神宮のある地が「布留」であり、現在の布留町です。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。『万葉集』には、次の歌が詠まれ、収載されています。(資料6,7) いにしへもかく聞きつつや偲(しの)ひけむこの古川の清き瀬の音(と)を 巻7・1111 とのぐもり雨ふる川のさざれ波間(ま)なくも君は思ほゆるかも 巻12・3012 吾妹子や吾(あ)を忘らすな石上(いそのかみ)袖布留川の絶えむと思へや 巻12・30133012の歌について、折口信夫は『口譯萬葉集(下)』で、次のように記しています。 との曇り雨布留川の小波(サザレナミ)、間なくも、君は思ほゆるかもなお、3013の歌は載せていません。番号が飛んでいます。底本が異なるのでしょうね。次回は藤原道長が泊まったという井戸堂あたりのご紹介です。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室24 ~天理・中ツ道」 当日配布のレジュメ (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2) 中ツ道 :「天理観光協会」3)『藤原道長「御堂関白日記」上 』全現代語訳 倉本一宏訳 講談社学術文庫 p3174) 長柄(ながら) :「天理観光協会」5) 備前(びぜん) :「天理観光協会」6) 『新訓 万葉集』 佐佐木信綱編 岩波文庫 上p286、下p597) 布留川 石上神宮の歩き方 :「石上神宮」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺古代の道はロマンに続く 「中ツ道」遺構の発掘 :「古代史探究館」中ツ道発掘と藤原宮発掘 :「歴史ロマン探検隊」環濠集落 :ウィキペディア竹之内・萱生(かよう)の環濠集落 :「天理市観光協会」稗田環濠集落 :「トレジャーナビ」番条町の紹介 :「中谷酒造株式会社」 室町時代の環濠集落について、言及しています。全国里程表の作製を望む 江口見留氏 十市氏 :「戦国大名探究」天理観光協会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -2 中ツ道跡・山辺御縣坐神社・妙観寺(観音堂)へ探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -3 合場遺跡・八十三社神社・(廃)教恩寺 へ探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -4 岩室池古墳・雲井寺地蔵堂・前栽遺跡 へ
2017.12.24
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12月4日(月)に薬師寺での講座受講の前に、早めに出かけて唐招提寺を何十年ぶりにゆっくりと拝見しました。冒頭の画像は唐招提寺の「南大門」です。唐招提寺の探訪結果をまとめて、ご紹介します。近鉄西ノ京駅を降りると、すぐ近くに薬師寺があります。薬師寺境内の西側築地塀沿いの道を真っ直ぐに北に向かいます。その道の北端に唐招提寺のこの築地塀が見え、唐招提寺の南面を通る東西方向の道路とT字路をなしています。上掲案内板はこのT字路の一隅に設けられたものです。赤地に白抜きの「現在地」の位置です。この地図は南北が逆転し、地図の上辺が南で描かれています。 道路を右折し、南大門に向かいます。築地塀の傍に、「史跡 唐招提寺旧境内」の石標が立っています。南大門に近い側から南側築地塀を眺めた景色です。 この案内板が設けてあります。旧境内の概略が説明されています。鑑真大和上は聖武天皇の願いに応え、五度の失敗を重ねても屈することなく戒律を伝えるために来日されました。『続日本紀』には、天平勝宝6年(754)正月16日、「この日、遣唐副使・従四位上の大伴宿禰古麻呂が帰国した。唐僧の鑑真と法進ら八人が古麻呂に随って来朝した」(資料1)と記されています。749年の秋7月2日に聖武天皇は皇太子(阿倍内親王)に譲位し、孝謙天皇の時代になっています。聖武太上天皇として鑑真を迎えたことになります。754年4月に、鑑真和上は東大寺大仏殿前で聖武上皇、孝謙天皇、光明皇太后ら440人に戒を授けたといいます(資料2)。聖武上皇は念願が叶った後の756年に没します。『続日本紀』754年の秋7月13日の条には、「この日、僧百人、尼七人を得度した」と記されています。この授戒は鑑真和上が行われたのでしょう。4月の授戒のことは記載はありません。(資料1)また、同書巻二十一「廃帝 淳仁天皇」の天平宝字2年(758)8月1日条には、詔の中で、鑑真について、「大和上と号して恭しく供養し、政治の煩雑さで老軀を労することのないようにせよ。よろしく僧綱の任務を解くべきである。また諸寺の僧尼をあつめ、戒律を学ぼうと望む者は、みな大和上について学習させるようにせよ」と述べているのです。(資料1)そして、天平宝字3年(759)に新田部親王旧宅の地を賜った鑑真が東大寺を去り、開創した寺がこの「唐招提寺」ということになります。鑑真和上の私寺としてスタートしたのです。鑑真大和上はここに律院(戒律を学ぶ道場)を創立されます。鑑真大和上は「唐律招提寺」と名づけられたそうです。つまり「唐招提寺」です。(資料2,3)南都六宗の一つ、律宗の総本山という位置づけになります。 南大門の東を眺めると、築地塀の先に「高麗門」があり、その先は板塀と生垣に代わり、寺務所の建物が見えます。唐招提寺の境内地東側には「秋篠川」が南北に流れています。 まずは南大門を眺めてみます。 壁は漆喰壁で塗り込まれていますが、屋根裏が見える形ですので、柱と梁など門の木組みの構造が良く分かります。切妻造五間三戸の門(建物)です。この南大門は昭和35年(1960)の鑑真和上1200年忌に天平様式で再建されたものです。(資料3)三扉の中央です。「唐招提寺」の扁額(複製)が掲げてあります。実物は講堂内に収蔵されています。向かって右側の扉は、現在拝観者の出口となっています。左側の扉の手前の受付所を経由して左の扉から境内に入ります。 左扉を通り過ぎ、中央扉の内側あたりから眺めると、正面に「金堂」が配置されています。 左扉を通り過ぎ真っ直ぐに歩き出すと、「世界文化遺産記念碑」が目に止まります。その傍に「境内案合図」が掲示されています。この境内案内図でイメージできると思いますが、境内地の大半が樹林帯になっていて、所謂庭園と呼べる境内地は少ないお寺です。 記念碑の立つ区域、その西側一帯がまず林です。ところどころの樹木が紅葉していました。記念碑前から、東を眺めると生垣が境となり、林の区域です。東への通路は寺務所の方に至ります。 紅葉する木と金堂のコラボレーション 良い眺め!!観光客が比較的少なくて、私にはラッキーでした。静かな雰囲気の境内を散策できましたから。この金堂は天平時代の建物です。「建立縁起」によれば、鑑真和上に従って渡来した弟子の一人、如宝が主となって建立を推進したそうです。 南西側から眺めた金堂 これらの部分撮りと併せてご覧いただくと、中央5間の両開きの板扉、正面両端と側面には連子窓が設えられているのがお解りいただけます。正面である南の1間は吹放ちの円柱列となっています。現在は各扉の上部に幕が提げられていますので、基壇の上に上がり扉の前から金網越しに仏像を拝見することになります。幕がなければ、扉が開けてあると金堂前の庭から堂内の本尊を参拝できる形です。8本の円柱列の間隔は中央部がやや広めです。そして円柱の中央部がふくらみを帯びた形になっています。 当日購入した写真集(小冊子)にはこの国宝金堂について、「いま、いささか残念なのは、この堂の屋根が重たげにみえることで、これは元禄6~7年(1693-4)に棟の高さをかえて、寄棟の外形はそのままであるが、屋根がずっと高く、厚いものになったので、天平時代の軽やかな寄棟の感じがかわってしまった。だから天平の金堂は、いまよりはるかにうつくしい外形を示していたわけである。またいまの円柱にみる胴張りに似た形も、近世の改変によるものである。こうした形の変化はあるが、これほど形の美しい建物はまれである。」と、説明を加えています。(資料2)大正8年(1919)5月に岩波書店から出版された和辻哲郎著『古寺巡礼』は、ベストセラーになりました。手許にあるのは1965年の第37刷です。和辻がこの金堂が近世に一部改変されたという事実を知っていたのかどうかは知りません。現存するこの建物自体の美しさを第14章で絶賛しています。たとえば、次の様な描写をしています。*軒端の線が両端に至ってかすかに上へ湾曲しているあの曲がり工合一つにも、屋根の重さと柱の力との葵だの安定した釣合を表現する有力な契機がひそんでいる、天平以後のどの時代にも、これだけ微妙な曲線は造れなかった。そこに働いているのは優れた芸術家の直感であって、手軽に模倣を許すような型にはまった工匠の技術ではない。 p148*この屋根とそれを下から受ける柱や軒廻りの組物との関係には、数へきれないほど多くの繊細な注意が払われている。柱の太さと堂の大きさとの釣合、軒の長さと柱の力との調和、それらはもうこれ以上に寸分も動かせない。大きい屋根が、四隅へ降るに従つて、面積と重量とを増して行く感じを、下からうけとめ、支へ上げるためには、立ち並んだ八本の柱を、中央に於いて最も広く、左右に至るに従つて漸次相近接して立てている。その間隔の次第に狭まつて行く割合が、極めて的確に屋根の重量の増加の感じと相応じているのである。p149*上へそり反つた屋根の下に強力な柱があれば、その屋根の湾曲が柱の支力の表現になるのである。 p150堂内は撮影禁止です。(唐招提寺ホームページの「伽藍と名宝」の「金堂」のページに本尊諸仏の画像が掲載されています。ご覧ください)本尊は盧舎那仏坐像。奈良時代(8世紀)の脱活乾漆・漆箔の像で3mを越える大きさです。諸仏が連座する千仏光背は壮大な仏国土を表象するようで荘厳性が高まります。光背の高さは5.15mにも及ぶとか。向かって左に奈良時代(8世紀)の千手観音立像、右に平安時代(9世紀)の薬師如来立像が脇侍です。千手観音像は、まさに本来1,000本の手が作られていたのでしょう。大脇手・小脇手併せて953本の腕が現存しているそうです。この数多い小脇手が光背のように感じられ自然に受け止められます。この二体は木心乾漆・漆箔の仏像だそうです。本来は本尊盧舎那仏の左右に安置されていたという梵天・帝釈天像も堂内に安置されています。こちらも奈良時代(8世紀)に造立された木造・乾漆併用の仏像です。金堂の須弥壇四隅に、四天王立像が仏教世界の護法神として安置されています。こちらも奈良時代(8世紀)の制作で、木造・乾漆併用の仏像です。甲冑は比較的装飾の少ないものです。時代が下るにつれ、甲冑など葬具の装飾性が増していくようです。四天王像はいずれも2m弱の像高です。梵天・帝釈天と四天王の各像は彩色されていた痕跡が部分的に拝見できます。本尊をはじめこれら諸像がすべて国宝に指定されていて、金堂という本来の堂内に安置されているのは荘厳かつ壮観ですらあります。木像仏が一般化する前の一時期、天平文化のもとで華開いた仏像制作技法による諸仏と静かに対面できるひとときはまさに心静まる機会です。訪れた時間帯が良かったのでしょうか、私が金堂の前で見仏していたときは、わずか数名を見かけただけでした。正面の金網ごしというのが少し残念でしたが・・・・保安上は仕方が無いのかも。 金堂の前方には、大きな石灯籠が一基建てられています。基壇と笠・宝珠の色合いと火袋・中台・竿の中間部分の色合いが異なるのは、補修されたからでしょうか。火袋には蓮台の上に種字が載る図がレリーフされています。現地探訪中は、火袋の戸を細竹を使って押さえているのに目が止まり、レリーフの方は後日画像を見ていて気づいた次第です。正面参道の中央に石灯籠が置かれているのは、本尊の正面に神聖な火を燈火として捧げるということでしょう。併せて正面の前で一旦とどまり、迂回するようにという意味合いでもあるのでしょうか。そういえば、東大寺大仏殿や平等院鳳凰堂の正面も燈籠が一つ建てられています。石灯籠の配置の意味という課題が残りました。金堂の南西方向、境内案内図より北側にこの歌碑が建立されています。傍にこの駒札が立っています。末尾の七句は「ものをこそおもへ」です。会津八一がこの金堂を詠んだ歌です。歌集『鹿鳴集(ろくめいしゅう)』に収録されています。(資料4) この歌碑の少し西側に、林の中へと向かう散策路があります。その入口付近で、 この石碑が目にとまりました。近づいてみると、「松瀬青々句碑」の駒札が立っています。左下に小さく「昭和戊辰(三年)三月 青々記」として短文が記されています。「来遊諸子のすすめ黙しがたく旧句を題す。当寺此寺荒廃して風情余りありしが稲田は其後寺に帰して今松林と成れり」と。この札に気を取られて、句碑を改めて見ていなかったのが、実は失敗でした。この景色は句碑の裏面だったのです。林の中の道を北に進んでくると、句が目に入るという建て方のようでした。金堂側から眺めただけでの失敗です。訪れられたら、ご注意くださいね。いつか再訪した折にでも句碑の正面を眺めてみたいと思っています。読みづらいでしょうが、一応裏面の銘文のところを拡大しておきます。前掲の和辻は「堂の正面をぶらぶらと歩きながら、わたくしは幸福な小時を過ごした。大きい松の林がこの堂を取り巻いていて、何とも云へず親しい情緒を起こさせる」(p150)と続きのところに記しているので、1919年には稲田の広がりではなく、既に松林ができていたのでしょう。松瀬は1869年に生まれ1937年に亡くなった俳人ですので、明治の頃は南大門を入ったあたりに稲田が見られたのでしょうね。いくつかの手がかりから、唐招提寺の変遷風景が垣間見えてきます。(資料5)つづく参照資料1) 『続日本紀(中)』 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫 p121,p2022) 『天平の甍 唐招提寺』 唐招提寺 当日お寺で購入した小型本(写真集)3) 唐招提寺 ホームページ 伽藍と名宝(目次のページ) 4) 詩歌紹介 おほてらの :「関西吟詩文化協会」5) 松瀬青々 :ウィキペディア 松瀬青々 :「コトバンク」補遺鑑真 :ウィキペディア鑑真 :「コトバンク」鑑真~仏教の発展~ :「NHK for School」 寺院建築-天平時代 :「古都奈良の名刹寺院などの紹介、仏教文化財の解説など」石灯篭の置き方・向き-月は東に日は西にの嘘 :「役立つ? お庭ブログ・北山造園」 File103 石灯籠 美の壺 :「NHK」唐招提寺の碑を巡った日 :<「作家と不思議なカレー」の話> このブログ記事に、句碑の表の画像が載っているのを見つけました。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -2 戒壇 へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -3 醍醐井戸・本坊門前・中興堂門前ほかスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -4 開山堂・御影堂・三暁庵・鑑真和上御廟・新宝蔵 へスポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -5 宝蔵・経蔵・東室・礼堂・講堂・鐘楼ほか へスポット探訪 奈良 薬師寺から唐招提寺への道すがらに へスポット探訪 奈良 薬師寺細見 -1 玄奘三蔵院伽藍と北側境内域 へ 3回のシリーズで探訪記をまとめています。
2017.12.23
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富川磨崖仏の全景です。場所は滋賀県大津市大石富川町。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 JR琵琶湖線石山駅からだと車で30分くらい南に進んだ距離です。瀬田川沿いに国道422号線をドライブし、鹿跳橋を渡り約3km進んだあたりです。県立ライフル射撃場の少し先になります。この磨崖仏を訪ねた時(2014年5月)にまとめたものを再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)かなり以前に大石地区に磨崖仏があることを知り、一度探訪してみたいと思っていました。宇治市内に住んでいますので、天ヶ瀬ダム経由で瀬田川沿いに府道3号線を通り、鹿跳橋に至ります。そこから橋を渡り、国道422号線に入ります。進行方向にこの標識が見えます。その少し先に国道から分岐し左折で川の方に向かう道があります。その分岐点に、「岩屋耳不動尊」の石標が建てられていて、「富川磨崖仏」案内説明板も傍に建てられています。 左折して坂道を進み、信楽川に架かる岩屋不動橋を渡ります。橋の標識の傍に石仏が置かれています。 橋を渡った傍からふり返るとこんな感じです。渡ったところに、勢多川漁業協同組合の事務所建物があります。川釣りをするにはここでの手続きが要るようです。かなりの車が駐められる広場があります。磨崖仏を拝見に行くのでと断って、広場に駐めさせてもらいました。自由に利用できました。事務所の傍には当協同組合寄贈碑と供養塔や石仏などを安置した一角があります。広場の奥に山道があります。 こんな感じの山道を5分ほど登ると冒頭の磨崖仏全景が見えるのです。 磨崖仏に至る一段下の斜面には、石仏が数体安置されています。地蔵尊と阿弥陀仏のようです。 そして、高さ約30m・幅約20mの岩壁に富川磨崖仏(とみかわまがいぶつ)が刻まれているのです。正式には「阿弥陀三尊不動明王磨崖仏」と称されています。磨崖仏の手前にある礼拝所の左奥に、この駒札があります。かつてはこのあたりに義淵による開基と伝わる岩屋不動院明王寺があったそうです。岩壁のほぼ中央に、高さ約4mの阿弥陀如来坐像が刻されています。そして、両脇に観音・勢至菩薩立像が配されています。 向かって右には観音菩薩立像が刻されています。 向かって左には勢至菩薩立像が刻されています。右方の低い岩壁には「応安二年」(1369)の刻銘があります。この年号は、南北朝時代の半ばにあたります。そのころに磨崖仏が既に刻されていたことを物語っていることになりますね。また、勢至菩薩立像の左下方には不動明王立像が刻まれています。俗に「耳だれ不動」と呼ばれるのは、阿弥陀如来坐像の「耳穴付近の岩の割れ目から地下水(鉱水)がにじみ出て、あたかも耳だれのようにみえることから」だとか。「病気を、人にかわって一身に引き受け、耳の病に霊験があるとされ、広く人びとの信仰を集めている」(資料1)のです。礼拝所の傍に、この石塔が置かれています。五輪塔の残欠のような印象を受けます。 磨崖仏に向かって、右方向の少し離れた位置に、覆屋のある小祠が祀られています。「長島大明神」と記された横長の額が覆屋に掛けられています。傍に「奉納長島水神」と見えますので、水の神様が祀られているということでしょう。ここの岩壁の岩は厚板状に剥離するのでしょうか。人為的な加工でしょうか・・・。公共交通手段の利用では少し不便な立地ですが、車を使うと磨崖仏そのものへのアプローチはわずか5分ほど、整備された山道を登るだけですので、一見の価値がある磨崖仏だと思います。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺磨崖仏 :ウィキペディア義淵 :ウィキペディア水神 :ウィキペディアネット検索で得た滋賀県下の磨崖仏具体例 狛坂磨崖仏はかなり以前に訪れたことがあります。それ以外は、いつか探訪してみたいなと思っています。 狛坂磨崖仏 :「滋賀県観光情報」 仙禅寺跡磨崖仏 :「じゃらん観光ガイド」 妙光寺山磨崖仏 :「じゃらん観光ガイド」 車谷不動磨崖仏 :「近江石仏巡り」 岩根不動寺不動磨崖仏 :「石造美術紀行」 磨崖不動明王尊 滋賀県湖南市岩根山(花園地区) :YouTube 多羅尾磨崖仏 :「お寺の風景と陶芸」 黒山二体地蔵磨崖仏 :「石仏」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.22
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平成25年(2013)度滋賀県発掘調査成果報告会「土の中から歴史が見える」を聴講に行ったときに、JR大津駅から京阪電車「島ノ関」駅を経由して会場となっていた「コラボしが」の間を久しぶりに歩いて往復しました。復路は散策しながら湖南から眺める琵琶湖を楽しみました。3月8日(土)の大津湖岸なぎさ公園で撮ったものをまとめています。それを再録しご紹介します。公園からの風景にはそれほど大きな変化は現在もたぶんないと思います。冒頭の画像は案内板です。事後に少しネット検索で知り得た情報その他を交えて整理してみました。おもに「なぎさのプロムナード」エリア付近のご紹介となります。これは打出浜側から膳所の湖岸方向を眺めた散策路。先にあるのっぽのビルが膳所あたり(大津プリンスホテル)。琵琶湖の周辺には現在数多くの公園が整備されています。こんなにあるとは知りませんでした。こちらのサイトをご覧ください(「おおつのこうえんネット」)。全体の立地情報が得られます。さて、この「大津湖岸なぎさ公園」は、琵琶湖の西端、浜大津から膳所・石山の間の湖岸沿いにあります。「水辺交観都市構想」のもとに、平成11年(1999)度に完成した「親水公園」だそうです。「親水」のための様々な工夫が盛り込まれているようです。参照資料をご覧ください。(資料1)詳細はそれに譲って、まずはこのあたりから・・・。コラボ21のある建物から湖岸の道路を挟んで湖岸側に「びわ湖ホール」があります。その建物より浜側に巨大な石灯籠があるのです。 これです。かつて江戸時代には東海道の宿場町として「大津」が賑わいました。その大津町の東の外れに、「石場」という船着場があったのです。京阪電車には今も「石場」という駅があります。この船着場に1845年に建立されたのがこの「石場津の常夜燈」だったそうです。高さ約8mの大常夜燈、本来あった場所から300mほど位置を移したのです。かつては、真っ暗な湖上に対して、石場津の位置を示す重要な役割を担っていたのでしょう。(資料2)かつては石場津と対岸の「矢橋の渡し」の間(約5km)を渡し船が通っていたのです。しかし、比叡おろしや天候の悪化で、渡し船はしばしば運航が遅れたり中止されます。そこで生まれた有名なフレーズが「急がば回れ」です。(資料2) 武士のやばせの舟は早くとも急がば回れ勢多の長橋「矢橋の帰帆」は近江八景の一つになっています。こちらをご覧ください。 常夜燈の傍から対岸に三上山が見えます。もちろん、なぎさのプロムナードはどこからでも見えますが・・・・このあたりから眺めるのが好きなロケーションの一つです。手前の記念碑は裏側が見えているのですが、こんな説明板がはめ込まれています。 打出浜の方向に散策路を歩いて行き振り返ると、びわ湖ホールはこんな眺め。手前の左方向に「琵琶湖文化館」の建物があります。上掲の案内図はこの文化館のところに設置されているものです。 琵琶湖文化館前の右手には、この石標が建てられています。本能寺の変の後、光秀・秀吉両軍の山崎の合戦。その頃光秀の娘婿・明智左馬之助は安土城を攻めていました。光秀の敗死を聞き、坂本城に引き返す際、この辺りから湖水を渡って帰還したと伝えられる場所です。伝承はロマンを含みますが、本当はどうしたのでしょう・・・愛馬とともに舟を利用したということでしょうか・・・・それでは講談にはなりませんね。案内板の左手、湖水中には歌碑が建てられています。 うつし世の夢をうつヽに見せしめぬ琵琶湖のうえにうかぶ美の城これは吉井勇の歌碑でした。(資料3)吉井勇の歌碑の一つは、祇園の白川端にあります。「かにかくに祭」が行われるところ。拙ブログのこちらをご覧ください。 (観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川) 琵琶湖文化館の西側で琵琶湖を180度に展望すると、こんな眺めです。 湖岸道路沿いの並木道(浜大津方向の眺め) 小橋のデザインも、琵琶湖を遊泳する魚がモチーフになっています。 ロケーションによって琵琶湖の眺めは様々に変化しておもしろいものです。このなぎさ公園の湖岸からは開放感に溢れた琵琶湖が楽しめます。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 大津湖岸なぎさ公園 プロジェクト紹介 :「UR都市構想」 2) 急がば回れ 石場津の常夜燈 「近江水の宝」 3) 吉井勇歌碑(打出浜) :「大津のかんきょう宝箱」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺近江八景 :ウィキペディアコラボしが21のコンセプト ホームページより 滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール ホームページ 滋賀県立琵琶湖文化館 ホームページ (現在休館中) 「収蔵品」のページがなかなか良きかな・・・です。こちらからご覧ください。「びわ湖大津へようこそ」 pdfファイル 情報の一つとして、「なぎさ公園サイクリング」の地図、ルート、写真の掲載あり。 明智秀満 :ウィキペディア 明智左馬之助 :「明智光秀・桔梗物語」 明智左馬之介の湖水渡り伝説 :「知っ得! 大津豆知識」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.22
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2015年8月の最も暑い頃に伊吹山を歩きました。ウォーキング同好会の恒例企画に参加したのです。JRの近江長岡駅前に集合し、路線バスで伊吹山登山口まで行きます。登山口の近くに、「三之宮神社」があります。この境内で登山前の軽い準備運動をしてから、今や恒例となった入山料を登山口で払い、代わりに「伊吹山登山MAP」をいただいて、登山口から表山道を登りました。この時にまとめたものを再録してご紹介します。(再録理由は付記にて)一説によると、「山頂の弥勒堂を一之宮(上宮)、磐座がある2合目のシャクシの森が二之宮(中宮)とされ」、登山口の上野にある神社が三之宮となるそうです。かつての伊吹山の修行の道も、ここ三之宮神社から始まっていたそうです。(資料1)それでは登り始めましょう。 1合目(標高420m)に至る手前で見上げる景色伊吹山スキー場のゲレンデが見えます。 1合目で小休憩をとり、まずは3合目をめざして登ります。緑のゲレンデを眺めると、パラグライダーをする人々がいます。このあたりはパラグライダーをする人々のグラウンドになっているようです。毎年、目にします。伊吹山・上野では、「伊吹山パラグライダースクール」が開催されているので、その集団かもしれません。 2合目(標高580m)からの眺め 大空には、パラグライダーが・・・・気持ちよさそう! 眼下を遠望すると、琵琶湖が広がっています。 3合目。もう結構汗だくになっています。 3合目(標高720m)で、再び小休止。「アキノキリンソウ」が咲いています。ここにはトイレ施設も整備されています。このあたりは、「3合目山野保護地域」となっていて、登山道以外のところはところどころに防護ネット柵が設置されています。ちょっと無粋ですが、山野の維持保全には必要なことなのでしょう。 3合目附近から眺めた湖北の景色4合目(標高800m)・5合目(標高880m)を経由して、その少し先にある避難小屋を目指します。ゲレンデ斜面の中央にぽつんとみえる小屋がここからの目標地点です。 5合目を越えたあたりから眺めた全景避難小屋付近で小休止後、目指すは8合目! やっと避難小屋を眼下に眺める地点まで到達 ネット情報を参照すると、「イブキフウロ」のようです。蝶々を目にしました。 8合目の少し手前で、西方向を眺めると、 説明板がないと意識すらしないでしょう。肉眼ではお堂が小さな点としか見えません。登山MAPには別名の「平等岩」で記入されています。「行導岩」という巨岩の上に建てられています。伊吹山を開いた高僧・三修がこの岩上で修行したといわれ、円空仏で有名な聖の円空もまた江戸時代前期に、この行導岩で修行した時期があったようです。(説明版より)伊吹山は平安時代には「七高山」の一つに数えられ、9世紀中ごろ山中に伊吹山寺(いぶきさんじ)が建立されたそうです。後に、弥高寺(みたかじ)・太平寺・観音寺・長尾寺という伊吹山4ヶ寺に発展していき、伊吹山信仰の拠点となったようです。戦国期には、伊吹山中腹の尾根上が山城としても利用されます。「史跡弥高寺跡」「史跡上平寺跡」の石標が建てられていて、湖北を眼下に見る拠点にもなったのです。(資料1)平安時代は京都を中心にした世界です。七高山は近畿にある7つの霊峰。比叡山・比良山・伊吹山・愛宕(あたご)山・神峰山(かぶせん)・金峰山(きんぶせん)と葛城(かつらぎ)山あるいは高野山がそれにあたるようです。(「デジタル大辞泉」)『三代実録』には、七高山として葛城山の方を加えた七霊峰を記しているといいます。伊吹山寺は伊吹山4ヶ寺に発展していきます。4ヶ寺の一つ観音寺は、大原観音寺と通称され、ここには『大原観音寺文書』と称される古文書が豊富に残っているようです。それによれば、寺号は正式には伊吹山護国寺、観音護国寺と称するのだそうです。中世の伊吹山は、伊吹4ヶ寺と伊吹社・三宮の両社が宗教組織として相互に関係しつつ、衆徒(寺僧)や山伏が存在した山岳信仰の地だったのです。そのため、「14世紀末?15世紀、伊吹山を揺るがす相論が発生する。その争点は、伊吹山の抖藪における一宿が弥高寺と三宮のいずれであるかということだった。宿とは、山内の聖地であり、とくに一宿は入峰拠点としても意味が大きかった。」(資料2)という論争に発展する局面もあったようです。一方、伊吹山の山伏は、寺外にネットワークを形成し、修験道の拠点である聖護院門跡の配下のもとに統括されていく形になったとか。(資料2)伊吹山を山岳信仰の地とみると、ここもさまざまな変遷を経ているようです。 8合目(標高1220m)には、多くの登山者が休憩しています。最後のひとがんばりへの小休憩でしょう。この辺りからの展望が良いことと休憩できる空間が広いこともその一因だと思います。この辺りから急坂にもなります。山頂は目前です。眼下に広がる景色を時折眺めつつ、最後の登りです。 「イブキトラノオ」が咲いています。山頂への最後の直線道に入るあたりに、「伊吹山頂遊歩道ご案内」の説明板があります。 ウツボグサ イブキアザミ イブキフウロなどが咲いています。 山頂の「伊吹山寺山頂本堂」が見えて来ました。 頂上の一等三角点まで直行です。頂上1,377m。頂上から登ってきた山頂入口のある西方向、山頂部の西半分の眺め 南西方向には、湖北の風景が広がり、 振り返ると、山頂の東半分とその彼方に北の山々の連なりが広がっています。2015年も伊吹山山頂に立つことができました。(今年2017は残念ながら、膝の不調で参加を断念、嗚呼!)後は登ってきた表参道を逆に下って行くだけです。山頂の日本武尊像のところで、多くの人々が記念写真を撮っています。伊吹山は古代から人々に知られていた山です。『古事記』の人代篇にヤマトタケルの逸話で登場します。佩刀の草薙の剣をミヤズヒメの許に置き、素手でも可能として、伊服岐(いふき伊吹)の山の神を倒しに出かけます。山を登り始めたとき、山のほとりで白い猪に出会うのです。その後、以下のようなストーリーが語られます。”「この白い猪に姿を変えているのは、この山の神の使いであろう。今殺さずとも、帰る時に殺せばよかろう」と言うての、そのまま山を登ったのじゃ。すると、山の神がにわかに荒れ狂うて、大粒の氷雨を礫(つぶて)のごとく零(ふ)らせての、ヤマトタケルを打ち惑わしたのじゃった。この白い猪に姿を変えておったのはの、その山の神の使いではなのうて、まこと、山の神そのものだったのじゃ。それを見抜けずに、偽りの言葉を口の端に載せてしもうたのでの、ヤマトタケルは神の怒りに惑わされてしもうたというわけじゃ。”(資料3)その結果、山の神を征服できず、山の神の毒気に朦朧とした意識で下山し、「玉倉部(たまくらべ)」の清水に至って、しばらく休息するのです。そこが「居寝(いさめ)の清水」と呼ばれたと記しています。ところが、大筋は同じですが、『日本書紀』の巻七・景行天皇のところには、山の神は大蛇(おろち)になって道を塞いだとしているのです。日本武尊はこの大蛇を神の使いと考え、その蛇をふみ越えて進んだとします。「このとき山の神は雲をおこして雹(ひょう)を降らせた。霧は峯にかかり、谷は暗くて、行くべき道がなかった。さまよって歩くところが分からなくなった。霧をついて強行すると、どうにか出ることができた。しかし正気を失い酔ったようであった。それで山の下の泉に休んで、そこの水を飲むとやっと気持が醒めた。それでその泉を居醒井(いさめがい)という。日本武尊はここで始めて病気になられた。そしてようやく起きて尾張に帰られた。」(資料4)その場所は、滋賀県米原市の「醒井(さめがい)」だとされているのです。「居寝の清水」・「居醒井」が「醒井」という地名の由来だといいます。近世には木曾街道六十九次の「醒井宿」として栄えた土地です。下山にかかります。路線バスの発車時刻に何とか間に合い、無事伊吹山行完了です。伊吹山は中世以降、和歌や短歌、俳句に詠まれています。諸資料から拾ってみます。 かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな 燃ゆる思ひを 藤原実方 後拾遺集 小倉百人一首 51 「まことにや、やがては下る」と言ひたる人に、 思ひだにかからぬ山のさせも草たれか伊吹の里は告げしぞ 清少納言 枕草子 302段 色にいでてうつろう春をとまれともえやは伊吹の山ぶきの花 藤原定家 拾遺愚草 今日も又かくやいぶきのさしも草さらばわれのみ燃えや渡らむ 和泉式部 新古今集 1012 水うみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを 名に高き越の白山ゆき馴れて伊吹の岳をなにとこそ見ね 紫 式部 紫式部集 82 湖のはてに伊吹は白く光りたり地震にくづれし片面かも 川田 順 うちわたす菜畑やうやく黄ばみけり伊吹嶺はなほ雪白くして 山川桃崖 雪曳ける遠つ伊吹の秋姿花野の末に柔らぎて見ゆ 服部綾足 どとおろす伊吹颪に野べの雪煙り上りて淋しきものを 梅村智美 伊吹山いぶく朝風吹きたえてあふみは霧の海となりぬる 加藤宇万伎 其のままよ月もたのまじ伊吹山 芭蕉 真蹟詠草 折々に伊吹をみては冬ごもり 芭蕉 後の旅 木枕の垢や伊吹に残る雪 丈草 植田よりなほさみどりに伊吹山 福田蓼汀 木曽を出て伊吹日和や曼珠沙華 河東碧梧桐 八月の色を抜けでて伊吹かな 上田 操 稲妻の怒り伊吹の怒りかな 平井照敏 秋高し苦り立ちたる伊吹山 松本たかし 雲湧いてのちの伊吹の冬の暮 桂 信子 (資料5,6,7,8) 脱線序でに、伊吹もぐさを始め、伊吹は薬草栽培地として有名です。和歌に出てくる「伊吹のさしも草」の「さしもぐさ」は「ヨモギの異名」です。「もぐさ」は「灸に使う、ヨモギの葉を乾燥して綿状にしたもの」であり、「ヨモギの異名」でもあります。(『大辞林』三省堂)調べてみると、平安時代の延長5年(927)に完成した『延喜式』の巻37・典薬寮には、「諸国進年料雑薬」という項の「東山道」という分類に「近江国七十三種」と薬材料の名称が列挙されています。たぶん、これらの薬草のかなりが伊吹山から採取されたのかもしれません。具体的な産地名は記載がありませんので推測ですが。(資料9,10)戦国時代、織田信長はポルトガル宣教師から病気の治療のための薬草栽培の必要性についての進言を得て、伊吹山に薬草園の開設を許可したそうです。何とその規模は50ヘクタール(50町歩とも)、3,000種の薬草栽培に及ぶものだったとか。(資料10,11)いろんなことを学べる興味深い霊峰、伊吹山です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 入山の受付所でいただいた地図 「日本百名山伊吹山 登山MAP」2) 中世の伊吹山と山伏 -『大原観音寺文書』が語ること- :「歴史漫遊録」3) 『口語訳 古事記 [完全版]』 三浦佑之訳・注 文藝春秋 p206-2074) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷 孟訳 講談社学術文庫 p170-1715) 伊吹を詠んだ和歌・俳句 作成:幸田正榮氏6) 佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』東海道線14 各務が原~伊吹山 :「雁の玉梓 -やまとうたblog-」7) 『俳枕 西日本』 平井照敏編 河出文庫8) 岩波文庫:『新古今集』『紫式部集』『芭蕉俳句集』、角川文庫:『枕草子』9) 延喜式 巻三十七 典薬寮 :『延喜式』10) 伊吹山と薬草 :「伊吹もぐさ 亀屋佐京商店」11) 『滋賀県の歴史散歩 下』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺伊吹山 :ウィキペディアアキノキリンソウ :「植物雑学事典」[植物生態研究室(波田研)のホームページ]伊吹山で観察した花 :「夫婦でテクテク登山」醒井宿 :ウィキペディア京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城跡・弥高寺跡- pdfファイル 埋蔵文化財活用ブックレット9(近江の城郭4) 滋賀県教育委員会伊吹山弥高護国寺 悉地院 :「長浜・米原・奧びわ湖」弥高護国寺 悉地院 ホームページ伊富岐神社 :「のりちゃんず」伊吹山の歴史・文化 資料2-2 pdfファイル伊富岐神社 :「玄松子の記憶」 岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹 に所在の神社 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.21
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2012年10月27日(土)に参加した歴史探訪「北畠具行最後の地・柏原宿を訪ねて」(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課企画)の後半、「徳源院」つまり京極氏遺跡を探訪したまとめを再録し、ご紹介します。 (再録理由は付記にて)冒頭はJR柏原駅前に立つ「柏原宿散策ガイド」案内板(上)と、徳源院前に立つ「清滝史跡散策マップ」案内板(下)です。 石垣の上に下半分・黒塗りの腰板が張られた白壁の築地塀。武家屋敷を髣髴とさせるのが「清滝寺徳源院」です。門前までの木々が紅葉する秋の景色は、白・黒の築地塀と紅葉のグラデーションとのコントラストが美しいだろうなと想像します。ここの紅葉は「血初めもみじ」と呼ばれているそうです。 徳源院入口への緩やかな坂の手前に、ここが京極家の菩提寺であることを示す石標が立っています。 境内を含めいくつかある説明板を撮ってみました。この清滝寺は弘安6年(1283)京極氏信が創建したものです。寺名は氏信の法名が清滝寺殿であることに由来するそうです。なぜここに菩提寺が作られたのか?氏信は近江守護佐々木信綱の四男であり、仁治2年(1241)北近江六郡を領して柏原館を拠点にしたことによるのです。その柏原館が旧山東町清滝かと推測されています。京極家歴代の庇護のもとに、盛時には寺坊12を数える寺だったとか。そのため、京極氏の盛衰とともに寺運も盛衰したといいます。江戸時代、あの京極高次の系統で、初代丸亀藩主となった京極高和が「所領である播磨国の二村を幕府に返上し、その代わり京極家の菩提寺ある清滝村と隣村大野木村の一部を貰い受けて清滝寺の寺領とします。」(資料1)そして、その子高豊が丸亀藩主として、さらに菩提寺を整備したのです。父高和の法号をとり、院号を徳源院に改めたのです。その結果、「清滝寺徳源院」、略して「徳源院」と称されるという次第です。「清滝寺京極家墓所」は国指定史跡になっています。京極家墓所は、各所に散在していた歴代の人々の墓を二代丸亀藩主の京極高豊(京極家第22代)がここに集め、順序を正して墓所を整備したそうです。この付近には、西念寺(第2代宗綱)、能仁寺(第7代高詮)、勝願寺(第8代高光)といった歴代の菩提寺伝承地があるそうで、この清滝の地が京極家当主の墓地だったのです。能仁寺の伝承地は発掘調査で確認されています。徳源院の南に隣接する”ノネジダニ”と呼ばれる小谷に位置します。(資料1,2) その墓所配置図が説明板の右側に示されています。現在は墓所が築地塀で囲まれ、山の斜面に上下二段の墓地が形作られています。まずは墓所を参拝・拝見しました。 墓地門墓所配置図と対照すると、門から見えるのは高矩の墓です。 まずは石段を上がり、墓所上段を拝見。宝篋印塔が整然と一列に並ぶ景色は壮観です。この景色が観光案内などでよく紹介されているところです。右端の宝篋印塔・氏信の墓から左端・高数の墓まで18基が配置されています。 上段の墓所から下段を眺めた景色 下段の墓所で、やはりまず目を引かれるのはこの石廟でしょう。「京極高次の墓」です。湖北の大溝城城主から湖南の大津城城主となり、関ヶ原合戦の折には、豊臣軍(西軍)の攻撃から大津城を堅守した人物です。高次の系統を継承する高豊が直接の祖として重視するのはなるほどと思います。 石廟の右隣りが木造墓堂内にある「高矩の墓」です。 右方向に歩み下段の墓所を眺めた景色 高中の墓 墓堂が高豊の墓、左の宝篋印塔が高和の墓のようです。 一番右端の墓堂が高成の墓墓堂に納められた墓が合計4つあります。屋根をご覧いただくと、近江守護佐々木氏・京極家の家紋(「四つめ詰」)が屋根瓦に陽刻されています。 墓地門の左側築地塀傍にも5基の宝篋印塔(上)が整然と並び、また石廟の左隣りにも3基の宝篋印塔(下)が並んでいます。その後、本堂、位牌堂などを拝見しました。本尊は聖観世音菩薩(恵心僧都作)と廃坊になった十二坊の本尊が祀られています。当日、屋内での撮影を許可いただけましたので、その一部をご紹介します。ぜひ一度お訪ね頂き、境内の景色とともに、乱世を生き抜いた江北の雄・京極家の変遷に思いを馳せてください。位牌堂には、歴代の位牌が祀られています。また厨子に入った観音立像の左右に京極高次・高豊はじめ六人の木彫像がずらりと小ぶりの厨子におさめて安置されています。 一隅にはかつて使用された大名駕籠も保存展示されています。 続きの部屋には、京極家ゆかりの文書や品々もいろいろ展示されていました。一つ興味深いのは、幽霊図の掛軸でした。滋賀県東淺井郡在住だった清水節堂(1876~1951)筆の絵です。「描表装(かきびょうそう)」という手法で、表具まで描いてあり、表具からまさに幽霊が飛び出してきたというトリッキーな錯覚を覚えさせる絵でした。実物をみると、かなりリアルです。部屋があかるかったのでましだったのですが、もし薄暗いところでこの絵をみたら、まさに迫真ものでしょう・・・・。トリッキーです。 窓越しに裏庭を拝見するのもいい雰囲気です。裏山を借景として取り入れた池泉回遊式庭園で、県指定の名勝です。 それでは最後に、境内のご紹介です。お寺の門を入り、境内を左側に入って行くと「三重塔」が見えます。右端に写っているのが上掲の墓所配置図の描かれた説明板です。右方向に右折していくと墓地門に至ります。 京極高豊が荒廃していた清滝寺を再興した際に、この三重塔を建立したそうです。内外ともに本格的な構造を示しているもの。県指定重要文化財。礎石上端から相輪頂上までの総高は15.52m。昭和51年の修理の際に屋根を当初のこけら葺に直されたそうです。(資料1)この三重塔の相輪は通常の鋳造製と異なり、銅板製で相輪部材の比率も一般的なものではないと、駒札に記されています。見あげている分にはわからないところです。 お寺の入口に近いところに、「道誉ざくら」と称される糸ざくらの木があります。京極家五代目の高氏(道誉/1296-1373)が植えたという伝えのある桜の木です。 田園の道をJR柏原駅に戻りました。覚書として、京極氏の変遷を簡略にメモしていきます。(資料1,3,4)*近江守護佐々木氏は宇多源氏の流れといわれ、佐々木信綱の息子達4人がそれぞれ一家を成します。それが、<大原・高島・六角・京極>の始まりです。四男・氏信が京極家の始まり。*信綱が北近江の愛知川以北六郡と柏原の館を氏信に与えるのです。*京都の京極高辻に屋敷を構えたのが「京極氏」を名乗る由来。六角氏は同様に、京都の六角に屋敷を構えたことによります。*第5代京極高氏は婆娑羅大名として世に知られた人物。31才で入道になり「道誉」と号します。*戦国時代の前半に、第11代高清が一族の内紛を収め、本拠地を柏原から伊吹山南麓の「上平寺」に拠点を移します。尾根上に上平寺城、弥高寺の城塞化も行うのです。*北近江の雄・京極家は高清の子の代から、京極家家臣だった浅井氏に北近江の政権を渡す形となります。小谷城の京極丸にその名称の片鱗が残ります。*高清の二男・高吉(高慶)の系統から、京極高次が出て、京極家の再興が成ります。 高次は大溝城城主、八幡山城主となり、その後大津城城主となります。関ヶ原合戦の後に、若狭小浜藩主となるのです。*江戸時代に、京極家第21代高和が丸亀藩へ転封され、初代藩主となります。徳源院の再興は高和が着手したわけです。*第22代の高豊が京極家墓所の整備や菩提寺の復興を行ったのです。*京極高次・高知兄弟は、秀吉・家康に仕えて功をあげ、京極家の再興を行った結果、その系譜は、丸亀藩・多度津藩(香川県)、宮津藩・峰山藩(京都府)、豊岡藩(兵庫県)の5つの大名家として繁栄していったのです。*鎌倉時代から明治維新まで約650年間、大名家として存続した一族だったのです。ご一読ありがとうございます。 付記 拝観には予約が必要ですのでご注意ください。電話: 0749-57-0047参照資料1)「乱世を生き抜いた江北の雄~京極氏の足跡を訪ねて~」(近江歴史探訪マップ2) 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 製作・発行2)「東山道をめぐる攻防~米原・醒井・柏原をめぐる~」(埋蔵文化財活用ブックレット17) 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 製作・発行3)『滋賀県の歴史散歩 下』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p133-1354) 京極高次 :ウィキペディア【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺清瀧寺徳源院 :「紅葉名所」清瀧寺徳源院 :「長浜・米原・奥びわ湖」清瀧寺徳源院庭園・米原市清滝 :「滋賀文化のススメ」佐々木道誉 :ウィキペディア京極氏 :「戦国大名探究」京極氏 :ウィキペディア京極高知 :ウィキペディア京極高次 :ウキキペディア京極氏(讃岐丸亀藩) :「世界帝王事典」京極氏遺跡群 埋蔵文化財活用ブックレット9 滋賀県教育委員会京極氏遺跡 :「文化遺産オンラインン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖北 中山道柏原宿を歩く -1 柏原宿歴史館・柏原宿の町並・日枝神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 中山道柏原宿を歩く -2 成菩提院・柏原御茶屋御殿跡・柏原宿町並 へスポット探訪 [再録] 滋賀・湖北 柏原宿から足を延ばして・北畠具行の墓 へ
2017.12.21
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「中山道柏原宿を歩く」を再録しご紹介をした序でに、柏原宿から足を延ばした史跡探訪についてまとめていたものを柏原宿の一環として再掲し、ご紹介します。ご関心を抱いていただければ、おつきあいください。2012年10月27日(土)に参加した歴史探訪「北畠具行最後の地・柏原宿を訪ねて」もJR柏原駅前集合でした。重複する部分は割愛して重点的にまとめなおしています。(再録理由は付記にて)冒頭の駅前に掲示の案内板は必須ですのでここにも掲載します。この時は、柏原駅から、柏原宿歴史館を訪れた後、中山道を西に向かいます。冒頭下段の画像は日枝神社の前にさしかかったところです。そして、前回ご紹介した柏原御茶屋御殿跡を通り、さらに西に歩きます。今はもうこの「柏原一里塚跡」の石標が立つだけですが、かつては一里塚が設けられていました。 そこからさらに西に、柏原宿の「西見付跡」の説明板があります。ここが柏原宿の西の入口。その傍に、中山道の絵図をはめ込んだ石碑があります。この地点は海抜高度が174mだそうで、険しい道と云われた磨針峠(154.2m)より高いのです。柏原宿が賑わった江戸時代には、この地点の道の両側に喰い違いの土塁が築かれて、城の門のようになっていたのでしょうね。「見付(け)」を辞書で引くと、「枡形(ますがた)とよぶ区画のある城門の外側に面する、番兵が見張りをする場所。江戸城では見付けが36あったという。」(『日本語大辞典』講談社)東京の「赤坂見附」という地名はその名残りです。嘉永・慶応年間の江戸切絵図(金鱗堂 尾張屋清七版)を見ると、江戸城の堀に架けられた橋の城側がすべて枡形に囲まれた城門になっている状態が描き込まれています。桜田門、半蔵門、田安門などの地名がまさにそれです。(資料1)醒井宿から中山道を歩いてくると、この西見付けに来て、柏原宿に着いたということになります。実際の中山道は現在のこの景色よりも道幅がもっと狭かったようです。ここから東見附まで13町(1.4km)が柏原宿でした。 西見付けから中山道をはずれ、山道に入って行きます。 山道への入口に標識がありますが、登り始めてしばらくすると、この石標があります。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 山道を登り切ったところに、北畠具行(ともゆき)の墓・宝篋印塔がありました。北畠具行ってどういう人?正応3年(1290)生まれ、元弘2年=正慶元年(北朝)=1332年6月19日に没した人。鎌倉時代の末期、南北朝時代の公卿で権中納言。北畠師行の子。後醍醐天皇が起こした鎌倉幕府を討つ計画に参加したのです。この討幕計画は「元弘の変」と日本史の年表に記されています。(資料2,3)そして、「後醍醐天皇を中心とする討幕計画に加わった北畠具行は、計画失敗後に捕らわれ、京極道誉によって鎌倉へ護送される途中、元弘2年(1332)、この地で斬首されました。」(資料4)辞世の句は、 消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき だそうです。(資料5)『東山道をめぐる攻防』によると、刻まれた銘文から具行の死後15年を経て建立されたことがわかるとか。 (資料4)この時、宝篋印塔を傍近くで見たのですが、刻まれているという「貞和三年丁亥十一月廿六日」という銘文を識別できませんでした。貞和3年は1347年です。 こちらは背後から見た宝篋印塔塔身の四面には月輪に梵字がに刻まれています。 北:アク 不空成就如来 南:タラーク 宝生如来 西:キリーク 阿弥陀如来 東:ウン 阿?如来塔自身が大日如来を現すとみたて、この四面の仏を加えて金剛界五仏をなし、五智を形成すると考えるようです。(資料6) この墓の傍に、この上辺に「忠烈」と大書され、「権中納言源具行卿碑」という題で始まる銘文が刻まれています。この表忠碑は大正13年2月に建立されたものだとか。またこの墓の所在地は資料によれば、「柏原字丸山猫居坂上丘陵の一端」となっています。(資料7)これをまとめていて、以前に参加した探訪で番場宿の蓮花寺にある北条仲時墓を拝見していたので、おもしろいことに気づきました。元弘2年に、鎌倉幕府に反旗を翻した後醍醐天皇の討幕計画に参加した北畠具行を鎌倉に護送する役割を道誉が担ったということは、幕府側に加担していたということになります。ところが、元弘3年には、六波羅探題北条仲時の進路を断ったのも道誉なんです。六波羅探題は鎌倉幕府が設置した組織です。つまりこの時点で、道誉は鎌倉幕府を倒す側に加担したということになります。婆娑羅大名・道誉の生き様の一端がここに出ているということでしょうか。だが、なぜこんな山の上に墓を建てたのか? という疑問が湧きました。その謎解きをボランティア・ガイドさんが説明してくださいました。実は、その昔は「東山道」がこの墓の直ぐ傍を通っていたのだそうです。それで納得!室町時代に東山道を旅した人々は、この宝篋印塔を眺めて一時代前の後醍醐天皇と鎌倉幕府の確執の歴史を思い浮かべていたのかもしれません。 この後、山道を北に向かい峠を乗り越える形になります。 山を下ったところにあるのが、「清滝の溜池」です。歩いてきた道は「中部北陸自然歩道」に組み込まれているルートでもありました。この時の探訪では、この後「徳源院」を訪れたのです。(別項としてご紹介します。)この溜池を半周回り込み、道沿いに北に向かいます。 集落に入る手前に池があり、池中にお堂があります。 道の反対側には、天台宗の「日吉山石堂寺」があります。山門の北側、道路に面して石造観音立像が祀られています。 さらに進むとなんと、小ぶりな五輪塔が主体の石塔群です。これほど集合しているのを見るのは初めてです。集落の入口近くに見た土壁の蔵のような建物。この建物には、鄙びた風情が漂っていました。最後に、少し改めて調べてみたことを加えての補足です。北畠具行は後醍醐天皇の忠臣として行動を共にし、倒幕計画失敗の結果殺されました。後醍醐天皇は宋の朱子学を学び、政治に強い意欲を持ったようです。実は、「元弘の変」より前に、後醍醐天皇は近臣日野資朝、日野俊基らと協議し、六波羅探題を襲うという倒幕計画を立てているときに、それが明るみに出るという失敗を犯しているのです。「正中の変」(正中元年/1324年)と称されます。鎌倉幕府はこのとき、資朝は佐渡に配流、俊基は許し、天皇を問責しなかったようです。その後醍醐天皇の意志の固さが、上記「元弘の変」として発露するのです。武力による倒幕に反対の近臣が密告して露見。楠木正成が赤坂城に挙兵したのはこの元弘の変のときだったのです。元弘の変に失敗した後醍醐天皇は隠岐の島に配流されます。鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇を立てます。後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆の名和長年に迎えられ、船上山にこもるという行動をとります。鎌倉幕府は、足利高氏を京都に派遣するのですが、この高氏が鎌倉幕府から離反していくのです。足利高氏は源氏の名門、そこに源氏一門の新田義貞が加わり、鎌倉の北条軍との争いとなり、鎌倉幕府は滅亡します。その結果、後醍醐天皇は伯耆から京に戻り、光厳天皇を廃し、自らが中心となる公家政権、天皇政治を始めるのです。それが「建武の新政」(建武の中興)と称されるものなのですね。この後、後醍醐天皇の諱尊治の一字を許され、足利高氏を足利尊氏と改めます。その尊氏が後醍醐天皇を廃し、持明院統の光明天皇擁立という形で、後醍醐天皇と対立する方向へと展開していきます。それが南北朝時代の始まりということです。後醍醐天皇は京都を脱出し、吉野山にこもり、ここに朝廷(南朝)を現出させるのです。(資料8)北畠具行は、後醍醐天皇の政治意欲の発露の経緯の中で、歴史に名を刻む人となったということでした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『嘉永・慶応 新・江戸切絵図』(古地図ライブラリー0) 人文社2) 北畠具行 :「コトバンク」3) 北畠具行 :ウィキペディア4) 『東山道をめぐる攻防 -米原・醒井・柏原をめぐる-』 (埋蔵文化財活用ブッックレット17) 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課製作・刊行 北条仲時墓のこともこのブックレットに載っています。5) 北畠具行の最期 『増鏡より』 :「南北朝についての日記?」6) 金剛界五仏 形から引く梵字字典 :「Flying Deity Tobifudo」7) 北畠具行墓 国指定文化財等データベース :「Weblio辞書」8) 『詳説 日本史研究』 五味文彦・高埜利彦・鳥海靖 編 山川出版社 p168-169【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺宝篋印塔について :「石寅 浜田石材」高庵寺の宝篋印塔について東山道 :ウィキペディア中山道 :ウィキペディア北畠家 :ウィキペディア北畠氏学講座 ホームページ 「初代北畠氏とその時代」のページ末尾に、具行の父・師行について言及あり。後醍醐天皇 :ウィキペディア後醍醐天皇略伝(前編) 天皇即位~討幕運動の展開まで :「太平記の世界」後醍醐天皇 :「知識の泉」後醍醐天皇御陵 :「浄土宗 如意輪寺」大覚寺統 :ウィキペディア持明院統 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖北 中山道柏原宿を歩く -1 柏原宿歴史館・柏原宿の町並・日枝神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 中山道柏原宿を歩く -2 成菩提院・柏原御茶屋御殿跡・柏原宿町並 へスポット探訪 [再録] 滋賀・湖北 柏原宿から足を延ばして・徳源院(京極家の菩提寺)へ
2017.12.21
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「成菩提院」はJR柏原駅の北方向にあり、中山道柏原宿からは八幡神社前の交差点から線路を越え、道路標識を見て左に回り込んでいきます。お寺への途中にはこちらにも「日枝神社」があります。その少し先に成菩提院の山門が見えます。 所在地の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。冒頭の画像は、「寂照山成菩提院」の山門。山号・寺名を刻した大きな石標の左側に、「寺院跡 談義所遺跡」の石標も立っています。拝観の折にいただいたリーフレットによれば、正式には「寂照山円乗寺成菩提院」と称します。寺伝では弘仁6年(815)伝教大師最澄の開創で、円乗寺と号し、嵯峨天皇の勅願所と伝えられています。天台宗の談義所として鎌倉時代には隆盛していたようです。談義所つまり天台宗の学問所で、ここは別院だったのです。この寺も、幾多の寺院と同様に、他宗衆徒による破壊、火災による焼失、豪雪による倒壊などの苦難に遭遇してきました。その都度再興・再建が繰り返されて六百有余年を経てきたといいます。(資料1) 門前には当寺の案内説明板があります。山門左側手前に見える背の低い石柱には「下馬」と刻されています。山門がまず見応えがあります。屋根は切妻桟瓦葺きで棟には鯱が置かれ、鬼瓦の鬼の相貌がおもしろい。 一間一戸の薬医門です。切妻の合掌部にある懸魚とその周辺、下方の脇懸魚などしっかりと装飾彫刻が施されています。 山門には、「寂照山」の扁額が掛けられています。 その手前の頭貫の蟇股には麒麟の彫刻でしょうか。疾駆する躍動感があります。 門の木鼻で、正面を向く獅子と側面をみせる象が結構凄味を見せています。木鼻の下、女木の彫刻も豪華です。 山門を入り境内側からみた山門の蟇股のひとつ。山門の小屋根の獅子口です。その経の巻の箇所と軒瓦には菊紋が装飾されています。ネットで調べてみると、天台宗の宗章は16菊と3つの星を組み合わせた「三諦章(さんたいしょう)」と称されるものでした。(資料2) 成菩提院の本堂の拝観は、この建物(客殿)の玄関を入ります。 ちょっとおもしろい意匠の石灯籠が玄関の右斜め前に置かれています。手許の本とネットで調べて「善導寺形」と称される石灯籠のタイプだと思います。笠の上に、請花なしに宝珠がぽんと置かれ、火袋には茶道具がレリーフされています。火袋の下の中台の側面にはハートマークが深く彫り込まれています。竿の部分が樽形で竿の上端の蓮弁と下端の反花の箇所が鏡餅のような丸みを帯びた形状です。このタイプの石灯籠はそれほどポピュラーとは思いません。おもしろい特徴を持つ石灯籠です。(資料3) 唐破風の屋根の鬼板と兎毛通、蟇股の装飾的彫刻もなかなかのものです。 本堂内は撮影禁止でしたので、外観だけです。大型方丈形式の書院風本堂。屋根は入母屋造りで銅板葺。文政8年(1825)の大雪で本堂が倒壊したあと、1853~1860年に再建竣工された本堂です。(資料1) 本尊は十一面観音です。後の時代に、徳川家康の参謀といわれた天海大僧正がこの寺の住職を務めた時期があるそうです。この成菩提院は数々の武将が宿泊所として利用しています。永禄11年(1568)織田信長が上洛の際に往路・復路ともに宿泊。手許の『新訂 信長公記』を繙くと、巻一の「信長御入洛十余日の内に五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備へらるるの事」の条に、「(九月)廿一日、既に御馬を進められ、柏原上菩提院御着座」とあり、そして「信長御感状御頂戴の事」の条に、「(十月)廿七日、柏原上菩提院御泊り」と記されています。(資料4)また、豊臣秀吉が天正18年(1590)小田原攻めの時に宿泊。秀吉は3度ここに宿泊しているとか。慶長5年(1680)の関ヶ原合戦の直前に小早川秀秋が宿泊。それぞれの武将がここに宿泊したことに関連し、禁制札を出したり、朱印状などの文書を与えたり、寺領の寄進をしたりしています。その当時の花押のある禁制文や諸文書が残されていて、展示されています。(資料5,6)部分的には読めますが、全文の判読は私には難しい・・・・。慶長13年(1608)4月に徳川秀忠が寺領10石5斗を加増し、10月に徳川家康は寺領を安堵し、7ヵ条の法度掟も寄進しているそうです。(資料1)徳川家綱の時代、寛文5年(1665)には、64坊に103人の僧がいたという記録があるといいます(資料5)。山門から本堂までの石段の両側には坊跡と考えられる敷地があります。 本堂の左・客殿の屋根には三葉葵の紋が棟の側面に付けられています。本堂の屋根の棟の側面には二重円になった菊の紋章が付けられています。 拝観の折にいただいたリーフレットの表紙絹本着色(縦106、幅40.5)の「聖徳太子像」(重文)で16才孝養像といわれるもの。南北朝時代の作図だといいます。寺宝の一つですが、このほかにも「不動明王二童子像」、「浄土曼荼羅(変相)図」、「金銅雲形孔雀文磬」という重文指定品や「普賢十羅刹女像」、「大般若経 600帖」などの県指定文化財指定品を含め数多くの所蔵品があるようです。ご住職の説明では、定期的に寺宝等の展示替えをされているとのこと。2回訪れる機会がありましたが、禁制札・寺領安堵状や、大名駕籠、関ヶ原合戦における武将達の陣形図は常設的に見られるようです。関ヶ原の合戦については、当時のこの寺の住職・祐円に関わる「牡丹餅献上」のエピソードが伝わるそうです。興味深い話です。成菩提寺を拝観され、ご住職からお聞きください。関連の展示品もありました。 本堂に向かって境内の右方向にある「護摩堂」 客殿に向かって左方向に「鐘楼」。方一間吹放鐘楼で屋根は入母屋桟瓦葺きです。「虹梁形頭貫や木鼻の巾が狭く彫りの浅い絵様は江戸時代初期~中期の過渡的様式」を示すそうです。また、梵鐘は1679年に鋳造されたもので、この年に鐘楼が新築されたようです。(資料1)成菩提院を後にして、山裾を回り南西方向に歩く途中で見た「卍」の印と石塔群。この辺りにお堂があったのでしょうか。 そして、川沿いに歩きます。山の反対側の山麓が「北畠具行墓」のあるところだったと思います。この山の右奥の方向に徳源院が位置します。冒頭にご紹介した地図を御覧ください。川が分岐しています。左に分岐していく川が高札場の近くを流れていく「市場川」です。 「天の川」の堤防上を進み、「清滝橋」を渡ります。道沿いに進むと中山道に出るのです。 そこにあるのが「柏原御茶屋御殿跡」です。 上掲「柏原御茶屋御殿跡」の説明板の近くに、この掲示もあります。「柏原地区街並み環境整備事業」が推進され、この地区の街並み全体を博物館として捉えて、この地区の歴史や魅力の再発見がめざされてきたようです。ここは京都・江戸間を往復する徳川将軍家の休泊施設として築かれた御殿の跡です。「柏原御茶屋御殿は、天正16年(1588)に徳川家康が中山道を通った際、土豪西村勘介の屋敷に宿泊したことに起源をもつとされています。その後、家康、秀忠が中山道を通るときには西村屋敷を利用していましたが、元和9年(1613)の徳川家光将軍宣下の上洛の時、御茶屋御殿として整備されたことが西村家の記録に記されています。」(資料5)徳川家三代の間に通算14回利用された後、元禄2年(1689)に解体されたのだとか。理由は将軍の上洛が無くなったためです。御殿跡の西南角には「問屋役・年寄」の表示板が立っていますので、これは御殿解体後にこの土地が利用されたということでしょう。中山道を挿み、東南方向には半鐘の櫓が見えます。ここで再び中山道に戻り、西側から日枝神社・柏原宿歴史館の方向に向かうことになります。 中山道は「やくし道」と交差しています。この道標は最澄が創立したとされる明星山明星輪寺泉明院への道しるべなのです。 さらに東に歩むと、この町家があります。上の画像はこの町家の東端部分です。東端に近い方に見える門には、「東部デイサービスセンターはびろ」という表示板が掲げてありました。ここに駒札が2つ立っています。一つは、ここが明治34年(1901)に「柏原銀行」が創立された跡地であることを説明したもの。もう一つが、さらに遡った江戸時代、柏原宿の「西の荷蔵跡」だという説明です。「運送荷物の東西隣宿への継立(駅伝運送)が、当日処理出来ない場合、荷物を蔵に預かった。この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった」(駒札より)のです。前回「東の荷蔵跡」は駒札でのご紹介をしています。そして、午後の出発点、柏原宿歴史館に戻り、ここを起点に柏原宿周辺を反時計回りに探訪したことになりました。歴史館の傍で、こんなマップの掲示を見かけました。歴史館前にて探訪は終了し、現地解散。一路柏原駅に。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「寂照山 成菩提院」 拝観の折いただいたリーフレット2) 菊花紋章 :ウィキペディア3) 石灯籠 :「石匠 雅」 『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社 p114) 『新訂 信長公記』 太田牛一著 桑田忠親校注 新人物往来社 p88,935) 「第1回 長比城と東山道」 当日のレジュメ資料 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・米原市教育員会6) 『滋賀県の歴史散歩 下』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p135【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺成菩提院 :「天台宗滋賀教区」「東山道をめぐる攻防 -米原・醒井・柏原をめぐる-」(埋蔵文化財活用ブックレット) 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 製作・刊行 24ページに「成菩提院」の寺宝の写真が一部紹介されています。天台宗の三諦章 :「Busondera~蕪村寺ブログ~」天台のマーク(三諦章) :「とりわたかんのんじ」成菩提院に遺された三成の掟書 :「DATA Journal」 「牡丹餅」のエピソードに少し触れたパラグラフがあります。(偶然発見!)滋賀県米原市柏原成菩提院における古文書調査と整理 :「滋賀大学経済学部」泉明院 :「天台宗滋賀教区」中山道柏原宿まちなみ調査 :「日本財団 図書館」 柏原宿本陣絵図が掲載されているページです。 目次のページはこちら ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖北 中山道柏原宿を歩く -1 柏原宿歴史館・柏原宿の町並・日枝神社 へスポット探訪 [再録] 滋賀・湖北 柏原宿から足を延ばして・北畠具行の墓 へスポット探訪 [再録] 滋賀・湖北 柏原宿から足を延ばして・徳源院(京極家の菩提寺)へ
2017.12.21
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現在は滋賀県米原市の一部になる「柏原宿」に探訪目的で2回訪れています。最初は2012年10月27日(土)で「北畠具行最後の地・柏原宿を訪ねて」という探訪で、快晴でした。2回目は2014年11月2日(日)で「第1回 長比城と東山道」(連続講座「近江の城郭 城と街道」)という探訪に参加しました。小雨のため、一番探訪したかった長比(たけくらべ)城跡は途中の道の状態が悪いということで探訪中止になり、柏原宿とその周辺の探訪に限定されました。少し残念でしたが、城跡探訪においてその日の天気という要素は如何ともしがたいところです。これらの探訪のまとめを再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)2014年の連続講座は午前中に講義を受講し、午後に柏原宿の探訪です。ここでは探訪をご紹介します。2012年の晴れた日の写真も併用します。柏原宿周辺の地図(Mapion)はこちらを御覧ください。大凡の位置関係がおわかりいただけるでしょう。 中山道柏原宿には、この大きな案内説明板が建てられています。 その説明板の右脇にこの表示板が掛けられています。この辺りにかつては「問屋役年寄・吉村逸平氏」の居宅があり、そこは映画監督・吉村公三郎氏の実家でもあったのです。復元図から切り出し今回ご紹介のポイントにマーキングを入れてみました。赤枠中青の楕円が案内説明板の立つ現在位置です。柏原宿は中山道67宿の中で、江戸より60番目の宿場町でした。宿場の町並は東西約1.4km(13町)に及び、近江国内では最長の町並を形成していたそうです。本陣・脇本陣と22軒の旅籠屋があったのです。近くの伊吹山が良質のモグサを産することから、最盛時にはモグサを売る店が10軒以上あったとされています。(資料1,2) 昼の食事休憩タイムに、集合時間までに訪れたのが、生涯学習センターから少し中山道を西に行ったところの「日枝神社」です。(赤枠中黒の楕円マークのところ) 石造鳥居の先に拝殿があり、回り込むと側面が築地塀に囲まれた本殿があります。祭神は大山咋神。「創祀年代は不詳であるが、元暦元年と伝えられる。明治以前は、山王社と称せられた。」という由緒の神社です。日枝神社の石標の傍に、「山王権現毘沙門堂」という表示があることは、この由緒を裏付けているようです。(資料3) 瑞垣の門の屋根瓦獅子口は時計回りの三つ巴の紋様で、屋根には鯱が置かれています。三つ巴の軒瓦はお寺の築地塀でよくみかけます。棟の側面に三階菱の紋様が使われているのはあまり見かけたことがないように思います。三階菱で連想するのは、甲斐武田の一族、小笠原氏の家紋なのですが・・・・。 本殿左側の境内北辺から北を眺めると、目前に後ほど訪れる麓に「成菩提院」の位置する山が見えます。 休憩タイムの後は、「柏原宿歴史館」の見学から始まりました。(青枠中黒の円マークあたり)この2枚は2012年に訪れた時のものです。午前中の生涯学習センターの斜め前に位置し、かつての柏原宿のほぼ中央に位置します。この建物は、大正6年(1917)に建てられた「旧松浦久一郎邸」で、国の登録有形文化財とのこと。廊下のガラス戸などには、当時の波打つガラスがそのまま残っています。床柱には木目の細かい木曾檜が使われ、柱や長押(なげし)などには土佐の「栂(つが)」が使われています。さらに、中の間の天井は屋久杉(薩摩杉)であり、北の間にある床の間の床かまちは面取りした漆塗りのものを使用した正式な「本床」仕様。一階廊下の縁板は五間(9m)の長さです。縁側の上には丸桁(がぎょう)が使われています。畳は「備後畳」の「中継ぎ」と呼ばれるものだとか。これは室内にあった説明の要約ですが、大変贅を尽くした建物です。今は資料館の「ふれあいの間」となっていて、和風建築の粋を感じられ、一見の価値ある建物です。歴史館として改築が加えられています。こんな興味深いことも記されていました。昔は「道楽普請の最後は栂普請で」と言われたのだとか。こんな表現をここで初めて知りました。また、「備後畳」の「中継ぎ」という織り方ができる職人さんは現在わずか一人だそうで、もし1枚(畳)を作るとしても10万~20万円の費用がかかるという畳なのだとか。3つの続き部屋(8畳・8畳・10畳)に使われていたようですから・・・・う~ん!!! 一度眺めに行ってください。石灯籠の左手背後に2階建ての展示館があります。展示館1階は企画展とともに、正徳年号の高札、柏原御茶屋御殿の玄関に使われていたという装飾建築部材の蟇股などが展示されています。柏原宿・村の出来事を300年近くにわたって記録しているという萬駐帳(よろずとめちょう)という史料も展示されています。2階には中山道各宿の浮世絵がずらりと展示され、中山道の旅に関係する様々の小道具類が併せて展示されています。母屋の外で見かけたおもしろい品々。 花火筒 なぜかガラスを積層して制作されたと思えるオブジェ 道標 「近江美濃両国境寝物語」これがおもしろい! その意味するのは、長久寺村(現在の米原市長久寺付近)が「寝物語の里」と言われているのです。こちらのウエブサイトをご参照ください。 (新近江名所圖会 第142回 「寝物語の里」―国境のムラ―) 歴史館の庭景色 柏原宿歴史館を出た後、中山道を西に向かいます。中山道の両側には、柏原宿の江戸時代の町並がどのようだったか、当時の建物・所有者などを木札や駒札で再現しています。歩きながら撮った写真ですので、宿場での正確な位置を示せませんが、いくつかをご紹介します。 「造り酒屋・年寄」 「造り酒屋跡」 「造り酒屋 泰助・分家」の表札造り酒屋跡の建物の木壁に安藤広重の浮世絵の紹介が掛けられています。浮世絵で紹介された有名な伊吹もぐさの老舗。この伊吹もぐさが名物になったのには、現代風に言えば、すばらしいマーケティング手法が駆使されていたようです。2012年の折に、ご当地のガイドさんからお話を聞き、感心した次第です。 中山道を横切る市場川に架かる橋をわたります。かつては手前の東詰に油屋さんがあり、 橋の西詰は「高札場」この駒札に高札場の様子が記されています。高札の実物を上記の柏原宿歴史館で見ることができます。 高札場(黒枠中黄色四角のマークのところ)の西隣りが「本陣跡」(青枠中赤四角のマークのところ)です。ここは文久元年(1861)に江戸の14代将軍徳川家茂に嫁ぐために皇女和宮が中山道を使った際に宿泊した場所なのです。また、その将軍家茂が第二次長州征伐の途上でこの柏原宿にも宿泊したという掲示が出ています。駒札にはこう記されています。「柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣役を務めている。間口はこの家の両隣りを合わせた広さで、屋敷は520坪、建坪は138坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されたとも云われる。」また、「明治になり、柏原小学校前身の開文学校はここに開設された。その後建物は明治中期に岐阜県垂井の南部神社宮司宅へ移築された。」小説・木内昇著『櫛挽道守』(集英社)の後半には、中山道薮原宿を皇女和宮が通り、宿泊されるかもしれないということで、その準備に宿場全体が大騒動になる状況が描写されています。ストーリーではサブ的なシーンですが、同じ事がこの柏原宿でもあったのだろうかと想像すると、あらためて興味深く感じます。このご紹介をしていて思い出しました。本陣の西に「問屋役年寄」の建物・敷地。そのさらに西隣りが「柏原宿脇本陣跡」(青枠中薄緑色四角のマークのところ)です。脇本陣は屋敷が228坪、建坪73坪だったとか。本陣が使えないときに、脇本陣が大名・公家その他貴人の公的休泊施設として使われたそうです。さらに西には、「旅籠屋 白木屋」の表示板が大きな建物の前に立っています。中山道の反対側には、こんな駒札が近くにあります。 「旅籠屋跡」 「問屋場跡」 「東の荷蔵跡」この後中山道をさらに西に、八幡神社へ向かう四つ辻まで進み、そこで左折して「成菩提院」を目指します。 バス停の傍に、成菩提院への標識がでています。緩やかな坂道を上っていきます。途中に、「庚申社」の石標の立つ小祠があります。つづく参照資料1) 「第1回 長比城と東山道」 当日のレジュメ資料 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・米原市教育員会2) 「柏原宿歴史館」 入館の折にいただいたリーフレット3) 日枝神社 :「滋賀県神社庁」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺中山道柏原宿 :「長浜米原奥びわ湖」宿駅散策 近江中山道中絵巻 柏原宿 :「近江歴史回廊推進協議会」 歌川広重の「木曽海道六拾九次之内 柏原」の浮世絵が掲載されています。 また、柏原宿のマップのpdfファイルもダウンロードできるようになっています。 中山道柏原宿の歴史年表 :「柏原宿歴史館」 柏原宿歴史館 ホームページお灸の故郷,伊吹もぐさ亀屋佐京商店 ホームページ 伊吹もぐさ亀屋の番頭:福助人形起源説 亀屋もぐさ六代目 七兵衛氏幸(一八一五~一八五〇)日吉大社 :ウィキペディア日吉大社 ホームページ山王信仰 :ウィキペディア日吉大社 山王三聖の形成 <最澄・円澄・円珍・良源の山王観の変遷> :「イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版」幅50cmの県境「寝物語の里」 :「仏像ワンダーランド」寝物語 晴輪雨読 サイクルロード :「万葉集を携えて」中山道六十九次 :ウィキペディア3007中山道(木曾街道)六十九次 広重・英泉&延絵図(その1):「わたし彩の『江戸名所図会』」木曾街道六十九驛 目録 :「浮世絵に聞く!」六十一 柏原 笠屋三勝 :「浮世絵に聞く!」菱紋 :ウィキペディア山梨県の代表的家紋 :「日本家紋研究会」小笠原氏 :ウィキペディア巴 :「WEB家紋帳」巴 :ウィキペディア備後表 文化資源詳細情報 :「ひろしま文化大百科」畳表(びんご畳表)の歴史吉村公三郎 :ウィキペディア吉村公三郎 日本映画データベース吉村公三郎 ~女優映画の達人~ 阿部十三氏 :「花の絵」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖北 中山道柏原宿を歩く -2 成菩提院・柏原御茶屋御殿跡・柏原宿町並 へスポット探訪 [再録] 滋賀・湖北 柏原宿から足を延ばして・北畠具行の墓 へスポット探訪 [再録] 滋賀・湖北 柏原宿から足を延ばして・徳源院(京極家の菩提寺)へ
2017.12.20
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2014年12月にウォーキングの同好会でJR草津駅を起点として、膳所駅までウォーキングをしました。その折のリーダーについて歩き、行路での写真を撮ることを楽しんでいましたので、詳細な道筋は記憶していません。ウォーキングの通過点を事後に少し手許の本やネット検索などで調べて、要所要所の見聞ポイントをまとめていました。ここに再録しご紹介します。JR草津駅に集合し、ほぼ予定時刻に出発。歩いた経路は、 草津駅~草津川・木川町・山田町・矢橋帰帆島公園・近江大橋~膳所駅 です。草津駅からまずは草津川に向かい、堤防の上を琵琶湖に向かって歩きます。砂川大橋のところまでです。そこで草津川堤防から、県道42号線に沿って南西方向に向かいます。<JR草津駅~草津川~砂川大橋・砂原天神社>の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 ここで目にしたのが、「砂原天神社」(すなはらてん・じんじゃ)です。神社のまだ新しそうな由来説明碑が立っています。鎮座地は草津市木川町1314。祭神は天若御子神。「鎮座地は地蔵山と称し、安政七年地頭木村左衛門他四十三名が、当地の守護神として祀ったと伝えられ、木川町天神社の御旅所となっていたが、昭和四十七年社殿を建て、天神社より御分霊を遷座して氏神とした」(資料1)との由。県道42号線を進むと、木川北交差点の次は県道141号線との交差点となります。ここで、右折して県道141号線を琵琶湖の方向に進みます。すると、鳥居の立つ杜が見えてきます。 ここが「天神社」(てん・じんじゃ)です。砂原天神社はこの天神社からの分霊遷座ということになるようです。鎮座地は草津市木川町542。祭神は天市々魂命・天興豊魂命・天若御子神だとか。説明碑には、推古天皇の時代(592-628)に淡海栗太郡の県主物部彦安の勧請により祭神が鎮座されたと伝えられています。この辺りは往古は奈良興福寺の寺領だったようです。当時は広域の神領を有する大社だったと説明碑には記されています。なお、祭神にさらに豊斟淳尊(とよむぬのみこと)を加えて滋賀県神社庁には登録されています。(資料2)<砂原天神社~天神社>の地図(Mapion)はこちらから。天神社の傍で県道を外れ田畑と集落の中を通る道を県道26号線と交差する山田町交差点に向かいます。その途中で「山田正八幡宮」の境内の傍をとおります。滋賀県神社庁には「山田八幡宮(ヤマダハチマン)」で登録されています。鎮座地は草津市北山田町10-1。祭神は応神天皇。「天武天皇白鳳四年大中臣清麻呂の祈願に依り創建される。建久三年に源頼朝が再興し、慶長以後は膳所城主戸田・石川・本多の諸侯が社領を献じて厚く崇敬した。」(資料3)交差点を横断し、そのまま道沿いに進むと、右側に見えたのが、 「渡海神社」です。「とかい」と読むのではなくて「わたつみ」と読む神社です。鎮座地は草津市山田町3。祭神は塩槌神。「明細帳によれば創祀年代不詳であるが、社伝によると、醍醐天皇延喜六年に金峰山寺僧日蔵が同寺創建の時、大和国金峰山より春日の四所を勧請し若松神と尊崇したが、後奈良天皇天文年間同刹癈滅の際、その本尊蔵王権現を本社に合祀し爾来蔵王権現社と称した。渡航、料理の神として信仰がある。 明治元年蔵王権現を渡海神社と改称する、」(資料4)蔵王権現社からの改称は、明治の神仏分離令の結果でしょう。<天神社~山田正八幡宮~渡海神社>の地図(Mapion)はこちらから。渡海神社の近くで目に止まった建物。この辺りの集落では目立つ建物です。そのまま湖岸の方向に歩いたのですが、湖岸傍で目にするのがこの建物。かなり以前に、大津市側のなぎさ公園の方からこの特異な建物の形が目に止まり、何の建物だろうかと思っていたのですが、このウォーキングで初めて建物の近くを通り、関心をもっていたことが判明しました。「天聖真美会」という宗教法人の建物でした。<渡海神社~天聖真美会>の地図(Mapion)はこちらから。 この先は、十二川を経由して、湖岸道路に向かいます。 帰帆北橋を渡って、矢橋帰帆公園に入ります。 「さざなみ街道」と称されています。県道559号線。<天聖真美会~帰帆北橋~矢橋帰帆島公園>の地図(Mapion)はこちらから。 矢橋帰帆島公園から、膳所の方向を眺めた景色 三上山を様々な地点から眺めることに。この辺りからの眺望もいいですねえ。 1151,1155ここには松尾芭蕉の句碑が建てられています。 こんな案内板が立っています。この公園からの琵琶湖の景色はなかなか雄大な広がりを感じさせます。 公園を湖岸沿いに歩き、帰帆南橋、近江大橋を渡ります。近江大橋西詰の歩道下で「晴嵐夕映」と刻された碑が目にとまりました。中国の「瀟湘(しょうしょう)八景」に倣って、江戸時代から「近江八景」として「瀨田夕照(せきしょう)」「粟津晴嵐(せいらん)」「堅田落雁(かたたのらくがん)」「矢橋帰帆(やばせのきはん)」などが撰定され、浮世絵にも描かれてきました。この「晴嵐夕映」という語句をこの日、初めて目にしました。「琵琶湖八景・近江八景」にはない語句です(資料5)。新造語というところでしょうか・・・・。 このあとは湖岸沿いの道を歩きます。「なぎさ公園」の一部です。 途中で、琵琶湖大橋の蜃気楼らしき眺めに遭遇。右側、湖面の途中で橋の端が終わっていますよね・・・? やはり、今の琵琶湖周辺の一つのランドマークとなるのは、この建物です。大津プリンスホテルが目立ちます。これを目印に位置を考えるのに便利です。場所によって、この建物が様々な表情を見せてくれるのもおもしろいところです。 琵琶湖汽船のクルーズ船を見かけました。このあたりから膳所駅は、全行程からすれば、ほんの少しの距離ということになります。<矢橋帰帆島公園~帰帆南橋~近江大橋~大津プリンスホテル~膳所駅>の地図(Mapion)はこちらから。これでウォーキング行程は終わりです。天気に恵まれるとなかなか歩きごたえがあります。距離と景色の両方の意味で・・・・。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 砂原天神社(スナハラテン) :「滋賀県神社庁」2) 天神社(テン) :「滋賀県神社庁」3) 山田八幡宮(ヤマダhチマン) :「滋賀県神社庁」4) 渡海神社(ワタツミ) :「滋賀県神社庁」5) 琵琶湖八景・近江八景 :「滋賀県」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺砂原天神社 村の鎮守さま :「萬葉集を携えて」四所明神 :ウィキペディア 春日の四所 → 藤原四所明神:春日大社に祀られる四柱の神のこと。春日大社の原像 橋川紀夫氏 :「奈良歴史漫歩」山田正八幡宮 村の鎮守さま :「萬葉集を携えて」蔵王権現 :ウィキペディア金剛蔵王権現 :「金峯山寺」天聖真美会 ホームページ矢橋帰帆島公園 公式ホームページ大津湖岸なぎさ公園 :「おおつのこうえんネット」近江八景 :「みちしる」(NHK放映マップ)近江八景 :ウィキペディア大津プリンスホテル ホームページ琵琶湖汽船 公式ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.19
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矢川神社を出た後、道端に咲く花や民家の庭の石灯籠を眺めながら、杣の六地蔵のもう一つに向かいました。そこはJR甲南駅に近いところにあります。 深川にある第三番札所「地蔵堂」です。(地図の番号3のところ)通りに面して御堂が建っているだけです。今回は残念ながら地蔵尊を拝見できませんでした。前回ご紹介した第二番札所・善願寺は通過しただけでしたが、ここで前回ご紹介したような説明を拝聴しました。地蔵堂の並びに「愛宕宮」と刻された自然石が建てられています。愛宕宮はたぶん愛宕神社のことなのでしょうね。 地蔵堂の屋根が葺き替えられたのか、まだ新しい感じです。獅子口は2本の綾筋の上部の経の巻と下部の中央に「卍」が陽刻されています。お地蔵様を祀る小祠・お堂で一番よく見かけます。日本では仏教のシンボルマークです。大棟には鯱がのっています。その後最後の探訪先「浄福寺」の前に、「甲南ふれあいの館」に向かいます。途中の路傍に、「国宝十一面千手観世音」と刻された石標が建てられています。 その道の先に案内板と駒札が並んでいます。この案内板のところから左の道を進むと、浄福寺への石段があります。今回は右の坂道を上っていくことになりました。石標に「国宝」と陰刻されていたのは、かつての指定基準のものだったようです。現在は国の重要文化財に指定されています。 甲南ふれあいの館 (地図の番号2のところ)この建物は道路の傍にあり、道路を横断したところが「甲南中央運動公園」です。この建物は、甲南第三小学校の講堂がここに移築されて、地元の人々から寄贈された民具資料などを保存・展示されている施設でした。明治~昭和の時代を懐かしく思い出させる生活用具が集められた区画があります。 魚とりの道具類や農作業・農家に関連する道具類の置かれた区画鋸が甲賀の産業として発展していたということをこの展示区画で知りました。 鋸の実物を数多く展示するとともに、鋸の製造工程の説明パネルや製造工程の一部を人形でプレゼンしたところ、また製造工具類が展示されていて、なかなか面白い箇所です。杣山からの木材の切り出しに不可欠な鋸、杣の里には必需品ですから、その産業が栄えた時代があったことに、なるほどなあと思った次第です。ここは一見の価値ありです。前挽鋸を使っている有名な絵があります。引用します。(資料1) 葛飾北斎の描く「冨獄三十六景」の一つ、「遠江 山中」です。 「甲賀のくすり」 その手工業的な製造機械の展示も興味深いものです。「置き薬」というなつかしい名前を久々に目にしました。ちょっと脇道に逸れますが、忍術の伝書『万川集海』には、忍者の薬のことが記載されているそうです。甲賀のくすりは忍者の常備薬の工夫・独自加工にそのルーツがあるようです。(資料2)また、甲賀市には「くすり学習館」というのがあるのです。復習で調べていて知りました。「くすり学習館」はこちらからご覧ください。「浄福寺」の境内には裏手の方からアプローチすることになりました。 本堂現在は「峯の堂公園」と称される区域の中、杣街道を一望できる高台の場所に境内があります。「寺伝によれば、延暦7年(788)天台宗開祖、伝教大師最澄上人が比叡山延暦寺根本中堂を建てるための用材を求めて甲賀の杣谷に来られ、その時紫雲たなびき金色に光る山があり、霊地として開かれた寺が現在の浄福寺です。」(資料3,4)本尊の十一面千手観音像は坐像の寄木造りで、頭部・体部ともに左右2材からなるそうで、この地で得た用材で本尊が刻まれたという伝承があるそうです。この本尊は、33年に1度の本開帳や中開帳のときにしか拝見できない秘仏でした。そのため、今回は拝見ならず。本堂の外見だけを見聞しました。甲賀郡三十三所巡礼の第16番札所金光山浄福寺としての扁額が掛けられています。そこに記されているご詠歌は次の歌です。 里の名は うべも深川(ふかわ)の 底までも それ金光の 照らすなるべし 境内にある説明板。本尊の写真が載せてあります。 向拝の木鼻や蟇股はシンプルなデザインのものです。建立年代が古いことと相応しているようです。 毛むくじゃらの顔貌の鬼瓦もおもしろい。本堂の前には、表参道のちょっと勾配のある石段が真っ直ぐに連なっています。これは帰りに下から撮った石段です。 上りきった石段のすぐ傍からは西~南西方向が一望できます。かつては杣街道がはっきりと眺められたことでしょう。 本堂より南側には、鐘楼、御堂、三つの小社の入った覆屋があります。本堂と御堂は渡り廊下で結ばれています。 境内の南端には、顕彰碑として「天保義民 田中安右衞門碑」があります。その傍にある説明板で深川の庄屋として一揆の指導者の一人であり、江戸送りとなった途中でなくなった人物だということがわかります。 石碑の裏面には、その経緯が刻されています。大きい宝篋印塔も建立されていますが、不詳。これで今回の探訪は地図のルートの探訪地を番号逆順で巡り、JR甲南駅に戻ることになりました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 富嶽三十六景 :ウィキペディア2) 滋賀のくすりの歴史 :「滋賀県薬業協会」 忍者が育てたくすりの里 :「甲賀流忍者屋敷」3) 当日の配付資料「探訪 [近江水の宝] 杣の里をゆく -矢川神社・矢川津-」 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課4) 浄福寺 :「たいむとりっぷ甲賀」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺愛宕神社 :ウィキペディア甲賀西国観音霊場案内記 :「今きらめきはじめる 甲賀」鋸 :ウィキペディア鋸の解説・用語 :「河合のこぎり店」卍 :ウィキペディア甲賀の自然は薬草の宝庫 :「甲賀流忍術屋敷」近江天保一揆 :ウィキペディア 「江戸送りとなった義民」の項の5番目に名前が載っています。天保義民の碑 :「たいむとりっぷ 甲賀」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -1 杣川・甲南大橋・伊勢街道常夜燈・新宮城・新宮神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -2 新宮神社表門・古代の埋もれ木・杉谷川 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -3 矢川津・天保義民メモリアルパーク・矢川神社 へ
2017.12.19
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杣川沿いに県道4号線を「矢川橋」西詰まで行きます。橋の手前の河川敷は芝生様のゲートボール場の感じに整備されています。この甲南町矢川橋付近の川辺がかつては「矢川津」と呼ばれていたところだそうです。杣山で切り出された木材は、「甲賀山作所」役所を経て、杣川の水運を利用してこの川津に運ばれてきたのです。現在「杣川」と呼ばれるこの川は、この辺りでは矢川と呼ばれていたのでしょう。だから「矢川津」です。油日岳を源とし、水口町宇川地先で野洲川に合流します。野洲川の支流としては最大。古くは「油日川」とも称されたようです。延長24km、流域面積は108平方kmだとか。矢川の近辺には「甲賀杣」と呼ばれる山林が広がっていたのです。切り出された木材は、矢川津~杣川~野洲川~琵琶湖~瀬田川~宇治川~(小椋池)~淀川~木津川と長い旅をして、平城京に至ったのです。切り出された巨木が、どれだけの人々の手と労力を経て、東大寺の柱や梁になったのでしょうか? 矢川橋を渡ると、東詰に「天保義民メモリアルパーク」が作られています。(地図の番号5のところ)この碑は、この記念碑の銘文によると平成3年(1991)10月に天保義民の蜂起の後150年を経て、民衆の義挙を顕彰するために建立されたのです。「天保13年壬寅(1842)10月14日未明、早鐘を合図に矢川の社頭に集まった二千余人の農民は、怒濤の如く幕吏本陣三上(現、野洲町)を目指して殺到した。 この地は、天保一揆とも言われる農民レジスタンス発端の地である。」と銘板の冒頭に記されています。この一揆で農民達が獲得した「検地十万日の日延べ」という成果を考えると、この碑の建立は、その約束日数の半ばをやっと越えた時点だったということになります。この2015年初頭では単純計算でやっと63,000余日です。逆に考えると、時の政権の約束事というものが、場当たり的な集束策のきれい事の表現、辻褄合わせの絵空事だったか・・・・。政権の面子を取り繕っただけだったのですね。世の中ガラリと激変したのですから。政権の約束が如何に空疎なものかが実感できます。奇しくも、昨年に「天保義民之碑」を探訪したことと結びつく機会となりました。この探訪のタイトルを見て、参加申し込みをした時点では意識していなかったモニュメントを見る機会となり、ラッキーでした。 この碑の周辺にはこんな銅板のレリーフがはめ込まれています。一揆のシーンを描いたものです。それでは、県道128号線を渡って、杣川東岸の北に位置する「矢川の社頭」つまり「矢川神社」の探訪です。(地図の番号4のところ) 道路の近くに「式内矢川神社」の石標が立ち、真っ直ぐに参道が延びています。 石造鳥居の先で「砂川」という小川に架かる橋を渡り、両側に赤い幟の立てられた参道を進みます。 すると、立派な石造太鼓橋が小川に架かっています。その右手には参拝者のための平石橋が併せて架けられています。多賀大社の太閤橋(太鼓橋)のときとは違い、さすがにこの太鼓橋を渡るなんてことにはチャレンジしませんでした。矢川神社の実質的な境内は、石垣の築かれた一段高いところにあるのです。塀で囲まれていたとしたら、この神社自体が一種の城郭になる感じです。石垣の傍に大きな説明碑が建てられています。神社名の上には、「甲賀開拓の祖神」と刻されています。冒頭石標に記されていますが、矢川神社は「延喜式神名帳」に記載される甲賀八座の一社です。前回触れていますが、中世には「杣三社」の一社でした。この周辺の諸村を結びつける精神的な核となる神社だったのです。それ故に、天保の一揆に際しては、この神社の社頭に集結したのでしょう。碑には「中世を通じて甲賀武士団の崇敬を受け、甲賀中惣の参会が、しばしば当社において行われた。江戸時代には水口藩の崇敬社に定められ社殿の造営・境内の整備が進められた。」と記されています。 矢川神社楼門間口三間、側面二間で、ここも新宮神社表門と同じ入母屋造茅葺きです。ここは当初本来の二階造り楼門だったのです。説明板に文禄年間(1592~1596)の大風で上階を失い、このような形になったと記されています。現在の楼門は、工事期間4年に及ぶ解体補修作業を経ているのです。その前に滋賀県指定有形文化財に指定されています。(昭和41年/1966年)(資料1)この楼門建立は奈良県天理市周辺の住人が矢川神社に雨乞い祈願をしそれが成就した返礼として寄進したものだそうです。「古へ大和国布留の社の辺り、五十余村の人々当社の威様を伝え聞て、一年大旱に当社へ祈雨し、其神徳に報いて楼門を建立し」という経緯が享保8年(1723)の社蔵文書「矢川雑記」に記録されているそうです。その建立時期は記録によると1472年としているそうですが、解体修理の過程で発見された楼門の木組みにあった複数の墨書から、文明年間の1481年に組立が開始され、1482年に完成したことが判明したのです。(資料1)新宮神社の表門との違いの一つは、こちらの楼門には蟇股が組み込まれていないことにまず気づきました。 一段高い境内の内側から楼門を眺めた景色この楼門も格子天井になっています。楼門をくぐると、 正面には拝殿 右側に手水舎手水舎の東側奥に社務所の建物が見えます。そこは明治以前には「矢川寺」があった場所のようです。 拝殿で見た一つの蟇股の透かし彫りです。本殿に向かいます。 本殿 三間社流造、間口三間奥行三間祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と矢川枝姫命(やかわえひめのみこと)。矢川枝姫命は、八河江比売、矢河枝比売とも記されるようです。杣川水系の司水神として矢川津の地に祀られた守り神なのです。(資料1,2)本殿にさらに近づいて見上げてみて、その見応えにわくわくです。水口藩の崇敬社になったところがやはり反映しているのでしょうか。社殿に施された彫刻がかなり見応えがあります。そのすべてを克明に写真に納めたいところですが、時間がそれほど充分にはなかったので、できる範囲で撮ってみました。再訪して時間にせかされずに写真を撮ってみたいと思うところです。 この木鼻と木組みは修復されたようです。蟇股には見応えのある彫刻が沢山あります。この神を乗せて飛翔する鶴。その脚が真っ直ぐに後方に伸びています。こんな意匠を見るのは初めてです。 正面・向拝所の蟇股。龍の顔は穏やかな印象のもの。 この蟇股は童子像のようです。ダイナミックなのですが、欠落がありそうな蟇股。亀の背に人物が乗っている様に見えるのですが・・・・。 こんな鶴の姿も蟇股に透かし彫りされています。 更に麒麟? 鳳凰か・・・。 本殿の側面を眺めると、流造の屋根の下、扠首束の両側には草花、登る鯉、獅子、岸壁や流水文などが透かし彫りされていて絢爛としています。この部分が彫刻で装飾されているのも、私にはめずらしい印象です。側面の蟇股もすべて彫刻が施されています。 左右の脇障子にも、虎と龍が彫られています。実に見応えのある本殿の装飾です。 境内を眺めると、こんな建物も楼門を入った左側の方向に並べて建ててあります。 さらに境内には、蕪村の句碑が建てられています。(資料2) 甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋 蕪村これは「蕪村没後二百年記念」として、昭和57年12月に滋賀県俳文学研究会が建立されたものです。 (句碑背面の記載より)この句は、天明4年(1748)高井几菫編『蕪村句集』(巻之下)に収録されているようです。(資料3)そして、「甲賀郡中惣遺跡群」と刻された石標も建てられています。矢川神社からは、もう一つの杣の六地蔵の傍を経由し次の探訪地に向かいました。1599つづく参照資料1) 当日の配付資料「探訪 [近江水の宝] 杣の里をゆく -矢川神社・矢川津-」 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課2) 矢川神社 :「滋賀県神社庁」3) 蕪村俳句集 『蕪翁句集』 巻之下 几薫著 :「Trebess Asia Online(TAO)」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋 :「増殖する俳句歳時記」広報あいこうか 図書館だより 2008年11月 :「甲賀市」高井几薫 :ウィキペディア近江天保一揆の史蹟巡り :「近江の散策」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -1 杣川・甲南大橋・伊勢街道常夜燈・新宮城・新宮神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -2 新宮神社表門・古代の埋もれ木・杉谷川 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -4 地蔵堂・甲南ふれあいの館・浄福寺 へ
2017.12.19
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新宮神社の境内から表参道に向かいますと、「新宮神社表門」が目に入ってきます。こちらはJR甲南駅から歩き、前回説明した磯尾川を渡って、道標に従い真っ直ぐに表門の方に参道を歩んできたときに見る景色です。 表参道から来て、さらに表門に近づいた景色新宮神社は、新宮郷9ヵ村の総鎮守として信仰されてきた古社で、この表門は文明17年(1485)に建立されたそうです。室町時代の中期、第8代将軍足利義尚の時代です。応仁の乱が終わりしばらくした頃、戦国大名の領国支配が始まりかけた時期と言えば、イメージが湧きやすいかもしれません。表側から見ると、右側に説明板があります。この説明板の右下には、「忍のかくれ絵」という遊び心の試みが為されています。今回は鉛筆を使って楽しんでいるゆとりはありませんでしたが・・・・。この門は国の重要文化財の指定を受けています。三間一戸八脚門(さんげんいっこはっきゃくもん)の様式で、屋根は入母屋造で、めずらしい茅葺きです。滋賀県下の例でいえば、園城寺大門が八脚門の楼門です。奈良・法隆寺の東大門が八脚門です。地元では「新治の楼門」の名で親しまれていると言います。というのは、「本来は二層の『楼門』となるはずのところ、なんらかの事情で上層の工事が中断されたものかと考えられて」(資料1)いることから、そう呼ばれるようです。この表門の「屋根裏に二階柱がある」そうです。(資料2) 近づいて見上げてみると、こんな感じです。門の控え柱が本柱の前後に各4柱、二手先で組まれた斗栱の出組は、見上げているとまさに建物の2階部分がありそうな気になります。また茅葺きの裏面の竹組みも頑丈そうな頼もしさを感じさせます。 蟇股が目に付いた範囲では、2つの違う文様の透かし彫りを見ました。「桐に唐草鳳凰など、室町時代の代表的な技巧を用いた文様が施されている」(資料2)のです。蟇股の上を見ると、桁を支える斗の下の柱のところに、フリルのように装飾が施されているのも優美さを与えています。さらに格子天井となっています。ここは表門に至る道路沿いが桜並木となっていて春は見事だそうです。表門からほど近いところに、「古代の埋もれ木」が保存されています。これは平成17年(2005)6月、甲南町新治の新名神(第二名神)高速道路工事のおり工事現場で巨大な杉の埋もれ木が多数発見されたそうです。その出土木材の一部だとか。 この保管小屋のところに、詳しい説明板が掲示されています。 この埋もれ木は、「単なる自然木ではなく丸太から板材や角材を割り取る製材の過程を知ることができる全国的にも貴重な資料」(資料1)となったのです。さらに「年輪年代測定によって飛鳥時代(630~690年頃)に伐採されていたことが判明した」(資料1)とのことです。「埋もれ木が発見された甲南町北部から水口町南西部にかけての地域は、古代から中世にかけて杣がおかれたことで知られ」ていて、「古代の甲賀郡には、東大寺が経営する『甲賀杣』・『信楽杣』や、西大寺の『甲可郡杣』・『甲賀郡緑道杣』などの杣が集中して設けられていました。」そして、『正倉院文書』には「『甲賀杣』に関する記載が多く見られ、東大寺の造営や石山寺の増改築用材を矢川津や三雲津で筏に組み、野洲川の水運を利用して運ばれていったことが知られ」ているそうです。(資料1)「善願寺」の門前を通過します。「杣の六地蔵」の一つで、ここは第2番です。京都にも六地蔵巡りという風習がありますが、この杣川地域にも「杣の六地蔵」として、6ヵ所の地蔵尊を巡拝する風習が江戸時代から続いているようです。「その由緒によると、六地蔵は伝教大師最澄が用材を求めて杣谷に分け入った際、1本の木から彫りだしたもの」と語られているのです。(資料1)「杣の六地蔵」は次のとおりです。 第1番 六角堂(甲南町寺庄) 第2番 善願寺(甲南町新治) 第3番 地蔵堂(甲南町深川) 第4番 地蔵堂(水口町牛飼) 第4番 円光寺(水口町三大寺) 第6番 法泉寺(水口町東内記) 路傍の地蔵尊の小祠真っ直ぐにこちらの表門に来ると、この石標が見えることになります。 この辺りにも、広々と田園風景が広がっています。 この景色で眺める山の方には望月城跡があり、この景色の右上方に見える民家の左背後のこんもりとした森のあたりには竹中城跡があるとお聞きしました。 こんな地蔵尊の小祠も。杣川に合流するもう一つの支流・杉谷川を渡ります。川の合流地点を眺めると、 鷺が水辺に佇んでいました。杣川沿いに、県道4号線を矢川橋に向かいます。つづく参照資料1) 当日の配付資料「探訪 [近江水の宝] 杣の里をゆく -矢川神社・矢川津-」 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課2) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p195【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺六角堂 :「タイムトリップ甲賀」滋賀県甲賀市 六角地蔵堂 :「JAPAN-GEOGRAPHIC.TV」杣の六地蔵 :「滋賀県甲賀市商工会甲南支所」杣の六地蔵盆 甲賀市水口町杣 六地蔵近江・望月城 :「城郭放浪記」近江・竹中城 :「城郭放浪記」磯尾川 :「琵琶湖」杉谷川 :「琵琶湖」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -1 杣川・甲南大橋・伊勢街道常夜燈・新宮城・新宮神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -3 矢川津・天保義民メモリアルパーク・矢川神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -4 地蔵堂・甲南ふれあいの館・浄福寺 へ
2017.12.18
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2014年9月27日に、テーマ[近江水の宝]の一環としての「杣の里をゆく -矢川神社・矢川津ー 」という探訪企画に参加しました。地域は甲賀市の甲南町。忍びの里こうなん・観光ボランティアガイド部のガイドさんによるご案内でした。秋晴れの気持ちの良い午後に行った探訪の数時間。このときにまとめたものを一部修正して再録しご紹介します。探訪はJR草津線・甲南駅集合から始まります。 駅前での集合待ちの間、駅前で秋の花々がまず出迎えてくれました。これが今回の探訪マップです。いただいた資料から切り出しました。(資料1) 甲南駅前の道を南に進むと、しばらくして「杣川」に架かる「甲南大橋」をまず渡ります。この「杣(そま)」という言葉、古代にこの地域の山々の樹木が切り出され、平城京や東大寺などで使う木材供給地の杣山として利用されたことに由来するといいます。辞書を引くと「杣山」は「材木用の木を植えた山」(『日本語大辞典』)と説明されています。杣人がきこり、杣小屋がきこり小屋という意味なのですね。「切り出された木材は、現在の甲南町矢川橋付近の川辺にあったとされる『矢川津』と呼ばれる川津に運ばれ、そこから川伝いに琵琶湖に一旦流され、後に瀬田川を下らされて奈良へと運ばれました」(資料1)。瀬田川が宇治川と名を変えますので、私の地元、宇治がこの甲南とつながっているのでした。杣川~琵琶湖~瀬田川~宇治川~(小椋池)~淀川~木津川という水系が平城京や東大寺を造ったと言えるのです。 この甲南大橋は私好みです。橋詰めに彫刻像が設置されているのです。 近江の探訪でいくつも橋を渡っていますが、彫刻像がこんな風に設置されているのに出会えたのは初めて! 蒼空の下、川畔の広々とした環境で見るのはいいですねえ。しばらく留まって、彫刻と景色を眺めていられなかったのが残念。探訪始まりの通過点だったのです。 橋を渡ったところに、モニュメント 「『一本柳』のはなし」の説明板 その傍の道路傍に立つのが「大神宮常夜燈」(伊勢街道常夜燈:地図の番号9)です。ここにも、”おはなし”という形で説明板が建てられています。杣川沿いには、三雲(甲南市)から甲南町の深川市場・寺庄を経て、甲賀町(大原市場・上野)から柘植(伊賀市)に入り大和街道に合流する「杣街道」があったのです。(資料2)つまり、杣街道~大和街道(柘植-上野)~伊賀街道(上野-津)~伊勢街道(津-外宮・古市・内宮)と街道のつながりで伊勢参宮が行われていたということなのです。(資料3) 本筋に戻ります。この常夜燈を横目に真っ直ぐ南進して、磯尾川を渡ります。磯尾川は杣川に合流する支流です。その少し先に、右の道標があります。 この探訪では、新宮神社には向かわず、まずは磯尾川沿いにのどかな田園景色をながめつつ南への道(県道49号線)を進みます。道沿いに見えてくるのが「新宮城」の道標です。(地図の番号8) ここが戦国時代、甲賀武士の自治組織だった甲賀郡中惣の遺跡群のひとつです。右に山城への登り口があります。丘の上にある城跡という感じです。山はそれほど高くはありません。「甲賀市甲南町新治地域の5箇所(城前城、村雨城、新宮城、新宮支城、竹中城)が平成20年に国指定史跡になりました。」(資料1) 山城跡は、後に樹木が繁茂していき、現地に佇むと土塁が遺るところや曲輪跡、虎口跡が大凡分かるのですが、写真に撮ったものは単に山林が写るだけにしか見えない・・・・・。現地ではガイドさんが新宮城の縄張図を提示しながら現地の状態を説明してくださいました。山城跡の探訪には、縄張図は必携です。山城跡を東側の入口から西側に抜けますと、住宅地に向かう道路い出ます。城跡へはこちら側からの方がアプローチしやすい感じです。その道沿いに、まず神社の拝殿が見えてきます。そこが「新宮神社」です。後で調べてみると、直接この神社に甲南駅から来るなら、徒歩20分の距離のようです。(資料4) 新規に整備された感じの説明板が設置されています。ここにも「新治に伝わる昔話」が記されています。説明板には「新宮神社は新宮9ヶ村の村社で、一宮は紀伊熊野大社、二宮は常陸鹿島大社、三宮は勝手大明神の三神を祭っています。一宮は天平4年(732)倉治村熊尾の地に勧請されたのが最初で、後にこの地に移され新宮明神と称されました」と記されています。ここは飯道山麓であり、中世には杣庄と呼ばれる荘園が広がっていた土地のようです。それが新宮・矢川・三大寺(水口町)の三荘に分離。新宮神社は新宮の総社として栄えたとのこと。杣三社(新宮神社・矢川神社・三大寺の日吉神社)のうちの一社です。 境内の奥に、このように横一列に社殿が並んで配置されています。 屋根を眺めると、向かって右端の社殿は三間社流造の千鳥唐破風、その隣りの社殿は流造の唐破風、左端が少し小規模な社殿で流造と、それぞれに形式が異なります。配置図の有無を確認できなかったので推測が混じります。説明板の一宮~三宮を建物の意味と理解すると、社殿の並び順、形式から考えて、右端の社殿が紀伊熊野大社の神、その隣が常陸鹿島大社の神となり、左端の社殿が勝手大明神と解釈できます。滋賀県神社庁に掲載の「新宮神社」に記載の説明から、境内社そのものと一緒に祭神が移されたと理解すれば、左端の小ぶりな社殿が三宮(勝手大明神)を祀る社になり、写真の説明文とも整合します。祭神だけを遷座させたとするなら、配祀神としていずれかの社殿に相殿されていることになります。その場合、左端の社殿は境内社として、祭神は何なのか? 不詳となってしまいます。(資料5)右から2つめの社殿には、左に八幡神社、右に藤本神社の木札が取り付けられています。この社殿が上記の解釈のように常陸鹿島大社の神を祀るものだとすると、八幡神社、藤本神社の祭神は後に相殿の形で祭神に加えられたことになります。 それはさておき、この社殿の木鼻が珍しい。ちょっと目にしないデザインです。蟇股は鳥の浮彫の頭部が欠けていて無惨でした。唐破風の頭貫の中央に、ちょこっと鳥の彫刻がつけられているのもおもしろい。 左端の社殿は小ぶりながら、しっかりした建物であり、蟇股はシンプルですが、頭貫の彫りには躍動感があり、木鼻の彫刻もなかなか立派です。はて、何が正解なのか? 記録整理の復習をしていて、新たに課題が残りました。現地を拝見され、正解が見つかったらご教示ください。今回はこの神社境内をゆっくり拝見している時間がなく、本殿の細部写真その他を撮れず・・・・という具合。近江には未だあまり知られていない神社境内もあるのですね。新宮神社は次回ご紹介する「新宮神社表門」の方がどうも有名なようです。最後に、説明板に記載の「新治に伝わる昔話」をご紹介しておきましょう。「一つ藪」と「新宮の五社祭り」”新治のお姫様をめぐって、三大寺の神さまと深川の神さまが争った際に、深川の神さまが逃れる途中で左目に刺さっている矢を抜いて捨てたものが、そのまま生えたところが一つ藪と呼ばれ、今でも新治の大明に矢竹が残っています。三大寺の神さまと新治のお姫様が結ばれたことが縁で、三大寺の神輿二基と新治の新輿三基が、新治の熊野の刈屋で祝言の盃を交し、明治のころまで猿楽や流鏑馬などが催されていたと言われています。”地図(Mapion)を見ると、JR甲南駅に近い杣川のあたりに深川の地名が残っています。地図はこちらをご覧ください。地図を見ていて気づいたのですが、磯尾川を挟み、新宮城のあるあたりの対岸(東)に「甲賀流忍者屋敷」の史跡があったのです。今回の探訪対象外ですが。つづく参照資料1) 当日の配付資料「探訪 [近江水の宝] 杣の里をゆく -矢川神社・矢川津-」 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課2) 杣街道 :ウィキペディア3) 大和街道 :「観光三重」 伊賀街道 :「観光三重」 伊勢街道 :「観光三重」4) 新宮神社 :「観なび」(日本観光振興協会)5) 新宮神社 :「滋賀県神社庁」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺近江・新宮城 :「城郭放浪記」新宮神社 :「滋賀県神社庁」新宮神社 :「ぐだぐだ月記」飯道山 :「たいむとりっぷ甲賀」(甲賀観光ガイド)飯道寺 :「天台宗滋賀地区」日吉神社 :「滋賀県神社庁」三大寺日吉神社のケヤキ :「巨樹、巨木巡礼」甲賀流忍者屋敷 公式ホームページ熊野速玉大社 ホームページ熊野本宮大社 ホームページ鹿島神宮 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -2 新宮神社表門・古代の埋もれ木・杉谷川 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -3 矢川津・天保義民メモリアルパーク・矢川神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -4 地蔵堂・甲南ふれあいの館・浄福寺 へ
2017.12.18
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2015年2月15日(日)に、滋賀県教育委員会文化財保護課企画の連続講座「近江の城郭 城と街道」の第4回「三雲城と東海道」を受講しました。2014年の「天井川の里」の続きに、このときのまとめを再録しご紹介します。 (再録理由は付記にて)冒頭のJR草津線三雲駅に集合し、午前中は「湖南市三雲まちづくりセンター」で講義を受講し、昼食休憩後、現地見学に向かうという日程でした。三雲駅を出て講義会場のセンターまで、しばらく東海道(きずな街道)を歩きます。途中で道沿いに設置されているのがこのマップです。今回の講座も、三雲駅から甲西駅まで東海道を歩きました。東海道のこの区間の探訪は昨日連続で再録しています。そこで、できるだけ重複を避けて、三雲城址と夏見城遺跡の探訪に焦点を絞りたいと思います。(併読いただけると、三雲・甲西間の東海道について広がりを持ってご理解いただけると思います。)上掲マップから切り出したこの部分が中心となります。地図は南北を逆転して作図されていますので、斜め右下方向が、実際の北方向です。左端の赤丸がJR三雲駅、駅前から東海道に出て、左折し西方向に進みます。まずは、「湖南市三雲まちづくりセンター」(地図の青色の丸)に。ここが連続講座の会場です。 「織田信長の近江進攻と六角氏」というテーマで、滋賀県教育員会事務局文化財保護課・松下浩講師による講義です。史料をベースに、「1.信長と近江進攻、2.六角氏と近江の国人、3.三雲氏と六角氏・織田氏、4.講が地域の歴史的特質」について聴講しました。(資料1)午後は湖南市教育員会生涯学習課の氏丸隆弘講師の解説による現地見学です。こちらを中心に整理を兼ねたご紹介です。まずは、大沙川隧道まで東海道を西に進みます。ここは明治17年3月に建設されました。天井川に建設された現役最古の石造物トンネルです。トンネルの内壁に「明治十七年四月築造」と陰刻された石がはめ込まれています。地元では隧道を「マンポ」と呼んでいたそうです。(資料2)今回は、この隧道を通り抜けた後、この大沙川の堤防に上がります。 隧道横の堤にそびえる大杉が樹齢750年ともいわれる「弘法杉」です。「弘法大師がここで昼食をとり、使った杉箸を堤にさした。後に成長して大杉になったと伝えられている」(資料2)のです。 ここから堤の上をしばらく上流側に向かいます。この標識のところで、堤防を離れ山道に入って行きます。「みちくさコンパス (4)三雲城址」という表示板も近くに立っています。 山道の途中には「さわがに滝」という標識(左)があり、その先ではこんな奇岩も目にします。 ここが「三雲城址」への登り口です。駒札の右隣りに、「三雲城址・八丈岩コース」の簡単なコース図解説明板が立っています。ここは標高314m、比高140mになります。「三雲城」は別名「吉永城」です。地図ではマゼンタ色の丸の位置です。「三雲城は、長享2年(1488)、足利義尚率いる幕府軍の攻撃を受けた観音城六角高頼が三雲典膳実乃に命じて築かせた」(資料2)のです。足利義尚が近江に出陣した「鈎の陣」と称される戦の時です。「三雲氏は武蔵七党児玉党から分かれた浅見氏を祖とし、南北朝頃甲賀に進出して六角氏に仕え三雲に居住して三雲氏を称するようになった。そして子の行定の代には下甲賀・野洲郡・栗東郡を支配し甲賀六家と称される有力国人に成長し、三雲城は行定の代に整備拡張された」(資料2)そうです。元亀争乱で六角氏が没した後、三雲成持は織田信雄・蒲生蒲生氏郷に仕え、その子孫は徳川幕府の旗本として仕え、幕末まで家名を存続したといいます。(資料3)永禄6年(1563)の「観音寺騒動」、永禄11年(1568)の織田信長上洛の折の戦においては、六角義賢(承禎)・義治父子は、この三雲城に避難し、隠れ城として利用したのです。三雲城は信長軍の佐久間信盛の攻撃により元亀元年(1570)に落城しました。この画像の分岐点で、左の階段山道を登ると8分で三雲城址、右の階段山道を登ると八丈岩まで5分、八丈岩から三雲城址には5分という位置関係なのです。この現地見学では、 登り口 → 三雲城址 → 八丈岩 → 登り口 という順路で見学しました。登り始めると小ぶりな石の積まれた石垣が見えますが、これは砂防目的で最近といってもかなり前でしょうが・・・作られたものとか。それをてっきり城址の石垣と思う人もいるそうです。私もそう思いかけた一人・・・・質問して、誤解せずに済みました(笑)。 そして、ごつごつした岩が見え始めます。 枡形虎口を入り、振り返ったところ 枡形虎口の穴太積み石垣上からの虎口全体の眺めここの石垣の岩にははっきりと矢穴が残る岩がいくつも見られます。階段を上ると、 古井戸の標識が出ています。 古井戸のある場所。鉄柱で囲われています。 古井戸は穴太積みののづら積みです。大きさ直径1.9m、深さ63.2mだとか。標識にも記載されています。(資料2)古井戸の近くに集まった受講メンバーで、ここが「二の郭」です。 この二の郭にある説明板 二の郭の「土塁」この土塁の上からも主郭に登れます。 (資料1) (資料2)「城の規模は東西約300m南北200mで、城縄張りは頂部に構築された主郭を中心に北東側下に二の郭、南側尾根に南出丸を配した連格式縄張りで、さらに、東側中腹にも郭が構築されている」(資料2) 主 郭 40m×15m 細長い郭。物見場所として使用 二の郭 50m×70mほどの広さ。土塁は西側の尾根を削り残したと推定。実質的主郭 枡形虎口 城の北東部。23m×12m 主郭へ登る曲折した階段道 主郭からの眺望 主郭の入口付近から見た土塁の一端 主郭で見た大岩 主郭から一旦、二の郭に下ります。 二の郭の土塁の上面の眺め 土塁・馬の背を経由して「八丈岩」に進みます。 途中で見た大岩 八丈岩背後の巨岩群 さらに近づくと、「佐々木六角家家紋」の標識が立っています。その標識の少し、上方の岩肌に、家紋「四つ目結」が刻まれています。大きさは20cm角ほどです。 「八丈岩」は城址内の一角(北東尾根筋)にあります。 八丈岩の下部の部分 この巨岩を反時計まわりに回り込んで撮った景色 回り込む手前に、「白竜が祀られている社」があります。これが祀られるようになったのはそれほど古くはないとのこと。ただし、いつ頃からかは不詳。三雲城址の近くに「吉永生活環境保全林 林野庁・滋賀県」の木標と案内図があり、その傍に、「湖南市青少年自然道場」の銘板がはめ込まれた標識もまります。野外活動施設があるのです。東海道に戻り、「甲賀組第一部法然上人二十五霊場 第二十一番」の木札が山門に掛けられた「吉祥山西往寺」(浄土宗)を通り過ぎた先で、山並みを見ると、八丈岩がポッカリと飛び出ているのが遠望できます。 この後、夏見では街道をそれて、「夏見城遺跡」(地図:空色の丸)に立ち寄りました。中には入れません。竹藪と樹林の奥あたりが、「甲賀五十三家の一つ夏見氏の居館跡とされる城館遺跡」(資料1)だとか。現在も土塁の一部が残っているそうです。東海道に戻る途中、小学校の傍に建てられている「夏見城址」の石標を目にしました。この後は、JR甲西駅まで東海道を西進します。その箇所は上記の拙ブログ記事でご紹介しております。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「第4回 三雲城と東海道」(連続講座「近江の城郭 城と街道」) 当日配付の講義資料 滋賀県教育委員会文化財保護課作成2) 「三雲城と八丈岩」 みちくさコンパス実行委員会発行 当日の配付資料3) 三雲氏 :「戦国大名探究」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺三雲定持 :ウィキペディア三雲成持 :ウィキペディア鈎の陣 :「元元老院議員私設資料展示館」観音寺騒動 :ウィキペディア観音寺城の戦い :ウィキペディア青少年自然道場 :「湖南市」湖南市青少年自然道場 pdfファイル夏見城遺跡出土の毛抜きについて 記者発表資料 滋賀県文化財保護協会 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 天井川の里:三雲~甲西 -1 横田渡常夜灯・天保義民碑 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 天井川の里:三雲~甲西 -2 大沙川隧道・弘法杉・由良谷川隧道ほか へ
2017.12.18
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再び、国道1号線の横田橋を渡ります。川原で釣り人の姿を見かけました。 JR三雲駅前を再び通過するのですが、その時やはり気になったのがこの石標。なぜかというと、京都の北に「萬里小路」という通り名があったからです。側面にはこれより22丁の妙感寺に墓所があるということがわかります。後日、調べてみると、前回ご紹介した入手資料に妙感寺のことが多少記載されていました。「雲照山妙感寺は、臨済宗妙心寺派に属し万里小路藤房(まりこうじふじふさ)が延元年中(1336年頃)に開創した」のだそうです。(資料1)この人物、藤原北家勧修寺流、万里小路家の一族で、大納言万里小路宣房の一男。鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿でした。後醍醐天皇の近臣として「建武の新政」(13333~1335)に参画し、恩賞方筆頭となったのですが、天皇と対立し政権に失望、身を退き出家し、妙心寺に参禅したそうです。京都妙心寺第二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ)禅師と同一人とする説があるようです。『太平記』に称えられた随一の公家であるとかで、江戸時代の儒学者安東省菴が日本三忠臣の一人に数えたと言います。(資料2)病気のために三雲に住み、晩年をすごしたと伝えられ、本堂の裏に藤房の五輪塔が建立されているそうです。(資料3)本堂には木像千手観音坐像が祀られていて、この本堂から100mほど山道を登ると、両脇に二童子が彫られた磨崖地蔵菩薩像を祀る祠があるとのこと。機会があれば、この磨崖仏を見仏したいものと思っています。鎌倉時代後期の作のようです。(資料1,3)冒頭から脇道に入りました。本道に戻ります。東海道きずな街道を歩いて行くと、途中でこんなマップと史跡の要点説明のパネルが掲示されています。三雲学区まちづくり協議会が編集発行された資料の案内掲示ヴァージョンというところです。至って便利!その先に、野洲川に合流する支流に架かる橋があり、その近くで再び妙感寺への道標が、立志神社の道標と並んで立っています。地図を見ると、この支流に沿って南西方向に延びる道を行けば、これらの寺社を訪れることができるのです。残念ながら今回の探訪対象外です。資料によると、立志神社は「欽明天皇の時代に五穀が実らず民の多くが餓死寸前においやられたので、天皇は全国十二箇所の神社に祈願の勅旨をを使わした。立志神社はその祈願所の一つであると言われている。祭神は國常立神(くにのとこたちのかみ)」だそうです。(資料1) 街道はJR草津線を横断します。その先の線路沿いに道標が出ています。街道はJR甲西駅まではほぼ並行しています。ここにも「歴史探訪・史跡めぐりマップ」が設置されています。親切なおもてなしです。その少し先にあったのが「湖南市吉永 三吉(みよし)景観水路」という掲示です。農業用水路の多機能化という発想のようです。「この施設は地域の憩いの場として利用してもらえるように石積護岸や階段工、遊歩道を整備した景観水路です。また河川水(農業用水)を利用して耐震性貯水槽40m3を設置しています」と説明されています。 大沙川隧道(東側坑門)この上が天井川になっています。所在地は湖南市吉永です。 資料から切り出した部分図(資料1)この大沙隧道は、探訪終着点のJR甲西駅から南西約2.5kmの地点にあります。隧道を見上げると。左手に大樹が聳えています。この南側に位置する山々は明治時代末頃には樹木がほとんど無く、山々を水源とする大沙川、由良谷川、さらに家棟(やなむね)川はやまの砂を下流に運び天井川を形成してきたのだとか。それらが旧東海道を横切り、街道交通の障害になってきたのです。奈良時代に、奈良の仏教寺院や石山寺の造営を行うにあたり、この辺りの山の木々が伐採されて運び出され、その後禿山となったのです。それが天井川形成の原因となって行きます。(資料1)隧道の傍に、吉永の「きずな街道休憩所」が設置されています。ここから三雲城址までは約1kmくらいのようです。休憩所には、三雲城址の写真やこの近辺の史跡案内の写真や説明が掲示されています。 大沙川隧道(西側坑門)この隧道が滋賀県下で最初の道路トンネルとして建設されたのです。隧道内部側壁に「明治17年4月築造」の刻銘があります。長さ16.4m、高さ4.6m、幅4.4m、半円アーチ断面で、花崗岩切石整層積みの造りです。平均的な切石の大きさは長さ68cm、厚さ30cmだそうです。「大沙川隧道は、建設当初の位置で現存する現役の石造道路隧道としては、日本最古であり、旧東海道の整備を目的に、滋賀県特有の天井川を克服するために設けられた隧道としても貴重である」(資料4)というものです。 こちら側に「弘法杉」の標識があり、天井川堤防上に立つ弘法杉への上り道があります。 天井川の上、大杉が聳える傍に、社が作られています。右の画像がその内部を覗いたもの。吉永の西隣りの地域が夏見東、そして夏見、夏見新田と続いて行きます。 道沿いで見た説明板です。夏見の里は石部宿の「立て場」の役割を果たしていたのです。立て場とは「江戸時代、街道で駕籠かきなどが杖を立て、駕籠や荷物をおろして休息した所」(『現代国語例解辞典』小学館)です。右の絵は説明板に載る絵です。「伊勢参宮名所図会」から引用しました。(資料5) その先には、「夏見一里塚の跡」を明示する約30cm2の標識が道路の南側に埋め込まれています。意識していなければ見落としてしまうくらいです。 この説明板は約70m離れた石部方向(西方向)の位置に立てられています。この説明板に載せてある石部の道中記絵ですが、ネットで開示されていますので引用します。(資料6)道端の「新田道」の道標を見つつ進むと、もう一つの隧道が見えました。 由良谷川隧道(東側坑門) 由良谷川隧道(西側坑門の景色)こちらは最上段の笠石の中央に「由良谷川」と陰刻された題額がはっきりと読み取れます。大沙川からは1.5km西側にあります。「長さ16.0m、高さ3.6m、幅4.5m、欠円アーチ断面」の隧道です。明治19年(1886)に建設されたそうです。(資料4) 甲西駅までの途中に、覆屋の立てられた小祠があります。扉が閉まっていますので、何が祀られているのか不詳。また、路傍に地蔵尊が三体祀られているところもありました。 最後に訪ねたのが、地酒の醸造元「北島酒造」さんです。お店の構えに情緒がありいいですねえ。左手の門から構内の一部を拝見し、醸造に使われているお水を試飲させていただきました。また、蔵元のしぼりたての生原酒なども参加者は試飲させていただけるというサービスまであり、ちょっとにぎやかに。蔵元直売でお土産を買う人も・・・・。「北島酒造」さんのホームページはこちらをご覧ください。由良谷川隧道からさらに800m、この北島酒造の位置からJR甲西駅への道を通り過ぎた先に、家棟川があります。ここに家棟川隧道があったのですが、昭和54年(1979)に河川改修のため撤去されてしまったそうです。 探訪の終着点、JR甲西駅ここで数時間の探訪が終了しました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「東海道(きずな街道)を行く」 三雲学区まちづくり協議会2) 万里小路藤房 :ウィキペディア3) 『滋賀県の歴史散歩 上 大津・湖南・甲賀』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社4) 「天井川の里をゆく-大沙川隧道と横田渡-」 当日の配布レジュメ 9月13日開催 探訪[水の宝] 主催:滋賀県教育委員会・湖南市観光協会5) 伊勢参宮名所図会 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画] 第2巻 16コマ目 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)6) 東海名所 改正道中記 五十五 石部 :「電子博物館 みゆネットふじさわ」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺弘法杉 :「ぶらりこなん」(湖南市観光ガイド)東海名所 改正道中記 :「電子博物館 みゆネットふじさわ」 資料一覧 このページから一覧リストがはじまります。 改正道中記は江戸東京博物館も収蔵品の一部としてネットで開示されています。 こちらからご覧ください。天井川 地形判読のためのページ :「国土地理院」琵琶湖に流入する河川の状況 pdfファイル妙感寺 :「ぶらりこなん」(湖南市観光ガイド)妙感寺 「滋賀の風景」:「滋賀県」三雲城跡・八丈岩(みくもじょうし・はちじょういわ):「ぶらりこなん」(湖南市観光ガイド) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 天井川の里:三雲~甲西 -1 横田渡常夜灯・天保義民碑 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 三雲城址と八丈岩、夏見城遺跡 へ
2017.12.17
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2014年9月に、テーマ「近江水の宝」の一環で滋賀県教育委員会と湖南観光協会により企画された「天井川の里をゆく-大沙川隧道と横田渡-」に参加しました。JR草津線の三雲駅を起点とする探訪でした。このときにまとめたものを、ここに再録してご紹介します。 (再録理由は付記にて) (資料1)旧東海道五十三次の水口宿と石部宿の間には、近江太郎と呼ばれた暴れ川である野洲川が流れています。この野洲川は東海道十三渡の一つであり、かつ難所でした。それが「横田渡」です。ここの常夜燈を一度現地で見たかったのです。この地図にあるように、主に旧東海道を三雲から甲西に歩き、要所要所を探訪しました。 当日、三雲学区まちづくり協議会が発行された「東海道(きずな街道)を行く」という資料もいただきました。その冒頭に「きずな街道 東海道 史跡マップ」が載っています。お泊り処・お食事処も併せて紹介されている地図です。レジュメの地図を補完する形で、関連地域の部分地図を切り出してみました。まず石部宿側から横田渡に至る時の常夜燈を見ることからスタートです。JR三雲駅前の道を少し東に200mほど歩いたところにあるのが、この常夜燈です。(レジュメ地図の番号2) 実は現在地よりもさらに200mほど東方向、つまり上流にこの常夜灯が建てられていたそうですが、ここにいつしか移転させられたようです。安永8年(1779)の銘があることから、これが水口宿(泉)側の常夜燈よりも40年前に建立されていたことがわかります。 この常夜燈のあるところで右折し、JR草津線の踏切りを越えて、「新海道」という道標のあるところの坂道を80mほど登った丘のところに「天保義民の碑」が建てられています。 道標の傍には、このモニュメントが建てられています。その隣りにこのモニュメントの造形についての説明があります。これによると、天保の農民一揆において農民が手に取った鍬、鎌の形が形象化され、背の部分の矢印は竹槍、中央の溝は農民の血と汗の流れを表わすのだとか。そして、基礎石を農民に見立てて、農民の努力の結果として虹が架かっているというイメージを重ねているそうです。虹の石つまり希望のかけ橋となったという意味なのだとか。 「天保13年(1842)、代官の不正な検地に抗議するため、旧甲賀郡、旧野洲郡、旧栗太郡の総勢約4万人の農民がいっせいに蜂起しました」(資料1)。その結果、検地が中止され、十万日延期するという名目で江戸幕府は決着をつけたのです。しかし、この決着には一揆のリーダーとなった庄屋レベルの農民11人が江戸送りとなるという代償を払うことになったのです。単純に計算しても273年余の年月の検地延期。結果的には30年弱後に、江戸幕府は瓦解します。明治となり、天保一揆の義挙で江戸幕府に罪人とみなされた人々は大赦を受けたそうです。碑の側面に明記されているように、明治31年(1898)に義挙を後世に伝えるために、この慰霊碑が建立されたのです。説明板には、「高さ10mの人造石で・・・」と記されています。その当時において、コンクリートという技術はたぶん先端技術だったのでしょうね。天然石を使わずに、コンクリート製にしたことに、西洋文明導入という時代風潮を感じさせる気がしました。この碑は伝芳山に建てられています。(レジュメ地図の番号3)因みに、1817年にヴィカーが「人工セメント」を生産し、1822年にジェームズ・フロストが「ブリティッシュセメント」と呼ばれる特許を取得。今日のセメントの主流である「ポルトランドセメント」が発明され、特許における名称の初見は1824年10月21日付の特許だと言います。イギリス・リーズの煉瓦積み職人のジョセフ・アスプディンが発明したとか。その名称はセメントが「硬化した後の風合いがイギリスのポートランド島で採れるポルトランド石に似ているからであった」そうです。「日本では、官営深川セメント製造所において1875年(明治8年)に当時工部省技術官だった宇都宮三郎が国産ポルトランドセメントの製造に成功している」ようです。探訪からの好奇心の波紋・・・・ 知らなかった! (資料2)1833~39年には天保の大飢饉が発生しています。そして、天保年間以降には、一揆や打ち壊しが頻発します。この時期の研究は未だ十分な研究が進んでいないそうなのですが、歴史学者佐々木潤之介氏は「世直し状況論」を提起し、「農民闘争の到来期・革命的情勢の昴揚期」に入ったと指摘されている様です。天保8年(1837)2月には、「大塩平八郎の乱」が起こり、幕府中枢を震撼させていたという社会的情勢・背景があります。そのような中で、近江の民衆が立ち上がったのです。上記三郡は所領支配が錯綜し、村々の利害関係も複雑な地域、いわゆる非領国地域であったにもかかわらず、三郡が結集して一揆を起こしたのです。江戸幕府は財政補填策として検地による増高をもくろみ、天保12年(1841)11月、京都西町奉行がこの三郡の川筋・湖辺の空き地などを検分する旨を申しわたしたことが発端になっているようです。「当時の史料類には『検地』の言葉はなく『検分』である。検地は竿入れを伴うが、検分は文字通り田地のようすをみて歩くだけのことである」という状況があったようです。「公儀による直々の検地であるため反対などの訴願は、うけつけないことをつけたし」、一方、実際に巡見を始めてからは、「井伊・伊達・尾張德川家領の村は素通り、あるいは金銭により見逃すなど、公平さを欠いていた」という現実があったとされています。『滋賀県の歴史』(山川出版社)には、簡潔にこの天保の一揆の経緯が記されていて参考になります。(資料3)ご興味が深まれば、ご参照ください。三郡の農民が集結したということからでしょう、天保義民関連の碑などがいくつか存在します。天保義民碑 三上山裏登山口入口の駐車場横 義民土川平兵衛の辞世の歌碑天保の義民供養塔 甲賀市水口町大徳寺境内天保義民メモリアルパーク 矢川神社参道入口に近い矢川橋の傍この後、三雲駅の方向に戻り、現在の横田橋を渡ります。国道1号線としての架橋です。現在の横田橋は、かつての横田の渡より下流側に架けられているのです。つまり、私たちはこの橋を渡り、最初の泉西交差点を右折し、約500mくらい上流方向にある水口宿側の「横田渡常夜燈」に向かうことになります。水口側を歩き始め、途中でこの「水口宿」の標識傍を通過します。 横田渡常夜燈(水口側)のある正面の景色 この形から関所のイメージを連想しました。現在この地は「横田常夜燈公園」として整備されています。 横田渡の常夜燈全景德川幕府は、街道・宿駅制度を整備しましたが、軍事的理由から規模の大きな河川には橋を架けない政策をとりました。この横田渡は野洲川でも川幅が最も広い場所だそうで、川幅約320mだそうです。杣川の支流との合流地点であり、このあたりは横田川と称されていたそうです。川の流れも激しくなっている場所だといいます。近江東海道最大の渡河地点であり、難所の一つだったのです。「江戸時代中期の正徳(しょうとく)年間(1711~1716)以降は、幕府は毎年10月から翌年2月末まで橋梁(土橋)を架すほかは、残りの期間は4艘の小舟で旅人を乗せて船渡しをしていた(うち2艘は予備)」のです。(資料1)時代を遡ると、室町時代の文書には「酒人郷横田橋」という名前が記され、京都西芳寺によって橋賃が徴収されていたという事実が記録からわかるようです。(後掲写真)この辺りが、当時は西芳寺の寺領だったということでしょうか。現在の当地の地図を見ると、「水口町泉」「水口町酒人」という地名として継承されています。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。「横田渡常夜燈」は文政2年(1819)3月に泉村庄屋が常夜灯建立を水口藩に上申してもらうよう大庄屋宛に願書を出したことが契機になり、文政5年(1822)8月に、高さ8.1mの、東海道筋最大規模のものとしてこの常夜灯が完成したそうです。石灯籠竿部の一面に建立年号が刻されています。その文字を明瞭に読むことができます。基壇上部に「萬人講中」と太文字の陰刻があるように、甲賀講中世話方の発起人のもとに、近江国内(高島郡・朽木谷)のほか、江戸・大坂・京都・播磨等各地からの寄進による建立なのです。基壇部の各側面には地域毎の寄進者名が記されています。この写真でも「播州」という文字がはっきりと読めます。別の面で「京都」「江戸六組」という陰刻も見ました。(資料1)巨大な石灯籠の竿部には「金比羅大権現」と刻まれています。安全加護を祈るために水運と関わりの深い金比羅宮がこの地に勧請されています。この常夜燈に近いところに、金比羅宮の小祠が祀られています。 オランダ商館の医官として来日したドイツ人のシーボルトは、文政6年(1823)2月江戸参府の途中で、この常夜燈をみたことを著書『江戸参府紀行』の中に明記しているようです。 そして、この横田渡の場所に明治24年(1891)滋賀県により「横田橋」が架けられたのです。やっと橋が架けられたのです。常夜燈から野洲川の方に歩むと、その基礎部だけの痕跡が見えます。昭和4年(1929)に上掲の横田橋が新たに架けられたことにより、この場所にあった横田橋がその機能を終えることになったのです。 上流側 横田渡の野洲川全景「明治29年(1896)9月には、野洲川の氾濫により常夜燈が倒壊する。その後、河川敷には堤防が設けられ、常夜燈」は堤防の外に移して再建された」(資料1)つまり、元々はまさに河川敷のすぐ傍に高さ8.1mの石灯籠が点灯していたのでしょう。水辺に関係する常夜燈としては、矢橋の常夜燈と石場津の常夜燈があります。前者は現地未訪ですが、後者の「石場の常夜燈」は現在大津市のなぎさ公園に本来の場所から300mほど移して建てられています。こちらも巨大な石灯籠です。1845年建立のもの。拙ブログの記事をご覧いただけるとうれしいです。 <探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その1 大津点描(山吹地蔵・車石・琵琶湖風景・明智左馬之助)>「矢橋の常夜灯」はこちらのサイトをご覧ください。(資料4)また、守山宿の樹下神社の北側にある吉川の左岸に建立された常夜燈も大きなものです。天保2年(1831)の銘がある石灯籠です。拙ブログ記事でご紹介しています。こちらをご覧ください。 (探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -3 常夜灯、樹下神社、土橋)野洲川に流れ込む支流に架かる橋を渡り、野洲川を眺めつつ、再び現在の横田橋に戻り、旧東海道(きずな街道)を歩きます。天井川の探訪です。つづく参照資料1)「天井川の里をゆく-大沙川隧道と横田渡-」 当日の配布レジュメ 9月13日開催 探訪[水の宝] 主催:滋賀県教育委員会・湖南市観光協会2) セメント :ウィキペディア ポルトランドセメント :ウィキペディア3) 『県史25 滋賀県の歴史』 畑中・井戸・林・中井・藤田・池田 共著 山川出版社 p257-261 7章執筆分担 藤田恒春氏4) 矢橋の帰帆(矢橋港の常夜灯) :「滋賀県淡水養殖漁業協同組合」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺コンクリート :ウィキペディア近江天保一揆 :ウィキペディア天保義民之碑 :「Treasure Navi」(農林省近畿農政局) 滋賀県湖南市三雲所在の碑 近江天保一揆の史蹟巡り :「近江の散策」土川平兵衛 :「コトバンク」土川平兵衛 郷土の偉人 :「野洲市」天保義民と呼ばれるのはどのような人々ですか。 :「滋賀県立図書館 レファレンス事例検索」矢橋と大津の常夜灯を訪ねて :「近江歴史回廊倶楽部」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 天井川の里:三雲~甲西 -2 大沙川隧道・弘法杉・由良谷川隧道ほか へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 三雲城址と八丈岩、夏見城遺跡 へ
2017.12.17
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今年の「吉例顔見世興行」は、京都・岡崎に所在する「ロームシアター京都」で行われています。京都会館の名称で親しんできた建物が2016年からロームシアター京都としてオープンしています。外観は以前のままだと記憶しますが、劇場内部の雰囲気は大きく変貌していてちょと驚きました。四条の南座が昨年から休館し、昨年の顔見世は先斗町歌舞練場で観劇しました。今年はどうなるかと思っていたら、ロームシアター京都だということに。南座の正面玄関上部、唐破風の下に竹矢来が組み上げられ、ヒノキの一枚板の庵(いおり)型で、勘亭流文字の「まねき看板」が二段重ねにずらりと並ぶ景色に親しんでいました。「まねき上げ」が南座以外の場所で行われたのは今年が初めてのようです。上記の通り、昨年は先斗町歌舞練場が舞台となりましたが、まねき看板は南座の正面、恒例の位置に上げられました。それはそれで顔見世としては変則的な状況でした。今回はそれもままならず・・・・。ここでは建物の関係でしょうか、横一列に並べられています。雰囲気が変わりますね・・・・。このまねき看板を京の師走の風物詩として毎年見ていて、写真にも撮っていたつもりが意外と撮っていませんでした。ああ、今年も上がっていると見るだけだったようです。 写真を保存しているフォルダーを遡ってみると2011年に観劇した時に撮っていたものがありました。こちらが親しんできていたまねき看板が南座の正面に並ぶ姿です。恒例の東西合同大歌舞伎ということで、この看板は建物が南面していますので、まさに東西にそれぞれの歌舞伎役者名が並んでいるのでしょう。「東西合同大歌舞伎」の看板が中央部分にあります。そして、東端から西端に眺めて行くと、 東は、坂田藤十郎・片岡秀太郎 ~ 中村鴈治郎・片岡仁左衛門 西は、中村魁春・中村芝翫 ~ 中村時蔵・中村梅玉という形で、看板が並んでいます。私は知りませんが、多分並べ方にもある種の決まり事があるのでしょう。快晴の空からわかるように、昼の部を観劇しました。歌舞伎において、顔見世興行は、翌年の一座の顔ぶれを披露する興行という位置づけですので、「戌歳」と上部に記載されています。 劇場で購入した冊子。今年の一つのハイライトは襲名披露のあったことです。冊子の表紙に記載がありますが、八代目中村芝翫(橋之助改め)の襲名披露と、その子息の襲名披露、即ち、四代目中村橋之助(国生改め)、三代目中村福之助(宗生改め)、四代目中村歌之助(宜生改め)の襲名披露が同時に行われたことです。 劇場に入って、開演前に2階から眺めた景色。劇場としては座席数も多くて広いのですが、花道の短いことがやはり残念でした。感覚的には南座の花道の三分の一位でしょうか。特設されている関係上仕方の無いことですが・・・・・。一方、襲名披露の祝儀幕が晴れやかでした。中央に成駒屋の定紋である祇園守が金色に描かれて、その下に赤色の円が4つ並べてられています。よく見ると、そこに芝・橋・福・歌の文字が直線書きでデザインされているのです。芝翫を筆頭に親子4人で成駒屋の盛り上がりを寿ぐという意匠でしょうね。 いよいよ開演!最初は「寿曽我対面」です。征夷大将軍源頼朝から信任を受ける工藤左衞門祐経(梅玉)は富士の裾野での巻狩りの総奉行に任じられます。工藤館でこれを祝う宴会の場面です。諸大名が招かれている場に、小林朝比奈(勘九郎)が祐経に二人の若者との対面を申し出るのです。祐経が許すと、朝比奈の招きに応え、曽我十郎(七之助)・五郎(橋之助)が舞台に出てくる。祐経は曽我兄弟にとっては親の仇。血気に逸る五郎とそれを抑える十郎と朝比奈。血気に逸る五郎の所作がひとつの見応えでした。この演目で、近江小藤太成家(福之助)、八幡三郎行氏(歌之助)の役回りで3兄弟が揃って出演です。大磯の虎(扇雀)と化粧坂少将(壱太郎)の衣装が大柄の華やかなもので舞台映えがするものでした。この劇中で最後に襲名口上が行われれるという形でした。口上を聴いていると、歌舞伎の世界は役者同士が親戚縁者の関係にあること、それが良く分かりました。第二の演目が「義経千本桜」です。これは完全なフィクションもので意外性を楽しむところが受けてきたのでしょう。しかし、そのストーリー展開自体に私は違和感を感じました。「渡海屋の場」で、兄頼朝から追われる義経(秀太郎)が船待ちで登場します。そこに、相模五郎(鴈治郎)と入江丹蔵(勘九郎)が詮議のために登場し、船宿の主・銀平(芝翫)が出てくるのです。この銀平が実は壇の浦で死んだはずの平知盛が生き延びている仮の姿なのです。女房お柳(時藏)は実は典侍の局で、安徳帝を守護しているという設定だから奇想天外です。「渡海屋の場」では、銀平が義経に義侠心を見せ、詮議に来た二人を懲らしめる。相模五郎が「魚尽くし」のセリフを語るという面白さがあります。「奥座敷の場」では、局たちの海への投身、典侍の局と安徳天皇は義経の家臣に捉えられる。そして「大物浦の場」では、義経に復讐せんとした知盛が、計略を見破られ満身創痍の姿で登場します。安徳天皇が義経の情けを述べ知盛を諫めます。知盛は大碇を結んだ艫綱を身に巻き付けて断崖から入水するというストーリー展開です。知盛の入水場面が見せ所でもあります。知盛の最後を見届けた義経は安徳天皇を供奉してその場を去るというストーリーです。なんともはやという筋書きですが・・・・。各場面の演技としては見せ場がありおもしろい出し物です。分かっていて、奇妙な展開を楽しむというのがこの演目の有り様なのかもしれません。歴史を度外視して、フィクションのお芝居として割り切れば、各場面でのそれぞれの名演技が楽しめます。知盛の入水場面は、断崖から飛び降りる形ですから、それを受ける裏方さん、大変だろうな・・・なんてつい思ってしまいました。入水場面の演技はさすがです。幕間の折に、この定式幕を見るとやはり歌舞伎見物の雰囲気がピッタリとしてきます。第三の演目が「二人椀久」です。唄と囃子をバックにした舞踊劇です。役者のセリフは一切無し。椀屋久兵衛(仁左衛門)は傾城の松山太夫(孝太郎)に心奪われて放蕩を尽くし、座敷牢に押し込められます。思いが募り発狂した久兵衛は座敷牢を抜け出して、松山の姿を追い求め彷徨うのです。松の大木の下でまどろんだ久兵衛が、松山と出会い、楽しいひとときを踊り過ごすのですが、それが幻だったと覚るに至るという次第。唄に併せた所作と踊りで役者としては無言で舞踊に終始します。舞踊だけで見せるのはさすがです。 夜の部は、「俄獅子」と最後の「大江山酒呑童子」が舞踊劇の出し物。最初の「良弁杉」が一幕の芝居で、3番目の「人情噺文七元結」が二幕四場ものです。来年の師走にはできることなら再び南座で観劇したいなぁ・・・・と思う次第。劇場の一隅でこの掛け軸風の絵図が目に止まりました。祇園祭の巡行風景です。写真を撮るだけにとどまり、傍にある説明文を見落としていました。この図柄から、洛中洛外図を連想しました。調べてみると、やはりそうでした。狩野永徳の洛中洛外図屏風(上杉本)の右隻、二扇・三扇目です。かつて京都会館の名で親しみその前を幾度も通り過ぎていても、長らく建物内に入ったことがなくてその変化に今浦島の思いを抱きました。これも今回の大きな印象です。ご一読ありがとうございます。参照資料上掲冊子 『吉例顔見世興行』 平成29年12月 ロームシアター京都補遺寿曽我対面 :「歌舞伎演目案内」寿曽我対面 :「歌舞伎への誘い」義経千本桜 :「歌舞伎演目案内」義経千本桜 :「歌舞伎への誘い」二人椀久 :「歌舞伎演目案内」二人椀久 片岡仁左衛門 片岡孝太郎 :YouTube なんと、平成17年2月歌舞伎座の舞台動画が公開されています。国宝 上杉洛中洛外図屏風 :「伝国の杜」洛中洛外図(上杉本) 狩野永徳 :「canon 綴TSUZURI 文化財未来継承プロジェクト」「洛中洛外図屏風と研究史の概説」 藤原重雄氏 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.17
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上野城跡から県道135号線沿いにJR油日駅の方向にまず戻ります。その時あの赤鳥居の前を通過。この大きな鳥居は、油日神社、油日大明神の鳥居だったのです。 そして、杣川に架かる橋を渡り、県道51号線を歩き、 和田地区に入って行きます。県道51号線は和田川に沿った道路であり、この地域が和田谷です。 まず、和田城館群のあったこの地域の上空から撮った写真をご紹介します。これは探訪を終えて、和田地区から毛枚地区に行く時、探訪に出かけてきた大勢の集団だとわかったことから、通りかかったたばこ屋さんでお店の方に偶然にもいただいたリーフレットの表紙です。その昔、この和田谷には7つの城館が築かれていたそうです。それぞれの城館が連携してこの谷全体を守備していたと考えられるのです。中世にこの地を支配した土豪が和田氏です。和田氏に関連する城館と推定されています。和田同名中惣がこの和田谷地域を運営・管理していたのです。この表紙の下辺が南で、谷の奥側です。一番奥に和田城跡があり、この城館が縄張の規模や構造などからこの地域の中心的な城だったと考えられています。そして、この北方の谷の入口の東側に「殿山城跡」があり、その南に今回訪れた「公方屋敷跡」が位置しているのです。(資料1)和田城に脚を延ばしたかったのですが、それは又の機会となりました。位置関係がわかっただけで今回は満足とすることに・・・・。 バス停の傍の柱に「公方屋敷跡」の表示がでています。矢印の方向に向かっていしばらく進んで行くと、原っぱになったところに大きな木が1本立ち周囲が生け垣で囲われているのが見えます。 近づいて行くと、公方屋敷跡の説明板が建てられていました。市指定史跡になっています。 室町時代末期に13代足利将軍義輝が三好・松永らにより殺害されます(永禄8年・1565年)。この時、奈良・興福寺の一乗院門主だった覚慶は将軍御供衆一色藤長や細川藤孝の努力と、越前守護朝倉義景(左衛門督)の交渉・手配によって奈良を脱出し、将軍御供衆だった和田惟政の案内で、和田城主だった和田景盛(六角高頼の孫)を頼り、この和田谷に亡命します。三好・松永らからの危難を回避するためです。覚慶は義輝の実弟でした。将軍は公方と呼ばれていたので、義昭が一時的に住んだここの城館が「公方屋敷」と称されるようになったのだとか。(資料1,2) 公方屋敷跡縄張図(資料3)ここは西に開け、背後に山を背負う谷部であり、東西75m、南北80mの平坦地になっていて、和田氏の居所と考えられている所です。そこに覚慶が仮住まいした訳です。その後、まず和田氏領の野洲矢島に移ります。そこが「矢島御所」と呼ばれます。この地で覚慶は還俗して義秋(後に義昭と改称、以下義昭と記す)と名乗り、足利将軍家を継承する活動を始めていくのです。その場所には現在矢島町の自治会館が建てられており、その傍に名残の土塁がわずかに残る程度だとか。(資料1,2,4)最後に義昭を助けたのが織田信長です。信長の力を頼ってきた義昭を立てて信長は入京し、義昭を将軍職につけます。それは義昭にとっては、信長との確執の始まりでもあるわけです。勿論、信長からみれば義昭など眼中になかったことでしょうが。この平坦地の一隅に、五輪塔やその残滓、石仏などが少し集合していました。どういう由縁があるのかは解りませんが・・・・・。公方屋敷跡を出て、和田川沿いに北西方向に向かいます。向かう先は「毛枚(もびら)地区」です。ここに最後の探訪地「長岡城跡」があるのです。現在この地は民家の所有地になっています。建物の軒下に説明板が掲げられています。所有者の方が快く応対してくださいました。ボランティアの皆さんのお陰です。 山岡城跡縄張図です。(資料3) 山岡城は小高い山に縄張がなされ、山頂に方形の郭が築かれています。これがその山頂を登り口側から見たところです。 土塁で方形郭の周囲が囲われているのがよく解ります。山頂から眼下に見えるのは酒蔵。帰りに正面を見ると、望月酒造株式会社さんです。 山頂の郭と下を繋ぐ坂道は曲折しています。 山頂から見えた酒蔵に続く建物。ちょっと不思議な軒屋根の勾配です。 鬼板と装飾瓦がなかなかいいですね。山岡城の北東には「毛枚北城」、南東には「獅子ヶ谷城」があり、この山岡城が中心となって密接に関わっていたと想像できるそうです。山岡景隆・景友が城主であったと伝わり、この二人は兄弟で、織田信長に仕えたのだとか。山岡氏は『新訂寛政重修諸家譜』によれば、鎌倉期の貞景の代に三河より大原村に移り、大原氏を称したとか。これが近江伴氏四党のうちの大原一族になるそうです。子孫の景廣が毛枚村に居住して毛枚氏を称したと言います。景通の代に大鳥居氏を名乗り、景通の曾孫資広の代に勢田の山田岡に来て城を築き、以後山岡氏を称したのだとか。近江勢田城を本拠として六角氏に仕え、以後栗太郡を拠点としたそうです。(資料3,5)大原村はJR甲賀駅の東方一帯にあたるそうです。甲賀駅の南東にあり、午前中に2番目に訪れた大原城が大原氏ですから、この山岡城跡もかつては大原同名中惣の中に含まれていたのでしょうか・・・・。甲賀五十三家には、毛枚氏、大鳥居氏、山岡氏という家名は存在しませんので。(資料6)いずれにしても、この山岡城跡の探訪を最後に、今回の探訪は終了しました。数多く存在する甲賀の城跡、未訪の城をいずれ探訪してみたい次第です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「甲賀の城郭Ⅰ 和田城館群」 編集 甲賀市教育委員会事務局歴史文化財課 里山・遺跡のコ・ラ・ボ(木・愛)事業 作成2) 足利義昭入洛運動 :「佐々木哲学校」3) 「『かくれ里』ササユリ・トキソウの魅力と甲賀武士ゆかりの城跡を巡る」 油日駅を守る会 作成4) 近江 矢島御所 :「近江の城郭」5) 山岡氏 :「戦国大名探究」6) 甲賀郡中惣と甲賀五十三家 :「戦国浪漫」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺いにしえ物語2 高槻城主和田惟政 一 :「高槻市」 このサイトに、和田惟政についてシリーズで取り上げられています。大原村(滋賀県甲賀郡) :ウィキペディア足利義昭 :ウィキペディア和田惟政 :ウィキペディア和田惟政 :「コトバンク」43.戦国時代の高槻城主 和田惟政 インターネット歴史館 :「高槻市」山岡景隆 :ウィキペディア油日神社 公式ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -1 JR甲賀駅、ササユリ観覧、梅垣城跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -2 甲賀郡中惣とは、大原城跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -3 長福寺、極楽寺、上野城跡 へ
2017.12.16
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今回はこのお寺も門前を通過するだけの地点になりましたが、後で調べると「長福寺」です。この門前の広場の一隅に、珍しい彫刻柱を見つけました。どこかで写真を見たような・・・・。関心を抱き門前ではなくて、こちらに近づいてみました。 あのアショーカ王が紀元前3世紀に建立した柱頭彫刻の模型でした。再録にあたり、少し脇道に逸れます。この探訪は2014年6月でしたが、2015年11月に正倉院展を見に出かけた後、東大寺境内を久しぶりに散策しました。この時のまとめも既に再録しています。大仏殿東側の山腹に金色に輝く相輪のモニュメントが建てられています。その近くに、「アショカピラー」と呼ばれる石柱の柱頭部の彫刻像が復元されています。説明碑によると、「花まつり千僧法要記念宝塔」として建立されたものです。背後に一部写っているのが相輪です。現時点の再録で思い出しましたのでここに追記します。東大寺に行かれた場合は、そちらでご覧になるとよいかと思います。長福寺は甲賀西国観音第7番札所です。平安初期の大同元年(806)に開祖されたと伝わるそうですが、現在は浄土宗のお寺。本尊は阿弥陀如来坐像で、別棟に聖観世音菩薩像(重文)が安置されているそうです。(資料1)「寺伝によると恵心僧都の作。仏体は一木造で、座部は別木、きらびやかな宝冠、腕の飾りあり。金色雲文の舟形光は江戸初期のもの」だとか。(資料2)彫刻柱模型の傍には、こんなルートマップが建てられています。こんなのがあると便利ですね。前回の散策マップ部分図と併せて、今回ご紹介する地域の地図(マピオン)をご覧ください。位置関係がよくご理解いただけることでしょう。長福寺を通過し、杣川の堤の道を歩きます。そして、片山の踏切で草津線の単線路を横断し、田堵野西の交差点を経て、 その先で見たのがこの道路標識です。そして田堵野、上野の交差点を経て上野ふれあい広場に。ここで昼食休憩でした。その際、鹿肉バーベキューのおもてなしを受けた次第です。鹿肉なんて普段食べる機会がありません。興味津々で試食しましたが、軟らかくておいしかった!この上野ふれあい広場から、道沿いに北に向かうと「北上野城跡」があるようです。今回の探訪では、午後の後半はまずこの広場からは南東方向に位置する「上野城跡」の探訪です。 その途中で、「但受山極楽寺」の山門前で、ボランティアガイドさんの説明を受けました。山門に向かって、境内左手には数多くの五輪塔や墓石がピラミッドのように積み上げられて山を形成しているのは壮観です。極楽寺は推古天皇13年(604)聖徳太子の開基と伝えられ、この地方の豪族大伴氏一族の香華院と呼ばれているそうです。残念ながら当初のお寺は文禄年間(1592~1596)、桃山時代に焼失。承応3年(1654)に中興された後、江戸時代の宝永3年(1706)に現在地に移転されたようです。現在の本堂は大正8年(1919)に建てられたものだとか。本尊は木造阿弥陀如来坐像だそうです。(資料1,3) その先に目に止まった赤鳥居 上野城址への登り口に、大きな標識を「油日駅を守る会」が建てられています。個人で訪れる場合には、こういう標識が整備されているとありがたい! さらに、登り道の途中に標識が整備されています。 途中竹藪の中の細い坂道を上ります。この上野城はかなり規模の大きい山城でした。これが上野城跡縄張図です。上野城跡は、県道4号線草津伊賀線沿いの丘陵に存在します。県道沿いに青野川を渡り、油日区山崎集落に入ったところの丘陵です。現地付近の地図(マピオン)はこちらをご覧ください。 土塁に囲まれた曲輪がよく解ります。遺構の保存状態は良好です。ここは市指定史跡になっているようです。参加者の立っている位置や背丈から土塁の高さもお解りいただけることでしょう。縄張り図を見ると、曲輪は7箇所、ローマ数字が振られています。 虎口の様子もよくわかる状態です。縄張図を確認しながらゆっくり観察する時間がなかったのが少し残念です。しかし、甲賀には単郭方形タイプの城ばかりでなく、かなり規模の大きい山城もあることがわかり、その一例を探訪できたのは収穫でもあります。県道バイパス道路が建設されることで、丘陵の東側が削り取られ、縄張図の東、曲輪Ⅶの東半分が消失したのがわかります。道路建設に先立つこの場所の発掘調査から、「小穴、竪穴などの遺構や、信楽焼の擂鉢、瀬戸・美濃焼の天目茶碗、唐津焼の皿などの土器・陶磁器類や、石臼・砥石など生活道具類など、16世紀後半から17世紀前半にかけての遺物が出土しており、城内でも居住性のある空間だったことが分かっている」そうです。(資料4) 南山六家の一家として上野氏の名前が挙がっていますので、この上野城跡から北上野城跡にかけての地域は、上野同名中惣の地域だったのでしょう。(資料5)この後、「公方屋敷跡」「山岡城跡」を巡ります。公方屋敷跡は、上野城跡の位置からは、JRの線路を挟んで西側となり和田区に存在します。つづく参照資料1) 「油日歴史ふれあい散策マップ 油日自治振興会エリア」 MAP発行者 甲賀市油日自治振興会地域振興部2) 「歴史と文化を巡る 甲賀の里」 製作 大原自治振興会 3) 極楽寺 :「湖国寺探訪」 4) 「『かくれ里』ササユリ・トキソウの魅力と甲賀武士ゆかりの城跡を巡る」 油日駅を守る会 作成5) 甲賀郡中惣と甲賀五十三家 :「戦国浪漫」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺上野城跡 :「滋賀県観光情報」織豊期の甲賀 -甲賀の焼き討ちはなかった- 木戸雅寿氏 「紀要」第21号 滋賀県文化財保護協会アショーカ王 :ウィキペディアアショーカ王柱(古代初期の仏教美術) :「アジアの宗教美術と博物館!」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -1 JR甲賀駅、ササユリ観覧、梅垣城跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -2 甲賀郡中惣とは、大原城跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -4 公方屋敷跡、山岡城跡 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -3 大仏殿・勧学院周辺と春日野 へ 本文に補足した散策記録のまとめです。異なる位置から撮った画像を掲載しています。
2017.12.16
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前回の補足から始めます。これは当日いただいたもう一つの資料です。折りたたみ式で携帯に便利な資料です。これも優れものといえます。(資料1)番号70が前回にご紹介した「梅垣城跡」です。この散策マップをよく見ると、番号72,71,73が付された多喜城跡・多喜北城跡・多喜南城跡があります。これを見て、改めて「甲賀中惣」という自治組織、その中の「同名中惣」のイメージが湧きやすくなりました。「同名中惣(どうみょうちゅうそう)」というのは、「在地の有力国人(こくじん)、地侍が近隣地域内で同姓の庶子家や、主従で主家の姓を許されたものや、異姓ではあるが姻戚関係にあるものなど、同姓を名乗る擬制血縁組織を形成し」たものです。同名中惣では寄合によって惣の意志決定を行う際、同名中惣の中から選出された奉行たちの合議制で実施するシステムだったのだとか。(資料2)手許の本に掲載の「甲賀侍衆概念図(郡中惣と同名中惣)」を引用します。同名中惣の連合体が「郡中惣」。「甲賀郡中惣はそれぞれの同名中惣から10人程度の奉行を選出し、奉行中惣として運営にあたった」そうです。惣の会合は各地域の持ち回りで、惣の紐帯となる神社が参会場に利用されたようで、矢川神社(甲賀郡甲南町)がその参会場の一つだったことは判明しているとか。(資料2)そこで多喜氏ですが、多喜同名中惣は「戦国浪漫」(資料3)によると、南山六家のうちの一家だそうです。手許の本の説明では、同名中惣を組織した地侍は江戸時代以降「甲賀五十三家」とよばれるようになるのです。この甲賀五十三家は、歴史を遡ると、長享元(1487)年に室町幕府9代将軍足利義尚が六角征伐のため近江に親征した際の陣所「鈎の陣」に夜襲をかけるなど、奇襲戦を展開した甲賀の地侍をさします。これは足利義尚が諸大名を動員し、寺社本所領や幕臣所領を横領した近江守護六角(佐々木)高頼を攻めた戦です。この時、高頼は観音寺城を捨て、甲賀に逃げ込み、抵抗します。この夜襲で軍功を上げた家に六角氏は感状を与えたのだとか。それが「甲賀二十一家」と称されます。柏木三家・南山六家・荘内三家・北山九家として分類されています。(資料2,4)六角氏と甲賀侍の関係ですが、明らかに六角氏の被官として主従関係にあったのは三雲氏と儀俄(ぎか)氏のみ。また、甲賀の武士団の中心的存在は山中氏だったそうです。(資料2)梅垣城跡から大原城跡へ向かう途中で見かけた建物です。 立派な切妻造の倉と思われる建物の側面の飾りや瓦に惹かれました。 もう一つの屋敷の入口建物の側面の飾りも凝っています。 前回渡った薬師橋からは南東方向に位置しますが、「万才橋」を渡ります。滝区の東隣の田堵野(たどの)区になります。この田堵野区の北西杣川の右岸に、「大原城」が立地しています。ここは杣(そま)川と櫟野(らくや)川の合流地点に近く、油日谷の喉元という位置になるようです。冒頭のマップの緑の丸番号58が大原城跡です。この縄張図と併せてご覧ください。位置関係がお解りいただけることでしょう。大原城跡は典型的な単郭方形の館城です。 大原城跡の西側の土塁の眺め 南西方向からの館城跡の眺め 南に面した館城の現在の門。門の左右は高い土塁となっています。 門の内側、南面の内側土塁を西方向の眺め 門の内側から西方向の郭内の現況。庭部分として整備されています。実はこの大野城跡の方形の郭内は、現在も甲賀衆・大原氏の末裔の方の住居となっているのです。大原数馬氏屋敷として著名です。敷地内周辺を拝見することができました。 方形郭の周囲の土塁上から、現在の門と住居を眺めた景色西南角付近と南側の土塁上ですが、土塁の上面はかなり幅広です。土塁の高さは、門の屋根の高さとの対比で推測できることでしょう。まさに頑丈堅固な土塁を実感できます。 西南付近から、郭内西側の眺め 住居の一座敷の南面に、大原氏関連の資料その他を展示されていました。同家には江戸時代の忍書とされる『万川集海』(市指定文化財)22巻本が伝わっているのです。大原家には20数点に及ぶ伝書が残されているとか。同『万川集海』の忍書は「将軍家に献上され皇居内にある内閣文書に残ってい」るそうです。(資料1,5)大原同名中惣は南山六家のうちの一家。当時、同名中惣は惣単位で掟書を定めていたそうです。大原同名中惣の掟書が現存するそうで、「定同名中与掟条々」は32ヵ条からなるもので、永禄13(1570)年に作成されたものだとか。「他所との合戦の場合、合力して軍事行動をとることや、農民の地下一揆との交渉について掟を定めている。こうした内容から同名中惣は対外的な軍事的必要性からだけではなく、郡内でおこりつつあった農民の一揆に対する危機的状況を乗り切るために結成された側面をうかがうことができる」という内容のようです。(資料2) 東の虎口 虎口の外から東側土塁の外側、北方向の眺め 東側土塁外を北に歩き、南方向(虎口)の眺め 探訪グループの人びとが立つ位置が虎口の外側です。 南東寄りの地点から大原城跡の全景を眺めて当日入手し、既に部分引用している資料を最後にご紹介しておきます。 これが前回に引用した資料散策ルートマップの裏面に自然・歴史・文化を訪ねるための9ルートが紹介されています。 こちらは今回引用した資料です。最後に余談です。手許の本でこんな説明を見出しました。引用しご紹介します。(資料4)”貞享年間(1684~88)に書かれた『淡海温古録(おうみおんころく)』に、「世に伊賀甲賀の忍び衆と名高くいうは鈎の陣に神妙の働きあり。日本国中の大軍眼前に見及びし故」と記されており、この戦いで甲賀武士が全国的に「忍びの衆」として知られるようになったと考えられる。”貞享というのは、第5代将軍德川綱吉の時代です。「鈎の陣」での甲賀武士の活躍が流布していたということでしょう。次の探訪地は「上野城跡」となります。つづく参照資料1) 「油日歴史ふれあい散策マップ 油日自治振興会エリア」 MAP発行者 甲賀市油日自治振興会地域振興部 問い合わせ先:油日地域市民センター TEL. (0748)88-81302) 『滋賀県の歴史 県史25』 山川出版社 p113-116 畑中聖治・井戸庄三・林博通・中井均・藤田恒春・池田宏 共著3) 甲賀郡中惣と甲賀五十三家 :「戦国浪漫」4) 『滋賀県の歴史散歩 上 大津・湖南・甲賀 歴史散歩25』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p1975) 「『かくれ里』ササユリ・トキソウの魅力と甲賀武士ゆかりの城跡を巡る」 油日駅を守る会 作成【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺同名中惣 :「コトバンク」甲賀忍者の虚実を探る 京都・滋賀深堀り[文化観光] :「京都新聞」城郭フォーラム~村の城を探る 甲賀・伊賀の城~シンポジウム概要~ :「近江の城郭」(「現地説明会及び講演の要旨集」のサイトページ)大原氏 :「戦国大名探究」万川集海 :ウィキペディア万川集海 はじめに :「伊賀流忍者」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -1 JR甲賀駅、ササユリ観覧、梅垣城跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -3 長福寺、極楽寺、上野城跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -4 公方屋敷跡、山岡城跡 へ
2017.12.15
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2014年6月8日(日)に「油日駅を守る会」の皆さんがボランティア活動で企画実施されている探訪会に参加しました。”「かくれ里」ササユリ・トキソウの魅力と甲賀武士ゆかりの城跡を巡る”というテーマです。甲賀地域の城跡を巡ってみたいと常々思っていましたので絶好の機会でした。このときのまとめをここに再録して、ご紹介します。(再録理由は付記にて)冒頭の画像は当日のJR甲賀駅での集合風景です。 駅の建物の左端に設置された郵便ポスト傍の壁面内側には、左のような立体感を感じる忍者絵が描かれています。そればかりではありません!! 甲賀駅の構内通路の天井に忍者現る! さすが、甲賀の里の駅です。 通路の壁面、階段のフロアー壁面にも忍者シーンが描かれています。このアイデア、遊び心が楽しいですね。かくれ里、甲賀忍者・甲賀武士の里に来たなというインパクトがあります。観光客へのおもてなし!午前10時に甲賀駅集合。梅垣城跡・大原城跡・上野城跡・公方屋敷跡・山岡城跡を巡って、午後4時に油日駅をゴールとする行程です。途中、上野ふれあい広場で昼食休憩、その折りに地元で捕獲の鹿肉バーベキュー賞味というオマケ付きでした。滋賀県内には戦国時代から江戸時代に築かれた城跡が1300カ所あるとされているようです。そのうち甲賀市地域には180カ所の城跡が既に確認されていて、開発などで消滅しているものを含めると200近くの城があったのではないかと推定されているのです。それは、甲賀武士が同族集団などが集まって小規模な地域連合を組むという「甲賀群中惣(ちゅうそう)」という独特の自治連合組織のような仕組みを形成していた結果のようです。小地域に居城を構えた独立心の強い甲賀武士たちが共和的な連合に参画する形の組織体を築いていたのです。それが小規模の城跡の数の多さに現れているようです。(資料1) 駅の傍には、甲賀市甲賀町全体の観光スポットを表示したこの案内板が設置されています。部分図にして拡大してみます。番号17が梅垣城跡、番号19が公方屋敷跡になります。 駅前の通りを抜けしばらく歩いていて電信柱に見かけた忍者小僧。小学生の通学路になっているのでしょう。6月初旬、路傍には花が咲き乱れていました。 「薬師橋」の傍にも忍者小僧!橋からの眺め。たぶんこれは杣川だったと思います。 少し先で、天台宗「向陽山龍福寺」の傍を通ります。お寺の石標の背後に見える看板は「ささゆりの里づくり」と記されています。看板に書かれたメッセージは「滝区民は、ササユリが咲き乱れる里づくりをめざしています」(滝区水とみどりを守る会)です。この探訪では、咲き乱れるササユリを観覧することができました。6月の季節にぜひお出かけください。道路から眺めた梵鐘は昭和中期のまだ新しいものですが、鐘の浮彫図柄にひかれます。龍福寺は、当日いただいたリーフレットの甲賀町散策ルートマップでは、「仏の里を巡る(2)」として、ルート2で紹介されているお寺です。本尊は薬師如来坐像(平安後期の作)だそうです。(資料2)今回は残念ながら素通りです。 水田風景と花を眺めながら、「梅垣(めいがき)城跡」にアプローチします。道路で見かけたマンホールの蓋。ここにも忍者が登場していて、地元のシンボルとしておもしろい。 この梅垣城跡近辺で、ササユリをたっぷり観覧できました。 もちろんそれ以外の花々も・・・・。 梅垣城遺跡への登り口に建てられていた駒札と当日戴いた資料から切り出した縄張り図です。資料には『甲賀市史7巻 甲賀の城』に掲載されている縄張図を引用されていました。その孫引きという次第です。(資料1)この城跡は多喜氏の居城と伝わっているとか。 方形の敷地を高い土塁が囲むという比較的小規模の山城です。単郭方形の城館。滝地区中出集落の南方丘陵上に立地していて、城は北東に延びる丘陵先端部を切り込んで築かれていたようです。 地元の方々が、郭内の土塁の雑草などの除去作業をされていました。遺跡の維持保存に取り組んでおられる様子が窺えました。この後、「大原城跡」に向かいます。つづく参照資料1)「『かくれ里』ササユリ・トキソウの魅力と甲賀武士ゆかりの城跡を巡る」 油日駅を守る会 作成2)「歴史と文化を巡る 甲賀の里」 製作 大原自治振興会 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺ササユリ[笹百合] :「みんなの花図鑑」ササユリ :ウィキペディアトキソウ :ウィキペディア甲賀郡中惣 :「コトバンク」甲賀郡中惣遺跡群 :「文化遺産オンライン」甲賀郡中惣と甲賀五十三家 :「戦国浪漫」龍福寺・木造薬師如来坐像 :「甲賀町の文化財」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -2 甲賀郡中惣とは、大原城跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -3 長福寺、極楽寺、上野城跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -4 公方屋敷跡、山岡城跡 へ
2017.12.15
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大徳寺からJRびわこ線の踏切を渡って「妙啓寺」の手前を右折して、望湖神社に向かいます。妙啓寺は日蓮宗のお寺で、山号が「統一山」です。平成26年現在の資料(53寺)によると、能登川地区にある唯一の日蓮宗のお寺です。(資料1)能登川港局(郵便局)、大徳寺、妙啓寺、望湖神社、繖峰三神社の位置関係はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。 望湖神社の石鳥居と石標 鳥居のすぐ前に、狛犬が置かれています。左の狛犬像の近くに、「柳瀬観世音大菩薩」と刻された石標も建てられています。石段の参道は山腹を上る坂道となります。参道を上り始めると、「柳瀬観世音大菩薩」の石標が再びあり、参道の左に分かれ道があります。まずはこちらを上ってみました。玉垣で囲われた小社があります。これがその観音を祀るお堂のようです。説明板は見あたりません。「柳瀬」は地名をさしているのでしょうか? さらに坂道を上っていくと、まるで京都・清水寺の舞台のような基礎構造の建物が目に入ります。 拝殿拝殿の手前に架かる石橋は興味深いことに、大浜神社の鳥居の前に架けられた石橋と同じです。 幣殿 幣殿の木鼻、蟇股、兎毛通の装飾彫刻は大浜神社と同様に、こちらも割合シンプルです。 本殿 二間社流造、間口二間、奥行二間の建物です。大浜神社のところで触れていますが、古くは多武大明神と称された神社です。祭神は藤原鎌足。建久4年(1193)4月、大和多武峯(とうのみね)から当地に遷座されたと伝わっているそうです。多武峯といえば、有名な談山神社が所在するところです。 (資料2)また「伊庭に藤原氏の所領があり、鎌足公や淡海公(不比等)らが釣糸を垂れた地という由緒」(資料3)を伝えているそうです。もと伊庭庄の産土神の一つで、最初は伊庭の北、古大明神の地にあったという文書が史料として残っているようです。(資料3)調べてみると、現在も「望湖古宮(ぼうこふるみや)神社」が、伊庭町779に所在します。「望湖神社が現在地に遷られる前の旧跡で土地の人望湖神社の御神徳を慕い一宇を建立したものと考えられる。」とされています。(資料4)「棟札によれば慶長6年(1601)12月徳永寿昌により現在地に移され、元禄4年(1691)幕府代官金丸又左衛門のとき社殿を改築、天保4年(1833)修造を加えた」(資料3)という経緯があるそうです。 本殿の木鼻や蟇股の彫刻はかなり装飾が施された彫り物です。大浜神社のところで触れていますが、この望湖神社には、伊庭庄内の4宮座のうち、森村座が属していたそうです。森村座は左右二座に分かれ、伊庭4座の根本だったという伝えがあるそうです。「森村座記録」が社蔵されているといいます。(資料3,5)文禄・慶長期には、徳永寿がこの能登川地区に深い関わりをもっていたようです。 *大浜神社の本殿造営について、慶長13年(1608)に願主となったという記録 *能登川村は文禄3年(1594)の屋敷割で成立したとされること。 このときに、能登川湊の整備も同時に行ったものと考えられているそうです。 付近一帯に、徳永寿昌の事績がつたえられているといいます。 *慶長6年12月の望湖神社の移転徳永寿永という武将は、出身地に諸説があるようですが、近江国神崎郡の出身というのもその一つです。豊臣秀次付きの家老の時代に、「秀次所領の、近江能登川の用水を整備した記録が残る」そうです。秀次失脚事件の折にはうまく立ち回ったようで、「秀次の妻子を自らの屋敷に捕縛・軟禁する役割を務めた」といいます。慶長3年(1598)には、徳川家康の命令を受け、朝鮮からの日本軍撤兵を伝える使者の一人となっているそうです。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、奮戦した諸大名の戦功を調べ論功行賞を検討する役目も務めたといいます。最後は美濃高須藩初代藩主となっています。1612年享年54歳。(資料6)ちょっと脇道に入り込みました。元に戻りましょう。さて、境内には、能登川地区の文化財一覧に載っている対象物があるのです。 それがこの石灯籠。花崗岩製の六角形の燈籠です。 一番下の基礎には六角形の石の側面に蓮の花模様や格狭間が彫り込まれ、反花が刻まれています。そして棹の中央・節の部分が三重の突帯として太く掘り出されています。笠の蕨手の形状が素朴な表現にとどまります。14世紀、南北朝時代の特徴がよく表現されているといわれる燈籠です。(資料5,7)この春日燈籠一基は、「慶長の遷座の際多武峯から一対の一方を祝いとして送られた。南北朝中期の逸品という」(資料3)とも言われています。 境内には、こんな石灯籠も奉納されています。左の石灯籠と上掲の石灯籠を対比していただくと、その差異がわかりやすいと思います。格狭間はわかりづらいですが、反花の造形、棹の節の表現、笠の蕨手などに時代の差異が表れています。火袋の造形もかなりの違いが見受けられます。右の石灯籠は、蓮華寺形燈籠に近いスタイルです。その変形でしょうか。(資料8)最後に、「望湖神社」という社名ですが、明治初年に改名されてこの社名になったそうです。尚、「社名は当地に盛んだった梵語踊とよぶ祭事から転じたという説がある」のだとか。梵語踊って・・・どんな踊りの祭事だったのでしょうか? 梵語はサンスクリット語のことですよね。真言を称えながら踊るという意味合いでしょうか・・・・。ネット検索してみましたが、何もヒットしませんでした。興味が湧きます・・・・。今回の探訪では立ち寄ることが出来ませんでしたが、妙啓寺のところから道路沿いに北方向に行けば、「伊庭御殿跡」があります。大昔に一度その傍をウォーキングした記憶があります。 大徳寺本堂の側面を眺め、川幅の狭い「本願寺橋」を渡り、「ここは泉台」という簡単な道標を眺めて、再びJRの踏切を横断して、能登川駅に戻りました。これで、能登川西部の探訪を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『能登川の歴史 ダイジェスト版』 東近江市史 編集/能登川の歴史編集員会 「現在の寺院・山号一覧(平成26年現在)」 p1052) 望湖神社 :「滋賀県神社庁」3) 『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』 平凡社4) 望湖古宮神社 :「滋賀県神社庁」5) 龍谷大学REC 当日の配付資料レジュメ 「近江の歴史散歩35 ~能登川西部を歩く~」(非常勤講師・松波宏隆氏作成)6) 徳永寿昌 :ウィキペディア 徳永寿昌 :「年表で見る戦国時代」7) 文化財一覧 :「東近江市」 有形文化財(工芸品)の一覧参照8) 蓮華寺(京都市左京区) :ウィキペディア 兼六園 蓮華寺型灯籠 :「4travel.jp」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺望湖神社本殿 県文化財指定 :「報知新聞」談山神社 :ウィキペディア談山神社 公式サイト伊庭御殿遺跡 :「文化遺産オンライン」伊庭御殿跡(滋賀県東近江市伊庭町) :「日本史研究会 日々の徒然(埋もれた歴史を訪ねて)」伊庭御殿遺跡と朝鮮人街道 東近江市の遺跡シリーズ18 pdfファイル東近江市の遺跡シリーズ(リーフレット) :「東近江市」 目次ページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -1 光照寺・八宮赤山神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -2 弘誓寺・能登川博物館・上山神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -3 大浜神社、仁王堂、智恵の文殊堂、大徳寺ほか へ
2017.12.14
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能登川博物館、上山神社のある山路から伊庭に向かい、水田地帯の間の道路を進みます。水田の中に小さな杜になったところが所々でみかけました。ここもズームアップして眺めると、樹木の間には小さな社がみかけられます。 瓜生川に架かる橋の手前から伊庭町に入って行ます。左は東の方向の景色です。地図を見ると、猪子山・繖山などの眺めだと思います。猪子山には猪子山古墳群があり、また繖山の西麓には最後に訪れる望湖神社が所在します。橋を渡った近くに伊庭の標識があり、それには能登川地区のシンボル、水車が描かれています。最初に触れていますが、伊庭内湖には巨大な水車や水車資料館があるのです。伊庭の集落は町内を貫通する瓜生川の自然堤防上に形成されたそうです。中世には「伊庭城」があったところ。小字名に「城」「西殿」「東殿」などが残っているそうです。今回は伊庭城跡に立ち寄ってはいませんが、伊庭城があったと推定される場所に、現在は区事務所と謹節館と呼ばれる区の集会所が建てられているそうです。(資料1)今回訪れた大浜神社、仁王堂などの位置から西方向に数百mの距離のところが伊庭城跡です。大凡の位置関係をご理解いただくためにネットの地図(Mapion)から切り出して引用します。大きな赤丸を付けたあたりが伊庭城跡のようです。こちらの地図(Mapion)に記載の「伊庭区事務所」で位置をご確認ください。伊庭町のメインの道路を南東に進むと、薬師寺の前方、道路脇に大きな石仏が見えます。地蔵菩薩坐像でしょうか。その東にいくつか見える鳥居は地図で確認すると「折玉大明神」への参道です。その少し先のオープンな広い空間の奧に見えたのが「大浜神社仁王堂」です。 その空間の先に「大浜神社」と「愛宕神社」(境内社)の石の鳥居が見えます。道路と大浜神社境内の間には小ぶりな石橋が架けられています。まずは「仁王堂」から拝見しました。5間X5間の入母屋造、茅葺きの建物です。壁が外されていて、今は神輿安置所となっているそうですが、本来は仏堂だったとか。(資料2)近づいて見ると、壁や天井板がないために、建物の構造がよくわかります。 説明板によれば、「仁王堂は柱間寸法が完数であること、柱間の造営尺が現尺より短いこと、垂木割が六枝掛になっていないことなど技法的に古式な要素がみられ、鎌倉時代前後の建立と推定される」そうです。また、鎌倉時代の主要部材が良く残っているそうです。本来の仏堂が転用されたのは、これも廃仏毀釈の影響でしょうか。今は絵馬堂の役割も果たしている様子がわかります。 仁王堂の東に、大浜神社の本殿-幣殿-拝殿-石鳥居が一直線上に並んでいます。幣殿の後に本殿があるため、このアングルからは撮れませんでした。幣殿側から見上げた拝殿の格天井。格天井の中央を凹ませた折り上げ格天井の様式になっています。ちょっと格式が高そうな印象を与えます。たとえば、二条城の大広間の一の間は二重折り上げ格天井の様式になっています。この一の間は将軍が座る部屋です。(資料3)祭神は牛頭天王(須佐之男命)伊庭庄内には宮座組織が構成され、浜村座・森村座・中村座・新村座の四座があり、明治期まで存続していたそうです。伊庭庄は現在の伊庭、能登川、北須田、安楽寺の4邑をさします。浜村座が大浜神社に属したとか。大浜座とも称したそうです。森村座は後で訪れる望湖神社に属したといいます。「各宮座は田畑を所有し、郷頭(ごうず)・大人・神役を決め運営していた」(資料4)そうです。(資料4,5) 幣殿本殿には、前身の本殿造営に係る「文明3年(1471)伊庭貞隆の造営とする棟札がのこる」(資料2,4)そうです。「下って文禄3年(1594)10月、慶長13年(1608)3月には徳永寿昌が願主となっている」(資料4)のです。 幣殿の左隣にある「道祖神社」(境内社) 幣殿の前の狛犬の表情がおもしろい。 幣殿の建物の向拝の蟇股とその上部の笈形は割とシンプルな造形ですし、木鼻もまたバランスよくシンプルなものです。境内には、「伊庭坂下し祭」の説明板があります。繖山(支峰・八王子)の山頂には「繖峰三(さんぽうさん)神社」が鎮座します。この山頂から神輿を麓まで引き摺りおろす春祭で、近江の奇祭のひとつに数えられているそうです。繖山の山麓に位置する望湖神社とこの大浜神社の三社が一緒に行う例祭なのです。山頂より神輿を下ろすので「坂下し」と称されます。伊庭祭に唄われる歌として、こんな歌詞が紹介されています。 伊庭の祭を一度は見やれ 男胆つく坂下し あれを見やんせあれ二本松 神輿おどらす谷の底 飲めよ歌えよ一寸先は闇よ 明日にわからぬこの命毎年5月4日に行われるお祭りだそうです。江戸時代に出版された『輿地志略』の伊庭村の項には、伊庭山の峰頭に八王子社が鎮座し、祭る神は坂本日吉社の八王子神と同体なりと記され、同山麓に多武大明神社があり、伊庭山の麓七八町に牛頭天王社があって、祭る神は素戔嗚尊で、山城国祇園牛頭天王と同体なりと記されています。この牛頭天王社が伊庭荘中の産土神であるとも記しています。つまり、伊庭山が今の繖山です。八王子社が現在の繖峰三神社、多武大明神社が望湖神社になります。牛頭天王社が大浜神社なのです。また、社記によれば、大浜神社はもと古天王と呼ぶ所から文禄3年(1594)に現在地に遷座したと言われています。(資料4,5,6) 大浜神社の石鳥居の前にある境内への橋かつては、ここに水が流れていたのでしょうね。 道路を隔てた反対側に、「智恵の文殊堂」があります。「中村文殊堂」とも称するようでう。お堂の中の小祠には、役小角が彫ったと伝わる智恵文殊大菩薩が安置されていると言われています。(資料7)智恵の文殊堂に近い場所に、「妙金剛寺」の本堂が見えます。今回は近くで本堂の建物を眺めるだけに・・・・。ここは現在は浄土宗のお寺です。「創建期は華厳宗で、天台に移り、文明2年(1470)に転宗したとされ」(資料2)、本尊の阿弥陀三尊像は、定朝様だが鎌倉時代の様相もみられる仏像だそうです。上掲に引用した部分地図で分かりますが、伊庭町から能登川町に入ると、「能登川港局」という郵便局が道路沿いにあります。能登川地区には「能登川」という川は存在しません。琵琶湖舟運の湊の一つとして、「能登川湊」があり、この「能登川」なのです。この郵便局の名称にかつての歴史の名残が残っているようです。これは今回の探訪で、目からウロコの一つでした。「湖東地方の年貢米輸送や湖西との物資輸送に利用された。守護代伊庭氏の本拠に近いことから、中世以来伊庭庄の外港として機能していた可能性がある」(資料4)ということです。つまり、このあたりの地形は現在ではちょっと想像できませんが、かなり地形が異なっていたのでしょう。明治7年(1874)に郵便局設置、明治20年に太湖汽船支社設置の頃までは、能登川湊は賑わいが続いていたといいます。明治22年の東海道線の開通に伴い、能登川湊が衰退して行くのです。(資料4)内湖の干拓が始められたのは第二次世界大戦から戦後にかけてだったのです。滋賀県での内湖の干拓が始まったのは昭和19年(1944)からだったのです。大中の湖の干拓は昭和21年の「緊急食糧増産計画」に基づき、国営事業として行われるようになったのです。内湖の干拓推進が、この能登川地区の地形の様相を大きく変貌させたといえそうです。(資料8)県道2号線の「能登川」交差点を横断し、東に向かい、「大徳寺」を訪ねます。 道路傍に「臨済宗妙心寺派 大徳寺」の石標が立ち、道路から奥まった位置にお寺が見えます。山門に向かって左には「東嶺禅師授業寺」という大きな石碑が建てられています。正式には「大徳禅寺」なんでしょうね。大きな表札にそう記されています。山号は「長福山」です。 山門を入ると石畳の参道が曲折しながら続いています。左の参道に折れると、「正一位玉光稲荷」の扁額が掛けられた稲荷社に参る道です。 参道の右側には十三重塔が建立されています。 本堂本尊は聖観音菩薩立像。一木造で、衣文は浅めの彫り。12世紀の造立と推定されているようです。毘沙門天立像も安置されています。こちらは、体幹部が一木造で平安後期の特徴を持つ仏像ということでした。堂内で写真が撮れなかったのが残念です。調べてみると、大徳寺のホームページがありました。本尊が紹介されています。こちらのページをご覧ください。本堂は、裳階がついた形式の建物ということになるのでしょう。明治期に本堂が落雷で灰燼に帰したのです。その後明治33年(1900)に再建事業に着手し、大正5年(1916)に本堂に還仏式を行い、現在に至るとか。この大徳寺は応安2年(1369)、東福寺の大方現用による開基と伝わり、戦国時代の争乱で衰退します。創建当初は臨済宗東福寺派のお寺。「佐々木一族で伊庭の庄修理太夫和幸が大檀那だった」(資料9)といわれるそうです。延宝4年(1676)、妙心寺派の密雲祖印により再興されたのです。密雲は師匠の香山祖桂禅師を勧請中興開山としたとのことです。山門の左前に、東嶺禅師という名がありましたが、享保14年(1729)に東嶺が剃髪した由緒地がこの大徳寺だったのです。東嶺円慈(1721~92)は、白隠禅師から29歳で印可を受け、白隠の法を継いだ高弟として知られる禅僧だそうです。「その生涯を日本臨済禅の復興に捧げられた」人物だとか。(資料9)「東嶺円慈について」(「大徳寺」HP)は、こちらをご一読ください。本堂に入った時に目に止まったのが、貼られていた一枚の紙。「延命十句観音経」と書かれています。ご住職にいずれかのお経からの引用なのかとお尋ねしたら、これで一つのお経ですということでした。事後学習で知ったのは、ふつう「十句観音経」と略称されて親しまれているお経でした。知らなかったのは、私だけ・・・・かな?短いので、経文をご紹介しておきましょう。 観世音 南無仏 かんぜおん なむぶつ 与仏有因 与仏有縁 よぶつういん よぶつうえん 仏法僧縁 常楽我淨 ぶっぽうそうえん じょうらくがじょう 朝念観世音 暮念観世音 ちょうねんかんぜおん ぼねんかんぜおん 念念従心起 念念不離心 ねんねんじゅうしんき ねんねんふりしん白隠禅師はこのお経を坐禅のように背筋をのばした姿で称えることを勧めていたそうです。このお経は比叡山の霊空光謙(1652~1737)によって世に知られるようになったと言われるそうですが、詳細は不詳です。(資料10) 地蔵堂と鐘楼地蔵堂には石像の地蔵像と両脇に仁王像が安置されています。像台座には宝永2年(1705)5月の銘があるとか。鐘楼の建物は昭和16年(1941)に建造されたものですが、梵鐘は天保13年(1842)3月に鋳造された作で、170余年の時を経ているそうです。(資料9)地蔵堂には絵入りのこんな扁額が掛けられています。中央の高い所にいるのは閻魔様でしょうね。その右横には、地蔵菩薩が描かれています。能登川地域にも、「六地蔵めぐり」があり、大徳寺の地蔵尊は第5番だそうです。 能登川に入りかふ船はのちの世の 室津へ渡たる此のなの庭「能登川の六地蔵めぐり」は、 1)興福寺(今)、2)長勝寺(長勝寺)、3)正瑞寺(下日吉)、4)地福寺(佐野) 5)大徳寺(能登川)、6)地蔵堂(躰光寺)です。 京都の六地蔵めぐりは有名ですが、大津の坂本でもみかけました。能登川にもあるのですね。地蔵信仰は広く流布していますので、他にも各地にあるのでしょうね。この後、望湖神社に向かいます。つづく参照資料1) 近江伊庭城(別名 伊庭陣屋):「近江の城郭」2) 龍谷大学REC 当日の配付資料レジュメ 「近江の歴史散歩35 ~能登川西部を歩く~」(非常勤講師・松波宏隆氏作成)3) 二の丸御殿 大広間 :「いこまいけ高岡」 天井構法 :「Interior zukan」4) 『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』 平凡社5) 大浜神社 :「滋賀県神社庁」6)『近江国輿地志略. 下(巻49至100)』 :「近代デジタルライブラリー」 84コマ目です。7) 中村文殊堂様の縁起 :「江州日記」8) 『能登川の歴史 ダイジェスト版』 東近江市史 編集/能登川の歴史編集員会9) 大徳寺 ホームページ10) 十句観音経 :ウィキペディア 延命十句観音経の話 :「瑞雲院法話のページ」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺伊庭氏 :ウィキペディア伊庭氏 :「戦国大名探究」伊庭の坂下し祭 :「滋賀・びわ湖 観光情報」伊庭の水郷・東近江市伊庭町 :「滋賀文化のススメ」(滋賀県)伊庭景だより Vol.1 京都大学大学院景観設計学研究室湖辺(みずべ)の郷 伊庭 魅力ある風景を未来へ :「東近江市」 景観形成重点地区「折り上げ天井」について知りたい。 :「レファレンス共同データベース」伊庭の坂下し祭・東近江市伊庭町 :「滋賀文化のススメ」ひがしおうみ健康ウォーキングマップ 水車コース(能登川地区) 作成 東近江市体育指導委員協議会曹洞宗のお経 延命十句観音経 音声再生 :「曹洞宗東海管区教化センター」垂木 :ウィキペディア第5回 木割の話 「堂」の種類と木割 河田克博氏非六枝掛建築における垂木割と組物に関する設計論的研究 濱田晋一氏 論文宮座 :「コトバンク」宮座 :ウィキペディア能登川地区の中世城館 東近江市の遺跡シリーズ17 pdfファイル ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -1 光照寺・八宮赤山神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -2 弘誓寺・能登川博物館・上山神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -4 望湖神社 へ
2017.12.14
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躰光寺集落の北に「弘誓寺(ぐぜいじ)」があります。ちょっと城館的な雰囲気の外観すら漂わせるお寺です。 こちらもお寺の建物なのです。今回は山門(表門)と境内の入口あたりでお寺を拝見するに留まりました。浄土真宗本願寺派のお寺で、山号が「石畠山」。江戸時代には神崎郡内に二十余の末寺・道場をもつ中本山だったそうなので、この寺の表門と境内の規模を見て、なるほどと思いました。(資料1,2)まずは、この表門を拝見しましょう。江戸時代後期に建立された大型の四脚門です。 門の内側上部は、鳥害除けでしょうかネットが張られていて少し見づらいですが、大凡の感じは把握できます。「弘誓」と記された扁額が掛かっています。頭貫の先端の木鼻は門扉その他の装飾彫刻からすると、シンプルすぎて意外な感じもします。しかしそのコントラストがまたおもしろいところです。 本柱の頭貫とその上の扁額が掛けられた虹梁との間には、向き合う二頭の龍が透かし彫りされています。なかなか迫力を感じさせる龍です。 門扉の上半部は緻密な菊文様の透かし彫りが豪華に施されていて、二つの図柄が微妙に異なるのです。よく観察すると、扉を閉じたときに、その図柄が左右対称になる形で彫り込まれているようです。 門の本柱と門扉の柱との間にも、植物文のレリーフが施されています。勿論、本柱と控柱の間にできる側面も上半分には豪華な透かし彫りが施されています。そして、その下端の柱の先も、木鼻があり、こちらは頭貫の木鼻以上に簡素な形にとどめられています。こちらもよく見ると、上部の木鼻とは造形が異なります。意識的に変化を持たせているのでしょう。 表門屋根の軒丸瓦には、少し複雑な文様が陽刻されています。本願寺派の宗紋ではなさそうなので、この弘誓寺の紋なのかも知れませんが、不詳です。各所の屋根には、獅子の飾り瓦が置かれています。軒丸瓦でもう一つ使われていたのが三つ巴です。本堂は表門内側あたりから、遠望しただけですが、大きなお堂です。本尊は阿弥陀如来像。この弘誓寺は躰光寺に所在するのですが、古くから「小川弘誓寺」として知られ、近江七弘誓寺の一つだそうです。そして、現在五個荘町に所在する「金堂弘誓寺」とは寺基を同じくするお寺だとか。慶長期(1596-1615)あるいはそれ以前に分立したそうです。もともとは、「本願寺第三代覚如の関東布教で帰依した愚咄(ぐとつ)が14世紀はじめに瓜生津に弘誓寺を建立した」(資料1)ことに始まるようです。後に、犬上郡石畠(現在の豊郷町)に移ったとか。そして、「天保下寺帳に正応3年(1290)の草創、開基愚咄、小川御抱寺弘誓寺」(資料2)と記録があるようです。山号の「石畠山」は一時期、石畠にお寺があったことに由来するのでしょうか。金堂弘誓寺蔵の那須系図によると、「14代正定のときに小川と金堂に分立し、正定の次男善次を小川弘誓寺の祖としている」(資料2)という記録があるそうです。因みに、金堂弘誓寺は浄土真宗大谷派に属するお寺。また、弘誓寺を開基した愚咄は、那須与一(なすのよいち)の嫡子(ちゃくし)だそうです。(資料3)弘誓寺の所在するのは躰光寺町です。この躰光寺、かつては京都青蓮院(しょうれんいん)付属の躰光寺という寺院があったという伝えがあるそうです。(神崎郡志稿、資料2)躰光寺村という名称はそこから由来するのでしょう。弘誓寺を後にして、向かったのが「能登川博物館」です。 躰光寺川に架かる躰光寺橋をわたります。 そのさきに、「びわこよし笛ロード」と称される道路が見えてきます。このガイドマップが建てられています。この道路を横断した先に建物が見えます。 能登川博物館こんな施設ができていることを知りませんでした。平成9年(1997)11月に、総合文化情報センター(図書館・博物館・埋蔵文化財センター)が竣工したことによる建物です。(資料4)参照している資料はここで購入しました。 博物館の前から伊庭内湖のある方向の眺めこの道路の向こう側の水田は、道路の髙さと比べてかなりの段差があります。かつてはこの水田あたりも、伊庭内湖の一部だったようです。「16世紀以降の愛知川河口の土砂と湖岸流によって砂州が形成され、琵琶湖と切り離されて内湖ができました。これが大中の湖です」(資料4)その南側に、伊庭内湖・安土内湖・西の湖が繋がりながら形成されていたのです。大中をはじめ、それらの水域の干拓が進展していき、現在に至るということになります。信長が築いた安土城はまさに琵琶湖の水運を直接に利用できる水城的な機能を合わせ持った戦略的位置にあったのでしょう。博物館の展示品を見てから、埋蔵文化センターの入っている建物の方の庭部分を見ながら移動します。 最初に目に止まったのがこの顕彰碑 「宗祇顕彰碑」 宗祇の名前は昔覚えた記憶にありましたが、それ以外にはほとんど知りませんでした。手許の本を参照すると、連歌形式は万葉の時代に発生していたそうです。和歌の上の句(5・7・5)と下の句(7・7)を別の人が作るというもの。平安時代に貴族の遊びであったものが、庶民の間に広まっていきます。14世紀前半には、「花の下連歌」と呼ばれたのです。応仁の乱を境に、難を逃れる連歌師が都を離れ、地方に連歌文化を伝播する役割を果たすことになります。南北朝期の連歌界の指導者は「救済」(1282?-1376?)で、その弟子が「二条良基」(1320-1388)です。二条良基が『菟玖波集(つくばしゅう)』を編纂します。室町期に「心敬」(1406-1475)が連歌論『ささめごと』を著します。この心敬に少し遅れて同時代人として登場したのが「宗祇」(1422-1502)だったのです。その宗祇は近江で生まれた人だったようです。由緒の説明碑には、学者の研究により父方が伊庭氏の出自、母方が摂津細川管領家の被官飯尾氏の出身と解明されたそうです。宗祇はそれまでの「無心連歌」(滑稽を主とするもの)から、和歌に通じる情趣を重視する「有心連歌」を大成する連歌師になったのだとか。宗祇は『吾妻問答』という連歌論を著し、準勅撰集の連歌集『新撰菟玖波集』を選んだのです。(資料5)「無心連歌」から「有心連歌」へ。それが下地になって、近世にはふたたび「おかしみ」を求める俳諧の連歌に展開されていきます。その「おかしみ」を求める世界から脱皮して芭蕉の俳諧が創造されていく・・・・のですね。芭蕉も近江には縁の深い人です。ネット検索していて、宗祇の略歴をわかりやすく年表化されているサイトに出会いました。こちらをご覧ください。大変参考になります。 (「創作ノート 連歌師、宗祇の略歴」:「酔雲庵」[井野酔雲氏] )「漂泊歌人」と呼ばれる由縁もよくわかります。また脱線しました。探訪に戻ります。 埋蔵文化財センターの建物の方からみた博物館への入口と施設案内図 上記案内図の陰になっている復元物 上日吉古墳群2号墳(建部北町) 横穴式石室 移築復元埋蔵文化財センターの前にある緑の杜が「上山(こうやま)神社」です。 境内に入ると、一隅に石柱が建てられています。近づいてみると、「神武天皇遙拝所」と石柱に刻されています。伊勢神宮を遙拝する場所というのは、神社で時折見かけます。これは「何処を」ということが明確に方向・地点として理解できるのですが、「神武天皇」というのは何処を対象にしているのでしょうか? 唐破風屋根のついた拝殿 唐破風屋根の棟の側面の瓦の装飾彫刻と正面の鬼板部分の装飾彫刻があまり見かけることのない特異な造形です。興味をそそられます。鬼板の部分には、牛と牛車および従者が彫刻されています。こういう装飾が施された意図は何でしょうか・・・・。蟇股には2体の小動物が彫刻されています。一見、うさぎにのようにも見えます。 本殿を囲む斜め格子窓のある板塀と正面の門の扉で、本殿そのものはよく見えません。扉の頭貫の上の部分は透かし彫りの彫刻が全面に施されています。本殿は三間社流造、間口二間、奥行一間五尺です。「右脇陣に14世紀造立と指定される阿弥陀如来坐像を、左脇陣には江戸時代造立の如来像(釈迦か)を安置する」(資料1)とか。また、社宝として大般若波羅蜜多経600巻を蔵されていて、その識語には「西近江の比良天神の御経」とあるそうです。(資料4)朱雀天皇の天慶4年(941)創建と伝えられているようです。「高嶋郡比良の山辺より光物が湖上を東へ渡御し、その途中山路に着任され鎮座となる」と古文書に記されているとか。菅原道真が敦賀の気比神宮に来向のおりに、この神社を参拝されたことから、その尊霊を配祀されることになったそうです。(資料6)祭神は、天常立命と菅原道真公。配祀神が天穂日命です。(資料6) 本殿・向拝の木鼻はしっかりと象が彫りこまれ、蟇股の一つには鳥が彫刻されています。本殿正面の門の屋根の獅子口と軒瓦には、神紋の梅鉢が使われています。近世には天神社として尊崇されていたというのがうなずけます。そうすると、上掲鬼板の牛車は菅原道真がこの上山神社に立ち寄ったということに関連する場面を表すのかも・・・・そんな想像が広がります。「古くは若宮天神とも称し、六角氏の拠点観音寺山の鎮守として尊崇された」(資料2)、また「山路町の上山神社は、江戸時代に上山天満天神社から分祀された神社です」(資料5)という説明もあります。尚、調べてみると、「上山天満天神社」は東近江市猪子町に所在します。祭神は「天常立命、菅原道真公」であり、神紋は「梅鉢」です。(資料7)上山神社は山路町にあります。中世には山路城とよぶ城館があったところだそうです。その城館跡が核となって形成された集落です。「大洞弁天当国古城主名札」には山路平兵衛を城主とするという記録があるとか。また、慶長期の史料では、山路湊があり、丸子船を運用していたようです。彦根三湊の一つ、松原湊の出湊と位置づけられていたとか。(資料2)干拓が進んだ後の現地形からは、この近くが湊であったなんて、ちょっと想像が及びません。 新山路川橋を渡り、伊庭(いば)に向かいます。つづく参照資料1) 龍谷大学REC 当日の配付資料レジュメ 「近江の歴史散歩35 ~能登川西部を歩く~」(非常勤講師・松波宏隆氏作成)2)『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』 平凡社 p653-6543) 五個荘金堂町 :ウィキペディア4) 『能登川の歴史 ダイジェスト版』 東近江市史 編集/能登川の歴史編集員会5) 『クリアカラー 国語便覧』 監修:青木・武久・坪内・浜本 数研出版 p676) 上山神社 :「滋賀県神社庁」7) 上山天満天神社 :「滋賀県神社庁」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺弘誓寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」近江七弘誓寺霊場 所在地 :「木の村・コレクション」滋賀県 東近江市瓜生津町 弘誓寺五輪塔 :「石造美術紀行」宗祇 :ウィキペディア宗祇 千人万首 :「やまとうた」宗祇水(白雲水) :「岐阜県」宗祇法師集 データベース :「国際日本文化研究センター」大中の湖(だいなかのこ)・小中之湖(しょうなかのこ)の干拓(かんたく) :「東近江市」大中之湖干拓堤防、小中之湖干拓堤防 現況堤防高に関する整理資料 平成26年2月 滋賀県 土木交通部 流域治水政策室 天之常立神 :ウィキペディアアメノホヒ :ウィキペディア天穂日命の出雲降臨 :「古代史の復元」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -1 光照寺・八宮赤山神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -3 大浜神社、仁王堂、智恵の文殊堂、大徳寺ほか へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -4 望湖神社 へ
2017.12.13
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冒頭のこの画像は、JRびわこ線の「能登川駅」西口広場にあるモニュメントです。巨大な水車のイメージでしょうか。能登川町は現在は東近江市の一部になりましたが、水車が能登川町のシンボルなのです。「かつて能登川町では精米・製粉の動力として水車が利用され、水車は人びとの生活に身近な存在でした」(資料1)。そこでこの水車が能登川のシンボルになったのです。関西一の大きさ、直径13mの大水車と水車資料館が建てられています。(資料2)冒頭から脇道に入ってしまいました。2015年5月にREC講座「近江の歴史散歩35 ~能登川西部を歩く~」を受講し現地探訪をしました。既にご紹介した「東部を歩く」の続きということになります。そのときの記録をまとめたものをここに再録しご紹介したいと思います。(資料3)「東部を歩く」は、こちらから順次ご覧いただけるとうれしいです。 (「探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川東部を歩く -1 佐野天神社、地福寺、数多の地蔵石仏など」)能登川駅に集合して、この冒頭のモニュメントを見ながら、まずはタクシーに分乗して一旦、「阿弥陀堂」まで移動し、そこを実質的な起点として、能登川地区西部を歴史散歩することになりました。探訪先として直接訪れた箇所を中心に歩いた行路をまとめると、次のとおりです。 光照寺~八宮赤山神社~弘誓寺~能登川博物館~大浜神社~大徳寺~望湖神社~能登川駅午後の半日、約6kmの総行程を約4時間で歴史散歩するという学外講座でした。 「ちょこっとバス」のバス停「阿弥陀堂」のところに、「光照寺」があります。いただいたリーフレットには、「伝統の息づく阿弥陀堂 大佛様の村」と記されています。現在は阿弥陀堂町と呼ばれる地区の中心に位置します。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 上掲画像の右側にみえるお堂に祀られているお地蔵様能登川駅からは車で7分位、約4kmの位置です。数百メートル北には愛知川の堤防が見えます。 現在の本堂行基の開創により、もとは天台の大坊で光照寺と称したのですが、嘉永(1182年)と元亀(1570年)の二度の兵火で焼失したそうです。そのおり、本尊の阿弥陀仏像は堂が池に沈めて逃したと伝わっているのです。その後70年を経て池中より再び掘り出されたといいます。次のような話が伝えられているのです。(資料4)「むかし、わしらの村は、大洲村というて、阿弥陀堂とはいわなんだ。愛知川の下流で、琵琶湖へ流れる水といっしょに土砂がぎょうさん積もってなあ、大きな洲ができていたんで、大洲村というてたんや。 今から400年位前のことや。村の中に堂ヶ池という池があってなあ。 ある日、お百姓さんが一日の野良仕事を終えて、家へ帰ろうとして、その池のところまでくると、水面が美しゅうかがやいているんや。不思議に思うて、近くにいた数人のお百姓さんを呼んできて、みんなで池の中を探してみると、大きいそれはみごと仏さんがおいでになったんや。みんなびっくりしてしもうてなあ。さっそく、その仏さんのお堂を建てて、おまつりをするようになった。 その仏さんが阿弥陀さんやったんで、近在の人々はいつしか、『阿弥陀さんのお堂のある村』、『阿弥陀堂村』というようになり、それが字名になってしもうたんや」江戸時代初期に堂宇が再興されたそうです。浄土真宗本願寺派で山号は「親縁山」です。本尊は阿弥陀如来坐像。半丈六で禅定印をとり、12世紀後半の造立と推定される仏像です。 お堂の屋根に置かれた飾り瓦今までに見かけなかった形です。波を現しているのでしょうか。向拝の頭貫の木鼻はシンプルな造形です。 小さな境内ですが、その南端に、様々な石仏がびっしりと列をなして安置されているのは壮観ですらあります。この阿弥陀堂光照寺大佛は、法輪寺と来正寺という両寺で隔年交代でお守りされているそうです。近くの民家の庭の板塀越に見た花-5月14日に訪れたのです-が満開でした。 水田には苗が植え終わったところのようでした。水田の間の道をまず南西方向に進みます。北方向、愛知川を背後にして見えるお寺が、「川南浄土寺」で天台真盛派、山号は「圍繞山」です。本尊は阿弥陀如来立像で来迎像だそうです。こちらの本尊も12世紀の造立と指定されるそうです。この寺の東の森のようになったあたりに、中世には城館(川南城)があったそうです。(資料1,3)また、先ほどの光照寺の南西隣が現在は「新宮町」ですが、このあたりに「新村城跡」があるそうです。(資料3) 右折して南西方向に歩き、大同川に架かる「大溝橋」を渡ります。幅の狭い川です。水田地帯の中を流れ、伊庭内湖に流れ込みます。 川南町から小川町に入ります。ここは「小川城跡」「小川廃寺」があるところです。このあたりの川南・新宮・小川は中世の城館が核となって形成された村落です。『信長公記』巻四・元亀2年8~9月の記録に「志むら攻め干さるるの事」があります。ここに小川村や小川の城のことが記されています。(資料5)「八月廿八日、信長公、佐和山へ御出で、・・・・先陣は一揆楯籠り候小川村・志村の郷推し詰め、近辺焼き払う」。つまり、小川村・志村に一向一揆の人々が立てこもり、そこを信長軍が攻撃したのです。「九月朔日、信長公、志むらの城攻めさせご覧じ。・・・・頸数六百七十討ち捕る。これによって、並郷、小川の城主小川孫一郎、人質進上候て、降参申すの間、御赦免なさる」この時、信長軍は佐久間右衞門、中川八郎右衞門、柴田修理、丹羽五郎左衛門の4武将が四方より攻めたと名前が列記されています。小川城の落城です。信長は、9月3日には、常楽寺に滞留しています。この後、9月12日から、あの比叡山焼討ちが始まるのです。集落の中を進むと、「八宮赤山神社」の石標と参道が見えます。 参道を進むと、手水舎があり、祭神と由緒を記した碑が建てられています。祭神は宇多天皇の皇子・淳仁親王を祀るとされています。創立は不詳。昔は小川土佐守の守護神だったとか。「天正年中兵火に遭い悉く焼失し、僅かに祠廂のみ遺在したのを小川一円の産土神とする」ようになったそうです。(説明碑、資料6)尚、神社名に「赤山」とあります。一説には「近世には比叡山の守護神である赤山明神を勧請したともされる」(資料3)そうです。そうだとすると、「赤山」の由来がうなずけます。 拝殿 入母屋造、間口三間三尺、奥行三間拝殿の左には、「神庫」と扉の上方に記された建物が二棟並んでいます。 本殿 三間社流造、間口三間、奥行二間三尺 神紋は「長尾巴」です。(資料6)ここの木鼻もシンプルな造形です。上部が斗栱の組み物と一体化しています。これは手挟です。こちらも線彫りだけのシンプルさですが、力強さを感じます。 向拝の蟇股 本体の蟇股簡素ですがきりっとした彫り物です。「蟇股や木鼻など室町時代の様式がみられる」(資料3)といいます。 斜め格子の窓が嵌め込まれた瑞垣から内部を拝見していて、「浸水位之標」という石柱が建てられているのを発見。側面に刻された建立の年月から、明治に建てられたものです。湖岸に面する能登川地区でも明治以降に何度も洪水に遭遇しているようです。中でも、明治29年(1896)に明治最大の水害があったようです。「この水害により神崎・愛知両郡で浸水家屋3112戸、・・・・躰光寺村では1丈四寸(約3.2m)の浸水位を記録したとあり、このときの浸水位を刻んだ碑が小川町や伊庭町に残されています」(資料1)。本殿近くに建立されたこの石標もこのときの水位を歴史の記録に残すものなのでしょう。境内には、神紋と鳥を造形化した紋を組み合わせた奉納碑が目にとまりました。かなり広い境内です。私たちは脇参道から拝殿・本殿にアプローチしたようです。境内を去るときに見たこちらの鳥居が神社の正面でした。 石鳥居の近くに奉納されていた自然石を使った変形鳥居この後、躰光寺地区に向かいます。躰光寺町は、小川町の南隣りの地区です。ここに次回ご紹介する「弘誓寺」が所在します。つづく参照資料1) 『能登川の歴史 ダイジェスト版』 東近江市史 編集/能登川の歴史編集員会2) 能登川大水車 :「休暇村 近江八幡」 能登川水車とカヌーランド :「じゃらんネット」3) 龍谷大学REC 2015年5月 当日の配付資料レジュメ 「近江の歴史散歩35 ~能登川西部を歩く~」(非常勤講師・松波宏隆氏作成)4) 「親縁山光照寺」の案内 当日いただいたリーフレット5) 『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p1226) 八宮赤山神社 :「滋賀県神社庁」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺敦仁親王 → 醍醐天皇 :「weblio辞書」醍醐天皇 :ウィキペディア明治29年琵琶湖洪水 「水害情報発信-水害の記録と記憶-」 :「滋賀県」先人たちの知恵 [ごか] :「滋賀県」先人たちの知恵 [八宮赤山神社] :「滋賀県」赤山禅院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -2 弘誓寺・能登川博物館・上山神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -3 大浜神社、仁王堂、智恵の文殊堂、大徳寺ほか へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -4 望湖神社 へ
2017.12.12
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最終探訪地に行く途中、白鳥神社から少し先に、「本行寺」があります。種集落の北部に位置します。本堂を正面に見る山門は閉じられていて、右方向に「本行寺」石標があり、そのすぐ左側に開かれた門があります。普段はこちらが表門のようです。今回は境内を少し覗くだけで、通過点となりました。 本堂現在は浄土真宗本願寺派で、威徳閣と号し、本尊は阿弥陀如来です。もとは天台宗の寺。大永元年(1521)の草創で開基は西蓮坊教順とされています。この人は、佐々木盛綱の息男、種村盛重だったといいます。佐々木六角氏の分家、流れのようです。5代超順が西本願寺に末寺・宝物を上納し宗旨を変えたようです。宗順の代に本願寺准如から西游寺の寺号を許されたといいます。このときまでお寺が犬上郡河瀬にあり、寛永7年(1630)に寺基を現在地に移したようです。一方、本行寺というのは、本願寺12代准如が福井御坊の住持となった時に、本願寺顕如から付与されてしばらく称した寺号です。准如自身は天正16年(1588)12月下旬に本行寺から御児御所と改称したとか。本行寺の寺号は准如の息男准悟に譲られたと思われます。その准悟が没し、准悟の息男良従が寛文9年(1669)に現在地の西游寺に入寺して、本行寺の寺号を継ぎ改称したそうです。そして院家寺院となるのです。(資料1,2) 鐘楼と瓦の紋 この大川橋が架かる大同川は、中世に土豪種村氏の居館(種村城)があり堀として利用していたところだとか。今は民家が建っている辺りが「種村城址」だといいます。この種村城址から西に少し離れたところにも、種村氏の居館とされる「八仏手(やぶて)城址」があります。こちらは永禄5年(1562)に蒲生定秀が種村三河守を攻めて落とした城址だそうです。現地は見聞していません。「蒲生文武記」に記載があるようです。(資料1,2) 最後の探訪地は現在「法堂寺遺跡公園」になっています。「法堂寺廃寺」です。 左の画像の現在地表記のある地点から遺跡公園に入りました。廃寺跡は図で言えば公園の上側で西側地域になります。右の画像が南北の方位に合わせた廃寺建物群の配置図になります。遺跡公園の東から入った眺め。手前が学習広場(体験広場)と称されるスペースです。廃寺跡は歴史広場と称されていて、様々な写真転写の陶板パネルによる銘板碑が設置されています。その1つが「法堂寺廃寺跡の調査」です。ここは飛鳥時代後期からの瓦が出土し、平安末までは存続していたと考えられる寺院跡です。小字名で「法堂寺」という名称が使われていることから、昭和47年(1972)に白鳳時代の寺跡として町史跡に指定されたのです。平成6・7年に寺域確認のための試掘調査が行われ、ここを遺跡公園化する事業の前に、平成8・9年に発掘調査が実施されています。その結果、現在の伽藍配置などが発見されるに至ったそうです。そして平成10年6月に廃寺跡が滋賀県の史跡に指定されました。(説明文より)この廃寺ができるまで、できたとき、建て替えについての説明板もあります。この地からは縄文時代後期の土器や石器、弥生時代前期から古墳時代はじめ頃の竪穴住居跡や掘立柱建物跡、溝跡なども発見されたといいます。先にご紹介した中沢・斗西遺跡などと合わせて、近江湖東地域に最大級の集落があったことが判明したのです。法堂寺廃寺ができた時期は、出土瓦から西暦680年頃、奈良時代のはじめ頃であり、この場所を支配していた在来の氏族が建てたと推定されています。例えば佐々貴山君が想定されるとか。発掘調査結果から、平安時代初め頃に洪水の被害に遭い、建物が倒壊したようです。洪水でできた川を埋め立て、新たに礎石建物などを加えて再建し、平安時代の終わり頃には、周囲に大きな濠を掘削していたそうです。 礎石建物跡 金堂跡 塔跡 塔心礎「塔心礎は湖東流紋岩製。心柱を受ける円孔が3段に彫られて、中心に舎利孔がある」(資料1)というもの。 中門跡発掘調査により、中門・塔・金堂・回廊などが確認され、上掲の配置図になっています。その配置が軸線上にのらない伽藍配置であり、特異なところにその特徴があるようです。(資料1)またここから発見された「軒瓦は独自性が高く、湖東地域や畿内中枢部のものとの差異を見せている」点も興味深いところだとか。(資料1)この歴史広場にある説明板をご紹介しておきます。文字が読みづらいかもしれません。見出し文字をお読みいただき、全体像をイメージしていただけたら、一度現地で現物をゆっくり一読してみてください。そして、古代から中世の近江、この能登川東部の状況に思いをはせてみてください。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。この遺跡公園の伽藍址を廻った後はJR能登川駅まで戻り、現地解散となりました。ご一読ありがとうございます。参照資料1)「近江の歴史散策32~能登川東部を歩く~」 2014.3.6 講座レジュメ 龍谷大学REC 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成2)『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』 平凡社 p655-656【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺准如 :ウィキペディア 准如 :「コトバンク」院家 :ウィキペディア 院家 :「コトバンク」法堂寺廃寺跡 No.056 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 pdfファイル法堂寺廃寺跡 東近江市の遺跡シリーズ6 pdffァイル近江の沙沙貴山君 :「倭女王卑弥呼 発見なる!」 源平の争乱と佐々木氏 :「内容総覧」(石部南小学校HP) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再訪] 滋賀・湖東 能登川東部を歩く -1 佐野天神社、地福寺、数多の地蔵石仏など へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川東部を歩く -2 鍛冶場宝篋印塔、中沢・斗西遺跡、長勝寺 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川東部を歩く -3 乎加神社、神郷亀塚古墳 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川東部を歩く -4 善教寺、白鳥神社 へ
2017.12.11
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神郷亀塚古墳から能登川・種町(旧種村)の善教寺に向かう時、「白鳥神社」の前を通りすぎます。その隣りに「善教寺」がありました。今回ご紹介する所は、こちらの地図(Mapion)をご覧ください。山門がなくこんな標識だけが建てられています。天平年間(729-749)に行基が勅願所として初種山善教寺を創建したと伝わています。開山当時は華厳宗であり、それが後に天台宗に代わったといいます。「東大寺三綱記」に善教寺が「神崎郡神主郷種村」に所在したと記されているそうです。「和名抄」にも神主郷が載っているそうで、この神主郷を神郷と解すると種村はこの地になります。この寺も能登川地域の多くの寺と同様に戦国時代・天正年間に兵火で衰退したのです。それが貞享2年(1662)に臨済宗妙心寺派の寺院として再興されました。(資料1,2,3)近江の守護六角久頼の三男高成がこの地に一城を構え種村氏を称したそうです(後に大橋と改姓)。白鳥神社の社歴の記載によると、11代目の大橋重政が善教寺を修復し、僧を迎えて再興したと言います。その時から京都妙心寺末となったのです。大橋氏は元禄期(1688-1704)に帰農したといいます。(資料2,3)何と現在このお寺の檀家は三軒で、今村興福寺の住職がこのお寺の住職を兼務されているそうです。(資料3) 釈迦堂元禄時代に再興された御堂を昭和30年代に種村の有志の方々により改築されたとか。(資料3) この釈迦座像は幾多の災禍に遭うたびに、その仏頭だけを取り外して避難させてきたという歴史があるそうです。この半丈六像の頭部のみ平安後期造立と推定されているそうです。仏頭のみ滋賀県重要文化財に指定されています。仏像の首の部分を観察するとうなずけます。 民家の佇まいの建物が御堂として使われていて、大きな座敷部屋に本尊千手観音立像が祀られています。上掲「東大寺三綱記」には善教寺の本尊は観音大士と記されているとか。(資料3)現在の本尊は「体幹部一木造であり、裳裾表現には平安前期の様相が見られるが、衣文は穏やかで、11世紀後半の造立と想定されている」ようです。(資料1) ズームアップした画像をご覧いただくとお解りになるでしょう。この本尊も災禍に遭った故でしょうが、顔相が後世に改変されているのです。整形手術を受けたみたいに・・・・修復した仏師が少し小ぶりな相貌にしたようですね。よく見れば二重あごのような雰囲気になってしまっています。 山門が再興できないからということで、仁王像が本尊の脇侍の如く、両側に置かれています。素朴な感じの仁王像、隣のオジサンが仁王になってポーズをとっているような雰囲気で親しみを感じます。こんな仁王像もおもしろいです。 涅槃図も拝見できました。「籾佛さま」といって、一粒のモミに仏像を彫ったものも祀られています。探訪参加者が順番に拝見されていたので、写真に撮らせてもらう時間がありませんでした。再度「東大寺三綱記」に触れますが、当時のお寺は二丁四方四町歩(200m四方、4ヘクタール)の寺域があり、周りは堀で囲まれ、観音堂・釈迦堂・薬師堂など18棟の御堂と、寺を守る白鳥神社が建てられた旨が記されているそうです。(資料3)隣接するこの白鳥神社は善教寺の鎮守だったのですね。今は一見、こちらの神社の方が立派になって維持されているようです。 本殿と拝殿本殿は三間社流造。祭神は日本武尊で、配祀神は仲哀天皇、応神天皇と言います。 武家の崇敬が篤く、社紋「丸に二つ引」は足利将軍より奉られたものだとか。 拝殿の左側、善教寺の境内との間になるところに、境内社が三社並んで居ます。稲荷神社、野神社、日吉神社です。稲荷、日吉は祭神がまあ推測できますが、野神社は何でしょう? 現地で確認できる時間がありませんでした。次回でこの探訪記も終わりとなります。つづく参照資料1)「近江の歴史散策32~能登川東部を歩く~」 2014.3.6 講座レジュメ 龍谷大学REC 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成2)『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』 平凡社 p655-6563) 「種村と初種山善教寺」 拝観寺にいただいたリーフレット4) 東近江市の神社 :「村の鎮守さま」 白鳥神社 :「八百万の神」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺六角氏 :「戦国大名探究」 白鳥ラインの謎1 :「天の王朝」 白鳥ラインの謎2 :「天の王朝」 能登川町白鳥神社の名称が出てきます。 白鳥ラインの謎3 :「天の王朝」 確認すると白鳥ラインの謎15まで続きます。この辺で。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再訪] 滋賀・湖東 能登川東部を歩く -1 佐野天神社、地福寺、数多の地蔵石仏など へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川東部を歩く -2 鍛冶場宝篋印塔、中沢・斗西遺跡、長勝寺 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川東部を歩く -3 乎加神社、神郷亀塚古墳 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川東部を歩く -5 本行寺、法堂寺廃寺 へ
2017.12.11
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最後に「金剛峯寺」を訪れました。壇上伽藍のエリアの北東方向になります。この画像の左方向、南側に壇上伽藍が位置しこの道路は壇上伽藍の北側を通っています。 「高野山真言宗」という門柱が両側に立つ緩やかな坂道を上がると表門です。 頭貫の木鼻とともに、頭貫の下側にも相対する形で彫刻が施されています。この造りも珍しいのではないかと思います。おもしろいことに、境内側の木鼻はシンプルな形です。これから拝観する金剛峯寺の平面図がこれです。 拝観の折に、こちらのパンフレットをいただきました。二つ折を広げた表紙全体の画像です。 門を入ると、「主殿」が正面にあります。現地でのガイドさんの説明によると、この金剛峯寺も火災で焼失しています。再建の際に建物のモデルとしたのが既にご紹介した金剛三昧院の本坊の建物の姿だったそうです。あの姿を参考にスケールアップした建物(東西54m、南北63m)が建てられたのです。屋根は桧皮葺きです。冬季の積雪による荷重を考えると、瓦葺きの屋根では屋根の重量が過重になり駄目ということをお聞きし、なるほどと思った次第です。屋根の大棟には、数カ所大きな天水桶が設置されています。かつての防火対策の一手段だったそうです。いざという時に、屋根に駆け上がるための梯子が常置されています。当初、弘法大師は「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」の深意を象徴するものとして、高野山一山の総称として金剛峯寺と命名されたといいます。この高野山を豊臣秀吉が焼き打ちしようとしたのを諭され思いとどまったということは既にご紹介しています。その秀吉が文禄2年(1593)に亡母の菩提を弔うために青巌寺を建立したそうです。それが焼失し、文久3年(1863)に再建されたのが現在の建物だとか。この青巌寺が明治2年に金剛峯寺と改称されたのです。最初に目に止まったのは、この柵で囲われ、両端が反り上がった入母屋造の屋根の「大玄関」です。大玄関は天皇・皇族並びに高野山の重職の僧侶が使用したそうです。また、この大玄関より西側に唐破風の玄関が上掲の画像に見えます。そちらは「小玄関」と呼ばれています。こちらの小玄関は高野山の上綱(じょうこう)職の僧侶が使用する入口だそうです。屋根の正面の懸魚の下に龍頭の彫刻が目に飛び込んで来ます。 大玄関を装飾する彫刻に引きつけられます。詳細に鑑賞・観察するならここだけで20~30分位の時間がかかるでしょう。ゆっくりと眺めているゆとりがありませんでした。 表門を入った東側に位置する「鐘楼」 北東側から撮った鐘楼現在の鐘楼は元治元年(1864)に再建されたと考えられているとか。桁行三間、梁行二間の大きさで、袴腰の付いた入母屋造の鐘楼です。表門を入って左側(西側)にある「経蔵」です。延宝7年(1679)3月に、大坂天満の伊川屋が釈迦三尊像併せて寄進したものといいます。 主殿の庭に通じる門です。主殿前を東方向に進むと、「下門」があります。これも長屋門の一種でしょうか。この門を出て、道路を北に歩み、左折して北西向きの道路を進めば、「波切不動」や「徳川家霊台」さらには「女人堂」へと足をむけることになります。今回はツアーの対象外です。 門扉の飾り金具には何種類かの意匠が見られます。主殿を右側に回り込むと、参拝入口があります。建物内は原則撮影禁止でしたので、画像でのご紹介ができなくて残念です。主殿の廊下を通り、「大広間と持仏間」、「梅の間」、「柳の間」などの障壁画を拝見しながら新別殿にまず行きました。「柳の間」は文禄4年(1595)に豊臣秀次が自刃した場所だそうです。主殿から別殿への渡り廊下では、枯山水の細長い庭を眺めながら進みました。この門が、表門を入ったときに眺めた門の内側です。白砂には流水の筋目がスッキリと引かれています。 廊下の端から振り返って別殿の廊下から新別殿に向かう間に枯山水の庭と樹木の植えられた庭が長く延びています。この庭は後ほど。「新別殿」は、昭和59年(1984)弘法大師1150年御遠忌に際に、参詣者の接待所として鉄筋コンクリート造りですが、入母屋造の建物として建設されたそうです。ここの大広間で、しばらくお茶の接待を受け、お坊さんの法話をしばし拝聴しました。新別殿は写真を撮ることができました。壁面に阿弥陀如来・二十五菩薩来迎図が掛けてあります。広間の一隅に、空海の師である恵果和尚(けいかかしょう:764~805)の像が安置されています。恵果和尚は、中国・唐代の僧で不空三蔵に従い密教を究め、真言第七祖と仰がれる僧です。この恵果和尚が空海に法を伝え、遍照金剛の法号を授けたのです。平成27年高野山開創1200年大法会を記念して、中国の青龍寺から寄贈された像だとか。(像の傍の説明文より) 小休憩の後、別殿の廊下を進みます。上掲の画像の石をズームアップして撮ったのがこの画像です。別殿の建物から西側にいくつかある建物群の周囲の庭が「蟠龍庭」と称されています。「蟠」(ばん)という漢字は「とぐろをまく」という意味があります。つまり龍がとぐろを巻いている庭ということになります。別殿の西側に奥殿があります。 奥殿(非公開)を蟠龍が巻き込み守るかのように様々な石が配されている石庭が広がっています。蟠劉庭は2,340㎡の石庭で、国内最大級だそうです。石は空海生誕地である四国の花崗岩140個、白砂は京都の白川砂で、雲海を表しているといいます。 別殿の西側廊下を歩み、その途中で南西方向を眺めた石庭(蟠龍庭)。「勅使門」が遠方に見えます。別殿から奥殿への渡り廊下の途中で、南方向を眺めた蟠龍庭。奥殿の北側の庭を眺めると、こちらにも石が配された石庭です。蟠龍の体の一部がみえていることになります。「この石庭では、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されています。」という説明がホームページに記されています。どの位置から眺めた記述なのでしょうか・・・・・・。別殿の廊下を時計回りに回って、主殿の渡り廊下をへて、主殿の西側廊下に進みます。 そこから「中庭」の景色が見られます。「四季の中庭」と題し、「江戸期に造られた庭園で、高野山の四季折々の風景画眺められます」(駒札)と記されていました。「奥書院」、「稚児の間」などの障壁画を廊下から拝見しながら時計回りに巡ります。 主殿の建物内のまさに中庭 最後に「台所」を通り抜けます。ここには撮影禁止の表示がありませんでしたので撮りました。 これが「二石釜」と称されるもののようです。主殿を一周して参拝入口に戻ります。これで金剛峯寺の拝観順路を短時間でしたが大凡巡って、雰囲気だけは感じ取れました。高野山のご紹介をこれで終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料*「聖山 高野山」 高野山宿坊協会・高野山参詣講 発行 バスツアー当日に配付されたパンフレット(A4サイズ)*「総本山 金剛峯寺」 拝観時にいただいたパンフレット* 寺内のみどころ :「総本山 金剛峯寺」補遺恵果 :ウィキペディア恵果 :「コトバンク」恵果阿闍梨について 織田隆深氏青龍寺 :「のぶなが」白川砂 :「コトバンク」白川砂・白砂、国産のこと :「葵建設工業株式会社」白川砂 :「京都九条山 自然観察日記」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 世界遺産・高野山ツアー -1 紀ノ川・大門・中門・中の橋口からの参道 へ探訪 世界遺産・高野山ツアー -2 参道に櫛比する墓碑・供養塔を眺めて へ探訪 世界遺産・高野山ツアー -3 奧の院・護摩堂・御供所・慰霊碑・英霊殿・金剛三昧院 へ探訪 世界遺産・高野山ツアー -4 壇上伽藍を巡る へ
2017.12.11
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